一、
はじめに
『枕草子』日記的章段における清少納言自詠歌の機能
ー「宮にはじめてまゐりたるころ」段を中心に1
現存する清少納言自 詠歌はそのほとんどが「枕草子」『浙少納 言集」 に収 められているが、 両者に共通して採られている自詠歌 はわずか二首と非常に少ない。「消少納言集」 が、 写本にもよる が、 流布本系統が約三十首、 異木系統が約四十首と、 他の歌集 に比べて所戟する歌が少ないとは酋え、「紫式部日記」中の歌全 一七首のうち「紫式部集」との重複が―二首、「和泉式部日記 j 二) 中全一四三首のうち「和泉式部楳」との煎複が五四首であること と比較すれば、 その少なさは異例であることが分かる。そこから 「「枕草子」のための自詠歌」と「「消少納言集 j のための自詠歌」 とがそれぞれ異なる論理によって採ばれた可能性が高いと考えら れる。故に` それらをまとめて「消少納哲自詠歌」として研究す ることももち ろん必要であろうが、「『枕草子』のための自詠歌」 がど のようにして撰ばれ、「枕草子」中でどのよう な機能を果た しているか、 それもまた考察されねばなるまい。 なお、「枕草子 j 本文およぴ章段番号は、石田譲二訳注『枕草子」 (角川ソフィア文耶 一九七九年八月ー一九八0年四月)に拠っ た。引用文中の傍線、 丸数字は、 全て引用者によるものである。『枕草子
j中の自詠歌
二,一、 自詠歌への反応 元輔が後と言はるる君しもや 今宵の歌にはづれてはをる その人の後と言はれぬ身なりせば今宵の歌をまづぞ詠ままし 『枕草子 j 「五月の御梢進のほど(九五段)」における、 中宮定 子と消少納酋の贈答である。 この贈答に先立ち、 消少納言は 「もののをりなど、 人の 詠み侍らむにも、「詠め」などおほ せられば、 えさぶらふまじきここちなむしは べる。 いといか がは、 文字の数知らず、 春は冬の歌、 秋は梅の花の歌などを 詠むやうははぺらむ。 されど、 歌詠むと言はれし末々は、 す こし人よりまさ りて、「そのをりの歌は、 これこそありけれ、 さは言へど、 それが子なれば j など言はればこそ、甲斐ある 二 、同免木
利
加
1-ここちもしはべらめ。 らむ、亡き人のためにも、 に歌がましう、われはと思へるさまに、最初に詠みいでは つゆとりわきたる方も いとほしうはべ る」 なくて 、さすが ベ れな と、「三十一文字が整えら 桜の歌を詠んだりするようなことはないけれど、 かったり 、春に冬の歌、秋に梅や 「あの人の子な のだから、それはいい歌を詠めるだろう」と思われてもそれに応 。 「歌詠むと言はれし」とは、 えられない」ということを述べている。 梢少納言の父、消原元輔のことである 同時代の人間から見た「歌人消少 納言 は言えない ) という意見も有るが、「枕草子」作者の梢少納言が 」 の評価は必ずしも低い [「i と 一 、 「枕草子」に、和歌を 詠むことより をそのまま引用したり、改変したりすることを得意とした自 も著名な漢詩や和歌の一語 句 を描こうとしている ことは確かである。『枕草子 j 中における所 分 謂「自賛諏」、消少納言が他の人間 に褒められたという事実を記 す章段は、有名な「草の庵の段」、「香炉峰の雪 の段」を始めと し て、 辞を受けることの 和歌や漢詩の 引用・改変が多くを占めるのだ。それでは、校 ない自詠歌は、『枕草子」中でどのような働き を めると以下のようになる。 「枕草子」中の消少納言 しているのだろうか。 自詠歌とそれに対する反応を表にまと
