名誉革命以仙後のイギリス重商主義 二〇
名轡革命以後のイギ
りス重商主義
白
杉
庄
一
郎
㎞ も ヘイギリスについて、重商主義という概念を名誉革命以後に限定しようとする人たちがある。まず我々は大塚久雄教授の
﹃近代欧州経済皮序説﹄の中に読む。 ﹁十七世紀末以降十八世紀前半にかけ、イギリスは国民的輸出産業たる毛織物工業 を基軸として、オランダの仲立的﹃自由貿易﹄と全く対蹄的な、 ﹃保護貿易﹄主義に基く世界商業のシステムを完成する に至った。所謂﹃旧植民地制﹄O匡Ooぢ慧巴もり早舞Φヨを支柱として包含しつつ世界的規模に展開された所謂﹃重商主義﹄、 竃Φ需磐箪①切冤馨Φおがそれである。﹂ ︵二九頁︶ あ へ ・小林昇教授は、これを最狭義の重商主義に関する規定として一応承認している。いう。 ﹁大塚教授がイギリスにおける重商主義の段階を十七世紀末以降に限っていることは、それが工業主義として一方では自己の対立者を事実上克服しえつ
つも、他方ではまだスミスの自由主義と産業革命とに移行しなかった時期、すなわちマニュファクチュアの最盛期、元本
的蓄積のあらわな強行期を選んでいる点において、嚴密な規定というべきである。そうして、これを重商主義の最も狭義
の規定とするならば、重商主義はいわゆる縄対主義と一応縄縁せられることとなる。またさらに、従来一般に重商主義の
時代と呼ばれて来た時期において、イギリス以外のヨーロッパ諸国にあっては固有の重商主義はむしろ存在しなかったと
いうことにさえなる。それゆえ、 かかる規定はかなり窮屈ではあるが、 しかしわたしの目的にとってはむしろ有用であ る。﹂︵﹃ブリτドリッヒ・リスト研究﹄、一七二頁︶ 小林教授が大塚教授の解釈を﹁重商主義の最も狭義の規定﹂ として受容せざるをえなかったのは、 教授の重商主義荷 ﹁工業主義﹂説の遜けがたい帰結であった。念のために、教授の重商主義観を参照七ておくと、教授は、 ﹁実商主義はふ つうには商入墨政策体系閃帥鼠剥ぎβ冨07Φωω蜜露Φ日であるとされている︹高橋誠]郎﹃改訂重商主義経済学説研究﹄ 五頁︺。すなわち重商主義は商業主義と見なされているのである。この見解はスミスの重商主義批判の常識的理解とその伝
承とにもとずくものであるが、果して正当であろうか。﹂といい︵上掲=ハ四頁︶、次のごとく書いている。 ﹁アダム・スミスの批判以来通念となっている重商主義というもののなかに、われわれは⋮⋮相互に反影しあい斗引しあう、二つ のシステムの存在を認めることができる。それは絶対主義の外被のなかにおいても、それが打倒せられたのちにおいても、ひとしく ﹁明らかに指摘されうるものである。その一つをわれわれは商八的重商主義または単に商業智嚢と呼ぶことができるであろ5。それは すなわち、主として前期的・仲介貿易的商業資本︵プラス絶対王権︶の利益にもとずく政策と理論との体系であり、イギリスにおい てはすでにテユーダー王朝以来自己を主張しているものであるが、トーマス・マン以後はとくに東印度会社の利益を雛謹するために 主張せられ、十七世紀末からはいわゆるトーリー・フリー・トレードとしてその体系的整備を誇示したものであった。他の一つは工 業的重商主義、簡略には工業主義と称すべきシステムであって、これは国内諸工業の育成と保謹とを要求する初期産業資本家層の利 益にもとつくものであり、イギリスにおいてはとくに毛織物マニュファクチュアの立場から、いわゆるブリ総桐ズム以来一貫して保 謹主義を唱え、絶対王権と東印度会社どトーリーズとを敵としつつ、キング︹︵浮二日図冒8において頂点に達するものである。こ の二つのシステムは、それぞれ前期的な商業資本︵プラス絶対王権︶と近代的な産業資本の主張としてつねに相戦いながら複雑な過 程のうちに歴史を進展せしめたものであった。しかし、重商主義を規定せられた歴々的概念として把握しようとするかぎり、わたく 名溢口革命以後のイギリス重商主義 二一名誉革.命以後のイギリス重商主義 ごこ しは工業的重商主義巳工業主義をその本質とすることが当然であると考える。なぜなら、⋮:⋮山般に、重商主義を商業主義と解す る立場は、前期的商業資本の無概念性を没却して、商業主義が産業資本主義を生んだ母胎であるとする考えに結合し、したがって、 工業主義の自己貰徹と商業主義の敗退、および後者の前者への隷属によってはじめて近代資本主義が確立しえたという歴史的纂・実を 誤認するに至る︹からな︺のであるQ﹂︵同一六八∼七〇頁︶
このように教授は商人的重商主義と工業的重商主義とを区別し、後者をもつて重商主義の本質となすのであるが、しか
も他方では両者を総括するものとして﹁広義の重商主義﹂という概念を使用している。しかし、教授は、 ﹁重商主義の本
質は、のちにスミスを生むに至った肚会史的母胎として、やはりリストのいう通りに工業主義としてこれを理解し、その
うえで広義の重商主義を考えるのでなくてはならない﹂ となし、 ﹁狭義の重商主義は、これを工業主義と解すべきであ
る﹂となしている︵同一七〇頁︶。私はここでもう一度くりかえして、リストに依拠した小淋教授の重商主義π工業主義説に対する私の疑問を開陳しよう
とは思わない。その、点については、かつてふれるところがあったからである。ここでは、ただ、教授の重商主義観をしぼってゆけぽ、大した無理を感ずることなしに、大塚教授のそれを受容することができるであろう、ということを確認でき
れば足る。げだし、教授によって工業的重商主義と規定されている政策と思想がイギリスで本格的となったのは、十七世.
