フランス語動詞時称体系試論
Essai sur le systさme temporel du verbe frangais
矢 野 正 俊
Masatoshi YANO
あらゆる表現の前提・根拠が問われている。とりわけ言語は対象の感覚 的・個別的な側面を後景に斥け,概念的・普遍的な面の認識および表出を 表現の本質とするために,具体的に限定された時間一・一一・空聞の枠を越えるこ
とによって,他の表現とは比較にならない歴史と拡がりを築き上げてき た。いま,言語表現の(不)可能性において,幻想を媒介とする人間のいっ
さいの表現が問われていると言ってもよい。
言語に対する期待も幻滅も,雷葉を真に生かしていく条件の考究を欠い ては,等しく無効であることをわたしたちは銘記すべきであろう。疑いを 持つのであれば根底的に疑うほうがよいのである。
現在,わたしたちには言葉の表出される場面がますます視えにくくなっ ている,という感じが強い。たとえば「詑号論(s6mio1◎gie)」とは,こ うした視えにくさを自明の前提として提出されているように思われる。
〈表現主体〉を捨象し,〈場面〉を無視することによって, 「記号論」は 表現の基底・根拠を間うという課題を先験的に排除する。〈場面〉から切 り離された言語が記号として体系の内部に囲い込まれていくのに見合っ て,言語による媒介を欠いた場において人々は,短絡的・反射的な行動に 走るか,沈黙の底に閉じこもるかのいずれかである。持続を欠き,根拠を 問わない行動も,あるいは表現への意志に貫かれない沈黙も,ともに共同
e e e e
の規範の強圧に耐ええないこと,ましてや共同の規範を否定的に媒介して く表現主体〉を組織〜展開していくという困難な課題へと出立しえないこ とはすでに明らかである。表現を生かしきっていく場の創出が世界(史)的 に問われているのだ。
本論考はく表現論〉構築の視点から,フランス語の動詞時称体系につい (1)
ての試論を提出するものであるが,〈半過虫〉をめぐる拙論に対するこの
(142)87
間のいくつかの批判をも貴重な媒介としつつ,窮極,言語を真に生かして いく条件を明らかにすることを目指している。本論の前に,このことをぜ (2)
ひ明らかにしておきたかった。
{.問題の所在
今日までの時称論は,表出対象と現実の話し手(書き手)の〈いま・こ こ〉(moi・ici・maintenant)との時間的な関係を画定することによって成 (3)
立していると考える。このこと自体は間違ってはいないのであるが,言語 におけるく表現主体〉の構造は,現実の話し手(書き手)の〈いま・こ こ〉に到達する前に,各蒔称形の特性に従って,それぞれ固有の組織化〜
展開の仕方を示している。こうした媒介構造を明らかにしたうえで,現実 の謡し手(書き手)との関係づけがなされるべきであり,このとき始めて 時称システムの本質が解明できる,と考えるのである。
ところで,各時称形に固有のく表現主体〉の組織構造を明らかにするに は,まず,(1)言語表現の成立にはどのような条件が不可欠であるのか,② 時称表現とは,どのような表現過程として位置づけられるのか,が問われ
なければならない。
(1>の問いに対しては,言語を対象として考究する立場を個体の表現とい う位相において一一貫して設定し切ることによりく言語過程説〉を提出した 時枝誠記が,言語成立の条件として主体,場面および素材の三者を挙げて (5)
(4)
いる。この際,「主体」概念が蒔枝においては「現実の話手」へと機能的
ゆ の
に一元化されてしまったてんを,三浦つとむは〈鏡像の論理〉を媒介とし っつ,「観念的な自分自身の二重化jとしての〈表現主体〉の概念へと深
(6)
化・発展させている。本論考におけるく表現主体〉概念も,こうした三浦 賃の先駆的な業績に負う所が大きい。
二番目の問いに対しては,宮下真二・鈴木覚の両氏の指摘されるとお
(7) (8)
り,既にユ7世紀フランスの『ポール・ロワイヤル文法』が,表現過程から みられた「語の分類」という視点から問題点の所在を示している。本論考 のテーマとも重なるところが少くないので,以下に追尋してみたい。
2.ポール・ロワイヤル文法の動詞論
文法現象を表現過程からとらえようとしたポーニル・ロワイヤル文法の著 者たちは,すでに次のような指摘をしていた。
88(141)
以上から,人間は自らの精神内で生起することを表わすために記号を 必要としているが,また他方,語はごく一般的に次のように区別される
e も ゆ ぽ ゆ
必要がある,という結論になる。すなわち,その区別とは,一方は思考
り ゆ ゆ ゆ の ゆ e り e の e り の e の e e ゆ の り の む の ゆ ゆ
の対象を表わし,他方は我々の思考の形態と様式を表わすことである。
もっとも,語は思考の形態と様式を単独に表わすことはなく,その対象 (9)
とともに表わすのがしばしばである。 (強調は引用者,以下同じ。)
語が表現過程の相違から,〈患考の対象を表わす語〉とく思考の形態
(forme)や思考の様式(manidre)を表わす語〉とに二大別されること の指摘こそ,ポール・ロワイヤル文法の根本的な意義である。こうした視 点から,各品詞を区分していくのであるが,その際動詞は以下の理由に
より,〈思考の様式を表わす語〉の中に分類される。
「断定の表示が主要な用途である語」,これがまさに動詞とは何たるか をよく示している。つまり,(この定義は)この語の用いられる言述が,
単に事物を概念化して表わすだけでなく,それについて判断し,それを 断言する人間の言述であることを示している。この点において,動詞は 同じく断言を表示するadirmans, aMrmatio(断言スル=ト,断雷)
の e e の の む の e
などの若干の名詞とは区別される。これらの名詞は,精神の反暁を通し
e e の e e の の o e e e ゆ e e の e の o o e ゆ o の e e
てはじめて断言を表わすので,ここでは断書は我々の思考の対象になっ
り ゆ e e
てしまう。したがって,これらの語を使う人は断言するのではなく,た (1o)
だ断言を概念化する(concevoir)だけである。
「精神の反映を通してはじめて断言を表わす」語すなわち, 「断言を概 念化する」語とは,わが時枝誠記が江戸時代の国学者鈴木膜の説を根拠と して提起した「詞」であり,これを受けて三浦つとむがく客体的表現〉と 規定したものである。他方,「我々の思考の形態と様式を表わす」語のほ (11)
うは, 「辞jとされ,〈主体的表現〉と規定されるものである。
ポール・mワイヤル文法の著考たちの規定する「思考の形態と様式を表 わす語」と「思考の対象を表わす語」とを,それぞれ〈主体的表現〉の語 とく客体的表興〉の語として把握し薩したうえで,かれらの動詞について の考究をさらに追尋してみる。
かれらは雷う一一ある語の中に断言が存在するか否かが動詞であるか否 かを決定するように思われる;動詞の担う断欝以外の要素(属性a伽ibut,
