†国語教育専修 教科教育専攻 指導教員:牧戸 章 原 著 論 文
教室の「学び」における「共有」の可能性
梅
田
華
那
†Possibility “Shared” in “Learning” of a Classroom
Kana UMEDA
要 旨 教室の「学び」において,「集団性」というのは,ひとつの大きな特徴としてあげられる。国語科に おいても,国語科が創設されて以来,その内容は検討され改訂されてきたが,多人数で同じ内容を学習 するという点に関しては変わらない。この集団性は,学校教育では知識の伝達の効率性を上げるために 役立ってきた。学校は知識の共有の場であった。しかし膨大な情報が溢れる現在,学校教育でも,学習 は知識の伝達という形からの転換が求められている。これまでは,知識が共有されてきたが,その共有 のあり方も学びの質の変化とともに問われることとなる。本稿では,読むことの学習において学習者中 心の「学び」を教室に生成するために,「集団性」と「共有」という視点から学校教育を考察すること を目的とする。その方法として,佐藤学の提唱する「学びの共同体」を手掛かりとする。佐藤学の提唱 する「学びの共同体」は,「勉強」から「学び」の転換として全国の学校に波及している。佐藤はこれ までの「勉強」を「学び」と区別し,勉強から学びへの転換の必要性を指摘する。勉強が「個人主義」 的立場から知識や技能を「獲得」し「蓄積」する「無媒介な活動」であるのに対して,学びは「他者と の交わりを基礎とし」ながら,知識や技能を「表現」し「共有」する「道具」や「他者とのコミュニ ケーションによって媒介された活動」であると述べる (佐藤, 1999, pp. 27-28)。このような「学び」の 中心を学習者に置く「学び」では,学習者が個々の存在として認識される必要がある。学びの主体であ る学習者を個として捉え,学びは自己の形成を促していくものであるとするならば,それは自己を崩し ては再構築することが求められる。しかしながら,学校教育の文化に慣れ親しんだ優等生であればある ほど,演じることに慣れてしまい自己の変革へと至ることは困難である。更に,学習者は個として自己 の完成を求められる一方,教室コミュニティにおいては協調性を求められる。教室コミュニティは, 「学級づくり」といわれるように意図的に構成されたコミュニティである。ここでも,学習者は学校教 育の文化に沿った行動をするように求められる。現在の学校教育では生活集団と学習集団は基本的に同 じメンバーで構成される。したがって上記でみたような教室コミュニティに学習者が在るということを 踏まえ,国語科における読むことのコミュニティを考察する。読むことにおいて読者反応論の登場は, 大きな変化をもたらす契機となった。トップダウン式の読みから教室の読みに複数性の可能性が生まれ た。しかしながら,教室の読みの複数性をグループ学習の後にグループ毎にまとめた事を発表させ,そ れを教室で更にひとつの答えにまとめ,クラス全体で「共有」するという流れで行えば,それはいくら 学習者同士を対話させても,知識の伝達の域をでるのは困難である。したがって,読みにおける「共 有」の質を問うことが必要となる。しかし,読むことの学習内容がテクスト解釈に終始している限り, 何が正解かという問題に収束されてしまう。国語科が文学テクストにどのように向き合うのかを考える ことが必要となる。Abstract
In "learning" of a classroom, “group” is one of key feature. Since Japanese was founded, the contents have been examined and it has been revised, but about the same contents, it does not change the same contents is learned by a lot of people.Group study has been useful in order to raise the efficiency of transfer of knowledge is learned in school education. The school was a shared place of knowledge. However, change of the quality of school education is called for now when huge information overflows. Until now, although knowledge has been shared, the way that should be shared will also be asked with change of the quality of learning.In this paper, in order to generate “learning” of a student itself to a classroom in study of reading, it aims at considering school education from the viewpoint of “group nature” and “a share.” As the method, “the community of learning” which Manabu Sato advocates is made into a key. The “community of learning” which Manabu Sato advocates has affected a lot of schools as