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構造問題と規制緩和

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序 構造問題と規制緩和

寺西重郎

1980 年代から 2000 年代初頭にかけての日本経済は,マクロ的にバブルの 発生,破裂から不況・デフレへという激変を経験したが,ミクロ的には,そ れ以前の政府介入を前提とした経済システムからの脱却を図るための構造改 革政策を行ったという特色をもつ.

本書は,この間の規制緩和と構造改革の経過を,国際政治環境,政治過程, 行財政改革,雇用政策,企業統治システム,改革の通時的経過,競争政策, 航空規制緩和などのさまざまな側面から分析したものである.この問題では, 金融分野の規制緩和がそのマクロ的インパクトを含めてきわめて重要である が,金融に関しては金融に関する分科会(不良債権,銀行政策,土地政策分 科会,本シリーズ第 4 巻『不良債権と金融危機』)で詳しく取り上げてある ので,この分科会では規制緩和・構造改革の一般論にかかわる問題をのぞい て,とくに金融自由化に 1 章を設けることはしなかった.

本書におさめられた諸論文の主題は,規制緩和・構造改革をもたらした諸 要因の解析とそのプロセス,規制緩和・構造改革の効果の分析にある.とく に規制緩和政策が何を目的に,何が契機となり採用され推進されたか,は諸 論文の主要テーマをなす.この点に関して,諸論文の論調はさまざまである が,構造改革・規制緩和政策は,当初は行財政改革と民営化を目的に進めら れたが,次第に,とくにバブル後の不況が深化するとともに,景気回復ない し経済成長を目的として規制緩和すなわち競争制限的措置の撤廃ないし軽減 を中心に行われたことは間違いないであろう1)

しかしながら少なくとも現在までそうした構造改革は目立った成長促進効 果を上げることなく,かえって経済各階層の格差を拡大し,社会構造の不安 定さを増幅したという批判を招いている.仮に成長効果が十分でなかったと

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すると,このことは規制撤廃の不十分さによるものかもしれない.しかし第 7 章の議論によれば,規制緩和はすでに 6 割も完了している.競争制限的規 制撤廃が資源配分の効率化や成長にさしたる効果をもたなかったとすれば, その規制はそもそも何を目的に導入されていたのだろう.また,格差の拡大 はなぜ生じたのであろうか.規制されていた部面で独占的利益が生じていた とするなら,そこでの規制の撤廃は独占利潤をワイプ・アウトするだけで, 競争的利潤率に戻るだけである.そのことが深刻な格差につながるとは考え られない.こうしたことは,撤廃前の競争制限的規制の果たしてきた役割が 何であったかについて,改めて考えることを必要ならしめていると思われる.

以下では,諸論文と少し視点を変えて,規制緩和の対象となった規制シス テムがそもそもどのような理由で導入されたのか,すなわち規制緩和を必要 とされた経済システムがなぜ出現したのか,どのような考えから人々はそう した規制システムを受け入れたのか,ということを考えてみたい.こうした 考察を行うことによって,なぜこの 20 年間われわれは日本経済の規制緩 和・構造改革を必要としたのか,その成果は期待された目的に照らしてどう 評価されるべきか,という問題に対して何らかの手がかりが得られると思わ れるからである.

しばしば,かつての競争制限的規制は,開発主義を信奉する官僚層が キャッチアップを目指して導入したものだという主張がなされる.たとえば C. ジョンソンは戦前期より日本の官僚層にはそうした思想が根強くあり, 高度成長期にそれが全面的に開花したのだと主張する.また野口悠紀雄は, 戦時経済運営の経験をもった官僚層が,戦後も追放されることがなかったこ ともあって,戦時的な規制が存続しているのだと主張する.こうした主張に よれば,最近の状況は,開発主義による競争制限は,企業が十分なモチベー ションをもったキャッチアップ期にはある程度有効に機能したが,キャッチ アップが終了するとともに企業は規制に安住し,非効率性の温床になったと 説明されることになろう.最近では,池尾和人が金融システムに関して同様 な議論を展開している(池尾[2006]).

