コンヴェンション再考 : ヒュームにおいて正義の
規則は自己利益のみによって形成されるのか
著者
森 直人
雑誌名
経済学論究
巻
67
号
2
ページ
75-99
発行年
2013-09-10
URL
http://hdl.handle.net/10236/11313
コンヴェンション再考:
ヒュームにおいて正義の規則は
自己利益のみによって形成されるのか
Rethinking the Idea of Convention:
Whether the Rules of Justice Are Formed
Solely by Self-Interest in Hume’s View
森 直 人
Conventions, which form the foundational institutions supporting society such as the rules of justice and government, have been considered as being generated solely by people’s pursuit of each individual’s self-interest. There seems to be, however, room for an alternative interpretation of this idea. Hume paraphrases the idea as ‘a general sense of common interest’, which suggests a more intersubjective aspect in the idea. This paper will explore this aspect, with special reference to the principle of ‘sympathy’, another decisively important idea in Hume’s philosophy, which explicates the deep-rooted communicative nature of human beings.Naohito Mori
JEL:B11, B31
キーワード:ヒューム、コンヴェンション、自己利益、共感 Keywords:Hume, convention, self-interest, sympathy
はじめに
本稿では、英語圏の代表的な哲学者であり、アダム・スミスの年長の友人 としてその倫理思想・経済思想に多大な影響を与えたデイヴィッド・ヒューム (1711-1776)の「コンヴェンションconvention」の概念を、人々の間の共同
性の視点から、特に「共感sympathy」原理に重点を置いて再検討する1)。 ヒュームの社会哲学において、コンヴェンションとは、正義の規則や統治関 係といった社会を支える諸々の制度を形成して行く根源的な原理であり、ホッ ブズやロックにおける契約の論理と同等の位置を占めていると言える。このコ ンヴェンションをめぐる先行研究の解釈については第一節で詳しく検討するが、 その要点は「正義の遵守が道徳的に是認される要因は共感にあるが、正義の規 則の形成は自己利益に基づく」という理解が広範に共有されている点にある。 正義の規則自体は自己利益のみで形成されうるというこうした理解(たとえば Hardin[2007])は、自己利益を合理的に追求する世俗的な諸個人を前提とす る近代の社会科学の人間観・社会観の先駆者としての位置づけをヒュームに与 える2)。しかしながら、コンヴェンションの概念には、こうした理解とは異な 1) 本稿は、日本イギリス哲学会第 36 回研究大会シンポジウムⅠ「イギリスにおける「正義」の諸 相」(2012 年 3 月 27 日、国際基督教大学)にて報告させて頂いた「ヒュームのコンヴェンショ ン概念における共同性の契機に関する考察─正義・統治・国際関係に即して─」の内容のうち、 前半部分を加筆・拡充したものである。参加者の方々から賜った多数の非常に貴重なご教示に 非常に幅広く多数のご教示を頂いたため、お名前をここに記すことも、そのすべてを本稿に 盛り込むこともできなかったが 感謝申し上げたい。 なお本稿は、問いの重要性に対する筆者の準備と力量の限界から、ごく問題提起的、試論的な 内容にとどまり、考察対象とするテクストも主として『人間本性論』に限定されている。引用・ 訳出にあたって使用した略号、テクストと邦訳、および出典の表示方法は以下の通りである。 T:A Treatise of Human Nature[1739-40]. 引用に当たっては、ノートン版(eds. by David F. Norton and Mary J. Norton, Oxford University Press (Oxford Philo-sophical Text), 2000)を用いて、巻数・部・節・段落の各番号を示す。 訳出に当たっては、 主にセルビー・ビッグ編を用いた大槻春彦訳『人性論』(全四冊)岩波文庫、1948-52 年を参考 にしたが、訳文は必ずしもこれに従っていない。なお、第二巻の訳出に関しては、グリーン/グ ロウス編を用いた石川徹・中釜浩一・伊勢俊彦訳『デイヴィッド・ヒューム 人間本性論 第二 巻 情念について』法政大学出版局、2011 年に大きく依拠している。 2) ただし正確には、ヒュームが正義の形成において念頭に置いている各自の利益追求は、「我々自 身とその近しい友人のために財貨と所持を求める渇望」(T 3.2.2.12)であり、自分一人の利益 の追求に加えて、身近な人のための利益追求(限定された寛大さ)を併せ持つ内容となってい る。それゆえ、ヒュームがここで考えている利益追求は、現代的な意味での「自己利益」とは既 に異なっている。しかし後に見るように、ヒューム自身も度々「自己利益」や「自愛 self-love」 が正義の規則を形成するという表現を用いている。それゆえ以下の行論では、ヒュームが考える 利益追求が、自分一人の利益のみならず自分に身近な人々の利益を含む、という理解を前提とし て、それを「自己利益」の追求という形で単純化して表現することとしたい。本稿の表題につい ても同様である。
る解釈を試みる余地を見出しうる。ヒュームはコンヴェンションを「共同の利 益に関する共通の感覚a general sense of common interest」とも表現してお り(T 3.2.2.10)、ここにはこの概念が人々の間の何らかの共同性を指し示すも のであることが示唆されている。また実際に、コンヴェンションの形成には何 らかの形でのコミュニケーションが関与している(それゆえ必ずしも自己利益 だけでコンヴェンションが形成される訳ではない)ことを指摘する研究が複数 存在し(Snare[1991];坂本[2011])、さらにそのコミュニケーションが共感 原理と関わりを持つことを明示的に主張する研究も見られる(勢力[2011])。 ではコンヴェンションの概念のうちに何らかの共同的な性格があるすれば、 それはどのような内容なのだろうか。またそこにおいて共感原理が関与してい るとしたら、その原理は、具体的にどのように作用していると考えられるだろ うか。本稿の第一節では、『人間本性論』に基づき、コンヴェンション概念の 概要と、先行研究によるその理解を確認し、そこからコンヴェンションの形成 におけるコミュニケーションのあり方をめぐる論点を導いて、その論点につい て共感原理を軸とした解釈の方向性を示す。第二節では、実際にこの方向性に 従って、正義の規則の形成における相互的な利益の感覚の生成過程が共感原理 によって説明されうることを論じる。さらに第三節では、心に二つの情念が現 れた場合のその相互作用のあり方に関するヒュームの議論を援用して、共感の 原理が複数の人々の自己利益の追求を、どのようにして「共同の利益の共通感 覚」へと導くものと考えられるか、詳細な検討を行う。 こうした検討を通じて、本稿では、コンヴェンションの形成に共感の作用が 重要な役割を果たすという解釈を提示し、さらに自己利益に基づく規則形成と その遵守を重視するヒュームの正義論の根底には、規則の形成に関する動的な 共同性の次元が潜在的に存在するという解釈を試みる。
