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米国自動車産業再編成と対外進出(1897-1933年)(6)ヨーロッパへの進出を中心として

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米国自動車産業再編成と対外進出(1897-1933年)

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― ヨーロッパへの進出を中心として ―

       土 井   修

(3)ジェネラル・モーターズ社の設立(「ビュイック」、「キャデラック」、 「オールズモービル」、「オークランド」)  ①設立の経緯と資金需給の逼迫  1908年 9 月16日、W・C・デュラントは、自ら支配下に置くビュイック 社を中核として、種々の自動車企業およびその関連企業の統合を目指すべ く、持株会社ジェネラル・モーターズ・カンパニーをニュージャージー州 に設立した。授権資本金は2,000ドル(普通株、優先株が10株ずつで、各々 額面は100ドル)で、同月30日には1,250万ドル(優先株700万ドル、普通 株550万ドル)に引上げ、以後1910年 9 月30日までに、主に株式交換を通 じて合計25社を買収した。25社のうち11社が自動車生産企業で、残余14社 は部品・付属品生産企業であった(表6- 1)。  自動車生産諸企業のうち、まず、ビュイック社については、ビュイック 社普通株188万7,000ドル、現金50万ドル、優先株200万ドル(発行予定) それぞれに対して、同社普通株94万3,500ドル・優先株188万7,000ドル、普 通株25万ドル・優先株50万ドル、普通株100万ドルをデュラントに発行し た。デュラントの受取り分は普通株219万3,500ドル、優先株238万7,000ド ル、計458万500ドルに上った。この普通株のうち100万ドル分は同社に寄 贈され、優先株発行の際の50%ボーナス株として用いられることになった。 ビュイック社の残余普通株11万3,000ドルについては、1 株に対して同社普 通株0.5株と優先株 1 株、その後ビュイック社の発行する優先株についても 1 株に対して同社普通株0.5株と優先株 1 株の割合で交換された。

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表6-1 ジェネラル・モーターズ社の企業買収(1908~1910年、ドル)

企業名 正味資産 現金 買収方法優先株 普通株 資本金

Buick Motor Co. 3,417,142 1,500 2,498,500 1,249,250 2,500,000(100)

Cadillac Motor Car Co. 2,862,709 4,400,000 275,000 1,500,000(100)

Old Motor Works 2,961,769 17,279 1,827,694 1,195,880 3,132,000(100)

Oakland Motor Car Co. 305,523 305,523 800,000(100)

Marquette Motor Car Co. 300,000 100 161,200 32,200 793,000(100)

Cartercar Co. 266,486 2,780 137,700 607,720(91)

Elmore Manufacturing Co. 600,000 600,000 600,000(100)

Randolph Motor Car Co. 207,400 204,400 399,400(75)

Reliance Motor Truck Co. 164,590 111,993 481,200(99)

Rapid Motor Vehicle Co. 647,563 412,348 51,500 500,000(73)

Weston-Mott Co. 199,302 230,000 94,000 47,000 1,500,000(50)

W.T.Stewart Body工場 160,000 160,000 80,000

Michigan Motor Castings Co. 112,500 37,125 100,000(100)

Northway Motor&Manufacturing Co. 212,075 212,075 725,000(100)

Ewing Automobile Co. 88,900 37,800 51,100

Dow Rim Co. 100,000 41,200 28,800

Welch Motor Car Co. 250,000 6,000 224,000(100)

Michigan Auto Parts Co. 76,736 76,736 300,000(100)

Jackson-Church-Wilcox Co. 122,450 122,450 240,000(100)

Novelty Incandescent Lamp Co. 86,668 65,000

Heany Lamp Companies 112,759 1,111,000 5,908,500

McLaughlin Motor Car Co.,Ltd.* 1,003,000(50)

Champion Ignition Co.* 100,000(75)

Brown-Lipe-Chapin Co.*

Oak Park Power Co.* 200,000(67)

計 13,161,813 6,127,668 7,268,894 8,512,830 15,440,710(90) 株式の買戻し 1,654,000 581,700 子会社への追加発行 312,400 計 5,927,294 7,931,130 現金調達のための証券発行 4,114,806 1,639,500 株券配当 6,249,200 総計 10,042,100 15,819,830 注:(1)設立後、1910年9月30日までの他企業買収。   (2)*=ビュイック社が買収し、GM社に譲渡した。   (3)すべての企業について全株式を取得したわけではない。   (4)資本金は1910年10月時点のもので、( )内の数字は同社の保有比率を示す(C&FC, Oct. 8, 1910)。 出所:Lawrence H.Seltzer, A Financial History of the American Automobile Industry(1928),p.154.

 次いで、1908年11月、オールズ社の買収に着手した。全株式200万ドル およびオールズ社社長S・L・スミスの保有する支払い手形104万ドルに対

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して、同社優先株183万ドル、普通株120万ドル、現金 1 万7,000ドル、計 304万ドルで買収した(オールズ社の1908年 8 月 1 日時点での純有形資産 額は129万ドルにすぎなかった)。   さらに、キャデラック社については、1908年11月、B・ブリスコーが全 株式(150万ドル)の60%を 1 株150ドルで取得するオプションを得たが、 J・P・モルガン商会の資金協力が得られず実現しなかった。その後、デュ ラントは1909年 7 月、 1 株300ドル強で買収することを決め、そのため440 万ドルの現金および27万5,000ドルの同社優先株を支払った。  オークランド社については、ミシガン州ポンティアックに立地し、1907 年 8 月に設立された資本金30万ドルの小企業で(1908年の生産台数は278 台)、現金31万ドルで買収した。  自動車生産企業の中心は、以上の 4 社が中心で、残余 7 社の自動車生産 諸企業の多くは、いずれも重要性のない企業が多かった。しかし、カナダ の馬車製造業者のR・S・マクローリンと協力して、資本金100万ドルのマ クローリン・モーター・カー社を設立し、その株式の49.9%を保有したこ とは、カナダ進出の第一歩として注目される。   なお、フォード社およびマクスウェル-ブリスコー社の統合を試みたが、 フォード社の場合、買収金額は800万ドル(そのうち200万ドルは交渉に当 たった J・カズンズへの報酬、200万ドルは現金、残余400万ドルは 5 %・ 3 年の割賦払い)で、200万ドルの現金調達をナショナル・シティ・バン ク(ニューヨーク)に要請したが拒否され、実現できなかった。ナショナ ル・シティ・バンクの拒否の理由は明らかではないが、同行がこの期 J・ P・モルガン商会との協調関係を強化していたため、同商会の意向を忖度 したものと考えられる。また、マクスウェル社については、同社株500万 ドルとの交換で買収することになり、J・P・モルガン商会に資金協力を 求めたが、約200万ドルの現金が必要であるとして、やはり実現できなかっ た1 ) 。

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 部品・付属品生産企業の中で特筆すべきことの一つは、ヒーニー社の買 収であった。1910年 1 月、同社は、 J・A・ヒーニーの保有する自動車用 ランプに関する特許に基づいて設立されたヒーニー・ランプ社、ヒー ニー・エレクトリック社、ティプレス・ランプ社を、同社普通株591万ド ル、優先株111万ドル、現金11万ドル、計713万ドルで買収した。しかし、 その後その特許は無効であることが判明し、その結果、同年 9 月30日には、 ヒーニー社への投資額を帳簿から消却処理するに至った。また、車軸メー カーであるウェストン-モット社の株式110万ドルのうち49%を取得し、 部品の安定的確保を強化した(ウェストン-モット社を支配下に置くC・ W・モットは後に同社取締役に就任した)2 )  以上のような企業買収の特徴は、(1)自動車生産企業では、低価格車か ら高価格車まで幅広い車種の生産を目指した水平統合が見られた(トラッ ク生産企業も含まれた)、(2)多くの部品・付属品生産企業の統合が見ら れ、いわゆる「内製化」を推進する垂直統合が見られた、(3)株式交換を 主とした統合であり、その結果、いわゆる「水増し」設立財務が展開され た、等であった。特に、「水増し」財務については、買収のために発行し た株式が、現金調達目的や株券配当等を含めて、普通株が1,582万ドル、 優先株が1,004万ドルで、現金支払いの613万ドルを含めると、合計3,199万 ドルに上ったのに対して、取得した正味資産はわずか1,316万ドルであっ た(表6- 1)。  しかし、こうした企業買収を通じて、1909年 9 月末には、資本金は1,099 万ドル(普通株421万ドル、優先株678万ドル)に、資産額は1,838万ドル に達した(そのうち他企業証券保有額は1,629万ドル)。さらに企業買収を 推進すべく、同年 9 月には授権資本金を6,000万ドル(普通株4,000万ドル、 優先株2,000万ドル) に引上げ、 同年11月には150%の株式配当(625万ド ル)を行った。同年12月には、300万ドルの優先株を発行し(株主割当)、 さらに、1910年 3月には100万ドルの優先株を追加発行した(従業員割当)3 ) 。

