『
大
原
集
』の
証
心
鈴
木
佐
内
[ 論 文 要 旨 ]『 代 集 』 の 「 大 原 集 証 心 撰 、 お お は ら の 歌 。 」 の 一 行 の 記 録 を た よ り に し て 、 長 明 「 伊 勢 記 』 の 旅 の 同 伴 者 証 心 法 師 の 考 察 を し た 。 『 大 原 集 』 の 証 心 は 「 朗 詠 要 抄 』 の 藤 氏 朗 詠 相 承 系 譜 に み え る 中 原 有 安 の 弟 子 証 心 と 同 一 人 物 で あ る と し 、 証 心 像 を 拡 大 し た 。 『 大 原 集 』 の 証 心 の 存 在 は 、 長 明 と 洛 北 大 原 と の か か わ り を 明 か し 、 長 明 の 履 歴 解 明 、 『 方 丈 記 』 解 釈 に も 資 す る こ と 「 に な る わ け で 、 「 大 原 集 證 心 撰 、 お お は ら の 歌 。 」 と い う 一 行 の 記 録 は 貴 重 で あ る と 言 わ ね ば な ら な い 。 瓣 『大 原集』の証 心 『 方
丈
記 』 の作
者 、鴨
長
明 に 『 伊 勢 記 』 と いう
、 歌 を 中 心 に し て 綴 っ た 紀 行文
が あ る 。 こ の 『 伊 勢 記 』 は 『本
朝
書 籍 目 録 』 に 「 蓮 胤伊
勢
記
」 と み え る が、 つ と に散
逸
し 『夫
木和
歌 抄 』 『 伊 勢 記抜
書
』 ( 神宮
文 庫蔵
) 、 『 三 国 地誌
』 他 に 逸 文 と し て み え る の み で 全 容 は 不 詳 で あ る 。 佚文
は 簗 瀬 一雄
氏 が収
集 さ れ 『校
註鴨
長
明
集 』 ( 風 間 書 房昭 和 五 五. 八 ・ 一 五 ) に 収 め ら れ て い る 。 こ の 『
伊
勢
記
』 の 旅 に 証 心 法師
と い う も の が 同 行 し た こ と が 記 さ れ て い る 。 証 心 に つ い て は 、後
藤
丹 治氏
が 「 鴨 長 明 伊 勢記
考
」 ( 『 中 世 国 文 学 研 究 』 所 収 ) に お い て 「 園 城寺
伝
法
血 脈 」 (東
大
史
料 編纂
所園 城 寺
蔵
本
写 ) に み え る 大 納 言 邦綱
の猶
子
、 証 心 、 『尊
卑
分脈
』 に み え る藤
原 俊 経、法
名 証 心 、 『 朗 詠要
抄 』 の 藤 氏 相承
系
譜 に見
え る証
心 の 三 説 を 提出
さ れ て か ら 、 問 題 を も ち な が ら も 藤 原 俊経
証 心 説 に 注 目 さ れ な が ら 研究
が す す め ら れ て き た 。智山学報第四十七 輯 こ れ に つ い て 、 わ た し は 、 藤 原
俊
経
証 心 に つ い て は 、弁
官
・ 勘解
由
長
官 を 歴 任 し参
議 正 三 位 に 至 り 七十
三歳
で 出 家 し た そ の経
歴 、 年令
か ら し て 、 従 五 位 下 と い う 長 明 の 身 分 と は 不 釣 合 で あ り、 旅 の 同 行 者 と し て は考
え ら れ な い こ と を 述 べ 、 『 朗 詠 要 抄 』 に み え る 藤 氏 朗 詠 の 相承
系 譜 に みえ
る 、 中 原 有安
の 弟子
、 証 心 を 提 説 し た 注 。 し か し朗
詠 相 承系
譜 の 証 心 の 出 自 に つ い て も 不 明 で 、 こ れ の 長 明 の か か わり
に つ い て も 、 長 明 と は師
を 同 じ く す る の み で 、 更 に 長 明 と の か か わ り を 証 す る資
料 も な く 、 た だ 有 力 視 さ れ て き た藤
原俊
経
と は 別 人 で あ る こ と を いう
に と ど ま っ た の で あ る 。 『代
集 』 と い う 歌学
書 が あ る 。 こ れ は 「 国文
学 秘 籍 解 題 」 (佐
佐 木信
綱 ) に 「 佚 名抄
」 と あ る も の で 、 作 者 は 不 詳 で あ る 。 い ま 、 「 日 本 歌 学 大系
」 (第
五 巻 ) に 『代
集
』 と いう
名
で 収 め ら れ て い る 。奥
書 に 「右
以 鎌倉
時 代 古鈔
本
書 写 以 彰 考館
文 庫 本 補 缺 畢 。 昭 和 三 十 二年
三 月 。 」 と あ る 注 。 成 立 は 鎌 倉時
代末
期 、 弘 安 元 年 ( 一 二 七 八 ) か ら 弘安
十 一年
( 一 二 八 八 ) の 間 と 推定
さ れ て い る 注 。 作 者 に 藤 原 為 行 説 、 二 条 為 世説
な ど が あ る 。 内 容 は 、代
集 、 打聞
、 髄 脳 ・ 口 伝等
、 物 語 、 廻文
歌 ・無
心 所着
歌、 古今
序 の 事 、神
代 十 二代
・ 人代
の 七 項 か ら な る 。 神 代 十 二 代 、 人代
、 物 語 の 項 の よ う に 、 歌 以 外 の事
に も ふ れ て い る 。 私 撰 集 名 を 記 し た 打 聞 、物
語
名
を 記 し た 物 語 の 項 は 、 散 佚 歌集
、散
佚 物 語名
が 見 え る こ と に よ っ て 、 そ の 方 面 の資
料 と し て 注 目 さ れ てき
