美濃新聞記者時代の三木露風
著者 家森 長治郎
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 25
号 1
ページ 1‑16
発行年 1976‑12‑25
その他のタイトル Rofu Miki as Pressman of the Mino‑Press
URL http://hdl.handle.net/10105/2559
美濃新聞記者時代の三木露風
家 森 長 治 郎 (国文学教室) (昭和51年4月30日受理)
安部宙之介氏の「露風の美濃新聞時代」 ( 「日本文学研究」第6号、昭和41年12月発行。 『続・
三木露風研究』所収)は、従来不明とされていた露風の美濃新聞時代の動静を明らかにした画期 的な論文であった。その後、新しい資料の発見もあって、安部氏の論文をいくらか補うべき必要 が生じてきたようである。私は新しい資料の紹介をも兼ねて、露風の美漉新聞記者を勤めた期間 について考察したい。
1
岡山市で雑誌「白虹」を編集発行し、その後、尾道市の赤沢幾松(号′ト琴)の発行誌「′ト琴」
wtm*
の編集をしていた入沢涼月(本名恕次)が、親友内海泡沫(本名信之)に宛てた明治39年8月 (推定)26日付けの書簡(1)の中で、三木露風を批判して次ぎのように述べている。
本手紙は火中の書に願上候
去る二十五日出の御はがき拝見仕候いつもながらなつかしく再読致し候昨今の暑さ殊の外き びしく堪え兼ね候然るに益々御壮健何よりの事に御座候芳水君は二十四日未開毎夜久しぶり に快談致し居り候人見君は放あって今年は帰らず石井原田君はか‑られ居り候いやはや地方 に居てはどうしてもすべての文芸上の見聞が遅く古く連中の話を聞きいかさまと頭をうなだ る事多々有之候原田君は病気の為目下神戸にあり候石井君は郷里津山に人見君の「白鳩」も 一寸休刊否永久の休刊かも知れず候(中略)而し九月になれば又復活する様子に候〔注、「白 鳩」は明治39年5月10日発行の第2巻第4号を最後に永久の休刊となっ(2)〕(中略)
左に三木君の事少々申上候中上ざるかと思ひ居候へ共呆きれはて候間一寸参考の為め御知ら せ致し候最早二度と上京するまじく「新声」では承知かも知れざるが記者河井君に痛棒やら れ文士連中よりは黙殺され今は一寸とも東都の雑誌に寄稿が出来ざる由に候女学生とはか,
り逢ひ国元からは金を送らず兄が上京して三木を調査する等彼が行動する万事実に評言に苦
^B巳
しむ程に俣柴舟とは絶交されて目玉を頂戴しだれかれとあねつけられ居たる由に候文界のバ
)iibii‑g
チルスとはこの人間の事に候而るにこの先生が帰省の途時「新文芸」に立寄たるはどうです 彼も随分喋々した様子に候がこの人間の言に左右されし小木曽も可笑しく候この人間に紙を つぶすはばちあたりするからこれで筆をとめ候(中略)
次号〔家森注、雑誌「小琴」の次号〕は九月十五日頃発行原稿今月末までに噺上候(下略) 二十六日 療 月
泡./'末 君
上の書簡に述べられている三木露風の動静は、東京から帰省した有本芳水・原田ゆづる・石井楚 江等から聞いた情報を元にしたものと思われる。 「今は一寸とも東都の雑誌に寄稿が出来ざる由 に候」との表現を裏書きするかのように、明治38年の10月から12月までは、露風は殆ど毎月「文 庫」 「新声」 「新潮」等に詩歌を発表しているのに、39年には、 「文庫」 1 ・2月号、 「新声」
1
1月号より6月号まで、 「国詩」 1 ・ 3月号、 「婦人世界」 7月号に、その作品が掲載せられて いるが、以後数箇月間、東京で発行されている雑誌から露風の作品は姿を消すのである。
正吉注洋が「露風の恋」 ( 「埠蟻」三木露風追悼号、昭和40年12月29発行)で述べている次 の部分は、上の涼月書簡に記されているころの露風についての思い出を記したものと思われる。
三木だって、国からの送金が絶えたので、下栢屋の支払いが不可能になった。その頃は、
下宿料の払えないものは、入口に氏名を記した木札を出した。私は二三箇所の下宿で三木操 の名札を見た。 (中略)一時は、東京を呪い、人を厭って、或時、東京を去るのを見送って 駅頭で別れる時なんか、私の友情を感謝し、 「東京の馬鹿」と呼んだ。三木の家から送金が
断絶したのも、父の許さぬ恋によるものと私は思う。
正吉注洋に宛てた次の二葉の露風のはがきは、上の江洋に見送られて東京を去る前後のものと思 ゎれる(3)
(‑)明治39年7月26日(はがき)
表 市内芝区愛宕下町二ノ二 岩田方 正富江洋様 出立の前日朝、本郷区駒込 露 風生
消印 駒込 39‑ 7 ‑26 后3‑4
拝啓先日は失礼いたし候借愈々明二十七日午后七時三十分の列車にて西下いたすことに決定 いたし候君と別盃を汲みし夜の感慨今更に思ひ出でられて慾をおぼえ申候御見送りの節は直 接新橋へ御出被下度‑一・一一時間程前より御出の程願上候我れの君を思ふことはふかし男子を送る の男子を君に見るをよろこぶ魔くぼ音信を怠るなかれよ雲は連荘たり我れ去らざる可からず 又会はうねえ! 〔圏点家森〕
(二)明治39年7月28日(桃色椿の絵はがき)
表 東京市芝区愛宕下町二ノ二 岩田氏方 正古庄洋兄 静岡の客合にて 露風生 わざわざの御見送りを謝すェビ茶の尻に押つめられて席に堪えず下車いたし候旅館の一夜感 慨多少也別れの夜十二時半したたむ
