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映画における「男装」についてのいくつかの考察
序章 衣装と性、スクリーンにおける機能
2第
1 章 「異性装」に関連する概要
8第2章 ディートリッヒが『モロッコ』で作りあげたもの
・・・スタンバーグの戦略を凌駕するマレーネの両性具有的なエロス 16第3章 『アニー・ホール』のマニッシュ・ルックに関する考察
・・・アニー・ホール・ルックに倒錯的官能性を見出すことは可能か否か25
結論 『セルロイド・クローゼット』の限界、今後への期待
35フィルモグラフィー一覧
37参考文献一覧
44写真一覧
47序文
衣装と性、スクリーンにおけるその機能
オードリー・ヘップバーンがアカデミー賞衣装デザイナー賞のプレゼンター を務めた際、壇上にて「衣服がその人を創るとしたら、衣装デザイナーはまぎ れもなく俳優をも創りあげてしまうのです。衣装デザイナーは単に映画に不可 欠な存在というだけでなく、映画の登場人物たちの輪郭を創りあげ、その人物に 命を吹き込む役目を果たしているのです。それはどんなすばらしい演技を持っ ても成し得ることができないことです。・・・(以下略)」と、衣装デザイナー達 に尊敬の念を表したスピーチを行っていた(註1)。 仮に上の文章の中にいくつかある「デザイナー」という文字を除いても、全 く同じような説得力を持ち我々に説明してくるのである。それほど、「衣装」と いうものは物語の中の役を形成するにあたって最早不可欠と言い切っても良い かと思うほどの威力を発揮しているのだ。 もっとも現実の世界においても、衣装つまり服装というものは「記号」とし て各々の人間のアイデンティティを如実に表現するものであることは言うまで もない。例えばある人物が「従属している場」や「所属しているテリトリー」 などを表すものとして「制服」というものがこの世界に存在しているわけであ るし、また普段我々が着用している衣服から察知することができるものとして 考えられるのはその人の階級、貧富のぐあいや趣味嗜好といったところである。 そしてその中でも、何より我々が衣服から読み取れるものとしての筆頭が、各々 の人々が普段あてはめられているとされる「性」であると言える。 映画に関して言えば、その表現おいては男性/女性で明らかな「相違」が感 じられる。特にMGMやパラマウントといった撮影所の専属デザイナーが隆盛 であったころは顕著なもので、女優は豪華絢爛のドレスで着飾り、対して男優 は渋めの色のタキシードを着用し女優を引き立てるという傾向が見られる。し かし果敢にも、そのような傾向に反した衣装を着用しスクリーンに登場する俳 優達も、この 100 年あまりの映画史の中では何人も存在していた。つまるとこ ろの性の「倒錯性」に挑んだ/挑む必要があった役割、というわけだ。 その「倒錯性」にも一連の「傾向」というものがある。それは、女装におけ る「喜劇性」と、男装における称賛に値する「エロス」である。ただ現代に至るまで、ステラ・ブルージBruzzi, Stella“undressing cinema clothing and identities in the movies”において紹介されている様に、(特に 名の知れている)男優の女装においては「コメディ」的な要素は強いものなの だがその反面で、男装による両性具有的な「エロス」を感じさせる作品を創り 出すのは、現代においては時代背景の力を借りなければ成立することは困難な こととなってきている。 映画における「衣装」は長い間研究が遅れており、それは映画という「娯楽」 の付属にすぎなかった。もっともだからこそ、観客はそのゴージャスさや「粋」 に酔いしれ、スクリーン内で男優/女優達が着用していた衣装をそのままコピ ーしていた。またモードの世界においても、マレーネ・ディートリッヒの男装 に影響されたクリスチャン・ディオールの“スモーキング・スーツ”のような、 多大なるインスピレーションの源となることも多々あったわけだが、それを映 画の「魔法」と一言で片付けることが比較的簡単にできたのである。 しかし撮影所のシステムが崩壊すると、映画により「リアリティ」を持たせ ることを優先してしまうようになると、「魔法」はその効力を失っていくわけだ が、それに伴って、ようやく衣装に対する客観的な考察が進むようになっていっ たように考えられる。そういう意味では、やはり一種の「進歩」がそこにある と言えよう。 また一方で、映画における「性=セクシュアリティ」についての研究は、E・ アン・カプラン、クレア・ジョンストン、ローラ・マルヴィ、テレサ・デ・ロ レーティス、ジュディス・バトラーなどのフェミニスト達による、それまでの 男性的視点のみの追及に対する告発や、ゲイ解放を訴えるアクティヴィティの 活発化と相まって、その著作に基づいて『セルロイド・クローゼット』(ロブ・ エプスタイン、ジェフリー・フリードマン監督、1995)として映画化までされ
たヴィト・ルッソRusso, Vito“the celluloid closet Homosexuality in the Movies”を始めとして主にアメリカにおいて 1980 年代からはかなり進歩して いると言えるであろう。
しかしその一方で、女性同性愛者=レズビアンに対する研究は遅れをとって いるどころか、レズビアンというアイデンティティを抱く人物が登場する作品 は、ゲイのそれと比べ、圧倒的に本数は少ないのである。『セルロイド・クロー
ゼット』でも、その比率の少なさは際立っている。 もともと、ハリウッドという映画産業は、徹底した「女性嫌悪」が存在して いたといわれる(註2)。ハリウッドは、製作者という立場に関しては女性を閉 め出してきていた。ハリウッド黎明期においては女性による映画製作はかなり 頻繁に行われてきたし、アリス・ギイという優れた女性監督も何人も存在して いた。しかしこれがうまい商売になるということが実証されると、その市場に 段々と男性が侵入し、女性を排除していってしまった(註3)。このようないき さつから考えても、ハリウッドが男性優位の立場から製作した作品が圧倒的多 数になるのは当然のことであり、女性はそこで男性の“まなざし”のためだけ に、「窃視症的欲望」を満たすためだけに機能していたと言っても過言ではない のだ。 それにアメリカは「自由の国」と謳いながら一方で保守的な一面を持ち合わ せているから「ホモセクシュアリティ」という、性的にマイナーな人々は抑圧 の対象になったわけである。1934 年に発足した「ヘイズ・コード」(プロダク ション・コード)によって性的に倒錯している人物を描くことは禁じられてい たわけだから、ここに、レズビアンがはめられた二重の「檻」を我々は見るの である。 この「檻」はヘイズ・コードが1968 年に名実ともに崩壊しても結局は根強く 残り、バーバラ・ハマーなどレズビアニズムの映画作家たちの中には商業映画と は一線を画した『ナイトレイト・キス』(バーバラ・ハマー監督、1992)のよう な前衛作品へとのめり込んでいく者が多数現れるのである(註4)。 石原郁子によれば、レズビアンの女性が登場する映画は男性監督によるもの が多く、その中には《一種の夢想に似た美的世界、男性が踏み込むことを禁じら れた世界への憧れ、美しい謎、といったかたちで描かれたものだった。(中略) 男性の愛する女性同性愛の映画は、〈女性は男性に鑑賞されるもの〉という、古 い枠を強化するはたらきだけをしかねない困った固着を孕んでいる。》という、 男性の「まなざし」の欲望を満たすのみの役割に留まっている作品も多く見受 けられることを指摘しており(註5)、ハマー等とはまた違った、純粋に商業映 画として女性監督によるレズビアンの女性が登場してきたのは本当にここ近年 のことであったと説明しそしてこれからの展望の可能性を示唆し(註6)、我々 には「檻」が段々と消滅しつつある印象を受ける。 ここで衣装の話題にまた戻るが、トランスヴェスタイト、日本語で言うところ の服装倒錯 transvestitism は、ひとまずはホモセクシュアルと密接な関係性を もつものとして存在しているように考えられている。しかし、『セルロイド・ク ローゼット』にはまったくと言えるほどその存在については言及されていない。
