Title
琉球−古日本を映す鏡
Author(s)
ジーモン, エドムント; 池原, ひとみ(訳)
Citation
史料編集室紀要(30): 61-84
Issue Date
2005-03-30
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/7790
Rights
沖縄県教育委員会
史料編集室紀 要 第30号 (2005)
琉球一古 日本 を映す鏡
著 :エ ドム ン ト ・ジ ー モ ン 翻訳 :池原 ひ とみ は じめ に 本 稿 は、社 団法 人 ドイツ東 アジア協 会 (戦後 、 ドイツ東洋文化研 究協 会 に改称 )紀 要 第15号 に掲載 され たエ ドム ン ト ・ジーモ ン (Edmund Simon, 1882-1947)の論文Riukiu, EinSpiegelfiirAltjapan,MitteilungenderDeutschenGesellschaP ftirNatur-und Vbllkerkunde ostasiens,BandXV.TeilB.(Tokyo,1914)の翻訳 である。 ジーモ ンの二度 目の琉球調査旅 行 後の報告講演の原稿 である と思 われ るが、講演 の正確 な場所及 び 日時 は不 明である。 ジー モ ンは、 1882年 ドレス デ ン生 まれ の ドイツ人 で 、大 学 で法 学 と 日本 語 を学 ん だ (1904年 、法学博 士号取得)。 1908-1910年 に ドイツ領事 館付通訳 と して 日本 に滞在 し、 1910年 3月 に琉球 を訪 れた。1911年末再来 日 し、1913年 3月に琉球 を再訪問 した。その際、 当時沖縄県立沖縄 図書館館長 を務 めてい た伊波普猷 を訪 ね学問上 の交流 を している. 当時 の沖縄 県内で発行 されていた新 聞 に、伊 波 との交流 につい て詳 しく書 かれてい る。本翻訳 で は、簡単 な要約 を付 した見 出 し一覧 と記事 の抜粋 を資料 と して添付 した。 ジーモ ンは、琉 球 を 「古代 日本 を映 す鏡 で あ る」 と し、琉 球 と 日本 の民族 ・文化 的同 阻性 を主張 した。本論 文 は これ まで訳 されてお らず、すで に紹介あるいは翻訳 されてい る 欧文史料 とともに、琉球学の国際的関心 を示す-史料であ る と言 える。 また伊波の影響 を 受 けた琉球学研 究者 に よる論 文 と して、伊波普猷研 究 に も活用いただければ幸 いであ る。 凡例1.本稿の ドイツ語原文は、ベイヴェール氏編集のRyukyuStudiessL'nce1854:WesternEncou77fer part2V。lume5 (EditionSynapse,2002)に収録 されている復刻版を使用 した0
2.原著には、著者による表 1点、スケッチ (図1-3、 7-8、12、15)及び写真 ( 図4-6、9-11、13-14)15点、琉球列島の地図1点が掲載 されている。写真及び琉球列島の地図は不鮮明 なため掲載 しなかった。表及びスケッチ中の説明は、原著 と同様なレイアウ トで 日本語訳 を付
した。
3.脚注は原著のものであるが、必要と思われる点に訳者による注を付 し (訳者注)と記 した。
EdmundSIMON:Riuklu,aMirrorqfOldJaI)an,tranSl.rKEHARAHitomi
史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005)
琉球一古 日本 を映す鏡
エ ドムン ト・ジーモ ン
ド 伊波普 猷 は、 日本語 で著 された 自著 『古琉球』 で九州の南 に位置 し、 中国大陸の沿岸 と ほぼ平行 に台湾の北西端 まで延 びてい る列 島 を、 -その大部分 は、現在 の沖縄県 を形成 一 (Zl 古代 日本 の天然の古物博物館 だ と述べ てい ます。私 は、今 日お集 ま りの皆様 に、伊波普猷 の こ とばが真実 であ り、 また古代 日本 を知 るため に琉球研 究がいか に重 要かつ有用で ある か をお分 か りいただ きたい と思 い ます。す で に、かの有 名 な 日本学者バ ジル ・ホール ・チ ェ ンバ レン (BasilHallChamberlain)
(:n (L) が、 この弧状列 島 に注 目 してい ま した。民俗学的考察 と言語 の体系 的研 究 か ら、彼 は、島 民 が現在 の 日本人 と同 じ系統 にあ る と結論づ け ま した。そ して両者 は
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世紀 よ りも以前 にアジア大陸か ら朝鮮半 島 を経 由 して九州の南西へ や って きた人 々 を共通 の祖先 に持 ち、 先住 していた種族 は征服 され た り追 い出 され た りして、その生 き残 りが今 日のアイヌであ る、 と推察 しま した。大陸か らや って きた人 々の一部 は、おそ ら く部族 内抗 争のため に鹿 児 島湾 か ら七 島 を経 由 して南 の方- もやって きた もの と思 われ ます。 この ような 日本民族 ∴、 の移動 は、伝 説上 の時代 の出来専 一源為朝伝 説 -であ り、 また同様 の出来事 が1609年 の薩 摩藩主 島津家久の琉球征服 で もみ られ たので、 この入植理論 は信悪性 が あ る と思 われ ます。 古琉球語 と古 日本語 は、大陸か らや って きた部族 の言語 に由来 し、近代琉球語 や近代 日 本語 の もととな りま した。 チ ェ ンバ レンは両者の言語上 の相互関係 をフラ ンス語 とスペ イ ン語 あ るいは フラ ンス語 とイタリア語 のそれ に例 え ま した。近代琉球語 には 日本語 と語源 が同 じである とか、 日本語 の古 い型が よ く残 ってい る とい った ことが しば しばみ られ ます。 また、共通 の祖先 を持 ってい るこ とは宗教観 、風俗 習慣 な どに も表 れてい ます。 もう少 し琉球 開聞 についてお話 しようと思 い ます。天文年 間 (1532-1554年) に平仮名 で編 さん された琉 球最古 の文学 「お もろ」 に琉球 の創世記 が次 の ように謡 われてい ます。 しか しなが ら言語 が薙解 なため、 まだ訳 されてい ませ ん。 (1)伊波普猷 『古琉球』沖縄公論社 1911年 (2)伊波 同上,p.20(3)chamber】ain,B.H.,The Luchu Islandsand theirInhabitants,Geographica/Journa/QfTheRo.).al Geographica/Socief,1.,No.4Vol.V.,London,1895
(4)Chamberlain,B.HリEssayinAidofaCrammerandDictionaryoftheLuchuanLanguage,Transaction offheAsiatL'csocL'etyofJapan,Vol,XXlll,Supplement,1895
史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) むか し は じまり や てだこ 大ぬ Lや きよらや て りよわれ せのみ はぢまり にIl てだいちろ く が てだはちろ く が お さん しちへ みおれ ば さよこ しちへ みおれ ば あまみきよ は よせわちへ しね りきよ は よせわちへ しま つ くれ て 、 わちへ くに つ くれ て 、 わちへ こ \らき の しま -こ 、らき の くにへ しまつ くら ぎゃめ も くにつ くら ぎゃめ も てだこ うらきれて せのみ うらきれて あまみや すぢや なす な しね りや すぢや なす な しやjtは すぢや なしよわれ この歌 は韻 を踏 ん で い て、 一組 の神 の夫婦 が太 陽神 - ここで は、太 陽 は男 性 で 「て だ こ」 と呼 ばれ てい ます -が見 守 るなか 島 を造 り、太 陽神 の命 でその 島に人 を住 まわせ た と い うこ と しか言 って い ませ ん。 しか し、 冒頭 で紹 介 しま した伊波 は、 アマ ミキ ヨとい う名 は琉 球 人の祖 先 が九 州 か ら北部群 島最大 の 島、奄 美大 島 -現在 は鹿児 島県 に属 してい ます -を通 って沖縄 へ や って きた こ とを示 してい る と考 え ま した。奄 美大 島の人 た ちは、 自分 あ壬J'/1け た ちをアマ ミキ ヨの子孫 で あ る と言 ってい ます。彼 らの伝 承 に よれ ば、 この神 は海見 猛 に あ安\ 降 り立 ち、大 島 を造 りま した。伊波 は アマ ミキ ヨを海部 の人 と同義 だ と考 え ま した(,とい うの も、琉 球 語 には短 母 音eは な くiと発 音す るか らです。 さ らに、bはmとな り、 よってbe はmiに な ります 。古 い 人名 には タダ ミキ ヨ とい った よ うに 「キ ヨ」 が語 尾 に くっつ きま す。 「キ ヨ」 は子 で は な く人 を意味 して、「ワカイキ ヨ
」
