依田学海と『聊斎志異』 ─『 「小野篁」と「蓮花公主」との比較研究を中心に─ 楊 爽
一、はじめに
魯 迅 は『 中 国 小 説 史 略
狐 に 託 し て 自 ら の 志 を 述 べ て い る。 『 聊 斎 志 異 』 現 存 最 古 の 刊 本 は、 乾 隆 三 十 一 年( 一 七 七 六 ) の 青 柯 亭 刻 本( 十 六 巻 ) で 松齢はこの作品を通じて、様々な異界の物語を語ると同時に、 「時代性、社会性を加味し て 」、実世界に対する批判をし、鬼
(3)取って中国の怪異文学の集大成と言われる『聊斎志異』を作りあげたことも注目されることであろう。落第書生であった蒲 代 が 文 言 小 説 よ り 白 話 小 説 が 主 流 で あ っ た 時 代 で あ る に も か か わ ら ず、 蒲 松 齢 が あ え て こ の 時 代 の 流 れ に 乗 ら ず、 文 言 を の で あ る。 」 と 評 価 し、 そ の 文 辞 の 巧 妙 さ を 賞 賛 し て い る 。 そ れ ら の 意 見 に 異 論 は な い が、 中 国 の 小 説 史 に お い て、 清 の 時
(2)怪小説と区別している。山口剛も『聊斎志異』のことを「清朝奇談集中の尤であると共に、また支那奇談集中の傑れたるも 魑 魅 で も、 多 く が 人 情 を 持 っ て い て、 穏 や か で 親 し み や す く、 そ れ が 異 類 で あ る こ と を 忘 れ て し ま う。 」 と 述 べ、 明 末 の 志 価 し て い る。 さ ら に、 そ の 特 色 と し て、 「 詳 細 を 尽 く し て い る だ け で な く、 ふ だ ん の あ り さ ま を 書 い て、 花 の 妖 精 で も 狐 の 出 て、 急 に 人 間 世 界 に 入 る。 た ま に 瑣 聞 を 記 し て も 多 く は 簡 潔 で あ る。 だ か ら 読 者 の 耳 目 は そ の た め に 一 新 さ れ る 。」 と 評
(1)記し、変幻のさまが手に取るように分かる。またあるものはまったく調子を改め、別に奇人の奇行を述べ、幻想の領域から
』で、 『 聊 斎 志 異 』 の こ と を、 「 描 写 が 委 曲 を 尽 く し、 叙 述 は 整 然 と し て い て、 伝 奇 の 方 法 で 怪 を
あり、この作品が初めて日本に渡来したのは、記録による限りでは、明和五年(一七六八)のことであ る
(4)。 このような怪異譚を内容とする小説の日本伝来は『聊斎志異』だけではない。明の瞿佑が著した文語体の怪異小説集であ る『 剪 燈 新 話 』 は、 「 異 常 な す じ 書 き と 異 国 情 緒 が 太 平 に な れ た 島 国 の 民 に ス リ ル を 感 じ さ せ た の か、 数 多 く の 翻 案 も の を 生ん だ
(5)」と魚返善雄がいうように、その伝来は、江戸時代の日本で、怪談の流行をもたらした。浅井了意の『伽婢子』と上 田 秋 成 の『 雨 月 物 語 』 は 受 容 の 例 と し て、 常 に 取 り 上 げ ら れ て い る。 一 方、 『 聊 斎 志 異 』 は、 「『 剪 燈 新 話 』 よ り も は る か に ストーリーが複雑に描写が細やかになっていて、すでに発達していた白話小説のストーリーと描写にも匹敵できるほどの短 編小説 集
(6)」であるが、文章が難解であるためか、当初は、一部の漢学者に限って愛読されてい た
(7)。けれども、量は少ないも の の、 翻 案 作 も い く つ か 出 て い る。 た と え ば、 一 七 九 二 年 に は、 森 島 中 良 が『 聊 斎 志 異 』 か ら 五 篇 の 作 品 を 翻 案 し、 『 凩 草 紙』として刊行している。五年後の一七九七年には、曲亭馬琴の『聊斎志異』翻案作である『押絵鳥痴漢高名』が刊行され た
(8)。明治期になると、漢文は知識人の基礎教養として認識されるようになり、新聞紙上の漢詩欄の設置などにうかがえるよ うに、漢文学は一つのピークを成し、知識人の漢文に関するリテラシーも江戸時代より高くなってきた。さらに、出版技術 の 発 展 に 伴 っ て、 『 聊 斎 志 異 』 は 多 く の 読 者 を 獲 得 し て、 新 世 代 の 文 学 者 の 中 で も 愛 好 さ れ る よ う に な っ て き た。 そ れ 以 降、翻案、翻訳が多くなされ、日本の文芸創作に大きな影響を与え た
(9)。 以上は『聊斎志異』の先行研究の諸成果を踏まえ、その作品の様相及び日本への伝来の歴史と受容についてまとめたもの である。本稿では、明治二三年に発表された「小野篁」という作品を取り上げて考察する。この作品は明治二三年二月に、 漢文学者・劇作家としてよく知られる依田学海が『新著百種』第八号に発表した短編小説である。この作品と『聊斎志異』 と の 関 連 性 に つ い て は、 森 鴎 外 の 言 及 が あ る も の の、 今 日 で は ほ と ん ど 顧 み ら れ る こ と が な い。 そ の た め、 本 稿 で は、 「 小 野篁」を『聊斎志異』の原典と比較しながら、小説については和漢洋の教養を自負する依田学 海
)(1
(
が「小野篁」を作る時、ど のような創意工夫をしたのかを確かめる。さらに言文一致体に向かい発展しつつあった日本近代文学の成立期に、この文語
体作品が持ちえた歴史的意義も検討したいと考える。
二、 「小野篁」と『聊斎志異』との対訳
一 八 八 九 年 九 月 一 日 に、 吉 岡 書 籍 店 創 業 の 吉 岡 哲 太 郎 は 依 田 学 海 を 訪 ね て、 『 新 著 百 種 』 の た め の 文 章 を 依 頼 し た
)((
(
。 同 年 十二月十五日、 「小野篁」が完成 し
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(
、翌年の二月、 『新著百種』第八号に発表された。その後、この作品が発表された間もな く、森鴎外は一八九〇年二月二十七日に『読売新聞』で次の文章を発表して、 『聊斎志異』との関連性を指摘した。
聊斎志異の翻訳は此頃ちらほらと世に出づるなかに或は文章の観るべきもありて翻訳と断りたる限りは随分面白きこ となるが既に三昧道人の仙人巖掘鑿といふものなりて都の花に出でたるもおかしからず思ひしに又々新著百種にて(善 く聞き玉へ)
─新著百種にて依田百川先生の小野篁といふは例の聊斎志異なり小野篁といふ名字がつきしのみにて趣 向は毫釐も差はず桂府蓮花の一聯さへ其儘に出でたり文章は頗典雅なれど新著百種の面目にはいかヾにやと者は釈汚然 と申すものな り
)(1
(
。
この作品を『聊斎志異』と関連して論じたのは、管見の限り、森鴎外のこの発言が最初である。学海の「小野篁」は『聊 斎志異』の「蓮花公主」と趣向が一致しており、桂府蓮花の対聯のような細部までそのままであるので、文章は典雅である が、 「 新 著 」 と は 言 え な い と 森 鴎 外 は 認 識 し て い た。 そ し て、 「 小 野 篁 」 は 三 昧 道 人 の「 仙 人 巖 掘 鑿 」 と 同 じ よ う に、 『 聊 斎 志 異 』 の 翻 訳 作 で あ り な が ら、 あ ら か じ め 読 者 に 断 わ っ て い な い と 言 う 点 に は、 鴎 外 の 批 判 の 意 が 含 ま れ て い る の で あ ろ う。
の ち に、 森 鴎 外 は『 月 草 』( 春 陽 堂 一 八 九 六 年 十 二 月 ) で「 小 野 篁 に 就 き て 」 に 改 題 し て こ の 評 論 を 改 め て 発 表 し た
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(
。 原文は以下の通りである。
