新型インフルエンザ対策とリスク処理
羽 原 敬 二
■アブストラクト
現在,新型インフルエンザ対策は,国際機関,国,地方自治体,企業,医 療機関,個人などによって各々計画・準備されている。その目的は,①パン デミック発生の予防・阻止,遅延,②健康被害の抑止と最小限化,③社会活 動・社会機能の維持,④パンデミック終息後の被害からの早期回復,である。
新型インフルエンザウイルスの脅威と実態を正しく認識し,適切な対策をい かに有効に実施するかが課題となる。感染症が海外で発生・流行した場合,
国内への侵入を阻止する水際対策には盲点があり,検疫をいかに強化しても,
それだけで国内発生を完全に阻止することはできない。パンデミック時には,
不要不急な業務は極力休止し,重要な業務に絞って,感染予防対策を徹底し た上で事業を継続することが必要となる。地球的規模での国家危機管理の認 識に立って,国際的な協働・協力態勢に基づき,状況に応じた柔軟な感染症 対策をより戦略的に実行する方策について考察した。
■キーワード
パンデミック,BCP(Business Continuity Plan),感染リスク
はじめに
新型インフルエンザは,人類にとって未知のウイルスにより引起されるイ ンフルエンザのことである。免疫を持っている人がいないために大流行し,
*平成21年2月21日の日本保険学会関西部会報告による。
/平成22年1月25日原稿受領。
感染した人は重症化して死者が多数発生することになる。20世紀には,新型 インフルエンザの世界的大流行(パンデミック:pandemic) が3回あった。
特に,1918年のスペイン風邪 は,当時の新型インフルエンザとして全世界 で約4,000万人,日本で約39万人の死者を出し,大きな被害をもたらした。
インフルエンザは,周期的に出現してパンデミックを引起す。パンデミック による社会的混乱を回避するには,インフルエンザの事象を冷静に分析し,
基本的な感染症対策を平時より指導すると同時に,行動計画を事前に検討・
整備しておく以外に方法はない。
現 在,高 病 原 性 鳥 イ ン フ ル エ ン ザ ウ イ ル ス(high pathogenic avian
influenza
)が,人から人に感染するウイルスへと変異し,大流行を引起す可能性が高いとみられているが,いつ発生するかは予測できない。交通機関 が発達した現代では,地球上のどこかで新型インフルエンザが発生した場合,
1) pandemic(パンデミック)は,ギ リ シ ャ 語 で す べ て,汎 を 意 味 す る pan(パン)と, 人々 を表すdemosに由来するdemic(デミック)から成 ることばであり,感染症が人の集団に広範囲かつ急速に広がり,世界的規模で 流行し,しかも地球上の各地で時間をおかず連鎖的に拡散することをいう。類 似の用語として,outbreak(集団発生)は,疫学的リンクのある2例以上の 同様の症状を持った症例の発生状況を指し,epidemic(流行)は,特定の集 団や地域において,一定期間に同一疾患が通常発生しているよりも期待値を超 えて多くの患者が発生している場合を指し,国内だけで終息するものをいう。
endemic(地方流行) は,特定地域に長期間,ある疾病が常在的に流行するこ とをいい,マラリアが典型な事例である。
2) 1918年から1919年にかけて世界的に流行したインフルエンザをスペイン風邪 と呼ぶ。その理由としては,第1次世界大戦に参戦していなかったスペインが 戦時下の情報統制を行わず,自国でのインフルエンザ発生を隠蔽しなかったた めであるという説が一般的である。実際には,1918年3月に米国シカゴ付近で 最初に発生し,2か月程度で全欧州に感染が拡大した。当時第1次世界大戦中 で,米国から欧州戦線に送られた兵士の中に感染した米兵がいて,感染が欧州 で拡大したといわれている。
スペイン風邪のウイルスは,高病原性鳥インフルエンザウイルスが変異した ものであり,これまでの世界的な流行を引起した新型インフルエンザウイルス は,全てが高病原性鳥インフルエンザウイルスの変異で発生している。
ほぼ1週間程度でパンデミックに至ると指摘されている。2009年4月以降,
新型の豚インフルエンザの感染が急速に拡大し始め,日本は世界第4位の感 染国となってしまった。
そこで,本稿では,新型インフルエンザの被害を最小限に食い止めるため に,予防法,発生・流行時の対応についてリスクマネジメントの観点から考 察することとした。なお,本稿は,2009(平成21)年2月21日開催の第3回 日本保険学会関西部会報告会における研究報告の内容に追加・修正を施した ものである。
1.新型インフルエンザの名称と概念
新型インフルエンザという用語は,日本だけで使われているもので,国際 的にはそのような呼び名はない。欧米では,pandemic flu,米国では,
super fluとも呼ばれている。H5 N1型鳥インフルエンザのウイルスが変異
して,人の間で流行するようになった場合には,パンデミック・インフルエ ンザと呼ばれる。しかし,日本ではこのパンデミック・インフルエンザを新 型インフルエンザと呼んできた。今回のメキシコ発の豚由来インフルエンザH1 N1型に対しても,日本では新型インフルエンザとして扱い,新型インフ