「ナザ イキ ヨ」 の よ うに使 い ます。 また、他 の 「お もろ」 には 「アマ ミヤ」 とい う名称 も出 て きます。伊波 は、大 島 にアマ ミ とい う地名 が あ るの は、九州 の南東岸 か らや って きた海部 一族 が 、沖縄 へ 渡 る前 の一時期 大 島 に住 んで い た こ とを示 す もの だ といい ます。 ところで、琉球語 は琉 球 人 の起 源 につ い て興味深 い示唆 を与 えて くれ てい ます。琉球語 で は、「北」 は 「こ シ」 です 。 「ニ シ」 はつ (6)伊波は、「イチロク」 と 「ハチロク」 を太陽神の異称であると説明 しているが、それに関する説 明はない。(伊波,前掲書,p.269) -631史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) ∴ ま り 「イニ シ」 (過 去 、後 ろ) なのです。一方 、 日本語 で は 「ニ シ」 は 「西」 を意味 しま す。 つ ま り、 日本人 は西か ら乗へ や って きた こ と、反対 に琉球人は北か ら南へや って きた こ とが分 か ります。 また、すでに 「お もろ」 で も日本へ 向か う旅 を 「上 る」 と謡 ってい ま ・ト・ す。 この こ とか ら、琉球人が当時、北か ら南へ 「下 って」 きた ことを意識 してい た こ とが うかが え ます。 ()) 伝説 に よる と、 アマ ミキ ヨは島 を造 ったあ と沖縄 島南部 島尻の東海岸の先 にあ る久高島 で5粒 の種 を蒔 きま した。 中山王 は この出来事 を記念 して毎年2月 にここで供物 を捧 げ祈 願 しま した。明 らか にこの伝説 は、 この地 に農耕民族 がや って きた ことを示 してい ます。 この農耕民族 の文化 は、当時の島の人 々のそれ とは大変違 っていて、彼 らの生活 は根 本的 に変 わったため、海部 一族 を後の伝説 で 自分 たち よ り高貴 な者 とみ な し、 アマ ミキ ヨを唯 一神 に まで しま した。 ところで、九州の 日向 にある集落 と沖縄 のそれが地形 的に似 ていて、 神 が降 りて くる とい う日本神話の伝承が琉球 の伝説 に もあ る とい うことは注 目に値 し、 ま た全 くの偶 然 で はないで しょう。では、 日本 人 と琉球人の共通の祖先がや って来 る前 、琉 球 には どの ような人 々が住 んでいたので しょうか。すで に故ベル ツ博士 (prof. Baelz)が (lり) 琉 球 出身の初年兵 を診察 した際 に、 アイヌの血 が入 ってい ることを確 かめ てい ます。 また 一卜 鳥居 龍蔵博士 は、沖縄 中頭 の中城村 で土器や石器 を発見 しま した。 デザ イ ンや文様 、 その 他 の特徴 か ら石器時代 の ものであるこ と、 日本 人 と同 じ人種 に属す るアイヌの ものである こ とがわか りま した。鳥居博士 の発見 は、後 に那覇港 の南東 にあ る城 岳か らの出土 品で も 証 明 され ま した。私 も、少 し掘 っただけで貝塚 か ら土器 の破片や石 器 を見 つけ ま した。今 (7)琉球では、家屋の後ろに廟を作っていたことか ら、「ニシ」は刺をも意味 していた。乗は、「ア ガリ」 (日が昇るところ)、西は 「イリ」(日が沈むところ)という 。 (8)「おもろ」第10巻の旅を謡った歌の始まりは次の通 り。 (伊 波 ,前掲書,p.55) くすぬきは こので やまとふね こので やまとたび のぼて や しろたび のぼて かはらかいに のばて てもちかいに のぼて 伊波 も、そ して私 も13世紀半ば頃に建てられた浦添城跡から鎌倉時代のものと判明 した灰色の 瓦を発見 した。
(9)Simon,E.,Beitra'gezLirKenntnisderRL-ukiu-lnse/n,Leipzig,1914,pp.Ⅰ2,63,171
(10) Baelz,E.,Die Riu-Kiu-1nsulaner,die Aino und andere Kaukasierahnlichc Reste in Ostasien. Korrespondenz-BlatlderDeulschenGesel/schaftftirAnlhrolJOlogie,Elhno/ogleundUrgeschl-chfe42,
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日で も島の南端 にあ る島尻 では顎 や頬 にひげ を濃 く生や した男 た ちをみかけ ます。彼 らの 額 はたい てい高 く突 き出ていて、 目は くぼみ、 まつ げは濃 く、 目は大 きいです。鼻筋 は細 く、鼻幅 は広 いです が低 くはあ りませ ん。鼻 か ら口元へ かけての しわが特徴 的です。上 あ ごは よ く発達 していて、弓 な り型 の大 きな口 を してい ますo以上の特徴 か ら北海道の ア イ (121 ヌや東 シベ リアの人種 に よ く似 てい ますO で も、あ ま り彫 りが深 くな く、体毛 も薄い丸顔 の 人 もた くさんい ます。おそ ら くミックス型 で しょう。 もう一 つ の集 落 は、 島の南西岸 、那覇 の北 にあ る牧港 です。伝説 に よる と、源氏 の子 孫 源為朝 は ここに漂着 して1
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年代 未 まで琉球 を支配 していた王統 を うちたて ま した。そ の後、伝 説上の王、天孫 の王統が1
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年 まで続 きま した。歴史上の記録で は、最初の王統 は戟乱続 きで、按 司 や村 役 人の地位 をめ ぐって戦 いが続 いてい ま した。私 の考 えでは、 日 本 において と同様 に外来者 と先住 民 との間 に争 いがお こ り、外来者が勝利 したの だ と思 い ます。伝 承 で は、為 朝 と大里按 司 の娘 との 間 にで きた子 とされ る舜天王 の時代-1
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年 -以後 は平和 な世 になった と伝 え られてい るので、1
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世紀後半 頃 には外 来者の支配 が確立 し、平穏 な時代 になった と思 われ ます。 この頃、外来部族 の--師 まさらに北上 し伊 平 屋 島の 向かい にあ る沖縄 島北 西岸 の運天 に到達 しま したo運天 とい う地 名 は、為朝 が 「運」 を 「天」 に まかせ て この地 に漂着 したこ とに由来す る と言われてい ます。 この こ と は、 これか らお話 します大和墓 と呼 ばれ る墓 の型 か らも分 か ります。 宮古 、石垣 、八 重 山 とい った南部琉球 、与那 国の 隣 りに位 置す る台湾 に も 日本 人 と琉 球 人の祖先 はや って きた と思 われ ます。石垣 島の西海岸 と北海岸 には大和墓 が あ ります。 そのス タイルにつ い ては後 に述べ ます。 また与那 国島に も島の人び とがヤ シナ墓 と呼ぶ類 似 のお墓 があ ります。ヤ シナは、1
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年 に平宗盛が源義経 に敗 れた四国讃岐地 方の屋 島か らきてい ます。 これ らの墓 は、平家の残党 に よる ものだ とい われてい ます。 しか しなが ら 墓 の型 か ら判断す る と、 もっ と前 の時代 の ものであるべ きです。で も、 日本 での源平合戦 の後1
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世紀末頃 に琉 球へ や って きた とい うのはあ り得 ない こ とではないのです。大和 人が 内部抗争 のため に土地 を追 われ琉 球- や って来 た とい う、チ ェンバ レンが考 えた何世紀 も l■ 前の歴史が再 び くり返 されたのです。 しか し、鳥居博士 に よる と南部琉球 の先住民 は1
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、 Iしもり6
世紀 まで に石垣 島 の獅子森丘1勘 こ住 みつ いてい たマ ライ諸 島か ら来 た人 々だ とい うので す。 また、与那 国 島 には食人種 もいた と言 われてお り、マ ライ系 だ とす る説 は信 悪性 が あ ります。(12)simon,Ii,前 掲書,p.4 首里の老人の写真参照。
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鳥居龍蔵 rソし垂Ll」の石器時代の住人に就て」
『太 陽』 第11巻 第5