た が、 歌 に つ い て の こ と が 大 分 を 占 め 、 ま た 、 物 語 の 項 に 「 こ と に 物 語 は 、 む か し い ま か ず を し ら ず 。 く は し く し り て も 歌 の 道 に よ し な き の み あ れ ば 、 し る さ ず 。 」 と あ る か ら、 歌 学便
覧
、 乃 至 覚 書 を 意 図 し て 書 か れ た と い う 性格
の も の で あ る 。 こ の 「打
聞 」 の 項 に 「 を く ら の類
聚 歌林
を 撰 し は じ め し よ り こ の か た、 い へく
の打
聞 かず
を し ら ず 。 こ れ は わ つ か に き ・ お よ び み お よ ぶ ば か り 也 。 思 ひ い だ す に し た が ひ て し る す ゆ ゑ に、前
後 も か な らず
し も次
第
な らず
。 」 と後
記 が あ り 、 歌集
名 、 歌 学書
の 名 が み え る 。挙
げ ら れ た 歌 集 ・ 歌 学 書 の総
数
七 十 六 、 う ち 歌 学書
は = 字 抄 」 「 初 学 抄 」 「奥
義
抄
」 「 袋 造 紙 」 な ど 、 ご く わ『大原 集』の証心 ず か で あ る 。 『 和 歌 色
葉
』 は 「 私 の 集 打 聞 随 脳 口伝
物 語 思 々 に お のく
やう
く
に お ほ か り 。 」 と し て 、 憶良
の 『 類 聚 歌 林 』 を 冒頭
に し て 作 品 を挙
げ 、 『 玉 花 集 』 に い た り 、 「 か や う に い ま で の 人み
\ お も ひく
に あ つ め た り 。 し つ の か き ね の は な の や つ れ て に ほ へ る が ご と し 。 」 云 々 と 、 こ れ ら の 作 品 類 を 区 別 な く 列 記 す る の に た い し て 、 『 代 集 』 の 方 は 「打
聞
」 「 随 脳 ・ 口伝
等 」 「 物 語 」 と 区 分 し 記 述 し て い る 。 『和
歌 色 葉 』 の 記 述 か ら 「 髄 脳 口 伝 物 語 」 を と る と 、 「 打 聞 」 の部
分 だ け が残
る の で あ る が 、 こ の よう
に し て 残 っ た 「打
聞 」 の 記 述 は、 そ の ま ま 『代
集 』 の 「打
聞 」 の 記 述 順序
と な っ て い る 。 た だ し 、 『 代集
』 にあ
っ て 、 『 和 歌 色 葉 』 に な い も の に 『 亀 鏡集
』 『 続 詞花
』 『 影供
集 』 『 残瓊
集 』 『袖
の う ち集
』 『 門 葉集
』 『 み も す そ 河 集 』 が あ り 、 「奥
義抄
、 }字
抄 、 類 聚 題 林 、 初 学 抄 、袋
造 紙 、 今 撰 集、 み な 清輔
が し わ ざ 也 。 」 と あ る の に対
し て 、 『代
集 』 が 「 一字
抄 ・ 初 学 抄 ・奥
義
抄
・ 今 撰集
・袋
造 紙 ・ 類 聚 題 林皆 清 輔 朝 臣 撰 。 」 の 順
序
で 、 列記
の 順 序 が こ と な る 。 書 承 関係
を 推 測 さ せ る が、 具体
的 に は 不 明 で あ る 。 但 し 、 こ れ は 『 玉 花集
』 ま で の こ と で あ っ て 、 『楢
葉
集 』 以 下 の 二 十 七 集 に つ い て は 『 和 歌色
葉
』 に は な い 。 「 打 聞 」 の 項 は 私撰
歌 集名
を 列 記 し た 項 で あ る が 、 こ こ に挙
げ ら れ た 歌 集 は 、 概 ね 成 立 順 に 記 さ れ て い る ら し い 。 こ こ に 「松
葉
国 助
撰
、す
み よ し に て よ め る 歌 ば か り を あ つ む 。 」 と し て国
助 撰 の 『 松 葉 』 を あ げ る 。 『 松 葉 』 は 最後
か ら 数 え て 三番
目 に あ げ ら れ て い る 。 撰 者 の 国 助 は 仁 治 三年
( 一 二 四 二 ) に 生 ま れ 、永
仁
七 年 ( 一 二 九 九 ) 、 五 十 八歳
で 没 し て い る 。住
吉
の 神 主 国平
の 長 男 で あ る 。 「 す み よ し に て よ め る 歌 ば か り を あ つ む 。 」 と あ る の は 頷 け る 。 『 代 集 』 の 成 立 年 代 は 『 松 葉 』 成 立 以後
の こ と で 、 「 解 題 」 の い う 成 立 年 代 に 重 な る こ と に 注 意 し た い 。 こ の 『 代集
』 の 「 打 聞 」 に 「大
原 集證 心 撰 、 お お は ら の 歌 。 」 と し て 『 大 原 集 』 な る 歌
集
名
が 見 え る 。 こ の 歌 集 、 い ま は 散 佚 歌集
で あ る 。 『 和 歌 現 在 書 目 録 』 に は そ の名
は み え な い 。 『 和 歌 現在
書 目 録 』 は 仁安
年
間 (=
六 五 〜 一265
一智 山学報 第四十 七輯 一 六 八 ) の 成 立 と さ れ る か ら 、 『
大
原 集 』 は当
時 目 に ふ れ な か っ た か 、 以後
の成
立 と 推 測 さ れ る の で あ る か 、恐