1. コンヴェンションとコミュニケーション:先行研究の理解から
コンヴェンションとは、ヒュームにおいて、正義の遵守や統治への服従と いった「人為的な徳」、さらには言語や貨幣といった、人間にとって必然的に ではあるが人為的に形成される社会的な諸制度を生成させる原理であり、「共同の利益についての共通の感覚」と表現される(T 3.2.2.10)。コンヴェンショ ンは、ヒュームの正義をめぐる二つの問題(第一に、正義の規則がどのよう にして樹立されるか、第二に、なぜ正義の規則の遵守が道徳的に是認される か)のうち(T 3.2.2.1)、第一の問題を解明する中心的な原理となる。そこで 次に、このコンヴェンションの内容をより詳しく見るために、先行研究の解釈 とヒュームにおける正義の規則の形成の議論とを併せて検討してみよう(なお 本稿では、彼の正義論における第二の問題、すなわち正義の規則遵守の道徳的 是認の問題は考察の対象としない)。 通説的な解釈は、コンヴェンションの内容と作用について、ほぼ「自己利益」 から理解する。これは、ヒューム研究の第一人者たちの手になる概説的な議論 (Norton[1993a]p.16; Penelhum[1993]pp.135-136)から、異なる分野のそ れぞれの関心からのコンヴェンションに関する検討(Mercer[1972]pp.52-53;
島内[2005]pp.51-52; Hardine[2007]p.80; Cohon[2008]pp.204-205な ど)まで共通している。また実際に、この解釈は、次のようなヒューム自身の 言明によっても支持される。すなわち「自己利益は正義の樹立を導く根源的な 動機the original motiveであるのに対し、公の利益public interestへの共感 は、正義の徳に付与される道徳的是認の源泉である」(T 3.2.2.24)。この言明 に従う限り、正義の規則の形成に共感の働きを読み込む理由は見出されない。 ではなぜコンヴェンションによる規則の形成に関して、本稿では共感の作用 に注目するのか。それは、通説的な解釈においては問われることの少ない、し かし必ずしも些末とは言えない問題が、コンヴェンションをめぐるヒュームの 議論には見られるからである。まずその議論を見てみよう。 ヒュームにおいて、正義の規則は人間と事物の四つの条件、すなわち人間の 利己心、限定された寛大さ、事物の希少性、所有移転の容易さという条件から 生じる(T 3.2.2.18)。それによれば、人間は単独で自らのニーズを満たすこと はできず、そこから他の人々と共同で生存に必要な事物を調達しなければなら ないという社会の必要性が生じる(T 3.2.2.2)。しかし人間と事物の四つの条 件は、人間が生存のために求める事物と人間の関係を常に不安定なものとする。 人間は利己心と限定された寛大さから、自分と自分に近しい人々のためにそれ
らの事物を絶えず求め、またそれらの事物が希少で容易に移転可能であるため に、こうした事物を求める人々の間で争いが生じ、そうした争いは、それらの 事物を調達するために不可欠の社会を崩壊させかねない(T 3.2.2.7, 12)。こ こでヒュームによれば、こうした利己心の働きを抑制しうるのは利己心だけだ という。ではこの利己心の自己抑制はどのようにして可能となるのか。ヒュー ムは、この問題を論じるに際して、コンヴェンションの概念を導入する。 コンヴェンションとは、
共同の利益についての共通の感覚a general sense of common interestに他
ならない。この感覚を、社会のすべての成員は互いに示しあいexpress、こ
の感覚によって人々は自らの行為を一定の諸規則の下に規整する。私は、今 後他の人が私に対して私と同じように振る舞う限りにおいて、他の人が保 持する財貨に手を付けないことが私の利益になることに気づく。彼もまた、 彼の行為を規整することが同様に彼の利益になることに気づく。この利益の 共同の感覚this common sense of interestが互いに示され、互いがそれを 知った時、その感覚は適切な決断と行動を生み出す。そしてこれを我々の間 のコンヴェンションないし合意agreementと呼ぶことは、十分に適切なこ とだろう(T 3.2.2.10)。 ではこのヒュームの議論をどのように解釈すべきだろうか。 自己利益に強調点を置く解釈者、たとえばハーディンは、このコンヴェン ションに関する説明が自己利益の概念のみから十分に理解可能であると捉え る。ハーディンは、ゲーム理論の枠組みを用いてコンヴェンションの概念を読 み解く(Hardin[2007]p.57)。彼は、確かに自己利益を求めるプレイヤーた ちの間で何らかのコミュニケーションが行われれば、コンヴェンションに基づ く協調関係は容易に成立しうるが(Hardin[2007]p.60)、「共感の役割は単に 他者の快苦に関する知識を伝えるにすぎない」として、コンヴェンションの形 成に関しては共感などによるコミュニケーションの可能性を否定する(Hardin
[2007]p.64)。ハーディンの解釈ではゲームの繰り返しと試行錯誤によって協 調関係を形成することが可能であり、それゆえ「自己利益それ自体だけで協力 が可能となる」との結論が導かれる(Hardin[2007]p.80)。 他方で、自己利益のみから正義などの人為的徳を理解することに批判的な 論者、たとえばコーエンも、人為的徳の 、 規 、 則 、 そ 、 れ 、 自 、 体は自己利益によって形成 されることを認めている。コーエンは、正義の動機を自己利益という非道徳的 な動機のみから捉える解釈を批判し(Cohon[2008]pp.184-187)、道徳的是 認の段階において自己利益以外の様々な原理(共感、政治家の工夫や両親の教 育)が働くことを強調するが、それでも規則の原初的な形成は自己利益による ものと論じている(Cohon[2008]pp.204-205)。 以上のように、コンヴェンションによる利己心の方向転換の過程をどう捉 えるかという問題については、それを個々人の自己利益の追求がそれ自体で一 定の規則を生み出す過程と捉える理解が広く共有されていると言えるだろう。 しかし、はたして自己利益だけで、本当に共同の行為形式が生じうるのだろう か。だとしたらなぜヒュームは、「共同の利益に関する共通の感覚」という、共 同性を強調した表現を用いたのだろうか。 スネアは、この二重の強調表現に着目する。彼は、Lewis[1969]の分析を引 き継ぎつつ、正義の規則の形成にある種の「相互的な知識mutual knowledge」 が必要だと論じる。彼はヒュームが挙げる人間本性の四つの条件(スネア自 身は三つに整理)に加えて、自らの利害や状況を認識しうる「最低限の理性」 と、利益に基づく互いの行動を互いに予測しうるような「相互的な知識」とい う二点を、人間本性に付け加える(Snare[1991]pp.209-213)。そして、少 なくともコンヴェンションがゲーム論的な形で生成するためには、ヒューム自 身は明示していないこうした条件を加えることが必要になるものと論じている (Snare[1991]p.218)。つまりスネアの解釈では、ヒュームにおけるコンヴェ ンションの議論は、それに不可欠なはずの「相互理解」の原理的説明を欠いて いるものと捉えられるのである。 しかし解釈者の側から、人間本性の諸条件に外在的な内容を追加すること は、上の欠落の唯一の解決法なのだろうか。ヒューム自身の議論の中に、この
