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『彼女の美しい瞳のために』に見るオバルディアの世界 : 日常を題材にして造型されるサプライズとその笑い

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『彼女の美しい瞳のために』に見るオバルディアの

世界 : 日常を題材にして造型されるサプライズと

その笑い

著者

森本 達夫

雑誌名

商学論究

57

2

ページ

55-88

発行年

2009-09-10

URL

http://hdl.handle.net/10236/4109

(2)

 序

オバルディア劇 現代フランス演劇の古典、『舞台の上のオバルディ ア 、日常を題材とした『彼女の美しい瞳のために』に仕組まれている 《突飛さ incongru》 1918年生まれの現代フランス劇作家ルネ・ド・オバルディアde Obaldia は、シュルレアリスムの系統を引く(とされている)詩人であるが、 1960年代から劇作品も発表するようになった。フランス演劇はその過去にお いて、リアリズム演劇を、そして1950年代に不条理演劇を経験している。そ して、「その後」を模索するフランス劇の世界において、現在オバルディア の作品は、「現代劇の古典」と見なされて高く評価されており、とりわけ、 客席に笑いを引き起こすその斬新でユニークな言葉使いは「オバルディア語」 と命名されてよく取り上げられている。 筆者は2009年4月から3ヶ月の予定でパリに留学中であるが、丁度4月14 日からパリのプティ・テベルト劇場 Petit    で『舞台の上の オバルディア Obaldia sur 』と題するオバルディア本人が登場する約1 時間の催しものが行われていて、それを見ることができた。これは、彼が自 作の詩や散文の抜粋を朗読したり、また劇を録画した昔のフィルムの一部を

彼女の美しい瞳のために』に見る

オバルディアの世界

日常を題材にして造型されるサプライズとその笑い

− 55 −

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スクリーンに映写しながら上演当時のエピソードなどを披露するというもの であった。 そのポスターでも、 「現代劇の巨匠du  contemporain」 としてこの作家が紹介されていた。劇場の入り口にはこの催しものを取り上 げた記事が掲示されていたが、特にフィガロ関連が大きく取り上げ、この90 歳のアカデミー・フランセーズ会員の健在振り、ユーモラスな彼の語り口、 そして何よりも、その詩や散文、また劇作品にそれこそ溢れかえっている表 現の妙を絶賛していた1) オバルディアの作品は、デビュー当時はいわゆる不条理演劇の流れの中で 捉えられていたが、この作家は、当初から「不条理」という言葉には距離を おいていた。デビューして約半世紀経った今回のイベントに際しても、記者 のジャック・ネルソン Jacques Nerson が「あなたはしばしばイヨネスコや ベ ケ ッ ト な ど の 不 条 理 演 劇 と 関 連 づ け ら れ て き ま し た が . . . On vous a souvent  du  de l’absurde, Ionesco, Beckette, etc」 という質問をしていたが、それに対してオバルディアは、「不条理という言 葉よりも神秘という言葉の方が私にはピンとくる。人生は私にとっては不条 理ではない。人生が不条理とは余りに不条理過ぎる。 イヨネスコやシオラ ンなどを私はよく知っているが、彼らはどちらかというとニヒリストだった のではないか Je suis plus sensible la notion de  celle de l’absurde. La vie, pour moi, n’est pas absurde. Ce serait trop absurde qu’elle soit absurde. Alors que Ionesco ou Cioran, que j’ai bien connus, nihilistes」と 語っている2) これもオバルディアらしい言葉使いであるが、この「神秘」とい うすこし時代がかった言葉は、筆者がこの現代作家と談話をしている時に何 回も耳にしていたが、彼は今回も口にしている。この言葉を本論のテーマに はしないが、気になるところではある。ともあれ、このような《表現の妙》 1) これらの記事は「Obaldia surに関する記事」として末尾にまとめて記載する。 2) Nerson, Jacques (2009). Cioran は浅学の筆者が初めて聞く名前であるが、ネットで

検索すると、「Michel Emil Cioran 1911年ルーマニアに生まれ、1995年にパリで没し た哲学者。戦後イヨネスコやベケットと親交があった人物」である。

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を、この作家は今回の舞台の上で「ある批評家は incongru と評した」と冗 談めかして語っていた。これは、「非常識」、「無作法」、「場所違い」、「規則 からはずれている」、「奇妙」、「突飛」といった様々な意味があるが、要は 「まっとうでない」という意味である。この言葉はオバルディアの気に入っ・・・・ たようで、彼はよく口にしている。この作家は、1993年の第7回モリエール 演劇祭(Nuit des    。その年度の演劇界で功労のあった人を 表彰する式典である)で最優秀劇作家賞を授与されたが、その時の挨拶で、 彼は「人生は incongrue だ」とこの時は深い感慨を込めて真顔で語っていた。 当初この催しものは20回の予定であり、5月9日までの筈だったが連日超 満員であり、5月30日まで延長となった。5月30日の最終日にもう一度見て おこうと予約の電話を入れたが、「チケット売り切れ、7月4日まで更に延 長」と聞いた。まさしく大ブレークである。 この作家は今から丁度10年前の1999年、80才の時に『彼女の美しい瞳のた めに Pour ses beaux yeux (1幕11場)を発表したが、そのテキストは2008 年グラッセ社 Edition Grasset 発行の1幕物の劇作品の選集に再録されてお り、今も人気のある作品の一つであろう。 この劇には、どこにでもいるようなごく普通の一組の若いカップルが登場 する。変わったところと言えば、その妻が、「夫にテレビのクイズ番組に出 て優勝してもらって、賞金と賞品を手に入れる。すると理想の人生が実現す る」というヴィジョンを抱いてしまうというところである。夫の方はしごく 常識的であり、自分というものが分かっていて、あまり気乗りではない。し かし、妻は、このいわばドンキホーテ的目論みのために、それは憂い顔の老 人が昔日の勇壮で雅な世界に迷ってしまった故ではなく、現代の消費社会に おける経済的な豊かさにあこがれてのことであるが、パートナーである夫 (さしずめサンチョ役)の尻をたたく。 妻が理想の人生を本気で求めだしたら、それを見る女性の観客は痛快であ・・・・・ ろうが、男の観客は、とてももたないと認める筈で、これは「笑って見てい・・・・・・・ られない芝居」になるだろう。フランス小説の世界では、フロベール作の

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『ボヴァリー夫人』の主人公エマが女ドンキホーテとされている。彼女は、 平凡な田舎医者との結婚生活に飽き足らず、「今・ここ」よりもより良い人 生を求める。そして、「夫に難手術に成功してもらって、私は名医の妻とな・・・・・・・・ る」という夢を抱く。夫がそれに失敗すると、今度は浮気に走って恋人に貢 ・ いで借金を重ねる。そして、首がまわらなくなって最後は服毒自殺といった コワイ話もあるのである。

この劇の原題は Pour ses beaux yeux である。これを直訳すると『彼女の美 しい瞳のために』となり、この作品の邦題とした。しかし、この言葉は日常 会話の中で、「(あなたは良い人だから)タダで」という意味でよく使われる ものである。たとえば八百屋の主人が、「イチゴを0.5キログラム」注文した 客に、この言葉を口にしながら、すこし多めに袋に入れてくれたりする。し かしこの劇では、妻がその美しい瞳を武器に、夫にクイズ番組に出て優勝す るようにせがむという、「婦唱夫随」のパターンが現出するのである。そし てこの土台無理な注文に夫はついに応じてしまう。以後、彼がクイズ番組に 出て優勝するべく、夫婦して連夜そのリハーサルに励むことになる。これも 絶対にありえない話ではない。つまりは、子供に夢を託した教育ママ的企て・・・・・・・・・・・・ の1バージョンなのである。 しかし、これだけでは、「まあありうる話」の一つにすぎない。そこで、 本論では、作家が言う incongru を手掛かりにして、この『彼女の美しい瞳 のために』の劇世界にアプローチし、オバルディア劇を現代のフランス演劇 の古典と評価させている所以をその一端なりとも明らかにしたい。 この incongru はマクロ的には劇の構成全体に関わるものであろうが、ミ クロでみると、それこそその場その場の一つ一つのセリフやアクションの中 に仕掛けられており、妙味はその細部の「オバルディア振り」にある。スト ーリーをたどるだけではこの作家の作劇術と笑いを捉えることができないの である。そこで、ストーリー全体はひとまずおいておき、この劇の冒頭の第 1場を先ず取り上げる。この夫婦が本番に向けてリハーサル、すなわち「ク イズごっこ」をしているシーンである。そして、先ず、幕開きの舞台設定、