聊斎志異など訳せむこと、文章めでたくば、頗興あるべし。されどかかる著にはその翻訳なるをことわるかた宜から む。三昧道人はさきに都の花に仙人巖掘鑿といふものを出ししを見しが、今又此訳あり。趣向は原作のままにて、桂府 蓮花の一聯さへあり。其文は頗高雅なれど新著百種といふものの趣意には適へりやあらず や
)(1
(
。
こ の 論 説 で は 表 現 が 婉 曲 的 に な っ て い る が、 「 小 野 篁 」 が「 蓮 花 公 主 」 の 翻 訳 作 で あ る と い う 指 摘 は 前 掲 引 用 と 変 わ ら な い。 さ て、 「 小 野 篁 」 と い う 作 品 は ど の よ う な 物 語 構 成 を し て い た の か。 そ の 梗 概 を 箇 条 書 き の 型 で ま と め れ ば、 次 の よ う に なる。 ① 秋のある日、小野篁が家に白楽天の詩を詠唱していた。昼寝をしようとする時、褐色の仮衣を着ている人が現れ、小 野篁を連れて幾町かを通り抜けていき、大厦高楼の別世界に案内する。 ② 往来している者はみんな褐色仮衣の人に小野篁の到来を確認する。出迎えの人が出て来て、小野篁と挨拶した。その 後、五衣に緋袴を着ていた人が檜扇をかざして現れ、小野篁を君王のところに連れていった。 ③ 君 王 と あ っ た 小 野 篁 は、 「 桂 府 」 へ の 招 待 を 受 け た。 宴 会 の さ な か、 君 王 が「 才 人 登 桂 府 」 の 対 句 を 求 め、 小 野 篁 が 「君子愛蓮花」の一聯を提示する。その最中、蓮花公主が姿を現す。 ④ 蓮花の美貌にひかれた小野篁は、君王が縁組を暗示したのに気づかぬまま家に帰り着いた。悔しい気持ちを抱え、幾 日を過ごした。
⑤ あ る 夜、 学 生 と 枕 を 並 べ て 寝 て い る と、 そ の 褐 色 の 仮 衣 を 着 て い る 人 が ま た 現 れ、 小 野 篁 を 再 び 桂 府 に 連 れ て 行 っ た。そこで、小野篁と蓮花公主とは縁を結んだ。 ⑥ 蓮花公主と新婚の夜を過ごした翌朝、宮殿が妖蟒に襲われ廃墟となった。君王の望みに応じて、小野篁は蓮花公主を 自分の家に連れ帰った。公主は父母や、宮殿の人々みんなを連れてくると述べたが、小野篁は断った。公主を慰めな いまま目を覚ましたら、耳元に蜂の鳴き音がする。怪しいと思って、共にいる学生と話していると、蜂の姿も目にし た。 ⑦ 学生の話に応じて、蜂のために巣を作ってやると、群れの蜂が垣の外面より集まってきた。蜂たちがやってくる方を 尋ねると、隣の翁の畑に古い蜂の巣があることがわかった。 ⑧ 巣を取って、壁を毀すと、中に長い蛇がいた。そこで、蛇を殺して捨てた。 森 鴎 外 の 言 う よ う に、 作 品 の 中 に は 桂 府 蓮 花 の 挿 話 も 出 て く る。 「 小 野 篁 」 が「 蓮 花 公 主 」 を 典 拠 に 仰 い だ こ と は 確 か で あるが、翻訳・翻案としての性格、並びに独自性について検討する必要もあろう。 「小野篁」と同時代に、森鴎外の妹である小金井きみ子は『聊斎志異』の「画皮」を翻訳し、 「皮一重」と題にして発表し て い る。 こ の 作 品 が 依 田 学 海 の 影 響 を 受 け て い る こ と は 後 に ま た 触 れ る が、 こ こ で は、 そ の 先 行 研 究 を 紹 介 し な が ら、 「 皮 一重」の作品の様相を把握してみたい。 藤 田 祐 賢 は
)(1
(
、「 『 皮 一 重 』 も( 『 浴 泉 記 』 と ) 同 じ よ う な 美 し い 擬 古 文 風 の ス タ イ ル で 訳 出 さ れ て い る。 た だ き み 子 の 訳 は 原 文 に 忠 実 な 訳 で は な く、 か な り 潤 色 を 施 し た も の で あ る。 ( 中 略 ) こ の よ う な 訳 の『 皮 一 重 』 が、 志 異 の 物 語 と し て 世 間 の 眼 に 触 れ た 最 初 の も の で あ っ た。 ( 中 略 ) こ の 二 つ の 物 語 の 妻 に 共 通 し た、 夫 を 思 う 強 い 愛 情 の 美 し さ に、 き み 子 は 心 を ひ か れ た の で は な か ろ う か。 」 と 述 べ て い た。 後 に、 き み 子 の「 皮 一 重 」 を 翻 訳 で は な く、 翻 案 と 改 め て 認 識 し て い る。 ま た、前掲引用の鴎外の発言で言及のある、宮崎三昧の「仙人巖掘鑿」と依田学海の「小野篁」にも触れて、翻案ととらえて
い る
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(
。 翁 蘇 倩 卿 は、 「 小 金 井 き み 子 女 史 翻 訳 の「 皮 一 重 」 も 雅 文 調 の 文 語 体 で、 王 朝 時 代 の 背 景 に 写 し か え ら れ た た め、 妖 怪 変 化の物凄さも、また道士が法術をつくして獰鬼を制伏するあたりの不可思議も、ローマン的な王朝文学調では原文の迫真力 がそがれてしまう結果を招いた。このまだるっこい手法は、なにか時代錯誤的な舞台劇を観ているような感じを読者に与え るだけであ る
)(1
(
。」とした。後に、小田桐弘子は、 「皮一重」と「画皮」とを対訳の形で掲げ、原作に対する潤色・加工を詳細 に 検 討 し た。 分 析 を 通 じ て、 小 田 桐 は 両 作 品 の 異 な り を 明 ら か に し な が ら、 「 皮 一 重 」 を「 一 層 濃 厚 に、 典 型 的 な、 夫 を 想 う妻の愛の物語として再構成してい る
)(1
(
」作品と述べ、藤田祐賢の意見を追認している。また、翁蘇倩卿が指摘した翻訳の限 界も比較検討を通じて明示している。 本 稿 も、 小 田 桐 弘 子 の 方 法 に 倣 い、 「 小 野 篁 」 と『 聊 斎 志 異 』 と の 二 つ の 作 品 を 対 訳 の 型 で 掲 げ、 詳 し く 比 較 検 討 す る こ とで「小野篁」の特質を探りたいと思う。同時に分析によって、 「皮一重」と「小野篁」との類似性にも迫りたい。 まずは、依田学海が読んだ『聊斎志異』の版本を特定しなければならない。依田学海の日記である『学海日録』と『墨水 別 墅 雑 録 』 を 参 照 す る と、 明 治 一 六 年 七 月 一 八 日 の 日 記 に、 「 評 本 聊 斎 志 異 十 六 巻 を 得 た り。 但 雲 湖 の 評 に か か る 道 光 二 十 二年の序あ り
)11
(
」という記載がある。学海の日記における『聊斎志異』関係記録はこれが最初である。さらに、南葵文庫所蔵 学海遺書を調べたところ、学海所蔵の『聊斎志異』は道光二十二年刊行された呂湛恩の註釋、及び但明倫の新評が付いてい る『聊斎志異新評』であることが分かった。南葵文庫所蔵『聊斎志異新評』の中には、傍点、句読点が加えられ、難解語彙 の 解 釈 も 書 か れ て お り、 依 田 学 海 の 精 読 ぶ り が わ か る。 細 部 ま で 検 討 す る た め、 「 小 野 篁 」 と「 蓮 花 公 主 」 の 原 文 を 対 訳 の 形で【資料】として掲げておいた。ご参照いただければ幸いである。ただし、学海の受容の仕方により、完全な対訳になっ ていないことを断っておく。 「蓮花公主」の本文は、南葵文庫の依田学海蔵本『聊斎志異新評』による。また、 「小野篁」は 一八九○年の二月に発刊された『新著百種』第八号の本文を底本にしている。
三、 「小野篁」と「蓮花公主」との比較
両作品を読み合わせると、主人公の名前は変わっているものの、ストーリー面では、ほとんど一致していることが明らか である。しかし、細部に関しては、依田学海の独自な創意が窺える。以下具体的に分析していく。 先述の魯迅の『中国小説史略』が示しているように、 『聊斎志異』は「たまに瑣聞を記しても多くは簡潔である」 。表現の 簡潔さは『聊斎志異』の特色としてよく取り上げられる。その叙事法は、小田桐弘子が指摘したように、通常「どこのだれ が 何 を す る 」 と い う 形 を と っ て、 わ ず か な 文 字 数 で、 物 語 の 最 初 に 主 人 公 の 紹 介 を 行 う。 「 蓮 花 公 主 」 も そ の 形 を 取 っ て い て、 ⑴「 膠 州 竇 旭
