先人の美挙とロシアとの交流
古場公章
1Kiminori Koba
1 1対馬沖海戦先人の美挙継承委員会
Abstract: 対馬沖海戦時、沈みゆく艦船から脱出したロシア兵が上陸した長崎県対馬市西泊地区。 ロシア兵に対してあたたかく接した先人たちを、私たちは誇りに思っています。 今を生きる私たちは、先人の思いを大切に伝記集やマンガ冊子の発刊、語り部などを行いながら、 なお後世に伝えていく努力をしています。もしかすると歴史の中に埋れるかもしれない史実を 大切にしています。さらに、両国戦没者慰霊祭やロシア関係者との交流を続けながら、地域づく りに努めています。1 ロシア兵上陸と西泊の人々
皆さんは、日本海海戦って聞かれたことあります か。世界的には対馬沖海戦と呼ばれています。 1905 年、明治 38 年 5 月 27 日福岡県宗像市沖ノ島 から対馬沖にかけて日本とロシア帝国の間で戦いが ありました。 上対馬町西泊地区殿崎にはロシア政府が建立し た日露慰霊の碑があり、両国の戦没者名が刻まれて います。ロシア側4830 名、日本側 117 名です。この 殿崎には、翌28 日午後ロシア艦船ウラジミール・モ ノマフ号から脱出した4 隻のボートが接近、うち1 隻の30 数名がまず上陸しています。麦刈りの最中だ った西泊の人々は、作業の手を休めロシア兵を取り 囲みました。地元民はカマなど持っておりましたが、 大男を前に後ずさりしています。しかし、二人の女 性が前に進み、安心院シゲは、枝を折り煙草を吸う 真似をしましたが、手を横にふります。犬束ナカは、 お昼に食べた竹製のコバチを見せながら、食べるし ぐさをしましたが首を横に振りました。男たちは、 両手を前に口に持ってきたので水が飲みたいと察し、 近くの水場に案内しました。男たちはむさぼるよう に水を飲みました。 その後、陸路と海路に分かれて、西泊集落に移 動。4 隻のボートと小蒸気船あわせて 163 名が、小 さな井戸の周りに集まりました。地区の女性たちは、 油などで汚れた衣服を洗う者、それを干す者、井戸 に水をよそから汲んでくるもの、自宅から着物を持 ってくるものもおりました。また、自宅からなけな しの米と孝行芋(サツマイモ)持ちより、握り飯と 芋を蒸してロシア兵の前に差し出しました。初めは 毒が入っているのではないかと思い、手をだしませ んでしたが、地元民が食って見せたあとは、むさぼ るように口に運びました。 次は宿の用意です。近くに宿はないので、多く の方を泊めるため、二階建ての住宅6 軒に分宿する ようになりました。 翌日には、医者を呼び傷の手当などしています。 その日の午後、対馬の竹敷要港部からの御用船越後 丸が沖合に到着、ロシア兵は乗ってきたボートで御 用船まで漕いで行くようになり、岸を離れるとき、 ボートのオールを直立させ感謝の意を表しました。 住民も自船や近くの丘の上から見送ることになり最 後まで手を振り、無事の帰国を祈りました。 6 年後、このことを後世に伝えていこうと記念碑 建立の話が持ち上がり、翌年1912 年、明治 45 年 5 月殿崎岡碑が完成しました。記念碑には、連合艦隊 司令長官東郷平八郎から頂いた文字と西泊のできご とが刻まれました。2 慰霊祭や先人の思いを伝える
海戦から100 年を迎えた平成 17 年、2005 年 5 月 には、民間団体「対馬歴史顕彰事業推進委員会」主 催で洋上や陸上での慰霊祭や巨大レリーフの除幕な ど行われました。この後、毎年両国の戦没者名が刻 まれた日露慰霊の碑の前での慰霊祭が行われるよう になり、地元西泊地区も平成24 年、2012 年から慰 霊祭を行っています。この年は、明治45 年に出来上 がった殿崎岡碑から100 年。現記念碑も文字が風化 してきたため、先人の思いをなお後世に残そうと追 碑の建設がすすめられました。私は準備段階の平成 22 年 4 月から、記念碑に関することや先人の思いを 後世に伝える事業を行ってきました。 平成21 年 11 月には、伝記集「妣と記念碑」を地 元の郷土史家が出版。平成28 年 3 月には、ロシア兵 上陸の様子などまとめたマンガ冊子を発行。市内小 中高生に無料で配布しました。平成28 年 8 月には、西泊地区や慰霊祭の様子など収めたDVDが完成。 また、情報誌の発行や殿崎での語り部を行っていま す。