異文化間コミュニケーションの基本問題
異文化間コミュニケーションの基本問題 藤田剛正
目 次 はじめに 1.国広氏の仮説 2.バーンランド氏の研究
3.異文化間コミュニケーションの問題点
① 言語化量の相違
㊤ コミュニケーション活動量の相違
⑨ 社会構造の相違
④ 人間関係様式の相違
⑤ コミュニケーション・ギャップ 4.異文化間コミュニケーションと英語教育
1
は じ・め に
近年,言語と隣接する文化・民族・社会・心理等の領域が言語との有桟的 関連において研究されるようになった。社会言語学(sociolinguistics),民 族言語学(ethnolinguistics),心理言語学(psycholinguistics)等がそれ である。これらは1960年代になって盛んになった若い学問であるが,日本の 外国語教育に貢献すると思われるような研究成果も出てきている。
特に,第二回日米合同社会言語学会議(1973年8月)において読まれた国 広哲弥教授の論文1)の中に出てくる日米人格構造に関する仮説は含蓄に富む ものである。さらに,これと類似の仮説が,別個に,サンフランシスコ州立 大学のバ細ンランド教授によっても立てられ,それを或る程度立証する調査 研究が発表されている2)。
本論は,国広氏の仮説とバーンランド氏の研究を出発点として,異文化間 コミュニケーションの基本的問題点を明らかにし,加えて,異文化間コミュ
ニケーションの観点から日本の英語教育の向うべき一つの方向を示唆しよう とするものである。
1 .
国広氏の仮説国広氏は日米のコミュニケーション様式の相違は日米人の人格構造の相違 に基づくと考え,次の
3
点より成る仮説を立てた。① 日米人の人格構造
( p e r s o n a l i t ys t r u c t u r e )
(図1)
凶 日 本 人
~","ー、、
s e H c r u s t
ノ( 自 我 殻 ) ¥ ¥ ノ ‑
『 示 、 阜 、、 、
s e H
IT 、 :
(自我--+----1I~)
J
、 I
s o c i a l l a y e r ¥ 、 , J ( 社 交 層 )
¥二 /'(同アメリカ人 国広氏は人格を内円と外円より成る二つの同心円を以って表わし,内円を 他人の立ち入れない自我
C s e l
f) ,内円と外円との間の空間を外に対し聞か れた社交層C s o c i a ll a y e r )
と定義するD かくして日米人の人格構造の相違 は次の諸点にありとするo日 本 人 アメリカ人
社交層 幅狭い 幅広い
自我殻 薄い 厚い
自我の大きさ 大きい 小さい
独立性 弱い 強い
② 次に国広氏は同国人間の関係を次のように図示する。
異文化問コミュニケージョンの基本問題 3
(図2) 同国人間の相互作用‑
(in t e r a c t i o n )
/一三二?¥ 〆ペエこご¥
〆 , ー 『 、 、 /'ー ¥、
/'/、\三~ンr 、、ノ、〆\
((工))(
¥ ¥ / T 又 入
/ ノ ¥0
中/ ¥0) ,
¥よ =ZJ 〆、、こ=工/、、ー ‑ J / ¥ 、‑‑〆'
同
日本人と日本人
(司アメリカ人とアメリカ人 日本では一度互いに交際関係を結ぶと,二人の個人はそれぞれの独立性を失 い,互いに同化し,一体の関係が作り出される
D欧米では,個人の独立性は あくまでも保たれるという仮説である
o③ 国広氏の仮説の第 3 は日米人間の相互作用に関するものである
o(図
3) 異文化問コミュニケーション
J . ー→ A.
].←‑A.