conversion of “learning” from “study.” Sato points out the necessity for the conversion which learns old “study” from learn and passes through it in distinction from “learning.” As opposed to “accumulation” Study “gaining” knowledge and skill from “individualism” position, and being “-less mediation activity” to carry out, It is said “share” That learning “expresses” knowledge and skill with “being based on the intersection with the others”, and is the “tool” to carry out and “activity carried by communication with the others.” (Manabu Sato, 1999, pp. 27-28) In "learning" which puts the center of “learning” on a student, a student needs to be recognized as each existence. When the student who is a subject of learning regards as individual and urges self formation to learning, they will be called for reconstructing.However, the honor student who grew familiar with the culture of school education, it is difficult for a certain degree to get used to performing, and to result to a self change. Furthermore, while the student can ask for self completion as individual, he can search for cooperativeness in a classroom community. A student is called for so that action in alignment with the culture of school education may be carried out. At the present school education, a life group and study grouping consist of same members fundamentally.Next, I considered the community of the thing in Japanese to read on a basis of a classroom community which was seen above having a student.In reading, the appearance of the reader reaction theory became an opportunity which brings about a big change. The possibility of various reading was born from reading of a top-down type to reading of the classroom. However, it is difficult to come out of the region of transfer of knowledge, even if he pluralism of reading of a classroom for every group after group study, summarizing it in one more answer in a classroom, and “sharing” between the whole class, and as long as the contents of study of reading are using the text interpretation from beginning to end, it will converge on the problem what is a correct answer. It is necessary to think of how Japanese faces a literary text. キーワード:共有,集団性,読むこと 1.問題の所在 教室の「学び」において,「集団性」という のは,ひとつの大きな特徴としてあげられる。 この集団性は,学校教育では知識の伝達の効率 性を上げるために役立ってきた。学校は知識の 「共有」の場であった。 しかしながら,膨大な情報が溢れる現在,学 校教育でも,学習は知識の伝達という形からの 転換が求められている。それは,例えば,佐藤 学の提唱する「学びの共同体」として全国の学 校に波及している1)。 佐藤はこれまでの「勉強」を「学び」と区別