欠落を埋める何かを見出すことはできないのだろうか。坂本は、基本的には上 に見た通説的な読解を踏襲し、コンヴェンションを論じるにあたって直接共感 に言及することはしないものの(坂本[2011]p.54)、他方でコンヴェンション に関する「非言語的なコミュニケーション」の重要性を指摘し(坂本[2011] pp.80-81)、さらに『思想』誌上の座談会において、そこに「『共感』論が入っ ていく余地もある」という示唆的な言及を行っている(中才他[2011]p.23)。 また中村[2006]および[2007]にも、コンヴェンション形成における共感の 作用への言及があり3)、それとは別個に柴田[2010]および[2012]も、手短 ではあるが、独特の形で共感原理がコンヴェンションを生み出すものと論じて いる(柴田[2010]p.18;[2012]pp.109-110)。奥田[2012]も、自分と身近 なものの利益を求める欲求とそのために相互規制が有利であるという信念のみ からコンヴェンションが形成されうるという標準的な解釈の枠組みを維持しつ つも(奥田[2012]pp.119-120)、その上で共感の重要性を最大限に強調し、特 にコンヴェンションと共感がともに具体的な他者と自らとが関わり合う身体性 の局面で作用する点で接続している、という注目すべき言及を行っている(奥 田[2012]pp.123-129)。 さらにコンヴェンションの形成に対する共感の関わりについて最も明確で 踏み込んだ主張を提示したものとして、勢力[2011]がある。勢力は、日本倫 理学会シンポジウムでの発表において、コンヴェンションそのものが、自他の 間での共感の「跳ね返り」、「相互共感の連なり」によって形成されるものと論 3) たとえば「· · · 徳が徳たる所以は、ただそれが個人的利益(快)を生じさせるからではなく、一 般的な利益の観念(あるいは利益の意識)を生じさせるからである。そして、それを生じさせる 原理というものこそ、共感なのである」(中村[2006]pp.171-172)という叙述は、コンヴェン ションの形成そのものに共感が原理的に関わっているという言及と理解できる(ただし上の記述 の前半部分については、個人の利益に資する能力をも徳と見なすヒュームの言明(T 3.3.4.7) との整合性が問われる)。しかしこの言及に続く考察は、正義論の第二段階、すなわち正義の規 則が既に成立した後の道徳的義務の発生に関する共感の働きを中心的な対象としており(中村 [2006]pp.172-174)、全体として、コンヴェンションの形成への共感原理の関わりを詳細に論 じたものではない。後の論文においても、共感とコンヴェンションの関わりへの言及があるが、 必ずしも詳細な検討は行われていない(中村[2007]p.88)。他方で、当然ながら、先のハー ディンや、秋元ひろとのように、共感がコンヴェンションに作用することを否定する見解もある (秋元[1989]pp.9-10)
じ、それこそがヒュームの議論のユニークな点であると主張している(勢力 [2011]pp.36-37, 40)。また勢力は、上の発表の質疑の際にも、共感の意義を 過大視しているとの批判に対して、コンヴェンションの生成が共感理論に基づ いて解釈されるべきとの主張を明確にしている(藤野[2011]pp.15-16)。 本稿では、この勢力の解釈と同様に、共感に基づくコンヴェンション解釈の 構築と、その解釈の可能性の探求を目指す。以下では、特にヒュームにおける 正義の規則形成と共感の間にありうる連関と、それに基づく共同の利益の共通 感覚の形成について、ヒュームの情念論の諸要素から可能な限り詳細に再構成 することを試みる。このうち次節では、正義の規則、特に第一の自然法である 所有の安定の議論に即して、共感原理の関与の可能性を検討したい。
2. 正義の規則(所有の安定)に関する共感の役割
(1) 共感原理の具体的な内容 ヒュームにおいて、共感は「人間本性の最も注目に値する性質」とされる (T 2.1.11.2)。この原理は、次のようなプロセスによって、人々が他者の情念 を、ある程度の強さにおいて自らの中で感じることを可能にする。まず人は、 向かい合う他者の表情や話し方からその他者が抱いている情念の観念を受け取 る。次いでその観念は、それを受け取った人の心中で生気を得て印象へと変 化する(T 2.1.11.3-5)4)。この原理は『人間本性論』第二巻の情念論だけでな く、第三巻の道徳論でも重要な役割を果たしており、人と人とが互いに接近す るときには常に作用する普遍的な原理であるとされている(T 3.3.2.2)。 また共感には、林[2010]において詳しく論じられているように、上のよ うないま現に向かい合う他者の情念を伝達する「制限された共感」だけではな 4) ヒュームは、人の心中に現れるもののすべてを「知覚 perception」と呼び、それを「印象 impression」と「観念 idea」に分類する。印象は活力(生気)ある知覚であり、観念は活力の 弱い知覚である。前者は活力を失って後者へ、また後者は活力を得て前者へと変化する。情念 は、その印象の一種である(神野[1996]pp.14-17, 31-34, 90-92)。例を挙げれば、読者が 煩瑣な文章を理解しようとして現在感じている苦痛の印象は、時がたてば生々しさを伴わない記 憶の中の観念となる。しかしその思い出された記憶が何らかの原因により、たとえばその時の憂 鬱な気分と関係づけられることで生気を得れば、その苦痛は再び生々しい印象へと変化する。く、その他者に関わりを持ちうる過去・現在・未来の様々な状況の認識へと自 らの心を運んで行く「拡張された共感extended sympathy」も存在する(林 [2010]pp.39-41; T 2.2.9.12-15)。後者は、他者の情念への共感が非常に強い 場合に生じ、それにより非常に生き生きとした情念が伝えられることによっ て、その他者に関わる過去・現在・未来の、様々な度合いの蓋然性の、あらゆ る状況を生き生きと思い抱かせる(T 2.2.9.12-14)。 さらにここで注意が必要な点は、ヒュームにおける共感は、随意的・意識 的・知的に行う推論によって他者の心情を推し量ることでは全くなく、むしろ 意図せずとも、意識せずとも、自然に生じてしまう心の伝達の過程だという点 である。井上[2010]は、ヒュームが強調する共感の三つの特性を、あらゆる 人のあらゆる心持ちを伝える「普遍的・無差別的性向」、人間の知識や意思に 依存しないその「無意識」性、そして動物や子供にも生じる「原始的・本能的 性格」としてまとめている(井上[2010]p.19)。それゆえ井上も指摘するよ うに、ヒュームの共感を、アダム・スミスにおけるような行為者と観察者双方 に高度な知的・心理的努力を要求する共感と混同して理解することはできない (井上[2010]p.20)5)。 ここでは、以上のように、共感原理の基本的内容、それが強力な時にはその 場をはるかに越えた状況へと人の心を運ぶ拡張的共感の存在、そして共感の働 きの普遍的・無意識的・原初的性格を確認しておき、次にコンヴェンションの 形成におけるそれらの作用の関与の可能性をより詳細に検討しよう。 (2) 共感とコンヴェンションの関わり もし共感がコンヴェンションにおいて作用するとしたら、それはどのような 作用と捉えられるだろうか。ここでは、先に見たコンヴェンションを定式化す る引用を以下のように(A)∼(C)に分け、共感の作用のあり方を考察する。 5) この共感の瞬間的・普遍的・不随意的な働きは、共感原理の前半部分を構成する「因果推論」の 過程が、意識的な省察のプロセスではなく、直ちに因果的な想起を行ってしまう人間の精神の被 決定性として捉えられていることに由来するものと思われ(井上[2010]p.22; 久米[2005] pp.107-109)、その点でヒュームの知性論と情念論を繋ぐ重要な特質を示しているものと考え られる。
