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<リサーチコンペ研究成果><研究ノート>戦後開拓を生きる : 八重山「自由開拓移住民」の生

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(1)

生きる : 八重山「自由開拓移住民」の生

著者

藤井 和子

雑誌名

関西学院大学先端社会研究所紀要 = Annual review

of the institute for advanced social research

13

ページ

121-144

発行年

2016-03-31

(2)

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はじめに

八重山では豊年祭や種取祭など、年間を通じて行われる島々の祭祀の芸能が、それぞれの島ごと に独自の発展をとげてきた。沖縄県の中でも特に八重山諸島は「うたの島」「芸能の島」とも呼ば れる1)。たとえば、竹富島の人口は約 360 人2)であるが、種取祭にはその何倍もの人々が訪れ「狂 言」などを鑑賞する。もちろん竹富島出身者など竹富島にルーツを持つ人も多いが、本土から竹富 島にルーツはなくても、ヴァナキュラーなものに惹かれ何度も通う人も多い。 ここでいうヴァナキュラーとは、その土地固有の様式の建築が vernacular architecture(ヴァナキ ュラー建築)(Rudofsky 1964 : 1)と呼ばれるように、その土地の固有のものをさす。ヴァナキュラ ーという語は、北米のフォークロア研究においてしばしば使用される(Sims and Stephens, 2011)。 その地方や地域の集団の生活や行動様式や習慣などが、日常から生み出され創造的で、中央の画一 的な制度化されたものには見られない場合に、「その地の暮らしに根ざした固有の」という意味で ヴァナキュラーを用いている。vernacular の語源であるラテン語の uerna は、A slave born in the

master’s household(主の家で生まれた奴隷)の意味である3)。それらをふまえ、ヴァナキュラーを 定義すると、特定の地方、地域のコンテクストの中で、人々が日常生活の中から生み出したモノや 行動や表現などのことである。 イリイチは、ヴァナキュラーな領域は、貨幣経済から離れ、自らの力で、自立・自存していくた めの活動であるとして次のように説明している。 ヴァナキュラーというのは、「根づいていること」と「居住」を意味するインド−ゲルマン 語系のことばに由来する。ラテン語としての vernaculum は、家で育て、家で紡いだ、自家産、 自家製のもののすべてにかんして使用されたのであり、交換形式によって入手したものと対立 する。自分の妻の子、奴隷の子、自分が所有する家畜のろばから生まれたろばは、ちょうど菜 ────────────── 1)たとえば、喜舎場(1971)は、八重山について「歌の国」(喜舎場 1971 : 443)、「芸能の島」(喜舎場 1971 : 445)と呼んでいる。 2)竹 富 町 ホ ー ム ペ ー ジ に よ る http : //www.town.taketomi.lg.jp/uploads/fckeditor/uid 000005_20151203112735 be 39834 d.pdf

3)Oxford Latin Dictionary 2012 Oxford University Press による。

戦後開拓を生きる

−八重山「自由開拓移住民」の生−

藤 井 和 子

(関西学院大学大学院研究員)

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園や共有地からとれた基本的な生活物資のように、ヴァナキュラーな存在である。(略)交換 という考えに動機づけられていない場合の人間的活動を示す簡単で率直なことばである。それ は、人々が日常の必要を満足させるような自立的で非市場的な行為を意味することばなのだ。 その性質上、官僚的な管理からまぬがれているその行為は、それによってその都度独自の形を とる日常の必要を満足させるものである。ヴァナキュラーというのは、この目的に役立つ旧き 良きことばであるように思われる。(イリイチ 2005 : 118) 近代産業化以前の社会には、その地の暮らしに根ざした、それぞれ固有の自立・自存の生活が存 在していた。しかし、そのヴァナキュラーな生活は、近代産業社会が進展するにつれ、破壊されて いった。完全に消滅したわけではないが、ヴァナキュラーな生活は衰退していった。近代の産業社 会の発展によって、ヴァナキュラーな生活が次々と崩壊し、手軽な購買商品でしか生きられなくな っていったのである。 これから論じる開拓民が、土地に根付こうと土や天候や行政と闘い、自らの生活を切り拓いた経 験を考えれば、語源のような土地に縛られた奴隷の意味と言うつもりはないが、ヴァナキュラー以 外に形容する言葉はないと言える。 竹富島の種取祭の芸能を東京の大ホールで鑑賞するよりも、実際の祭を体験し芸能を鑑賞したい と、観光客が種取祭の時期にこぞって訪れる。竹富島のコンドイビーチから西表島を臨み、この海 とこの砂浜とこの空とこの風とこの空気が、ここにしかない存在だと感じる。白く細かい珊瑚の敷 き詰められた道、赤瓦の屋根、手積みの珊瑚塀の家並みは、この土地でしか見られない風景であ り、観光客をひきつけるのもヴァナキュラーなのである。 しかし、八重山のヴァナキュラーは画一的なものではない。たとえば島々は、ひとつとして似通 っていない。まったく見事なまでの個性を持っている。島々をまわり宿泊してみると、それぞれの 島によって地質も生活様式も違えば、住人の考え方、言葉までも違うことに気づく。台風の被害 も、八重山全体が同じように被害を受けるといったことはない。ヴァナキュラーが決して画一では ない点は、島ごとで違うというような単純なものではない。 本研究によって、明らかになったことは次のとおりである。ひとつの島の住民がどのようなライ フヒストリーを持ち、どういったアイデンティティを持っているかによって、それぞれのコンテク ストがあり、生み出された文化が異なり、可視化されない文化が存在する。本稿では、ライフヒス トリーによって、戦後の石垣島および西表島の人口を 3 つに分類し、それぞれのヴァナキュラー・ カルチャーを並立していく。すると可視化されない創造された文化も、文化財指定を受けていない 祭祀も、文化財指定の文化も、その地の人々にとって同等の価値を持つことが問えるのである。 1952年に群島政府は廃止となり、沖縄、宮古、八重山の三群島政府は、琉球政府に統合される こととなった(三木 2003 : 67)。戦後の食糧難などを打開するため、食糧自給施策の一環として本 格的な八重山開拓移住計画を推進した。そこで、沖縄本島や宮古島などから石垣島や西表島への集 団移住による入植が始まった。しかし、第 2 次世界大戦の敗北によって、台湾をはじめとする外地 からの引揚者や復員兵は、住む家も仕事もなく、生活に困窮していた(石原・安仁屋 1978 : 165)。 そういった人々の中には、琉球政府の開拓移住計画を待つことなく、自分の意思で八重山の離島