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次いで登場人物の様子、そして彼らの会話を見ていき、そこに組み込まれて いる《incongru》と目に映る細部を洗い出して、それらから生まれてくる笑 いの性格(natures)と質()そして機能(fonctions)を分析してい くことにする。舞台の上の二人は大真面目なのであるが、その場があくまで も《一般家庭のリビング、夜の夫婦水入らずの時間》であるために色々脱線 (作者が言う incongru なアクションの一つであろう)がおきていき、客席 に笑いを生むことになるのである。



彼女の美しい瞳のために 第1場の

1.もの/2.俳優/3.言葉

笑いの性格 natures du rire 1. 舞台設定 ものによる現実再現 2. 俳優と小道具 3. 言葉 ①唐突な幕開き ②男性脳 vs 女性脳 ③夫 vs 妻 ④コンテキストからの 逸脱 ⑤脱線 ⑥「今・ここ」からの逸脱 ⑦固有名詞が引き起こすサ スペンス、現実に紛れ込む非現実、宙吊り 1.舞台設定 ものによる現実再現 幕開きの舞台設定はおおよそ以下のようなものである。(テキストには Pour ses beaux yeux dans l’Avant-  No 1050, 1999 を用い、筆者の 試訳をつけておいた。 第1場はこのテキストで4頁足らずの短いものである。) 夜。乱雑な印象を与える質素な書斎兼客間。大きなテーブルの上に本や雑誌、 百科事典、新聞の切り抜きなどが山積みになっており、辞書の上にコーヒー沸 かしが載っている。カミーユ(夫)は本に埋もれてメモをとるのに熱中してい る。ドドリーヌ(妻)は種々の《ハリウッド風》の下着や夜着にアイロンをか けては丁寧にそれを折りたたんでいくが、その合間にメモを取り上げては読み 上げ、カミーユがそれに答える。(p. 9.) 大道具と照明によって舞台の上の世界の状況、その場所と時間が具体的に 規定されており(夜。乱雑な印象を与える質素な書斎兼客間)、現代のフラ

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ンスに生きているつつましい若いカップルの家庭とその少しだらしない暮ら しぶりが、視覚的(空間的即時的)に客席に対してリアルに再現(re− そこに現にあるものとする)されている。 2.俳優と小道具 男性性 vs 女性性の出来合いのイメージ しかし、普通の家庭にしては、本や雑誌、百科事典、新聞の切り抜きなど が所せましと山積みになっており、この舞台を目にした観客はすこし奇異な 印象を受けるだろう。 カミーユとドドリーヌの様子がト書きに書かれているが、男優と女優の演 じる人物像がコントラストになっている。勿論、この幕開きで見受けられる のは、「外に出て額に汗して働く男性 vs 家庭の中の天使の女性」ほど前時代 的なものではない。第1場の後半でカミーユが仕事の辛さを愚痴ると、ドド リーヌはすぐさま「私も歯医者の医院で助手をして働いている。 楽な仕事 じゃないわ云々」と反論している。しかし、「頭脳労働をする男性 vs そこに あるモノと関わって手を働かせてする仕事(家事)をしている女性」という 古典的なパターンの一つが視覚的に造形されているのである。 「家事をする女性」ということでは、古では、イエスを饗すためにせっせ と働き、今もフェルメールの画集でその姿を見ることができるマルタなどが 思い出される。ここではその手仕事なるものは、下着にアイロンをかけるこ とであるが、それは「ハリウッド風の下着や夜着」となっている。つまりは、 アメリカ映画の往年のスター、マリリン・モンローが演じた女性のイメージ と結びついた、ゴージャスで sexy なものであろう。勿論これはこの場から 浮きあがっている。この小道具で作者は、《美しくありたいという永遠の女 ・・・・・・・・ 心》の、それも、アメリカナイズされた現代のフランス社会での典型的なそ のフォルム(これの発祥地である本場のアメリカでは今や流行遅れ?) を舞 台の上に造形しているのである。 オバルディアは台本の初めの人物紹介で、カミーユに関しては、「30才前 後の水道局の職員。際立った特徴はなし」、その妻ドドリーヌについては彼

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とは対照的に、「カミーユよりも若くコケットで、すこし馬鹿なのが可愛ら しい gentiment sossotte (p. 9.)」と指示している。これをふまえて、男優は 風采の上がらない夫を演じることになる。一方、その妻役の女優は、天心爛 慢で魅力的な身体をもった女性のイメージを演じていくことになるだろう。 つまりは、50年代のアメリカで大ブレークしたモデルのベッティ・ペイジ系 の役柄である。現代の日本では、さしずめ「お馬鹿キャラ」と呼ばれている ものがこれに近いだろう。 作者は、世間のこういったカップルを「コピー」し、それをカミーユとド ドリーヌのロール(役)に「ペースト」している。いわゆる男性性 vs 女性 性の紋切り型の「今日的バージョン」のパロディーを開幕で視覚的に仕組ん でいるのである。 ベルクソンがその著書『笑い』の中で、「生けるものの上に貼りつけられ た機械的なものを感知して人は笑う」と唱えている。筆者がこの劇を見た時 も(1999年)、ベルクソンのこの言葉をなぞって言うと、幕開きで、「生身の・・ 男優と女優がその役に従って、紋切り型の男性像と女性像の現代フランスに おけるイメージを機械的に演じている舞台の様」を目にして、それだけで観・・・ 客はもう大笑いであった。このパロディーは、この後もこの劇全体のアクシ ョンの基調となっていく。 3.言葉のやりとりが始まり、この劇世界が動き出す。

Dodeline (avoir soigneusement  une combinaison, lisant) Bien que manchot . . . bien que manchot, quel est du XVIIe

 qui donna au monde un chef-d’oeuvre ?

Camille (sans ) Cervantes. Don Quichotte.

Dodeline (avec jubilation) Ouais ! (Un temps. Elle s’attaqueune culotte) Dis-moi le nom de la qui passa devant le soleil le 19 mai 1910 24 mil-lions dede la terre?

Camille (sans ) Halley. La de Halley.

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qui trouva la mort dans un accident d’avion ? Camille Yves Montand . . . Pardon, Marcel Cerdan.

Dodeline ( ) Ouais, Marcel Cerdan; pas confondre le chanteur avec le boxeur. (Un temps. Elle  sa chemise de nuit) Quel est le plus grand ennemi du serpent ?

Camille La langouste . . . (Se reprenant ) La mangouste. Dodeline ( ) fait deux fois que tu inverses, Camille! Camille Oui, mais j’aitout de suite.

Dodeline serait quand mieux de commencer par la bonne  . . . Surtout puisque tu la connais ! (Camille grommelle entre ses dents, tourne la page d’un magazine) Quand tu seras!la ,ta  devra tomber comme un couperet !

Camille Tu parles comme si je devais aller!la guillotine!

Dodeline Ne "# pas, Camille, tu n’es pas devant des milliers de  $% -nous ne sommes que tous les deux. (Un temps assez long) Tu ne veux pas&ton pantalon?

Camille (avec ' ) Vraiment, Dodeline, ce n’est pas le moment! Dodeline Bon ! Bon ! . . .("pour le repasser . . . Qu’est-ce que tu vas encore

chercher ? . . . Toujours en $$)*ton pantalon . . . Quand tu te   !Supercrack, ton pli devra tomber droit comme un de justice. Au fait, est-ce que tu as)%aux Lamoignon? . . . (Silence farouche de Camille) Tu sais que Charles vient)"au barreau de Paris ?