ジョンソンの議論は戦前期からの政府の経済介入の経緯をたどることに よって,野口の議論は戦後のシステムと戦前のシステムの形式的類似性を指 摘することによって,根拠づけられている.彼らの議論の不十分さについて

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は,すでに Teranishi[2005]で指摘したところであるが,ここで改めて指摘 したいのは,開発主義によるかよらざるか,あるいは市場主義によるかよら ざるか,という問題はすぐれて一国の社会秩序の選択の問題であって,官僚 層がどう考えるか,官僚と政党にいずれが力をもっていたかの次元の問題で はないということである.

こうした問題は,全国民の多数意見ないし中位値投票者の決定するイ シューである.このことは,最近の総選挙で小泉内閣の「改革なくして成長 なし」というキャッチ・フレーズないし理念に立った郵政民営化論が雪崩現 象的な政治の旋回をもたらし,官僚機構と政治のあり方を大きく変えたこと からも明らかであろう.後に触れるが,この理念自体かなり問題含みなもの であるが,ここで重要なことは,こうした問題は,少なくとも完全な普通選 挙制に立つ民主制をとっている日本では,政治学でいうところの中位値投票 者の決定することであるということである.また政治学では,しばしば官僚 と政党・政治家を比較して,どちらが決定力をもっているかという議論がな されるが,それは狭い利益集団政治の執行にかかわる権力配分については重 要な問題であっても,ここで問題とする社会秩序の根幹にかかわる問題につ いては無関係である,ことも重要である.4 対 6 で官僚が力をもっていよう と,7 対 3 で政党が力をもっていようと,この種の問題に関しては官僚・政 党ともに有権者の意向に従うしかないのである2).開発主義のもとで補助金 の配分にあたって,官僚がいかに権力をもっているとしても,彼らが開発主 義的手法の採用を決めたわけではない,ということが重要なのである.ジョ ンソンや野口の議論はこの点の完全な誤解のうえに成り立っている.

高度成長期の経済システムは,たしかに経済全体にわたって競争制限措置 が張りめぐらされた経済であった.そのなかで,通産省の原局や業界団体が 規制の調整役を務めたことはよく知られている.しかしこうした仕組みが本 当に開発主義を目的に組み立てられたものであるかについては今一度ていね いに考えてみる必要がある.寺西[2003]で詳論したように,このシステムは,

序 構造問題と規制緩和 xv

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フルセット的な産業構造と消費者の容認を前提として,春闘方式と一体と なって,産業ごとの付加価値とその利益・賃金への配分を決定する所得再分 配のメカニズムとして機能した.この同じ仕組みが,開発主義的な計画的資 源配分に都合のよい環境を提供し,通産省などの産業にかかわる省庁が補助 金や金融の割り当てシステムとして利用したことも事実である.問題は,こ うした仕組みがはたしてどちらを真の目的として導入されたかである.

この問題に完璧な答えを用意することは容易ではないが,筆者は,この競 争制限的規制の仕組みは,開発主義ではなく,本来は所得再分配機構として 導入されたと考えている.すなわち国民は所得再分配の機能のゆえに,この 仕組みを支持し,それを官僚が開発主義的に用いて,権力をふるうことを容 認したのだと考える.理由は次の点である.

まず,この競争制限的規制の仕組みは,労働と資本の階級対立を民主主義 のフレームワークのなかに組み込むという西欧的な社会民主主義路線をとる 代わりに,第 3 の所得再配分機構として導入されたという面が強いことに注 意せねばならない.近代社会においては国家は暴力の利用に独占権をもつ. しかしその他の点では,国家は,1 つの制度(instituion)であり,それ自体 の組織の存続とレントの最大化を目的として行動するというホッブス ノー ス流の定義から出発すると,近代的市民国家の構築においてまず取り組むべ きは,政府と民間との利害関係の調節のための適切なインターフェイスの構 築である.

