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2016 年度 卒業論文
ハワイにおける日系人強制収容
~第二次世界大戦から日系アメリカ人について学ぶ~
指導教員:森島牧人
文学部比較文化学科
21314073 大宮司竜也
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【目次】
はじめに
第1章 日系アメリカ人の歴史
第1節 戦前のハワイにおける日本人移民 第2節 太平洋戦争の始まり
第3節 日系アメリカ人に対する抑圧
第2章 第二次世界大戦における日系アメリカ人
第1節 日系人強制収容の必要性第2節 アメリカ本土における日系人強制収容 第3節 ハワイにおける日系人強制収容 第4節 第442連隊戦闘団
第3章 戦後の日系アメリカ人社会
第1節 戦後補償第2節 現代のハワイ
第3節 戦後の日系人強制収容の存在
おわりに
注欄 参考文献3
はじめに
私はこれまでのゼミナールで、第二次世界大戦をアメリカでの調査テーマとし、中でも ハワイで、日系人強制収容と第442連隊戦闘団について調べてきた。
戦後 70 年を迎えた今日、しばしばメディアなどで第二次世界大戦及び、太平洋戦争に ついて取り上げられることが多くなり、日本人が戦争について考えることが増えてきた。
去年、戦後初となるアメリカの現役大統領の被爆地・広島訪問が話題となり、オバマ大統 領が広島の平和記念公園で献花、演説をした。このように、現在は戦時中の世代だけでな く、戦争を知らない世代が当時を知り、次の世代に伝えていくことが重要であると考え、
このテーマにした。
この論文では、アメリカ側の視点、特に太平洋戦争の始まりの場所であるハワイを中心 に見ていきたい。また、アメリカ側の視点で第二次世界大戦を見ていくと、日系人強制収 容や第442連隊戦闘団は日本人にとって重要な出来事である。日系人強制収容についてア メリカのドナルド・トランプ氏は大統領予備選挙の演説で「アメリカ史上で最も暗い歴史」
と述べ、イスラム教徒のアメリカへの入国を禁止すべきという発言について、日系人強制 収容を引き合いに正当化し、トランプ氏の支持者の半数以上が日系人強制収容を支持し、
排外主義的な風潮が広まりつつある。
日系人強制収容所の志願兵からなる第 442 連隊戦闘団は最初は、1942 年にアメリカ軍 にいた、ハワイの日系二世からなる第100歩兵大隊が編成された。翌年には本土とハワイ の強制収容所から志願兵を募集し、第442連隊戦闘団として編成されることとなった。そ の後、1944年には第100歩兵大隊を第442 連隊戦闘団に編入し、ヨーロッパで活躍の場 を広げたアメリカ軍である。
私はこれまでのゼミナール活動で、第二次世界大戦の中でも、太平洋戦争、日系人強制 収容、第 442 連隊戦闘団について研究を進め、アメリカでのフィールドワークも行った。
アメリカに訪れた際に感じたことは、ハワイとアメリカ本土では戦争に対する考え方が異 なり、特に日系アメリカ人は日本とアメリカの狭間におり、太平洋戦争は日系人社会に大 きな影響を与えたことが分かった。また、ハワイとアメリカ本土では、日系人強制収容の 収容者人数などに大きな差があり、ハワイでは日系人強制収容はなかったことにされつつ ある。ハワイは太平洋戦争の最前線であり、最も危険であるのに、本土と対応が異なるの か。そのような実態に触れ、ハワイの日系人社会について明らかにしていきたい。
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これまで、日系人強制収容は、様々な研究者によって研究されてきた。中でも、ハワイ における日系人強制収容について二つの考えに興味を持った。一つ目は、日本女子大学名 誉教授の島田法子教授は、『戦争と移民の社会史 ハワイ日系アメリカ人の太平洋戦争』で 日系人強制収容について、「日系人人口が多く、しかも真珠湾奇襲のお膝元で戦争最前線の ハワイにおいて日系人が強制収容されなかったのはなぜか。1」と言うように、ハワイにお いて日系人強制収容は行われなかったという考えである。この見解は『アメリカ強制収容 所 戦争と日系人』の著者小平尚道氏など、他の研究者も示しており、一般的な考えだが、
二つ目の考えはこれを批判している。それは、立命館大学の小川真知子准教授の論文『太 平洋戦争のハワイにおける日系人強制収容―消された過去を追って―』によると、「ハワイ における日系人強制収容は消去されるべき記憶とされており、ハワイでは受け入れがたい ことで、人々の記憶から排除される出来事としてハワイの景色から意図的に消し去られよ うとしている。2」と述べている。しかし、戦時中に起きたハワイの日系人強制収容の実態 から目をそむけようとしても、そこには、長期的な収容だけでなく、短期のものも含める と約 2300 人以上の日本人や日系人が強制収容されていたという歴史的事実があったこと を論文中に述べ、ハワイの日系人強制収容は実際に行われていたという考えである。
論文では、日系人強制収容において、二つの見解に分かれる理由を比較する。そして、
歴史的観点や文化的観点、さらに、社会的観点といった様々な角度から第二次世界大戦下 の日系アメリカ人について論ずる。第1章では、ハワイの日本人の移民の開始から真珠湾 攻撃までの歴史を述べる。第2章では、日系人強制収容について、アメリカ本土とハワイ の強制収容の違いや、戦争の最前線であったハワイの強制収容がアメリカ本土より少なか った理由を明らかにしたい。第3章では、戦後補償や現在のハワイの日系アメリカ人社会 について述べ、現代のハワイが抱えている問題や日本との関係性について論ずる。そして、
ハワイの日系人強制収容が歴史から消されないように、日系人強制収容の存在意義を述べ る。
日系人強制収容が行われなかったという意見が上がる理由は、ハワイにおいて日系人社 会が根付いていたからだと考える。ハワイにおいて、日系アメリカ人の人口は戦前は4割 を占めており、ハワイでは、日系アメリカ人の社会的地位は確立していた。従って、人口 の4割を占めていた日系アメリカ人を強制収容することはハワイ州の経済的に悪影響にな るからだと考えられる。また、アメリカ本土とは異なり、戒厳令が敷かれ、ハワイでの権 限が軍に行使された中で、強制収容を一部の権力者に留めたのは、ハワイのアメリカ軍に
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とっても日系アメリカ人はハワイ社会において、重要な経済的役割を担っていたのである。
また、一般的にアメリカ本土の日系人が多くいる西海岸に比べるとハワイで強制収容さ れた人が圧倒的に少なかったためである。被害が少なかったため、深刻な事件として扱わ れなかった傾向があると考えられている。
さらに、ハワイは第442連隊戦闘団の日系アメリカ人たちが戦争に大きく貢献し、活躍 したことが注目されたことで、戦争体験を伝える場合に、日系人強制収容のような暗い歴 史よりも戦争に貢献し、功績を称える第442連隊戦闘団のほうが大きく取り上げられたこ とが原因で、日系人強制収容の歴史が縮小されつつあるのも要因の一つである。このよう に、ハワイではあまり語り継がれない日系人強制収容は歴史から消えつつある。しかし、
一部でも日系人強制収容があったことは、決して忘れてはならないことである。
対して、日系人強制収容が行われたという意見が上がるのは、前で述べた通り、短期の 収容も含めると、約 2300 人の日系アメリカ人が強制収容されていた歴史的事実があるこ とである。また、ハワイ各地に収容所があること。そして、アメリカ社会に影響を及ぼす と考えられた日系アメリカ人の権力者や僧侶は、太平洋戦争が始まるとすぐに拘束され、
