長い経済制裁
―米国の対キューバ経済制裁は効果があったのか?
黒 川 修 司
経済制裁は軍事行動ほどにはリスクが大きくないためか、頻繁に利用され ている外交手段の一つである1。第一次世界大戦以降に米国が発動した
170
件 に上る経済制裁のうち、50
件は1990
年代に実施されたものであった。1993–96
年だけでも米国は36
カ国に対して、制裁あるいは輸出規制を強化してきた2。しかしながら、その効果があるかどうか議論が絶えないままに、
議会あるいは国内世論を満足させるために頻繁に利用されている。
一般論では、経済制裁は長期間になるにつれてその効果を減じている3。制 裁の効果が不明なまま
52
年間も続いているのが米国の対キューバで制裁で ある。1950
年の朝鮮戦争から継続している対北朝鮮制裁に次ぐ長期間の経 済制裁である。しかしながら、戦争相手であった北朝鮮やヴェトナムと異な り、伝統的に経済関係が密接であったキューバに対する経済制裁は性質が全 く異質なものである。カストロ政権を見捨てて米国へ亡命してきたキューバ 人問題4も絡んで複雑な関係を示しているが、米国の国内政治あるいは選挙1
Baldwin, David Economic Statecraft, Princeton University Press, 1985, Cort- wright, David and George A. Lopez, ed., Economic Sanctions: Panacea or Peace- building in a Post-Cold War World?, Westview Press, 1995, Pape, Robert A.,
“Why Economic Sanctions Do Not Work
”International Security, Vo. 22, No. 2, 1997, pp.
90–136, Pape, Robert A.,
“Why Economic Sanctions Still Do Not Work
”Interna- tional Security, Vo. 23, No. 1, 1998, pp. 66–77.
2
Hufbauer, Gary Clyde, Jeffrey J. Schott and Kimberly Ann Elliott. Economic Sanc- tions Reconsidered: History and Current Policy, 2d ed., Institute for International Economics, 1990.
3
Peter A. G. van Bergeijk, Economic Diplomacy, Trade and Commercial Policy: Posi- tive and Negative Sanctions in a New World Order, Edward Elgar, 1994, p. 85.
4拙稿「
J. F.
ケネディの最初の外交失敗―ピッグス湾(Bahía de Cochinos
)事件と絡んでのキューバ問題は本稿の対象外としておく。
米国企業がキューバと貿易することも投資することも禁止され、眼と鼻の 先にある熱帯の島に米国民は観光目的でさえ渡航できなくなった。皮肉を込 めれば、米国は旅行を犯罪と見做す西欧諸国で唯一の国家となったのであ る。その実例が
1993
年11
月に175
名の米国人が渡航禁止措置に挑戦して、キューバキへ渡り、帰国すると以後の起訴のために税関で
65
通のパスポー トが没収された事件である5。但し、この時は理由が不明だが、訴追されるこ となくパスポートは無事に返された。税関ではキューバの切手も没収されて いた。現在でもキューバからの輸入は原則禁止であり、情報と情報関係資材(書籍、映画、ポスター、写真、
CD
など)のみが購入、輸入することが出 来る6。多大な不便を企業と国民に強いながら、共和党も民主党も政権に付く と経済制裁を中止しないのは何故であろうか。しかも経済制裁の主要目的で あるカストロ政権の打倒にも失敗している。米国の一方的な対キューバ制裁 は、ソ連がキューバを物的に支援したことで、その制裁効果は殆どなかっ た。長年経済援助をしてきたソ連が、共産主義を放棄したために対キューバ 支援は打ち切られ、キューバの経済は現在大変な困難に喘いでいる。1989
年の輸入額81
億ドルであったものが1992
年には23
億ドルへと実に72
% も減少している。但し、燃料(55
%)や食品(68
%)は平均よりも小さい が、機械や輸送機器は81
%も減少している。誠に皮肉なことに、ソ連邦が崩壊して初めて、米国の経済制裁が効果を発 揮しだしたとさえ言えよう。
1991
年から93
年にかけては毎年10
%以上の マイナス成長に落ちこんだ未曽有の経済困難を克服するために、キューバはの政策決定を巡って―」『法学新報』(中央大学法学部)第
117
巻第11
・12
号(臼 井久和先生古希記念論文集)2010
年3
月、269–310
頁、でケネディ政権発足時 の失敗例を分析している。5
Kaplowitz, Donna Rich, Anatomy of a Failed Embargo: U.S. Sanctions against Cuba, Lynne Rienner, 1998, p. 188.