この点を,終戦直後の日本について見ると,そこには 3 つの選択肢があっ た.第 1 番目の選択肢は,地主・商工業者といった旧富裕層・旧中間層を リーダーとし,地方社会を結集軸とする戦前期的な名望家秩序の復活である. しかし,この方法は,農地解放で昭和恐慌以来のこの階層の疲弊,農地解放 による地主の消滅,財閥解体・財産税の導入などのショックでリーダーたる 名望家階層が崩壊したために選択することはできない状況であった.加えて, 戦後の中央・地方の関係は,地方分権を形式的には謳ってはいたが,実質的 には地方が中央に従属するというシステムであり,地方自体が自律性を発揮 することはきわめて難しいものであった.したがって第 1 の選択肢は実現の 条件が備わっていなかったといえよう.

2 番目の選択肢は,労働と資本という階級を結集軸として,国家に接する

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という社会民主主義の選択であった.この点は,戦後しばらくはもっとも実 現の可能性が高いと見られた方法であった.とくに米国のニューディーラー が集結していた GHQ が労働運動を支援したため,労働組合法の成立と相前 後して労働組合組織率・組合数は急増した.ほとんどの組合で会社との間で 経営協議会が作られ,生産管理を含む激しい労働攻勢が日本の大企業を覆っ たのである.運動の中心となったのは社会党系の総同盟と共産党系の産別会 議であり,なかでも産別会議は 1946 年 10 月の構成で多数のストライキと労 働者参加を実現するなど戦闘的であった.

これに対して,財閥解体,公職追放,過度経済力集中排除法などにより活 動を著しく制限されていた経営者側は「経営権」を主張し,雇用の確保・企 業の再建合理化をてこに次第に攻勢を強めた.こうした激しい労使対立は, 講和が近づき経済復興が軌道に乗るとともにおさまったのであるが,その鍵 となったのが,企業別の第二組合の結成・ブルーカラーの地位待遇の引き上 げ・生活保障給の導入などの労使協調路線へのシフトであり,おおざっぱに いうと日本型企業システムの成立であった.こうした背景のもと,最終的に は 1955 年の春闘共闘会議の結成で,社民主義という選択肢は実質的に消滅 したと考えられる.

こうして第 3 の選択肢である,競争制限措置による産業別・企業別の付加 価値の調整,そのもとでの所得分配の調整という仕組みが浮上してくる.産 業別の業界団体,通産省などの原局,審議会のシステムと春闘による賃金決 定システムは,労使対立の時代のなかからそれに代わる政府と民間のイン ターフェイスとして生成してきたのである.参入制限,輸入制限,価格規制 などの競争制限的措置のうち戦時から存在したものは,その目的を変更して 用いられることとなったし,業界団体や審議会は戦前からのものが形を変え て利用された.こうした仕組みは,日本型企業システムとも親和的補完的で あった.

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間諸部門の所得再分配調整の目的で作られたものなのである.

なぜこうした所得再分配方式が戦後システムにおいて導入されたかを考え るには,戦前期の経済システムが基本的にレッセ・フェール・システムとし て構築されたことに思いを致さなければならない.第 1 章で詳しく検討する ように,明治期の指導者たちは市場が社会経済システムや広く倫理観と社会 秩序に対してもたらす深刻な影響について慎重な考察を展開したが,それに もかかわらず,市場システムの経済効率への影響についてはきわめて楽観的 であった.戦前期経済システムは,こうした市場の効能に関する楽観論と民 の力に関する自信のうえに組み立てられた.労働市場はきわめて流動的であ り,銀行システムでは銀行の新立と淘汰に通じて発展にともなうリスクを負 担した.新興企業・産業に関しても幼稚産業に対して申し訳程度の保護が差 し伸べられるのみで,基本的に自由競争のロジックが貫かれた.しかしこう したシステムが,昭和恐慌に象徴される機能不全と危機を招き,そのシステ ムを支えてきた地主・商工業者といった中間層・名望家秩序の没落をもたら したとき,自信と楽観は深い懐疑に切り替わったと考えられる.戦後のシス テムはそうした懐疑と反省のうえに構築されたという側面が強い.