(A)
日本人がアメリカ人と交際する場合
(B)アメリカ人が日本人と交際する場合
図3 ( A ) は日本人が日本人のコミュニケーション様式でアメリカ人と交際す る場合である。斜線部は,アメリカ人の側で日本人が入ってくるだろうと空 しく期待している領域を示す。すなわち,アメリカ人の人格構造では社交屈 が幅広いために,相手がそこまで入ってくることを期待している
oところ が,日本人の社交居は幅狭いために,そこまで入らず,アメリカ人の方は不 満を感じ,日本人は形式的で,冷たく,遠慮深いという印象を抱く
o図
3(B)はアメリカ人がアメリカ人のコミュニケーション様式で日本人と交
際する場合である。今度は先の場合とは逆に日本人の側で好ましくない印象
一一アメリカ人は不袋で,せんさく好きで,ずうずうしいという印象ーーを 抱くことになるo これらのいわゆるコミュニケーション・ギャップはすべて 当事者双方の人格構造に由来するというのが国広氏の仮説である。
2 . パ ー ン ラ ン ド 氏 の 研 究
①
パーンランド氏は国広氏とは別個に,しかし類似した人格構造のモデ ノレを設定した。(図
4)
日米人の人格構造/ ¥
件 ) 日 本 人
( B )
アメリカ人U
は「無意識の自己J( u n c o n s c i o u s s e l
f) ,すなわち, 自分自身でも気づ いていない自己を意味する。r
私的自己J( p r i v a t e s e l
f)とは自分は知って いても他人には知られていない自己を意味するor
公的自己J( p u b l i c s e l
f) とは他人にも知られている自己を意味するoノてーンランド氏も国広氏と同様に,日本人の「私的自己」を大
r
公的自 己」を小,アメリカ人についてはその逆,と仮定するo② 次にパーンランド氏は上の仮説を哀付けるために社会調査を行なっ た。
240
名の大学生(日本の大学生男女各60
名, アメリカの大学生男女各60
名,計240
名)を対象にアンケート調査をし,それを統計的に処理した。調査の中味はいわゆる「自己露出スケーノレ
J ( s e l f ‑ d i s c 1 o s u r e s c a l e )
と いうもので,日米人が相手や話題によって,どの程度に自分を表わすかの調異文化問コミュニケーションの基本問題 5
査である。調査で回答を求めた選択肢(自己露出スケーノレの数値)は0=
「自分のこの点については相手に何も話していない
J
,1 = i
この点につい ては一般的な表現で話したJ
,2 = i
乙の点については全面的に話した」の3
種類である。調査の結果は(表1
)及び(表2)
となる。〈 表 1 )相手別自己露出 ( 表 2) 信用できる人との会話に 日本人 アメリカ人 おける平均的自己露出
日 本 人 ア メ リ カ 人 す る べ 総 合 て 的 の 平 相 均 手 深 に 対 度す 0 . 7 4
1.1 3
総 各 合 話 題 的 平 の 均 平 深 均 度 深 度 1 . 0 0
1.4 3 信 総 合 用 で 的 平 き 均 る 深 相 手 度への 0 . 9 9
1.4 3
趣 味 噌 好 1.
2 6
1.6 3 相手別自己露出 仕
事1 . 1 3
1.6 2 男性の友人
1.1 2 1 . 5 5 2
占f、L見
1.0 6 1 . 4 0 女性の友人
1.1 0
1.5 5
金 銭0 . 9 6
1.4 3
母 親 1.0 0
1.3 8 人
格0 . 9 0
1.2 9 父
親0 . 7 5
1.2 5 身
体0 . 6 9
1.1 4 未 知 の 人 0 . 2 7 0 . 6 3
信用できない人 0 . 2 1 0 . 3 9
表
2
から,信用できる人(両親および友人)との会話における平均的自己 露出は日本人で1 . 0 0
,アメリカ人で1.43
であるO 日本人は両親や友達に対し ても,ことばの上では「一般的な表現」の程度にしか自己を表わさない,と いうことがわかるロ③ さらにパーンランド氏は表
2
の自己露出の総合的平均深度値から,先 の人格構造モデノレ(図4)
における「私的自己」と「公的自己」の境界線を 数値で表わすことに成功した(図5)
。(図
5) i
私的自己」の境界線/ ¥ 0 . 0 0
1/ ¥¥::
l i Q 〉 VUU
¥ ‑ 私 的 自 己 ノ
ミ~~ン
( A )
日 本 人l//
んミ)、i 2 : 。 ;
¥も
4 j /
J
的自iヤ
(
同 アメリカ人
かくしてパーンランド氏は「ことばによるコミュニケーションにおいて自 己を表わす「公的自己」の範囲が日本人ではせまく
( 0. 0 0 . . . . . . . .
