東 南 ア ジ ア研 究 22巻1号 1984年6月
カ ル テ イ こ の 心 象 風 景
土
屋健
治 *
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ma皇eofJava'
sLandscape
KenjiTsUcHIYA*
Kartini(1879-1904)isuniqueintheintellectual history ofmodern lndonesia. On theonehand,
sheisadored in thenation'S'hagiography'asan early advocate of nationalist sentiment and an emancipator ofJava'S Women from -feudalism'. Ontheother,shehasbeensympatheticallyaccepted inDutchliteratureasarepresentativefigureeither ofEthicalColonialPolicyorofthe`TempoDoeloe',
`TheOld (Golden)Days'.
Thispaperdiscussesthisfigureinrelationtopar -ticular culturalphenomena oflate 19th century ofJava. Threepointsarepresentedwithspecial referenceto Kartini'sdescriptionsofJava'sl and-scapeintheDoorDuz'sferm`∫TotLt'cht("Through Darhne∫∫TowardsLなht"),thecollectionsofher letterstoDutchfriends.
First,thedescript10nS,Whicharefullof'clich6S',
reflC1CtflCCuratelythecontemporarv`mestizoculture'
は じ め に 本 稿 の 意 図 は, 19世 紀 後 半 か ら20世 紀 初 頭 の ジ ャワの文 化 的状 況 を一 つ の心 象 風 景 の う ち に定 置 しよ う と試 み る こ とで あ る。 この時代 の ジ ャワの特 徴 を ,伝 統 一 近 代 と い う二 分 法 に お いて 表現 す れ ば , それ は,一 方 で は, マ ク ラム王 国 の創 立 (
1
6
世 紀 末) 以 莱 ,王 宮 (ク ラ トン) を極 点 と して形 成 され て きた世 界 秩序 の構 成 原 理 が , 王 と 家 臣 団 (ク ラ トン) の 政 治 的無 能 性 の つ の りゆ く露 *京都大学東南 アジア研究セ ンター;The CenterforSoutheastAsian Studies,Kvoto University
of colonial Java. From the late 19th century the `mestizo culturc',typICally expressed in the picturesOf(theBeautifulIndies'andthecroncong melodies,enjoyed growingpopularitybothalTIOng theDutchandEurasiansocietiesandtheJavanese aristocracy. Second, the Dutch language was indispensabletoherdescriptionofJava'Slandscape. Dutchfunctionedasahih lg ye侃cientlensthrough whichshewasabletogazeatnotonlythenatural landscapebutals()thela・ndscapeoFthecolonized society. Both Dutch and Javanese societies in colonized Java were broughtsharply into focus throughthislens. Third,Kartiniwasaforerunner oftheIndonesiannationalistmovementinthesense
that she conヽ-incingly gave `nationalitⅤ'to the landscape. Removed from the `mestizo'cultural milieu,thelandscape shedescribed was,thus,a 'naturali?・ed'Javanese(Indonesian)landscape.
量 化 に よ って ,次 第 に解 体 し つ つ あ る 過 程
[土屋 1983],す な わ ち,伝 統 的 世 界 観 の衰 退 過 程 が進 行 して ゆ く時期 で あ り[Day 1981], 他 方 で は, くイ ン ドネ シア)[永積 1980]と
い う 「想 像 の 共 同 体 」 "Imagined Com-m unity" [Anderson 1983]の 構 築 を め ざ す く人 民 運 動 )"Pergerakan Rakyat" [土屋 1982:第 1章 ]が い まだ 出現 す る こ との な い, す な わ ち,近 代 の光 が ジ ャワ 自身 の 内部 か ら いま だ発 す る こ との な い時期 で あ る, と概 括 す る こ とが で きよ う。 古 い世 界 像 が次 第 に衰 退 しつ つ あ るの に新 しい世 界 像 が いま だ み え て こな い とい う意 味 に お いて , この時代 は ま
東 南 ア ジア研 究 22番 1号 さ しく 「はざ ま」 の時代 で あ った。 それ が 「は ざま
」
の時代 で あ る とい うこと を , ジ ャワ語 圏 の世界 に即 して いえ ば,大 い な る者 の 「最 後 の時代 」"zamanpanutup''で あ った。 「最 後」``panutup''とい う語 が この 時代 を表現 す るキー ・ワー ドで あ った .1) 別 言 す れ ば,くイ ン ドネ シア) が想 像 さ れ ・構 想 され , そ の実現 に向 けて人 々が動 き始 め る とい う意 味で の ジ ャワの近 代 (す な わ ち,20 世紀 の10年代 以 降 の民族 主 義 の時代) か ら, この時代 をふ り返 れ ば, それ は 「民族 英雄 」 不 在 の時代 を意 味 して いた。 イ ン ドネ シア共 和 国 で刊行 され て きた さま ざ ま の 「民族英 雄 伝 」 (共 和 国 の 「聖人 列 伝」
)
で は,19世紀 の ジ ャワか らデ ィポ ネ ゴ ロ (1785- 1855)と ロ ンゴ ワル シ ト (1802- 1873)を晃百貨 した の ち に,20世 紀初 頭 の カル テ ィニ (1879- 1904) が登場 す る こ と に な る。 カル テ ィニ以 降 , 「民族 英雄」 が陸続 と して生 み 出 され る20世 紀 に比 して,19世紀 の ジ ャワか ら, デ ィポネ ゴ ロ とロ ンゴ ワル シ トのふ た りだ けが選 び 出 され る とい うの は, ま こ とに沙 た る もの (大 いな る者 の不 在 の状況) といわ な けれ ばな ら な い。 そ の こ とはまた , ロ ンゴ ワル シ トが そ の生 涯 を閉 じた1873年 か ら, カル テ ィニ が 後 年 『暗 黒 を越 えて光 明-』 に収 め られ る こ とに な る 「書 簡 集」 の第 1信 を書 き 綴 り始 め た 1899年 に至 る,30年 弱 の期 間 こそ, ジ ャワは 先 に述 べ た 「はざま」 の もっ と も深 い谷 合 い に位 置 して いた,とい うこ とを意味 して い る。 い うまで もな く, ロ ンゴ ワル シ トは ジ ャワ語 圏 の世 界 のパ ラダ イ ムの最 後 の 体 現 者 で あ 1)ロンゴワルシトが「最後の宮廷詩人」``pujangga panutup" と呼ばれ,バ ク ・ブオノ10世 (在位 1893-1939)が 「最後の王」"ratupanutup"と 呼ばれていることが,その典型的な例である。 なお,Kamadjaja[1964],SoemarsaidMoertono 【19681,Andjar Any [1979; 1980]を参照。 り,2' カル テ ィエ は近 代 の民族 主 義 の時代 の パ ラダ イ ムの創始者 だ か らで あ り, この両 者 の問 に横 たわ る断絶 (よ り一般 的 にいえ ば, 1870年 か ら1900年 に至 る一世 代 の断絶) は, 「列 伝 」 の系 譜 その もの の断絶 を示 す ほ どに 深 いか らで あ る。 ところが,実 際 には ロ ンゴ ワル シ トの死 後 わず か6