ハワイでの長期的収容や一部は本土の強制収容所まで送られたこと。このように、日系人 強制収容があったことを証明する歴史的事実は多くあり、これからも証明するものは多く でてくるであろう。近年では、オバマ大統領がホノウリウリ日系人収容所跡地を史跡にし たことでハワイでの日系人強制収容は行われていたことは確実である。
この仮説を本論でさらに考察し、立証していく。また、この論文では、ハワイにおける 日系人強制収容は行われたと考える。歴史的事実がある以上、ハワイでの日系人強制収容 を記憶から消すことはできない。そして、この論文を通して、戦時中の世代だけでなく、
戦争を知らない世代が当時を知り、次の世代に伝えるきっかけにしたいと思う。
第 1 章 日系アメリカ人の歴史
第 1 節 戦前のハワイにおける日本人移民
日本人がハワイへ最初に移動したのは、在日ハワイ領事であったユージン・ヴァン・リ ード3(以後、リード)によるものであった。リードは徳川幕府には許可を得ていたが、明 治政府に変わると、これが無効化した。その後、リードは約150人の日本人を政府の無許 可でホノルルへ送り出してしまうことになった。これが、日本人初のハワイへの移住とな
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本格的に移動が開始したのは、1885年のことである。日布移民条約がハワイ王国と日本 の間で結ばれたことにより公式な移住が開始された。最初の移民は953人がハワイのホノ ルルへ入港した。これ以後、ハワイはアメリカ合衆国に合併されるなどの政治的な大きな 変化はあったが、日本からハワイへの移住は続き、現地では定住し、家庭を築く人も増え た。年々にハワイにおける日本人人口は増加し、太平洋戦争が始まる前年の1940年には、
ハワイの全人口の約 37%4が日系人となった。現在も多くの人種がいるハワイの中で日系
人は約14%を占めており、アジア系の中ではフィリピン系に次ぐ第2位である。
戦前の当時は全人口の 4 割が日系人だったことから、日本の仏教、神道などが布教し、
特に仏教が栄えた。現在でもハワイ出雲大社や平等院、本願寺、大福寺など様々な神社や 寺院がある。こうした宗教が栄える中で、年中行事の盆踊りや縁日はハワイの日本文化を 象徴するものとなった。盆踊りなどは年中行事だけでなく、学校、バザー、町内会など様々 な場で行われたことで、ハワイの日系アメリカ人のコミュニティの基礎的役割を果たすよ うになった。このような日系アメリカ人の人口の増加と、エスニック文化の形成は、後の、
日系人強制収容がハワイにおいて一部の人にとどまった理由の一つかもしれないだろう。
しかし、日系アメリカ人が年々増加するのに対し、アメリカ側は警戒心を強めていたの も事実である。また、1920年以降、日本とアメリカの関係が悪化したことにより、アメリ カ軍は戒厳令の発令やオアフ島市民に対する敵性外国人登録、危険人物の強制収容などの 検討を開始5し、さらにアメリカ側の日本への警戒心は高まった。この警戒心から1940年 末のハワイの人々は日本との戦争は避けられないものと感じていた。ハワイでは、戦争に 備え、軍の拡張が進み、特に日系アメリカ人の対策がハワイの防衛にとって重要であった。
ハワイは多民族社会であるため、人種協調の伝統が保たれていた。なので、ハワイのアメ リカ軍もこれを利用し、日系アメリカ人が、他のエスニック・グループと孤立しないよう に対処する方針を固めた。真珠湾攻撃の1年前の1940年12月には、ハワイの各エスニッ ク・グループ6の代表者が集まり、アジアにおける日本軍の侵略行為に対する怒りの矛先が、
ハワイの日系アメリカ人に向けられないように「人種間団結委員会」を設置し、ハワイの 伝統的な協調的人種関係を守ることで協力し、合意した。これにより、もし日本とアメリ カが戦争を起こしても、アメリカの利益に害することをしなければ、日系アメリカ人は公 平に扱われることが保障された。7
また、戦前にはFBIの主導の下、ハワイの日系アメリカ人の組織の情報の収集を始めた。
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FBIは「ハワイ日系人市民協会8」のリーダーから、他の市民協会の日系二世のリーダーと 接触し、日系アメリカ人に関する情報収集の協力を要請した。1941年初頭になると、FBI はこれらの日系二世を軸に、「オアフ祖国防衛市民委員会」を設立した。この組織を通じて、
日系人コミュニティが来るべき戦争に備えることができるように指導した。この活動の中 で、一番効果をあげたのが、「愛国ラリー」である。これは、日系アメリカ人と他のエスニ ック・グループを集め、軍が初めて公式に日本とアメリカが戦争を起こした際の日系アメ リカ人に関する軍の方針を発表した。そして、日米開戦が勃発しても、アメリカに敵対す る行動を慎むなら日本人一世も公平な扱いを受けることが約束され、日系人コミュニティ は保障された。9
このように、戦前の日系アメリカ人の対策はハワイの伝統的な協調的人種関係が重要視 され、日系アメリカ人は他の人種民族と公平な扱いをされる対策が進められてきた。しか し、この対策はハワイの一般的な市民に対するものでしかなかった。FBI やアメリカ軍、
ホノルル警察は日系アメリカ人に対し、公平で、平和的な対策が進められる一方で、一部 の日系アメリカ人に対しては、強行的な対策がとられていた。
FBIやアメリカ陸海軍の情報部、ホノルル警察は日米開戦の際、ハワイの日系アメリカ 人の検挙・監禁をする準備を開始していたのである。それは、スパイ活動などを通して、
日本軍のために働くハワイ在住の日本人が出る可能性があることを危惧したためである。
FBIはブラックリストを作成し、日本領事館関係者、日本語学校の教員、仏教・神道の 関係者といった日系アメリカ人の文化や社会に影響を与える人物がリストに載った。さら に、ハワイ在住の日本人は日本への愛国心がある者もおり、アメリカへ忠誠せず、日本に 対する忠誠心が著しく強い者はリストに名前が載った。リストは、1-A、1-Bの二つに分け られ、ハワイが日本軍によって攻撃された場合、アメリカにとって危険であると見なされ た人物が分けられた。1-A には、アメリカと日本・ドイツ・イタリアの枢軸国のいずれか が交戦した場合、すぐに抑留すべき者。1-Bはすぐに抑留はせず、行動をFBIの監視下に 置くべき者とされた。10
このように、戦前のハワイにおける日系アメリカ人は、日本人や日系アメリカ人の人口 の増加により、ハワイで日本の文化や社会が根付き、日系コミュニティを確立させた。多 民族社会のハワイで他のエスニック・グループと共存していき、ハワイの人種民族として 歩んでいった。しかし、1920年以降、日本とアメリカの関係が悪化すると、ハワイでは日 系アメリカ人の対策が活発化した。ハワイの伝統的な人種協調主義から、日系アメリカ人
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の人種を保護し、今まで通りの生活が送れるように擁護させる動きがあった。一方で、一 部の日系アメリカ人は、検挙、監禁する準備がされていたように、戦前からハワイでも日 系人強制収容を行う動きが見られ始めたのである。
次の図はハワイに日本人の移民が開始した 1890 年代から現在に至るまでのハワイの全
人口を 100%とした日系アメリカ人の人口推移である。図を見ると戦前はやはり日系アメ
リカ人の人口が多いが、戦後は、戦争の影響や他の人種の増加により割合は減っているの が分かる。しかし、前で述べた通り、アジア系の中ではフィリピン系に次ぐ第2位の人口 である。
第 2 節 太平洋戦争の始まり
1941年12月7日の早朝、オアフ島から北360km離れた海に日本海軍の航空母艦から、