もともと、トランスヴェスタイトとホモセクシュアルは必ずしも一致するも のではなく、特に現在では似て異なるものと考える場合、つまり服装倒錯的な 趣味を持ち合わせていても性的には全くのヘテロセクシュアルheterosexual と いう場合も多々見受けられる。どちらにしてもその昔はフロイトやラカンらに よって「精神病」の一種と認識されることがあったわけだが、それゆえに少な くとも映画においては、1934 年からその効力を発揮していたプロダクション・ コードにおいては性的倒錯を描くことが公に禁じられており(註7)、異性装 cross-dressing も観客には性的倒錯を招くものとして、異なる性の衣服を着用す る際には、特に女装に関しては「強制的シチュエーション」を前提とすること が必要であった。卑下すべき存在の性に自ら成り下げるという自虐行為に値す る女装というものがコメディ性を強く帯びるのはそのためである。このあたり のことは第1 章でも言及することにする。 しかし、そのような時代を経て、『プリシラ』(ステファン・エリオット監督、 1994)のような真っ向から「ドラァグ・クイーン」drag queen を登場させた作 品も製作されるようにまでなってきている(註8)。ちなみにこの作品はアカデ ミー賞で衣装賞を受賞する快挙を成し遂げている。 『セルロイド・クローゼット』のラストではこんなナレーションが流れる。 《スクリーンで見せさえすればゲイが市民権を得ると考える人たちを今でも ハリウッドは恐れている。でも、見せることで、ゲイも人間とわかる。 映画が人間の真の多様性を認めれば―観客をもっと笑わせ泣かすことができ る・・・・・》(註9) このフレーズがホモセクシュアルについてだけでなく、今後の映画において 望まれる展開のすべてを物語っていると思われる。 映画を「芸術作品」と見る傾向も強まってきつつある現在、映画に関する可 能性はまだまだ掘り下げられる余地があるはずである。そのためにも、性的に関 することだけでなく、ありとあらゆる観点からの考察がこれからも求められる と考えられるのだ。 そして本論ではそういった中でも、やはり映画作品で主に女優の男装を通じ て「性」と飛び越えていると見受けられる事例を取りあげ、そこに倒錯性を見 出し得るかをふまえたうえでそれぞれの考察をまとめられる限りまとめようと 試みている。 ここでは基盤となる文献としては、先に挙げたルッソとブルージの著作の他 に、1930 年代のハリウッドにおけるレズビアンの描写を考察するものとして、
Representability”、翻訳がされているものであれば、モリー・ハスケル著、海 野弘訳『崇拝からレイプへ 映画の女性史』(平凡社、1992)、E・アン・カプ ラン著、水田宗子訳『フェミニスト映画/性幻想と映像表現』(田畑書店、1985) などを主に踏まえている。 (註1)オードリー・ヘップバーンが衣装デザイナー賞のプレゼンターを担当したのは 1985 年度、第 58 回のことであった(実際に開催されたのは 1986 年のこと)。 彼女自身、フランスのオート・クチュールデザイナーであるユベール・ド・ジ バンシーとの黄金のコラボレーションによって世界中の映画ファンを魅了した わけだが、オードリー自身、およそ女性らしくない骨ばった体をうまくカバー したうえで魅力的に演出してくれた衣装の数々によってスターとなったと言っ ても過言ではなかったわけであるから、このスピーチには他の女優では表現し きれないであろう程の説得力があると思う。ちなみにこのときの受賞者は『乱』 (黒澤明監督、1985)の衣装デザインを担当したワダ・エミ。 (註2)内田樹『映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想』第 3 章『アメリ カン・ミソジニー―女性嫌悪の映画史』において、冒頭で《アメリカの男はア メリカの女が嫌いである。私の知る限り、男性が女性をこれほど嫌っている性文 化は地上に存在しない。》と述べ(p.213)、《ハリウッド映画がその全史を通じ て強烈な女性嫌悪にドライヴされていることについては深い確信を有している。 これほど激しく女性を嫌い、呪い、その排除と死を願っている性文化を私は他に 知らない。》(p.218)とまで言い切っている。内田氏はこのようなことを踏まえ たうえで、この理由をフロンティアにおける「男女比率不均衡」を手掛かりと した解釈を本文内で進めている。 (註3)このあたりのいきさつは、高野悦子『女性が映画をつくるということ』(朝日文 庫、朝日新聞社)に詳しく記述されている。
(註4)この事例の説明として詳しく述べられている著作として、Dyer, Richard “Now you see it studies on lesbian and gay film ”の第5章”Lesbian/woman: lesbian cultural feminist film”p.169∼200、E・アン・カプラン『映画のフ ェミニズム 性幻想と映像表現』などがある。 (註5)石原郁子『菫色の映画祭 ザ・トランス・セクシュアル・ムーヴィーズ』p.206。 またそのあとで、これとは逆に、女性への共感を明確にし、女性同士の愛情を自 然なものとしてとらえている作品も数多くあるとの言及がなされている。 (註6)石原郁子、前書、註5、p.231∼236。 (註7)『プリシラ』では3 人のドラァグ・クイーンが登場するのだが、その性的嗜好は 性転換者、バイセクシュアル、など、三者三様であることは注目に値すると思
う。一般的に白/黒のような感じで男性/女性と安易に二分しがちな我々は彼 等の姿に、性の「グラデーション」を感じ取るべきなのである。 (註8)プロダクション・コードでは、性的な対象に限定してもあらゆる表現が禁止事 項となっている。性的倒錯の禁止の他には、 ・白人と黒人の間の性的関係の描写の禁止 ・過剰で激しいキスや抱擁の描写の禁止もしくは抑制 ・(具体的でも抽象的でも)出産に関する描写の禁止 ・レイプは物語の筋として不可欠であるとしても、明確な描写はしてはならな い。また、それを喜劇的に扱っては決してならない。 などなど、現代のモラルの度合いでは考えられないような事項が多岐にわたっ ていた。
参 照 :Doherty, Thomas “Pre-code Hollywood sex ,immorality, and insurrection in American cinema 1930-1934”p.347∼367。
(註9)映画『セルロイド・クローゼット』(ロブ・エプスタイン、ジェフリー・フリー ドマン監督、1994)ラストのナレーションより。
第 1 章
「異性装」に関連する概要