字
曉 暉
方晝 寢 と 同 じ よ う な 詩 文 を 作 っ た と い う 逸 話 は 古 く か ら 流 伝 し て き た 歌人であり、博学で詩文に長じ、天才と言われていた。そして、嵯峨天皇が小野篁の詩才を試みたところ、小野篁が白楽天 に、 褐 色 着 の 人 が 現 れ た ) と い う ふ う に 始 ま っ て い る。 一 方、 学 海 の 作 品 の 題 名 で あ る 小 野 篁 は、 平 安 前 期 の 官 人・ 学 者・
見一 褐 衣 人 立 榻 前 」( 膠 州 の 竇 旭 は、 字 を 曉 暉 と す る。 昼 寝 を し よ う と す る 時、 榻 の 前
)1(
(
。 そ の た め、 学 海 の 作 品 で は、 『 聊 斎 志 異 』 の 叙 事 法 を 受 け な が ら、 「 小 野 篁 」 の「 英 才 」 が あ る こ と を 合 わ せ て 表 現 す る た め に、 小 野 篁 に 関 す る 説 話 を 巧 妙 に 活 か し て、 白 楽 天 の 詩 などを吟味する優雅な文人の姿として描き出している。 さらに、原作には、季節に関する情報は一切ないが、学海の「訳文」には、
B「折しも秋の半にて。紅葉の庭に散りたる
も。 流 石 に 見 と こ ろ 無 に あ ら ず。 」 と い う 表 現 が あ る。 秋 の 季 語 と し て よ く 使 わ れ て い る 紅 葉 も 登 場 さ せ、 詩 の 吟 味 の 傍 ら、紅葉を味わっている風流な主人公を彷彿とさせる。いかにも趣ある表現であろう。こういう季節を特定する傾向は、小 金井きみ子の「皮一重」にもあり、両作とも秋になっていることに留意したい。
A「いまた官道に進まさりし頃」の一句は、一見無用に見えるが、実は後段の伏線として重要な設定である。まだ若い書
生だからこそ、好奇心旺盛で、浅はかな言動を取ったり、一目ぼれしたりすることにも違和感がない。これは主人公の入れ
変えたことに不自然さを感じさせないための工夫であると言える。 ⑵「 逡 巡 惶 顧
似
欲 有 言 生 問 之 」 の 部 分 に つ い て、 学 海 は
学 海 は 原 作 に あ る ⑶「 相 公 何 人 にふさわしい人物像を作り上げている。 野篁に対する尊敬ぶりを表している。この小さな加筆によって、褐色着の人物の礼儀正しさを表し、君主の使者である身分 ない主人公の疑問を対話で具体的にあらわしている。そして、続く部分で、学海は「謹て答ふる」と敬語を用い、相手の小 C「 お 事 は い か な る 人 に お は す 」 と い う 内 容 を 添 え、 原 作 に
曰 近
在 鄰 境 」 の 対 話 部 分 を 削 除 し、 代 り に
⑷「 又 見 宮 人 女 官 ほとに。常には見えぬ」と潤色し、異世界のできごとという先の展開を暗示している。 野篁の内面を叙述している。そして、好奇心によって、異議なく使者に従う小野篁が見た大厦高楼について、学海は「見る D「 篁 も と よ り 奇 を 好 め は 」 と い う ふ う に 小
を 詳 細 に 描 き、 そ の 場 の 雰 囲 気 を 一 層 醸 し 出 し て い る。
往來 甚 夥 」 の 部 分 に つ い て、 学 海 は 訳 文 で、 「 衣 冠 」、 「 衣 装 」 ま で 丁 寧 に 描 写 し て、 原 作 よ り、 異 世 界
E「 見 る ほ と に。 常 に は 見 え ぬ 大 厦 高 樓 あ り 」、
とは覚えぬはかりなりき」の後に、 F「 此 世 の う ち そ
G「何とも得しらぬいと麗はしき衣裝を着たるものあり」が続き、傍線部分の「何とも
得しらぬ」の表現を通じて、不思議さに打たれる篁の心情を表現した上で、読者の好奇心をさらに高めている。 ⑸「 生 益 駭
問 王
何 人 」 の 簡 潔 さ に 比 べ て、 学 海 の 表 現 は、 篁 の 驚 き ぶ り を 表 現 す る た め、
以 外 に、 ⑹「以雙旌導生行」の「雙旌」は、 「旗」のことであるが、学海作では、 「檜扇」となっている。さらに、原作の「女官」 る。 か な る 君 に 在 し ま す。 吾 大 君 の 外 に は。 さ る 人 あ ら し と 思 ひ し に。 」 と い う 創 作 的 な 対 話 部 分 を 加 え、 一 層 効 果 を あ げ て い H「 君 王 と し も の 玉 ふ は。 い
I「 五 衣 に 緋 袴 着 た る 」 人 も 登 場 さ せ、 物 語 の 舞 台 を 王 朝 風 に し て い る。 続 く、 ⑺「 見 殿 上 一 王 者
見
生 人
迎
降階 而
執賓主禮
禮已
踐席 列筵豐盛」に対応する部分は、なかなか興味深い。まずは王の衣装に関する描写である。王様は
J
「 龍 鳳 の 袍 を 召 し て。 珠 玉 の 冠 を 戴 き た る 」 者 で、 明 ら か に 中 国 古 代 皇 帝 の 姿 で あ る。 学 海 作 に あ る 王 の
K「 貴 客 よ く こ そ
問はせ給ひたれ。かねて才學聲望は世に隠れ無きをもて寡人窃に景慕に堪へず。斯る陋境なれは。もてなし奉る者なけれと も聊一杯の水酒を召され候へ」というあいさつも原作にはないが、中国皇帝の姿をしている人物にふさわしい話し方をして いるので、この創作的な漢文調の表現にもほとんど違和感がない。ここには、学海の漢文素養の深さがあらわれている。同 時に、平安朝の舞台における現実世界と区別できる異世界の表現になりえている。 ⑻「列筵豐盛」の一句に対しては、学海は自由訳の姿勢を取っている。原作は極めて短くて、簡潔なものであるのに対し て、学海訳は宴会場の状況、並びに篁の
L「その味えも言はれず」という心情まで細かく描き出している。この潤色は、作
品の最初にある好奇心旺盛という人物設定と対応している。 ⑼「 仰 視 上 一 扁 曰
桂
府 」 に つ い て は、 学 海 は、
を 記 し た り。 」 と 訳 し て、 道 教 の 仙 界 符 圖 で あ る「 雲 篆 M「 し は ら く し 首 を 擧 て 殿 上 の 扁 額 を み る に。 雲 篆 を も て。 桂 府 の 二 字
)11
(
」 を 用 い、 王 が 人 間 で は な い こ と を 示 し て い る。 こ こ か ら、 学 海 が 中国古典に精通していることがうかがえる。 続 く ⑽「 酒 數 行
笙
歌 作 於 下
鉦
鼓 不 鳴
あるように、伏線の意味を持ってい る
音聲 幽 細 」 の 部 分 に つ い て は、 原 作 で は、 「 冩 笙 歌 亦 雅 切 蜂 」 と い う 但 雲 湖 の 評 が
)11
(
。学海作は但雲湖の評を略しているが、
N「唯絲竹の響のみ」と強調することで、続
く蜂の登場を暗示している。そして、続く部分では、
O「こは珍しき音楽なるかな。と思とも。問ひ奉らんもさすかにて。
暫 く 耳 を 傾 け て 聴 居 た り。 」 と い う ふ う に、 篁 の 様 子 も 記 述 さ れ て い る。 こ れ は、 原 作 よ り 細 か な 描 写 と い え る で あ ろ う。 学海が言葉を惜しまずに篁の内面を細かく表現していることは、原文と異なる一つの特色といえる。 ⑾「 移 時 佩 環 聲 近
蘭
麝 香 濃
「 年 十 六 七
則公 主 至 矣 」 の あ た り ま で は 直 訳 的 で あ り、 忠 実 に 原 作 の 内 容 を 伝 え て い る。 次 に あ る ⑿
妙
好 無 雙 」 の 部 分 で は、 学 海 は 言 葉 を 尽 く し て 公 主 の 美 し さ を 描 き、 篁 の 目 を 借 り て、 読 者 を 楽 し ま せ る。
P