それゆえ,戦後の経済社会システムの制度設計にあたって,もっとも重視 されたことは,かつての名望家秩序に代わる政府・民間のインターフェイス の構築であり,昭和恐慌の悲惨を再び引き起こさないシステムの安定性で あった.終戦直後の混乱を乗り切るには,傾斜生産方式的な計画的手法ない し人為的なボトルネックの除去が必要であることは,誰しも認めたところで あった.しかし戦争直後の混乱を乗り切った後は,日本経済が長期的には, 高度成長の軌道に乗ることを疑うものは少なかったのではないだろうか.農 村には,戦前に比べてはるかにもの作りと機械操作にたけたすぐれた労働力 が大量に存在した.また生産年齢人口の増加による高貯蓄・高投資のメカニ ズム,すなわち人口ボーナスによる成長メカニズムは 1930 年にすでに始動 していた.

また,15 年の戦争期間中に外国との技術ギャップが拡大し,技術導入に よる生産性向上の機会が広範に存在した.こうした状況下で,人々がわざわ ざ経済開発を目的とした経済システムを構築しようとしたと考えることはい かにも不自然である.もちろん官僚,とくによくいわれるように戦時経済を

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主導した官僚はそこの絶好の活動機会を見出し,自分に都合のよいシステム を作ろうとしたであろう.しかしそうしたことを経済全体のあり方として決 定することは官僚の力の及ぶところではないことは,上述のとおりである. 戦後の経済システムを開発主義的に構成しようとする国民的コンセンサスが あったとか,強力な官僚がそう仕向けたなどというのは,C. ジョンソンな どが作り上げた架空のイメージでしかない.

ちなみに,終戦直後のこの時期,経済システムの構築に関して,貿易主 義・自由主義を主張する中山伊知郎と開発主義・統制主義を主張する有沢広 巳,都留重人などの間で論争があった.前者は,貿易と工業化による成長を 主張し,後者は国内経済の計画的開発を主張したとされる.この場合の開発 主義は国内経済開発の重視という意味では後のいわゆる開発主義とはニュア ンスが異なるが,非市場的・計画経済的手法を用いるという意味では現在の 用語法と通じる.香西[1981]はこの論争が貿易主義の勝利に終わったとして いるが,香西の判断もわれわれの主張を裏書きしているといえよう.

念のために,金融システムに関して,上記の点を敷衍しておこう.戦後の 金融システムはよく知られているように,銀行中心の金融システムである. これについては,資本市場規制を中心とした開発金融的な資金割当機構,銀 行の安全を重視した護送船団方式,メインバンクシステムによる日本的企業 システムと補完的な情報処理システムの 3 点が戦後金融システムの特色とし てあげられる.問題は戦後の金融システムを構築するにあたって,これら 3 つのうちどの特質が制度設計の直接的な目的とされたかである.詳論は寺西 [2009]に譲るが,終戦直後の銀行政策においてもっとも政策に重点が置かれ たのは銀行システムの安定性であった.すなわち護送船団方式である.戦前 期にリスク資金の供給システムとしての銀行制度の設計が無残な失敗に終 わったことへの反省がここに読み取れよう.

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[2005]は経済発展において,資源の配分効率の果たす役割はかぎられている と主張し,いっそう重要なのはショックに対する適応効率であるとしている が,日本の場合は銀行システムのもつ適応効率と企業システムの企業特殊技 能形成による組織効率が成長の基本として選択されたのである.