それは『モロッコ』(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督、1930、写真①) の冒頭から5分ほどたった、場末の酒場での場面である。ヒロインであるマレ ーネ・ディートリッヒ演じる歌姫アミー・ジョリーは、本来は西洋男性の正装 の一つとされるエンビとシルクハットにくわえタバコいう出で立ちで観客の前 に登場する。その凛々しく且つ神々しい姿に客席からは驚愕と称賛が入り混じ ったようなどよめきがおこる。またそれは罵声とも捉えられよう。ゲーリー・ クーパー演じる外人部隊の兵士サムはそんな声々の渦の中にいる彼女を興味深 く見つめている。 それまで祖国ドイツで『嘆きの天使』(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督、 1930、写真②)の主演等で自らのキャリアを築いていたディートリッヒの、衝 撃的なアメリカデビューとなった。この作品によって彼女は永久にその名を映 画史に刻む足がかりを掴んだわけだが、同時に『モロッコ』は、少なくとも日本 においては「女性が、“男性所有のもの”という意味作用を持つアイテム(つま りエンビやシルクハット、そしてタバコなどであるが)を身にまとって登場し た初めての作品」との認識をしている人もいるようである(註1)。 『モロッコ』が制作された 1930 年代というのは、トーキー映画隆盛の時代で あるとともに「女優の時代」の幕開けでもあり、監督や映画制作会社はありと あらゆる手段を用いて主演女優をいかに彼女たちの個性を生かした上で美しく スクリーンに映し出さんと躍起になったものであった。アミー・ジョリーのよ うな男装もそのような手段のひとつであったと言える。事実、『モロッコ』の監 督であるジョゼフ・フォン・スタンバーグは、ディートリッヒをドイツからハ リウッドへと連れてくると共に、彼女のあの完璧なまでに退廃的なスタイルを ありとあらゆる方法で「演出」し尽くしたのである。またディートリッヒ自身 も積極的に自らの演出に加担したと言われる。 この他に、1930 年代は女優が男装する作品がちょっとした流行となったので あるが(註2)その中でも、スター級の女優が男装してスクリーンに登場した 作品として真っ先に人々の頭に浮かんでくるのは『クリスチナ女王』(ルーベ ン・マムーリアン監督、1934、写真④)や『男装』(ジョージ・キューカー監督、1936、写真⑤)(註3)といったところではないだろうかと思う。 ところでここで、我々は上に挙げた作品のヒロインを演じた女優の特徴を考 えるとき、ある共通項が思い当たることになるだろう。ディートリッヒや、『ク リスチナ女王』のタイトルロールを演じたグレタ・ガルボ、そして『男装』の ヒロイン、シルビア・スカーレットを演じたキャサリン・ヘップバーン、3 人と も現在に至るまで純粋に「女性的」というよりはやや「中性的」もしくはそれ に近しい言葉で形容されることが比較的多いと思われる女優たちである。例え ばキャサリン・ヘプバーンは女性としては長身で、ふくらみの少ない体つきで かつ端正を極めた様な顔立ちであるし、グレタ・ガルボは、ヘプバーンに比べ れば幾分か女性的ではありそうだが、やはり当時の女性としては大柄で、衣装 で女性らしく見せることに苦心したと言われる(註4)し、その表情は何より もロラン・バルトの言葉を引用するところの、 《ガルボは、被造物についてのある種のプラトン哲学的なイデアを見させる ものである。しかもそのことは、彼女の顔がほとんど性のない、だからといっ て怪しげなものの全くないということを説明するものである。映画が(王女ク リスチーヌは、交互に女性であり、若い騎士である)この共有を引き起こすこと は確かである》 と、とてつもなく「人工的」である(註5)。また、ディートリッヒは彼女達に 比べたらはるかに「女性的」とされる体型であり、またガルボと同じく「人工 的」であるものの、ガルボが契約を交わしていたMGMの専属衣装デザイナー エイドリアンの助言を受けてそうしていた彼女と違ってディートリッヒはもっ と自主的に、タバコを吸うなどのしぐさなどで自分自身の雰囲気を「中性的な もの」として演出していた。 (女優というものが映画の中で最も輝いていた時代における、「主演女優の魅 力を引き立たせるための男装」ということについては、次の章で『モロッコ』 を中心に、先ほどのディートリッヒとスタンバーグによる徹底的な演出方法と 絡めて詳述することとする。) ところで、そもそも異性装というのは見る者つまり観客にとってどのような 思いを抱かせうるものなのであろうか。例えば日本の能や歌舞伎、中国の京劇 などに見られる「女形」の男優は舞台上で本物の女性以上とも思えるほど匂い 立つような美しさを振りまき観客を虜とするものだが、このような伝統的舞台 芸術の場合は、加野彩子氏は以下のように説明をしている。 《このような異性装はもともと社会の秩序を転倒することによって再確認す
る儀式という意味があり、演劇の起源にあると言えるでしょう。・・・・》(註 6) しかし映画での場合は、もっと日常の感覚に近く、映画『セルロイド・クロ ーゼット』でも証言するシーンがあるように(註7)、男性による「女装」は嘲 笑の対象となるのが常であるのだが逆に、女性による「男装」は一転して称賛 と感嘆の対象となり得るのである。このような映画における異性装について、 石原郁子氏によって以下のように明快な説明がなされている。 《女装する男性は、長いあいだ映画の中で笑い物となり、二枚目の人気俳優 が女装するのは喜劇的役柄を演じるときだけだったが、逆に、女性の男装は、日 本の宝塚とも共通する華やかでかつ妖しい両性具有の魅力を誇示するとともに、 しばしば気高い凛々しさ、さらに悲痛なまでの生まじめさの内部で描かれてき た。それは、男装によって男性と同じ責任を果たさねばならないという主人公 の決意のためと考えられる。男性監督たちも、せっかく男性という高度な存在に 生まれながらわざわざ女性という低い立場をまねする男性たちを映画の中で嘲 笑ってきたのとは対照的に、いわば<男性の美点>を備えたそうした女性を尊 重し、魅力的かつ立派に描こうとしているようだ。》(註8) 女装する男性が登場する作品は『お熱いのがお好き』(ビリー・ワイルダー監 督、1959)や『僕は戦争花嫁』(ハワード・ホークス監督、1949)といった往年 の名作から近年の『ミセス・ダウト』(クリス・コロンバス監督、1993)など喜 劇が圧倒的に多いことに対して、『男装』は喜劇以外の何者でもないにせよ『モ ロッコ』や『クリスチナ女王』はかなりシリアスな印象を与える物語であり、 その他の例を見ても、やはり男性のそれと比べ「コメディ性」というものは幾 分希薄である。その理由は上の石原郁子の分析を基に考えると合点がいくので はないだろうかと思う。特に史実に基づいた作品での男装は、キリスト教の教 えにより異性装は重い罪のひとつとされていたその時代の社会背景の描写もあ って圧倒的に喜劇性は排除されているようである。例えば『クリスチナ女王』 はスウェーデンの歴史上に実在した、好んで男装をしたという女王についての 物語であり、その衣装とガルボの人工的な無表情さと相まって、本来男性が担 うものという認識が強い国王という地位についたことによるある種の「覚悟」 が感じとれるものである。 またこれまで数多く制作されてきたフランスの英雄“ジャンヌ・ダルク”を 題材とした中でも、特に映画史に名高い『裁かるるジャンヌ』(カール・ドライ ヤー監督、1927)では、簡素な男性用の服装で裁判に臨んでいるジャンヌに神官