紀末以降、名誉革命以後のことであったからである。 ① 拙著﹃近世西洋経溶旧史研究序説﹄籠κ二篇静境圏比早第四肺蔀olここで、ただ一言つけくわえておくと、教授の重申聞主差犠U工堂爪主義論 は、 教授をしてF・リストをコ旦商主義者しと規定するの余儀なきに至らしめている︵上掲一七六、二〇〇頁︶。 これによって、 重商主義を江って﹁初期産業寳本1ーマニュフアクチユア旧ム資本の要求に出る理論と政策﹂ ︵同二〇〇頁︶となすごとき教授の重街主義 魏に対する私の疑問は一章強められる。けだし、これはけっして不用意の蓮脱として看過さるべき竜のではなさそうであるからであるo
② 教授は別のところで﹁堅塁王権が打破せられたのちの、 ウイッグズの麦配下における重商主義﹂をもって ﹁巌密な意昧の重商主 義﹂となしている︵﹃重商主義の経済理論﹄、二二五頁︶。また、別の論稿では、 ﹁ウイッグ黛の政策体制匹固有の重商主義﹂だと か、あるいは﹁名広革命以來の原始蓄積の過程︵偶禮民地制.を含む保護主義的重商店革震踊固有のマコカンティジズ.ム︶﹂というよう な表現が用いられている︵﹃ジェイコブ・ヴアンダーリントとイギリス重商主義﹄、商学論集、一九五三年構、月、八○、一三九頁︶。
しかしながら、砲方、 ﹁広義の重商主義﹂を認める小林教授にとっては、大塚教授のように重商主義の概念を名誉革命
以後に限定してしまうことは、なんとしても、 ﹁かなひ窮屈﹂なことであった。.けだし、 コ璽商主義の本質は工業主義で あり、その敵手は商業主義であった﹂としても︵上掲書、一七五頁︶、工.業主義的重商主義といわるべきものは名誉革命の ③ はるか以前から存在していたからであり、アダム・スミスの重商主義批判にしたところで、 ﹁工業主義を含む広義の重商 主義一般﹂ ︵同所︶に向けられているところのあることを、学説史家として無視するわけにはいかなかったからである。 教授は明言している。 ﹁全体としての重商主義が、マン⑪メルカンティルジステームをも一変種として含むモネタールジステームであったことに注意すべきである。すなわち、貴金属︹貨幣︺の重視11貿易差額説は、本源的蓄積の進行と信用
手段の発達とによって次第.に力を失いつつも、なお重商主義においてはその理論の集中的表現であったといいうるのであ る。、この点に関しては⋮⋮商業主義も工業主義も一応は異るところがない。重商主義に対するスミスの批判は、ひとまず ゆ はこの根本を衝いたのであった。﹂ ︵同一八こ∼八三頁︶ .③教授は別の個所で、﹁ほぼ+六世紀の中葉から+八世紀の後牛にかけて﹂を、はっきり、﹁いわゆる重商主義の時代﹂となしてい る︵大塚久雄編﹃賓本主義の成立﹄、経済学新大系、十一、八九頁︶。 ロセ へ ぬ ヤ ④小林教授が、全体としての重商主義に対するアダム・スミ.スの批判を認めるにあたり、あえてひとまずと限定している点について 詳しくは、﹃凶里訟同主晶義の纒仙済理払醐﹄、二五二∼二五五頁を参昭⋮されたい。 二 名巻口革命以後のイギリス重商主義 二三名誉昇早上以後のイギリス重商主義 二四
しかるに、我汝はその後、かなり強引なアダム・スミス解釈によって、旧説を補強しようとした大塚教授の労作をもつ
に至った。我女はこれに十分学ぶところがありたいと思う。 ⑤大塚久雄﹃重商主義成立の社会的基盤﹄、舞出教授還暦記念論文集、ω、﹃古典学法の生成と展開﹄まず㍉重商主義という概念を名誉革命以後に限定さるべき理由を研究史の上から根拠づけようとして、教授は書いてい
る。 ﹁まず、最初にアダム・スミスが﹃国富論﹄第四編で重商主義≧①需欝暮嵩①QD器8臼’と名付けて批判の姐上に上ぼぜたのは、明らか に名誉革命以降、なかんずく十八世紀のイギリスに於いて手配的であった経済政策の体系とその背景をなす経済理論であったし、つ いでフリードリッヒ・リストが﹃政治経済学の国民的体系﹂の中でスミスを反批判しつつ、彼が﹃誤って重商主義ヨ①島§鉱δ蓋冨B と呼んだ重工主義H詠口ω霞冨亀ω帯臼﹄として論じたもの秀、入曽一アンスの相違こそあれ、基本的にはスミスの場合と金く同一の対象 であったと言って差支えなかろ5。ところが、降って新歴史学派の巨頭グスタフ・シユモラーが男名な塁上﹃重商主義の歴吏的意 義﹄で所謂重商主義に﹃近代的意味に於ける国家建設の経済的側面たる国民経済建設﹄としての歴史的意味を賦与するに至ったあた へ ぬ も へ りから、璽商主義なる用語をもつて綜括されている短象の歴史的内実が謂わぱ横すべりさせられ、且つ時代的にも固きく押し拡げ られるという事実を伴って来たことは否みがたい。即ちシュモラーの場舎、直接にはその認識のモデルがブランデンブルクnプロイ センの現実に求められているばかりでなく、資本主義の発達とい5普遍史的観点からしても、かつてブルジョ.ア革命以後における初 期ブルジョア国家の現実が何よりもまず問題とされていたのとほ全く異って、むしろそれ以前における所謂絶対主義国家の経濱政策 体系とそれを麦える経済思想が反って主要な研究対象となって来ている。而して、このことはその後の研究愛にまさに決定的な影響 を与えたということがでぎよう。つまり、こうして一たびドイツ歴史掌派の問題意識に色づけられてのち、重商主義の考察ほさしあ たってまず絶対主義国家の歴史的現実に結びつけて行われるという一つの雰囲気−一どこまで方法的・意識約であったかは論外にお くとして.∼ができ上ってしまった。ところで一応、歴史学的実証の立場に立って﹃華客をしてすべてを語らしめ、一局部を全体と見誤らない﹄という態度をとるとすれば、やはり右に見たような研究史上の事情からして、シェモラー的対象とともにスミス的対象 をも﹃囚われることなく﹄重商主義の運上に上ぼせねばならなくなるのは、当然のことである。こ5して、その後の研究史は、巨き く拡大された対象を前に、而も絶対主義国家と初期ブルジョア国家馬この全く異った社会的利害の麦配する両つの社会構成の史実を ずべて’手に引受けて、そこに見出される恐ろしく多彩な経、済政策や経済思想・理論のうちから調わば最大公約数を帰納し、そして あ ヘ へ し ゆ すべてを﹃重商主義﹄といつ一つの類型、或いは一つの概念のうちに、而も何らの論理的矛盾もなしに詰め込まねばならぬとい5此 の上もなく困難な課題へ、次第に入り込むこととなったのである。﹂︵上掲、三∼四頁︶
