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研究会合報告-1993年 利用統計を見る

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研究会合報告-1993年

雑誌名

アジア・アフリカ文化研究所研究年報

28

ページ

182-214

発行年

1993

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00011232/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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研究会合報告

研究会合報告

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研究例会 井 上 円 了 の 心 理 学 の 業 績 ( 五 月 二 九 日 ﹀ 所 長 恩 三包" 早ジ 田 西欧の心理学の移植と東洋心理学の構築 心理学は明治時代にわが国に移植されたが、 わが国の科学的心理学の基 礎をき守すいたのは元良勇次郎と松本亦太郎である。何れも欧米で心理学を 学 ん で い る 。 しかしここで見落すこと、ができないのは、当時独力で欧米の 心理学の多くの文献を読み、沢山の心理学の著書や論文を残した井上円了 の 業 績 で あ る 。 彼 ら は 、 いずれも東洋の思想・文化に非常に関心を持ち、 それぞれ業績 を出し、東洋心理学とくに、 日本の心理学の先駆者となっている。特に井 上は﹃東洋心理学﹄(明治二七年、哲学館刊)、﹃仏教心理学﹄という題名 の著書、禅の心理学についての論文を書いている。さらに妖怪学という名 称のもとに独創的な応用心理学の分野を開拓している。 元良、松本らは、西欧の科学的心理学をわが国に移植することに重要な 役割を果たしたが、井上は、西欧の心理学と東洋の心理学を結びつけて、 独自の東洋心理学をつくり出している。その点井上の業績は、先駆的であ っ た 。 井上円了の心理学の業績 八 井上円了(一八五八一九一九﹀は、明治十八年に東京大学を卒業、明 治二十年に﹁哲学書院﹂を設立し、 そこから﹁哲学会雑誌﹂を創刊し、 ﹃心理摘要﹄を出している。そしてその年の九月に哲学館を設立したが、 その時応用心理学を担当したのが井上円了であった。哲学館の講義内容は、 明治一一一年一月から高等教育の始めての通信教育の教材として﹁哲学館講 義録﹂として出版されることになった。それによると井上の講義録には ﹁心理学(応用ならびに妖怪説明どという題目がつけられている。その点 井上は、不思議な現象すなわち科学の謎を妖怪と名づけ、これを研究する 方法として心理学を重視し、妖怪を応用心理学の対象の一つとしている。 井上は、真理を探究するだけでなく、 これを日常生活に役立たせるため学 聞の応用を重視している。次に井上が心理学に関してまとめた著書や論文 の (1) 内 ,.",. 乍T て〉 し、 て 考 察 し て み た し、 妖怪学と心理学 井上は当時の沈滞した仏教に活力を与えるために、 キリスト教を批判す る論陣を張った。すなわちキリスト教は、近代科学の成果である地動説や 進化論に反し、さらに近代科学に反すると批判した。そして西洋の合理主 義的な近代哲学に最もよく適合する宗教は仏教であると主張した。そこで 西洋哲学の合理性によって仏教の再生をはかろうとして、 まず仏教から妖 怪、迷信をとり除かなければならないと考えた。さらに仏教界のみならず、 日本の近代化のために民間で行われている妖怪の本質を究明し、迷信をな くすことを自分の使命と考えるに至った。 井上によると、妖怪は心理現象のみならず、自然、社会の諸現象に広く わ た っ て お り 、 いまだ科学的に十分に解明されていない現象というべきも

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のである。そして井上 は こ れ ら の 妖 怪 は 、 とんど心理学という有 力な方法によって解明 所長 できると考えていたよ うだ。井上円了の妖怪 彰 研究の最初の本は﹃妖 怪玄談﹄(哲学書院、 国 一 八 八 七 年 ) で あ る 。 , 恩 これには当時流行して いたコックリさんの研 究についてくわしく述 べている。井上はコツ ブル・タ

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ニング(テーブルのまわりに数人が集まって、各々手を出して クリさんの起源をテ

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る と 述 べ 、 その一つの有力な説明として、 軽くテーブルに触れていると、テーブルがひとりでに回転する現象)であ コックリさんは注意集中によっ て予期暗示が無意識的、自動的に生ずるものだと心理学的に解説している。 明治二九年に可妖怪学講義﹄(哲学館)を出版している。この妖怪の分 野としては、﹁月の錯視 L 、すなわち月や太陽の見えの大きさが、水平線や 地平線上で大きく見え、上方向では小さく見えるという知覚現象、記憶、 遺伝、神童、偉人などの知能、人格といった一般心理学の領域、夢、夢告、 研究会合報告 睡眠、催眠現象といった催眠心理学の領域、幻覚、妄想、精神病などの臨 床心理学の領域、読心術、予言、神通力などの超心理学の領域、 きつねつき ま た 狐 護 、 tま 人濯、魔題、降神術、幽霊、前生、死後、再生などの心霊研究の領域など が含められている。これらの解明は、心理学でかなり解明できるとしても、 まだ未知なことが多い。井上は、これらの研究については批判的立場をと っているが、超心理学、心霊研究の先駆的研究者である。 (2) 夢 の 心 理 ﹁ 熱 海 百 夢 ﹂ ( 中 野 祖 応 船 fk 海に約七十日ほど病気の療養のため滞在した時、見た八三の夢と東京で見 甫水論集 博文館 一 九

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ニ)は、井上が熱 た十七の夢を分析したものである。方法は紙筆を枕元において、夜半に目 が さ め た 時 、 それを記録したという。この論文は夢の先駆的な心理学的研 究として評価されている。また﹁仏教夢説一斑﹂(甫水論集 一 九

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ニ ﹀ は、仏教の中に見られる夢の事例をあげ、 その種類、説明、夢の仏教的意 義について考察している。仏教では、世界の一切の現象は、虚仮無実であ ることを説明するのに、夢をあげて、夢、幻のごとしと説いているとまと め て い る 。 (3) 重量感覚の実験 っ人の感覚を測定する法﹂(甫水論集 一 九

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二﹀これは重量感覚に関す る実験心理学的研究である。重量感覚というのは、錘を親指と人差指でつ まんだり、手掌にのせて重さを認知することである。井上は同じ体積の直 方 体 を つ く り 、 それらに重量の差をつけて八種類で四十個つくり、 その重 量を比較推定させ、軽いものより重いものへと並べさせた。その正答数の 平均値をとって、学校別の比較を行なっている。わが国でまだ実験心理学 が十分に根づいていない時期に、こうした心理学的実験で行なっているこ 八

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研究会合報告 とに注目したい。 (4) 生 , d1 ・ 創 造 井上は創造性ということばは使っていないが、創造および創造性に関連 する思想やその開発の方法にそいで述べている。また井上自身が創意工夫 の人物であったことである。 井上は発明工夫の実用書ともいうべき司改良新案の夢﹄(哲学館