年 後 に カル テ ィニ は生 まれ て い る。 ロ ンゴ ワル シ ト自身 と彼 の生 きて いた時代 を 彩 る 「暗 い闇 の心 象」 と, カル テ ィニ 自身 と 彼 女 の生 きて いた時代 を彩 る 「明 るい光 の心 象 」 とい う,二 つ の時代 の心 理 的状 況 (時代 精神 ) は,一 体 ,伝 統 一近 代 とい う一見 説 得 的 な規 定概念 に よ って ,十 全 に説 明 しうるで あ ろ うか。本 稿 にお いて筆 者 が問 お うとす る の は, ま さに この点 にか か わ って い る。 カル テ ィエ につ いて書 か れ た 「聖 伝 」 とア カデ ミズ ムの論 稿 とを 問 わず ,そ こで は この - 少 女 の近 代 的相 貌 を描 き出 し,合 わせ て伝 統 的世 界 - の そ の果敢 に して悲壮 な闘 いを描 き出す こ とに力 点 が おかれ て きた。筆 者 白身 を含 めて , カル テ ィエ はつ ね に 「倫 理政策 」 と結 びつ け られ ,民族 意識 と結 びつ け られて 考 察 されて きた。3) しか し, 以上 の こ と とは 別 に, カル テ ィエ には,先 の 「はざま」 の時 代 の心 象 風景 を描 き出す とい う側 面 が あ った と思 わ れ る。 それ が彼女 にお いて は じめて十 全 に描 き出 され たか らこそ, カル テ ィニ は, 「近 代 的個」 と して登 場 しえた ので はな いだ ろ うか。 こ こで注 目 しうるの は, カル テ ィニ に おけ る風 景描 写 で あ る。 具体 的 な考察 は本論 で展 開す るが , この風 景描 写 の うちに, カル テ ィ 二 は,一 方 にお いて,19世紀 以来 の「はざま」 の時代 に現 れて いた 「メス テ ィー ソ」 的文 化 2)ロンゴワルシトとジャワの伝統的文化の変容と の関連については,最近に至 っていくつかの論 稿 が 発 表 されている。さし当 た り,A.Day [19811および土屋 [1984]を参照。土 星 :カル テ ィ二 の心 象 風 景 状 況 を文 章 表 現 の う ち に定 置 し,他 方 で , そ の こ とに よ って こ う して描 か れ た風 景 に くイ ン ドネ シア) とい う 「国籍 」 を与 え て ゆ くこ とにな った , とい うの が本 稿 の趣 旨で あ る。 な お , こ こに 「メ ス テ ィー ソ」 的 文 化 状 況 とは,複 合 社 会 に お いて お の お の の構 成 集 団 の いず れ もに所 属 しな い が ゆ え に,各 集 団 に よ って そ れ ぞ れ 分 有 され て い る文 化 を 意 味 す る。 この文 化 を特 徴 づ け るの は , セ ンチ メ ン タ リズ ム とノ ス タ ル ジ ア とメ ラ ン コ リー とい う心 理 状 況 で あ り, そ の第 1の メデ ィア は , 旋 律 と絵 画 で あ る。 以 下 ,本 稿 の構 成 は以 下 の通 りで あ る。 Ⅰで は
,1
9
世 紀 後 半 の 「は ざ ま」 の 時代 の 変 化 の様 相 を制 度 的 ・構 造 的 に略 述 す る。Ⅰ
Ⅰ
で は, そ の変 化 の状 況 を , 音 楽 と絵 画 の2点 に お いて概 観 す る。I
I
I
で は,以 上 の セ ッテ ィ ング に お い て カル テ イ二 を論 ず る。 した が っ て本 稿 は , カル テ ィエ に お い て くイ ン ドネ シ ア) が心 象 風 景 と して描 き出 され て ゆ く状 況 を跡 づ け る もの で あ る。 3)カルテ ィ二に関す る書物,論稿 は,ま ことに多 数に及んでいる。たとえば,1977年に 『カルテ ィエ伝』を著 したS・Soerotoは,その参照文献 として全部で48点をあげているが,それ らはい ずれ もカルティニ白身を主題 とするか, もしく は,民族主義運動の展開 との関連でカルティ二 を扱 った ものである。 この内訳は,オ ランダ語 文献が32点,英語文献が9点,イ ンドネシア語 文献が5点,ジャワ語文献が2点である。 日本 語の もの も 「書簡集」の翻訳 として2種類 (午 江 [1940]および早坂 [1955]) のほか,
『カル ティニ伝』の翻訳 (スロ ト,舟知 ・松田 (釈) [1982])があ り,加藤 [1942],永積 [1980],土 屋 [1970]が,カルティエについて論 じている。 この うち,加藤はすでに1922年 当時にカルテ ィ この紹介を行な っている。 これについては注17 をみよ。なお,未発表論文 として私見の限 り前 田 [1975],富永 [1983]などがあ り,カルテ ィ ニに対す る関心 は,わが国において も半世紀以 上にわた って一貫 して高いということがで きよ う。また,カルティ二の書簡集については,本文 中の引用では各国語の編 ・訳者名を記載 し,文献 欄では 〔カルティエ関係〕としてまとめてある。 Ⅰ 制 度 的 ・構 造 的変 化1
9
世 紀 半 ば以 降 の ジ ャワの社 会 的 変 化 は , も っぱ らオ ラ ンダ の イニ シア チ ブ に よ って ひ きお こされ た 。 そ れ が ジ ャ ワ に と って 「最 後 の時代 」 を もた ら した の に対 し, オ ラ ンダ に と って は植 民 地 的 秩序 が最 終 的 に確 立 して ゆ くとい う点 に お い て 「静 言盆の 時代 」 ("rusten orde"な い し"zamannormaal")の 開始 で あり,植 民 地 社 会 に関与 す るオ ラ ンダ 人 の心 理 的 状 況 に即 して いえ ば, 「古 き (よ き)時代 」 ``tempodoeloe''4'と して 回 顧 され る時代 が始 ま った こ とを 意 味 して い た。 この変 化 の根 幹 にあ った の は , い うま で も な く植 民 地 官 僚 制 の創 出 と制 度 化 で あ った 。 変 化 は そ の過 程 と一 体 化 して も た ら さ れ た が , そ の 中で も顕 著 で あ った の は ,伝 統 的 プ リヤ イ層 の調 達 に伴 う社 会 変 化 と,政 治 的 経 済 的 支 配 の深 化 ・拡 大 に伴 う コ ミュニ ケ ー シ ョ ン ・ トラ ンス ポ ー テ ー シ ョ ンの ネ ッ トワー クの創 出 と発 展 とい う こ とが らで あ った。 1. プ リヤ イ層 の変 質 ジ ャ ワ に お い て マ ク ラム王 家 に 由来 す るプ リヤ イ層 を , バ ク ヴ ィア総 督 府 に収 赦 す る植 民 地 官 僚 と して再 編 成 す る試 み が本 格 化 す る の は
1
9
世 紀 前 半 の ダ ー ンデ ル ス統 治下 (1
80
8
-1
81
1
)
以 降 の こ とで あ る.原 住 民 に対 して は,マ ク ラム王 国以 来 の 「民 草 の長」"Volks -hoofd"と して 臨 み , 植 民 地 政 庁 に対 して は, 俸 給 の支 給 を 受 け る官 吏 と して位 置 づ け られ る とい う,植 民 地 下 の プ リヤ イの二 重性 が進 展 す る中で ,「そ の誇 りが (自 らの)過 去 - の 一 体 化 で な く (オ ラ ンダ の) く王 の僕 )と して 4)EIBreton de Nijsが1961年に編纂 した書物 のタイ トルに由来す る。 これは,写真集とその 解説によ って綴 られているが,その扱 う時期が 1870年か ら1900年代初頭であるのは,先の 「は ざま」の時期 と 「静誼の時代」 との一致を示す ことが らである。東南 アジア研究 22巻1号
の役割 を果 たす」 [Sutllerland
1
979:7]
と ころに求 め られ る状況 が次第 に顕在 化 して い った。 この よ うな変化 が もっ と も厩著 で あ っ た の は 「王侯 領 」 ``Vorstenlanden''の外 周 , こ とに ジ ャワ島北岸 の 「沿 海域」"Pasisir"で あ った。 「沿 海域」 の プ リヤ イは, 一 方 で は な お,伝 統 的 な ク ラ トン文 化 の細片 を護 持 し て , プ リヤ イの倫 理 を尊 び , ワヤ ンや ガ メ ラ ンや踊 りな ど ク ラ トンに由来 す る文 化 の担 い 手 で あ る こ とを任 じて いた が,それ と同時 に, バ クヴ ィア に由来 す る新 しい文 化 が彼 らの生 活様 式 に浸 潤 して い った。 それ はひ とこ とで いえ ば 「擬 似 ヨー ロ ッパ 的雰 囲気」[Z'bz'd.:43]
の展 開 で あ った。 す な わ ち,原 住 民 官吏 が ウイス キー ・ソー ダ や ジ ンを飲 み ,ダ ンス と トラ ンプ に打 ち興 じ,乗馬 や テニスを楽 しむ とい う状 況 が,住 居 や服 装 や食生 活 の西 欧化 とい う状 況 に相伴 って生 まれ て きた ので あ る [/oc.cz't.]。 この 過程 は,原 住 民 エ リー トにオ ラ ンダ語 の教 育 が授 け られ る とい う過程 とほぼ重 な り合 う こ とで あ り, エ リー トが オ ラ ンダ社会 とオ ラ ン ダ語 で交 流す る状況 が生 まれ始 めて いた。 さ らに今 世 紀 初 頭以来 ,植 民地 社会 に 自動 車 が もち込 まれ るよ うにな った。 かつ て い く夜 か を か けて その管 轄 内を視 察 した 原 住 民 県 長 (ブパ テ ィ) は,次 第 に 自動 車 で1
日の視察 を終 え るよ うにな った。 こ う して ,そ の生 活 様 式 の変 化 と と もに,原 住 民 エ リー トが原 住 民 社会 か ら, ホル マ ッ ト制 (伺 侯 ・謁 見 にか か わ る複 雑 な礼儀 作 法)[3'bz'd.:Chaps.1-
4]
に象徴 され る ジ ャワ語 によ る交 流 とい う1点 を除 いて は,物理 的 に も文化 的 に も,切 り離 されて ゆ くとい う過程 が進 行 して い った ので あ る。5) 5)当時のプ リヤイが一般ジャワ人の生活,ことに 村落生活か らいかに切 り離されていたのかは, のちに述べる通 りカルティニ自身の状況にもよ く示されているが,この状況を生 き生 きと描い た小説として Pramoedya[1980]を参照。 2. 交 通網 の拡 大1
9