◆反応 記述無し・・・・・・滑 少納 酋から和歌を受け取った相手 がどのような 態度をとったか、 記されていないもの。 届かない… •9 ・相手が冊き取れなかったり、 消少納言自身の判断 で相手に歌を知らせなかったりしたもの。 自詠歌への反応は、「記述無し」が八例で汲も多く、「屈かない」 四例、 「返歌拒否」「笑う」がそれぞれ三例ずつと絞く。 この「笑う」というのも、「うち笑む」の様な大人しい笑いで はなく、 ⑦では「「いみじううけばりたりや。 かうだに、 いかで 郭公のことをかけつらむ」とて、 笑はせたま」い、 ⑫では「右近 の内侍などに語らせたまひ て、 笑はせたま」い、 ⑰では和歌を詠 みかけられた当人の下男は文字を絞めないため意味すら分かって いないが、 周囲の人々は「笑ひののしり」、「皆笑ひまどひのぽ」 るという大騒ぎをしている。賞賛の的だった「自賛E」の和歌渓 詩引用とは少し異なり、 梢少納言自身の詠歌は「枕草子』におい て笑いの種として機能しているようである。 二,二、後期章段における自詠歌 一三一段の⑩は、 消少納言の歌に返歌が送られてきた唯一の例 である。章段の最後で源経房より泊少納言への焚辞が伝えられて いるので自賛閲と見なすことの可能な章段であるが、 ここで称え 3
-られているのは⑩のみではなく、 それを含む消少納言と藤原行成 との一巡のやりとりであろう。では、⑩自体は、 この率段におい てどのよう な役割を与えられているのか。 この賠答の後に梢少納言と藤原行成が交わした応醐、行成の「さ て、 その文は、 殿上人、 皆見てしは」に対する消少納 言の 「めで たきことなど、 人の言ひ伝へぬは、 かひ なきわざぞかし(紫敵な 至) 歌など、人の評判にならないのは、甲斐もないことですものね。)」 という言業は、 そのまま解釈すれば消少納言が自身の歌にか なり の自信を抱いていることになる。 しかし、その言葉のすぐ後で「見 苦しきこと散るがわぴしければ、 御文はいみじう阻して、 人につ ゆ見せはぺらず」と、 見る に堪えない行成からの文は誰にも見せ ていないと首いながら、 実際には定子と定子の弟である隆円に献 上していることから、 ここでの消少納言の言業は全くのでたらめ であることがすぐに分かる。 そも そも、 三取の一人である行成の 文が 「見苦し」いはずがないのであって、 ここでの消少納言は事 実と正反対のことばかりを並べ立てているのだ。 つまり 「自分の 歌に自信があるので、 人の評判にならねば甲斐がない」という消 少納首の言菜の班に限された事実は 「自分は歌に自信が無 く、 あ まり人目に触 れさせたくない 」ということに な る。 この言業が当 たり前のように受け取られ、 行成が消少納哲の冗談に乗って会話 を綬けていることから、浙少納言が和歌を苦手とすることが、「枕 草子』「8記的章段」 、 少なくとも一三一段 において語るまでもな い前提条件であることが分かる。 つまり自詠歌である⑩単体では 賛辞の対象に はならないという ことを、「枕草子」作者の消少納 言は注意深く述べているのである。 「日記的章段」を、 中関白家隆盛時と没落以後に分 け、 前者を 前期章段、 後者を後期章段と呼んで両者の差異を示す方法は様々 な形で行われているが、 自詠歌の数を比ぺてみると、 前期章段は ⑥ の二首、 後期章段は②eあ希あ®面⑭)の八首 と、 圧倒的に後 者の方が数が多い。 暗く沈みがちであろうと予想される後期 章段が実際には「笑 ひ」「をかし」の溢れるものであることは 「枕草子」の特徴の一 っとして挙げられ、 むしろ後期章段に「笑ひ」が多く見られるこ とから、「笑ひ」の頻出は 「をかし」の世界を構築する ための方 6"-法の―つであり、 一稲の虚構化がそこに見えるとする説 や、 全盛 時には「うち笑ませたまへる」という徴笑みに代表される機知的 な笑いが、 没落以後には高笑い・大笑いの類が目立ってくるとい で“) う、「笑い」の質の変化について指摘する説がある。 藤本宗利「枕 草子研究J (風間栂房 二00二年一月)に、 H仏草子」の読者たちは、 中関白家の衰退と定子の悲運に ついて、 呆たして事改めて読む必要性があったであ ろうか。 否である。なぜならそれは、 定子の没後おそらく数年を経 ずして完成されたはずのこの作品を統む 者にとって、 紛れも ない事実だったからである。彼らの目には、 一門の味わった