「眉の韵は新月の雲間を出るに異ならす。 」とのように、中国の古典に詳しい学海は古代詩人が詩歌で詠んでいた理想的な美 人を登場させてい る
)11
(
。このように工夫を凝らして、具体的な人物像を描いている点は、原作の簡潔さに比べて情調豊かと言
え、 主 人 公 の 心 理 に 対 す る 関 心 の 現 わ れ と も 評 価 で き る。 そ し て、 「 眼 を 斜 に し て こ れ を 見 る 」 と い う 加 筆 は 若 い 小 野 篁 の 人物像を生き生きと表現するものである。このような主人公の個的心情への関心は学海作の優れたところであろう。 主人公と王様との別れの部分は、学海訳ではかなり省略されている。そのかわり、
Q「夕日の影は庭の木の間に漏れて紅
の光をとゝめ寒鴉の聲は落葉の音にましりて林のあなたに聞ゆ」と情景描写を加え、篁の名残惜しい気持ちを際立たせてい る。創作された文には一層風韻があって、具体的に篁の寂しさが巧みに表されている。 続いて学海は、寝台をともにして寝る人を原作の⒀「友人」から
R「親しき學生」に変える工夫をしている。これも名高
い才子であるという篁の人物設定に合わせるための入れ替えであろう。 宴席場面は、学海作のほうが周りの人の服装まで描いており、より盛大で、にぎやかな印象を与える。ただし、婚礼の場 面では、学海作はいくつかの描写を省略している。これは日中の風俗の相違からの措置であろうが、⒁「窮極芳膩」も訳し て い な い の は な ぜ だ ろ う か。 原 作 に は、 「 窮 極 芳 膩 」 の と こ ろ に、 但 雲 湖 の「 確 是 蜂 房 」( 確 か に 蜂 房 で あ る ) と い う 評 が あ っ て、 こ の 一 句 の 伏 線 の 役 割 を 強 調 し て い る。 し か し、 学 海 は そ の 伏 線 を 省 略 し て、 「 洞 房 」 の 状 況 描 写 の か わ り に、
S
「 然 る 程 に 篁 は 思 い も 懸 け ず 国 王 の 婿 と な る の み か、 世 に も 希 な る 美 人 を 娶 り て そ の 喜 は 大 方 な ら ず。 洞 房 暖 か に 芳 ば し く、 世 は 秋 な が ら 春 霞 引 き わ た し た る 天 上 の 娯 楽 も 此 上 あ ら じ と 思 い た る。 」 と 記 し て い る よ う に、 篁 の 内 面 描 写 に 重 き を 置いた。雅やかな言葉づかいを用いた加筆によって、若い主人公の風流な人物像が形成されている。 ⒂「 詰 旦 方 起
素養をいかして、
戲為 公 主 勻 鉛 黃 」 の 訳 文 は、 情 景 描 写 か ら 始 ま り、 原 作 よ り 一 層 趣 を 添 え て い る。 そ し て、 学 海 は 漢 文 の
T「人は自ら己が妻の眉を描く」典
故
)11(
も用い、篁と蓮花公主との仲睦まじいところを表現した。 ⒃「公主笑問 君顚耶」の「顚」という言葉は「狂う」という意味であるが、学海は直訳ではなく、
U「御身は何の戯を
し給ふ」というふうに、優雅な文辞で訳している。公主の身分にふさわしい高雅な言葉づかいで、公主と篁との愛情あふれ る日常が十分に表されていると言える。
次の宮女が走ってきた場面の訳文は、原作より繊細に記述される一方、対話は圧縮されている。宮女の立場を考えれば、 思いを一気にはっきりして口に出すのは無理であろう。学海の処置は場の緊張感をよく伝えている。さらに、原作にない公 主の反応まで書き添え、臨場感を出している。 続 く ⒄「 慚 無 金 屋 」 の 部 分 ま で、 学 海 は 直 訳 す る 姿 勢 を と っ て い る。 そ し て、 「 慚 無 金 屋 」 は「 金 屋 の 阿 嬌 」 の 典 故
)11
(
を 踏 まえているため、なかなか訳が難しい部分である。学海が「金屋」を「玉楼大厦」と訳しているのは、ニュアンスは違って いるが、 「大きな家がない」という原文の意味を伝えており、妥当な選択と言える。 結末の部分について、 原作は、 ⒅「發其壁
則蛇據其中
長丈許
捉而殺之
乃知巨蟒即此物也
蜂入生家 滋息更盛」となっ
ており、叙事的で、因果応報の意味も含んでいる。それに対して、学海は
V「かの姫君の御腰の細かりしも。またかの音樂
のいと微かなりしも。 」という部分を加えることで、 「風韻ありて余情永く読者の感を惹 く
)11
(
」ものとなっている。原作の枠か ら脱した優美で抒情的な情緒が溢れる締めくくりと言えよう。 以上分析してきたように、学海の「小野篁」は、ストーリーはほとんど『聊斎志異』の「蓮花公主」を踏襲しており、森 鴎 外 が 指 摘 し た 通 り、 「 新 著 」 と い う の は 妥 当 で は な い。 た だ し、 主 人 公 や 舞 台 の 変 更 が な さ れ て い る の で、 藤 田 祐 賢 が 「『 聊 斎 志 異 』 在 日 本( 追 補 與 訂 正
)11
(
)」 で 指 摘 し た 通 り、 翻 訳 よ り は 翻 案 と 考 え た ほ う が い い。 学 海 は 原 作 に 対 し て、 加 筆・ 削除・改変などの手入れをして、原作の記述的筆調より、小説的な要素を強めた。その翻案の特色は、およそ次のようにま とめられる。 第 一 に、 「 小 野 篁 」 は、 難 解 な 中 国 古 代 風 俗 や 習 慣 に 関 す る 表 現 の 一 部 を、 そ れ に 近 い 日 本 の も の に 改 変 し な が ら も、 な お直訳的な部分が相当の比重を占めている。この直訳の部分は、原作の面白さ(趣 向
)11
(
)を忠実に再現していると同時に、漢 文学の素養を備えている学海が中国の古典についても的確に理解していることを表している。 第二に、学海は、作品で、小野篁に関連する複数の資料を併用し、日中の伝統を巧みに折衷して独自性を出そうとしてい
た。 『 江 談 抄 』、 『 今 昔 物 語 集 』 並 び に『 三 国 伝 記 』 は、 篁 が 炎 魔 宮 の 冥 官 で あ っ た と し て い る。 篁 が 異 界 の 人 と 接 す る「 篁 説 話 」 は、 古 く か ら あ る。 「 小 野 篁 」 は「 蓮 花 公 主 」 の 翻 案 作 と し て、 中 国 の 怪 異 小 説 と 日 本 の 伝 統 と を 折 衷 し て、 独 自 性 を 出 そ う と し た 作 品 で あ る。 実 世 界 に 対 し て、 学 海 は 篁 の た め に、 濃 厚 な「 中 国 」 の 色 彩 を 帯 び て い る 異 世 界 を 作 っ た。 「 麗 し い 衣 装 」 を 着 て い る 人 が 往 来 し て い る「 大 厦 高 楼 」、 「 雲 篆 」 で 書 い た 扁 額、 並 び に「 水 陸 の 珍 羞 を 置 き 列 べ、 金 銀 の 器 も て こ れ を す す む 」 宴 席 な ど か ら は、 容 易 に「 西 遊 記 」 の 天 宮 か 竜 宮 か が 想 起 さ れ る で あ ろ う。 幼 年 時 代 か ら 中 国 文 学・ 文化に親しみ、漢詩文を広く渉猟した学海にとって、作品中の異世界を中国の古典と関連させるのは自然な選択であったの はなかろうか。 第三に、原作の記述的筆調に対して、学海は人物の会話を附け加えることなどによって、細緻な描写で登場人物の内面を 提 示 し、 小 説 的 な 要 素 を 強 め て い る。 翻 案 で あ り な が ら、 『 聊 斎 志 異 』 の 原 作 か ら 離 れ、 主 人 公 が 中 国 風 の 格 好 を し て い る 君王と会う独自の物語として別の趣向を加えて再構成した作ともなっている。 『 聊 斎 志 異 』 が 簡 潔 な 古 典 中 国 語 の 文 章 で あ る の に 対 し て、 前 述 の よ う に、 学 海 は 細 緻 な 描 写 を 行 い、 古 典 的 な 雅 語 を 使って文章を作っている。学海は原作の架空の人物を日本の歴史上の人物に変え、舞台も日本に移した。さらに、風雅な主 人 公 に 合 わ せ る た め に、 情 緒 の あ る 背 景 描 写 を 添 え、 物 語 風 で 優 美 な 作 品 に し た。 石 橋 忍 月 は、 「 其 文 章 よ り す る も、 其 事 実よりするも一個の通俗竹取物語を読むが如 し