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四﹀を出している。この本では自分で工夫したアイデアの具体例をあげ ているのが興味深い。たとえば﹁黒板の改良﹂といって、黒板を皮でつく り、上下に回転でき、 まわる時白墨で書いた跡をブラシでふきとる仕掛け を工夫している。また﹁鉛筆の改良しといって、木は削りにくいので木の 代りに白墨を用い、鉛筆の芯を入れる。白墨は木よりこわれやすいので、 そのまわりに強い紙を巻くというのである。﹁漢字を活字に組む法﹂では、 漢字を分解して活字を組みたてる法を案出している。これは今日中国語の ワープロに出ているアイデアである。このほか﹁船に酔わない法﹂とか ﹁そろばんの改良﹂などいろいろなアイデアを出している。別に理論的な 裏づけがあるわけではないか、創造性の研究の面からみると、発明工夫の 先駆的な書物として興味深い。 戸 h d 井上は明治三七年に﹃心理療法﹄(南江堂)という著書を出している。 心 理 療 法 井上は自然にまかせて治癒を待つのを自然療法といい、信頼祈念によって 治療を望むのを信仰療法といい、これを合わせて心理療法と名づけている。 井上は一切の疾患は、身心相関の上に現われるが、 その原因は身体から生 ずるものと心から生ずるものがある。そこで身体のほうから治療を行なう 八 四 のを身的療法または生理療法と名づけ、心のほうから治療を行なうのを心 的療法または心理療法と名づけている。今日精神科医は﹁精神療法﹂と呼 び、心理学者は﹁心理療法﹂と呼んでいる。井上は心理療法は応用心理学 の一種といっているが、心理学の応用として心理療法と名づけている点、 心理療法の最初の名づけ親ともいえよう。またわが国における心理療法 九 (精神療法﹀の発展の歴史について、金子準二他﹃改訂増補 日本精神医 学年表﹄牧野出版 一九八二)に基づいて考察してみると、井上の﹁心理 療 法 ﹂ は 、 わが国における心理療法、精神療法の最初の先駆的な著書であ る。井上は心身関係について、人は身体と心の両方から成り、身体の病気 は必ず心に影響を及ぼし、苦悩や心配は、必ず内面化して身体の疾患が生 ずるという、心身相関の事実を指摘している。また医学では、力の及ぶ限 り生理療法をつくすと共に、心の中で自然にまかせるという心がけが必要 であると述べている。井上はこれを心理療法の本意としている。これらの 考えは、現代の心身医学に通ずる見方である。 井上は心理療法を独自のやり方で分類しているが、特に注目すべきは自 然的自観法である。自然的自観法とは、人の生死や疾患は、人間の力では どうにもならないと悟り、自然にまかせるというやり方である。井上は人 は病気を観察するうえで、 一方において人為を以て治療できると信守すると 同時に、他方において自然にまかせれば、自然の力によって治癒する。そ れをあまり人為にかたよる時は、 かえって自然の治癒を妨げるようになる。 だから心理療法の帰結するところは、自然にまかせるにあるという。この 自然的自観法のような見方は、現在東洋的な心理療法として、西欧の心理 療法に著しく影響を与えている。井上は仏教にくわしいことから、この観

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法は、今日の心理療法の発展の方向を示唆していると思う。野村章恒によ れば、森田正馬(一八七四│一九三八)は、井上円了の﹃妖怪学講義﹄と この﹃心理療法﹄を読んだことで、精神療法を大学院の研究テ

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マ に 選 択 するのに影響を受けたと推察している。森田正馬の創始する森田療法でい う﹁あるがまま﹂という態度は、井上のいう自然療法または自然的自観法 の考えから少からず影響を受けていると思われる。 (6) 仏教心理学 井上は、仏教の心理説である﹁倶舎論 L や﹁唯識論 L にもとついて、西 欧の心理学と比較考察している。その比較研究を﹁仏教心理学 L と 名 づ け 、 明治三十年に哲学館の講義録として出版している。井上は仏教の心理学 (心理説﹀と西欧の心理学の異同を論じて、西欧の心理学は、実験研究に 基づいており、確実であるが、仏教の心理学は、世俗的で、不確実ではな いかと間いを投げかけて、自ら次のように答えている。両者はそれぞれ目 的が違うからだという。すなわち西欧の心理学は、学理を究明するのに対 し て 、 仏 教 の 心 理 学 は 、 その目的が宗教にあり、人をして転迷開悟、安心 立 命 せ し め る に あ り 、 また仏教は心理を階梯として、担繋の頂上に到達し ょうとするにあるのだと述べている。そして井上は、仏教は実験科学によ って裏付けるべきだと主張する。最近ようやく禅の生理学的、医学的、心 理学的研究が可能になり、 その成果があげられている。東洋大学学長にな った心理学者の佐久間鼎が、坐禅が脳波によって、 その生理的心理的過程 が客観的に証明されることを予見している。後に精神医学者の平井富雄が、 佐久間の予見に示唆を受けて、坐禅によって脳波が変ること、すなわち意 識が変わることを実証した。昭和三六年、 三七年の文部省総合研究﹁禅 研究会合報告 の医学的心理学的研究 L では、佐久間が班長をつとめて、禅の総合的科学 研究を行なったが、私も自らの参禅体験に基き﹁禅と創造性﹂の研究を行 なっている。最近日本、 オ ー ス ト ラ リ ア 、 アメリカ、中固などの研究者が、 眠想と心理療法の関係について総合研究を行なっているが、私もこの研究 に参加している。井上の提案が今日に到って実現していることを知って感 慨無量なものがある。 (7) 禅 の 心 理 ﹁ 禅 宗 の 心 理 ﹂ ( 甫 水 論 集 一 九

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二)では、井上は﹁禅宗は見性悟道を 教えているが、見性悟道とは、自己の心地を開いて、本来の面目を現わす のだ﹂という。すなわち禅は、仏性(真の自己)を究明することだという のである。そして﹁禅は調身、調心によって、心性の本分を開発する﹂と

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LVLV この心性の本分の開発とは何かについて、心理学的説明を試みてい る。﹁心理学でいう知情意は、心的現象で、こういう心的現象があるから に は 、 その心性の本体がなければならない﹂という。そして﹁この心的現 象は、外界の刺激によって起こる波だから、 その性質は有限で相対的であ る。しかし心体は、有限相対を超越して、無限絶対のものである。仏教は この心体を認め、禅はこの心体を究明しようとするものである﹂という。 (8) 心 理 摘 要 井上円了は、明治二

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年に﹃心理摘要﹄(哲学書院﹀の初版を発行して いる。この本はわが国最初の体系的心理学書といわれる元良勇次郎の﹃心 理学﹄(金港堂、明治二三年)と同じく、欧米の心理学説をとり入れ、井 上自身の考えにもと守ついてまとめたものである。 しかも体系的なものであ るので、最初のものといえば、 ほかに類書は確かめ得ないが、井上のもの 一 八 五

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研究会合報告 は元良のものより早く出版されていることは事実である。本書は大冊では ないが、心理学に関する多くの内容が簡潔にまとめられている。本書は、 井上によるとイギリスの実験心理説すなわち連想心理学者のハ l ト レ l ( 出 血 円 昨 日 開 予 ロ ) の 連 合 説 と 進 化 論 的 連 想 心 理 学 の ス ベ ン サ

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国 ・ ) の進化論的連合説を参考にして、これらをまとめてその大要を示したもの であるという。またこの本の初めに﹁心理学系統史略しと称する心理学史 がのせられている。これは日本大学の児玉斉二教授によると、 わが国の心 理学史の最初のものであろうということである。 (9) 通信教授 心理学 井上円了は﹃通信教授 心理学﹄(通信講学会﹀の第一巻を明治一九年 に、その全巻を明治二一年に出している。これによると、井上は大衆のた めの高等教育をわが国で始めて今日でいう通信教育によって行ない、 そ の 講義に心理学をとりあげ、自ら講義している。﹃心理摘要﹄が簡潔なテキ スト調で書いてあるのに対して、この可通信教授 心理学﹄はいわゆる講 義調で、井上の講義をそのまま口述したような語り口である。その点この 本は﹃心理摘要﹄とくらべると、井上の個性があふれ出ている。 M) 東洋心理学 ﹃東洋心理学﹄(哲学館)は、中園、 イ ン ド 、 日本における心理説を比較 考察するために書かれたもので、 その中で特に仏教の心理説を中心にまと めたものである。仏教の中の心理説としては、﹁倶舎論﹂と﹁唯識論 L の 二つがあるが、これらは心理学というよりは、哲学に属すべきものだとい っている。西欧の心理学は客観的心理学であるが、仏教の説く心理学は、 主観的心理学であるという。司東洋心理学﹄はいつ発行されたか不明であ 一 八 六 る が 、 明治二七年という説があるので、 この説をとることにする。可仏教 心理学﹄は明治三