ら く は 後 者 で あ ろ う 。 『 大 原 集 』 の名
は 『 入 雲御
抄
』 に も見
え る 。巻
第
一 「 正 義部
」 の 「雑
々 」 の 項 に 「 大 原 集 法 信 」 と見
え る の が こ れ で あ る 。法
信
と 言う
名
は 何 に よ っ た も の か 明 ら か で な い が 、 『 代 集 』 の 『大
原集
』 と 同 一 の 書 を 指す
も の と考
え ら れ る 。 ま た 、 『 和 歌 色 葉 』 ( 上 ) の 「 五撰 抄
時
代
者
付 私 集 口
伝
物 語 」 の項
に 「 證信
捫 法
が 大 原 集 」 と み
え
る 。 『 八 雲 御 抄 』 の 記録
は 、 僧名
と 房 名 に 錯綜
が あ っ た の で は な か ろう
か 。 とす
る と こ れ は 『和
歌 色 葉 』 の 記 録 を よ り 正確
な も の と 見 る こ と に な る 。 『 和 歌 色 葉 』 は 「 證 信 」 と な っ て い る が 、 音 が 通 ず る と いう
こ と で 『 代 集 』 の 「證
心 」 を取
る べ き も の と考
え て お き た い 。 そ こ で 、 い ま 、 「 大 原 集證 心 撰、 お ほ は ら の 歌 。 」 の 記 述 を と り あ げ 、 『
伊
勢 記 』 の 証 心 法師
の考
察
を進
め て行
き た い 。最
初 に 、 証 心 の 生 存年
代 に つ い て検
討
し た い 。 言 う ま で も な い こ と で あ る が 、 こ の 証 心 が、 長 明 の 生存
年
代
に 合 わ な け れ ば 、旅
の 同 行 者 と は な ら な い か ら で あ る 。 証 心 の 生存
年 代 は直
接 的 に こ れ を 証 す る 資 料 はな
い 。 た だ 、 こ の 『 大 原集
』 が い つ 頃成
立 し た か は こ れ を推
定
す る こ と が で き る 。 『 代集
』 の 「打
聞
」 に 取 り 上 げ ら れ た歌
集 は 、 概 ね 成 立 時 代 順 に 配列
さ れ て い る こ と に 注 目 す れ ば 、 『 大 原 集 』 の 成 立年
代
を 割 り出
す こ と が で き る と い う こ と で あ る 。 そ こ で ま ず 『 大 原集
』 の 前後
の 歌集
を み た い 。 『大
原 集 』 の 前 に 記 さ れ た 「 三 十 六 人 十 八番
」 歌合
の撰
者覚
盛 は 建 仁 元年
( 一 二 〇 一 ) に は存
命 し て い た と さ れ る 。 建 久 二年
三 月 三 日 若宮
歌 合 ( 一 一 九 一 ) 、 「 三 百 六 十番
歌合
」 に 歌 が と ら れ て い る 。 「 三 百 六 十番
歌 合 」 は 、 正 治 二 年 ( 一 二 〇 〇 )当
時 の 現存
歌 人 の 作 品 を撰
し た も の で 、 成 立 は建
仁
元年
以降
と さ れ る 。 『 大 原 集 』 の後
に 記 さ れ た 『 名 月 集 』 の 宗 円 は 、 治承
二年
廿 二 番 歌 合 、 正治
二 年 石清
水
若
宮
歌合
、r
大 原集亅の証心永
元 三年
長 尾社
歌
合
な ど に 出詠
し て お り 、 生 年 は永
暦 元 年 ( 一 一 六 〇 ) と さ れ て い る 。殊
に 、 こ の 宗 円 の 場 合 は 、 久寿
二年
( 一 一 五 五 ) 生 ま れ の 長 明 と は 生 活年
代 が 重 な る こ と に な る 。 こ の前
後 の 二 歌集
の 撰 者 か ら推
測 す れ ば 、 『 大 原集
』 の 成 立 は 十 二 世紀
を 三 区 分 し た 場合
の 後半
と 推 測 さ れ る 。 そ れ は 証 心 の 歌 人 と し て の活
動
年
代 で も あ っ た と いう
こ と に な ろう
。 こ れ を 以 て 、 こ の 証 心 は 、長
明 と 同時
代
の 人 で あ る と い う こ と が で き よう
。長
明 と 同 年代
に い た 『代
集 』 の証
心 は 、 同 じ く 長 明 と 同 年代
に い た 中 原有
安
注 の弟
子 の 証 心 と 同 一 人 物 と 考 え ら れ る 。 と こ ろ で 、 「代
集 』 の 著者
は こ れ ら の 書 の 一 部 に つ い て 目 を 通 し て い る の で は な い か と 思 わ れ る 。 例 え ば 『 八 雲 御抄
』 が 「山
月集
経
因 」 、 『和
歌
色 葉 』 が 「 経 因飲 和
が
山
月 集 」 とあ
る の に 対 し て 『 代 集 』 は 「山
月
集
経
因 撰 、 ひ え の山
の 歌 ば か り 也 。 」 と し 、 ま た 、 『 八 雲 御 抄 』 が 「大
原 集法
信
」 、 『 和 歌 色 葉 』 が 「 證 信 。堋 法
が 大 原 集 」 と あ る の に 対 し て 、 『
代
集 』 は 「 大 原集
證 心 撰 、 お お は ら の 歌 。 」 と し て い る 。 ま た 『 入 雲御
抄
』 『 和 歌色
葉 』 成 立 以後
の作
品
と 思 わ れ る 『楢