プロイセンを地盤として定立されたシユモラーの重商主義観、およびそれにつらなる歴史面的重商主義観については、
異った視角からではあるが、私も疑問をもつ。しかし、私は、シユモラー以来の重商主義研究がその対象を縄対主義国家
の経済政策にまで拡大し、これをも重商主義の概念のなかに包、属したのは、あえて不熟視さるべきことがらではないと考える。それによって、 ﹁重商主義の概念が不当に抽象化され、実質的な核心を喪失しつつある﹂などとは、いえないと老
える。けだし、重商主義という概念の創始、者たる あるいは少くともその確定者たるーーアダム・スミスといえども、それを名誉革命以後に限定しているとは、いえないからである。なるほど、スミスが重商主義という場合、名誉革命以後
1おおざっぱにいって十八世紀i一におけるイギリスの経済政策とそれを基礎づける経済学説に眼目をおいていたこと
は、否定しがたい。しかし、たとえスミスのいう重商主義の核心が産業保護主義にあると解釈するにしたところで、彼は
ヘ へその起原を名誉革命以後に求めているわけではない。いうまでもなく、この種の政.策と思想とが体系化したのは、名誉革
命以後、なかんづく十八世紀前半においてであった。したがってまた、この時代の保護主義を中心とした重商主義が、彼
の批判の中心的対象をかたちづくっていることは、喋謝するまでもない事実である。しかし、だからといって、彼のいう
も も も ぬ あ カ セ ヘ エ ヘ へ重商主義を名誉革命以後のイギリスにのみ安淫する概念と考えては、スミス解釈として正当とはいいがたいであろう。彼
名誉箪命以後のイギリス重商主義 二五、 名誉革命以後のイギリス重商主義 ご六
が﹃国富論﹄第四篇第一章﹁重商主義の原理について﹂述べているところを見てみるがよい。彼は、そこで、ぼぼ重商主
義の歴史的展開にそって、まず十五世紀末以来の重金主義、ついで十七世紀にいたって支配的となる貿易差額主義、最後
に十七世紀末から体系化してくる産業保護主義について述べている。勿論、第二章以下における彼の重商主義批判は、保
護主義を対象として展開山、oれている。しかし、彼はけっしてその論述を名誉革命以後に限定しているわけではない。そしてその点に関しなかんづく特徴的なのは、輸出奨励制度としての﹁植民地について﹂述べた第七章である。この章で彼は
大発見以降におけるヨーロッパ入の植民活動について述べているが、それは重商主義なるものがこの植民活動と不可分の
蓮﹁関をもつていたことについての彼の鋭い洞察を推定させる。そして、そのように見てくると、スミスの重商主義観を引
合に出して、重商主義の概念を十八世紀のイギリスに限定しようというのは、無理なように思われる。
⑥前揚拙者第一篇第四章を滲.照されたい。 ゐ も もザ同じことは、スミスの重商主義観を引合に出すことによって、名誉革命以後の重商主義を商業資本ではなくて産業資本
の政策と思想であると解釈しようとする努力についてもいえる。 穴塚教授はいう。 ﹁重商主義とよばれるものが歴史上代表し表現して来た社会的経済的利害﹂、いいかえると﹁重商主義成立の社 会的基盤とも言うべきもの﹂に関しても、﹁吾々は次の事実を看過することがでぎない。即ち、此の問題は既に古くアダム・スミス が﹃重商主義︹のシステム︺全体の企画者8第二く①おは誰であったか﹄という形で明確に提起して居り、且つスミス自身この間に 対して﹃生産者﹄榎。曾8房、 ﹃貿易商入及び工業生産者﹄ヨ興。華中ω。ユ&ヨ蝕昌無餌。言円の屋、また時には特に﹃毛織物工業生産者レ 5、ooH冨⇔日餌謹冒。嘗器誘という風に答え、 更にフリードリッヒ・リストも大体この見解を踏襲していたのである。ところが、この 問題に関しても、ジュモラー学説を一頂点とするドイツ歴変派経済学の理論的立場匪図式によって滲透されてゆく裡に問題的視点の 決定的な変遷を見るに至った事笑をやはり見逃すわけには行かないのであるQすなわち、スミスにあっては特に﹃生産者﹄の利害として捉えられていたものが、次第に、﹃生産者﹄と区別せられた意味での﹃商人﹄の利害に置き換えられてゆぎ、 こうして研究史上 重商主義の概念構成の裡に何らか社会的経済的利害という看点が採り入れられようとする時には、いまや例外なく﹃商人﹄乃至所謂 ﹃商業ブルジヨアジτ﹄のそれが專ら問題とされるのが通例となるに至ったのである。﹂しかし、 ﹁重商主義成立の国会的基盤をい きなり﹃商入﹄的利害として乞えること﹂は、﹁アダム・スミスによってまず重商主義と名づけられ且つ論難の対象されたあの十八 ぬ ヘ セ も あ も ら モ も へ あ ヤ ゐ 世紀イギリスの経済史的事実と明白に矛盾する﹂。 ︵前六七∼八頁︶ へ も ヘ へ
名誉革命以後におけるイギリス重商主義成立の祉会的基盤を﹁いきなり﹂生産者と区別された意昧での喜入の利害に求
めるというような見解は、たしかに支持されがたい。しかし、といって、この時期における商人の主導的地位を否定する
解釈もまた、スミス的解釈とは距離があり、経済史的事実に矛盾するところがあるように思われる。
大塚教授は、名誉革命以後におけるイギリス重商主義成立の試会的基盤を商入的利害に求める解釈が、経済史的事実に
矛盾するものとして支持されがたい所以を論証するにさきだって、典型的な商業ブルジョア支﹂配の国であったオランダを引合に出している。もしイギリスでも商業ブルジヨアジfが支醜的であったならば、オランダの場合と同じく、自由貿易