(140)89
人称,時称など)は,断定を表わす語という動詞の本質に付け加えられた 付帯的事項でしかない;この「付加」は,表現を簡略にしようとする人閣 の自然な傾向性による,と。こうして,かれらの動詞論の真骨頂とも欝え
る以下の論述が提出される。
例えば動詞af翫撒o(私は断書する)の場合,概念化されたものとして の断言も動詞の属性になりうるので,この動詞はふたつの断書を表わ す。一方は話者に関し,他方は,それが話者自身であれ,他の人であれ,
話題にされている人物に関する。Petrus athrmat(ピエールは断言す る)と言う場合,affirmatはest afEirmansと同じである。そして,そ の際estは私(話者)の断欝,つまりピエー一ルについての私の判断を表 わし,他方affirmansはピエールがするものとして私が概念化する断言
(x2)
を表わすのである。
動詞aMrmoに「ふたつの断言」の表出,すなわち「話者の断言」
(〈主体的表現〉としての断言)および「話題にされている人物の断言」
ね e (〈客体的表現〉としての断言)の表出を見抜きえたてんに,ポール・ロ ワイヤル文法の著者たちの一・貫した視点(「我々の精神作用を認識するこ とは,文法の基底の理解に必要である」)をみることができるであろう。
わたしたちはかれらが洞察した語の二大別を確保したうえで,「話者の 断雷」に対する「添加」としてのr属性・人称・時称など」という把握 を,動詞におけるく客体的表現〉を表示する部分(いわゆる個々の動詞に 固有の意義を担う「語幹」部分)とく主体的表現〉を褒示する部分(r話 者の断言」の態度および話者と対象との関係を直接に示す,いわゆるr活 用譜尾」と称される部分)とに分離してとらえていくことにする。こうす ることによって,表現過程から時称表現を考究していくための前提が確保 されるのである。
3,〈法〉(mode)とく時称〉(temaps)
〈法〉とは,〈表現主体〉が対象を言表するときの態度を直接に表わす く主体的嚢現〉である。いわゆる直説法は,対象となる事柄に対してく表
の ゆ −
現主体〉が断欝の態度をもって袈出していることを示す〈主体的褒現〉で
ある。
直説法に対比されるく法〉としては,〈−r−〉を形態的なマークとしても
90(139)
つ推量法(表出対象に対するく表現主体〉の推量の態度を表わす),接続
り ゆ ゆ の の ゆ り ぴ
法(表出対象に対する〈袋現主体〉の判断保留ないしは判断中止の態度を 表わす),命令法(「客体化されない話し手・聴き手そのものに対する命令
く13)
の表現」),疑問法(表出対象に対するく表現主体〉の疑問の態度を表わ す)そして否定法(表出対象をまずく表現主体〉が観念的な立場において 設定し,これを現実の立場から打消す態度を表わす)などがあると言えよ
う。
〈法〉すなわちく表現主体〉の表出態度の表示というレヴェルから転じ
ご の り e の
て,〈表現主体〉の時間の流れと表出対象のそれとの関係において事柄を とらえていくとき,ここにく時称〉システムの問題が登場してくるのであ
る。
4,現在形(prbsent)
の の ゆ り
く表現主体〉と表出する対象となる事柄とが同時的な(contemporain)
関係にあることを表わしている。 r現在目の前で行われている動作を表わ
(14)
す」という把握は,〈表現主体〉の視点を欠落させたものであり,正しく
の の り り fi む
は, 「現在目の前で行われている動作」とく裏現主体〉との同時的な関係 を表わすというように,〈関係〉概念でとらえるべきである。でないと,
「過去・未来とは現在の観点から見たく時〉の区分であるが,時の観点は 主観的に移動し得るから,現在形は過去・未来をも表わすことがある。ゴ
という貝合に,〈時称〉の決定が恣意的なr主観」に還元されてしまわざる をえない。
11ノ『6アm8 1a p◎rte。 (1)
11demewre ici depuis trois a且s. 〈2)
Le nombure des esprits 6斑ancip6s augmente de jour e亘 j◎ur. (3)
Je 1ゼε 1e soir ava〕at de m endornユir. ㈲
(1)を現在における「瞬間的動作」,②を「継続的動作」,③を「進行的動 作」そして(4)をr習慣的動作」を表わす現在形としているわけであるが,
こうした規定はすべて,動詞の客体的表現部の表わす意義(ferm・er閉メ ル,de斑euτ・er住ム, augment・er増エル, li・re読ム)とそれに対応す
る副詞(句)(depuis trois ans, de l◎ur en jour,1e soir)によって示 されているものであり,〈現在形〉自体は対象と〈表現主体〉との同時的
(138)91
な関係を示すのみである。従って,たとえば(3}においては, r精神の解放 された人々の数は日ましに増加してゆく」という事柄とく衰現主体〉とが i司時的な関係に立っていることをく現在形〉は示しているのである。
いわゆる「超時的現在形」(pr6sent absolu ou atempore1)と称され るく現在形〉も,けっして「時の関係を超越」したものではなく,たとえ ば科学的な真理(Veau bOPttきcent degrさs,)や格言(Qui se res−
semble S ssemblのなどで示される事柄(言表内容)のように,表出す る対象の時間的な範囲(無限の過去から未来まで)に規定されて,〈表現 主体〉も現実のいま・ここを観念的に離れ,対象の無限性に対蒔すべく自 身を永遠の存在として観念的に設定したうえで,対象との同時的な関係を 切りむすんでいるのである。〈表現主体〉が現実的な主体1e sujet r6el ゆ り e としての立場に立って対象と同晴的関係を結んでいる〈現在形〉を現実的
り き の も e り の
現在と称するとすれば,こちらの方は観念的現在(〈表現主体〉が対象と 観念的主体le sujet id6elとしての立場に立って同時的関係を結ぶ)と 言うことができるであろう。
いわゆる「歴史的現在」(pr6sent historique)あるいは「説話的現在」
(pr6sent narrat三f)と称されるく現在形〉もまた,〈表現主体〉が現実 のいま・ここから観念的に移行して, r歴史」あるいはr物語」の表出位 相で語られている対象と観念的な主体として同時的な関係にあることを示
の の の e e
す観念的現在の表現にほかならない。
〈現在形〉が過玄あるいは未来を表わす,と言うのも正確ではない。こ の場合,〈表現主体〉は観念的に過去あるいは未来の時点に移行し,この
e ゆ の の り の
時点において対象となる事柄と同時的な関係に立っているのである。<現 在形〉爵体は,そうした過去あるいは未来から現実のいまへの還帰を示す