2
上掲のはがき(‑)の「君と別盃を汲みし夜の感慨今更に思ひ出でられて愁をおぼえ申候」と あるのは、これより前に本郷駒込千駄木町の露風の下宿で、注洋と別れの盃を汲み交わしたこと を述べたもので、三木家所蔵の若き日の露風の作昂を収めた切抜帳に、注洋の「別盃‑三木露風 君と飲む‑」とこれに応じた露風の「詩酒高歌一正富注洋君と別る‑」があるが、両詩はその時 の作と思はれる。注洋の「別盃」は85行より成り、露風の「詩酒高歌」は98行より成る力作であ るが、掲載誌紙は不明である。このごろの露風は、姫路の「鷺城新聞」に盛んに作品を発表して いるので、両詩は共に「鷺城新聞」に掲載せられたものであろうか。次に両詩を掲げる。
別盃‑三木露風君と飲む‑ 正富江洋
「一杯一杯また一杯」 飲めば知るかも
!ニいはい
李太白が酔のこ、ちを 眉あげて大杯あげて
しよく
君に嘱す 君は東都に
たゞ一人ある 意気の子や‑
・'こ H I'蝣‑*
単躯 満都の詩人を その紅の唇に の、しりにらみ つ、たちし面影みれば
かつこう
喝仰のバイロンをLも まのあたりみるおもひすれ おもしろや‑
戦勝国の文壇の 何とてかくはさびしきや 詩人とはこれ細筆に 女文字するたはむれか
しLん男をんなに化することか 白日女人の服つけて
によにん顔よそほうて行くことか あ、君涙なからでや‑
Lktiんし
か,る間におかむには 除り熱ある真男子
いはゞ火を噴く山あるか あ、ふさほじと敢ていふ 今の日本の文壇や 桃のはなさく雛壇に
かくしん
寸ばかりなる楽人の 舞ふにもにずや はぢならぬかは‑
沈滞し腐りはてたる 水うけて硯にそ、ぎ
いたずらに平和となづけ 酔はんことなど得堪へんや
しんく
丈夫児の君が真紅の 血汐もて
塗らばあかんか文学史 願くぼ君その意気を 失ふなかれねがはくば わかき倣りの眉あげて 戦かたれ此膏を‑
君とし飲めばめにみゆれ 人の知らざるうまし国
くわんはく うた
歓伯あふる詩の国 勢ひ満てる若き子が
立ち舞ふさまのありありと あ、この国をみうるもの
1jニ
いくそありとし問うてみん 君みよ詩人と倣る子の
t :I:
夢に入るもの何と知る きたなといひて面そまる 君が胸なる歌の絃 ひけば奇しかる声たえず
耳を掩うて逃ぐる子の さまこそみゆれ
.
あ、快や君その酒を 疾くほして歌へ
ひHL よは
美音によき夜半を‑
蝣ォ
大杯あげて君に嘱す 男子の歌に高う立て 日本の文士ことごとを
め ヽ
君を送るに女々しかる 君が行く播磨の国の
f
鳴る胸や捲きてかへして
真男子君うべなふか の、しるものはの,しらる
‑.
足にぞよして壇う立て 歌はもたぎり
みかしはのしはのどよみと
かへしてまきて揺れ天地を
JKBKKBflに=
め,世を咽ふ歌あらば われにきかせよひんがLに なすある時をまちぬべく 恋にかくる,一人に
F,やうぷぢ
あ,丈夫児よ、今は行け 丈夫の歌をなしてゆけ
「人にはみすな小さき子に」 あ,眉あげで供しといふ
泌ォa凹 KX
その顔見ぬも一年か さらば病まずて雄しくも
EMJIE
群雄踏まん時を待つぞ さらばさらばさらば‑
詩酒高歌‑正富庄洋君と剃る‑ 三木露風 千駄木の僑居 月明の一夜
楼に在って君と別る 眉あげて大杯あげて
L上く・ き
喝すとや、あ、快男子 蚊はなきも星は高し 酒置いて君としあれば 酔心地、何かまた世に
/ニ
足らはぎる‑0
かうしやう わJJ
よいかな、君の高声に 罵り晒ふ歌のさま
<2^mt
忽ちに筆を染めて 尽す五枚、墨汁は飛んで 杯をひたしぬ、あ,快や 詩は今、成れり我為の
うた Liんほく
別れといふに雄々しかる 詩のすがたよ、奔淳の 雄偉にLも鷺へつべく‑O
L'rl廻
売名の小詩人は 狗に似たり、
婚俗の飴文士は 恰も木の葉の如し‑
as ロE9 ト
然も狗や木葉や喝る口に賓を称ふ 片々たり、喧々たり、耳を乱って 文壇を圧す、 美を説き芸術を説き、口を拭って
さかしらに愛を語るの徒 あ、凡俗が跳梁の か,る間に君を置く 嘆きや、さあれ‑0
Emu
真男子君振り返り 会心の友に言を間へ
寸
‑代物ねし奇橋児の 意気を求むる男ぞ一人 火を踏んで義を思ふ これや君に相合ふこ,ら いざ手を取って 我れと共に
罵り立たむ。
ま
見よ東方の芙蓉岳 玲増として空を摩すを
しんだい (ママ,
神代より伝って此邦の山河美なり 然かも剣を按じて歌ふの詩人なく
ぜうぜう や
擾々の子等、故国の偉麗を誤まる 此時に当って覇気懐くが如き詩人
立つとし言はゞ あ、快ならずや君‑
西の国の詩人に 似たりや君のおもかげ
バイロンはしも恋に生き 詩に生き、自由の戦ひに
Ifせ人
国を逐ほれて尚歌‑r) 下磯の子とも愛のためには 拷‑て共に脱がれし シルラ‑や、さこそは君に 狂熱の似しこそ快けれ おもしろやo
よl.;.
君が歌三日に成りし 集、 『夏廟』危ぶくも
しさい か、 ひま
俗吏が焼かむ詩災にぞ 罷るとしつれ、隙を無み 週日にして忽ちに 売尽したる二千冊
しゆ げ
然かも凡々の評家 趣を解せず
什うたい
恋を解せず 驚いて、狂大の罵りを成す 紛々たり、轟々たり 尻馬に乗って 風俗壊乱を呼ばはる。
詩人の行動は天馬空を行く 売名の偽詩人、楕疑を弄し 若しそれ此等の理由を以て 偉魔の山河、八乗の富岳
じんしん けが
尚其れ人心の汚れを償ふに足
mx*.