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年史料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) 沖縄 島の南 西 部 を除 くと琉球 列 島は、孤 立 していて、個 々の 島 も大 き くな く、 中世 か ら島か ら島- の移住 が禁 じられていた こ とか ら、早 くか ら中国や朝鮮 と交 流 のあ った 日本 国 と比べ て発展 が遅 く、太古 の ままの状 態が続 いてい ま したO 今 日お集 ま りの皆様 は、 ほほ全 員が 多少 な りとも日本 語 を勉 強 してお られ るので、言 語 に関 して興味深 い事 象 をお話 したい と思 い ます。つ ま り、現代 日本語 はすでに経過済み で、琉球語 で は現在進行 中の音韻変化 です。チ ェ ンバ レンがすで に指摘 しま した ように、 I-い また伊波 が詳細 に検証 しま した ように、琉球語 には子音pがあ ります。 日本語のha hihu (Lr)) hehoが琉 球 で はpapipu°epoにな ります。古 日本語 には 1世紀始 め頃 まで (推古天皇) 朝 鮮語 と同様 に子音pが あ りま した。 その ころか ら日本語 ではfへ の変化が起 こ り、今 日で も出雲地方 や九州の一部 ではfafifufefoの音 を聞 くこ とがで きますo足利 時代 (133 8-1578年) の終 わ りごろ、15、6世紀 になる とさ らにfがhに変 わ りますが、fuは今 日で もま だ残 ってい て、例 えば、 「ス ウ」 は 「ス フ」 とい うように14世紀 の発音 の まま表記 され ま す 。琉 球語 で は、 「ス ウ」 は 「ス プル」 といい、古 日本 語 で 「ス プ」 と言 っていたのほほ ほ間違 い ない で しょう。つ ま りp-卜 hと音 韻変化 したのです。 この3つ の発展過程 を琉 球列 島の各 島々で同時 に観察す ることがで きます。 地 理 的 に最南 端 に位 置す る先 島諸 島 には最 も古 い型 が あ ります 。沖縄 島南西部 はすで に英阻王 (1260-1299年)の統治下で 日本 との交流が始 まっていて、仏教 の僧侶が那覇-来 てい ま した。 国籍 についてはっ き りした記録 はないのですが、おそ ら く日本人 だったで しょう。 なぜ な ら、当時の那覇 と首里 の こ とばは、 日本語の影響 を受 けてp音が暗 に変わ 、Il・・ ってい たか らで す。北 部 の奄 美 大 島 は、1610年 に島津 に征服 され薩摩 藩 に併 合 され ま し I汚〔 た。 その結 果薩摩藩 との交流が盛 んにな り大 島の こ とばは 日本語 の影響 を多 々受 け る よう にな りま した。 もちろん、地理 的 に九州 と近い こ ともあ って 日本 人 との接 触 は しば しばあ った もの と思 われ ます。その ため、大 島で は一少 な くとも沿岸部 で は-f音 はほぼ完全 にh 音へ変 わ ってい ます。反対 に国頭 やヤ ンパ ル と呼 ばれ る山が ちな沖縄 島北 部 では、 日本語 の影響 を受 けず にp音 はその ままの形 で残 ってい ます。首里 王府 の ことば は倍 とh音 が並 ()H) 存 してい ます。 い くつか例 を挙 げてみ ます。 一番 良い例 は最後 の 「筆」 です。 まず 、今で も国頭 で話 されてい るpudiが 、琉球へ の筆 (14)伊波,前掲書,pp.14-15,358-359
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原文のまま (訳者注) (16)simon,EH前掲書,p.175 (17)1609年薩摩侵入、1610年大島代官設置 (訳者注) (18)伊波,前掲書,pp.360-361史料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) の伝 来 を示 してい ます。おそ ら く仏教 とともに12世紀 末 に伝 わった と思 い ます。 そ して、 当 時 日本 語 に は まだp音 が 残 って い ま した。宮古 と八重 山 に最 初 に筆 が 伝 わ った とき一八 重 山 に初 めてお寺 し=1) が建 て られ たの は1611年 で した -普 韻 変化 はす で に起 こってい たので、 fudiとい う形 で伝 わ っ たの で す。次 に、首里 でfudiとhudiが並存 していた こ とか ら、fLlか らhu- の変 化 は まだ 完全 で はなか った ものの、音韻変化がか な り進行 してい た ことを示 してい ます。他 の例 と して、funi とhuni(舟)があった一方で、 日本語 のfuru(降 る) に当たるこ とばが首里方 言で はhuyungのみであ った こ とも挙 げ られ ます。 それぞれの島の方言 をさ らに研 究 してい けば興味深 い発 見があ るであろ うこ とはお分 か りい ただけた と思 い ます。交通 の便 が悪 いため波照 間島、与那 国島、奄美大 島近海の徳之 島、喜界 島、沖永 良部 島 な どは まだ手つかず の ままです。 では この辺で言語 についての話 は終 わ りに します。 言語 の他 に宗教観 で も類似性が見 られ ます。琉球 では、 日本 で はその片鱗 さえ見 る こ と たけみか/)t, A-)山し ので きな くなった宗教 的発展過程 を見 る こ とがで きます。 日本紀 で は、武空槌 と経津主が Zp)Lは らV)なかつ くに に に ぎ(I)i+ニ ヒ しか ・7- くに さは ほたるt,< かかJ( 葦 原 中 国 を平定 し、逓 避芸命 が 降臨 した とあ ります
。
「然 も彼 の地 に、多 に 蛍 火の 光 かみ さばへな あ あ またくさきことことく よ ものいふ二ヒ (i)()l (Zl) く神 及 び蝿声す邪 しき神有 り。復草木 戒 に能 く言 語有 り。
」 アス トンは著書shintoで、 日本 の神道 は多神教 の一種 である とい う立場 の学説 をうちたて ま した。神道の原始的段 階 が琉球 には まだ残 ってい ます。 琉球 における信仰 は、 アニ ミズ ム とい うこ とばで特徴づ け られ ます。つ ま り、人々 をと りま く万物 に魂が宿 ってい る と考 えたのです。人間は 自然 の恵みや厳 しさに左 右 され ざる を得 ない ことか ら、 山、森 、石、川、海、火、太陽、雨、雷 な どを生 き物 とみ な し、 人間 よ りも強大 な もの と したのです。 あまみや すぢや しね りや すぢや (19)1611年、薩摩により検地が行われ、琉球国王に寺院及び神社の建立が進言 された。その後、 1614年に桃林寺が建立 された。(
『沖縄大百科事典』沖縄 タイムス社より引用)(訳者注) (20)Aston,W.G"NihongL':ChronE'cIesofJat'anfrom theearliesltimestoA.D.697,Vol.㌔Londcn,1896,p.64 日本語の訳文は 『日本書紀 (一一)』(岩波書店 1994年)より引用O(訳者注) (21)Aston,W.G.,Shinto,London,1905,p.66
史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) しやれば すぢや なしよわれ とすで に引用 しま した 「むか しはぢめか らのふ し」 とい う 「お もろ」 に も謡 われてい ますO 神 々は人間 よ りも強 大で高貴 な もの なので、 日本語 と同様 に琉球語 で も 「カ ミ」 (上位 の 者、高位 の者) とい うのです。 琉球 では、獄、杜 、樹木 、海、火、太 陽 とい った 自然界 の無生物 を神 と して崇 めてい ま す。海 を渡 ってや って きた高度 な文化 を もつ一族 を神 の一族 とみ な し唯一神 と したアマ ミ キ ヨの例 や、機織 を伝 えた女 を後 に神 と した とい う伝説 もあ りますが、人 を神格化す るこ とは まれで したtl宗教 の初期段 階においては人 を神格化す る ことがあ りますが、 太古 の事 象が よ く残 ってい る南部琉球 のある島 において、現在 で も住民が人 を神格化するので はな く文化 的発展 を もた らすモ ノを神 と_して崇 めてい る こ とは興味深 い ことですo昔、八重山 / の大浜村 に兄弟が住 んでい ま したO兄 は グァク ァこ、弟 は コウチギ ョクキ ンといい ま した。 首里王府の記録文 書 『八重 山島年来記』 による と、二 人 は農耕 をは じめ ま したが鉄 製の農 具 をまだ もってい ませ んで した。兄弟 は小舟 を作 り薩摩の坊 津-行 って、下町で鉄 製の道 具 を買 って島-戻 って きま した。大浜村 の崎原御縁 で は、今 日で も鉄 を神様 として配 って い ます。 ここでは神格化の よ り進 んだ形態ではな くアニ ミズムの よ り古 い形態 をみ る こと がで きます。 島の人々が祈 りを捧 げる 自然界の神 については、 と くに杜 の神 と獄の神 を挙 げる こ とが で きます。神 と して人格化す るので はな く、杜 その もの に祈 りを捧 げ ます。次の ような神 を謡 った古 い歌が あ ります。 たき たき よ いのて (獄に祈 りなさい) むい むい よ いのて (杜に祈 りなさい) この ことか ら分 か る ように、神 を崇 め るの に特別 なお寺 は必要あ りませ んで した。今 日 で もうっそ うと樹 木 のおい茂 った獄が 「ウガ ンム イ」 (拝み杜) として使 われてい ます。) この前 の調査 で、私 は沖縄 島の主要 な聖地 を北 か ら南 まで くまな くまわ りま したが、そ こ で も結果 は同様 で お寺 や神像 な どはあ りませ んで した
。
