西鶴の進歩性について
可・−
野 俊秀
戦後国文学研究者の間では︑封建の社会にあって西鶴︑特に彼が思想
的によほどの革新的な考え方をしていたように説かれて今日に及んでい
る︒例えば﹁武家義理物語﹂の序の
それ人間の一心万人ともに替れる事なし︒
上掛させば武士︑鳥帽子をかづけば神主︑黒衣を着すれば出家︑
鍬を握れば百姓︑手斧つかいて職人︑十露盤おきて商人をあらはせ
り︒ これは西鶴の人間平等観を示すものとして︑また封建的な身分制度に ︵1︶対する痛烈な批判だと取上げている︒また﹁諸国はなし﹂の中の﹁忍び
扇の長歌﹂︑さらに町人帯刀禁止令を非難したり︵好色一代女︶︑綱吉 ︵2︶の生類愛護令を嘲笑したり︵男色大鑑︶していると指摘している︒
﹁忍び扇の長し﹂は周知のごとく強弱の程度はあるにしても︑かなり
人込の問に論義対象になっている︒
封建制度が厳重を極めて四民のわくがきめられて︑百姓町人はその婬
を一歩も越えがたかった時代に︑はたして現代人の感覚にふさわしい革
新的な考えを意識的に伝統や制度からの解放をめぎして︑大胆に吐露し
たものであろうか︒西鶴に傾費する余り作品の行騰隻句を薫辛よく解釈
することはどうであろうか︒これらの主張に対していささか︑わたしの
考えをのべてみたいと思う︒
西鶴の進歩性について
二
﹁武家義理物語﹂の序には前に引用したのに続いて
其家業面汝一大事をしるべし︑弓馬は侍の役目たり自然のために知
行をあたへ置かれし・王命を忘れ︑時の喧嘩ロ論自分の事に一命を捨
つるは武の道にはあらず︒
とのべ︑さらに はた 義理に身を果せるは︑至極の所古今その物かたりを聞きつたへて︑
魚類をこ〜に集る物ならし︒
と結んでいる︒述作の意図は推知されるが︑武士の義理に関する説話を
集めたものである︒ ︵3︶ この序に対して﹁階級制度の打破を叫んでいるのではない﹂とし︑ま
た﹁従来人間の平等観を説く西鶴の進歩性を物語るものとして引用され ︵4︶た︒そうではあるまい﹂ともいっている︒
﹁それ人間の一心万人ともに替れる事なし﹂という人間の一心とは︑
武士神主出家百姓職人商人の本心一根本精神は万人共に一つも変るも
のではない︒た.s生活の在り方によって武士は最早をさし︑神主は烏帽
子をかずき︑出家は黒衣をまとう事によっていろいろと生活面に変りが
あることをのべたもので︑ ﹁家業面汝一大事を知るべし﹂というて︑武
士をはじめとして各自が己が家業にはげむのを︑人間の本分とするとの
である︒馬匹は武士について︑まことの武士の道をのべて義理に生きた
美しい心情を言うている︒
﹁好色一代女﹂雨具に
町人のすゑ−ぐ一意脇差といふ物さしけるによりて︑云分喧嘩もなく
ておさまりぬ︒世に武士の外主物さす事ならずば︑小兵なる者は大
男の力づよきにいっとても甥れものになるべき︒一腰をそろしく人
二九
西鶴の進歩性について
に心を置によりていかなる闇の夜も独は通るぞかし︒
と一腰の効用をのべているが︑それが直に天和三年の町人帯刀禁止の令 まちぶれを対象としたものといえるかどうか︒当時町触で幾度か町人に対し家作
衣服に関して制限禁令が繰返された︒ 帯刀に就いてもはじめは制限なかったが︑旗本奴町奴など伊達を競う
て横暴な振舞が多く︑そのため良民の迷惑が甚しかったので幕府は殺伐
の風を鎮めようとして︑遂に禁止の令を布いたのであって旅行火事の場
合には特別に許したのである︒ ︵5︶ 西鶴の言辞はこの帯刀禁止に対して﹁まさに無神経に近い大胆さ﹂と
称してあるが︑さてどんなものか︒