1.00)
,アメリ カ人では広い( 0. 0 0 " " " "
1.4 3 ) J
と結論する。3 .
異 文 化 問 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン の 問 題 点 、①
言語化量の相違国広氏の仮説とパーンランド氏の研究の意味するところは,日米人では内 面経験の言語化
C v e r b a l i z a t i o n )
の量に顕著な相違があるということであ る。国広氏は日本人の場合,外に対して開かれている「社交居」の幅が狭 く,アメリカ人の場合は幅が広いと仮定するoパーンランド氏はこれを社会 統計学的に測量して, 日本人の「公的自己」の幅は1.00
であり,アメリカ 人の場合はそれが1.4 3
であるとするo ということは, 日本人が自己を1.00
の量まで言語化する(v e r b a l i z e )
とすれば,アメリカ人は1.4 3
の量まで言 語化するということである。ところでパーンランド氏のスケーノレで2.00
は 極限であるから,アメリカ人が1.4 3
の量まで言語化するということは,実は日本人よりも相当におしゃべりであるということを意味するo
② コミュニケーション活動量の相違
アメリカ人の「ことば」によるコミュニケーションが日本人より多量であ るということを示すデータが他にもあるD ハワイ州立大学のクロプフ教授と 大妻女子大学の石井教授は日米で
1200
人の大学生に「コミュニケーション日誌 J ( c o m m u n i c a t i o n l o g )
を配り,自分と自分の両親の1
日分のコミュニ ケーション活動を記入させた3) O クロプフ・石井両氏が調査したコミュニケ ーション活動( c o m m u n i c a t i o na c t i v i t i e s )
とは, (1)会話一一1人を相手に,または小集団で,話をしたり,話を聞いたりすること
( 2 )
講演一一多勢を相 手に話し掛けること( 3 )
聴講一一講演を聴、く乙と( 4 )
テレビ・ラジオ一一テ レビを観たり,ラジオを聴いたりするとと( 5 )
読書( 6 )
書きもの一一手紙な どを書くこと,の6
種類であるo1日 24
時間を1 5
分単位に区切り,それぞれ の区分帯でどのコミュニケーション活動がなされたか,あるいはなされなか異文化問コミュニケーションの基本問題 7 ったかを記入させた。この調査結果の一部を表示すると(表 3) お よ び ( 表
4) となる
o(表 3) 1 日
(24時間)におけるコミュニケージョン活動時間の 日米比較
本 人 │ ア メ リ カ 人 コミュニケーションに使われた総時間数
8時間
07分 11時間
37分 (1) 会 話 3 1/ 31// 6 // 43庁(2) テレビ・ラジオ 1 // 321/ 2 // 341/
(3) 読 弓ーロヨ? 1 // 08// 1 // 08// (4)
書 き ' も の
1 // 26// o //44// (5) 聴5 苦
o / /28// o 1/ 26// (6) 講 演 o / /02/1 o //02//(表 4) 1 日の起きている時間中に占めるコミュニケーション活 勤 時 間 の 百 分 率 ( 9 6 )
戸朝日 (2ラ
J :
)TジVオA
‑ (3読)J i 書 ( A 書
4)J きもの ! A
(5聴)J i 講 A
(6講 J : )
演A J :
計A
I管 理 職
27; 45I
9: 17I
8: 11I
8i
11I
2: 4I
0i
0I
54 : 88主 婦
22; 35 I 13 : 17 I 5: 7 I 3: 3 I 3: 3 I 0: 0 I 46 : 65平 均
21: 40I
10 : 15I
8: 10I
9: 5I
3: 3I
0: 0I
51 : 73(J は日本人, A はアメリカ人)
上の表から日米人のコミュニケーション活動について次の特徴が指摘でき
ょ う 。 ① 平 均 的 に み て , 日 本 人 は 起 き て い る 時 間 ( w a k i n gh o u r s ) の 去 を
コミュニケーション活動に使っているが,アメリカ人はその1. 5 倍,起きてい