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(竹富島、鳩間島、黒島、波照間島、由布島など)や宮古島などから石垣島や西表島への入植を始 めた人もいた(石原・安仁屋 1978 : 166)。 八重山の人々の移動の歴史はこれが始まりではない。1637 年から八重山、宮古では人頭税が課 されるようになり(三木 2003 : 179)、強制移住が命じられ「島分け」と呼ばれた移民の悲劇を歌 に残している(三木 2003 : 211、金城 1988 : 19-20)。また 1771 年の明和の大津波によって多数の溺 死者がでた村には、離島から寄百姓が行われた(金城 1988 : 18)。さらに明治には、沖縄氏族と徳 島や大阪など本土の商人による開墾が進められた(金城 1999 : 25)。 敗戦後も、個人的に島を船で移動することは行われた。彼らは集団ではなく個人の場合が多く、 琉球政府も実態をつかめないままであり、琉球政府の推進した八重山開拓移住計画には含まれてい なかった。そこで、琉球政府の八重山開拓移住計画の開拓民を「琉球政府開拓移民」と呼び、琉球 政府創立以前において「群島政府計画移民」、琉球政府創立以前にも以後にも、私的関係にもとづ き自分の意思で入植していた人は「自由移民」と呼んで行政も区別していた(石原・安仁屋 1978 : 166)。 以上をふまえ、戦後の石垣島および西表島の人口を 3 つに分類し、本稿では次のように呼ぶこと にする。 1)先住民(元からの居住者。) 2)計画開拓移住民(琉球政府や宮古民政府による八重山開拓移住計画で募集された開拓民。米 軍基地の用地確保のため農地を失った沖縄本島北部からの集団移住者、および戦禍と復員兵 の過剰流入によって農地が不足した宮古島などからの集団移住者。) 3)自由開拓移住民(沖縄本島、台湾、宮古島、石垣島島内、西表島島内、八重山の離島などよ り、琉球政府や宮古民政府からの援助を受けず、自分の意思で入植した開拓民。開拓しても 土地の配分が受けられず、永年小作のままである場合も多かった。) 八重山各地の豊年祭などの年中行事は、先住民の表現文化である。また、計画開拓移住民にも入 植祭など独特の文化があり、祭祀の芸能も同一の地域から入植して村を築いた場合、出身の村の伝 統がそのまま持ち込まれることになる。一方で自由開拓移住民の村では、さまざまな地域から時期 も異なって入植した混成移民による村であり、伝統の文化もそれぞれ異なるはずである。それぞれ の八重山の人々の自らを表現した文化を比較し、今まで注目されてこなかった自由開拓移住民の生 に注目し先住民、計画開拓移住民と比較しながら、自由開拓移住民の創造した文化を明らかにす る。自由開拓移住民の生活は、計画開拓移住民と比較しても非常に過酷であった。入植時期も出身 地もさまざまで、自分で場所を探して決め、入植したリーダーのいない自由開拓移住民は、行政の 補助も受けられず、生活も苦しく余裕がなかったのである。今回の現地調査で、自由開拓移住民に も独特の文化があることが明らかになった。しかし、先住民のように伝統の継承ではなく、写真や 映像で記録されているわけではない。その土地で手に入る、身近にあるもので考え出した創意工夫 の結果、生み出されたヴァナキュラー・カルチャーといえるのである。 次に石垣島、西表島、竹富島、黒島などの先住民、計画開拓移住民、自由開拓移住民についてそ れぞれの儀礼、口頭伝承、芸能、物質文化などのヴァナキュラー・カルチャーを比較して見ていく ことにする。

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1.先住民のヴァナキュラー・カルチャー

石垣島をはじめ八重山では、豊作豊漁の拝所として、御嶽は大切にされ地域ごとに守られてき た。御嶽は古いものでは 300 年以上前から建立された。本州の仏教や神道ではない偶像崇拝のない 宗教であり、御嶽をけがすことがないようにと住人は観光客に注意することもある。御嶽を集落で は大切にして、代々女性がつとめる司を中心に祭祀がとりおこなわれ、豊年祭をはじめ年中行事は 欠かせなかった(本田 1991 : 6-20)。 これまでの八重山の御嶽での祭祀研究は、宮良(1973)、本田(1991)など多くの研究者によっ て行われてきた。どこでどのように祭祀や芸能が行われたかを参与観察し、それらはどのように解 釈されるかを分析してきたのである。しかし、その祭祀の担い手が、何を思いとり行っているのか は、これまでの研究で重要視されては来なかった。本研究では、竹富島の種子取祭(タナドゥイ) の参与観察や黒島、西表島での聞き取り調査を主軸に、祭祀を行うときに農業に従事しない島民が 多くなった現在、どのような思いをもっているのかを先住民の語りによって明らかにする。 まず八重山の伝統的な祭祀の文化財指定についてまとめると、以下のようになる。重要無形民俗 文化財と記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(通称選択無形民俗文化財)がある(文化 庁ホームページ http : //kunishitei.bunka.go.jp/bsys/searchlist.asp)。重要無形民俗文化財は、以下の 4 件である。 !竹富島の種子取(1977 年 5 月 17 日) !与那国島の祭事の芸能(1985 年 1 月 21 日) !西表島の節祭(1991 年 2 月 21 日) !小浜島の盆、結願祭、種子取祭の芸能(2007 年 3 月 7 日) 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財は、以下の 2 件である。 !石垣島四ヶ村のプーリィ(豊年祭)(1993 年 11 月 26 日) !波照間島のムシャーマ(1993 年 11 月 26 日) このように先住民のヴァナキュラー・カルチャーのなかには、文化財指定を受けるものが数多く みられる。文化財指定を受けた以上、たやすわけにはいかないという使命感が感じられる一方で、 写真 1 西表島の節祭。(筆者撮影)

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島にルーツを持たない本土の人までも含め、島のアイデンティティを持たない人も受け入れて祭祀 を行うことになってしまう。 1.1 黒島の祭祀への思い 国の重要無形民俗文化財に指定されてはいないが、黒島などにも伝統的祭祀は継承されている。 黒島での島の老人たちの聞き取りをまとめると、次のような三大行事と呼ばれる伝統的祭祀があ る。 黒島には、旧暦で正月を祝う風習が今も残っており、毎年旧正月には、黒島の仲本集落と東筋集 落の 2 つの集落で、旧暦の正月を祝う「黒島大綱引き」が行われる。東筋集落の黒島伝統芸能館前 では、東筋集落の人々や石垣島に住む黒島東筋出身者が 200 人以上集まる。五穀豊穣、家内安全を 祈願する黒島の大綱引き行事は、まず正月ユンタではじまり、人々は北と南の二手にわかれて掛け 合いで正月ユンタを歌う。 黒島の豊年祭は、宮里海岸で行われる祭りで、海岸でのハーリー競争をメインとする点に特徴が ある。かつて陸での綱引きで決着がつかず、船漕ぎ競漕を行ったところ、その年が大豊作となった ことから海辺での豊年祭になったと言われている。豊年祭は、収穫後、神へ豊作の感謝と祈願を行 う祭であるが、海神に感謝して行われるハーリー(爬竜船競漕)が、今では祭りのメインイベント になっている(石垣経済新聞 2007 年 8 月 6 日)。 結願祭は、黒島の三大行事の中で最も盛大に行われ、1 年間の畜産などの結実に感謝し、来年の 五穀豊穣や無病息災を祈念する。結願祭伝統の「初番」では「チクドゥン」などの狂言や、「高那 節」「桃里節」などの舞踊が奉納された後、ミルクが五穀の種子を授ける。 黒島には高校がないため、島から流出した若い人も帰省しやすいように、この黒島の三大行事 は、週末を利用することにして便宜をはかっている。黒島の歌にこめられた島の成り立ちや歴史を 継承し、練習や準備の中で自分が聞いたとおりを次の世代に伝えていくことにしている。元黒島郵 便局長又吉智永氏が、次のように黒島の芸能発祥の伝承について語った。 琉球王朝時代、首里城の役人の中で踊りのうまい男の人がいたが、周囲の嫉妬をかい謀反の 罪をきせられ、鳩間島に流された。その男は、そこでくじけずにまじめに学び続けていたとこ ろ、鳩間島の人々が尊敬し踊りを習うようになった。西表島からも鳩間島に習いに行って、西 表島の古見に来て芸能を広めてもらうように招聘した。黒島からも派遣団を募り、古見に黒島 でも芸能を教えてもらえるように頼みに行った。黒島の仲本のなはむちやの屋敷に、まかない の女性をおいてその男の人に住んでもらった。仲本集落でいろいろな舞踊を教えて、黒島くど ぅきなどをひろめた。東筋集落の人も、これはすばらしいので自分たちにも教えてほしいと願 い出て、次々に 5 つの集落が踊りを習っていった。以前は結願祭の二日目で、5 箇所の集落が 集まって勝負していた。狂言も集落内で秘密裏に練習を重ね競い合って、集落ごとの独自性を 作ってきた歴史がある。(2015 年 2 月 1 日聞き取り) また黒島のある老人は、次のように黒島と竹富島の祭祀を比較して語った。