たちが「そのいでたちは神の教えに背く恐れ多いものである」と告げ女性用の 衣服の着用を強く求めるが(註9)、それが彼女の敬愛する神の導きによるもの と堅く信じ抜いているジャンヌは毅然と拒絶するのである。 使命を背負う彼女の表情は全編を通してとてつもなく気高くまたあまりにも 悲痛に満ち溢れている。そしてジャンヌのまるで少年のような格好は、その表 情をさらに緊迫したものと捉えさせることに加担しているのは言うまでもなく、 それゆえに観客にとてつもなく強烈な印象を残すことに成功しているのである。 また、物語のラストで彼女は処刑台に向かってゆく際にはワンピース、つまり 女性のための服を着用しているが、その服装は、裁判にかけられている際の、 まるで神の怒りが乗り移っているかのような彼女の表情と、今自ら火あぶりの 道を選んで死に向かってゆく彼女の、あんなにも張り詰められていた緊迫感か ら解き放たれ「絶望」とも「達観」とも、どちらにも解釈し得るような表情と の明確な対比のための「引き立たせ役」を担っているように感じられるのであ る。 先に述べたとおり、女装する男性というものは嘲笑われ且つ軽蔑される立場 であり、そして社会に根強く蔓延しているセクシュアリティに関する保守的価 値観もあるゆえに、スクリーンに彼らが登場する際は何らかの「必然性」を要 する。特に名うての俳優が演じる場合はこの「必然性」、さらに言えば、そうせ ざるを得なくなる状況に立たされる「強制的環境」に置かれ、観客を納得させ ることが不可欠なものとなるのである。 例えば『お熱いのがお好き』でジャック・レモンとトニー・カーティスは殺 人現場を目撃してしまったがためにギャングに追われる羽目となり、その追っ 手から逃れるためにやむなく女装するのであるし、『ミセス・ダウト』の場合は、 ロビン・ウィリアムズが元妻のもとにいる子どもたちと一緒にいたいその一心 で住み込み家政婦に変身して彼女たちの住む家に潜り込むということがまず物 語の大前提にあった。 またフランス映画であるが『ベティ・ブルー 愛と激情の日々』(ジャン・ジ ャック・べネックス監督、1986)ラスト近くのシーンでジャン=ユーグ・アング ラード扮するゾルグも女装しているのだが、それは愛するベティが狂気の果て に病院に強制収容され、彼女に下された絶望的な診断に憤慨し暴れた挙句に彼 は立ち入り禁止となってしまう。その後ただならぬ決意を胸にして最後にベテ ィに会いに病院へと向かうためのやむを得ない行為なのであった(註 10)。 そもそも、少なくともヘイズ・コードが名実ともに崩壊する 1968 年までは、 公には倒錯した性を描くことが許されていなかったわけだから、ハリウッドの
スクリーンに登場する女装者は「性的な嗜好」つまり自ら好んで女性の衣服を 着用するキャラクターを持ち合わせることはまず許されないことであったと考 えていい。コード崩壊ののちレイティング・システムに移行してからでも、『プ リシラ』(ステファン・エリオット監督、1994)や『エド・ウッド』(ティム・バ ートン監督、1994)、『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(ジョン・キャ メロン・ミッチェル監督、2001)などのように、そのような嗜好を抱いている と観客にはっきりと示し得る役柄(特に主人公)が登場し、また比較的安易に 観客に受け入れられるようになったのはごく近年になってからのことであるよ うに思える(註 11)。 女優による「男装」にも女装と同じように、殆どの場合このような物語的必 然性が伴っている。先に述べた史実・原作に基づくものに関しては言うまでも ないだろうが、この場合も上で述べたヘイズ・コードの規約や、また第 1 章で も触れているとおり、圧倒的男性優位社会において、女性によって男性世界に どんな形であれ侵入しその秩序を脅かす行為を嫌悪する風潮も重なって、性的 趣味を持つ者としては殆ど描かれていない。 しかし男装の場合は、物語中の登場人物が好んでもしくはやむを得ず、という よりは、その作品外の人物、つまり制作する人物によって意図的に行っている ものというのもちらほら見られるのだ。その場合は、今まで分析してきたいく つかの作品のパターンとはまったく逆に、その物語の筋書きにおいて必ずしも 異性の服装で登場する必要性を持たないことがある。そしてその最好例こそが、 『モロッコ』でディートリッヒとスタンバーグが徹底的に創りあげた“アミー・ ジョリー”というヒロインであると思う。改めて考えてみれば、アミー・ジョ リーはあの場面でタキシードとシルクハットを着用する必要はかならずしも存 在していない。例えば一般的な女性的セクシーさを強調するようなドレスで登 場してもこの場合は別に何らおかしくはないはずなのである。さらに、彼女が 男装で登場するのはこの 95 分間の物語において実は酒場で歌手としてのデビュ ーを飾る、この文章の冒頭で説明したあの場面しかないのである。 彼らは意図的にそうすることによって、物語的必然性をはるかに超えた諸々 の事柄を観客つまり第三者に示しそれが大成功をおさめたのは間違いないこと であろう。さてその事柄とはどのようなものか、それは次項で考えてみたいと 思う。
(註1)多くの人は、このシーンを「映画史において初めて男装した女優がスクリーン に登場したシーン」と見なしている。後年への影響力ということを考えるとやは りこの映画は「パイオニア」のような役割を担っているのではなかろうかと考え られる。 (註2)このような状況に関して、モリー・ハスケルは『崇拝からレイプへ 映画の女性 史』(海野弘訳、平凡社、1992)で以下のように記述している。 《彼女(30年代のヒロイン)たちは、性的アイデンティティーと、恋人と互い に発散しあう魅力のオーラの中で非常に安定しており、それゆえ、いつでもホーム ベースに帰れるとう自信を持って役割を演じ、逆転させ、また役割から逸脱するこ とができた。(中略)・・・・・(性的な)役割を入れ替えるというアイデアは30年 代でも40年代でもよく用いられたが、30年代において役割を再検討することは、 性的、社会的な枠組みの安定性、“男性の役割”と“女性の役割”の等しい重要性、 男性と女性がその性によって分かたれるのではなく結ばれるような関係の重要性に 根ざしていた。》p.166 (註3)『男装』の、コンプトン・マッケンジーによる原作小説には『シルビア・スカー レットの若き日々と冒険の数々』というタイトルがつけられており、映画の原題 も『SYLVIA SCARLETT』である。ゆえにこの邦題は、ヒロインのシル ビア・スカーレットが巻き込まれる喜劇的な物語の内容よりもキャサリン・ヘプ バーンの男装を何よりの見所と当時の日本の観客に大々的に提示しようとした結 果であろうと考えられる。ちなみにヘプバーンは自伝でこの作品について「話全 体が空回りしている、どうしようもない駄作であった」と評しているという。 (註4)秦早穂子『スクリーン・モードと女優たち』文化出版局(1972)p.75、《彼女(ガ ルボ)は大きい女だったから、着るもので、女らしくみせることに苦心した。》と 記されている。ちなみに彼女の衣装は殆どをエイドリアンが手掛けているが、彼の、 ガルボの衣装に関する工夫として、《彼(エイドリアン)はけばけばしい宝石やレ ースは美しさにそぐわないとして、できるだけ排除した。》と、極力シンプルな衣 装を心がけ、ガルボ自身もそれに従い、プライベートでもパンツスタイルやツイ ードのコートを好んで着ていたそうで、秦氏は《このかまわない、男っぽい服装 は彼女の神秘的な美しさをことさら引き立てて・・・》と述べている。 (註5)ロラン・バルト著、諸田和治編訳『ロラン・バルト映画論集』ちくま学芸文庫 (1999)、p.192。ちなみにここで記してある王女クリスチーヌとはもちろんクリ スチナ女王のことである。諸田和治氏の訳はそのまま抜粋している。 (註6)加野彩子『演劇とジェンダー 歌舞伎の女形、宝塚の男役にみる女/男の作られ 方』p.97(『アエラムック78 ジェンダーがわかる。』朝日新聞社(2001)内の 一章)。ちなみに加野氏はここで、伝統的舞台芸術における女装だけでなく、女性 における男装についても触れており、「自分ではない他人になるのが演劇の定義で