第一次攻撃隊として183 機の戦闘機が飛び立ち、7時55分に真珠湾を襲った。これが太 平洋戦争の始まりである。11
日本軍が奇襲を仕掛けてきたことはハワイの誰もが信じがたいことであった。ましてや、
真珠湾はとても攻撃しにくい構造になっており、当時の海軍の基地に最適な場所となって いたので、日本軍が攻撃してくるなど誰もが思わなかった。しかし、日本の空軍が用いた、
低空飛行から海中に爆弾を投下して戦艦を爆発させるという高度な技術が上回り、真珠湾 図 1 ハワイにおける日系アメリカ人の人口の変化 (外務省調査月報2007 No.4参照)
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を攻略することに日本軍は成功したのである。日本軍は真珠湾攻撃により、アメリカ海軍 の戦艦3隻を破壊、駆逐艦やアメリカ空軍の戦闘機200機も爆破し大きな損害を与えた。
日本軍の損失は 29 機の戦闘機のみであった。しかし、当時のアメリカの主力母艦は真珠 湾の外にいたため、無傷であった。この主力母艦を破壊できなかったことは日本軍にとっ て後々、痛手となった。また、現役の戦艦の被害が少なかったことや浅瀬に沈んだ戦艦は すぐに引上げられ、修理されたことにより日本軍が思っていたより、アメリカ海軍はすぐ に復活した。この日の死者は、約 2390 人で、その半数が海底に沈んだ戦艦アリゾナ号の 死者 1177 人であった。この日はアメリカにとって奇襲攻撃ということもあり、太平洋戦 争の中で、最初で最大の敗戦となったのである。12
また、戦艦アリゾナ号が沈んだ場所は現在、アリゾナ記念館となっている。アリゾナ記 念館の下には、1177人を船内に残したまま沈没した戦艦アリゾナ号が当時のまま眠ってい る。戦艦アリゾナ号が沈没している周辺の海を見ると、現在でも船から油が漏れているの が確認できるのである。下の写真がアリゾナ記念館と沈没しているアリゾナ号の模型であ る。
戦争が始まると、アメリカは移民の国なので、必ず敵国の移民が国内に存在するのであ る。なので、アメリカ本土、ハワイに多くの日系アメリカ人が存在していた。特に日系一 世は敵性外国人として見なされた。前節で述べたように、戦前に軍が日系アメリカ人に対 して公平な対策をとったとしても、いくらハワイが伝統的な人種協調主義だとしても、戦 争が始まってしまうと日系アメリカ人への敵意や差別は生じたのである。当時、祖国を日 本に占領されていたフィリピン系や朝鮮系との対立は激しく、ハワイの人種協調は崩壊し
図 2 アリゾナ記念館と沈没したアリゾナ号模型
(2015年9月16日パールハーバーにて撮影)
10 つつあり、不安視されていたのである。
しかし、当時のハワイのアメリカ軍軍政知事のエモンズ将軍は、「日系アメリカ人の大規 模な強制収容所を設営する意図も願望もなく、市民であろうと外国人であろうと、破壊活 動分子と関係がないかぎり、誰も心配する必要はない。13」と明言した。エモンズ将軍はハ ワイで2年以上のキャリアがあり、ハワイの伝統的な人種協調主義を軍の誰よりも理解し ていたのである。その後も、エモンズ将軍はハワイ市民に日系アメリカ人が敵国だからと いって危険人物ではないことを語り続けた。その結果、ハワイ社会も日系アメリカ人がハ ワイにとって、必要な人的資源であることを主張する人が増えた。けれども、日系アメリ カ人の戦時中の立場はあまり変わらなかったのである。日系アメリカ人は他のエスニック・
グループに不安を与え、時には敵意を示し、ジャップ14と罵られることもあったのである。
真珠湾攻撃の当日には、すぐに戒厳令が発令され、ハワイの行政と司法が軍に行使され た。当初、アメリカ大統領だったルーズベルト大統領と軍は、ハワイに住む日系アメリカ 人全員を集めて監禁するか、アメリカ本土へ送るように、軍政知事のエモンズ将軍に指示 し、圧力をかけていた。しかし、ハワイにおける農家や大工の90%15が日系アメリカ人で 占められていることから、ハワイの労働力には日系アメリカ人がなくてはならない存在で ハワイ経済にとって必要不可欠であった。さらに、戦争中に大人数が乗る大型船の用意や、
ハワイで日系アメリカ人全員を収容することは、ハワイの日系アメリカ人の人口を考える と土地の確保ができず困難であった。16そのため、エモンズ将軍は日系アメリカ人全員の 強制収容に反対したのである。ここでもエモンズ将軍はハワイにとって日系アメリカ人が 必要であることを主張し、戦時中であってもハワイの伝統的な人種協調主義を守り続けた。
そして、戦争が始まる直前にFBIやホノルル警察が準備していたブラックリストから載 っている人だけの検挙を開始した。ブラックリストに載っていた、ハワイの日系人社会で 権力がある者や仏教・神道の関係者が、開戦と同時に次々とホノルル移民局へ連行された。
連行された者は約400人にもおよび、他のエスニック・グループもいたが、そのほとんど が日系アメリカ人であった。日系アメリカ人にとって、突然の日米開戦とそれに伴う検挙 は大きな動揺を与えただろう。移民局に連行された人々は部屋に監禁され、軍の監視下に 置かれた。突然の出来事に動揺や不安を抱いた人々の中には、自殺をしようとする者もお り、日米開戦と同時に監禁された人々はこの状況に絶望していたのである。17
日本軍による真珠湾攻撃によって、この日から日系アメリカ人の人生は変わっていった。
戦争が始まってしまうと多民族社会のアメリカ及び、ハワイでは日系アメリカ人が敵国の
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者と見なされてしまうのは必然的であった。伝統的な人種協調主義といっていたハワイで も敵意を示した人が現れたのは人間の性である。人種協調主義のハワイでもアメリカの教 育が行われ、日本とアメリカの関係の悪化のニュースを見れば、当時の日本への印象は、
日系アメリカ人以外、悪く思う者ばかりである。なので、戦争が始まると敵意を示す者が 現れるのは必然的であり、ハワイ市民全員がまとまり、日系アメリカ人を擁護し、今まで 通りに生活するのは不可能である。しかし、そのような中でも、ハワイにおける日系アメ リカ人の重要性を主張し続けたエモンズ将軍の功績は、日系アメリカ人社会にとって、高 い評価を得た。だが、戦争が始まると日系アメリカ人は次々と検挙され、戦前に軍が日系 アメリカ人対してとった政策もむなしく、日系アメリカ人はホノルル移民局へ連行されて いき、監禁状態となった。ここから、日系人強制収容の準備が進んでいったのである。
第 3 節 日系アメリカ人に対する抑圧
アメリカ本土よりは公平な扱いを受けてきたハワイであったが、太平洋戦争が始まると 人種差別や抑圧が起こった。真珠湾攻撃後すぐに検挙・監禁されたのも人種差別の一つで ある。また、日系アメリカ人の文化的な面に関しても抑圧を受けた。それは、図書館や美 術館にある日本に関連した作品が撤去された。戦前、家庭や学校に飾られていた天皇・皇 后陛下の写真は焼かれ、捨てられた。さらに、一般市民である日系アメリカ人の私物の刀 や和服、日本人形といった日本の文化を象徴する物は、全て捨てるように圧力がかかった。
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特に仏教や神道はハワイの日系アメリカ人の文化の根源であるため、とても厳しい抑圧 を受けた。戦争が始まると寺院や神社は全て閉鎖され、住職や神主は逮捕され、アメリカ 本土に抑留された。また、アメリカ本土では、日系アメリカ人教会も一部閉鎖された。そ のため、日系アメリカ人は戦争中に宗教を信仰する場所を失い、さらに、日系アメリカ人 にとって寺院や神社は情報交換の場であったため、それを失った日系アメリカ人のコミュ ニティは大きな影響を受けた。ハワイ島のコナにある大福寺も閉鎖に追い込まれた寺院の 一つである。大福寺は閉鎖に追い込まれた後、アメリカ軍に占領され、基地として戦時中 は使われていた。大福寺の住職はこの当時のことについて三世のため体験してはいないが、