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竹富島は、観光で生きていこうとやっているみたいだ。あそこの人は、口がうまいでしょ。竹 富島は作られたものばかり。祈りがあってもなくても(祭りは)やるでしょ。 重要無形民俗文化財ではなくとも、黒島の三大行事は素朴で真剣な祈りのときである。竹富島 は、農業には適していないため観光の島として生き残ろうと考えた。「祈りがあってもなくてもや る」というのは、観光の島としてやめるわけにはいかない祭祀のありようが見え隠れする。黒島ビ ジターセンター館長は次のように語った。 自分が子供のころは、小型製糖工場も島内にあって、黒島ではサトウキビ栽培が主流であっ た。工場が潰れ、たまねぎ、葉タバコ栽培に切り替えた。葉タバコは、皮膚に悪影響が出たの で続けられず、35 年ぐらい前から牛の放牧に切り替えた。牛祭りは、自治省や農林省からの 提案で、離島振興法に基づく交付金がおりて 23 年前からはじめた新しいイベントで、黒島の 人々がやりたかったわけではない。 行事を担ってきた中で、島のおじいから聞いた話や島の歌、踊りの意味などをいつの間にか 理解し、今度は自分がおじいとしてまた語り継いでいる。島の子供たちが減ってしまったが、 石垣島、沖縄本島、関西、東京の黒島郷友会が島の行事のビデオを見ながら踊り、島の行事を サポートしてくれている。関西や東京では、沖縄返還以前は沖縄県を蔑視する目で見られたも のだが、返還以後、堂々と自分のふるさとが沖縄県黒島であるといえるようになった。(2015 年 2 月 1 日聞き取り) 以上のことから、黒島の人々のアイデンティティは、三大行事の集落ごとの祭祀の踊りや歌など のヴァナキュラー・カルチャーと切りはなすことはできない。 1.2 竹富島の種子取祭への思い 竹富島の種子取祭(タナドゥイ)にかんしては、狩俣(1992)、谷沢(2011)はじめ先行研究も 確立している。約 600 年の伝統があると言われており、1977 年に国の「重要無形民俗文化財」の 指定を受けた。島の行事の中で最も盛大で、臨時の船も出て島全体がにぎわう。祓い清めた土地に 種子(稲や粟)を蒔き始めるという農耕の祭りであるが、現在竹富島には農業で生計を立てる人は いない。祭りはおよそ 10 日間にわたって行われる。7 日目、8 日目に行われる芸能奉納には、2 日 間で約 70 点の踊りや狂言が奉納される。種子取祭には、島出身者が石垣島や沖縄本島から帰省す る。島出身者の 2 世、3 世などの若い東京竹富郷友会会員や多くの観光客も全国から来島する。こ の島の人々は、種子取祭についてどう考えているのか聞き取りをした。実際に 10 日間にもおよぶ この祭りを、毎年つないでいくことの苦労は並大抵のものではないという。奉納される芸能の練習 は祭りの 2 ヶ月前から本格的に始まり、集まりも何度もあって出席しなければならないし、金銭的 な負担も非常に大きい。竹富島在住の男性は、次のように語った。 人頭税に苦しめられとった時代が長かったから、そのときに踊りや狂言を権力者に見てもら

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って、なんとか和平に持ち込もうっちゅう考えがあったといわれている。竹富島には中学校ま でしかないし、いずれ若い人は出て行く運命だ。何も仕事がないからな。わしだってそうだっ た。内地で長年働いて帰ってきてから、ばあちゃんの家だったところで、ここを始めたんだか らな。だから観光で人にきてもらうしかないんだよな。星のことも天文台で講習会やってくれ るんよ。勉強してお客さんに説明できたら、「また来よう」って思ってもらえるでしょ。この 家並も景観を重視して、塀にしろ仲間に手伝ってもらって作ったんよ。舗装されてない道にも 珊瑚をもってきて、まいてきれいにしてるの。(2014 年 11 月 16 日聞き取り) 種子取祭は、1 日目は、各家々での祈願、神事による祭りの祈願と続き、祭りのハイライトであ る奉納芸能、夜通し行われる世乞い(ユークイ)、そして最後の 9 日目は五穀豊穣をもたらす神様 の弥勒(ミロク)への感謝の行事でしめくくる。狂言前日のリハーサルを参与観察した。今までの 経験者が見守る中、本番どおり衣装もつけて行われた。見せ場に関しては、細かな指導が行われ た。よりダイナミックに観客に見えるようにするには、ここをこうしたほうが良いというようなこ とである。次の日の本番の狂言では、リハーサルでの指摘を克服した演技となっていた。今年、父 の跡を継いだホンジャー(長者)、大役を果たしたあとの気持ちを聞いてみた。 自分は沖縄本島に住んでいて、店を開店するところだから、役所に行って手続きしたりと本 当に忙しくて時間がないんです。でも親父が歳のせいで足が弱って、ずっとやってきたホンジ ャーができないんで、息子である俺がやるしかないんです。家は衣装を着替える場所になって いて、落ち着かないし、やっと明日帰れる、早く帰ろうという気持ちです。でも練習の中で何 かを読んで覚えるんじゃなくて、先人が口伝えで教え込んでくれるというやり方には、やっぱ りすごいなと感心するんです。仕事で島には帰ってこないけれど、俺も男の子の跡継ぎをとい うことはよくわかってます。(2014 年 11 月 15 日聞き取り) 種子取祭は、なんとしてもたやすことができないという責任感を、竹富島の人々や郷友会会員ら は持っている。それは重要無形民俗文化財に、1977 年という早い段階から登録され、国が認めた 価値ある伝統文化をもつ島であるという自負でもある。筆者も含めて島のことを知らない島外の者 写真 2 種子取祭の狂言。(筆者撮影)

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を寛容に受け入れて祭りを継続していく場合、祭祀や神事であるという神聖な信仰の行事としてと りおこなうことは難しい。 一方で、島出身者でなければ祭りに参加はお断り、撮影も許可しないというのは新城島であると 黒島の老人は語っていた。この島では、今までどおり、祭祀や神事であるという神聖な信仰の行事 としてとり行っているのである。島として、集落として、家として、アイデンティティをもつ人が ヴァナキュラー・カルチャーを真剣に継承している点は、八重山のさまざまな島に共通している。 またこのヴァナキュラー・カルチャーを継承することで、自分が島に帰属するというアイデンティ ティを再確認しているともいえる。

2.計画開拓移住民の生活とヴァナキュラー・カルチャー

計画開拓移住民は、本稿で独自に名づけたものである。計画移民には、琉球政府開拓民と宮古民 政府の補助による自由移民計画で入植した人々などがあり、時期も送り出し先も一くくりにはでき ない。しかし自由開拓移住民と大きく異なることは、 1)送り出し先で募集があり、隊を組んでいる。 2)代表者がいて交渉していくことが可能である。 3)移動が行政に把握されている。 という点である。団結しているため、通達や連絡も可能であるという点が、定着し村を形成してい くうえでも、行政側からすれば重要視されることになる。 今回は、石垣島北部開拓移民地区のパイオニアといわれる石垣島の星野と、八重山計画開拓移住 民の第 1 号である西表島の住吉の 2 つの集落で聞き取り調査をおこなった。 2.1 石垣島・星野 星野の住人への聞き取りと、石垣島人魚の里星野ホームページ(http : //ningyonosato.isigaki.info/ about-hoshino/history/rekishi 1.htm)から、石垣島の星野の歴史を以下にまとめる。 星野には、沖縄本島の大宜味村からの希望者が移住することになった。大宜味村は、僻地山村で 写真 3 種子取祭のユークイ。(筆者撮影)