あるとすれば、女が男を演じ、男が女を演じるのはまさに演劇の真髄があるわけで す。」と述べており、このようなパターンは男性による女装はギリシア演劇やエリ ザベス朝のイギリス演劇等世界各地の古典演劇にみられ、また女性による男装は シャーマンや日本中世の白拍子の演技などに見られる。またのちに社会制度の変 革によって女性が舞台芸術の世界から永らく締め出され、それに伴う女形の隆盛 の経緯を簡潔に説明している。 (註7)ロブ・エプスタイン+ジェフリー・フリードマン監督、前出作品、序文、註9。 ここで数少ない異性装についての証言が収録されている。《映画に登場する“シシ ー”(映画において、ひょろりとして口髭をつけ女性言葉を話し女性のようなしぐ さをする男性のこと―しかし、観客に笑われるための“キャラクター”の一種と 見なされるようになった様なきらいも見られる)は物笑いの対象でした。女であ ることは最大の罪です。女装の男は笑うべき存在ですが、男装の女は笑いの対象 でなく・・・・・・賛嘆の的でした。(中略)あのシーン(『モロッコ』で、タキ シード姿のマレーネ・ディートリッヒが颯爽と登場する場面)は男性にも女性に も人気があった、その後もあれほどセクシーなシーンはない。》ちなみに中略より 後は脚本家のアーサー・ルーベンスによるコメント。 (註8)石原郁子、前掲書、序文、註5、p.222。 (註9)この中世ヨーロッパのようにキリスト教の教義が絶対の支配を握っていた時代 においては、異性の衣服を着用することは、「神の怒りに触れるであろう恐れ多い 行為」と見なされていたのである。『裁かるるジャンヌ』では、この申し出を拒絶 したことが直接のきっかけとなって「お前は悪魔の娘だ」と神官達を怒り狂わせ ることとなる。 (註 10)ちなみにこのシチュエーションは、男優による女装というものがことのほか例 外的に“悲痛なもの”として観客に捉えさせる。これはまことに稀有なことであ ると思うのだが、それは単にアメリカ映画、フランス映画としての差異なのでは なく、例えば『お熱いのがお好き』などとは違って、女装することが物語の「基 盤」にあるのではなく、あくまで絶望的で且つ悲劇的な結末を迎える物語の進行 に「付随」しているにすぎないことの違いなのである。ただし、アメリカ映画に おいてはこのように女装というものが物語における「付随物」となっているケー スはなかなか存在しないように見受けられはするのだが。 (註 11)近年より以前にも、果敢にも、と言うべきなのであろうか、性的志向としての 「女装」をテーマとした作品として、まずヘイズ・コードが罷り通っていた時代に おいては、“映画史上最低の監督”として今日まで名を馳せているエド・ウッドの 初監督作品である『グレンとグレンダ』(エド・ウッド監督、1953)を考えないわ けにはいかないであろうと思う。この作品が、映画史において初めて「服装倒錯」 を主題としたもののひとつとの位置付けが一応なされている。ここで登場する女
装者達は、明確にそのような志向を持った者、「服装倒錯者」としてスクリーンに 登場している。ちなみに『グレンとグレンダ』では、この「服装倒錯」というも のを完全に「性倒錯」と見なしているように受け取れる。ところで出演者もウッ ドを始めとして殆どの者が実際に女装マニアであったということであるそうで、 このあたりのことは、彼の若き日を映画化したティム・バートン監督の『エド・ ウッド』にも描写されている。しかしウッドは同時代においては(もっともハリ ウッドの大手制作会社からは相手にされず、低予算インディーズでの活動ではあ ったが、それにしても)全くと言ってよいほど受け入れられず、何十年かの後に バートンたちによってカルト作家として彼のいくつかの作品と共に「発見」され るに至るのである。またヘイズ・コード崩壊後では、ウディ・アレンの初期のオ ムニバス作品『ウディ・アレンの誰もが知りたがっているくせにちょっと聞きに くいSEXについて教えましょう』(ウディ・アレン監督、1972)での一編『女装 の歓び』では、れっきとした服装倒錯を持ち合わせているのだがそれを周りの人々 に隠しとおしていること以外はごく普通の性格の持ち主である、少々恰幅が良い 中年男性が主人公となっている。彼は、物語の結末で親しい者たちに自身の女装 趣味を知られてしまうのだが、ラストシーンで妻には理解されつつも徹底的に病 気扱いされ、自らも「病院へ行ってみるよ」などと言って病気であることを認め てしまう。こちらでも『グレンとグレンダ』とよく似て服装倒錯を一種の精神病 として表現しているのだが、妻のあまりに嫌味に感じられる態度に、幾分時代が進 化したせいなのかアレンによる意図的なものなのか、一方的に服装倒錯を精神の 病気の一種と決めつける考え方を批判しているようにも受け取れなくない。
第2章
ディートリッヒのエンビ姿が創りあげたもの
・・・スタンバーグの戦略を凌駕するマレーネの両性具有的なエロス 前の項でも述べたとおり、『モロッコ』のヒロインであるアミー・ジョリーは ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督を初めとした衣装担当のトラヴィス・バ ントンやカメラマンのリー・ガームスなどのスタッフ、そして主演のマレーネ・ ディートリッヒによる完全な「創造の産物」であったし、スタンバーグ本人も 度々豪語していたという。 その創造の過程についての逸話は、ディートリッヒの伝記なども通じて、も はやありとあらゆる場で多くの人々によって語られていることではあるのだが、 スタンバーグと共にドイツからハリウッドに渡ったばかりの時のディートリッ ヒは、『嘆きの天使』(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督、1930)やそれ以 前のスチール写真を見るとよくわかるのだが、その頃からすでにまことに長く 形の美しい脚を持ちあわせてはいたものの、他の部分は全体的に、特に上半身 を中心にややずんぐりむっくりとしていたし、地毛も実は赤みがかっていたこ ともわかる。確かにそのままでも充分魅力的であるし、『嘆きの天使』のローラ =ローラのような、男性をあらがいようもなくようもなく虜にしてしまうセック ス・シンボルとしてならまだ通用すると思うのだが、アミー・ジョリーのよう な、救いようのない絶望感が漂う「死」のような雰囲気をふんだんにまとうヒ ロインに仕立てるにはやや無理があると思われていた。 そこで、ダイエットとフィジカル・エクササイズが彼女に命じられ、頬にこ けたようなくぼみを出すためにわざと奥歯を抜き、眉も本来の形を全く生かさ ずにペンシルであたかも針金のように細く細くカーブを描くように形成するな ど、徹底的な「肉体改造」が行われた。またそれだけでなく、スタンバーグに よる気だるく翳った表情を演出するためのメイクや照明の手法や演出、そして バントンによる妖しげなムードを醸し出すような衣装の製作、などに研究と言 っても過言ではない工夫が重ねられた。その結果として、いま私達が知るところ の妖艶でかつ両性具有的な女性像が創りあげられたのである。 このアミー・ジョリーという女の持つストイックなまでの「人工的な美」は、1930 年に初めてアメリカでこの作品が公開されてから現在に至るまで 70 年以上 もの間、世界中のありとあらゆる人々を魅了してきたし、これからも何らかの 形でしつづけていくのだろうと思う。 そして、この映画史に残る名作となった『モロッコ』の中で我々の興味を最 も引くもののひとつが、アミー・ジョリーが酒場の歌手として登場する際の、 黒いエンビを着てシルクハットを被った、あの姿なのである。 なぜ彼女はあのようなスタイルで我々観客の前に現れたのだろうか。 そこには現在に至るまであらゆるコメントがなされているが、まず考えられ るのは、全く表面的なものとして男性の「窃視症的」欲望を満たすための「戦 略」としてのスタンバーグ監督による演出である。 先にも少し触れたことだが、ディートリッヒと言えばその破滅的でかつ退廃 的な雰囲気とともに、百万ドルもの保険をかけたと言われるほど見事な脚線美 を誇ることでも知られている。エンビのスーツという、パンツを着用した姿は、 それを完全に隠してしまうことになるのであるが、前章で触れたとおり本編中 ずっと隠しているわけではなく、物語が佳境に差し掛かってくると彼女は脚線 を強調もしくは露出さえした衣装を着用することが増えていき、特に死と隣り 合わせの戦場に向かっていくアミー・ジョリーが想いを寄せる外人部隊の兵士 サムについて行くためにハイヒールを脱ぎ捨て砂漠の中を進んでいくラストシ ーンでは、カメラがそれまでの鬱憤を晴らすかのように惜しげもなくその脚を 捉えているのである。