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中央ユーラシア・ テュルクの叙事詩に 描かれる「異民族」

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中央ユーラシア・ テュルクの叙事詩に 描かれる「異民族」

   

は じめに

英雄叙事 詩 と周辺民族

キジルバ シュ

3  カルマ ク

ロシア

中国 おわ りに

は じめに

中央ユーラシア1のテュルク系諸民族に伝わる叙事詩で、主人公の勇士が戦う相手は実 在 した民族集団であることが多い。デブやアルプ2など超 自然的性質を持った存在 と戦う ことも珍 しくはないが、外敵 として登場するのはモンゴル系カルマクやロシアなど、中央 アジアの周辺で彼 らと歴史的にさまざまなかかわりを持った人々なのである。人々の歴史 の「記憶装置」であった叙事詩には種々の情報が含まれているが、そこに周辺地域の人々 が どのように描かれているかを知ることで、この地域の人々が自らと「異なる集団」をど のようにとらえていたかを理解することが可能となるであろう。

本稿では、中央ユーラシアのテュルク系民族の叙事詩を題材に、そこにどのような「異 民族3」 が どのように描かれているかを整理 し、異文化をもつ周辺地域の人々との関係がど のようなものであったかを論 じてみたい。多様な「民族」からなる中央ユーランアの「民 族意識」や周辺「異民族」 との関係の実態を知る上での基礎的な情報を提示できればと思

う。

1.英雄叙事詩 と周辺民族

中央ユーランアのテュルク系諸民族の日碑には古 くからさまざまな周辺地域の「異民族」

が描かれてきた。周辺民族 との戦いを描いたもっとも古い作品に「アルプ・エル・トゥン ガ」がある。「アルプ・エル・ トゥンガ」は、旦世紀にマフムー ド・カーシュガーリーが著

‑109‑一

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した 展テュルク語集成』にその断片が載せ られているだけで、全体が後世にまで伝えられ てはいないが、紀元前7世紀のイランとテュルクとの戦いを反映 していると指摘 されてい 4。 また西アジアに移動 していったオグズ族に伝わる『オグズ・カガン』伝承にも、キプ チャクやカルルクなどのテュルク系諸部族が擬人化 される形で、歴史的状況が反映され、

何 らかの歴史的状況を読み取ることが可能だと考えられている。

これらの作品はいずれも早い時代に語 られなくなり、ある時期に書 き取 られたものが後 世に伝 えられるようになった作品である。こうした作品は少数であ り、テュルク系叙事詩 作品のほとんどは比較的最近 まで語 り継がれ、その多 くは19‑20世紀になって採集・記録 されるようになったものである。それらには様々な「異民族」が主人公の敵 として描かれ るが、それらのうち主たるものはキジルバシュ、カルマク、ロシア、中国である。以下、

これら四つの「異民族」がテュルク叙事詩にどのように登場するか、具体的な例 をあげな が ら、それらについて論 じてい くことにする。

2.キジルバ シユ

キプチャク族の英雄 コブランドゥを主人公 とする、カザフやカラカルパクなどに伝わる

『コブランドゥ・バ トウル』では、キジルバシュがキプチャク草原の遊牧国家ノガイ・オ ルダを攻めて、苦 しめたと歌われる。

クズルバス5の国か ら、カザンという勇士が現れた。

素性の分からぬ悲 しみがあつた。

ノガイの多 くの民を、略奪 して、攻め立て、迫害 した。

従わぬ ものを駆逐 し減ぼ し、絶やさせた。

土地を家畜を奪い去 り、そこを通 り過 ぎていった。

家畜や財産を捨て去って、ノガイの人々は逃げ去った6。

ここでいう「クズルバス (キジルバシュ)の国」がイランを意味 していることは確かで あろう。キジルバシュは、中央アジア側からはイランの軍隊からシーア派信徒やイラン人、

さらにイランそのものを指 したからである7。 キジルバシュは、もともとは16世紀のイラン に勃興 したサフアビー朝を支えた遊牧民の軍事集団を表す言葉であった。キジルバシュは サファビー神秘主義教団の長イスマーイール1世を慕い、彼 を助けてシーア派 (十二イ マーム派)を国教 とするサフアビー朝の開設に多大な貢献をした。なおキジルバシュとは、

テュルク語の字義的には「赤い頭」であるが、これは彼 らが赤い棒 を12の布で巻いたター バ ンをかぶっていたことに因んで付けられたためである。

ノガイとは、15世紀か ら17世紀にかけて、カスピ海北岸のキプチヤク草原に興つたノガ イ・オルダを指 している。ノガイ・オルダは15‑17世紀の中央ユーラシアにおいて、大 き

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中央ユーラシア・テェルクの叙事詩に描かれる「異民族」

な影響力 を もつ 国家 であ った。叙事詩 の この節 がサ ファビー朝 とノガイが戦 っていた16世 紀後半のユ ー ラシア中央部の状 況 を歌 ってい ることは間違 いない。『コブラ ン ドゥ・バ トゥ ル』 では、歴史上の人物 は登場せず、登場人物 はみな架空の人物であ り、また、この作品 がいつの時代 を背景 としているかについて も、ある特定の限 られた時代ではなく、キジル バシュの活躍 した16世紀、あるいはノガイ時代である14‑16世紀、カルマクとの抗争があっ 17‑18世紀 とさまざまな時代 を多層的に反映 しているといわれる8。 そのため、この作品 か ら特定の具体 的な歴史的出来事 を読み取 ることは難 しいが、この作品では、歴史的イメー ジとして、あるいは罪台装置 としてキジルバ シュとの戦いが設定 されているものといえよ う。

さて、 このほかに主人公がキジルバ シュ と戦 う叙事詩 として、16世紀の歴史状況 を具体 的に詳 しく映 し出 した作品 Fカラサイ、カズ』や 『アディル・スルタン』があげられる。

『カラサイ、カズ』 と『アデ ィル・スルタン』の登場人物は、属コブラン ドゥ』 とは異なり、

歴史上実在 した人物であることが特徴的である。なお、 これ らの作品は、ノガイ,オルダ の歴史 を有力者 たちの動 きを軸 に描いた一連の叙事詩「 ノガイ大系」 としてまとめ称 され る。