(A) コンヴェンションとは、「共同の利益についての共通の感覚に他ならない。 この感覚を、社会のすべての成員は互いに示しあい、この感覚によって 人々は自らの行為を一定の諸規則の下に規整する。」 (B)「私は、今後他の人が私に対して私と同じように振る舞う限りにおいて、 他の人が保持する財貨に手を付けないことが私の利益になることに気づ く。彼もまた、彼の行為を規整することが同様に彼の利益になることに 気づく。」 (C)「この利益の共同の感覚が互いに示され、互いがそれを知った時、その感 覚は適切な決断と行動を生み出す。そしてこれを我々の間のコンヴェン ションないし合意と呼ぶことは、十分に適切なことだろう」(T 3.2.2.10)。 まず(B)に関して、人間にはどのように「他人が自分に対し同じようにふる まう限りにおいて、他者の所有に手を付けないことが自分の利益になる」と分 かるのだろうか。この点を考える上では、前提として家族における「社会」の 経験を念頭に置く必要があると考えられる。ヒュームは、上の引用の直前の段 落で「人間が、 、 社 、 会 、 に 、 お 、 け 、 る 、 幼 、 少 、 期 、 の 、 教 、 育によって、社会が生み出す無限の有 利さを既に知っておりhave become sensible of、またその上に交際と会話への 新しい愛着を得ている時、また彼らが社会を乱す主たる要因が、我々が外的事 物と呼ぶものから生じ、そしてそれら事物が自由に容易に持ち主を変えてしま うことにあると既に気づいている時には」、財貨の所持を安定させることでこの 問題を解決しようとする、と論じているからである(T 3.2.2.9)。つとに指摘 されるように、ここで言う社会の経験は、家族や友人など身近な人々の間に働 く自然的な愛情が維持する社会によって与えられる(田中[1977]pp.15-16; 坂本[1982]pp.104-105;Haakonssen[1993]p.188;坂本[2011]pp.84-85; 最も詳しい検討として、林[2012]pp.257-258)6)。また (B)の後半部分、す 6) ちなみにこうした自然的な愛情の源泉は、共感にあるものと考えられる。愛情は、ヒュームに よれば、一般的には間接情念として観念と印象の二重連合から生じ(T 2.2.4.2.)、また恋愛の 感情は、美が与える快、肉体的な欲求、利他的な親切心などから生じる(T 2.2.11.1)。しかし ヒュームによれば、これらの愛とは異なり、単に人間と人間の結合関係から生じる愛も存在する
なわち「彼もまた、彼の行為を規整することが同様に彼の利益になることに気 づく」という点は、こうした家族での社会経験が、人類の大部分にとって共通 の経験であり、それゆえここでの「私」と「彼」が任意の、相互に入れ替え可 能な呼称であることを前提とすれば、無理なく理解できるように思われる。 しかし、さらに深く掘り下げれば、(B)に関しても疑問が生じる。議論を家 族や友人など小規模な社会に限定したとしても、人々が社会を結びたいという 欲求を既に有していたとしても、互いの所有に手をつけないことが互いに利益 になることに、より具体的にどのようなプロセスによって人々は気づくのだろ うか。標準的な解釈であれば、この点を彼我双方での自己利益の合理的な追求 によって説明するだろう。しかしヒュームにおいて、コンヴェンションは言語 や貨幣をも形成する原初的な原理である。最も原初の社会形成をも説明しなけ ればならないヒュームのコンヴェンションの原理に、現在の社会科学が想定し がちな高度な概念的思考や、合理的な利益追求戦略を含み込ませることは適切 でないように思われる。では、互いの利益のあり方を理解することはどのよう な原理によって可能となるのだろうか。また、さらに決定的な重要性を持つの は、(C)の引用文である。この引用文における互いの利益の表示とその相互 理解(コミュニケーション)は何によって可能となるのだろうか。 ここで、共感原理は、他者の利益にまつわる情念を自身の情念として感じる ことを可能にするものと考えられる。ヒュームによれば、「こうした[他者の特 定の性質を見ることから生じる]利益や喜びは、私達自身の利益や喜びに比べれ ばより力なく感じられるのだが、それでもそれらの利益や喜びは、実践において すらeven in practice我々自身の利益や喜びに対抗するcounter-balanceもの であり、思索においては徳と道徳性の唯一の基準と認められる」(T 3.3.1.30)。 (T 2.2.4.2)。これが家族や近しい友人に対する、それらの人びとの特定の性質には依存しない 種類の愛であり、その源泉は、ある人々が他の人びとよりも近しい関係で結ばれているために、 共感がその人々の感情をより生き生きと伝える、という点に基づいている(T 2.2.4.5)。つま り、私たちの家族や友人の性質に関わらず、私たちを身近な人々へと結びつけ、彼らへの愛情を 生みだす源泉、すなわち、より広範に作用する正義の規則の形成以前に、小規模な社会を生み 出して人々にその社会を経験させる原理は、ここで「共感」に辿りつくことになる(森[2011] pp.221-223)。
この引用の文脈は、一般的観点に基づいて、その地点における共感に基づき道 徳的判断を行う場合の議論にあり、コンヴェンションの形成に関わる議論とは 区別する必要がある。しかし以上の叙述、特にその前半部分は、共感が利益に 関わる情念を伝達しうるという点を明確に表現している。 利益そのものが情念であるかどうかは別として、人間をして利益を追求させ るものは、それに関わる情念であると考えられる。「利益に関わる情念を除く
他のすべての情念はAll the other passions, beside this of interest、容易に 抑制されうるか、あるいはそれに従ったとしても、利益ほどには致命的な結果 をもたらすことはない。· · · 我々自身とその近しい友人のために財貨と所持を 求めるこの渇望だけが、飽くことなく、絶えることなく、普遍的で、社会に対 し破壊的なのである」(T 3.2.2.12)。この言及を前提にして、共感に関する次 のような特徴づけを見れば、共感が相互の利益の感覚をも相互に伝達する原理 として機能しうることは明らかに思われる。ヒュームは、自負ないし自卑の道 徳性を解明するために共感の原理に言及し次のように述べる。 人間の魂の間の交流は極めて近しく親密であるので、誰かが私に近づく時に は、彼の考えopinionsはすぐさま私に伝わり、私の判断に大なり小なり影 響する。そして彼に対する私の共感は、私の感情や私の考え方を完全に変え てしまうことは滅多にないとしても、通常の場合、私の慣れ親しんだ考えの 道筋を乱し、彼の同意と是認が私に勧める考えに一定の権威を与えるような 力を持っている(T 3.3.2.2)。 共感は、普遍的に、無意識に、瞬時に、そして人間のどのような状況におい ても、他者の感情と考えを伝え、その感情や考えは私自身のそれに影響を及ぼ す。だとすれば、人が誰かと共にあるとき、たとえば川の対岸を目指す二人の 人が同じボートに乗り合わせてオールを漕ぐ場合(T 3.2.2.10)、互いが何を求 めており、どうすればそれが得られるのかということについて、互いの考えて いる内容に関して共、感、の、原、理、が、働、か、な、い、と、い、う、こ、と、は、考、え、に、く、い。、
3. 共感はどのように「共同の利益の共通の感覚」を導くか