6
Office of Foreign Asset Control, Cuba: What You Need to know about U.S. Sanc- tions against Cuba, 2012, p. 13. The Cuban Asset Regulation, § 515.206
(a
),
§ 515.332
が規制の文言である。1
)資本不足を解消するために、外国投資の積極的誘致と米ドルの所持を解 禁し、2
)自営業の拡大(レストランや煙草屋)などの自由化、3
)物価の引 き上げや補助金の削減などの「経済改革」を進めている。キューバのGNP
の低下は正確には測定しがたいが、キューバ中央銀行の数値によれば、1989
年から1993
年にかけてGNP
は35
%低下している7。しかしながら、政 治面では政権は弟のラウロ・カストロ(Raul Catro
)に継承され、共産主義 体制の崩壊は起きていない。経済制裁の目的を実現できていない対キューバ 経済制裁が中止されないのは何故だろうか。このような問題の多い経済制裁 の具体的事例を通して、経済制裁という外交手段を評価してみたい。Ⅰ . キューバ革命当時の米・キューバ関係
かつてキューバにおける外国資本のほとんどがアメリカ資本であった。電 話、電気事業の
90
%が米国資本であり、米系銀行のキューバ支店がもつ預金 額が全キューバの銀行預金の4
分の1
を占める状態であった。輸出の大半を 占める砂糖や葉巻のプランテーションを米国資本が支配し、極端に言うとハ バナは金持ちの米国人の観光とギャンブルと売春の地であった。しかも、米 国政府は大使としてスペイン語も話せない実業家のスミス(Earl E.T. Smith
) を派遣していたために、ハバナからの正確な情報が入手できるはずもなかっ た。当然、米国は独裁的なバティスタ(Fulgencio Batista
)を支持しており、米国の利益を保護することのみに関心があった。しかし、支援していたバ ティスタ政権の腐敗は世界的に知られており、米国も時には持て余すほどで あった。例えば、ニッケル鉱山の権利を
Moa Bay Mining Company
に与えた が、余りにも企業に有利な契約であり、5
年以内に当初の投資額1
億2000
万ドルを取り戻したほどであった8。そのため、バティスタの腐敗が目に余る ならば、米国としてはバティスタ抜きのバティスタ政権(Batisistianismo
)7
Peeg, Feeling Good or Doing Good with Sanctions, p. 23.
8この話は
Salim Lamrani, The Economic War against Cuba, Monthly Review Press,
2013, p. 19
による。を求めることになり、例えば武器援助が
1958
年3
月中旬には停止された。1953
年7
月26
日、130
人の青年がオリエンデ郡サンティアーゴのモンカーダ(
Moncada
)兵営を襲撃するが失敗した。弁護士フィデル・カストロ(
Fidel Alejandro Castro Ruz
)も捕まり、裁判にかけられたが、10
月16
日の市民病院の看護婦サロンに設けられた緊急法廷で歴史に残る社会・経済 の不公正を糾弾する「演説」で「歴史は私に無罪を宣告するだろう」と発言 した。検事はカストロに対して懲役26
年を求刑したが、判決は懲役15
年(弟のラウロは
13
年)でパイン島の牢獄に入れられた。1955
年5
月15
日に 大赦で釈放され、彼はその後メキシコへ渡り、「7
月26
日運動」を結成し た。1956
年11
月25
日、カストロら82
人のゲリラがヨット“Granma
” 号に 乗って、キューバのオリエンテ郡に上陸したが、バティスタ政府軍の迎撃に あって生き残ったのは30
名に過ぎなかった。生き残ったカストロたちはシ エラ・マエスラトラ(Sierra Maestra
)に入ってゲリラ活動を続けた。Ⅱ . カストロ政権の政策
次第に勢力を増したカストロたちは、
1958
年3
月にキューバ革命軍を名 乗って全面攻撃に乗り出し、あっという間にハバナを攻略した。国民の支持 を失っていたバティスタは大統領を辞任し、1959
年1
月1
日ドミニカへ亡 命した。政権を獲得したキューバ革命軍は1
月2
日、マヌエル・ウルティア(
Manuel Urrutia
)判事を臨時大統領に任命した。新政権には首相ミロ・カルドーナ(
José Miro Cardona
)、外相にアグラモンテ(1952
年の正統党 の大統領候補)、内相にロドリゲス(反政府系新聞の社主)が入り、「7
月26
日運動」からは警察長官、国防相、不正蓄財財産回収相として3
人が入閣し ただけであった。蔵相にルフォ・ロペス、国立銀行総裁にフェリペ・パソス など新政権の経済閣僚が親米派のテクノクラートで占められたことに安堵し た米国は、早々に1
月7
日新キューバ政府を承認した。ところが、2
月16
日に就任1
カ月のカルドーナ首相が罷免され、カストロ自身が首相に就任した。
4
月15–26
日にかけてカストロは、米国新聞編集者協会の招きで非公式な形で訪米したが、アイゼンハワー大統領はジョージア州でゴルフを楽しん でいてカストロと会う気はなかったので、ニクソン副大統領に接待させた。
1950
年のキューバの一人当たりGNP
は約500
ドルであり、これは石油を 産出していたヴェネズエラを除く他のラテン・アメリカ諸国よりも高かった。ところが不平等が経済発展を妨げた。キューバ国立銀行の調査によれば、
1950
年から58
年のGNP
は年平均4.6
%の成長を遂げていたように見える が、インフレ調整をすると僅か1
%の成長に過ぎなかった。1958
年当時、農 場主の僅か9
%が全農地の62
%を所有しており、66
%の貧しい農民が7
%の 農地を所有するような酷い不平等な状態であった。1959
年5
月17
日の農業 改革法(Agrarian Reform Law
)により農業改革が始まると、アイゼンハワー 政権は批判的になり、1960
年1
月23
日に駐キューバ大使を本国へ召還した。農業改革は、
1
)個人の農地保有は最大995
エイカーに制限される、2
) 全ての農場は国有化される、3
)土地を外国人が所有することは禁止される、4
)補償金は20
年間の政府証券で支払われる(最高利子率は4.5
%)、など が主たる内容であった9。全農地の40
%が接収され、10
万人の土地を持たな い農民に分配された。また、米国資本の砂糖会社の所有地260
万ヘクター ルが接収された。当時のキューバの農地の最良部分が米国の所有であったの で、米国の損害は大きく反発を招いたのは当然であった。国有化することは主権国家の権利ではあるが、国有化の補償が「十分」で あるか否かについては国際法的には議論の余地がある。貧しいキューバから すれば、先進国が満足するような「即座で、かつ十分、そして実効的な」補 償が出来るくらいならば、国有化する必要などない。しかし、民間の経済的 利益を保護したい米国政府(特に共和党政権であるアイゼンハワー政権)か らすれば、
20
年に亘る殆ど価値など持たないペソ建てのキューバ政府証券 による補償など受け入れる訳にはいかなかった。当然ながら、米国企業だけ が国有化された訳ではなく、スペイン、フランス、英国、スイスの企業も接9
Kaplowitz, op.cit., pp. 35–36.