Camille (+ , -le nez dans un dictionnaire) Non, je n’ai pas )%aux Lamoignon.

Soupirs de Dodeline. Elle passe dans la  .avec la planche . repasser et toutes ses affaires. Profitant de l’absence de sa femme, Camille se  et, devant sa table de travail, se livre .des exercices physiques. Dodeline (voix off ) Et les Goths ?

Camille regagne vivement son/ -tel un   pris en faute. Camille (dans une sorte de panique) Les Goths !

Dodeline ( ) Est-ce que tu sais la )00$qui existe entre les Wisigoths et les Ostrogoths ? (pp. 9 et 10.)

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ドドリーヌ (丁寧にシュミーズを折りたたんでからカードを読む)17世紀の、 片腕の自由がきかない作家で傑作を生み出したのは? カミーユ (躊躇せずに)セルバンテス! ドンキホーテ ! ドドリーヌ (大喜びして)イエーィ! (間。パンティーにとりかかる ) 1910年 5月19日に地球から2400万キロメートルのところで太陽の前を横切 った彗星は? カミーユ (すぐさま)ハレー、ハレー彗星! ドドリーヌ イエーィ! スッゴーい! (間) エディット・ピアフの愛人で飛行 機事故で亡くなったのは? カミーユ イヴ・モンタン、ごめん、マルセル・セルダン! ドドリーヌ (やはり「イエーィ!」と歓声を上げはするが、苛立ちのまじった ものである) マルセル・セルダンよ。歌手とボクサーと取り違えた ら駄目よ。(中断してネグリジェをひろげる)蛇の一番の天敵は? カミーユ イセエビ!(すぐさま思い直して)マングース! (フランス語ではイセエビは Langouste、マングースが Mangouste で あり、最初の一音の違いだけである 筆者注) ドドリーヌ (きびしく)これで2回目よ、言い直すのは! カミーユ すぐ言い直したよ。 ドドリーヌ 先に正しい方の答えを言わなくては。知っているなら尚更のことよ。 (カミーユはぶつぶつ言いながら雑誌のページをめくる)テレビに 出た時は、あなたの答えはギロチンの刃みたいにバシッと決まらな いと駄目よ! カミーユ 僕がギロチンにかけられに行くみたいだね! ドドリーヌ いらいらしないで。大勢の視聴者の前にいるわけではないのだから。 私たち二人だけよ。 (すこし長い間)ズボン脱ぐ? カミーユ (カッとなって)そんな場合じゃないだろう! ドドリーヌ もちろんよ! アイロンをあてようと思ったのよ、何考えているの よ。いつもアコーデオンみたいで。スーパークラック(テレビのク イズ番組の名前で、作者の造語である 筆者注)に出る時 、ズボ ンの折り目は裁判官の判決みたいにパシッとまっすぐ下りてなくて はだめよ。ところでラモワニョン一家には返事したの?(カミーユ は不機嫌になって黙り込む)シャルルはパリ弁護士団に登録された

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ようよ。 カミーユ (冷たく辞書で顔を隠したまま)いや、ラモワニョンに返事はしな かったよ。 (ドドリーヌはため息をつき、アイロン台と服を持って隣の部屋に 消える。その隙にカミーユは立ち上がって勉強机の前で体操をする) ドドリーヌ (隣の部屋から)そしてゴート族は? (カミーユは悪いところを見られた小学生のように急いで椅子に座 る) カミーユ (パニックに陥り)ゴート族だって! ドドリーヌ (再び現れて)西ゴート族と東ゴート族の違いは? この夫婦役の二人の俳優の間でやりとりされるセリフをたどり、そこに作 者が仕掛けた笑いを洗い出していこう。 ①冒頭の夫婦のやりとりの内容は唐突で、しかも緊張感を帯びたものである。 「一日を終えた夫婦が夜その日にあったことをしゃべりあう」のとはまっ たく別物である。 「劇の初め」は、その言葉通りそこから劇が始まるのである。しかし、舞 台で繰り広げられることになるストーリー全体から見ると、「その前に何も ない」筈はなく、それは必然的に、「事の途中の1場面」である。それゆえ、 劇の冒頭で、「今・ここに至るまでの経緯」を観客に知らせるための説明が 仕組まれている場合が多い。例として、17世紀のコルネイユ作『ル・シッド』 の冒頭がよく引かれる。 舞台の上にお姫様とその侍女がいる。そして開口一番お姫様が「今の話は 本当? こんなうれしい話なら何度でも聞きたいわ」と侍女に言う。そこで 侍女は、「お姫様が聞きたいということなのでもう一度新たに」延々とその 話をし出す。つまりは、お姫様役のセリフによって、観客は、「そのうれし い話とはどんなものだろうか」と興味を持たされる。そして、侍女役から 「今、ここの状況」の詳細な説明をしてもらうことになるのであり、「お姫 様は現在、ある立派な騎士と相思相愛であるが、二人の親も結婚に同意して

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いる」旨を聞かされる。これだけでは「なんだ、そんな事か」であろうが、 侍女の長ゼリフが終わったところで、お姫様が「幸せすぎてコワイみたい」 と侍女に話す。作者はこのセリフで、お姫様の恋がすんなりとは実らないこ とを観客に暗に予告し、観客に『この先どうなるのか』という期待をもたせ てから、やおら波乱万丈一大ロマンス劇の世界を繰り広げていくのである。 (しかし、この幕開きには、「本当らしさ」を求める当時の批評家からク レームが出た。それは、「身分の低い侍女が、お姫様が知らないことまで何 故知っているのか? もし彼女がお姫様の親の話を立ち聞きしていたのなら、 これは由々しきことである」というものであった。) しかし、オバルディアはこの劇の冒頭では説明を一切しておらず、「彼ら が何についてやりとりしているのか」は不明である。観客は、「はて、自分 はどんな椅子に座ったのかな?といった感」を抱くであろう。そして、この 謎を解こうとして、観客は目の前で進行していくアクションを注意深く追う ことになり、やがて「夫カミーユがクイズ番組に出ようとしており、テレビ のクイズ番組の形式を模して、妻ドドリーヌが出題者になって練習させてい る最中である」という答えを、《発見する》ことになるのである。そして、 部屋が「学者の書斎風」の異様なものになっているのも腑に落ちるだろう。 舞台でこの夫婦はテレビのクイズ番組ごっこをしているが、作者は同時に観 客を「クイズ」に誘い出し、「彼らが今何をしているところか?」という問 いを冒頭で出して観客の意識を宙吊りにし、徐々にヒントを出していくので・・・ ある。 また、一般公開される晴れがましいテレビのクイズ番組の場面をそのまま 《模倣》している(つもりの)二人と、彼らが実際にいる乱雑で所帯じみた 環境とのギャップ・ズレも視覚的に仕組まれている。テレビのゴージャスで 華やかなクイズ番組、いわば晴れの場と、妻が下着にアイロンをかけている 普段の夫婦水入らずの夜の場という、この《二つの異質な場の突飛な重ね合 わせ》に客席では笑いが生まれるだろう。