しながら勉強から学びへの転換の必要性を述べ る。勉強が「個人主義」的立場から知識や技能 を「獲得」し「蓄積」する「無媒介な活動」で あるのに対して,学びは「他者との交わりを基 礎とし」ながら「知識や技能を「表現」し「共 有」する「道具」や「他者とのコミュニケー ションによって媒介された活動」である (佐藤, 1999, pp. 27-28)。 そして,佐藤は「学び」のあり方を「学びの 三位一体論」と呼称し,次のように捉えている。 学びとは,対象世界との出会いと対話であ り,他者との出会いと対話であり,自己との 出会いと対話である。すなわち,学びは,対 象世界の意味を構成する認知的・文化的実践 であり,他者との関係を構成する社会的・政 治的実践であり,自己の編み直しを遂行する 倫理的・実存的実践である。「世界づくり」 「仲間づくり」「自分づくり」の実践と言って もよい。学びは,この三つの次元の実践が三 位一体となって遂行されるいとなみなのであ る。この性格を私は「学びの三位一体論」と 呼んでいる。(佐藤, 1999, p. 29) このように「学び」の中心を学習者に置く 「学び」では,学習者が知識や他者をどのよう に位置づけていくのかに主眼が置かれる。学習 者はこれまでのように受容者として受容すると いう側面とともに,発信者となって発信してい くという両面がより能動的な活動として必要と なってくる。 そしてこの「学び」の活動には前提として教 室集団における「他者」の存在が前提としてあ る。学校教育が教室という集団で行われること も加味すれば,そこで大きな問題として挙げら れるのが「共有」性である。教員が取捨選択し た知識を伝達する学習から,学習者が対話し関 係付けていく「学び」へと転換すると,学習者 も学習者としてひとまとまりだったものが個々 の存在として認識されなければ「学び」は転換 されない。学習者が個々の存在となるとき, 個々の間では一体何が「共有」され得るのだろ うか。 この「共有」を,例えば,グループ学習の後 にグループ毎にまとめた事を発表させ,それを 教室で更にひとつの答えにまとめ,クラス全体 で「共有」するという流れで行えば,それはい くら学習者同士を対話させても,知識の伝達の 域をでるのは困難である。 「共有」の質を問うことで,個々の「学び」 と集団での「学び」の連関とその意義を新たに 示すことが可能になる。 本稿では,読むことの学習における学習者中 心の「学び」を教室に生成するために,佐藤学 の提唱する「学びの共同体」を手がかかりに何 をどのようなレベルで「共有」することができ るのかを考察することを目的とする。 2.教室コミュニティ内での「共有」 学校教育において教室コミュニティで「共有 する」ということはあまり表立って問われるこ とがない。学校教育において「共有する」行為 は日常的に為されている。教室内では,学習者 は時間や空間をクラスメイトと共有し,授業に おいては知識や体験を共有する。 では,「共有」するとはどういうことだろう か。「共有」という言葉は,近年,より一層よ く使われるようになったと感じられる。それは, おそらく,ソーシャル・ネットワーキング・ サービス (以下 SNS) の普及によるものであ る。そこでは画像や動画だけでなく,個人のプ ロフィールや日々の出来事などありとあらゆる ものが「共有」するものとして扱われる。場合 によっては,それが見ず知らずの人間との間で 時間や空間を越えて「共有」される。 「共有」という言葉を,情報などを相手から 与えられ,互いが同じものを所持している状態 を指すと定義する。このことから,「共有」す ることを自らの外部にあるものを内面化するこ とと考えると,それに対して互いの内面的なも のが呼応する場合も考えられる。これを「共 鳴」として区別する。 「共有」と「共鳴」を区別したとき,「共鳴」 は,無意識的で制御不可なものとして考えられ る。同じ「感情」を扱っても,「共有」する場 合と「共鳴」する場合では様子が違ってくる。 「共有」の場合では,到来するのは自身の感情
ではないので相手から発せられたものが一度情 報として変換されて入ってくる。外部から到来 する「共有」のもとにおいては,全ては情報と なる。例えば,感情にしても,それが一度外部 へ出て,到来すればそれは感情としての鮮度を 失い,情報となってしまう。 「共鳴」の場合では,自身から生み出された 感情と相手の感情が呼応する。このように捉え ると「共有」は受容的性格が強く,「共鳴」は 発信的性格が強い。 SNS のような「共有」と教室の違いを見て みると,教室における場合,身体を晒した「共 有」となる。触れれば温もりを感じる距離にい る。教室内の場合,ある意味,その四角い部屋 の中に存在している時点で既に共同性のうちに ある。同じ学校に属し,同じ学年に属し,同じ クラスに属している。そして,空間・時間をそ の場において「共有」している2)。ただ,これ は身体がそこにあるという事実においてのみで あり,個人の内面においては,必ずしもそうと は限らない。(身体と内面はそもそも分割でき るものではなく二元論として扱うべきではない ことも踏まえておくべきである。) SNS のよう につながることそれ自体を目的とした要素も出 てくる。それは例えば「みんなでまとまろう」 といったようなクラスの目標に見られる。だが, SNS での「共有」のように情報の「共有」に おいては身体性というのはそれほど必要とされ ない。クラス目標に現れてくるようなまとま り・つながりといったものには身体を晒すこと によって効果的になされる感情面での「共有」, むしろ「共鳴」することが主眼に置かれる。そ して最終的には,「共鳴」が目指される。SNS では,身体性がないという点において「共鳴」 することは難しい。 身体を晒すことによってより内面に迫る「共 有」がなされる。内面に迫り来る「共有」は, それだけ個人を侵蝕するということである。 