16世紀 に現在 のイランを中心 とした領域 を支配 したサ ファビー朝 は、オスマ ン帝国 とな らぶ西 アジアの強大 な国家 として知 られ、オスマ ン帝国やその属国であるクリミア・ハ ン 国 と抗争 を広 げた。ノガイ・オルダの うち、 クリミア・ハ ン国 と友好 な関係 を保つグルー 91まオスマ ン帝 国の側 に立ち、 しば しばサ ファビー朝 と戦 った。サ ファビー朝はキジル バ シュの名で認識 され、叙事詩にも往時の戦いがキジルバシュの名で刻 まれているのであ る。

では、クリミア・ハ ン国やノガイ・オルダとキジルバ シュとの関係が どのようなもので あったかを具体 的に見ていこう。 まず、オスマ ン帝国 とサ ファビー朝 との敵対関係や ノガ (小ノガイ)と クリミア・ハ ン国がオスマ ン帝国の命令 に従 っていた様子は、ノガイに 伝 わるヴァリア ン トでは次のように歌われる。

(ク リミアのアデ イルが)20歳になった時、

偉大 な トル コのパシャか らの

馬の列がや って きて、勅令 を届けた

クリミア・ハ ン国のアデ イル・スルタンがサ ファビー朝へ攻撃 を行 ったのは、1580年 であるため、ここでの「偉大な トルコのパシャ」、すなわちオスマ ン皇帝はムラ ト3世 (在 1574‑95)を 意味 しよう。 オスマ ン皇帝の勅令 を受 け取 ったアデ ィルは、早速サ ファ

ビー朝 との戦いの準備 を行 う。

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数 日の うちに戦いの準備 を行 った

食料 を水 とともに送った、塩 とともに軍勢 を送 った イス ンの息子勇士ス レイマ ンを軍隊の長に した。

オラクの息子勇士 カラサイを軍隊の護 り手に した。

さあ、す るべ きことは行 った。

(そして)クズルバスなる敵国の国境 に向かった11。

クリミアの王子 アデイルは、オラクの息子のカラサイを将軍の一人に任命 している。 カ ラサイはノガイ・オルダの有力者の一人で、クリミア・ハ ン国 と近 しい人物 として知 られ る。16世紀後半に実在 したカラサイは、アデイルと並 んで、多 くの叙事詩に歌われている。

カラサ イをは じめ とす る優秀 な戦士がアデ ィルの元 に集 ま り、出陣 した様子はこう歌 われ る。「敵 クズルバスに向か うため、故郷 に別れを告 げ出発 した。4万の軍勢 は武装 し、青 い鉄 に身を纏 い、戦士たちは進んでいった。総大将はアデ イルであった。」12

出陣 した クリミア軍 とキジルバ シュとの戦いは、キガシュとい う場所で行われた と伝 え られる。「 その ころキガシュの山にはクズルバス とい う強敵がいて、そこに行 くものはみ な殺 された。 クリミアの若いハ ン、アデ イルは軍隊 を召集 し、クズルバス と戦 うためにキ ガシュ山に向かお うとしていた。4万の兵力で も破れないほど敵は強かつた」13。 キガシュ は、カス ピ海北岸のアス トラハ ンの北東 にあるキガシュに比定 されよう。現在、ロシア領 に属 してい るキガシュはアス トラハ ンとカザフスタン西部の町ア トウラウとを結ぶ要衝で、

鉄道駅が設営 されるとともに、両者 を結ぶ重要な橋が建設 されている。

その後戦場 をカズベクなる場所 に変 え、激 しい戦聞が繰 り広 げ られた結果、勇士 カラサ イは魚傷 して しまう。「クズルバスヘの道の入 り口を確保せ よとの知 らせ をアデ ィルの戦 友が伝 え、 カラサイとカズに率い られる軍勢はカズベ クという町を占領することに した。

六 日にわた るクズルバス との戦いが始 まった。その中でカラサイは魚傷 して しまった」14。

キジルバ シュが攻め落 とした町カズベ クはロシァ とグルジア との国境近 くにあるカズベ ク山を意味す ると考 えられる。カズベ クはカフカース山脈 中央部 に位置 し、カフカース山 脈で もっとも高 く (標5033m)、 また もっとも美 しい と称 される山頂である。「 キジルバ シュヘの道 の入 り口」 とい う表現は、イラン地方につなが るカフカース北部の要衝 をうま く示 してい る。 またカラサイが負傷 して しまう場面は、勇猛 な戦士 をも苦 しめるキジルバ シュの破竹 の勢いを示 している。

中央ユー ラシア・テユルクの叙事詩の多 くは主人公の凱旋帰国で大団円的に幕 を閉 じる が、反対 に主人公の死 とい う悲劇的な結末 を迎 える もの も少 な くない。ノガイやカラカル パ クに伝 わ るヴァリアン トでは、クリミアの勇士 アデ イルがキジルバシュに殺 されて幕 を 引 く15。「ァデ ィルの軍勢は戦利品を集めていた。集めているときにアデイルは穴に落ちて しまった。 クズルバスは暗い穴の中のアデイルを発見 し、穴 に入 っていつた。 アデ ィルは

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中央ユーラシア・テュルクの叙事詩に描かれる「異民族」

脇 の刀 を振 りまわ して、彼 らに応戦 していた。 しか し、アデイルは捕 らえられ、両手 を結 ばれて連行 された。 これ までノガイの どんな勇士 も来たことのない遠い場所 に彼 はひとり 残 された16」。ぁるいは、「戦いに疲れたアデ ィル・スルタンは道中、一人になって少 しだ け休み、横 になって眠って しまった。そのあいだにクズルバスたちが彼 を取 り囲み、捕 ら えて、殺 して しまった17」。 この ように、強力 なキジルバシュ軍団によって命 を落 したア デ ィルの姿は、強い悲劇性 をもって後世 に伝 えられ続けてきたのであった。

『カラサイ、カズ』、『アデイル・スルタン』などのノガイ大系や『コブランドゥ』 など にキジルバシュとの戦いの記憶が刻まれていることは、彼 らとの歴史的な関係の深 さがう かがえるが、17世紀以降の歴史について歌った作品にキジルバシュが登場することはほと んどなくなった。これに替わってカルマクが多 く登場するようになるのである。

3.カルマ ク

カザフやカラカルパクなど中央アジアのテュルク民族の叙事詩において、敵 として最も 多 く登場する集団はカルマクであろう。カルマクとはオイラ ト系の西モンゴル人を指す、