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 他方、こうした急激な企業買収に伴って多額の資金を必要としたが、そ の他にも、(1)自動車のフルライン生産を目指したものの、買収企業の多 くは小企業であったため、施設も不十分でしかも債務を抱えた企業が多 かった、(2)そのため、 9 月末に終わる1910年度には、設備投資を608万 ドルから1,409万ドルへ、在庫投資を852万ドルから3,980万ドルへと増加さ せた、(3)1910年度の純益は、前年度の911万ドルから1,023万ドルと高水 準を維持したが、売上高は2,903万ドルから4,943万ドルへと大幅に増加し、 その結果多額の運転資金が必要となった、(4)同社の中核的子会社である ビュイック社の生産台数は、1910年夏の景気後退の影響を受けて予想を大 幅に下回った、(5)当時はなお自動車証券に対する信頼性が低く、現金調 達のための証券発行は困難であった、等の諸要因によって、同社の財務状 況は極めて悪化するに至った。なお、こうした苦境を打開するため、同社 は、1910年 8 月末、株式数を増加させ、 1 株当たりの市場価格を引下げ、 株式の販売促進を目的として、大幅な増資および400%の株式配当を計画 したが、既に同社の財務状況は、そうした計画を実現しうる状況にはな かった4 )  ビュイック社の債務は、ファースト・ナショナル・バンク(ボストン) を始めとする多数の諸銀行に対して約270万ドル、部品・付属品業者等に 対する商業債務が400万ドル~ 500万ドルに達していた5 ) 。1910年 9 月初め、 債権者委員会(委員長はシカゴのコマーシャル・ナショナル・バンク副頭 取のR・ヴァン・ベクテン)が開催され、銀行既存融資期限の 1 年延期お よび当面の短期債務に対する250万ドルの新規融資を決めた。その間、 デュラントはクーン・ロープ商会やシカゴのコンチネンタル・セイビング ス・アンド・トラスト社等へ融資を依頼したが、いずれも奏功せず、同社 経営の抜本的改革の必要性が明らかとなっていった。他方、同社の株主で ある J・H・マクレメントは、デュラントの了解を得て、融資可能な金融 機関ヘの打診を行い、その結果、ニューヨークの J &W・セリグマン商会

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およびボストンのリー・ヒギンソン商会の呼びかけで、同年 9 月25日に チェイス・ナショナル・バンクで22行の代表者による検討会議が開催され た(議長はナショナル・パーク・バンク副頭取の J・C・ヴァン・クリー フ)。その会議では、デュラントの杜撰な経営方針に批判が向けられ、22 行のうち関心を寄せたのは 5 行のみで、議事は難航した。しかし、同社を 代表したW・C・リーランド(H・M・リーランドの息子)による救済融 資の必要性の説得が功を奏し、厳しい条件付きながらも、 J &W・セリグ マン商会およびリー・ヒギンソン商会によって、10月 1 日、1,500万ドル の 6 %・5 年ノート発行が決定された6 ) 。ノート引受の条件は、(1)同社を 5 年間、 5 名の議決権受託人の支配下に置き、そのうち 3 名は銀行家とす る、(2)ミシガン州の資産すべてを包括担保とする(そのためにジェネラ ル・モーターズ・カンパニー・オブ・ミシガンを設立)、(3)銀行は引受 報酬の一部として同社普通株200万ドル、優先株417万ドルを取得する、(4) ノート発行に伴って同社が受取る現金は1,275万ドルとする、等であった7 ) シンジケートの幹事は J &W・セリグマン商会およびリー・ヒギンソン商 会で、シンジケートにはクーン・ロープ商会およびセントラル・トラスト 社(ニューヨーク)も加わった8 ) 。なお、クーン・ロープ商会は、10%に 当たる150万ドルをオリジナル・タームで引受け、そのうち30万ドルを J・ P・モルガン商会に割当て、 J・P・モルガン商会はその 4 分の 1 をG・ F・ベイカーに割当てた(それぞれ22万5,000ドルと7万5,000ドル)。J・P・ モルガン商会は、この30万ドルに対する引受報酬として現金 1 万1,360ドル と優先株733株を受取った9 )  この証券発行は、同社の自動車販売増加の見通しを背景として、極めて 順調に推移し、引受に参加した金融機関がまず購入し、次いでそれら関係 者が購入するという形で、1 ヵ月未満で売捌かれ、公募は行われなかった10 ) 。  次いで、同年11月中旬には、議決権信託の設定および人事の刷新が行わ れた。議決権信託は、 5 名の受託人で構成され、そのうち 3 名は銀行によ

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る指名であった。受託人は、デュラント、ストロウ(リー・ヒギンソン商 会)、シュトラウス( J&W・セリグマン商会)、ワラス(セントラル・ト ラスト)、A・N・ブレイディ(同社大株主)で、これら受託人が同社の経 営を担うことになった。その結果、デュラントの同社に対する支配権は失 われることになった11 ) 。  旧取締役は、デュラントを除いてすべて退任し、代わって 5 名の受託人 に加えて、 J・H・マクレメント、E・W・クラーク、A・H・グリーン・ ジュニア、M・J・マーフィー、T・ニール、N・L・ティルニーが新取締 役に就任した。これらのうちクラーク、グリーン、マーフィー、ニールは いずれもデトロイト出身で、クラーク、マーフィー、ニールはいずれも ファースト・ナショナル・バンク(デトロイト)の取締役を兼任していた12 ) 。 また、財務委員は表6- 2の通りで、デュラントは財務委員長に選任された が、実権はなかったと言われる。また、社長にはストロウが暫定的に就任 したが、翌年1 月には、アクメ・ホワイト・レッド&カラー・ワークス社 長のトーマス・ニールが就任した。   新旧取締役会の構成メンバーを比較すると、旧取締役の多くが被統合企 業関係者が多かったのに対して、新取締役会は銀行関係者が圧倒的に多い。 ニューヨークやボストンの大手投資銀行はもちろん、デトロイトの金融機 関関係者も多い。同社は文字通り、銀行管理下に置かれたのであった。  ②銀行管理下の経営と資本蓄積  ストロウを中心とする銀行家による経営執行部は、それまでのデュラン トによる杜撰な経営体制を是正すべく、様々な改革を行った。  まず第一に、ニューヨークに置かれていた本部事務所をデトロイトに移 すとともに、既述の通り、デトロイトの銀行家や実業家を取締役に選任し た。この目的は、本部と各子会社との意思疎通・連携強化を図るとともに、 デトロイトにおける同社に対する信頼性を得ることであった。また、既述

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のノート発行による財務の安定化によって、デトロイトやシカゴの銀行へ の預金が増大し、多くの債権者が支払いを受け、その結果銀行や企業から

の信頼を再び取戻すことができた13 )

表6-2 ジェネラル・モーターズ社の取締役構成の変化(1910年11月)

A.M.Bentley Owosso (Reliance Motor Truck Co.)

E.R.Campbell Flint Durantの義理の息子

W.C.Durant 副社長

W.M.Eaton 社長 (Hodenpyl-Walbridge&Co.)

C.R.Hatheway 財務・秘書(NY)(Hayden,Ward and Satterlee)

H.Henderson NJ

S.B.Knox NY

W.C.Leland Detroit (Cadillac Motor Car Co.)

S.McLaughlin Oshawa (McLaughlin Motor of Canada)

W.J.Mead Lansing (Buick Motor Co.)

J.T.Smith NY

H.G.Hamilton Pontiac

A.N.Brady 受託人(NY)New York Edison Co.社長;Brooklyn Heights R.R.Co.会長;

Westinghouse E&Mfg Co.;American Tobacco;U.S.Rubber Co.; Williamsburgh Trust Co. of Brooklyn;National Surety Co.; National Commercial Bank of Albany

J.N.Wallace 受託人(NY)Central Trust Co.(NY)

J.H.McClement (NY)Manhattan Ry Co.;Colorado Fuel&Iron Co.;T.H.Symington Co.;Title Guarantee&Trust Co.(Brooklyn Advisory Board) A.Strauss 財務・信託(NY)J&W Seligman&Co.

E.W.Clark 副社長・財務 FNB(Detroit)頭取;Security Trust Co.副社長;Home Savings

(Detroit)Bank(Detroit);Mutual Life Insurance Co.(NY) A.H.Green Jr. 財務(Detroit)Solvay Process Co. of America 支配人;NBC(Detroit)

M.J.Murphy 財務(Detroit)Murphy Chair Co.社長;Murphy-Potter Co.社長;Security Trust Co.(Det);Michigan SB(Det);FNB(Det);Peoples SB(Det) T.Neal 財務(Detroit)Acme White Lead&Color Works総支配人;FNB(Detroit);

Michigan Savings Bank(Detroit).

J.J.Storrow 社長・財・受 Lee Higginson&Co.;FNB(Boston);Ry and Lt Securities; (Boston)American Writing Paper;United Fruit;United Shoe Machinery;

U.S.S,R&M W.C.Durant 副社長・財・受

N.L.Tilney (Orange(NJ))

注:上段は旧取締役、下段は新取締役を示す。旧取締役の(   )内の企業名は旧所属企業・金融機関・  法律事務所を示す。

出所:C&FC, Dec. 10, 1910; The Rand McNally Bankers, Directory and List of Attorneys(1913); Who,s   Who in Finance(1911); The Book of Detroiters(1914).