収された。フランスとスイスは
1967
年3
月、英国は1978
年10
月、カナダ が1980
年11
月、スペインとは1988
年1
月にやっと補償協定が結ばれた。未だに米国だけが拒否しつづけている10。
キューバに圧力をかけるために、砂糖輸入量の削減、米国人による投資の 禁止、経済援助の停止などがワシントンで検討されだした。
1959
年8
月27
日、米国の電力会社であるAmerican Foreign Power Company
は米国政府 からの圧力を受けて、1500
万ドルに上る対キューバ投資をキャンセルした。この中止はキューバ新政権が強制的にキューバの電力の価格を
30
%値下げ したことへの対抗策であった。1959
年11
月にオリエンテ(Oriente
)州と カマグエイ(Camaguey
)州における米国の農地と鉱山が国有化された時 に、砂糖輸入割当が削減された。同時に国務省とCIA
でキューバに対する 秘密工作が議論されだした。かくして米国との関係が悪化したキューバに、ソ連が好機と見て接近を図 ることになる。冷戦において全世界レベルで米国と対決していたソ連は、自 国が共産化を工作した訳でない「棚ボタ」と表現して良い非資本主義の キューバに政治的・経済的な援助を持ちかけた。
1960
年2
月4–13
日にか けて、アナスタス・ミコヤン(Anastas Mikoyan
)政治局員(兼副首相)が キューバを訪問し、通商・経済援助協定に調印した。その内容とは、1960
年は42
万5000
トン、以後4
カ年にわたり、キューバ糖を年間100
万トン づつ買い、キューバはソ連から石油・設備・機械購入のため1
億ドルの借款 を2.5
%の低利で受ける、というものであった。キューバは1960
年に石油 の輸入のために7000
万ドル(全輸入額の10
%に上る)を支払った。これ以 上貴重な外貨を使わないためには、砂糖と石油のバーター貿易をソ連に頼み こむしか方法はなかった。しかしながら、ソ連がキューバから購入する砂糖 の価格は世界市場価格より安く、更に借款はソ連製品を購入することにしか 使えなかったために、ソ連の援助を受け入れることはキューバのソ連への依10
Cuba vs. Bloqueo,
“Los convenios de pago de reclamaciones celebrados por Cuba
(
1967–1986
), http://www.cubavsbloqueo/cu/Default.aspx?tabid=69
存を意味した。
当初カストロは共産党員だとは公言していなかった。最初から共産党員を 名乗っていたのは、弟のラウロ・カストロとチェ・ゲバラ(
Ernesto
”Che
”Guevara
)であった。キューバは社会主義革命を実現すると国民の前でカストロが発言したのは、ピッグス湾事件の際に米軍が偽装してキューバを空爆 した
1960
年4
月16
日であった。カストロは当初、民族主義をうたった幅 広い連立政権を打ち立てた。しかし、米国との関係が悪化し、ソ連との経済 関係が深まるにつれて共産党の影響力が増し、中道勢力は疎外され失望して 連立政権から離脱していった。更には、米国へ脱出し一部の人間はフロリダ で武装抵抗を含む反カストロ運動を盛り上げていった。Ⅲ . アイゼンハワー政権の対応
共和党政権は当然ながら、キューバ政府の社会主義政策には断固反対し、
報復政策を実施した。まず、
1960
年1
月に、アイゼンハワー大統領は、キューバへの全ての武器輸出を禁止した。国務省は西欧諸国の対キューバ借 款と信用供与を阻止する行動を取った。具体的には、
1960
年3
月にオラン ダ・フランス・西独の銀行が組んだコンソーシアムが、キューバに対して1
億ドルの借款を供与することに圧力をかけて中止に追い込んでいる。あるい は、米国からの相互安全保障法(Mutual Security Act
)による援助を受けて いる国家に対してキューバ産の砂糖を購入しないとの条件を付けて援助する と通告して、キューバに対する締め付けを強化している。更に、3
月17
日、アイゼンハワー大統領はピッグス湾侵攻計画11を開始するために
CIA
に承認 を与えた。予算は1300
万ドルであった。5
月8
日、キューバとソ連が外交関係を樹立した。キューバは西欧系石油 会社に対して、毎年ソ連産の石油を200
万バーレル精製せよと命じ、当初 各会社は仕方なくこれに従う姿勢であった。しかし、6
月7
日になって石油11拙稿、前掲論文がその経過を詳しく分析し、失敗の責任がケネディ大統領にある ことを指摘している。
会社
3
社は、砂糖の輸入割り当てを削除したがっていた国務省の要請を受け てソ連原油の精製をキューバ精油工場で行うことを拒否した。当時、キュー バにおいては、スタンダード(Standard Oil of New Jersey
)、テキサコ(Tex- aco
)、シェル(Royal Dutch Shell
)の3
社が寡占状態を形成し、日量9
万 バーレルとほぼキューバの燃料を独占していた。代わりに精製してくれる会 社を見つけられなかったキューバ政府は、この拒絶に対抗して6
月29
日に3
社を国有化した。米国は全世界でキューバに石油を供給しないようなシス テムを作り上げることになる。例えば、7
月初旬にスタンダード石油は全て のタンカーに対して、ソ連とキューバとの取引を止めるか、あるいは今後ス タンダートとその系列会社との取引を諦めるか決めるように指令をだした。更に、
7
月5
日に全ての米国資産[18
億ドルと算定される]が国有化さ れると、翌6
日にアイゼンハワー大統領は1960
年度の米国への砂糖割り当 て残余分70
万トンの輸入を打ち切る大統領命令(Presidential Proclama- tion