悲哀が、 ことさら文字として読むまでもない背景として、 映 っていたに相違ない。第三節で論じた如く、「病は 」の段が そこに描かれなかった疫縦と出産の患いとを浮かぴあがらせ る、•その延長上に中関白家の悲劇を象っているのと同様に、 日記的章段に描かれた世界の明るさ は、 書かれなかった背景 の間を、 陰固のように照らし出すのである。(ニニ七頁) と指摘されるように、 後期章段時期での中関白家没落は殊更に世 き立てずとも当時の人々にとっては自明の事であ り、 消少納言は その同情や哀れみの目に抗うかのように、「笑ひ」の頗出する世 界を後期章段において描き出そうとしている。後期の「笑ひ J を 成り立たせるための道具として自詠歌が使われ ているため、 後者 の方に多く自詠歌が登場するのであろう。 そして、「枕草孟作者の消少納言は、 詠歌を得意としない自 分自我を演出し、 歌だけでなくそれを詠む自身の姿すら「笑ひ」 の道具として用いている。 ニ・三、「雪山の段」の自詠歌 ④ についても同じこと が酋える。④の歌が登場する八三段「琺 の御漕司におはしますころ、 西の廂に」の段 は、 師走に大雷の降 ったため、 中宮の住まわれている楊所である職の御咽司に大きな 雪山を作り、「この雪山が融けずに何日もつか」という賭けを行 ったところ、 他の女房たちは「十日ほどだろう」と言っていた中、 消少納言のみが「一ヶ月もつ」ほうに賭 け、 そののち日が経つに つれて消少納言がど んどんこの賭けに勝とうと熱狂してゆく、 と いうあらすじであり、 一般に「雪111の段」と呼ばれる。 ④に関係する部分を引用する。 さて、 その山作りたる日、 御使に、 式部の丞忠隆まゐりた れば、 菌さし出して、 ものな ど言ふに、(息世)「今 日、 雷の 山作らせたまはぬ所なむなき。御前の壺にも作らせたまへり。 春宮にも、 弘徴殿にも作られたり。京極殿にもつくらせたま へりけり」など言へば、 ④藷少) ここにのみめづ らしと見る雪の山所々にふり にけるかな と、 かたはらなる人して言 はすれば、 たぴたぴ栢きて、「返 しは、 つかうまつりけ がさじ。 あざれたり 。御節の 前にて、 人にを語りはぺらむ」とて、 寸ちにき。歌いみじう好むと問 くものを、あやし。御前にきこしめして、「いみじうよくとぞ、 思ひつらむ」と ぞ、 のたまはする。 習山を作った当日、 内筏からの使いとして源忠陸がやっ てきて 「今日、 習の山作らせたまはぬ所なむなき」と酋ってきた言業に 返したのが④の歌「ここにのみめづらしと見る雪の山所々にふり にけるかな」である。 しかし忠隆はそれに返歌を返さず、「返し は、 つかうまつりけがさじ。あ ざれたり。御旅の前 にて、 人にを 語りはべらむ」という言菜を残して去ってしまう。エ見非常に褒 5
-められているようにも読めるが、 三田村雅子「枕草子 表現の論 理」(有精党 一九九五年二月)が「その雪山への余りの思い入 れに閉口した式部丞忠隆によって返歌を拒まれてしまうのである (10五頁)」、 萩谷朴「油少納酋全歌集 解釈と評論」(笠間叢 奢 一 九八六年五月)が「消少納言の詠歌を必要以上に賞賛して、 返し歌 を詠む貨任をのがれようとしている下心(-五八頁)」と するように、 実のところ は、「雪山が融けずに何日もつか」とい ぅ賭けに熱狂する浙少納言に付いて行くことの出来ない気持ちの 裏返しが「返しは、 つかうまつりけがさじ」以下の言狼だったの である。 