主義がおこなわれて、保護主義がおこなわれるというようなことはありえなかったではないか、ということの反証として
である。しかし、私は、こういう推論は論理的飛躍をふくんでいると思う。というのは、商業ブルジョアジーというもの
も へ も ヘ ヤ セ も セ へ も も あ し も し も ゐ へ も ヘ ヘ へは、どこでも同一の、生産に背を向ける反産業主義的な性格をもつものだということが、暗黙のうちに前提されているか
へ も あ へ もらである。といって、私は、商業資本のもつ時と所を超えた一般的な流通主義的性格を否定するものではない。しかし、
だからといって、いつどこでも、商業資本は産業になんらの積極的関心をも示さないものだときめてかかっては、経済史
の具体的な篤実に反する。商業資本の直接目的とするところは、いうまでもなく、流通過程から利潤を搾取することでは
あるが、この利潤を最大にするために、それは、可能なかぎりなんらかの形で生産過程を支配しようとするに至る。だか
名誉革命以後のイギリス重商主義 二七名誉革命以後のイギリス重商主義 二八
らこそ、オランダの商業ブルジョアジーといえども、十六・七世紀において保護主義への志向を示したのである。しかし
デフオウが書いているように、オランダはなんといっても国内産業を十分野展開するに足るだけの自然的ならびに鮭会的
条件をもたなかった。したがって、そこでは、商業資本は確固たる国内産業の成立を媒介し、その基盤の上に立つことが
できず、発展すれぼするほど、仲立商業の方向へ自己を純化せざるをえなかったのではなかろうか。しかるに、イギリス
の場合には、事情が異っていた。ここでは、独占的な大商業資本といえども、なんらかの意昧において国内産業を地盤と
していた。国際的仲継貿易資本の典型たる東インド会肚でさえ、イギリス製毛織物の輸餌に貢献しようとして種汝苦慮し
たことは、この苦慮のついた成功しなかったことともに、周知の事実である。そうだとすれば、イギリスの闇題の時期に
おける商業ブルジョアジーの支配と保護主義の勝利とは、けっして、両立・しがたいようなことがらではなかった、といわ なければならない。しかるに、教授は、オランダとイギリスとの相違のおこってくる原因を、政治的支配の地位にあったものが商入層であ
ったか、工業生産者層であったかに求め、次のごとくいって炉る。 ﹁イギリスでは︹仲立貿易商入の支配したオランダにおけるとは︺まさに逆に、名誉革命を劃期として、ブルジョア化した地主︵ジ ェントルマン︶層を前面に押し立てつつ政権を掌握するに至った広範な工業生産者︵毛織物工業を中心として十七世紀後半ユグノーの 来住とともに絹織物工業もその一翼に加わる︶層と、それと利害をともにする貿易商人層は、国際的仲立貿易を基盤としてなおも執拗 に自由貿易を主張する東印度会社を抑えて遂に保護主義を政策的に実現し、さらに広範な仲立貿易をもそのシステムの中に捲きこみ、 その利害に従属させながら、アダム・スミスによって重商主養 ≦醇8具嵩①o同Oo菖旨鐙。一義ωくω9ヨと名づけられたあの政策体系を 全面的に展開するに至った。﹂ ︵上掲一九一二〇頁︶ ⑦名誉革命の主体を工業生産者を中心として考えようとする点にまつわる疑問については、すでに述べた。名誉革命以後
のブルジ賞ア的政権が、国際的仲立貿易を基盤として﹁自由貿易﹂を主張する束インド会肚を抑えて、保護主義政策を実
現したことは事実であったとしても、それがはたして工業生産者層の支配を意味するかどうか、私は疑問に思う。しかし
その点の立入つた吟味は別論にゆずる。 ⑦拙稿﹃名轡革命と商業ブルジョアジー﹄本誌第+九暑、昭和二+九年五月。 も し ヘ へ を も勿論、私は、 ﹁重商主義をただちに﹃商入﹄或いは﹃商業ブルジョブ﹄一般の経済的利害に結びつけて理解しようとす
る把握の仕方が経済史の看点からして必ずしも正確なものでありえない﹂︵前掲二〇頁︶という教授の主張に対して、異
論をさしはさもうとするものではない。しかし、この主張が、 ﹁重商主義を成立せしめた毎会的基盤のうちには﹃商入﹄・ 層の経済的利害が全然含まれていないなどとも到底﹂畜い切れない﹂にしても、 ﹁重商主義を簡単に﹃商人﹄的利害の政策 的表現であると言い切ってしまうことは到底不可能である﹂ ︵同二二頁︶ という主張を越えて、 ﹁貿易商人﹂ではなく ﹁工業生産者﹂層こそ﹁一層根本的なところで重商主義の実現を要望し推進した入省﹂︵同二三頁︶であったという・王張 を含意するとすれば、問題でなければならない。教授は、十八世紀のイギリスにおいて工業生産者と貿易商人とのうち、いずれが、一層根本的なところで重商主義成立
の推進.者となっていたか、いいかえると、重商・王義とよばれる政策体系のうちに両者いずれの祉会的経済的窪窪がまず政治的に表現され主張されていたかを槍討した後、次のごとく結論している。
﹁重商主義政策のうちには確かに﹃貿易商八と工業生産者﹄双方の社会経済的利害がともに表現し・王張されてはいたが、その場合、 主軸を形づくるものは特に所謂国民的﹃工業生産者﹄旨p自口。雷。言同①匿層の利害であり、﹃貿易商人﹄日興6冨艮ωの利害が主張されるの は、この﹃工業生産者﹄層の利害に合致し、またそれを促進する限りにおいてであった⋮⋮⋮。ずなわち、重商主義の政策体系の裡に あっては、すでに﹃貿易商入﹄層の利害は﹃工業生産者﹄層のそれに全く従属していたのであり、従ってその意凍で重商主義政策のう 名誉革命以後のイギリス重商主義 二九名誉思阜命以後のイギリス重商主義 三〇 ちには何よりもまず国民的﹃工業生産者﹄層の社会笹身的利害が表現され主張されていたと言うことができると思5のである。L 掲三〇∼一一=頁︶ ︵上
おもうに、重商主義政策のうちで貿易商人層の利害が主張されるのは、それが工業生産者層の利害に合致し、またそれ
がこれを促進するかぎりにおいてであったというのは、名誉革命以後は大体において真実であった。しかし、だからとい