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②男性脳 vs 女性脳の紋切り型のコントラストがそれに続く。 テレビのクイズ番組では、出題の分野が決まっていない場合があり、どん な質問が飛び出してくるか見当がつかないものもある。ドドリーヌが出す問 題も、文学(セルバンテス)、天文学(ハレー彗星)、有名人(マルセル・セ ルダン)、生物(マングース)という具合に、その間に何の関係も整合性も ない分野・事物に飛んでいく。しかしこれらのアトランダムに出される問い に答えていくカミーユの出来不出来、そしてそれに対するドドリーヌの反応 を通して、いわゆる《男性脳 vs 女性脳とされているもの》の典型がその度 に現われてくるのを観客は認めるだろう。 男性であるカミーユは、文学・天文学といったハイブラウな分野に強いが 芸能の分野はすこし弱く、また、溜め込んだ知識をアウトプットして言葉に する際の運動能力にすこし難がある。一方、(多分女性週刊誌を愛読してい る)ドドリーヌの方は芸能の分野によく通じており、また夫のすることに一々 口を出す、いわゆる「口のたつ女」である。 ③夫 vs 妻の紋切り型の力関係 テレビの番組では回答者が複数いる場合が多い。彼らは、「正解できる」 と思った場合に名乗りをあげて答えを言う権利を手に入れる。すなわち、 「答える・答えないは自分の判断で」という余地が残されており、その限り では、主体的にゲームに参加できるのである。そして問いは大抵あらかじめ 録音されていたものが流される。 しかしこの形式をカップルで再現するとなると、クイズを出す方の妻とそ れに答える夫の関係はおのずと《対等ではなくなって》くるのである。ドド リーヌは答えを予め知っており、自分のタイミングで出題ができ、そして判 定を下す。さらに彼女は、観客としての反応も受け持つ。そして最終的には、 「夫をリードし、サポートする良き妻として」、つまりは、「指導・批評し、 圧倒的に優位な立場にいる教師」となるのである。一方カミーユの方は、問 題を選択する余地はなく、全てに正解しなくてはならない。彼の存在は、

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「試されるだけのひたすら受け身の生徒の立場」に立たされ、その人格・主 体性は捨象されてしまっている。彼はまるで、目に見えない敵に全面包囲さ れていて弾がいつどこから飛んでくるか分からないといった緊張した状態に あり、そして一つでも答え損なったらゼロに転落するという、絶対絶命の立 場に追い詰められているのである。 「ゲーム」と言うものは普通、同等の条件でなされる。たとえばチェスの 場合、双方の陣地に同じコマが対称的に並べられている。あとは、コマをど う進めるかという最初の発想法、そして相手の出方を睨んでの戦略で勝ち負 けが決まるのである。 しかし、このリハーサルの場では、ドドリーヌとカミーユは、その持ちゴ マも立場も元から対等ではなく、圧倒的にドドリーヌの方が有利なのである。 今、「教師」、「生徒」という言葉を出したが、数学が出来ない生徒のカウ ンセラーを経験したアンヌ・シエティ Anne(2001) が、その著書の中 で、イヨネスコ作の『授業』の一部を取り上げている3)。その劇には引き算 の出来ない女生徒が登場する。教師が彼女になんとか理解させようと、「あ なたに仮に鼻が二つあるとして、私が一つむしりとったらいくつ残るかな」 などと質問をしている。 はそこで、「数学教師 vs 生徒」の関係において、教師の側が唯一の 正解を知っているところから、彼が絶対的な主導権を握る独裁者と化してそ の専横的権力を行使し、恣意的な(としか生徒には思えない)話題を持ち出 しては生徒に質問をしてその精神を翻弄し、暴力的に追い詰めていくモデル を読み取り、その不条理さの凄まじさを語っている。(イヨネスコの劇では 教師が生徒を最後文字通り殺害して幕となる。) このオバルディア劇は日常的な夫婦の言葉のやりとりに終始しており、こ の場面も見る者を震撼させるものではなく、イヨネスコ劇と通底する状況が 出現しているといえばこれは言い過ぎかもしれない。しかし、冒頭で述べた、 3) Cf.Anne (2001), pp. 6375.

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いわゆる「教育ママとその子供」の関係は読み取れるだろう。ともかくも、 「恐いカミさん vs 頭の上がらない亭主」という喜劇的な伝統が、テレビの クイズ番組に出場するためにリハーサル中の若夫婦という現代的な形の中で、 またしてもあぶり出されてくるのである。 ④コンテキストからの逸脱 ドドリーヌはカミーユに、答える際に必要とされるスピードと的確さを 「バシッと落ちるギロチン」にたとえ、その完璧さを求める。それについて いけないカミーユは、ドドリーヌの意図するコンテキストから逸脱し、「答 えを間違って、ギロチンをバシッと落とされる方の立場」に話を持っていく。 彼は、自分の感じている緊張とその辛さを妻に分からせたいのである。しか しドドリーヌはそれに乗らない。彼女に言わせれば、カミーユは「いらいら しているだけ」なのである。 ⑤脱線が続く。 ドドリーヌ 私たち二人だけよ……(少し長い間の後)ズボン脱ぐ? カミーユ (カッとなって)そんな場合じゃないだろう! 現在進行中のコンテキストから出た「二人だけ」という言葉を契機として、 ドドリーヌの意識は、「叱咤するセコンド」から「家庭で夫に安らぎと慰め を与える妻」に横滑りする。ここにも、《言うことに一貫性がない、唐突で ある》という女性に対する紋切り型の評の、一方カミーユには、《終始一貫 しようとする》というこれまた男性を評する紋切り型の評の具体例が仕掛け られている。いわゆる「男性脳と女性脳の行き違い」のバージョンの一つで ある。 ドドリーヌは「アイロンをあてるためよ」といなして返し、カミーユの服 装のだらしなさに話をもっていく。さらに、彼に対する日頃の不満のあれこ れに移っていって、彼の社交嫌い、同僚の昇進(つまりはうだつの上がらな

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い夫へのあてこすり)に話をずらせていく。・・・ これも、女性が、「そう言えば……」を話の途中で挿入して話題を次々に 変えていく、「女性のおしゃべりによくあること」である。彼女は隣室に消 え、その隙にカミーユは気分転換に体操をしようとする。しかしドドリーヌ の意識は「目下の問題」のコンテキストにまた戻ってきていて隣の部屋から クイズを出し、体勢の出来ていなかったカミーユを狼狽させる。 ⑥「今・ここ」からの逸脱 ここまでは冒頭のシーンを逐次追ってきたが、すこし飛ぶことにする。も・ う嫌になってきたカミーユは、「もし君のため、君のきれいな瞳のためでな ・・・・・・・・

かったら……(番組に出たりしない) si cepas pour toi, pour tes beaux yeux . . .」と語る。しかし、ドドリーヌはその言葉を受けて、「そうよ、私の ために、あなたの若い雌馬のきれいな瞳のために頑張っているのよね。 Mais c’est pour moi (. . .) pour les beaux yeux de ta pouliche !」とその向きを 転換して返し、逆にカミーユの背中を押すのである。(テキスト p. 11.)

この劇のタイトルの Pour ses beaux yeux が、「これこれをタダでしてあげ る」という意味であることはすでに述べたが、その表現のバリエーションが この場でカミーユとドドリーヌのセリフの中に出てきている。 また、フランス語の世界では、恋人を動物の名前で呼ぶことが多々ある。 たとえば ma petite caille「私の可愛いうずらちゃん」などはよく使われる。 この慣習にのっとって、ドドリーヌの愛称は「若い雌馬」となっているが、 この表現は、二人の性的側面を暗示するものであり、日本語の「惚れた弱み で」よりももっと直截に、「彼女の(性的な)魅力に参ってしまっていて、 彼女の言うことは何でも聞く」というニュアンスが醸し出されている。事実、 この言葉を契機に二人は官能的な世界に入っていくが……

Camille (sous le charme) Vrai que tu as de beaux yeux.

Dodeline Et mes jambes. (Elle remonte sa jupe) Elles ne sont pas belles, mes jambes ?

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Camille (caressant la jambe de Dodeline) Si, si, des jambes d’albatros . . . (Se reprenant)

Dodeline Tu te rends compte, quand on naviguera tous les deux sur   Indien,   par le cri des mouettes, par le roucoulement des marsouins . . . que l’on fera escaleRio de Janeiro. . .

Camille Rio de Janeiro donne sur l’Atlantique ; rienvoir avec  Indien. () La ville  en 1565  !-Christ. Elle compte actuellement 12080707060habitants. Son carnaval, ses bidonvilles, (. . .).

Dodeline Si tu veux, mon grand. (p. 11.)