る時間のままでをコミュニケーション活動に使っているc②日本の大学生は 起きている時間のき強をコミュニケーション活動にあてているが,アメリカ の大学生は突に9
9 9 6
もあてているD ③日本人は1日の 3
時間31
分を「会話」に過すが,アメリカ人はその約
2
倍の6
時間43
分も「会話」に過しているo④「会話」の時間が起きている時間中に占める百分率は日本人で21%,アメ リカ人ではその約 2倍の4
0 9 6
であるo これを要するに,時間数の点からみて もアメリカ人は日本人の二倍もおしゃべりを楽しんでいることがわかるo③ 社会構造の相違
ノfーンランド氏と,クロプフ,石井両氏の調査研究は個人間コミュニケー ションにおいて日米では相当に量的な違いがあるという乙とを明らかにし た。しかし,乙れらの研究は,何故にそういう量的違いが生じるかについて は何も明らかにしない。コミュニケージョンの量的相違の原因は何であろう か。
乙乙で筆者のひとつの観察を述べると,
1 9 7 7
年の暮l乙N H K
が放映したア メリカ映画「探偵スヌープ姉妹」と「刑事コロンボ」を観ていて気が付いた のだが,アメリカ映画では刑事や探偵の捜している犯人が,求められもしな い乙とまで自分の方から多弁に情報を提供する。犯人自身の方からおしゃべ りするということは,どう見ても不利になるとしか思われない。結局は,自 分のしたおしゃべりが因で犯行がわかってしまうことになるのである。日本 の映画でも犯人の方からカモフラージュのために情報を提供することはある だろう。しかし,そういう状況はアメリカの作品にみられるほど多くはない。乙れはどういう理由によるのであろうか。考えてみると,アメリカの社会 では黙っている人は疑われるという乙とがあると思うo身辺の者が多弁にそ れぞれ立場を明らかにしているときに,黙っている乙とは身の危険を招く,
却っておしゃべりする方が身を安全にする,という前提があると思うo そ乙 で刑事や探偵が
l
の乙とを尋ねれば,犯行発覚前の犯人でも2
の乙とを答 えるという多弁が出てきてもおかしくない。乙れに対し,日本の状況では,周囲がみなそうであるように寡黙である方が目立つことがなく身の安全につ ながるO 黙っていた方が黙っている大衆の中にまぎれ込んで犯行がパレな
異文化問コミュニケージョンの基本問題 9 い。そういう状況設定の方が日本ではより自然であるo
日米の映画はそれぞれの社会の反映でもあるo
i
ことば」に対する態度も 写し出してくれるoそれだけで判断しでも,アメリカの社会では「乙とば」を多用して自分の意見や立場をはっきりさせる方が自分の利益につながり,
日本の社会では寡言の方が身の為である。
以上,多弁も寡黙も根は同じく社会的自己保存の本能であるという解釈で あるoそれでは何故に一方の社会では多弁が身を護り,他方の社会では寡黙 が身を保つのであろうか。
アメリカは人種・民族・宗教・価値観等それぞれに多様で異質なものを抱 え込んだ多元社会
( h e t e r o g e n e o u ss o c i e t y )
である。それ故,自己を表現 しないと,相手にわかってもらえない。勢い多弁とならざるを得ない。とこ ろが日本は世界でも類のない同質性の高い単一社会( h o m o g e n e o u ss o c i e t y )
であるために,いちいち言挙げしなくても意思が通じるという面がある。そ れで一般的に寡言である方が上策であり,アメリカ人のように,沈黙を恐れ てぺちゃぺちゃするのは軽薄の極みということになる。要するに,アメリカのような多元社会は多弁な人聞を作り,日本のような 単一社会は寡黙な人聞を作る。人聞は社会の産物でる。
④ 人間関係様式の相違
図2(A)による日本人同志の人間関係は土居健郎氏のいわゆる「甘え」の構 造を思わせるo
i
甘えとは〔本来〕乳児の精神がある程度発達して,母親が 自分とは別の存在であることを知覚した後に,別の存在である母親が自分に 欠くべからざるものであることを感じて母親に密着することを求める乙と〔心理〕である心」と土居氏は「甘え」を定義するo図
2
仇)では,二人の人 聞が,この「甘え」の心理作用によって同化し,一体となっていると見る乙 とができょうo この「甘え」の人間関係においては,二人の聞に隔てがなく なりi
ことば」によらなくても以心伝心にコミュニケーションが成立し,母子の如く一体感を楽しみ,目が口ほどにものを言う乙とになる。