衣服の華美を禁じたり︑奢修品の輸入を禁じたが︑これらの禁令に対
して﹁日本永代蔵﹂巻一には︑
此時節の衣装法度諸国諸人の身のため︑二身ひあたりが有がたくお
ぼえぬ︒
﹁世間胸算用﹂巻一に︑町人の女房の贅沢を評して
むかbは大名の御前がたにもあそばさぬ事おもへば町人の女房の分
として︑冥加おそろしき事ぞかし︒
と幕府の禁令に対して反発の気持はないしかえって町人の奢修をいまし
めている︒
人に心置かせる刀を所持する者に対して﹁傾城はうは気なる男をすけ でかしだてるによりて︑小尻とがめ出来達にして命のはつるをも更に覚へず﹂と一
代女の伊達なる性格を示さんたとふまえたもので︑それで︑﹁二女密な
ればとて義理には身を捨つる事︑其座はさらじと明暮思ひ極め﹂ている
のである︒だが相手なしには死なれぬ物ぞと伊達ものの出現を待ってい
るその気持を誇示せんがため︑勇ましい言葉を話の冒頭にもって来て︑
まくらをふったものと思われる︒
将軍綱吉の生類憐みの令は前代重信︑又後世に見ない奇怪な現象で︑ 三〇
当時いかに武士町人を問わず難渋したかは想像に絶する程があった︒大
久保の犬小屋︑中野の犬小屋に各十万匹の犬を集めてこの費用は莫大な
ものであった︒西鶴は﹁男色大鑑﹂で 今の世間に野等犬の子と世間に金銀のたくさんなる故に万事奢りて
物をつかひ侍る
というて︑物をつかうというのはこの犬小屋の費用もさしている︒さら
︑声の有子には小嵜所望して思ふま︑の遊興其後あそび中間より集め に
て銀一両おくれば︑釣髭のある男が太夫殿より礼にきて只今は千万
かたじけなき仕合と︑三指突て長六上申したりけりと大笑ひして暮
せしに今時のこんがうに弐角づ〜とらしてもさのみうれしがる顔つ
きもせず
とある如く世間が贅沢になってきて︑物入が嵩んできたことを言うのが
本意で︑話のつゴきは衣装のはでなさまを述べている︒そして
見る程おどろきての上又も有るまじきと沙汰する程の事なりしに︑
近年の唐織金入毛織を着るこそ身の上知らぬぞかし︒
と役者の潜上を非難している︒ ﹁身の上﹂といって分際をわきまえてそ
のわくを踏み越えないのを言っていることから見ても︑犬のことはその
世間でははれものあつかいにして︑犬を大切にするのでその数が多くなって食糧費の多額なのをさしたので︑鼻息と綱吉の﹁憐みの令﹂に対し
て直言するなら︑もっと犬に焦点をしぼって筋道のたつ文句を綴ったも
のと思う︒
﹁大下馬﹂ ︵西鶴諸国はなし︶直濡の﹁忍び扇の長歌﹂はよくひかれ
る小話である︒ある大名の姪と中小姓との恋のいきさつを描いたもので
ある︒ 二人はかくれがに所帯を持つが探し出されて男は直に成敗され︑姪は
一室に間じ歪められて不義のために自害をうながされるのである︒
姫の御方に参りて︑ ﹁世の定衷り事とて︑痛はしくは候へども転不
義遊ばし候へば御最後﹂と申上ぐれば﹁われ命惜しむにはあらねど
も身の上に不義はなし︒人間と生をうけて︑女の男唯一人持つ事︑
これ作法也︒あの者下汝を思ふは戯れ縁の道なり︒おの一世の不
義といふ事知らずや︑夫ある女の︑外に男を思ひ︑または死に別れ
て後夫を求むるこそ︑不義とは申すべし︒男なき女の︑一生に一人
の男を︑不義とは申されまじ︒又下汝を取上げ縁を組みし事は︑昔
より例あり︒我少しも不義にはあらず﹂云汝というのである︒
﹁下智を取上げて縁を組﹂んだのでは御伽草子の物臭太郎はよく知ら
れている︒幸福な結末となるが本地物︑縁起談として語られている︒