ものではない。
Vousゴavez pas eu de chance,1e train part ilt Pins£ant.(5)
㈲ではく表現霊体〉は「汽車が出る」時点に観念的に移行し,ここで対
の の り の e
象と同時的関係を結んでいる。〈現在形〉が示すのはこのことに尽きる。
〈表現主体〉のくいま・ここ〉への還帰一一一すなわち言述内容の過去性を 表示しているのは,(5)においては動詞の客体的表現部の意義(part ・ir出 発スル),副詞旬a1 instant,そして前半の節のく複合過去形〉である。
92(137)
La c6r6mo且三eω彿伽%06 demain ti deuk heures.(6)
(6)では,〈表現主体〉はr明日の2時」という未来の時点に観念的に移 行し,そこにおいて対象のありようを「始まる」と把握〜表現している。
このあとで〈表現主体〉は再度,現実のくいまeここ〉に戻ってくるので あるが,demain h deux heuresという副詞旬による客体的表現でく表 現主体〉の未来への観念的な運動をすでに根手に理解させてあるので,戻
ってきたことの表現は省略しているのである。
「条件のsiの後では,未来の事実を表わすのにも現在形を用いる。こ れは〈文法的拘束〉(servitudes grammaticales)のひとつである。」と されているが,適当ではない。
S,il fait beau demain, je viendrai.⑦
⑦における〈現在形〉は,〈袈現主体〉と「天気がいい」という言表内
り の の ゆ り ゆ
容との同蒔的な関係を示しており,しかもこの闘係が仮定されたものであ ることをsiは示している。〈表現主体〉と対象のありようとの仮定され た同時的関係が「未来の事実」であることを表わしているのは,むろん demainという副詞である。さらに, demainによってく表現主体〉の観 ね 念的な運動が客体的に表現されることにより,⑦におけるく現在形〉が観
e の e e
念的現在であることがわかる。
「単純未来形が命令を表わすように,未来の動作を示し得る現在形は命 (てs)
令の意を帯びる」あるいは,「2人称は命令を表わす単純未来に代る」と 言っても,もちろん両者の褒現過程は異なるのである。
Vous veneg ce soir chez moi_ ⑧
⑧でく現在形〉の示すのは,r今夜」という未来の世界へと観念的に移
ゆ ゆ の 行しているく表現主体〉が,「あなたがうちへ来る」という事柄と同時的
e む
な関係をむすんでいるということである。これに対して,〈表現主体〉の 現実の〈いま・ここ〉においては,むろん相手は「自分のうちへまだ来て
(136)93
いない」のである。未来のありようを想像してそのなかにいる観愈的な主 体としての立場と,現爽のまだ事態が非一在である状態を認識している現
ゆ の
実的な主体の立場との対比を繭提としたうえで,⑧の表現が場面における 対者(〈あなた〉)にむけて言表されるとき,〈命令〉の意がでると言え よう。こうした表現過程は, 「単純未来形が表わす命令」すなわち,〈表 現主体〉のく推量〉の意を媒介とする娩曲な命令とは過程を異にしている
と考える。
5,過去形(paSS6)
If these various uses of the present te且se are clearly grasped
aud di fferentiated, there will be little difHculty in understa血dingくユの
the uses of the past tenses,
卓見である。むろんMANSIONは規範:文法の観点から指摘しているの であるが,〈現在時称〉の種々の用法を明瞭に把握することがく過去時 称〉の用法を理解する基底になるとの洞察は,表現過程の視点からく時 称〉を考究していくわたしたちの立場にとっても大切な礎石になると考え
る。
フランス語動詞のく時称〉体系におけるく複合過去〉〈単純過去〉およ びく半過去〉の三者を表現過程から把握するためには,まず三者に共通す
の o e e
るてんと相違するてんとを見抜くことが必要である。
一般に,ある表現が成立するためには,〈表現主体〉とく表出対象〉,
(17) e e
そして両者が対縛するく場面〉が前提とされるが,三者に共通するてんも このことにほかならない。主体と対象とが対縛するとは両者が同時的な関 係を結ぶことであり,このことは他ならないく現在〉晴称の本質である。
さきにく現在〉時称の構造を考究したとき,そこにく現実的現在〉とく観 の の 念的現在〉とが存在することをみてきたが,いま三者に共通するてんはこ れらの主体的喪現がく観念的現在〉と呼べる関係をく表現主体〉とく表出 対象〉との間で切りむすんでいるということである。
e ゆ
では異なるてんはなにか?〈表現主体〉の運動〜位置である。すなわち く複合過去〉では〈表現主体〉が,①現実の〈ゼま・ここ〉における現実 的主体(moi−ici−maintenant)に同致している場合→「完了j (現在完 了)を表示,②観念的空体の立場で事柄をとらえ(「完了」),この把握を
94(135)
現実的主体に引き戻してみる場合→「過表」を表示,のふた通りがある。
〈単純過去〉では,〈観念的現在〉として表出対象との岡蒔的関係をむ すんだく表現主体〉が,現実的主体の立場に戻るのではなしに,観念的主 e 体としての立場自体を一種の「現実的主体」の視点に転化させ,いわば擬 似(pseudo)一現実的主体ともいえる位置を獲得している。そしてく半過
e去〉においては,〈表現主体〉が観念的な主体として対象を観念的位相に おいて把握することに本質があり,こうした観念的な位相の世界での認識 を現実的主体の立場でみるとき,ここに現実のくいま・ここ〉との対比→
表出の位相差の表示が可能になると考える。
以下に順次,このことを検討していこう。
PASSE COMPOSE:
〈いま。ここ〉における現実的主体の視点への岡致あるいは還元。
Sujet S再e毒r6el i薦¢1
同 致
Parfait
Suiet id尋el
Pass6
一ib− $ujet rるel
PASSE SIMPLE IMPARFAIT
Sujet Pseud。一・sujet rεel
idEe1 転化
、、、
\S響je匙r6e}
s。」。t \
葦dξe粟
Sujet r{≡el
5−(1) 〈複合過張形〉(pass6 eomposる)
助動詞プラス過去分詞の形式をとって時称形を形成する場合には単純形 式の時称形と異り,主体的表現は助動詞によってのみ担われ,そのあと に付いている過去分詞は完了アスペクトを表わす客体的表現にすぎない
(…)。複合過表形において時称表現としての主体的表現を挺っているの
(ユ34)95
は現在形におかれた助動詞のav◎irやetreであって,複合過去形は本 質的には現在形でしかないということである。つまり過去における行為 を現時点においては既に完了してしまったものとして現在に位置付けて