i
甘え」の関係に入っている二人は,互いにいわゆる「身内」であり,遠慮も要らな いが,そういう関係にない外の者,未知の者に対しては,いわゆる「人見知
り」して
r
関係ない」という態度に出る。その一つの例は,アメリカの学校で子供に向って話し掛けると,子供はよ くおしゃべりする,これに対し,日本の学校で子供に話し掛けても,仲間う ちでは鏡舌でさえあるのに,口をつぐんでしまい
r
わかんないJ
,r
知ら ない」と答えるO 日本では幼ない時から,内と外,すなわちr
甘え」られ る相手とr
甘え」てはならない外部の人とを峻別するようになるようであ るD 他方,アメリカの子供が外来者に対してもいわゆる「人見知り」せず,おしゃべりするということは,アメリカ人の結ぶ人間関係が幼ないときから 図 2(B)のモデノレに近いということになるのであろうo
図 2(B)のアメリカ型の人間関係は,いかにも「個
J
(in d i v i d u a l i t y )
の確 立した者同志の人間関係、を示している。受身的に相手との一体感を求める「甘え」の心理が,欧米人にないわけではないが,それは社会的に容認され ていなし可。その証拠に「甘え
J r
甘えるJ r
甘やかす」などに相当する語誌 は欧米語に存在しない。r
日本で甘えとして自覚される感情は欧米では通 常,同性愛的感情としてしか経験され得ない」と土居氏は言うが,図2
凶の 日本的「甘え」の人間関係は「個人」を尊重する欧米人によっては容認され ない関係である。以上,日米における人間関係のあり方の質的差異が根本にあって,コミュ ニケーションにおける言語化の量的差違(多弁型と寡言型)が生じると結論
されるのである。
⑤
コミュニケージョン・ギャップ異文化問コミュニケーションのギャップに関しては国広氏の仮説(図
3)
に似た仮説がパーンランド氏によっても立てられている(図6)
0人間関係のあり方が異なり,言語化の量に違いがある日米人が互いにコミ ュニケーションしようとすれば,当然,ギ、ヤップが生じるo以前佐藤首相が ニクソン大統領との会談に出かけるとき
r
お互いに知った仲だから,吐八 分で話し合ってくる」という発言をしたが,これなどはまさに図2
凶の日本 的「甘え」の人間関係を前提としたコミュニケーションを考えているのであ るO そういう吐芸的寡言のコミュニケーションは図3
出)斜線部,あるいは図異文化問コミュニケーションの基本問題 11 (図
6)
異文化問コミュニケージョン日 本 人 アメリカ人 ' 日 本 人 アメリカ人 一
︿ 山
一 ︑ 訟 一
一〆 協 グ
ペ / 小 ﹀ 法
( A )
日 本 式( B )
アメリカ式〈斜線部はギ、ヤツプを示す)
6
(刈斜線部のギャップを生み,日本人はあまりものを言わないので一体何を 考えているのかわからないという不満を残す乙とになるo 日本の社会・文化 の同質性( h o m o g e n e i t y )
を前提とし,日本的「甘え」の人間関係、を前提としなければ,日本的寡言のコミュニケージョンは成立しないのであるo
異文化問,異民族問,異言語問,具国聞のコミュニケーションは1""こと ば」を尽して,多弁に,自己表現しなければ成立しない。同質性の温もりを 期待し,座して待つ,受身的愛情希求の「甘え」の構えでは異文化問コミュ ニケーションに臨むことはできない。
佐藤首相とは対照的に,たとえ英語の文法がどうあろうとお構えなしに,
知っている単語を並べて,どんどんしゃべりまくる一連の人々がいる。これ はラテン・アメリカ系の人々であるD 彼等は会議の席などで,先ず手を挙げ て指名され,しゃべり始めてから,さて,何を言うべきかを考えるといった 積極的な自己表現の姿勢がみられるo対個人のコミュニケーションでもこの 人々は「侵略的に」話してくるo
1 9 6 2 ‑ ‑ ‑ ‑3
年,筆者はアメリカ文明の野外研 究のため国際グループでアメリカを旅行していたが,ホテJレなどでもよくル ームメートとしてー絡になったチリ人は,話l乙興じてくると,空間距離をど んどん縮めてきて,やがて筆者の膝の上に腰掛けんばかりに接近し,顔をく っつけてくるD 彼は高校社会科の教員であり,彼にとっても外国語である英 語が決して上手であるわけではないが,文法l