葉集
』 に つ い て は 、 『代
集 』 は 「楢
葉集
素 俊 撰 、 な ら の 歌 。 」 、 同 じ
く
『 松葉
』 に つ い て は 「 松葉
国
助 撰 、 す み よ し に て よ め る 歌 ば か り をあ
つ む 。 」 な ど の 、 歌集
の 後 に 付 け ら れ た 説 明 か ら 推 測 で き る 。 「打
聞 」 の項
の 末 尾 に 「 を く ら の 類 聚 歌 林 を 撰 し は じ め し よ り こ の か た 、 い へく
の 打 聞 か ず を し ら ず 。 こ れ ら は わ つ か に き ・ お よ び み お よ ぶ ば か り 也 。 」 と付
記 し て い る が 、 こ れ は 見 及 ん だ も の の 証 と な ろう
。 上 述 の よう
に 、 『大
原 集 』 で は 、 歌集
名 の 下 に 「 お お は ら の 歌 。 」 と いう
付
記
が あ る 。 「 お お は ら の 歌 」 は 『 代集
』 の筆
者 が実
際
に 『大
原 集 』 を見
た う え で の 注 記 と考
え た い 。 『 大 原 集 』 は証
心 の 私 家 集 と も考
え ら れ る が 、 「 な ら の 歌 」 の注
記
の あ る 素心
の 『 楢葉
集
』 が 、 奈良
、及
び奈
良 に 縁 の あ る 者 の 歌 を収
め た も の で あ る の に よ れ ば 、 『 大 原 集 』 は 、 証 心 自身
の 歌 も 含 め て 、大
原
関
係 の 歌 、即
ち 、大
原 在 住 の 歌 人 の 作 品 、 大 原 を 歌 っ た作
品 を 収 録 し た 歌集
で あ っ た と考
え ら れ る 。 し か し 、 ま た 、 証 心自
身
の 大 原 に つ い て の 歌 を 収 め た 歌 集 と も考
え ら れ る 。 い つ れ に し て も 『代
集
』 の筆
者
は 、 証心
撰
の 『 大 原集
』 な る 私撰
集 が あ っ て 、 こ れ に 目 を 通 し 、 こ の 歌 集 の特
徴 を 一 言 「 お お は ら の 歌 」 と 書 き 記 し た の で あ る 。 こ267
一智 山学報 第四十七輯 れ に よ っ て 、 証 心
自
体
は大
原
に 住 ん で い た法
師
で あ る と 考 え る の が 適 切 で あ ろ う 。 『和
歌文
学 辞 典 』 (有
吉
保 編 ) の 中古
散 佚 撰 集 の 項 に は 、 「 大 原集
和
歌 色葉
・ 八 雲 御抄
な ど 。 円法
房 証 心 ( 藤 原 俊 経 ) 撰 」 と あ る 。 証 心 を藤
原 俊 経 と し た の は何
に よ っ た も の か 。 「尊
卑
分 脈 』 な ど に よ っ て 比 定 し た の で あ ろ う か 。 あ る い は ま た 、後
藤
丹 治 氏 が 「 鴨 長 明 伊 勢 記考
」 ( 『 中 世 国 文 学 研 究 』 所 収 ) に お い て 長 明 『 伊 勢 記 』 同伴
者 と し て の 証 心 に つ い て 、 「 園 城 寺 伝法
血 脈 」 (東
大 史 料 編纂
所園
城
寺 蔵本
写 ) に み え る 大 納言
邦 綱 猶 子 、 証 心 、 『 尊卑
分 脈 』 に み え る藤
原俊
経
、法
名
証 心 、 『朗
詠 要 抄 』 の藤
氏
相 承 系 譜 に見
え る 証 心 を提
説 さ れ た が 、 こ れ に よ っ て選
ば れ た も の で あ ろう
か 。藤
原 俊 経 は 『 公 卿 補 任 』 に み え 、 弁 官 か ら 昇 り 、 元 暦 二 年 (=
八 五 ) に は、参
議
正 三 位
勘 解 由 長
官
式 部 大 輔 、 正 月 廿 日 に は 阿
波
権 守 を 兼 ね 元 暦 二年
五月
八 日 出 家 し て い る 。 「法
名 隆 心 」 と あ る 。 『尊
卑 分 脈 』 は 「 証 心 」 で あ る 。 こ の方
に は 甍年
の 記 載 が あ り、建
久
二 年 五 月 廿 二 日、 七 十 九 と な っ て い る 。 こ の藤
原 俊 経 を 比 定 し た も の か 。 藤 原 俊 経 証 心 は 、 長 明 と 伊 勢 記 の 旅 を 共 に し た も の と は考
え ら れ な い 。 俊経
証心
は 経 歴 ( 『 公 卿補
任 』 、 『 尊卑
分 脈 』 ) を 検 み し て も 、 大 原 に 住 ん だ 形 跡 は な い 。 経 歴 か ら も 不適
で あ る 。 従 っ て、 『代
集
』 の 証 心 は 、 藤 原 俊経
証 心 と は 別 人 で あ る 。 俊 経 証 心 の 適 当 し な い こ と は 前 記 の 拙 論 ( 注の
論
文 〉 で 述 べ た が、 邦 綱 の 猶 子 証 心 の 適否
に つ い て は 詳 述 し な か っ た の で こ の否
な る こ と を 次 に 述 べ た い 。後
藤 丹 治 氏 が提
出 さ れ た 三 人 の 証 心 の う ち で 、 邦 綱 の 子 の 証 心 は あ ま り 注意
さ れ な か っ た 。邦
綱
の 猶 子 の 証 心 は 「 園 城寺
伝
法