さて,日本経済がかつてもっていた競争制限的規制が所得再分配機構とし て構築されたものであり,またその目的は適応性に優れた安定性重視の経済 であったと考えるならば,ここ 10 年近く急進展した規制緩和政策がさした る成長促進効果をもたなかったことは,いわば当然のことといえるであろう. 「改革なくして成長なし」というキャッチ・フレーズは強い支持を集めたが,

小泉内閣が実際に行ってきたことに重ね合わせて解釈すると,それは日本の 経済システムないし成長メカニズムの本質に対する重大な誤解に立っている としかいいようがない.すなわち,日本経済のこれまでの成長は,経済と社 会の安定性ないしは適応能力に対する信頼が,高い貯蓄意欲や教育投資と技 能蓄積に関するインセンティブを支えてきたのであって,マージナルな領域 での利潤機会の放棄はそのためのコストであった.

小泉内閣は,マージナルな利潤機会の追求こそ成長の源泉であると見なし たのだが,それは誤った理解であったのではないだろうか.改革の対象をさ れた規制は,短期的な独占利潤を目的としたものではなく,長期的な社会へ の信頼を醸成し,人々の長期的視野での行動を可能にすることにより成長を もたらす仕組みとして導入されたものであった.それらの規制の本来の目的 は,格差発生の防止であったのであり,その撤廃が格差を拡大させたのは当 然である.しかも日本経済の強さの基本である,適応効率と組織効率を破壊 の危機に陥れてしまっている. 現在もっとも必要とされることは,規制緩 和による成長などという安易な幻想にとらわれることでなく,日本経済成長 メカニズムの基本である実物面での力を強化することである.教育の改革, 人口減への対処,そして技術革新への積極的な投資である.こうした基本に 立った政策と並んで,適応効率と組織効率を確保するための新たなシステム を構築することが求められている,といえよう.

以下各章の内容を要約しておこう.

「 戦前日本における市場秩序の受容と否定――構造改革・規制緩和路

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線の経済思想史的背景」寺西重郎

寺西論文は,わが国における「市場秩序の受容」に関する経済思想史的な 観点からの考察である.その基本的視点は,次のようなものである.市場と いう抽象的な経済システムの変化に直面するとき,人々の行動は,その価値 判断とともに,市場の機能と市場のもたらす便益とコストをどのように理解 していたかに依存して決まる.そしてその理解の程度は,その時代の経済学 による市場分析の水準と普及の度合いに依存する.したがって,市場秩序の 肯定・否定の問題を考えるには,その時代ごとに最先端の経済学が市場の機 能をどの程度解明していたか,そしてその分析が日本の政策決定者の間でど の程度周知のものであったかを確認しながら進まねばならない,というもの である.まず,明治維新期の市場秩序の導入を福澤諭吉と田口卯吉の諸説に よって検討したうえで,彼らが少なくとも J. S. ミルのレベルの経済学を理 解していたことを確認したうえで,彼らの論考によって代表される明治期に おける市場秩序の受容は,単なる産業経済の利害の問題ではなく,経済効率 の根拠をどこに求めるのかの問題,さらには,一国の道徳と社会秩序のあり 方の問題であったととらえる.

次に,1930 年代における市場秩序の否定の過程をラジャンとジンガレス の「大反動」の考え方によって考察し,少なくとも日本における市場秩序の 否定は,彼らのいうような単純な利益集団政治の枠組みではとらえきれない こと,問題は金解禁実施にともなう,経済社会のすぐれて基本的な規律づけ の問題であったことを指摘する.今般の改革についても,改革は財・労働・ 金融等の広範な側面に及び,市場秩序そのもののあり方が基本的イシューで あり,優れて政治経済学的問題である,とされる.小泉内閣の構造改革・規 制緩和路線の背景には,市場秩序に対する期待とともに,政府の能力と動機 に対する強い不信感があった点をアダム・スミスの市場観と対比しつつ評価 している.