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年に発行されており、 両者を比較すると、 ﹃ 仏 教 心 理 学﹄のほうが、内容がよく整理されている。 ~$ 真 怪 可真怪﹄(丙午出版社 大正八年三月国立国会図書館所蔵﹀は、井上が大 正八年六月六日に中国の大連(現在旅大)にて逝去するので、最後の著書 である。そして妖怪学シリーズの最後のものである。井上によれば、真怪 とは心理学や物理学でも解明できない、人智をこえた不可思議、不可知の ことである。本書は、世間では真怪でないものを真怪といっているので、 世間で真怪だとしてとりあげられている事象を解明するためにまとめたも のだという。そこでその当時新聞雑誌でとりあげている事件をとりあげて、 問答式で論じている。 井上は、透視、千里眼(何れも透視のこと)や読心術(テレパシーのこ と)などは認めていたが、福来友吉が行なった念写は真怪でなく魔怪であ る。心の中で文字や物体を念じても、 それが写真に写るはずがないといっ て否定している。そして真怪とは何かということで、物自体、心自体、神 や仏、霊性などをあげている。これによると、井上は仏教でいう仏性すな わち物心一知、主客一如、自他不二としての真の自己すなわち真の事実、 この根源的事実は仏様でもご存知ない世界であって、これこそ真怪である と述べている。以上のように井上は、沢山の先駆的なしかも独創的な心理 学的業績を出してきたが、 また一般大衆に心理学の教育をしたこともその 業績にあげてもよいと思う。そこで井上の業績を心理学史の中に適切に位 置マつけることが必要であると思う。

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研 究 会 合 報 告 研 究 例 会 東 ア ジ ア に お け る 相 撲 研 究 の 現 状 と 課 題 1 1 i 研 究 史 の 検 討 を 中 心 に l l L ( 七 月 一 七 日 ﹀ 宇 佐 美 隆 憲 研 究 員 は じ め に 日本の相撲と類似する競技は、世界中の様々な民族の中で独自の形式と ルールをもって伝承されてきた。ただし、これは相撲という用語が世界中 で使用されているということを意味してはいない。 一般的に日本の相撲を 表現するとき、例えば、英語表記なら

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という表記が国際的に通用するようになったのは、 つい最近のことであり、 日本相撲協会が定期的におこなっている海外巡業 の成果の現れと見ることもできる。このような日本の特殊な事情を除けば、 東アジアに存在している相撲と類似する運動形態は、民族固有の呼称で呼 ばれることはなく、 一括して当日回忌ロぬという枠でくくられている。 の例として、百円﹀ ( m

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宮 門 同 件 。 岳 ぬ E F k f ( 1 ﹀ 同 口 百 ロ 田 氏 自 即 日 ﹀

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ロョに収録されている世界各 国 の ぎ 話 回 昨 日 目 白 ぬ の 中 で 、 東 ア ジ ア に 限 定 し て も 、 日本では相撲が、 また韓 国ではシルムが、 そして中国では捧肢が、さらに東アジアからは若干外れ る 、 が モ ン ゴ ル の ボ フ ︿ 国 己 r y ﹀ な ど 、 いわゆる民族固有の伝統をもっ身体活 動、が、民族の司自由告白ぬとして紹介されているのである。ここでの表記は ロ 阻 止 。 ロ 回 目 当 お 注 目 ロ ぬ ・ ロ 伊 丹 守 -何 者 門 町 田 己

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弓 月 間 昨 日 白 肉 、 が 使 わ れ 、 特 に 統 一 一 九 六 されているわけではない。 このように見ていくと者見邑

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とは、もはや近代スポーツとしてのレ スリングだけを意味するのではなく、もっと広い概念として使用されてい ることが理解できるのである。 つまり、近代スポーツとしてのレスリング を意味する一方で、民族スポーツとしてのレスリングも意味する言葉なの で あ る 。 その運動形態は必ずしも類似するわけではな しかし、実際には、 いことから、運動そのものを眺めていくといくつかの異なった形式を指摘 することができるのである。そこで、ここで取り扱う相撲を定義する上で も、この点について整理しておくことにしたい。 近代スポーツであるレスリングを運動モルフオロギ l ( Y F G r o -o m ぽ ( 2 ) ︻ 日 開 門 出

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ロロぬ)的に見ると、最初に立業で始まり、次に寝業、そして最 後にフォールという流れになる。このようなレスリングの構成に対して、 民族スポーツとしてのレスリングには、 いくつかの技術構成の違いが見ら れ る 。 例 え ば 、 日本の相撲や韓国のシルムなどは、立業から相手を倒す、 Jコ あるいは日本の相撲の場合のみ、土俵から外に出すことによって勝ちとな るが、沖縄のシマや中国葬族の格などは、 立業で相手を倒し、さらに相手 の背中を地面につけないと勝利には結びつかない。 レスリングのフォール のように両一屑をつけることから考えると技術的にはそれほど難しくはない が、それでも倒れてからの攻撃が加わることから、 日本の相撲などとは若 干の違いをみせている。ただ現在でも、寝業が独立した技術として認識さ れていないことから、寝業という技術は、 いまだに独立して分類されてい ないのである。 このように、簡単ではあるが、概ね三つの運動形態に分類が可能となる。

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ことになるからである。 そこで、ここで使用す る﹁相撲﹂という用語 lま いわゆる民族スポ ーツとしてのレスリン グを指す言葉であり、 宇佐美隆憲研究員 運動形態としては、寝 業を技術として独立さ せていない民族スポ

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ツに限ることとしたい。 寝業が独立した技術と して成立することにな ると、これは、明らか に近代スポーツとして のレスリングに近づく 以上のことから民族の相撲を眺めてみると、中国の一部の少数民族の間 そ う で あ る 。 で伝承されている相撲以外は、民族相撲という表記で統一することができ そこで、次に本稿で扱う民族相撲の問題について触れることにしよう。 少なくともこれまでの相撲研究は、神話学、民俗学、歴史学、考古学など を 一 不 す と い っ た 視 点 、 が 欠 落 し て い た よ う で あ る 。 の成果が報告されているが、これらの研究成果を整理し、今後の研究方向 しかし、最近このような 研究会合報告 点を克服する研究が提出された。長谷川明氏によって著された﹃相撲の誕 生﹄である。長谷川氏の視点は日本の相撲の起源を考える手掛かりとして、 これまでに報告された研究を整理するところから始まっている。それはも ちろん日本だけにとどまらず、韓国、中国といった近隣諸国の研究にも目 を向けるといった配慮がされている。さらに資料の手薄な沖縄相撲に関し ては、自ら調査を実施し、新たな資料も提出しているのである。 ところが、長谷川氏の研究は確かに日本の相撲研究に関しては、網羅的 に資料が収集され利用されているが、韓国や中国に関しては資料的にも不 足しており、必ずしもこの国々の相撲研究を概観しているとはいい難い。 また、この著書の目的が撲相のル l ツ を た ど る と い う 、 いわゆる文化伝播 論の視点からのアプローチであるため、学説史的な整理が十分になされて いないなどの問題点があった。 そ こ で 、 本 稿 で は 、 日本の相撲に関しては長谷川氏の研究では触れられ ることのなかったいくつかの研究にも触れることにし、韓国の相撲に関し ては、新たに資料を追加することで現在の研究成果を整理することにした。 そして中国に関しては、氏が触れることのなかった少数民族の相撲研究を 取り上げた。そして、これらの学説史的な整理を試みることにした。この 作業を通してこれまでの相撲研究の方向性を導きだし、今後の研究方向を 考える手だてとすることが本稿の目的である。ただし、これまで報告され てきた相撲研究をここで総べて網羅することは、筆者の意図する所ではな く、あくまでも筆者自身の関心に基づく類型論作りのための試みである点 はお断りしておきたい。 日本の相撲研究 日本の相撲を対象にした研究は、他の国と比較しても非常に多くの研究 九 七