父親から聞き、とても悲しいことでしたとおっしゃっていた。住職は日系人強制収容につ いてもハワイの強制収容は少なかったとはいえ、同じ日系人が罪もないのに強制収容され
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るのは、悲しいとおっしゃっていた。また、戦後に当時の住職が戻り、寺院が再開したと きは、ハワイ中の日系アメリカ人が喜び、この時を待っていたのである。さらに、ハワイ に戻ってきた住職たちは、戦争中に失われたものを取り戻すため、寺院や神社がいかに侵 害されたかを主張し、裁判で勝利し、仏教や神道の権利が認められ、復活した。アメリカ 本土の教会は、白人の反発などがあったが、1946年に再開している。
宗教以外で日系アメリカ人に大きく影響を与えたのが、日本語の禁止であった。日本語 が禁止になると、公の場ではもちろん日本語は使えず、バスの中や電話でも禁止された。
さらに、日本語ラジオや日本語新聞といったメディアも禁止されたことで、日系アメリカ 人の特に一世は情報を得る手段がなくなった。19言語の剥奪は一世にとって精神的苦痛に 追い込まれ、最大の抑圧だった。言語を失った一世は人との交流はできず、情報を得る手 段がないため、社会的に孤立し、コミュニティ活動は不可能となった。そして、一世は言 語が使えないことから、職を失う者もおり、多くの白人が恐怖や憎悪から一世を会社から 解雇した。しかし、日系アメリカ人はハワイにとって最大の労働力であり、ましてや労働 力不足であったハワイでこれ以上労働力が減るのは厳しい状況であった。そのため、軍は 一世を労働力として戦時協力できるよう、二世に協力し、様々な戦時協力の要請に応じら れるように一世を安定させた。さらに、このまま一世を社会から孤立させるのは、行政的 にも必要な情報が回らないため支障がでると判断した。したがって、『布哇報知』と『布哇 タイムス』の二紙だけ軍の管轄の下で、再発行を認めた。20
このように、日本語の抑圧は一世にとって苦痛であった。二世は英語を話せる者もいた ため、職を失う者は一世が多かった。戦争中の一世と二世の立場は完全に逆転していただ ろう。今までは親である一世が二世に教育などを指導するのが普通であり、これは日系ア メリカ人に限らず、全世界共通である。しかし、戦争が始まると二世が日系アメリカ人社 会の中心となり、アメリカ軍も交渉事は二世を通じて行っていた。この抑圧も二世の協力 なしでは、解決しなかった。一世はさらにハワイ社会から孤立を極めていただろう。二世 は一世と比べると、アメリカへの愛国心があったため、二世が組織したグループには、ア メリカ軍も近づきやすかった。戦争中は二世が一世の親に戦時協力をするように指示をす ることがあり、家庭での立場は崩壊した。
アメリカ本土の抑圧では、ルーズベルト大統領が1942年2月に、陸軍長官や軍の司令 官に特定地域から住民を強制排除する権限を与えた。その後、カナダ、ブラジルなどの国 ごとで同じような権限が許可された。アメリカでは、最初は1ヶ月の猶予期間があり、西
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海岸などから内陸へ自主的に退去するように指示しただけであった。この段階で、退去し た人は住居も自由に選べ、強制収容は免れた。しかし、日系アメリカ人の退去は1万人以 下であった。そして、1942 年 3 月には西海岸から全ての日系アメリカ人の強制退去を遂 行し、日系アメリカ人約12万人が西海岸の土地から追い出された。日系アメリカ人は、カ リフォルニア州やアリゾナ州の砂漠や荒野に建てられた強制収容所に送られた。ここから 日系人強制収容が始まり、収容所から釈放許可が下りたのは、戦争中に軍の入隊で収容所 を出ていくか、日系アメリカ人全員が釈放される日本の敗戦が確実となってきた 1944年 12月17日だけであった。しかし、釈放されても西海岸に戻ることはできず、他の地域に 移住させられたのである。
ハワイでは文化的面からの抑圧が多くあり、本土とは異なり退去はなかったが、私生活 の中から次々と日本に関連するものが禁止され、精神的に追い込まれる抑圧であった。対 して、アメリカ本土では、退去や強制収容といった人の移動が伴い、精神的にも肉体的に も追い込まれた人的抑圧であった。当時の日系アメリカ人に対する抑圧は戦争が始まると 当たり前のように世界共通で行われていたかも知れないが、決して正当化できない行為で あり、人権差別である。このことは、戦後70年経った現在でも忘れてはならないことであ る。
第 2 章 第二次世界大戦における日系アメリカ人
第 1 節 日系人強制収容の必要性
太平洋戦争が始まると日系アメリカ人はアメリカ本土では、強制退去。さらには、強制 収容をさせられ、ハワイでは逮捕され、移民局に抑留させられたが、それほどの日系人強 制収容は必要であったのか。
アメリカ本土では戒厳令が敷かれておらず、政府も機能していたにもかかわらず、軍が 一般市民を移動させることは可能であったのか。また、市民権を持っている日系アメリカ 人二世は収容所に入れられ、市民権を持っていないドイツ人やイタリア人が収容されない のは人種差別であり、許されないことではないのか。当時はこのような日系人強制収容を 遂行することに疑問を抱き、反対する人もいた。当時、司法長官であったビドル氏は「た とい一世が敵性外人として移住させることができても、もちろん裁判なしでは、これもで きないのだが、二世を移すことは絶対にできない。21」と明言するほど、司法的には憲法違
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反であり、日系人強制収容に強く反対していた。また、島田法子教授は、WRA22初代長官 ミルトン・アイゼンハワーが強制収容は「さけることのできた不正義23」と反対意見を言 っていたことに触れ、アイゼンハワーは、日系アメリカ人を早く社会復帰させようとして いたが、強制収容は軍事的必要性がなくなった時期でも続いた。それは、当時は排日世論 が強く、それに同調した政治家が、世論の配慮と政治的影響を配慮したため、強制収容の 対応は後手に回ったのである。このように、アメリカ国民全員が日系人強制収容の必要性 に賛成しているわけではなかった。しかし、世論の意見は賛成が多く、反対側の意見は通 らなかったのである。さらに、排日世論の考えがある以上、政治的には世論に配慮しなけ ればならない。国民の期待に応えるのが当然であるため、日系人強制収容が行われたのか もしれない。そのような、国の運営のためにも日系人強制収容は必要だったのである。
小平尚道氏の『アメリカ強制収容所 戦争と日系人』では、日系人強制収容の必要性を 当時の戦争省のステムソン長官が「われわれの国の安全のためばかりでなく、彼ら自身の 保護のためにも絶対必要である。24」と述べており、国のためだけでなく、アメリカ人の反 感や暴力から日系アメリカ人を守るための強制収容であり、人権保護のためにも必要であ ったことに触れている。しかし、小平尚道氏はこのことについて、「原理的に考えると、日 系アメリカ人をアメリカ人の暴力から守るために強制収容をするのではなく、暴力をする アメリカ人を強制収容しなければならない。25」と述べている。ステムソン長官の考えは 根本的に間違えおり、人権保護のためであれば、強制収容所は、人が住めない環境になる ほど過酷にはならないと主張している。人権保護という理由は、日系人強制収容に反対す る人たちの抗議を静めるため、ステムソン長官が咄嗟に思いついた日系アメリカ人を擁護 しているかのような言葉でごまかしていたのかもしれない。やはり、日系人強制収容は国 の安全上だけに必要であったのだろう。