カミーユ (魅力に引き込まれて)本当にきれいな目をしている。 ドドリーヌ 足は?(スカートを持ち上げて)足はきれくない? カミーユ (ドドリーヌの足をなでて)そんなことないよ、アホウドリの、(言 い直して)いやアラバスターのようだよ。 (フランス語では「アホウドリ」は albatros、「アラバスター」は  。音声上その差は語末のロスとルだけである 筆者注) ドドリーヌ 優勝して二人でインド洋を船で旅したらどんなかしら。かもめやイ ルカの鳴き声に揺られて、そしてリオデジャネイロに泊まって…… カミーユ リオデジャネイロは大西洋に面しているんだよ。インド洋は関係な い。(機械的に)町は西暦1565年に作られ、現在人口は12807706人。 カーニバルの祭りがあり、そのスラム街は(……)。 ドドリーヌ まあ! もういいわよ……! 「アラバスターのような」は肌をほめる決まり文句であるが、カミーユは 「アホウドリのような」と言い間違ってしまう。「イセエビ」と「マングー ス」と同様、 語末の音が「ル」から「ロス」になるだけで、「鳥の足のよう な、すなわちガリガリの足」となり、話者の意図に反して悪口になってしま う。カミーユは、すでに述べたが、「立板に水」のキャラクターには設定さ れていない。作者はカミーユ役をすこしからかっている。 しかし、ドドリーヌは、言葉の《意味》の介入しない肉感的な世界にシフ トしているのでこれを咎めることもなく、出来上がった雰囲気に浸ったまま

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ロマンチックな世界を夢想して語り続ける。しかしカミーユはまたしても、 ドドリーヌの言葉の中の地理の不正確さにひっかかり、「クイズ番組で優勝 するべく特訓中の自分」に瞬時に戻ってしまう。彼の《思考の中心点》が、 今・ここの現実生活のコンテキストからずれて、暗記した事物と言葉の世界 に「飛んで」しまうのである。 確かに、人間の思考は、時と空間を瞬時に移動する人間の驚異的な活動で ある。しかし、ノイローゼになってしまったカミーユは、この思考の働きゆ えに、その場から浮いた「驚異的なボケ」をおかして妻を鼻白ませてしまう のである。ここでは、ドドリーヌとカミーユという二人の人物の行き違いを 通して、いわゆる「精神 vs 肉体」という抽象的な二元論の具体的な1バー ジョン、すなわち、「男性の、あらぬ方に飛んでしまう精神の活動―心ここ にあらず―」と「女性の、今・ここを中心とした感覚・肉体性の様態」を浮 かび上がらせ、その両者の行き違いを笑いにしているのであろう。 ⑦個有名詞が引き起こすサスペンス ここまではストーリーに展開がなく、逡巡の状態が続いていたが、突然玄 関の呼び鈴がなる。それは、カミーユが話していた「個人レッスンを受ける ことになるかも知れないクイズ番組教授」の来訪を告げるものである。 劇は、教授が登場して第2場となり、そこで新たな局面を迎えることにな る。しかし、すでに第1場の中程で、カミーユからこのクイズ番組教授なる 人物の名前がドドリーヌに(そして勿論観客にも)知らされる。それは「エ チエンヌ=ロンシャン・ド・ボープレ Etienne Longchamp de」とい う人物である。 現代のフランスの観客は、この名前の中の「ド」は元貴族である印、「ロ ンシャン」はパリ西部にある競馬場の名前、また高級ハンドバッグのブラン ド名であることにすぐさま気づくであろう。さらに、「ボープレ」は「美し い牧場」である。これは、日本でいえば、「元華族の優雅な家系の出自であ ること」が誰の目にも明白な名前である。庶民のドドリーヌは、この名前を

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聞いただけで、この人物に反発を感じている。 しかし、まるで絵に描いたようなセレブでリッチな名前である。確かに作 家は、人物をそれらしくするためにネーミングに凝るものである。しかし、 教授のこの名前は、作為的であることが《あまりにもミエミエ》であり、観 客には逆に、「これは偽名で、彼は実はペテン師なのでは」という疑念を抱 かせるものである。この教授が実はペテン師である場合、従来の劇では、彼 は舞台の前に進み出て観客に向かって、「今度のヤツはチョロそうだ。高い 授業料をふっかけてやるぞ」などと傍白するところである。劇の世界では、 「傍白」はいくら大声でしても他の登場人物には聞こえない約束になってい る。しかしここでは、この当の人物が登場する前、その名前がカミーユとド ドリーヌの間で話題になる段階で、観客の意識の中に「彼はペテン師では?」 という疑念を生じさせる仕組みになっている。 さらに、「クイズ番組教授」という職業が現実にはある筈がない。しかし、 この劇の第1場では、「その存在が当たり前の人物」としてカミーユとドド リーヌが教授を話題にしているのである。ここには、「舞台の上の劇の世界 が現実の再現ではなく、あくまでも絵空事のお芝居であることが観客にバレ・・・・・ バレになるように」との作者の意図も組み込まれているのであろう。この劇 と同時に上演された同作者の『犬とオオカミの間 Entre chienne et loup(犬 とオオカミの見分けがつかない [夕暮れ時] という意味がある)』では、動 物専門精神科医が登場する。精神科医は存在するが、動物を相手にする精神 科医は実際にはまだいないと思われる。しかもその医院ではペピータという 雌ザルが家政婦として働いており、患者の取次をしたり、花瓶に花をいけて 毎日せっせと水を替えていたりしている(と医者が語る)。もっとも、この 家政婦がその姿を舞台の上に現わすことはない。彼女は労働組合に入ってい て今ストライキ中なのである(と医者が語る)。 このように、現実をそのままコピー・ペーストしたようなリアリスチック な劇世界に、実際には存在しない人物、事柄がまぎれこんで、そのまま周囲・・ に溶け込んで話が進んでいくのもオバルディアの作品の特徴である。それが ・・・・・・

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とりわけ顕著なのは、彼の短編小説『大尻の聖女エルザ』である。そこに登 場するエルザはサーカスの団員なのであるが、その芸は人間大砲の砲弾とな って宙を飛ぶというものである。「魔術につきもののトリック」なしにであ る。大尻なので火薬が爆発する時のショックに耐えられるのである。筆者は オバルディアに「これはもしかして本当の話か」と聞いたことがあるが、彼 は「そんな筈がないのに、皆同じ質問をする。もしかして事実なのかと思っ てしまうのだなあ」と笑っていた。彼の劇世界では、お伽の世界でしかあり 得ないようなことが、日常的な世界の中で顔を出してそのまますんなりとま かり通っているのである4) 。 『彼女の美しい瞳のために』の世界も、たとえば「ネコが長靴を履いてモ ノを言っても、そこの住民にはすこしも変ではない」フィクションの世界で あり、クイズ番組教授なる人物がいても、カミーユとドドリーヌにとっては 別におかしくはないのであろう。勿論、カミーユとドドリーヌも「フィクシ ョンの中の住人」である。その世界の中で、彼らが現代のフランスに生きる 若い夫婦であるように、教授も本当に教授かもしれないのである。 以上は、「作者が直接観客に知らせる」、いわゆる《作者のめくばせ clin d’oeil de l’auteur》と呼ばれている喜劇の常套法の一つを使ったものであろ う。オバルディアのこのめくばせ―教授の名前―により、観客の目には、以 降この劇は、「教授は実はペテン師であって騙す役、そしてカミーユとドド リーヌが騙される羽目になるのではないか」というサスペンス劇の様相を呈・・・・・・・・・ するものともなるのである。 「騙す人 vs 騙される人」という設定は喜劇の常套法の一つであり、そこ では、「いつペテン師の化けの皮がはげるか」という点に主な興味がある。 しかしこの劇では、そもそも教授が本当に教授なのか、それともペテン師な のかどうかが問題となっている。彼はこれ以後ヒントらしきものを小出しに 4) これは、リアリズム以後の小説の一つのジャンルで、超自然と自然が同一平面で普通 に同居しているような作品の呼称である「マジックリアリズム」という言葉を想起さ せるものである。