宰相又善く我思想を妨たげ得んや 屡々隠れて君を傷く
国を逐ふと言はゞ幸福なるかな 東邦の豊土美は美なりと錐も
らんや 只大に笑って去るも可なり。
些か君の為に 咽って気焔を吐く
ゑし/L ちう 1
会心の友の豪を享けよ 酒は冷えたり
そのはい ほ
・..v'.II什二 i¥¥>∴.:ミ・ . 君乾したま‑その酒を 新らたに汲まむ、虹吐いて 歌へ美音に、高らかに‑
・ こti * ・、 ▲、
別れむも塘て一年 めぐり束ば金鞍おいて 又全はむ‑都大路に 恋男、恋にかくれて
)3とf.
我来るを温和しく待て!O
いざ、さらば もu‑k<r>噸‑)なる
わか
袖を払って別れう
て人 しう
天縦詩閣
sw八月の欄
注洋の「別盃」に「その顔見ぬも一年か」とあr主露風の「詩酒高歌」に「別れむも嫌て一年
めぐり釆ば金鞍おいて 又会はむ‑都大路に」とあるところから察するに、郷里からは学資
金も送ってもらえず、事志と違って帰郷する露風ではあるが、約一一年も経てば捲土重来するつも
りであったことがうかがえるのである。なお、注洋と別杯を汲み交わしたのは七月のことである
のに、 「詩酒高歌」には、 「いざ、さらば 天縦詩閣 稲妻の頻りなる 八月の欄 袖を払って
別れう」 〔圏点家森〕とあるのは、表現上の効果を考えたからか、あるいは、作品発表の時期が
八月に入っていたからかの、いずれかであろう。
3
前掲の入沢涼月書簡に
而るにこの先生が帰省の途時「新文芸」に立寄たるはどうです彼も随分喋々した様子に候が この人間の言に左右されし小木曽も可笑しく候 〔圏点家森〕
とあって、東都の雑誌に作品を発表することができなくなり、事前草社からは除名され、親元か らは学資金も送ってもらえなくなった三木露風は、帰省の途次に、 「山鳩」 〔注、明治37年1月 に創刊した「新文芸」を38年11月発行の第3巻第1号より「山鳩」と改題し、社名は今までと同 じ新文芸社を用いていた〕を編集していた小木曽旭晃(本名周二)を、岐阜県稲葉都南長森村細 畑142番(現在、岐阜市細畑)の自宅に訪ねて、就職の斡旋を懇願したようである。そうして、
旭晃の尽力によって美濃新聞社の記者となることができたが、暫く勤務しただけで辞職してしま うのである。このころの思い出を旭晃は自叙伝『逆境に苦闘して』 (昭和7年4月3日発行、発 行所、岐阜市外南長森村細畑、旭晃自叙伝刊行会)の「忘れ難い交友」の中で、次のように述べ mis
三木露風君 本名は操、兵庫県龍野町の人、詩人としては日本で有数の大家であるから敢 て多くを紹介する必要はなからう。君は丁度前記の有松暁衣君とは,tl同じやうな運命を辿っ た人で、明治39年の夏、私をたよって身の振り方を懇願されたので、大垣の美濃新聞‑斡旋 した。此美濃新聞は現在は美濃大正新聞と改題してゐる。社長は新聞そのものと同様昔変ら ぬ木村作次郎氏であるO 私も木村氏とは眠懇の間柄で時折遊びに行って編集の手伝もしたこ とあり、その頃はまだ大垣の俵町に木村屋といふ旅館も営業されてゐた時代であるが、木村 氏性乗の政治狂が禍ひして家業は不振を極め、私が時々行くやうになってからは、旅館とは 名ばかり、家屋も大分荒廃に傾き、女中も一二人で、偶に栢泊するものは田舎政治家の連中 位で、新聞社は附近の小さな借家に置かれてゐたが、之は体裁だけで、家の中は之も空家の やうな殺風景極まるもので塵芥と紙屑で足の踏場もないほど乱雑な物置然たるものであった。
露風君に来訪の事情を聞いて同情した私は木村社長を説いて食費先方持の月給拾五円出し て貰ふこと、し、兎も角落着いて働かせること.なったが、何をいふにも露風君は土地の事 情に通ぜぬのと血気に逸る功名心もあり、到底田舎の小新聞を丹念にコツコツ編輯するとい ぶやうな性格ではないため、何かにつけて木村社長と円満に行かぬらしく、ソロソロ社長か
・ 、・
ら私の処‑苦情が来るし、 ‑‑H露風からも馬鹿らしくて仕事せる気にもならぬといぶやうな
手紙なので、板挟みの私は大に閉口しいろいろ調停したが、双方共にもはや妥協の意思がな
いと来たので、止むなく退社すること,なったが、然しそれかと云yj、て直ぐ良い行き先があ
るといふのではないから、私は露風君の自分勝手の仕打に一度は怒ったもの,、それでも可
愛想な弟のやうな気がするし、此ま、見すてるのも情に於て忍びぬので、又岐阜へ連れて来
て、駅前の信濃屋旅館に落ちつかせ、上京の目論見を立て, 、愈よ九月の初め君を東京へ送
ること、なったので、出発の前日相携へて岐阜公園から長良川1机亘を散歩しつ,別離を怯ん
だが、初秋の風うすら寒い長良川畔で、 Lはらしく項に咲く月見草を眺めつ,綿の単衣一一枚
で寒むさうに懐へてゐた君の哀れな風姿には、多感な私は心ひそかに泣いた。それは私とて
もまだ親の腔噛りで加ぶるに「山鳩」経営に苦心惨渡で小便銭すらも事欠いた貧乏書生時代
であるから、君一人ではあるが十分に世話する力がなかった為である。それで尾張津島の親
友佐脇紫浪君に頼んで君を東京‑送る旅費五円を出して貰ったほど、当時の私の肺甲斐なさ、
定めし君も呆れたであらうが、それでも之が因縁となって永い間私を忘れず、 「山鳩」に援 助を呑まなかったり、度々上京を促すなど、多感な詩人らしい君の性情は三十年近くの今日 まで忘れ難い印象となってゐるo 尤も大正十一年私が上京した時は君は北海道トラピスト修 道院に在って東京にゐなかった為め会見することもできなかった。
三木露風は帰省の途次に岐阜市外に住む小木曽旭晃を訪ねたらしいが、その日付けは、前掲の 正富注洋宛の露風のはがき(二)によって、明治39年7月28日頃と思われる。注洋に見送られて 27日午後7時30分新橋駅発の列車で西下した露風は、その夜静岡で途中下車し旅館で一泊してい
るのである。したがって、その翌日の28日に岐阜で下車して旭晃を訪ねたことと思われる。
4