って、重商主義政策の・王軸をかたちづくったものが、国民的工業生産者層の利害であったと、断言できるであろうか。い へ ぬ へ も へ し も へ わんや、重商主義の政策体系においては、すでに、貿易商入層の利害は工業生産者層のそれに全く従属していたのであり、 へ も ヵ ヘ へ も へしたがってその意味で重商主義政策のうちにはなによりもまず国民的工業生産者層の杜会経済的利害が表現され主張され
ていたなどと、いうことができるであろうか。貿易商人層の利害が主張されるのほ、それが工業生産者層の利害に合致し、
またそれがこれを促進するかぎりにおいてであったということは、一面において、たしかに、貿易商人層の自粛を意味す
るところがあったし、そしてこの自粛は工業生産者層の運動によって余儀なくされたものではあったが、しかし、他面、
貿易商人層が名誉革命後もなお長く支配的地位をもちつづけたということは否定しがたいように思われる。勿論、この支
配は、一七二〇年、サウス・シー・、バブル︵ωQ賃けげωΦ僧 切刃σσ一①︶のころから産業革命の開始期にかけて次第に、その相対的比重を低下せしめてゆく。しかし、産業革命の開始以前の時期において、貿易商人工に対する工業生産者層の政治経済
的優位について語ることはできないように思われる。かくして、私は問題の時期においても、なお、工業生産者層の利害
は、貿易商人層のそれを通じてしか重商主義政策のうちに表現され主張されえなかったといえるかと考える。アダム。ス
ミスは﹁大商業資本の所有者たち︵さ①o輯β①話。臨ぴq﹃①舞営①円6餌P菖一①o騨も搾9ω︶は、必然的に、各国民の全産業の指導者の
であり統率者︵誓①国Φ帥侮①話僧p自oopα偉08議oh畠Φ毛ぴ。冨貯自署ωけqOh①く①姥p帥鼠。β︶である﹂といっているが、この言葉は、他の国民については問題があるとしても、少くなくと重商主義時代のイギリスには姿隠するところがあったので
⑨ ある。 ⑧︾・ω已津﹃毒雷洋79Z簿圃。昌9︿o図﹂♂唱﹁ごω。 も も も も も も ⑨この側面から見ると、スミスが重商主義の案出者としての商人を製造業者とともに生産者の階級に入れている所以が、容易に理解 されうる。 ﹁重.商主義時代においては、すくなくとも重商主義的商人は、製造業者とと亀に、生産者階級のなかに包括されうるよう な生産との結びつきをもっていたのである。﹂ ︵言揚拙者、 一九七︸貝︶
大塚教授も﹁重商主義といえば誰しもただちに想起するあのσ9冨コ。Φoh霞&①の理論からも知られるように、重商主
義にあっては、所謂国民的利生甲一−その支柱たる国民的産業⋮ロ騨誠。β舘貯自βω#冨ωをも含めて一⋮はつねに生産者でなく 貿易商人の視角から老えられ、説明されていた﹂ ︵前掲二四頁︶、たとえぽ﹁すでにσ鎮騨ロ。①o賄貸即画Φの重商主義的偏見か ら著しく脱却している晩年のデフオウに於いてさえ、なお揮鉾ざpgO困8娼①ユ昌、の実体を霞9幽①として、 即ち流通の視 角から見るという性格が貫徹されている﹂ ︵同二五頁︶ということを認めている。 さらに、教授は、 ﹁十七世紀の七十年代から十八世紀の二十年前後にかけての約半世紀の間に保護主義政策は次第に政治的に実現され体系を整えてゆくが、そ
うした動向を推進するいくつかの劃期的諸事件に際して政治的・祉会的に活躍した指導的な人汝のうちに、地主︵ジエン
トルメン︶と並んで、つねにすぐれた﹃貿易商人﹄の姿が見出されたし、とくに名誉革命後、終局的に権力を掌握するに
至った若きイギリス・ブルジョア階級のうちには、地主︵ジェントリ︶とともに、例えばあのジョン・ポレックスフェン
のような精鋭な﹃貿易商人﹄が加わっており、驚くべき精力的な活動をつづけている﹂ ︵同三一頁︶ ということを認めている。これらの事実は、重商主義政策が、工業生産者層よりは、むしろ貿易商人層のイニシアティヴとヘゲモニーのもと
に実現されたものであったことを証明する事実でなければならない。しかるに、教授は、右の事実とともに、 ﹁保護主義
ヘ ヘ ヘ へ的政策の政治的実現のきっかけとなった劃期的諸事件に際しては、これ亦つねに、広汎な国民的﹃工業生産者﹄層の湧済
名誉革命以後のイギリス重商・王義 ご=名誉廿卑命以後のイギリス重商主義 三二
たる激情的な動きが誘えず自己の社会経済的利害の貫徹を要求しつづけており、これが当時イギリスの政治的動向を巨き
く推し進め、揺り動かしていたと言う事実﹂︵同三一頁︶の存在したことを強調し、このことから、重商主義成立の耐会的
基盤をむしろ工業生産者層の経済的利害に求めるのである。保護主義政策の実現が広範な国民的工業者層の運動によって推進されるところのあったことは、たしかに、争われがた
い事実であるコしかし、だからといって、それを中軸とした﹁重商主義のうちには何よりもまず国民的﹃工業生産者﹄層
の祉会経済的利害が主張され表現されていた﹂といえるであろうか。国民的﹁工業生産者﹂層の推進力を利用して保護主
義政策を実現し、それから最大の利盆を獲得したものは、貿易商入層であったといえるところがありはしないか。そこま
ではいえないような揚合においても、少くとも、保護主義政策は彼等の利害に決定的な打撃をあたえるようなものではな
かったvということだけはいえる。保護主義政策の最も典型的な事例としてしばしば引合に出されるインド・キャラコ禁
止令にしたところで、東インド会期に致命傷をあたえるようなものでなかったばかりでなく、それを要請した人汝に対し
て彼等が期待したほどの利釜をあたえるものではなかった。・それらの点について詳しくは別の機会に論ずることにして、
ここではただ、教授の所説からしても、保護主義政策を単純に国民的工業生産者層に還元することは無理だということを