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研究会合報告 蓄積を持っている。これは一つに現在おこなわれている大相撲が、 い わ ゆ る国技と称され、国民の問に根強い人気を持つスポーツであること、 ま た 、 現在でも相撲が、各地の祭りの中に組み込まれている場合が多いことなど によるものであろう。さらに、 日本書記や古事紀には相撲に関する神話の 記述があり、これなども日本の相撲研究を早くから推進してきた要因にな っていたと考えられる。 しかし、このように以外に古くから研究されてきたにも関わらず、 そ の 研究はある一定方向に目が向けられていたといえよう。長谷川明氏によっ て署された﹃相撲の誕生﹄は、これまでの相撲研究を網羅し、この成果か ら相撲史の再構築を図ったものだが、この世一日名からも明らかなように、相 撲の歴史やそのル l ツ探しが中心的課題であった。 つまり日本の相撲研究 は、歴史的な研究を中心に発展してきたのである。そこで研究史の整理と いう立場から、以下にこれまでの研究を分類することにしたい。 ト) 文化伝播論的視点 前述したように相撲の歴史的な研究は、これまでに日本の相撲研究では 中心的な課題の一つであったといえよう。これは、 日本書紀にみられる、 いわゆる相撲神話と呼ばれる記述が引き金となっているようである。以下 にこの記述の概要を紹介しよう。 重仁帝の七年の秋、 七月七日に当麻村に当麻蹴速という生まれつき力の 強いものがおり、何とか力の強いものとめぐり合って力比べをしたいとい うことを天皇の耳に入れた。これを聞いた天皇が群臣に、蹴速と力比べの できる者がいないかを尋ねると、 その中の一人が、出雲の固にいる野見宿 禰を推挙した。そこで、この日のうちに宿禰を呼び寄せ蹴速と力比べをさ 九 八 せた。二人は向かい合って立ち、 それぞれ足をあげて蹴りあったが、 た ち まち宿禰が蹴速のあばら骨を蹴り折り、さらに腰骨を踏み折って殺してし まった。これにより天皇は、蹴速の領地を没収して、宿禰に与えた。これ が今もその村に腰折問という場所がある理由である。その後、野見宿禰は この地にとどまり、天皇に仕えることになった。 以上が相撲神話といわれる記述の概要てある。この日本書紀の記述をめ ぐって、現在、二つの解釈がなされている。 一つは豊穣儀礼として相撲が おこなわれていたという豊穣相撲説であり、他方、相撲は葬送儀礼として おこなわれていたという葬礼相撲説である。この解釈については、 日 本 の 相撲の起源を考える上で必ず問題とされるので、これらの解釈について整 理 し て お く 。 (1) 豊穣儀礼と関わる相撲 相撲が豊蹴儀礼と関わるという指摘を早くから主張していたのは、池田 ︿ 4 ) ( 5 ﹀ 弥三郎氏や和歌森太郎氏である。両氏の説明するところによれば、七夕の 宴の余興として催されていた相撲は、これまで全国的に庶民の聞でおこな われていた農作の豊凶を占う農耕儀礼としての神事相撲であったという。 つまり、競馬や綱引き、 あるいは石合戦などと同様に、相撲も農作物の収 穫を祈り、占う農民の祭ごととしておこなわれ、現在に至っているという の で あ る 。 また、蹴速が腰を折ったので、その土地を腰折田と呼んだというのは、 ( 6 ﹀ 三隅治雄氏が論じたように相撲が回の上でおこなわれていたことを語って おり、相撲が回の儀礼と関わっていることを示唆していると解釈できる。 さらに、現在見ることのできる神事相撲は農耕儀礼としておこなわれて

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いるものが非常に多い。例えば、瀬戸内海の大三島町(愛媛県)大山ずみ 神社の﹁一人ずもう L、奈良県桜井市江包の村で旧暦の正月十日におこな う寸ドロンコすもう L などを代表とする実に多くの相撲が、稲の豊穣とか かわる儀礼の一つとしておこなわれている。 このような見解を基に、古代からおこなわれていた相撲は、稲の豊穣を 願う儀礼と結びついて伝承されてきたとするのが豊穣儀礼と関わる相撲の 解 釈 で あ る 。 確かに、現在各地で見ることのできる相撲は、豊穣儀礼あるいは予祝儀 礼としておこなわれているケ

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ス が 多 い 。 し か し 、 日本書紀の記述が必ず しも豊穣と関わる記述であるとするには、やはり問題も多いようであり、 次に取り上げる葬礼との関係も考慮しなくてはならないと考えられる。 (2) 葬送儀礼と関わる相撲 ﹃日本書紀﹄の相撲起源神話は、葬礼との関わりを示唆しているという解 日本の社会において相撲が葬送儀礼としておこなわれていたと いう見解を最初に提示したのは、大林太良と森浩一の両氏であった。彼等 釈 も あ る 。 の見解は次のようなものである。 宿禰はこの勝負の後、天皇に仕え、土師臣を賜わっている。土師は土器 製作者であるが、宿禰が土師昆を賜わったことについては、彼が殉死に代 えて埴輸を古墳におさめることを進言した功績によるものとされている。 つまり、皇后日葉酢姫の葬儀に際し、これを習慣であった荊死によってお こなうことに心をいためていた重仁天皇に、人や馬そのほかのものを埴に よって作り殉死に変えるべきことを奏上し、受け入られて、以後定制とな った。この時、宿禰は出雲から土部三百余名を招き寄せ、 こ と に あ た っ た 。 研究会合報告 ﹃続日本紀﹄によると、土器作りは天穂日命に始まり、宿禰は一四代目で あるが、宿禰に至って土師は葬儀と関わることになったのである。ここで 注意したいのは、宿禰が葬儀と関わるきっかけが、相撲であったという点 である。また、別の言い方をするなら、宿禰と蹴速の相撲の話は、殉死か ら埴輪へという葬礼様式の転換を語る重要なプロローグになっているとい う の で あ る 。 このような指摘が葬礼相撲として相撲起源神話が解釈されるポイントに なっている。それでは、古代の日本に人の死に際して相撲をとる習慣はあ ったのだろうか。可能性としては﹃日本書紀﹄皇極天皇元年七月の条に載 った相撲記事である。この月の一一一日に、天皇は、百済の政変で亡命して いた﹁趨岐 L のために健児に相撲をとらせているのである。ところが、 F 」 れに先立つ五月一一一日に趨岐の従者のひとりが、 また翌二二日は、趨岐の 子供が死んでいる。麹岐の従者と子供死亡と健児の相撲とは関連づけで記 述されてはいないが、ここには貴人の死に際して相撲をとる習慣があった ハ 8 ) その後の寒川恒夫氏の研究によって指摘されている。 可能性があることが、 さらに寒川氏は、考古学の成果からも次のような資料の追加をしている。 大阪、和歌川、静岡、埼玉、群馬、茨城、福島、石川、 の古墳からは、力 土埴輸が出土している。また兵庫、島根岡山、 の古墳からは相撲をとって いるこ人の力士像を備えた須恵器が出土した。福岡県からは、石製の力士 像が出土している。これらは、 五世紀から六世紀にかけて製作されたもの で あ る と い う 。 ま た 、 日本の周辺地域においても葬礼相撲の痕跡は発見できるという。 回世紀の高句麗玉である美川王(在位三

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研究会合報告 朝鮮民主主義人民共和国黄海南道安岳部)、 それに五世紀高句麗の舞踊塚 と角抵塚と長川一号古墳︿ともに現在の中国吉林省集安県)には、 そ れ ぞ れに相撲の絵が描かれている。 このように断片的ではあるが、相撲と死を結びつける資料の存在を明ら かにしたのである。 以上見てきたように、相撲の起源に関わる歴史民族学的な研究は、確か に壮大ではあるが、この指摘はあくまでも可能性の問題であり、歴史の再 構成の難しさを感じさせる。さらに伝播という話になってくると、相撲そ れ自体が、人間の基本的な身体活動として存在する可能性もあることから、 相撲と結びつく儀礼的な要素を抽出しなくてはならなくなる。そうなると、 ( 9 ﹀ 冨

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同が指摘するように内陸アジアから葬礼相撲が伝播した可能性は あ っ て も 、 その全てが日本に伝わったとは、 一概にはいえないのではない だろうか。このような点において、相撲のル l ツを辿ることは非常に難し い問題といえるのである。 (二) 社会学的研究の視点 次に相撲の社会学的な研究について触れることにしよう。相撲の社会学 的な研究は近年になって報告されるようになってきた。これは、前述した ように、相撲のル l ツを探る研究が主流を占めていたということとも関係 があると思われる。そのため、現在この種の研究は、 リ l ・ オ ー ス チ ン ・ トンプソン氏と生沼芳弘氏の学位論文に見ることができるだけである。 ( m ) ( U ) トンプソン氏の﹃相撲の近代化﹄の視点は、アレン・グ

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トマンが示し た近代スポーツの七つの特徴(世俗化、平等化、役割の専門化、合理化、 官僚制的組織、数量化、記録の追及)がはたして、相撲の内部に見い出さ 0 0 れるのかという観点であった。その結果、相撲は確かに、近代化の過程を たどってきたといえるのだが、 ただ、世俗化だけに関して、 どちらかとい うと近代化からは遠ざかる傾向が見られたという。 つまり、神明造りの屋 根が相撲場に取り入れられるのは一九一三年からのことであり、行事の服 装も現在のように神主らしきスタイルになるのは一九