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山の上まで段々畑を作って耕作していたが、農業だけでは生活が成り立たず、本土への出稼ぎや海 外移民、林業、大工などで生活していた。戦後、戦禍を逃れて来た避難民や内地からの疎開者が残 り、そのうえ南洋諸島からの強制送還の人々であふれかえり食糧が甚大に不足した。1948 年 10 月 沖縄タイムス紙に八重山開発計画が発表された。土地、農具、家畜を与え、マラリアの撲滅、当面 の食糧受給を約束した行政の支援のもとに移住し開拓するというものであった。1949 年 1 月八重 山移住入植計画案が村の本議会で成立し、200 世帯を超える移住希望があった。しかし、アメリカ 側が講和条約締結までは実施できないということで、この計画の実施はいつになるかわからないも のとなってしまった。 それでも、生活が立ち行かない引揚者たちはほかの案もなく、自分たちで代表を送り、八重山支 庁との相談をし現地調査を経て「自由移民」としての入植を決意した。政府の援助がないとなる と、移住希望者は激減した。1950 年、16 世帯のみの希望者で先遣隊を派遣し、過酷な「自由移民」 としての入植がはじまった。八重山支庁側と土地に関する覚書をかわし、星野は山口忠次郎、山城 忠助、山城忠次郎の三氏の代表以下、強く団結しユイマールで開拓をすすめていった。1952 年に、 近隣の伊野田などに次々と政府開拓移民が入植した際には、星野の開拓者が手助けした。星野の茅 葺の屋根の粗末な私塾的学校として開校された学校が台風被害で壊れると、伊野田に学校が建てら れ星野の子供も通学するようになった。道路開通やバス開通に米軍の支援がありサトウキビ栽培を するようになり、1955 年にはパイン栽培で成功する農家も出てきた。星野にも開拓 10 周年までに は、宮古からの移住者も受け入れ発展した。しかし 1969 年の台風で、家も農作物も飛ばされる大 きな被害が出て、その後旱魃がやってきたので星野を去る人が増え、小中学校ではクラスの半数近 くが転校していなくなってしまった。現在は 2 世がコーヒー栽培を始め、石垣島産のコーヒー豆と して注目されるようになった。国道沿いの星野集落は、人魚の里という看板を揚げ入植した一世た ちの名前を刻んだ開拓記念碑が建てられ、この地域がもとはジャングルであり開拓者によって切り ひらかれ発展したのだと観光客にもアピールしている。 琉球王朝時代、星野付近に実在した桃里村に伝わる桃里節という民謡を、星野の伝統芸能として 新たに作ったのである。星野夏祭りを 7 月に開催しているが、舞台を設置し観客がみるようになっ ていて、先住民の祭りとはまったく異なっている。開拓 60 周年には、3 世が開拓の歴史と星野村 の誕生について 1 世の家をまわって聞き取りをして、星野の歴史を受け継いでいこうとしている。 ある 1 世の男性は、ブラジルから強制送還された引揚者で、必死に築いた財産は没収されたうえ、 遺骨や位牌まで持ち物は捨てられ、身一つで沖縄本島にもどり八重山移住しか生きる方法がなかっ たという。こういった 1 世の苦労した話も含め、入植記念日などの行事で年 1 回は、子供たちにも 入植から始まった村の歴史を教えている。星野共同売店は国道沿いにあり、道の駅のように地元の 野菜も販売している。共同売店は、星野の母村である沖縄本島やんばるの大宜味村の伝統である。 星野と同じく大宜味村からの政府開拓移民として入植した伊野田には、開拓神社や開拓記念碑が 公民館に隣接して建てられている。

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石垣島の北部には、現在でも生活に必要な食料品や日用雑貨などを売っている共同売店が、大里 売店、星野売店、伊野田売店、明石売店の 4 箇所ある。この共同売店は、もともと沖縄本島北部な どの母村の固有の文化であり、60 年以上も前から集落の人々の共同出資で立ち上げられたもので、 仕入れ、販売、利益分配などが、集落の人々で運営されている。相互扶助を基本としているため、 お金が用意できないときには、支払いをせず商品を持ち帰り、あとで支払えばよいという仕組みが 今も残る。 これらの石垣島北部の計画開拓移住民の集落は、記念誌を発行している。およそ 10 年単位で発 刊された各集落の記念誌が、石垣市立図書館の一角に所蔵されている。 2.2 西表島・住吉 この集落は、宮古群島政府の計画移民として宮古島下地町より入植した人々によって切りひらか れた。 総務省ホームページ(http : //www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/okinawa _02.html)、宮古島市(旧平良市)における戦災の状況(沖縄県)によると、宮古島には陸軍の特 攻の中継基地として 3 箇所の飛行場が作られていた。1945 年 5 月に入ると、爆撃が連日続くよう になる。相次ぐ爆撃に加え、食糧難からくる栄養失調、非衛生的な壕生活を強いられる中でマラリ アが大流行し、病死者が続出した。県外への疎開は、1944 年 8 月から 10 月にかけて行われた。疎 開者はおよそ 1 万人で、ほとんどが台湾への疎開であった。戦後、その人々が廃墟と化した宮古島 に戻ってきたわけで、八重山移住に生きる道を求める人々が多数出た。もともと山が少ない宮古島 に目をつけた軍部は飛行場に適していると、農地を取り上げていった。戦後、宮古島は焼け野原と なり薪や材木が枯渇していた。そこで宮古群島政府は、西表島から材木を切り出し、宮古の復興に 当てる計画を立て、西表島の国有林に伐採隊が投入されることになった。 川満(1989)によると、また舟浮の国有林開発伐採隊への食糧補給を目的として、移民を送りだ 写真 4 星野共同売店前の入植の碑。(筆者撮影)

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す戦後初の計画移住が行われた。宮古群島政府計画移民が下地町から 29 人が選抜された。助成金 は一戸あたり 1 万円支給された。1948 年 10 月 11 日、宮古の下地町からポンポン船で 8 時間かけ て、西表島の宇奈利崎に船浮伐採隊食糧補給隊が到着した。第 1 次、2 次先遣隊は数名ずつで、受 け入れ態勢を整えようと、まずは住むところとして共同合宿所を月が浜海岸に建設し、井戸一基を 掘った。井戸の完成後、第 3 次開拓団が牛馬とともに到着して、伐採と畑の開拓が始まった。 入植祭は毎年 10 月 11 日に公民館で行われ、お酒を飲み開拓の思い出話がとびかい昔をしのぶ。 三味線や太鼓も入り、最後はカチャーシ、宮古のクイチャーで祭りは幕を閉じる。現在も入植祭は 行われているが、2 世 3 世が中心になり母村である宮古の文化を引き継ぐことは薄れ、若者たちの 工夫で流行の新しい歌や踊りに変容している。1989 年に発刊された記念誌にはアララガマ精神で がんばったということばが随所に見られるが、今 3 世の子供たちは自分たちのルーツが、宮古から 写真 5 住吉公民館前の入植記念碑。(筆者撮影) 写真 6 住吉神社。開拓時代に掘った井戸も奉って いる。(筆者撮影) 写真 7 海岸に建てられた「住吉開拓団上陸の地」記念碑。(筆者撮影)

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来たものであるということが伝わっているとはいえない。入植当時の記憶を語れる人物は、住吉で は平良氏のみである。平良氏は 1926 年生まれで現在も住吉で農業生産に従事しており、1989 年に は住吉開拓 40 周年記念事業では中心となっていた。40 周年記念誌を頂戴し平良氏に以下のような 聞き取りをおこなった。 筆者:開拓に志願されたときはどのような状況だったか教えてください。 平良氏:小学校を出たら台湾に渡って、航空廠で航空機の修理をやっとった。敗戦で、宮古に 戻ったが、焼け野原で復員した人であふれかえっていたので、西表島の入植を決意した。道路 らしい道路はなくて、田んぼのあぜ道ぐらいで雨が降ると困ったもんだ。マラリアは一人亡く なっただけですんだ。背負いのポンプで駆除の薬をまいて、蚊を撲滅させていた。琉球政府か らは切り離した開発事務所というのがあって、必要なときには政府計画移民には、貸付や支給 を行ってくれた。まず芋の植えつけをして、区分けして各人が掘っ立て小屋を建てて、芋が収 穫できるころ、家族を宮古から呼び寄せた。陸稲を植えて、自分たちの食べるものを確保して いた。 筆者:開拓が一段落して、植え付け作物はどう変わっていきましたか。 平良氏:サトウキビも植えたが、パインが主体で、個人単位でゆうパックを用い全国販売して いる。 筆者:今の住人は、ここがこうして開拓された土地だということは、わかっているのでしょう か。 平良氏:誰もこんな話を聞こうともしないし、そんな記憶ももたない人たちが増えてきた。今 では部落の人数が多くなってきて、この公民館にはおよそ 60 軒が属している。ほとんどが最 近になって入ってきた島外の人ばかりでも、この部落が続いていくのはいいことなんだろうと 思う。だから、開拓の記念碑を公民館や上陸の地に建てて、残しておこうと思った。 筆者:平良さんのふるさとは、宮古ですか。 平良氏:親戚との交流も、ほとんど 1 世でとだえてしまっている。昔、宮古には親も兄弟もい るから、自分の家に帰った感じがしたが、宮古も代替わりしてしまったからなあ。西表に来た 当初は、道路もないし山ばかりで、最初のうちは帰ろうと思ったけれど、4、50 年かかって無 から有を生み出したんだから。今は、ふるさとはここだろうな。(2014 年 11 月 21 日聞き取 り) 1954年には、石垣島の星野、伊野田集落の強力な陳情により、西表島の住吉も含め計画移民に 編入となった。西表島の中で、あらたに開拓が許される地域があれば、平良氏は息子たちに開拓さ せて土地をふやすようにし、生活も安定するようになっていった。計画移民に編入され、土地配分 を受けられたとはいうものの、言葉では言い尽くせない過酷な苦労があった。これを体験していな い現在の近隣住民に伝えることは不可能であり、だからこそ記念誌や記念碑を立派に残したいと考 えるのであろう。 星野、伊野田、住吉の計画開拓移住民の集落は、開拓 20 周年などを祝い記念誌を作り、開拓神

