Title
周辺事態で何が変わるのか? : 新ガイドラインと沖縄 : こ
れまでとこれから
Author(s)
仲地, 博
Citation
法学セミナー = the hogaku seminar, 44(8): 12-15
Issue Date
1999-08
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10115
:周辺事態で何が変わるのか.
仲地博
新ガイドラインと沖縄
ーーこれまでとこれから
琉軍事大学教授(行政法)沖縄から安保が見える
,
四月二八日付琉球新報は、米海軍海 上輸送部隊の貨物船が、那覇軍港に寄 港し、野戦病院コンテナや赤十字表示 のついた車両を積み降ろしていたこと を報じている。その記事は、写真こそ 大きいものの、ガイドライン関連法案 の衆院通過に関連する大見出しの記事 の添え物のように二段の小さい扱いで ある。記事の概要を紹介する。 沖縄米軍基地のホワイトピl
チとキ ャンプ・フォスターに野戦病院コンテ ナを収容する ﹃ 艦船病院倉庫﹄が設置 されている。艦船病院はコンテナ自体 が手術室、病床、診療室、レントゲ ン 室などの機能を持ち、コンテナを連結 させることで紛争地域に五百人収容の 病院を短期間で建設することができる。 キャンプ・フォスターの病院倉庫は後 方地域支援型で、ホワイトビ1
チには 海外展開を目的としたコンテナが保管 されている。コンテナの一部は湾岸戦 争で実際に使用されたものも含まれて い る 。 前線に直結する基地沖縄の実態を伝 えている。箪事基地が、戦争に使われ るものであることを、沖縄ではしばし ば実感することができる。 ﹁沖縄からは安保が見える﹂と表現さ れる。日米安保体制という抽象的存在 が、沖縄では具体的な形をとることを 意味するが、その意味で沖縄は安保の 象徴ということになる。その具体的な 形とは何か。自の前に存在する巨大基 地は、基地提供条約としての安保条約 六条の核心を示すし、冒頭にあげた病 院コンテナのような事例は、中東まで 展開する在日米軍の機能を示す。 ガイドライ ン 法制もまたそうである。 周辺事態法の成立後、政府は、﹁日本有 事の法制を﹂と意欲を示している。有 事法制では、自衛隊の私有地通過や物 資の収用等の私権制限が予想されるが、 沖縄では、米軍のための土地の強制使 用が、復帰後二七年の問、間断なく行 われているのである。 見えるのは安保体制のみではない、 安保に疑念を示す国民の運動も沖縄で はよく見えることを忘れてはならない。 九五年の大目前知事の代理署名拒否を 契機とした沖縄の運動とその知事を激 励する一二万通の全国からの手紙は、 米軍基地縮小・安保の見直しを求める 国民の草の恨の声を示している。さら に、憲法九条の石碑が、米軍基地の島 にある(那覇市と読谷村)ことが、憲 法の果たす べ き役割や憲法に対する民 衆の期待を象徴している。 い : ・ 代 理 署 名 拒 否 と 沖 縄 の 基 地 問 題 ・ : ・ 一 一九七二年まで沖縄は、米軍の直 接統治の下に置かれた。日本に返還 された後も、在日米軍専用基地の七 五%が沖縄に置かれている。ちなみ に、沖縄県の国土面積に占める割合 は 、0
・六%であり、地方沖縄県土 の 一 一 % が 、 米 軍 基 地 で あ る 。 沖縄米軍基地の地主(土地所有者) の中には、契約を拒否するものがお り、それらの土地を、国は﹁米軍用 地特別措置法﹂に基づき、強制的に 使 用 し て い る 。 一九九五年、大田昌秀沖縄県知事 ( 当 時 ) は 、 強 制 使 用 手 続 き の 一 環 で ある代理署名を拒否。国は、一時、 一筆の土地の使用権原を失い、不法 占拠をするはめとなった。沖縄基地 問題の重要性を認識した日米両政府 は、日米特別行動委員会を設置、普 天間基地等の返還に合意している。 しかし、移設条件があり、未だ返還 の 具 体 的 見 通 し は つ い て い な い 。 法学セミナー ( 12 )新ガイドラインと沖縄
8/1999(No.536) 新ガイドラインで日米安保は、新し い段階に突入したと評価されている。 その過程に沖縄の基地縮小の大運動が あり、それを利用する形でダイドライン路線がひかれたことに沖縄は恒促た る 思 い が あ る 。 ガイドラインの見直しの出発点は、 ナイ・イニシアティプにあった。ナイ・ イニシアティプとは、ジョセフ・ナイ 国防次官補が主導した東アジア・太平 洋地域におけるアメリカの安全保障政 策である。一九九四年、ナイ国防次官 特集・周辺事態法でこうなる/ 補の手によって、日米安保の﹁再定義﹂ の作業が始まった。米国務省は、安保 論議に火をつけることは基盤が弱い村 山連立内閣(当時)を揺るがす危険が あるとして、当初この作業に消極的だ っ た と い う 。 一: ・ナイ・イニシアティプ・ : ・ : : : 米 国 国 防 総 省 の 国 防 次 官 補 ( 当 時 ) 出所:
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臼琉球新報より であったジョセフ・ナイ(ハーバー ド大学教授、国際政治学)が主導し た東アジア太平洋地域におけるアメ リカの安全保障政策のこと 。 エ ズ ラ ・ ボ│ケル国家情報会議東アジア部長 ( 当 時 ) と と も に 、 九 五 年 二 月 発 表 さ れた﹁東アジア太平洋地域における 米国の安全保障戦略 L ( 東アジア戦略 報 告 ) を ま と め た 。 内 容 は 、 ﹁ 日 米 の 安全保障同盟はアジアにおけるアメ リ カ の 安 全 保 障 政 策 の 要 ﹂ ﹁ ア メ リ カ の安全保障政策は、日本の基地の利 用や日本の 支 援に依拠している﹂と し 、 ア ジ ア に 一O
万人の兵力を維持 するとした 。 こ れ が 、 安 保 再 定 義 ・ ガ イ ド ラ イ ン 見 直 し の 基 礎 と な っ た 。 大田沖縄県知事(当時)が、代理 署 名 を 拒 否 ( 別 項 参 照 ) を す る 際 、 前期の﹁東ア ジ ア戦略報告﹂を挙げ た上で、日米安保再定義が﹁沖縄の 基 地 機 能 の 強 化 、 固 定 化 に つ な が る ﹂ ことを理由のひとつとしてあげてい る 。 ところが九五年九月の少女暴行事件 をきっかけとする沖縄の反墓地運動に ホワイトハウスは、沖縄基地の重要性 を再認識させられた。米国政府内部が、 再定義でまとまったのである(九九年 四月二一日付琉球新報、共同通信編集 委員春名幹男﹁普天間合意の行方﹂)。 当時の沖縄は 、 そのような米国政府の 内情を知るよしもなかった。もとより 重要な国策 、 まして 交 渉相手がある外 交上の意思決定は、国際関係の大きな 枠組みの中で、さまざまな要素がから みあいつつなされるのであり、事件と その後の沖縄の運動が安保再定義にい たる決定的な出来事だったというつも りはない 。 だが、基地被害の根絶と恒 久平和を求める運動が、米軍基地固定 化・安保再定義へ向けた﹁にがり﹂の 役割を果たすことになったとすれば、 まことに皮肉としかいいよ う が な い 。 安保再定義の帰結は、一九九六年四 月一七日の、三二世紀に向けての同盟 L という副題がつけられた日米安保共同 宣言であり、新ガイドラインである。 日米安保共同宣言は、米国の軍事的プ レ ゼ ン ス は 、 ﹁ ア ジ ア太平洋地域の平和 と安定の維持のためにも不可欠﹂であ るとした。また、﹁日米安保体制の中核 的要素である米軍の円滑な日本駐留に とり、広範な日本国民の支持と理解が 不可欠である L と指精した上で、特に 沖縄の米軍基地の整理・統合・縮小の 決意を確認している。沖縄基地の整理 縮小自体に異論を述べる筋合いはない 。 日米両政府とも、周辺住民の敵意に固 まれた基地の不安定さは骨身にしみて おり、沖縄住民の同意取り付けのため には、沖縄から基地の負担感を取り除 8/1999 (No.536) ( 13 ) 法学セミナーく必要性を痛感しているのである。 日米安保共同宣言と沖縄について、 特に述べたいのは次の二点である。 第一に、ガイドラインに関連して、 沖縄の運動が再び逆方向に利用された ことである。共同宣言に先立ち、四月 一一一日普天間基地の全面返還が発表さ れた。普天間基地は、密集する住宅地 の真ん中にあり周辺には一七の学校が ある。その危険性が常に指摘され、基 地返還要求の中心をなしていた。しか し、アメリカの姿勢は固く、返還はほ とんど不可能というのが一致した見方 であった。発表当日まで、防衛庁長官 すら知らされていないトップシークレ ットであった。突然の発表に、沖縄は 驚きと喜びが渦巻いたが、日米合意事 項 の 最 後 に 、 ﹁ 緊 急 の 際 の 米 軍 に よ る ( 日 本の)施設利用に関し日米双方で共同 研究する L という一項がもぐりこまさ れていることを気にした人はそれほど 多くなかった。さすがに地元紙社説は、 ﹁米国が良き隣人でありたいというだけ の理由で全面返還に応じるほど甘くは あるまい L と、危倶の念を表明してい る(四月一三日付琉球新報)。この懸念 は現実化する。普天間基地とガイドラ インの取引であ っ た の で あ る 。 朝日新聞﹁普天間の衝撃第 1 回 ﹂ ( 九 六年 六 月一七日付)は、次のように伝 えている。普天間返還が米国から伝え れた日(四月八日)橋本首相は、モン デ