しかし、 飽くまで其剣に笞山に熱中する消少納首は「歌 いみじう好むと聞くものを、 あやし」と思うだけで、 忠怪の言菓 の裏の意味には気付かない。「枕草子」作者の消少納言はもちろ んその両者の間のずれを理解した上で④の歌を登場させている。 もし読み手が衷の意味に気付かなかったとしても、④の歌は『拾 逍和歌集」にも採られた源最明の「宮こにてめづらしと見る初雪 は吉野の山にふりやしぬらん(冬・ニ四三)」を明らかに筋まえ たものであり、 消少納酋が E 枕草子」中に得意なものとして描く、 和歌の改変に近しいものを思わせる。④の歌が褒められたのは有 名な歌を引いたからだ、 という哲い逃れが可能になるのだ。 自詠 歌が真正面から賛辞される様は「枕草子」中に一例も描かなかっ たが、 引用や改変によって様々な人から斑められる「自賛団」を 多く描いた彼女は、 外からの権威付けが無ければ自身を肯定的に 描く事が出来なかったのかもしれない。 消少納言がとうとう明日で雪 山の賭けに勝つという日に⑤の歌 が登場する。 下衆(中略)`「(引用者註・雪山が)円座のほどなむ、 はベ る。木守いとかしこう守りて、詔もよせはべらず、(木守)「明 日明後日までもさぷらひぬべし。禄賜はらむ j と申す」と言 へば、 いみじううれしくて、 いつ しか明日にならば、 ⑤歌詠 みて、 物に入れてまゐらせむと、 思ふ 。 いと心もとなく、 わ ぴ し。 暗きに起きて、 折櫃など具せさせて、(祈少)「これに、 そ の白からむところ入れて、 持て来。 きたなげならむところ掻 き捨てて」など言ひやりたれば、 いととく、 持たせたる物 をひき下げて、「はやく失せはべりにけり 」と言ふに、 いと あさましく、 ⑤をかしう詠みいでて人にも語り伝へさせむと、 うめき誦じつる歌も、 あさましう甲斐なくなりぬ。(中略) 二十日、まゐりたるにも、まづ、 このことを御前にても言ふ。 「身はなげつ」とて、 殺の限り持て来たりけむ法師のやうに、 すなはち持て来しが、 あさましかりしこ と、 ものの蓋に小山 作りて、 白き紙に⑤歌いみじ‘広田きてまゐらせむとせしこと など、 啓すれば、 いみじく笑はせたまふ。 「いみじううれしくて、 いつしか明 日にならば、 歌詠みて、 物に 入れてまゐらせむ j と思っていた歌が⑤である。 しかし、 当日に
雪山は無くなってしまい、 消少納目は「うめき誦じつる歌も 、 あ さましう甲斐なくなりぬ」と落ち込む。数日後、 定子のもとに参 上し、 容れ物の蓋に雪の小山を作 り、 白い紙に素哨らしい歌を 詠んで献上しようとしていたことを報告する。すると定子は「い みじく笑はせたま」い、 傍仕えの女房達も 笑って、 消少納言を賭 けに負けさ せるため に画策していたことを定子が語 り、「さても、 その歌、 語れ」と命じるが、 消少納言は応じない。 笞山を作った当日、④の歌についての忠淡の言葉を消少納言か ら聞かされた定子はただ「いみじうよくとぞ、 思ひつらむ」と感 想を述べただけであった。 しかし、 中心隆の言葉が皮肉だという事 実に気付いていないのが消少納言だけだったとした ら、 ここから 既に彼女は「笑ひ」の的にされていることになる。⑤の歌につい て定子が「さても、その歌、 語れ」と命じるのも、消少納言の「な ぜうにか、 さばかり憂きことを開きながら、 啓しはべらむ」と返 す事を見越し てのも のであろう。 後期章段に「笑ひ」が頻出することは既に述べたが、「大進生 昌が家に」段の如く、梢少納首自身が逍化役を買って出ずとも「笑 ひ」の成立している章段は存在する。 ならば何故、 歌を詠む消少 納言は笑われ役に回るのか。 それによって得られる他の効果が存 在するのではないだろうか。 