行動・生理指標を用いたポジティブ感情の機能や状
態の解明 : 拡張−形成理論とフローを中心として
著者
大森 駿哉, 片山 順一
雑誌名
人文論究
巻
66
号
1
ページ
51-68
発行年
2016-05-20
URL
http://hdl.handle.net/10236/14503
行動・生理指標を用いた
ポジティブ感情の機能や状態の解明
──拡張−形成理論とフローを中心として──
大森 駿哉・片山 順一
1.は じ め に
日常生活の中で生じている多様な出来事に対して,ヒトは「喜ぶ」「怒る」 「哀しむ」「楽しむ」といった「感情」を持っている。「感情とはどのようなも の?」という問いに対して,これまでの経験から自分なりの答えや定義は可能 であろう。最も広義な定義として Ortony, Clore, & Collins(1988)は「感情 とは,人が心的過程の中で行うさまざまな情報処理の中で,人,物,出来事, 環境に対して行う評価的な反応である(p.12)」と述べている。感情の定義に 関して古くからさまざまな議論が行われているが(Diener, 1999 ; Ekman & Davidson, 1994),感情は内的な現象であるがゆえに言語化が容易ではないこ と(大平,2002)から,現在においても厳密に定義することが難しく標準的 な感情の定義は存在しない。また,感情以外に感情と類似した現象を表す用語 として「情動」や「気分」が用いられる場合もある。個々の研究において意味 が微妙に異なることもあるが,原因が明らかで短時間で(急激に)生じる強い 感情を情動(affect)と呼び,原因が必ずしも明らかでなく長時間にわたって 生じる弱い感情を気分(mood)と呼ぶ。情動,気分を含め感情を表す語とし て emotion が 用 い ら れ,感 情 に 関 わ る 現 象 で あ る 感 情 状 態(emotional state)(Lewis, 1993)や感情表出(emotional expression)(Ekman & Frie-sen, 1974)においても感情と emotional が対応している。以上より,感情という用語が情動や気分を含む包括的概念であり emotion と対応すると考えら れることから,本稿では情動,気分ではなく感情という用語を用いる。 感情を主観的・客観的指標から測定・評価して定量化し,その特性を明らか にすることは感情研究にとって不可欠であり,その成果はモノや製品の好み, エンターテインメントといった産業分野においても応用可能であることから社 会への貢献も期待されてい る(小 川・門 地・菊 谷・鈴 木,2000 ; Russell, Weiss, & Mendelsohn, 1989;佐 藤・安 田,2001;寺 崎・岸 本・古 賀, 1992)。そのため,感情の機能的側面,生物学的・生理学的側面,社会的な機 能や現象としての側面といった諸特徴を測定・評価する試みや感情喚起刺激の 開発(Bradley & Lang, 1994 ; Bradley & Lang, 1999 a, 1999 b ; Lang, Bradley, & Cuthbert, 1999, 2008 ; Samson, Kreibig, Soderstrom, Wade & Gross, 2015)が行われてきた。本稿では,感情の評価や測定方法について実 施された研究を中心に,ポジティブ感情がもつ効果や機能について行われた実 証研究とポジティブ心理学に関わる現象である「フロー(flow)」に関する実 証研究を概説する。そのためにまずは感情の分類について概説する。
2.ポジティブ・ネガティブ感情の評価
感情の変化に伴って特定の自律神経系の反応が生じることを反応の特異性 (autonomic response specificity)と呼び,特定の感情喚起刺激に対して生じ る特異的な生理反応のパタンについて研究が行われてきた(Ekman, 1992 ; Gross & Levenson, 1993 ; Lacey, Bateman, & Van Lehn, 1953 ; Lacey & Lacey, 1958)。た と え ば,ヒ ト が 持 つ さ ま ざ ま な 感 情 に つ い て,Ekman (1992)は 9 つの基準を設けることによって基本感情(basic emotions)とそ の他の感情に区別できることを示し,その基準に基づく基本感情を「喜び」, 「驚き」,「怒り」,「恐れ」,「嫌悪」,「悲しみ」に分類した。