)11
(
」と指摘する。劇作者でもある学海の人物描写は性格、趣味まで具体的であ り、ストーリーの展開もテンポがよく、劇のように場面ごとの変化が印象的である。原作を尊重しつつ、学海の翻案作は、 情景や心理描写に留意したもので、独自の表現空間を作っている。芸術性の点でも、原作の叙事的な書き方にまさっている 部分もある。日中の古典を新しい方法で書き変えた「小野篁」が、同時代において持ちえた意義については、次節で触れた い。
四、 「小野篁」に対する時代評
前 述 の よ う に、 「 小 野 篁 」 は「 蓮 花 公 主 」 の 翻 案 で あ り な が ら、 独 自 の 芸 術 性 を 実 現 し て い る。 会 話 や 内 面 描 写 な ど の 加 筆によって、叙事的な筆調から小説的な色彩の強い作品となっている。本作を評価したのは、先述の森鴎外の発言だけでは な い。 『 読 売 新 聞 』 で 拜 見 居 士 も「 小 野 篁 」 に つ い て 批 評 し、 「 皮 一 重 」 と と も に、 『 聊 斎 志 異 』 を 受 容 し た も の と 指 摘 し て いた。原文は次の通りである。
我 評 素 よ り 豪 然 と し て 評 と 云 ふ に た ら ず 唯 幾 回 か 読 了 り て 後 何 と か 彼 と か 思 ひ 寄 る 節 と 記 す の み ―
単に先生の文章と見るべきの み 蟻の熊野道中記などと簇々類似者が出来ては驚くなれど蓋し此篇は単に先生一流文字の巧と示されたるのみ読むもの亦 き談話是も近来珍らしく小金井女史の皮一重と共に読み去りてアッと云はせらるるものなり此次は槐安国の話し其次は 学海先生の小野篁流石に我等の評と為す能はざるほどスキの無きもの文章自在敬服々々但し聊斎志異逸文ともなすべ へば作者に動かされて我筆もつ手の動き其書に感ぜしめられて我心に感ずる節と書きあらはすのみ(中略)
極め て 正 直 に 云
)1(
(
こ こ で、 拜 見 居 士 は「 小 野 篁 」 の 文 章 を 賞 賛 し な が ら、 「 聊 斎 志 異 逸 文 と も な す べ き 」 と い い、 両 者 の 関 係 性 を 指 摘 し て い た。 そ れ と 同 時 に、 「 単 に 先 生 一 流 文 字 の 巧 と 示 さ れ た る の み 読 む も の 亦 単 に 先 生 の 文 章 と 見 る べ き の み 」 と 言 う よ う に、文章に学海の創造性を認めていた。その点、拜見居士の発言は森鴎外と違っている。 翻案とは、小説、戯曲などについて、前人の作品の大筋をまね、細かい点を変えて作り直すことである。むろん、外国文 学を受容する際、忠実な翻訳だけでなく、地名人名を置き換えて筋をなぞる単純な翻案から、設定やストーリーを大胆に変
え る 翻 案 ま で さ ま ざ ま な ス タ イ ル が あ り え た
)11
(
。 学 海 の「 小 野 篁 」 は「 蓮 花 公 主 」 の お お よ そ の 筋、 内 容 を 借 り、 人 情、 風 俗、地名、人名などにおいて改変を行なったもので、本稿では、本作を翻案と判断したい。しかし、拝見居士と森鴎外との 指摘が同時になされていることを考えれば、明治二○(一八九○)年代の日本における評価は一定のものではなかったこと がいかがえる。 坪内逍遥が『小説神髄』の「緒言」で明治二○年代頃の日本文壇の状況を次のように述べている。
小説といひ稗史とだにいへば、いかなる拙劣き物語にても、いかなる鄙俚げなる情史にても、翻案にても、翻訳にて も、翻刻にても、新著にても、玉石を問はず、優劣を選ばず、みなおなじさまにもてはやされ、世に行はるゝは妙なら ずや。実に小説全盛の未曾有の時代といふべきなり。されば戯作者といはるゝ輩も極めて小少ならざれども、おほかた は皆翻案家にして、作者をもつて見るべきものはいまだ一人だもあらざるな り
)11
(
。
逍遥によれば、明治二○年頃は「小説」全盛の未曾有の時代で、翻案、翻訳、翻刻、新著の区別が問われず、善し悪しも 判 断 さ れ な い ま ま 大 量 の 作 品 が 世 に あ ら わ れ る 時 代 で あ る。 『 浮 雲 』 や『 舞 姫 』 が 登 場 す る 前 の 時 期 に、 逍 遥 が 翻 案 の 流 行 を指摘していることに留意したい。 前掲拝見居士の論説は聊斎志異の翻案の流行に触れ、坪内逍遥の見方を裏付けるものである。さらに、拝見居士は小金井 きみ子の「皮一重」を始めとして学海の「小野篁」に類似する一連の作品を挙げている。 小金井きみ子は森鴎外の妹で、歌人としてよく知られている。その翻訳作品『浴泉記』が石橋忍月に激賞されているよう に、 女 流 文 学 者・ 翻 訳 家 と し て も 評 価 さ れ て い る。 「 皮 一 重 」 は き み 子 が『 聊 斎 志 異 』 の「 画 皮 」 を 翻 訳 し た 作 品 で あ る。 この作品について、森鴎外が「重印蔭艸序」 (一九一一 年
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(
) でこのように記している。
舊宮人。菊と水。皮一重。人肉。此四篇は支那の小話を譯せるなり。當時學海依田先生などの試み給へるを見て、き み子が顰を傚ひしに や
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(
。
学海の影響を受け、小金井きみ子が中国小説の翻訳をしたと鴎外が述べていることは証言として重要な意味を持っていよ う。 引 用 文 に あ る 四 つ の 翻 訳 作 品 の 中 で、 「 皮 一 重 」 は 唯 一『 聊 斎 志 異 』 に よ る も の で、 依 田 学 海 の「 小 野 篁 」 と 同 じ 明 治 二三年に発表されている。しかも、両作品とも雅文調で書かれていて、季節を秋に設定し、内面描写や情景描写を多く書き 加 え て い る。 直 訳 の 部 分 も あ る が、 そ れ ぞ れ の 工 夫 に よ っ て 情 緒 豊 か な 作 品 と な っ て い る。 ほ ぼ 同 時 に 発 表 さ れ た「 皮 一 重」は「小野篁」に倣った可能性が大きいと考えられる。 「 小 野 篁 」 に つ い て、 森 鴎 外、 拝 見 居 士 と も 表 現 に つ い て は 賞 讃 し た が、 作 品 の 性 質 を 翻 案・ 翻 訳 と す る か、 創 作 と す る かでは意見を異にしていた。作品のとらえ方について、次の石橋忍月の批評は興味深い。
學海居士の筆に成れる小野篁も亦た新著百種第八號の附録として現出せり二十ページに足らざる短篇なれども小野篁 の夢物語を惹て人事に及ぼし蜂の難を避けて他に移る事實を以ッて暗に其夢物語に照應せしめ言外に無窮雋永の寓意あ るは兎に角、居士の妙腕なり、居士平常の弊は文字の冗長なるに在り、然るに本篇は驚くべき程簡潔にして且つ健全な るは讀者をして二度吃驚を起さしむべし、本篇は小説には非す一種のミテゥス(奇話)なり、その文章よりするも、其 事實よりするも一個の通俗竹取物語(若し斯くの如きもの世に在りとせば)を讀むが如し、結末「げに〱かの姫君の御 腰の細かりしも、またかの音楽のいと微かなりしも」の文字を以ッて筆を絶たれしは風韻ありて餘情永く讀者の感を惹 く(後 略
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(
)
石橋忍月は「無窮雋永の寓意ある」 、「簡潔」 、「健全」 、「風韻ありて餘情永く」などの言葉を用いてこの作品を激賞してい た。学海自身は『学海日録』で、 「小説『小野篁』なり」と規定したが、忍月が「小野篁」を『竹取物語』と並べて、 「一種 のミテゥス(奇話) 」と認識しているのが注目される。