明かにするにとどめておきたい。 ⑩即U・目9ヨ餌μ冨角8鐸慈同ωヨ鋤巳け救国四警回巳剛帥↓B仏①﹂謁⑨題・まNl一ひω・ も も あ ゐ教授の所説においても、重商主義的保護政策の推進力は、実際は、国民的工業生産者層そのものではなくて、彼等のう
セ も も ちの富裕な階層、つまりは﹁初期産業資本家層﹂ ︵前掲三七頁︶ にぽかならなかった。 そして、富裕な国民的工業生産者層としての初期産業資本家層は、貧しい生産者たち一職入や徒弟など一の推進力を利用しながら、彼等の要求を抑圧
することによって、自己の要求を実現したのであった。教授の分析はここで停止しているが、初期産業資本家層の貧しい幽
生産者たちへの裏切.りの反面は、支配的な貿易商人層との提携ないし要協にぽかならなかった。すなわち、彼等は、自分
たちと利害を共にする貿易商人たちの委持を確保していたばかりでなく、貧しい生産者たちの要求を支持して自分たちと
利害を異にする貿易商人たちと徹底的に斗呈するかわりに、これとの要協において自己の要求を実現したにとどまったの
であった。そして、この提携ないし安協は、彼等の要求する保護政策の上に貿易商入層の利害をなんらかの形で剥印せず
にはおかかった。だからこそ、キヤ・ラコ禁止令も、東インド雷干に決定的な打撃をあたえるようなものでなかったばかりでなく、それを要講した織物業者に彼等が期待したぼどの利盆をあたえるものではなかったのである。勿論、この保護政
策が織物業者に期待されたぼどの菅垣をあたえなかったのは、一部分は、彼等自身の責任であった。すなわち、彼等が外
国の競璽から隔離され、それに対する手厚い保護になれて、伝来的な生産様式の墨守のうちに、それが改善への努力を等
⑪
閑にしたからであった。しかし、彼等が保護政策を完全にわがものとすることのできなかったのは、単に彼等の退嬰的な
態度のぜいばかりではなかった。それとならんで、東インド会稚がこの制限を突破しようとして懸命の努力をはらい、禁
令を骨抜きにしようとしたことが、無視されがたいのである。 ⑭即冒き8夷v目冨冒費馨二巴口。く。白田8ぽ什耳門訂暮①魯暮08ε§毛●c。㎝一09総じて、産業資本のまだ十分に発展していないマニュフアクチュア時代においては、産業資本家は、外国貿易に従事す
る大商人の直接欄接の支配から自己を解放するに足るだけの実力をもつに至っていないのが、普通であるコそして、この
支配は、産業保護政策の上に貿易商人層の利害を刻印し、これを﹁重商主義﹂的にする。そうでなければ、問題のシステ
ムは、アダム・スミスにしたがって﹁重商主義﹂ ︵寓①同。餌ロ江謬。冠Oo8ヨ①補。凶9ω鴇馨①ヨ︶ とよぶよりは、F・リストに したがって﹁産業主義﹂ ︵同β画置ω財卿①ωくの辟①諺︶とよぶ方が正しいことになる。しかし、 これは教授も容認されるところで⑫、、、、、、、、、、
はなかったはずである。そうだとすれば、重商主義を端的に名誉革命以後のイギリスにおける産業資本の政策体系であり
名誉革命以後のイギリス電商主義 三三名誉黒単命以後のイギリス重商主義 思想体系であるとするのは、無理だといわなければならない。 ⑫大塚久雄﹃近代緻洲経濟皮序説﹄上、二〇頁。前里拙著、一九一頁以下。 三四 三
以上、大塚教授の重商主義観について述べたとぼぼ同じことが、 名誉革命以後の重商主義時代を ﹁本来の重商主義時
代﹂となす内田義彦教授の解釈にもあてはまる。教授は、近業﹃経済学の生誕﹄のなかに、いっている。
﹁国家が経済11価値法則に強力に干与しているという点を、その内容を無視して強調し、重商主義の時代を産業資本支配の確立した レッセ・フェールの時代と対立させ、絶対主義の時代と一緒くたにする見解があるQこれはいうまでもなくまちがっている。絶対主義 そのものの﹃強力﹄が、本質的には価値法則の完全な貫徹をさまたげるものであるのに反し、本来の重商主義時代の強力は価値法則の 完全な貫徹を可能ならしめる方向にむいている、という本質的なちがいを見失っているからである。﹂ ︵上掲二四頁︶ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へこのように内田教授は、維対主義の重商主義と本来の重商主義とを分つ基準を、両者の価値法則に対する態度の相違に
求めているが、この相違ははたして本質的であったであろうか。必ずしもそうはいえないようである。けだし、教授は次
のごとく書いているからである。 ﹁だが、絶対主義の持つ強力の封建的な内容に対比して、重商主義のそれのブルジョア的内容を強調するあまり、本来の重商主義の 時代をレッセ・フェールの時代と一緒にすることは、これまた同様にあやまっている。というのは、この︵重商主義︶時代には、価値 法則の貫徹をめざし、その意味で内容的にまったくブルジョア的方向をとっているとはいえ、産業資本支配の確立した時代とちがって 国家がその全権力をもつて経済に干渉しているという事実があり、このことと関連して産業ブルジョアジーそのものは未だこの段階で る も た は政権の表面にでてこないからである。⋮・⋮:重商主義の時代の﹃暴力性﹄を無視して、イギリス革命のブルジョア性を一方的に強調すると、スミスなりリカードなりはなにをしていたのかまったくわからなくなる。⋮⋮⋮塞来の重商主義の時代を産業ブルジョアジー の完全な麦配の殺階と分けるとともに、その聞の細かい移りゆきをみることはきわめて重要である。﹂︵同二四∼二五頁︶ も ヘ へ
いわゆる本来の重商主義時代が自由主義時代と異る点に注目すれば、それは絶対主義時代に直接蓮続する側面をもつこ
とが知られるであろう。現に教授は﹁後期重商・王義﹂ ︵同二九頁︶というような表現を使用している。 にもかかわらず、 へ も へ名誉革命以後の重商主義を本来の重商主義として、維対主義時代のそれから峻書しようとする見解は、どこから出てくる