世 紀 の後 半 か らジ ャワにお け る人 と物 資 の移 動 の状 況 は,鉄道 の建 設 に よ って一変 し 始 めた。 ジ ャワで はす で に1
85
3
年 にバ クヴ ィアー ポ イテ ンゾル フ問 に鉄道 が敷 かれた が, そ の敷 設 は70
年 代 に入 って各 地 に拡 大 して い った。 鉄道 網 の拡 大 は図 の1
か ら4
まで に示 す通 り で あ るが , これ らか らうか が え る通 り,1
888
年 まで に (図1),バ クヴ ィアー バ ン ドゥ ンー チタ レンカ間 , テガルー バ ラプ ラ ン間 , スマ ラ ンー ソ ロー ジ ョク ジ ャー チ ラチ ャ ップ間 , スマ ラ ンー ジ ョアナ問,ス ラバ ヤー マ ラ ン問, ス ラバ ヤーパ スル ア ンー プ ロポ リンゴ問 , ソ ロー マ デ ィウ ンー クデ ィ リ- ブ リタル 問 , ソ ロー マ デ ィウ ン- カル トソノー ス ラバ ヤ間 な ど,バ ク ヴ ィア, ボ ゴ ール ,バ ン ドゥ ン, チ ガル , ス マ ラ ン, ソ ロ, ジ ョク ジ ャカル タ, チ ラチ ャ ップ, マ デ ィウ ン, クデ ィ リ, ブ リ タル , ス ラバ ヤ,マ ラ ン,パ スル ア ン, プ ロ ポ リンゴな ど, ジ ャワ各地 の行 政 ,経 済 の拠 点 都 市 に は,鉄 道 が敷 設 され るに至 った。 こ れ が1
9
世 紀末年 の1
899
年 (図2)
にな る と, 上 に述 べ た各 都 市 がすべ て鉄 道 で結 びつ け ら れ,1
91
3
年 (図3)
には, ラブ ア ンか らバ ニ ュ ワ ンギ に至 るジ ャワ島 の東 西 が,緊 密 な鉄 道 網 によ って結 びつ け られ る こ とにな った。 これ を鉄道 総 キ ロ数 で み る と,図5で示 さ れ た通 り,広軌 ,狭 軌 を含 めて,1
87
8
年 の約40km
か ら,1
9
世紀 末 に は1,
500km
に拡 大 し,1
905
年前 後 には 2,
000km
近 くに達 して い る。 また ,図6
で示 された通 り,乗客 数 も1
9
世 紀未 に は4
00-800
万 人 に達 して お り,鉄道 網 の拡 大 が都市 と都 市 を結 びつ け,人 々が汽車 の旅 をす る とい う状 況 が, 明治時代 の 日本 と ほぼ時期 を 同 じ くして , ジ ャワで も始 め られ て いた こ とがわ か る。 この よ うな鉄 道 網 の拡 大 と これ に伴 う人 ・土 屋 :カル テ ィエ の 心 象 風 景
出典 :Reitsma[1925:72-73] 縮尺 :1/5,000,000 図 1-図 4 ジ ャワ ・マ ドゥラにお け る鉄道 網 の拡大 (1888-1925)
東 南 ア ジア研 究 22巻 1号 物 の移動 は,19世紀 後半 の ジ ャワ (す な わ ち 「はざま」 の時 代 )にお いて,実 は, 人 間 と情 報 の交 流 を め ぐって この島 が新 しい局 面 を迎 えつ つ あ った こ とを示 して いた。 この交 流 はま た,鉄道 網 の拡 大 と ほぼ時 を 同 じ くして 全 島 に拡 大 して い っ た プ ラ ンテー シ ョン とそ の付 設工 場 お よ びオ フ ィス,道路 網 , 港湾 整 備 と 海 運 事 莱 ,郵 便制 度 , 自動 車 の導 入 , ラジオ放 送 網等 々の新 しい ネ ッ トワー クを通 じて の交 流 に相 伴 って , さ らに拡 大 して い っ た。都 市 にオ フ ィス とオ ラ ンダ人 住 宅 街 が設 け られ ,娯 楽 施 設 , ス ポー ツ施 設 が つ くら れ,「ミモ ザ とブ ー ゲ ン ビ リア の 花 に 囲 ま れ た」
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1983: 137] コロニ アル ・ス km 4,()0() 3,fiOO 3,6()0 3,400 3,2(〕O . 'う,()()() 2,8(州 2,60() 2,m0 2,200 2,ロoo 1,800 1,6n「) 1,400 1,20〔) 1,()0() 80〔) 60(1 400 200 :喜 :・:' ::- ミ ;: -:-' -= ≡i
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出典 :Reitsma[1925:80】 図5 オランダ領東インド国営鉄道延長キロ数 (広軌と狭軌の合計) タ イ ル の 生 活 空 間 を,植民地 社 会 の上層 部分 (ジ ャワで いえ ば, オ ラ ンダ人 , ユ ー レシア ン, 中国人 大 商人 , 原 住 民 上層 階層 な ど) が ,質 的 ・量 的 に程 度 の差 はあれ , それ ぞれ にわ か ち もつ状況 が, 生 まれ始 めて いた ので あ る。 ⅠⅠ 「メ ステ ィー ソ」 的文 化 圏の成 立 19世紀 ジ ャワの文化状況 の「メス テ ィー ソ」 的性 格 につ いて は,す で にWe
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に よ っ て 指 摘 さ れ て い る が[
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1956: 246】, それ は ジ ャワにお いて語 の本来 の意 義 にお いて メス テ ィー ソで あ るユ ー レシア ンが土屋 :カル テ ィエ の 心 象 風 景 ) ) )
)
) ) ) ∫) ∫) I) √) 〔) り り り () り 墓 室 葺 藁 葺 書 芸 二 出典 :Reitsma[1925:178] 図6
ジ ャ ワ 島 の 旅 客 延 べ 数 も っぱ ら担 った文 化 で あ る とい う こ とに とど ま らな い。支 配 の様 式 と して の ホル マ ッ ト制 は , オ ラ ンダ貴 族 社 会 と ジ ャ ワ王 朝 の路 拝 の 制 度 化 の グ ロテ ス クな結 合 に はか な らな か っ た し,そ の結 果 と して到 来 した 「静 譜 の時 代」 は , ジ ャワ に お いて 「メ ス テ ィー ソ」的 文 化 の成 立 す る土 壌 で あ った 。 オ ラ ンダ人 に と って ジ ャワ (の ちに広 く蘭 領 東 印度 ) は植 民 地 で あ り, た とえ この 島 が ここ くさ、) 「 Cu (>】 三 三 二 この先 い く世 代 にわ た って支 配 下 に あ ろ う と も,個 々の オ ラ ンダ人 に と って は, 遠 い北 国 のふ る さ と を離 れ た 「赤 道 を と りま く エ メ ラ ル ド の 島 々」 [Multatuli1
860:257]
で あ っ て ,永 遠 の眠 りにつ く場 所 で は決 して な か った 。6) ジ ャワ人 貴 族 に と って は,す で に述 べ た通 り,新 しい生 活 様 式 が1
9
世 紀 後 半 か ら次 第 に浸 透 した結 果 と して , 文 化 的 な 「擬 似 ヨー ロ ッパ 性 」 が共 有 さ れ , オ ラ ンダ人 と と もに植 民 地 空 間 を新 た に創 出 し, これ を 担 う とい う状 況 が生 ま れ始 め て いた。 本 来 の メ ス テ ィー ソで あ るユ ー レ シア ン (欧亜 混血 ) の数 は,1
9
世 紀 中 に漸 増 し て い っ た。Van derVeur の推 計 に 6)植民地 に滞在する期間は,個 々のオランダ人に よ って長短まちまちであ ったことはいうまで も ない。その指標 となるものではもちろんないが, 17世紀以降の植民地総督の在任期間をみると, それが意外に短期間であることに注 目しうる。 1610年か ら1948年までの339年間に,イギ リス統 治時代を含めて延べ71人の総督が就任 している が,もっとも長期の場合で26年,10年以上に及ぶ のはわずか5人の総督にす ぎない。平均 して3 - 4年の任期であ り, これに伴 う人事異動を勘 案す ると,本国と植民地 との問の人の移動はか な り頻繁であ った と考え られる。なお,総督名の 一覧については,DeGraaf[1949:484]を参照。東南 ア ジア研 究 22巻1号 よれ ば
[
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95
5:2
6]
, ジ ャワ 在 住 のユ ー レシア ンは1
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5
年 当時 で1,
75
0
人,1
85
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年 当時 で1
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0
00
人,1
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0
年 当時 で44,
00
0
人,1
90
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年 当時 で95,
0
00
人 で あ り,1
9
30
年 当 時 には24
0,
0
00
人 に達 して いた とい う。 半 ば オ ラ ンダ人 ,半 ば原 住 民 とい う彼 らの存在 が, オ ラ ンダ人 や ジ ャワ人 貴族 と と もに,1
9
世紀 後 半 以 降 の 「メス テ ィー ソ」 的文化 状況 をつ くり出 して いた ことはい うまで もな い。 そ の うち,音楽 と絵 画 につ いて以 下 にみ て み よ う。1.