(t8)
いるのである。
複合形における助動詞と過去分詞とが表現過程に即して適確に規定され ている。こうした観点から,<複合過去形は本質的には現在形でしかな い〉との指摘が正当にもなされているのであるが,この場合, 「過去にお ける行為を現時点においては既に完了してしまったものとして」位置付け るく現在〉の構造は,現実的主体のくいま〉(現実的な現在)にのみ限定
ゆ の り り
されるのではなく,いわば文脈上のくいま〉ともいうべき観念的な現在を も包摂するものであると考える。
一般にく複含過去形〉は,「完了」を表わす場合と「過去」を表わす場 合とのふたとおりがあるとされ,後者の場合,「過去の動作・状態を話者
の記憶に存する事実,体験した事実として述べる。この意味で複合過去は 主観的に現在につながりを持ち,過去の動作を客観的に描くpass6 si颯Ple
く19)
とは陰影が異る。」とされている。〈複合過去形〉自体は,助動詞の表示 するく現在〉(対象と〈表現主体〉との同時的な関係の表示)を基準とし て過去分詞の表わす客体的な意義の完了していることを示すのみである。
この場合, 「完了」を表わすときには,助動詞の示す〈現在〉が〈表現主 体〉の現実的な〈いま〉であるのに対して, 「過去」を袈わすとされると
きには〈表現主体〉は現実のくいま〉から観念的に移行したコンテクスト のなかにくいま〉を設定し,この時点で対象を完了のアスペクトでとらえ ている。コンテクストにおける観念的なく現在〉晴でのこのような完了
ゆ の む e ゆ
を,翻って現実のくいま〉からみるとき, r過去において完了した動作を (2e)
表わす」と言えるように思われる。
川本茂雄氏はDAMOURETTE・IPICKONの例に拠りつつ次のように問題点 の所在を指摘している。
E玉1e est c◎mme ga chaque fois qu eile n a pas Pris son caf6。
(コー一一ピーを飲んでいないと彼女はいつもこうなんだ。・一一引用者訳。)
において,《apぎis》は《est》に対してant6riorit6を示してはいるが,
過去時を示すものではない。《apris》には過去の日付が与えられない。
もう一つ,DAM OURETTE・PICHONが採集したロ頭の例を借りよう。
96(ユ33)
Madam、e EJ−一一一一一Faut faire attention.11 estオo勉ゐ6 t「さs「aPide購
ment。
M.EP−Quand ga?
Madame EJ−Je parlais en 96n6ral.
ここにはフランス人同志の間の会話において《avez》形についての誤 解が生じている。Madame EJは彼女の子供がようやく立上りはじめ,
揺籔から落ちる危険を感じていたので,「注意して頂戴よ,この子,す ぐに落ちてしまいますからね」と云ったのであった。ところが,相手は
《est tomb6》を過去に起った事件の表現一すなわちρ伽ε6 compos6一 と解して,「それ何時のことでした?」と尋ねている。Madame EJ
はその問いに対して,「あたし一一・−ma的に申したんですわ」と答えてい る。その答えは彼女の《est tomb6》を使った気持が, r少しでも注意 を怠れば,この子はすぐに落ちてしまっている」ということであったの を示している。
これらの例は,《avez su》形が現在時に対して過去時,過去の一定点 を示すものであるよりも,単に現在に対しant6riorit6を示していると (21)
いうように解すべきことを示唆するように思われる。
〈表現主体〉の構造に留意して問題を考究していくならば,まず始めの 例では,主節の〈現在形〉によってく表現主体〉は対象となる事柄(Elle 色tre co颯me ga)と同時的な関係をむすんでいる。しかもこのく同時性〉
は,《ehaque fois que》により「反復的e習慣的」な関係としての限定 を受けている。従節のく複合過去形〉は,主節のく現在形〉に対応する従 節のav◎irのく現在形〉を基準として,それに対するant6riorit6を示
している。このときく衷現主体〉は「彼女」が「コー一一一一一ピー一を飲まない」場
に,その都度,観念的な主体として立ち会い,このときの観念的現在とし てのくいま〉を基準としてそれに対する完了をく複合形〉は示しているよ
うに思われる。
2番目の例におけるMadame EJの《11 est tembe trさs yapidement.》
という言表は,Madame EJがく表現主体〉として対象となる事柄(ll tomber trさS rapidement)とi司蒔的な関係をむすび,しかもこのことを ant6riorit6の相においてとらえているのであるが,このとき〈表現主 体〉が,①現実的な主体としてのくいま〉(現実的現在)の立場で述べて いる場合,②観念的な主体としての立場で述べている場合,のふたとおり
(132)97
が考えられる。このやりとりでM.EPはMada醜e EJの言表を,現実
的な現在を基準とした完了としてではなく,一一 一一応観念的な現在を基準とし
た,その蒔点での完了として把握はしたのであるが,このときのMadame
の な e ゆ り ゆ
EJの観念的なく表現主体〉としての立場を現実的な主体としての立場に 関係づけ還元してしまうことによって事柄を「過去」に実際に起きたもの e e ら として理解してしまったのである。 (文脈のくいま〉すなわち観念的な現 在を基準とするant6riorit6を現実の〈いま〉から把握することにより表 示されるく複合過去形〉の「過虫」。)これに対してMadame EJは②の 立場すなわち,自分の発話内容が現実のくいま〉のことではなく,また現
ゆ ゆ り ゆ e ゆ ら り の ゆ
実のくいま〉からみたことでもなく,観念的な主体としての立場において 事柄の起りうる可能性すべてと同時的な関係をむすんでいること(しかも 完了のアスペクトで)を言表したつもりであった。相手の誤解を訂正する Madame EJの《∫e parlais en 96n6ral.》という発話において,《exx e e 96n6ral》という副詞句とともにく半過虫形〉が用いられているてんに注 意すべきであろう。 「一般的に」述べた欝述内容が現実のくいま〉を基準 として表出されたのではなく,観念的な位相でのことであることをもく半 過去形〉は示していると思われるからである。
川本氏は前掲論文の蟹頭でさらに次のような興味深いエピソードを紹介 している一一あるFG,氏はフランス入のL氏を訪ねたが彼は留守のため秘 書に会い用事をすませた。数日後秘書氏は川本氏にこう語るのである。
「あの翌El L氏が帰ってきました。いろいろ話をしてから,《M◎nsieur Kawam◎to est▽enu vous voir.》と云いましたら, L氏が『何故お 待たせさせておくのだ,早くお通ししなさい』と云うのです。それで