)3355
号を出した。キューバの危機を見てとったソ連は、7
月10
日に 米国が購入を拒否したキューバ糖を買い取る用意があると言明した。8
月6
日、砂糖割り当て量の輸入を米国が拒否した報復として、約10
億ドルの価 値があるとみられる米国が所有の26
社の財産をキューバが国有化した。8
月下旬、ハーター(Christian Herter
)国務長官はコスタリカで開かれ た米州機構(OAS
)の特別総会において、キューバが西半球の脅威となって いると非難するように加盟各国を説得した。しかしながら、米州機構は非米 州機構国家による全ての干渉を非難する「サン・ホセ」宣言を採択した。米 国の圧力にもかかわらず、OAS
諸国はキューバだけを狙い撃ちにした宣言 を採択せずに、米国の希望よりも弱い決議案を可決したに過ぎなかった。こ れに反発して、1960
年9
月2
日、カストロは「ハバナ宣言」を発して、米 国と米州機構を非難し、米国のラテン・アメリカにおける干渉を批判して、中華人民共和国と国交を樹立する意図を発表するに至った。中国政府も
5
年間に亘り50
万トンの砂糖購入を明らかにした。9
月下旬に米国政府は キューバに対して旅行助言(travel advisory
)を発して、キューバに在住している全ての米国人は帰国するように説得した。
このような制裁のスパイラルは続き、
10
月中旬までにキューバは殆ど全 ての個人企業を禁止する第2
次国有化を実行した。1
)基幹産業国有化法に より、106
の製糖工場、382
の大企業、全民間銀行、貿易会社が国有化さ れ、270
万エイカーに及ぶ砂糖黍畑は国有化されて、国家農業改革機関(
the National Agrarian Reform Institute: INRA
)の支配下におかれた。2
) 都市改革法により、都市部の不動産売買が政府の管理下におかれ、賃貸目的 の家屋の所有が禁止された。これに反発して、米国は食料と医薬品を除外す る全ての対キューバ輸出を禁止する部分禁輸を実施した。ホワイトハウスの 国家安全保障会議(the National Security Council: NSC
)は、キューバを対 象にした新たな宣言を出すことを望んだが、これに国務省が強硬に反対し た。その理由は、キューバが米国の“national security
”にとって“threat
”に なっていることを公に認めることになり、米国の威信を傷つけることになる と判断したからであった。そのため10
月19
日に禁輸が発表された際に利 用されたのは、1949
年輸出管理法であった。キューバ経済の対外依存度が 高いので、経済制裁は有効であると米国政府は考えていた。米国政府が禁輸 を発表すると、キューバはチェ・ゲバラ国立銀行総裁が率いる貿易使節団を 社会主義諸国へ派遣し、1961
年度分の砂糖輸出を400
万トン(米国への輸 出量を100
万トンも上回る)とする契約を結んだ。1960
年12
月19
日にアイゼンハワー大統領は、翌年度分第1
四半期の キューバ糖の割り当てを取り消す大統領命令(Presidential Proclamation
)3383
号をだした。1961
年1
月1
日、キューバはハバナにある米国大使館員(当時156
名)の人数を最大
11
名(米国がキューバ大使館に対して制限した人数)に制限 し、その他の大使館員に対しては2
日以内に出国せよと命じた。これに対抗 して、米国政府は外交関係を断絶し、キューバ在住の米国民に対して帰国す るよう命じ、米国民に対してキューバへの渡航を禁止した。これに反発し て、カストロは第1
回ラテン・アメリカ青年大会の席上、キューバ電信電話会社(
the Cuban Telephone and Telegraph Company
)とキューバ電気(the Cuban Electric Company
)、36
社の砂糖精製業者と全ての石油精製会社を国 有化すると発言した。更に、
1961
年1
月中旬に国務省はPublic Notice 179
により、米国国民の キューバへの旅行を完全に禁止した。米国国民のキューバへの旅行は「合衆 国の対外政策に反するものであり」「米国の国益に害をもたらす」と断定し た。全ての米国人パスポートは特別の国務省許可がない限り、キューバ旅行 に無効であると宣言された。これは後に最高裁判所によって覆されたが、キューバ旅行は米国通貨をキューバで使用することが国益に反するとの理由 で、依然として米国人の渡航は事実上禁止された。
Ⅳ . 経済制裁の実施
当時のキューバは「モノ・カルチャー」経済で、輸出の殆どは砂糖黍又は 精製された砂糖であった。しかも、距離的に近い米国市場への輸出が
80
% 近い占有率であった。従来、米国を主力市場としてきたキューバ糖が、米国 の制裁によってソ連・東欧諸国向けに転換され、世界の砂糖貿易に大きな波 紋を投げかけた。「1948
年砂糖法」のもとに続けられてきた米国の砂糖輸入 割当のキューバ枠が消えたが、他の産出国によって吸収され、米国は引き続 き多くの発展途上国から特恵的な条件で砂糖輸入を行った。カストロ革命までキューバの経済は米国との関係が密接であった。大雑把 に言えば
1959
年当時輸出の65
%、輸入の73
%が米国との貿易であった。例えば、米国農務省の統計によれば12、
1958
年のキューバの輸出は、米国向 けが4
億9000
万ペソ(当時1
ペソ=1
ドル)でシェアが67
%、他の資本主 義国向けは2
億2500
万ペソ(30
%)、ソ連向けは1400
万ペソ(2
%)、他の 共産諸国は500
万ペソ(1
%)に過ぎなかった。これが1964
年になると、米国向けは
0
、他の資本主義国向けは2
億9300
万ドル(41