ルエンザの対策がそのまま適用され,さまざまな混乱を引起してきた。国,
メディア,自治体,検疫などの対応にも影響し,すべてが過剰になり,感染 症の本質に沿った対策ができていない状況に置かれた。したがって,まずは,
この呼び方自体を変える必要がある。
本来,新型インフルエンザとは,人間が免疫を持っていない,初めて経験 するインフルエンザで,人から人へ効率よく感染する型に変異したものをい う 。今回のインフルエンザは,動物が感染し,そのウイルスがなじんだ動
3) インフルエンザウイルスの感染経路は,①飛沫感染(感染者の咳やくしゃみ の飛沫を,健康な人が口や鼻から吸込んで感染。飛沫が飛ぶ範囲は2ⅿ以内),
②接触感染(感染者の咳やくしゃみ,鼻水などが付着した部分に健康な人が触 れ,ウイルスに汚染された手で目や口,鼻などに触れたときに,ウイルスが体
物名を冠して呼ぶことが慣例になっているため,WHO(World Health
Organization
:世界保健機関)は 豚インフルエンザ(swine flu) を用い
ている。日本の厚生労働省は,感染症予防法に基づいて, 新型インフルエ ンザ と呼んでいる。日本の動物衛生研究所は,ウイルス自体が初めて見つ かったのは人間の患者で,豚ではないため,豚インフルエンザと呼ぶのは,
学術的に相応しくないと指摘している。外国では,米国の農務長官は,豚肉 でインフルエンザが伝染するとの誤解が広がっているため,豚(swine)と いう言葉を使わないように求め,
H1 N1 というウイルスの型の名前で呼
んでいる場合もある。OIE(Office International des Epizooties,World Organization for Animal Health
:国際獣疫事務局)は,過去に世界的に流行したインフルエンザは,スペイン風邪など地名から命名されていること から, 北米インフルエンザ の名称を提案しているが, メキシコ風邪 と 呼んでいる報道機関もあり混乱も生じている。
WHOは,Pandemic
(N1H1)2009とも記述しているが,インフルエン
ザウイルスは絶えず変異を繰返しており,いずれ別の新型インフルエンザが 生まれてくると考えられ,そのためにも適切な名称の定め方を確立しておか なければならない。2.新型インフルエンザウイルスの脅威と実態
⑴ インフルエンザウイルスの特徴
インフルエンザは,インフルエンザウイルスによる感染症で,原因となる
内に侵入して感染),③空気感染(密閉された室内などで,空気中を漂ってい るウイルスから感染)である。空気感染は,飛沫の水分が蒸発して乾燥し,さ らに小さな粒子(5ミクロン以下)である飛沫核となって空気中を漂い,離れ た場所にいる人がこれを吸込むことにより感染する経路である。飛沫核は空気 中に長時間浮遊するため,対策としては,陰圧室やフィルターが必要となる。
4) 中 村 和 仁 イ ン フ ル エ ン ザ 流 行 に 対 す る 事 業 継 続 計 画 の 策 定 TRC EYE, Vol.105,2006,東京海上日動リスクコンサルティング株式会社,茂 木寿 企業としての感染症対策のポイント 迫りくる新型インフルエンザ・パ
ウイルス(virus)内部の蛋白の違いから,A型,B型,C型の3種類に分 けられる。A型は,ウイルスの表面にある糖蛋白の異なる抗原性であるヘマ グルチニン(hemagglutinin:H,赤血球凝集素)16種類とノイラミニダー ゼ(neuraminidase:N)9種類の組合せによって,H1
N1から H16 N9まで
の144種類の亜型(subtype)が存在する。A型は,鳥や豚などと人との間 で遺伝子の交換を行い,突然変異により免疫のない新型のインフルエンザと なり,パンデミックを引起す可能性が高い。B型とC型は多様性が無いため,亜型による分類は行われていない。B型は1つの型のみが存在する。C型は,
ヘマグルチニンエステラーゼと呼ばれる1つの糖蛋白しかなく,風邪の原因 であり,パンデミックを引起すことはない。
⑵ 新型インフルエンザの弱毒性と強毒性
今回の新型インフルエンザは,患者の症状やウイルスの遺伝子から弱毒性 とわかっている。すなわち,毎年流行する従来の季節性インフルエンザと同 様に,感染が喉などの呼吸器にとどまることを意味する。弱毒性ではあるが,
新型は,多くの人に免疫がないないため,大流行を起こしやすく,致死率が 低くとも,患者数が多くなれば,死亡者数が増加する。その場合の犠牲者は,
抵抗力の弱い乳幼児や基礎疾患 のある人である。
ただし,流行期間中にウイルスの毒性が変化する可能性は否定できない。
最も警戒しなければならないことは,強毒性への変化である。弱毒性が呼吸 器だけに感染するのに対して,強毒性は,全身の細胞に感染する。身体を守 るための免疫システムが過剰に反応するサイトカインストームを生じ,重症
ンデミックにどう対処する? TRC EYE, Vol.216,2008,東京海上日動 リスクコンサルティング株式会社, 新型インフルエンザ・パンデミックの脅威
〜正しいリスク認識と急がれる事前準備〜 海外危機管理 特集レポート 新型インフルエンザ特集号 Vol.1,2007.3.30,株式会社損保ジャパン・リス クマネジメントBCM事業本部危機管理事業本部.