小木曽旭晃は当時の思い出を、前掲の「忘れ難い交友」以外に、後年「三木露風追憶‑放浪 時代岐阜における秘話‑」 ( 「生活と文化」 211号、昭和40年2月1日発行)として述べてい る。後者によれば、露風は帰省の途次に旭晃を訪ねたのではなく、神戸市にある親戚の家から旭 晃を訪ねたとしている(4)次に抄出する。
明治四十年の夏十八九牙の小柄な男が僕の処へ訪ねて来た。紺ガスリの単衣に兵児帯とい う書生らしい風采で、僕は三木露風ですがと名乗った。岡山の関谷中学在学中、十七才で詩 集「夏姫」を出版した秀才であることを知っていたので、喜んで迎え来意を聞くと、父は神 戸高商へ入学して実業家として立つよう希望しているが、自分は早稲田の文科‑入りたいた め、父と意見が合わず家を出て今は神戸市の親戚の家に屠るが、生活上‑一時的にも就職の必 要があって、各方面へ運動しているが、なかなかよいロがなくて、困ったあげく岐阜に貴兄 の在ることを思出しお訪ねしたわけだが、岐阜の新聞社‑でも世話してもらえないかという のだ。初対面から就職依頼で面喰らったが、ともかく一度新聞社へ当ってみるというて、・そ の日は一泊させた上で‑まず神戸へ頓ってもらった。そして岐阜日日と濃飛日報‑尋ねてみ たが、目下欠員なしとのことだった。そのころ大垣に美濃新開という田舎くさい新開が発行 されていた。社長は政治家の木村作次郎氏で日刊四頁だが、経営難で主筆山内桜漠氏と、記 者二人だけ、一一人は市内取材係、一人は編集だが、何かの都合で編集者が休むと僕が時々木 村社長に頼まれて出張編集したものだ。 (中略)
そこで木村社長に頼んで露風を入社させることとなり、月給は当分十二円(その頃の下宿 料は一カ月普通七、八円)の約で話がまとまったので露風は喜んで釆岐、僕が大垣‑同道し て社長に紹介し入社に決定した。それからは毎日曜には他に語る友もないため細畑‑来て、
僕と魚釣りに出かけたr上 金華山に登ったり、長良川に遊んだりして親しんだ。
しかし結果はおもしろくなかった。第一に県内の事情がわからない、新聞編集は未経験で ある。二、三カ月やってみたが旧態依然たりでイヤ気がさしてきた、一方社長も期待はずれ で困ったと云うて来た。仕方ないので僕が出張して退社の話をつけ、露風を岐阜へ連れてき て、駅前の信濃屋旅館‑一時下宿させ、その間露風は東京方面の知人数名‑手紙を出して就 職を依頼し、吉報を待っていたところ、幸いにも三島霜川氏が一時世話するとのことで上京
に‑決した。
ところで困ったことには露風は既に懐中無一物でタバコ代もない。岐阜から東京新橋まで
の汽車賃が三円八十銭、それに小便銭一円ぐらいと、さしあたり五円ほどは必要だが、その 頃の僕は月給十五円の貧乏書生で、 「山鳩」の経営や本屋の払いに困っていたほどだから、
既に信濃屋の下栢代も負担し、その上に五円の大金?はなかなかもって工面がつかぬ。そこ で一計を案じ、 「山鳩」の同人で尾張津島の歌人で、旅館紫浪館の主人佐協平三君(故人) に頼むべく浸良川畔の茶店‑行って二時間ばかり色々と話し合った。かりそめの縁ではある が、文芸で結ばれた二人の純情は事志とちがっても、僕は露風を弟のような気得で世話し、
彼も僕を兄のように信頼してくれたので、互いに落涙しての惜別であった。
かくて露風は僕の添書を持って津島へ行き佐脇君に面会した結果、心よく五円貸してくれ たので喜んで上京したが、その時の両者の手紙があるので、各その一節を示すO (下略) 上の文章中、 「明治四十年の夏」とあるのは、 「明治三十九年の夏」の誤りである。 「神戸市 の親戚の家」とあるが、当時神戸に露風の親戚は無く(5㌔ 神戸市楠町7丁目60の22にあった父三 木節次郎の家のことであろう。ある事情のために、露風の保護者は、尋常小学校入学以来、祖父 三木制となっていて、露風は少年時代、現在の竜野市竜野町上霞城′101番地の祖父の家にいたの である。竜野の祖父の家を出て神戸の父の家に居るということを、 「家を出て今は親戚の家に居 る」といったのであろう。 「三木露風追憶」のこの箇所は、小木曽旭晃の記憶違いか、筆談によ る間違いか〔注、旭晃は数え年13才の時、遊戯中の過失から全聾となった〕、あるいは、露風の虚 言であろうか。おそらく、東京よりの帰途、旭晃を訪ね就職の斡旋をたのむ必要上、郷里を出て 一時的に神戸の親戚に身を寄せていると言って、自分の窮状を訴えたのであろう。
5
次に三木露風が美浪新聞記者を勤めた期間について考察したい。露風が旭晃に就職斡旋を依頼 してから美濃新聞社に勤務するまでに旭晃に送った書簡が二通、小木曽旭晃のもとに保存されて いた。一過は、旭晃が美濃新聞社に就職斡旋の労をとってくれたことに対する謝意と、報酬額に ついての問い合わせであるO 〔書簡(‑)とする〕他の一過は、報酬額(給料)についての旭 晃の返信を読んで、露風がしたためた給料についての依頼と、上岐の期日とを主な内容とする書 簡である。 〔書簡(二)とする〕書簡(‑)・(二)ともに、封筒は保存されていないので目付 けは不明である。したがって、書簡(二)に記されている「すべて万般の要事本日中に終了し遅 くとも来月一日より出勤するやう其れまでに上岐いたすべく候‑ば」とある「来月一日」も不明 であるが、安部宙之介氏は種々考察の結果、 「露風の美濃新聞時代」の中で、次のように結論づ けている。
露風の前掲第二の手紙中に「来月一日より出勤する」との言葉があるが、その手紙には日 付がないので、それが七月一日からの出勤の意か、八月一日からか不明であるO 恐らく八月 ではあるまいか。小木曽氏も八月一一日だったろうと語られた、そして、九月二十三日再び上 京したものであろう。露風の美濃新聞時代は正味二ヵ月ということができる。
旭晃に宛てた両書簡を掲げる。
書簡(‑) 拝啓、
I ‑.I :御書面拝見美の新聞の方話まとまり申候由御助力の程謝上候只今すぐにも上岐いたす都合は
成居り申候へ共支局の記者として報酬は当初如何程出し申べくや尤も御書面によりて二三ヵ