さらに感情は,ポ ジ テ ィ ブ(快・正)感 情 と ネ ガ テ ィ ブ(不 快・負)感 情 の 2 つ の「感 情 価 (valence)」に大別することができ,たとえば,基本感情では「喜び」はポジ 52 行動・生理指標を用いたポジティブ感情の機能や状態の解明ティブ感情,「驚き」は(文脈に依存するものの)中立な感情,残りの 4 つは ネガティブ感情に分類される(Ekman, 1992)。基本感情喚起時の自律神経系 反応では,怒り・恐れ・悲しみの感情が,喜び・驚き・嫌悪に比べて心拍数を 増加させること(Ekman, Levenson, & Friesen, 1986 ; Levenson, Ekman, & Friesen, 1990),怒りや不安の増加に伴い心拍数や血圧も増加するが,幸福 の増大に伴う心拍数の増加は見られないこと(Shapiro, Jamner, Goldstein, & Delfino, 2001)等が示されている。しかし,反応特異性は個人差や状況な どの諸要因の影響を受けることから,諸要因ごとに反応特異性の定義づけが必 要だと考えられている(Hinz, Seibt, & Schreinicke, 2000)。Kreibig(2010) は基本感情を含む 22 の感情と自律神経系指標の反応パタンについてレビュー している。たとえば,怒り,不安,困惑,悲しみ,恐怖などは心拍数を増加さ せるが,急激に生じた悲しみや強い恐怖は心拍数を減少させることを示した (e.g., Britton, Taylor, Berridge, & Liberzon, 2006 ; Gruber, Oveis, & Ket-ner, 2008 ; Kreibig, Wilhelm, Roth, & Gross, 2007)。また,喜びや楽しさ などは心拍数を増加させるが,満足は心拍数を減少させることも報告されてい る(e.g., Chistie & Friedman, 2004 ; Demaree, Schmeichel, Robinson, & Everhart, 2004)。さらに,Coan & Allen(2004)や Guilltony & Bujarski (2014)は感情と脳の賦活部位(たとえば右半球と左半球の活性化)や感情に 対する精神疾患と健常者との生理反応の比較を行った研究についてレビューし ている。その中で,基本感情と脳の左右差の研究では,ネガティブな感情(嫌 悪,怒り,恐れ,悲しみなど)の経験によって右半球の主に前頭部が活性化 し,ポジティブな感情(喜び)の経験によって左半球の主に前頭部が活性化す る こ と を 示 し て い る(e.g., Tomarken, Davidson, & Henriques, 1990 ; Tomarken, Davidson, Wheeler, & Doss, 1992 ; Davidson, 1990 ; Smith, Lee, King, & Jenkins, 2006)。
感情が心身に与える影響として,ネガティブ感情は生物学的な機能に影響を 与えること(Anderson, 1989 ; Mayne, 1999)が報告されており,たとえば, 怒りや敵意のようなネガティブ感情の経験が心筋梗塞などの心臓血管系の疾患
53 行動・生理指標を用いたポジティブ感情の機能や状態の解明
と関係があること(Barefoot, Dahlstrom, & Williams, 1983 ; Booth-Kewley & Fredman, 1987),抑うつは免疫機能を抑制してガンの進行を速める(Te-meshok, Heller, Sagebiel, Bolis, Sweet, DiClemente, & Gold, 1985)ことが 示されており,ネガティブ感情に関する研究を行うことは健康面におけるリス クの減少や予防につながる。そのため,感情心理学の観点からだけでなく,健 康心理学や臨床心理学の観点からも重要であることからネガティブ感情を対象 とした研究が多く,ポジティブ感情に関する研究は相対的に少なかった(Fre-drickson & Levenson, 1998)。しかし,1998 年に Seligman(Seligman, M. E. P.)がポジティブ心理学を提唱したことによって,ポジティブ感情を対象 とした研究数が増加した。その後の研究によってポジティブ感情が免疫機能や 認知機能に与える影響が明らかとなっている。たとえば,抑うつが免疫機能を 抑制(Temeshok et al., 1985)するのに対してポジティブ感情は免疫機能を 活性化(たとえばナチュラル・キラー細胞の活性化)することが示されている (Davidson, 1999;伊丹・昇・手島,1994)。他にもポジティブ感情は広範囲 の資源を取り寄せることや,思考(創作)活動を促進させる機能を持つことが 明らかにされている(Estrada, Isen, & Young, 1997 ; Isen, Daubman, & Nowicki, 1987)。