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九年からだという のである。また、力士の服装や大銀杏マゲをゅうようになるのも近年にな ってからのことであったという。 トンプソン氏はこれを寸逆世俗化しと表 現し、従来からあった神事相撲が勧進相撲に影響を与えたのではなく、勧 進相撲が神事相撲の儀礼を取り入れたケ l スもあり、両者が影響しあって 現在の相撲のスタイルになったと主張する。 このような指摘は、先のル

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ツ論を脅かす考え方を含んでおり、現在の 相撲が伝統的なスタイルを固持してきたという先入観を打ち砕く発言でも あ る 。 ま た 、 スポーツの近代化論という立場から考察される相撲の近代化 は、日本の在来スポーツを考えていく上でも示唆に富む見解であったとい うことができよう。ただ、ここでも相撲の近代化を考えていくに当たって、 歴史的な視点が十分に含まれており、これまでの相撲研究の蓄積の上に成 立した研究であったということは付け加えておきたい。 ( ロ ) 次に、生沼芳弘氏の学位論文である﹃相撲社会の研究﹄であるが、ここ では相撲の部屋制度に着目し、特に相撲部屋を﹁家 L 制度の上に成立して いるとみなし、構造と機能主義の立場から明らかにしていくという点に特 徴があった。この研究を進めるにあたり、実際の参与観察によって相撲社 会の中におこている家族制度の構造を分杯し、師弟関係がいわゆる擬制的 親子関係であることを指摘した。これまでの相撲研究では、現在的な問題

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はほとんど取り上げられてこなかったことからすると、少なくとも相撲研 究においては非常に斬新な視点であった。 つまり、現在の部屋制度を分析 することによって、少なくとも日本の伝統的スポーツの小集団がどのよう に機能していたのかという問題を明確化したわけであり、 ま た ス ポ ー ツ 集団を分析するための一つのモデルを提供したのである。 このように、社会学的な研究は、 日本の相撲をまずスポーツとしてとら ぇ、この近代化過程、 あるいは近代化された社会の中に残る人間の在り方 を明らかにすることによって、新たな研究の地平が拓かれたといえよう。 二、韓国の相撲研究 韓国の相撲(シルム、外 E 一 ロ ) 研 究 は 、 日本の相撲研究に比べると、 そ れ ほど、研究対象に上らなかったといえる。特に、近年になっても相撲が研 究対象に上らなかったのは、 シルムが無形文化財に指定されなかったこと、 相撲のプロ化に若干の時聞がかかったこと、相撲に変わるプロスポーツが 台頭したことなどに原因があると考えられる。そのため、韓国のシルム研 究 は 、 いまだに技術書が数冊見出されるだけであり、いわゆる研究室日は、 斗研究﹄だけなのである。論文とし 窪 常 事 時 氏 の ﹃ 韓 国 斗 外 百 一 ロ ヰ 二L 叶

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ても歴史的な研究に関するものを数編みることができるが、あとはシルム (HH) の選手に関する自然科学的な研究が多い。そこでここでは歴史的な研究に ついて触れることにしたい。 ( 寸 歴史的研究の視点 シルムの歴史研究は、これまでのシルムを対象とした研究の中では、比 較的多くの蓄積があるといえる。しかし、文献上、 シルムの記事はほとん ど目にすることができないために、結局、特定地域の近代史を取り扱うこ 研究会合報告 ( 時 ) と に な る 。 そこでこれらの研究でまず指摘されていることは、もともと朝鮮半島に は 、 一 一 一 つ の 形 式 の シ ル ム が 存 在 し て い た と い う 。 一つは屯列号、もう一つ は 中 古 て 外 号 、 そして三つ目は叶付 E 一 ロ で あ る 。 現 在 で は 母 、 外 吉 一 ロ に 統 一 さ れ て いるため、これ以外の形式はほとんど見ることができなくなっている。 シルムの分布については、これまでほとんど調査されてこなかったが、 一九四一年に朝鮮総督府の調査資料として刊行された﹃朝鮮の郷土 唯 一 、 娯楽﹄の中に地域別に相撲の有無も掲載されている。この調査は、当時の 小学校にアンケートを実施し、 その結果を基に、地域の娯楽としてどのよ うなものがあるのかを紹介したといわれており、すくなくとも一九四

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年 以前の遊びの分布がわかるのである。ただ、ここには運動の詳細が記載さ れていないために、先に上げた、相撲の形式が明らかにはなっていない。 しかし、今の所、相撲がどの辺の地域に分布していたのを知るための資料 としては唯一利用できるものであることは確かである。ところで、 こ の 資 料 を み る と 、 シルムの表記が慶尚南道、黄海道、江原道、平安南道、平安 北道、成鏡北道、成鏡南道などでは、﹁角力﹂と﹁脚戯﹂の両方の用語が 混在し使用されている。京畿道、忠清北道、忠清南道、全羅北道、全羅南 道、慶尚北道では、もっぱら﹁脚戯 L とう用語が使われている。この名称 の違いは運動技術の違いなのであろうか。近年、この本のハングル訳が出 版されたが、ここでの用語の使用方法はどちらも﹁シルム﹂の用語が当て ら れ て い る 。 この相撲が同一のものか、 そ れ と したがって、現時点では、 も異なる相撲なのかについては、明らかにできないのが現状である。 と こ ろ で 、 一九九三年六月に日本体育学会スポーツ人類学専門分科会と

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研究会合報告

中国少数民族における相撲の有無 民 族 名 │害撲皇│ 相 撲 の 形 態 出 典 01 チワン(壮)族 02 プイ(布依〉族 03 タ イ 族 04 ト ン 族

Cp.197 Mp.64-66 05 ム ー ラ オ 族 06 ス イ 族 07 "'7オナン族 08 リ ー 族 09 チ ベ ッ ト 族

内容不明 Cp.53 10 メ ン パ 族 11 イ 族

Cp.113-114 Mp.37-39 12 リ ス 族 13 ナ シ 族 14 ノ、

Cp.236,237 乱I!p.83 15 ラ フ 族

扇 達 Cp2渇6 16 チ ノ ー 族

Cp.396 17 ぺ

族 18 チ ン ポ ー 族

Cp.300, 302 19 ト ー ノ レ ン 族

Cp.379,380 20 チ ャ ン 族

Cp.329,330 21 70 、、、

Cp.354,355 22 ロ ッ パ 族 23 ヌ ー 族

Cp.361 24 ア チ ャ ン 族 25 ミ ヤ オ 族

Cp.100 26 シ ェ ー 族 27 ヤ オ 族 28 ト ウ チ ャ 族 29 コ ー ラ オ 族 30 日 族

抜 腰 Cp.30-31 31 ワ イ グ ノ レ 族

Cp.73,76-77 32 サ フ 族

抜 腰 Cp 335 33 ウ ズ ベ ク 族

内容は不明 Cp.362 34 カ ザ 、 フ 族

Cp.240, 242-243 35 タ タ ー ノ レ 族

内容は不明 Cp.378 36 ユ ー グ 族

Cp.371-372 37 キ ノ レ ギ ス 族

他に奥交塔安托尼托希甫(馬上角力〕 Cp. 304,(310-31l)M p. 90-91 Cp.316 恥lp.91 38モ ン ゴ ノ レ 族

Cp.3-7 Mp.3-4 39 ウ 族

抜 腰 Cp.319 40 ト ン シ ャ ン 族

抜 腰 Cp.291 41 ダ ブ ー ル 族

Cp.324 42 ボ ワ ナ ン 族

抜 腰 抱 腰 Cp.369 43満 族

Cp.157,169-171 Mp.59 44 シ ボ 族

Cp.347 45 ホ ジ ェ ン 族

Cp.390 46オ ロ チ ョ ン 族 47 エ ヴ ェ ン キ 族 48朝 鮮 族

Cp.151-152 恥1p.52 49 ワ 族

布 隆 Cp.262-263 50 ド ア ン 族 51 プ ー ラ ン 族 52高 山 族

斗力 Cp.277 53 オ ロ ス 族 54 タ ジ ク 族 55 キ ン 族 表1 中央大学校韓国民俗学研究所の間で﹁日韓民族スポーツシンポジウム﹂(た 徴、さらに韓国のプロシルム協会の歴史という面からの報告がおこなわれ だし韓国側では n 第一回亜細亜民俗昔、叫国際学術大会 と表現されている)が開催され、 韓・日民俗き叶“ た。基本的にこれまでの研究成果を踏襲するものであった。 このように韓国のシルム研究は歴史あるいは民俗学的な視点からの研究 この中で、韓国シルムの最新の研究成果 が報告された。韓国側の報告は、 いわゆる民俗学的な報告、運動技術の特 が 主 流 で は あ る が 、 日本の相撲研究の成果と比較すると、 まだ多くの研究 出典については :Cp.~は「中華民族惇統慢育志.!l (1990広西民族出版社) Mp.~ は「民族体育集錦.!l (1985人民体育出版社) ※

