95 【研究ノート】
戦後沖縄における唄者のイメージと役割の変遷
―民謡クラブ・民謡酒場という『場』に着目して―
澤田聖也
∗ 要旨 現在,唄者は沖縄民謡の担い手として,テレビ,ラジオ,レコードなどのメディアやフェス ティバルやイベントなどの出演,民謡酒場での演奏など多岐にわたる活動をし,人々から高い 支持を得ている。しかし,唄者の歴史を沖縄戦前後まで遡ると,現在の唄者のイメージや役割 と大きく異なり,世間一般的に高い評価を得るような存在ではなかった。唄者のイメージは時 代を下ることにプラスになり,それに伴い唄者の役割も変化していった。 本論文では,1945 年から 2000 年代における民謡クラブと民謡酒場の専属唄者の活動を通し て,第一に唄者に対するイメージの変化,第二に唄者の役割の変化を明らかにすることを目的 としている。 キーワード:民謡クラブ,民謡酒場,イメージ,役割 はじめに 本論文では,1945 年から 2000 年代における民謡クラブと民謡酒場の専属唄者の活動を 通して,第一に唄者のイメージの変化,第二に唄者の役割の変化を明らかにすることを目 的としている。 唄者は,本来奄美大島で特に歌に優れている人のことを指す名称であるが,沖縄本島で も,沖縄民謡の担い手のことを唄者と呼ぶ。現在では,沖縄民謡の担い手を示す際に「唄 者」よりも「民謡歌手」が浸透しているが,本論文では,沖縄民謡の担い手を示す際に「唄 者」を使用する。「民謡歌手」は,本土復帰後に知名定男や喜納昌吉が本土デビューした際 に在京メディアが便宜上使用した名称であり,復帰前の沖縄民謡の担い手は,「唄者」と呼 ばれていた。インフォーマントもそれに対する共通認識を持っている。つまり,「民謡歌手」 は復帰後の在京メディアを通して浸透した名称であり,「唄者」は復帰前の地元の人々によ って使用された名称だった。 また,筆者は民謡酒場や民謡クラブなどのローカルな「場」で活動する沖縄民謡の担い 手を「唄者」,テレビやラジオ,レコードなどのメディアで活動する担い手を「民謡歌手」 として定義している。復帰後に,知名定男や喜納昌吉は在京メディアを通して「民謡歌手」 として紹介されていたが,地元のローカルな空間で演奏活動をしていた沖縄民謡の担い手 ∗ 東京藝術大学大学院国際芸術創造研究科アートプロデュース専攻博士後期課程島嶼地域科学第 1 号(2020) 96 は復帰後も「唄者」として地元の人々から認知されていた。本論文は,民謡クラブと民謡 酒場というローカルな「場」に着目しているため,沖縄民謡の担い手を「唄者」で統一し ている。また,ここでは混乱を避けるため,メディアに出演している「民謡歌手」も「唄 者」と表記することで,論を円滑に進めることを優先する。 現代における唄者の活動は,イベントやフェスティバル,民謡酒場などへの出演,また, その活動範囲は沖縄を超えて日本本土,海外(特に沖縄人コミュニティーのあるハワイや ブラジルなど)にまで及ぶ。こうした活動が顕著になるのは,沖縄民謡にルーツを持つ知 名定男や喜納昌吉,オキナワチャンズ,ネーネーズ,りんけんバンドなどが活躍し始めた 復帰以降である。唄者の幅広い活動は,全国に沖縄的な音楽を浸透させ,広い世代に支持 されるようになった。例えば,1980 年代に坂本龍一とワールドツアーをしたオキナワチャ ンズの古謝美佐子,玉城一美,我如が ね 古こ より子は世界に沖縄民謡を発信した伝道者であり, 世界的にも高い評価を得た。 このように 1970 年代以降に唄者の活動は認知され高く評価されるようになったが,沖 縄戦前後の唄者の活動はそれと大きく異なっていた。次章で詳述するが,その時代の唄者 は,男性であれば遊び人,女性であればジュリ(=沖縄方言で「遊女」)を連想させるマイ ナスイメージを持たれていた。本論文では,こうした唄者のマイナスイメージがプラスイ メージに転換される過程を歴史的に紐解くことで,現在の唄者の活動やイメージが構築さ れた手がかりを提示する。 その手がかりを提示する上で,民謡クラブと民謡酒場という「場」に着目する。民謡ク ラブとは,民謡酒場の前身であり,その歴史を遡ると 1960 年代にたどり着く。一般的に, 人々がイメージする民謡酒場は,「沖縄民謡を聴きながら,沖縄料理を食べる,沖縄らしさ を堪能できる場所」である。酒場側は観光客が「沖縄らしさを期待」して来店することを 想定するため,そのニーズに合わせたサービスを提供する。それは,観光芸能という文脈 で観光客が期待する「◯◯らしさ」を演出したものになっている〔宮入 2019: p.137〕。例 えば,沖縄らしさを演出する上で,民謡酒場の景観を伝統的な沖縄の民家に見られる琉球 建築にしたり,店内の BGM を沖縄民謡にしたり,店員が沖縄方言で観光客を出迎えるな ど(「はいさい,めんそーれ(こんにちは,いらっしゃいませ)」など)と,沖縄の独自性 を強調することは,観光客に沖縄らしさを堪能してもらう 1 つの手段になっている。特に, 民謡酒場の顕著な特徴である沖縄民謡の生の演奏は,観光客に沖縄らしさを体感させる最 大のパフォーマンスであり,ステージの終盤で観光客と演奏者が一体となって踊るカチャ ーシーは沖縄らしさを最大限に放出してくれる。 しかし,こうした観光芸能の文脈で語られる民謡酒場の登場は 1990 年代以降であり,そ れまでは,観光化されていない地元民による地元民のための民謡酒場(民謡クラブ)が主 流であった。最初の民謡クラブは 1961 年 6 月 6 日にオープンした 1)中部に位置するコザ 市の「クラブメトロ」であろう2)。キャンパスレコード会社3)の社長の備瀬善勝4)と唄者 の知名定男 5)は,唄者の喜納昌永 6)と照屋林助 7)がクラブメトロで民謡を唄い始めたこ とをきっかけに民謡クラブがコザ市を中心に浸透したと経験談から推測し,復帰前後にか
97 けて,コザ市には民謡クラブが 200 軒以上密集していたと述べている〔備瀬 1998: p.91, 知名 1998: p.133〕。復帰前後の民謡酒場の名称は「民謡クラブ」,「民謡キャバレー」,「民 謡スナック」などであったが,当時の新聞や雑誌などのメディアは基本的に「民謡クラブ」 を使用している。本論文では,便宜上,復帰前後の地元民向けの民謡酒場を「民謡クラブ」, 1990 年代以降の観光客向けの民謡酒場を「民謡酒場」に統一する。 調査の出発点は,民謡クラブの専属唄者への聞き取りである。アメリカ統治下(1945-1972) の民謡クラブの唄者の実態を詳細に捉える上で,当時の雑誌や新聞などの一次資料から調 査をしようにも,その多くが開店時刻や出演者の広告記事にとどまり,唄者自身の活動や クラブ内のシステム,雰囲気,環境,客層,音楽などの実態を把握できないため,当事者 に聞き取り調査をし,その事実を資料等で確認しながら,それらの実態把握を試みた。 また,本論文では,女性の唄者を中心に取り上げている。次に詳述するが,戦後の沖縄 民謡研究は男性の唄者を中心に論じられている。そのため,沖縄民謡研究には女性の視点 がほとんど介入されておらず,男性中心主義の沖縄民謡界が描かれている。本論文は,女 性の唄者の視点を通すことで明らかになる沖縄民謡界の新たな一面を描くことも目的とし ている。 本論文は,時系列に唄者のイメージと役割の変遷を捉えるために,第 1 章が沖縄戦前後, 第 2 章が復帰前後,第 3 章が 1990 年代以降となっている。 先行研究 ここでは,戦後の沖縄民謡の先行研究を整理する。 