「ウガ ンム イ」 は原生林 の生い茂 る山の中にあ って、 たいていそ こには 自然の岩 山 もそ びえたってい ます。琉球国王が拝所 と していた場所 にはたいてい 自然の岩山のかわ りに地面 に角石が置かれてい ま した。角石 は、身分の高い人 々の間で だんだん と宗教事象 におけ る発展 があ った ことを示 してい る と 思 い ます。 とい うの は、 この石 は明 らか に神体、つ ま り神がそ こにいる こ とを強調す るた めの ものだか らです。 (22) 『沖縄 文化 史料 集成6球 陽外巻 遺 老説俸』 (角川書店 1978年)には、「幸地宝金」 とある。 (訳 者注 )史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) 日本 にお け る神 道 の神社 が たい てい樹 木 の生 い茂 る杜 や猛 にあ るの は単 な る偶 然 で は あ りませ ん。神社 は太古 の形態 を現代 的 な形 で私 た ちに見せ てい るのです。神社 は神体か らきてい るのです。 は じめは神体 を配 ってい た建物 が、 しだい に神 の館 と考 え られ る よう に なったのです。 神社 は神- の捧 げ物 で あ り、 日本 語 の 「ミヤ」 (御 家)、「ヤ シ ロ」 (衣 城 )、 「ア ラカ」 (舎) か らきてお り、後 に神 が い る場所 と して とらえ られ る よ うにな りま した。 日本 の神社 の杜 は、 日本 に もかつて アニ ミズ ムの宗教 があった こ とを示 してい ます。 皆様 の中 には人里 離 jlた山奥 を散策 していて前方 にわ ら縄 が張 られた巨岩 をご覧 になった こ とのあ る方がい らっ しゃる と思 い ます。 その山里 の人 々は今で も昔 か らの 自然神 を信仰 してい るのです。お そ ら く、 しめ縄 が岩 との境界 になっていて、昔 の 自然神信仰 の シ ンプ ル な形態 の一つであ る と思 われ ます. (2、i) 琉 球 の アニ ミズ ムの神 々 につい て は、拙論 に書 きま したので今 日は割愛 させ てい ただ い て、次 に鳥居 の起源 についてお話 します。琉球 で も、拝 み をす る所 には よ くしめ縄 が張 られてい ます。天照大御 神が天の岩戸-再 び戻れ ない ように しめ縄が用い られた とい う日 本神話 の くだ りは よ く知 られてい ますが、 しめ縄 は戸 のかわ りなのです。温暖 な気候 の琉 球 では-那覇の年平均気温 は22.1度 です -家屋 の入 り口にむ しろがかか ってい るだけです。 古 い む しろ掛 け を見 た こ ともあ りま した。入 り口には、 2フ ィーートほ どの間隔で地 中に2 本 の杭 が打 ちこまれ ていて、その上 を横切 る形で もう 1本の棒がの っか ってい ます。 まる で原始 的 な鳥居 の よ うです。 む しろは横木 に取 り付 け られていた り、前 に突 き出た屋根 の (1)l) 端 に付 け られて横 木 を覆 うようにさが っていた りします。奄美大 島では農家の入 り口は垂 直 に立 った2本 の杭 とその上 にの ってい る横 木でで きた鍵 の ない戸 が取 り付 け られてい ま (r)) す。 きっ と昔 はむ しろが 吊 られてい たので しょうが、今 はむ しろは吊 られて な く、鳥居 の 形 を した入 り口は単 なる飾 りの ようになってい ます。 神話 に出て くる しめ縄 は、明 らか にむ しろ戸 や鳥居 の象徴 です。 この戸 の吊 り物 は単 な る飾 りになって しまい ま したが、元 々は聖地 を邪気 か ら守 るための もので、今 日で も神社 の本殿 に同様 の ものがあ りますo聖地 は もともと自然 の聖 なる杜 にあったので、木 と木 の 間 に戸 の シ ンボル と して しめ縄 を張 ったのです。あ るいは木が ない ときは、先端が二又 に 分 かれてい る丸太 を2本地 中 につ き立 てて横 木 を又 にかけ、鳥居 にかかってい る しめ縄 の よ うに何 か戸 の シ ンボル となる もの をかけたのです。沖縄 で は、国王が祈 りを捧 げる場所 は常 に一:LTだけ巨大 な石壁 で仕切 られ、 その石壁 の 中央 に矩形 の木の扉が作 られてい ま し (23)simOn.E.,前掲書,pp.160-161 (24)Simon,E.,同上,p.77の図参照。 (25)Simon,E.,同上,p.79の図参照。 -6
9-史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) た。 これが鳥居 か ら本 来の戸 に発展 した ものです。 ご存 知の ように、チ ュ ンバ レンは 日本 (2t)I 語 の 「鳥居」 の語源 は イン ド譜のturan (torana)である と主張 し、 「トリ イル」 に由来す [271 る と した アス トンの 「トリヰ」 説 を認 め ませ んで した。 tohoの短縮形toや語 幹to(琉球語 で はtu)は アス トン説 を否定 す る もの ですが、 toriはアス トン説 の誤 りを示 す もので はあ りませ ん。琉球 語 で はturiにな ります し、チ ェ ンバ レンは 日本語 の 「トリイ」 よ りも琉球 語 の 「トウリ」 の方が古 いだろ うと言 ってい ます。で も、 これで は まだ 「ヰ」が説 明 され て い ませ ん。 もちろん 「トリ イル」 説 は
、
「tori」 の意味 が はっ き りしないので、 「トリ イル」 説 を可能 にす るため に 「ヰ」 をつけた とも考 え られ ます。 また、始 め吊 り下 げ ら れ た む しろ を 「ツ リ」 (吊 り物 ) と呼 んでいたのが次 第 に吊具全体 を表す よ うになったか してtori-wiが古 日本語 のturi(硯代 語 のtsuri:吊 り) と関連付 け られ たのか も しれ ませ ん. とにか く、私 は、今 日で も琉球 で見 る ことので きるむ しろ掛 けで、 日本語 の 「トリイ」 の 語源 と目的 を十分 に説 明で きる と思 い ます。 次 に琉 球 にあ る興味深 い倉 の型 についてお話 します。私 が観察 した ところ、それぞれの 島で あ るい は同 じ島で も場所 が違 う と異 な ってい るのです が、 2つの型 に分類 で きま す。 一つ は刈 った稲 を茎 つ きの まま保 存 す るため の もので 、 もう一つ は諸 々の穀 類 や 農作 物 を貯 蔵 す るの に使 われ ます。 I---3日 の米 人 (ク ミイ リ) は、 ドイツの積 み藁 に 似 て い て 、 次 の よ う な構 造 に な っ て い ま す。矩 形 に削 られ た4
つの石灰 岩の上 に4
本 の棒 が 四角 に組 まれ ていて、棒 が交差 す る所 をわ ら縄 で縛 って い ます (図1
)。 と ころで も う一つ古代 日本建築 の実 際例 が あ TJ7,1iき り ます。 Nihongt'の な か に、 室 寿 の と きにI
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王 が言 った 「築 き立 っ る碓室葛
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(26)chamberlain,B.H.,A ComparisonoftheJapaneseand LuchuanLanguages,TransacfL'onsQFlhe AslaticSociefyofJapan,VoLXXl17,1895,pp・38-39;ThingsJapan,1890,pp.482-483
(27)Aston,W.G.,Tra′7SaCfE'onsoftheAsl-aticSocietyQfJapan,Vol.XXVll;ShE'nfo,P.237 (28
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『日本書紀』原文では天皇のことばとなっている。 (訳者注 )史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) L' ゆ つなか
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「敢 り緒 へ る 縄 葛」
「取 り葺 け る 草葉」
とい うこ とばが出て きます。縄 葛 はわ ら縄 に 変 わ ってい ますが、昔 の建 築 の様 子 が は っ き りと措写 されてい ます。地 面 か ら20cmほ どの 高 さの ところに組 まれ た四角 い格子 の上 に稲 を茎 つ きの ま ま円錐 状 に積 み 重 ね て い き ま す。穂 は もちろん内側 に向 けてあ るので、茎 の部分 で屋根 の ように覆 われ てい ます。 わ ら 縄 で固定 し、先端 で茎 をひ とつ に束 ね ます。 私 は、 この積 み稲 を沖縄 島南 部糸満 の近 くに あ る小 禄 高 良村 と中部 の大 山村 で見 ま した。 これ と似 た ものが 日本 に もあ り、私 は九州西 ← 岸 の肥 後地 方、筑後 地方、肥 前 地方 や 中部 日 本 の南部 にある諏訪湖沿岸 地方や相模湾岸 、武蔵で見 ま した. ただ、そゴ1は積 み稲 で はな く積み藁 で、肥料 にす るため にわ らや じゃがい もの葉 な どを円錐状 に積み重ねた もので、 先端部分 が ひ とつ に束 ね られ た球形 (見 た 目では傘形)の藁がかぶせ てあ ります。全体 をよ く固定す るために積み重 ね た ものの 中央 に丸太 を立 ててあるこ ともあ って、テ ン トやユ ル トに よ く似 てい ます(,この ような 「積み物」 の分布 について調べ るの も面 白いか も しれ ま せ ん。 もう一 つの倉 は、 ニ ュー ギニ アや南 太平洋諸 島の杭 上 家屋 を思 わせ ます. この倉 は4