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社、開拓記念碑などを土地の中心に建てて、自分たちの開拓やこの土地の歴史、開拓者の名前を残 そうとしてきた。これこそが計画開拓移住民のヴァナキュラー・カルチャーである。

3.自由開拓移住民の生活とヴァナキュラー・カルチャー

自由開拓移住民にかんしては、これまで学術的な研究の積み重ねはない。「自由移民」と呼ばれ た人が、開拓した土地で農業を続けていることは、計画開拓移住民に比べて少ない。自分の子供た ちには学校へ行かせてやりたい、楽に生活が営める仕事につかせてやりたいという思いから、開拓 地を引き継がせることも少ない。 自由開拓移住民の場合、計画開拓移住民のようにリーダーとなる人がいないため、各自が個人事 業主のように、自分で考え決断するしかなかったのである。入植の時期もさまざまで、計画開拓移 住民を志したが、行政の側で計画が頓挫し、いっこうに進まないため、生活が立ち行かない人のな かには、待ちきれず入植した人もいる。計画開拓移住民よりも、かなりはやい時期に入植した人も 多い。行政の側も、僻地を開拓する人々を正確に把握することは難しかったため、「自由移民」に かんする記録も極めて少ない。金城(1988)の細かい聞き書きだけを頼りに村を訪ねてみたが、開 拓時代の記憶を持つ人々は後期高齢者で、日中はデイサービスに出かけていて自宅にはいない場合 写真 8 伊野田の開拓神社。(筆者撮影) 写 真 9 伊 野 田 の 開 拓 神 社、御 神 体 は 入 植 の 碑。 (筆者撮影) 写真 10 吉原公民館前の開拓の碑。(筆者撮影)

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もあり、聞き取りは難航した。自由開拓地の小・中学校をまわり、開拓時代のことを聞いてみた が、最近沖縄本島から僻地校に転勤してきたので、この土地のことはわからないと教職員に言われ た。しかし、石垣島の崎枝の牧場経営の姉弟や伊原間の新垣食堂や川原のさとうきび農家で、「う ちは親が自由開拓で、たいへんな苦労をした」という話を聞くことができた。新垣食堂の牛汁は、 石垣島の観光客にも人気の石垣の味となっている。しかし、宮古出身者であり、戦後知り合いをた よって伊原間に移住して来たライフヒストリーを聞いた。直営牧場の食材を使った、開拓時代から のメニューの牛汁は、宮古みそで味付けをしている。現在では、野菜は時期によって北海道産にか わったりするそうだが、これも自由開拓移住民の生活から生み出されたヴァナキュラー・カルチャ ーである。このように人に気づかれないものの、点在する自由開拓移住民のヴァナキュラー・カル チャーのなかから、代表的な例をあげることにする。 3.1 西表島 石垣島の自由開拓移住民のなかには、開拓をせずに漁業、薪とり、塩たきなどに従事した人々も いた。戦後の食糧難に直面したとき、その日を生きるために開拓を始めるということはありえな い。戦後、伐採隊や炭鉱労働者の応募で西表島に渡ってきた人々も多い。一定期間米軍から給料が 支給され、伐採隊や炭鉱労働者の男性の家族が並行して少しずつ開拓して野菜や雑穀を植えてい た。伐採が終わるなど一定期間が過ぎると、米軍から給料は支払われなくなるので、一家で開いて いる土地を開拓してその後も島に残った人がいた。西表島の自由開拓移住民では最高齢と思われる 女性に 2014 年 11 月 20 日聞き取り調査を行った。宮国みつさんのオーラルヒストリーから、自由 開拓移住民誕生の一例を知ることができる。 現在は中野海岸と呼ばれるが、そこは戦後採炭所と呼ばれていた。各山に穴を掘り採炭し線路が 敷設されていた。その石炭は、1 トンも入るような貨車に積まれ線路を運ばれて、道路からは上原 の海岸までガソリン車で運ばれ船に積みこまれた。宮国さんの夫は 60 代で他界したそうだが、当 時はガソリン車に石炭を積みかえる仕事などをしていた。 宮国みつさんは、現在 90 歳である。生まれ故郷は西表島の白浜で、茅葺きの屋根の貧しい農家 に住んでいて兄弟も多かった。尋常高等小学校を卒業後、先に台湾に行っていた兄を頼りに友人数 人と台湾に仕事を求めて渡った。台湾の基隆の日本人の家で、子守や雑用などさまざまな仕事をし ながらお金を貯めた。戦後、やみのポンポン船で西表島に引揚げたが、家は貧しく食べる米もなか った。ソテツの実を食糧にするほど困窮していた。製材所で働く夫と白浜で出会い結婚した。夫が 山から切り出してきた木で丸太小屋を組み、いかだにのせて舟で曳いて白浜から中野まで来た。中 野海岸から引き上げて、現在の場所に置かれた小屋は窓もない。しかし宮国みつさんにとっては、 この家こそ最高の家だといって今も住み続けている。戦後間もないころは、伐採隊や石炭採掘や石 炭運びに従事する 100 軒の家が並んでいたが、当時のままの家は中野でもこの家だけである。これ は、ヴァナキュラー建築としての価値も見出されるはずである。

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宮国さんは最初は子供たちの世話をしながら、まだ開墾されていない土地を見つけては耕し、芋 や野菜を植え始めた。採炭所の仕事がなくなると、夫婦とも農業の経験はなかったが、だれも開墾 していない土地を探しては耕し、芋などを植えた。彼らの開拓した土地は、いったい誰のものかも 定かではなかった。町有地だったり私有地だったりと、所有者がわかったのは何年もたってからだ った。借地料を納めることになった。町有地だった場合は、比較的早い段階で払い下げられたので 開拓していた人は将来の生活が楽になった。宮国さんの開拓した土地は個人の私有地で、買い取る しかなかった。偶然、町有地だった場合はかなり得をしたことになる。 近隣の住吉集落は、伐採隊の食料確保のために、宮古島からやってきた計画開拓移住民である。 子供たちが大きくなる頃には、自分たちの住吉集落の開拓が終わり農業をしていたので、中野の町 有地を子供たちに開拓させていった。開拓すれば町有地は開拓した人のものになると約束されてい たからであり、計画開拓移住民の場合は着実に資産を増やしていった例もある。 計画開拓移住民とは異なり、自由開拓移住民は出身地も多様である。中野の隣の上原小中学校前 にも、自由開拓移住民 2 世が住んでいて聞き取り調査を行なった。ある民宿を経営している女性の 津嘉山さんと筆者の会話を引用する。 津嘉山さん:戦後、うちは両親とも宮古島と石垣島の間にある多良間島から西表島に渡ってき たんです。一般的には、当時は多良間島からは、沖縄本島に仕事を求めていく人が多かったら しいですが、両親とも大阪に行っていたそうです。大阪で多良間島出身者の集まりがあり、両 親はそこで知り合い結婚し、3 人の子供が生まれました。私は 8 番目の末っ子なのでよくわか りませんが。 筆者:ご長男は何年のお生まれでしょうか。 津嘉山さん:昭和 15 年生まれなので、その前には大阪に行ったことになりますね。両親の都 合で子供 3 人を連れて多良間島に帰ったようです。 筆者:昭和 15 年って終戦の 5 年前ですね。 津嘉山さん:今そう言われて、初めて気がつきました。今まで戦争時代の話は、全然聞いたこ とがなかったから。 写真 11 宮国みつさんの開拓時代から住み続ける家(奥の建物)。(筆者撮影)