ク ロ ンチ ョン音楽Kor
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は,現 在 の イ ン ドネ シアで広 く愛 好 されて い る ク ロ ンチ ョン音楽 が ,上 に 述 べ た よ うな 「メス テ ィー ソ」 的状 況 の表現 と して1
9
世紀 後 半 か らジ ャワ一 円 に広 ま った こと, そ の担 い手 の中核 が ユ ー レシア ンの グ ル ープ そ の もので あ った こ と を 述 べ て い る[
Ko
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97
8]
。7) それ に よれ ば, も とも とポル トガル音楽 に メス テ ィー コ(
me
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, ポル トガル , イ ン ドネ シア, 中国人 の混血) お よび マル デ ィケ ル (キ リス ト教 に改宗 した ア フ リカ人 , イ ン ド人 な い しマ レ-人 の奴 隷) の旋 律 が加 わ っ て , そ の基 調 音 を形 成 し た こ の ク ロ ンチ ョ ンは,16
61
年 以来 , ポル トガル人 の 子 孫 にTugu
地 域 (バ クヴ ィア北 東12km)
が与 え られて ,彼 らの居住 区 と定 め られ た こ とによ り, この地 域 で ひ き語 り, うた い伝 え られて きた [Z'bz'd.:1
0
7-
1
2
3]
。
1
9
世紀 に入 る とTugu
地 域 と周辺 の外界 と の接触 が次 第 に緊 密化 し, マ レーの四行 詩 や オ ラ ンダ語 の歌 詞 が この旋 律 によ って うた わ 7)この 論稿 の タイ トルに注 目されたい。Ko
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の述べる通 り,クロンチ ョンは 「正統の 民族 音楽」(典型としてのガメラン)でないがゆ えに,研究の対象として 「不当」におとしめら れてきたという事情が 「クロンチ ョンを擁護 し て」 というタイ トルに明示されている。 れ るよ うにな り, ク ロ ンチ ョンは ポル トガル 人 の文 化伝 統 のわ くを越 えて ,他 の社会 に浸 透 す るよ うにな った[
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同時 に,歌 詞 と旋 律 の双 方 に お い て , ノスタル ジ ックな情 感 を誘 う基 調 が 定 着 して い った lz'bz'd.:1
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。合 わせ て また,
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年代 にTugu
か らわず か2km
の海岸 にタ ンジュ ンプ リオ ク港 が完成 した こ とによ り, ク ロ ンチ ョンの 旋 律 は航路 に沿 って ジ ャワ北岸 の港 町 , こと に, 中 ジ ャワの スマ ラ ンと東 ジ ャワの ス ラバ ヤ に広 ま って い った。 ク ロ ンチ ョンは, オ ラ ンダ語 とマ レー語 で うた わ れ,時 には, オ ラ ンダ語 とマ レー語 の歌 詞 が交互 に現 れ る歌 も うたわ れた が , この旋 律 を も っ とも好 ん だ の は,ユ ー レシア ンで あ り,彼 らはそれ を彼 ら自 身 の音楽 で あ る と感 じて いた とい う [2'bz'd.:1
30
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ク ロ ンチ ョンが さ らに ジ ャワ全 土 に広 が る 契 機 とな った の は,1
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年 にス ラバ ヤ在 住 の ユ ー レシア ンで あ ったAugus
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が ,Ko
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とい う劇 団 を結成 した こ とで あ った。Mahi
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は, サ ンデ ィワ ラ (イ ン ドネ シアの劇 )とフ ラ ンス の喜劇 を融合 し, ア ラブ, トル コ, ベル シア起 源 の 「エ キゾ チ ック」 な舞台 装 置,衣 裳 , テ ーマを合体 させ た演劇 様 式 をつ くり出 し,題材 も西 欧 の妖 精 物語(
「白雪姫」 や 「眠 り姫」
)
, シェー クス ピアの悲劇 , 中国 の物語 , ジ ャワの物語 な ど を と り入 れた。 これ は,多人 種 か らな る観 衆 を ひ きつ け るた め の工 夫 で あ った。用 い られ た言 語 はマ レー語 の俗 語 で あ り, それ に しば しばオ ラ ンダ語 が混入 した。 この よ うな 「国 籍 不 明」 の極 彩 色 の舞台 上 で ,舞 台 の情 感 を 昂 めた り場 面 の展 開 を促 した りす るた め に用 い られ た のが , ほか な らぬ ク ロ ンチ ョンの旋 律 で あ り, ギ タ ー,ヴ ァイオ リン,フル ー ト, 打 楽 器 , ピア ノな どを伴 奏 に ク ロ ンチ ョンの 歌 が流 され た [ibz'd.:1
31
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。
この劇 団 は ジ ャワ各 地 , こ とに沿岸 の諸 都L屋 :カル テ ィ二 の心 象風 Efll・
市 を興 行 して歩 き大 きな人気 を博 した が , こ の過 程 で漬 し物 と音 楽 (ク ロ ンチ ョン)は
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世 紀 の末 まで に は ジ ャワの各 地 に浸透 した。Kome
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は この よ うに して ク ロ ン チ ョンを広 め た だ けで な く, そ の形 ,す な わ ち 「メ ラ ンコ リックで ノス タル ジ ック」 な形 を 決 め る こ とにな った。 これ が契 機 とな って ク ロ ンチ ョンの旋 律 が採 譜 され集 成 され て , そ の楽譜 が 出版 され るにま で至 った [Z'bz'd.:1
32
]。8) 以 上 にみ られ る通 り,今 日, イ ン ドネ シア の代 表 的 な民 族 音楽 とみ な され て い る ク ロ ン チ ョンは,多 様 な オ リジナル を もつ 舞 台 様 式 と と もに一 般 化 した ので あ り, そ の流布 の過 程 で担 い手 とな った の は, ほか な らぬ ユ ー レ シア ンの社 会 集 団 で あ った。 そ の旋 律 が ,諺 に もど こに も帰 属 しな い こ とによ って , ク ロ ンチ ョンは異 な る文 化 集 団 の問 に広 ま った と いえ よ う。 この無 所 属性 と, それ に もかか わ らず そ の旋 律 が ノス タ ル ジアや メ ラ ン コ リー を か きた て た こ とは,1
9
世 紀 ジ ャワの新 た な 文 化 状 況 , アモ ル フで 「メス テ ィーーソ」 的 な 文 化 状 況 をみ ご とに示 して い る。 そ こで は, ク ロ ンチ ョ ンの旋 律 によ って , お の おの の人 間 が , た とえ うた か た にせ よ, いず こにか存 在 す るや す らぎの地 - の 「あ こが れ」 を か き た て る, とい う心 象 風 景 が成 立 して いた , と いえ よ う。事 実 , ク ロ ンチ ョンは 「古 きよ き 時代 」 を 回想 す るよす が と して ,今 日な お演 奏 され て い るの で あ る。9) 一 方 , この よ うな心 象 が絵 画 それ 自身 の モ 8)その後,1925年にジャワで ラジオ放送が開始さ れて以来,クロンチ ョンの旋律はなお一層各地 に浸透 してゆき,ジャワ音楽の旋律 とも混 じり 合 ってい った。さらに, 日本軍政か ら独立戦争 の過程で,クロンチ ョンは民族主義を鼓舞する ものとしてさかんにうたわれるようにな った。 9)今 日,クロンチ ョンの旋律がもっともしば しば 流されているのは,オランダや日本にある 「イ ンドネシア ・レス トラン」である。 チ ー フ と して定 着 した もの こそ ,次 に述 べ る 「美 しき東 イ ン ド」 の風 景 画 に はか な らな か った 。 2. 絵 画- 「美 しき東 イ ン ド」 わ れ わ れ が あ まね く耳 にす る ク ロ ンチ ョン 音 楽 と同 じ く,今 日な おわ れ わ れ が た とえ ば バ ン ドゥ ンの画廊 で 目に した り竹 ひ ご細 工 や バ テ ィ ックの壁 飾 りにあ まね くみ られ るモ チ ー フ- 火 山 ,水 田,水 牛 ,柵 子 の樹 ,海 辺 な ど- は, いつ どの よ うに して ジ ャ ワで成 立 した ので あ ろ うか 。 そ れ をCl
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の要約 に した が って以 下 に略述 して み る。す で に述 べ た通 り,そ れ は,1