%)、ソ連が2
億12
Kaplowitz, p. 211, Appendix2
7500
万ドル(39
%)、他の共産主義国向けが1
億4100
万ドル(20
%)に急 増した。輸入サイドを見ると1958
年では米国は5
億4300
万ペソ(70
%)、他の資本主義国が
2
億3400
万ペソ(30
%)、ソ連と他の共産諸国は殆ど統 計値に出てこないほどであった。1964
年になると、米国は0
、他の資本主 義国は3
億2700
万ドルでシェアが32
%、ソ連は4
億1100
万ドル(41
%)、他の共産諸国は
2
億7700
万ドル(27
%)と激変した。1964
年以降は米ドル に統計値が変更されている。ここで経済制裁の一般論を述べると、対象国は以下の条件があると脆弱だ と考えられる。
1
)対象国にとって重要な製品を制裁国が支配している時、2
)対象国にとって重要な輸出の大きな部分を制裁国が輸入している時、3
) 対象国の経済が少数の輸出品目に依存している時、4
)対象国の経済が対外 貿易に依存している度合が高い時、である。以下、この条件が満たされたの かどうか検討しよう。まず、米国がキューバ経済を支配していたことは明ら かであり、米国の投資額は全ラテン・アメリカ諸国のなかでキューバが2
番であり、キューバの対米貿易は60–65
%に上っていた。1955
年のデータ を見ると、輸出の約69
%が対米向けであり、米国企業がキューバの電気水 道の90
%以上、鉄道の約50
%を支配していた。米国系銀行はキューバ全体 の銀行預金の25
%を占めていた。即ち、経済制裁が発動された時に、米国 はキューバ経済の多くを支配しており、キューバは米国からの経済的圧力に 脆弱であったと言える。繰り返しになるが、
1950
年代半ばにはキューバの輸出の実に3
分の2
が 対米向けであった。砂糖産業はキューバの労働人口のほぼ25
%を雇用して いる最大の産業であり、1958
年の砂糖輸出の58
%が米国向けであった。米 国の砂糖輸入割当がキューバ経済を左右していたのである。またキューバの「モノ・カルチャー」は、砂糖とその副産物(アルコール、糖蜜)が輸出の
80
%以上を占めていた。1960
年における輸出金額6
億1730
万ドルの内、砂糖が
4
億6750
万ドルと75
%以上を占めており、輸出額2
番目の煙草は6300
万ドルに過ぎなかった。輸出作物の砂糖きびと煙草に集中していたキューバは、食糧、石油、工業 製品を輸入せざるを得なかったことは過去も現在も変わらないのである。本 来食糧生産に使う土地にまで輸出作物の砂糖黍を植えているために、食料品 の輸入が約
3
割を占めていた状態はまさに「モノ・カルチャー」の弊害であ る。1950
年代半ばのキューバの輸入はGNP
の16–31
%にも上り、これは他 のラテン・アメリカ諸国の25
%と比べて高い。このように対外貿易の依存 度が高いキューバは経済制裁に脆弱である。米国とのGNP
比率でみると173
対1
となり、キューバは巨人の前の子供であった。経済制裁の項目としては、砂糖は理想的な産品であった。キューバはこれ しか輸出品目はないし、米国はなにもキューバの砂糖を輸入する必要はない のである。
1954
年[カストロ政権以前]のキューバ輸入品の構成消費物資 金額 比率
衣類
150
万ドル0.3
%Household articles 3400
万ドル7.1
%自動車
2560
万ドル5.2
%贅沢品
210
万ドル0.4
%食料品
1
億3990
万ドル28.6
%医薬品
1100
万ドル2.2
%煙草
110
万ドル0.2
%飲料
620
万ドル1.2
%その他
420
万ドル0.8
%合計
2
億2640
万ドル46
%生産物資 金額 比率
砂糖産業
260
万ドル0.5
%他産業
5120
万ドル10.4
%農業
1340
万ドル2.7
%運輸
1280
万ドル2.6
%建設業
1770
万ドル3.6
%燃料
3370
万ドル6.9
%原材料
1
億3010
万ドル26.6
% 合計2
億6150
万ドル53.3
% 総合計4
億8790
万ドル100
%[出典:
Losman, D. L., International Economic Sanctions, 1979, p. 23, Table 2
]Ⅴ . 歴代政権の経済制裁
大統領選において民主党ケネディ候補は、共和党のアイゼンハワー政権を 攻撃し、キューバを喪ったと非難した。しかもケネディは経済制裁が「小さ すぎ、遅すぎる」と否定し、軍事介入を支持する姿勢を見せていた。この本 気とは思えない選挙対策はひとたび政権に着くと、ケネディ政権を束縛し始 めた。ケネディ政権は
1961
年3
月31
日、砂糖の輸入禁止措置を1962
年ま で延長することを決定した。9
月4
日には米国議会が対外援助法を可決し、これによりキューバ政府に対する対外援助は禁止され、大統領に全面禁輸す る権限を与えた。大統領命令(
Executive Order
)3447
号、対外援助法、1917
年対敵通商法(The Trading with the Enemy Act: TWEA
)によって、ケネディ大統領は
1962
年2
月7
日にキューバに対して、食糧と財務省の許 可を受けた薬品を除外した禁輸を課した。医薬品や医療機器は財務省の許可 が得られれば輸出できるとされたが、現実には許可される事例は非常に少な く、手続きも煩雑であった。この禁輸においては財務省が対キューバ貿易を 監視し、商務省が1949
年輸出規制法(The Export Control Act of 1949
)に 基づいてキューバへの輸出を管理した。当初、国務省は対敵通商法を根拠法 として使用することに躊躇したと伝えられている。その理由は、キューバを“