5) 基礎疾患(持病)は,慢性呼吸器疾患(喘息等),代謝性疾患(糖尿病等),
慢性心疾患,腎機能障害,免疫機能不全,妊婦をさす。
になることもありうる。
本来,世界中で警戒していたのは,強毒性の鳥インフルエンザが人から人 に感染する新型に変異することであった。新型インフルエンザの発生は,時 間の問題とされ,強毒性インフルエンザのパンデミックにより,人口の4分 の1が感染し,最大64万人が死亡すること推測されていた。豚インフルエン ザが変化する新型は想定外であったが,強毒性の鳥インフルエンザが新型に 変化する危険性は変わっていない。さらに,豚インフルエンザが人の体で感 染・増殖を繰返すうちに,強い病原性を獲得する可能性もある。
強毒型は,H5
N1,H7 N7,H7 N3,H9 N2などで,全身でウイルスが増
殖し,現在のところ,鳥から鳥,鳥から人への感染にとどまっており,人か ら人への感染はまだ限定的で持続的ではない。致死率 は,ニワトリの場合 ほぼ100%,人の場合61%とされる。弱毒型は,H1
N1, H2 N2, H3 N2などであり,鼻,喉,または肺など呼
吸器でウイルスが増殖し,人から人への感染が常態化している。致死率は,スペイン風邪2〜3%,アジア風邪0.2%以下,香港風邪0.2%以下,季節性 インフルエンザ0.1
%以下である。
通常のインフルエンザは,鼻や喉に限局して感染するが,H5
N1型ウイル
スによる新型インフルエンザに感染すると,ウイルスが肺の奥深くに入り込 み,肺を侵して,血液に侵入し,全身に広がる。その結果,脳炎の発症をは じめ,心臓,肝臓,腸などあらゆる臓器の機能を不全にする。H5N1型イン
フルエンザの場合には,サイトカイン(免疫細胞間情報伝達物質で蛋白質分 子)が過剰になるサイトカインストームを発症するため,免疫活性が低い年 配者よりも免疫活性が高い若い年齢層のほうが被害を受けやすい。6) 致死率は,発病者の中で死亡するものの割合である。罹患率は,ウイルスに 感染して実際に発症した患者の割合をいい,感染しても発症しなかったり,発 症しても症状が極めて軽かったりしたものを含めた感染率とは区別して使われ る。なお,感染性は,インフルエンザに感染しやすいかどうかであり,死者数 とは直接関係ない。病原性は,感染した時に疾病を引起す可能性が高いか低い かを示し,毒性とほぼ同義で用いられる。
⑶ 現状のワクチン効果と治療法
現在,新型インフルエンザに対処するために使用できる手段は,抗インフ ルエンザウイルス薬投与とワクチン接種の2つしかない。ただし,現行のウ イルスが突然変異や他のインフルエンザウイルスとの交雑によって,重症化 防止に効果のある抗インフルエンザ薬に耐性を持つ可能性は常にある。その ような場合に,感染者の重症化が増大すると,影響が多方面に拡大するリス クが生じることとなる。
現状の季節性インフルエンザワクチンおよびプレパンデミックワクチン については,型の違うウイルスに対しても,すでに免疫ができていると免疫 が成立しやすいブースター効果がある。毎年,インフルエンザワクチンを接 種していると,新型インフルエンザに対しても,免疫ができやすくなる効果 は期待できる。
型が違うウイルスに対してもワクチンの効果があることを交叉免疫という。
プレパンデミックワクチンは,新型インフルエンザに対して免疫効果があま り期待できない場合もあるが,交叉免疫によって多少症状が軽くなる可能性 がある。
理想的な対処方法は,感染中断免疫であるとされる。新型インフルエンザ に感染した場合(資料1),発熱12時間から24時間以内の症状が軽いうちに
Oseltamivir
(リン酸オセルタミビル,商品名:タミフル:Tamiflu,カプ セル薬)やZanamivir
(ザナミビル水和物,商品名:リレンザ:Relenza, 吸入薬)などの抗ウイルス薬を投与し,症状とウイルス増殖を抑えて,治癒 させてしまう。その結果,新型インフルエンザに対する強い免疫ができる。7) 鳥から人へ感染した事例から分離抽出されたウイルスをもとに生産されたワ クチンをプレパンデミックワクチンといい,新型インフルエンザのワクチンで はない。実際にパンデミックが発生した場合には,パンデミックの原因となっ たウイルスを使用して製造されるパンデミックワクチンが用いられる。パンデ ミックワクチンの製造には,パンデミックが発生してから少なくとも6か月間 はかかる。国民すべてに行き渡る量のワクチン製造には,1年半程度の時間が 必要とされ,最初のパンデミックには間に合わないという事情がある。