(14)

課題が残されていると言えるのである。 中国の相撲研究 中国の相撲研究はこれまで、 一部の相撲を除くとそれほど精力的に行わ れてきたとは言えない ο 特に注目されてきた相撲は、漢民族のあいだでお こなわれる捧肢と少数民族の聞では、内モンゴルのボフ(モンゴル相撲) であった。これ以外の相撲の研究については、 ほとんど手のつけられてい ない状況であり、相撲研究は今後、注目されてくる研究対象であるとも考 えられる。というのは、少数民族のあいだで実に多くの形式の民族相撲が 存在しているからである。表一は各民族の中で相撲がおこなわれているの か否かを知るために作成したものである。これを見ると三

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以上の民族の 中で相撲がおこなわれている。そして、この相撲は、民族によってほとん ど異なる形式でおこなわれているという点も注目したいところである。 さて、現在中国の相撲を知ろうとしたときには﹃中華民族停統瞳育志﹄

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︿ 況 ) 可民族体育集錦﹄による記述を参考にするしかないのが現状であろう。こ れ以外に少数民族の相撲研究は時折、体育関係の雑誌に登場するのみであ り、まだ、本格的な研究が始まっていないことを教えてくれるのである。 ただ捧肢に関しての研究や資料は、若干ではあるが存在しているようであ ハ 辺 ) る 。 し か し 、 これまでの報告では、 どこの地域でどのような相撲がおこな われているのかといった紹介記事に留まっているというのが現状である。 ただ、この種の資料となると、各地で出版されている新聞に何らかのイベ ントがある際に掲載されていることがあるので、数の上では非常に膨大な ものになる。なお、 ﹂の資料の整理については、後日稿をあらためること ヂ ﹂ J ﹄ ﹄ 介 。 I11L 研 究 会 合 報 告 お わ り に これまで見てきたように、日本の相撲に関する研究は、歴史的な視点で ( 幻 ) ( 川 品 ) の報告が多く、今後は、トンプソン氏や生沼氏、あるいは山口昌男氏のよ うな相撲とそれを取り巻く社会との関係で論じる視点が必要になってくる だろうと考えられる。 また、韓国、中国の相撲研究は、現在の所、 その業績が徐々に蓄積され つつある状況であることから、今後、 日本の相撲研究とは異なる視点が、 提出されてくる可能性もあるといえよう。 注および引用・参考文献 ( 1 ﹀ 同 , y m z a o H U ﹃ O 者 同

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一 見 C h 叫 ﹄ い 阿 見 対 N P 切 何 回 凶 H h H Z W 5 8 ・ ク ル ト ・ マ イ ネ ル ( 金 子 明 友 訳 ) 叶 ス ポ ー ツ 運 動 学 ﹄ 大 修 館 書 庄 一 九 八 一 年 。 ( 3 ) 長 谷 川 明 司 相 撲 の 誕 生 ﹄ 新 潮 社 一 九 九 三 一 年 。 ( 4 ﹀池田氏は以前、ラジオ番組の講演会で、相撲に関して触れ、稲の豊作と相 撲 が 関 係 の あ る こ と を 主 張 し た 。 ハ 5 ﹀和歌森太郎守和歌森太郎著作集﹄弘文堂一九八二年。 ハ 6 ﹀三隅治雄﹁芸能の伝承﹂竹内理三編﹃風土と生活 L ハ 古 代 の 日 本 二 ) 二 七 九 ー コ 一

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頁。角川書府一九七一年。 ( 7 ﹀大林太良編﹃シンポジウム日本の神話四日向神話﹄学生社一九七四年、 一 五 六 t 良 。 ( 8 ﹀寒川恒夫﹁相撲の起源と天皇﹂寒川恒夫編﹃相撲の宇宙論﹄平凡社 -五 五 頁 、 一 九 九 三 年 。 一 六

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同) C H S -( U c -E g σ 紅 白 ロ 宮 町 岡 田 町 q H M B ω ♂ H m w m w H -清水哲男訳守スポーツと現代アメリカ LTBS ブリタニカ一九八一年。 ︿ロ﹀生沼芳弘﹃相撲社会の研究 L 博士論文成城大学一九九三年。 ( 日 ) 忠 世 常 高 ﹃ 韓 国 司 、 引 E Y 斗 ユ 叶 斗 研 究 ﹄ 成 文 閣 一 九 八 八 年 。 ( H ) 例えば、次のような研究があげられる。 朴 勝 翰 ﹁ 外 豆 一 U 4 牛斗斗斗オサ一旦寸対。ベヰ社、吐子 L 嶺 南 大 学 校 人 文 科学研究所人文研究六五八五│五九四頁、一九八四年。 叫 寸 λ 一 。 社 、 叶 ム 斗 、 叫 寸 司 吋 O ﹁ 主 ロ A 丈 T 一 剖 ﹁ 4 4 A す Z で 剥 t d 1 4 4 吐立主﹂丘三一 Z 一 斗 叶佳子オ第一ーー一号二三三二頁、一九九一年。 (日﹀例えば、次のような研究があげられる。 李秀川﹁外芸技術用語斗設展過程斗向学術的吐統一方案﹂鰭育科察研 究誌四六一九一頁、一九八八年。 (日山﹀朝鮮総督府調査資料第四七輯 τ 朝鮮の郷土娯楽 L 一 九 四 一 年 。 (げ)村山智順編朴鐙烈守朝鮮斗郷土娯楽﹄集文堂一九九二年。 (問)この学術シンポジウムは、中央大学校で一九九三年六月二 O 日 と 一 一 一 日 の 両日にわたりおこなわれた。日韓の相撲に関するシンポジウムは、初日に日 本側から六名、韓国側から四名の研究者が報告した後、討論がおこなわれた。 なお、この会議に関しては後目、別稿にて報告する予定である。 (四﹀中国体育博物館、国家体委文史委員会編守中華惇統髄育士山 L ﹁西民族出版 社 一 九 九 O 年 。 (却)民族体育集錦編写組﹃民族体育集錦﹄人民体育出版社一九八五年。 (幻﹀胡小明﹃民族問育集錦﹄四川民族出版社一九八九年。 (幻)長谷川氏の研究がその代表的なものであろう。 長 谷 川 明 前 掲 書 (幻)今回は触れることができなかったが、相撲の歴史研究に新たな視点を提供 した著書の一つに宮本徳蔵氏のものがあげられる。 宮本徳蔵﹃力士、漂泊﹄小沢書庄一九八五年。 0 四 宮本徳蔵 τ 相撲変幻﹄ベースボール・マガジン社一九九 O 年 。 (泊﹀山口昌男寸相撲における儀礼と宇宙観 L ﹃ 国 立 歴 史 民 俗 博 物 館 研 究 報 告 ﹄ 第一五集九九│一一二 O 頁一九八七年。