血 脈 」 に み え る 証 心 で あ る 。 「 園 城寺
伝法
血 脈 」 の 、 四 十 三 世 公 舜 法印
付 法 の 弟 子 一 八 人 の 中 に 、 妙法
房
同−
三−
四同 所 四 人 證 心 大 輔
宗
実
受
法 行 慶 入室
覚
忠 解「大原集」の証心
龍 雲
坊
阿
“神
ー
如 上 唱…
増
観
大
納 言 邦綱
猶
子建
久 ニー
十 ニー
十 二卒
、 ハ + 九 と あ る 。 『寺
門伝
記補
録
』第
十 六 に も 、 こ の 証 心 の こ と が 見 え る 注 。 但 し 、 こ の 方 は 「大
納 言邦
綱 子 」 と あ っ て 「 猶子
」 と は な い 。行
慶 は 園 城 寺 長吏
第
三 十 世 で 、 白 河 院 の 子 で 、 桜井
大
僧 正 と 稼 さ れ た 。 証 心 は こ の行
慶 入室
の 弟 子 で あ る 。 建久
二年
( 一 一 九 一 ) 一 二 月 一 二 覊 に 六 十 九 歳 で 卒 し て い る 。 とす
れ ば 、 そ の 焦 年 は 保 安 四年
(=
二 茲 〉 で あ っ て 、長
明 の時
代 と 重 な る と こ ろ が あ る 。 父 の 大納
言
邦綱
と いう
の は 『尊
卑
分 脈 』 に み え る 藤 原為
時
六 世 の子
孫 の邦
綱 であ
る 。 「 正一 一 木 工 夙東
宮
大 夫権
大 納 書母
散
位
公 長女
号
五 条大
納
醤治 隶 五 壬 二 三 出 家
同 一 一 三
甍
六 十 」 と あ る 。
邦
綱 は長
明 の前
半
生 と そ の 生 活年
代
が 重 な る わ け で 、証
心 が そ の ( 猶 ) 子 で あ れ ば よ り 重 な る こ と に な ろ う 。 邦綱
は 『 公卿
補 任 』 に よ れ ば 、 仁安
元年
( 一 一 六 六 ) 正 四位
下 で参
議
に任
じ ら れ 公卿
に列
し た 。時
に 四 十 五歳
、 逆糞
す れ ば 、 そ の 生年
は 保 安 三年
( 一 = 一 二 ) であ
る 。養
和 元年
(=
八 一 )閏
二 月 三 日 、 所労
に 依 っ て 出 家 、 同 廿 三 日 に 甍 じ て い る 。歳
六 十 で あ っ た 。 五 条 大納
言 、 ま た 土御
門大
納 言 と 号 し た 、 と あ る 注 。 大 納 言 で 邦 綱 な る 公卿
は こ の 他 に 該当
者 は い な い 。 こ の邦
綱 は権
大
納
雷 であ
る が 、 五条
大
納
欝 あ る い は 土 御 門大
納
鷙 q と 称 さ れ た こ と を考
え れ ば 「 園 城寺
伝
法
血 脈 の 「 大納
言 邦 綱 」 の 記 載 は ま た適
当
と す べき
で あ る 。 「尊
卑
分 脈 」 で は 、 邦 綱 の猶
子 を 探 せ ば泰
秀
が い る 。 「実
父高
階紳
親 也高
松院
蔵
人猶 子 也 」 と あ る 。 こ れ を 『 園 城
寺
伝法
血脈
の 証心
と 仮定
し て み る と 、 長明
の 『 伊 勢 記 』 の 旅 の 文治
二年
( 一 一 八 六 ) は 、 証 心 は 六十
四 歳 で あ っ て 、 三 十 二 歳 の長
明
と は年
令
の 差 が あ り過
ぎ る 。 さ ら に 別 の 面 か ら 考 え れ ば 、 不自
然 な こ と は 、 「尊
卑
分脈
」 の邦
綱
と 「尊
卑
分 脈 」 の 証 心 の歳
の差
が 一 年 で あ る こ と であ
る 。従
っ て こ の 証心
を 邦綱
の 猶 子泰
秀
に 比 定 す る こ と は無
理 で あ り 、 ま た 邦綱
の 猶 子 を泰
秀
の 他 に 求 め て も 、 大 納言
邦 綱 と 「 園 城 寺 伝 法 壷脈
」 の 証 心 の 生 没 年 が 、 一 年 の差
し 一269
一智山学報第四十七輯 か な い の で は 比 定 の
障
害 と な ろ う 。 ま た 、 証 心 は 『 和 歌 色葉
』 に は 円 法 房 と あ り 、 「 園 城 寺伝
法 血 脈 」 『寺
門 伝 記 補 録 』 に は 妙 法房
と あ る 。 こ れ は い ず れ が 正確
か の 問 題 で は な く 、 『大
原 集 』 の 円 法 房 証 心 と 「 血脈
」 『 補 録 』 の 妙 法 房 証 心 と は 別 人 と考
え る べ き も の で あ ろう
。 ま た、 こ の邦
綱 の 猶 子 証 心 の 、 公舜
法印
か ら の受
法
の 年 は 仁安
三 年 ( 一 一 六 八 ) 三 月 四 日 、 四 十 六歳
の 時 で 、 こ れ は伝
法
の 阿 闍 梨 や 職衆
も 記 さ れ て い る 。 一 方 長 明 の方
は 「 蓮 胤 」 と い う法
名
は 持 っ て い る が 、 そ の 仏 道 修 行 の経
歴 は 明 ら か で な く、法
名 は、 い つ 、 誰 か ら受
け た か は 明 ら か で な い 。 そ の 経 歴 か ら も 推 測 で き る よ う に 、 俗 名 を 襲 用 し た長
明 ( ち ょう
め い ) が 通 用 し て お り 注 、 長 明 入 道 、 あ る い は 長 明 法 師 と で も称
し た ほう