ワクチンと異なり,実物のウイルスに感染して成立した免疫は強力でパンデ ミックの期間中,新型インフルエンザに罹患する可能性は全くなくなる。こ の治療法を成功させるためには,抗ウイルス薬がタイミング良く投与される 必要がある。
⑷ 過去のインフルエンザ流行に基づく認識
有効な新型インフルエンザ対策を実施する上で,これまでのパンデミック から得られる教訓としては,以下のような事象が山本太郎医師によりまとめ られており,今後の対策を検討するに際し重要な指針となる 。
・新型インフルエンザ流行の様相を正確に予想することは不可能である。過 去のデータからは,症状の重篤性,致死率,流行拡大の様相は,事例ごと の状況により大きく異なっている。
・流行の態様は,新型インフルエンザごとに異なるが,一旦流行が始まると,
患者の発生は,数週間以内に指数関数的に増加する現象がみられる。急激 な患者数の増加は,既存の医療機関の患者受入能力をはるかに超えるもの となる。
・通常の季節性流行インフルエンザとは異なり,新型インフルエンザは,社 会の中核を構成している成人を直撃する。1918年の新型インフルエンザ
(スペイン風邪)は,働き盛りの若い年齢層が大きな被害を受けたことに よって,社会の機能を維持するために必要な基本的機能が麻痺してしまっ た。
・新型インフルエンザの流行は,数次の波に分かれて社会全体を襲う。流行 の第1波で影響を受けなかった人たちや地域も,第2波の流行によって甚 大な被害を受ける可能性がある。
・新型インフルエンザは,アジア地域で発生し,世界中に拡大する可能性が 高い。人と鶏や豚などの家畜が近接して暮らすアジア地域の生態系が,新
8) 山本太郎 新型インフルエンザ 世界がふるえる日 (岩波新書)岩波書店,
2006年9月,93‑95ページ。
型インフルエンザの発生に適しており,特に中国南部が過去より新型イン フルエンザ誕生の地であった可能性が高いといわれている。
・集会の禁止や学校の閉鎖などの公衆衛生学的対策は,新型インフルエンザ の流行拡大を遅延させることはできても,拡大そのものをくい止める手段 ではない。検疫も,一部の例外を除いて,過去の新型インフルエンザの流 行拡大にはほとんど影響を与えていない。ただし,公衆衛生学的対策によ って新型インフルエンザ流行の拡大速度を遅延させることが,社会に利益 をもたらすことは確実である。たとえば,①医療機関を受診する患者数を 平均化することにより,医療システムの破綻を防ぐことが可能となり,② ワクチンの開発が開始されてから実際にワクチンが接種されるまでには,
時間的に6か月が必要であり,その時間を稼ぐことが可能となる。
3.新型インフルエンザ国内感染症対策の問題点(資料2)
⑴ 水際対策・検疫態勢の不備
インフルエンザは,まず第1に,感染しても症状が出ない潜伏期間が最長 1週間あり,短期間の旅行や出張で帰国する人は検疫で把握することが難し く,検疫をすり抜けることになる。第2に,航空機内の検疫は,インフルエ ンザの感染が広がっている国や地域からの直接の帰国者が対象で,これらの 国から別の国を経由して帰国した場合には,検疫対象とはならない。WHO
(世界保健機関)も,①機内検疫には疾患の広がりを減らす機能はない,② 国際交通に大きな影響を及ぼす方策をとる国は,WHOに公衆衛生上の理由 および効果があるという証拠を提出しなければならない,という見解を示し ている。効果に疑問のある機内検疫のために動員されている多くの医療関係 者の労力と必要な機材に使われている資金は,国内感染の広がりを想定し,
発熱外来対策を中心とした国内医療態勢の整備に向けられるべきであること が指摘されている。今回の新型豚由来インフルエンザにおいても,国内への
9) 木村もりよ 国の感染症対策は間違いだらけ 週刊 エコノミスト 毎日 新聞社,2009.10.6,42ページ。
侵入を前提に注意を呼びかけていれば,もっと早い段階で集団感染が確認で きた可能性があるともいわれている。
問題は,半世紀以上も前に作られた検疫法が現在も生きていることにある。
検疫法は厚生労働省が所管しているが,国内で患者が発生した後は,都道府 県が実質上の実施主体である感染症法による対応となる。新型インフルエン ザが検疫法に含まれている以上やむをえない処置である。社会機能を麻痺さ せるような感染症については,新たに法律を制定し,厚生労働省が直轄で国 内対策に取組める態勢の構築が必要である。
公衆衛生は公共財の典型であり,政府の果たす役割が大きい。地域によっ て人口,行政部局や医療機関の規模が違い,自治体がとるべき対応は異なる。
国は,地域特性によって自治体に対応策を指導すべきである。健康危機管理 の要諦は,迅速性と柔軟性であり,応変性を欠けば,社会に混乱を広げるこ とになる。