テュルク系民族による総称で、なかで もトルグー ト部やジュンガル部が中央ユーラシアと のかかわ りでは重要な集団である。ジュンガル部は「最後の遊牧帝国」とも称 される強力 な国家を建設 し、中央ユーランアをしば しば攻撃・席巻 した。彼 らの一連の攻撃を逃れる 人々の移住が、現在見 られるような中央ユーラシアの民族構成や民族分布に大 きな影響を 与えたといわれる。この時の災難は、たとえばカザフでは「アクタバ ン・シュブルンドゥ (裸足での逃走)」 という固有の言葉で後世に伝えられた。英雄叙事詩もこのときの幸苦を 後代にまで伝える大 きな役割を果た したことは言 うまでもない。

カザフとカルマクとの抗争が長 く続いたことは多 くの叙事詩に歌われる。たとえば、18 世紀のカルマクとカザフとの戦いを背景 としたカザフの叙事詩『アルカルク・バ トゥル』

では、

カザ フのハ ンが治 めていた時代 、

カザ フ とカルマ クは戦利 品 を取 って敵 同士 になった。/

敵 とな リカザ フ とカルマ クは家畜 を取 り合 った 終 わ りな き戦 いが起 きて、血 で血 を洗 いあった18。

と歌われる。カルマクとの戦いは、カザフのみならずクルグズとも行われた。それは、ク ルグズに伝わる『マナス』でも主なテーマとなっている。カルマクの戦いの一つは次のよ 1こ描かれる。

7千もの兵士が時の声 をあげて

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(敵)二人の うち一人が攻撃 を受け、7人の うち3人が死んだ。

クルグズは (敵)兵士 を追いや り、斧 を額 に打ち込んで

5、 6人が四方へ散 つて、敵 に切 りつけた 土埃が昇い上が り、山の斜面 を血 に染めて 死者の数 を数えて/

カルマクに罰 を与 えてやったのだった19。

ここにはクルグズが カルマクに対 して激 しく残忍 に反撃 したことが描かれている。 またカ ザ フなどに伝 わる『エル・タルグン』 では、主人公 タルグンがカルマクに姑 して勇敢に戦 う様子が こう歌われる。

カルマクが来て包囲 した。

アッラー と叫んで タルグンは攻撃 した。/

羊の群れに一頭の狼が飛 び込んだ。

た くさんのカルマ クが倒れる。勇士の力がぶつかる。

タルラン馬は汗 だ くになった。無数の敵 と戦い合 った。

ウズベクやカザ フ、カラカルパ ク、バ シュコル ト(バシキール)などに広 く伝 わる中央 ユーラシアの代表的な作品である Fアルパ ミシュ』では、カルマクの タイシャというハ ン が カルマクの地にや って きた、 コングラ ト族 の勇士 アルパ ミシュに提案す る。「タイシャ が 『少年 よ、 6ヶ 月の遠 き地か ら許嫁 を探 しに来たのか。相撲で勝利すれば許婚のバルチ ンを手にで きるぞ』 と言 うと、アルパ ミシュはこれを受け入れた。力士が現れた。相撲が 始 まった。敵 をつかみ、ハ ンの足元 に投 げた。相手はすでに生 きていなかった。30分後、

9人の力士たちが敗れ去 っていた。誰 も彼 と戦お うとしなかった。」20

アルパ ミシュに勝つ ことがで きない と悟 ったカルマクの人々は、卑Jはな手 を使 ってで も 彼 を倒そ うと彼の愛馬バ イシュバルを殺そ うとする。それは、ついに流血の争いへ と発展 す る。「カルマクはバ イチュバル を殺 そ うした。 しか し近づいて きたカルマ ク人 をチュバ ルは蹴 り上tデた。アルパ ミシュは、「戦お うとい うものは誰 もいないようだな」 と言 つて、

チュバルに乗 った。 カルマクたちは彼 を取 り囲み、そこか ら帰そ うとしなかった。アルパ ミシュは怒った。 カルマクはアルパ ミシュに矢 を射た。 しか し、矢は届かなかった。アル パ ミシュは、無数のカルマクの中に、チュバルを駆った。刀 を振 りまわ した。 カルマクの 首 をはねた。彼の刀が 曲がるほ どであった。」21

このように叙事詩では、カルマクは中央 アジアの人々にとって不倶戴天の敵 とされ、激 烈 に戦いあう様が描写 されるが、叙事詩には、 カザフなどテュルク系の人々とカルマクと の敵対関係や戦闘シー ンだけが描かれているわけではない。 ここではそ うした単純 な対立

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中央ユーラシア・テェルクの叙事詩 に描かれる「異民族」

構図にあてはまらない例についてとりあげてみよう。

『アルパ ミシュ』の冒頭部分には、主人公の父 と許婚の父が仲違いをしてしまい、その 結果、許婚の家族が故郷 を離れて、カルマクの国へ移住するというシーンがある。それは、

故郷 を捨てて しまったとい う前提 もあるだろうが、カルマクが移民 してきたテュルク系の 人々を受け入れたことを意味 している。「バイサル22は6ヶ月と440日離れたタイシャ・ハ ンの支配するカルマクの地へ移動することを決めた。90頭のラクダに荷 を積んだ。「バル チンは、宗教を知らぬカルマクに嫁がせるJというバイサルに、妻アル トゥン・サチは「や はり故郷に戻 りましょう」 と言ったが、彼は聞き入れなかった。6ヶ月と40日かけてカル マクの くににたどり着いた。カルマクの くにで彼 らは貧 しい暮 らしをしながら、税を納め て過ごした。」23

バイサルはアルパ ミシュと同じテュルク系部族コングラ トの人であ り、カルマクから見 れば「異民族」である。 しか し作品か らは、「異民族」であって も、貢納 さえすれば、カ ルマクの地で遊牧 しなが ら、暮 らすことをカルマクが許可 したことがうかがヤ承日れる。もっ とも、そこでカルマクのハ ンに優遇されるはずはなく、カルマクのやせた土地で苦 しい生 活を送つたということが叙事詩では強調されて歌われているが。

さて、中央アジアの人々を苦 しめたカルマクであるが、必ず しも完全なる悪、憎むべ き 敵としてのみ描かれているわけではない。カルマクにも勇敢で実直な人物がいることは、