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世 紀 の後 半 か ら, ジ ャワで ク ロ ンチ ョンと い う新 しい旋 律 が共 有 され て ゆ く状況 とほぼ 軌 を一 に して生 じて きた文化 的 現 象で あ り, そ の現 象 は これ と同一 の文化 的状 況 に根 ざ し て いた。 周 知 の通 り1
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世紀 の後半 か ら,と くに,ス エ ズ運 河 の航 行 が可 能 にな った1
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年代 か ら, 家族 連 れ で植 民 地 に生 活 す るオ ラ ンダ人 の数 は顕 著 に増 加 して い った。彼 らの 中 には画 家 を は じめ とす る芸 術 家 も含 まれ て お り, ジ ャ ワで 西 欧式 の教 育 が ジ ャワ人 に も開放 され る よ うにな る と,新 しい絵 画 の手 法 を学 ぶ ジ ャ ワ人 も現 れ て きた。 ジ ャワ人 の最 初 の洋 画 家 と して 名高 い の は,
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で あ った が, 彼 は2
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年 に及 ぶ 滞 欧 生 活 と 宮 廷 付 画 家 とい う経 歴 と名声 に もか か わ らず , 植 民 地 社会 で は孤 立 した存 在 で あ って後 継 者 を育 て る こ と もな か った[
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]。1。) そ の後 , オ ラ ンダ人 の風 景画 家- 彼 らは 植 民 地 で 「美 しき東 イ ン ド」 の絵 を さかん に 描 いた- を 師 と し, しか もそれ を凌 駕 す る よ うな画 家 が ジ ャ ワに現 れ始 めた。 そ の唱 矢 10)なお,S
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の生年を1814 年ではな く,1807年 ごろとしている。東 南 ア ジア研 究 22巻1号 はA.SurioSubroto(1878-1941)で あ った。 彼 はオ ラ ンダ で近代 絵 画 の勉 強 を した が,帰 国後 はバ ン ドゥ ンに居 を定 め多 くの職業 画 家 が彼 の下 か ら育 って い った。 そ の多 くは風 景 画 家 で あ り, そ の 中で は MasPringadie(C. 1875∼C.1936)や SurioSubroto の子供 で あ る BasukiAbdullah が有 名で あ る。 また , W akidi も同様 の風 景画 家 と して成 功 し,西 スマ トラの ブ キ ィテ ィ ンギの風 景 を題材 に し て多 くの作 品 を遺 した [Holt 1967:193]。 19世紀 末 以 降20世 紀 にか けて , オ ラ ンダ人 とイ ン ドネ シア人 とを問 わず に さかん に描 か れ た, こ れ ら の 風 景 画 の 色 調 は 「golden brown と黄色 を基 調 と し, 18.-19世 紀 の印 象 派以前 の影 響 が濃厚 で あ る。 こ う した色調 によ って カ ンバ ス は甘 美 さ (mellowness) に み た され
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て いた。 「美 しき東 イ ン ド」 の絵 画 と呼称 され た こ れ らの風 景画 の多 くは, オ ラ ンダ人 によ って 購 入 され た。 「彼 らに とって これ らの絵 は, たん に壁 を飾 りた て る とい う以 上 の意 味 を も って いた。 光 と緑 と水 におおわ れ た大 地 , そ び えたつ 山鼻 , き らめ く水 田,天 期 け るよ う な種子樹 ,花 に飾 られ た木 々, それ らは,彼 らの ノス タル ジア,彼 らの もので あ って な お かつ彼 らの もの にあ らざ る土地 - a landwhichwastheirsandyetnottheirs
-の ノスタル ジアを か きたて る も-ので あ った。 彼 らは, いず れ は,彼 らの故地 で あ る, あ の 北 の平 坦 な土地 の国- と戻 って ゆ くことにな るので あ る」[Z'bz-d.:195]. この よ うな風 景画 の受入 れ方 は,こ こで 明示 され て い るよ うに, 「ミモザ とブ ーゲ ンビ リア」 に囲 まれた植民 地 空間 を包 む ノスタル ジア とメ ラ ンコ リー の 表現 媒体 と して で あ り, この空 間 が 「静誼 」 で あれ ばあ るほどに ノスタル ジア もまた いや ます とい う関係 が , そ こには認 め られ るので あ る。 この 「美 しき東 イ ン ド」 の絵 画 を批判 して 新 しい リア リズ ムの画 風 を確 立 した タマ ン ・ シス ワ出身 の Sudjojono (1913-) は, この 風 景画 の典 型 的 な画 題 と して, 田 お こ し,水 午 ,水 田,郁 子樹 ,青 くか がや く山,風 にな び く赤 い シ ョール ,傘 ,わ らぶ き小屋 ,青 い 上着 な ど,美 化 され た 「田園風 景」 を あ げ, そ の モ チ ー フが
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「美 し く, ロマ ンチ ックで, 静 寂 と平和 と歓 喜 にみ ちたパ ラダ イス」 の表 現 で あ るこ とを指摘 して い る[
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。 これ はす べ て 「外 国人 と旅 行者 の もので あ って , わ れわ れ の もので はな い」l
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とい う自 己認 識 が,Sudjojono らに始 ま る リア リズ ム 絵 画 の基 点 にあ った こ とはい う ま で も な い が , それ は,1930年 代 以 降 に現 れ る潮 流 で あ り,19世紀 末 か ら今 世 紀 にか けて の絵 画 は, この 「美 しき東 イ ン ド」 のモ チ ー フにみ た さ れ て いた ので あ る。 これ らの絵 画 は,先 の ク ロ ンチ ョン音楽 の 場 合 と同 じ く,19世紀 後半 以 降 の ジ ャワの新 しい精神 風 土 を示 す もの と して生 み 出 され共 有 され て い った ので あ る。 現 実 の風 景 の断片 が切 りと られ,美 しい形 と色 調 によ って再構 成 され ,額縁 の中 に収 め られ て , オ ラ ンダ人 とユ ー レシア ン とジ ャワ人 プ リヤ イ層 とを 問 わ ず 「ミモザ とブーゲ ンビ リア」
に囲 まれ た 邸 の応 接室 を飾 る とい う文 化 的雰 囲気 が , そ こには生 まれて いた ので あ り, 「美 しき 東 イ ン ド」 - の ノス タル ジアはそ の雰 囲気 の核心 を構 成 して いた ので あ る。11) ⅠⅠⅠ カ ルテ イ二の風景描 写 カル テ ィニ に と って オ ラ ンダ語 で手 紙 を綴 りオ ラ ンダ人 と交信 す る こ とは, 「自 己発 見 の旅 路」[Smail 1971:281]に出 る こ とで あ ll)このような風景画が,今 日なお,かつて植民地 に滞在 したことのあるオランダ人やその家族の 家の客間に飾 られたり,プ リヤイの応接室に飾 られているのを, しば しば目にする。上屋 :カル テ ィ二 の 心 象 嵐 賢 り, 自身 の 閉 塞 状 況 が オ ラ ンダ 語 に よ って そ の天 蓋 を 開 か れ て ゆ く過 程 につ い て は ,つ と に知 られ て い る通 りで あ る。 彼 女 に と って 「新 しい
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"InOdern''12)世 界 とは , オ ラ ンダ 語 と い う言 語 空 間 が つ くり出 して い る世 界 に は か な らな か った。13) カ ル テ ィ二 は , オ ラ ン ダ 語 に よ って , 時 代 と社 会 を 対 象 化 し, 「闇 か ら光 - 」 の道 を 自 ら切 り開 い た の で あ る。 と こ ろで ,今 日遺 され 刊 行 され て い る彼 女 の 「書 簡 集 」 の 中 で , 本 稿 で い ま ま で に述 べ た こ とが ら との 関連 で と りわ け 興 味 深 い の は , 彼 女 が書 き記 した 自然 描 写 で あ る。 この 自然 描 写 が,実 はⅠⅠで 述 べ た 文 化 的 状 況 を 言 語 表 現 の う ち に定 置 す る こ とに は か な らな か った こ とを以 下 に述 べ て み よ う。 1. 「書 簡 集 」 の 挿 し絵 - 「美 しき東 イ ン ド」