こ栴わず単語をどんどん並べて 話し,熱中してくると気味悪いほど空間距離を狭めるのであるo しかも無意識にそうしている。この際筆者の受ける印象は図
3 ( B )
斜線部,あるいは図6 ( B )
斜線部によって回かれたギ、ヤツフ。からくる不快感である。しかし,我々はこのように外国人が彼等のコミュニケーション様式で接近 してくる際に受ける不快感を不快だと言ってしまってはならないと思うo
例
えばラテン・アメリカ人なら,そういう風に日本人からみると「情熱的」「侵略的」と思われるようなコミュニケーション様式を持っているのだと理 解するより外ない。
1 9 7 4
年,筆者がハワイ州立大学に留学していたとき親し くなったクラスメートはr
君の月給はいくらか」ときいた。筆者は不援な 奴とは,思ったが,正直に答えてしまった。しかし口に出してみて,いい気持 はしなかった。ということは,すなわち,異文化問コミュニケーションのギ ャップによる不快感が伴なった。ところが,大学院でクラスを担当していた 教授が転任することに決ったとき,彼はクラスの前で,今度移る大学で受け る年俸の額を板書までして知らせたのであるD してみると,アメリカ人にと って親しい聞なら,給与額がどれ程かを尋ねても不技な乙とではないらしい と知ったのである。確かにパーンランド教授の調査でも(表2)信用できる
人との会話における平均的自己露出として「金銭」という話題に関しては日 本人は0 . 9 6
,アメリカ人は1.4 3
と出ているD これでみても, 日本人は個人 的な金銭の乙とをそんなに口にしたいとは思わないが,アメリカ人には,話 題にしても決して不援なことではないとわかるのであるo異文化問コミュニケーションのギャップは寛容を以って互いのコミュニケ ージョン様式の相違,その背後にある文化の相違,を認め合う以外に克服の 方法はないであろうoむしろ,そのように異なった文化,具なったコミュニ ケージョン様式に触れることによって得られる啓発や自己認識や自国の民 族・文化の認識こそ貴重である。他者を知ることは己を知ることなのであ
る
o4 .
異 文 化 問 コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン と 英 語 教 育同質性の文化にとっぷりと浸って,言挙げせず,暗黙の諒解による日本型 コミュニケーション様式は国内専用に限るべきであるo対外的には「こと
異文化問コミュニケーションの基本問題
1 3
ば」を駆使するアメリカ型のコミュニケーション様式(図2B)
が必要であ るD 乙れこそ異文化問コミュニケージョン用として我々日本人も習得しなけ ればならないパターンである。日本における英語教育の意義のひとつはまさ にこの点にあると思、う。しかし,異文化問コミュニケーション様式の教授という任務を専ら英語乃 至外国語教育に期待するという乙とになれば,大変むつかしい。その重大な 理由は日本の教育の現状にある。言語教育という観点からは同じ職責に与か る国語教育が当然なすべき本務を果していないという乙ともある。児童・生 徒・学生に主体性・自主性を与えて,自分の意見を人前で堂々と主張したり,
互いに論陣を張って討論をするなどの訓練を与えるという国語教育にプロパ ーな領域 i話し方」の教育というものが日本では欠落してしまっている。
指導要領にそういう乙とが諮ってあっても,それは建前のことで,実質的に は何もなされていない。日本の学校では,先生はお話する人,生徒は聞く人 という一方通行のコミュニケーションが固定している。これでは自己主張を めざす多弁型のコミュニケージョン様式はますます異質なものとなるだけで ある。先にあげたクロプフ・石井両氏は「アメリカの大学生は教室活動とし て討論に参加したり,自分で調べてきた乙とを発表したり,スピーチをした りで,口頭によるコミュニケージョンが大きな比重を占める。乙れに対し,
日本の大学生の教室活動ほノートをとる乙とに終始する」という調査結果を 報告しているD アメリカの学校教育では多弁に自己表現する者ほどよい成績 が与えられるo 日本の教育で教科授業の方法として学生・生徒に討論させた り,スピーチさせたりする乙とは一般の例ではないであろうo教育のスタイ ノレそのものが日本では寡言型のコミュニケーションを奨励するようになって いるのである。日本の社会も教育も寡言型コミュニケージョンの様式を強化 する一方であるとき,ひとり英語教育だけが多弁型コミュニケーションの様 式を教え授けようとしてもうまくいくであろうか。