多 くの叙事詩に歌われている。またカルマクの生まれであ りなが ら、主人公 と親友になる という例 もある。 この点について、属アルパ ミシュ』 に登場するカルマクの勇士カラジャ ンを参考に見ていこう。

カラジヤンは勇敢で力強い戦士であったとされ、叙事詩では優れた勇士 として肯定的な 評価がなされる。またカラジヤンは、主人公アルパ ミシュの許婚 を得んとするカルマクの タイシャ・ハ ンに対 して、「ハ ンの任務は統治にあ り。その娘を得 ようとすることは彼の 任にあらず」 と言い放った24。 もちろん、カラジヤン自身が主人公の許婚の娘 との結婚を 望んでのことであるが、一方で姦計を用いてでも娘を自らの手に入れようとする邪なハン

と姑比 した高潔な人物であることが強調されている。

アルパ ミシュとカラジヤンとの一騎打ちからはさまざまなことを読み取ることが可能で あると考えられる。 まず一騎打ちは、「カラジヤンが 履おまえが先に攻めよ』 というと、

アルパ ミシュは『おまえの髭は白い。年長のおまえが先に攻めよ」 と答えた」25と、年輩の ものが先に攻撃を仕掛けるという戦聞上のしきた り、あるいは年長に先攻権を与えること が理想的であったということが示 されている。

さらに、こうした敵 との戦いではイスラーム的要素 も強調される。アルパ ミシュとカラ ジャンとの戦いでは、「アルパ ミシュを命名 した7人の聖者が現れた。霊力でアルパ ミシュ を鉛のように重 くした。アルパ ミシュは非常に重かったため、カラジャンには持ち上げる ことができなかった。カラジヤンは「彼は胡桃の本で、深 く根付いているかのようだ」と

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思い、アルパ ミシュに攻撃権 を与 えた。アルパ ミシュは神の御名 を三度唱えて、7人の聖 者 を呼びなが ら、カラジヤンを持ち上げ、投げ落 とした」26と、ァルパ ミシュの名付 け親で あるイス ラーム聖者 の加護 を受けなが ら体 を重 くし、微動だに しない。攻撃の際にはアッ ラー と唱えることで特殊 な神通力 を発揮 し、相手 を倒す。つ ま り、彼 自力の力のみによる のではな く、む しろ和 や聖者の加護により、勝利 したことが歌 われているのである。

叙事詩がイスラームにたいす る篤い信仰心 を重視す ることは、その後の場面 にも見 られ る。敗北 したカラジヤンはアルパ ミシュに許 しを乞い、 イス ラームヘの改宗 を誓 う。「私 は愚かに も、 自分が優 れていると勘違い していた。私 はあなたの神 を受け入れ、その神の 信徒 を認め、あなたの友人 となる所存である。私 はムス リムとなった。我がネ申は唯一神で ある」27。 ァルパ ミシュは攻撃を止め、カラジヤンにイスラームの教義を教え込むとともに、

互いに抱擁 し合って、友人 となった28。 同様なパ ターンはクルグズの『マナス』 にも見 ら れる。カルマク (ヴアリアントによつては後述する中国)の勇士アルマンベ トはムスリム ではなかったが、マナスと出会い、彼の高潔さに心打たれて、アッラーを信仰するように なる。

カルマクはチベ ッ ト仏教徒であ り、先に見たキジルバシュは同じイスラームではあるも のの、宗派の異なるシーア派であつた。つまり、彼 らと敵対する理由は「異民族」である ことではなく、信仰 を異にする「異教徒」であるためであ り、異なる宗教・宗派が姑立の 根拠であると叙事詩は歌っている。ここからは中央ユーラシアの叙事詩のテーマと何をもっ て「敵」 と見なすかをうかがい知ることができそうである。

ところで、「カルマク」 という言葉が、歴史上実在 した特定の集団を指すではなく、「異 民族」を意味する「記号」 となっている部分があることも指摘 しておきたい。

上述 した『カラサイ、カズ』のカザフのヴアリアント29には、コンドゥケル Qongdtter なる名称の集団が登場する。コンドゥケルはフンカルKhlln karに 同定される言葉である。

フンカルはオスマン帝国で「オスマン皇帝」を意味 し、この言葉に由来する「フンカル国」

とは、18‑19世紀の清朝資料 をはじめとして、カザフ・モンゴルの間で もオスマン帝国を 指 した30。『ヵラサイとカジ』には、「コンドゥケルというカルマクから勅書がきた。(勅 には)アデイル・ハ ンにカラサイとカジを呼び寄せ、カルマクを攻撃せ よと(書いてあっ )31」 と歌われる。 コンドゥケルからアデイルに勅書が来たということは、オスマン皇 帝から出征の勅令がクリミア・ハ ンの息子に届いたことにほかならない。 しか し、ここで はオスマン皇帝に対 し「コンドゥケルというカルマク」という表現がなされ、キジルバシュ ではな く「カルマクを攻撃せ よ」 という言葉 と合わせて考慮すると、「カルマクであるコ ンドゥケルがカルマクを攻撃する」という矛盾が浮かび上がる。史実では、アディルたち が戦った相手は、上述のようにキジルバシュ (イラン)であるか らである。このことは一 見奇妙なことであるが、おそらく、ここでは「カルマク」 という言葉は西モンゴル、オイ ラトの人々という具体的な集団を指すのではなく、単に自分たちと異なるアイデンティテイ

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中央ユーランア・テュルクの叙事詩に描かれる「異民族」

をもつ集団という意味で用いられているのではないだろうか。

カザフの叙事詩では、カルマクが具体的なモンゴル系民族 としてだけでなく、単なる「異 民族」 という文脈でも使われることが多 く、『チ ヨラ・バ トウル』でのロシアや [カラサ イとカズ』 などにおけるキジルバシュに対 しても、これらに替わつて「カルマク」が しば しば用い られた32。 これは、「アクタバン・シュブルンドゥ」をはじめとする、カルマクに よる過酷な攻撃が強 く記憶に刻 まれたことから、カルマクがそのまま敵の「異民族」を指 し示す象徴的な言葉になったことが推測 される。カルマクの説明として、「敵の民族名 と いう狭い概念だけではなく、一般的な勇士の敵を意味する」 とされることさえある33。 ルマクが表層 としてそれ以前の歴史的記憶に覆いかぶさったことは、[チョラ・バ トウル』