⑵ 国内の感染症対応態勢の整備
新型インフルエンザ対策行動計画 と 新型インフルエンザ対策ガイド ライン は,強毒性のインフルエンザを想定したものであり,弱毒性の新型 インフルエンザ(H1
N1)に対しては誤った対策となる。豚由来インフルエ
ンザの発生時には,これらに基づく検疫偏重の水際対策が実施された。メキシコでインフルエンザの流行が確認された時点で,政府は,①流行し ている感染症はインフルエンザであるのか,②インフルエンザであれば,そ のウイルスはどのような型であるのか,③罹患者の症状はどのようなものか,
④死亡率,感染率はどの程度か,について疫学情報の収集を行うべきであっ た。
インフルエンザの疫学情報は,WHOや
CDC(Center for Disease Con- trol and Prevention
:米国疾病予防管理センター)などから直ちに発信さ10) 岩崎恵美子 間違いだらけのインフルエンザ対策 (日文新書)日本文芸社,
平成21年11月,30‑38ページ。
れ,それらを総合的に判断すれば,病状の実態は,豚由来のインフルエンザ であり,季節性インフルエンザと同程度であることが判明した。しかしなが ら,政府は,新型インフルエンザとして感染症法により対応し,重篤な感染 症であるニ類感染症に分類して取扱うことが決定され,混乱を生む結果とな った。
発展途上国で感染症の流行が判明し,認識されたことが報道された時点で,
すでに実際の流行からかなりの時間が経過しており,想像を超えた被害が出 ている可能性が高い。インフルエンザという感染症の特徴は,感染力が強く,
潜伏期は短く,人から人へ感染しやすいことである。インフルエンザの発生 地域と人の交流がある地域では,拡大が始まっていると考えるべきであった。
特に,メキシコと米国との間の人的交流は極めて日常的で,米国と人の往来 の多いのがカナダである。したがって,メキシコで発生した豚由来のインフ ルエンザは,米国内からカナダへ感染経路として感染拡大することが予測さ れた。しかし,日本では,患者の発生しているメキシコまたは米国からの入 国者の検疫のみを対象としていた。今後,新たなインフルエンザが出現した 場合には,発生地域と日本の関係だけでなく,当該国と関係の深い地域の流 行情報をいかに正確かつ迅速に把握するかが課題となる。
空港での水際対策については,SARS(Severe Acute Respiratory Syn-
drome
:重症急性呼吸器症候群)の発生時,SARSウイルスが感染するの は,患者に熱がある時に限られているため,サーモグラフィー(体温チェッ ク)が有効であった。しかし,何ら症状が現れていない段階から強い感染力 を持つインフルエンザウイルスの場合には,対処方法が異なることに注意し なければならない。SARSは,症状が出始めてから感染力が高まるまでに 1週間程度を要し,発病しない無症候性の感染がほとんどないため,検疫や 隔離など公衆衛生上の施策による蔓延防止対策が有効とされる。これに対し,新型インフルエンザは,感染から発症までの期間が1日から4日程度と短く,
症状が現れる前から大量のウイルスを排出するため,発熱等の症状が現れた 時点では,すでに他の人に感染させている可能性が高く,検疫や隔離によっ
て阻止することは非常に難しい。したがって,新型インフルエンザのパンデ ミックが発生すれば,SARSよりも大きな影響を及ぼすと予想されてい る 。
4.パンデミックに対するリスクマネジメントの取組み
⑴ 新型インフルエンザ災害の特徴と事業継続計画 (BCP) の策定
新型インフルエンザによる災害の特徴としては,①人のみが被災し,初期 の段階では物的な影響は出てこないが,人的被害の拡大に伴い,次第に全て の面で大きな影響が生じ,実損がなくとも経済的損失は発生すること,②パ ンデミックは,波のように繰返し段階的に押寄せ,長期間に及ぶこと,③感 染は広い地域に急速に拡散すること,④医療体制や行動の規制など,国・自 治体の対応に依存して対処する度合いが大きいこと,が挙げられる。パンデ ミックにより引起される具体的な事態としては,①上下水道,ガス,電気,
通信等のライフラインにおいて,復旧・運用要員の不足により,緊急対応に 遅れが生じるリスク,②交通機関が運転を制限されると同時に,運送事業者 の欠勤により,物流が停滞するリスク,③資材や食料が不足し,工場での生 産停止を余儀なくされるリスク,④本人が罹患しなくとも,家族を失い,職 場に復帰できるまでに時間を要するリスク,場合によっては精神的にカウン セリングを必要とするリスク,⑤正しい情報が得られずにパニックに陥るリ スク,などが想定される。