小 説 は 美 術 的 文 字 た ら ざ る 可 か ら す 、「 美 」 の 約 束 を 守 ら ざ る べ か ら す 、 人 間 生 活 を 写 す を 以 つ て 目 的 と な さ ざ る 可 か ら す 、 人 と 運 命 と の 間 を 規 定 す る 天 然 な 法 則 を 出 さ ざ る 可 か ら す 、 動 力 と 反 動 力 と よ り 来 れ る 行 為 を 写 さ ざ る 可 か ら す
こ れ は 忍 月 が 明 治 二 三 年 に 発 表 し た「 報 知 異 聞
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(
」 の 一 節 で あ る。 小 説 は 芸 術 の ジ ャ ン ル に 入 る も の で、 「 人 間 生 活 を 写 す」ことが目的である。 「美術的文字」をもって、 「人情」と「世態」をそのまま模写することが小説の要件であると忍月は 認識している。さらに、優れた小説は次のような要素を備えるべきであると彼は述べていた。
好 小 説 が 之 を 吟 咏 咀 嚼 し て 微 妙 雋 永 の 味 あ る 所 以 は 、 必 竟 美 術 的 の 文 字 た る が 故 の み 、 若 し 小 説 に し て 「 美 」 の 約 束 を 守 ら ず ん ば 、 人 間 生 活 を 目 的 と せ ず ん ば 、 関 係 な き 人 事 を 附 造 し て 結 構 の 眩 爛 を 喜 ぶ と せ ば 、 是 れ 小 文 人 の み 拙 技 の み
)11
(
石橋忍月はここで「芸術」と「世態」 、「人情」との関係を論じ、優れた小説とは「世態」のあり様を登場人物を通じて現 出させうる、芸術性を備えたものであるということを唱えて、小説の目的は人事を描写することにあることを改めて強調し て い る。 「 小 説 の 元 素 材 料 は 人 に 在 り、 小 説 の 目 的 物 は 人 に 在 り、 小 説 の 趣 向 は 自 然 に 人 物 の 性 よ り 湧 出 せ ざ る べ か ら ず 」 と述べられているように、石橋忍月の文学觀の中心は人間に置かれている。以上を要約すれば、人物の周りにある出来事を 通じて、芸術的な表現でその人物をありのままに表現することが小説であるということになろう。
坪内逍遥より徹底した近代的な小説論を主張した石橋忍月にとって、 「小野篁」は簡潔で、健全ではあるが、 「一種の通俗 竹 取 物 語
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(
」 で あ り、 小 説 と し て は 認 め が た か っ た の で あ ろ う。 依 田 学 海 の 古 典 素 養 を 肯 定 す る 一 方、 「 小 野 篁 」 は 古 典 文 学 を 通 俗 化 し た も の で あ る と 忍 月 は 厳 し い 評 価 を 下 し て い る。 そ し て、 「 若 し 斯 く の 如 き も の 世 に 在 り と せ ば 」 の 一 句 に は、 現代作品として疑問が残るという忍月の意識が現われている。 明治一八年に、坪内逍遥が『小説神髄』を発表し、単なる勧善懲悪の功利主義的な文学を否定して、ヨーロッパの写実主 義を提唱することによって、小説は芸術の範疇に組み込まれるようになっていった。もともと小説という言葉は、中国にお いて、文字通り小さな説、即ち取るに足りないつまらない議論を意味し た
)11
(
。中国の「小説」概念から影響を受け、街談巷語 の よ う な、 暇 つ ぶ し の 娯 楽 と し て と ら え ら れ て い た「 小 説 」 は、 近 代 に 入 り、 坪 内 逍 遥 が『 小 説 神 髄 』 で 唱 え て い た「 「 人 情 」 と「 世 態 」 を あ り の ま ま に「 模 写 」 す る
)1(
(
」 文 学 へ と 変 わ っ て い く の で あ る。 「 小 野 篁 」 の 発 表 さ れ た 当 時 は、 「 言 文 一 致」運動の推進により、文体における近代化も進展しつつあった。 過 渡・ 変 革 の 時 代 に 発 表 さ れ た 作 品 の 評 価 が 揺 れ る の は 当 然 の こ と で あ る。 し か し、 ジ ャ ン ル の と ら え 方 は 異 な る も の の、 作 品 の 構 成、 表 現 等 の 面 に お い て は 優 れ て い る と い う 認 識 で は 森 鴎 外、 拝 見 居 士 並 び に 忍 月 は 一 致 し て い た
)11
(
。「 小 野 篁」は、翻案であるが、主人公の内面提示に関心を注いでいるところに、小説の近代化における過渡的な要素を見てもよい かもしれない。
五、おわりに
明治二二年二月二十三日、 『東京日日新聞』は、 「新著百種」の第一号について、次のような広告を掲げている。
一 冊 読 切 の 新 雑 誌
をも掲載す是右二失の通弊を去るのみならす又廉価の益あり三月五日を以て第一号を発刊 す 庫」の制に倣ひ広く諸大家の名作を乞ひ毎月一回新著百種なる雑誌を発刊す但小説専門にあらす時々政治工芸等の新著 こ れ 看 官 の 最 大 遺 憾 作 者 の 不 本 意 此 両 失 を 以 て 雑 誌 の 通 弊 と す 弊 店 此 に 見 る あ り 欧 米 に 行 は る ゝ 一 号 読 切 の「 某 氏 文 小説又は論説を掲るが故に看官B号を繙くに当りてA号の前章を記臆する能はす金玉の文をして断簡残編の思あらしむ
第一 号 三 月 五 日 発 行 ○ 春 の 屋 主 人 序 ○ 紅 葉 山 人 著 近 来 発 布 の 雑 誌 其 数 夥 し と 雖 も 一 部 中 数 種 の
)11
(
。
こ の 宣 伝 文 か ら 見 れ ば、 「 新 著 百 種 」 は 欧 米 の「 一 号 読 切 」 小 説 雑 誌 の 形 を ま ね た 月 刊 誌 で あ る。 し か も、 廉 価 で 幅 広 い 読者層の支持を期待することができる。さらに、 「『新著百種』と引き換えできる「切手」の売出しによって、まとめて注文 が便利になって、地方読者の買いやすさにもつながってい る
)11
(
」。 「新著百種」シリーズは『二人比丘尼色懴悔』など「近代文 学黎明期の傑作を多数世に送り出し た
)11
(
」叢書である。 依田学海がこういう欧米型小説雑誌である「新著百種」に発表した「小野篁」は古文体でありながら、本稿で論じたよう に、内面描写や会話の添加により小説の側面を持つ。しかも、雑誌の性格からより広い読者層が意識され、娯楽性にも重点 が置かれている。 ところが、森鴎外や忍月からみれば、学海の「小野篁」は「小話」か「奇話」で、小説とは言えなかった。依田学海のよ うな漢文学者の中には、中国の「稗史小説」の型が既に定着していた。学海が書いた『経国美談』の序文の「余幼嗜和漢小 說、讀數百部。然眼孔甚小、不能出尋常範圍外一步。頃稍涉外國事、目不識橫文、就譯讀之、猶隔靴搔癢、悶不可言。及閱 此篇始知和漢小說外別開一生面 矣
)11
(
」という記述からは、翻訳を通じて出会った西洋小説が別天地を開いてくれた喜びと同時 に、時代遅れの身で読書する悔しい気持ちが窺える。このような「新時代に対するコンプレックスをふくむ文人の心中の苦 し み
)11
(
」は、学海のような「旧派」文学者にとって、おそらく共通の悩みであったろう。井上弘は次のように指摘している。
勉強家の学海が新しい要素をふくむ西欧の歴史小説や翻訳小説などの著作に接し、ことにその著者から序文執筆の依 頼を受けたりして少しずつ小説への認識や理解が拡大され、固陋を脱却して表面的には、それ以前とは少なからず変化 をみせていたが、だからといって持ちまえの勧懲主義に基づく小説観についての根本的な見解ないし信念は変わること はなかった。百八十度の転換は無理であっ た