つ あるい は6つの高 さ約3mの木柱 の上 に立 ってい ます。奄美大 島では、 4本 の梁の上 に 側壁 の ない床板 だけ張 られ た屋根部屋が作 らjtてい ます。屋根 は寄せ棟造 りで藁葺 きです。 倉 の入 り口は、床 のほぼ中央 に落 と し戸 用の四角 い口が あ って、 もちろんは しごを使 って 登 らなけれ ばな りませ ん (図2)。沖縄 では形 が少 し変 わ って、倉 には屋根 と側壁が あ り ます。壁 は垂直 だった り上 か ら下- と斜 め になってい た りします (図3)。竹 で編 まれて 数 器 璃 儲 か ⋮ 良 かれ の 媒 顎 { : ,寸 心 、 c IO の憩
潮 如 jJl一ノL, 、- ●-の 余 な 淵 rT -か 草 /Jざ JAそノAJJぴ T,Lさ/)く7, 次に起 きて、自ら衣 帯を 整 ひてわか117'かつわ ,) /-
EiL,, (29) 『日本書紀』原文は以下の通 り/Jざ 。 (訳者注 JAそノAJJぴ T,Lさ/ 「天 こ此 ん置 の 貯 鳩 朋 築 地棟 な こ此 白を 折 5日 .F調 州 家 稚窒M家 る 山 御 の け ∵ 十 . 産 か 圭 帖 -1 , ;JJ 築 九篠 は = 堅立
つる
柱 は 林 的虜 の の こ此 /J/I =・ の 長 -取 九締 る ナ エ茸 ==5IiiZ ヒ 取 0 .日 . り。・ ・」 『日本書紀 (≡)
』(
岩波書店 1994年)pp.108-110より引用。-71-史料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) いた り木の柵 でで きてい る側壁 に藁葺 さの寄せ棟造 りの屋根 がの ってい ます。 この倉 の入 り口は側壁 の一 つ に作 られ ます
。 4
本 の支柱 で囲 まれ た空 間 は、板壁 を と りつ けて家畜小 屋 になる こ ともあ ります。沖縄 北都 の村 で は 村 人が 共同で農作物 の貯 蔵 に使 ってい る4
つ で ひ とま とま りの群倉 を見 ま した (図4
)。 この型 の倉 を私 は これ まで 日本 で も朝鮮 、 中 国 で も見 た こ とが あ りませ ん。 ア イヌ の倉 は、高床 式 とい う点で沖縄 の と似 てい るので すが 、私 が知 る限 り、常 に高 さが幅の2倍 ほ どの矩 形 です。 また、 ア イヌの倉 には必 ず垂 直 な壁 が あ り、 屋 根 はふ つ うの 切 妻 造 りで す。 ち なみ に これ と同 じ構造 の穀 物倉 が 台湾 の ダイヤ ル族 に も見 られ ます。反対 に、他 の 研 究者 や私の観察 した限 りで も琉球 には この ような倉 はみ られ ませ ん0 しか しなが ら、 アイヌの倉 の型 は、琉球 の墓でみ る ことので きる棺 やそれ とよ く似 た 日 本 の カラピッの形 に反映 されてい る と思 い ます。で もその前 に、琉球 にあ る墓の型 につい てお話 したい と思 い ます。 島の人 々は、一風変 わった埋葬 をす るのです。遺体は、 まず箱 形 の木棺 に納 め られて墓 に埋葬 され ます。数年後、墓 は開け られ、酒で骨 をきれいに洗い、 陶製 の骨壷 に納 め て再 び埋葬 します。 この珍 しい風習 に関 して中国の文献 に、骨 を洗 うミ ヤオ族 や江西省 の蛮族 の記録があ ります。墓 はたいてい丘 陵斜面 の軟 らかい岩 を掘 った3 (.iり) - 6畳 ほ どの広 さで高 さ1.5mほ どの穴 の 中にあ ります。墓室 の後方 の壁 には幅広 の石段 が あ り、その上 に親等順 に一族 の骨壷が置 かれてい ます。前 方 に もたいてい骨壷が 置かれ てい ます。 しば しば最上段 の中央 に も並べ られてい ます。 その前 には厨子 禁があ り、ず っ と昔 の祖先の骨 が一緒 に納 め られてい ます.穴 の前方 には遺体が収 め られ た木棺 が置 かれ ます。墓室へ の入 り口は石板で閉 じられていて、墓 は一族 の家柄、 身分、財 力 に応 じて立 派 に造 られてい ます。庶民 の墓 は今 日で もず っ と古風 な型 で入 り口は石でふ さがれている だけです (図5)。特 に明代以降中国の影響 を強 く受 けた沖縄南部 では、裕福 な人々は、 中国南 部の馬蹄形様式 の墓 をまねて、沖縄 で亀 甲墓 (カ ミナ クーバ カ) と呼 ばれ る墓 を造 りま した。墓 の屋根 は白い石灰岩 で馬蹄形 に覆われて、 きれい に壁 が塗 られていて、墓室 (30)1畳-3×6フィー ト (1フィー トは約30.5cm)史 料 編 集 室 紀 要 第 30号 (2005) (i)) の前部 は大 きな石板で覆 われてい ます。特別 に壁 に塗 られた壁轟 は、墓室への入 り日を示 してい ます。亀 甲墓 の前庭 は、角石で壁がめ ぐらされてい ます。 この ような墓の様式 は、 チ ェ ンバ レンによる と少 な くとも500年前、つ ま り明代 に伝 わった もの とされてい ますo 彼 は、他の島では時 々、遺体 の周 りを石で輪状 に囲み、 2つの良い石板で蓋 を した占い墓 し与2) の様式 を見 る ことがで きる と書いてい ます。沖縄 島北部- の旅行 の時、山が ちで交通の便 も悪い国頭 で、私 は亀 甲墓がほ とん ど見 られない ことに きづ きま した。かわ りに大 きさは 違 い ますが、日本 の耐 火性の倉 とよ く比較 で きる型 の墓が多いのです。 この ような墓 は、 丘陵斜面 を利用 して建 て られ るのではな く、平地 に造 られ、矩形 の床 面 と石 を積み重jaて 漆喰で塗 り固めた70cm- 1mの高さの壁でで きてい ます。大変古 い墓の屋根 は平 らで外見 上は ドイツの一般 的 な墓 と似 てい ますo ただ、沖縄のは もっ と大 き くて壁があ りますo新 しい墓 は破風造 りの屋根 になってい ます (図
6
)。平墓 の内部が どうなってい るのかは、 残念 なが ら調査 、確認 で きませ んで したが、墓の高 さが低 い ことか ら、 もともと墓室 はな く古い遺体の とに新 しい遺体 を重ねて埋葬 した家族墓である と推測 され ます。実際 に八重 山畠では墓 は今で も共同墓であ り、縦7フィー ト、横6フ ィー ト、高 さ3-4フィー トの 石垣が巡 らされ、数本 の格子状 に組 まれた棒 の 上に重石 をのせ ただけの粗末 な造 りです (図 7)o この ような墓 を野屍墓 とい うと伊波先生が教 えて くれ ま した。衛生上の理 由か ら文化程度の進 んだ沖縄 島では腐臭 を防 ぐため に しっか りと屋根 で覆 うことが許 され ま し た。デ ・グルー ト(dcGroot)が漢文の文献で直接確かめた ところ、骨壷 は16、17世紀 に 対岸の福 建省 に伝 わ った とされてい ますが、おそ らく琉球 に骨壷が伝 わった とき、共同墓 の石垣 を拡張 して墓室 つ きの石基 に したの だ と思い ます。 また宮古 島に も日本の倉 の ような墓が ある といい ます。沖縄 の古 い穴 墓 では、倉型 のお墓 に見 られる山形の蓋の ついた石製の骨壷 も見つかってい ます し、 他 には今 日の琉球家屋 に見 られ る寄せ棟型 の蓋がついたの もあ ります。最古の陶製の 骨壷 はおそ ら く福建省 か らもた らされた も の と思 われ ますが、瓦屋根の文様が彫 り込(
3
1)SlmOn,E.,前掲書 ,pp.110-111の写真 及 び図参 照 。(32)chamberlaln,B.H.,TheLuChuIslandsandtheirinhabitants,GeographllcaiJourna/No.4Vol.V,1895, p.452
(33)deGl・00t,J.∫.M.,TheReligiousSystem ()fChina,Vol.描,p.105()
3-史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) まれた朱色の塗料痕が残 る破風造 りの蓋がついてい ます。後の時代 の ものは、蓮 な どの仏 ∼ll 教 の装飾がふ んだんに施 されてい ます。 すで にお話 しま した ように、それぞゴ1の島には住民が大和墓 と呼ぶ墓があ りますO私の 知 る限 りでは与那 国一削 こ大和墓がある とい う報告 はあ りませ ん。私 自身 もこの烏をまだ訪 れ た こ とがあ りませ ん。石垣 良平久保村 の近 くに、30m程 の穴 に縦 120cm、横30cm程 の木 箱がい くつ も置かれてい ま した。そ して、その中には人骨 が入っていたのです。それか ら、 残念 なが らそれ に関す るメモやスケ ッチはないのですが、梓海村 と川平村 との間に、角石 でで きた5m半四方の石垣 に囲 まれて石棺が-一つ 置かれたお墓があ りましたo石垣 は、13
m
四方 ほ どの大 きさの石垣で さらに囲われてい ま した。石棺の中か ら日本 の文献 にでて く るいわゆる勾玉が見つか りま した。その近 くには、 まだ他 にその ような古 いお墓がた くさ (.i-)) んあ るはずですo以下 にい くつか ご紹介 します。私がすで に日本語の文献 に基づいて拙論 で述べ ま した ように、 2度 目の琉球訪問の ときに沖縄 島で最古 の墓 を訪れ ま したので、 こ こで皆様 にスケ ッチ をお見せ したい と思い ます。 冒頭ですでに述べ ました為朝伝説 と関わ りのある運天港 の近 くで約60-80mほ どの高 さの ところにある琉球石灰岩の洞窟の中に、 通称 「百按司墓」 があ ります。「百 (モモ)」の語 は、古 日本語で も数が多い ことを意味 し ていた らしいので、おそ らく正確 には 「数多 くの按 司の墓」の意です。崖 をよじ登 る と縁 の樹 木 に覆 われた5mほ どの深 さのあ ま りきれいではない洞窟が見 えます。その入 り口は、 自然 の石 を漆喰で塗 り固めただけの約2mほ どの高 さの半円形の石垣で塞がれてい ます。 その左側 に2番 目の低 くて小 さめの半円形の石垣 が、 さらにその左側 に1番 目の石垣 と高 さ と大 きさが ほ ぼ同 じ3番 目の石垣があ ります。 ただ、3