『戦後コザにおける民衆生活と音楽文化』[沖縄国際大学文学部社会学科石原昌家ゼミ ナール編 1994]は,戦後から 1980 年代のコザの街の民衆生活と音楽文化がどのような状 況だったのかを捉えようとした記録である。コザ市には,中の町と呼ばれる沖縄住民のた めの娯楽施設の密集地帯があり,地元民向けの民謡クラブが密集していた。そこは,軍人・ 軍属の出入りもない,沖縄住民が安心して楽しめる空間だった。 しかし,この本は,ロックミュージシャンの自己アイデンティティーの形成過程を考察 することに重きを置いているため,民謡クラブの唄者や演奏環境,客層,システム,音楽 などについては一切言及されていない。 高橋[2010]は,世代の異なる登川誠仁,知名定男,前川守堅のライフヒストリーと音 楽活動を比較することで,戦後沖縄の唄者の活動スタイルの変遷を明らかにしている。し かし,この論文は,レコード,C D,テレビ,ラジオなどのメディアを通した男性の唄者 の活動に対象に焦点を置いているため,女性の唄者の活動や,民謡クラブや民謡酒場など の地域に根差したローカルな「場」における音楽活動について言及されていない。 久万田[2000]は戦後沖縄の新民謡がラジオやテレビの発展とともに,どのように展開 されてきたのか論じられている。これは,戦後の新民謡とメディアの関係性を考察する上 で重要な論考である。久万田[1998]は,沖縄ポップの担い手が「沖縄の民族性」を表現 する上で,どのような技法を用いているのかを考察した論考である。その表現方法は,戦 後第 1 世代〜第 3 世代によって異なり,沖縄ポップにはいくつかのレイヤーがあることを
島嶼地域科学第 1 号(2020) 98 明らかにしている。 久万田の論考は,戦後の沖縄音楽の動向を把握する上で必要不可欠であるが,これらの 論考は主に沖縄民謡をベースに展開された新民謡と沖縄ポップを対象にしており,その基 盤となる沖縄民謡についてほとんど触れられていない。これは久万田の論考に限らず,戦 後の沖縄音楽研究は,伝統的な沖縄民謡よりもその延長線上にある新民謡と沖縄ポップが 研究対象になっている。 戦後の沖縄音楽研究は,①メディアを通した男性唄者の音楽活動,②新民謡と沖縄ポッ プの動向に焦点が置かれているため,「女性の唄者」の視点を通した「ローカルな場」の実 態が不明瞭である。 本論文は,メディアやレパートリーといった音楽的内容から論じられることが多かった 唄者について,民謡クラブ・民謡酒場という「場」に着目した点に独自性がある。また, 復帰前の音楽文化をメディアの視点から考察しようとすると,歪曲された唄者のイメージ や役割を捉えてしまう可能性がある。民謡クラブや民謡酒場における唄者の音楽実践が記 載された史料は少ないが,アメリカ軍が発行していた『今日の琉球』と『守礼の光』には, 唄者のローカルな音楽実践がある程度記載されている。前者にはアメリカ軍の政策や琉米 親善活動の記事が多く,後者はアメリカ文化と沖縄文化を中心に紹介されている。しかし, これらはアメリカ軍の統治政策の一環として配布されたプロパガンダ雑誌であり,恣意的 に本土と沖縄の対立関係を前提とした内容になっている。そのため,沖縄の雑誌メディア を通して沖縄文化を把握しようとすると,歪曲された沖縄文化を把握する危険性がある。 そのため,筆者はオーラルヒストリーの手法を用いることで,本人の実体験をもとに唄者 のイメージと役割の変遷をとらえるようと試みた。 インフォーマント 本論文のインフォーマントは,大城美佐子,饒E よ A A E辺 E へ ん A愛子,呉屋絹代,古謝美佐子,我如 古より子の 5 名である(表 1)。インフォーマントは,復帰前後にかけて民謡クラブで演奏 活動をしていた共通点を持っており,徐々に唄者の役割やイメージがどのように変化して きたのかを歴史的に体感している世代である。以下は,各インフォーマントの簡単なプロ 名 前 生ま れ年 生まれ 沖縄民謡に携わる きっかけ 家族の属性 インタビュー日 実施 場所 大城美佐子 1936 大阪 村芝居 琉球古典の一家 2020 年3 月24 日 沖縄県 饒辺愛子 1943 大阪 友 達 に 民 謡 の 先 生 を紹介したことをきっ かけに自分も携わる 民謡と関係なし 2020 年3 月21 日 沖縄県 呉屋絹代 1948 読谷村 沖縄芝居,ラジオ 民謡と関係なし 2019 年8 月10 日 千葉県 古謝美佐子 1954 嘉手納町 沖縄芝居,ラジオ 民謡と関係なし 2019 年7 月11 日 沖縄県 我如古より子 1956 うるま市 父親が沖縄民謡の先 生のため,生まれた時 から民謡が鳴っていた 民謡一家 父:我 如古盛栄 2019 年7 月18 日 沖縄県 表 1 インフォーマントの基礎情報
99 フィールである。 a. 大城美佐子(1936-) 大城は,戦前から現在にかけての沖縄民謡事情を知る数少ない現役の唄者である。大城 は,大阪生まれであるが,物心つく前に沖縄に移住している。戦前は名護の集落で生活し, 戦後は,沖縄市や宜野湾市,嘉手納町などに移動しながら,沖縄民謡を披露してきた。琉 球古典音楽の先生である叔父と祖父を持つ。 b. 饒辺愛子(1943-) 饒辺は大阪で生まれるが,物心つく前に沖縄に移住している。喜納昌吉の父の喜納昌永 に師事していた。饒辺は,復帰前から現在にかけて,沖縄市で自身が経営する民謡クラブ 「なんた浜」で活動している。 c. 呉屋絹代(1947-) 日常的にラジオから流れる沖縄民謡を聞いているうちに自然と好きになり,高校生の時 に唄者の金城 実に弟子入りする。高校卒業後,大城美佐子の民謡グループのメンバーとし て普天間の民謡クラブで演奏活動を始める。その後,いくつかの民謡クラブを移りながら 復帰直後まで演奏をし,現在は本土で生活している。 d. 古謝美佐子(1954-) 幼少期から叔母に沖縄芝居に連れられ,そこで沖縄民謡を好きになる。小学校の時に本 格的に研究所で民謡を習い,中学生の頃からコザ市の民謡クラブで演奏活動をしていた。 復帰後,30 歳半ばまで沖縄県内で活動をし,現在は本土と沖縄を行き来しながら活動をし ている。 e. 我如古より子(1956-) 父に唄者の我如古盛栄をもち,父親の民謡グループのメンバーとして 10 歳から民謡クラ ブで演奏活動を始める。復帰後は民謡クラブ「姫」を拠点に,経営者兼演奏者を務める。 しかし,経営悪化によって 2016 年に閉店し,同年に那覇市の国際通りに場所を移し,現在 は民謡酒場「歌姫」の経営者兼演奏者として活動している。 本論文では,上記のインフォーマントを中心に論が展開されるが,必要に応じて,その 他のインフォーマントの証言も載せている。 1.沖縄戦前後における唄者のイメージの構築過程 1-1.沖縄戦前後の唄者と沖縄民謡の関係性 女性の唄者とジュリの関係性は,戦前の社会的風潮を把握することで理解される。明治 から戦前にかけて,沖縄では女性が舞踊や三線を演ずる習慣がなかった。しかし,女性で もジュリは三線,太鼓,箏,胡弓,笛の専門家であり,例外的に琉球古典音楽や沖縄民謡 に精通していたため,歌舞音曲の演奏依頼を遊郭だけでなく集落からも受けていた。新井 白石『南島志』にはジュリについて,「一般に声楽を好み,みな三絃を弾く。伝説によると,