ぬ あ モ へ も あ あ へ ぬ あ あ へ ち か。維対主義を単に封建的なものと解し、それを否定したイギリ、ス革命︵ビューり汐ン㍑名誉革命︶をもって産業ブルジ も ヘ コ わ ヘ ヘ へ あ ヘ ヘヨア革命と解釈し、革命後の重商主義をもつて産業資本の政策と解するところがらではないかと考えられる。しかし私は
これまでいろいろの機会に述べてぎたごとく、維対主義をもつて単に封建的なものとなし、それを否定したイギリス革命
をもって産業ブルジョア革命となすような解釈はとられがたいと信じる。
⑬ 拙薯 宴貧乏主藍我成立皮の原型﹄第”一出早第三脾即、第二虫早第︹四温℃拙稿﹃ピューリタン雷+ム即と商業ブルジョアジー﹄、本誌第十号。 ﹃名曲誉 革命と商業ブルジョアジー﹄、同第十九号。教授は、本来の重商主義は、 ﹁スペイン、ポルトガル、オランダ等で代表されるような生産の基礎を比いた商業主義で
はなく、イギリス革命後に見られるような、 ︵あるいは直接それを準備したような︶産業資本の形成を志向したそれであ る﹂といっている︵前掲一〇一頁︶。しかし、スペイン、ポルトガル、オランダ等の重商主義は、そうよばれうるかぎり、はたして・生産の基礎塞斎いた単なる商量義であったであろうか・必ずしも・そうは断 ︸並等㎏・いわんや・革
命前のイギリス重商主義に、 産業資本形成への志向が全然存在しなかったなどとは、 いいきれない。 ﹁フランスでは重 商主義は国内産業資本の育成を志向する点においてイギリス重商主義と性格を同じくしていた﹂という立言は ︵同日〇五 頁︶、 ブランスの絶対主義的重商主義とイギリスのそれとを対比する場合にも、愛評するところがなければならない。 名誉R革命以後のイギリス重商主義 三五⑭ 名誉黒早寒以後のイギリス重商主義 拙著﹃近世西洋経濟史研究序論﹄一七四頁。 三六 も へ も へ で お へ 勿論、イギリスにおいては革命後、 ﹁旧杜会の全暴力はあげて国民生産力時資本主義の創設のために用いられている﹂ ︵内田、前掲一〇三頁︶といわるべきところがあった。そして、そこに、縄対主義時代と革命後とが区別さるべき一つの重
要な指標が臥つた。しかし、 ︵名誉︶革命以後のホイツグ的重商主義も、それのブルジョア的支柱からすれば、維薄主義
時代におけると同じく、商人的であることに変りはなかった。 ‘
教授も明言している。 ﹁ピュリ、タンー1名誉箪食によって絶対主義勢力をうち倒し、あらたに政権の担当者となった近代的地主ロ巨大 商業資本は、その近代的魂に紅蓮会的暴力をかねそなえて、本源的蓄積の過程を異常に急速に、且つ徹底的に遂行した。﹂︵同.一六三頁︶ もっとも、その場合にも、教授はつけくわえてはいる。﹁旧祉会の全暴力は貨幣の資本への転化の﹃助産婦﹄として働いたのである が、ここにくりかえし強調しておかねばなら殿ことは、この強力が完全に近代的な内容をもつて現われているということだ。⋮⋮ごこ では原始的畜積の過程は価値法則の完全な貫徹を媒介しながら、単純な商品生産から資本制生産への自・手的な転化を暴力的に媒介し短 縮するという方法で行われたのである。⋮⋮そ・の暴力の近代的性絡は、植民地経営ロ仲継貿易の暴力的三遠体制が⋮:・産業資本の利害に 従属せしめられているところにもあらわれているが、なかんづく土地制度変輩の徹底性11土地清掃において最も明瞭にみられる。﹂︵同 一山ハ三頁︶ しかし、教授はそのすぐあとで名誉箪命後における本源的蓄積過程の地主的。商人的主体性を再確認して書いてい為。﹁この原始的 ぬ も も を も も 蓄積過程にあらわれる暴力の内容の近代性にもかかわらず、それを表面にたっておしすすめた主体が一l−近代的とはいえ一やはり地 主及び商業資本でなければならなかったとい5事惜は、やがて資本の強力的蓄積の近代的方向からの逸脱をふくみ、それは資本制生産 様式そのものの発展により、産業資本が生産力それ自体の生みいだす﹃平和的﹄形態での暴力︵11価値法則︶のみによって自立し5る よ5になるや否や、その対抗は熾烈にならざるをえないのであり、その時にいたってこの暴力過程それ自体の落し子たる−一したがつて、その同じ暴力をより合理的なかたちではあれ、それ自体の生産的基督のなかに有する⋮産業資本は、この一切の過程を自らにと つて本来無縁な・法則外的な強制として批判するようになるQ﹂ ︵同一六四頁︶
しかし、この明快な解釈にも、疑問のさしはさまれうる余地がないではない。けだし、教授は、この解釈に次のような
註釈を付しているからである。 ﹁パーラメンタリー・コルベールティズム政権の主体をなすところの、近代的大地主およびこれと結びついた大商業資本は、産業資 本家の利害を代表して本来的原蓄政策1ーイギリス型重商主義を強行した。近代化した大地主は、農業利潤の増大のうえに、その地代の 基礎をおいていた。それは二つのことを意味している。 小農民の土地からの追放による大農形成と、 工業の本絡的展開による農産物 一羊毛および穀物一−市場の拡大と。 他方、近代化した英国の貿易商人が旧型商人と対抗しつつ、すでに前段階からその利潤と支 配力の源泉を国内の産業資塞なかんずく毛織物工業の発展のうえにおいていたことは、イギリス型重商主義の特質として、すでに大塚 教授によって充分に展開され、周知のことに属.する。この生産力11産業資本の基礎のうえに立ってのみ、莫国はスペイン・オランダの 市場独占機構を破砕し、価値法則貫徹への傾斜をもちながら、巨大な商業利潤の分前に参加しえたのである。そして、いまや、この生 産力H産業資本砂発展によって新興フランスと対抗しつつ、オランダの心配機構を窮極的に5ちやぶること、ここに英国貿易商人の利 益があった。それこそは、直接に羊毛市場を拡大することによって、ファーマーの利潤と地主の地代の源泉をなすものであった。かく して、近代地主、商八の主導のもとに、羊毛工業を主軸として、産業資本の強力的育成が行われるQ﹂ ︵同一七四頁︶私が疑問に思うのは、内田教授がここで大塚教授の所説として読者におしつけている解釈についてである。大塚教授の
