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Kyushu University Institutional Repository
東省特別区域法院について : 中華民国北洋政府期司 法制度改革の一断面
国吉, 亮太
九州大学大学院法学府 : 博士後期課程
https://doi.org/10.15017/1912124
出版情報:九大法学. 116, pp.89-121, 2018-03-08. 九大法学会 バージョン:
権利関係:
はじめに東省特別区域法院は、一九二〇年、中東鉄道がロシアから中国に返還された際に設けられた法院(裁判所)である。東省特別区域法院は主に中東鉄道沿線における領事裁判権喪失国国民の訴訟を取り扱うことを目的として設立された。この時期、革命によりロシア政府が倒れたため、中国国内に住むロシア人はそれまでの領事裁判権を失っていた。すなわち、東省特別区域法院は、領事裁判権回収後に中国側の裁判所で外国人に関する事件を扱う、はじめての裁判所となったのである。清朝以来、中国が領事裁判権を含む不平等条約の解消に向けて様々な努力を行ったのは周知の事実だが、そのパイロットケースともいえる東省特別区域法院に関して実態と展開を明らかにした研究は管見の限りではほとんど存在しない。そこで、本稿は政府刊行の公報類や新聞、あるいは外国による調査報告を利用し、東省特別区域法院の設立から消滅までの経緯を明らかにしようとするものである。東省特別区域法院の設立はロシアからの司法権回収を契機としたため、北洋政府、マスメディア、あるいは職務に携わ (
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東省特別区域法院について
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中華民国北洋政府期司法制度改革の一断面―
国 吉 亮 太
研 究 ノ ー ト
はじめに一、東省特別区域法院の設立に至る過程二、東省特別区域法院の発足と苦境三、東省特別区域法院の立て直し四、東省特別区域法院の終局結びに代えて
る当事者も、不平等条約の回収と今後の展開への期待を東省特別区域法院に対して強く抱いていた。一九二〇年代の中華民国の内政の混乱は東省特別区域法院にも大きな影響を与えるが、結果的に、東省特別区域法院は国民政府期を超え「満洲国」により組織改編を受けるまで存続した。東省特別区域法院は不平等条約回収史における一翼を担っただけではなく、外国との関わりを意識した上で、運用の過程に近代的法典の先行導入や検察制度の模索が見られた。これまで言及の少なかった北洋政府による司法制度改革と条約改正交渉の具体的な成果と見ると、東省特別区域法院の運用と設立は中華民国司法制度を探る上でも重要な役割を持つといえるだろう。先行研究における東省特別区域法院の位置づけとしては、前述のように、まず、領事裁判権回収後の外国人裁判のありかたとして注目されたことが挙げられるだろう。例えば、東省特別区域法院に関する貴重な専論である郭海霞・曲鹏飞両氏の研究では、ハルビン市档案館所蔵史料および中東鉄道の機関紙「遠東報」を用いて東省特別区域法院設立時の概観と特徴が示された。その上で、東省特別区域法院は「中国政府が陸続と行う治外法権回収のための経験蓄積となった」と結論付けるが、設立時ないしは設立直後までの記述にとどまる (
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6) い。例えば、安国胜氏の『外国在华领事裁判权史稿』では、 成立したことを述べるものの、その詳細には踏み込んでいな アからの領事裁判権回収の過程において東省特別区域法院が 治外法権回収史に関して言えば、多くの先行研究ではロシ ため、民国期を通しての展開には言及されていない。
张忠紱『中華民国外交史』を引いて、東省特別区域法院の成立については触れるものの、成立した東省特別区域法院がその後の領事裁判権の回収においてどのような意味を持ったのかという位置付けはされていない。ロシアおよびソヴィエトとの外交交渉史においても、一九二〇年の中東鉄道権利回収の後は一九二四年の中ソ協定およびカラハン宣言による在華特権の放棄が画期とされる。近年の研究ではカラハン宣言以前に領事裁判権の回収は成っていたと指摘されることがあるものの、やはりその詳細を知るためには東省特別区域法院に関する情報の整理が必要であろう。あるいは麻田氏による中東鉄道史研究における中東鉄道沿線の司法権回収、または越澤明氏や米大伟氏によるハルビン史の一部などで、部分的に東省特別区域法院の成立について触れられることがあるものの、いずれも成立時点での説明にとどまる。 (
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本稿では、主に、当時北洋政府が発行していた「政府公報」「司法公報」といった公報類をもとに、東省特別区域法院の制度・編成について、根拠法令を示すことで基礎的な情報の整理を行う。また、当時の報道からは政府発行の文書だけではわからない人事や組織の内実が見えてくる。それだけでなく、新聞には東省特別区域法院自身からの声明文が掲載されることもあった。一方、東省特別区域法院はロシアからの治外法権の回収とともに誕生し、運営の目的の一つが他の治外法権国に対して治外法権回収後の司法制度運用の範を示すことにあった。そのため、外国の視点から見た史料が利用できる。特に日本外務省は関心を持っていた形跡がうかがえることから、外務省外交史料館所蔵の一連の調査報告書を補助線として利用する。外務省史料からは、制度を定めた条文だけでは見えてこない運営の実態や外部の評価を見ることができる。限られたものではあるが、以上の史料によって、東省特別区域法院の成立時の制度設計を示すとともに、これまで明らかになっていなかった東省特別区域法院の成立から終焉までの経緯を明らかにすることを試みる。さらに、東省特別区域法院の制度面での整備が後の時代にもつながった形跡がうかがえることから、北洋政府期における司法制度改革の成果の一 (