が ふ さ わ し い の が 長 明 で あ っ た 。 こ れ に 対 し て 、 邦 綱 の 猶 子 証心
の 方 は 出家
後
修
行 し 、 所 定 の行
位 を 経 て の受
法
で あ り、龍
雲 坊 の伝
法 阿 闍 梨 に 補 さ れ た とあ
る か ら、 以 後 、 阿 闍梨
と し て寺
院 生 活 を し た の で あ ろう
。 同 じ僧
侶
と い っ て も 、 長 明 の 世界
と は 異 な る と いう
べ き で あ る 。 し た が っ て 、 こ の邦
綱 の 猶 子 証 心 は 該 当 し な い と いう
べき
であ
る 。 私 は 『 朗詠
要
抄 』 の 証 心 を 、 中 原有
安 と いう
師
を 同 じ く す る と い う こ と で 、 生活
年
代 が 重 な る と推
論 し た ( 注の 論 文 ) 。 加 え て 、 こ こ に 『
大
原
集
』 の 証 心 を 重 ね よう
と す る の で あ る 。 『 伊 勢 記 』 の 旅 は 、 文 治 二 年 ( 一 一 八 六 ) 、 長 明 三 二 歳 の時
と推
定
さ れ る か ら 注 、 養和
元年
( 一 一 八 一 〉 、 二 七歳
で 私 家 集 『鴨
長 明集
』を
だ し た 歌 人 長 明 と は 釣合
が と れ る 。 和 歌 を好
み、 中 原有
安
の弟
子 と し て 音楽
( 朗詠
) の 相承
系
譜
に名
の み え る 証 心 は 、 長 明 と 趣 味 を 同 じ く し 、 特 に 、 音楽
の 師 を 同 じ く す る と いう
点
で 、 知 己 と な り やす
い 機会
をも
っ て い た こ と 、 二 人 は、 音 楽 を 通 じ て 、 ま た 歌 を 通 じ て の知
己 で あ る こ と が 推 測 さ れ る 。 大 原 に 住 み 、 『 大 原集
』 な る 歌 集 を の こす
歌 人 証 心 は 、 藤 氏 朗 詠 相承
系
譜 の 証 心 に 重 ね て 矛 盾す
る と こ ろ が な い 。 長 明 は 元 久 元年
( 一 二 〇 四 ) 春 、 五 〇 歳 で 出 家 し 大 原 山 の庵
に 入 る 。 「 ム ナ シ ク 大 原 山 ノ 雲 ニ フ シ テ 、 又 五 カ ヘ リ「大原集 亅の証 心 ノ 春 秋 ヲ ナ ン
経
ニ ケ ル 」 と い う 、 最 初 の隠
棲
先
は 大 原 で あ る 。 こ の大
原 に つ い て は洛
北 の 大 原 、 洛 西 の大
原 の 二 説 が あ り 、 いず
れ も大
原 の 地 と の縁
故
が 云 々 さ れ て き た 。古
注 で は 『 泗 説 』 が 「 山 城 国愛
愛 ( 宕 ) 郡 也 」 と 言 い 、 『 諺解
』 が 「山
崎
の 北 西 の 岡 也 さ の ミ 大 原 山 に 住 と い ふ に ハ あ ら す 長 明 西 方 を念
す
れ バ 弥 陀来
迎 の 西方
の 紫 雲 に な ず ら へ て 角 ハ 云 也 」 と言
う
。 も っ と も後
者 は こ の文
節 を 修飾
語句
と 見 て の表
現 とす
る の で あ る か ら 、 か な らず
し も 西 の 大 原 説 の提
唱
と は言
え な い が 、 『 流水
抄 』 で は 「 城 州 乙 訓 郡大
原 野 の 西 也 。 」 と し 、 後 拾 遺集
の藤
原 国房
の 「 お も ひ や る 心 さ へ こ そ 悲 し け れ大
原
山 の あ き の夕
く れ 」 の 一首
を 引 い て い る 。 『 宜 春 抄 』 は 「 山 城 国 に 二所
あ り 。 愛 宕 郡 と 乙 訓 郡 と な り 。 こ ・ に い ふ は愛
宕
郡 の や せ大
原
の 山 の事
な り 。 」 と し て愛
宕
郡 の大
原 説 を 提 唱す
る 。 以 後 、 北 の大
原 説 を 主 流 と し な が ら も 、 二 説 並行
し て 現在
に 至 っ て い る 。 『伊
勢
記 』 の 旅 を 共 に し た 『大
原 集 』 の 証 心 と の 縁 故 が 、 既 に 『伊
勢
記
』 の こ ろ に あ っ た と す れ ば 、 洛 北大
原
と の 縁 故 が 成 立 し て い た こ と に な る 。 こ の こ と に よ っ て 洛 西 、 洛 北 と、大
原 二 説 あ る な か で 、洛
北
大
原 説 を と る 。 ま た 、 こ れ に よ っ て 隠 棲 の 地 と し て 洛 北 大 原 の 地 を 選 ん だ 長 明 の後
の行
動 が 説 明 で き る 。大
原 山 は 、 必ず
し も 洛 西 の 小 塩 山 を さ し て の 大 原山
で は な い 。 洛 北 の大
原 山 の歌
も あ る 注 。 長 明 の 大 原 は洛
北 の そ れ で あ る 。 『伊
勢 記 』 の 旅 は文
治
二年
(=
八 六 ) 、秋
冬
に か け て の 頃 と 推 測 す る 。 こ の 頃 、 長 明 は鴨
の 河 原 近 く の 小 家 に い た 。 人 生 の 一転
機 で あ っ た 。 『 方丈
記 』 に 「 ワ カこ
ミ 父 カ タ ノ 祖 母 ノ家
ヲ ツ タ ヘ テ ピ サ シ ク 彼 ノ 所 ニ ス ム 、其