また,ポジティブ感情がネガティブ感情に与える影響について Fredrickson & Levenson(2000)は元通り効果(undoing effect)を報告した。具体的に は,恐怖・不安を喚起する映像の視聴後に「悲しみ」,「中性」,「満足」,「楽し み」のいずれかを喚起させる映像を視聴させ,生理反応が安静期(ベースライ ン)と同じ値に戻る(回復)までの時間を計測する実験であった。その結果, 「満足」の感情喚起映像を視聴したときに回復が最も早いことが示された。ポ ジティブ感情にはネガティブ感情の生体(生理的反応)への影響を除去する (または減少させる)効果(作用)があることが明らかとなったが,次節では, ポジティブ感情の機能を説明する理論として提唱された「拡張−形成理論 (broaden-and-and-build theory)」について実証研究を含め概説する。 54 行動・生理指標を用いたポジティブ感情の機能や状態の解明
3.拡張−形成理論に関する実証研究
Fredrickson(1998, 2001)はポジティブ感情の機能を説明する理論として 「拡張−形成理論(broaden-and-build theory)」を提唱した。これは,図 1 の ような 4 段階で構築されており,その名称の通り,ポジティブ感情の経験に よって思考−行動レパートリーが拡張し,その結果個人資源が形成され,人間 のらせん的変化と成長を促し,結果としてウェルビーイングにつながるという らせん的な構造として説明されている。 ネガティブ感情は注意の範囲を狭めるのに対し,ポジティブ感情は注意の範 囲を拡げ,その結果として認知,行動の範囲を拡げることが報告されている (Isen, Johnson, Mertz, & Robinson, 1985 ; Isen, Daubman, & Nowicki, 1987 ; Isen, 2002)。Fredrickson & Braingan(2001)は「拡張」機能の実 証研究として,感情喚起映像を実験参加者に視聴させ,思考−行動レパートリ ーとして「私は⃝⃝したい」という文の空欄に思いつくことをできるだけ多く 記入させ,記入した数をレパートリー数とする認知課題を実施した。その結 果,ポジティブ感情を喚起した群はネガティブまたはニュートラル感情群に比 べてレパートリー数が有意に多いことを報告した。また,大竹(2006)はポ ジティブ感情喚起による思考の拡張は,他者に向ける注意にも影響を与える結 果を報告している。具体的には,ポジティブ感情喚起映像とニュートラル感情 図1 拡張−形成理論(broaden-and-build theory)の図式 大竹(2006, 2010)による(Fredrickson, 2002)より引用・翻訳 55 行動・生理指標を用いたポジティブ感情の機能や状態の解明喚起映像を用いて,「Self(自分自身)」あるいは「Other(自分以外の人やも の)」について説明する文をできるだけ多く記述するという課題を用いた。そ の結果,ポジティブ感情の喚起によって Other に関する思考−行動レパート リー数が他の組み合わせに比べて増加を示した。これはポジティブ感情の経験 によって注意が他者に拡がることを報告した研究結果である。 主観報告や課題の成績(レパートリー想起数)に加えて時系列的変化を捉え ることが可能な生理指標を用いることで,ポジティブ感情喚起状態や,思考の 拡張に伴って生じる生理反応の特徴を明らかにすることが可能と考えられる。 また,ポジティブ感情喚起刺激に対する反応を計測・分析することで客観的に 感情喚起したことを示すことが可能である。大竹(2006)の他者に思考の拡 張が生じるという結果を踏まえて,他者との相互関係をより想起しやすい向社 会的行動である「親切行動場面」を思考−行動レパートリーを書き出す場面と して実験を行った(大森・片山・大竹,2015)。親切行動場面の内容につい て,「自己(self)が落ち込んでいて,親友(other)から“して 欲 し い”行 動」と「親友(other)が落ち込んでいて,自己(self)が“してあ げ た い” 行動」の 2 種類をレパートリー想起課題として設定した。