しかし、アメリカ本土で戒厳令も敷かれておらず、司法省が憲法違反と主張している中、
日系人強制収容は可能であったのだろうか。これに関して、小平尚道氏は、反日団体とア メリカ軍が国を動かしたという。それは、反日団体が政府(司法省)に強制収容の問題を 頼ると裁判になり反対するため、軍だけに頼るようになった。反日団体はカール・ベンデ ツェン中佐に日系アメリカ人の内陸移住を推進した。これにより、カール・ベンデツェン 中佐が日系人強制収容を「軍事上必要」という見解を示した。この「軍事上必要」という 言葉が当時新語として流行し、アメリカ国民の心を動かした。そして、この新語の波はル ーズベルト大統領の心まで動かし、憲法違反と理解している上で、戦争なので日系人強制
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収容は致し方ないと決意し、戒厳令も敷かずに、裁判もせず、日系人強制収容を可能にし たのである。26しかし、流行で政府が動かされてしまうのは国家として非常に危険な行為 である。流行というものはいつの時代も国中に広がり、良い意味でも悪い意味でも人の心 を変えてしまうもので今回のような場合はたった一人の軍人が放った言葉で国を変えてし まうことはとても怖いことであった。
軍事上必要であれば、ハワイのほうが戒厳令も敷かれ、日系人強制収容は必要であった が、日系アメリカ人の移住もなく、日系人強制収容は一部の人であった。このことについ て小川真知子教授はハワイの軍政知事のエモンズ将軍が日系アメリカ人の移住を拒否した ため、行われなかっただけであり、国からは、モロカイ島に移住させる指示がでていたと 論文で述べている27。それに対し、アメリカ本土(太平洋側)のカール・ベンデツェン中佐 は自ら国の指示もなしに日系アメリカ人の移住を進めた。これは、自身の心の中に、日系 アメリカ人を嫌う個人的感情があったのかもしれない。ルーズベルト大統領はハワイのこ とはエモンズ将軍、アメリカ本土のことはカール・ベンデツェン中佐に任せていた。した がって、エモンズ将軍とカール・ベンデツェン中佐の日系アメリカ人に対する個人的見 解の違いが、ハワイとアメリカ本土の日系アメリカ人の対策の違いとして表われたのであ る。この個人的見解によって、日系人強制収容の必要性は地方で個々に判断されたのであ る。
図 3 日系人強制収容所所在地10ヵ所
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/W-map/ConfinementCamp.html (日系人強制収容所跡地を見る)
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第 2 節 アメリカ本土における日系人強制収容
ハワイの日系人強制収容が行われなかった理由の一つとして、小川真知子教授はハワイ よりアメリカ本土、特に西海岸の方が強制収容された人が多く、ハワイは極端に少ないこ とを述べている。さらに、エモンズ将軍が反対したことも理由の一つである。そのような 日系アメリカ人に対する配慮がなったアメリカ本土の日系人強制収容は酷く、決して忘れ てはならないことである。ここでは、アメリカ本土の日系人強制収容所の生活などに触れ、
日系人強制収容という人種差別を明確していく。
アメリカ本土の日系人強制収容は、前で述べた通り、カール・ベンデツェン中佐によっ て実施された。その後、1942年3月22日にアメリカ軍西部防衛長官・第四軍指揮官デュ・
エット中将の命令により、ワシントン州にいる一部の日系アメリカ人が初めて内陸への移 動が開始した。ワシントン州には海軍の施設があり、重要な拠点であったため最初に行わ れたのである。28次にシアトルなどから続々と移動が開始し、砂漠や荒野にあるアメリカ 全土で 10 ヵ所の強制収容所に日系アメリカ人は収容された。しかし、収容所の建設が遅 れていた一部の地域は日系アメリカ人を競馬場の馬小屋に収容されたこともあった。実際 に小平尚道氏は、日系人強制収容を経験しており、馬小屋に収容されたことに対して、当 時、「衛生上、このような場所に、人間を収容することは、医師として許せない。29」と書 いた抗議文を収容所の所長宛に提出した。そして、小平氏自身は持病を持っていたため、
医者のいる部屋に移ることができ、他の人たちも友人がいれば、友人の部屋に移ることが 許されたのである。収容所の一般的な部屋でも薄い板で仕切られているだけで、床の下か らは雑草が生え、とても人間が住める環境とは言えなかった。家具も軍から支給された寝 具のみで、多くの日系アメリカ人は広場にあった木材で、机やいすなどの家具を作った。
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その後は、日系人強制収容所が続々と完成したことにより、小平氏はワシントン州のピ ュアラップからアイダホ州のミニドカ収容所へ移動した。家具はやはり、自分たちで作ら なければならなかったが、ピュアラップの収容所と比べると、部屋の壁も厚く、床もしっ かりしていて人間が住める最低のギリギリの線を保持しており、生活ができる環境になっ たのである。ここの収容所は約1万人規模の収容所であり、一つのブロックに6棟のバラ ックが建てられ、44ヵ所のブロックに分かれて生活した。棟の中には、共同の食堂、風呂 場、ランドリー、娯楽室があり、全てのブロックに設置されていた。さらに、ミニドカ収
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容所の中央部には小学校・中学校・高校があり、子どもの学業に影響が出ることはなく最 低限の住みやすい環境が整っていた。31しかし、人間が集団で住むための必要最低限の環 境だったため、個人的なプライバシーは守られていなかった。トイレですらしきりが無く、
衛生面は不十分であったため、集団食中毒などの病気は多発した。また、食堂や風呂場は 一度外に出てからでなければ行けず、時間が重なるため、行列ができることもあり、冬の 時期は老人や幼児は苦難であった。このようなプライバシーが確保されていない状況に耐 えきれず、収容所の外に出ようとする者もいたが、すぐに監視の兵に見つかり、射殺され た。それほど日系アメリカ人はいかにも犯罪者のような扱いを受けていたのである。
強制収容は枢軸国の人種のドイツ系やイタリア系も行われていた。しかし、ナチスやフ ァシスト党など枢軸国の政府と関係のない一般市民はすぐに釈放されたが、日系アメリカ 人は、釈放されないままであった。さらに日系アメリカ人だけに対しては、全財産の没収、
放棄。そして、長期的強制収容が行われた。それは、真珠湾を攻撃されたことやアメリカ 本土への砲撃があり、次に本土への本格的な攻撃が来るのを恐れていたのである。他の枢 軸国は直接アメリカに攻撃するなどなかったので、自国を攻撃されたアメリカ人は日系ア メリカ人に対して、怒りと恐怖が増した結果、日系人強制収容という差別が生まれたので ある。
さらに、強制収容所で成人の日系アメリカ人に対して忠誠登録調査が行われた。日系ア メリカ人に対して忠誠心を問う質問がいくつか出された。そこで、アメリカへの忠誠に否
図 4 ミニドカ強制収容所
http://www.huffingtonpost.jp/taro-kono/japanese-american_b_5685050.html (日系アメリカ人の歴史|河野太郎)