島嶼地域科学第 1 号(2020) 100 三絃の音で蛇の害を避けることができるという。農家では,田植えや稲刈りには,ジュリ をよんで日あたりのよい所に弁当をひろげ,歌三線をし,鼓をうって踊る。仕事を終えた ものにジュリは酒をすすめる」[新井 1996: p.163],佐敷の津波古という集落の『津波古字 誌』には,「昔の辻や仲島,渡地の女の里に奉公に出ていた女たちは「女の里」で一通り古 典,流行りの歌三線や踊りを習った」[浅香 2014: p.90]とある。女性の中でも沖縄民謡や 琉球古典に精通している身分はジュリだけであったため,一般的に女性が三線を奏するこ とは必然的に遊女と結び付けられた。 また,沖縄民謡の担い手は,男女問わず「遊び人」や「怠け者」など,怠惰の象徴でも あった。沖縄戦前後の沖縄では,浜辺や野原で夕暮れから明け方まで歌や踊りを楽しむ 毛モ ー 遊 ア シ びという遊びがあった。毛遊びは,若い男女が混じって円陣を作って座り,三線に合わ せて歌を歌い,踊るものであったが,野蛮で淫らな風俗として琉球王朝時代から禁止令を 出されていた。そのため,沖縄戦前後の沖縄民謡は低俗文化として認識されていた。大城 と呉屋は沖縄戦前後の沖縄民謡に対する周囲の反応を以下のように述べている。 大城(1942 年当時):私らも,あの,三味線を弾いたら,同級生のおばあちゃんが鎌 を持って追いかけられて,どんだけ怖かったか,三味線ひくのをね,こんなして ね。当時はもう,男でも女でも,三味線をやっている人は,仕事やらない,男で もよ。ましては私は女だから,女でやっている,子供でやっている,だから許さ んよって,殺してやるって言われたよ,怖かったよ。女性はもう,なんていうの, おてんばみたいなね,ジュリにされるよみたいに言われた。 呉屋(1950 年代):私がね,三味線(=三線)を,ちょっとでもちんてんてんとでもや ったら,兄貴に蹴っ飛ばされたの。あんたジュリになるのかーって(澤田「辻遊郭8) の?」)そうそう。それしか道はないみたいなね。舞台っていうのは女が立つもんじ ゃないって。昔の古い風習が残っていて。だから,うちの長男の兄貴もずっと古い習 慣が根付いているわけ。だから女が芸事やるもんじゃないって。自分(兄)は三味線 やるのにうちにはさせない。 沖縄戦前後の女性の唄者は「ジュリ」や「遊び人」と結びつけられることで社会的にマ イナスイメージを帯びていた。大城は戦前,呉屋は戦後の体験談であるが,戦後も唄者の マイナスイメージが払拭されていないことがわかる。こうしたイメージはアメリカ統治下 も続くが,戦後はそれと異なる新たな唄者のイメージも構築される。 1-2.メディアによる唄者の新たなイメージ 戦後の沖縄民謡界の最大の特徴の 1 つは,レコードやラジオ,テレビなどのメディアと 沖縄民謡が密接に結びつくことで,多くの人々に沖縄民謡が支持されるようになったこと である。沖縄民謡関係者は,1950 年代を第 1 期民謡時代,1960 年代を第 2 期民謡時代と呼 び,復帰前を沖縄民謡の黄金期として認識している〔知名 1998: p.133〕。 まず,メディアの発達によって,沖縄民謡界には,新たな 2 つの局面が生まれた。1 つ
101 は,沖縄民謡と同時にその歌い手の唄者自身もメディアにクローズアップされるようにな り,唄者が一種のアイドル的存在になった。例えば,マルタカレコードには,前川朝昭,山 内昌徳,登川誠仁,知名定男などの現在の大御所が専属唄者としてレコーディングを行なっ ており,中でも 1958 年に 13 歳の知名定男がデビューシングル『スーキカンナー』を発表し た際は,「天才少年歌手の出現」として大衆から注目を集めた〔高橋 2010: p.26〕。そのほか にも,レコード会社による唄者の引き抜き合戦が起こるなど,戦後の民謡界には,唄者に クローズアップするという新たな局面が生まれた。「どの唄者の沖縄民謡を聴くか」に焦点 が置かれることで,沖縄民謡を聴く基準に唄者の存在が重要な位置を占めるようになる。 もう 1 つは,沖縄民謡が集落単位から 1 人でも聴取されるようになったことである。戦 前まで,沖縄民謡は各集落で歌われ聞かれる存在であり,柳田国男が民謡を「作者の無い 歌,捜しても作者のわかる筈の無い歌」〔柳田 1940: p.8〕と定義しているように,村落共 同体の中で人から人へ伝承される音楽だった。沖縄民俗研究の久万田晋は,沖縄の民俗芸 能を「沖縄各地域の村々に暮らす庶民の間で育まれ,特にムラの祭りの場を中心として発 達した諸芸能を指す。地域の民俗行事(船漕ぎ,綱引きなど),舞踊や音楽(民謡を含む), 演劇,さらにそれらを包括したムラ踊り,ムラ遊び,豊年祭などが含まれる」〔久万田 2011: p.29〕と地域の行事と音楽(沖縄民謡)が密接的な関係であることを主張している。つま り,本来の沖縄民謡は村落共同体で歌われ,聴かれる民俗芸能であったが,戦後のメディ アの発達は,レコードやテレビ,ラジオによって聴衆に個人/少数単位の聴取を可能にさせ た。さらに,メディアは聴衆に「どの唄者の沖縄民謡を聴くか」という新たな聴取の仕方 を可能にさせたことで,「唄者―聴衆」の明確な関係性を構築した。戦前の村落共同体では, その場の全ての人が音楽的行為に参与9)することで「唄者―聴衆」の明確な線引きがなか ったが,メディアはその線引きを作り上げ,唄者の有名性を作り上げた。 これは,一種の「アイドル―ファン」の関係性に似ており,民謡クラブは,2000 年代の 「会いに行けるアイドル」に先行する空間10)としての機能するようになった。メディアに 露出している多くの唄者は民謡クラブの専属唄者としても活動しており,例えば,嘉手苅 林昌と饒辺愛子であれば「なんた浜」,喜納昌永であれば「ミカド」というように,民謡ク ラブには著名な唄者が在籍していた。ミカドの新聞広告の記事には「民謡界のベテラン 喜 納昌永とそのグループテレビ・ラジオでおなじみの口八丁・手八丁の漫談 島正太郎 佐 川正男とそのグループ」11)と書かれ,メディアで有名になった唄者は民謡クラブでも活躍 していた。 民謡クラブはコザ市の中の町に密集していた。インフォーマントは,コザ市周辺に位置 する宜野湾や嘉手納町の民謡クラブでの演奏経験もあるが,コザ市の中の町が圧倒的に「民 謡の町」として栄えていたという共通認識を持っている。このような認識の背景には,ア メリカ軍の占領政策が関係している。 アメリカ軍は,1945 年に沖縄を米国海軍軍政府の管轄下に置くことを宣言し,1952 年に サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約で正式に沖縄・奄美・小笠原諸島を信託支配 下に置き,土地接収をしたことで,約 6 万人の沖縄住民は従来からの居住区から追い出され ることになった。特に,現在の浦添市から石川市に至る中部一帯は基地建設が急速に進めら