『いいえ,昨日のことです』と云いますとL氏が『そんなら何故《Mon−
sieur Kawamot◎6tait venu.》と云わないのだ』と云うのです。むず
・ (22)
かしいものですね。」
,《Moasi¢ur K. est ve珊vou$voir,》という言述を秘書氏は,観念的 な主体としての立場で表出対象(Monsieur .K・venir VGir M. L.)にむ き合い,このときの現在(観念的なくいま〉)を基準としたant6ri◎rit6
ゆ の の
を現実のくいま〉からみることによって「過虫」の事実として発語したの
り ゆ e り e e
だが,L氏は秘書氏の〈表現主体〉としての立場を現実的なものと解する ことによってこの言述を現在のくいま・ここ〉に対するazxt6rierit6すな
98(131)
わち「完了的意味のもの」として受け取ったのである。秘書砥の訂正によ り事柄が現在のくいま・ここ〉とは関係のないことを知ったL氏が,それ なら《Monsieur Kawamoto 6tait venu、》と云うべきである,と指摘し た理由は,助動詞Gtreのく半過去形〉により事柄が観念的な位相で表出
されていることが明示され,そこにおけるant6riorit6がく複合形〉で示 されるからであろう。すなわち,ここでのく半過去・複合形〉は,現実的 な表出位相との対比に眼匡{がおかれ,これによって事柄のくいま・ここ〉
における非一在性が強調されるように思われる。
J 漉加ぎdans un instant.(9)
〈複合過去形〉はく表現主体〉と対象との同時的関係(=〈現在〉)を 完了のアスペクトでとらえていることを示すが,(9)における基準としての
〈現在〉は現実のくいま〉ではなく,現実のくいま〉から《dans un in−
stant》の時間的距離(=〈表現主体〉の観念的な移行の運動区間)をもつ く現在〉であり,この時点を基準とする完了である。このく複合過去形〉
は俗に,「前未来形に相当する」とされるものであるが,「前未来形」(J aUfai fini dans un instant,)においては,事柄に対するく表現主体〉の 推量の態度が完了のアスペクトでとらえられているのであって,むろん表
ゆo の む 現価値は異なる。⑨のようなく複合過去形〉の表示する〈いま〉が観念的
の e む の
な現在であるてんにおいて,推鷺を示すf前未来形」と意味的に近接する のであろうと思われる。
〈複合過去形〉の本質を把握するためには,助動詞avoir(またはGtre)
の示すく表現主体〉の〈現在〉が現実的なものか,それとも観念的なもの なのかを弁別しなければならないと考える。後者のばあい,その観念的な 現在をく表現主体〉の現実のくいま〉(moi・ici−maintenant)に関係づ
ゆ の の ゆ
け,ここから事柄をみるならば「過去」が現出するが,文脈上のくいま〉
の時点に固定したままであれば,単なるant6riorit6を表示するのみであ
ゆ ゆ
るてんにくれぐれも留意する必要があるだろう。
5−(2)〈単純過表形〉(pass6 simple)
Le prisca1 (...) situe bien.1e ph6nom《きne da澄s 1,6poque pass6e
sans le ∬iettre eコユrapPort avec le pr6sent, Mais, h 1,iiユt6rieur(130)99
de cette 6poque pass6e,il Ie pr6sente dans son surgissem.ent D.ar一
ratif, et n◎n pas comme une chose accomplie。
〈プリスカル〉(〈単純過去〉のこと一引用者註)は……確かに事象
り e り ゆ e e り
を過虫時に位置づけ,現在と関係づけることはない。しかしながら,こ
の む ゆ の り ゆ ゆ ゆ ゆ り ゆ り り む り ゆ む り の の り e の ゆ ゆ e ゆ ぬ り り
の過去特の内部においては,事象を語りの生起のなかで,それも完了し
e e e e e の fi e e e の e e e e e (23)
てしまった事柄としてでなく,提出する。(強調は引用者。)
熟考に値するDAMOURETTE−PICHONの指孝商である。〈単純過去形〉
は,〈表現主体〉が現実の作家としての立場から観念的な主体の立場へと e り 移行し,ここから対象となる事柄を継起(successiOlt)の相で述べていく
の 9 e e e 9
〈時称〉と言えるが,このとき「語り(narratiOR)」のなかにいるく語り
ゆ り ほ の
手〉にとって,こうした観念的な主体としての立場はそのまま職現実的主 体ジへと転化している。むろん,現実の作家の立場ではなく,いわば擬似 一現実的主体(pseud◎−sujet r6el)とでも称しうる立場である。観念的 な主体としての自己の立場を自覚できるのは,〈表現主体〉が現実のくい ま・ここ〉へと還帰し,これとの対比において始めて可能なのである。た とえば小説などにおいて,現実の作家はストー }] 一一を語り進めて行くに際
り ゆ ゆ ゆ の e e り
して,観念的な主体の立場に移行し,この視点そのものを一゜iA実的なもの多 へと転位させて物語を展開していくのである。こうしたく表現主体〉の
e e の ゆ り e
耗現実的な主体6としての立場と対象となる事柄とは同時的な関係にある。
〈単純過去形〉が孤立して表現された場合,これは一種の「現在」 (観念 (24)
的現在)として把握できると思う。
Jamais Hatteurコユe mangwa de dupes.
(おべっか使いに馬鹿はつきもの)
Jamais h◎nteux n,6欝beile amie.
(はにかみ屋に美しい恋人はもてない)
通常,〈単純過去形〉は継起の表出位相において用いられ,このことが
e b
雷語表現(従ってその追体験)の線条性(書かれていくあるいは読まれてい く順序に語りが展開していく。)と相侯って,物語の発端から継起〜展開 していく叙述を可能にさせるのである。 「単純過去形は現在とは交渉のな (25〉
い完全に過ぎ去った過去における瞬間的動作或は限界ある動作を表わす。」
と言えるのは,〈表現主体〉の現実のくいまeここ〉からみて始めて言い
:tOO (129)
うることであると考える。
Le 96n6ral Ott evat trois mille tu6s, et 1&量ssa cinq mille prison−
niers entre les mains des Frangais, De cette bataille sortira,
pour le 96n6ral Lanne, le titre du duc de Montebello. B王GNoN.