「共鳴」は外部からコントロールできるもので はない。それにもかかわらず,それと同レベル のものが「共有」という形で求められる。教室 内で日々強要される「共有」は,それだけ個人 に深く突き刺さる3)。 ところで,近代において「個人」の完成とい うのは至高の目標と考えられてきた。現在の学 校教育においても「自律」や「個人の確立」と いう言葉はよく耳にする。しかし,個人を保つ ためには「共有」とは逆の力を働かせる必要が ある。 教員から与えられたものをそのまま素直に実 行する学習者,できる学習者はしばしば優等生 と見られるが,それは,目標として掲げられる 個人の完成は達成されていない。 教室空間は,個人の内面レベルでの「共有」 を求められる一方で,そのこととは逆に「個 人」の完成を求められるダブルバインドの状況 に陥っているのである。 その一方で,ひとは同化することの快楽も 知っている。同じコミュニティに存在すること は安心感を与える。 この「共有」「共鳴」への欲求と,自己同一 性への欲求は,表裏一体のものである。 揺れ動く自己を受け入れること,それを鳥瞰 図的に捉え,位置づけることができることが, 学校での集団性の中での「共有」の先にあるの ではないだろうか。 学校教育の集団性を「共有」という観点から みると,近代教育が掲げてきた個人の完成のも とにダブルバインドの状況が作られていること が分かる。 学習者を未完成から完成体への直線的な変化 として捉えるのではなく,個 (わたし) と外部 の揺らぎとして捉えることでこのダブルバイン ド状況からの転換が可能ではないだろうか。 この「共有」「共鳴」を教員がどのような位 置で,介入するのか考察していくことが必要で ある。 3.「共有」する「わたし」 「共有」するという概念を考える上で,共有 する主体である学習者をどのように捉えればい いのだろうか。 「学びの共同体」では,学習者の個性を生ま れながら持っているものとする。 「存在論的な個性化」とは,一人ひとりの 子どもの存在そのものをそのまま尊重し受容
する「個性化」であり,一人ひとりの子ども がそれぞれ自分という個性的な世界を生き, まさにそれゆえに逃れえないさまざまな拘束 のなかで受容し,苦悩し,葛藤を経験してい る存在であることを,その子どもの個性的な 存在のありようとしてまるごと肯定し受容す ることを意味している。(佐藤, 1995, p. 59) このように学習者ひとりひとりの個性を大切 にするという考え方は今現在の学校教育ではそ れほど目新しいものではない。しかし,「個性」 へと偏重するあまりそもそも個性を構成する前 段階にある没自的な共有段階を忘れてはならな い。 わたしがわたしであることを保証することが できるのは,その身体がそこにあるからである。 もし,身体感覚が他と混ざり合えば,それこそ わたしはわたしであることの自信を失ってしま うだろう4)。 この自己同一性の揺らぎは,主に次の 2 つの 時において現れる。 一つ目は,自己を疑い,自己を鳥瞰図的に見 たときであり,もうひとつは,「我を忘れて」 没入するときである。無意識的に自己を手放し, 自―他の領域を超える。 学校教育の現場では,自己の変革を求めるが, この 2 点の状況には至りにくい。なぜなら,あ る程度習熟した学習者は,学校教育というコン テクストに慣れ,スティルともいうべきものを 身につけている。学校における「正しい」あり 方は,学校教育の目指す人格像である。いわゆ る道徳的で理性的な態度を求められる。これら の最終的な行き先は,成績評価だろう。ここで は,現在の成績評価のあり方に関しては議論し ないが,教員が学習者に対して評価を下すとい うことは,学習者の行動に対して大きな影響を 持っているということは間違いないだろう。 授業においては,学習者としての「わたし」 が前面に出ていることが多い。この学習者は学 校において優等生であるといわれればいわれる ほど,教員に同化した像を持っている。そして, その像が教員をモデリングすることによって更 新されていく。そのため,学習者像はある程度, 固定化された正解のある人格づくりなのである。 そして,それは教員にも同様のことが言える。 教員は学校教育においては,教員という役割を 全うしている。その向こう側にある揺らぐ自己 像は教室では排除されている。 このことは,「共有」する存在である学習者 をどう捉えるかという問題とともに教員の位置 付けの問題でもある。教員が学習者をコント ロールし,支配しようとすればするほど,学習 者のあり方は固定化し,学習者の揺らぐ自己が 見えにくくなる。教員と学習者という,教える ―教えられるという二項対立を超えた関係性の あり方が求められている。 4.「教育する側」が目指すコミュニティ では,このような「わたし」はどのようなコ ミュニティにいるのだろうか。クラスは学級づ くりといわれるように,意図的に理想とするコ ミュニティを創っていこうとする力が働いてい る。それは,教員にとって「学級開き」が重要 視されていることからも言える。それでは,理 想とされる「学級」のコミュニティとはどのよ うなものだろうか。 佐藤学は教室における人間関係を次のように 素描している。 教室の社会の第一の相は,学級集団への直 接的な帰属意識と教室の規範に対する無意識 の承認において結合している原初的共同とし ての社会である。この原初的共同体としての 教室においては,地縁や血縁で結ばれた親族 や村落共同体のように,子ども一人ひとりは 集団に埋没しておおり,その意識と行動は, 学級の規範に同一化し均質化する志向をもっ ている。その特徴は,集団の内部における情 緒的な強い一体感と集団の外部に対する排他 的な排除の意識にある。日本の教室の伝統的 な文化が,この原初的共同体の性格を強くも ち,画一主義と排他主義を特徴としているこ とは,これまで,多くの人々によって指摘さ れてきた。(佐藤, 1995, p. 22) 教室の社会の第二の相は,教室における権 利義務の契約関係と制度的な役割関係で結び