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筆者:皆さん、そうおっしゃいますよ。戦争の話やなんかは、家族にも話さないという方がほ とんどなんです。 津嘉山さん:最近になって皆、ばたばたと亡くなってしまったんです。そういう時代の話は、 一切聞いていないので、今こうして考えてみると、なぜ亡くなる前に聞いておかなかったんだ ろうと悔やまれるんです。聞いておけばよかったんだけど…。 筆者:戦争で大阪が空襲にやられて、多良間島に戻られたんですかね。 津嘉山さん:そうでしょうね。昭和 24 年には、4 番目の子供が多良間島に戻って生まれてま すからね。でも、やはり多良間島では生活ができないということで、西表島に渡ってきたんで しょう。当時は伐採隊や石炭の仕事があり、大勢の移住者が従事したそうですから。うちは伐 採隊だったと聞いています。(2014 年 11 月 20 日聞き取り) 長男は石垣島に在住で次男、三男が隣に住んでいるがこの日は猪猟に出ていて、いつ戻るかは定 かではなかった。自由開拓移住民 1 世で大正 3 年生まれの父は 67 歳で他界し、母も 80 代でこの世 を去り、この集落ではもう 1 世は誰もいない。津嘉山家の場合、町有地を開拓していたため比較的 早い段階で払い下げられ、自分たちの土地になっているので、2 世たちが農業の傍ら民宿など別の 仕事もするようになっている。記念碑や記念誌を残せない個人単位の自由開拓移住民の場合、1 世 が亡くなると 2 世でさえも、開拓のいきさつや詳しい状況が伝えられていないことがわかる。津嘉 山さんは、「自由移民」に関する研究に理解を示して船浦の渡真利のおばあという人が、おそらく 西表島唯一の自由開拓移住民 1 世で全体像を語れる人であろうと渡真利家の地図を書いてくれたの である。 渡真利志保子さんの家を訪ね、2014 年 11 月 14 日聞き取り調査を行った。渡真利志保子さんの ライフヒストリーをまとめると以下のようになる。 昭和 10 年 竹富島に生まれる。 昭和 13 年 台湾に渡る。父は台湾では台北の郵便局勤務。竹富島では、その頃ほとんどの家 が本家は竹富島に残り、それ以外は大部分が台湾に渡っていた。 昭和 20 年 小学校 3 年生。敗戦により、基隆から竹富島に家族で引き揚げる。 昭和 21 年 西表島の赤離(あかばなれ)に入植。マラリアに罹患する。1 軒のみで集落にな っていないので、薬品の支給も届かず民間療法で一命をとりとめる。 昭和 23 年 船浦に入植。志保子さんは 13 歳から開拓に参加する。自由開拓移住民が集まって ユイマールで次々と開墾。数十軒の集落になった。 昭和 28 年 18 歳から那覇の琉煙社で女工として働く。 昭和 32 年 22 歳で那覇から船浦に帰る。 昭和 33 年 宮古島出身の夫と結婚しサトウキビ営農。村の製糖工場がなくなるまで続ける。 昭和 40 年 サトウキビからパイン栽培に切り替える。 渡真利さんの夫は他界し、今は子供たちも那覇で生活しているので志保子さんは独居世帯である

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が、近隣の独居女性と婦人会活動を活発に行っている。後継者がいたり人手があれば、近所のよう に作物をパパイヤ、マンゴー、シークァーサーに変えていくことも考えるが、一人での作業なので パインと野菜だけを栽培している。 日本が戦争に負けるまでは、台北で父が郵便局長をしていて、贅沢やわがままもしてきたが、引 揚げ後、生活は一転した。竹富島に家族で引き揚げたが、実家はすでにほかの兄弟の家族でひしめ いていて、竹富島には居場所はなかった。頼る人もなく西表島の赤離に入植した。1 軒のみで集落 になっていないので、島で薬品の支給があってもここまでは届かなかった。志保子さんはマラリア に罹患したとき、高熱を下げるべく茎が空洞の植物を取ってきてつなぎ、頭に水をたらす民間療法 で髪の毛は全部抜けてしまった。 船浦に入植したあとも、女でも長子だったので学校にも行けず、過酷な生活が続いた。開拓には 労働力が欠かせず、毎日手作業で水を運び、朝早くから寝るまで働き詰めで窮乏生活が何年も続い た。おじが那覇の琉煙社に勤めていたので、女工として働きに行かせてほしいと頼んだが、開拓が すむまではだめだと親にいわれても、恨むことはなかった。戦争のせいで親が悪いわけではないか ら、早く那覇に行けるように開拓に励んだ。開拓が進み、4 年後にやっと那覇のタバコ工場で女工 として働くようになっても、自分には服の一枚も買わず、両親には給料全部とタバコを送った。那 覇の山形屋百貨店で、小学生の弟 3 人に洋服やランドセルを買って送ってやれるまでになった。タ バコ工場では一番年下でみんなにかわいがられ、休みの日には年上の女工に映画に連れて行っても らったことが、唯一の娯楽の思い出である。映画館で中学生に間違われるほど幼く見えたが、仕事 は一生懸命にがんばってまじめに働いた。 船浦に戻り、宮古島出身の夫と結婚し、子供を育てながら、サトウキビ栽培に力を入れてきた が、製糖工場が倒産し、パインに切り替えることとなった。当時は、石垣島の台湾出身者が名蔵で パイン栽培に成功していたので、石垣島からパインの苗を 1 本 6 円で購入して植えた。製糖工場の 倒産とともに、鳩間島出身者の自由開拓移住民の多くは船浦を去り、石垣島や他の地域に出て行っ た。 自由開拓移住民に対しては、公民館も土地配分も行政からの支援や取り組みが、計画開拓移住民 と比較すると格段に希薄で、住民が安心して定着できない原因でもある。 近年、町有地に関しては、払い下げにあたって 10 年前に土地を整備し土地改良事業がすすめら れた。開拓地は手作業で開墾が行われたため高低があり、測量して公平に配分するためにはまず高 さを統一しなければならなかった。賦課金を負担した渡真利さんに配分された農地は、土地改良事 業後、表土が取り除かれてしまったためか、野菜を植えても土地改良前のようには収穫できなくな った。肥沃な部分であった表土を戻してほしいと頼んでも、配分された土地は町のものではないの でこれ以上は何もできないと断られた。また、土地改良事業にあてはまらない場所で開拓した畑に 関しては、払い下げの願いもまったく聞き入れられず、今後も借地料を町に支払い続けていかなけ ればならない。渡真利さんは今、開拓地にかんして、どう思っているかを次のように語った。 農業をできなくなっても、子供たちが引き継いでくれるのであれば、強く町に対しても言え るんだけど、80 歳の女一人だしこちらも弱みがあるから、我慢するしかないねえ。ジャング

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ルを長い間苦しい思いをして畑にして、人生の大半をかけて、何十年もこの土地を守って来て さ。ずうっと町に借地料払ってきたのに、道路に近い土地だから払い下げないって町は言うん ですよ。議員や町長をどんなに応援してもなんも考えてくれないよ。戦後、開拓に入った人 は、どんなに苦労をしても、いつかは自分たちの所有する土地になると思うからがんばったと 思うんですよ。後継者もいないし、あと何年農業が一人でできるかと思ったら、もういいかと 半分はあきらめの気持ちだけど、なんか矛盾していると思うのね。でも今こうして暮らせるこ とを思うと、こんなに贅沢してばっかりで、こんな幸せでいいのかと思うのよ。 船浦は、今は公民館作業以外には行事も祭りも何にもない地域である。戦後、「自由移民」で開 拓した時代からいる家はわずか 3 軒となり、住民の大半は近年内地から移住してきた人たちが大半 を占める。おそらく祭も何もないから本土からの移住者は、さびしいというより逆に行事がなく て、縛られず自由でこの地区はいいなと思っているのではないかと渡真利さんは考えている。しか し渡真利さんは、雨乞いの神事を切望し次のように語った。 このところ旱魃で、まったく野菜が収穫できないから、雨が降ってほしいといつもわたした ち住人で話しているのよ。新聞で、小浜島や鳩間島で雨乞い神事がおこなわれたという記事を 見て、私たちもやらねばならないね、やったら降るかねえ、どうやってやったらいいのかねと 言ってたの。やってくれる人がいないからね。船浦は開拓だから、その前からお宮も御嶽もな いので、どこでやればいいのかって言ってたの。雨を降らせてくださいと、心で必死に祈るの も気持ちの上では同じじゃないの。本当の島人(しまんちゅう)でないと、神様の前では踊ら せないと昔は言っていたけど、今はそんなことを、言っていられないさ。内地の人をおいでお いでと言って、竹富島や石垣島では呼び込んでいるでしょう。踊っているのも内地の人が多い のよ。 祭も行事も何にもないという船浦で、祭がおこなわれたことが以前はあったという。この祭にか んしては、写真の一枚もないし渡真利さん以外に記憶している人は、船浦にはもう残っていない。 もしあのときの住人が 2、3 人でも残っていてくれたら、祭を復活させられると渡真利さんは思っ 写真 12 土地改良工事後、配分された船浦の開拓地。(筆者撮影)