三'一、 描かれない反応 「宮にはじめてまゐりたるころ 」段はその名の迎り消少紡言が 定子に仕え始めたばかりの頃の出来事を記した章段である。章段 の序盤では、 とにかく恥じ入ることばかりで、 定子に話しかけら れても何も 答えることの出来ない消少納言の姿が描写される。中 盤では定子と定子の兄・伊周の洗練された振る舞いと、伊周が宮 仕えに恨れていない消少納言をからかう場而が語られる。終盤で、 定子からの問いかけにはじめて答えることの出来た消少納言を描 き、 この段 は終わる 。 ' 反応が「記述無し」の自詠歌 は、 歌集から切り出したような体 裁の⑱⑲⑳と、 誰への歌とも決定しがたい①の歌を除けば、 後は 全て定子へと送ったものである。 定子から歌が送られ、 それに返 歌をしたのであるから、 その時点で贈答歌としての形は出来上が っており、 さらなる定子か らの反応は必要でないという見方もあ るとは思うが、 ⑪に関しては「女房消少納言の初宮仕えを描きっ (六) つ主従の『めでたき」関係成立を示す」とする説や、「初宮仕え におけるわが身 を「憂き身」と捉え、「わぴし」と認識していた のである。「薄さ淡さ」の歌は、 定子との「 めでたき」関係成立 を示すというより、 定子との心的な距離を暗示するものとして機 F ヒ} 能していたとみるべきであろう」とする説があ り、 解釈が分かれ 、「宮にはじめてまゐりたるころ」段の自詠歌 - 7 _
Ill ' l-、 遠 景の「笑ひ」 ⑪を含む定子との贈答があるのは章段の終盤であるが、 そこま でには 「笑ひ」が四例登場している。そのうち三例は消少納言に 関係ないところで起こる「笑ひ」であり、 その直後に、 その「笑 ひ」が起こ る場との距離を消少納言が感じていることが明記され ているという点で共通する。 御文取り次ぎ、 立ち居、 行き退ふさまなどの、 つつましげな らず、 もの言ひ、 ゑ笑ふ。 いつの世にかさやうにまじらひな らむと思ふさへぞ、 つ、ましき。 (宮)「道もなしと思ひつるに、 いか で」 とぞ御答へある。う ち笑ひたま ひて、(伊周)「あはれともや御魔ず るとて」など のたまふ御有様ども、 これより何ごとかはまさらむ、 物語に いみじう口にまかせて言ひたるに違はざめ りと、 おぼゆ゜ 一ところだにあるに、 又前駆うち追はせて、 おなじ直衣の人 まゐりたまひて、 これは今すこしはなやぎ、 猿楽言などした まふを、 笑ひ典じ、 我も、 なにがしがとあること、 など、 殿 上人の上など申したまふを聞くは、 なほ、 変化の者、 天人な
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るのである。 も し返歌を受けて喜ぶ定 子の姿が描かれれば前者が、 返歌を喜ばない定子が描かれれば後者が有力になるだろ うが、 消 少納言が何も書かず、 そこまででこの段を終えた以上、 読み手は その部分以前の記述から⑪の位個づけを探るしかない。 どの下り来たるにやとおぼえしを、 一例目は、 宮仕え恨れ している定 子付きの女房が「も の言ひ、 ゑ笑ふ」姿を見て消少納言が「あの人たち のように宮仕え恨れ したいものだ」と思う 楊面である。二例且は、 定子と伊周が「山 里は雪降りつみて道もなし今日こむ人をあはれとは見む」という 『拾遺和歌染 j 冬の部に戟る平兼盛の歌を踏まえた応酬をして お り、 それを見て消少納言が「物を語るのに口にまかせて言ったよ うな、 有り得そうもない理想的な状況だ 」と感じている。三例目 では、 定子の家族が冗談を言うのを女房達が笑い面白が り、 女房 たち自身も「あの人がこんなことを」と殿上人のことなどを気軽 に喋っているのを聞いて、 自分とは述う、 人間とすら思われない どこか遠い世界の出来事のようだと鷲く消少納言の姿が描かれる。 