ついた集団的社会として社会である。個人の 自立を前提とした市民社会のような教室の社 会といってよい。この集合的社会としての教 室においては,子ども一人ひとりは指摘世界 を生きるが,その活動と経験は,教室という 制度の目的手段の関係と役割の関係に依存し ており,共同体的性格を剥奪されている。し たがって,この人間関係を基本とする教室で は,一人ひとりは集団の束縛から自由になる 方向を獲得しているが,個々人の関係が地位 と約束と役割に解消されてしまうことから, 個々人の連帯の絆を弱めて成績をめぐる序列 と競争の意識を助長し,一人ひとりの孤独と いう実存的危機を誘発して,教室を匿名の多 数の集合体へと転落させる危険もはらんでい る。この集合的社会としての教室の社会は, 近代学校の制度的な組織原理と実践原理に対 応しており,現行の学校における支配的な人 間関係を構成しているといってよいだろう。 (佐藤, 1995, pp. 22-23) 教室の社会の第三の相は,上記の二つの人 間関係を意識化し対象化した変革的実践にお いて成立する学習共同体としての性格である。 この学習共同体としての教室の社会は,第一 の原初的共同体とは性質を異にする共同体で あり,地縁という絆ではなく,言語 (知識) と信念 (倫理) の共有による社会的連帯と知 的想像力という絆で結ばれた自覚化された共 同体である。ディスコース・コミュニティ ( =議論を共有し合う共同体) と呼んでもよい。 この学習共同体としての教室においては,一 人ひとりの子どもはそれぞれ自立した個人的 な世界を生きるが,同時に,他者との社会的 連帯を通して教室の共同体的な世界をも生き ている。この教室においては,第一の相であ る原初的共同体の人間関係も第二の相である 集合的社会の人間関係も批判的に意識されて おり,一人ひとりの子どもの主体的な実践に おいて反省的に対象化されている。すなわち, この教室において,子ども一人ひとりは,個 人的な世界を仲間との仲で経験しながら生き ている。このような相互主体的な人間関係は, 現実には,教室生活の一部でしか成立してい ないが,ほとんどの教師と子どもたちが潜在 的に希求し続けている人間関係としってよい だろう。(佐藤, 1995, p. 23) この三つの相はそれぞれ「伝統的」,「現行 の」,「希求し続けている」とあるように日本の 教育の移り変わりを述べている。そして,佐藤 の志向する「学びの共同体」は,「上記の二つ の人間関係を意識化し対象化した変革的実践に おいて成立する学習共同体としての性格」とあ るように,第三の相として述べられている人間 関係を理想としている。 この第三の相を目指すために協同的な学習を 導入すると考えるのならば,それは,第一・第 二の相とは違った第三の相のコミュニティが出 来るのだろうか。 クラスがたまたま集まったという点で地縁や 血縁という例で例えられるのなら,グループで の協同的な学習として教員によって組織される グループは地縁や血縁の類と言えるのではない か。また,グループでの協同的な学習が,グ ループでの合意を形成することではなく,それ ぞれの目標を達成することにあるのであれば, 第二の相の個人の権利義務契約関係とどのよう に異なるというのだろうか。 また,教室における共同体という性質を佐藤 は,もともと学校が備えているとして次のよう に述べている。 まず第一に,ある知識を学習することは, それを教師と子どもが意識するしないにか かわらず,学校の外でその知識を絆として 組織されている知的コミュニティとの関係を 結ぶことを意味している。(佐藤, 1996, pp. 138-139) 第二の共同的な性格は,学校での学習が共 同で行われる点にある。学校それ自体が,学 習者の共同体なのだ。学習を見守り援助する 先達 (教師) の存在,学習を励ましあえる存 在,異質の経験と文化を持ちながら,その経 験と文化を共有し合い成長し合える同僚の存 在,それらの人々の存在が,どれほど個人の 学習と成長を励まし,それを豊かにするかは,
あらためて言うまでもないだろう。ある人の 知性や文化は,その人の属する共同体の知性 と文化の一つの表現なのであり,その人の知 的成長は,その共同体の文化を育てる実践 の所産であるとも言えよう。(佐藤, 1996, p. 139) この二つの人間関係,共同体の関係を合わせ て考えてみる。佐藤は,教室の人間関係の第三 の相として述べたところで,学習共同体は意識 し,対象化しないとつくることができないと指 摘している。しかし,教室における共同体とい う点では意識するしないにかかわらず「知的コ ミュニティ」の関係は結ぶことができると述べ る。 この「知的コミュニティ」と「学習共同体」 はどう異なるのだろうか。知的コミュニティの 例が次のように挙げられている。 たとえば,「水俣病」の学習は,「水俣病」 を語らずにはいられないコミュニティに暗黙 に組織されることであり,そのコミュニティ への参加を準備することである。同様に, 「源氏物語」の学習は,「源氏物語」に込めら れた女性の悲哀や嫉妬や幸福の感情に共感せ ずにはいられないコミュニティ,その文章の 美意識を尊重せずにはいられないコミュニ ティに暗黙に組織されることであり,そのコ ミュニティの担い手へと成長することを意味 している。学校の学習は,そういう共同的な 性格を獲得してこそ,個人の側でも社会の側 でも,その現実的な意味と力を獲得できるの である。