月は薄謝との義承知いたし居中候共当方上岐に就ても準備等も有之思ふところも有之候ば当 初二三ケ月間の報酬如何程なるべきか御通知を煩したく候其辺万事大兄に御依頼いたしおき 候間報酬の点のみ至急御知らせ被下度其上にて御返書直に差あぐべく候とあれ小生は大兄と 共に中京文芸の為に尽す機の今日到らんとするを衷心喜びを禁じあたはず候山鳩落手内容の 整ひたるうれしく有上候正盲前田‑は即高を申やりをき候へば近日中に御落手相成るべLと 存候
委細万々後便
旭晃詩兄 露風 ヤマハト次号には文芸評論を物したく存居候 書簡(ニ)
啓
芳墨拝諦毎々の御尽力を深謝いたし候給料の義承知仕候十二三円は申受けたく其辺宜しく社 長と御面曙の節は御談合被下度御願申上候一旦上岐入社の上は充分社長の満足を買ひ得べき 手腕を振るひ申すべく其点はすべて御安堵下されたし借上岐之期日に就いては小生も早速ま ゐりたき所存に候へ共当方種々都合も有之一旦郷国にも一寸帰りたく且播磨姫路の三日潮の 残党を以て成る文学会に是非出席を促し来り矧庚へばすべて万般の要事本日中に終了し遅く
° ° ° ° ° ° ° ° ° ° ▼ ° ° °
とも来月一日より出勤するやう其れまでに上岐いたすべく候へば左様御承知被下度噸上候。
とあれ兄と共に些か美濃文芸の為振起を期するは生に於ても掬に欣喜に堪えざるところ相携 へて是非不振の地方文壇に警告を与へたく候幸に教示を垂れたま‑山鳩九月号原稿相添え御 送申候宜しく御取計らひの程たのみあぐ
夕暮江洋よりは末だ原稿到着いたさず候や小生よりも催促いたしおき候問いづれ近日寄越す
こと,有候
m当地新潮といふ文芸雑誌復活いたし候これは小生が編輯いたすことに相成内定いたし居候ひ しも今は前田翠瑛子入って幹し居候種々の都合にて小生は現時何等の関係なし翠漠などの手 になりしものなればつまらない雑誌たることは論ずるまでも無 候
はりまの三日潮復活の議を迫り来り屠り申候へ共此方は小生手をひく心算に候只今は其余裕 これなければに候
東京讃文社の自鳩も東相子大に手こずり屠る様子にて甚だ小生も心を苦しめ居中候自鳩は御 社とは字の上に於いても因縁有り何分応分の御助力を願あげ候委細之義は万々面目吾の上にゆ づり取あえず右御返書まで何か社長より話があるやうならば、またまた御通知を煩はしたく 候草々 露風
旭 晃 様 〔圏点家森〕
前述のごとく、帰省の途次7月28日に岐阜市外に住む旭晃を訪ねたとすれば、前掲の「三木露 風追憶」によれば、その日は旭晃宅に一泊して翌29日に神戸に帰ったことになるo 旭晃は岐阜日
日と濃飛日報に当ってみたが欠員がなく、結局、大垣の美濃新聞社長木村作次郎に頼んで、露風 を就職させる話合いがつき、その旨を露風に知らせる。旭晃の手紙を露風が受けとるのは、早く ても7月30日以前とは考えられないであろう。旭晃の手紙を見て出した返信が、書簡(‑)であ る.給料についての問い合わせを内容とする露風の書簡(一一)を、旭晃が手にするのは、 7月30
日か31日と思われる。この露風の書簡(‑)を見て、旭晃が給料のことを露風に知らせる。この
旭晃の書簡を露風が受けとるのは、早くても7月31日か8月に入ってからと思われるO この旭晃
の書簡に対する露風の返信が、書簡(二)であるo Lたがって、書簡(二)の
・‑‑借上岐之期日に就いては小生も早速まゐりたき所存に候へ共当方種々都合も有えー旦郷 国にも一寸帰りたく且播磨姫路の三日潮の残党を以て成る文学会に是非出席を促し来り居候 へばすべて万般の要事本月中に終了し遅くとも来月一日より出勤するやう其れまでに上岐い
たすべく候へば左様御承知被下度願上候。
とある「来月一日」は、 「八月一日」でなく、 「九月一日」と考えるべきであろうO 「遅くとも 来月一日より出勤するやうそれまでに上岐いたすべく」とあるから、九月一日以前の出勤も考え
られ、孟蘭盆会をすぎて、八月下旬には上岐したのであろう。
6
前掲の旭晃の「三木露風追憶‑放浪時代岐阜における秘話‑」 (「生活と文化」 211号、
昭和40年2月1日発行)によれば、露風は、実業家となるよう希望している父と意見が合わず、
家を出て神戸市の親戚に身を寄せているが、生活上一時的にも就職する必要が生じたので、旭晃 を訪ねたということになっている。前述の入沢涼月書簡にある東京から帰省の途次に岐阜の旭晃 を訪ねたのではなくて、神戸市の親戚の家(実は父節次郎の家)から旭晃を訪ねたということで ある。露風が小木曽旭晃の世話になった時のことを、かつてなか夫人に語ったことがあったそう で、それを筆者になか夫人は記憶を辿りながら話してくださったことがある。 〔昭和40年10月30 日、三鷹市牟礼4丁目17番18号の露風旧居にて。 〕夫人の記憶には、年代の前後が錯綜していて 訂正を要するが、それは次のようである。
露風は関谷営退学後、神戸の商業学校〔注、東京の東洋商業学校のことか〕に入れられたが、
登校しなかったので退学になっていた。学校から父にその通知が来ていたらしいが、露風 は知らなかった。挨拶をしても父は怖い顔をして一言も口を利かない。薄気味悪く思ってい
ると三日目に、 「どこまで父親を騎せると思っているのか!」と、かんかんに怒り出した。
「山の中にある池を買ってやるから、そこであひるを飼って過ごせ!」と言われた。淋しい 山の中で、一生あひるを飼って過ごすのはいやだったので、銭湯に行くと言って家を出て、
銭湯を出てから岐阜の小木曽さんのところへ行った。露風は名古屋の新聞社〔注、大垣の美 濃新聞社〕に、二三箇月も勤めただろうかo そこをやめて上京し、有本芳水さんの下栢〔注、
三島霜川の家〕に泊った。
なか夫人の記憶によれば、露風が暑中休暇で帰省した風を装って、神戸に住む父のもとに帰った が、帰省して三日目にひどく父に叱られ、銭湯へ行って、それから岐阜の小木曽旭晃を訪ねたと いうことである。