これらは全て消少納言が参加できずに眺めていることしか出来 ない「笑ひ」であり、 彼女はこの段の序盤に 描かれるように、御 格子を上げるか上げないかの悶箔で女官に笑われることはあって も、 誰かを笑ったり、 自らの意思で誰かを笑わせることは出来な い。 その後、 ある程度宮仕えに恨れて冷静な目を持った頃、 定子 から歌が詠みかけられることとなる。 三'三、 三つの問い この段の終盤では、 定子 から三つの問いが消少納言に発せられ ている。ものなどおほせられて、(宮)「我をば思ふや」と問はせた まふ御答へに、(梢少)「いかがは」 と啓 するにあはせて、 台 盤所の方に、 はなをいと高うひたれば、(宮)「あな心憂。 そ ら言を言ふなりけり。 よしよし」とて、 奥へ入らせたまひ ぬ。 いかでかそら言にはあら む、 よろしうだに思ひきこえさすべ きことかは、 あさましう、 はなこそはそら l 一白はしけれ、 と思 ふ。(中略)いみじうにくしと思へど、まだうひうひしければ、 ともかくもえ啓し返さで、 明けぬれば下 りたるすなはち、 浅 緑なる薄様に艶なる文を「これ」とて来た る、 開けて見れば、 (宮二「いかにしていかに知らま し偽りを空に礼の神な かりせば となむ、御け しきは」とあるに、 めでたくもくちをしうも思 ひ乱るるにも、 なほ昨夜の人ぞ、 ねたく、 にくままほしき。 ⑪藷少)「薄さ淡さそれにもよらぬはなゆゑに憂き身のほ どを見るぞわぴしき なほ、 これば かり啓し 直させたまへ。 式の神もおのづから。 いとか しこし」とて、 まゐらせて後にも、 うた てをりしも、 などてさはありけむと、 いと咲かし。 「我をば思ふや 」が第一問、「 「あな心憂。 そら言を言ふなりけり。 よしよし」とて、 奥へ入らせたま」う という言動が第二問、 そし T3 て「いかにして」の歌が第三問である。定子が三つも問いを発す る必要があったのは、 消少納言が第一、二問に まともに答え るこ とが出来なかったからである。「 我をば思ふや」 には「いかがは」 という何の機知も而白みも 感じられない答えしか出来ず、 第二問 には「まだうひうひしければ、 ともかくもえ啓し返さで」と、 新 参であったため上手い対応を思いつけ ず、 何も言うことが出来な かった。 つまり第三問に対する⑪の歌は、「まともな答え」と判 断され たことになるだろう。 これに閑係して、 小森潔『枕草子 逸脱のまなざし」では「こ こで注目すべきは、 そ うした消少納言の機知も結局のところ定子 自身のオ党によって引き出 されたという点である。定子は、 折悪 しきくしゃみというアクシデントを逆にうまく利用しつつ、 新参 の恨れぬ女房に対して機知を発揮する場を繰り返し提供し、 女房 の而目をほどこさせながら教育したわけである。(-五七頁)」と 述ぺられている。「定子賛美」が「枕草子」の 主題とされること については今更繰り返す必要はあるまいが、 特にこの段では新参 女房の鵞きの目でもって「物語にいみじう口にまかせて言ひたる に迩はざめり」「変化の者、 天人などの下り来たるにや」と、 大 袈裟なほどに定子サロンの洗練された雰囲気が語られてい る。 こ の段において消少納言は視点人物ではある が、 主人公ではありえ ない。「硲城の神もしばし」と己の姿を恥じ て、 夜のみ現れる存 でん) 在である葛城一言主神に擬せられる消少納言と対照的 に` 定子や 伊周の姿の脱しさが描かれ、 話しかけられてもうつ伏せることし か出来な い消少納言と対照的に、「道も なしと思ひつる に、 いか 9