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 第二に、業務および会計の報告システムを整備し、業務の効率的運営お よび債務等財務状況の十全な把握を目指した。  第三に、デュラントが設立後 2 年間にわたって展開した他企業の買収や 既存設備の拡充政策について、経営合理化の観点から検討を行った。まず、 11の自動車生産ラインのうち実際に機能しているのはビュイック、キャデ ラック、オールズ、オークランドの 4 社であるため、トラック生産に従事 する 3 社を統合してジェネラル・モーターズ・トラック・カンパニーを新 設し(1911年 7 月)、残余の 4 社は清算した。最も重要であったのは既述 のヒーニー諸企業の買収に関するもので、1910年 1 月、713万ドルで買収 したが、ヒーニーの資産の中心である白熱球に関する特許はその後無効と されたため、貸借対照表では消却された。1911年11月、デュラントは責任 をとって財務委員長を辞任し、ストロウに取って代わられた14 )。こうして、 新体制は、デュラントによる「水増し」設立財務を是正すべく、「水抜き」 財務を展開した。後述するように、1910年と1911年の貸借対照表を比較す ると、「暖簾」項目が大幅に減少したのであった。  第四に、1909年、英国のベッドフォード・モーターズ社(組立)を買収 し、新設のジェネラル・モーターズ・エクスポート社の傘下に置いた(資 本金 1 万ドルで、1912年 1 月には10万ドルに引上げた)。また、販売事務 所としてジェネラル・モーターズ・オブ・カナダ(資本金 1 万ドル)を設 立した。こうして輸出や海外組立等、海外進出の体制を整備した15 )  第五に、社長はストロウからT・ニールに代わった後(1911年 1 月)、 1912年11月、ビュイック社のC・W・ナッシュが社長に就任した。また、 ビュイック社の社長にはW・P・クライスラーが就任し、ストロウ-ナッ シュ-クライスラー体制が出来上がった16 )  次に、この期の生産および資本蓄積の動向を概観しておこう。まず、こ の期の生産動向を見ると(表6- 3)、第一に、生産台数では1909年以降 1914年までは、漸増傾向が見られた。この期生産を著しく増大させた

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フォード社の場合とは比較にならないが、銀行管理下の経営体制であるこ とを勘案すれば、十分評価できる業績と言えよう。大戦期に入ると、戦争 の影響と経営合理化の効果が相俟って、1915年以降急増するに至った。第 二に、車名別に生産動向を見ると、ビュイックが最も多く、次いでキャデ ラック、オークランド、オールズモービルであった。ビュイックのスペッ クを見ると(表6- 4)、モデル数が多く、 4 気筒車が中心で、価格も1,000 ドル前後と、中価格車生産に注力したことが窺えよう。低価格車分野では、 フォード社にはなお太刀打ちできなかったのである。しかし、同社の生産 の中では、全体の過半を占める中核的企業であった。  キャデラックを見ると、表6- 5の示すように、 4 気筒車中心ではあるが、 表6-3 ジェネラル・モーターズ社の車名別生産動向(台、1908~1917年) 年 ビュイック 構成比(%) オールズモービル 構成比(%) キャデラック 構成比(%) 1908 8,820 89.3 1,055 10.7 - - 1909 14,606 60.4 1,690 7.0 7,868 32.6 1910 20,758 57.2 1,425 3.9 10,039 27.7 1911 18,844 55.6 1,271 3.8 10,071 29.7 1912 26,796 57.4 1,155 2.5 12,708 27.2 1913 29,772 53.3 1,175 2.1 17,284 31.0 1914 42,803 71.7 2,254 3.8 7,818 13.1 1915 60,662 59.4 7,696 7.5 20,404 20.0 1916 90,925 62.2 10,263 7.0 16,323 11.2 1917 122,262 60.2 22,027 10.8 19,725 9.7 年 オークランド 構成比(%) GMトラック 構成比(%) 合 計 構成比(%) 1908 - - - - 9,875 100.0 1909 - - - - 24,164 100.0 1910 4,049 11.2 - - 36,271 100.0 1911 3,386 10.0 293 0.9 33,865 100.0 1912 5,838 12.5 158 0.3 46,655 100.0 1913 7,030 12.6 601 1.1 55,812 100.0 1914 6,105 10.2 708 1.2 59,688 100.0 1915 11,952 11.7 1,408 1.4 102,122 100.0 1916 25,675 17.6 2,999 2.1 146,185 100.0 1917 33,171 16.3 5,885 2.9 203,070 100.0

出所:The Editors of Automobile Quarterly Magazine, General Motors: The First 75 Years(1983),    pp.216-217.

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ビュイックに比べて、馬力数は多く、価格も高く、中価格車と言うよりも 高価格車であった。生産台数も 1 万~ 1 万5,000台で横這い状態であった。 オールズモービルについては、1910年には早くも 6 気筒車を導入する等、 当初40 ~ 60馬力・価格3,000 ~ 6,000ドル程度の高価格車を生産していたが、 表6-4 ビュイックのスペックと生産台数の推移(1910~1915年) 年度 モデル名 気筒数 馬力数 ホイールベース(インチ) 価格(ドル) 生産台数 1910 10(3~ 4) 4 22.5 92 1,000 ~ 1,500 10,998 1910 17(5) 4 32.4 112.5 1,750 6,002 1910 F(5) 2 22 92 1,000 4,000 1910 16(2-4) 4 32.4 112 1,750 2,252 1910 19 4 28.9 105 1,400 4,000 30,525 1911 14(2) 2 14.2 79 550 3,300 1911 21(3-5) 4 40 110 1,500 ~ 1,550 3,000 1911 33(5) 4 22.5 100 950 2,000 1911 27(5) 4 25.6 100 1,150 3,000 13,398 1912 28(4) 4 25.5 108 1,025 2,500 1912 29(5) 4 25.5 108 1,180 6,000 1912 35(5) 4 22.5 101.75 1,000 6,050 19,051 1913 24(2) 4 22.5 105 950 2,850 1913 25(5) 4 22.5 105 1,050 8,150 1913 30(2) 4 25.6 108 1,125 3,500 1913 31(5) 4 25.6 108 1,285 10,000 26,006 1914 B-24(2) 4 22 105 950 3,126 1914 B-25(5) 4 22 105 1,050 13,446 1914 B-36(2) 4 35 112 1,375 2,550 1914 B-37(5) 4 35 112 1,485 9,050 1914 B-55(5) 6 48 130 1,985 2,045 21,217 1915 C-24(2) 4 22.5 106 900 3,256 1915 C-25(5) 4 22.5 106 950 19,080 1915 C-36(5) 4 37 112 1,185 2,849 1915 C-37(5) 4 37 112 1,235 12,450 1915 C-55(7) 6 55 130 1,650 3,449 42,553 注:生産台数2,000台以上のモデルのみ。モデルの欄の(    )内の数字は乗車可能人数を示す。 出所:Standard Catalog, pp.155-159.

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1915年には中価格車に注力し、販売を伸ばした。オークランドの場合も、 オールズモービルの場合と同様、当初1,500~ 2,000ドルの中価格車を中心 に生産していたが、1915~1916年には1,000ドル前後の 4 ~ 8 気筒車を投 入し、売上げを伸ばした17 )  こうして、中ないし高価格車モデルを多く揃え、毎年モデル・チェンジ を行い数多くの車体形式も整え、需要の多様化に対応しようと努めた。し かし、問題は低価格車分野であり、この分野への進出は、シボレー社の登 場を待たねばならなかった。なお、1911年からトラックの生産を開始し、 大戦の影響を受けて急速に増大させた。  次に、資本蓄積状況を見ると(表6- 6)、まず1911年度は前年度に比べ て大幅な販売額および純益の減少が見られ、販売額・純益比率も20.7%か ら9.5%へと低下した。1911年度は10 ヵ月間、1910年度は12 ヵ月間の相違 はあるが、それを考慮したとしても大幅な業績悪化であった。工場の閉鎖 と統合等、銀行家による保守的な合理化政策を反映しているものと言えよ う。しかし、1912年度以後は、米国の自動車販売の増加傾向や合理化の効 果の影響によって、漸次販売額、純益ともに増大した。特に1915年度では、 販売額、純益ともに著しく増加し、販売額・純益比率も15.7%に達した。 もっとも、米国自動車生産に占めるシェアは、1910年の生産台数で21%、 生産額で22%であったが、1915年にはそれぞれ7.8%、13.3%で、全体の地 位は低下した。なお、1911年度以降優先株への配当は毎年継続され( 7 %)、 表6-5 キャデラックのスペックと生産台数の推移(1910~1915年) 年度 モデル名 気筒数 馬力数 ホイールベース(インチ) 価格(ドル) 生産台数 1910 30(2~ 7) 4 33 110 1,600 ~ 3,000 8,008 1911 30(2~ 7) 4 32.4 116 1,700 ~ 3,000 10,019 1912 30(2~ 7) 4 40 116 1,800 ~ 3,250 13,995 1913 30(2~ 7) 4 40 ~ 50 120 1,975 ~ 3,250 15,018 1914 30(2~ 7) 4 40 ~ 50 120 1,975 ~ 3,250 14,003 1915 51(2~ 7) 8 70 122 1,975 ~ 3,600 13,002 出所:Standard Catalog, pp.196-199.