女の不義に対しての解釈には不徹底なところがあるが︑これは不義の封 ︵6︶建的解釈に対する西鶴の強い抗議であり︑人間を解放したものとする説 ︵7︶があり︑これに度合の差はあっても同様の考え方がある︒これに対して ︵8︶そういう解釈は皮相な見解だと主張されている︒
﹁諸国はなし﹂はその序に﹁世間の広き事国ぐにを見めぐりてはなし
の種をもとめぬ﹂とあって諸国の珍らしい人間から動植物その瓦硯巾着
こずかい帳まであげて︑ ﹁是をおもふに人はばけもの世にない物はな
し﹂というので︑諸国の数汝珍奇な話を集めて面白く人汝の好奇心を満
足させ︑娯楽を与えるを主としたものである︒当時は諸国はなしの形式
が流行していて﹁一休物語﹂や﹁宗祇諸国物語﹂が出版されていた︒
﹁忍び扇の長歌﹂もこの例にもれず珍らしい事柄として取り上げられ
ている︒女はある大名の姪で﹁和国美人そろへのうちにもみ﹂ぎる美人
であるのに︑男達﹁女のすかぬ男﹂︑ ﹁中小姓ぐらみの風俗﹂で﹁おも
ふにおよぼぬ御かたを恋初﹂めた二人の男女の対照をおかしく打出し︑
﹁おぼしめし入られ︑すゑ一の女に仰付られ︑長屋の窓より黒骨の扇
をなげ入﹂れたのであった︒ ﹁筆のあゆみロバ人のぶんがらにもあらず︑
西鶴の進歩性について おぼしめす事ども長歌にあそばしける﹂とあって︑女の意中を男に知らせる手段が異常で︑窓から黒骨の扇を投げ入れて長歌でするのも︑むしろ稽けいで冗談めいている︒終りの女の述懐には﹁自由結婚に対する解 ︵9︶釈に西鶴らしいものが感ぜられる﹂にしても序にある﹁二百歳のしろびくに﹂︑ ﹁四十一まで大振袖の女﹂と同じくせの中に耳なれない珍奇なものとして取り上げているのである︒ 本朝二十不孝巻一 惣じて女の一生に男といふ者独りの事なるに︑其身持あしくさられ て後夫を求むるなどすゑ一の女の事なり︒人たる人の息女はたし なむべき第一なり︒もし又夫縁なくて死後には比丘尼になるべき本 意なるに︑今時の世上勝手つくなればとて心のさもしき事といひ︑ 好色一代女二四に︑ 世には一生の間に男ひとりの外を知らず縁なき別れに後夫を求め ず︑無常離苦のことはりを知る女と夫に死別後再婚を否定した立場をとっているが︑日本永代蔵巻一には 今時の後家照るは︑其死跡に過分の金銀家督ありて欲より女の親類 異見して︑いまだ若盛りの女に無理やりに髪をきらせ心にもそまぬ 仏の道をす︑め︑命日を吊はせける︒かならずうき名立て家久しき 若い者を旦那にする事︑所汝に是を見及びける︒かくあらんよりは 外への縁組︑人の笑ふ事にはあらず︒とさばけた考えを述べ︑周囲の欲にからんだ無理解な魂胆を見事にえぐっている︒ ﹁忍び扇の長歌﹂において男女の愛情を主とした恋愛のモラルを主張しているとも言う者があるが︑一代女亭三には﹁男の身にして︑ ︵美しい女房︶心が︑りなる事のみ︒只留守を預くるためなれば改むるにをよばし︒﹂また﹁おもふに持つまじきは女なれども︑世を立つるからはなく
一三
西鶴の進歩性について
てもならず﹂と生活の方便とし︑また同巻﹁はるかなる四つたひに︑一
つ庵︑片びさしにむすびて︑昼は杉の嵐︑夜は割松のひかり見るより何
のたのしみもなかりしに︑﹁広き世界なるに都には住までか︑る所に か かは﹂と︑尋ねしに野夫うち笑ひて︑ ﹁淋しさも︑口鼻をたよりにわする
︑﹂と語る︒さも夕べき︑捨てがたくやめがたきは此道ぞかししと人間性の真実をうかがっているが︑愛情をうたっているとは思えない︒女性
の地位の低くて不当にべっしきれていた当時の社会通念からは一歩もぬ
きんで︑はいないではないか︒