エンビのスーツにしても、パンツはやや細めのシルエッ トにしてあるから、彼女の脚線の優美さは比較的容易に想像ができるようにな ってある。 ちなみにその後の『間諜X27』(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督、1931) においても、映画の冒頭で彼女は夜の街中でひとり佇んで、下がってきたシル クのストッキングを元に戻している際の、細く美しい脚が大きく映し出されて いたりもしているから、スタンバーグがいかに彼女の脚線に執着していたかが 窺えるというものだ。 それを見ると、ディートリッヒの、主に「脚線」を期待している男性観客へ の「焦らし」の効果、初めのうちは温存しておき徐々に表に出していくことに よって観客により深い印象を残す効果への期待がそこにあると考えることがで きなくはない。つまりはこれよりハリウッドで「マレーネ・ディートリッヒ」 というドイツから来た女優を売り出していくための、制作会社による「マーケ ット戦略」であったということだ。しかし、このようにただ単にもったいぶっ て脚を隠すことのみが目的であるなら、タキシードではなくて例えばフルレン
グスのイブニングドレスだったとしても、別に観客は大して違和感を持たない はずなのだ。その上『モロッコ』が公開された 1930 年代というのはいまとは違 って異性の衣服を着用することはまだまだ人々の抵抗感が強かった時代である (註1)。 上で述べたような「表面的な戦略」以上のものを、セクシュアリティ/ジェ ンダーの意識が発達してきている現代に生きる我々は読み取るべきなのである が、前章で述べたとおりにこのような「女優の時代」と言われていた時代、ス ター級の女優を美しく登場させることが映画を製作する際の必要条件であった 作品が多い時代においては、監督はじめスタッフたちは主演女優を彼女達の個 性を生かしたうえでよりスクリーン内で輝かせる研究を欠かさなかったわけだ が、そのような手法の一つとして「男装」というのがしばしば用いられている 見方も確かに存在している。そしてそういう場合には多かれ少なかれ先のよう な「男性の視線を少なからず満足させるための戦略」として垣間見えるのであ る。もっともそれが、クレア・ジョンストンの言うところの、 《・・・女性は、記号としては映画のディスコースのなかでは贋の中心とな る。記号によって提示される対立は、男性―非男性の対立であって、スタンバー グは、ディートリッヒの肉体を男装につつむことによって、そのことを明確に している。この仮装は、男性が不在であることを意味しているが、その不在は 同時に男性によって否定され、また回復されている。女性のイメージは、たんに 除外されている痕跡であり、抑圧の痕跡でしかない。》(註2) という、徹底的なスタンバーグ批判につながっているわけでもあるのだが。 つまりは、このようにスターを魅力的に演出するための「戦略」としての男 装という手段は、上のような『モロッコ』に関してだけでなく、同時代の他の 男装したスター女優が登場する作品に関しても言えることではないかと考えら れる。 例えば同時代にディートリッヒと双璧をなしたグレタ・ガルボであれば、彼 女の代表作として考えられているのは主に『肉体と悪魔』(クラレンス・ブラウ ン監督、1927)や『マタ・ハリ』(ジョージ・フィッツモーリス監督、1931)、『グ ランド・ホテル』(エドムンド・グールディング監督、1932)あたりなのだろう が、人々が「ガルボらしさが一番よく引き出されている」という作品の筆頭は 『クリスチナ女王』であることが多いし、彼女自身も自伝で「最も等身大の自 分として演じることができた」と語っていたと言われている(註3)。体型も大 柄で声もやや低めであり、「男性的」「女性的」という言葉を形容するのが無駄 なものと思える程、どこか性を超越したような印象を受ける彼女にはうってつ けの役だったと言えるのである。ちなみにガルボにとって、ディートリッヒの 「脚」とほぼ同義であるものが「顔」であった。ディートリッヒも「顔」には
他と比べようもないほどの個性をもっているが、ガルボにとっての「顔」は「唯 一無比」と呼ぶに相応しかった。だからよく見てみると、ガルボの作品には彼女 の顔のアップが多用されているのがよくわかるのである。 また、高橋暎一が言うところの「ディートリッヒのパンツスタイルの追随者」、 そして多くの人々が同様なことを述べているキャサリン・ヘップバーンの『男 装』にしたって、監督のジョージ・キューカーは知的で勝気な印象の反面、快 活でおてんばな一面のあるヘプバーンのイメージを生かそうとして、『若草物 語』(ジョージ・キューカー監督、1933)の次女ジョー役などと共にあの作品を 選択し「ピーターパンのような」演出を施したのだろうと思われる。しかし先 に述べた通り、後年カルト作品として再評価されたものの、公開当時はこのヘ プバーンの男装はかなり不評で、物語も空回りしてしまい興行成績も散々たる ものであった。 ディートリッヒは映画史においてファッションが最も観客の印象に残ってい る女優のひとりとされており、『上海特急』(ジョゼフ・フォン・スタンバーグ 監督、1932、写真③)などで着用している黒のフェザーをあしらったグラマラ スなドレスや『天使』(エルンスト・ルビッチ監督、1937)での総ビーズをあし らったまことにゴージャスなイブニングドレスなども非常に観客に深い印象を 与える一方で、『間諜X27』や『ブロンド・ヴィナス』(ジョゼフ・フォン・スタ ンバーグ監督、1932)など、『モロッコ』以外の一連のスタンバーグが監督した 作品においても軍服やエンビなど男性的なスタイルで登場している。 その中でもE・アン・カプランは、『モロッコ』と同じようにディートリッヒ がタキシードを着て人前で歌っている『ブロンド・ヴィナス』についての考察 を『フェミニスト映画/性幻想と映像表現』で著しており、まず次のように記 述している。 《『ブロンドのヴィーナス』Blonde Venus は、あきらかに男性観客のためにつ くられた映画であり、女性の肉体をフェティッシュ化する代表的なやり方を通 して女性を圧倒する、という方法を用いている。(中略)『ブロンドのヴィーナ ス』で、ディートリッヒはまず最初、ガルボが『椿姫』においてしたと同じよう に、ヘレンを男の〈まなざし〉の対象として位置付ける。(中略)へレンは、例 えばナイトクラブで歌を唄ってカネを稼ぐ時、たいへん意図的に彼女自身の体 を男たちの〈まなざし〉の対象として使っている。》(註4) 同時にカプランは上記のような効果を挙げるための方法のひとつとして「男装」 を使用した演出があると述べており、その男装について彼女は、 《男たちにとって、男装した女は本来の女性のもつ性的脅威を少なくするか らである。しかし女性にとって、男装は、男性を除いて女性同士が団結する可