カ ル テ ィこ の 「書 簡 集 」 に は , オ ラ ンダ 語 版 , イ ン ドネ シア訳 版 , 邦 訳 版 を 問 わ ず に , い く葉 か の挿 し絵 が収 め られ て い る。 12)彼女の死後7年後に J.H.Abenda.nonによ っ て編纂上梓された Door D uz'∫term'.rTotLz'cht の冒頭に収め られた手紙 (1899年5月25日付) が 「わた しは "modern meisje" と知 り合 いに なることをとて も待 ち望んで きま した……」 と い う文章で始ま ることは, この点で きわめて興 味深い。牛江清名は この"modernmeisje''の訳 語に 「新 しい時代の乙女」を充てているが [牛 江 1940:15],modern とはま さに 「新 しい」
ことの総称であ り,19世紀 と20世紀 をわける最 人の標識であ ったか らである。 13)カルテ ィ二は,12歳か ら16歳までの4年間 (す なわ ち1891年か ら95年まで),当時の ジャワ貴族 の慣 習に したが ってその邸宅か ら出ることを許 されなか った。後年 (1899年) この閉居の時代 を回想 して彼女 は, 「この四方を壁で囲まれた 牢獄」の中にあ って,オ ランダ語の本を読みオ ランダ人 と文通をす ることだけが唯一の光明で あ った こと,それが 自分のすべてであ った こと を述べている [Abendanon 1911:4]。 このよ うな孤独の状況におかれていたか らこそ,オ ラ ンダ語の世界 は彼女を 「新 しい世界」- と導 い てい ったのである。 オ ラ ンダ 語 版 は , 現 在 ま で に5版 を 重 ね て い るが,1911年 の初 版 以 来 この 挿 し絵 は不 変 で あ る。14'全 部 で6葉 あ る ペ ン画 と考 え られ る これ らの 挿 し絵 は , い ず れ も ジ ャ ワの 田 閑 風 景 を示 して い る。 これ らは , そ の構 図 に 多 少 の違 い が あ る もの の ,前 景 に描 か れ た 農 家 , 街 道 ,水 田 ,価 ,火 炎 樹 , 後 景 に広 が る榔 千 林 や 竹 林 , 山 と空 と雲 な ど の共 通 の モ チ ー フ か らな る。 ま た , そ れ ぞ れ に, 挿 し絵 の モ デ ル とな った 場 所 が記 入 さ れ て い るが , そ れ ら は順 番 に , (1)プ リア ンガ ンの 農 村 風 景 , (2) Depok (ジ ャ カル ター ボ ゴ ー ル 間 ), (3)Cili -wong川
(Depok付 近 を 流 れ る川
), (4)Pacet (プ ンチ ャ ック峠 か らバ ン ドゥ ン- 向 か う街 道 筋 の村 ), (5)Depokとボ ゴ ー ル 間 の街 道 , (6)ボ ゴ ール付 近 の農 村 (Cikeum eLlh村 )風 景 で あ る。15) そ れ に もか か わ らず , これ らは い ず れ も植 民 地 に遍 在 す る 「平 和 な 田 園 風 景」
を 現 して い る。 次 に , イ ン ドネ シア語 訳 は,1938年 の初 版 以 来 第 9版 ま で 版 を 重 ね て い るが , お の お の の 版 に は オ ラ ンダ語 版 の もの とは別 の挿 し絵 が 5葉 収 め られ て い る。16) いず れ も風 景 画 で 14)筆者の手許にあ るのは,1923年の第4版 と1976 年の第5版であ る。両版 とも同 じ体裁であ るこ とか ら, この体裁は初版以来一貫 していると想 定 しうる。なお,本稿での引用 ページは1976年 版 に したが う。 15)それぞれ, 1ページ,26ページ,96ページ,169 ページ,316ページ,373ページに挿入 されてい る。なお, これ らは本稿の巻末に掲 げた。 16)これ らは,1938年,39年,51年,62年,63年, 68年,72年,78年,79年 と版を重ねているが, 訳者 は Armijn Paneである。なお,イ ンドネ シア語訳 と して は,これ以外に,1922年にカルテ ィエの兄弟が訳 しているが[Pane 1963:5],す でに絶版である。また,A.Pane訳 とは別 に, 1979年に Sulastin Sutrisno の翻訳版が現れ 1981年 には再版 された。この訳 は,A.Pane訳が 原著 (Abendanon版)の抄訳 ・意訳であるのに 対 して,その完訳を 旨と した ものである。その ため,A.Pane訳に比 して全体のページ数 も2 倍近 くにな っている。ただ し,このS.Sutrisno 版 は表題がたん に 『カルティエの書簡集』にあ らため られているほか,挿 し絵 も挿入 されてい ない。東 南 ア ジ ア研 究 22巻1埠 あ り,嵐 の吹 き荒 れ る林 の光 景 か ら始 ま って , 海 辺 の 日にか が や く郁 子 樹 ま で が ペ ン画 で描 か れ て い る。 そ れ ぞ れ の絵 に は短 い詩 句 が付 され て , 「闇 か ら光 - 」 至 るカル テ ィ二 の歩 み を暗 示 して い る。 邦 訳 版 は1940年 に牛 江 清 名 訳 で 出版 され た が , これ は,Armi jn Pane訳 の初 版 に よ って い る。17) 牛 江 は, そ の 中 で , そ れ ぞ れ の詩 句 に訳 をつ け て お り,直 訳 で は な いが,そ れ らの 挿 し絵 の もつ 雰 囲気 を み ご とに伝 え て い る。 邦 訳 で は 5葉 の挿 し絵 に よ って 「書 簡 集 」 が 章 別 編 成 を と る体 裁 とな って い るが , そ れ ぞ れ の 冒頭 に お か れ た 「訳 詩 」 は次 の通 りで あ る。18) いらら (1)「や るか た な き 焦 燥 荒 波 にた ゆ た ふ が ご と こ こ ろな き嵐 更 に 吹 き ま き り て」 (2)「疾 風 お さま れ ど よ ろず 吹 き荒 ぶ りた る中 散 りみ だ れ た る もつ れ葉 し じま に 吹 きの こ りて あ り」 (3)「嵐 な ぎぬ に はや か に 陽 の か が や け ば わ が胸 の 中 き ち多 く明 る き」 (4)「美 しき夕 映=え の して そ よ風 はす ゞよ か 過 ぎ し日の思 い の うち に 溶 け入 るが ご と」 (5)「あ だ し雲 あ とか た もな く晴 れ 光 ふ る朝 い ま ぞ 明 け そ む」 オ ラ ンダ語 版 に お い て もイ ン ドネ シア語 版 17)牛江訳 とは別に,加藤朝鳥がすでに1922年当時 にカルティ二の手紙の断片を英訳に基づいて紹 介 してお り,また,彼 自身カルテ ィニゆか りの 地を訪れ,彼女の生母 と妹(ルク ミニ)に面会 し ている。その状況は 『爪瞳 日報』の創刊号に紹 介 され,のちに 『爪畦の旅』に収め られた [加 藤 1942:114-151]。 これが,わが国でカルテ ィエがは じめて紹介 された例であろう。なお, この点 については中村孝志教授の示唆による。 18)それぞれの引用ページは,服 に,13ページ,67 ページ, 157ページ, 226ページ, 265ページ。 なお,牛江訳は牛江清名先生のど厚意で閲読の 機会を得た。記 して謝意を表す る次第である。 に お いて も, これ らの挿 し絵 な い し詩 句 が , 出版 に 当 た って つ け加 え られ た もの で あ る こ とは い うま で もな い。 そ れ に もか か わ らず , そ れ らに よ って , この 「書 簡 集 」 の もつ 雰 囲 気 は , み ご とに伝 え られ て い るの で あ る。 そ れ は ,先 に述 べ た 「美 しき東 イ ン ド」 そ の も の で あ る挿 し絵 で あ り, オ ラ ンダ語 版 は そ の 挿 し絵 の う ち に カル テ ィエ の メ ラ ン コ リー と ノ ス タ ル ジ アを現 し, イ ン ドネ シア語 版 もま た , 「闇 か ら光 - 」 とい うモ チ ー フを挿 し絵 を通 して伝 え て い る に もか か わ らず , そ の挿 し絵 自身 は典 型 的 な 「美 しき東 イ ン ド」 の世 界 を伝 え て い るか らで あ る。
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カル テ ィエ の風 景 - 「小 さ な ス - - フ ェ- ンゲ ン」 カル テ ィこ の 「書 簡 集 」 に は , ジ ャワの 自 然 を綴 った 文 面 が い くつ か含 ま れ て い る。 以 下 にま ず , そ の文 例 を み て み よ う。 まず1901年 の1月 に記 され た2通 の書 簡 に お いて ,海 辺 と郁 子 樹 とが次 の よ うに描 か れ る。19) 「夕 方 わ た く Lは ホ ンフ レー プ夫 人 と ご一 緒 に海 辺 にま い りま した 。 わ た しは水 浴 び を しま した 。 海 は青 く澄 ん で- 様 な色 を 湛 え て い ま した 。 わ た しは そ ば の珊 瑚 礁 に腰 を下 ろ し,水 の 中 に足 を 浸 し, そ して は る か視 界 の尽 き るま で眺 め わ た しま した。 ま あ ,何 て この大 地 はす ぼ ら し く美 しいん で し ょ う。 歓 喜 と感 謝 の念 と平 和 とが心 に し み わ た ります 。 母 な る 自然 (M oeder Na-tuur)は,わ た しど もが慰 め を求 め れ ば,そ 19)1901年 1月21日付,アベ ンダノ ン夫人宛。以下 の翻訳はいずれ もオランダ語版 に基づ くが,過 宜,牛江訳,A.Pane訳,S.Sutrisno訳を 参照 した。引用ページはそれぞれ以下の通 りで ある。Abendanon [1911:93],牛江 [1940:851, A.Pane【1963:93],S.Sutrisno [1979:90]。 なお,文 中のホ ンフレープ夫人 とは,当時のジ ェパ ラ州副理事官の夫人をさす。土屋 :カル テ ィこ の心 象風 展 れ に と り合 わず に行 き過 ぎて しま うこ とは 決 して あ りませ ん