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ている。まったく記録されず渡真利さんの記憶にのみ残っている船浦の祭を以下にまとめる。 旧暦の 5 月に船浦湾ではハーリーが行われた。2 艘の手漕ぎ舟で競争して速さを決め、浜で は大いに応援で盛り上がった。遠く白浜などからも学生を連れて見学に来ていた。砂浜が長く 続いていたので、開拓に欠かせない農耕馬で競馬大会をした。みんなが日ごろの疲れや苦労を 忘れて祭りだけは楽しんだ。開拓が終わるまで 3 年間、毎日手作業で水を運び、耕作し、弟や 妹たちの世話をして、自分の時間は一切なく、楽しいことなんて何にもなかったが、そんな時 代にこそ村の祭が行われたことが、生涯忘れられない記憶として残っている。 開拓時代には、村だけでなく島内にも店がなく不便であり、生活に余裕はなく、カメラは村で誰 一人持っている人はいなかった。だから、写真は一枚も写すことはできないので残っていない。渡 真利さんに、「絵に描いてみたらどうですか」と聞いてみた。「絵なんて今まで描いたこともないか ら描けない」と渡真利さんは言う。しかし渡真利さん自身も、開拓時代の村の祭の文化を残そうと いう努力を続けていた。 開拓時代、船浦の住人の出身地は、宮古島、沖縄本島、鳩間島、竹富島などで「寄せ集めの 人々」がユイマールという協働作業をして結束を深めていた。船浦でも新たな歌を作ろうとした例 があった。それが「船浦口説」である。鳩間島出身の歌のうまい人に「鳩間中森」を聞かされ、自 分たちの歌がほしいと思った。鳩間島出身の宮良ようしゅんという人で祖納に家を持つ人が、妾に なる人を探してなのか船浦に滞在していたので依頼した。こうして「船浦口説」が誕生し、踊りは 年配の鳩間島出身の踊れる人がいて、その人が振り付けをした。 上原中学校の芸能発表会で、郷土の伝統芸能として「船浦口説」だけは絶やしてはいけないと 3 年生に毎年教えることを続けている。上原中学校は船浦ではないが、毎年 3 年生が郷土芸能として 「船浦口説」を踊ることが受け継がれている。渡真利さんが語った、開拓時代の船浦で行われた劇 や踊りの話を以下にまとめる。 写真 13 渡真利さんの指導を受けて「船浦口説」を踊る上原中学校の生徒。 http : //blog.goo.ne.jp/rakkyou-mura/e/a0c09860f6e96967b9c1cf6e409dcb57

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開拓時代、ハーリーの祭りとは別に、劇や踊りもするようになった。公民館や中学校の落成 式があると、踊りや劇が好きな人が中心となって、教えたり考えたりして夜になると毎日練習 した。いよいよ本番の数日前には、くり舟をこいで石垣島まで布地や必要なものを買いに行っ て、衣装や小道具を作った。浜辺に自生している植物のスポンジ状の白い部分を赤い食紅で染 め、配布されていた抗マラリア剤のアデプリンで黄色く染めて首飾りを作った。那覇の叔母か ら送ってもらっていた、当時は貴重品だったストッキングもみんな祭りで使った。お金もかけ られないので、あるもので工夫してお祭りを楽しんだ。鳩間島出身で踊りのできる、踊りが好 きな人が、当時よく見た沖縄本島の巡業芝居をまねて踊ったこともない人に教えた。以前、鳩 間島には踊りの先生という人が来て島の人に踊りを教えて行ったので、鳩間島出身の人は踊り を覚えたそうである。渡真利さんは「戻り駕籠」の娘役を教えられ、何かあるごとにいつもそ の役を演じていた。道化の役であるが皆が大笑いして楽しめるので、機会があるごとに何度も 演じ、今も歌えて踊りも記憶している。 神社、御嶽のない船浦では、伝統的な神事を執り行うのではなくて、楽しむ祭をやっていたこと が特徴的である。自分たちが楽しいことに飢えていたが、協働作業で村の結束は固まり、若い人々 が多くいて、力を合わせてやりたいことをやって思い切り楽しんだ。製糖工場が倒産し、鳩間島出 身の住人が石垣に移住して踊りや劇を中心になって教える人がいなくなり、過疎化がすすみ内地か らの移住者が増えた今、渡真利さんはたった一人で郷土の伝統芸能として「船浦口説」をよみがえ らせ、次の世代へと伝承したのである。自由開拓移住民のヴァナキュラー・カルチャーは、カメラ を誰一人持っていないので、写真の一枚も残っていないという自分たちだけの祭のように、時代を 超えて可視化されないことが特徴といえる。しかし、たった一人で郷土の伝統芸能として、「船浦 口説」をよみがえらせ次の世代へと伝承しているのも、ヴァナキュラー・カルチャーである。これ 写真 14 「船浦口説」。(渡真利志保子さん提供、筆者撮影)

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は、ユイマールで開拓した船浦の忘れられない記憶をもつ最後の一人になったが、言葉や文章では なくても伝承したいと自由開拓移住民のコンテクストが表現されたものといえよう。 3.2 石垣島・名蔵 名蔵は自由開拓移住民の集落であるが、計画開拓移住民の各集落で発行されたような記念誌(名 蔵入植 50 周年記念事業期成会 1999)を発行している。記念誌で名蔵の歴史(金城 1999 : 24-31) をたどると、1647 年には那蔵村として記録が見られ農業が行われていた。1700 年代には石垣村、 登野城村や黒島から寄百姓と呼ばれる移住をさせ、名蔵は豊かな穀倉地帯となっていった。明治に は台湾に進出していた徳島県の糖業家、中川虎之助が初の内地人による名蔵開拓をはじめることに なった(三木 1980 : 22-38)。 1930年代には、台湾から多くの移民が名蔵に入植した。1935 年には大同拓殖株式会社を発足さ せ、パインをはじめバナナなどの亜熱帯植物の栽培を行うために、多くの台湾からの移民が定着し た。内地や地元の人間がマラリア有病地であった名蔵から去っていったが、台湾出身者はマラリア を克服し開墾事業を完遂した。マラリアは抵抗力があれば死に至る病ではないので、山羊や豚や鶏 を飼育し山羊の乳と鶏卵を毎日摂取して、栄養分を充実させたのである。しかし、名蔵で 600 名を 超える台湾人に石垣島の人々は脅威を感じはじめ、台湾は 3 等国民であると差別をし、台湾の先進 の農法であった水牛の持ち込みも禁止した。台湾人も心の不安定から病気にかかる人も多く、この ため名蔵御嶽で旧暦 8 月 15 日夜、台湾の土着宗教の土地公祭を行い(森田 2011)心のよりどころ とした。今では八重山の祭として認知されるまでになり、老朽化した名蔵御嶽を土地公祭を行う 人々で再建したいという考えもある(八重山毎日新聞 2015 年 9 月 29 日)。 戦後、台湾の人々は日本国籍がなくなったため公民権を失った。これまで苦労して開墾した耕地 を、市に返還しなければならなくなった。そこで、より山の中で不便な嵩田に移住し開墾を始め た。その頃から宮古島や沖縄本島から、名蔵に多くの自由開拓移住民が移り住んだ。しかし水田は ほとんどが地元石垣の農家のもので、畑は大日本製糖社の土地であり自由開拓移住民に市や町も簡 単には土地を貸さなかった。ここでも計画開拓移住民とは大差があった。歴史のある名蔵は御嶽を 持つのだが、登野城に神司がいて、入植した名蔵の人々は拝むことはできなかった。小波本マカド 神役が、高齢でなくなった後、後任は出ていないため、豊年祭などで入植者が名蔵御嶽を拝めるよ うになったのは 1980 年以降のことである。名蔵公民館が豊年祭を名蔵御嶽で行う。名蔵中学校の 奉納太鼓で幕を開け、地域住民たちが豊作と繁栄を願い、次々と舞踊を奉納する。石垣島製糖も旗 頭で祭りを盛り上げ、舞台では、子どもをはじめとした住民たちが次々と舞踊やエイサーを披露す る。 名蔵は、自由開拓移住民の集落である。出身地も台湾をはじめ多岐にわたり、開拓の開始時期も 計画開拓移住民のようにひとつの日ではなくばらばらで、開拓記念日も定められないので開拓祭も ない。出身地の祭祀形態を持ち込むことも困難である。食品店を営む宮古島出身の女性は、豊年祭 も自分たちには関係ないし、地元の祭はそれぞれがやっている感じで、名蔵の祭というものはない という。さまざまなところから移住しているので、出身地の文化を名蔵全体で共有できない。しか し、台湾の土着宗教の土地公祭は、石垣島の台湾にルーツをもつ人々の祭として 70 年にもわたっ