「 国際政治と日本の規制緩和,構造改革――国際政治の変化と外圧」 古城佳子

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しているかを分析している.冷戦終結により,米国が軍事的安全保障よりも 経済を重要な課題に位置づけるようになり,保護主義的な政策と相まった同 盟国への経済的要求(数値目標の設定)や円高等の市場を通じた圧力が高 まった.90 年代初めごろまでは,日本経済が好調であったため,外圧に呼 応する国内の選好は弱く,外圧の政策決定への影響はかぎられたものだった が,バブル後は,規制緩和や構造改革を不況からの立て直しの方策として評 価する国内のアクターが外圧と呼応するようになったため,外圧が政策決定 に効果的に働くようになり,摩擦が大きく報じられることはなくなった.

「 規制緩和の政治過程――何が変わったのか」恒川惠市

恒川論文は,規制緩和を,80 年代から 2000 年初にかけて日本が取組んだ 主要課題と位置づけたうえで,いくつかの産業部門における規制緩和の政治 過程を分析し,その進度がさまざまな分野や産業で異なった理由を考察して いる.大規模小売業,酒類製造販売業,貨物自動車運送業,電気業,石油業, 電気通信業の 6 部門を分析した結果,米国の外圧は大規模小売業において例 外的に重要な役割を果たしたが,一般的にはあまり効いていないこと.利益 政治や関与する官庁数といった政治的要因の方が市場変化よりも規制緩和に 体系的影響を与えていること,等を明らかにしている.電気業と大規模小売 業では,他の 4 部門に比べ,規制緩和の進行が遅れているが,総じていえば, 「鉄の三角形」はアルミや錫に変容しつつあるという.

「 財政赤字の政治学――政治的不安定性,経済バブル,歳出赤字」村 松岐夫・北村亘

村松・北村論文は,過去 25 年間に急激に膨張した日本の財政赤字を政治 的要因(与党幹部が直面した政治的不安定性と国際政治的要因)から説明す る試みである.同論によれば,日本の財政赤字の拡大は,政治的不安定性や 国際政治経済的圧力に直面した政策決定者が課税強化ではなく借入れ依存に よって増大する行政需要に対応したことで説明できるという.また,国防と 年金以外の政策領域で中央省庁が政策実施を地方自治体に依存しているため, 政府部門の支出規模を維持・拡大する場合,中央政府は地方自治体での円滑 な支出を保証する必要があり,その結果,新規施策の導入や行政需要の拡大,

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相次ぐ減税措置等で財源不足に陥ることが予想される地方自治体に対し中央 政府が財政的な補塡を続けた,と論じている.

「 労働市場・雇用システム改革」安井健悟・岡崎哲二

安井・岡崎論文は,80 年代以降の日本の労働市場・雇用システム改革の 流れをまとめ,それに関する分析・評価をサーベイしている.労働・雇用分 野における改革の基本的方向は,第 1 に内部労働市場から外部労働市場への 労働力需給調整の中心の移動への対応,第 2 に,働き方の多様化への対応で ある.第 1 の対応の効果の評価としては,常用雇用者が派遣労働者に代替さ れることを確認する実証研究はないこと,自己啓発の賃金への効果について 一致した結論が得られていない一方,教育訓練給付には賃金を高める効果が ないこと,雇用保険制度については,失業給付が再就職する誘因を損なう可 能性があること等を紹介している.また,第 2 の対応では,労働時間規制で 労働時間が短縮したこと,男女雇用機会均等法のもとでも,差別による男女 賃金格差が残っていること等の分析結果を照会している.

「 コーポレート・ガバナンスに関する法制度改革の進展」秋吉史夫・ 柳川範之

秋吉・柳川論文は,わが国のコーポレート・ガバナンスに影響を与えた重 要な法制度改革について,経緯と進展を紹介するとともに,その影響を考え, またコーポレート・ガバナンス改革が企業に対しどのような影響を与えたか に関する実証分析をサーベイしている.