このような事態の対処において,企業は,パンデミックによる経済への影 響を最小限に抑え,事業を継続していくために,事業継続計画(BCP:
Business Continuity Plan
)を策定することが求められる。特に,感染の拡 大により欠勤者が増加した場合を想定し,優先度の高い事業に絞って維持・継続することを事前に検討しておかねばならない。なお,自社一企業だけで なく,社会全体が同様の状況に陥ることを考慮した取組みも必要である。
11) ローリー・ギャレット パンデミックは防げるのか Newsweek (ニュー ズウイーク日本版),May20, 2009,22ページ。
新型インフルエンザに対して
BCP
を策定する際には,判断・意思決定上 困難な点も種々存在すると考えられる。被害・影響の範囲が広範囲にわたる ため,BCPを策定する上で,緊急時における重要業務の優先順位付けは重 要な要素である。最も影響度が高いシナリオを中心として,複数のシナリオ を特定し,各段階での想定に基づき実施することが効果的である。事業影響 度分析(BIA:Business Impact Analysis)は,個別業務毎に当該業務が 中断した場合の事業全体への影響を定量的・定性的に評価する方法である。一般的には,部署・事業所毎に停止時間を3時間中断,1日中断,1週間中 断などに設定・分割して評価することが多い。BIAによる分析は,緊急時に 継続または早期に復旧しなければならない業務を事前に明らかにすると共に,
緊急時において限られた経営資源を優先業務に集中的に割当てることに役立 つ。
厚生労働省から 新型インフルエンザ対策行動計画 が公表されているが,
たとえば,フェーズの移行により,海外に拠点を持つ企業では,当該拠点が 感染発生地域に近い場合には,新型インフルエンザの国内発生が無くとも,
社員の移動が制限される可能性がある 。さらに,新型インフルエンザが国 内発生した場合には,症状によって事業活動の自粛または自宅待機を余儀な くされることになる 。したがって,これらのフェーズによる対応策を前提 12) 医療現場では,①死亡者の最小化,②重症者が手遅れにならないように処置 をすること,③医療機関の役割分担,④医療機関の受入れ態勢を整えること,
⑤軽症者への対応に振り回されないこと,が重要となる。基本的に,医療機関 が機能不全に陥ることを防ぐには,軽症者が外来受診を控えることが必要であ る。
13) 国内における感染症の発生段階は,前段階(未発生期),第1段階(海外発 生期),第2段階(国内発生早期),第3段階(感染拡大期,蔓延期,回復期),
第4段階(小康期),再興期(第2波)の過程を経ながら進行・終息を繰返す とされる。WHOによるパンデミックインフルエンザフェーズは,フェーズ 1−3(大部分の感染が動物で,人の感染は僅か),フェーズ4(人から人へ の感染が持続),フェーズ5−6(人の感染が広範囲に拡大),ポストピーク
(周期的に感染が拡大する可能性),ポストパンデミック(疾病の活動性が季節 性化)として示されている。
として,企業は
BCP
を策定することが必要になる。特に,WHOのフェー ズは,海外での企業活動では明確に認識すべきであるが,国内での対策は,政府の行動計画で定められた段階に対応して判断すべきである 。
国の対応計画は,弱毒性を前提とした対応に切替えるまでは,強毒性を前 提に策定されたものであった。WHOも,新型インフルエンザの流行度合い を示すフェーズの判断基準を地理的広がりに着目して作成し,ウイルスの毒 性の強さを考慮していなかったため,感染状況の実態を適切に公表している とはいえなかったが,その後ウイルスの毒性の強さを重度,中度,軽度の段 階で示すようになっている 。
⑵ 新型インフルエンザ感染拡大防止対策としての交通機関の利用抑制 新型インフルエンザの流行を想定して,2008年12月22日に国土交通省が実 際の鉄道車両を使用して拡大防止対策の実験を行った。
国立感染症研究所は,新型インフルエンザを発症した患者が1人鉄道に乗 車すると,1週間のうちに12万人に感染が拡大する可能性があるとしている。
しかし,車両や駅構内で,乗客同士の間隔が1ⅿ離れると,感染はほぼ100
%防げるという。国のガイドライン案では,感染の原因となるせきやくしゃ みによる唾液飛沫は,1〜2ⅿで落下するとされる。他の乗客からこの距離 だけ離れれば,理論上は感染リスクが低下することになる。
感染拡大を防止するには,乗客同士が少なくとも1ⅿの間隔を空ける必要