(佐藤, 1996, p. 13) つまり,「知的コミュニティ」とは,知識や 価値観・美意識などを共有するコミュニティと いうことである。第三の相においては,具体例 は語られていないが,「地縁という絆ではなく, 言語 (知識) と信念 (倫理) の共有による社会 的連帯と知的想像力という絆で結ばれた自覚化 された共同体である。」とあるように,こちら も知識と倫理を共有しているコミュニティであ る。加えて第三の相では,「一人ひとりの子ど もはそれぞれ自立した個人的な世界を生きる」 や「一人ひとりの子どもの主体的な実践におい て」とあるように自主性・主体性が意識されて いる。しかし,ここで疑問となるのは,知識は 共有することはできても,はたして「〜せずに はいられない」という形で,倫理・価値観・美 意識は共有できるのだろうか。佐藤は,「学び の共同体」において次のように述べている。 協同的な学びは,かつて教室に広く普及し た集団学習でもなければ班学習でもない。協 同的な学びが集団学習や班学習と最も違う点 は,集団学習や班学習が,集団もしくは班の まとまりを重視するのに対して,協同的な学 びにおいて学びの主体はあくまでも個人であ り,グループ活動の中で決して一体化を求め ず,むしろグループ内の個々人の考えや意見 の多様性を追求している。学びは同一性から は生まれてこない。学びが成立するのは差異 においてである。(佐藤, 2006, p. 41) このように,グループでの協同的な学びにお いて,グループの答えとしてひとつに絞ること はしないと述べている。しかし,「源氏物語」 の文章を美しいと思うコミュニティへ暗黙のう ちに組織されるというのはどういうことなのだ ろうか。また,ここで考慮しておかなければな らないことは,そのどのようなコミュニティへ 誘導するかという取捨選択は教員が握っている のである。 近代は「主体」の時代であった。学校におい ても「主体」というものがどういうものかあま り議論されずに流行のように「個の自立」や 「自己責任」といった言葉が使われるように なった。他にも「個性」「自己実現」「自分探 し」「他者」などがある5)。 しかし現状を見てみると,そもそも,それほ ど学校において多様化することが認められてい るのだろうか。そして,その多様化の実態はど ういったものなのだろうか。 土井隆義は,若者が「キャラ化」していると 述べる。 若い人たちは,グループのなかで互いの キャラが似通ったものになって重なりあうこ
とを,「キャラがかぶる」と称して慎重に避 けようとします。それは,グループ内での自 分の居場所を危険にさらすからです。しかし, グループ内に配分されたキャラからはみ出す ことも,また同時に避けようとします。(土 井隆義, 2009, p. 11) さらに,土井はこのような人間関係を「若い 人たちの人間関係は,自己肯定感を維持するた めの基盤」とし,「異質な人間とは,適度な距 離をもって付きあったり,あるいは対決を試み たりするのではなく,そもそも最初から認知対 象の圏外へと押し出してしまいがちです (pp. 20-21)」という。 そして,ここで言われている「キャラ」を次 のように説明している。 今日の若い世代は,アイデンティティとい う言葉で表わされるような一貫したものとし てではなく,キャラという言葉で示されるよ うな断片的な要素を寄せ集めたものとして, 自らの人格をイメージするようになっていま す。アイデンティティは,いくども揺らぎを 繰り返しながら,社会生活のなかで徐々に構 築されていくものですが,キャラは,対人関 係に応じて意図的に演じられる外キャラにし ても,生まれもった人格特性を示す内キャラ にしても,あらかじめ出来上がっている固定 的なものです。したがって,その輪郭が揺ら ぐことはありません。状況に応じて切り替え られはしても,それ自体は変化しないソリッ ドなものなのです。(土井, 2009, pp. 23-24) もし,学習者の現状がこのようなものである とするならば,「個人の尊重」や「主体」など の言葉がどれほどの力を持ちえるのだろうか。 学校教育において指す「多様化」というものが, キャラの増幅を指すことではない。学校教育が 「個性」を存在論的に学習者が持っている個性 というものとして定義するのであれば,この 「キャラ」は個性の範疇には入らない。 このように考えると,国語科で文学を扱う価 値に関してしばしば言われる「自己変革」など が成立するのだろうか。 5.「読むこと」におけるコミュニティ 読むことにおいて,読者反応理論の登場は, 大きな変化をもたらす契機となった。トップダ ウン式での教授では,正解を学習者に伝えるた め,教室の集団性は伝達の効率性として役立っ ていた。しかし,読者反応理論の登場によって 教室に読みの複数性の可能性が生まれた。それ と同時に学習者の「主体」「存在」「主観」をど のように捉えるのかが並行して議論されている。 しかし,学習者としての読者は,本当に「主 体的な読者」になれているのだろうか。 ひとりの人間は,身体は確かにひとつでも, 内面にはさまざまな「自分」を持っている。そ して,コンテクストによって顔を使いわける。 教室の中,学習者は学習者としての役割を期待 され,それを遂行するように教えられる。 これは,テクストと学習者の関わりとしても 現れる。学習者は,個人としてテクストに触れ る。そして,次に学習者として,あるいはその クラスの一員としてそれが相応しいかを判断す るのである。学習者として,より教室の読みと して相応しいものが意見・感想として発表され るのである。教師と学習者という関係では,教 師が正解を持っているという了解が存在する。 また,学校という場は,道徳的な行為をよしと するため,テクストの読解もより道徳的な読解 へと流れがちだ。 スタンリー・フィッシュ (1992) は,ある生 徒の「このクラスにテクストはありますか」と いう発言をめぐって解釈がいかに共同体によっ て縛られたものかを論じている。 フィッシュは次のように述べている。 無限に多様なる意味への恐怖が成立するの は,文が特定の状況に埋め込まれず存在する 場合,あるいは,どの状況の函数としても受 け取ることができるものとして存在する場合 にかぎられる。そのような状態があるとすれ ば,それこそ規範的な状態というものであり, これが浮動し,不確定ということになれば混 乱は必至だろう。が,そのような状態はあり えない。文は状況においてのみ現れ,その状