露風が東京を発ったのは、前述の正富江洋宛のはがき(‑)によって、明治39年7月27日午後 7時30分であったことがわかる。はがき(二)に.よれば、その夜は静岡の旅館で一泊しているか ら、岐阜の小木曽旭晃を訪ねずに帰省したとすれば、 7月28日に神戸の父の家に帰ったことにな る。父に叱られて三日目に家を出たとすれば、それは7月30日である。旭晃宅で一泊して神戸に 戻り、旭晃からの来信を待ったとすれば、その手紙を露風が手にするのは、早くて7月31日か、
8月の初めであろう。そうして露風が旭晃宛に書簡(‑つ を書く。書簡(‑つ を手にした旭晃が 給料についての返信を出す。旭晃の返信を読んで、露風が書簡(二)を書いたということになり、
この場合も、書簡(二)の「遅くとも来月一日より出勤するやう」の「来月一日」は、九月一日
ということになるのである。
前掲の入沢涼月書簡(内海信之宛)と旭晃の「三木露風追憶‑放浪時代岐阜における秘話‑」
及び前述の三木なか夫人の追憶談を勘案すれば、露風の離京から大垣の美濃新聞就職までは、
次のように考えるのが妥当と思われる。露風は明治39年7月27日午後7時30分新橋発の列車で西 下したが、静岡で途中下車して旅館に一泊したO 翌28[]に岐阜の小木曽旭晃を訪ねて就職の斡 旋を依頼し、その日は旭晃宅で一泊した.翌29日に神戸の父のもとに帰Y上心ひそかに旭晃から の書簡を待っていた。その間、父にひどく叱られ、そんなに学校が嫌なら家鴨でも飼えとまで言 われた。そのうちに旭晃の尽力によr上 大垣の美濃新聞に月給12円で記者として迎えられること になったので、露風は銭湯に行き、銭湯を出てから岐阜に旭晃を訪ねた。旭晃は同道して大垣ま で行き、露風を木村作次郎社長に紹介して露風の入社が決定した。露風の入社は8月下旬か遅く
とも9月1日であろう。
7
小木曽旭晃の尽力で、露風は大垣の美濃新聞社に勤務することになった。しかし、露風は地方 の事情にうとく、又性格的にも田舎新聞記者には不適当で、木村社長とも意見が合わず、遂に露 風は1簡月足らずで美濃新聞社を退社することになる。旭晃は大垣まで出向いて木村社長に会い、
露風退社の話をつけ、露風を岐阜に連れ戻して駅前の信濃屋旅館に一時止宿させる。その間、露 風は東京の知人数名に就職依頼の手紙を出すが、 4月15日に日暮里の花見寺で催された「新声」
誌友大会を機会として知られることになった三島霜川から、一時世話をしようという返信があっ たので露風は上京することになる
(7)小木曽旭晃自叙伝『逆境に苦闘して』の「忘れ難い交友」に
‑・‑又岐阜へ連れて来て、駅前の信濃屋旅館に落ちつかせ、上京の目論見を立て, 、愈よ九 月の初め君を東京‑送ること,なったので、出発の前日相携へて岐阜公園から長良川附近を 散歩しつ、別離を憎んだが、初秋の風うすら寒い長良川畔で、 Lはらしく積に咲く月見草を 眺めつ,餅の単衣一枚で寒むさうに懐へてゐた君の哀れな風姿には、多感な私は心ひそかに
泣いた。一一
とあるが、長良川畔で別れを惜しんだのはいつであろうか。雑誌「山鳩」第3巻11号(明治39年 10月10日発行)の「編輯日誌 山鳩守」に次の記事がある。
9月廿日。三木露風上京す、昨夕長良河畔の涙別は永久の追憶なP上此夜隣の濃飛日報社に 小火事騒ぎあt上 警鐘乱打、市中騒然、折から細雨罪々。
長良河畔の涙別は9月19日のことであった。露風の美濃新聞勤務期間は8月下旬か9月1日から、
9月中旬まで1筒月足らずである。 翌20日、露風は旭晃の添書を待って、愛知県津島町で旅館 藤浪館を営む佐脇紫浪(本名乎三)を訪れ、旅費5円を借用して上京するのであるC.露風が佐脇 紫浪を訪ねた時の模様は、小木曽旭晃に宛てた佐脇紫浪の次の手紙によって明らかである(:)
手紙着せり何度となく読返し相変らぬ兄の友情摩きに敬服すると同時に貴言のある処又了解 せr主 実は露風子の来られし日は母熱田二赤ん坊を見に行き小生一人留守居の処にて一寸忙 しくはありLも切角の来館是非一泊をと初めはす、めてありしか何となく尻坐らずその内に 兄の手紙出されたことにて万事子の意向も聞き直ちに諾して五金を渡せりそれより供に神社
に参詣して三時列車にて一一一度長島二行き夜行にて上京すとて出て行けリ、露風子の人物はオ
子たるやすでに兄の細畑宅にて知れり小生の目する処と兄の手紙と相似たりと思い屠れr上 子の今後は正に有望也と断言し得べし兎に角第三者たる兄を信頼するの余二出たりと露風子 にも申やりたり旭晃兄よりの添書なくば兎に角断り申すのであるとまでいひやりたり、露風 子は満足して小生及び兄の恩義‑忘れぬといひて出発せり、返金の事は一カ月以内と申し屠
れり、自分も若しこの境遇にあらばと思う情が又貸与したる一因なり、以上の事は露風子の 人格問題二或‑他の人は誤るやもしれず秘密二致しやり下さる様、願上候小生‑断して他言 せざるべしこの事露風子にも小生より言出して約したり。以上は秘信として御覧下されたLo 上の手紙に、露風は「三時列車にて一度長島二行き夜行にて上京すとて出て行けり」とあるが、
長島に行ったのは、親友量目‑露(本名佐々木秀道)を桑名在のその寺に訪ねたのであろうか。
董月‑露が病気のために、現在名古屋の病院に入院していると聞いて、次に掲げる旭晃宛露風書 簡にあるように、露風は入院中の董月‑霜を見舞うのである。露風は9月23日の朝、新橋駅に着 いている(9)から、 22日の夜行で名古屋を発ったのであろう。 23日の朝、東京は雨であった。その 夜、露風が旭晃にしたためた手紙を次に掲げるO
詩兄
長良川之暮色にしほらしき野菊をめで、共に歌がたりしたること今に目に見ゆるが如くなつ かしく存候。けふは日曜故定めて細畑の家居にありて詩作なんどなされつべLと遥かに想ひ
を寄せ居候。
いつか御別れ申してより紫浪君を訪ひそれより名古屋に入院せる量目一路を見舞ひ思ひの外 の病気に淋しさこといろいろ物語り、名残r月昔くも別れて候.