場合、近代化した商人とは、産業資本家に従属した商人のことであったが、パーラメンタリー・コルベールティズム政権
の主体をなした大商業資本は、はたしてそのような性格のものであったであろうか。 内田教授は、 さきに見たごとく、﹁植民地経営H下下貿易の暴力的牧奪体制が産業資本の利害に従属せしめられている﹂と解釈することによって、これを
名溢目輩・命門島後のイギリス重商主義 三七名誉円輩−命以後のイギリス重商主義 三八 肯定するもののようである。しかし、この解釈がいかに苦しいものであるかは、﹂次の論述に明瞭であ惹。 ﹁初期のパーラメンダリー・コルベールティズムの貿易構造は、羊毛製品を主軸とする国内産業の輸出貿易の他、いま一つの重要な 環をもつていた。それは植民地物産の伸継貿易である。この仲継貿易の自立化こそ、のちにいたって問題となるのであるが、この段階 の特色はこの仲継貿易が国内産業の輸出貿易と直接にからみあっていたことだ。それは、基本的には、英国の貿易政策がその内容におい ・て完全に産業資本の要求によって決定せられており、植民地経営と仲継貿易すらが産業資本の要求を主軸にして決定せられているとい うことを示すが、同時に、この殴階での産業資本の弱さをも示している。たとえば英国からアフリガへの毛織物の輸出は、アフリカか ら西インドおよび南部アメリカへの奴隷貿易によって媒介されねばならず、後者は後者で西インド、南部アメリカの砂糖と煙草のプラ ンテーション、玉繭貿易と運絡されねばならない等々。すなわち、この段階においては、あらゆるかたちの植民地支配と沖継貿動をふく む組織的な植民制度n商業独占体制の維持によってのみ、国内における産業資本の市場は確保できたのである。ここに市場は、単に価 値の実現11姿態転換をふくむのみではない。奴隷制的な経営と、独占機構による流通からの甫期的利潤の抽出によ惹価値の増大、それ が市場の意味するところである。すなわち、その本質は、植民地の原始的牧奪であり、その牧牛の独占をめぐるフランス、オランダと の対立は、その現象形態である。もとより、かかる組織的11体端的な植民地牧奪がfスペイン、オランダのよ5に、前期的産業資本 のイニシアティヴの下にお・かれ、したがって、その独自な発展のみを結果するというようなことなく一産業資本の利害に直接従属さ せられており、牧奪された価値が、仲呂貿易黒本としての独自の環を形成する方向をも内包しながら︵牧型物11金の国外流出をめぐる 東印度会社と産業資本との論争を見よ︶、たえず国内に流入して、産業資本の循環を媒介し、産業資本と生産力の急速な形成を媒介し て,ゆくというところに、イギリス型重商主義の本質があり、それは一原蓄のイギリス型を根底において規走する土地制度変革の徹底 性と対応して−⋮かかる原蓄体制の急遠な揚棄の条件を内藏するものであったが、しかしまた、逆に、かかる体制に媒介されてのみ産 業資本の発展がありえたところに、産業資本の発展の三階的な低さがあらわれていた。﹂ ︵同一七五∼七七頁︶
おもうに、重継貿易が国内産業の輸出貿易と直接にからみあっていたということは、必ずしも、名誉革命以後における
イギリスの貿易の特徴ではなかった。そうした構造は、すでに早く絶対主義時代から見られる。したがって、このことを
ヘ ヘ へもって、名誉革命以後におけるイギリスの貿易政策が、基本的には、その内容において完全に産業資本の要求によって決
定されており、植民地経営と脚継貿易すらが産業資本の要求を主軸にして決定されているということの標識となすことは
できない。もし、そうすることができるならば、同じことは維対主義時代についてもいえるはずである。しかし、そんな
ことは絶対主義時代についてはいえるはずがないが、名誉革命後といえども当初はまだそこまで発展していたわけではな
め へ も も へ も へい。だからこそ、教授も、この段階における産業資本の弱さについて語らざるをえないのである。植民地から牧奪された
価値が、仲継貿易そのもののために租対的に独立する傾向をしめしながら、たえず国内に流入して、産業資本の循環とそ
の成長を媒介していったところに、イギリス重商主義の特色のあったことは事実であるが、しかしこの特色は少くとも二
部分はイギリス重商主義がすでに早く羅対主義時代からもったところであって、それだけに、これをもって、名誉革命以
後、植民地経営と仲継貿易とが産業資本に直接従﹂属せしめられるに至った証左とはなしがたい。この段階においては、産
業資本はまだそこまで成熟するには至っていなかったのである。この見地からして、私は、内田教授の次の立言こそが名誉革命後のイギリス重商主義の本質をいいあてたものだと考え
る。 ﹁パーラメンタリー・コルベールティズムの外国貿易は、国内産業の輸出貿易と、吉平貿易との二つの環からなっており、このような 構造をもつたま鼠、基本的には産業資本の要求がまもられていたが、しかしそのなかには、産業資本に対立して貿易商八独自の利害に .よる植民地経営と仲継貿易の独自な発展がふくまれていた。例えば東印度貿易を見よ。そして、この仲継貿易がしだいに前期的資本と しての自立化の過程を辿ったことに対しては、ずでに前段階から産業資本およびこれと結びついた商業資本の側からの、たえざる非難 が集中されたが、もともと、産業資本の発展が植民地牧奪盟前期的仲継貿易と結びつかねばならないということのなかに、すでに商業 名誉革命以後のイギリス重商主義 ﹁ 三九名誉革命以後のイギリス重商主義 四〇
利潤の独自な形成が、したがってまた商八階級の政治力の増大と仲継貿易の独自的な発展の必然性がふくまれていたのであり、それゆ
えに、この段階では、前期的磐越に対する非難がたえずくりかえされながら、それを完全に打破することは不可能であったのである。
かくして、原始的蓄積の段階を通じ、植民地経営と特権的中継貿易とが、あるいは産業贅本の発展を直接に媒介し、あるいはこれとは