」
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日後 には, こ う記 され る。20) 「思 い にふ け って はわた しは外 を眺 めや り, 青 空 をみつ めます 。 ま るで そ こに,わた し の魂 の 中 に吹 きつ の って い る疑 問 に対 す る 答 えを期 待す るか の よ うに。 思 わず知 らず わ た しの 目は,大 空 を流 れて ゆ く雲 の群 れ を追 って います。雲 は,種子 の葉 をふ るわ せ た の ちに流 れ去 って ゆ きます。 ふ と,わ た しの 目は黄 金色 の 日の光 に映 え て き らめ きふ るえて い る小 さな葉 にひ きつ け られま す‥‥‥」 上 に述 べ た海 は,彼女 の居所近 くにあ る風 光 明娼 な海岸 で,
「ク レイ ン・スへ 一一フ ェ‥ ン ゲ ン (小 スへ - フ ェニ ンゲ ン)」 とい う名で 呼 ばれて いた (カル テ ィニ 自身 が そ う名づ け た ので あ る ともい う) 海辺 で あ った。21 'ス フ ェこ ンゲ ンとは, い うまで もな く,'ス 'ス -グ市郊 外 の 白砂 の海岸 で , オ ラ ンダ の有 名な 観 光地 で あ る。 カル テ イニ は ジェパ ラ の 海 を , 「ノJ、」 を付 して この北 海沿岸 の風景 と重 ね合 わせ て いた ので あ る。 「小 ス- - フ ェニ ンゲ ン」
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日付 の手紙 の中 に次 の よ うにみ えて い る。22) これ も 「母 な る自然」- の讃 歌 で あ る。 「..‥‥わ た しど もが鳥 の歌 声 とい う美 しい 交 響 曲を耳 に して ,われ を忘 れ る時 に,神 20)1901年 1月31日付,ア ベ ンダ ノ ン夫 人 宛【Abendanon 1911:101;牛江 1940:88-89; Pane 1963: 95-96;Sutrisno 1979: 92]。 21)この海辺は, 「ジェパ ラの町か ら約五キロ,渇 岸に出た所で,入江になっている。水は穏やか に澄み,砂は白く平 らで,泳 ぐには実に素晴ら しい所だった。ず っと昔は ``バ ンデ ンガ ン"と 言 っていたのに,カルティニがオランダ風の名 前を付け,今はまた元 の名前 "バ ンデ ンガン" に戻 っている」[スロ ト,舟知・松田(:釈) 1982: 361。
22)アントン教授および夫人宛 【Abendanon 1911: 113;牛江 1940:96;Pane1963:1()0;Sutrisno 1979:103]。 がわた しど もを聾 には生 んで くだ き らな か った こ とに感 謝 します 。 ク レイ ン ・ス -フ ェニ ンゲ ンにあ って,すべ て が静譜 で平 和 で詩 的 で あ り, また太 陽が この上 な く美 しく沈 ん で ゆ く, そ の夢 の よ うな海辺 を 目 の前 にす る時 ,わ た しど もに よ くみえ る眼 が授 け られて い る ことに対 す る感 謝 の念 は いや ま き るのです 。 そ して また,み わたす 限 り,天 にまで至 るさざなみ に不 思議 なか がや き と色紋 とが広 が るのを 目に して ,森 羅 万象 (hetAl)を形づ くりこれを統 べ て い る不可視 の偉 大 な精神 (Onzienlijk Gr O-oten Geest)- の感 謝 の念 が,わ きお こる のです‥‥‥」 上 の文例 で示 され て い るの は,彼 女 が現 に 目に して い る ジ ャワ海 の夕景色 が,実 は彼女 の心 象 の うちに遍在 す る風景 と重 ね合 わ され て い る とい う ことで あ る。 した が って, この 文章 の主語 は 「わた し」"ik''で はな く 「わた しど も」"wij"で あ り
,
「わた しど も」 を して この美 しい 自然 を享 受 せ し め て い る の は, 「不 可視 の偉 大 な精神 」 で あ る。 こう して , 現 実 の風 景 が遍在 す る普遍 的 な風景 と結 びつ け られ る。彼女 に とって ,現 実 の スへ - フェ - ンゲ ンの風 景 は遠 くは るか にあ こがれ るパ ラダ イス (換言 す れ ば, オ ラ ンダ語 とい う言 語 空 間 の中心 にあ るパ ラダ イス) と して想 像 されて い るので あ るが ,その スへ - フ ェニ ン ゲ ンも, 「森 羅 万 象」 の創造 主 に して主 宰者 で あ る 「不可 視 の精神 」 を経 由す る こ とによ って ,眼前 の ジ ェパ ラの海岸 の風 景 の うちに 遍在 す る こ とにな る。 この 「不可 視 の精神 」 は, イス ラムの ア ッ ラーで もな けれ ばキ リス ト教 の神 で もな く, それ らを結 びつ け,それ らの基底 に存在 して い る普 遍 的 な 「神 性 」 で あ ろ う。 この「神 性」 は,神 智 学 ``Theosophy''にお け る 「神 性」 とほ とん ど同義 の もの と して考 え るこ とがで きそ うで あ る。東 南 ア ジア研 究 22巻1号 この よ うに して定 置 され て ゆ く風 景 は,先 に述 べ た ク ロ ンチ ョンの旋 律 の心 象 と重 ね う るだ けで な く, 「美 しき東 イ ン ド」 の絵 画 を 文 章 化 した もの と して了 解 しうるので あ る。 カル テ ィニ に お け る この よ うな心 象 は, 同 じ 年 の
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月 に記 され た書 簡 の うち に, あます と ころな く示 され て い る。 や や 長 い 引用 で あ る が次 を み られ た い。 これ は1
年 前 に は じめ て アベ ンダ ノ ン夫 妻 に会 った時 の こ とを思 い 出 して記 した もので あ り, カル テ ィニ 自 ら 「-少 女 の数 時 間 の生 活 。年 老 いた「-少 女 の セ ンチ メ ンタ ル な思 い 出 の記 」 とい う題 を付 して い る。23) 「わ た しの 目に再 び み え て くるの は, 自巌 の月 光 に幻 想 的 にか が や いて い る,た とえ よ う もな く美 しいあ の海辺 で す 。 月 光 は , た えず ゆ れ動 く海 面 に 目の及 ぶ 限 り,無 限 の反 射 光 を投 げか けて お ります 。 それ は, 金 と銀 の尽 き る こ とな い き らめ きで あ りま す 。 また , わ た しの耳 に再 び聞 こえ て くるの は,種 子 の葉 のふ るえつ ぶ や く音 です 。 そ れ は,巌 で で きた大 きな羽 根 の よ うに,夕 暮 れ の そ よ風 にゆ れ動 きます 。 わ た しど も の頬 を な で ,耳 に さ さや くよ うに して , そ よ風 は吹 き過 ぎて ゆ きます 。 そ の葉 音 のつ ぶ や きが , き らめ く純 白の 浜 辺 に戯 れ るよ うに砕 けて は散 って ゆ く, あ の光 りか が や くや わ らか な波 の群 れ と, 美 し く一 つ に融 け合 って ゆ きま した。 そ れ は夢 (Datwaseendroom),幸 せ な 夢 で した。 そ して , わ た しど もは,銀 の月 光 が き らめ き,水 面 に金 と鋭 とが流 れ ,星 星 が青 い空 にや さ し くか が や き,種 子 の葉 の そ よ ぎが銀 色 の光 を投 げか け, そ よ風 が 吹 き,汀 で波 がや わ らか に砕 けて い る とい 23)1901年 8月 8- 9日付,アベ ンダノ ン夫 人 宛 [Abendanon 1911:118;牛江 1940:100-101; Pane1963:104-105;Sutrisno 1979:1091
。
う, この月 光 に照 ら し出 され た海辺 の幻 想 的 な世 界 に囲続 され て座 って お りま した 。 わ た しど もは, は じめ て手 に した高 価 な宝石 (eennieuw gevondenkostelijkenschat)
と と もにあ って ,静 か な 享 楽 と つ の りゆ く歓 喜 の心 で ,心 地 よ い旋 律 に耳 を傾 けて 座 って い ま した。 そ の旋 律 は, は るか に遠 い国 々の お とぎ話 (betsprookjesmooivan vreemdelandenvtr),わ た しど もの眼前 に 広 が る海 ,金 と巌 が果 て る こ とな くき らめ いて い る そ の 海 の 彼 方 の 国 々 の お と ぎ 話 , 海 自身 の神 の よ う な 祖 国 (goddelijk Vaderland)の お とぎ話 を 語 って お りま し た
……」
カル テ ィエ の この よ うな心 象 風 景 は,彼 女 自身 が付 した表 題 の通 り,少 女 の 「セ ンチ メ ンタ リズ ム」 にみ ち, そ れ は 「決 ま り文 句 」 の羅 列 と して示 され て い る。そ れ だ か らこそ, この よ うな 「決 ま り文 句」