enemy
”と表現することがラテン・アメリカ諸国に政治的混乱をもたらしかねないと危惧したからであった。
禁輸実施前に密かにケネディ大統領はハバナ葉巻(
H
.アップマンのプ ティ・アップマンという高級葉巻)を1100
本を購入したと伝えられてい る13。ピエール・サリンジャー(Pierre Salinger
)首席報道官がシガー専門誌 に寄稿したことで有名になったエピソードだが、このオリジナル記事を発見 することが出来なかった。2
月23
日には、米国政府は禁輸をキューバ産の素材(たとえ第三国で加 工された物であっても)を含むすべての産品に拡大した。9
月16
日に禁輸13中島渉「政治家の愛したシガー」『外交フォーラム』
2004
年4
月号、94–95
頁を更に強化するため、いかなる国籍であろうとキューバと貿易した全ての商 船のブラック・リストを作成し、米国内の港に入ることを禁止した。このこ とによりキューバと西欧諸国との貿易を縮小させ、更にキューバをソ連に近 づけることになる。
1961
年4
月中旬のピッグス湾事件が失敗に終わると、誠実な政治家とい うイメージとは異なり、ケネディ大統領は秘密工作に重点を移すことになっ た。8
月までに約5
万ドルの予算を付けて、CIA
にカストロ打倒工作を許可 することに踏み切った。キューバに対する秘密工作はホワイトハウスにおけ る「強化特別グループ」(The Special Group Augmented: SGA
)が監督して いた。このグループは国務省からマクジョージ・バンディ(McGeorge Bundy
)、アレックス・ジョンソン(U. Alexis Johnson
)、国防総省からロズ ウェル・ギルパトリック(Roswell Gilpatric
)、ジョン・マコーン(John
McCone
)、統合参謀本部からライマン・レムニッツアー(Lyman Lem-
nitzer
)将軍)が正規メンバーであった。これにロバート・ケネディ司法長官とテイラー(
Maxwell Taylor
)統合参謀本部議長が加わったので「強化」されたと表現されたのであった。ピッグス湾侵攻事件で大失敗をしたケネ ディ大統領は、
CIA
に強い不信感を抱き、重要な秘密工作計画の監督はCIA
以外の人間に任すと決断した。この各種の秘密工作の中で一番有名な ものがランズデール(Edward Geary Landsdale
)将軍が指揮したマングー ス(Operation Mongoose
)作戦であろう14。ケネディはカストロを暗殺せよ とは慎重に発言しなかったが、ヘルムズ(Richard Helms
)CIA
計画局担当 副長官は、暗殺が暗に認可されたと解される「ある種の空気」があったと議 会で証言している。「キューバの大衆運動を支援するための米軍の使用」や「キューバ共産党指導部に不信と不安を引き起こす計画」、「キューバ国内で の破壊活動の作戦日程」に至る各種の活動が
32
も起案された。14上院情報活動調査特別委員会
Alleged Assassination Plots Involving Foreign Lead-
ers
のほぼ全訳が『朝日ジャーナル』臨時増刊「CIA
の外国指導者暗殺計画」第17
巻第55
号、1975
年12
月25
日、に出ている。1962
年1
月31
日にOAS
(米州機構)はキューバの加盟資格を停止し、64
年にOAS
諸国がキューバとの国交を断絶し、禁輸に参加したことで経済制裁 は多国間のものとなった。禁輸を担当する財務省は対キューバ制裁には通常の 国際法では支持が得にくいと考え、国務省に対してOAS
の1954
年のカラカス 宣言あるいは1914
年の対敵通商法に根拠を求めるべきだと忠告していた。キューバへの輸出は
1949
年輸出管理法に基づいて商務省が担当して規制した。対敵通商法に従って、米国内のキューバ資産(約
3300
万ドル)も凍結された。効果的な経済制裁を実施するためには、米国の企業と米国企業の海外支店 だけでなく、同盟国企業も制裁に従うことが必要であった。しかし、
1964
年1
月に英国のLeyland Mortors
が1220
万ドルに上るバスとその部品を輸 出する契約をキューバと結んだ時に、具体的に問題となった。キューバ制裁 が実施されてから初めての西側からキューバへの機械輸出の事例であったの で、米国政府はキューバ経済に対する戦略的な重要性を指摘して反対した。英国側は対キューバ経済制裁はキューバの軍事能力を制限するための規制で あって、キューバ産業の成長を妨げるためにするものではないとして、輸出 を擁護した。更に、キューバは
CoCom
規制の対象国ではないのであるか ら、ソ連圏諸国とは別の扱いを受けるべきだと主張した。ジョンソン政権は キューバの公共交通システムが崩壊寸前であるために、このタイミングでの バス輸出はキューバを救うものだとして、NATO
の場において英国を譴責 しようと試みた。更に、直接ヒューム首相に圧力をかけた結果、輸出は禁止 しないが、バス輸出に対する政府保証は取り消された15。この他にもスペインがキューバ産の砂糖を輸入しようとした際や、イタリ アの
Fiat
や英国のVickers
がキューバとの貿易をすることを断念させた。英 国のEnglish Electric
社がキューバに電話設備を輸出する契約を結んだ時に は、米国内務省の330
万ドルの契約破棄をちらつかせて断念させている。15この事例に関しては
Rodman, Kenneth A., Sanctions Beyond Borders: Multina- tional Corporations and U. S. Economic Statecraft, Rowman & Littlefield, 2001, p.