番 目の石垣 は切石 でで きて い ます (図 8
)。数 年前 、 この琉 球 石灰 岩の洞窟 の 中で 日本 人の作 家菊池幽 方 は、珍 しい木組 み に遭遇 しま した。私 が訪 問 した ときには、残念 なが ら住民 の 無 関心 のせ いですで に崩 頚1て しまってい ま した。 それ は4.5m ほ どの高 さの矩 形 の側 面 を もつ 家形 の木 棺 で、 1.8mほ ど の長 さの4本 の大権 に厚板 を斜 め に組 ん (34)simon,E‥ 前掲書,p,118参照。 (35)simon,E.,同上,p.107参照o史料 編 集 室紀 要 第30号 (2005) li71 だ山形 の屋根 がの ってい ま した。倉 を思 わせ るこの木組 み には側壁 はあ りませ んで した。 この下 に切妻屋根 のついた高足式木棺が
3
つ置 かれてい ま したが、それ らは前述 の アイヌ の倉 や 日本 の カラ ピッ とは似 てい ませ ん。今 では この家形 の木組みの支柱 は朽 ち折 れて、 (.∼H∼ 壊 れ た屋根 が一つ を除いて棺 を押 しつぶ してい ま した (図9)。 2つ 目の国壁 では何 も発 見で きなか ったのですが、住民か らきいた ところ棺 か壷 の ような ものがあ った との こ とで した。で も、木や骨 は風化 Lやすいので、それ も何 を意味 してい るかは不 明ですが。 3つ t'w) 目の囲壁 には、小 さな木組 みが残 ってい ます。前述 の もの と同様 に崩れてい るのですが造 りは同 じで、大 きさが小 さいだけです。残念 なが ら側壁 は庄板が くぎ打 たれて塞がれてい たので、詳細 な調査 はで きませ んで した。で も、 中には木棺があるはず です。 3番 目の石 垣 の隣 には もう一つ岩穴が あって、 その入 り口は一部壊 れてい ますが板 で閉 じられてい ま す 。 ここには明 らか に最近 の もの とわか る色 々な形 の壷 が並べ られてい ま した。 日本語の 記 録 に よる とそれ らは一部1
9
世紀初頭 の もの もあ り、運天の住 人の骨 を納 め るの に使 われ てい ま した。 「百按 司墓」 の下 には後期 時代 の標準 的な様式 で建 て られた北 山王の墓所 が あ ります。 それ らは以前 は今帰仁 の王城 の近 くにあったのですが、 一沖縄 は玉城王(
1
31
4-1
3
3
6
年) の下 で、南 山、 中山、北 山の3
つの王 国 に分 かれてお り、北 山王 国は1
41
6
年 まで続 きま し た-1
7
4
9
年 に硯在 の所へ移 され ま した。海岸線 をもっ と右へ い くと他 の興味深 い墓穴群 も あ ります。海抜1
0m
ほ どの高 さの石灰 岩の崖 にた くさんの穴 があって、その 中 に横長の矩 形 の木造 家形墓が作 られてい ます。前面 の中ほ どに入 りロー現在 は塞がれてい る-があっ て、側 面 は圧板が張 られ切妻屋根 の ようになってい ま した。急斜面の岩壁 には階段 の跡 は な く、墓群- の通路 はあ りませ ん。墓 は一部か な り壊 れ た り崩れた りしてい ます。あ る墓 は壁が崩 れ ていて内部 をみ ることがで きま した。 ここに箱 型の平 たいふ たのつ いた足 のな い木棺が あ りま した (図1
0、l
l
)
0 (Zり すで に述べ ま した ように、 これ らの墓 はすべ て大和墓 と呼 ばれていて、大和 人、つ ま り 日本 人が作 った と言 われてい ます。私 が知 る限 り、 この ような構造 の墓 は 日本 で は全 く知 られてい ませ ん。 日本 人 と琉球人の共通 の祖先が これ らの墓 を建 てた とい えるか どうかは、 私 には まだ結論 は出せ ませ ん。木棺 の家形様式 は首 里の王墓 (玉陵) に も取 り入れ られ、 さ らに発展 してい った と思 い ます。玉陵 は、私 が確認 で きた限 りでは、1
5
0
1
年 に建 て られ (37)simon,E‥前掲書,p.108参照。 (38)simon,E.,同上,p,109参照。日本語の記録には 「3番目」 と書かれている,J (39)Simon,E.,同上,p.108参照。日本語の記録には 「2番目」 と書かれている。(
4
0
)
文脈か ら判断すると、「達夫の無名の古墓群」 を指 していると′酎 っれる。(訳者注) -75-史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) I ま した。岩穴のか わ りに切妻屋根 を もつ石造建造物 が3つ建 て られてい ます。平 地 に建 て られていて、 二重 の石垣 で囲 まれてい ます
。3
つの階段が通 じてい る墓室前段 に運天の琉 球石灰 岩 の洞窟 にある木墓 に形が似 てい る石造 りの墓室が3つ並 んでい ます。 ここで も昔 なが らの墓 の造 りにな らってい ま したが、屋外 での立地で あること、墓 をで きるだけ文夫 にす るため に建築材 と して木材で はな く石材 を使用 し、石壁 も造 りま した。 当時すで に普 及 してい た華南 の亀 甲墓 の型で王墓 を造 らなかった こ とか ら、家形 の墓型 が国家的 な もの にふ さわ しい と考 え られていた ようです。〉 しか しなが らさ らに昔 の王墓 は また別の様 式で造 られてい ま したO前 に述べ ま した為朝 伝 説 との関 わ りの ある沖縄 島南西岸 の牧港港近 くの浦添 には、浦添城跡 の近 くに 「よん ど れ」 と呼 ばれ る墓 地があ ります。 ここには、英阻 (1299年)か ら尚思紹 (1421年) までの 国王の遺体が埋 葬 されてい るそ うです。 また、島津侵攻時の国王 尚寧 (1589-1620年)の 遺体 も葬 られてい ます。彼 は、島津侵攻 を阻め なか った こ とで中山の隆盛 時代の強大 な国 王 たち とともに眠 る資格 が ない とい って、彼 のたっての望みで首里 の王墓 には埋 葬 され ま (ll)i せ んで した。私 は英祖王が極楽山 と呼 んだ丘陵斜面 にある墓 を前 回の旅行 時 に調査 しま し た (図12)。入 り口は、岩壁 を掘 りぬいた2.5- 3mほ どの高 さの横穴へ と通 じてい ます。 それ を通 りぬ ける とほぼ正方形の広場が あ ります。 その右側 (東側)
は部分 的に補強 され た丘陵斜面 で、その他 の側 面 は石垣 で囲 まれてい ます。北側 の壁 は と くに頑丈で 高 く、そ の真 ん 中 に段 へ と続 く門 が あ ります 。 そ れ を通 り ぬ け る と最 初 の広場 よ り 高 い位 置 にあ る2つ 目の 正 方 形 の 広 場 が あ り ま す 。 こ こで も東 側 は石灰 岩 の岩壁 で 、反 対 の西側 は内側 が外 側 よ り低 くな ってい る二 重 の 石 垣 に な ってい ますO 北 側 も石壁 に な って い ます 。 岩壁 に は2
つ の大 きな墓 室へ 通 T I J墓室 南 西 沖縄島浦添城跡の英祖王と尚翠玉の甚所 著者メモからのスケッチ (1913年4月 8日) 図12 東 岩穴? -.T -I--1'ニューT LI:ユ ーrr -J ll㍗ 了/緒 ..・,; (41)Stimon,E.,前 掲書,pp.119-120の図参照o (42)英狙王の時代、初めての仏教の僧侶が沖縄-やってきました。英阻王は、ここに極楽寺を建立 しました。(伊地知貞馨 『沖縄志 一名琉球志三
』1877年,p.20b)史 料 編 集 室 紀 要 第
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号(
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)
じる入 り口があ ります (図1
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、1
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)
。岩 をきれい に掘 りこんで、左側 (北側) の墓 の形 は 縦長の長方形で、右側 (南側)は横長 の長方形 です。角石の面 をアーチ門の ように少 しく りぬいた入 り口が あ ります。その入 り口はさらにへ こんだ矩形の石板でふ さがれてい ます。 そのため入 り口には壁亮があ ります。 ちなみ に右側の墓 の壁轟は もっと深 く、角石で塞が れていて、そ こに大 きな段差が生 じてい ます。石段 は、入 り口へ と続いてい ます。左側 の 墓の入 り口の両側 には石柱が立 ってい ます。その上 に狛犬の ような石像が2
つ立 ってい ま す。 また右側 の墓 の壁 は、扉 の両側 に正方形の窓の ようなもの-ここか ら内部 をのぞ くこu
トEk とはで きませ ん-が4
つついてい ます (図1
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、1