の羅 列 に よ って現 実 の (アベ ンダ ノ ン夫 妻 と と もにみ た)海 辺 の 風 景 が 「夢 」 の よ うな風 景- 上 に引用 した 文 章 の キー ・ワー ドは droom (夢 ) とfant a-stische(夢 の よ うな) で あ る- と して 定 置 され る こ とに おいて , カル テ ィこ の 「書 簡 集 」 が湛 え て い る雰 囲気 , そ の心 象 は, そ こ に挿 し込 ま れ た風 景 画 の挿 し絵 と無 類 の調 和 を みせ て くるので あ る。 くり返 して述 べ れ ば,彼 女 の描 く空 や雲 や 月 や 海 や梯 子 の樹 は, ク ロ ンチ ョンの旋 律 や 「美 しき東 イ ン ド」 の絵 と同様 に, ノス タル ジア とメ ラ ンコ リー にみ た され , そ の こ とに よ って ,現 実 の個 々の具 象 を離 れ た遍 在 す る 風 景 と して ,提 示 され て い るので あ る。 そ れ は,先 に述 べ た オ ラ ンダ語 版 の6葉 の挿 し絵 の一葉 一 葉 が ,現 実 に は デ ポ ック村 の朝 やパ テ ェ ッ ト村 の夕 べ や ボ ゴ ール街 道 の昼 下 が り を描 きな が ら,挿 し絵 そ の もの と して は, そ の よ うな地 域 的限定 性 がす べ て 捨 象 さ れ て 「美 しき東 イ ン ド」 の絵 と して示 され る といf二昼 :カ ル テ ィこ の 心 象 風 景 う状 況 に, ぴ った り と重 な り合 う こ とが らで あ った , とい って よ い。 この限 りにお いて , カル テ ィエ が描 く風 景 は,植 民 地 社 会 の ど こ に も帰 属 す る こ との な い, した が って , オ ラ ンダ人 もユ ー レシア ンも中国人 もカル テ ィエ 自身 も共 有 す る こ とので きる 「夢 の よ うな」 風 景
,
「遠 い海 の彼 方 」 や 「神 の よ うな祖 国」 につ な が る普 遍 的 な風 景 で あ った 。彼 女 自身 の表 現 を再 び用 いれ ば, そ れ は, うた か た の やす らぎを与 え る 「お とぎ話 」 で あ り, 「美 しき東 イ ン ド」 の絵 の よ うに誰 もが応 接 間 に 飾 る こ とが で き, ク ロ ンチ ョンの旋 律 の よ う に誰 もが 口ず さむ こ とので き る も の で あ っ た。 誰 もが , そ れ ぞ れ にそ の ノス タル ジ ック な 「夢 」 を結 ぶ こ とが で き るよ うな風 景 が , カル テ ィエ の描 き出す 風 景 で あ った。 カル テ ィエ の 「書 簡 集 」 を読 ん だ オ ラ ンダ 人 は ,彼女 の うち に倫 理 政策 の 申 し子 の姿 を み るの と同 じ程 度 に (香 , お そ ら くこそれ以 上 に),彼 女 の描 く心 象 に 「テ ンポ ・ドゥル」"tempo doeloe''の心 象 ,す な わ ち
,
「古 きよ き平 和 の時」 の心 象 を見 出 して いた はず で あ る。 事 実 , そ の時代 につ いて編 ん だ アルバ ム 集 で あ る 『テ ンポ ・ドゥル』 に は彼 女 の写 真 の飾 られ た ペ ー ジが見 出 され る。24) この こ と と軌 を一 にす るか の よ うに,少 女 時代 の カル テ イこ が描 いた絵 は,空 と林 を遠 景 に して大 輪 の はす の花 が咲 いて い る とい う構 図 の, ま こ とに平 和 で美 しい世 界 を現 して い る [ス ロ ト,舟 知 ・松 田 (釈)1
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・.370]o;'5' そ の情 24)カルテイニは,この写真集の中でただひとり「民 族英雄」で もあるという点で,まことに興味深 い [R Nijs 1973:112]。なお,この写真集は 永積昭教授のど厚意で閲読の機会を得た。記 し て謝意を表する次第である。 25)同書には合わせて,彼女の妹であるカルデ ィナ の鉛筆画 (3匹の子猫の絵)およびルク ミニの 木炭画 (海岸 と砂浜 と郁子林の絵)が紹介され ている [スロ ト,舟知 ・松 田 (釈) 1982:372, 373]。 それぞれに,
「テ ンポ ・ドゥル」の世界が 描かれていることはいうまで もない。カルティ この絵は本稿の巻末に掲げた。 畳 は 「テ ンポ ・ ドゥル」
の象 徴 に はか な らな いので あ る。 こ う して み る と, カル テ ィエ は 「は ざ ま」 の時代 の ジ ャワで生 まれつ つ あ った 「メス テ ィー ソ」的文 化状 況 の無 比 の表 現 者 で あ った, とい う こ とが で き る。 3. 風 景 の 「国籍 化 」 (帰 化) カル テ ィエ はなぜ 2で述 べ た よ うな風 景描 写 が可 能 で あ った のか。 彼 女 の天 賦 の才 や彼 女 の おか れて いた環 境 に加 え て , オ ラ ンダ語 の果 た した機 能 が い うま で もな く決定 的 に重 要 で あ る。 オ ラ ンダ語 は,一 方 で は オ ラ ンダ 語 で記 され た文 字 の世 界 をカ ル テ ィこ の前 に 示 す 窓 口の役 割 を果 た して いた 。事 実 ,彼 女 は,
『マ ックス ・- - フ ェ ラール』 を読 ん だ 最 初 の ジ ャワ人 の世 代 に属 して いた。26'ま た, 彼 女 は オ ラ ンダ語 の雑 誌 ,新 聞 に数 多 く目を 通 して いた。 同様 に して,オ ラ ンダ語 の小 説 , 中で も東 イ ン ドを舞 台 と した小 説 に も親 しん で いた。27) 先 の風 景描 写 の 「決 ま り文 句」, す な わ ち定 式 化 した表 現 を , これ らの小 説 か ら学 ん だ可 能 性 も十 分 に考 え られ る。28) この よ うに して , オ ラ ンダ語 は ジ ャワ北 岸 の小 さ な館 に閉 じ込 め られ て い た カル テ ィ二 に 「新 しい世 界 」 の存在 を示 す 唯一 の メデ ィアで あ り,彼女 とオ ラ ンダ人 の間 に交 わ され た数 々 の書 簡 にお いて は彼 女 は そ の世 界 の成 員 で あ る こ とを享 受 した ので あ る。29) 他 方 で オ ラ ンダ語 は, ジ ャワ語 の言 語 世 界 を対 象 化 す るた め の レ ンズ と して の役割 を果 た して いた。 彼女 は この レ ンズ を通 して ジ ャ 26)彼女が 『マ ックス ・--フェラール
』, こ と に その中にエ ピソー ドとしてはさまれているサイ ジャとアデ インダの悲恋物語[Multatuli1860: 202-222】に感動 したようすほ,1900年1月12日 付ゼ-- ンデ ラール宛の手紙に示 され て い る[Abendanon 1911:30;Sutrisno 1979:26J。 27)富永泰代氏の示唆による。
28)B.アンダーソン教授の示唆による。
東 南 ア ジ ア研 究 22巻 1号 ワの社会 を の ぞ き込 み , そ れ を オ ラ ンダ語 に よ って 表現 した 。 そ の書 簡 が お しな べ て長 文 で あ るの は, レ ンズの 向 こ うに次 々 と映 る新 しい世 界 を くり返 し言 葉 で定 着 させ よ う とす る努 力 の現 れ で あ り,そ れ は,表 現 が手 に余 る 場 合 の もどか しさ ・健 吉 を思 わせ る。30'彼 女 に と って は, オ ラ ンダ語 そ の もの が 「は じめ て手 に した高 価 な宝 石 」 で あ った ので あ る。 こ う して の ぞ き込 まれ た ジ ャワは,書 物 を 通 して知 るオ ラ ンダ が新 しい世 界 で あ った の と同様 に,彼 女 の 「外 」 に あ る新 しい世 界 と して映 じて いた。 ジ ャワ語 の世 界 が オ ラ ンダ 語 とい う レ ンズを通 して対 象 化 され る とは, この こ とに はか な らな い。 書 簡 の 中か ら, この よ うに して対 象 化 され た ジ ャワ語 の世 界 の い くつ か の 例 を み な が ら, この点 を考 察 して み よ う。
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902年 11
月 の 書 簡 に こ うみ え て い る。31) 「わ た しが何 よ り も好 ん で きた の は, わ た しど も自身 の人 民 (Yolk)をみ る こ とで し た。 も しわ た しが か れ らの 中 で生 活 した の な ら, そ れ は この上 な い楽 しみ とな る こ と で しょ う。 わ た しど もはで き うる限 り,人民 との接触 (aanrakingmetbetYolk)を求 め ,外 に 出て ,村 の家 々(kamponghuizen) を尋 ね るので す 。 最 初 は,彼 らはわ た しど もを い さ さか奇 妙 に (w礼tvreemd)眺 めて いま した が, い ま で は, ま った くそん な こ 30)書簡は しば しばオランダ語版で10ページを越え ている [永積 1980:80-81]。 31)1902年11月21日付, アベ ンダノン氏宛 [Abe n-danon 1911:309;牛江 1940:221;Pane 1963:185;Sutrisno1979:291]。この部分は イ ンドネシア語訳(A.Pane版)では