51
を見よ。1974
年初めにニュージャージー州のStudebaker Corporation
が株の52
% を支配しているカナダの子会社MLW Worthington
社が1800
万ドルに上 る30
両のディーゼル機関車を輸出する契約を獲得した。親会社はOFAC
(
Office of Foreign Assets Control
)に対して米国企業が株の過半数を支配し ていること、子会社の取締役9
名の内2
名が米国人であることを理由とし て、例外適用を申請した。カナダ政府もカナダ法に従って設立された同社の 契約提携交渉に助言をし、財政支援をしているとして米国務省に対して公式 の抗議を行っている。カナダ国内で新聞がこの事件を報じ、議会下院でも取 り上げられたために、カナダ政府はこの事件を民衆の眼に曝すことにした。MLW
社は3
月8
日に2
名の米国人取締役の反対を押し切って、この輸出を すすめる決断を下した。米国政府はカナダと事を構えることを回避して、黙 認した16。ところが第
2
の事件が1974
年12
月にLitton Industries
のカナダ子会社 であるCole
社が50
万ドル相当の事務用品をキューバに輸出することに なった。親会社はOFAC
と相談して輸出申請は拒否されるとの判断から輸 出をキャンセルせよと命じた。リットン社は年間30
億ドルの販売額から見 れば、対キューバ輸出は取るに足りないので政治的リスクを回避したので あった。ところが、子会社はキューバへの進出の第一歩になるとして、輸出 に固執したのであった。カナダ産業・貿易・通商省(the Department of In- dustry, Trade, and Commerce
)は、リットン社は介入すべきではないと宣言 し、米国の政策を「商業的植民地主義」だと批判しカナダの内政に干渉すべ きでないとまで主張した。1975
年2
月13
日に国務省は同盟国との争いを避 けるために、柔軟性も必要だとしてリットン社に例外として輸出を認めた。カストロ政権は集権的なソ連型の中央計画経済や国有化による国営部門の 拡大、輸出の
80
%を占める砂糖の生産強化、輸入代替工業化などの努力を 払った。当然ながらこの米国による禁輸はキューバ経済に大きな損害を与え16この
2
つのカナダの事例についてもRodman, op.cit. pp. 61–62
を参照せよ。たが、カストロは経済的困難を米国の政策のせいに出来た。
1962
年2
月4
日、ハバナでの大衆集会において、カストロは米国の禁輸政策を攻撃し、「もう一つの経済的攻撃」だと批判した。キューバは長期間に亘って犠牲を 払わねばならないと警告し、国民に生産性の向上を呼び掛けた。
3
月に食糧 と石鹸を配給制にすることを発表した際にも、カストロは消費財の不足は キューバに対する「野蛮な経済封鎖」によるものだと述べた。1975
年にOAS
がキューバとの貿易を再開し、米国も第三国に属する米国 企業の子会社がキューバ貿易に従事することを認めた。1977
年にはカー ター大統領が渡航禁止を緩和し、革命後初めて数千人の観光客がキューバを 訪れることを可能にした。ところが、
1975
年後半にキューバが特にアンゴラ内戦に3
万人6000
人の 義勇兵を派遣したため、米国との関係が改善するはずもなかった。1978
年 にはエチオピアへ約2
万人を派遣している。1979
年になるとカリブ海地域 では社会主義がグレナダ(the New Jewel Movement
)とニカラグア(the
Sandinistas
)で勢力を増してきた。特に、ニカラグアでサンディニスタが勝利すると、カストロはアドヴァイザーを送り込んだ。カーター政権はサン ディニスタに対する援助を中止し、隣国エルサルヴァドルへの軍事援助を増 額した。
その後、各政権下で多少の手直しはあったものの、冷戦の終結まで対 キューバ制裁に大きな変化はなかった17。
1992
年と1996
年に議会は対キューバ制裁の強化を立法化している。1992
年法はキューバ民主政治法(the Cuban Democracy Act
)別名トリセ リ法と呼ばれ、ソ連の社会主義体制が崩壊した後、非常な経済的困難に陥っ ていたキューバを、カストロ政権から民主的政治体制へと移行させること を、経済制裁強化で実現することを目的としていた。1992
年2
月5
日にロ17詳細な法的規制は、
Michael P. Malloy, Economic Sanctions and U. S. Trade, Little
Brown and Company, 1990,
第6
章、Cuban Embargo Controls, pp. 349–392
を参照。バート・トリセリ(
Robert Torricelli,
下院外交委員会ヒスパニック問題小委 員会委員長、民主党、ニュージャージー州選出)が下院外交委員会に提出(
H.R.4168
)し、下院では276
対135
、上院では61
対24
で可決され、同年10
月23
日に1993
年会計年度国防歳出権限法(National Defense Authori- zation Act for Fiscal Year 1993
)(H.R.5006
成立後はPublic Law 102–484
) の第17
編として成立した。具体的には、1
)キューバと貿易を行っている国 家が、キューバとの貿易・信用関係を制限することを奨励し、キューバを援 助する国家に対し、米国からの援助を受ける資格や債務免除・削減を受ける 資格を剥奪し(§6003
)、2
)第三国所在の米国企業とキューバとの取引を禁 止し(§6005
(a
))、3
)キューバに寄港した船舶が米国内の港などで荷揚げ・荷降ろしすることをキューバからの出港後
180
日間禁止すること(§6005
(
b
))を定めた。更に、4