後 縁 カ ケ テ 身 ヲ ト ロ へ 、 シ ノ フ カ タく
シ ケ カ リ シ カ ト 、 ツ ヰ ニ ヤ ト ・ ム ル事
ヲ エ ス 、 ミ ソ チ ア マ リ ニ シ テ 、 更 ニ ワ カ 心 ト 一 ノ菴
ヲ ム ス フ 、 是 ヲ ア リ シ ス マ ヒ ニ ナ ラ フ ル ニ 、十
分
力 一 也 、 〜 所 カ ハ ラ チ カ ケ レ ハ 、水
難 モ フ カ ク 、 白波
ノ ヲ ソ レ モ サ ハ カ シ 、 」 と記
す と こ ろ で あ る 。 「 縁 カ ケ テ身
ヲ ト ロ へ 〜 ヤ ト ・ ム ル事
ヲ エ ス 」 し てう
つ っ た、 つ ま り 、余
儀 な く さ れ た 、 不 本意
な 転 居 で あ っ た 。長
明 が 「 ミ ソ チ 」 に 入 っ た の は 寿 永 三年
( 元 暦元
年
一 一 八 四 V で あ る か ら 、 こ の
転
居 は、 こ の年
か ら 翌年
の文
治 元年
、更
に 翌年
の 、 つ ま り 『 伊 勢 記 』 の旅
の 年 ( 文治
二 年 ) の 夏 頃 ま で の271
智 山学報 第四十七輯 間 と 推
定
さ れ る 。 『伊
勢 記 』 の 旅 の 目 的 は 明 確 で は な い 。 そ れ は 傍 証 が な く 、 『 伊 勢 記 』 に よ っ て 知 る し か な い か ら で あ る 。 そ の う え 『 伊 勢 記 』 が散
佚 し て そ の 全 容 が と ら え に く い と い う こ と に も よ る 。 現 存 記事
の内
容 か ら推
測 す れ ば 、 伊 勢参
詣
、 及 び 伊 勢 の 名 所 旧 跡 の 見 学 に あ っ た と 思 わ れ る が 、 長 明 の 伊 勢 の 旅 も 、 縁 か け て 祖 母 の家
を で な け れ ば な ら な か っ た 苦 悩 を 癒 す た め に 思 い 立 っ た も の で あ っ た か も 知 れ な い 。 『伊
勢
記 』 の旅
が 、 こ の よ う な 性 格 の 旅 で あ る と す れ ば 、 そ れ に 同 行 し た証
心 は 、 長 明 と気
の お け な い 仲 で あ る こ と が 推 測 で き る 。事
実
『 菟 玖 波 集 』 に 見 え る 連 歌 に よ っ て 二 人 が 気 の お け な い 仲 で あ っ た こ と が 証 さ れ る 踊 . . 。 『 伊 勢 記 抜 書 』 (神
宮
文 庫 蔵『 校 註 鴨 長 明 全 集 』
簗
瀬 一 雄 編 に よ る 。 ) の 、 「 二 見 に て 」 の 詞 書 を有
す る 長 明 の 歌、 ふ る 郷 の 大 原 山 や い か な ら む 二 見 の う ら の け さ の 初 雪 に 於 け る 故 郷 は、 広 義 ( 郊外
を も含
め た京
) の も の と と る 。 こ の 時、長
明 は 祖 母 の 家 を 出 て 、賀
茂 の 川 原 近 く に 小 宅 を構
え 、 そ こ に住
ん で い た と考
え ら れ る 。京
の象
徴 と し て 数 あ る も の の な か か ら 、 特 に 大 原 山 を取
り 上 げ た の は 、 歌 枕 の 地 で あ る 大 原 の 地 に対
す る 関 心 の 深 さ か ら であ
る と し て も、 同 行 し た 証 心 を も考
慮
し て の こ と と 思 わ れ る が い か が で あ ろう
か 。大
原 を 故 郷 と 称 す る の は 日常
の 深 い か か わ り が あ っ て の こ と と考
え ら れ る が 、 そ れ は 証 心 と い う友
人 が あ る と い う こ と に よ っ て 解 決 さ れ る で あ ろう
。 長 明 が 『 月 講 式 』 を依
頼 し た 友 人 の 禅 寂 ( 日 野 長 親 ) の 最 初 の隠
棲 地 が 洛 北 の 大 原 で あ っ た 。 長 明 が 『 伊 勢 記 』 の 旅 を 終 え た 二年
後 、 文 治 四年
(=
八 八 ) 、 藤 原 日 野 家 の 長親
は 出家
し 、 洛 北 大 原 に 隠棲
し 、 蓮如
と名
乗
っ た 。 『 玉 葉 』 は 、 文 治 四 年 二 月 十 七 日 の条
に 「伝
聞 。 兼 光 卿 二 男 長親
出家
入 道 云 々 。 有情
之 人 歟 。 可 レ 感 可 レ 憐 。 」 と 言 い 、 ま た 『尊
卑
分 脈 』 に は 「 従 五 上刑 部 少 甫
民 部 大 甫
源 空 上 人
弟
子 出 家 外 山 建 立大
原 蓮 如 上 人 也法
名 禅寂
」 と あ る 。 『 伊 勢 記 』 の 旅 を終
え て 帰 洛 し た 証 心 も 大 原 に 帰 っ た こ と で あ ろ う し 、 長 親 と の 親 交 が い つ 生 じ た も の か 、『大原 集亅の証 心 長 親 の 出 家 前 か 、
大
原 隠 棲後
か 、 閣 ら か に し な い が、 い ず れ に し て も 、 長 明 と 洛 北 大 原 と の か か わ り は 、 証 心 と の 親 交 に よ っ て 、 既 に あ っ た と す れ ば 、禅
寂 と の か か わ り も 大 原 で で き る こ と が考