)11
(
。
確かに、学海は「小野篁」の描写にうかがえるような進取的な姿を持ちながら、その基盤の素養に束縛され、不徹底にし か 時 代 に 接 続 で き な い 状 況 に 陥 っ て い た。 「 小 野 篁 」 に つ い て、 単 な る『 聊 斎 志 異 』 の 翻 訳 で あ る と 森 鴎 外 が 指 摘 し、 石 橋 忍 月 が「 小 説 」 で は な く、 「 奇 話 」 と 認 識 し、 「 一 種 の 通 俗 竹 取 物 語 」 と 批 評 し て、 拝 見 居 士 は「 『 聊 斎 志 異 』 逸 文 と も な す べき談話」であると述べたのは、本作の近代的な要素が部分にとどまっているからであろう。 井上弘が提示しているよう に
)11
(
、幅広い人脈を持つ学海のまわりには、森鴎外、坪内逍遥、幸田露伴、矢野龍渓、二葉亭四 迷ら「近代文学」の新しい「要素」を持つ人々が集まっていた。学海は彼らの著作のために、序文を書き、また批評もして い る。 学 海 が 幸 田 露 伴 を 文 壇 に 送 り 出 し た こ と は 文 壇 の 佳 話 と し て 広 く 知 ら れ て い る。 さ ら に、 『 女 学 雑 誌 』、 『 国 民 之 友 』 などの雑誌に積極的に寄稿して、小説・文学評論を書き継いでいった学海の創作は厖大である。このように、人脈の形成や から創作、批評活動まで日本文学の近代化に対する学海の貢献は大きい。 新 世 代 の 文 学 者 と 比 べ る と、 保 守 的 で 不 徹 底 的 な が ら も、 依 田 学 海 作 品 の 芸 術 性、 登 場 人 物 の 内 面 描 写 な ど、 「 近 代 文 学」の実現を目指して独自の努力をしていたことは認められてよいのではないか。そして、この作品は、日本古典文学の系 統を継承しながら、近代的な要素を取り込んだ過渡期の作品として、文学史に位置づけられてよいと思う。 翻案の意義について論じる際に、吉武好孝の「翻案という分野は、日本文学の近代化の過程においてもっとも大きな役割 を果たしてきてい る
)11
(
」という指摘がよく参照されている。これは西洋小説の翻案について言っているが、同じことは、漢文
小説の分野においても言えると考えたい。漢文の素養を活かした学海の中国古典の翻案は、反響を呼び、小金井きみ子のよ うな若い世代の文学者に大いに影響を与え た
)1(
(
。しかも、直訳に基づき、擬古文の文体で自らの作風を組み込んでいく『聊斎 志異』の翻案作家として、明治時代において、学海は第一人者と言え る
)11
(
。本稿の第四節で挙げた時代評からみる同時代にお ける反響の大きさも学海の作品が多くの人たちに影響力を持っていた有力な証拠である。近代過渡期の日本文学を論じる際 に、西洋文学の影響は従来の研究でよく取り上げられるが、中国文学の翻案が影響を与えている意義も改めて認識されるべ きであると思われる。ここでは、具体的な影響を与える前提として、学海の翻案小説の位置づけを試みた。
※本稿は国際シンポジウム「近代東アジアの思想と文化―中国 ・ 日本の文化交流の視点から」 (二○一五年十一月於中国 ・ 嘉興学院)における口頭発表に基づくものである。発表に対して御教示を賜った方々、発表機会を与えてくださった方々に 謝意を表したい。
【注】(
1)魯迅『中国小説史略』
(中島長文訳 平凡社 一九九七年七月)。(
2)山口剛「支那小説史の輪郭」
(『山口剛著作集 第六巻』中央公論社 一九七二年八月)。(
3)陳炳崑「
『聊斎志異』と日本近世文学」(広島大学博士論文『日本文学と中国古典文学』第三章所収、一九九五年三月)(
4)大庭脩『江戸時代における唐船持渡書の研究』関西大学東西学術研究所
一九六七年三月)。(
5)魚返善雄「稗史小説と明治小説」
(『国文学 解釈と鑑賞』第一五巻第五号 一九五○年五月)。(
6)徳田武「読本と清朝筆記小説―『今古奇談』
『通俗排悶録』について」(『江戸漢学の世界』ぺりかん社 一九九○年七月)(
7)藤田祐賢「聊斎志異の一側面―特に日本文学との関連において」
(『慶応義塾創立百年記念論文集』一九五八年十一月)(
8)前掲注三論文参照。
(
9)藤田祐賢、
八木章好は日本における『聊斎志異』の研究状況を『聊斎研究文献要覧』として、一九八五年にまとめている。それ以外に、
『聊斎志異』が日本の近代文学における影響の様相を述べたものとして、山田博光「聊斎志異と日本近代文学」(帝塚山学院大学創立二十五周年記念論集編集委員会編『世界と日本』帝塚山学院大学 一九九二年三月)、翁蘇倩卿「日本近代文壇に於ける『聊斎志異』の受容と変容」(国文学研究資料館編『国際日本文学研究集会会議録(第六回)』、一九八三年三月所収)などの論考がある。(
10)「依田学海の文学活動」
(井上弘『近代文学成立過程の研究』有朋堂 一九九五年一月)。(
( 来りて、余に新著を請ふ。近来、新著百種とて世に著はるるものにのせんとて也」とある。 11) 依田学海『学海日録』(学海日録研究会編『学海日録』第七巻岩波書店一九九○年十一月)原文は「九月一日。(中略)吉岡哲太郎 12)この日の日記で、学海は「
小説小野篁なり」と述べていた。(学海日録研究会編『学海日録』第八巻 岩波書店 一九九一年一月)。(
13)森鴎外「寄書」
(『読売新聞』一八九〇年二月二十七日)。(
( いる。 14)森鴎外が改題して『小野篁』について論じたことは、梅山聡が東京大学鴎外文庫の『聊斎志異詳注』のために書いた解説部分で触れて
15)森鴎外「小野篁に就きて」
(『月草』春陽堂 一八九六年十二月)。(
16)藤田祐賢「聊斎志異の一側面─特に日本文学との関連において」
(『慶応義塾創立百年記念論文集』三田哲学会 一九五八年十一月)。(
17)藤田祐賢「
『聊斎志異』在日本(追補與訂正)」(『蒲松齢研究』第十八期 蒲松齢記念館 一九九五年十月)。(
( 三年三月所収)。 18)翁蘇倩卿「日本近代文壇に於ける『聊斎志異』の受容と変容」(国文学研究資料館編『国際日本文学研究集会会議録(第六回)』一九八
( 五月)。 19) 小田桐弘子「小金井きみ子と中国古典『聊斎志異』」(平川祐弘・平岡敏夫・竹盛天雄編『講座・森鴎外』第一巻新曜社一九九七年
( 「但雲湖」に直した。 『学海日録』からのものである。ただし、「但雲湖」は道光二十二年(一八四二)『聊斎志異新評』の評者の号であるので、「但、雲湖」を 20)無窮会に保存されている依田学海自筆の日記自体は句読点が付いていないものである。ここで引用している日記文は学海日録研究会編 21)『依田学海作品集』の「作品解説」
(依田学海作品刊行会 一九九四年一月)が提示しているように、「題名の小野篁は、平安前期の官人・学者・歌人で博学で詩文に長じ天才と言われていた。」という。嵯峨天皇小野篁の詩才を試みたことが文壇の美談として古くから流伝してきた。
斎藤淳は「嵯峨天皇小野篁の詩才を試みたまひし事の真偽」(『國學院雑誌』第一五巻五号 一九○九年五月)において、その始末を次のようにまとめている。「文集(筆者注:白楽天の詩集)に因みたる、文壇の佳話も少なからざるが、殊に、嵯峨天皇の、河陽館に行幸まし〱て、小野篁の詩才を試み給ひし事は、最も名高き話なり。(中略)今、その事実の出所を按ずるに、江談抄に、始めてこれを伝へたり。其の文次の如し。 閉閣唯聞朝暮鼓、登樓遙望往來船、故賢相傳云、白氏文集一本詩渡來在御所、尤被秘蔵、人敢無見。此句在彼集、叡覧之後、即行幸此
観、有此御製也、召小野篁令見。即奏曰、以遙為空最美者。天皇大驚勅曰、此句楽天句也、試汝也、本空字也、今汝詩情與楽天同也者、文場故事、尤在此事、仍書之。
大日本史を始め、篁伝を作るもの、皆之れを引きて、篁の文才の優なりを賞せり。(
( る。 22)雲篆という言葉について、中国清朝の厲荃が編集した『事物異名録・仙道・道書』には、「道家字、名雲篆、又曰雲書」という記録があ
23)八木章好は「蜂妖考─『聊斎志異』異類譚札記(二)