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研究会合報告 シンポジウム 寸当代教育面臨的課題

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中同和日本的現状││ 開 催 日 十 一 月 一 二 一 、 二 三 日 於 一 ( 中 国 ﹀ 華 中 理 工 大 学 別掲︿報告﹀(一一一頁 J 一四三頁)の通り、一九九三年一一月二二、二 三日の両日に華中理工大学学術交流中心において開催した。近年研究所で 九九一年にはインドネシアを、 は﹁多文化アジアの教育問題﹂と題したシンポジウムを開催している。 一九九二年には韓国・台湾を例としてそれ ぞれの専門家をまじえ て 討 論 を 行 っ て い る 。 今年度はかねて研究交 流をしていた華中理工 大学高等教育研究所と 共催し、広く中国の状 会 場 風 景 況を研究することを目 的とし、多くの参加者 を得るため会場を中国 に も と め た 。 報告者は華中理工大 学から六名(内一名は 病気の為未発表)、当 研究所から四名が参加。 通訳として、華中理工大学日語教研室助教授・陳俊森氏、当研究所研究員 0 八 -王慶根氏を依頼した。東京で製作したパンフレットを二ヶ月前より配布 していたこともあり、シンポジウムへの参加希望者が相当数にのぼり、会 場との関係で一校二名の参加に制限することになった。両日の参加者はお よそ、二二日日七

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名、二三日 H 五

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名を数え活発な討論が行なわれた。 マイク、部 特 に 一 一 一 一 日 は 不 幸 に も 休 電 日 に あ た り 、 気 温 五 度 の 中 、 暖 房 、 屋の照明もないという状況であったが、会場には熱心な参加者が真剣に耳 を傾むけている姿が印象的であった。またこの催しには湖北教育報(湖北 主な参加校 教育社)の記者も来場し、取材にあたっていた。 湖北省教育科学研究 所、武漢測絵科技大学、 武漢地質大学、中南財 経大学、同済医学大学、 武漢水利水電大学、武 漢工業大学、武漢工学 院、湖北大学、武漢化 工学院、武漢糧食工業 学院、江漢大学、武漢 水運工業学院、中南民 族学院、中南政法学院、 湖北工学院、華中師範 大 学 。 会 場 風 景

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研 究 例 会 教育の現代的課題 イ ン ド ネ シ ア の 躍 進 す る 民 間 企 業 グ ル ー プ ( 一 二 月 一 一 日 ) 研 究 員 米

丸 田 石油ボナン、ザに支えられて、輸入代替工業化・国産化を指向し高度成長 を達成した一九七

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年代とは対照的に、 一 九 八

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年代に入るとインドネシ アを取り巻く環境は急速に悪化した。原油価格は一九八一年の初頭の一パ レ ル 当 た り 一 一 一 五 ・

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クに下落し二九八二年の世界経済の 景気後退の巨大な圧力の下で、原油およびその他農鉱産物の輸出は減少し、 国際収支、財政収支は悪化した。それを契機にして政府は従来の輸入代替 工業化から輸出指向工業化へ、石油依存の経済から脱石油依存経済への本 格的構造調整に取り組み、非石油・ガス製品輸出の促進と外国資本や民間 活力を重視した規制緩和政策を基調とするに至った。 一九八三年三月には 過大評価されたルピアの切り下げが行なわれた。引き続いて六月には銀行 システムの規制緩和の為の一連の政策が導入された。それは民間銀行の利 子率の規制を緩和し、貸出限度額を準備金管理制度に置き換え、民間金融 の貯蓄を促進し、金融資金の配分を改善し、通貨政策のより効率的な運営 を可能にするもので、 それ以後の金融部門での改革の体系的な展開を容易 にするものであった。 マクロ経済の効率化を狙い中長期資金の調達の為の 環境整備を目的とした、金融部門の規制緩和を先行させ、民間企業の活動 を活発化するために種々の規制緩和政策パッケージを打ち出した。 一 九 八

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年代後半の一連の規制緩和政策は民間企業活動に様々な活力を与え、多 く の 民 間 企 業 、 なかでも林紹良

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率いるサリム・グル l 研究会合報告 プを筆頭に華人系企業の成長に寄与した。大統領の家族、高級官僚・軍人 の子息達もプリブミ系企業家として企業活動に加わり活発化させた。 インドネシアの金融制度は厳しく統制されていたが、 一九八三年六月の 銀行業の規制緩和政策により金融部門のその後の体系的な展開を可能にし た。緩和政策の要点は次の様なものである。

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貸出限度制度を廃止し、銀 行は出来るだけ多くのクレジットを提供することが出来るようになった。

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定期預金およびクレジットの利子率に対する管理に終止符を打ち、銀行 は自由に頑金金利を設定できるようになり、民間ビジネス部門や家計部門 からの頑金獲得競争を行なうことが出来るようになった。

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インドネシア 銀行が提供する流動性クレジットの廃止。銀行自身が流動性資金源を見つ け出さなければならないことを意味する。 一九八四年二月には公開市場操 作をサポートするインドネシア銀行の債務証書、約束手形、割引制度など の金融市場手段を導入、通貨当局としてのインドネシア銀行の通貨供給の コントロールを可能にした。 一九八三年六月銀行業規制緩和政策において触れられなかった点は、新 規参入に関するものであった。 一九八八年までは外国系銀行は首都のジヤ カルタにおいてのみ営業を許され、民間銀行は統合合併が奨励された。 九八八年一

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月二七日の規制緩和政策パッケージは多くの参入障壁を除去 し、銀行部門における競争をもたらした。 一定の条件さえ満たせば、新規 民間銀行や外国銀行との合弁も可能となった。 貿易政策の改革は一九八五年と一九八六年に初めて実施されたといって よ い 。 一九八五年一二月に関税率表の総合的改革が行なわれた。関税率の上 限を二二五%から六

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に引き下げ、関税グループの数を二五から一一に 二

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研 究 会 合 報 告 減らし、大部分の製品 の関税率を五%から 五%に設定し、関税率 一五%未満の関税品目 の割合を五九%から八 米田公丸研究員 二 % に 拡 大 し た 。 八五年四月には貿易改 革の効果を加速するた めに、大統領令により 港湾と税関の運営を含 む国際海運に焦点を合 わせて運輸部門の改革 を行なった。運賃コス 手続き改善措置の導入、 を短縮するために、外国海運の入港、国内船便運賃表、運賃先払い、税関 トを軽減し手続き時間 インドネシア輸出入の大部分の税関管理(輸入認 し た 。 証業務)をスイスに本社のある

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に移管 一九八六年五月には輸出業者に国際価格での投入財を提供するため に、生産者兼輸出業者および間接輸出業者は制限を受けずに輸入関税を免 除されて輸入投入財を購入出来るようになる。 一 九 八 六 年 一

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月には輸入 き 下 げ 、 免許取得に対する制限の軽減、圏内で生産されない輸入投入財の関税の引 一九八七年一月輸入免許のより一層の軽減を目指す再編および関 税のみによる産業保護への移行、投入原材料としての繊維および鉄鋼の輸

入 の 簡 素 化 、 一九八七年四月には GATT 規則に沿って、輸出補助に関し て一次産品への輸出融資の利子率を年九%に、 それ以外の産品を年率一一 % に 定 め た 。 一九八七年一二月には非関税障壁を解除するか関税の調整に 大きく依存するように変更した。 いくつかの種類の輸出許可は廃止され、 投資調整局の援助の下で設立された会社に与えられていた優遇措置は撤廃 九 さ れ た 。 インドネシアの海運業は大きな規制を受けていた。 一九八八年一一月二 一日には種々のタイプの海運活動への参入の自由拡大、航路制限の撤廃、 政府の承認を受けずに大きさ、 タイプに関係なく外国船をチャーターでき るようにする措置を導入した。インドネシアの事業主体が政府の承認を受 けずにインドネシア船を売却・購入出来るようになり、船のドック入れに 対する管理も撤廃された。これにより一隻のチャーターでもリ

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スでも船 会社の設立が可能になった。外洋航行船の数は一九八四年の四八隻から一 九八七年には三五隻、総トン数は同時期に七三二、

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ト ン か ら 四 四 六 、

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ト ン に 減 少 し た 。 一九八七年の貨物の取り扱い量は僅かに一千九百 万トンに過ぎなかった。因みに一九八七年の輸出輸入量は一億五七百万ト ンであった。国内の海運業界は一万トン以下の船舶の購入は国内の造船所 から購入することが義務づけられている。インドネシアの国内建造船の価 格は大型船になればなるほど外国船に比較して著しく競争力を持たない。 国内造船業の保護が未だ働いている。不定期貨物船の運航は望ましくない と 考 え ら れ 、 そのための海運会社の設立・申請の手続きは困難かつ複雑であ った。世界で最大規模の島嶋田家インドネシアにとって海運業は不可欠な も の で あ り 、 その経済活動は年間一五億ドルに達する。輸出を通して経済