今朝東京に入る、雨頻りにして霧の如く大都は深々としてうすぎぬに包まれたらんがやうに 御座候濡れそぼちて漸く着きまゐり午ごろ前田及び内藤に会ひ申候相変らず皆元気が宜敷候。
内藤島露は此度び復活せし朝野新聞文芸記者として入社いたし候。松原至文は文庫を退き此 度び新声に入り申候。両誌共に今後は脚か面目を改むべき事と存候。新声は金風号と称する ものを来月出す筈に候。尊前草社は以後四五頁を占むることに相成候由壇場だけは追々広く なりゆく様子これで歌も進歩してゆくならば申分無之候正富庄洋は近々佐久艮書房より小鼓
と称する詩文集を出だす由(されど此事は山鳩の誌上にては当分秘密にたのむ)元気旺盛の 事に候。
紫雨様は如何にいたし居られ候や蔽夕様ほおか‑りに相成候や、どちらへも宜敷御鳳声被下 度候神尾江村が上野より無花果と称する文芸雑誌を出す由、既に橘村、海鴨の原稿も集まり し由に御座候。江村は今の処小生と事の行き違ひより仲面白からず或は雑誌上にて中傷を試 むるやも図り知るべからず「神廟のほとり」とかの焼直しをやった如き男どうせ様な事はや
らぬべくと存候。
山鳩はどうかシツカリ御遣り下されたく表紙をラシャ紙にしてゴジックにて黒く山鳩とをく 方よろしからずや釆号より至急御実行願ひ上げたきものに候紫燭殿の「夜汽車」と称する散 文は既に事実が古い故に掲載御見合せ被下度何か外の物を差上ぐ可く候。
木村美濃新聞社長‑手紙を廻送する様大兄より御申遣り被下度御願中上候若狭新聞よりは何 とも申まゐらずや御伺ひ申上候野口安は二三日の中に会ふべく原稿は来月分に間に合ふ様御 送り申すべく候。
尾上柴舟の詩集は多分自塔と命名さる可く薫園の伶人の如く活字は故意と四号にせず普通の
五号活字にする由四号活字流行の世の中に一寸日新しき観有之候。
当分小生当方に有之べく候へば御書面は当三島宛に御送り被下度候、どこか学校か雑誌かへ 入るつもりに候、先は着京御報知穿々取敢ず右迄。またまた文界の消息など迫々に御知らせ いたすべく候。
九月二十三日夜 操生
旭晃様
露風は名古屋の病院に董月‑露を見舞い、しみじみと語り合い、名残を惜しみなから上京したの であるが、董月‑‑露は翌明治40年の春に病死したもその死を悼んで露風は哀音切々たる「‑一つ鐘」
と題する詩を作って、 「自虹」第3巻第2号(明治40年6月5日発行)に発表した。
一つ鐘
桑名の堤草萌えて 春は来れども浅くのみ 霞める鐘の暮る、音を 思へばこころ傷まる、。
‑*A
野の七村にわたれよと 君たはぶれに紫の 袈裟して撞きし朝の鐘 夕の鐘の書は朽ちぬ。
落つる響をおん母は
K‑こ
愛児の声と聞きたまひ
:^b巳
愛児は母と声とかも 空にて涙おぼゆるや。
夜は川渡の立ちさわぐ 底より霧のみだれ来て 自くつ,まむ君が野の
しヽ‑もん にほ
i‑'i,‑rトonju‑'v一つ踊:
其鐘今も低き苦に 胸にぞ響け、悲しきは
と!J L1Jt
仏の前の燭火の
今か消ゆらむこ,ちして‑
いぴがは
遠波白き揖斐川の 千鳥は晴きてかへるべし、
君は素へる母ゆえに
また帰る日のあるべLや。
(董月‑露を悼みて)
8
三木露風が本郷区駒込の木戸侯爵邸内の借家に住む三島霜川のところで居候をしていた時の様 子は、水守亀之助が『続わが文壇紀行』の「三木露風今昔物語」で興味深く描いている
、帥私が、ある事件がキッカケとなって、いよいよ文学に転向する決心をして、故郷の廃屋を 護る祖父母や、他の地に出てゐた母や弟妹には無断で上京し、新聞配達をしながら医学校に 通ってゐた紀州出の友人を頼って行ったのは、明治三十九年の十一月のことであった。私も 露風に追随して早大の文科に入るのが目的であった。新橋駅に着いた時は、下谷御徒町まで の車代の他には二十銭足らずしか残らない有様だったから、もちろん苦学の覚悟であった。
ところが、 Kといふ友人に相談して見ると、彼は郷里から送って貰ふ学資の不足を、新聞 配達をして補ってゐるのだから、君のやうな弱いからだでは何をしても、とても独力ではや って行けないと宣告されてしまった。しかし何とかなるだろう位の考へで間もなく本郷の下 宿へ何のアテもなく移り、中村屋湖氏と親しかった小林呂資とい」、早大文科の学生に会って いろいろ学稜に関する話を聞き、先づ露風に全はうと思ひ住所を調べて訪ねて行くことにし た。小林君は埼玉県の男で投書仲間として露風等とも共通の知り合ひであった。
露風の居所は、奇人作家として文学の雑誌のゴシップなどによく出る三島霜川の宅であるこ とが知れた。彼は十八九才にして新進詩人といはれてゐる上に霜川の家にゐると判って、私 はいよいよ羨ましくなったO貧乏だらうが奇人だらうが霜川は新しい傾向の作品を書く人と
して文壇に知られてゐる。その人に近づくなんて、何といっても露風はオ物だと私は敬意を 表せざるを得なかった。
ところがテクテク歩いて、やっとのこと探しあてた霜川の家といぶのは、木戸侯爵邸内と いへば頗る聞えはいいが、駒込の奥のまるで山林のやうな広大な屋敷の中の木がくれにある 物置か番小屋のやうな家なので、ガッカリしてしまった。格子戸からのぞいて見ると、玄関 の土間は汚れた穿き物が転がって居て、犬か猫かの糞が堆いままにされてゐる。
声をかけると、姿を現はしたのは正しく露風なので、やつと安心はしたが、借り物らしい 身にあはぬ薄汚れた袷を着たきりの見窄らしさで、御家老筋の御曹司だった昔の面影はどこ にも見えず、これが輝かしい新進詩人なのかと思ふとウソのやうな気がした。