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で」「あはれともや御笈ずるとて」と いう定子と伊周の和歌を踏 まえた応酬の洗練された素哨らしさが描かれるのである。消少納 言の姿が滑稽であればある ほど、 定子は光り輝く。 そうして定子の美しさ、 知性を語り、 最後に宮廷主人としての 才批を語るのが「三つの問い」なのであ る。 及第点を与えられた らしい第三問の答え⑪が和歌であるこ とも、 偶然ではないだろう。 ここで消少納言が得意とする和歌や淡詩の引用を登楊させ、 褒め られる消少納言を描き、「自賛諏」 の形をとってしまっては、 こ の段における主人公が定子なのか消少納_酉なのか分からなくなっ てしまうのである。 この段では、 消少納_百が「自校諏」で 描こう とした如何にも得意げな彼女は必要とされていないのだ。 三、四、 「隙さ濃さ」歌の役割 ⑪を、「枕草子」中における他の賠答歌と見比べてみたい。 (1) あしひきの山井の水はこほれるをいかなる紐の 解くるなるらん (藤原実方) ⑥うは氷あはに結べる紐なればかざす日かげに ゆるぶばかりを 「宮の五節いださせたまふに」(八六段) (2)元輔が後と言はるる君しもや今宵の歌に はづれてはをる ⑧その人の後と言はれぬ身なりせば今宵の歌を (定子) 「五月の御精進のほど」(九五段) (3)⑩夜をこめて弟の虚音ははかるともよに途坂の 関は許さじ 逢坂は人越え易き濶なれば鶏嗚かぬにもあけて待っとか (藤原行成) 「頭の弁の、 戦にまゐりたまひて」(-三一段) (4) いかにしていかに知らまし偽りを空に礼の 神なかりせば (定子) ⑪ 薄さ濠さそれにもよらぬはなゆゑに憂き身のほどを 見るぞわぴしき 「宮にはじめてまゐりたるころ」(-七九段) (5 )いかにして過ぎにし方を過ぐしけむ牲しわづらふ 昨日今日かな ⑯雲の上も硲しかねける春の日を所か らとも ながめつるかな 「--]月ばかり、 物忌しにとて」(二八六段) (3) 以外は全て他者から送られてきた贈歌に消少納言が返歌を したものである が、(1)(2)(5)で は、 言業の対応によって 贈答歌であることが分かりやすく示されているのに対し 、 一 七九 段の(4)ではそのような語の対応が全く見られない。(4)の (ト) 贈答は(1)とほぼ同時期に行われている ので、 その時期の梢少 まづぞ詠ままし (定子)「枕難子」「日記的章段」において消少納言の活躍 は、 自分の様 な女房を擁する定子サロンの知的で明るい雰囲気を知らしめるた め、 つまり定子焚美の一環としてとらえられてきた。それでは失 敗談とも言えるような、「消少納言が得意としない和歌を読んだ 四、 おわりに 納目が贈答歌をまともに詠めない状況にあったとは考えが たい。 やはりここは、 初宮仕えの緊張の上に、 定子から誤解を受けてし まったことへの焦り、 さらにそのような状況にありながら定子か ら文が届い たこ とに対する餡しさなど「思ひ乱るる」気持ちが、 このちぐはぐな返歌に現れているのだろう。「見しらぬ里人心ち」 から抜け出せない彼女は、 この段において 笑われる"から抜け出 すこともまたないのである。 三'五、 語られない理由 定子のオ覚を語ることが目的である以上 は、 オ党を示すための 道具である消少納言が⑪の歌を解答として差し出すことが可能に なった時点で、 この段が述べるべさことは述ぺつくし たことにな る。「三つの問い」が実際にも起きた出来事だったとして、 ⑪に 対する定子の反応が全く無かっ たということは恐らくないだろう が、 『枕草子」作者の消少納言はそれ以上は蛇足になると判断し て切り捨てたのだろう。 話」は定子を貶める話になってしまっているかというとそのよう なことはなく、 既に述ぺてきたように、「笑われる自身」を「枕 草子」中に演出することで己を下げ、 定子を一層嵩く持ち上げる という働きをしている。