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発展を指向する時、海運業の大幅な規制緩和は効率的な海運業への転換の 契機になることは間違いない。 一九八八年一一月一二日パッケージで外国企業の国内取引業務禁止が解 除された。したがって、国内取引目的の合弁企業を設立して自社製品の卸 売り業務に従事することが出来るようになった。また二九八六年二九八 七年の輸入規制緩和で触れられなかった、輸入免許に関する規制も自由化 された。このパッケージは

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七 桁 で 一 一 二 八 品 目 、 一九八七年の総輸 入の八・O%をカバーしている。そのうち分けは、登録輸入業者

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一O月二七日パッケージ までに登録の要件を満たした者)に輸入可能となった。金額で約六億ドル で あ る 。 一九八七年の輪入の五・二%に相当する。しかし、 一七品目に関 しては自由化は限界的なものに留まっている。そのうち一五品目はクラカ タウ・スチール社が輸入権を保有している。 一九八O年から一九九O年にかけての圏内投資認可状況をみると、 八O年のニ兆八一七三億ルピア(一五九件)、 一九八一年の二兆二九一八 億 ル ピ ア ( 一 六 四 件 ) 、 一九八二年の三兆六一六O億ルピア(二O五件﹀ から一九八三年には六兆五七O一二億ルピア(三三五件)と大きく増加し、 一九八四年には投資額が二兆一O九O億ルピア(一四五件)と減少し、 九八五年三兆七三六二億ルピア(二四五件)、 一九八六年四兆四一一五億 ルピア(一一二五件)から一九八七年には一O兆四五一六億ルピア(五七一 件 ) に 増 加 し 、 その後一九八八年一四兆九O四七億ルピア(八四七件)、 研究会合報告 一九八九年一九兆五九三九億ルピア(八六三件)、 一九九O年五九兆八七 八四億ルピア(一三二九件﹀と驚異的な増加を示した。 一九八三年に始ま る規制緩和政策が圏内投資に積極的に影響を与えたことが示されている。 一 九 六 八 年 か ら 一 九 九 O 年 に い た る 一 一 一 一 年 間 の 圏 内 投 資 認 可 状 況 は 、 七 O二七件、累積認可額は一四四兆八八四七億ルピアである。産業別にみる と、農業一七兆二O六九億ルピア(六三四件)、林業三兆二八一一億ルピ ア(三二三件)、漁業二兆七八八四億ルピア(コ三四件)、鉱業二兆五三九 億 ル ピ ア ( 一 一 八 件 ) 、 工業九九兆九三二億ルピア(四、六五二件)、建設 業八七二ハ億ルピア(七二件)、 ホテル業一三兆六四九三億ルピア(玉O 六件)、運輸業三兆七七四四億ルピア(二三八件)、 その他サービス業二兆 一七五九億ルピア三六O件﹀である。工業部門を投資金額の大きなもの から見ると、化学産業が二七兆六七四O億ルピア(八九一件﹀、繊維産業 が二一一一兆三一一一億ルピア(一、O七七件﹀、製紙業一一兆六九七O億ル ピア(二五六件)、非鉄金属産業一O兆七一三億ルピア(二四九件)であ る。投資件数では繊維産業、化学産業に次いで食品産業が七兆二一OO億 九 ルピア(七三四件)、木材産業が七兆三五六七億ルピア(六九O件)、金属 産業が五兆九一七億ルピア(五四五件)である。 化学産業の具体的な業種として、 セメント、化学肥料、紙パルプ、石油 化学をあげることが出来る。 セメント工業は国営パダン・セメント工業 (一九一O年﹀は別格として、国営グレシック・セメント工業(一九五七 年、国営トナサ・セメント工業(一九六八年)、国営パトゥラジャ・セメ ント工業(一九八O年)と国内の需要増加に呼応して発展してきたが、 九 八

0

年代には新しいセメント工場が一つ加わった。国営インド・セメン

(20)

研究会合報告 ト・トゥンガル・プラカルサ工業(一九六八年)である。民間企業への政 府出資による合弁事業であるが、 スハルト大統領のいとこに当たるスドイ カトゥモノ

( ω

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邑}州国同 B O ロ O ) がパートナーである。化学肥料産業は国営 企業がほとんどを占めている。国営スリウィジャヤ肥料工業(一九六三 年﹀、国営クジャン肥料工業(一九七八年)、 アセアン・アチェ肥料工業 (一九八三年﹀、国営東カリマンタン肥料工業(一九八四年)、国営イスカ ン ダ l ルムダ肥料工業(一九八五年﹀が主なものである。紙パルプ産業は 資本集約的かつ技術集約的産業である。国営企業としてクルタス・パダダ ラ ン 工 業 、 ク ル ク ス ・ プ ラ パ ク 工 業 、 クルタス・ゴワ工業などのかなり老朽 化した設備の工場があるが、紙の需要増に合わせて一九八

0

年代はじめに 生産能力の大きなクルタス・アチェ工業やクルタス・クラフト・チラチヤ ツプ工業が設立された。 一 九 八

0

年代後半になって、民間企業グループの シ ナ

l

ル・マス・グループ、ラジャ・ガル

l

ダ・マス・グループ、 ア ス ト ラ ・ グ ル ー プ 、 カリマニス・グループが事業計画を認可されている。全て の生産が実現すると、年間生産量は一

OO

万トン近いものとなる。 石油化学産業への関心は豊富な石油・天然ガス資源をパックに一九七

O

年代はじめから現われていた。 し か し 、 それが本格化するのは一九八

O

年 代になってからである。石油化学産業計画は第三次五カ年計画(一九七九 ー 八 一 一 一 年 ) の も と で 、 アチェのオレフィン・センター、南スマトラ州。フラ ジュのアロマティック・センター、 チレゴンのカーボン守フラック、東カリ マンタンのプニュ島のメタノール・プラントの四大プロジェクトがあげら れ た 。 一九八一年以降の石油価格の低迷と世界不況によりプロジェクトの 延期縮小をよぎなくされ、実現したのは一九八六年のメタノール・プラン

ト、アロマティック・センターの高純度テレフタノ l ル酸プラントのみで、 オレフイン・センターは延期、 カーボンブラックはパートナーの撤退で挫 折した。第五次五カ年計画(一九八九

l

九三年)では、石油化学産業はプ ラスチックや合成繊維の川中・川下産業への原料供給部門と位置づけられ ている。石油化学産業に関係する国内企業グループはビマンダラ・グル

l

プ(スハルト大統領の次男)とフンプス・グループ(スハルト大統領の三 男 」ノ サ リ ム ・ J グループ、パリト・パシフィック・グループ、 メガ・エルト ラ・グループがあげられる。 ピマンダラ・グループは石油化学産業のみならず、石油・

LNG

関 連 の 輸送、販売を含めて広範な事業活動を行なっている。 木材加工産業の一九六八年から一九九

O

年までの投資実績は二兆一八八

O

億ルピア(四

OO

件)で、同期間の投資認可額は七兆三五六七億ルピア ( 六 九

O

件﹀である。外国投資企業の投資認可は一

O

四件である。投資認 可状況は一九八六年には一

O

七一億ルピア(一九件)であったが、 一 九 八 七年には八五六六億ルピア(八二件)、 一九八八年一兆四五九一億ルピア ( 一 四 九 件 ) 、 一九八九年七七三一億ルピア竺二

O

件 ) 、 一 九 九

O

年 に は 八兆二七五五億ルピア(一一六件﹀と急増している。インドネシア政府は 一 九 七

0

年代の終わりに原木輸出を段階的に製材・合板輸出へ切り替える 政策を打ち出した。 一九八一年には一九八五年の原木輸出完全禁止に至る 移行期間、合板工場を建設する企業にのみ原木の輸出を認めた。 一 九 八 二 年から一九八三年にかけて製材・合板生産会社が新設された。 一九八四年 から一九八六年にかけて合板市況が悪化したが、 一九八七年には市況が回 復 し 、 一九八九年にはインドネシアの合板輸出は二六・六億ドルに達した。

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