」(慶応義塾大学芸文学会『藝文研究』八六号 二○○四年六月)で、「『聊斎志異』の異類譚に顕著な特色の一つは、作品全体に執拗なまでに次々と配置される異類暗示の表現にある。「蓮花公主」においても、女が蜂妖であることを暗示する表現が随所に見られる。」といい、本文で触れた音楽のこと以外、「畳閣重樓、萬椽相接」のところ、往来する宮人や女官や、「洞房」などのところも異類暗示の表現とされている。(
( 唯看新月吐蛾眉」の後半と同じ趣向をしていると思われる。 24)中国の古典には、眉を新月と繋がって詠じる作品がたくさんある。学海のこの句は唐の王涯の「秋思贈遠」にある「不見郷書伝雁足、
( 妻のために眉を描くという記述がある。それ以降、「張敞画眉」は夫婦の仲睦まじさを述べる際の典故となった。 25)古代の中国において、妻のために眉を描くことは妻を愛する表現としてよく文学作品で取り上げられる。『漢書・張敞伝』には、張敞が
( 「金屋」は大きな家の喩えとしてよく使われ、「阿嬌」はもともと漢武帝の伯母の娘でるが、麗しい女性の呼称としても使われている。 いった。これは「金屋の阿嬌」という典故の由来である。唐の李白も「妾薄命」で、「漢帝寵阿嬌、貯之黄金屋」と詠じていた。ここの 26)中国漢の班固が著した『漢武故事』によれば、漢武帝が、阿嬌を見始めた時、「もし阿嬌を得ばまさに金屋を以てこれを貯うべし」と 27)石橋忍月(匿名子)
「新著百種第八号芳李」(『国民之友』「新聞雑誌」一八九○年三月三日)。(
28)藤田祐賢「
『聊斎志異』在日本(追補與訂正)」(『蒲松齢研究』第十八期 蒲松齢記念館 一九九五年十月)(
29)ここでの、原作の面白さを生かそうとする意識は森鷗外が『読売新聞』で指摘した趣向の一致にも関わっている。
(
30)石橋忍月(匿名子)
「小野篁」(『国民之友』「新聞雑誌」一八九○年三月三日)(
31)拜見居士「新著百種第八号評」
(『読売新聞』一八九○年三月一日)。(
32)中村幸彦「翻訳・注釈・翻案」
(水田紀久・頼惟勤編『中国文化叢書9日本漢学』大修館書店 一九六八年二月)。(
33)坪内逍遥『小説神髄』
(松月堂、一八八五年九月~一八八六年四月)。(
34)森鴎外「重印蔭艸序」
(『かげ草』春陽堂 一九一一年九月)。(
いた。原文は次の通りである。 35)森鴎外だけでなく、『読売新聞』で拜見居士も「小野篁」について批評し、「皮一重」とともに、『聊斎志異』を受容したものと指摘して 「我評素より豪然として評と云ふにたらず唯幾回か読了りて後何とか彼とか思ひ寄る節と記すのみ―
れて我筆もつ手の動き其書に感ぜしめられて我心に感ずる節と書きあらはすのみ(中略) 極めて正直に云へば作者に動かさ
学海先生の小野篁流石に我等の評と為す能はざるほどスキの無きもの文章自在敬服々々但し聊斎志異逸文ともなすべき談話是も近来珍らしく小金井女史の皮一重と共に読み去りてアッと云はせらるるものなり此次は槐安国の話し其次は蟻の熊野道中記などと簇々類似者が出来ては驚くなれど蓋し此篇は単に先生一流文字の巧と示されたるのみ読むもの亦単に先生の文章と見るべきのみ」(拜見居士「新著百種第八号評」(『読売新聞』一八九○年三月一日 別刷 二ページ))(
36)石橋忍月(匿名子)
「小野篁」(『国民之友』「新聞雑誌」一八九○年三月三日)。(
37)石橋忍月「報知異聞」
(『国民之友』一八九○年四月三日)。(
38)石橋忍月「報知異聞」
(『国民之友』一八九○年四月三日)。(
39)前掲注二十七評論参照。
(
( 之所造也」と述べ、小説を委巷常談や、道聽塗説などと認識していた。 40) 班固は、『漢書』(班固撰顔師古注中華書局一九六二年六月)に、小説について、「小説家者流、蓋出於稗官。街談巷語、道聽塗説者 41)宗像和重「
『小説』をノベルに」(坪内逍遥『小説神髄』(解説)岩波書店 二○一○年六月)。(
42)ほかには、女学雑誌で大活躍していた雲峯子も「新著百種第八号」を題にして、
「小野篁」を激賞した。原文は次の通りである。 是は僅か二十頁の短篇にして一種の偶 ママ意小説なり只夫れ偶意小説なるが故に余は之を説かず蓋し偶意あるもの若くは諷刺の意を含む文字は讀者各之を味ひ之を解了すべきものなればなりされば余は其意の存する所は措て云はず只文章の點に於て余が感服する事を述ぶるを以て足れりとなす夙に人の知る如く本篇の作者學海先生は新井白石の著書及び春臺雑話の如き文章を好ませられ兼而漢學に博く渡らせらるゝ丈けありてさすがに文章流暢平易讀者をして轉た其短篇なるを惜ましむ實に余輩後進者の學ぶべき文章なりとす余輩淺學先生の著作に向つて是非を判するの力なし故に只一言して止んのみ。(雲峯子「新著百種第八号」〔『女学雑誌』第二○三号 一八九○年三月八日〕)(
43)『東京日日新聞』一八八九年二月二十三日による。
(
44)「娯楽として人気があった文芸書の販売目録
(吉岡書籍店)」(二○一一年十月二十四日~十二月二十四日 千代田図書館企画展示資料)。(
45)前掲注四十四参照。
(
46)依田学海「序文」
(『斉武名士 経国美談』(後編)報知新聞社 一八八四年二月)。(
47)前掲注十引用書七六頁参照。
(
48)前掲注十引用書八十一頁参照。
(
49)前掲注十引用書の「評論活動―保守的な姿勢を持して」の一節参照。
(
50)吉武好孝氏『近代文学の中の西欧―近代日本翻案史』
(教育出版センター 一九七四年十一月)。(
51)しかも、忍月は小金井きみ子の「皮一重」を次のように激賞していた。
皮一重は超然時俗に頭角を出して頗る健鞏の意想あるなり、想を貴ぶの弊、終に實を失れたりと雖も素と是れ小説にあらずして奇話なれば強ち咎むべきにあらず、奇話は多く小児の翫味に供すべきものにして成人をして真面目に読ましむるは頗る難し、只夫の皮一重は寧
ろ成人をして咀嚼せしむるに充分の價値あり、是れ吾人が皮一重を以ッて凡作に非ずとなす所以なり。「今の言文一致といふものには賤しきふしも少なからず、さればとて古文のまゝを今さらに作出んもねがはしからず活語てにをはの法をたゞして今の言葉をも用ひほどよき物かゝばやと思ひ侍る」是れ女史が文躰に就ての意見なり、吾人は是に於て乎始めて知る、女史が總ての譯文詞健にして熟美なる所以の偶然にあらざるを。(石橋忍月〔啄木鳥〕「閨秀小説家の答を読む」〔『国民之友』一八九○年四月十三日〕)(
る意識がうかがえる。 で『聊斎志異』を翻訳したもう一人の人物である蒲原有明を取り上げている。蒲原有明の訳作は原作の簡潔さをできるだけ生かそうとす た、藤田祐賢は「聊斎志異の一側面─特に日本文学との関連において」(『慶応義塾創立百年記念論文集』一九五八年十一月)で、擬古文 異』の最初の訳本を明治二○年に出版された神田民衛の『艶情異史』と特定し、きみ子の「皮一重」は翻案と改めて認識している。ま 「皮一重」と認識したが、藤田祐賢が「『聊斎志異』在日本(追補與訂正)」(本論にも言及あり、注二十四参照)で、明治期の『聊斎志 52)小田桐弘子は「小金井きみ子と中国古典『聊斎志異』」で、明治期『聊斎志異』の翻訳のはじめを明治二三年公表された小金井きみ子の
【資料】⑴
膠州竇旭
字曉暉 方晝寢 見一褐衣人立榻前小野篁の英才は。世の知る所なり。
A 此
人いまた官道に進まさりし頃。或日己か家に在り。書讀ゐたりしに。
B 折
しも秋の半にて。紅葉の庭に散りたるも。流石に見ところ無にあらず。折に合ひたる樂天の詩なと打誦ゐたりしに。夕夜深くるまて。書讀みし疲にや。腱 まぶた重くいと眠たかりければ。思はす几に憑りて。まとろみし夢のうちに。褐色の狩衣着たる人我前に在り。
⑵ 逡巡惶顧
似欲有言 生問之その色をみるに惶れおのゝくか如く。何やらん物言たげにみゆるにぞ。
C お
事はいかなる人におはすと問へは。
答云相公奉屈 ⑶
相公何人
曰 近在鄰境 彼人謹て答ふるやう。某か主にて候君の。御身に對面せま欲しとて。待居玉へり。参り玉はんやといふ。
從之而出
轉過牆屋 導至一處 疊閣重樓 萬椽相接
D 篁
もとより奇を好めは異議なくその言に従ひて。つきゆくほとに。我家の牆を繞りて。幾町かを過くると
E 見るほとに。常には見えぬ大厦高樓あり
。