況の内部では,発語の規範的意味は常に明ら かであり,少なくとも到達可能である。ただ し,状況が変われば,その発語はもはや同じ 発語とは言えぬにせよ,同様に明白で到達可 能なまた別の規範的意味を持つ (私の同僚の 経験は最適の例である)。(フィッシュ, 1992, pp. 85-86) つまり,コンテクストによって言葉の意味は 規定されるということである6)。教室において, このコンテクストは学校という教育空間である。 中学生や高校生になると生徒歴の長い彼らは, 十分にこのコンテクストを理解して,直感的に 反応する。 しかし,学習者の中で,読みの基礎となるの は,学習者に相応しい読みではないと切り捨て られた方の読みである。学習者としての読みは, 謂わば,学習者がこれまでの自分の学習者とし ての経験から作成した「正しい学習者マニュア ル」を参照して加工を施したものである。 そして,教室の中では,この学習者がそれぞ れ作成した学習者としての読みが交流される。 一方,個人としての読みはそれとして別に放置 される。 久しぶりにあるテクストを読んで,以前読ん だときのことを思い出すことがある。このとき, 教室の中で学習者として読んだものではなく個 人として読んだ印象が思い出されていることの 方が多い。 このことの原因は,教室でのテクストの読み が学習者の読みの予想の範疇を出ないことが考 えられる。つまり,「正しい学習者マニュアル」 を使って自分自身の解釈を加工した学習者は, それが,正しい解釈として教師に受け入れられ ると,そのまま忘れてしまうのである。 教室で多人数が集まって意見を発表しても似 たり寄ったりの意見しか出ないことが多いのは 教室での読みが教育空間というコンテクストを 共有して読んでいることが大きな要因として考 えられる。 しかし,先ほど指摘したように学習者は,教 育空間というコンテクストでの読みと並行して, 修正前の読みを持っていることが多い。 個人としてテクストを読んだときの印象とい うのは,その学習者の持つ価値観や経験と強く 関係している。 テクストから世界を創造していくということ は,受身ではない。自分がこれまで社会とのか かわりの中で獲得してきた言葉の意味を使用し, テクストから世界を創造する。 テクストの解釈は社会の規範によるとフィッ シュは言う。規範の異なるひと同士が同じテク ストを読むことで新たな規範が生成されるのだ。 また,バフチンは「生きた社会・イデオロ ギー的具体性としての,矛盾をはらんだ見解と しての言語は,本質的に個人の意識にとっては, 自己と他者の境界に存在するものである。言語 の中の言葉は,なかば他者の言葉である。(バ フチン, 1996, p. 67)」と言い,小説の言葉はさ まざまな領域の言葉を含む多声的なものだと主 張した。 テクストと読者は単なる一対一の閉じられた 関係ではない。「読む」という行為によって読 者もまたその一部になる。読者もまたポリフォ ニーの一部なのである。 前田愛は文学を読むことに関して次のように 言っている。 文学読書は,作者の意図と覚しきものへの 限りなく接近して行かなければならない生真 面目な苦行ではなく,ひとつのテクストから も無限に多様な意味を生産することが可能な たわむれの自由として考えられるようになっ たのだ。あるいは,時間軸にそった直線的読 書のいたるところに裂け目を入れ,流動し生 成する意味の織物に編成しなおすことが要請 される。(前田, 1993, p. 15) しかし,これまで述べてきたことは,個人へ と還元してしまうのならば,それは個々の読者 と作品との関係性の問題であり,解釈主義の領 域を出ない。 文学を扱う目的を文学の解釈の仕方や言語事 項の獲得と捉えるのならば,「個人」「主体」に 根ざしたこれまでの方法でも習得できるだろう。 しかし,「物語る」という行為や「人間性」へ の問題を扱うのならば,教室の集団性を活かし 「コミュニティ」を加味した「関係性」の読み
へと転換していかなければならない。 それは例えば,テクストと自分自身の関わり 方 (自分自身のイメージスキーマ) を把握する ことはひとりでテクストに向き合っているとき には困難だが,教室の集団性がそのことに気が つく契機となるのではないだろうか。 6.教室内コミュニティの可能性 読むことに関して言えば,読者論の登場によ り学習者ひとりひとりの読みを大切にしようと いう流れが出てきた。それは国語科だけの流れ ではなく,学校教育全体が「個人」や「主体」 といったことを前面に押し出し,児童中心主義 的な教育が求められてきている。 しかし,言語教育と文学教育の論争や,主観 主義か客観主義かなどの論争を経てなお解釈主 義的傾向が強く,学習者にそれぞれ解釈させて みたもののそれをどう扱うか,扱いかねて結局 トップダウン式にまとめてしまったり,収集が つかなくなってしまったりする事態が出てきた。 初発の感想にはじまり,クラスで解釈し,個 人に還元するというサイクルは,サイクルを描 けてはいないのではないか。過程,過程で分断 され,テストではクラスの誰の発言でもなく教 員が書いた板書の内容を覚えて写して終わる。 