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していくが(教授の授業は場当たり的で滅茶苦茶である)、いづれも思わせ ぶりにとどまり、ここでも観客は宙吊りになって、その緊張がだんだん高ま・・・ っていくだけである。そして、事の真相が明かになるのは、劇も大詰めの第 9場になってのことである。この場での、親密になったドドリーヌと教授の 睦言のやりとりの内容から観客は《発見》し、観客は、「やはり教授はペテ ン師だった」と分かってやっと安堵の溜息をつく(だけではおさまらず、ず っとやきもきさせられていた観客は「思っていた通りだ! 俺は賢い!」と 大喜びであった)。 実際、ペテン師が「俺はペテン師だ」と口にするのはおかしいことである が、「傍白である」という約束でそれがまかり通っていたのである。また 「独白の場」という枠の中で、たとえばシェークスピア作の『リア王』の中 でエドモンドが、その真意と内奥の考えを吐露して、「皆馬鹿である。うま く立ち回ってノシていってやるぞ」などと話すこともあった。彼は、自分の 言葉を聞く人物が誰もいない故に、得々と一人で延々としゃべるのである。 「本当らしくない」傍白や独白は劇世界のドラマ性を構築し、それを高め るのに多大の貢献をしてきたのである。しかし、オバルディアはここではそ れらを不採用にしている。そしてその結果、観客にとっては困った事になっ ている。従来の、「騙す人 vs 騙される人」の関係が見渡せる観客用の「高み の見物席」が用意されていないのである。 ともあれ、繰り返しになるが、以上のことは、劇中人物のカミーユとドド リーヌの預かり知らぬものであり、二人の世界とは別の次元にある。しかし、 上に述べたようなメッセージが、舞台の上のコンテキストの上に、《劇世界 の人たちの頭越し》に、おまけとして上乗せされているのである。・・・ 教授の仰々しいネームに最初観客は一瞬、「あれ、はてな?」と、ショッ ク・サプライズを感じるだろう。そして次に、自身の言語感覚と知識・経験 を動員してそこに組み込まれているメッセージを解読し、「作者の出した言 葉の謎解きをしていきながら」オバルディア劇の世界を読んでいくことにな るのである。この章の冒頭でも述べたが、観客は、カミーユ同様、「問題が

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いつ出されるか分らないクイズ番組の出場者の席」に座っているのである。

 アイロニーと優しさのインクで生成される笑い

笑いの質du rire シニカルなストーリー展開/日常生活のどたばた・普段の言葉のやりと りがはらんでいる滑稽さ、笑いを生む条件 現代人の個としての主体 の破綻・空ろさ、「アイロニーと優しさ」 ストーリーは以下のようなものである。 ドドリーヌは、夫のカミーユを、テレビのクイズ番組に出場させようとし ており、カミーユはそれに向けて連日猛勉強をしているが成果が上がらない。 そこで彼は、《クイズ番組教授》エチエンヌ=ロンシャン・ド・ボープレを家 庭教師として雇う。しかしドドリーヌは会うやいなやこの教授に一目惚れを してしまい、ほどなくして二人は関係を持つにいたる。ドドリーヌは教授が 実はペテン師であることを知るが、彼女は満たされており、テレビのクイズ 番組優勝から生じる物質的幸福はもうその念頭から消えている。しかしある 日、カミーユが職場からいつもより早く帰宅し、二人の関係に気づく。怒っ た彼は剣を突きつけて教授を追い出し、さらに錯乱状態になって妻に迫る。 彼女は隣室に逃げ込み警察に電話をして助けを求める。しばらくしてパトカ ーのサイレンが近づいてくるところで幕となる。 この劇を演出したトマ・ル・ドゥアレック Thomas Le Douarec (1999) は 以下のように述べている。

L’ensemble nous offre un Obaldia  mais terriblement cynique. Une cruelle critique de notre moderne de consommation la  comme une   Ses jeux, ses font croire nos personnages que leBonheur(vu la ) est leur   Et ainsi transforment leur petit bonheur simple en cauchemar, Dodeline en mante religieuse, Camille en singe savant. Le Professeur, lui, exploite  . Le petit

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dans le   ne cessera jamais de fonctionner et deviendra un vrai personnage de la  5) 全体が、オバルディアらしい作品、滑稽だが同時に非常にシニカルな作品 になっている。テレビが司祭のように君臨している現代のわれわれの消費社 会の痛烈な風刺となっている。そのクイズ番組とコマーシャルが、この劇の 登場人物に、テレビの画面に映し出される《幸福》が自分たちの手の届くと ころにあると信じ込ませ、彼らの単純で幸せだった小さな家庭を悪夢の世界 に変えていくのである。ドドリーヌはオスを食い殺すメスカマキリに、カミ ーユは芸をする学者猿になってしまう。教授は二人の愚鈍さにつけこんで懐 を肥やす。舞台の上ではテレビが玉座に居座ってずっとついており、この劇 の真の登場人物となるだろう。(筆者試訳) 冒頭で述べた『ボヴァリー夫人』は、少女時代にロマンチックな小説を読 み耽って、「そこに出てきた幸福」が田舎町の路上で見つかると考えた女性 の悲劇を描いたものであろう。一方、この劇が立ち上げているストーリーに は、文学ならぬテレビが伝播させた「幸福というものの現代的なイメージ」、 すなわち、「幸福=取りも直さず物質的な豊かさ」というイメージの弊害が 織り込まれている。これに取りつかれた妻は、愚かな完全主義に支配されて 日頃の生活に不満をつのらせる。夫は妻の夢をかなえるために限界を乗り越 えようと必死で勉強する。エマが夫に失望して浮気に走ることは既に述べた が、この劇でも妻が教授と浮気をするという方向に事が進み、その果てが家 庭崩壊である。 しかし、だからといって、この作品に見られるドラマツルギーは、テレビ の害を説くシリアスな劇のそれではなく、また家庭崩壊を三面記事的な興味 で描いて見せる風俗劇のそれでもない。この劇の冒頭のアクションは、前章 でみてきたように、この夫婦にテレビのクイズ番組を「ごっこ」として大真 面目にさせることによって、逆にこのカップルの日常生活でのどたばたさ加 5) Le Douarec, Thomas (1999), p. 48.

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減、その普段の言葉のやり取りがはらんでいる滑稽さを前景化して笑いを客 席に供するものであった。 かれらの「おしゃべり」の内容には何の新奇さも深みもない。ただ、二人 は「テレビのクイズ番組に向けて特訓中」なのであり、「目的に向かってひ たすら邁進しなくてはならない」はずなのである。そこで、この非日常的で 緊迫したものであるはずの状況に、日頃の言動が顔を出すと、それが何の新 奇さも深みもない普通のものであるだけ余計にこの環境では突飛なものにな るのである。その一つ一つが、観客の目には、「目標に向かって一直線に敷 かれたレール」から脱線するようなショック・サプライズをともなってたち 現れることになるのである。 また、逆に、所詮は夫婦でしていることであり、「結果を出すために、禁 欲的に練習にはげむヒーロー」にはなりえないことも最初から明白である。 結局、上で述べたように(これは第2場の冒頭の出来事であるが)、ドドリ ーヌは教授に一目惚れをしてしまい(p. 12)、ほどなくして肉体関係を持つ に到る。彼女は教授がペテン師であることを知るがそれに頓着することはな い。彼女はもう十分に幸福であり、「クイズ番組で優勝することで実現する (はず)の物質的幸福」は投げ出してしまっている。「愛がすべて」のケー スがフィクションの世界でまた一つ増えたことになる。ベルクソンは「不断 に変化していく現実に柔軟に対応する必要」を説いているが、彼女は、それ こそ「物事にこだわらず、男性よりも柔軟に現実に適応すると一般的に評さ れる女性性」を十全に発揮するのである。 この劇は最後に家庭崩壊という悲劇的な結末をむかえ、演出家は「滑稽だ がシニカル」と述べているが、言葉の順序を入れ替えて「シニカルだが滑稽」 とも言えるのである。 しかし、まさに、この喜劇的などたばた劇の根底に、単純に笑ってばかり はいられないものがあるのも事実である。 カミーユとドドリーヌの言動は、現代のテレビ社会に生きる昨今の若いカ ップルのそれを摸したものであろう。しかしそのアクション全体から観客が