のヴァリアン ト比較によっても明瞭である34。「ヵルマク」という言葉は、とりわけカザフ やカラカルパクにおいて、他の「異民族」とはもつ意味合いが異なる点が特徴的で注意を 要する。

4.ロ シア

中央ユーラシアのテュルク系叙事詩に描かれる「敵民族」 として、北方のロシアも様々 な作品に登場する。ロシアの描かれ方は時代 によって様々ではあるが、中央ユーラシア・

テュルクの歴史を如実に反映 している。ロシアが登場する作品は16‑20世紀 とたいへん長 いスパ ンにわたるさまざまな歴史事象を描いていることが、特徴的であるといえるだろう。

なお、ロシアを指す言葉は複数あるが、叙事詩の本文中では原語でそれらを示す。

ロシアとの関係を具体的に伝える叙事詩のうち古い時代を舞台としているのは、叙事詩

『エディゲ』である。

『エデ ィゲ』 はノガイ大系の作品のひとつで、ノガイ・オルダの創設者であるエディゲ (1356?‑1419)を 主人公にしている。エデイゲは、ジュチ・ウルス (所謂キプチャク・ハ ン国)の トクタミシュ・ハ ンの庇護の下で頭角を現すが、やがて彼 と反日し、テイムール の援助 を受け、キプチヤク草原の覇者 となった。彼の政権はノガイ・オルダの礎 とな り、

それは、以後 この地域において重要な役割を果たす こととなった。エディゲは、ジュチ・

ウルスの トクタミシュ・ハ ンと戦 うだけでな く、 リ トアニアやロシア (モスクワ公国)な ど周辺諸国をも攻めた。

Fエディゲ』 には、エデイゲがロシアを侵攻 したことが暗示 されている。テイムールの 娘をさらった、ロシアのアニシムなる勇士をエディゲが攻撃 し、テイムールの娘を奪い返 す模様が描かれている。その際、アニシムを殺 し、戦利品を奪ったことも叙述 される35。

これはエデイゲが1408年に行 ったモスクワ侵攻 を表 していると考えられるだろう36。「ェ デイゲは堅固な石のクレムリンを襲撃 しないことにした。年代記によれば、壁か らの激 し い射撃のため、オルダの人々は町にあえて近づこうとはしなかった。ひと月におよぶ包囲 のあ と、敵軍は隣国の大地を荒廃 させ、捕虜 を連れて後退 した。エディゲの襲来は実質的

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に終わった。ロシアにおけるハ ンの権力復興は成功 しなかった」37。 叙事詩でロシアの勇士 アニシムがテイムールの娘をさらったというのは史実ではないが、このような当時のキプ チ ャク車原周辺の状況を示 しているのは確かなことである。

なお、エデイゲがロシアにたいする攻撃を行ったことによって、ソ連時代に、叙事詩『エ ディゲ』 は「封建的で人民に有害38」 でぁると評 され、テキス トの出版 ・公刊 をはじめ、

テキス トを閲覧することも禁 じられ、これを語ることす ら許されなかった。ロシアを攻撃 する場面がある『エデイゲ』のテキス トは、このシベ リア・タタールのヴアリアントをの ぞいて見 られないが、そのこととこうした「エデイゲ批判Jとの間になんらかの相関関係 があったのか もしれない。 ソ連末期のペ レス トロイカ政策の下、「エデイゲ批判」は下火 になり、ソ連崩壊後になってようや く、『エディゲ』のテキス トが出版 された り、 これに 関する本格的な研究が行われた りするようになったのである。

さて、ロシア (モスクワ公国)が領土を拡張 し、広大な領域をもつ帝国に発展する最初 の対外活動 となったのはカザ ン攻略である。ジュチ・ウルスの後継国家であるカザン・ハ ン国はカザンを都 とし、ヴオルガ川中流域に栄えていたが、16世紀前半には、政権内部で 内紛が頻発 し、ロシアの側につ く一派 とクリミア・ハ ン国の側につ く一派 とに分かれ、対 立 していた。ロシアの愧儡のハ ンとクリミア・ハ ン国の愧儡のハ ンが交互に即位するよう な状況の中、1552年にロシアがカザ ンを攻略 し、これを併合 したのである。このカザン陥 落を題材にした作品が 5チヨラ・バ トウル』である。タマ族の勇士チ ョラがカザンヘ義勇 の兵 として赴 き、ロシアの軍隊と戦い、一時は彼 らを撃退するものの、最終的には戦死 し てヴォルガ川に沈み、カザンがロシアの手に渡るという内容である。

チ ョラがカザンのシヤー・アリ・ハ ンの もとでロシアとの戦いを行った様子は、タター ルに伝わる『チ ョラ・バ トウル』では、次のように描かれる。なお、シヤー・アリ・ハ ン は、数回にわたつて在位 したカザ ン・ハ ン国末期のハ ン (在1518‑21,1546,1551‑

1552)である。「チ ョラ・バ トウル39はヵザ ンの町へ行 った。そこでバ トウルたちと交わ り、カザ ンの町を落そうとしているロシアの軍隊と戦おうとしていた。そのときカザンの 町にシャガリ・ハン40とぃぅハ ンがいた。シヤガリ・ハンはチョラ・バ トウルが来たこと を聞いて、呼び寄せ、敬意を表 し、宝庫か ら外套や鎧、兜、食料などを与え、バ トウルた ちに加わって、指揮 した。チ ヨラ・バ トウルをこの日か ら賞賛 した。チ ヨラ・バ トウルは 毎 日軍 とともに戦い、多 くの人々に恐れ られた。41

また無敵のチ ヨラを是が非で も倒そうとするロシアが一計を条 じる様子は次のように描 かれる。

「そのころチ ョラ・バ トウルが敵ロシア Ulysと 戦っていた。ロシア軍はチ ヨラ・バ トゥル を殺す方策が見つからず、占星術師にチ ヨラ・バ トウルの死の原因は何かと聞いた。占星 術師は天球儀をみて答えた。「チ ヨラ・バ トウルにロシアの娘が与えられ、その娘から男 の子が生まれれば、その子がチ ヨラ・バ トウルの死の原因となるであろう」 と。賢い将軍

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(11)