4
)
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つの墓の間には1
6
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0
年 に古代の琉 文で書かれた長文の碑 文が建 ってい ます。それ には、尚牢が ここに埋葬 されている と記 さ jtてい ます。 尚牢が埋葬 された ときの墓所が現在 の ままだったか どうかはこれ まで解明 さ ぐjく れてい ませ ん。入 り口や壁 で囲 まれた庭 といい、墓所 は明 らか に 城 と良 く似 てい ます。 それゆえ私 は、 この墓所が尚寧の埋葬の後 に首里城 に似せ た形 になった と考 えます。おそ ら く1
3
世紀 の歴代 国王 を岩の東側 の 自然 の岩穴 に、「百按 司墓」 にあった ような木の棺 に いれて埋葬 したので しょう。 もっと古 い時代 のお墓 を浦添城のす ぐ近 くで発見 した ことか らこの仮定 に至 りま した。城跡か ら南西の地点で古 い瓦 を探 しているときに3-4m
ほ ど の高 さの琉球石灰岩 の岩壁 に くぼみ を見つけ ま した。やぶ に覆われた地面 は岩 にむか って 下方へ低 くなってい ま した。岩壁 に接 しているほ とん ど崩れかけた3つの石垣 の残骸 とそ の後 ろに3つの穴が見 えます (図15)。石が内側-落 ちて、入 り口をほ とん ど塞 いでいて、 や っとで南 と北西 の穴 の内へ入れるだけです。最初の墓穴 は入 り口か ら2m
ほ どの深 さで、 琉球石灰岩の洞窟の ようです。中はか な り広 く、地面 には石や屋根瓦の破片がた くさん落 ちてい ま したO そ れ ら は城 の一部 か、 石垣 が だ んだん と崩 れ て きた : l と きに落 ちて きた もの tl
d
か 、穴 の 内部 に瓦 葺 の'
,
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建 物 が あ ったの か ど うI
L し は情 報 が ない の で残 念 &I なが ら分 か りませ ん。 しか し私 は この穴 は 間 軌 Lー 違 い な く墓 地 で あ っ た しノ 岩穴? 浦添城近 くの盲基 (舜天王とその子孫の?) 著者メモからのスケ ッチ(1913年4月8日) 図15(
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)
原文は図1
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、1
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であるが、訳者が訂正 した。(訳者注) -77-史料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005) と考 え ます。 なぜ な ら石垣 の造 りが 「百按 司墓」 と同 じであ ることは明 白だか らです。真 ん中の穴 は石 で塞がれていて、 中へ入 る こ とはで きませ んで した。 しか し、北西 の地点で 縦50cm横30cm高 さ70cmほ どの赤褐色 の箱 形 の嚢 を見 つけ ま した。蓋 には南 中国風 の屋根 の ように端 に龍頭がついていて、瓦文様 の彫刻、朱色 の跡 があ り、嚢 には宋色 の蓮 の花 の 絵 が わず か なが ら残 ってい ますo 中には骨 の 一部が入 ってい ま した。古 い時代 の ものでは あ りませ んで したが、 この穴が墓 と して使 われていた事実 を証 明す る ものです。 文治年 間
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年) に浦添城 を建 てた といわれ る舜天王が本 当に歴史上 の人物 だ った と した ら、 これが これ まで全 く知 られてい なか った この王の墓 で はないか とい う私の 仮説 一私 は的外 れで もない と信 じてい ますが -を疑 うべ き理 由はあ りませ ん。舜天 は最初、 浦添按 司 だったので、今 日で も農民が 自分 の土地 を最後の安住 の地 とす る ように彼が 自身 の生 まれ た城 に埋 葬 されたのは有 り得 る こ とです。 それゆえすで にお話 しま した英祖王他 歴代 国王 の墓 が、 もともと石垣 で囲 まれた一つあ るいは複数 の岩穴 で あったのではないか とも考 え られ ます。 また、今 日の形 はおそ ら く、 尚寧王の子孫が彼 の墓 を質素す ぎてふ さ わ しくない と思 い、尚牢が ここに埋 葬 され た後造営 した ものか もしれ ませ ん。 琉球 の古 い墓 の起源 は、 これ まで私 には謎 であ りま した。 そ してす で に 申 し上 げ ま した ように これ と類似 の ものは古代 日本 にはあ りませ んで した。 シーボ)i,トは アイヌの長老の lい 墓 は琉球 の木組 みの屋形墓 の造 りに似 てい る と言 ってい ます。 また アイヌの倉 は運天 にあ る 「百按 司墓」 の高足式 の棺 と本 当 に よ く似 てい る と思 い ます。 日本 人 と琉球人の共通の 祖先 は もともと亡 くなった人 を石棺 (右脚 ) に入れて岩穴 の 中に葬 って死後 の家 と して特 別 な岩屋 を用意 したのか も しれ ませ ん。 また、琉球 の女性 を妾 に した外 来者 である支配者 は、かつ て彼 らが征服 したアイヌの長老 の墓 の ような立派 な墓 を造 ったので しょう。 もし 古代 日本 に も類似 の墓 があった ことが分かれば、琉球が古代 日本 を映す鏡 だ とい うこ とを 示す有利 な証拠 となるで しょう。(44)YonSiebold,P.F.,NipI)on,Bd.Vll,p.203;Weule,K.,LeitjbdenderVO/kerkunde,Bibliographisches linstitut,Leipzig,1912 図版120の10番の図参照0
史料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005)
添付資料 :エ ドム ン ト。ジーモン関連新聞記事
1. ジ ー モ ン 関 連 新 聞 記 事 見 出 し- 覧 凡例 1. 本 見 出 し一 覧 は、1910年3月8日- 9日、1913年3月29日- 4月5日に沖 縄 毎 日新 聞 及 び琉 球 新 報 に 掲 載 され た ジ ー モ ン関 連 記 事 の 見 出 し と記 事 内 容 の 要 約 で あ る。 2.年 号 は 、 明 治 をM、 大 正 をTと表 記 した 。 3.見 出 しは 、 原 文 の ま まで あ る。 4.「琉 球 諸 島 に野 す る凋 逸 人 の経 済 的 観 察 」 の (≡ ) につ い て は不 明 。 沖縄毎 日新聞 西暦 (年号 )月/日 見 出 し 内 容 1910(M43)3/8 シイモン宣教師来航 ジーモン夫妻来県o安里のシュワルツ氏宅に滞在o 1910(M43)3/9 シーモン氏酪酸を訪ふ ジーモン氏は、県庁に河村事務次官を訪ねたo 1913(rr2)3/29 渦人シーモン博士乗鯖 県立図書館を訪れ伊波普猷館長と人種及び考古学上に関し談話するo 西暦 (年号)月/日 見 出 し 内 容 1910(M43)3/9 濁逸領事館員来県系 長崎市駐在ドイツ領事館員ジーモン氏来県O 1913(T2)3/29 濁逸人の琉球研究 長崎高等商業学校講師ジーモン氏、琉球研究のため再来県o伊波氏と大 山のオモロ主取の所を訪ね、オモロの原本を見るo 1913(T2)3/30 シモン博士を訪ふ 伊波氏とジーモン氏にインタービューO滞在 中は、嘉手納 、恩納、名護 、 今帰仁を訪ねる予定o 1913(T2)4/2 今蹄仁 まで (イ便) 宜野湾大山村のヌ-ル主取安仁屋翁を訪問o「稲之穂祭」のオモロを見た 後、普天間洞窟、北谷の野国総官の墓も訪問o洗骨焼香祭を見るo 1913(T2)4/6 今蹄仁 まで (ロ便) 嘉手納から馬車で恩納-o前兼久、谷茶、瀬良垣は土地がやせて農作物 ができないので、芋を常食としている話を聞くoまた、芋の不作時に蘇鉄を 食べ、中毒死することを聞くo 1913(T2)4/7 今蹄仁 まで (-便) 今帰仁から運天-〇百按 司墓のスケッチや写真を撮るo兼次小学校長原 秀次郎氏の案内で、今泊村のノロクモイを訪問し、宝物を見せてもらうo 1913(T2)4/8 シイモン博士の香露座見物 伊波普猷と組踊 「花売之縁」と琉球史劇「恩納松金」を見物するo 1913(T2)4/8 今蹄仁まで(ニ便) 山人嫡松正医師宅でユタに会う○午後は名護城-oノロ殿 内で曲玉や鑑 を見るo 1913(T2)4/9 シモン博士浦添行 伊波文学士と浦添ようどれ-a 1913(T2)4/9 濁逸人の見たる琉球踊 -昨晩、伊波氏と香露座の芝居を見物した時の状況O 1913(T2)4/12 シイモン博士出鍍 4月11日、沖縄丸で長崎-帰るo 1913(T2)3/31 琉 球 諸 島 に封す る猫 逸 日本経済新誌第7巻第6号 (明治43年6月18日発行)に掲載されたジーモ 人の経酒的観察 (-) ン博士の論文O 1913(T2)4/2 琉 球 諸 島 に封 す る濁 逸人の経済的観察 (二) 同上 1913(T2)4/3 琉 球 諸 島 に封 す る燭 逸人の経済的観察 (四) 同上 _79_史 料 編 集 室 紀 要 第30号 (2005)
2.