14) 新型インフルエンザ行動計画指針に基づく蔓延防止のための国内発生初期の 政府対策は,時差出勤,自転車や徒歩による通勤,学校・保育施設等の臨時休 校・休園,住民の外出自粛,集会やスポーツ大会等,イベント活動・開催の自 粛,学校や施設の臨時休業,企業による不要不急の業務縮小,不要不急の外出 自粛,公共交通機関の利用者へのマスク着用の呼びかけ,などである。
15) 有限責任監査法人トーマツ デロイト トーマツ リスクサービス リスク インテリジェンス・カンパニー 2009年12月,186‑187ページ。
16) 国土交通省国土交通政策研究所 新型インフルエンザ・パンデミック対策と しての都市交通輸送人員抑制策の有効性の検討及び実施シミュレーションに関 する調査研究 (http://www.mlit.go.jp/pri/adobaizari/index.html)。
があると考えられており,国土交通政策研究所が実際に東京メトロの車両を 用いて実験を行った。実験では,乗客を1ⅿずつの間隔で乗車させ,乗降に 要する時間および実際に何人乗車させられるかの検証が行われたが,通勤ラ ッシュ時に,誰がどのような権限で乗車を制限するのかなど,現実的な運用 の目途は全く立っていない。混雑度を引下げるか,全面運休するのかなど具 体策の実施には,公共交通機関と関係省庁の協力体制が不可欠である。
国土交通省の試算では,1ⅿ間隔での乗車制限を実施すると,通勤ラッシ ュ時で1車両に通常の2割程度約40人しか乗車できなくなり,経済活動の大 きな影響を与えることになるのは確実である。パンデミック時に鉄道の輸送 能力が低下して都市部への流入人口が減った場合,企業活動にも影響が出る ため,経済規模を縮小しながら,いかに社会機能の破綻を防ぐかを検討する ことが課題である。
おわりに
新型インフルエンザ対策は,地球規模での国家危機管理問題との認識に立 ち,健康 危 機 管 理 ま た は 公 衆 衛 生 危 機 管 理(public health crisis/
emer- gency management
)の最重要課題の1つとして対応することが求められ る。新型インフルエンザ対応の目的は,①健康被害を最小限にとどめること,および②社会機能の破綻・崩壊を防止することであり,一国だけの対応では 不可能であり,国際的な協働・協力態勢により戦略的に実施することが不可 欠である。
新型インフルエンザについては,発生地域,流行するウイルスの型,病態,
感染した場合の重篤度,死亡率など,実際に発生してみないと分からない要 素が多く,状況に応じて柔軟に対処内容を変えることができる対策が必要で ある。特に,我々にとって重要な認識は,ウイルス対策をすることではなく,
人々への感染症対策を実施することが優先課題となる点である。
感染者の拡大だけがリスクではなく,対策実施の如何によっては,一層状 況を大きく変化させるリスクがある。物的に直接損害をもたらす地震などの
自然災害と異なり,新型インフルエンザが及ぼす影響は,政府,企業,学校 などのとる行動内容によって,結果的に大きな違いが生じる。社員や人の生 命を守り,社会的責任を果たすためにも,組織・企業のリスクマネジメント の質が問われることとなる。組織・企業が構築した新型インフルエンザ対策 は,今後バイオテロリズムをはじめ,リスクマネジメントシステムとしての 展開が期待でき,必ず組織の価値や企業力の向上に繫がるものである。
(筆者は関西大学政策創造学部教授)
(資料1)ウイルス遺伝子検査(PCR:Polymerase Chain Reaction)
ウイルス感染を確かめる遺伝子検査技術が,PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)法 であり,微量のDNAの複製に関与する酵素であるポリメラーゼを用いて,生物 の遺伝情報を記録した遺伝子を増幅させて調べる方法。新型インフルエンザの判 定では,簡易迅速診断キットにより約15分でA型かB型か,またはそれ以外かを 調べ,さらに詳細な型をPCR検査で判定する。
A型の場合は,詳細検査に進み,陰性でも症状から医師が疑いを持った場合も 含める。A型にはH1型とH3型があり,詳細検査は,PCR法により人の季節性イ ンフルエンザの香港型(H3型)かどうかを6時間ほどかけて調べる。ここまでは,
空港の検疫所などでもできるが,同じH1型である新型と季節性インフルエンザの ソ連型を区別できないことが多い。
もし香港型でなければ,国立感染症研究所の確定検査に進む。改めてPCR法に より新型かソ連型かを確かめる。科学的に断定するには,遺伝子の配列を比較す る検査が必要であるが,1日から2日かかるため,厚生労働省はPCR法の結果だ けでも新型であれば,確定を判断する。国立感染症研究所は,処理能力が限られ ており,A型の感染例すべてに対応できないため,自治体などで絞り込む。新型 とソ連型を区別する国立感染研究所が開発した遺伝子断片が配られれば,同じ検 査ができるが,厚生労働省は,習熟度の問題などから国立感染研究所のPCR法検 査をもって確定としている。