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読み取っていくのは、「テレビに毒された現代の人間」という枠・レベルに とどまるものではなく、古来より論じられ、文学作品にも取り上げられてき たいわゆる「男と女、その行き違い」の1バージョンであろう。カミーユと ドドリーヌはそれぞれ一人の個人として自らを表出していく。しかし、カミ ーユの根底にあって彼を動かしているモーターは、一般的に「男性的、すな わち理性的・精神的」と言われているものであり、ドドリーヌのそれは、 「女性的、すなわち感情的・感覚的」と言われているものである。 カミーユとドドリーヌは、見かけ上は、流動的に《絶えず変化していく現 実に対応して》おり、かれらにとっては至極まっとうである。しかし、その・・・・・・ 流動の様は、観客の側から見ると、カミーユなら、ベルクソンが《機械的な》 と唱える男性性、ドドリーヌもこれまた《機械的な》女性性のパターンから・・・ ・・・ パターンへの突飛なスリップ、ジャンプであり、登場人物の言動は、彼らの 思いとは裏腹に、それぞれの《没個性》を前景化するものである。 ドドリーヌが教授に一目惚れし、程なくして関係を持つにいたることはす でに述べたが、第2場の冒頭の二人のなりそめのシーンを見てみよう。ドド リーヌは、教授の play-boy のルックス(作者がト書きでそう指示している)、 Bebe ! Bene ! というイタリア語、そして How do you do ? という英語、そし て「最近、車をメルセデスからブガッティに変えた(言うまでもなくどちら も高級車)」というセリフで、もう参ってしまうのである(pp. 12 et 13)。 作者が描くこのミーハーさ加減は、「独自の内面性の無さ」の最たるもの・・・・・・・ であろう。こういった「没個性」、「独自の内面の無さ」を観客は感知して、 カミーユとドドリーヌの個としての主体性を支えている(はずの)確かさを、・・・ 観客は「笑いとともに吹き飛ばす」のである。彼らは、「気で病む男」とか 「守銭奴」のように、その性格が偏っていて喜劇的なのではない。その逆で、 その「個性の無さ」や「内面の無さ」、また「一貫性の無さ」などといった、 無いものが滑稽さを生み出す条件になっているのである。作者は、現代の深 ・・・・・・・・・・・・・・・ 刻な問題として取り上げられる「現代人の個としての主体の破綻・空ろさ」 を逆手にとって、それを滑稽で笑いを生む条件に反転しているのであろう。

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しかしその笑いは毒を含んだシニカルな嘲笑などではないし、またブラッ クでペシミスティックなものでもない。

Obaldia surに登場したオバルディアの人物を評してフィリップ・テ ッソン Philippe Tesson は「いたずらっ子の微笑、優しいまなざし sourire ca-naille, l’oeil tendre」と評しているが6)、この言葉はそのままオバルディア劇

の笑いにも使えよう。この記者に、オバルディアは、「ユーモア、それは深 刻さの果てのものである L’humour : une surabondance de 」と語って おり、また、別の記者ジャック・ネルソン Jacques Nerson には、以前から 好きな言葉として、イギリスの作家チェスタートンの「天使が空を飛べるの は、彼らが自分たちを軽く考えているからだ Si les anges volent, c’est parce qu’ils se prennent  la   」というアフォリズムを挙げてい る7)

オバルディアは今回の舞台で、「新しい即興劇集を近々発表する予定であ る」と語っていたが、それは5月末に出版された8)。その裏表紙に、「私は今

回、アイロニーと優しさのインク壺にペンを浸して書いた。J’ai repris la plume,   dans un encrier d’ironie et de tendresse」と彼は記している。 1999年発表のこの『彼女の美しい瞳のために』の笑いも、相手を冷たく突き 放すものではなく、「すこし馬鹿なのが可愛らしいもの」にこの作家が注ぐ 「優しいまなざし」を感じさせるものである。要は、「からかっている」の であり、今はやりの言葉でいえば、「イジッている」のである9) 6) Tesson, Philippe (2009). 7) Nerson, Jacques (2009).

8) Merciavec nous, Grasset, 2009. このタイトルは、この劇集に収められている一 つ目の劇のタイトルから取られている。この劇の舞台設定は、ニュース番組のスタジ オであり、このタイトルは、ニュースキャスターがゲストに「おいで下さりありがと うございます」と謝辞を述べる時の表現である。 9) パリ第3大学博士論文(演劇学1983年)で筆者は4人の作家、アンドレ・ルッサン、 ジャン・アヌイ、ウジェーヌ・イヨネスコ、そしてルネ・ド・オバルディアを取り上 げたが、その審査の折りに、副査の Martine de Rougemont が「ルッサンとアヌイは フランス人だが、あとの二人は違う。(イヨネスコはルーマニア人、オバルディアの 父はパナマ人、すなわちスペイン系である。)あなたの論文を読んでいると、イヨネ スコとオバルディアはたんにコミカルであるだけなのだが、フランス人作家の笑いに

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 劇の楽しみ

「ごっこ」の笑い 西部劇ごっこ劇『ササフラスの枝にそよぐ風 、夫婦ごっこ劇『彼女の 美しい瞳のために 、劇作りの楽しみ 「劇ごっこ」劇 ドドリーヌは夫を裏切るわけであり、その限りでは確かに「悪女」である が、彼女が教授を誘惑する劇の中盤のアクションを見ておこう。 第6場、カミーユが教授からレッスンを受けている。そこにドドリーヌが 突然姿を現して第7場となるが、彼女はネグリジェ姿である。「昼間の疲れ で今まで横になっていた」のだから無理はない。そして、「だからと言って、 一生懸命になっている二人をほったらかしにしていては妻の名がすたる」と 考え直して起きてきたのであり、この「良妻」は二人にドリンクをすすめる。 しかしこの一連の流れが、「スケスケの夜着を身に纏って、自分の容姿を 教授にアピールするため」なのは観客にはバレバレである。いわゆる「女の 計略」の1例であり、そのパロディーであろう。 更に、劇の冒頭でアイロンをかけていた《ハリウッド風の夜着》を、ここ で女優さんが今度は身につけて登場するというサービスも盛り込まれている わけである。フランスのいわゆるブールバール劇では、高名な女優が、一流 デザイナーのデザインした最新流行の服を身につけていることが多く(プロ グラムにそのデザイナーの名前が紹介されている)、舞台に登場するとまず 客席に向かってそのファッションをアピールして見得をきり、観客が拍手を したりしている。その衣装を見るのもこの種の劇の大きな楽しみの一つとな っているのである。オバルディアはこの慣習をなぞって、しかも、それをア メリカナイズされた現代風にアレンジして供しているのである。思いがけな はなにか底意地の悪さのようなものがあるように感じてしまう。ムッシュー・モリモ トはフランス人は意地悪()と思っているのか」と質問をされ、答えに窮し たことがある。今も答えは出ていない。

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いこの「おまけ」に客席は大喜びであった。この劇では、特にドドリーヌ役 を演じる女優が、《お馬鹿キャラ》の様々に変容する姿・姿態を鮮やかに演 じて客席を驚嘆させていたが、ここでは文字通り衣装を変えて演じ分けをし・・・・・・ ているのである。