では、コンヴェンションの形成において共感が働いているとしたら、そこで は自他の利益に関して、それぞれの人間の精神の中で何が起きていると考えら れるだろうか。また、その心的過程から、どのようにして「共同の利益に関す る共通の感覚」が生成すると考えられるだろうか。 (1) 自己利益と共同の利益の位置関係 まず前提として、自己利益と共同の利益の位置関係について確認しよう。こ れについては、自己利益、共同の利益、公共的利益、そして公共的効用の位置 関係を詳細かつ厳密に論じた林[2012]の議論が参考となる(ただしここで は後二者には立ち入らない)。林は、自己利益を正義樹立の動機とし、公共的 利益への共感を正義の道徳的是認の源泉とするヒュームの言明(T 3.2.2.24) を考察し、そこで言う「自己利益」は、「無茶で衝動的な種類」のものではな く、既に方向転換された、「啓蒙された自己利益」であると捉える(林[2012] p.252)。その上で林は、コンヴェンション形成の場面では、「『私』にとっての 利益が、他の『私』にとっての利益と『共通』するのであり、· · ·『一致』する」 という点に着目し、「〈共通する利益〉[本稿では「共同の利益」と訳出 引 用者]とは、同じ内実を持つ〈自己利益〉が寄り集まったものを意味する」と 規定する(林[2012]p.252)。 筆者は、ここにさらに探求されるべき問いがあると考える。すなわち、啓蒙 される以前の自己利益はどのように「啓蒙され」るのだろうか。またそれらの 自己利益はどのような心的プロセスを通じて「寄り集まり」「一致する」のだ ろうか。寄り集まる自己利益は、所有の安定の場合には確かにテクスト上同一 の内容を持つが、コンヴェンションのすべてのケースにおいて果たして同一な のだろうか。そしてその結果形成される共同の利益(共通の利益)は、当初の 自己利益とはどのような関係にあるのだろうか。これらが、以下で検討する具 体的な問いとなる。(2) 共感により伝達された情念の性格 その検討のために、まず再び自負および自卑に関する議論の中でヒューム が示す共感の働きを参照しよう。それにより、多数の自己利益が共感を通じて 「寄り集まる」過程を推定することが可能になる。それは、人間の意図に関わ らず絶えず働く共感の作用によって、他者の利益の感覚が自らの中に取り込ま れ、それがある程度までは生き生きとした情念に転換され、それが自らの利益 との間で、あるいは衝突して打ち消し合い、あるいは一致して強めあうプロセ スであると考えることができる。重要な内容を含む議論であるので、長文とな るが省略せず引用したい。 この共感という原理は、きわめて力強く、しかも目立たない形で働くものであ るため、 、 我 、 々 、 の 、 感 、 情 、 と 、 情 、 念 、 の 、 大 、 部 、 分 、 に 、 入 、 り 、 込 、 ん 、 で 、 い 、 て、しかも多くの場合、 まさに共、感、と、は、対、立、す、る、よ、う、に、見、え、る、事、例、に、お、い、て、作、用、し、て、い、るのである。、 というのは、注目すべきことだが、何か私が強く感じている感情に対して、 ある人が対立し、そのためこの対立によって私の情念が動揺するとき、私、は、 、 必 、 ず 、 あ 、 る 、 程 、 度 、 ま 、 で 、 そ 、 の 、 人 、 に 、 共 、 感 、 し 、 て 、 い 、 るのであり、この私の情念の動揺は共 感以外の源泉からは生じえないからである。ここには、対立する複数の原 理と情念の間の衝突と争いがある。一方には私にとって自然なnatural情念 ないし感情があり、この情念が強ければ強いだけ、その情念の動揺は大きく なる。他方にはまた、何らかの情念ないし感情がなければならず、そしてこ の情念は共感によってのみ生じうる。 、 他 、 者 、 の 、 感 、 情 、 は 、 、 、 そ 、 れ 、 が 、 あ 、 る 、 程 、 度 、 ま 、 で 、 我 、 々自、身、の、感、情、と、な、ら、な、い、限、り、、、私、た、ち、に、は、影、響、し、え、な、い。この場合、それら、 他者の感情は、我々自身の情念と対立し、またそれを増大させることによっ て、そ、れ、ら、の、情、念、が、も、と、も、と、我、々、自、身、の、気、分、と、気、質、か、ら、生、じ、た、場、合、と、、、あ、た、 、 か 、 も 、 全 、 く 、 同 、 じ 、 で 、 あ 、 る 、 か 、 の 、 よ 、 う 、 な 、 仕 、 方 、 で 、 、 、 我 、 々 、 に 、 働 、 き 、 か 、 け 、 る(T 3.3.2.3)。 この引用文に基づいて、それぞれに自らの利益を求める自他の情念に対する 共感の作用を考えるならば、共感は、自他がどのような利益を目指しているか
をそれぞれに伝え、しかも利益を求める相手の情念を、ある程度までは自分自 身のものとして受け取らせる。つまり共感は、自分の利益を求める元々自分の ものである情念と、相手の利益を求める、元々は相手の、しかし共感によって ある程度まで自分自身のものとなった情念という、二つの情念をそれぞれの心 の中に宿らせるものと考えられる7)。 では次に、それぞれの心の中でこれら二つの利益をめぐる情念がどのように 相互に作用するかを考えよう。 (3) 共感が伝達した情念は各自の心中でどのような作用を引き起こすか 共感が、それぞれの利益を求める複数の人間の異なる情念を、それぞれの 人の心の中に宿らせるとしたら、そこにはどのようなプロセスが生じるだろう か8)。 7) なお、上の引用に続く部分には「共同の利益」を考える上で重要と思われる内容が含まれている。 その部分でヒュームは、「· · · それらの情念が、ただ単に知られるにとどまり、想像され思い抱 かれているにとどまる場合には、こうした機能[単に思い抱くこと]はありとあらゆる異なる対 象に関してきわめて普通のことであり、そ、れ、ゆえ、単、な、る、観、念、は、、、そ、れ、が、ど、れ、だ、け、我、々、の、感、情、や、気、 、 質に、反、す、る、も、の、で、あ、っ、て、も、、、そ、れ、だ、け、で、は、我、々、に、影、響、を、与、え、る、こ、と、は、で、き、な、い」、(T 3.3.2.3)と 述べる。 この引用は、コンヴェンションに関する通説的な解釈に対して一定の疑問を投げかける内容を 含んでいる。標準的な解釈では、自己利益の追求と、そのために有利な方策に関する推論だけで コンヴェンションが生成すると考えられている。したがって他者の利益は単に考察された観念 にとどまり、それ自体としては人間を動かす作用は何ら持たず、それゆえただ自分の利益を実現 する道具・手段として心に現れるにすぎない。しかし単なる観念として考えられたに過ぎない他 者の利益追求は、果たして自分の行動を変更する力を持ちうるのだろうか。 もちろん、この疑問それ自体は標準的解釈への反論とはならない。その解釈では、そもそも人 間の行動を決定する欲求は自己利益の追求のみにあると想定されているからである。しかしこ の議論の往来からは、ある新しい疑問が導かれる。本稿では、以下に見るようにコンヴェンショ ンを、自他それぞれの利益が、共感により自他それぞれの心中で結合されて「共同の利益」とな り、さらにそれが共感により相互に示され互いに認識されて「共同の利益の共通の感覚」として 生成したものと、したがって共感と自己利益のいずれかに還元することのできない複雑で特異な 原理と捉える。それに対し標準的解釈のコンヴェンションとは、自己利益という単一の欲求と道 具的理性による推論の組み合わせに他ならない。だとしたらなぜそれを「コンヴェンション」と いう別個の概念で指示する必要があるのだろうか。可能な限り少数の原理によって哲学を組み 立てようとするはずのヒュームが(T 2.1.4.6-7)、自己利益と推論によってごく簡略に説明で きる内容を示すのに、別個の概念を導入するだろうか。 8) ここで論じられている状況は、ヒュームにおける間接情念の生成の原理である、いわゆる観念と 印象の二重連合の原理によって 、 説 、 明 、 さ 、 れ 、 る 、 べ 、 き 、 も 、 の 、 で 、 は 、 な 、 い。二重連合の原理は、一つの情念