能性、父権社会のもつ象徴的な意味合いに従いながらも父権的な支配をやわら げる可能性を意味する。》(註5) という、初期フェミニストとして、男性の視線とは対極の、男性を排除する ような女性的視線の見解を示している。 ただ『ブロンド・ヴィナス』の物語自体は、『モロッコ』や『間諜X27』とい ささか異なりディートリッヒがそれ以前の作品にはありえなかった「母親」と いう役割で登場していることはまず我々は確認しておく必要がある。黒田邦雄 が彼女の本質は母性である、と述べているが(註6)、『モロッコ』とは異なり 物語も中盤に差し掛かったところで着用する『ブロンド・ヴィナス』における 彼女のタキシード姿は、彼女の「母性」の放棄の強要またはその抑圧の象徴とな っているのは「母親失格」の烙印を押されてしまうという、物語の流れとあわ せて考えても明白なものであるし、ひいては母性≒女性の抑圧、と捉えるカプ ランやジョンストンの分析は確かに一理あるように思われる。 しかしこのような母性愛に包まれたような作品というのは、少なくともディ ートリッヒという女優を通じて、自らの愛でる世界を創造することに執念を燃 やすスタンバーグ監督作品においては極めて稀なのであるから、同じくタキシ ードを着た歌姫に扮している『モロッコ』の場合も同じようにあてはめられる とするのは適切であるとは言いがたく、区別して考えるべきだということは、 はっきりと認識しておくべきであろう。 さらに、カプランやクレア・ジョンストンらはディートリッヒのこのスタイ ルを男性/女性の「ジェンダー」の視点に重きをおいて展開しているわけであ るのは明らかなことで、そのぶん「セクシュアル」からの見解は薄いように見 受けられる。ゆえに徹底して批判の態勢をとっているのであるが、セクシュア リティの幅が拡がった現在、彼女たちのような真っ向からの「フェミニズム」 によるアプローチでは、展開に限界が生じることは否めない。 そのあたりは石原郁子も、エンビスタイルが観客に与えた影響を充分に理解 したうえで《(ディートリッヒのスタイルは)とくにフェミニズムなどの意識を 含んでいるわけでもない、単なるファッションの次元のことのように見える》 とコメントしているのだが、少なくとも『モロッコ』の場合は、女性の抑圧を 告発するようなフェミニズムから幾分か距離を置いたところから考えるべきで あろうと思われる。 それというのも、映画『セルロイド・クローゼット』で脚本家のアーサー・ ルーベンスが《彼女は堂々と女も男も蠱惑する。》と証言していることからも判 るように(註7)、ディートリッヒのタキシード姿(もしくはマレーネ・ディー トリッヒという女優そのもの)は男性にだけでなく女性の興味をそそるもので
あるうえに、ヴィト・ルッソが”The Celluloid Closet Homosexuality in the movies”において、 《『モロッコ』でのディートリッヒの意志は異性愛的なものであることは明白 なことだ。彼女が示すレズビアニズム的な手掛かりは、ゲーリー・クーパーの 興味を引き彼の男性性を刺激する彼女の神秘性として差し出されるもののみな のである。》(註8) と言及しているにも関わらず、ゲイやレズビアンなどホモセクシュアルの 人々をも非常に魅了するものであったという事実がある(註9)。 映画『セルロイド・クローゼット』において前後で取りあげられている『ク リスチナ女王』も同じようにホモセクシュアルの人々の関心をそそっているが、 ガルボが演じた実在のスウェーデン女王クリスチナはレズビアンだったと言わ れている人物である(映画では検閲の問題もあって大筋において異性愛者とし てスペイン将校と恋に落ちるという設定に書き替えられてはいるが)ゆえに、 アミー・ジョリーを初めとして、完全なヘテロセクシュアルのディートリッヒ の役柄が、あらゆるセクシュアリティの人物から「賛辞」という名の支持が集 まることにはやはり注目に値するものと考えられよう。 これらの「賛辞」への諸理由はいかようなものか。まず、 《ディートリッヒがたとえ少しでも自分の人生を支配しようとつとめたこと は重要である。彼女が映画の中で規定された位置に対する、そして映画の外で も規定されていた位置にたいするたしかな認識を持っていたということは、た とえそれが支配的な制度からの解放を決して意味してはいなかったとはいえ、 一つの可能な抵抗の方法をあらわしているといってよい。》(註 10) というカプランの発言にその回答への一縷の手掛かりを見出し得ると考えら れる。というのは、ここでのカプランが述べる「解放」の対象は女性に限定し たうえで述べていると考えていいはずなのだが、これはホモセクシュアルとい う性的マイナーと考えられているの人々への「解放」も同時に意味しうる、と 判断してもよいのではないかと思われる。 ただ先の石原氏の証言から考えても、スタンバーグやディートリッヒらスー ツスタイルを「提供した側」からしたら、たとえディートリッヒはバイセクシ ュアルであったという言われもあり、いくら演出において執拗なまでに計算し 尽くしている彼等においても、当時はそのようなことはほとんど考えるに及ん ではいなかったかもしれない。 しかし、その衣装だけでも「性」というものの境界線に堂々と踏み込むと共
に、何よりも舞台上でのふるまいははっきりと男性的であった(くわえタバコ、 観客の女性へのキスなど)が、体つきそして顔髪型は明らかに女性とわかるこ とから(註 11)、そこに男性/女性という二つの性を二重にも三重にも飛び越え そして獲得しているのを我々は見てとる。それはロラン・バルトにして「神話 であるその顔」とまで言わしめさせたグレタ・ガルボのような「性別感の否定」 とは全くの対極のものとして存在する「双方の性」(つまりは「両性具有性」と いうわけだが)を感じ取らせる彼女に、多様の性を生きる彼等は魅せられてし まったというわけだろう。またキャラクターは同じように人工的とはいえども ガルボよりもずっと「現実に根を張ったような女性」という一面を持ち合わせ ているから(だから「強いディートリッヒ」と呼ばれたのであろう)、石原氏の 言うような、このスタイルは現実の産物の一つとして存在する「ファッション」 と柔軟的に捉えることによるほうが、それを見出しやすいように感じられる。 最後に付け加えとして述べると、この「男装で登場する」というアイデアを考 案したのはスタンバーグだというのがひとまずの通説であるが、実は最初に提 示したのは彼に徹底的に演出「される」立場にあったディートリッヒ本人であ ったと、彼女のドキュメンタリー映画『マレーネ』(マクシミリアン・シェル監 督、1985)でディートリッヒ自身が語っている箇所がある。確かに彼女は、プラ イヴェートや後年のステージで好んでスーツを着用していたし、スクリーンや ステージ上でにおいての自身の「見せ方」にはものすごくこだわっていたとい うから(註 12)、本当は彼女が考え出したと言われても、我々には納得できるよ うな気がする。 (註1)秦早穂子『スクリーン・モードと女優たち』(前掲書、第 1 章、註4)の中では、 1920 年代に活躍したグロリア・スワンソンのタキシード姿や街中で流行した女 性のパンツスーツスタイルも紹介されている。先にも記したが、1920∼30 年代 には、流行に敏感な女性達の間でパンツスタイルが流行していた。『モロッコ』 がそれに一役買っていたのは言うまでもないだろうが、高橋瑛一の『愛しのマ レーネ・ディートリッヒ』p.12 において、《日本でも『モロッコ』がたいへんな 人気を集めると、モガ(モダンガール)ばかりか、良家の子女までがズボンを はいて粋がり、保守的良識派のひんしゅくを買うことになる。》と公開当時の日 本における影響を説明している。 (註2)E・アン・カプラン著、水田宗子訳『フェミニスト映画/性幻想と映像表現』 田畑書店(1976)、p.87∼88。クレア・ジョンストンの発言は Claire Johnston, “Women’s cinema as counter-cinema” in Claire Johnston edited Notes on
Women’s cinema London, Society for Education in Film and Television、 1973、p.26 より。 (註3)アントーニ・グロノヴィッツ著、永井淳訳『グレタ・ガルボ その愛と孤独』(草 思社、1998)下巻 p.136∼138。 (註4)E・アン・カプラン、前掲書、註2、p.87。映画のタイトルは水田宗子の訳を そのまま抜粋した。 (註5)E・アン・カプラン、前書、p.87。 (註6)『真実のマレーネ・ディートリッヒ』(J・デヴィッド・ライヴァ監督、2001) 公式パンフレット内、黒田邦雄『なでるように始まり、むちのひと打ちで終わ る』p.7。 (註7)。ロブ・エプスタイン、ジェフリー・フリードマン、前出作品、序文、註9。 ( 註 8 ) Vito Russo “The Celluloid Closet Homosexuality in the movies ”