え ら れ る 。 長 明 は 出 家 以 前 か ら 、 証 心 、 禅 寂 を 通 じ て の 深 い縁
が 、 洛 北 大 原 に あ っ た と い う こ と に な ろ う 。 以 上 、 『代
集 』 の 「大
原集
証 心 撰 、 お お は ら の 歌 。 」 の 一 行 の 記 録 を た よ り に し て 、
長
明 『 俳 勢記
』 の 旅 の 同伴
者 証 心法
師
の考
察
を し た 。 『大
原 集 』 の 証 心 は 『朗
詠
要 集 』 の 藤 氏 朗 詠 相 承系
譜 に み え る中
原 有 安 の 弟 子 証 心 と 岡 一 人物
で あ る と し 、 証 心 像 を拡
大
し た 。 『 大 原 集 隠 の 護 心 の存
在
は 、 長 明 と 洛 北大
原
と の か か わ り を 明 か し 、 長 明 の履
歴解
明 、 『 方 丈 記 』 解 釈 に も 資す
る こ と に な る わ け で 、 「 大 原 集 證 心 撰 、 お お は ら の 歌 。 」 と い う 一 行 の 記録
は 貴 重 で あ る と言
わ ね ば な ら な い 。 注拙
稿
「 長 明 「 伊 勢 記 』 証心
法
師 考 」 ( 「 和洋
鼠 文 研 究 」第
三 十号
平 成 七 ・ 三 〉 注
諸
本
梅 沢
美
術
館 蔵本
(鎌
倉
末
期 書 写 ) ・ 彰考
館
蔵 本 ( 江 戸 期 書 写 )注
日
本
歌 学大
系
第 五
『
代
集 』 の 解 題 注『
代
集
』 打 聞 に は 、長
明 の音
楽
の 師 、 中 原 有安
の 『寒
玉集
』 の名
を 出 す 。 「 筑前
守
有安
撰 。 」 とあ
る 。 『 大 原 集 』 よ り前
に 挙 げ る 。 な お 、 頼瑜
の 『 真俗
雑
記 問答
鈔
』 第 二万 葉 七 代 集 撰 者
事
( 「 真言
宗全
書
」 ∀ は こ れ を 『 宅 〃 玉集
』 と す る が 、 寒 の 読 み 誤 り に よ る 誤 写 で あ る 。 注「
大
田 本 仏 教 全 書 」第
八 六寺 誌 部 邏
『
寺
門伝
記
補録
隔 第 十 六 に 、 阿闍
梨 證 心 妙 法 房證
心大
納
言 邦 綱 子 。 桜 井大
僧
正 入 室弟
子也
。仁
安 珊 年 薫 月 四 臼 。於
・ 唐院
一受
・ 阿闍
梨位
瀧 頂於
公舜
法 印・ 。 273 一智山学報第四十七輯
補
二 龍雲
坊
伝 法 阿 闇梨
一 。建
久
二奪
十 二月
十
二 日 入寂
。年
六 十 有九
。 注『 公
卿
補任
騒仁
安
元年
初 畠 「 (参
議 ) 正 四位
下 藤 邦綱
殫
正 月 十 二 日
任
( 元蔵
人 頭 中将
宮
亮 ) 。右
京
大夫
如元 ( 去 亮 ) 。 六
月
六 日 従 三位
( 臨時
) 。 八 月 廿 七 日 辞 職 。 以成
頼
(聟
)申
任
之 (大
夫 如 元 ) 。 煎 右馬
権 助従
五 下 盛国
男
。 」 以 下 に前
歴 を 記す
。 安 元 三年
「権
大
納 言同
邦
綱 瓶 +四 ( 正 力 ) 月
廿
四 日任
。 」治
承 五年
「 (散
位前
権
大
納
言
正 二 位 ) 同 邦
綱
六 +壬 二 月 三 日
依
所 労 掛 家 。 同 廿 三 日 甍 ( 六 十 ) 。号
五 条 大 納 言 。 又号
土御
門 。 」 注『 吾
妻
鏡 』 建 暦 元 年 十月
十 三 日条
に 「鴨
社 氏 人 菊大
夫
長 明 入 道 。 ( 法名
蓮
胤 ) 依 雅経
朝 臣 之 挙 。 此 間 下 向 。 奉謁 二
将
軍
家 一 。 及 二 度 々 一 云 云 」 と あ っ て 「 長 明 入 道 」 が 通 っ て い た こ と が 推 測 さ れ る 。 注『 莵
玖
波
集
』巻
第
+ 九雑
体
連
歌 の部
に 「 便 勢 国 を 修行
し侍
り け る に、 林 ざ き と 云 ふ所
に て 」 と いう
玄 忍 ( イ患 ) 法 師 と の 連 歌 が 収
録
さ れ て い る 。 詞書
の 「修
行 」 で あ る が 、 こ れ を 仏 道修
行
と と れ ば 、 『 伊勢
認 』 の成
立 は 、長 明 出 家 の 、
即
ち 元 久 元 年 ( 冖 二 〇 四 ) 、 五 〇 歳 以 後 と し な け れ ば な ら な い 。 し か し 、 こ れ は 「伊
勢
記
抜書
」 の詞
書 「林
崎 を よ め る 、 つ つ み の た け の お の へ な り 」 に従
う 。注
洛
北 大 漂 山 の 歌 と し て 門良
暹法
師
の 許 に つ か は し け る 篇 の 詞書
を持
つ 藤 原国
房
の 一首
、お も ひ や る 心 さ へ こ そ 寂 し け れ 大 原 山 の
あ
き の ゆ ふ ぐ れ ( 『後
拾遺
集
』 )『
後
拾遺
集
』 に は、 ま た 、 和 泉式
部 のこ り つ み て 槙 の
炭
や く け を ぬ る み 大 原 睡 の雪
の む らぎ
え
の あ る こ と に
注
意
し た い 。 注熊 野 へ ま ゐ
り
け
る に 、 弘 ( イ 孔 ) 子 の 山 と 云 所 に てく し の 山 た ふ れ し ぬ べ き
岩
ね か な鴨
長
明あ
な づり
ま すな
か つ ら も ぞあ
る証 心
法
師
『