)米国企業の対キューバ貿易を禁止し、5
)米国民 のキューバ渡航を禁止し、6
)キューバ系米国人の在キューバ親族への送金 を禁止した。クリントン候補が
1992
年4
月23
日フロリダ州マイアミでキューバ系市 民数百人を前にして、トリセリ法案に賛成の立場を明らかにした。クリント ンはマイアミで27
万5000
ドルの選挙資金を獲得した。ブッシュ大統領も フロリダ州とニュージャージー州におけるキューバ系市民の票を失うことを 恐れ、「共産主義に弱腰」と見られたくないために、1992
年10
月、キュー バ民主政治法に署名し、経済制裁をグローバルなものに強化した。これらの締め付け政策は、法律化される前から存在していたものではある が、このトリセリ法は多くの非難を浴びた。特に、米国の主権が及ぶはずの ない第三国の米国系企業に対して、キューバとの取引禁止を強要したこと は、米国法の域外適用であると強く批判された。英国はレーガン政権期のパ イプライン事件と同様に、「貿易の権利保護命令」(
The Protection of Trad- ing Interests
(US Cuban Assets Control Regulations
)Order 1992
)18を定めて18
Statutory Instrument 1992 No.2449, http://www.hmso.gov.uk/si/si/Uksi_19922449_
en_1_1.htm
(最終アクセス2014
年10
月3
日)まで、自国の事業者に対して、米国の対キューバ取引禁止措置への不服従を 義務付けた。
1996
年法はLIBERTAD
法(Cuban Liberty and Democratic Solidarity Act of 1996
、22 USC 6021, Public Law 104–114, 110 Sta.185–824
、別名ヘルム ズ・バートン法)という。1996
年3
月12
日にクリントン大統領が署名して成立した。しかし、その 成立過程では多くの論点があったために、上院と下院の対立も巻き起こし た。提出から1
年2
カ月の間に、修正案が5
本も提出され、紆余曲折を 辿った法案であった。下院ではタイトル3
と4
を含めた案を可決したが、これは上院で
10
月12
日に否決され、両規定を削除した修正案が10
月18
日に可決された。その後1996
年1
月に更に強硬な3
月に可決される案に近 い修正案が下院で提出された。この「キューバ自由民主連帯法」のタイトル
1
において、立法化の目的を キューバの民主化であると明記し、キューバに民主的な政府が樹立されるま では、国際金融機関の米国政府代表はキューバのOAS
参加停止の終了に反 対し(セクション105
)、米国の意に反してキューバを支援する機関には米 国は負担金の支払いをしないこと、米国民及び永住権者の対キューバ投資を 禁じること、またキューバの核施設(建設中のフラグア原子力発電所)へ援 助する第三国(ロシアを意味する)への米国の援助停止などを定めている。タイトル
2
では、カストロ政権以後の青写真を具体的に示している。キューバ国民の自決権を尊重しつつ、速やかな暫定政権(
transition govern-
ment
)の樹立と、その後12
カ月以内に建てられるべき民主政権の選挙によ る樹立を、国際社会とともに支援する、ことを定めている。そのための具体 的な米国政府の支援プログラムが列記され、経済制裁解除に必要となる暫定 政権及び民主政権の条件を規定している。同法セクション205
は以下のよ うにキューバの民主移行政権の条件を定めている。1
)全ての政治活動を合 法化すること、2
)全ての政治犯を釈放し、適切な国際人権機関による刑務所の調査を受け入れること、
3
)革命防衛委員会、即応部隊を含め、内務省 保安局を解体すること、4
)自由かつ公正な選挙の開催を公約すること、5
) ラジオ・マルティ、テレビ・マルティ19に対するあらゆる妨害を停止するこ と、6
)司法の独立、人権尊重、結社の自由につき進展があること、7
)フィ デル・カストロ及びラウロ・カストロを含まないこと、8
)対キューバ支援 の迅速な国内配布につき保証すること、など詳細かつ内政干渉とも言うべき 規定を盛り込んでいる。また、「キューバに民主的な政権が樹立された」との報告を連邦議会の適 切な委員会に提出し、議会両院の合同決議を得たうえで、制裁を解除するこ とが出来るとの条項(セクション
204
)が入れられたために、大統領が単独 で制裁解除を決定できなくなったことは見逃せない。ヘルムズ・バートン法案の審議過程で最も対立が激しかった条項は、タイ トル
3
と4
であった。タイトル3
では、接収当時の価格で5
万ドル以上の 資産に限って、その資産を現在対キューバ投資などで使用する(traffic in
)20 第三国の法人及び個人に対し、米国内の旧所有者が米国において損害賠償請 求訴訟を起こすことが出来ること、及びタイトル4
において、そのような第 三国企業の幹部社員と大株主、およびの家族に対して、米国務省が米国への 入国ヴィザと入国を拒否できるというものである。議会の審議の中では、国 際法により正当に補償請求権を認められる5911
件(総額60
億ドル)の内、5
万ドルを超えるものは僅かに800
件しかないことが指摘されていた。この二つの規定は国際法違反であるとの批判が当然出てくる。まず、接収 に関わる紛争において第三国の企業や個人を訴えることが出来るという部分 は、国際法の中の国内管轄権の尊重に反する。第
2
は、接収当時米国民で はなかった、即ち、当時はキューバ国民であってその後に米国に帰化した市 民に対しても請求権を認めるとの部分は、国際法の自国民保護の法理に反す19米国がキューバ国民に向けて放送している番組である。
20“