まず、心の中に複数の情念が現れる場合の、その相互作用に関するヒューム の最も一般的な言及を見ておこう。それによれば、いわゆる観念の場合とは異 なり、心に現れる複数の「印象と情念は、 、 完 、 全 、 に 、 結 、 合 、 で 、 き、ちょうど複数の色 のように、完、全、に、混、ぜ、合、わ、せ、ら、れ、るので、、 そ、れ、ぞ、れ、の、印、象、な、い、し、情、念、そ、れ、自、体、 、 は 、 失 、 わ 、 れ 、 、 、 た 、 だ 、 全 、 体 、 か 、 ら 、 生 、 じ 、 る 、 単 、 一 、 の 、 印 、 象 、 の 、 姿 、 に 、 影 、 響 、 を 、 与 、 え 、 る 、 の 、 み、というこ とが起こりうる」(T 2.2.6.1)。心に現れる二つの情念は一つに結合しうる。こ の議論を援用すれば、それぞれの心に宿る自他それぞれの利益を求める二つの 情念も、原理的には、結合して一つの情念となる可能性がある、と考えられる。 では、より具体的に、どのような二つの情念であれば互いに結合しうるの だろうか。ヒュームはいくつかのケースを分析している。第一に、二つの情念 が、愛や嫌悪といったある種の欲望に伴う情緒であり、それらの情念の「感じ sensation」が互いに類似している場合、あるいはそれらの情念が「一致した、 あるいは似た方向direction」を持つ場合には、それら二つの情念は結合する (T 2.2.9.2)。もしこの点を現在の議論に適用してよいならば、利益を求める 情念の感じは互いに類似したものと考えられるので、さらに自他それぞれの 利益を目指す情念の方向が一定の相似た範囲に収まる場合(たとえば、ある行 為、ある出来事、ある事物が自他の双方に利益を与えるような場合)、その場 合にはそれらの情念は、共通した利益を目指す一つの結合した情念を生み出し うるのではないだろうか。そして、このような形での適用は、不当とは思われ ない。なぜならヒューム自身が、こうした情念の結合の具体例の一つとして、 世界の離れた場所に住みながら共同経営を行っている二人の商人の間の利益の 結合がある種の愛情を生み出す場合を示しているからである(T 2.2.9.6)。 他方でヒュームは、上と同じ箇所で、同じ街で同じ職業に就こうとする二 人の人間の間の利益の対立が、互いに対する嫌悪を生み出す場合についても言 及している。しかし対立し反感を感じることもまたその基底に共感が作用して いることを意味するという先に見たヒュームの言及を想起すれば、この利益の (例えば美しい建物が与える快)から、別の情念(たとえばそれを自分が所有しているという自 負)が生み出される際に必要となる原理であり、心に既に二つの情念があるケースとは、領域が 異なるとヒューム自身が述べているからである(T 2.3.4.2)。
対立が嫌悪を生む事例も、対立する利益を求める両者の間でその利益を求める 情念が共感によって互いに伝達されているというここでの解釈を裏書きするも のと捉えることができるだろう(このケースについては後にさらに考察する)。 したがって利益を目指す自他それぞれの情念は、互いにかかわり合う人々の間 で互いに伝達され、方向を同じくする場合には結合し、相容れない場合には対 立を生じるものと考えられる。 しかし他の箇所でのヒュームの言及からは、二つの情念の結合には、それ ら情念の感じの類似や方向性の厳密な一致は必ずしも必要とされないという認 識が読み取れる。ヒュームは、食欲を例にしてこの点を説明する。それによれ ば、空腹という主たる情念には、食物に近づこうとする従たる情念が伴う。他 方で、美しく調理された食物は、それが与える快によって、その食物に近づき たいという欲望を引き起こす。この最後の欲望は、食物に近づこうとする従た る情念と方向を同じくするためにその情念と結合するが、それにとどまらず、 その従たる情念が従う主たる情念である空腹とも結合して、その元々の情念を 強めるという(T 2.2.11.3)。この点を利益をめぐる情念の結合に援用し、た とえば先のボート漕ぎの例を考えるなら、漕ぎ手の二人は必ずしも両方が対岸 に渡りたいと願っている必要はない、ということになる。一方は対岸に渡るこ とを望み、他方は単に体を動かしたいがため、あるいは川風を楽しみたいがた め、あるいはただボートに乗っていたいために、お互いが一致してボートを漕 ぐこともありうる。このように考えれば、その時々の共同の利益へと結合しう る利益は、必ずしも厳密に同一の利益だけとは限らないとも考えられる。 ところが、さらに興味深いことに、二つの情念が結合しうるのは、感じや方 向の類似という関係が存在する場合だけではない。ヒュームによれば、 二つの情念が、それぞれの異なる原因によって既に生み出されて、両者とも が心の中にあるとき、両者の間にただ一つの関係しかない場合でも、あるい は時には両者が何らの関係を持たない場合でも、それらは直ちに混ざり合っ て結合する。支配的な情念が、より劣った情念を呑み込み、そして後者を前 者へと転換してしまう· · ·(T 2.3.4.2)。
これに続けてヒュームは、二つの情念が対立する場合でさえ、こうした優 勢な情念による劣勢な情念の統合は生じうるものであり、そしてその際にはむ しろ対立する劣勢な情念を呑み込むことで優勢な情念は遥かに激しいものと なる、と主張し、事例を挙げてそれを説明する(たとえば恋愛に夢中の人間に とっては、恋人との些細なけんかはむしろ恋愛の情念を強めることになる、等 (T 3.2.4.2-3))。 この点を心の中にある自他それぞれの利益を求める二つの情念の場合に当て はめれば、それら二つの利益が対立する場合、そのときに優勢な利益の情念が 劣勢な利益の情念を呑み込んで激しさを増す、という過程を想定することがで きる。これは、同じ職を求めて対立する二人の場合に該当するだろう。彼/彼 女らは、それぞれ自分自身の利益を求める情念と、それと対立する相手の利益 を求める情念を心中に抱く。先の事例では、いずれの側も職を求める同じ程度 の利益と情念を有しており、共感を通じた伝達による情念の生気の減少を考慮 すれば、双方において、多くの場合に他者の利益追求の情念は、自らの利益追 求の情念より弱い情念として感じられるものと考えられる。それゆえ両者にお いては、自らの利益を追求する情念が、相手の利益を求める情念を呑み込み、 激化し、相手への激しい嫌悪へと帰結するものと考えられる。 しかしながら、この考察は、自他の利益を求める情念の間の争いが常に自 己利益の勝利に終わる、ということを意味するものではない。利益を求める他 者の情念は、ある程度まで自分自身の情念となる。ならば、ある行為から生じ る自己の不利益が十分に小さく、そこから生じる他者の利益が十分に大きけれ ば、共感が他者の情念を伝える際の生気の減少を補って、他者の利益を求める 情念が自己の利益を求める情念を呑み込み、より強められてあえて他者の利 益につながる行為を行うこともありうるのではないだろうか。ヒュームによ れば、「人間は多くの場合、それと知りながら自分の利益に反した行動を取る。 そのため人間は、およそありうる最大の善を目の前にしても、それに影響され るとは限らない· · ·」(T 2.3.3.10)。 対立する二つの情念が心中に現れる際の相互作用については、さらにいくつ かの場合が論じられる(T 2.3.9.13)。まず、互いに全く異なる原因から対立
する情念が心に生じた場合、それらの情念は互いに入れ替わりながら心に現れ 続け、結合も消滅もしない(T 2.3.9.14)。これを現在の考察対象に応用すれ ば、自身と他者とのそれぞれの利益追求が、方向としては対立していても、そ れらが異なる原因や目的に関わるものである場合(言い換えれば、それらが互 いに干渉しない場合)には、それらの利益の情念は相互に無関係に心の中で持 続することになるだろう。だとすれば、自分は自分の利益を追求し、同時にそ れとは無関係に他者の利益追求に協力する(あるいは少なくとも互いに干渉し ない)、ということが起こりうる。またヒュームは、同じ原因から対立する情 念が生じる場合、二つの情念は互いに打ち消し合い、心を完全に平静な状況に 置くと主張する(T 2.3.9.15)。これは、利益を求める自他の情念が同一の行 為や対象に関わり、しかも完全に同じ勢いを持って対立するほど、(共感を通 じた伝達による生気の減少を計算に入れれば)他者の利益/不利益が大きいと き、それらは互いに打ち消し合い、心を行動に導かない(不作為を生み出す) という形で、現在の考察に適用できるだろう9)。 では、ここまでの検討から、共感と共同の利益に関してどのような考察を 引き出すことができるだろうか。本節の最後に、次の三点を提示したい。第一 に、「共同の利益」が、共感によって伝達されてそれぞれの心中に宿る自他の 利益の情念の、ありとあらゆる相互作用の中で見出されて行くという考察であ る。そしてその見出された「共同の利益」は、さらに共感によって互いに示さ れ、互いに知られ、それについての「共通の感覚」を生じて行く。もちろんこ の考察は、共感によって利益に関わる自他の情念が共に心中に現れるという解 釈に、さらに心中に現れる複数の情念の相互作用についてのヒュームの議論を 応用したものであり、仮説に仮説を重ねた、直接のテクスト上の根拠を未だ十 分に持たない推論に過ぎない。しかし、この考察は、コンヴェンションの形成 に関するヒュームの議論、たとえば先の(A)∼(C)の引用の内容と重要な点で 符合し、それらに新たな理解を与えうるものであるように思われる。 9) さらに第三の場合として、同じ対象が異なる見方、異なる可能性をもたらすとき、対立する、し かし不確定な情念が心に現れた場合が論じられるが(T 2.3.9.16)、本稿ではこの点には立ち入 らない。さしあたって本稿での考察内容との連関が薄いものと考えられるからである。