島嶼地域科学第 1 号(2020) 102 れ,その中でもコザ市は土地の 72 %が軍用地に接収されたことで,多くの住民が他の市町 村に移住するか,接収されていないコザ市の越来を中心に移住した〔与那国 2001: p.44〕。 こうした接収によって,沖縄各地の市町村には,米軍基地が次々に建設されたが,コザ 市の嘉手納米軍基地は朝鮮戦争やベトナム戦争の中継地点としてアメリカ政府から最重要 視されていた。2 つの戦争の拠点基地であることから,多くの軍人・軍属がコザ市に密集 していたため,コザ市には,1950 年以降に軍人・軍属相手の歓楽街である,センター通り, ゲート通り,八重島特飲街,照屋黒人街が立ち並ぶようになった。米軍人歓楽街が密集し ていた市はコザ市だけであり12),そこにある A サインクラブと呼ばれる軍人・軍属が入店 できる店では,R&B やロックなどの当時流行していた英米の音楽が演奏されていた。米軍 人歓楽街で演奏していた 喜屋武き ゃ ん 幸雄(1942-)は当時の様子を以下のように語っている。 1950 年代,当時はね,本当にアメリカーしかいないよ。まあ 60 年代もだけど。歩いて いると周りはアメリカーだらけ。昼間からアメリカーが出歩いていた。客はみんなアメ リカー,沖縄の人は全然いなかったね13)。 このように,復帰前のコザ市は軍人・軍属を中心とした街づくりから始まり,「基地の 街」と呼ばれるほどになった。 こうした軍人・軍属相手の歓楽街が台頭する一方で,沖縄住民はどこで沖縄民謡を聴く ことが出来たのだろうか。それは,コザ市の中の町と呼ばれる,多くの民謡クラブが立ち 並ぶ地域である。中の町は,米軍人歓楽街が点在するコザ市の中でも,沖縄住民が気軽に 行ける地域であり,軍人・軍属もほとんど出入りしない,沖縄住民が密集する空間である。 冒頭でも述べたが,中の町は,沖縄住民による,沖縄住民のための娯楽施設の密集地帯で あり,軍人・軍属のいない安心・安全な空間だったのである。民謡クラブの専属歌手だっ た呉屋と我如古は,当時の民謡クラブの客層・客質について以下のように述べている。 澤田:当時の民謡クラブの客層は? 呉屋:常連客多いよ。顔見知りが多いね。 澤田:つまり,地元民ですか? 呉屋:そうです。 澤田:顔見知りが多いとアットホームな雰囲気になりそうですね。 呉屋:そうそう,沖縄ってそういうもんだもん。だから知った顔も多かったよ。 澤田:いいですね。お客さんは飲みながら沖縄民謡を聴くって感じですか? 呉屋:そう。あと飛び入りもありますよ。飛び入りがいないとこっちが歌うわけですよ。 澤田:民謡クラブって民謡クラブがあるから行くのではなく,その人がいるから行く って感じですか? 我如古:そうそう。昔の民謡酒場は人気者いるさーね。お客さんもそれを目当てにや ってくる。本当にみんなテレビやラジオに出ている人がいたわけよ。お店に。考 えたら,名のある人たちはやってたんだ。みんなね,そうよ,うちの父親の相方 も。相方は沖縄で民謡代表でNHKで。宮里って言ってね。とっても有名。でも
103 普通の人は知らない。民謡知っている人は知っている,本当に民謡を好きな人が クラブに来る。 民謡クラブは,沖縄住民が集まる場であると同時に,沖縄民謡に関心の高い常連客が民 謡を聴き,民謡を披露する場でもあった。聴衆は,沖縄民謡よりもある特定の唄者の歌を 聴くことを基準に来店するため,民謡クラブの唄者はメディアの露出に伴い一種のアイド ル的存在になった。 1-3.民謡クラブにおける唄者と聴衆の関係性 民謡クラブには,沖縄民謡を聴くために人々が集まるため,沖縄民謡に対して関心の高 い聴衆が来店する。そのため,民謡クラブには,聴衆が自発的に唄者のステージに立ち, 歌い,踊り,楽器を演奏できる飛び入り参加の空間があり,そうでない時には,唄者の演 奏に対する合いの手や囃子が求められる。民謡クラブの空間では,客が聴衆側に徹するだ けでなく,同時に唄者の役割も果たすことで,「唄者―聴衆」の明確な線引きが曖昧な関係 性が生まれる。我如古は客と自身の関係性を以下のように語る。 澤田:やはりお客さんは民謡好きな人が多かったのですね。 我如古:そうですね。あの時のお客さんは沖縄民謡を聞いて育った世代だから,いろ んな歌も知っているし,古い歌とか,リクエストも来るけど,自分たちも好きで 歌って,実際,歌も三線もうまくてね,三線が引けなくても節回しとかね,年とと もに人生経験がもろに出ている歌い方もする人もいるじゃないですか。あるおばさ んの歌い方がいいからって,私の父がこの人の歌い方覚えておきなさいって,だか ら私のところでは,お客さんも先生,だから来るお客さんでこの人の歌い方いいな ってなったら覚えたり,あのね,歌でお話できたらいいなって,会話ができたら。 メディアは「唄者―聴衆」の関係性を明確にさせたが,民謡クラブには,聴衆も唄者も 一緒にステージに立つ参与型パフォーマンスが存在した14)。これは,戦前の村落共同体に 似た空間であり,民謡クラブは潜在的に一種の擬似的村落共同体の環境を作り出していた。 それを構築している要素の 1 つが対面的な会話である。唄者はステージ終了後に楽屋に 戻るのでなく,客席まで行き聴衆と会話をすることで,人々と交流を深める。戦前の村落 共同体でも,沖縄民謡が歌われた後にすぐに各家や持ち場に戻るのでなく,そこでは人々 の他愛もない会話が繰り広げられ,人々はコミュニケーションを取ることで村落内での親 交を深めていた。民謡クラブでも,沖縄民謡だけがコミュニケーションツールでなく,対面 的な会話も重要なその要素である。我如古は対面的な会話の重要性を以下のように指摘する。 これが好まれる。交流できる。だから私は交流しようとする。話しかけて。民謡酒場 はただ民謡を演奏するだけでなく,人との交流も大事です。それが一番と思ってるわ けよ。いついつ会おうねって待ち合わせするお客さんもいるし。自分たちが儲かるわ けじゃなくて,お客さんもきてよかったって思いで作る。ビジネスなんだけど,それ だけじゃない。
島嶼地域科学第 1 号(2020) 104 唄者は沖縄民謡を歌うことだけを務めとせず,聴衆との交流も大切にすることで,民謡 クラブのあり方を築き上げてきた。唄者はメディアと民謡クラブの両方で活躍していたが, メディアでは,「唄者―聴衆」の明確な関係性を持つ仕事重視のビジネス路線であったのに 対し,民謡クラブでは,「唄者―聴衆」の線引きをしない,人と人のコミュニケーションを 重視した伝統的な唄者のあり方だった。 このように,唄者は沖縄戦前後のジュリや怠け者のイメージだけでなく,メディアによ って構築された「アイドル的存在」であった。しかし,民謡クラブでは聴衆の唄者に対す る差別的発言が残っていた。大城はそのことについて以下のように述べている。 澤田:当時は三線弾きを三線チャーとか言っていたとか。 大城:そうね,「民謡サーグワァ」とか,「ウタサー」とか,「えい,ウタグワァービレ」 とかいう。 澤田:当時,「ウタサー」や「ウタグワァービレ」は良い言葉ではない? 大城:よくない。見下されているみたいで。ウタグワァービレ,そう言われたら,馬 鹿にされている。ウタサーはまだ良いけど,ウタグワァービレとか。…舐めてん のかって。「民謡聞かせて」って言われたら気持ちよく歌えるけどさ。 澤田:そういうことを言われたりされたんですか? 大城:うん,酔っ払ったら口悪いからさ,何度でもいうわけよ。そう言われたらうた わん。 戦後から復帰前は唄者のイメージが変化していく過渡期である。唄者はメディアの発達 によってアイドル的存在までなったが,戦前から残存しているジュリや怠け者のマイナス イメージが戦後すぐに払拭されることはなかった。 2.本土復帰前後の唄者のイメージ 2-1.民謡クラブのマイナス要素 民謡クラブには,「ホステス」と「ストリッパー」も同じ空間に存在した。各民謡クラブ には,唄者,聴衆,ホステス,ストリッパーが配置され,ホステスは客にアルコールを飲 むことを促し,ストリップショーは民謡ステージとローテーションで行われていた。我如 古は当時の民謡クラブの様子について以下のように述べている。 我如古:自分たちが休憩している時に違う仕事の人がショーをやっていた。 澤田:そのショーは? 我如古:ストリップショー。(私たちの)休憩時間にやっていた。 澤田:へえ,今の民謡酒場とは大違いですね。 我如古:ホステスもいたよ。でもホステスさんはお客さんと話すから,民謡聞きにきて いる人は民謡聞けないでしょ。それで父がオーナーだった時は 1 人だけホステス を採用した。お酒持っていく人とかつぐ人いないらいないとこっちも困るから。 民謡クラブは沖縄民謡を聴く場所であると同時に風俗の側面もあった。1952 年に施行さ