(HarperPerennial、1987)、p.14《In Morocco, Dietrich’s intension are clearly heterosexual; the brief hint of lesbianism she exhibits serves only to make her more exotic、to whet Gary Cooper’s appetite for her and to further challenge his maleness.》
(註9)モリー・ハスケル、前掲書、第 1 章、註2、p.137 において、次のようなまこと に興味深いエピソードが紹介されている。《・・・ディートリッヒはその崇拝者 (ウォーホル=モリシー・スタジオの服装倒錯のスター達)の一部から、女性の まねをしていると信じられていたし、また、彼女が性転換手術を受けたと信じる ものもいた。・・・》 (註 10)E・アン・カプラン、前掲書、本章、註2、p.104∼105。 (註 11)このように分析すると、キャサリン・ヘプバーンの『男装』が興行当時は惨敗 の結果に終わった理由というものがおのずと見えてくるのではないかと思って いる。ヘプバーンの男装には、全くといってよいほど「女性」を感じることが なかった。つまり少年としてふるまい、女性だと感づかれてはならないという 必要性があったとは言え、観客にすらスクリーンに映し出されているのは「男 性」そのものであった。淀川長治氏が「ヘプバーンやベティ・デイヴィスはア クトレスであるが、ディートリッヒやガルボはスターである」(『淀川長治シネ マパラダイスⅠ』集英社文庫(1997)、p.332 より)というようなことを述べて いるが、ヘプバーンは(特に物語の前半で)男性の衣装を着用している時は徹 底して男性として演じ切っているから、彼女の男装には、「女性」が垣間見える 瞬間がほぼ皆無であったのだ。観客はそこに、ディートリッヒのような二つの 性の柔軟な跳躍ではなく、男性というテリトリーに真っ向から進入/侵入を見 て、特に男性の観客は気分を害してしまったのではないかと考えられるのであ る。
(註 13)高橋暎一『モード・イン・ハリウッド デザイナーと女優たち』(フィルムアー ト社、1993)p.40∼41 で紹介されていたエピソードは、《・・・例えば、ある年 のアカデミー賞授与式にプレゼンターを頼まれると、まず、ディオールに脚が 見えるように深いスリット入りの黒のドレスを特注、次には、会場に出向き、 舞台にどの場所から登場したら最も美しく見せられるか、念入りにチェックし ているのである。》
第3章
『アニー・ホール』のマニッシュ・ルックに関する考察
・・・アニー・ホール・ルックに倒錯的官能性を見出すことは可能か否か アメリカでは第二次世界大戦が勃発し終結した 1940 年代から 50 年代にかけ て、テレビやビデオが一般家庭に普及しはじめ、また「都市」と「田舎」の間 のような立場である「郊外」という地域があらわれると、アメリカ国民のライ フスタイルに少なからぬ変化が生じていった。その「変化」のひとつとしては 人々の「映画離れ」がじわじわと目立つようになったことが挙げられる。ハリ ウッドでの年間制作本数は 50 年代半ばをピークに減少の一途を辿るようになっ ていった。そして 1960 年代にはそれが一層深刻なものとなっていったのは周知 の事実である。それまで自身の「黄金期」を極限まで謳歌していたハリウッド では、いよいよ映画製作の手段そのものの変革を迫られることとなり、一本の 作品にそう簡単には製作費をつぎ込めなくなってしまったわけだが、そのなか でも真っ先に対策として掲げられたもののひとつとして「衣装費の削減」があ り、撮影所専属のデザイナー制の崩壊があったのである。 つまりはこのハリウッドの「黄金期」の終焉というのは、同時に「女優の時 代」の終焉を意味しているのであると言えるのだ。むろん、現在に至るまでハ リウッドの女優たちは眩いばかりの魅力を放ち、スクリーンにその魅力を振り まいている。しかしオスカー・ナイト等映画「外」での女優の衣装への注目が 高まっている反面(註1)、『麗しのサブリナ』(ビリー・ワイルダー監督、1954) でオードリー・ヘプバーンが着用したサブリナ・パンツや、『悲しみよこんにち は』(オットー・プレミンジャー監督、1957)でのセシル・カットと呼ばれるジ ーン・セバーグのベリーショートヘアなどといった映画内で着用した衣装もし くはスタイルが観客に影響を与えその時代の流行のひとつともなりえた、とい うような現象は殆ど起こらなくなってしまったように思える。 それは、往年の女優達はスクリーンの「中」で本来の自分以上の輝きを放っ ていたものだったのだが、近年の女優達の場合は、作品を製作するにあたって多かれ少なかれ「現実感」を持たせる今日の傾向と相まって、スクリーン「内」 と「外」での輝き方に差があまり見られなくなったことと関係しているように 思われる。つまり「女優の時代」の終焉とは、スタッフ達が総出で女優を際立 って美しく見せようと苦心する時代がほぼ完全に終わりを告げたとも解釈でき るのであろう。 また時を同じくして 1960 年代には世界規模での女性解放運動が活発化してい った。女性の権利獲得や社会進出などが、資本主義諸国を中心にとはいえ世界 規模で次々と達成されていったが、そのような風潮とリンクするかのようにフ ァッション界から「マニッシュ・ルック」を提唱するデザイナーが次々と登場 し女性の衣服にも革命的な変化をもたらした(註2)。女性にも「活動性」が求 められるようになり、そのころからようやく女性のパンツスタイルというもの が一般的な日常着として広く受け入れられるようになったわけだが、それに伴 いパンツというものの持つ、「男性的」とそれまでこちらに思わせていた記号性 は弱まり、北野栄枯氏も言うように女性はただ単にパンツを着用するだけでは 「男装」と見なすことは不可能となり(註3)、前時代までは明白であった「男 性優位社会の秩序への挑戦」というメッセージと、その性的倒錯ゆえに醸し出 される「エロス」を感じ取ることは今となっては一般社会ではなかなか困難な こととなったと見てよい。 映画に関して言えば、このような時代を迎えた後現在に至るまでにおいても、 男装した女性が登場する映画は、『オルランド』(サリー・ポッター監督、1992) 『恋におちたシェイクスピア』(ジョン・マッデン監督、1998)などいくつか製 作されているが、それらの作品の殆どは歴史物、もしくは『カウガール・ブル ース』(ガス・ヴァン・サント監督、1994)のように何らかの特別なシチュエー ションに基づいた物語であり、そこにはやはり男装をするための「必然性」が 伴っている。イギリスの女性作家ヴァージニア・ウルフの同名小説を基に制作 された『オルランド』のタイトルロールの人物設定はエリザベス 1 世の命を受 け、それ以降年齢を重ねるのを辞め何百年もの時間を男性から女性へ/女性か ら男性へ性別を変えながら生き続けていくという宿命を背負うというものであ ったし、『恋におちたシェイクスピア』でシェイクスピアが想いを寄せる演劇が 大好きなヒロイン、ヴァイオラが男装して劇団入りするのは、エリザベス朝時 代の演劇界のしきたりとして女性が舞台に上がることは許されないという前提 あってのことだった(註4)。ゆえに現代劇つまり同時代を舞台とした映画作品 ではなかなか登場してこない。もし登場したとしても『モロッコ』のように、「男 装する上での物語的な理由づけ」を伴わないヒロインというのは殆ど登場して