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ル大使と交渉した結果を外務省、 防衛庁のごく少数の幹部に説明した。 普天間基地返還の条件は、①米軍の機 能を低下させない、②移転費用は日本 負担、③民間空港の使用体制の整備で あり、それを受け入れた、と。出席者 の 一 人 は 、 ﹁ ﹃ 首相は普天間と有事問題 をパッケージ・ディl
ルしたのだな ﹄ と受け止めた﹂と述べている。有事問 題というのがガイドライ ン であり、安 保共同宣言で、﹁ガイドラインを見直す ことで両首脳は一致﹂することになる。 普天間基地返還のいわば、交換条件と して自衛隊基地や民間飛行場の有事利 用への道が開かれ、ガイドラインの見 直しの一端は、ここに日米関で確約さ れたのである。参議院予算委員会での 橋本首相(当時)は、﹁施設使用の共同 研究は、今まで議論を避けてきたよう に思うが、普天聞の全面的返還に米国 が踏み込むプロセスで提起された。共 同研究を私自身の責任で決心した L ( 四 月一四日付朝日新聞)と述べて、普天 間基地返還との取引であ っ たことを証 言している。また、外務省筋としての 報道によれば、米側は、﹁米軍内部の反 発に苦しみながらも、何とか沖縄の負 担を軽減しようとする、過去見たこと のない配慮﹂を示したが、この努力と 引き替えに、安保共同宣言で在日米軍 の維持だりでなく自衛隊が米軍を支え る防衛協力について①対象地域をア ジ ア太平洋全域に拡大する、②極東有事 の際の支援を可能にするーなどを確実 なものにしようとした、のである(九 六年四月一四日付沖縄タイムス﹁安保 と沖縄クリントン来日﹂)。 沖縄の島ぐるみの声は、﹁日米安保が 危うい﹂という逆 パ ネ と し て 利 用 さ れ 、 ﹁基地縮小のためには日本の防衛協力が 当然﹂という立場の追い風にされてし まった(朝日新聞九六年四月一四日社 説 ) と い え よ う 。 第二に﹁日本周辺地域における事態﹂ へ の対応に日本を参加させることは、 日米両政府において三O
年来の課題で あり、それにも沖縄はかかわ っ ていた ことである。一九六九年の佐藤ニクソ ン 共同声明は、七二年中に沖縄の施政 権を返還することで合意した。沖縄住 民の長い復帰還動と国民規模の沖縄返 還運動の成果であった。しかし、その 共同声明で、総理大臣は、﹁韓国の安全 は 、 日 本 自 身 の 安 全 に と っ て 緊 要 ﹂ 、 ﹁ 台 湾における平和と安全の維持も日本に とってきわめて重要な要素﹂という認 識を表明し、さらに寸日本の安全は極 東における国際の平和と安全なくして は十分に維持することができないもの であり、したがって極東の諸国の安全 は日本の重大な関心事であるとの日本 政府の認識を明らかにした L と述べて いる。極東有事と日本有事の結合であ り、極東有事に日本がかかわる姿勢の 表明である。これが沖縄返還の前提で あった。日米安保体制は、米軍による 日本本土防衛と米軍の基地自由使用体 制から、日米が、極東地域の﹁安全﹂ に共同責任を負う体制へと変化したの である。新ガイドラインは、三O
年前 のこの時点ですでに内包されていたの で あ る 。 沖縄返還交渉にあたったジョンソン 元駐日大使が﹁私は、日本人を喜ばせ るために沖縄を返還せよと主張するつ もりはなかった﹂と述べている(増田 弘訳﹃ジョンソン米大使の日本回想﹄ 草思社一九八九年一三九頁)が、普天 間基地もまた同様であったのである。 ガイドライ ン も沖縄基地整理縮小も、 安保共同宣言で約束されたものである。 ガイドラインは着々と進み、他方の基 地整理縮小は進まない。政治の怠慢な のか、沖縄にしわ寄せをした歴史を今 回もあたり前とするのか、国民自身も 問われている 。 地元紙社説は述 べ る 。 ﹁ 本 県 は 明 治 以 降 ﹁ ト カ ゲ の し っ ぽ 切 り ﹂ の扱いを受けてきた。:・その﹁しっぽ 切り﹂が再び頭をもたげてきた﹂(四月 二七日付沖縄タイムス)と、ガイドラ インの中に国と沖縄の歴史を見、そし て、﹁われわれは沖縄が、これ以土、日 法学セミナー ( 14 ) 8/1999(No.536)米悶盟の寸踏み石﹂にされることを拒 否する﹂(四月二九日付同紙)と、基本 的立場を鮮明に示している。