ポジティブ感情喚 起映像とニュートラル感情喚起映像を用い,それぞれの映像を見た後にレパー トリー想起課題を行ったところ,ニュートラル映像視聴後に実施した“して欲 しい”,“してあげたい”とポジティブ映像視聴後に実施した“して欲しい”に 比べて,ポジティブ映像視聴後に“してあげたい”ときのレパートリー想起数 が増加することが示された(図 2 参照)。この結果は,ポジティブ感情喚起に よる拡張は他者に対して生じるという大竹(2006)の研究結果と同様であっ た。ポジティブ感情は自己に対する注意を増加させることを示す結果(Sa-lovey, 1992)と 自 己 に 対 す る 注 意 を 減 少 さ せ る こ と を 示 す 結 果(Carr, Teasdale, & Hatfield, 1991 ; Green, Sediludes, Salzburg, Wood, & For-zano, 2003)があり一貫していない。ポジティブ感情の持つ機能を拡張−形成 理論から説明すると,たとえば「嬉しい」ときにはヒトに話したくなったり, より周囲に視線を配ったりすることが生じる。ポジティブな気持ちのときに注
意が拡がる方向性は自己よりも他者に向けられることが考えられ,ポジティブ な気持ちの強さや他者の対象によって拡がり方が異なることも考えられる。 また,レパートリー数に加えて,指先に装着した簡易的なセンサ(長野, 2012)から脈拍数の計測を行い,安静期,映像視聴,気分評価,課題期に分 割して各期間における平均脈拍数の算出・分析を行った。その結果,映像視聴 時においてニュートラル映像条件よりもポジティブ映像条件の脈拍数が有意に 減少していることが示された(図 3 参照)。これはポジティブ映像に対して 図2 映像条件ごとの親切行動場面におけるレパートリー想起数 図3 映像ごとの各期間における平均脈拍数 57 行動・生理指標を用いたポジティブ感情の機能や状態の解明
「つい見入ってしまった」,「あっという間に映像が終わった」といった内省報 告から自発的に注意を向けていたことが考えられ,脈拍数が減少するという Lacey & Lacey(1978)の「環境の取り入れ」が反映されたと考えられる。 加えて,ポジティブ映像条件のみ,レパートリー想起課題の遂行によって気分 評価時に増加した脈拍数がレパートリー想起課題時に減少する傾向が示され た。生理指標が脈拍数のみであったため,課題期において脈拍数が減少した理 由を明らかにするためにデータとしては不十分であるが,ポジティブ映像視聴 によって生じたポジティブ感情がレパートリー想起課題への集中を促進した結 果,課題中の脈拍数の減少を生じさせた可能性が考えられた。脈拍数に加え て,心電図(交感神経系活動や副交感神経系活動),血圧,皮膚コンダクタン ス水準(反応)を指標として用いることでポジティブ感情に含まれるどの感情 (たとえば満足や幸福)が喚起したかを複数の指標から多角的に評価すること で推定が可能と考えられる。さらに,中枢神経系指標として脳波や事象関連脳 電位も同時に計測が可能であり,ポジティブ感情喚起刺激による脳波の活動か ら客観的に感情喚起の確認が可能となる。また,各神経系に属する複数の生理 指標を用いることでポジティブ感情喚起によって生じる自己への注意の変化に ついて一貫していない要因を生理的反応から検証して明らかにすることが可能 であると考える。
4.ポジティブ感情とフロー経験の関係性
ポジティブ心理学に関連する人間の営みに関わる諸現象の中で研究対象とな っているものとして「フロー経験(flow experience)」がある。Csikszentmi-halyiが提唱したフローとは,直訳で「流れ」と表現され,「行為に没入して いる時の包括的感覚」と定義したのが始まりであり,具体的には,「自然に気 分が集中し,努力感を伴わずに活動に没頭できる」といった言葉で説明されて いる(Csikszentmihalyi, 1990)。Csikszentmihalyi(1997)はフローを測定 ・評価するためのツールとして,Csikszentmihalyi & Larson(1987)が報告したデータに基づいてフローを測定・評価するためのツールを作成した(図 4 参照)。個人の知覚された挑戦のレベルと能力のレベルを用いて,フロー状態 か非フロー状態かを評価する。挑戦と能力の各レベルの中心は評価者の平均値 を示している。挑戦のレベルと能力のレベルがどちらも平均より高い状態をフ ローと評価し,挑戦のレベルが平均よりも高く能力のレベルが平均よりも低い 状態を不安状態,挑戦のレベルが低く能力のレベルが高い状態を退屈状態,そ して,挑戦と能力のレベルがどちらも平均より低い状態を無気力状態と評価す る。