中央ユーラシア・テュルクの叙事詩に描かれる「異民族」

たちはこのことについて相談 し、ある娘 に美 しい衣服 を着せ、車に乗せ四頭の馬をつけて、

そばには下女 を置いて、チ ョラ・バ トゥルに嫁がせた。実は、その娘 にはチ ョラ・バ トゥ ルの子供 を宿 した ら、 ロシアに逃げ帰 るよう説 き伏せてあったのである。娘はチ ョラ・バ

トゥルの もとに来ると、チ ョラ・バ トゥルはこの娘がたいへん気 に入 った。その後長い時 が過 ぎ、チ ョラ・バ トゥルの もとで妊娠 した。そ して娘は逃げた。ロシアに帰 り、男の子

を産んだ」42。

このチ ョラの息子がやがて立派な戦士に成長 し、やがでチョラと戦って父の命を奪うの である。『チ ョラ・バ トゥル』 は、父子の戦いと主人公の死という悲劇的な要素を強 く含 んだ代表的作品のひとつであるといえよう。

さて、先に述べたような「具教徒」 との戦いというテーマは、ロシアとの戦いを歌 う叙 事詩にも流れている。ロシアとの戦いは侵略する「異教徒」からイスラームの世界を守る ジハー ドとして位置づけられてお り、それは『チ ョラ・バ トゥル』では、チ ョラの決意の 言葉によって示 されている。

シヤガリ・ハ ンの くにのために、サルカニ43の心のために 蒼い駿馬を疲れさせずに、名刀「青い竿」を黒い血で濡らさずに この異教徒の戦いを目に、このイデル44に沈ませずに

この異教徒が私に出させずに、

(われらの)聖なるモスクを建たせずに、「アッラー」とアザーン45を言わずに わが望みが叶わずに、戻れようか!戻れようか146

このような崇高な使命感をもって、ロシアと戦い続けたチョラであるが、物語はチ ョラ の死 という悲劇的な結末で終わる。「チ ョラ・バ トゥルは敵の兵士の中に入 り、彼 らを倒 したが、息子だけは殺せずに長い時間がたち、馬の足は赤 くなり、立っていられなくなり、

ついに馬はイデルに沈み、チ ョラ・バ トゥルは溺れて死んだ。J47

チ ヨラの最期の言葉は、次のように述べ られる。

カザンにはい くつ もの黒い河の流れ、

私は芦の茂る浅瀬に沈んでい く。

深 くもなく、浅 くもない、

今後の我 らのような勇士たちに幸運はない。

そ してカザンという名の町もない48。

チ ョラの死はカザン・ハ ン国の死の象徴である。この辞世の句に歌われるように、チョ ラの戦士 とともに、カザンも落ちたのである。これ以後、モスクヮ公国はアス トラハ ン・

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(12)

ハ ン国占領 (1556年)、 シベ リア・ハ ン国征圧 (1582年)、 クリミア・ハ ン国併合 (1783年)

な どを次々と行い、領土の拡張 を図つていつた。そ してモスクワ公回は、やがてロシア帝 国 という大国へ と発展す るのである。

18世紀 に入 ると、 ロシアと中央 アジアとの関係が急激に深 まっていった。先 に述べたよ うに、カルマク (ジュンガル)の中央 アジア攻撃によって、中央 アジアの人々は疲弊 して いた。カルマクによる被害が とくに厳 しかつたカザフでは、小 ジュズのアブルハ イル・ハ ンや中ジユズのアブライ・ハ ンが ロシアに臣従 を誓ったが、これはジュンガルの攻撃 を交 わすための便宜的なものであった。 アブライは、 ロシアだけでな く、中国 (清)へも朝 貢 を行 って関係 を維持 し、この二重朝貢 によってカザフの自立を確保 しようとしたのであっ た。 こうした功績か ら、アブライはカザ フのハ ンの中で もとくに名君の誉 れ高 く、現在で もカザ フ人の民族的英雄の一人 となっている。そのアブライの生涯 と功績 を歌 った叙事詩 も数多 く語 り伝 えられて きた49。 ァブライはロシアとの関係 を重視 しなが ら、

ロシアOrysにわが息子 トグムを使者 として、

友人にな り平和 に暮 らそ うと送 つた。

商業で両国がやつてい くために、

クズルジャル50とぃ ぅ町をす ぐに整備 した。

当時、クズルジャルには宮殿があつた。

アブライのアク・サ ライ (白い宮殿)と呼ばれていた51

とロシアとの交易 を盛 んに しようと考 えていたことが伝 えられる。アブライをは じめ、カ ザ フはカルマクの大 きな脅威のためにロシアに接近 したのであるが、互いに貿易 を盛んに す るということもその主要な 目的であったのである。アブライの息子が使者 として描かれ ているが、実際、ハ ン家一族の子弟が正使 として皇帝の元 に派遣 されていた52。

カルマクの侵攻 を背景 としたロシア との関係 は、『アルカルク・バ トウル』 に も映 され ている。カザ フの勇士 アルカルクに危険が迫 った ときに、友人の タテイが ロシアに行 くよ う提案 をす るが、 これ を「 タテイの この言葉 は知恵あるものだ。 この言葉 をロシア Orys の国 も同意す るJ53と賢明な ものであると叙事詩はいう。

しか しこうしたロシアとの関係 も、 ロシアの影響力が強 まるにつれて、必ず しも良好 な ものではな くなってい く。 とくにロシア帝国の統治下にある地域では、各地で これに異論 を唱える反乱が くり返 し起 こった。た とえば、ウラルのテュルク系民族バシュコル ト人は、

帝政ロシア支配下の17世紀後半か ら幾度 も反乱 を起 こし、いずれ も鎮圧 されている。これ には、毛皮や蜂蜜 など、ツァーリに納 めていたヤサーク (現物税)の取立てが厳 しく、困 窮 していた とい う背景がある。その後、1773‑75年に起 きた「プガチ ョフの反乱」には、

多 くのバ シュコル ト人が加わった。 この反乱の特徴は、中心的役割 を担 ったロシア人のみ

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(13)

中央ユーラシア・テュルクの叙事詩に描かれる「異民族J

ならず、マ リ人、ウ ドムル ト人、カルムイク人、チュヴァシュ人、カザフ人など様々な民 族が、また農民を中心に工場労働者や商人など多様な人々が参加 したことである。反乱の 首謀者であったプガチ ョフは皇帝 ピョー トル3世の名を踊って、人々を扇動 し、民衆の心 をつかんだのだった。