消少納言は定子には勝てな い。 その事実 が二人の間に軋礫を生むわけではなく、 天且の中宮としての立楊 を弁え、 後宮の主として君臨するに相応しい威厳と知性を兼ね備 えた定子に、最後には屈服せずにいられない自分を、 消少納首は 焙々として『枕草子」に記したのではないだろうか。「枕ヰ子 j 中で「最後には負けてしまう消少納言」の姿は、 相手が定子の場 合しか描かれていない。それ以外の人間と向か・い合う時の消少納 目は「中宮定子付きの女房」という同杏きを負ってい るため、 敗 北する姿を描かれるわけにはいかなかったのである。 註 (一)この点については、 既に邸廂粉「枕草子の和歌構成方法— 「菩提といふ寺に」段を中心にー」(「中古文学論孜 J ―九号 一九九八年ニ一月)において指摘されている。 (二)高橋由記「歌人消少納―百の同時代的評面」(「日本女子大学大学 浣文学研究科紀要」4号 一九九八年三月)。 (三)現代語訳の引用は、 本文引用と同じく角川ソフィア文郎「枕草 子 j に拠る。 (四)原岡文子「「枕草子」日記的翠段の「笑い」をめぐって」日 本文学研究資料新集4「枕卒子 表現と構造」(有精裳出版 一九九四年七月)所収。初出は「「枕草子」日記的章段の笑いに 11
-ついての一試論」(「平安文学研究」第五七集 一九七七年六月)。 (五)沢田正子「枕草子の美意識J(笠間柑院 一九八五年一0月)「前 箭 枕 草子の美意識 第一章 枕草子の笑いとをかし」――-l頁。 (六)小森潔「枕草子 逸脱のまなざし J (笠間術院 一九九八年一 月〉「11 枕草子の始発ー「宮にはじめてまゐりたるころ」の段 をめぐってー」一六_二頁。 (七)佐藤雅代「一二巻本「枕草子 i の和歌ー定子と消少納言の交流 を中心にー」(大阪大学古代中世文学研究会「詞林」三十五号 二00四年四月)九二頁。 (八)前掲小森深「枕草子 逸脱のまなざし」一五六頁。 (九)一言主神自体は「古事記」「日本柑紀」等にも登場するが、「姿 を恥じる」一ー百主神の初出は「一二宝絵」「中巻 役行者」のよう である。 (+)(4)の詠歌年次にあたる沖少納言が宮仕えを始めた時期は諸 説有るが正暦四年(993)冬とする説が現在有力である。また(1 ) の贈答が交わされた豊明節会は同年―一月のことである。 りか 岡山大学大学院文化科学研究科) (どうめんき 研究室受贈図書雑誌目録ー 〈雑 誌〉 愛知大船國文學(愛知大學図文半會)四四 愛知文教大学比較文化研究(愛知文教大学国際文化学会)六 愛知文教大学論叢(愛知文教大学)七 (平成十七年一月1十二月) 四 背山語文(青山学院大学日本文学会)一 1 一五 殴(山崎勝昭)十二 宇大国語論究(宇都宮大学国語教育学会)+六 歌子(実践女子短期大学日本語コミュニケーション学科)+=― 湖(うみ)の本 エッセイ(秦恒平)三六 愛媛国文研究(愛媛国語 国文学会)四八、 四九、 五十、 五一、 五 二、 五三、 五四 愛媛国文と教育(愛媛大学教育学部国語国文学会)三七 王朝細流抄(安田女子大学大学院古代中世文学研究会)八 王朝文学研究誌(大阪教育大学大学院王朝文学研究会)十六 大阪椋蔽女子大学 日本語研究 センター報告(大阪椋蔭女子大学 日本語研究センタ))十三 大阪大学日本学報(大阪大学大学院文学研究科日本学研究室)ニ 大阪女子大学上方文化研究センター研究年報別冊 附属図杏館椿亭文庫目録(大阪女子大学上方文化研究センター) 大谷女子大国文(大谷女子大学日本語日本文学会)三五 大要国文(大要女子大学国文学会)三六 大要女子大学紀要—文系ー(大要女子大学)三七 岡山大学国語研究(岡山大学教育学部国語研究室)十九 香川大学国文研究(香川大学国文学会)二九 大阪女子大学