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1915年に至って普通株にも50%の現金配当が決定された18 ) 。  同社の貸借対照表の推移を見ると(表6- 7)、(1)1911年度資産額は、 前年度に比べて、既述の「暖簾」および「現金」の減少によって大幅に減 少した(負債項目では「支払勘定」の減少)、(2)1912年度以降、総額に 大きな変化は見られないが、資産項目の中では、「現金」の増大、負債項 目では「ノート」の減少および「剰余金」の増大が顕著であった、(3)毎 表6-6 ジェネラル・モーターズ社の販売・利益状況(台、1,000ドル) 生産台数 販売額 純益 剰余金 1909年度 30,981 29,030 9,114 8,697 1910年度 39,300 49,430 10,225 9,582 1911年度 35,752 42,733 4,066 2,474 1912年度 49,538 64,744 4,746 2,856 1913年度 46,719 85,604 8,184 6,411 1914年度 58,987 85,373 7,820 6,201 1915年度 76,068 94,425 14,794 13,409 注:1911年および1912年は9月末に終わる年度、他は7月末に終わる年度。  1911年度は10ヶ月間。

出所:Lawrence Seltzer, op.cit., p.169.

表6-7 ジェネラル・モーターズ社の貸借対照表の推移(1,000ドル) 1910年 1911年 1912年 1913年 1914年 1915年 工場・設備 14,095 17,633 19,281 20,459 21,515 15,820 投資等 2,368 3,096 2,855 2,288 1,216 1,782 在庫 19,802 17,304 17,587 18,171 11,642 14,049 受取勘定 4,197 4,637 4,229 3,449 3,359 4,478 現金 15,000 4,055 3,081 6,236 13,453 14,049 暖簾 14,854 7,664 7,934 7,934 7,934 7,934 計 70,317 54,388 54,958 58,538 59,115 58,589 普通株 15,825 15,822 16,371 16,477 16,502 16,507 優先株 14,463 14,394 14,937 14,985 14,985 14,985 ノート 15,000 14,002 12,452 10,935 7,852 2,328 子会社株式 2,220 2,606 922 987 1,004 982 支払勘定 14,270 2,786 4,383 6,171 4,772 2,651 準備金 7,190 3,539 4,561 6,039 7,310 11,151 剰余金 1,350 1,240 1,263 2,945 6,689 19,985 計 70,317 54,388 54,958 58,538 59,115 58,589 注:1910年は10月1日、他は7月末時点。

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年の剰余金は増加傾向を辿り、資産項目の中の「現金」の増加に大きく寄 与している、等が知られよう。総じて、この期は、その後の同社発展のた めの基礎固めの時期であったと言えよう。  ③デュラントによるシボレー・モーター社の設立(「シボレー」)  1909年以来、デュラントは、デトロイトで小型車および 6 気筒車の開発 を行っていたルイ・シボレー(レーサーでもあった)に資金援助を行い、 1911年11月、シボレー・モーター・カンパニーをフリントに設立した。資 本金は10万ドルで、翌12月には、250万ドルに引上げたが、増加分の 2 分 の 1 は、デュラント-ドート・キャリッジ社が取得した。社長にはビュ イック社の総支配人であったW・H・リトル、副社長にはデュラントの息 子のE・R・キャンベル、秘書にはC・R・ハザウェイ、副秘書・財務担当 にはW・W・マーフィーが就任した。 6 気筒・排気量299立方フィート・ 40馬力・価格2,150ドルの 4ドア・5 人乗りツーリング車「クラシック・ シックス」を売出し、1912年には2,999台、1913年には5,987台を生産した。  1910年には、 J・H・ホワイティングを通して馬車メーカーのフリン ト・ワゴン・ワークスを20万ドルで買収し、その資産を基礎に、上記W・ H・リトルとともに、1911年11月、リトル・モーター・カー・カンパニー をフリントに設立した(授権資本金は、普通株70万ドル、優先株50万ドル、 計120万ドル)。設立には、リトルの他に、前フリント・ワゴン・ワークス 役員であったC・M・ベゴール、W・S・バーレンジャーが加わった。 4 気筒・20馬力・ホイールベース90インチのロードスター「リトル」を690 ドルで売出した。1913年には、シボレー社はこのリトル社を吸収し、「リ トル」の車名も「シボレー」に変えた。  また、1911年 7 月には、デュラントは、ビュイック社の創設者の一人で あるA・C・メイソン等とともに、シボレー社とリトル社にエンジンを供 給すべく、メイソン・モーター・カンパニーを設立した。

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 他方、デュラントは、低価格車・量産車を生産する方針を推進し、1914 年には、 6 気筒車の他に、 4 気筒・2ドア・24馬力・価格650ドル・2 人乗 りロードスター「ロイヤル・メイル」(「H-2」)、 4 気筒・4ドア・24馬力・ 価格875ドル・5 人乗りツーリング車「ベイビー・グランド」(「H-4)を 販売し、合計5,005台を生産した( 6 気筒車を含む)。1915年には、新たに 4 気筒・24馬力・2ドア・24馬力・価格895ドルの 2 人乗りスペシャル・ ロードスター「エイムズベリー」(「H-3」)を投入し、「H・シリーズ」合 計の生産台数は 1 万3,605台と急増し(カナダの313台を含む)、 6 気筒車 1,000台を含めると、1 万4,605台に達した。このため、生産力増強のために、 1914年 6 月には、マクスウェル・モーター社のタリータウン工場(ニュー ヨーク州)を購入し、また、販売力強化のためにオークランドに新たに販 売事務所を設置した。さらに1915年には、セントルイス、カナダのオシャ ワに組立工場を、カンザス・シティ、アトランタに販売事務所をそれぞれ 設立した。なお、ルイ・シボレーは、こうしたデュラントの低価格車の生 産方針に反対して、1913年10月、同社を退社した19 ) 。 (4)ユナイテッド・ステイツ・モーター・カンパニーの倒産とマクスウェ ル・モーターの設立  ①ユナイテッド・ステイツ・モーター・カンパニーの設立と倒産の経緯  1908年 9 月、B・ブリスコーは、 J・D・マクスウェルとともに、授権資 本金200万ドルでインターナショナル・モーター・カンパニーを設立して いたが、1909年12月、社名をユナイテッド・ステイツ・モーター・カンパ ニー(ニュージャージー州)に変更し、企業統合を行うべく、1910年 1 月 には授権資本金を1,600万ドルに引上げ(普通株800万ドル、優先株800万 ドル)、さらに同年 6 月には3,000万ドルに引上げた。同年 2 月、マクスウェ ル-ブリスコー・モーター社(資本金150万ドル、年産能力 2 万2,000台、 ニューヨーク州タリータウン)、コロンビア・モーター・カー社(資本金

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300万ドルで、エレクトリック・ビークル社の後継企業、年産能力5,000台、 コネチカット州ハートフォード)、ブラッシュ・ラナバウト社(デトロイ ト)、デイトン・モーター・カー社(オハイオ州デイトン)等、合計 9 社 を買収した。こうした結果、子会社を含めて 4 万8,700台の生産能力、5,100 万ドル(部品・付属品を含む)の販売能力を持つ資産額3,012万ドルの企 業となった(同年 7 月末)。また、合計で 7 車種、52のモデル、18の工場、 従業員 1 万4,000人を擁する一大企業となった。同社の取締役構成を見る と(表6- 8)、中心人物のB .ブリスコ-、 J・D・マクスウェル、A・C・ ブレイディを初めとし、被統合企業関係者が多く、その結果在住地域も広 範にわたっているのが特徴である20 )  1910年 8 月、同社は企業買収や運転資金調達のため、175万ドルの 1 年・ 6 %ノートを発行し、 J・P・モルガン商会はそれを額面で販売することに 同意した。既述の通り、モルガン商会は、この175万ドルを価格97でA・ N・ブレイディ他、ニューヨークの金融機関に転売し、この引受によって、 表6-8 ユナイテッド・モーターズ社およびマクスウェル・モーター社の     取締役構成

出所:Poor ,s Manual: 1911; Poor ,s Manual: 1915他。

ユナイテッド・モーターズ社(1911年) マクスウェル・モーター(1915年)

Brady,James C. NY Brady,A.C. NY

Briscoe,Benjamin NY 社長 Bronner,Harry NY Hallgarten&Co.

Briscoe,Frank Detroit 副社長 Burr,G.H. NY G.H.Burr&Co.

De Lisser,Horace NY 副社長 Flanders,W.E. Detroit 社長

Edwards,H.J. Dayton Maloney,W.J. Wilmington

Irvin, Richard NY Meyer,Eugene,Jr. NY Eugene Meyer Jr.&Co.