バブル・デフレ期の制度改革は,大まかな方向性は規制緩和に向いている が,周到な計画に基づいて進められたというよりも,経済の危機的状況に対 応し,ある種の景気対策として行われてきた.その結果,広範囲な改革が全 体として経済にどう影響したかは見えにくい構造になっており,実証分析で も,必ずしも大きな影響を与えたという結果は得られていないという.法制 度の影響は,より長期的に出てくる可能性もあり,今後の研究が待たれると ころである.

「 構造改革における規制改革・民営化」江藤勝

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江藤論文は,バブル・デフレ期の日本で生じた規制改革・民営化の総論で ある.具体的には,最初に規制改革・民営化の開始および構造改革を目的と するようになったことの経緯・背景を概観し,次に,規制改革・民営化の最 近に至るまでの手続き・方法・対象分野・進捗状況の概略を述べ,さらに改 革によって生じたとされる経済的成果をまとめている.改革の結果,95 年 からの 10 年間で日本の規制の強さは 6 割程度低下し,多くの経済的成果を 生んだという.一方で,住宅・労働・運輸・教育分野等で事件・事故等も発 生し,若年層の所得格差拡大の一因になっている面も見られるという.

「 規制改革と競争政策」上杉秋則

上杉論文は,バブル・デフレ期の日本における規制改革と競争政策の評価, およびそれが日本経済のパフォーマンスに与えた影響の検証を行っている. 日本の規制改革は,英米に 10 年以上遅れた 90 年代に進展したが,競争強化 策はそれからさらに 10 年遅れた 2000 年代以降に本格化した.規制改革は日 本経済のパフォーマンスに資する重要な施策だが,その効果は競争政策の強 化と補完・補強関係にあることが理解されていない.上杉論文は,規制改革 と競争政策の補完関係にかかる認識の遅れが日本経済のパフォーマンスの低 さの要因になっていることを示したうえで,規制改革・競争政策の強化は, 即効性はなくとも,必ずや経済パフォーマンスの改善に資するはずであり, 着実に実施すれば手遅れということはないと主張している.

「 航空規制改革と日本型政策決定システム」秋吉貴雄

秋吉論文は,規制改革のなかでもとくに航空輸送産業のそれについて,な ぜ 80 年代後半の第 1 次規制改革では「管理された競争」に止まったのに対 し,90 年代後半の第 2 次規制改革では「自由競争」が実現したのかを,日 本型の政策決定システムの観点で説明する試みである.同論によれば,航空 産業の改革の有り様は,①政策決定の場,②認識コミュニティ,③強制的圧 力,の 3 要素から構成される「知識の経路」という視点で説明できる.政策 決定の場が閉ざされた場から多元的な場に変容し,認識コミュニティにおい て研究の発展を背景とした規制緩和推進コミュニティが形成され,新しく設 定された多様な場(首相直轄型会議等)が改革に向けた圧力を保持するよう

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になったことが,第 2 次改革の実現を可能にしたという.

参考文献

池尾和人[2006],『開発主義の暴走と保身――金融システムと平成経済』NTT 出版. 猪口孝・岩井奉信[1989],『族議員の研究――自民党政権を牛耳る主役たち』日本経済新

聞社.

香西泰[1981],『高度成長の時代――現代日本経済史ノート』日本評論社. 辻清明[1969],『新版 日本官僚制の研究』東京大学出版会.

寺西重郎[2003],『日本の経済システム』岩波書店. 寺西重郎[2009],「戦後金融システムの成立」(近刊). 村松岐夫[1981],『戦後日本の官僚制』東洋経済新報社.

North, Douglass [2005], , Princeton

Univer-sity Press.

Teranishi, Juro [2005], , Edward Elgar.

参照

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