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て続けられ、台風の影響によって屋内で行われる年もある。この土地公祭は、石垣島の郷土の伝統 芸能として、次の世代へと伝承し、台湾の人々の自由開拓移住民というコンテクストが表現された ヴァナキュラー・カルチャーである。 写真 15 のように、名蔵の学校には「開拓魂」という校訓も見えるが、学校の職員にも開拓当時 を知る者がほとんどいなくなり、在校生のほとんどが開拓民の 3 世ではないという。最近できた農 業団地に移り住んできた家の子供たちが多くなり、名蔵の自由開拓移住民の歴史を知るお年寄りが 語り部として学校に招かれることがある。

4.ヴァナキュラーから見た八重山

黒島の豊年祭は、海岸でのハーリー競争をメインとする点に特徴がある。かつて陸での綱引きで 決着がつかず、船漕ぎ競漕を行ったところ、その年が大豊作となったことから海辺での豊年祭にな ったと言われている(石垣経済新聞 2007 年 08 月 06 日)。豊年祭は、収穫後、神へ豊作の感謝と祈 願を行う祭であるが、海神に感謝して行われるハーリー(爬竜船競漕)が、今では祭のメインイベン トになっている。まさにヴァナキュラーな祭祀が生活の中から生み出されたことを物語っている。 西表島の自由開拓移住民の渡真利志保子さんの聞き取りで、ヴァナキュラーな祭祀を行うには、 豊富な人力が必要であると実感した。「雨乞いをしたら雨が降るのかなあ、どうやってしたらいい かわからないからねえ」と同年代の近所の住人の女性たちで話していても、御嶽もない開拓地では 雨乞いをする場所もないし、あきらめるしかない。「雨乞いはできなくても、心で思うことが大事 じゃないかと思って」とさびしげに語る自由開拓移住民の渡真利さんは、その思いを昇華するよう に、毎年、自由開拓移住民のコンテクストを知らない上原中学校 3 年生に「船浦口説」の踊りを教 えている。たった一人残った自由開拓移住民が、郷土の伝統芸能として開拓地で生まれた「船浦口 説」をよみがえらせ次の世代へと伝承したのである。船浦の人口は流出し中学校も廃校になってし まった。上原中学校は船浦地区ではないが、「船浦口説」は島の郷土芸能となり、毎年踊ることが 上原中学校 3 年生に受け継がれている。八重山の芸能を次世代に継承していくことは、先住民も共 通して困難に直面している。しかしヴァナキュラー・カルチャーは、たった一人の老女の手によっ 写真 15 名蔵小学校、中学校。(筆者撮影)

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て、こうして次世代に継承されていた。土地で生み出されたヴァナキュラー・カルチャーである。 一方で、この島で生まれた開拓移住民の 2 世 3 世達は、ヴァナキュラーへの関心が薄い。2 世 3 世達は、開拓を続ける必要はなくなり、商品作物の農場経営や観光業などで安定した収入がえられ るようになった。2 世達は自分たちの子供には、都会に出て行く夢をかなえてやりたいと、大学は 東京に行かせる場合もある。3 世達は恵まれた大自然に回帰し、卒業したら本土出身の配偶者を見 つけふるさとに帰って来ても、3 世達にはヴァナキュラーは伝承されていない。ヴァナキュラーの 価値を見出すのは、外部の目なのである。たとえば、本土出身の配偶者が島に住みはじめ、貴重な 文化だから学校で子供たちに教えていくべきだと声をあげたという。また、筆者のような本土の目 による自由開拓移住民のヴァナキュラー建築の発掘などは、2 世や 3 世に外的刺激になり、アイデ ンティティを認識させるのではないか。 八重山には、ヴァナキュラー・カルチャーが点在している。またひとつの島内にも、さまざまな ヴァナキュラーが入り混じっていたが、個々のヴァナキュラーなもの同士の連帯はまったくない。 島ごとに異なり、文化遺産指定されたものや、島外の人の力も加わり継承されていくものや、担い 手がいなくなり継承できないものもある。ヴァナキュラー・カルチャーが、観光資源とみなされ、 そのコンテクストを継承する人々もいる。計画開拓移住民が、開拓記念碑を集落ごとに設置した り、記念誌を発刊したり開拓記念日に祭を行うなど、集落の成り立ちのコンテクストを次の世代に も継承しようとする人々もいる。発信も継承もできないものの、個人のなかで、自由開拓移住民と してのヴァナキュラーな生活や、ヴァナキュラー・カルチャーを自分だけは大切に守ろうとする 人々もいる。 イリイチ(2005)は、ヴァナキュラーな領域は、貨幣経済から離れ、自らの力で、自立・自存し ていくための活動であると述べた。文化遺産指定された祭祀は、ヴァナキュラー性が薄れていく。 島外の人々(東京などの郷友会や観光客)にささえられ、観光資源化することになっていく反面、 実際その地では誰も営農をしていないなど、日常の生活と祭祀が結びついていない。船浦の自由開 拓移住民の渡真利志保子さんの両親の出身地は、竹富島である。渡真利さん一家が、以前竹富島に いたころ種取祭を見たり聞いたりした記憶もなく、その祭祀にアイデンティティを感じることもな いという。八重山のヴァナキュラー・カルチャーは、決して画一的なものではなく、代表するもの もない。 計画開拓移住民が、「自らの力で、自立・自存していくための活動」として、開拓を決意し、集 落を作り、記念碑を設置したり記念誌を発刊したり開拓祭をしているのも、計画開拓移住民のコン テクストを大切にし表現したヴァナキュラー・カルチャーである。また、記念碑も記念誌も残せな いが、自由開拓移住民も「自らの力で、自立・自存していくための活動」として、開拓を自ら決意 した自由開拓移住民のコンテクストを大切にし表現したヴァナキュラー・カルチャーをもってい た。夫が丸太小屋を組み、いかだにのせて舟で曳いて中野海岸から引き上げた窓もない小屋を、最 高の家だといって今も住み続けている老女や、「船浦口説」を島の郷土芸能として、中学生に踊り を教えている老女もいた。これらは、自由開拓移住民のコンテクストを一人で大切にし表現したヴ ァナキュラー・カルチャーなのである。このようにヴァナキュラー・カルチャーは、自らのコンテ クストを大切にしてきた人々に、それぞれに等しく価値のあるものであるといえる。

参照

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※1 13市町村とは、飯舘村,いわき市,大熊町,葛尾村, 川内村,川俣町,田村市,富岡町,浪江町,楢葉町, 広野町, 双葉町, 南相馬市.

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