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定的な回答した者は、カリフォルニア州のツールレイク強制収容所に移動させられた。肯 定的な回答で忠誠心が見られた者は仮釈放させ、強制収容所から出た人たちは労働力不足 であった工場や農場で働くようになった。さらに、志願兵の選考でもあったため、アメリ カへの忠誠を誓い、強制収容所を出てアメリカ軍として任務に出る者もいた。戦時中にア メリカと日本の間にいることは許されなく、アメリカと日本の血を持つ日系アメリカ人は アイデンティティの葛藤に悩まされたのである。このアイデンティティの葛藤は、戦後も 続き、日系アメリカ人はアメリカ社会に認めてもらえるように努力した。
アメリカ本土の日系人強制収容は、残酷であからさまな人権差別であった。一般市民を 巻き込み、日系アメリカ人全員を収容したことは戦後 70 年経った現在でも心苦しい出来 事である。ここまでするほど当時のアメリカは、真珠湾攻撃をされたことで日本軍を恐れ ていたことがわかる。アメリカは歴史上、他国に攻撃されたことが無かったので、日本を 甘く見ていたのかもしれない。初めて攻撃されたことで政府は緊迫状態に陥り、対応が整 わなかったのである。ましてや、人種を保護する政策など整うはずがなく、日系アメリカ 人全員を強制収容する強行的な政策をとったのである。当時の日系アメリカ人はこのよう な苦しみに耐え、日系アメリカ人としてアメリカに属し、忠誠することや日系人部隊とし て後に活躍することで、アメリカ社会に日系アメリカ人を認めさせる努力をしたのである。
第 3 節 ハワイにおける日系人強制収容
ハワイの日系人強制収容は行われなかったという見解が多いわけだが、果たしてそれは、
現在でも行われなかったと言ってよいのだろうか。
島田法子教授は当時のハワイの日系アメリカ人が全人口の4割を占めており、日系アメ リカ人全員を収容した場合のハワイ経済の崩壊の懸念があったこと。ハワイは太平洋戦争 の最前線であったため、軍に費用や人力をかけていた。そのため、約16万人の日系アメリ カ人を収容することは、莫大な費用と人力が必要となることから現実的に不可能であった こと。日系アメリカ人はハワイ社会に馴染んでおり、危険な存在ではないと考えられてい たこと。そして、エモンズ将軍の功績。32これらの理由からハワイにおいて日系人強制収 容は行われなかったと主張している。小平尚道氏も同様に、エモンズ将軍が政府の指示を 拒否したことからハワイで日系人強制収容は行われなかったという見解を示している。
しかし、2015 年 2 月にオバマ大統領が、ホノウリウリ収容所を国定史跡に指定したこ
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とで、ハワイにおいて日系人強制収容の存在は否定できなくなってきたのである。ホノウ リウリ収容所はハワイで最も大きい収容所で、約3000人が収容できた施設である。当初、
ここの収容所も床の穴から草が生えてくるほど、人間が住める環境ではなかった。日系ア メリカ人は自ら床の修理に取り掛かり、やっと住めるほどになったのである。完全に設備 が整ってからは、食堂、温水付き便所、売店、洋服屋、医療施設が設けられており、レク リエーション広場では映画上映ができるほど娯楽が楽しめた。アメリカ本土の収容所と比 べると生活に困らないほどの設備が整っており、住む場所が変わっただけで、一見、普段 と変わらない生活ができたように思える。しかし、ホノウリウリ収容所は乾燥地帯であり、
気温が高く、蚊よけネットが支給されるほど非常に蚊が多かったため、外の環境は地獄で あった。そのため、「地獄谷」と呼ばれていた。33
ハワイの日系人強制収容は真珠湾攻撃を受けた当日に日系人社会で権力がある者や仏 教・神道の関係者といった一部の人が収容されたが、ホノウリウリ収容所ができるまでは ホノルルのサンドアイランド抑留所に収容された。ここには、約700人の日系アメリカ人 が収容された。真珠湾攻撃当日、すぐに収容したため、収容所の設備が不十分であり、か つては病棟として使われていたサンドアイランド抑留所がオアフ島で適切だと判断された。
それでも、収容所の管理が整っておらず、アメリカ本土の日系人強制収容とは異なり、全 員が収容されたわけではないので、収容された者は家族と離れ、一切連絡も取れないこと に苦しめられた。また、所長であったカール・F・アイフラー陸軍大尉は規律が厳しく、食 堂でスプーンが一本紛失しただけで、全収容者を裸にして、身体検査を行うなどをしてい た。34伝統的に人種協調主義が守られていたハワイが崩壊し、人種差別が始まったのであ る。
そして、1 年後には、サンドアイランド抑留所は海に面しており、また日本軍が攻めて くる危険性があったため、オアフ島の内陸にあるホノウリウリ収容所に収容者全員を移動 させたのである。ホノウリウリ収容所は、サンドアイランド抑留所の収容者の反発から改 善され、スタッフの態度は公平であり、親切であった。一ヵ月に一度は家族との面会が許 され、生活に必要なものは与えられるようになった。35
ハワイの日系人強制収容は、最初は、真珠湾攻撃が奇襲であったために、早急な収容で 設備が整わず、日系アメリカ人は苦しめられた。しかし、ホノウリウリ収容所の完成によ り、設備と管理が整ったことで、人種差別も少し落ち着き、ハワイの伝統的な人種協調主 義が復活してきたのである。だが、この行為に対して、ハワイにおいて日系人強制収容は
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行われなかったと日系人強制収容の存在を否定してよいのだろうか。
さらに、ハワイで強制収容された者は、後に、アメリカ本土に移送される者。終戦まで ハワイの収容所に収容され続ける者。無罪放免で釈放される者がおり、人により様々な対 応があった。アメリカ本土には、約 1000 人が移送され、ハワイで収容され続けた人は約 300人であった。36他にも、日本語の使用禁止などの日系アメリカ人に対する制約を破り、
逮捕された者や収容所を運営する上で、必要となる職業37に就いていた日系アメリカ人も 収容された。ハワイにおいて強制収容された者はアメリカ本土に移送された者も含め、約 2300人にもおよんだ。また、アメリカ本土に移送されたハワイの日系アメリカ人は忠誠登 録調査で否定的な回答をした者と同じツールレイク強制収容所に送られた。
このように、歴史的事実は多くあり、ハワイでの日系人強制収容は行われていたのであ る。さらには、小川真知子教授はオアフ島だけに限らず、ハワイ諸島全土に8ヵ所日系人 強制収容所があったことを明らかにしている。しかし、ほとんどの収容所は戦後、放置さ れ、ジャングルに覆われたり、土地開発が進められ、破壊された。その結果、日系人強制 収容の存在を残す遺産はホノウリウリ収容所跡地以外消えてしまったのである。これから は、遺産であるホノウリウリ収容所の存在をアピールすることで、ハワイにおいても日系 人強制収容が行われていたと認めることが大切である。そうすることで、当時、収容され た人たちやその家族が抱えている現在の想いが救われるだろう。そして、日系人強制収容 のような人種差別を二度と起こさないためにも、遺産を残すことは重要であり、決してこ のような歴史は忘れてはならないのである。
図 5 ホノウリウリ収容所
www.huffingtonpost.jp/.../honouliuli-internment-camp-ww2-hawaii_b_9481898.html (今だから考えたい、日系人収容所ホノウリウリから学ぶこと。『戒厳令の怖さ』塩沢淳子)
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第 4 節 第 442 連隊戦闘団