105 れた「風俗営業取締法」には,民謡クラブが「キャバレー」に該当されており,取締法の 第 1 条に「その他設備を設けて客にダンスさせ,かつ,客席で客の接待をして客に飲食を させる」[琉球警察本部 1961: p.1]場所として定義されている。つまり,民謡クラブは沖縄 民謡を聴くこと以外のエンターテインメント要素を含み,聴衆がホステスと話したり,ス トリップショーを見たりと,風俗性を兼ねた複合的な娯楽施設だった。 しかし,全ての民謡クラブにストリップショーが設置されていたわけではない。例えば, 我如古が務めていた民謡クラブ「姫」では,経営者によってストリップショーの有無が分 かれていた。また,1969 年から現在に至るまで民謡クラブ「なんた浜」で経営者をしてい る饒辺はストリップショーを入れずに,民謡ステージのみに特化させている。 こうしたストリップショーの設置有無の背景には暴力団が関係している。次節で詳述す るが,暴力団は一部の民謡クラブを資金源として支配下に置くことで,クラブの売り上げ を搾取し,経営者として民謡クラブも経営していた。彼らはストリッパーをクラブに斡旋 する仲介業も務め,暴力団の支配下にある民謡クラブにストリッパーを斡旋していた。 こうした行為は民謡クラブだけにとどまらず,米軍人歓楽街にある A サインクラブも同 様であった。中の町から徒歩 5 分の距離にある A サインクラブで演奏活動をしていたロッ クミュージシャンの古堅 喬15)は暴力団とストリッパーの関係性について以下のように述 べている。 古堅:あのー,暴力団が(A サインクラブに)ショーを連れて歩いていたんだよ。 澤田:ショー? 古堅:ストリップショーをやるわけよ,女の人を車の後ろに乗せて,こう,あの辺か ら車乗って,(暴力団が A サインクラブの)ボーイに「おめえらショーいらねえか」 って,そしたらボーイが「どうぞどうぞ」って的な,で,みんなで(A サインク ラブで)「ショーショーショー」ってみんなで声変えて,俺とかライト係とかさせ られてさ,ちょうどバンドの休み時間のショーが入って,で,ストリップショー, 俺らライト持ってさ,(暴力団に)「ライトやれー」って,青とか緑とかの(色の ライトを)やったら怒るわけよ。「幽霊みたいに見えるじゃねえか」って,あ,そ うだな,赤とか黄色とかピンクとか,こう丸い奴持って,これを俺っちさ,青と か面白いからさ,やったら,幽霊みたいに見えるでしょって,また怒られて。 このように,暴力団の支配下にあるクラブにストリップショーが配置されていたため, 実際,クラブにストリップショーを設置する必然性はなかったと推測される。つまり,暴 力団が民謡クラブに直接的・間接的に関与しているか否かによって,民謡クラブの風俗性 の度合いは異なっていただろう。 また,民謡クラブは,風俗営業取締法によって深夜 12 時以降の営業を禁止されていたが, 多くが朝方まで営業していたため,犯罪の発生リスクや風紀を乱す根源として社会問題にな っていた。例えば,1972 年の沖縄タイムスには深夜営業について以下のように書かれている。 野放しの風俗営業,民謡クラブ午前 6 時まで開店,犯罪の温床となりがちな風俗営業
島嶼地域科学第 1 号(2020) 106 の時間外営業は,警察の取り締りにもかかわらず,依然,あとを絶たない――民謡ク ラブなどは午前 6 時ごろまで営業しているとの苦情もある。客のほとんどは店を終え たホステスが客と連れだって来るといった具合である――コザ署防犯係長は「取締り を厳しくしているが,あとを絶たないのが現状である――」と語っている16)。 当時違反したクラブは,1 万円以下または 6 ヶ月以下の懲役に処されていた。同新聞に は,ブルーフィルムを見せて客を接待したり,未成年をホステスとして雇っているなどの 記述も見られ,こうした悪質なクラブでは営業停止処分が下されている。風俗性や犯罪の 温床の場と結びつく民謡クラブは,戦前の唄者の「怠け者」や「ジュリ」とベクトルの異 なるマイナスイメージを生むようになった。 2-2.搾取される唄者 前述したように,暴力団は民謡クラブと唄者を新たな資金源として利用するようになっ たが,最終的にストリッパーだけでなく唄者も斡旋するようになった。コザ市にはいくつ かの暴力団組織があり,暴力団は管轄地区の民謡クラブに唄者も斡旋することで,民謡ク ラブと唄者から所場代と仲介料を強制的に受け取っていた。1973 年 7 月 28 日の『琉球新 報』では以下のように書かれている。 コザ署は――県下の民謡グループを一手に握りクラブ,キャバレーなどに出演あっせ んして手数料を荒かせぎしていた沖縄連合旭球会幹部 2 人,組員 1 人を職安法違反で 逮捕――1 民謡グループ当たり 3 万円から 6 万円のあっせん料を徴収して荒稼ぎして いた。被害にあった中堅グループのリーダーは「大城(組員の 1 人)らの組織を通し て出演しないとグループや出演先の店にイヤがらせをし,第 1 プロダクション(斡旋 業者のプロダクション)に属さないと出演できないようになっている。出演のあっせ ん手数料は出演先との契約金の額まで計算されて差し引かれるのでたまったものでは ない17)」 同年 9 月 14 日の沖縄タイムスには,約 70 の民謡グループと 131 軒の民謡クラブが暴力 団の支配下にあったと記載されており18),一部の民謡クラブや唄者は暴力団の搾取の対象 になった。我如古は,暴力団のプロダクションに所属してなかったが,彼女の父親が暴力 団から勧誘されていた時のことを以下のように述べている。 我如古:一回ね,ヤクザがプロダクション業するって言って,ヤクザがうちの父親に 急に給料を持ってきたんだって。うちの父親は(民謡クラブの)経営者と約束 して出演していたけど,自分(暴力団)たちがプロダクションで払うからって 言って。それで,うちの父親は(暴力団の勧誘を)断ったって。「自分はこっち (経営者)に頼まれてやっているから。あなたに頼まれてやっていないから」 って,受け取らんかった。 このように,沖縄民謡の人気に比例して民謡クラブは非常に儲かっていた。古謝と饒辺