この反乱では、ロシア人に次いでバシュコル ト人が重要な役割を演 じた。その時の記憶 は、叙事詩の形でバシュコル トの人々に語 り継がれてきた。バシュコル ト人の反乱指導者 サラワ ト・ユラエフを主人公 とした『ユライとサラワ ト』には「国を閉ざす海の皇帝との 戦いをは じめた。皇帝の土地をつかむだろう54」 とロシァ皇帝 との戦いを始めたことが歌 われる。サラワ トがプガチ ョフを認めて、彼 と行動を共にする決意は「その日、サラワ ト はブガサウBugisau(プ ガチ ョフ)がすべての民に自由と大 きな公正を与えた勇敢な勇士 であることと′さから納得 し、反乱軍に大砲をといった55」 と示 される。彼が反乱軍に加わっ たのは、1773年11月のことであった56。 さらに、

サラワ トは戦いとともに、工場主との争いとともに。

プガチ ョフがやって きたら、皇帝の側につ くタルハン57を 貴族たちを驚かせ、近 くの工場の持ち主を脅 しつけた。

すべてをその手に入れたのは、彼である58

とプガチ ヨフの蜂起が工場主であった貴族など支配層に脅威を与えたことが述べ られる。

サラワ トは逮捕後、ロシア人の殺害を意図していなかったことを強 く主張 した59。 彼の行 動は単純な反ロシア的行動ではなかったというのであるが、彼が戦 うべ き相手を工場主や 皇帝、貴族などに見定めていたことは叙事詩にも歌われているのである。なお、ここでい う工場 とは、ウラル地方の製鉄・製銅工場のことである。過酷な労働環境で働いていた多 くの工場労働者 もこの反乱に加わ り戦ったのである。工場労働者にはもともとその土地で 農業を営んでいた農民で、工場労役に就かされていた者 もいた。なお、これらの工場はバ シュコル ト人の土地をJ又用 して建設されたものであった。バシュコル ト人にとって、工場 はロシアによる迫害の象徴だったのである。

さて、ロシア皇帝に反逆の峰火を上げたサラワ トであるが、反乱は平定され、1774年11

25日、彼 自身もついに捕 らえられてしまう。その最期は、叙事詩では劇的に伝えられる。

皇帝の軍隊が (サラワ トを)包囲 した。

馬に乗ることがで きずにサラワ トは

500人の騎兵がやってきても、彼を取 り囲んだとしても 手を胸の上に組むことはなかった。

矢筒が尽 き、刀が欠けても

‑121‑―

(14)

戦いの音が轟いた とき、群れ となった20人 を殺 し、300人 を打 ち破 った その後勇士サ ラワ トは捕 らえられた。手足 に鉄のかせ をはめ られて。

そ してさらに囚われたサ ラワ トが彼の意思 を継 ぐものが現れるように願い、その思いを 人々に託 したことが歌われる。

サ ラワ トはこう言 って、人々と別れた。

「大地 を雪が覆い、古 い草が色あせて も、

陽の差す春の雨が、再 び新芽 を芽吹かせ る。

民の もとか らサ ラワ トが去 って も、敵が流 したこの血潮 民 を敵か ら守 らせ よ、敵か ら仇 を取 らせ よ

再 び勇士 を増や させ よ1」

このようなサラワ トの願いによるものか、反乱平定後、ロシア人が降伏する一方で、バシュ コル トの人々は しぶとく抵抗 を続けたという61。 サラワ トはその後、監獄で労働 を強い られ、

1800年に獄死 した62。

ロシアの植民地政策 に反対する抵抗運動は、18世紀末か らカザ フ草原で も頻発 した。ス ルムの反乱 (1783‑97年)やイサ タイとマハ ンベ トの反乱 (1836‑38年)などとともに、

アブライの孫ケネサルが率いた反乱 も重要である。1822年に導入 された「 シベ リア・キル ギスに関す る規制」によ り、カザ フ・ハ ンの統治制度が崩れた結果、カザ フ草原にロシア の統治体制が敷かれた。 これを不服 とするアブライの息子や孫たちが、ロシアに対 して攻 撃 を仕掛 けるようになった。ケネサルは祖父アブライの後継者 を自認 し、ハ ンを自称 し、

一連の反乱 を指揮 した。彼の行 つた反乱 もまた叙事詩のテーマ とな り、語 り継がれて きた。

叙事詩 には、ロシア支配が進む中、それに従 うものを牽制する言葉が歌われる。

低地 にはコーカン ド(がいるが)、

草原ではロシアOrysが、町の統治者 となった63。

(おまえが)ロシアに行 って (彼らに)従うならば、

偶像の元で拝 むな らば/

ケネ・ハ ンがお まえの平安 をとるだろう、

ナウルズバ イ64が

ぉ前 に罰 を与 えるだろう65。

この ようにロシアの統治 を受け入れないように抵抗 を呼びかけた とい う。偶像の元で拝む とい う箇所 は、異教徒 に屈す るということを示 しているのだろう。そ してロシアに対 して は、次の ように互いに干渉 しあわないような提言 をする。

‑122‑一

(15)

中央ユーラシア・テュルクの叙事詩に描かれる「異民族」

そこでケネサルは言った。

「ペテロパヴェル、クズルジャルを統治 したのは一おまえ」と言った。

「ニコライ66に とっての敵は一わた し」 と言った。

「われら二人が友になるなら、おまえは私に触れるな、

私はおまえに触れはしない」 と言った67。

もっともこのような意見は、ロシア側には受け入れられるはずもなく、ロシアはケネサル を厳 しく弾圧 しようとする。そしてケネサルのロシアに対する攻撃が始まった。

ケネがハ ンの時代、われらは老雄ラクダのように従った。

敵を脅 し逃走 させ、吹雪 く雪のように吹 き荒れた。

「アブライ」 と叫びなが ら疾走 し、敵の前で駆け回った68。

ロシアの要塞攻撃などケネサルの抵抗行動はある程度の成果を得たが、ロシアの反撃に 会 い、弾圧 される。ケネサルは逃亡の末、1847年クルグズと戦って、処刑 された。ケネサ ル亡 きあとのカザフ社会については、次のように歌われる。