しかし,言語教育の一端を担うものは,乙の責務を他になすりつけたり,
逃げ出したりする乙とは許されない口困難な状況ではあるが異文化問コミュ ニケーション様式の教授こそ英語教育の霊要な任務のひとつである乙とを確
認したいと思う。
日本人が英語を話すということは,身につけている文化も,価値も,心理 も,コミュニケーション様式も,すべて日本特有のものであり,日本人とし ての自己同一性
( i d e n t i t y )
をもっ日本人が,外国語としての英語を話すと いうことである。それ故に,彼我の文化やコミュニケーション様式の相違を 承知した上で,英語のもつ様式に習練しなければならない。その習練の「いかに
J (how)
を詳述するスペースはないが,t
こだ,これ までの英語教育の主流を占める教師中心の,訳読主義の,音声言語軽視の,完全主義の,やり方を踏襲するだけでは任務は果せないであろう。特に大学 英語教育においては,先ず学生の側に主体性を与えて,単なる英会話ばかり で な く , 英 語 に よ る 討 論 (
d i s c u s s i o n )
,討議( d e b a t e )
,スピーチ( p u b l i c s p e a k i n g )
等に習練する方向も指向しなければならない。そして帰するところは「いかに」話すかの問題ではなく i何を」話すかの問題である乙とを 学生自身に習線や経験を返して認識させることであると思うo筆者の担当す る経済英語ゼミでは研究発表や討論を専ら英語で行う班もあるが,ゼミ生の 主たる関心は研究や討論の中味にある。討論やスピ{チでは学生の側に主体 性があるので,学生自身が話すべきものをよく準備するようになるo教師は その際のよき助言者であればよい。
異文化問コミュニケーションの習練には異文化を身につけている外国人と の直接接触が不可欠であるo 乙の観点から学生について述べるならば,学 生諸君は外人教師や外人講師をもっと積極的に活用すべきであると思うo
異文化問コミュニケーションの様式を習得しようとする者は「侵略性」
( a g g r e s s i v e n e s s )
が必要である。受身的l
乙教わろうとするのはまだ「甘 え」ているのであるoi
甘え」は日本人同志のコミュニケーション用にしま っておいて,むしろ,自分の方に主体性をたぐり寄せ i侵略的に」英語を どんどん話してみるのであるD 現在では大学が在る程の都市なら日本のどこ にでも外国人が居る。異文化問コミュニケーション様式の習得をめざす積極 的意欲があれば,たとえ外国へ行かなくても,国内にいても,習得の機会は 十分にあるのであるD異文化問コミュニケーションの基本問題 注
1 5
1 . Kunihiro
(19 7 4 )
この論文の脚注によると,国広哲弥氏の仮説が始i
めて学会で発 表されたのは1 9 7 1
年の1 0
月であった。2 . Barnlund
(19 7 3 ) 3 . I s h i i and Klopf
(19 7 6 ) 4 .
土居(19 7 2 )
参 考 文 献
Barnlund D. C . 1 9 7 3 P u b l i c and P r i v a t e Self i n Japan and t h e United S t a t e s
西山千訳『日本人の表現構造J
(サマイル出版社)Bauman R. and Sherzer J . 1 9 7 4 E x p l o r a t i o n s i n t h e Ethnography of S p e a k i n g London: Cambridge U n i v e r s i t y Press
B r i g h t W. 1 9 7 5 S o c i o l i n g u i s t i c s The Hague: Mouton
Dittmar N. 1 9 7 6 S o c i o l i n g u i s t i c s
Birkenhead: Edward Arnold
土居健郎1 9 7 2 r r
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