107 は当時の民謡クラブの盛況をそれぞれ以下のように述べている。 古謝:儲かってるよ,あの頃。ドルの時代。あの,一般の労務の給料が 30 ドル,民謡 酒場で民謡歌手のリーダーは 200 くらいもらっている。だから,もうあの,弟子 たちはあんまりもらっていないけど,一般よりはもらえるわけさ。そう,だから, 給料として仲間に渡すんだけど。一般の人の給料のはるかに多い。リーダーは会 社持っていた。 饒辺:休みはなしだった。お客さんも選んで入れるわけさ。いっぱいだから。もうだ からね,もうみんな(客が)外で待っている。40 分経ったら,このきよ姉(従業 員)がさ,仕切って,はい交代,「早く出てって」って。 筆者が聞き取り調査をしたインフォーマントの民謡クラブでは,暴力団による直接的な 被害がなかったが,暴力団が客として民謡クラブに来店することは多かった。暴力団が民 謡クラブに来店することは,世間一般的に民謡クラブや唄者にプラスのイメージをもたら さないだろう。このように,民謡クラブが「暴力団関係者」,「風俗性」,「時間外営業」と 直接的・間接的につながることは,唄者の社会的地位の向上を停滞させる原因の 1 つにな っていた。 3.本土復帰後の唄者のイメージと新たな演奏活動 本章では,復帰後の唄者の社会的地位の向上とそれに伴う新たな唄者の活動について考 察する。 3-1.本土復帰による唄者の地位向上 1972 年 5 月 15 日,沖縄は本土復帰によって施政権を回復し,復帰前と異なる環境にな った。復帰に伴う本土における沖縄への眼差しは在京メディアを通じてより一層注がれる ようになり,政府は本土復帰を記念して,1972 年に「復帰記念植樹祭」,1973 年に「若夏 国体」,1975 年,「沖縄国際海洋博覧会」の三大事業を開催し,沖縄への観光誘致を積極的 に図った。そのためのインフラ設備として,沖縄自動車道路や那覇空港の整備,沖縄初の 本格的なリゾートホテルの建設などが行われ,沖縄は観光客を迎え入れる態勢を整えてい た。こうした沖縄国際海洋博覧会に向けたインフラ整備もあって,1972 年に約 44.4 万人 であった沖縄への入域観光客数が 1975 年に約 156 万人まで増加した[湧上 2015: p.122]。 また,沖縄出身の唄者やアーティストも本土に渡って音楽活動をすることで,本土の人々 から認知されるようになった。例えば,南沙織やフィンガー5 などのアイドルや紫やコン ディショングリーンなどのロックミュージシャン,そして喜納昌吉や知名定男などの琉球 音階とポップスを融合させた沖縄ポップスなど多岐に渡るジャンルの沖縄出身のアーティ ストや唄者が活躍し始めた。特に,1976 年の喜納昌吉の《ハイサイおじさん》や 1978 年 の知名定男の《バイバイ沖縄》は沖縄と本土で大ヒットし,沖縄らしい音楽が全国的に浸 透するようになった。ここで特筆すべき点は,喜納昌吉は父を唄者の喜納昌永に持ち,知
島嶼地域科学第 1 号(2020) 108 名定男も父を唄者の知名定繁に持っていることである。沖縄民謡界につながりを持つ 2 人 の活躍は,沖縄民謡や沖縄ポップス(大きく捉えれば沖縄音楽全般)を全国的に浸透させ た。当時の在京メディアは喜納と知名について以下のように評価している。 沖縄のスーパースターがついに衝撃のライブ盤を出した。沖縄だけで 30 万枚を売った 『ハイサイ・オジサン』の作者であり,演奏者であり,ボーカリストである喜納昌吉 ―沖縄最大のスターと言われる彼をめぐって,各レコード会社が争奪合戦を展開した 結果,ようやく本土からのデビューにこぎつけたという話題のレコード―父親は沖縄 民謡界の第一人者と言われる人で―。ロック,フォーク,サルサ,そして沖縄の民謡 をぶち込んだ文字通りのごった煮が生んだ喜納昌吉サウンドが,大和の音楽シーンに, かつてないパンチをくらわしたのは事実だ。[『週刊明星』1977 年 10 月号] ここにまた沖縄出身のビッグが登場する。その名を知名定男。昭和 20 年生まれ 32 才。 3 月 25 日発売のシングル『バイバイ沖縄』(キャニオン)でデビュー―島唄の第一人 者を父に,琉球舞踊の師範を母に,と恵まれた環境に育った彼は,7 才にして島唄『ス ーキカンナー』を歌って大ヒットさせるという経歴の音楽神童―26 才の時『うんじゅ か情ど頼まりる』(あなたの情だけが頼りなの)を発表,これが沖縄の音楽史上空前絶 後のビックヒットになって,一挙に名が売れた。そして今回,本土にレコード上陸を したというわけ―もし,ことし沖縄旅行を計画しているなら,『バイバイ沖縄』はぜひ マスターすべきだよ。[『週刊明星』1978 年 3 月号] 沖縄民謡界に繋がりを持つ 2 人が沖縄民謡や沖縄ポップスを全国的に広めたことは,唄 者のイメージに変化をもたらした。こうした活躍に対して唄者の呉屋と照屋政雄19)は以下 のようについて述べている。 澤田:復帰以降は民謡が世間からある程度認められるようになりましたか? 呉屋:そうそう。復帰してからね,沖縄ブームになったからね。それ以降は胸張って できる。 澤田:民謡が世間的に良いイメージとしてもたれるようになったのを復帰してからで すかね?メディアで取り上げられてから。 照屋:そうなんだよね。歌手とか出てから,芸能人とかさ,そういうのがでてさ,日 本復帰してからだよね。我々の時代とは変わった。 復帰による沖縄出身の唄者やミュージシャンの活躍は,唄者のイメージ向上に大きく貢 献した。また,民謡クラブのマイナス要素として作用していた暴力団の存在も,復帰直後 の沖縄警察の取締り強化によって急激に減り,唄者のイメージアップを停滞させていた要 素も取り除かれていった。 3-2.民謡酒場の唄者 本土復帰は,唄者の地位向上に貢献したと同時に,民謡酒場の客層を地元民から観光客
109 に徐々に移行させることを促した。それが顕著になるのは,1990 年代の沖縄ブーム以降で あり,それまで沖縄の歴史や文化,自然を対象とした記事を中心に取り扱っていた在京メ ディアが民謡酒場の特集も組むようになる。 沖縄ブームは,1990 年代から 2000 年代にかけて,沖縄関係のドラマ,音楽,著名人が 一気に本土に注目されたことによって起きた。沖縄音楽に視点を当てると,1990 年代には, りんけんバンドやネーネーズなどの琉球音階をベースにしたポピュラー音楽や安室奈美恵, MAX,SPEED,DA PUMP などの沖縄アクターズスクール出身者が活躍し,2000 年代には, オレンジレンジ,モンゴル 800 などの沖縄インディーズロックが台頭する。さらに,2001 年にリリースされた BEGIN の《島人の宝》や夏川りみの《涙そうそう》などのノスタル ジックな沖縄音楽は,本土の人々がイメージする「沖縄らしい」音楽として全国的にヒッ トし,民謡酒場で演奏されるジャンルとしても人気を博した20)。 まず,沖縄ブームによる民謡酒場の注目は民謡酒場の拠点をコザ市から那覇市に移動さ せた。那覇市には,那覇空港があるため,観光客が那覇の民謡酒場に最もアクセスしやす い一方,コザ市は,那覇空港から車かバスの移動で約 1 時間もかかるため,那覇市の民謡 酒場は他の市町村に比べて圧倒的にアクセスしやすい。そのため,コザ市よりも那覇市に 民謡酒場が密集するようになった。もともとコザ市で経営していた民謡クラブのオーナー が那覇市に移動するケースも少なく,民謡酒場の移動が 2000 年代以降に始まった21)。 民謡酒場が地元民の娯楽場から観光地へと変化することで,唄者に求められる役割も変 化していった。民謡クラブと民謡酒場の本質は沖縄民謡を聴くことにあるが,観光客の流 入によって,民謡酒場では,沖縄民謡だけでなく沖縄ポップや本土のポップスも演奏され るようになった。民謡酒場には,沖縄民謡を全く聞いたことのない初心者が来店するため, 唄者には,彼らに合わせた音楽が求められるようになる。『東京ウォーカー』は民謡酒場の 音楽について以下のように紹介している。 初心者でも安心!民謡酒場へ行こう。オキナワンナイトを語るうえで,欠かせない民 謡酒場。唄を歌い,カチャーシーを踊りながら,民謡に触れてみよう――「地酒横丁」 は,多くの観光客でにぎわう店。民謡のほか「島人の宝」や「涙そうそう」などの沖 縄ポップスも演奏され,初心者でも親しみやすい。[『東京ウォーカー』2004 年 5 月号] 唄者はこのような状況について以下のように述べている。 澤田:観光客にジャンルって合わせているんですか?沖縄ポップスとか。 我如古:それはお客さんに合わせています。古いのは古いので守っていますけど。 音楽以外では,厳格なタイムスケジュールに基づくステージライブや観光客相手の沖縄 民謡の囃子やカチャーシーのレクチャー,沖縄方言から共通語による接待など全てのサー ビスが観光客用に調整されていく。沖縄ブームは唄者や民謡酒場の認知度を急激に上昇さ せたが,唄者には観光客に合わせた適応性や柔軟性が求められるようになった。 また,民謡酒場の観光化は飛び入り参加とステージ終了後の対面的な会話を喪失させた。 ステージ終了後,観光客は友人や家族との会話に戻り,唄者は楽屋に戻ったり,スタッフ