二部屋位の家で、奥の間に通されたが、一閃張りの破れ机の他には、古雑誌などがだらし なく散らかってゐるきりの荒涼たる有様である。これがあの高名な霜川先生の書斉なのかと 思ふと益々意外で、まるで狐につままれたやうな気持ちがするのであった。
どうやら露風は学校へ行ってゐさうにないのみか、可なり窮迫してゐるらしく見うけられ る。しかし、彼は昔のやうに才気燥発であり、意気軒昂たるもので、旺んに詩壇や文壇を語 る。ずゐぶん知名の人とも親しい口吻である。霜川は昨今森川町の友人徳田秋声の家にゐて 創作をしてゐるとのこと。露風は「三島が三島が」といって友達同様の呼び方である。
するうち、露風は古雑誌を五、六冊抱へてとび出して行ったが、間もなく帰って来たのを
見ると、古本屋へ行って金にかへてタバコを買って来たことが判った。私の大阪における数
年間は随分貧乏で乱暴極る生活の連続だったが、友達は大抵裕福な家の子弟だったから、私
自身もまだ質屋通いや古本屋に売りに行く経験はなかった。半年足らずして、東京の書生の
やることなら何でもやれるやうになってしまったが。
なお、上の文章では、三木露風の屠所が三島霜川宅であることがわかったので、水守亀之助は 露風に会うために霜川宅を訪れたように書かれているが、明治39年11月(推定) 15日付けの、内 海信之に宛てた水守亀之助の書簡では、亀之助が生活に窮して霜川を訪ねたところ、思いがけず
、11、
露風が居合わせたので、露風が霜川宅で世話になっていることを知ったと書かれている。 その 部分を抄出する。
一一‑昨日は斉藤弔花氏に面会し、いろいろ一身上の方法を講じ、本月中に是非生活ならび に勉学の道を講じやる旨誓はれ候‑ば、小生も太に安堵致しある友人の紹介にて目下の下宿 屋に尻を落ちつけ申し候。それもやうやう昨夜参りし様の次第に候。
先づ先づこれにて‑先づ心安く覚えられ候o 乍他事御安心下され度候。
先日三島霜川氏を訪ねしところ、座に三木露風君あり、大に驚き申し候。聞けば、同君は霜 川氏と同居の由にて、いろいろ物語り申候。一一時は大に驚き申し候。それから児玉花外君や、
注洋君、其他の諸氏を訪ね候へ共、其日は生憎皆不在にて、只注洋君にだけ面会仕り候。同 君は無邪気なる人の様見受け申し候。
露風君より種々詩壇の内状を承り候が、実に暗闘の一語につくべく候O 小生はたゞ醜値なる 裏面を知りて俄かにいやな気に相成り申し候。 ‑・・‑
露風は霜川宅で世話になりながら、創作に耽るのであるが、明治38年7月15日発行の詩歌集『
夏姫』は、詩よりも短歌の方が評家の好評を得た関係からか、比較的に短歌に重点を置いていた のである。しかし、 40年に入って、生田長江の忠告を容れて詩の創作に専念するようになり、よ うやく詩人としての運命が好転するのである。
注
(1)内海繁氏のご教示による。
(2)鈴木美枝子氏「詩歌雑誌『自鳩』の発見」 ( 「学苑」昭和45年6月号) (3)安部宙之介氏「若き日の露風の手紙」 ( 『続・三木露風研究』昭和44年5月刊) (4 )安部宙之介氏「露風の美濃新聞時代」
(5)三木恒雄氏のご教示によるo
にひしIi
(6)神戸から発行された第二次「新潮」のことで、明治39年10月5日付けで創刊号が出たO 第1回例 会は39年6月28日に開かれている。第一次「新潮」は明治33年8月16日付けで創刊され、 34年4 月10日付けの第2年第3号で終刊となったo 明石利代氏著『関西文壇の形成』 (昭和50年9月刊)
月9!S9!
( 7 )安部宙之介氏「露風の美濃新聞時代」
( 8)安部宙之介氏「露風の美濃新聞時代」
( 9 )安部宙之介氏「露風の美潰新聞時代」
(10)安部宙之介氏著『三木露風研究』昭和39年9月刊
(ll)内海繁氏のご教示による。
Rofu Miki as Pressman of the Mino-Press
Chojiro Iemori
Department of Japanese Literature, Nara University of Education, Nara, Japan (Received April 30, 1976)
It is held by Mr.Chunosuke Abe that Rofu Miki occupied his post as a pressman in the Mino-Press, since the 1st of August till about the 20th of September, 1906.
But I should suggest that the period was from the latter part of August to the middle of September of that year,not more than a month. In this essay I intend to make this point clear by the new sources at hand, and to describe his activities then and after his career as a pressman of the 'Mino-Shinbun.'