ここまでは、日系人強制収容について見てきた。それと関連して、日系人強制収容所か ら出て、アメリカに忠誠を誓い、終戦までアメリカ人として、戦争と人種差別の両方と戦 い続けた、日系人部隊、第100大隊と第442連隊戦闘団も日系アメリカ人の歴史を語る上 で、重要である。
また、ハワイにおいて、日系人強制収容が行われなかったとされる理由の一つに第 442 連隊戦闘団の活躍がある。日系二世からできたこの部隊はヨーロッパで活躍の場を広げ、
ハワイのみならず、アメリカ本土でも注目され、功績を称えられたことが原因で、日系人 強制収容の歴史は縮小されたと考えられる。この節では、称賛されるほどの活躍を見せ、
日系アメリカ人をアメリカ社会に認めさせた第422連隊戦闘団を見ていく。
日系アメリカ人部隊は元々、ハワイに正規兵としていた日系二世の陸軍がアメリカ本土 に送られ、ウィスコンシン州のマッコイ基地で第100大隊として結成された。そこで、主 に訓練を受けた後に、ヨーロッパへ出撃した。第100大隊はイタリア各地で、イタリア軍 やドイツ国防軍と戦闘を開始した。イタリア各地を転戦していたため、戦死者が増えた。
モンテ・カッシーノの戦いでは、200人の兵士が出撃し、生存者は23人だけであった。38 その後もローマやチヴィタヴェッキアに進攻した。チヴィタヴェッキアで第442連隊戦闘 団と合流し、その一部の第一大隊として、再編成されたが、第100大隊として名前は変更 せずに存続した。そして、終戦まで第 442 連隊戦闘団の一部として戦い続けた。これが、
日系人部隊の最初であり、第442連隊戦闘団は後から作られた軍隊だということがわかる。
第442連隊戦闘団の結成は、第100大隊の兵力不足を補うため、1943年1月にアメリ カ本土やハワイの強制収容所から志願兵の募集を開始した。アメリカ本土では前に述べた ように忠誠登録調査の質問に対して、忠誠に肯定的な者が志願兵として選ばれた。したが って、アメリカ本土では志願兵を 3000 人募集したが、日系二世の男性で忠誠に否定的だ った者が6700人もおり、志願兵として集まったのは、1200人ほどであった。それに対し て、ハワイは1500人の募集に対して、約9000人の志願があり、募集枠を1000人増やし、
2200人ほど募集をかけた。最終的には2600人の志願兵が誕生した。39これほど、志願兵 の募集に差が出たのは、ハワイには元々、日系人社会が根付いていたことで、日系人強制 収容が一部ですみ、他の日系二世は自由に志願できたことがあげられる。アメリカ本土の 強制収容所は日系アメリカ人全員であり、さらに忠誠登録調査をしたことで親米派と親日
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派の対立が影響したと考えられる。この境遇の違いからハワイの志願兵とアメリカ本土の 志願兵が衝突することもあった。
この選ばれた志願兵たちは、ミシシッピ州のシェルビー基地で訓練を受けた後に、第100 大隊と合流するために、ヨーロッパへ出発した。先ほど述べたように、イタリアのチヴィ タヴェッキアで第100大隊と合流し、イタリア戦線で戦い続けた。次にフランスへ進攻し、
ヴォージュ山脈の森の中でドイツ軍と3日間の激戦を繰り広げた。そして、ブリュイエー ルの街の奪還に成功した。この直後には、テキサス大隊がドイツ軍に包囲され、救出困難 な状態までに陥っていた。しかし、第442連隊戦闘団が救出に出動した。戦闘は休憩もな く、ヨーロッパで連戦続きであったため、死傷者が増えた。さらに、1 週間近く戦闘が続 き、死傷者は814人までにおよんだが、テキサス大隊兵211人全員を救出することに成功 した。40この無謀な戦いにも勝ち、成功を収めた第442連隊戦闘団は、このテキサス大隊 救出がきっかけとなり、称賛されるようになった。
その後は、第 442 連隊戦闘団は数々の戦闘を乗り越え、1944 年には徴兵制が復活した ことにより、人数が拡大し、18000人の戦闘団となった。そのうちの戦死者が680人、行 方不明67人、戦傷者9486人であった。この戦時中の活躍が、評価され、様々な勲章が大 統領から授与された。また、最近では 2010 年にオバマ大統領から民間人に与えられる最 高位の勲章である議会名誉黄金勲章が授与された。第442連隊戦闘団はアメリカ陸軍史上、
「最も多くの勲章を受けた部隊41」となった。日系アメリカ人兵士はこうした数多くの戦 場で活躍することで、アメリカに忠誠を証明し、アメリカ社会に日系アメリカ人がアメリ カ国民として生きていく権利を認めさせたのである。
第442連隊戦闘団が戦場を駆け回り、活躍していった背景には、日系アメリカ人に対す る、アメリカ人の憎悪や恐怖感を振り払うため。また、日系人強制収容など戦時中に受け た差別から日系アメリカ人として名誉を守りたいという思いがあったからだと考えられる。
日系アメリカ人二世兵士は当時、『収容所で呻吟していた若者たちは苛酷な環境下に放り 込まれた親世代を身近に見るにつけ、「一刻も早く父さんたちに市民権を。」と祈るような 気持ちに駆られていった。祖国日本と帰属する国家アメリカとのはざまで揺れ動きながら も、国籍を持つ米国への愛と忠節は不動だという認識が強まった。一世たちも二世の思考 を支持した。現実の不当な差別、耐え難い立場を克服するには、アメリカの兵隊となって 米国に忠誠を示す以外ないという結論が生まれた。42』と言うように、当時のアメリカ社 会で日系アメリカ人が戦前のように暮らせるには、アメリカに忠誠を証明するためにアメ
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リカ軍として従軍するしかなかった。しかし、他のアメリカ軍と同じように指示に従うだ けでは、忠誠を証明することはできなかった。ヨーロッパで最も危険とされる戦場を選び、
従軍することで、他の軍にはできないほどの武功をあげる必要があったのである。そこで、
たとえ戦死をしても名誉であり、後に、日系アメリカ人は裏切り者ではなった証拠となる ので、死をも惜しまなかったのである。
このように、忠誠を証明するために、危険を顧みず戦い続けたことで、アメリカの勝利 に貢献した。そして、人種差別にも勝つことができたのである。この功績から現代に至る まで歴代の大統領から多くの勲章を授与された。しかし、元442戦闘団の日系アメリカ人 たちは授与されても「私たちはヒーローではなく、自分たちは人殺しだ。43」と言ってい る。これはハワイの日系アメリカ人の平和に対する思いや人種差別のない社会を目指す思 いがこの発言に含まれており、伝統的な人種協調主義のハワイで暮していた日系アメリカ 人らしい発言である。また、この発言の謙虚さや数多くの戦場で死を惜しまない姿勢はや はり、日本人とよく似ている。第442連隊戦闘団の活躍は日本人の血が入っている日系ア メリカ人だからこそできたことで、他のアメリカ軍には決してできないことである。第442 連隊戦闘団は第二次世界大戦下のアメリカにとって非常に名誉のある軍であり、全日系ア メリカ人にとっては誇りである。第442連隊戦闘団が残した功績と名誉は、これからも日 系アメリカ人の歴史として語り継いでいくべきことであり、アメリカだけでなく、世界中 に発信することで人種差別を現在受けている人たちが少しでも救われるように願いたい。
図 6 第442連隊戦闘団
(HAWAII`S OWN ハワイで購入した写真集より)
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第 3 章 戦後の日系アメリカ人社会
第 1 節 戦後補償