島嶼地域科学第 1 号(2020) 110 の一員として料理や観光客の対応に従事するため,対面的な会話は発生しない。そして, 観光客の多くは沖縄民謡の初心者のため飛び入り参加もできない。つまり,民謡酒場では 民謡クラブの対面的な会話と飛び入り参加が失われたことで,明確な「唄者―聴衆」の関 係性が構築されている。 3-3.トランスナショナルな唄者の可能性 民謡クラブが地元民のためのローカルな空間であれば,民謡酒場は観光客のためのナシ ョナルな空間である。そして,近年の民謡酒場の空間を捉えようとすると,ローカルやナ ショナルとも異なるトランスナショナルな空間が垣間見える。 1960 年代から 1990 年代が地元民向けのローカルな空間,1990 年代から 2000 年代が観光 客向けのナショナルな空間に対し,2010 年代は,外国人観光客の増加によって民謡酒場を 含む沖縄の観光地がトランスナショナルな空間になりつつある。2010 年以降,海外航空路 線の新規開設や増便,LCC の普及,クルーズ船の増加によって 2013 年の外国人観光客の 数は前年の約 2 倍に増加している。 2019 年 9 月に筆者が国際通りのある民謡酒場を訪れた際,店内は外国人観光客の団体で ほぼ満席状態だった。筆者と外国人観光客の席が近かったため,一緒に食事をしながら(英 語で)会話をしたが,彼らは,「民謡酒場では英語が通じないため,コミュニケーションが 取れず,料理の注文などに苦戦する」と言っていた。外国人観光客の中には,沖縄民謡の 演奏中に大声で雑談し,歩き回ったりと,集中して沖縄民謡を聴いている他の観光客の迷 惑行為が見られ,唄者やスタッフはその対応に困惑していた(日本人観光客にもこうした 行為が時々見られるが,その店では日本人観光客のそうした行為に対して注意をしていた。 おそらく言語の問題である)。 外国人観光客の増加に伴い,唄者にはこうしたトランスナショナルな空間に適応する柔軟 性が求められるだろう。ここで試案として唄者に新たに求められる 2 つのスキルを提示した い。それは,①言葉の壁を解消するための簡単な英会話能力,②ステージに注目を促すため の外国人観光客の国の音楽の習得である。①は,沖縄全体で求められる課題である。例えば, 沖縄の外国人観光客の不満の中では通訳と外国語表示についてのクレームが多く,沖縄にお ける SWOT 分析22)の「脅威」に「多言語対応の遅れ」とある[湧上 2015: p.132]。言葉の 壁の解消は,外国人観光客と意思疎通をする上で必要不可欠であり,さらに,外国人に正 しい沖縄文化を理解してもらう上でも多少の英会話力は必要である。②は,本土の観光客 と同じように,外国人観光客に合わせた音楽を提供することである。民謡酒場でも,外国 人観光客相手の音楽が演奏されるようになれば,演奏を妨害するような迷惑行為は最低限 に抑えられるだろう。 試案としてトランスナショナルな唄者の可能性を提示してみたが,このようなトランス ナショナルな空間はすでに存在しており,一部の民謡酒場では,メニューや看板を英語表 記にするなど,外国人観光客への対応が始まっている。これからの民謡酒場はナショナル からトランスナショナルな空間に移行し,唄者はそれに合わせた対応が求められるだろう。
111 終わりに 本論文では,戦後から現在にかけて,唄者のイメージと役割の変化を民謡クラブと民謡 酒場という「場」を通して明らかにした。沖縄戦前後の「ジュリ」や「怠け者」のイメー ジは,①メディアによって唄者が著名性を獲得し,②本土デビューした音楽家の活躍によ って徐々に払拭されるようになった。こうした変化は,地元民だけでなく観光客にも沖縄 民謡を注目させ,民謡酒場は地元民のローカルな空間から観光客のナショナルな空間へと 移行した(図 1,表 2)。近年では,外国人観光客の増加によって民謡酒場がトランスナシ ョナルな空間へと変化しつつあるため,唄者には新たな適応力や柔軟性が求められるよう になっている。 こうしたイメージの変化に伴い,唄者は,地元民相手から観光客相手のサービスを提供 するようになった。民謡クラブでは,「唄者―聴衆」の関係性が曖昧であり,相互的なコミ ュニケーションが存在したが,民謡酒場では,その線引きが明確になされ,唄者は演者と しての役割を徹底する存在になった。しかし,現在でも民謡クラブのあり方を重視してい 場 メディア 2000s 1990s 民謡酒場の登場 1980s 1970s 本土のステージ 1960s 民謡クラブの登場 1950s 集落,浜辺(毛遊び), 収容所,公民館,料亭 1940s 集落,浜辺(毛遊び), 遊郭,公民館など 在京メディア 在沖レコード,テレビ,ラジオ ラジオ 各時代 唄者のイメージ 演奏空間 1945 年前後 「ジュリ」や「怠け者」のイメージ 各集落,浜辺(毛遊び),遊郭,公民館 1960 年代前半 上記のイメージ+アイドル的存在 民謡グラブ,沖縄県内のメディア 1960 年代後半 上記のイメージ+風俗性 民謡グラブ,沖縄県内のメディア 1970 年代,1980 年代 「ジュリ」「怠け者」「風俗性」の排除 同上+在京メディア,本土のステージ 1990 年代以降 沖縄を代表する民謡の担い手 同上+民謡酒場 図 1 唄者の主な活動空間(「場」と「メディア」) 表 2 唄者のイメージと演奏空間の関係性
島嶼地域科学第 1 号(2020) 112 る民謡酒場はある。そこでは,飛び入り参加やステージ終了後の対面的な会話もあり,本 来の民謡酒場のあり方が残っている。現在では,多重にも様々な形の民謡酒場が存在して おり,調査を続けていけば,また新たな唄者のあり方があるだろう。今後の課題としては, 本論文の唄者のあり方を本質主義的に捉えるのでなく,より多様なものがあることを証明 していきたい。 注 1)琉球新報 1961 年 6 月 5 日朝刊 2 面「〔広告〕開店お知らせ「クラブメトロ」」。 2)民謡酒場の起源に関する内容は一次資料から把握することができないため,民謡関係者の 間で最初の民謡クラブと言われている「メトロクラブ」を取り上げる。 3)沖縄音楽専門のレコード会社。1970 年に創業。 4)1939 年生まれ。キャンパスレコード会社の社長。1945 年から現在に至るまで,コザ市で生 活しており,沖縄音楽の生き字引と言われている。 5)1945 年生まれ。唄者。 6)1920 年生まれ。唄者。息子は喜納昌吉。 7)1929 年生まれ。沖縄民謡と漫談を融合させた沖縄ポップカルチャーの第一人者。 8)日本本土の吉原に相応する場所。 