エ ドムン ト・ジーモ ン関連新 聞記事抜粋 凡例 1.本 抜粋 は、明治43年 (1910)3月8日-9日、大正2年 (1913)3月29日-4月5日に沖縄毎 E]新聞及 び琉球新報 に掲載 され た ジーモ ン関連記事 の抜粋 である。 2.基本的に旧字体 は新字体 に直 したが、見 出 しに関 しては原文 の ままに した。 3.原 文において判読不 明の箇所 は口 とした。 4.明 らか に間違 い と思 われる箇所 には、原文の後 ろに括 弧書 きで正 しい と思 われ る字 を挿入 した。 5.琉球諸島に封する猫逸人の経酒 的観察 (-)∼ (二)、(四)∼ (五)の抜粋 は割愛した。 沖縄毎 日新聞 明治 四十三年三 月八 日 (火曜 日)二面 ◎ シイモ ン宣教 師来麟 独逸 人宣教 師 シイモ ン夫妻 は昨 日の馬 山丸 にて来県直 ちに安里 なる シュ ワル ツ宣教 師宅へ投宿 した h 明治四十三年三月九 日 (水曜 日)二面 ◎ シーモ ン氏願廉 を訪 ふ 一昨七 日入港 の馬 山丸 にて来県 した る長崎港駐在独逸帝国領事官員法学士 エ ドム ン、 シーモ ン氏 は 昨 日夫 人同道河村事務官 を県庁 に訪 ひた り氏 は荒川長崎県知事の紹 介状 を持 し居 る由滞在 日数約二 週 間の予定 大正二年三月二十九 日 (土曜 日)二面 ◎猫 人 シーモ ン博 士来願 一昨 日の平壌丸便 にて独 乙人エ トモ ン ドシーモ ンといふ人来県せ り氏 は法学博士兼文学博士 の称号 を有 し目下長崎高等商業学校 にて教鞭 を取 りつ ゝある由にて二三年前 に本 県 を訪 問 したるあ りとの こ とにて沖縄 の人種土俗等 に関 して趣味深 く先般独 乙国 ライプチ ヒにて琉球 に関す る一千頁有余 の 書 を著 せ しこ ともあ りといふロ今 度 の再遊 は猫用 しく琉球 に関す る研究 を遂 げる積 りにて十 日位滞 在 の予定 なるが その間 に天気次第久高島に渡 り中頭 を経 由 して国頭 に赴 く由、氏 は 日本語 も達者 に して大辺快活 な り年の頃三十四五 の好紳士 な りといふ。昨 日は県立図書館 を音信 れ館 長 と人種上古 翠 (考古)挙上 に関す る談話 を為せ し由 大正二年三月三十一 日 (月曜 日)二面 ⑳ シモ ン博士 の著書 独逸 人エ ドモ ン ト ・シモ ン博士 に琉 球 に関す る著述 ある事 は既報 の通 りなるが該著述 は琉球 島研究 資料 と称 し人種学 上、土俗学上の研 究 に して同氏 は此 の論 文 をライプチ ヒ大学 に提 出 したるこ とに 依 りて文学博 士 の学位 を同大学 よ り受 けた りと云ふ此 の著述 は近 き内に本県 に も到着する との こと な り 琉球新報 明治四+三年 三月九 日 (水 曜 日)一面 ○裾逸領事館員東森 長崎市駐在独逸領事館 員法学士エ ドム ン ド、 シーモ ン氏 は令 閏同行 一昨 日入港 の馬 山丸候 にて来県史料 編 集 室紀 要 第30号 (2005) し正午過 ぎ県庁 を訪問 し荒川長崎県知事 の紹介状 を有 して河村事務官 に面会 した り来県の用向は県 情 の視察にあ り滞在 は約一週 間の予定ロロ シュワルツロ宅 に投宿せ り 大正二年三月二十九 日 (土曜 日)二面 ○滞逸人の琉球研究 長崎高等独逸話商業学校独逸学担任講師エ トモ ン ト、 シーモ ン氏琉球研究の為め来県 し通堂の池畑 旅館 に投宿せ り氏 は法学文学 の学位 を有 し琉球研究 に熱心 し二三年前 に も来県せ る事あ りて既 に琉 球 の人種、風俗歴史 に関す る千頁余の本 を郷国 ライブチ ッヒに於 て出版 した りとの事 にて今回の再 遊 は尚は一層 詳細 に研究す る筈 に して天気次第久高島に渡 り更 に中頭 を経 て国頭 に旅行 し約 十日間 滞在 の予定 な りと云ふ氏 は 日本語 も達者 に して和漢文にも通ぜ りと昨 日伊波文学士 を訪 問の際大山 のオモロ主取 の処 に行 きオモ ロの原本 を見た しなど語 たる由 大正二年三月三十 日 (日曜 日)二面 ○ シモ ン博士 を訪ふ ▲ 昨 日は伊波普猷氏 とエ ドモ ン ド、 シモ ン博士 を池畑旅館 に訪問す博士 は曾て長崎 なる独逸領事館 に職 を奉 じ当時官命 を帯 て本県 を視察 したる結果琉球の研究 と云ふ論文 を提 出 して文学博士の学位 を授 け られ し程あ りて本県の事物 に対 して深 き興味 を有せ る もの ゝ如 し ▲話 は墓の構造門の櫓へ稲塚 の事 オモロや ノロクモ イ歴史宗教 よ り年中行事 とそれか らそれへ端緒 が 出れば続 々繰 り出 されて殆 ん ど際限な く和洋の文字 を以 て綴 られたる戟琉球 に関す る載籍は尽 く 猟渉せ るな らんと恩 はる ゝ程豊富 なる知識 を有せ り ▲ロ 国の博物館 に送 る とて男女の替杯集め居れるが琉球の研究 は必 要 なれば金 を支出 して採集せ ん こ とを勧告 したれ ども支出の余給 な き為め其侭 になれるが博物館 よ り支JljL呉れるな らば永 く在留 して島々まで も視察 した しと語れ り ▲博士 は明後 日那覇 を発 し嘉手納、恩納 に一泊 して名護 に行 きそれ よ り今帰仁 まで歴遊 し帰覇の上 久高島に遊 び浦添 のエ ー ドリを見て来月七 日頃長崎 に帰る予定 なる由なるか何 日と分か らね ど今一 度来遊する積 りな りと語 れ り記者 は博士 の談話 を聞 き日本 の学者が沖縄 の事 まで欧米学者の後塵 を 拝す るを遺憾 に思ふ 大正二年四月二 目 (水 曜 日)二面 ○今蹄仁 まで (イ便) 旅行 記者 ▲ シイモ ン博士 と記者 の中に神戸の ワンタイン社の辻誠二君が加 は り三人は嘉手納で一泊する予定 で 出発す、行 々伴 の上で博士 は′ト踊 りしなが ら辻君や記者 を省みては頻 りと話 しを続 ける見る もの 全 て を研究資紬 こしや うとす る熱心 には驚 く通行 人に対 して 「ツー ウガマ ビラ」で博士頻 りに愛橋 を振 りまいている 宜野湾大 山相のヌール主取安仁屋翁 を訪ふ 「稲之穂祭」 のオモ ロを見 る、其六 ケ敷 オモロも…一々 読 まうとす るか ら堪 らない、翁 に乞ふて其 オモ ロの謡 をも聞 くし曲玉 も見 る と博士 は其 繭玉の由来 等 に興味がある と見 えて頻 りと説明 もして呉れる、態 々昔風 の姿 と云ふ注文で早速安仁屋翁の写真 を も写す、尚ほ御祭 の時の儀式 の事等 も聞いて其処 を辞 して普天間に向ふ、普天間権現 向って御拝 す る人々を珍 らしさうに見 て静に博士 と辻君が倖 んでいる、明 りをつけて三人 して洞穴の中に這 入 る、 博士 は地質学 に も頗 る興味 を持 っ てい る ら しく 一々説 明 を しなが ら暗 い穴 の 中 を過 る、並 (普)天間か ら北谷 に出て野固相の総官野国の墓 を見る、丁度其隣の墓地で洗骨焼香祭があって御 拝 をす る有様 に奇の感 を起 した らしく博士 も辻君 も物 も云はず に其 人達許 りを眺めている 更 に其 辺 の空墓に骨 を納めた聾が十位 もあるが滅多に見 えない墓の中の景 だ と云って博士 はスケ ッチ をす る、聾の種類 を一一一一々見 て是れは未だ近代 の ものあれは二三百年前の ものだ と一々指 しなが らに云ふ、 嘉手納の旅館 に着 いたのが黄昏 の時分、旅館の一重 に陣取って博士 と辻君が クックを勉 めてス-フ を造った り銅焼 を した りして夕食を済す、流暢 な英語で辻君が話に興 を漆へ 日本 と独逸英国の家庭 の比較論等 と話 しに花 を咲か した _81_