筆者は幾度も「ごっこ」という言葉を使ってきたが、彼の代表作とされる ものの一つに『ササフラスの枝にそよぐ風 Du vent dans les branches de sas-safras (1965)があるが、これは当初から「ごっこ劇」と評されており、そ の笑いは「ごっこ」に興じる子供の遊びを見る大人の笑いに比されている。 この劇は、アメリカの西部劇物の映画がスクリーンの上に映し出した「西 部開拓時代の、手に汗を握って見入る迫真の一大スペクタクルの世界」を舞 台に移したものである。しかし、「西部劇の世界を本当らしく再現すること は舞台では土台不可能であり、要はそのイミテーションを作っていること」 をバラシながら舞台を作っていき、西部劇の「ドラマチックさ」のパロディ ーを客席に供して笑いを生むものであった。 たとえば、「白人の開拓者の家族の家が、その数無数のインディアンたち に包囲されていて銃撃戦が激しく交わされる。それが一旦中断して静けさが 戻ってホッとしているところ、突然一本の矢が壁にささる。それは『今まで は遊びだ。これから折をみて総攻撃に入る』旨を告げるものであり、皆の間 に緊張が走る」というシーンがある。この流れを文字で読んでも「それで?」 だけだろうが、これを舞台で「再現する」となると大変なのである。たとえ ば読み物で、「肌が雪のように白くて世界で一番きれいなお姫様」とあって も、「ふむふむ」であるが、これを劇にするとなると、「多少とも色白で、多 少ともちょっと可愛い女の子」をなんとか見つくろってこなくてはならなく なるのである。 このインディアンたちの、「その数、それは無数」は勿論最初から無理で あり、結局この場面では舞台にインディアンは一人も姿を現わさない。おな じみの、「大挙して攻めてくるインディアンたちのキャッホーという怒声、 銃声、馬のひずめの音といななき」といった効果音が大音響で流されるだけ

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である。そして目に見えるのは、「男の俳優たちが、馬に跨って走っている (筈の)捉えにくい標的に照準をあわせて引き金を引く、弾が途切れると銃 を放り出す、女の俳優がそれを拾って弾を再装していく……」というわざと・・・ らしい姿だけである。この「銃の引き金を引く瞬間」は、もちろん効果で流 ・・・・ される銃声音とはハナからタイミングが合わない。それは難し過ぎる。 「壁に矢がささる」は、 バシッという効果音を合図に、壁の隙間に折りた たまれていた矢のバネのツメを外してそれを跳ね上らせるというものである。 これを「矢が向こうの遠くから飛んできてささる」という見立てにするので ある。これも音と矢の跳ね上がる動きが微妙にずれてしまう。つまりは、 「西部劇の再現ではなく、その真似をしてみせる遊戯」であるのがミエミエ なのである。特に、「矢がささる」ところでは、観客は「劇特有の機械仕掛 け」のカラクリを目の当たりにして大喜びであった。 さらに白人の一人が「こ、こ、こ、これは、えーと、確か(生唾を飲み込 む)、マジの総攻撃の予告だ」と叫ぶ。小道具の「即物的な動き」が、この 言葉により、ストーリーの中で総攻撃の予告という「意味」を付加される。 そして舞台の上の世界が、前にも増して俄然緊張感をもった局面を迎えるの である。 本論で既に取り上げたコルネイユの別の作品『舞台は夢 Illusion comique の幕開きの第一声のセリフは、「この魔法使い様は、その一言で天と地がひ っくり返るスッゴーイお方なのだ∼」であるが、舞台とは元々、「言葉一つ で状況が一変する場」なのである。しかしこの『ササフラスの枝にそよぐ風』 は、 舞台の上で生み出されることになる (筈の) イリュージョンを、もの/ 人/言葉》を用いて舞台の上に造形していきながら、同時にその「劇作りと いう行為」そのものを《異化・視覚化》して、それと戯れる喜劇作品でもあ ったと言えよう。とどのつまり、「劇ごっこ」の劇だったのである。 『ササフラスの枝にそよぐ風』は、フィクションの世界のパロディーであ ったが、この『彼女の美しい瞳のために』では一転して、子供がその家庭で 日頃目にしたままを模倣して「ままごと」をするように、オバルディアは、

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俳優たちに、大人の観客が日常生活の中で目にし、また自分自身も「夫」、 「妻」としてそれを生きている夫婦の姿を模倣する「夫婦ごっこ」をさせて いるのである。そのドラマツルギーは、舞台の上で繰り広げられる世界が、 あくまでもプレイ(劇、演技、遊び、フリ)の世界であることを基調として いる。アヌイは「現実の生活の辛さは耐え忍ぶしかないが、それを舞台に上 すと、笑いの生まれるものとなる」と語っている。現実の夫婦生活には多少 とも色々問題があるだろう。しかし、オバルディアは、「それらの問題をか らかいながら劇にしていく」のである。前述の Illusion comique の最後で魔 法使いが劇を称揚して merveilles と言っている。これは、「驚異、素晴らし い、驚嘆、不思議、神秘、奇跡」とった意味であるが、オバルディアの舞台 の上に立ち現われてくるもの、それはまさしく、劇(そして劇作り)の驚嘆 すべきその姿である。 この劇の大団円では、ドドリーヌが、剣を手にして迫ってくるカミーユか ら逃れて隣室に逃げ込む。そして、一人になったカミーユがやおら「独白」 をし始めるが、舞台はそこで一転して陰鬱でシリアスなものになる。彼が語 る言葉、それは人間の喧噪に満ちた日々の営みを、広大無辺な宇宙の一隅で 繰り返されている「影法師たちの空騒ぎ」とみる静謐で超越的な作家の視点 を浮き上がらせるものである。最後のこの「おまけのようなシーン」にも、 オバルディア振りが発揮されているが、これについては次回にゆずる。

 結 論

笑いの機能 fonctions du rire incongru によって造形されるサプライズとその笑い、「生来の豊かさ」 の覚醒、不条理演劇以後日常への回帰を模索するフランス現代演劇の古 典 舞台の上の俳優たちは、割り振られた役に従って、そのセリフを口にして いく。そこに顔を出してくる事物は、毎日の日常生活の地面に張り付いてい

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たようなもので、普段は目に留まることもなく、またそれ自体にはなんの面 白みもないものであろう。しかし、この劇の中でオバルディアは、それらの 事物の間に、言葉遊び、パロディー、コンテキストからの逸脱、異質なもの の重なりといった突飛さを組み込み、「状況・ストーリー・人物(その思考 ・感情・言葉・行為)の間の有機的結合」を綻ばせる。つまりは、一貫した ものである(筈の)ストーリーの進行を少し寄り道させ、また、一貫したも のである(筈の)その人物独自の主体性・その内面を分裂気味にさせる。勿 論これも、ハイドに変身するジギル博士ほどではなく、誰にでも見受けられ るものを少し誇張したものである。その incongru なアクションが、遊園地 のジェットコースターさながら、スリリングにブレながら空中を疾走するよ うな驚異的な運動を生み出していくのである。しかも、言葉で出来たこの乗 物は重力から解放されていて、もっと自由に飛び跳ね、そしてスピーディー なものである。 この劇の上演に立ち会った観客は、ストーリーの進行に我を忘れて引きず られていく受け身の存在ではない。オバルディアの提供するジェットコース ターに乗った客席は、その運動が生み出す唐突さにショックを感じて、一瞬 「アレ ! ハテナ ?」 と宙吊りになる。しかし次に、日常で培った自分の・・・ 言語感覚、その知識と経験を動員してそのひっかかりを解く。その時、受け・・・・・ たショックによって内部に溜められたエネルギーをバネにして、ジェットコ ースターの席からさらに飛び上り、宙に浮くような解放感と爽快な喜びを体 感していくことになるだろう。 オバルディアはこの劇について、次のように語っている。

L’homme d’aujourd’hui succombe au somnambulisme ; il vit de plus en plus par procuration. Les la   en particulier, ce chewing-gomme pour l’oeil,les puissants moyens techniques de propagande, la  loin   son sens critique, le plonge dans une sorte d’hypnose, de torpeur. Arracher cet hommesa torpeur, sa le rendre lui-,(. . .) faire appel toutes ses ressources des richesses naturelles10).

参照

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