9)トゥリノは「参与」を「踊ったり,歌ったり,手拍子をしたり,楽器を演奏することで, その場の音楽的な出来事にサウンドや身体運動によって能動的に貢献すること」として使用 している[トゥリノ 2015: p.60]。 10)2000 年代以降の「会いに行けるアイドル」の代表である AKB48 は特定の劇場を持ってい るため,ファンは,ライブの日であればそこへ行きアイドルに会うことができる。同様に民 謡クラブも営業日であれば,ファンはそこで唄者に会うことができる。しかし,AKB48 のよ うな劇場では,アイドルがステージ,ファンが客席というように,両者によって場所が固定 されている一方,民謡クラブでは,聴衆がステージで唄者の役割を果たしたり,唄者が客席 で聴衆になったりと,2 つの空間を行き来することで,唄者と聴衆はどちらの役割もパフォ ームすることができる 11)琉球新報 1964 年 9 月 23 日付記事。 12)コザ市周辺の普天間や金武町にも米軍人相手の店はあったが,歓楽街と呼ばれるほどの規 模ではなかった。 13)1942 年生まれ。筆者によるインタビューは 2018 年 5 月 14 日。 14)アーティストと聴衆という区別がなく,参与者と潜在的な参与者がそれぞれ別の役割を果 たすというタイプのアーティスティックな実践であり,そのもっとも重要な目的は,できる だけ多くの人びとを何らかのかたちでパフォームする側に巻き込むこと(トゥリノ 2015: p.56) 15)1950 年生まれ。筆者によるインタビューは 2019 年 8 月 22 日。 16)沖縄タイムス 1972 年 12 月 7 日朝刊 9 面「野放しの風俗営業 民謡クラブ 午前 6 時まで開店」。 17)沖縄タイムス 1973 年 7 月 28 日朝刊 11 面「民謡グループを食いものに 組織の資金源に」。 18)沖縄タイムス 1973 年 9 月 14 日朝刊 11 面「民謡グループのあっせん料 暴力団の資金源」。
113 19)1939 年生まれ。筆者によるインタビューは 2019 年 7 月 14 日。 20)音楽以外では,2001 年には,沖縄を舞台にした朝の連続テレビ小説「ちゅらさん」が平均 視聴率 20 %台の高視聴率をキープして終わった。ちゅらさん効果が担に発し,翌年には,全 国 9 ヶ所にある沖縄物産店「わしたショップ」を含む,沖縄県物産公社の県産品の売り上げ は,過去最高の 60 億円に達した。また,近年では外国人観光客も増加しており,海外航空路 線の新規開設や増便,LCC の普及,クルーズ船の増加により,2013 年の外国人観光客の数は 前年より約 2 倍増加した[湧上 2015: p.122]。 21)コザ市で民謡クラブを経営していた喜納昌吉や我如古より子などの唄者も,現在は国際通 りで民謡酒場を経営している 22)目標を達成するために意思決定を必要としている組織や個人のプロジェクトやビジネスな どにおける,強み(Strenghts),弱み(Weaknesses),機会(Opportunities),脅威(Threats)に 区分し,評価するのに用いられる戦略計画手法の 1 つ。 参考文献 浅香怜子(2014)『琉球の花街 辻と侏儷の物語』榕樹書林,宜野湾. 新井白石著(原田禹雄訳)(1996)『南島誌』榕樹書林,宜野湾. 石森秀三(1991)「観光芸術の成立と展開」藤井知明『観光と音楽』,東京書籍,東京,pp.18-36. 沖縄国際大学文学部社会学科石原昌家ゼミナール編(1994)『戦後コザにおける民衆生活と音 楽文化』榕樹社,宜野湾. 久万田晋(1998)「90 年代沖縄ポップにおける民族性表現の諸相」沖縄県立芸術大学大学院芸 術文化学研究科『沖縄から芸術を考える』榕樹書林,pp.134−162. 久万田晋(2000)「戦後沖縄のマス・メディアの状況と新民謡様式の展開―普久原恒勇の作品 を中心に」『Chubu Institute for Advances Studies/Studies Series』第 1 号, pp.67-74.
久万田晋(2011)『沖縄の民俗芸能論』,ボーダーインク,那覇. 高橋美樹(2010)『沖縄ポピュラー音楽史 知名定男の史的研究・楽曲分析を通して』,ひつじ 書房,東京. 東京ウォーカー(2004)「初心者でも安心!民謡酒場へ行こう」『東京ウォーカー』2004 年 5 月号, p.130. トマス・トゥリノ(野澤豊一・西島千尋訳)(2015)『ミュージック・アズ・ソーシャルライフ 歌い踊ることをめぐる政治』水声社,東京. 湧上敦夫(2015)「沖縄経済と観光」沖縄国際大学公開講座委員会『沖縄を取り巻く経済状況』, 沖縄国際大学公開講座委員会,pp.107-138. 宮入恭平(2019)『ライブカルチャーの教科書』,青弓社,東京. 与那国暹(2001)『戦後沖縄の社会変動と近代化―米軍支配と大衆運動のダイナミズム』,沖縄 タイムス社,那覇. 琉球警察本部(1961)『ニューポリス』琉球警察本部,那覇. (投稿 2019 年 12 月 30 日) (受理 2020 年 7 月 9 日)
島嶼地域科学第 1 号(2020)
114 【Research Note】
Changes in the Image and Role of Folk Song Singer:
Focus on Folk Song Club and Folk Song Pub
SAWADA Seiya
Ph.D Student, Tokyo University of the Arts
(Received on 30 December, 2019; Accepted on 9 July, 2020)
Currently, songwriters perform in media such as TV, radio, and records, perform in festivals and events, perform in folk song bars, and perform in a variety of other Okinawan folk songs, and are highly praised by people. However, when the history of the singers are traced back to after the prewar period, it is greatly different from the present image and role of the singers, and they were not highly appreciated in general. The image of the singers becomes positive as time goes by, and the role of the singers change accordingly.
The purpose of this paper is to clarify the process of changing the image and role of the singers from the prewar period to the present through the viewpoint of dedicated singers of the folk song club/bar in Okinawan island.