「オット将軍は三千の兵を死なせ,五千人の捕虜をフランス人の手に 委ねた。この戦闘の結果ランヌ将軍はモントベルm公の称号を得ること
(26)
になろう」
この文でく表現主体〉は,擬似一現実的主体としての「歴史的な視点」
から事柄を叙述している。ここでsortixaは「歴史の詑述などで直説法単 純過去形とともに用いられることがあるj「直・単純未来形の特殊な用法」
(27)
であるとされ,r現在蒔から見れば過去になっていることを予言的に言う」
と説明されている。この説明における 「現在時」とはもちろんく表現主 体〉の現実のくいま〉のことである。けれども〈単純過去形〉は現実の主 体ではなく擬似一現実的主体と対象との間の同時的関係すなわち観念的現
の ゆ の の e
在を表わすとするわたしの立場からは,sortiraはこうした文脈の現在を 基点としてここからのく表現主体〉のく推量〉を衷わしていることにな る。従ってこれはく単純未来形〉の表現過程に即したものであり,なんら (28)
「特殊な用法」ではないと考える。
話主(S)が事件(E)の中にも入らず,また発話時(P)との関連 S
において把えられることのない 1を関係で実現するのはs蝕esであ
(29) 鷺一ぞ
る。
森本氏の指摘するく単純過去形〉の規定づけをく表現主体〉の過程的構 造に即してとらえ返してみるならば,まず「発話時との関連において把え られることのない」というのは,〈表現主体〉が「発話隣」つまり現実の くいま・ここ〉を離れて観念的な主体としての立場に視点を設定している
ことを意味する。次に,「話手が事件の中にも入らず」とは,観念的主体 としてのく表現主体〉の視点が,対象となる事柄と同時的な関係を結んで
「事件の中に入ってしまう」〈現在形〉(観念的現在を表わす場合)とは 異なり,「事件の中に入らない」すなわち,観念的な主体としての自己の 視点自体を擬似一現実的な主体の立場(いわゆるミ語り手narrateur の
(128)101
り り り る
立場)へとそのまま転化させ,このことによって「事件」に対して距離を 保持していることを意味する。むろん,この場合のく距離〉とは・語り一R
の内部での観念的な距離であって現実のくいま・ここ〉からみたものでは
ない。
現実の主体から観念的に移行したく表現主体〉の立場が,再び現実の主
も り 体のくいま・ここ〉(moi・ici・maintenant)に還元されることなく}擬似 一現実的とも書いうる主体の視点を獲得することができるためには,観念
の の り e ゆ の
ゆ 的主体の立場における表出がストレートには現実のくいま・ここ〉に還元
ゆ e も ゆ の e ゆ
されえないだけのく表現主体〉の強化された構造(仮構された袋出位相と 書ってもよい。)が不可欠のように思われる。このことを言語自体の構造
としてみていくならば,言語表現が袈出主体の意識の表出でありながらも
e の り の ゆ
一義的には主体の衷出意識に還允されえなくなるくらいに固有に累積し深 化した衷現の構造(史)を獲得していることが前提である。このことは,
本質的な意味において,〈文字〉言語の発生およびく文字〉言語による媒 介を通して始めて可能であると考える。
*〈単純過去形〉の図解
〈継起〉による展醐
表現対象 嗣蹄的な関係
観念的霊体⇔擬似一現実的主体 t 転(『幡語り手 の視煮)
化
現実的主俸
くいま・ここ〉
5−(3)〈半過去形〉(imparfait)
∫e v◎疑SPrie de買ゴexcuser de c¢t abu$que je fais de 1 i颯parfai£;mais il est le惣勉ρεde rin◎◎h6驚ence,.,、
Paul VA珊RY《Mo漁sie慧r Teste》
賢頭にも記したとおり,さきのく半過去形〉についてのわたしの論考の
io2 (127)
限界は,〈表現主体〉の運動〜位置に対する考究の不十分さにあった。そ こではく半過表形〉を,勲鎚」蚕盤上璽丞塑麹表塑一.(《走ル》
《塾ル》etのをく妻翌茎佳≧〜璽麹麹な位鋤塾込亙劇麹蔓登亙望
(3o)
とを示す主体的表現,と規定している。固く閉ざされた共同の規範として の「時」すなわち,伝統的な文法概念としてのド時称」の枠を,<表現主 体〉の表出のプmセスを媒介とすることによってひとまず解き放ち,時間
のく柵〉を臨由に往還したい一窮極,組織されたく表現主体〉の対象化 を媒介として表現に固有の〈時聞〉すなわち,表現にとっての固有時(1e temps propre)の構造を明らかにしたい,というモチーフに迫られて,わ たしの〈半過虫(im・parfait)〉をめぐる考察はあった,と言ってもよい。
〈半過虫形〉を観念的な位相における対象の表出と規定するとき,もち ろんく表現主体〉は観念的な主体の立場に同致し,この視点で観念的な世 界をみつめ,生きているのであるが,このことを現実の話し手(書き手)
のくいま〉と関係づけるとき(時間的な規定づけ),すなわちく孤oi・ici−
maaintenant>としての現実的主体のくいま〉に〈表現主体〉が還帰〜同 致する場合,ここに観念的な位相でとらえられた対象をく過玄〉の事柄と
して把握することが可能になると思われる。
同じく,〈半過去形〉の表示する観念的な位相での世界が,〈moi−ici−
maintenant>としての現実的な欝語主体のくここ〉に関係づけられると き(空間的な規定づけ)には,いわゆる「ごっこ遊びの半過去」(Pimpaτ一 fait de jeu)が可能となるdi
Moi,」 6♂α∫31e gendarme et toi,1e voleur.(「ぼくはお巡りさん
(31〉で君は泥棒だよo」)
(32)
さらにまた,「猫可愛がりの半過去」(1 imparfait hypoc◎ristique)と は,<moi−ici・maintenant>としての現実の欝語主体と観念的な位相にお ける観念的な主体とのふたつの表出位相にまたがる主体の往還運動を〈表 現主体〉が見きわめたうえで表出される表現であると言えよう。
Comme i1窃α露sage!Comme il aimait bien sa maman!(母 (33)
親がわが子に一一「まあ,おりこうさんなこと1ママが好きなのね!」)
そして窮極,〈表現主体〉が観念的な位相における対象世界の構築を現
(126) ユ03
実の〈い まeここ〉の構造へと還元させることに異和を覚え,現実の構造 自体を変容させようと積極的な還帰を意志する場含には,〈−ai・〉形の表示 する観念的位相でのく表現王体〉の意識および行動(夢・願望・…)の世 界を,あたかも現実の世界のことであるかのように,現実の主体に2重〜