三
見開談叢の記事の中で﹁世間の吉凶乱酔患難予奪の気味よくあしら
ひ︑人情にさとく生れつきたるものなり﹂とあって世間の表裏人情の機
微をもよくとらえ︑さらに﹁黒田侯帰国の時︑大阪の屋敷へ大阪にて召
して次にてはなし聞き給ひ世上へ出し︑使番七番留守居の役に云付侍ら
ばかゆき所へ手のとゴくやうにあらん人がらと称し給ふよし﹂とあって
成程と首肯せしめるがある︒西鶴の人柄も想像される︒
使番聞番留守居の役の職務としては多少の相違はあっても﹁要するに
その一藩を代用して他藩と交際の任に当るものなれば一種の外交官とも
いふべく︑権も重ければ郵貯をも要せり︒されば世襲の世ながら此職の
みは随時抜擢して有田の材を用みし如し﹂︵斉藤隆三近世日本世相史︶と
ある︒いかにも西鶴の人をた︑えその話振りの巧みであって人をひきつ
けた事が偲ばれる︒当時は武辺咄浮世咄その他いろ一の咄が人汝に好
まれて流行していた︒﹁又老荘とも見えず別種のいき形と見ゆ﹂とあっ
て︑そんなに高い理想確固たる定見を抱いたとも思われないのである︒
洒鶴作品の読書と後の八文字屋本のそれと比較するに西鶴に比して後 三二
のは平易穏健なことから考えて自然読者の増加した事が推知される︒
﹁山崎美成の﹁悔録﹂滝野に﹁昔は総べて読本三百部すりしが︑今は千 ︵10︶も二千もするなり﹂と記するのが適当な所である︒﹂と誌されている︒
読本の時からさかのぼってみて当時西鶴の作品を味読する人は︑余裕の
あるかなり知識教養をつんだ人汝で︑その数も思い半ばに過ぎるものが
ある︒さればこそ﹁ひっきょう浮世草子は柔隔なる京大阪の社会一部分
の好尚に応ぜしまでにして︑世の大部分の要求は素より武道の修養に適
すべき演義戦史軍略攻伐の稗史たる軍記軍談の類の上にありしこと言を
侯たず﹂ ︵近世日本世相史︶と書いてある︒
一代男の巻末に門人西吟の蹟には﹁月にはきかしても余所には漏ぬむ
かしの文枕とかいてやり捨てられし中に︑転合書のあるを取集て﹂︑諸
艶大鑑の書に﹁世の慰草を何かなと尋ねて﹂︑新可笑記の序に﹁明くれ
世間の慰み草を集めて﹂とある通り自己の作品を慰み草と思って人作の
慰安の種と考えていた︒ 江戸時代を通じて江戸文芸の作家達は︑いわゆる戯作者の名に甘じて
いた︒西鶴とても例外ではなかった︒高い理想深い思索から作品をもの
にしたのではなく︑小説を盛んに書いた一時期を除いて︑終生俳博論と
して一貫したので﹃冠しこためて寺買ふか三年行脚して点者になるか﹄
の諺の通り働き嫌い遊び好きの人人には俳階師ほど︑恰好の職業はなか
ったもので︑西鶴も富商の闇に交って俳言点者として生計を立て︑創作
の報酬は微汝たるものであったと思われる﹂と真山青果は述べている
︵西鶴随筆︶ 時には時勢に対して強い批判の言葉を浴せ調刺を含んでいるようでは
あっても︑所詮主な目的が消閑娯楽のためであって︑明らかな意識をも
って書いたものではなく︑まして︑革新的な思想目的をもったものでは
なかったのである︒ ︵昭和三七︑十稿︶
註︵1︶
︵2︶
︵3︶
︵4︶
︵5︶
︵6︶
︵7︶
︵8︶
︵9︶
︵10︶ 昼峻右に同麻中暉頴近重麻
中
村 生
峻
原藤
友
村 生
康 隆 西鶴評論と研究下
磯
幸康
退
磯 忠
幸 次彦隆
蔵
義
毅
次彦 江戸小説概論近世小説史の研究西鶴評論と研究下江戸文芸研究西 鶴日本近世文学史江戸小説概論
近世小説史の研究 二一二頁
七八頁
九〇頁二一二頁
七二頁二九〇頁
五四頁
九四頁三二〇頁
洒鶴の進歩性について三三