Lloyd,Herbert Philadelphia Muhleman,D.C, NY

Maxwell,Jonathan D. Tarrytown 副社長 Poor,H.V. NY

Mulford,Ora J. Detroit 副社長 Potter,W.C. NY Guaranty Trust Co.

Nuckols,H.W. Hartford 副社長 Sanderson,Henry NY C.D.Barney&Co.

Robertson,Richard A. Providence 副社長 Vail,J.A. Detroit 会長

Schley,Kenneth B. NY Moore&Schley

Stoddard,C.G. Dayton 副社長

Tucker,Carll NY 財務担当

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1 株 1ドルで購入可能な権利付き普通株7,500株および16万786ドルの報酬 を得た。  しかし、急激な買収活動や傘下の諸工場が 6 州に跨がるという非効率な 経営活動によって、たちまち資金の枯渇に直面した。このため、1911年 5 月、 6 %の転換社債600万ドルを発行し、ユージン・マイヤー・ジュニア 商会によって引受けられた(価格は92)。これは株主割当で行われたが、 株主の応募額はわずか87万ドルで、残余513万ドルはシンジケートに残さ れた。この600万ドルのうち40万ドルがモルガン商会に割当てられた。そ の後、同社の業務内容および財務内容の悪化が判明し、1912年 6 月には、 主要な債権者であるバンカーズ・トラスト、セントラル・トラスト、チェ イス・ナショナル・バンク、モーズレー商会等による債務返済猶予の措置 も採られたが、結局、1912年 9 月、同社は1,225万ドルの負債(社債:600 万ドル、短期ノート:400万ドル、原料等:225万ドル)を抱えて倒産する に至った。ユージン商会は513万ドルの転換社債を自ら抱え込むことに なった(モルガン商会は35万ドル)。倒産時の同社株主の構成を見ると、 表 6 - 9の通り、ブリスコー兄弟、マクスウェル、ユージン・マイヤー・ ジュニア商会およびマイヤー父子、被統合企業関係者等が目立つ21 ) 。  ②マクスウェル・モーター・カンパニーの設立(「マクスウェル」)  ユナイテッド社倒産後直ちに、G・W・デイビソン(セントラル・トラ スト副社長)、C・H・セイビン(ギャランティ・トラスト)、B・ストロン グ・ジュニア(バンカーズ・トラスト)、A・H・ウィギン(チェイス・ナ ショナル・バンク頭取)、 J・C・ブレイディ(A・N・ブレイディの息子)、 ユージン・マイヤー・ジュニア、ニール・ランツール(F・S・モーズリー 商会)、E・S・ウィリアムズからなる再建委員会が設置された。1912年12 月、同社は改組され、スタンダード・モーター・カンパニーとしてデラ ウェア州に設立されたが、翌年1 月には、マクスウェル・モーター・カン

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パニーに社名が変更された。マクスウェル社は、破産管財人の掌中にあっ たユナイテッド・ステイツ・モーター、マクスウェル-ブリスコー・モー ター、コロンビア・モーター・カー等の資産を株式交換をによって買収し、 旧株保有者に対しては、 1 株24ドルの支払いを条件として新株との交換を 認めた。旧株は合計23万8,365株で、 1 株24ドルで合計約572万ドルに上っ たが、これはハルガルテン商会を幹事とするシンジケートによって引受け られた。同年 4 月にはフランダース・モーター社を現金100万ドルと275万 ドルの株式で買収し、その社長であるW・E・フランダースに同社再建を 託すこととなった。  マクスウェル社の株式は、 5 年間の議決権信託の下に置かれ、C・H・ セイビン(ギャランティ・トラスト)、ハリー・ブロナー(ハルガルテン 表6-9 ユナイテッド・ステイツ・モーター社の主要株主(1912年9月、株) 株 主 普通株 優先株 C.G.Stoddard 8,483 6,347

Eugene Meyer Jr.&Co. 7,924 7,863

Benjamin Briscoe 7,492 4,755 John W.Stoddard 7,277 6,110 J.D.Maxwell 6,509 4,351 Edgar J.Meyer 4,000 4,000 Eugene Meyer Jr. 4,000 4,000 T.W.Joyce 3,933 5,369 W.Pierson Hamilton 3,220 6,112 Frank Briscoe 2,535 770 Thomas F.Ryan 1,762 309

Harry Payne Whitney 1,264 2,265

J.S.Bache&Co. 1,132 1,170

John Jacob Aster 500 -

Anthony N.Brady 430 1,342

James C.Brady 300 300

Charles D.Stoddard - 11,000

計 60,761 66,063

発行総数 121,934 114,911

注:Harry Payne Whitneyの持株には受託人としての保有分を含む。   発行総数は1911年7月末の数字。

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商会)、 J・C・ブレイディ(A・N・ブレイディの息子)が受託人となった。 授権資本金は、普通株1,100万ドル、第一優先株1,100万ドル、第二優先株 900万ドル、計3,100万ドルであったが、フランダース社の買収によって、 各株式200万ドルを増資し、3,700万ドルとなった(1913年 7 月末の資産額 は4,100万ドル)。  同社は以前からほぼ中価格車の生産が中心であったが、1912年以降もそ れを継続した。 4 気筒車モデルの「マクスウェル35」はオハイオ州デイト ン工場(旧スタダード-デイトン社)で、 6 気筒車モデルの「マクスウェ ル50」はデトロイト工場(旧フランダース・モーター社)で製造された。 1914年には低価格車「マクスウェル25」を投入したが、極めて好評で、 1915年の生産台数は前年比144%増の 4 万4,000台に達した(表6- 10)。以 後はこの「マクスウェル25」の生産に集中し、生産を増加させた。  同社社長にはW・E・フランダースが就任し、その取締役構成を見れば 表6-10 マクスウェルの車種とスペック(1912~1918年) 年度 モデル名 気筒数 馬力数 ホイールベース(インチ) 価格(ドル) 生産台数 1912 Messenger 3 16 86 625 1912 Mascott 4 25 104 950 1912 Mercury 4 30 110 1,150 n.a. 1912 Special 4 36 114 1,480 1913 22 4 22.5 93 785 1913 30 4 30 111 1,110 1913 40 4 40 115 1,675 17,000 1913 Six 6 38.4 130 2,250 1913 Six 6 31.54 118 - 1914 25-4 4 21 103 750 1914 35-4 4 26 110 1,225 18,000 1914 50-6 6 41 130 1,975 1915 25 4 21 103 695 44,000 1916 25 4 21 103 655 69,000 1917 25 4 21.03 103 635 75,000 1918 25 4 21.03 108 745 34,000 注:価格は車体形式の中の最も安価なもの。

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表 6- 8の通りで、ニューヨークの金融機関関係者の多いのが特徴である。 同社はその後、他企業と統合してクライスラー社の中核を形成することに なる22 ) 。 (5)その他主要企業の営業・財務状況 • スチュードベイカー・コーポレーション(「スチュードベイカー-EM F」、「スチュードベイカー」)  スチュードベイカー・ブラザーズ・マニュファクチャリング社は、その 販売力を背景として、従来の高価格車「スチュードベイカー-ガーフォー ド」に加えて、中価格車市場への進出を検討していたが、1908年 9 月、エ ベリット-メッツガー-フランダース・カンパニー・オブ・デトロイトと の間で、自動車の販売協定を結んだ。エベリット社は、同年 8 月、中価格 車の量産を目的として、資本金50万ドルでミシガン州で設立された。設立 の中心は、B・エベリット(車体製造に従事)、W・メッツガー(キャデ ラック社の販売に従事)、W・E・フランダース(フォード社向けクラン クシャフト製造に従事))の3 名で、同年10月には資本金を100万ドルに引 上げた。最初の製品は、 4 気筒・30馬力・ホイールベース106インチの 「EMF・モデル30」(ツーリング車等 4 機種)で、価格は1,250ドルであった。 同年には、142台、翌1909年には7,950台を製造した。スチュードベイカー 社はこの1909年までの8,132台の 2 分の 1 を「スチュードベイカー・EMF」 として販売した。なお、エベリットとメッツガーは、スチュードベイカー 社は意図的に販売台数を削減しエベリット社の株価の引下げを企図してい るのではないかとして、販売協定を不満として、1909年 5 月、同社を退社 した23 )  こうしたトラブルを解消すべく、スチュードベイカー社側は、エベリッ ト社の買収を進め、まず、エベリットおよびメッツガーの保有株式を買 取った(全体の 3 分の 1 で、買取価格は36万2,000ドル)。次いでフランダー