n重映しに重ね合わせるような袈現過程も可能であるように思う。これを いわばく仮装としての半過去〉(1 imparfait de simulation)と称する ことができるであろう。
もしも以上のようであるならば,〈半過表形〉は,〈表現主体〉が表出 対象を観念的な位相において設定し観念的な世界を構築しているのである が,なおこれにのみとどまらずに,現実の主体の立場へと還帰することに
の り e
よって,観念的〜現実的の2重の異質な表出位相(表出の位相差)を示す 主体的表現であると言えるように思われる。たとえば,Mxxe manquait pius que cela!という表現は,観念的な位相では<il ne manquer Plus que celaモハヤ欠ケテイルノハソレダケダ〉という認識の表出としてあ るが,〈表現主体〉が現実のくいま〉に還帰し,この現実的な位相と対比 させることによってくコレデイヨイヨ最悪ノ事態ニナッタ里〉という意味 を獲得すると思われる。
〈半過宏形〉をこのように,〈表現主体〉が観念的な位相において対象 となる事柄をとらえ,現実のくいま・ここ〉へと還帰することにより表出 位相の差異を表わす主体的表現と把握するとき,siによって導かれる条件 節中の〈半過去形〉および,いわゆる「条件法Cond圭tionnel」の統一一的 な把握が可能になると考えるP前者については基本的にはく半過玄形〉に ついての拙論を批判的に参照していただくとして,ここではいわゆる「条 件法」について考えてみることにしょう。
従来,「条件法」は「時称としての条件法」と「法としての条件法」と いう具合にふりわけられて説明されてきた。すなわち前者の場合, 「過去 時から見た未来(futur dans ie pass6)を示す」とされ,後者では「過 去時とは無関係に用いられ,可能性・非現実性などを示す」とされてい
る。
1玉 nゴa diも q風ゴil viendPtait. (母 J,げプαづ8si je pouvais. (B)
104 (125)
〈表現主体〉の動きに注意して(A)⑧をみるならば,(A)では主節の《il m adit》によって〈表現主体〉の過去への遡行が示されている。従って
e の む ゆ の お の
《que_》の従節には観念的に遡行した世界のなかでの〈表現主体〉の推量
(<il venir>という事柄に対する)が表わされている。⑧では,<si+半 ゆ ゆ 過去〉という条件節の設定する観念的位相において〈表現主体〉の推量が 言袈されている(文脈により仮定の条件が明瞭ならば〈si−〉節は省略可能 であるし,逆に帰結となるく表現主体〉の推量が明らかであれば〈si−〉節 だけが表出される)。(A)⑧のいずれとも,対象となる事柄を観念的な位相 に設定し,この表出位相においてく表現主体〉の推量がおこなわれている
り り
ことを示しているてんで共通している。〈表現主体〉は観念的な位相にお ける観念的な主体に同致しているのであるが,これを話者の現実のくいま
・ここ〉(エnoi−ichnaintenant)に関係づけるときに,あるいは「過去」
性が衰われ,あるいは現実との対比による「非現実性」が表われると思わ
れる。
5−(4)「時称の時応(ceMcerdance des tem靱s)」について
いわゆるr時称の照応」とされている主節の時称と従節の時称との根関 関係の現象も,〈表現主体〉の運動に注目することによってとらえ返すこ
とができると考える。
一般に,主節が直説法現在形ならびに未来形の場合には,文意に応じて 従節の時称は現在・過去・未来のいずれの時称でも可能であるとされてい
(34)
る。
Je crois qu il est chez 1犠i, (イ)
Je CPtois qu,il aα61ら6渉61a nユaison.. (ロ)
Je crois (1u i1魔α露∫chez lui hier. {11N)
Je crois qu,il sera chez lui ce soir. ←⇒
これらの場合,主節においても従節においても,時称形成の基点をなし ているのはく表現主体〉のくいま〉である。主節の雷表内容(r私は思う」)
に対する従節での展開は,(イ)ではく表現主体〉は《i1 etre chez lui》とい
う事柄と同時的な関係にあることを表わしており,(切ではavoirの〈現 在形〉の示す基準に対するant6riorit6はく表現主体〉の現実のくいま〉
(124) 105
と関係づけられることにより「遍{i却として言表されている。のではく表 現主体〉は観念的な位相で事柄をとらえているが,現実の〈moi−ici・main−
texxant>との関係づけが荊面に出ている(とりわけ《hier》によりく表現 主体〉のくいま〉との時間的な関係づけが客体的に表現されている)ため に,〈半過宏形〉の特質である観念的位相における対象の表出は時間性の 表出へと転位している。←)では現実のくいま〉からするく表現主体〉の推 量が表出されている。
次に,主節が薩説法過去蒔称の場合,「主節の過去を基点としてさらに 過去を表わすには従節には大過虫形が婿いられるj,「主節の時点から見て 従節が現在であるとき,半過去形が用いられる」そして, 「主節の時点か (35)
ら見て従節が未来であるときには,条件法現在形・過去形を用いる」,とさ れている。これを要するに,主節がく過去〉時称のときに,従節には対象
となる事柄を観念的な位相においてとらえる〈・a量・〉形系列の主体的表現 が出現する,と一括することができるであろう。
117econnai∬碗[a 7econn%, reeonnutユqu,il avait mθnti.㈱
Je savais q窺 i1ロe powvait pas r6pondre. を→
J αゴαPPris[J 砂加εユqu 圭1 re gnait une 6pid伽圭e d孤s le vi1−
lage. (ト)
Je savais qu il le/rerail. ㈱
すなわちこれらの場合,主節において基準となる〈過去〉が提示されて いるわけであるが,すでにわたしたちはく複合過宏形〉〈単純過去形〉お
り ゆ の e む り
よびく半過去形〉の3者に共通するてんが,表繍対象と主体との観念的現
む