ケネサルがいなくなってから、われ らの玉座は空いたまま/

あとに残つた択児の民、国の豊かさはな くなった。

ついにこの社会は、このような状況になってしまった69。

ケネサルに関する叙事詩 も、『エディゲ』や [チョラ・バ トゥル』のようにソ連時代に は、公開されることなく、秘匿された。ソ連時代、ケネサルは「平和なアウルを破壊 し、

無実の人々を殺害 した70」 と批判の姑象 となっていた。カザフの人々の間での人気 とは裏 腹 に、「悪者」 とされたのは、エディゲやチ ョラと同様に、彼がロシアを攻撃 したために

ほかならないだろう。

中央ユーラシアの人々の叙事詩は20世紀に入ると、歴史的により具体的な叙述がなされ るようになった。この時期の代表的な叙事詩 として、1916年反乱を描いた叙事詩がある71。

1916年に中央アジアで起 こった大反乱の背景には、第一次世界大戦がある。1914年に勃発 した第一次世界大戦には、ロシアも参戦 していた。ロシア帝国に組み込まれた中央ユーラ シアの人々は、その運命をロシアとともにしていた。当時、戦争は長期化 し、総力戦の様 相 を呈 していたが、いわゆる異族人である中央アジアの人々の兵役は免除されていた。 し か し1916年 6月 に、中央アジアなどの「異族人」に対 して後方支援のための徴用令が出さ れ、19‑43歳の男子が戦争のための徴用に駆 り立てられたのである。これを不満とする中 央アジアの人々は講義や暴動の形で抵抗運動 を各地で起こし、やがてロシア支配に対 し異

‑123‑―

(16)

を唱える大反乱へ とつなが っていった。当時の彼 らの心情は叙事詩 に反映 された。

まず、皇帝の勅令が発せ られた 日のことは、「時は1916年、ニコライ72の勅令 を受け取 っ た年。夏の 日、 6月15日 、空は晴れ太陽が輝いた午後73」 と明示 される。そ して、戦争に 中央 アジアの人々が巻 き込 まれてい く様子 は次の ように歌われる。

脅威が 日に日に高 まっている、ロシアを ドイッが押 しやつている 轟 く銃が大 きな音 を立てて、時の終わ りが来た ようであった。

われ ら信徒 は心休 まず にこうい う、「故郷へ帰れる日はあるのだろうか」 と。

ドイツGemanと ロシア Reseiと の戦争の間で、

羊のようになって喜捨 をしなが ら言 う74。

わが皇帝は ドイツと、二年 と半年戦 った。

二人 とも偉大な皇帝。敗れることにはお構 いな しで、

互いに倒れぬ よう立ちなが ら。

この戦いは大 きな戦い、皇帝の軍隊の下で、

ロシアOrys、 カザ フ、ウズベ ク、サル ト75、 ェステク76、 ノガイ、 トルクメン

徴用 されて生 き残 る ものはな し。

カザ フに知 らせた、お まえの仕事 は望塚で と。

型壕で というその言葉 を、われ らカザ フで信 じた ものはいなかった77。

叙事詩 には、カザ フやウズベクなど多 くの人々が徴用のため駆 り立た されたことが示 さ れ、同時にそれにたいす る不信感 と不安感が表 されている。

われ らが皇帝 patshaニ コライの幸運 は尽 きた 自ら横暴 をふ るい、恐怖 を覚 えさせた。

皇帝の敵は内か ら外か ら増 えて、

その 目に敵が映 り彼の夢 は消 え去 った。/

われ らカザ フにたいす る皇帝の慈悲 はない、

植民者の嘲笑 に苦 しむな。

自由や家畜の所有権がな くなってか らは、

豊かな長寿 を喜ぶな/

皇帝の侮辱か ら逃れ よう、

生 きている限 り、皇帝の縛 りか らもが き続けよう 不幸 と災厄が消 え去 った と、

死ぬな らば、死 なぬ ところへ逃げ出そ う78。 (ブザ ゥバ ク・アクン「皇帝の運 は尽 き

‑124‑―

(17)

中央ユーラシア・テュルクの叙事詩に描かれる「異民族」

た」)

そ してロシア革命が勃発 し、中央 アジアも革命の混乱 に巻 き込 まれる。 これ らの1916年 の反乱 を描いた作品は、革命後、帝政期の状況がいかに過酷 なものであったかを示すため に喧伝 された側面があ り、 プロパ ガング的要素が強調 されたことも否めない。叙事詩 は、

プロパガングとしての役割 も担わされたのであった。

5。 中国

中国 も中央ユーラシアの叙事詩 に しば しば登場す る周辺の「異民族」である。 とくに、

中国 と関係の深かつたクルグズやカザ フなど、中国 と接す る民族 に伝 わる叙事詩に中国は 現れる。 もっとも中国にたいす る呼び名やそれが示す実態は時代や場面 によって多様で異 な り、一概 に中国 とい う言葉でまとめるべ きではないが、 ここでは原語 を併記 しなが ら、

便宜上「中国」 と統一 して表 し、その名称や意味する姑象 については、個別に見てい くこ とにする。

クルグズの叙事詩 [マナス』 に登場する中国の位置はチベ ッ ト高原の向こう、つ ま リク ルグズか ら見て東 にあ り、その地はマ ンジュリアであつた と歌われる。

(マナスのお じ)は中国 Qytaiに 去って元気 になった。

彼の子供 は異人 として育つ ことになった。

向かっていつた土地 は、マ ンジュリアMal可uriyaの草原だった。

チベ ッ トの向こうの地方であった79。

キタイとは中央ユーラシアで一般的に中国を表 し、ロシア語 にも「中国」の意味で入 って いる言葉であるが、叙事詩 においてこれが具体的に何 を指すかについては諸説ある。中国 の国家、中国 とい う地域、中国の人々がそれぞれ文脈 によって使い分 け られ、具体的には、

10‑12世紀の契丹・西遼 (カ ラキタイ)や17‑20世紀の清朝 などを示す とされる30。 しか し、ここではキタイと並 んでその土地がマンジュリア、すなわち清朝が興 った満州地方で あると歌われることか ら、 この地域 に源 を発する清朝 を指 していると考 えるのが妥当であ るだろう。叙事詩はさらに、

向こうの中心 は大都市ベエジンBettin そこか らの知 らせ によるとこうである。

数え切れぬ民 を治めている長、

その皇帝padyshaはエセ ンカンEsankan。

将軍jangttungか ら状況を聞き、カルダイ81から情報を聞いた82。

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参照

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