ここでさらにもう一点、そうした符合を検討してみよう。正義の規則は自愛 を起源とする、というよく知られたテクストにおいて、ヒュームは次のように 述べる。
それら[正義の規則]の真の起源は自愛self-loveにある。そして、ある人の
自愛は、当然他の人の自愛とは反対のものであるのだから、それら幾つかの 利益に関わる情念はthese several interested passions、行為や行動の何ら かの体系の中で互いに協調するような形で、それら自身を調整せざるをえな いare obliged to adjust themselves after such a manner as to concur in some system of conduct and behavior。したがってこの体系は、それぞれ
の個人の利益を包含するものであり、そして当然に社会全体にとって有利で もあるadvantageous to the public(T 3.2.6.6)。
自愛が、それぞれの利益を求める情念が、他の情念と寄り集まり、それら複 数の人間の複数の情念が互いに協調しうるような形へと、それら複数の情念自 身を調整するような過程は、どこでどのように起こりうるだろうか。それは、 そこにいる人それぞれの心中において、共感によって集められた自他の利益の 情念が、情念を結びつけあるいは対立させる諸原理に従いながら、それら自ら 協調する形式を探し求める、その過程として、最も善く理解できるのではない だろうか。 もしこの考察が一定の妥当性を持つならば、それは第二に、コンヴェンショ ンの内容をめぐる、さらにはヒュームの思想史上の位置づけをめぐるさらに大 きな問題を導く。コンヴェンション、すなわち共同の利益に関する共通の感覚 とは、元々の自己利益の総和なのか、それとも元々の自己利益とは異なる内容 を加えられたものなのか。この問題について、本節の検討からは、共感を通じ た相互の利益の反射の過程においては、必ずしも自己利益がそのままの形で常 に優先されるとは限らず、むしろ自他の利益の強弱に応じて自己利益を求める 情念が、情念の次元で(つまり合理的な利益計算によってではなく、他者の情
念そのものによって動かされる形で)修正される可能性がある、という点が読 み取りうる(この点もまた、上の引用と符合する)。だとすれば、共同の利益 とは、単なる共通した自己利益の総和ではなく、他者の情念との情念間の相互 作用を通じて変容した諸利益の結合体であると考えられうる。 さらに第三に、ヒュームの行論に従うならば、このようにして利益の方向 を修正する他者は、必ずしも直接現前している必要はなく、過去の記憶や未来 への想像のうちに現れる他者も、この役割を果たしうるものと考えられる。共 感には、既に見たように、その働きが強い場合には想像力を過去と未来に運ぶ 拡張的な作用があるからである。しかし共感の強さが、時間的、空間的、心理 的距離に依存する以上、この共感を通じた自他それぞれの心中で進行する双方 の利益の調整のシステムは、他者との距離が離れるほど、その力を失うものと 考えられる。社会が大規模になり、正義違反の不利益の結果が遠く小さく見え ることが、小さな、しかし近接した利益のために正義に反する行為が生じる原 因だとヒュームが述べる(T 3.2.7.1-3)背後にも、間近に現前する他者との間 の共同の利益の感覚によってはもはや支えられないほど、共感を通じた利益 の調整に機能不全をきたすほど、時間・空間・心理的に遠い他者との関係がほ とんどを占める大規模な社会の問題へのまなざしがあるのではないだろうか。 正義論以降、ヒュームの議論が、共感ではなくむしろそれぞれの自己利益の追 求とその社会的に有益な帰結へと大きく軸足を移すように思える(森[2011] pp.233-234)のも、離れた多数の他者との間では、共感が共同の利益の共通し た感覚を生み出すことが困難であるという点にも由来するのではないだろうか。
おわりに
本稿の第一節では、ヒュームのコンヴェンションの認識の概要を確認し、そ れに関する通説的な解釈を検討した。そこでは、スネアの研究から、コンヴェ ンションの形成をめぐるヒュームの議論が、そこに不可欠と思われるコミュニ ケーションの契機に関する原理的な説明を欠いていることを示し、また勢力ら の研究から、そのコミュニケーションの原理を「共感」に求める解釈の可能性 を示した。第二節では、正義の規則、特に所有の安定という第一の自然法に即して、共感がこのコミュニケーションの原理として適切な説明を与え得ること を論じた。さらに第三節では、「共同の利益に関する共通の感覚」は、絶えず 働く共感により他者の利益がある程度まで自己の利益感覚へと転換され、それ ら自他の利益の間の衝突ないし一致を通じて結合した利益が見出されるプロセ スによって導かれるという解釈を示した。 以上から、本稿の結論として、以下の点が導かれる。自己利益がコンヴェ ンションを通じて自らをより良く実現するという意味においては、コンヴェン ションに参加する動機は自己利益である(坂本[2011]p.81)。しかしコンヴェ ンションは自己利益のみによって作られるものではない。それは、共感によっ て自他の利益が、また社会が拡大するにつれて多数の利益が、各々の中に取り 込まれ、衝突と消滅を伴いつつ共有され結合され、その共同の利益がまた互い に示されて共通の感覚を生み出して行く、共同的で動的なプロセスと捉えるこ とができ、その結果として導かれるのが「共同の利益に関する共通の感覚」で あると考えられる。 この結論の含意について、ここで若干触れておくならば、それはヒュームの 正義論における動的で合意論的な正義理解の伏在、という点にある。たしかに ヒュームの正義論はある意味で非常にスタティックな、規則の重視を特質とす る正義論であるが(下川[2005]p.39)、その根底には、共感を通じて絶えず 繰り返し見出される共同の利益が人々の間の正しい行為の規則を規定して行く という動的で合意論的な正義理解が機能している可能性がある。この含意につ いて、ここでは紙幅の都合から、詳しい考察に立ち入ることはできないが、一 点だけ付け加えるならば、ヒュームの正義の規則に見られる種々の可変性(森 [2010]第一章)は、その時々の外的事物や人間の条件に即して、その場の人々 の間で共感を通じて動的な形で見出される共同の利益によって規則が形成され るというこの理解によって的確な説明が与えられるように、筆者には思われる。 さらに本解釈の射程について想像を広げれば、ヒュームの人間・社会認識 と、利己的な諸個人が社会を形成するという18世紀以降複数の学問領域を支 配した認識の枠組みとの間に、これまで想定されていなかったある種の懸隔が 見出される可能性がある。むしろ彼が、大規模な社会の諸制度の淵源としての