しかし,挑戦のレベルが低く能力のレベルが高い状態を退屈状態としてい るが,この経験がリラックスを反映していると考えられることなどから,4 分 図をさらに細分化してより細かく評価することが可能な 8 分図が用いられる 場合もある(Csikszentmihalyi, 1997)(図 4 参照)。 フローを対象とした実証研究では,フロー経験が主観的幸福感,生産的活動 への参加意欲,学習意欲,創造性などとの密接な関係にあることが欧米を中心 に行われてきたフロー研究から報告されている(Nakamura & Csikszentmi-halyi, 2002)。国内では,Asakawa(2004)が日本人大学生を対象に日常生 活で経験したフローについて調査を行い,挑戦のレベルと能力のレベルが個人 の平均値付近の水準で均衡しているフローよりも,挑戦のレベルと能力のレベ ルが個人の平均値より高い水準で均衡しているフローにおいて,集中力,楽し さ,幸福感,活動度,自分に対する満足度,コントロール感,が最も高いこと を示した。また,フローの状態にある時に,ヒトは活動に対して高い集中力を 図4 挑戦と技能のバランスにおける 4 分図(左)と 8 分図(右) (Csikszentmihalyi, 1997)より改変 59 行動・生理指標を用いたポジティブ感情の機能や状態の解明
示し,活動の楽しさ,自己の没入感,満足感,幸福感,状況のコントロールな どの高まりや内発的な動機づけ(報酬)を感じる(Csikszentmihalyi, 1985)。 加えて,フロー状態時は意識が淀みない状態(自己意識の消失)であることや 空腹,疲労,不快感を無視すると報告されており(Csikszentmihalyi, 1975; チクセントミハイ・ナカムラ,2003),フロー状態にあるときは自己意識に注 意が向けられておらず感情について意識していないと思われるにも関わらず, フロー状態において集中力や楽しさなどを感じていたことが示されている (Asakawa, 2004 ; Csikszentmihalyi, 1985)。このことから,フロー状態と なった前後や挑戦と能力レベルのバランスが変動する中で心理的変化を感じ, 回想的に振り返ることでポジティブな経験と報告していることが考えられる。 フローは日常生活におけるポジティブな経験と関連しているだけでなく,日々 の満足感や内発的動機づけを感じることから(Asakawa, 2004),精神的健康 を維持・向上させる側面をもつと考えられており(浅川,2006),フロー(経 験・状態)とポジティブ心理学(感情)との関係性について着目されてきた。 また,フローは教育場面にも活用可能と考えられており,たとえば,高校生活 に対する没入の程度と学業成績はフロー体験と関連があることや(Carli, Delle-Fave, & Massimini, 1988),パーソナルコンピュータやインターネット を利用した学習教材である e-Learning をより効果的にするためにフローの理 論を用いた研究等が報告されている(浅川・チクセントミハイ,2009)。 しかしながら,フローを対象とした研究の多くが主観的な評価を用いてお り,客観的指標を用いてフロー状態が誘発されやすい環境や同状態を定量的に 捉える手続きが見いだされれば,フローやポジティブ心理学に関する研究の飛 躍的進歩が期待できる。フロー状態時の生理反応を計測した実験として, Manzano, Theorell, Harmat, & Ullén(2010)はプロのピアノ演奏者を実験 参加者として実験を行い,演奏の経過に伴い主観的なフロー体験の増加と心臓 血管系指標(心拍数,血圧)の減少を報告した。また Omori, Nagano, & Ko-bayashi(2013)は実験室実験として楽しさやフローを喚起させる日常的な課 題を用いてポジティブ感情喚起時およびフロー状態時の生理的反応の計測を試
みた。具体的には,簡便なゲーム課題に設定されている 3 段階の難度を用い て,各難度の課題実施後に主観的なフロー状態の評価を日本語版 Flow State Scale(FSS)(佐藤・張本,2000)にて行った。その後,難度ごとの主観的 な楽しさを基準に分析を行った。その結果,相対的に楽しさが高い条件で最も 日本語版 FSS によるフロー状態の得点が高く,課題の遂行に伴い心拍数の増 加を示したが,楽しさが低い条件ではフロー状態の評価得点が低く,課題の遂 行に伴い皮膚コンダクタンス変化の減少が示された。心拍数の変化が Man-zano et al.