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スとの間でも同様の問題が生じたため、以前から金融取引関係のある J・ P・モルガン商会に残余株式取得への協力を依頼した。  1910年 2 月、モルガン商会は、スチュードベイカー社からエベリット社 の株式 6 万3,258株(既保有分は 3 万6,742株)の購入依頼を受け、W・E・ フランダース・グループから379万5,480ドルで購入し、それをスチュード ベイカー社に転売した。その代金は、 5 %ノートによって支払われたが、 その担保としてスチュードベイカー社普通 4 万株、同優先株 1 万5,000株、 エベリット社全株式10万株が充てられた。この報酬として、スチュードベ イカー普通株 1 万株を受取り、それを 1 株56.25ドルで売却し、56万2,300 ドルを得た(G・W・パーキンス: 7 万287ドル、E・F・ホイットニー: 1 万6,869ドル、同商会:47万5,143ドル)。さらに、同商会は、F・P・デラ フェルドおよびF・W・スチーブンス(弁護士で、ナショナル・シャトー クア・カウンウィ・バンク副頭取)という 2 名のモルガン系人物の取締役 への就任を要請した24 )  こうして、同社は、エベレット社およびその諸子会社を完全支配下に置 いたが、諸子会社の中には、カナダのオンタリオ州ウォーカービルに立地 するエベリット-メッツガー-フランダース・カンパニー・オブ・カナダ が含まれていた。なお、エベレット社の資産額は、1910年末で734万ドル であった。  次いで、1911年 2 月には、スチュードベイカー・ブラザーズ社とエベ リット社を統合して、スチュードベイカー・コーポレーションをニュー ジャージーに設立した。資本金は、普通株3,000万ドル、優先株1,350万ド ル、計4,350万ドルで、優先株は、ニューヨークのゴールドマン・サックス、 リーマン・ブラザーズ、ロンドンのクラインウォート・サンズによって引 受けられた。また、翌年 2 月には、一時借入金返済を目的として、 5 %・ 10年の800万ドルのノートを発行したが、これも同じシンジケートによっ て引受けられた(表6- 11)。引受機関がモルガン商会からゴールドマン・

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サックスに代わった理由は、(1)同社副社長であり弁護士でもあるF・S・ フィッシュがかつてゴールドマン・サックスで働いていた、(2)モルガン 商会による引受は、既述のように、条件が厳しく、コストもかかった、(3) 既述の通り、1910年 9 月、ジェネラル・モーターズ社が金融難に陥り、 リー・ヒギンソン商会等による救済が行われたが、その結果モルガン商会 が自動車企業金融への深入りをためらった、等が考えられる25 )  こうして、同社は、従来のガーフォード社からシャーシやエンジンの供 給を受け、自社で車体を取付け販売する「スチュードベイカー-ガー フォード」( 2 ~ 4 気筒車、16 ~ 40馬力、価格3,500 ~ 4,750ドル)の他に、 1908年からは、 4 気筒・30馬力・価格1,250 ~ 1450ドルの「E.M.F.」(「モ デル30」)、1910年からは 4 気筒・20馬力・価格750 ~ 975ドルの「フラン ダース」が加わった。1913年には、 6 気筒・40馬力・価格1,550 ~ 2,500ド ルの「E-6」を導入した。「E.M.F.」の販売台数は1909 ~ 1912年間に 4 万 7,619台、「フランダース」は1910 ~ 1913年間に 3 万707台に上った。同社 の販売台数は、表6- 12に見られるように、増加傾向を続け、フォード、 ジェネラル・モーターズに次ぐ第三位の地位を占めた。なお、ガーフォー ド社との契約関係は1910年で終了し、1912年にガーフォード社は J・N・ ウィリスによって買収された。なお、1913年以降車名はすべて「スチュー ドベイカー」となった。また、同社は1902年以降電気車を製造していたが、 1912年で生産停止した(その間の生産台数は合計1,841台)26 ) 表6-11 スチュードベイカー社の証券発行と引受(1,000ドル) 出所:C&FC各号。

1902.12 Studebaker Bros. Mfg Co. 2,000 B JPMC(1,000)/JSMC(1,000) 1903.4 Studebaker Bros. Mfg Co. 1,500 5%,1904-15 B FNB(Chi)/Merchants L&T Co.(Chi) 1906.12 Studebaker Bros. Mfg Co. 3,000 5%,20年 B FNB(Chi)/Merchants L&T Co.(Chi)

1911.3 Studebaker Corp. 13,500 7% P Lehman Bros./Kleinwort Sons&Co./Goldman Sachs 1912.3 Studebaker Corp. 8,000 5% N Lehman Bros./Kleinwort Sons&Co./Goldman Sachs 1918.12 Studebaker Corp. 15,000 7%,1919-29 B Goldman/Lehman/Mercahnts L&T(Chi)/FT&SB(Chi)

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 生産増加に伴って販売額も増大し、純益も、1913年を除いて増加傾向を 示した。資産額も1917年末には1910年末と比べて22.1%の増加を示し、 6,967万ドルに達した。  同社の取締役構成を見ると、表6- 13の示すように、ニューヨークの金 融機関、特にゴールドマン・サックス商会、リーマン・ブラザーズのパー トナーが就任しているのが特徴的である。J・P・モルガン系のF・W・ス チーブンスは取締役を辞任した。 表6-12 スチュードベイカー社の財務状況の推移(1,000ドル) 年 自動車販売台数 販売額 純益 利益率 配当 剰余金 (台) (A) (B) B/A(%) 優先株 普通株 1911 22,555 28,488 1,654 5.8 709 0 945 1912 28,523 35,440 2,313 6.5 931 0 1,382 1913 35,410 41,465 1,772 4.3 901 0 871 1914 35,460 43,444 4,442 10.2 869 0 3,573 1915 46,845 56,539 9,067 16.0 830 1,397 6,840 1916 65,885 61,989 8,611 13.9 768 3,000 4,844 1917 42,357 50,148 3,501 7.0 768 2,100 633 1918 23,864 52,088 3,884 7.5 768 1,200 1,917

出所:Albert R.Erskine, History of the Studebaker Corporation(1924), p.p.50, 69.

表6-13 スチュードベイカー社の取締役構成(1914年)

Fish,Frederick S. South Bend(Ind) Joseph Loan&Trust(South Bend)

Riley,Nelson J. South Bend(Ind)

Weeks,D.M.F. South Bend(Ind)

Erskine,A.R. South Bend(Ind) 社長

Studebaker,George M. South Bend(Ind)

Studebaker,John M. South Bend(Ind) Joseph Loan&Trust(South Bend)

Hepburn,A.B. NY CNB(NY)/FNB(NY)/BTC(NY)/NY Life

Delafield,Frederick P. NY

Innis,William R. NY NY Life

Goldman,Henry NY Goldman Sachs

Lehman, Herbert H. NY Lehman Bros.

Heaslet,J.G. Detroit 副社長

Benson,Ernest R. Detroit 副社長

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• ウィリス-オーバーランド・カンパニー(「ウィリス-オーバーランド」)  J・N・ウィリスは、1904年に、材木商のE・B・キャンベル(ペンシル バニア州ウェルズボロ)とともに、アメリカン・モーター・カー・セール ス・カンパニー(本社はインディアナポリス)を設立し、オーバーラン ド・オートモービル社(インディアナ州テレホート)の生産する「オー バーランド」、マリオン・モーター・カー社(同州インディアナポリス) の生産する「マリオン」を販売していた。1907年恐慌の過程で資金難に 陥ったオーバーランド社を救済し、その結果、1908年 1 月にオーバーラン ド社の支配権を取得し、また、マリオン社の支配権も取得していた。1909 年度の「オーバーランド」は 4 ~ 6 気筒、30 ~ 35馬力・価格は1,300 ~ 2,000ドルで、「マリオン」は 4 気筒・24 ~ 35馬力・価格は1,850 ~ 2,250ド ルで、合計4,075台を販売した。なお、1912年にはマリオン社の持株を J・ H・ハンドレーに売却し、「マリオン」は「マリオン-ハンドレー」となり、 別会社で販売された。  1908年 4 月、ウィリスは、既述のA・A・ポープ・グループ傘下の「ポー プ-トレド」生産工場を買収し、その生産企業であったポープ・モー ター・カー社の後継企業としてトレド・モーター社をオハイオ州で設立し、 1909年10月、社名をウィリス-オーバーランド・カンパニーに変更した。 資本金は200万ドルで、社長には J・N・ウィリスが、取締役にはD・M・ パリー、トーマス・P・C・フォーブスが就任した。1909年の生産・販売 台数は、 4 気筒車、 6 気筒車合わせて4,860台であった。  翌1910年 7 月には、生産能力を高めるべく授権資本金を600万ドルに引 上げるとともに、他企業の買収を積極化した。1911年 7 月にはガーフォー ド社の全資産を280万ドルで買収、1912年 3 月にはグラム・モーター・ト ラック・カンパニー(オハイオ州リマ)を買収し、買収は部品・付属品生 産企業にも及んだ。これら諸企業を統合すべく、1912年 1 月には同名のま ま再度改組を行った。改組は、旧ウィリス-オーバーランド社の資産およ