在の関係にあることをみてきた。現実のくいま〉から観念的に遡行した く過去〉の或る時点(対象と主体との観念的な現在時点)を受けて,<表 現主体〉は主節をさらに拡大し展開していく欝表内容の袋出を目指す。こ うした拡大〜展開のためには,〈表現主体〉は観念的な主体として対象と なる事柄との対峙欄係を持続していかなければならない。このことが,現 実の〈いま・ここ〉とは異質の観念的な表lkl位相における対象の把握を袈 示する〈・ai・〉形系列の主体的裏現が従節において出現する根拠であるよ
うに思われる。
上記4例はみな,〈表現主体〉は主節で現実のくいま〉から観念的な主
体へと移行して事柄(il reconnaltre;je sav◎ir;」 apPτ綴dre etc、)を
106 (123)
とらえ,従節において主節で提示された主体と対象との対峙関係を観念的 な位相において拡大〜展開している。すなわち(d)では完了のアスペクトで 8(ト)では共時的な展開として,㈱では観念的なく表現主体〉の推寵とし て,というようにである。
Je vous ai 4露qu un beau jour i14is.parut. (り>
J,ai vu passer...une vie至11e courb6e en deu,x, vξ比ue de 1◎ques
quiノ勿θ% deS r◎bes.(ヌ)
J,ai aPP7is que v◎tre丘Ue s,est勉σ7彪6. (JL)
Je n,ai m合me pas compγis comment ga a j⑫se produire. (ヲ1
これらは, 「従節の内容が主節の過去を基点とせず,話者の現在を基点 として考えられる蒔には,単純過去形,複合過去形が用いられる」ことの (36)
例文として提示されているものである。もちろんく過去〉時称である限り,
主体は表幽対象と観念的に対蒔するという関係は前提なのであるが,これ らの場合,〈表現主体〉は現実的な表出位相に固着し現実の〈moi・icレ maintenant>としての視点を手離さないために,(り)(ヌ)では擬似一現実的 主体へと横すべりしており,(7V)(ヲ)では助動詞の〈現在形〉の示す〈いま〉
を基準とするant6riorit6の表出が話者のくいま〉と関係づけられること により事柄の過去性の表出に終っている。これらの表現においては,〈・ai・〉
形を使用した場合に比べて,観念的な世界を拡大〜展開していくという 方向性はなく,平板な「事実」性の開陳にとどまっていると言えるであろ
う。
On瓢 a 7αρρo漉, monsieur, que v◎us vous inte ressex aux let−
tres.(ワ)
La Fontaine a 4「露que 1 absence est le plus grand des maux。
(カ)
ともに「従節の内容が話者の現在においてもなお事実である事柄,特に 普遍的・超時的事実を表わす時には現在形が用いられる」ことの例文とし (37)
て挙げられている。もちろん(ワ)と㈲とでは同じく現在形〉でも内容は異 なる。㈱は話者(現実的主体)のくいま〉と同時的関係にあるものとして事 柄がとらえられておりく現実的現在〉であるのに対して,㈲の方は,<表
(122) 107
現主体〉は観念的主体として言表内容の普遍性と同時的な関係をむすんで おり,〈観念的現在〉である。
なお註記に,「mマン派詩人に見られる特殊用法」として,「主節の過 表から見た現在にすぎず,話者の現在にあってはもう事実でない内容の従 (38)
属節においても現在形を用いるAケースが記されている。
Je voulais rete紅ir 1 ame qui 3物砂oグ召.一一LAMARTINE,ム8ε
薦4露認げo%3ρo窃毎%6ε.もちろん,この場合のく現厩形〉とはく観念的現在〉であり,主節の
〈半過芸形〉の提示する観念的な位相での事柄の把握を,同じ観念的な世 界のなかで補足〜展關しているものである。規範的な照応の規則からみれ ば「特殊」かもしれないが,〈表現主体〉の表出のプra・kスからみればきわ めて合目的的な表現形式と言える。すなわち詩人はここで,現実とは異質の 観念的な世界のなかに没入しきっているのである。〈半過去形〉は観念的 な位相での表出を示すものではあるが,窮極,現実のくいま・ここ〉(moi−
ici−maintenant)に関係づけられることによって観念的と現実的との表出 の位相差を表示するのに対して,観念的な現在としてのく現在形〉は文字 通り,観念的な世界のなかに行きっぱなしなのであり,この世界のなかで 生きているのである.一一一・##iの詩人たちがこうした表現形式を好んだという
のも,けっして理由のないことではないと考える。
以上,〈表現主体〉の視点に留意してフランス語動詞時称に対する考究 をおこなってきたわけであるが,現実の話し手(書き手)に到達するまえ にく表現主体〉の観念的な運動が遍程として介在しており,こうした媒介 過程の構造の差異が各時称に圃有の特性を形成しているというのが本論考 の骨子である。その際,対象となる事柄を把握し表出する位相として,観念 的な位相と現実的な位相とを仮定している。こうした仮説を武器として,
表現過程のうえから個々のテキストがどのように分析できるのか。窮極,
テキストのく向こう側で〉いまもなお沈黙している真の言葉をとり出すこ とができるのか。表現を生かしきっていく<場〉の創出という世界(史)
的な課題に対する距離のはるかさを幾度もかみしめつつ,しかしながらわ たしたちはすべてを賭けて〈沈黙の核〉を対象化ずる作業を持続していく であろうことを確認しつつ,本論考の一応のまとめとしての表を掲げて結 びとする。
108 (121)
雌沁猷脚製屡e蟄訟層鐙誕細・濫麗盤レニ魯鼠謬鰻郷榔 樋頼駆浬Qu︒糧饗却避貯簑懸榔Q鰍榔e選週躯鰹鵡紺ゆむ℃迷認刈葦朝溜蝋瞬Q㎏⊃紺令慧g輸彊罵盲帽︒塀・咽§﹀脚8冨誕 ゆ二粒o麟置u蕪黙Q鍾州鐙噸躍慧︿鍾梱黙鋸﹀︾︒想.9囎砂遡網Q鎌鞍竣轟u謹遭超噸羅慧闘警置朝§醸勲︿庵覇﹀静蕊
︒⑲荊膨簑幻Uゆ極環縣轟鞠罫即脚﹁醸熾灘﹂ 極懸や嚇u曾β⊃鯉轄駒畢Qト駅砲︵欄樋縛濫u導娘畑価懸粥Q濾奪梧顛︶繹擁ゆ饗掲鎌鞍.思︵﹁漫潔糾﹂︶︿灘漣﹀撫Q麗が歯
︒面勘即犠司uゆ価優懸砲想製陶・超窪螺・灘奪噌u患狛・思︿灘>Q膿剃馨
(120) 109
譲拠黙超灘鰻
漫樽黙﹁超薫蝋し
醸※桜潔糾輝覇魍
襲粥頸訓汁燦照循魍
︵爆略濫艇鰹︶濃緯臨炬纒麺︑
醸粥蝦潔懇滋纒魍
︵樽購鐙鰍郷︶於患窩趣鰻側
の飯麟嫡臼搾環認
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