(2010)の結果と異なっていた要因として,ゲーム課題は操作が簡 便なため,高い集中力の維持やミスをしてはいけないといった緊張感はなく, 楽しさは盛り上がるような覚醒度の高いものであり,楽しさが高い条件におい て心拍数の増加と皮膚コンダクタンス変化が維持されていたことから交感神経 系が亢進していたことが示唆される。Manzano et al. (2010)の被験者はプ ロのピアノ演奏者として舞台で演奏しており,楽しむという感情よりも演奏に 非常に集中した状態にあったと考えられる。覚醒度の高い楽しさ(たとえば興 奮)が生じる状況ではなかったことから,交感神経系の亢進が生じなかったこ とによって心拍数や血圧の減少が見たられたと考えられる。Omori, Nagano, & Kobayashi(2013)が報告したフロー状態は比較的経験しやすい「浅いフ ロー」,Manzano et al.(2010)が報告したフロー状態は比較的経験しにくい 「深いフロー」と考えられ,フローの違いが生理指標に反映されたと考えられ る。しかし,そのフロー状態の水準の違いや,ポジティブ感情とフローによる 生理反応の分離や弁別を行うための一般化された手段がないのが現状である。 フローに関わる要因として求められる集中力の水準や維持する必要性,楽しさ の強さ,集中力と楽しさのバランスによってフローの水準が異なる可能性が考 えられるが,それを証明する研究はない。ポジティブ感情とフロー状態を構成 している要因(挑戦と能力のバランス,集中力など)について実験参加者の能 力も含めて組み合わせた課題や条件を設定して比較・検討していくことが今後 の課題となる。 61 行動・生理指標を用いたポジティブ感情の機能や状態の解明
5.お わ り に
本稿では,感情という包括的概念について概説し,ネガティブな感情やポジ ティブな感情が免疫機能や認知機能に与える影響,特定の感情に対応した生理 的反応,ポジティブ感情の機能を説明する理論と実証研究について記述した。 また,ポジティブ心理学とフローについてそれぞれの概説と主観報告や数少な い生理指標を計測した研究について紹介した。明確な定義が未だに困難である 感情であるが,研究環境の充実や機器の発展に伴って行われてきた研究からポ ジティブ感情や現象の機能や効果,生理状態の定量化などが試みられており, 今後の研究成果に期待するところが多いテーマである。Fredrickson によって 元通り効果や拡張−形成理論が提唱され,ポジティブな感情にも議論があるも のの機能的な分類があることが報告され(Griskevicius, Shiota, & Neufeld, 2010 ; Shiota, Neufeld, Yeung, Moser, & Perea, 2011),ポジティブ感情が 喚起することによって生じる生理的反応についても定量化されてきている (Gonzaga, Turner, Keltner, Campos, & Altemus, 2006 ; Kreibig, 2010)。フローについては主観報告や生理指標を評価・計測した実証研究も行われてき ているが,日本におけるフロー研究については欧米ほど進んではいない。フロ ーを構成している要素は挑戦と能力のレベルのほかに,楽しさ,集中,内発的 動機づけなどの向上が含まれている(Csikszentmihalyi, 1997;チクセントミ ハイ・ナカムラ,2003)。それぞれの要素が心理・生理的反応に与える影響を 検討していくことでフローを経験することができる製品,コンテンツ,エンタ ーテインメント,教育教材などの開発が可能となる。それらの製品や教材を用 いて活動を行うことでより良い経験や活動意欲の向上が生じてヒトの成長につ ながる。ポジティブ感情に関する研究やフロー状態に関わる研究の成果は,健 康,教育,産業,医療といった様々な場面に活用可能であることからも多くの 課題と発展の余地が残されているのではないだろうか。今後さらに多くの成果 が報告され,実社会に活用されることでヒトの成長やより活発な社会となるこ 62 行動・生理指標を用いたポジティブ感情の機能や状態の解明
とを期待する。 謝辞 本論文の作成に当たり,有益なディスカッション・コメントをいただいた関西学院 大学心理科学研究室片山ゼミの木村司さん,伏田幸平さん,仲早苗さんに感謝しま す。本研究は文部科学省私立大学戦略的研究基盤形成事業(2015-2019 年度,事業番 号 S 1511032)の一部として実施した。 References
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──大森駿哉 大学院文学研究科博士課程後期課程── ──片山順一 文学部教授──