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び事業を取得し、その中にはキンジ・マニュファクチャリング(トレド)、 モロー・マニュファクチャリング(エルマイラ)、ガーフォード(エルマ イラ)、グラム・モーター・トラック(リマ)、フェデラル・モーター・ワー クス(インディアナポリス)各社の全株式が含まれた(ただし、ガーフォー ド社の50万ドル優先株、グラム社の45万ドル優先株・23万ドル普通株等は 除く)。  資本金は普通株2,000万ドル、優先株500万ドル、計2,500万ドルで、優先 株500万ドルは、ウィリアム・サロモン商会によって売出された。  さらに、1913年10月には、 4 気筒・ナイト・スリー・バルブ・エンジン 搭載の「エドワーズ-ナイト」を生産するエドワーズ・モーター・カー社 およびグローブ・ボール・ベアリング社を買収した。「エドワーズ・ナイ ト」はその後「ウィリス・ナイト」として製造・販売した27 )  1910年以降の生産・販売の中心は「オーバーランド」であり、1914年に 至るまで 4 気筒車のみ生産・販売し、馬力は20 ~ 35馬力で、価格も低価 格ないし中価格であった。毎年投入された新型のツーリング車の価格を見 ると、1910年:1,450ドル、1911年:850ドル、1912年:900ドル、1913年: 985ドル、1914年:950ドル等であり、1911年以降1,000ドルを下回った。 こうした結果、販売台数、販売額ともに増加傾向を辿った(表6- 14)。  同社の1914年度の純益は523万ドル、1914年 6 月末の資産額は3,874万ド ルに達し、急激な成長を見せた。なお、同社の取締役構成を見ると、表 6 - 15の示すとおり、ニューヨークのウイリアム・サロモン商会パートナー が加わっており、また、地元オハイオ州トレドの金融機関との兼任関係も 見られる。 • パッカード・モーター・カー・カンパニー(「パッカード」)  1905年度から1912年度までは、主に 4 気筒・30馬力車が中心で、生産台 数は1907年度の1,128台から1911年度には2,225台に達し、また、価格は4,000

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ドルから5,000ドルと高価格車生産を維持した。1911年 4 月には、 6 気筒 車・74馬力・13種の車体型式・価格は5,000~6,550ドル・重量3,900~4,495 ポンドの「1-48」を投入し、1912年度には1,329台を販売した。1913年度 ~1915年度の間、主に 6 気筒・60馬力車が中心で、1915年度の「3-38」は 6 気筒・65馬力・価格は3,750 ~ 5,000ドルであったが、24の車体型式を有 し、多様な需要に対応した。1915年 5 月には、「ツィン・シックス」と呼 ばれる12気筒車(排気量は424.1立方インチ・88馬力・価格は2,950 ~ 4,600 ドル・車体型式は「1-35」モデルが10種、「1-25」モデルが 9 種)を投入 し、1915年度には7,746台、1917年度には8,999台を販売した28 ) 。  他方、冬期の販売増加を図るべく、1905年度からトラックの生産を開始 し、1908 ~ 1910年に548台、1911 ~ 12年に約2,000台、1915年には 1 ~ 6ト ン・トラックを4,000台生産し、乗用車生産を上回った。1923年には、マッ ク、ホワイト、インターナショナル等専門企業との競争が激化し、生産を 表6-14 ウィリス-オーバーランド社の販売台数・販売額(台、1,000ドル) 年度 販売台数 販売額 1908 323 413 1909 3,081 4,464 1910 13,508 16,369 1911 15,384 18,430 1912 22,548 23,571 1913 38,300 40,000 出所:C&FC, Dec. 7, 1912. 表6-15 ウィリス-オーバーランド社の取締役構成(1914年) Dunn,H.T. 副社長

Fuller,Rathbun FNB(Toledo)/Security SB&T(Toledo)

Jameson,C.S.

Kinsey,Isaac 副社長 Second NB(Toledo)

Scott,Royal R. 秘書

Shepler,H.L.

Stewart,Walter 財務担当 William Salomon&Co.(NY)

Willys,John N. 社長・総支配人 FNB(Toledo)/Second NB(Toledo)

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停止したが、それまでの生産台数は合計 4 万3,500台に達した(表6- 16)29 ) 。  1909年 9 月には生産拡大を図るべく改組を行い、同社名のまま、それま でのウェスト・バージニア州からミシガン州に移転し、新旧両社間で株式 交換を行なった(工場所在地ははデトロイト)。その結果、H・B・ジョイ 等のデトロイトの資本家グループが台頭し、パッカード・グループはその 地位を低下させた(表4- 18)。  新会社の資本金は、普通株500万ドル、優先株500万ドル、計1,000万ド ルで、優先株500万ドルのうち25万ドルはヘイドン・ストーン商会によっ て引受けられた(普通株25万ドルのボーナス株付き)。また、ウィリアム・ A・リード商会は、株主グループから100万ドルの優先株を購入し、それ を 1 株101ドルで売却した。これらが、同社のニューヨーク市場および金 融機関との結付きの始まりであった30 )  同社は、高価格車を生産するため、(1)在庫回転率が低く、付属品等も 内製しなければならず、部品生産企業への依存度が低い、(2)販売は、か 表6-16 パッカード社の生産台数の推移(台、ドル) 年度 乗用車 トラック モデル名 気筒数・馬力 最低価格 1905 403 - N 4・28 3,500 1906 728 - S 4・24 4,000 1907 1,128 - U 4・30 4,200 1908 1,303 - UA 4・30 4,200 1909 2,303 - NA/UB/UBS 4・18/30 3,200/4,200 1910 3,259 - NB/U/UCS 4・18/30 3,200/4,200 1911 2,225 - NC/USD/UD 4・18/30 3,200/4,200 1912 2,929 - NE/UE/1-48 4/6・18/30/74 3,200/5,000 1913 2,618 - 1-38/2-48 6・60/82 4,150/4,850 1914 2,809 803 2-38/3-48/4-48 6・60/82 3,850/4,850 1915 1,888 3,015 3-38/5-48 6・65/60 3,850/5,000 1916 7,982 5,295 1-35/1-25 12・88 3,050/3,500 1917 9,266 5,239 2-25/2-35 12・88 3,950/4,100 1918 5,194 8,043 3-25/3-35 12・90 4,300/4,650 1919 1,513 5,712 3-25/3-35 12・90 4,300/4,650 注:8月に終わる年度。1918年には航空機エンジン:2,964台、1919年:3,503台が加わった。 出所:Moody ,s Manual: 1924; Standard Catalog, pp.1064-1075.

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なりの部分を傘下の販売子会社を通して行っている、等の事情から、低価 格車・中価格車生産企業と比べて、十分な運転資本の確保が不可欠であっ た。1911年11月、(1)銀行からの借入金や部品業者に対する負債を返済す る、(2)運転資本を確保する、(3)トラック需要に対応すべく生産工場を 拡大する等を目的として、200万ドルの 5 %・5 年ノートを発行し、さら に1913年 2 月には再び、100万ドルの 5 %・5 年ノートを発行したが、いず れもウィリアム・A・リード商会によって引受けられた。1913年10月には、 普通株、優先株ともに500万ドルから800万ドルに引上げ、授権資本金を 1,600万ドルとし、そのうち普通株200万ドルを40%の株券配当として株主 に割当てた。  1916~1917年度では、12気筒車が好評で、生産量も急増した。このため、 1916年 1 月、生産能力拡大を目的として、優先株300万ドルを発行し、さ らに、同年12月、1911年発行のノート償還および運転資金確保を目的とし て、500万ドルの 5 %・3 年ノートを発行し、いずれもウィリアム・A・ リード商会によって引受けられた。同年 6 月、普通株に対する50%株式配 当を行い、普通株の発行残高を1,166万ドルとした(表6- 17)31 )  同社の資本蓄積を見ると、売上高、純益ともに、変動はあるものの、増 加傾向が見られ、特に1916年以降急増した。これは、12気筒車の売上げ増 加とともに、第一次大戦の影響も大きい。1918年以降、米国政府の要請で 航空機用エンジン「リバティ・エンジン」の生産を開始した。1918年10月 時点で、「リバティ・エンジン」の生産台数は 1 万151台で、企業別内訳は 同社:3,965台、リンカーン:2,824台、フォード:2,010台、ジェネラル・ モーターズ:1,144台と、同社が最多であった32 ) 。  同社の取締役構成の特徴は、第一に、すべてデトロイトの資本家で占め られ、パッカード関係者の影響力は低下した。第二に、デトロイトの有力 企業および金融機関との取締役兼任関係が多い。第三に、後の社長となり 実力者となるアルバン・マコーレーが取締役に就任している。マコーレー

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は、ナショナル・キャッシュ・レジスター社で働いた後バロウズ・アッ ディング・マシン社で働いていたが、バロウズ社社長でパッカード社の株 主でもあるジョセフ・ボイヤーが、パッカード社社長のH・B・ジョイに 紹介し、それがマコーレー入社のきっかけと言われる(表6- 18)33 ) • ハドソン・モーター・カー・カンパニー(「ハドソン」)  まず、同社の設立の背景について述べておこう。既述の通り、オール 表6-17 パッカード・モーター・カー社の証券発行と引受(1,000ドル) 発行年月 発行額 利率・期間 種類 引受機関 1910年3月 250 7% 優先株 Hayden Stone&Co. 1911年4月 1,000 7% 優先株 W.A.Read&Co. 1911年11月 2,000 5%,5年 ノート W.A.Read&Co. 1913年2月 1,000 5%,5年 ノート W.A.Read&Co. 1913年10月 2,000 普通株 株式配当 1916年1月 3,000 7% 優先株 W.A.Read&Co. 1916年6月 4,592 普通株 株式配当 1916年11月 5,000 5%,3年 ノート W.A.Read&Co. 1919年6月 7,500 7% 優先株 Montgomery/CSC 1921年4月 10,000 8%,10年 社債 GC/NCC(3,500)/Montgomery/JPMC(875) 出所:C&FC各号。 表6-18 パッカード社の取締役構成と取締役兼任関係(1914年)

Alger,F.M. UTC/NBC/Alger Smith&Co./Manistique Lumbering Co./

Anderson Forge and Machine Co./Michigan Copper&Brass Co.