(資料2)新型インフルエンザ感染拡大の状況(2009年)
4月24日 米国疾病対策センターが人から人へ感染する新型の豚インフルエンザ ウイルスの発見を公表
5月9日 カナダから成田空港に帰国した男子高校生3人の感染が判明 5月16日 神戸市で海外渡航歴のない高校生の感染が判明,初の国内感染発生
6月11日 WHOが世界的大流行を宣言
6月19日 厚生労働省が,感染者を一般医療機関で診療,軽症者は自宅療養とす る改定運用指針を決定
7月21日 国内感染者数が,5,000人を超す
8月15日 沖縄県の57歳男性が死亡,国内初の死亡者
8月21日 国立感染症研究所が,新型インフルエンザの流行期に入ったことを示 す調査結果を発表
参考 献(順序不同)
・ 新型インフルエンザ対策行動計画 鳥インフルエンザ等に関する関係省庁対 策会議,平成19年10月改定。
・ 新型インフルエンザに関する検疫ガイドライン 新型インフルエンザ専門家 会議,平成19年3月。
・ 新型インフルエンザ対策(フェーズ4以降)におけるサーベイランスガイド ライン 新型インフルエンザ専門家会議,平成19年3月。
・ 新型インフルエンザ発生初期における早期対応戦略ガイドライン 新型イン フルエンザ専門家会議,平成19年3月。
・ 新型インフルエンザワクチン接種に関するガイドライン 新型インフルエン ザ専門家会議,平成19年3月。
・厚生労働省 新型インフルエンザ対策関連情報
(http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kakkaku‑kansenshou04/)
・外務省 鳥及び新型インフルエンザ
(http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/kansen/influenza/)
・国立感染症研究所感染症情報センター
(http://www.idsc.nih.go.jp/disease/swine influenza/index.html)
・国立感染症研究所感染症情報センター インフルエンザ流行レベルマップ (https://hasseidoko.mhlw.go.jp/Hasseidoko/Levelmap/flu/index.html)
・全国保健所長会 新型インフルエンザ対策のページ (http://www.phcd.jp/shiryo/shin influ.html)
・東京都感染症情報センター (http://idsc.tokyo‑eiken.go.jp/)
・海外勤務健康管理センター(独立行政法人労働者健康福祉機構)
http://www.johac.rofuku.go.jp/
・小樽市保健所・外岡立人所長サイト http://homepage3.nifty.com/sank
・U.S.Department of Health & Human Services http://www.pandemicflu .gov/
・ 健康危機管理基本指針
(http://www1.mhlw.go.jp/houdou/0901/h0109‑1.html)
・ 感染症健康危機管理実施要領
(http://www1.mhlw.go.jp/houdou/0904/h0403‑5.html)
・岡田晴恵編,速水融・立川昭二・田代眞人・岡田晴恵著 強毒性新型インフルエ ンザの脅威 藤原書店,2006年。
・河岡義裕・堀本研子 インフルエンザパンデミック 新型ウイルスの謎に迫る
(ブルーバックスB‑1647)講談社,2009年9月。
・和田耕治 企業のための新型インフルエンザ対策マニュアル 東洋経済社,
2008年。
・外岡立人 新型インフルエンザ・クライシス (岩波ブックレットNo. 682)岩 波書店,2006年。
・稲葉寿編著 感染症の数理モデル 培風館,2008年。
・岡田晴恵 H5N1型ウイルス襲来 新型インフルエンザから家族を守れ 角川 SSC新書,2007年。
・皆川正夫 ウイルスパニック 新型インフルエンザ,大感染の恐怖 マイコミ 新書,2008年。
・河岡義裕 インフルエンザ危機 集英社新書,2005年。
・NHK 最強ウイルス プロジェクト 最強ウイルス 新型インフルエンザの恐 怖 NHK出版,2008年。
・マイク・デイヴィス著,柴田裕之・斎藤隆央訳 感染爆発 鳥インフルエンザの 脅威 紀伊国屋書店,2006年。