コンヴェンションさえ、共感原理が指し示す人間本性の原初的な間主観性に由 来するものと考えていた可能性が浮かび上がる。しかしながら現段階では、繰 り返しとなるが、本解釈は仮説に仮説を重ねた不安定な試論にすぎない。今後 は、稿を改めて、この共感に基づくコンヴェンション解釈を、ヒュームの社会 哲学の異なる領野へと 同じくコンヴェンションに基づく統治関係へ、より 具体的な国内政治論・国際関係論・経済論へ、あるいは『道徳原理の研究』で の理論的に対応する部分へ、そして『イングランド史』へと 拡張し、その 中で妥当性の検証と可能性の探求を進めて行くこととしたい。 ※本稿は、JSPS科研費22730171、25780145の助成を受けた研究成果の一部 である。 参考文献 秋元ひろと[1989]ヒューム道徳哲学における実践とコンヴェンションの概念(『イ ギリス哲学研究』第 12 号)
Berry, Christopher J.[1982]Hume, Hegel and Human Nature, Martinus Nijihoff.
Cohon, Rachel[2008]Hume’s Morality: Feeling and Fabrication, Oxford University Press.
Forbes, Duncan[1975]Hume’s Philosophical Politics, Cambridge University Press.
藤野寛[2011]日本倫理学会大会共通課題報告「共感・共苦」討議報告(『倫理学 年報』第 60 号)
Haakonssen, Knud[1981]The Science of A Legislator: The Natural Jurispru-dence of David Hume and Adam Smith, Cambridge University Press. Haakonssen, Knud[1993] The structure of Hume’s political theory, in The
Cambridge Companion to Hume, ed. by David F. Norton, Cambridge University Press, 1993.
Haakonssen, Knud[1996]Natural Law and Moral Philosophy, Cambridge University Press.
Hardin, Russell[2007]David Hume: Moral and Political Thought, Oxford University Press.
林誓雄[2010]ヒュームにおける社交・会話と人間性の増幅 自然的徳論に関す る一考察 (『イギリス哲学研究』第 33 号) 林誓雄[2012]ヒューム正義論における利益、効用、そして社会(『哲学』第 63 号) 井上治子[2010]情念の生成発展における共感の役割 ヒューム『人間本性論』 第二巻において(想像力・共感)(『哲学雑誌』第 125 巻第 797 号) 神野慧一郎[1996]『モラル・サイエンスの形成 ヒューム哲学の基本構造』名古 屋大学出版会 久米暁[2005]『ヒュームの懐疑論』岩波書店
Lewis, David[1969]Convention: A Philosophical Study, Harvard University Press.
Livingston, Donald W.[1998]Philosophical Melancholy and Delirium: Hume’s Pathology of Philosophy, University of Chicago Press.
McArthur, Neil[2007]David Hume’s Political Theory: Law, Commerce, and the Constitution of Government, University of Toronto Press.
Mercer, Philip[1972]Sympathy and Ethics: A Study of the Relationship between Sympathy and Morality with Special Reference to Hume’s TREA-TISE, Clarendon Press.
森直人[2010]『ヒュームにおける正義と統治 文明社会の両義性 』創文社 森直人[2011]利己的な情念と利他的な情念 ヒュームと自己利益の問題に関す る試論 (『思想』1052 号) 中村隆文[2006]ヒュームの正義論において中心的役割を果たす「共感」の概念(『千 葉大学社会文化科学研究』第 12 号) 中村隆文[2007]ヒュームの正義論の哲学的背景(『イギリス哲学研究』第 30 号) 中才敏郎・坂本達哉・一ノ瀬正樹・犬塚元[2010]〈座談会〉デイヴィッド・ヒュー ムの思想(『思想』1052 号)
Norton, David F.[1993a]An introduction to Hume’s thought, in Cambridge Companion to Hume, ed. by David F. Norton, Cambridge University Press, 1993.
Norton, David F.[1993b]Hume, human nature, and the foundations of moral-ity, in Cambridge Companion to Hume, ed. by David F. Norton, Cambridge University Press, 1993.
奥田太郎[2012]コンヴェンション/共感モデルの構想:現代倫理学のヒューム主 義へのオルタナティヴとして(『アカデミア』(南山大学紀要、人文・自然科学編) 第 3 号)
Penelhum, Telence[1993]Hume’s moral psychology, in Cambridge Compan-ion to Hume, ed. by David F. Norton, Cambridge University Press, 1993.
坂本達哉[1982]ヒューム正義論の特質と意義 所有権論と経済論 (『三田学 会雑誌』第 75 巻第 1 号) 坂本達哉[2011]『ヒューム 希望の懐疑主義 ある社会科学の誕生』慶応義塾大 学出版会 勢力尚雅[1999]ヒューム道徳哲学における「人間愛」の生成と発展 連帯の基 礎としての「共感」 (『イギリス哲学研究』第 22 号) 勢力尚雅[2011]共感に基づく道徳と社会の行方 ヒュームとスミスの洞察を題材 として(日本倫理学会第六十一回大会 共通課題報告)(『倫理学年報』第 60 号) 柴田徳太郎[2010]「見えざる手」と「コンヴェンション」 スミスとヒュームの 秩序生成論 (『経済学論集』第 75 巻第 4 号) 柴田徳太郎[2012]「慣習」に依存し「慣習」を「創発」する人間像 ヒューム・ パース・コモンズ・ケインズの慣習論(『経済学論集』第 77 巻第 4 号) 島内明文[2005]正義と効用 スミスとヒュームの正義論の検討 (『イギリス 哲学研究』第 28 号) 下川潔[2002]ヒューム『人間本性論』における正義と効用(『中部大学人文学部 研究論集』第 10 号) 下川潔[2005]ヒュームの正義概念と近代自然法学の伝統(『人文』第 4 号) Snare, Francis[1991]Morals, Motivation and Convention: Hume’s Influential
Doctrines, Cambridge University Press.
Stewart, John B.[1992]Opinion and Reform in Hume’s Political Philosophy, Princeton University.
田中敏弘[1971]『社会科学者としてのヒューム』未来社