Alger,R.A. 副社長 Security Trust/Peoples State Bk/Alger Smith&Co.社長/ Anderson Forge&M社長/Manistique Lumber/Alger Sullivan Co./Gibford Specialty Co.

Joy,Henry B. 社長 Fort Street Union Depot Co./Union Railroad Depot and Station 社長/Peninsular Sugar Refining Co./Michigan Sugar Co.

Joy,R.P. NBC頭取/Detroit Union R.R.Depot and Station社長

McMillan,P.H. 財務・秘書 FNB/Detroit SB/Peoples State Bk/UTC/Detroit&Cleveland Navigation社長/Detroit Seamless Tube社長;Detroit Hotel/  Monarch Steel Castings

Newberry,T.H. Cleveland Cliffs Iron Co./Detroit Steel Castings Co./Union Depot and Station Co./Union Elevator Co.

Macauley,Alvan 副社長 Burroughs Adding Machine Co./(National Cash Register Co.)

注:金融機関はすべてデトロイト所在のもの。( )は以前の勤務先企業。 出所:Poor ,s Manual: 1915; The Book of Detroiters(1914).

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ズ・モーター・ワークスではR・E・オールズとS・L・スミスとの間で、 低価格車か高価格車かの経営方針をめぐって対立が生じ、オールズが退社 することによって、高価格車生産路線が敷かれることになった。この方針 転換は、ワークス社従業員に大きな影響を与え、多くの退職者を出すに 至った。その一人であるR・D・チャピンは、1906年 3 月、同僚であった H・E・コフィン、F・O・ベツナー、J・J・ブレイディとともに、新たな 自動車生産のためのパートナーシップを結成した。その後、E・R・トー マス・モーター・カンパニー(1902 ~1912年)の社長であるE・R・トー マスとの間で、コフィンの設計した自動車を製造すべく、1906年 5 月、 E・R・トーマス-デトロイト社を設立した。資本金は30万ドルで、トー マスが10万ドル、チャピン等 4 名は 5 万ドルを出資することとしたが、当 面はトーマス 2 万ドル、 4 名が 1 万ドル、計 3 万ドルを拠出した。同年秋 には月産50台のペースで生産を開始し、そのため、トーマスは残余 8 万ド ルを拠出し、 4 名は残余 4 万ドルをオールド・デトロイト・ナショナル・ バンクからの借入に依った。1907年度には 4 気筒・40馬力・価格2,750ド ルの「トーマス・フォーティ」を500台、翌1908年度には750台を生産した。  しかし、チャピン等は、株式の 3 分の 2 を保有するE・R・トーマスに対 して、販売方法や経営方針(高価格車生産)の点で不満を抱いていたため、 ヒュー・チャルマーズ(ナショナル・キャッシュ・レジスター副社長を務 め、著名なセールスマンであった)にトーマスの持株の 2 分の 1 の購入を 依頼し、経営陣に加わってもらった。1907年12月、トーマスは社長を辞任 し、代わってチャルマーズが就任し、翌1908年 6 月には社名をチャルマー ズ-デトロイト・モーター社に変更した。株式の 3 分の 1 ずつ、チャル マーズ、トーマス、上記4 名がそれぞれ保有した。新たに開発したのは、 4 気筒・30馬力・5 人乗りツーリング車「チャルマーズ-デトロイト」で、 価格は1,500ドルと「トーマス-デトロイト」に比べてかなり安価であっ た。そのため、販売台数は1909年度:3,087台、1910年度6,000台と好調で

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あった。  しかし、こうした状況でも、チャピン等は株式保有が 3 分の 1 では不満 とし、かつての同僚、R・ジャクソン、G・W・ダンハムの参加を契機に、 同社設立に至った34 )  1908年10月、チャピン、コフィン、ベツナー、ジャクソン、ヒュー・チャ ルマーズ、 J・L・ハドソン、ブレイディ、L・カウンセルマンは、需要の 見込まれる有望な低価格車の設計を目的として、パートナーシップを形成 した。これら 8 名のうちハドソンとカウンセルマンを除くすべてのメン バーは、既述の通り、かつてオールズ・モーター・ワークスで働いた経験 を有しており、ハドソンは「デトロイトの百貨店王」と呼ばれ、義理の息 子のあたるジャクソンの勧めでパートナーに参加した。このパートナー シップで好結果が得られたため、1909年 2 月、同社を資本金10万ドルでミ シガン州に設立した。資本金10万ドルのうち 9 万ドルが応募され、現金に よる払込は 1 万5,000ドルであった。同年 9 月の株主総会時点での株主構成 は表6- 19の通りで、ハドソンを初めとして、パートナーシップのメンバー が株主となっている。ハドソンは社長、チャルマーズは副社長、チャピン は秘書、ジャクソンは財務・総支配人にそれぞれ就任した。  1909年 7 月、 4 気筒・20馬力・時速50マイル・重量1,800ポンド・価格 900ドルの 3 人乗りロードスター「ハドソン・ツウェンティ」を生産し、同 年末までに1,100台を販売した。翌1910年には、新工場を建設し、ロード スターの他ツーリング車を加え、合計4,556台を販売した。以後、1911 ~ 12年には33馬力車、1913年には 6 気筒車を加え、以後 6 気筒車のみを生産 し、世界最大の 6 気筒車メーカーと言われた。特に1916年の「スーパー・ シックス」は76馬力を誇り、4ドア・ 7 人乗りツーリング車の場合、価格 は900ドル・重量3,600ポンドであったが、各種のスピード・レースや耐久 レースで好成績を挙げ、1906年 4 月のデイトン・ビーチのレースでは時速 102.53マイルを記録した。こうしたレースでの好成績もあって、同年には

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2 万5,772台の販売記録を達成した。生産の変化を時系列で見ると、大型化 の進展が窺えよう(表6- 19)。  他方、こうした生産台数の増加に伴って、売上高、純益も増加し、資本 金も著しく増加した。利益の一部は株式配当(1910年の1,010ドル、1911 年の80万ドル、1914年の89万5,000ドル)によって資本化され、配当もほ ぼ毎年継続されたものの、剰余金は増大傾向を示した。この期の短期負債 は、1910年頃のオールド・デトロイト・ナショナル・バンクからの25万ド ルで、長期負債は1913年の40万ドルであるが、翌1914年には返済したと言 われる。1914年以降売上高、純益ともに増大した(表6- 20)35 ) 。  同社の設立時の株主は表6- 21の通りであるが、チャピン、コフィン、 ベツナー(「トリオ」と呼ばれる)は、1909年12月、保有するチャルマー ズ-デトロイト社株をヒュー・チャルマーズに78万8,000ドルで売却し、 逆にチャルマーズの保有する同社株を8 万ドルで購入した。その結果、ト リオの保有する同社株は 6 万2,316株となった(チャピンは 1 万株)が、 1911年には、トリオのうちコフィンとベツナーは持株を売却し、同社経営 に積極的には関与しなくなった。なお、E・R・トーマスは保有するチャ ルマーズ-デトロイト社株をジェネラル・モーターズ社に売却した36 ) 。 表6-19 ハドソン社の生産台数の推移(台、ドル) 年 乗用車 モデル名 気筒数・馬力 最低価格 1909 1,108 20 4/20 900/1,150 1910 4,556 20 4/20 900/1,150 1911 6,486 20/33 4・26/33 1,000/1,600 1912 5,708 33 4/33 1,600/2,750 1913 6,404 37/54 4/37・6/54 1,875/3,750 1914 10,261 Six-40/Six-54 6/40・6/54 1,750/3,100 1915 12,864 Six-40/Six-54 6/42・6/55 1,550/3,500 1916 25,772 G-Six/Super Six(H) 6/42・6/76 1,375/2,500 1917 20,976 Super Six(J) 6/76 1,750/3,150 1918 12,526 Super Six(M) 6/76 1,950/4,250 注:生産台数はディーラーへの出荷台数。暦年。1909年は後半 6 ヶ月間。

出所:Standard Catalog, pp.690-697; Ron Kowalke, ed., Standard Catalog of Independents:   The Struggle to Survive Among Giants(1999), pp.44-50.

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