日系人強制収容が終了したのは、1944年12月17日であった。しかし、強制収容が解 除されても、アメリカ国民の日系アメリカ人に対する敵意は収まらなかった。地元に戻っ てきた日系アメリカ人は、財産を全て没収されていたため、家も土地もなく人生を最初か らやり直すこととなった。また、日系アメリカ人が収容所外に出たことで、白人による日 系アメリカ人を永久に追い出そうとする動きがあり、嫌がらせや暴力事件が増えた。これ は、日系アメリカ人が外に出たことで、白人と接触する機会が増えたことも原因である。
さらに、第442連隊戦闘団の戦死者が埋葬されることも断られ、アメリカのために勇敢に 戦い活躍した人たちでさえも差別を受けた。強制収容後も、徹底した日系アメリカ人に対 する差別が続いた。
日系人強制収容などの差別に対して、補償の動きが表れたのは終戦から15年後の1960 年代であった。最初は日系アメリカ人に対する補償ではなく、黒人公民権運動に影響を受 けた日系三世やアジア系アメリカ人によるアジア系アメリカ人運動であった。この運動は 日系アメリカ人などのアジア系アメリカ人の学生を中心に自分たちの文化や歴史、自己の アイデンティティを取り戻すために、大学で始まったストライキである。日系アメリカ人 やアジア系アメリカ人たちは、1960年代まで続いていた抑圧の体制に反発し、中国人排斥 法や日系アメリカ人の場合は、日系人強制収容や当時の排日的行動などのアジア人差別に 対して、アメリカを告発するなど今までの謙虚な日系アメリカ人には考えられないほど、
アメリカへ抵抗した。44
また、この運動に参加したのは、戦時中、強制収容の体験がない日系三世であった。な ぜ、日系人強制収容を体験していた一世や二世ではなく、三世であったのだろうか。ある 日系アメリカ人三世は、「強制収容の体験がない私たち三世がこの問題にかかわったのは、
おそらく、歴史が現在の私たちを決定していると思うからです。歴史が私たちに教訓を与 えるし、歴史を知らなければ私たちは自分自身をしることができなかったのです。45」と 言っており、強制収容という歴史を知ることで、自己のアイデンティティが形成された。
しかし、一世や二世は日系人強制収容の歴史を語ろうとはしてこなかった。それは、あの 辛かった日々を思い出したくないという理由や今、一世や二世が日系人強制収容を批判す ると、かつてアメリカへの忠誠を問われたように再び、忠誠心を問われ、日系アメリカ人
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が苦しい立場に陥るのではないかと危惧していたのである。それに対して、三世は日系人 強制収容を体験していないことで真正面から歴史と向き合うことができたのである。
1970 年代に入ると、さらに補償運動が本格化してきた。JACL46は補償法案の成立を目 指し、決議案を固めた。決議の内容は、強制収容の体験者以外に強制収容前に自主的に内 陸部へ移住した人の補償も組み込まれた。また、補償額は、25000ドルとして決議案をま とめた。そして、議会に調査委員会を設置し、当時の強制収容に関して調査が始まった。
その調査報告書を大統領に提出した結果、JACL の補償要求が認められた。日系アメリカ 人を強制収容する軍事的必要性は当時、存在していなかったとし、人種的偏見や政治的失 敗によって起こされたものとした。47しかし、この法案が可決するには、議会に通しある 程度の支持が必要であった。この点でアメリカ人の支持も得ることができ可決したのは、
第422連隊戦闘団の存在であった。日系アメリカ人の兵士たちは、収容所に入れられなが らもアメリカへの忠誠心を失わず、他のアメリカ部隊に比べ多くの死傷者を出して国のた めに貢献したことがアメリカ政府の心を動かしたのである。48
1988年8月に補償法案は、「市民的自由法」と名付けられ、施行された。アメリカ政府 は、日系アメリカ人に対して行ってきた過去の差別的政策について謝罪をしたのである。
この補償の対象者は日系アメリカ人の強制収容者に限らず、外国籍で強制収容された者 や強制収容前に自主退去をした者も対象となった。さらに、本土に限らず、ハワイで強制 収容された日系アメリカ人の指導者や教育者にも補償された。49
さらに、市民的自由法は、「市民的自由公共教育基金」を設立し、20000ドルの補償金を 出すことを定めた。これは、アメリカの国の予算から最長で10年間で1人20000ドルだ ったために国の予算が滞る場合もあり、アメリカ政府としては厳しい状況であったが、日 系アメリカ人に対する賠償のために補償を払い続けたのである。50
こうして、戦後の日系アメリカ人は自己のアイデンティティを守ることができ、過去に 苦しめられた日系人強制収容から解放された。そして、長年続いた人種差別から勝つこと ができたのである。これまで、日系人強制収容より苦しめられてきた一世や二世たちは、
次の世代の三世により、アメリカへの忠誠を再び問われるのではないかなどのジレンマか ら解放され、恐怖に打ち勝つことができた。この終戦から30年以上経ちできた補償は、今 後の日系アメリカ人社会を左右することで、日系アメリカ人がアメリカで生きていく上で 歴史的快挙であった。過去の歴史を解決し、見事に勝利したことで、戦争で亡くなった日 系アメリカ人たちもやっと報われただろう。この戦後補償以降、日系アメリカ人の世代は、
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二世から三世へと変化していく。前で述べたように、一世が抑圧に苦しめられていた時に、
アメリカ軍と日系アメリカ人の間に二世が入り、問題が解決したことがある。戦時中、日 系アメリカ人は二世が中心となり、世代交代をしたのと同じように、今回も一世や二世が 苦しめられた日系人強制収容を三世が戦後補償として解決したことにより、世代交代が起 きたのである。日系アメリカ人の仲間意識や家族との絆が強いことが非常に感じられるこ とである。改めて日系アメリカ人の誠実さや真面目で謙虚なところは、日本の血をもって いるため、日本人らしさが感じられた。
第 2 節 現代のハワイ
ここでは、ハワイの研修で見えてきた現在のハワイ社会や日系アメリカ人について述べ る。現代の日系アメリカ人は、三世、四世と次々と世代が交代し、日本語を話せる人も減 少しつつあり、戦後以降、日系アメリカ人のアメリカ化が進んできた。日本の文化は、ま だ至る所に残ってはいるが、戦前の全盛期と比べると日系アメリカ人の人口は減っており、
日本の文化が徐々に縮小しつつある。このような、ハワイにおける現代の日系アメリカ人 についてこの節で述べ、さらに、真珠湾攻撃から75年経ったハワイについて述べる。
戦後補償により、日系アメリカ人としての生活が戻りつつあり、日系アメリカ人である ことを公に恥じる人も減ってきた。しかし、日系アメリカ人の主役は終戦とともに次の三 世へと世代が交代した。一世や二世は日系アメリカ人の歴史の創設者として歴史と共に生 きていたが、三世は戦争を知らない世代として初めて生まれ、アメリカ化が進んだ世代で ある。先ほども述べたように日系三世は、日系人強制収容のような当時の戦時中の歴史を 体験してないことで、歴史と前向きに向き合うことができた。そして、戦後補償が成功し たのである。
日系三世は、これだけでなく、文化の復興にも貢献していった。現在の神社や寺院はほ ぼ三世の人々によって運営されている。戦争中は、仏教や日本の行事は禁止されていたが、
戦後は住職や神主が本土から帰ってきたことにより、神社や寺院が再開した。その後、日 本の行事も再び行われるようになり、日本文化が復興を遂げた。戦後補償が採択されて以 降、日系アメリカ人社会が三世中心になっていくと、日本の文化も三世へ受け継がれるこ ととなる。日系三世は、歴史を知らない上に、日本と直接関係する世代ではなかったため、
ハワイの日本文化も日本の名残を残しつつアメリカ化していった。例えば、日本は、仏教