授業中に活発な意見交流が一見あるようでそ こでは乖離感・孤独感が拭えない。 ジャン=リュック・ナンシーは次のようにい う。 まず存在者の存在があり,次いで存在者そ れ自身が互いと―共にあるわけではなく,存 在者は ―― そして存在するすべてが ―― その存在において,互いと―共にあるものと して規定されるのである。複数的で単数=特 異的〔singulier pluriel〕とは,各々の存在者 の単数=特異性〔singularite〕が,それが複 数のものと―共に―あることから分離不可能 なことであり,というのは,実際一般的に, 或る単数=複数性から分離不可能だ﹅か﹅ら﹅であ る。(ジャン=リュック・ナンシー, 2005, p. 80) 個人から始まる教育観を脱却し,学習者の存 在を捉えなおさなくてはならない。そして教室 コミュニティを固定化された閉塞的なものとし てではなく,さまざまなコミュニティの一部で あるとし,学習者がさまざまな「キャラ」を持 つことを肯定的に捉えていくことで,閉塞感を 脱し,自己変革の機会が得られるのではないだ ろうか。 注 1 ) 佐藤学の提唱する「学びの共同体」は,佐藤が 「今やこの改革のスーパーバイザーは 50 名近 くに達し,それぞれのスーパーバイザーが協 力し合って,300 校ほどのパイロット・スクー ルを支え,約 3000 校が挑戦している。」(佐藤, 2011, pp. 96-99) 2 ) 存在よりも,存在そのものよりも共同のものと は何だろうか。われわれは存在している。わ れわれが分有しているものとは存在,つまり 実存である。それゆえわれわれが現に存在し ているのは,実存ならざるもの [非―実存] を分有するためではない。また,実存ならざ るものは分有されようがない。だが,存在と は,われわれが共同で所有するような一個の ものではない。存在は,そのつど特異な実存 とまったく違わない。したがって存在は共同 所有物という意味での共同のものではない, それは共同 [en commun] 存在しているのだ, と述べることができるだろう。存在は共同に 存在している。(ナンシー, 2001, p. 157) 3 ) 柳田治男は,教室が「学習機能,給食機能,娯 楽・遊技機能,自治機能,作業機能など,さ ま ざ ま な 活 動 が 累 積 す る 場 (柳 田, 2005, p. 150)」となり「『学級』は,機能集団としてそ の機能を限定するのではなく,多様な活動を 導入した生活共同体,あるいは感情共同体へ と,大きく変容させられたのである。」と指摘 している。(同上, pp. 155-156) 4 ) 私が私の身体を知ることは常にないだろう, 「コルプス エゴ」が留保なき確信であるまさ にその場において私は私を身体として知るこ とはないであろう。その反対に,私は他者を 身体として常に知ることだろう。唯一身体の みが他者であるがゆえに,他者は身体である。 他者はこの鼻,この皮膚の色合い,この肌の 肌理を持ち,この体つき,この窪み,この胸 の痛みを持つ。他者にはこの重さがある。他 者にはこの匂いが香る。どうしてこの身体は このようであって,他のようではないのか。 なぜなら,それは他なるものであるからだ
――そして他者性とはこのようにテ ル ―あること に存し,様々な末端に到るまで露呈=遺棄さ れたこの身体のこれこれであることの際限― なさに存するからだ。一つの身体の諸々の 特徴線=牽引線ト レ の尽きせぬコルプス〔集成体, 共同―体〕。(ナンシー, 1996, p. 25) 5 ) 私が私の身体を知ることは常にないであろう, 「コルプス エゴ」が留保なき確信であるまさ にその場において私は私を身体として知るこ とはないであろう。その反対に,私は他者を 身体として常に知ることだろう。唯一身体の みが他者であるがゆえに,他者は身体である。 他者はこの鼻,この皮膚の色合い,この肌の 肌理を持ち,この体つき,この窪み,この痛 みを持つ。他者にはこの重さがある。他者に はこの匂いが香る。(ナンシー, 1996, p. 25) 6 ) ウンベルト・エーコも『エーコの読みと深読 み』の中で,過剰解釈について批判している が,その一方でその反論として同著の中で, ジョナサン・カラーは,解釈不足は批判され るべきものだが,過剰解釈は,新たな知見を 生み出すものに為り得るものであると述べて いる。 参考文献 ウンベルト・エーコ リチャード・ローティ ジョ ナサン・カラー C. ブルック=ローズ 柳谷 啓子 具島靖訳 (1993)『エーコの読みと深読 み』岩波書店 (原書 1992) 佐藤学(1996)『カリキュラムの批評―公共性の再構 築へ―』世織書房 佐藤学 (1999)『学びの快楽―ダイアローグへ―』 世織書房 佐藤学 (2006)『学校の挑戦 学びの共同体を創る』 小学館 土井義隆 (2009)『キャラ化する/される子どもたち ―排除型社会における新たな人間像』岩波書 店 ジャン=リュック・ナンシー 大西雅一郎 (1996) 『共同―体(コルプス)』松籟社 (原書 1992) スタンリー・フィッシュ 小林昌夫訳 (1992)『こ のクラスにテクストはありますか 解釈共同 体の権威 3』,みすず書房 (原書 1980) ジ ャ ン=リ ュ ッ ク・ナ ン シ ー (Jean-Luc Nancy) 著 西谷修 安原伸一郎訳 (2001)『無為の共 同体―哲学を問い直す分有の思考』以文社 (原書 1999) ジャン=リュック・ナンシー 加藤恵介訳 (2005) 『複数にして単数の存在』松籟社 原書 1996 前田愛 (1993)『文学テクスト入門』,筑摩書房 ミハイル・バフチン 伊東一郎訳 (1996)『小説の 言葉』,平凡社 (原書 1975)