12) 一、東省特別区域法院の設立に至る過程 稿の目的である。 つとして東省特別区域法院の存在があったことを示すのが本
本節では東省特別区域法院の設立に至る過程を三つの流れから検討する。まず、清朝末期以来の司法制度改革、その中でも裁判機構の整備が目指されてきた、という経緯を述べる。次に、北洋政府による外交面を舞台として行われた治外法権撤廃の働きかけと成果を見ていく。第一次世界大戦を契機として北洋政府は一部の国の治外法権撤廃に成功した。その流れの中で東省特別区域法院の設立が必要とされたことを示し、外交面における努力と司法制度整備の必要性が結びついたことで東省特別区域法院の重要性が浮かび上がってくる。最後に、中東鉄道沿線の司法権回収における具体的な過程を見ていくことで次節以下の展開に対する備えとしたい。清朝末期以来、列強を中心とする国際体制に巻き込まれるとともに、中国では近代的な司法制度の整備が進められた。その動機は多岐にわたるが、一つにイギリスと結んだ条約によっ (
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て、不平等条約改正と法制改革とが明確に結びついていたことがある。特に司法制度について、行政官による判決という前近代的な制度が普遍的であったことは強く批判を受けていた。そこで、清末司法制度改革の目標を西欧先進国にならい、①司法の行政よりの独立、②審級の整理、③特別裁判所の廃除、④刑事・民事の訴訟の区別、⑤検察制度の確立、⑥訴訟法の制定、に置き、王朝体制の修正維持と外国領事裁判権の回収が至上課題とされた。以下沿革によって概略を示すと、一九〇七年「大理院官制」の奏准によって司法と行政の独立をもたらし、また京師を対象としたものではあるが「大理院審判編制法」によってその総網で司法権の独立、民事・刑事の区別、検察機関の創設が規定された。全国的な裁判制度を規定する法令として「法院編制法」が一九一〇年に公布される。「法院編制法」は具体的な実施を見る前に清朝が滅んでしまうものの、中華民国時代も従前の法律を援用することになり、「法院編制法」もまた援用されることとなった。「法院編制法」は、一九一五年に北京政府によって改めて修正公布されるが、一九二〇年代における近代的な司法制度の中核を担っていた。「法院編制法」に基づいて設立された法院は新式法院と呼ばれ、この新式法院を全国に設置することを以て、中国の司法 (
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が決定した。さらに、ロシア革命勃発の影響で在華ロシア帝 ガリー帝国の臣民の審理は中華民国の法廷で実施されること 訴訟暫行章程」によって、ドイツ帝国、オーストリア=ハン まず、一九一七年八月一四日に公布された「審理敵國人民 めに設立されたため、その流れに位置づけられる。 道沿線の司法権回収後に無条約国国民に関する訴訟を扱うた う方針の下で法整備が行われた。東省特別区域法院は中東鉄 ては中国の法律を適用し、訴訟も中国の司法機関が扱うとい 的処遇を整備する必要に迫られていた。無条約国国民に対し されている。その過程で領事裁判権を失った無条約国国民の法 で領事裁判権の回収を行っていた、という指摘は早くからな 第一歩となり、大戦後に新たな条約関係を結ぼうとする過程 権回収に成功していた。第一次世界大戦が中国の国権回収の 16) た一方、一九一〇年代に北洋政府は一部の国からの領事裁判 司法制度の改革を通して不平等条約の改正が目指されてい 中国司法制度の発展を示すものであった。 がら近代的な司法制度による編成に基づいており、諸外国に 西洋の注目する中で設立された東省特別区域法院は、当然な 来の司法制度改革の目的の一つであった。一九二〇年に入り、 ( 制度を西洋の評価に耐える近代的なものとすることが清末以
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国臣民の法的地位も微妙になったものの、一九一八年一一月新たに公布された「外國法律引用章程」にもとづき、領事裁判権その他の特権は継続されることとなった。続いて大総統令「待遇無條約國人民辦法」によって、中華民国に居住、旅行する無条約国国民は、旧帝国時代の条約の適用を受けることなく、課税や訴訟については中華民国の法令を遵守し、いかなる他国にも代理保護されないことが明示された。一九一九年五月二三日大総統教令第九号として公布された「審理無条約國人民民刑訴訟章程」によって、無条約国国民に関する民事訴訟、刑事訴訟の取り扱いは中華民国の法院で審理すると規定された。その中で一九二〇年九月二三日付の大総統令によってロシア帝国公使・領事の資格停止が宣言され、「ロシア租界および中東鉄道用地ならびに各地方ロシア人居住地のロシア人民の一切の事務は主管の各部および各省区長官によって適切に計画処理すべきである」として、その直後に東省特別区域法院の設立を定める法令が公布され、中東鉄道沿線のロシア人に関する訴訟を受理することとなり、領事裁判権回収後の中国による外国人裁判を専門的に扱う裁判所が誕生することとなった。一方で、沿線以外のロシア人の司法管理問題は宙ぶらりんの状態になってしまった。 (
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に、司法部参事殷汝熊を派遣して引継準備主任とした。 25) を通過し、司法次長張一鵬を視察調査のため派遣するととも 部により中東鉄道沿線のロシア裁判所の回収が提議され閣議 統令であった。これにより領事裁判権の根拠は失われ、司法 月月二三日付の駐華ロシア公使領事の資格停止に関する大総 司法権回収の大きな画期となるのが、先述の一九二〇年九 に、情報の出所を提示することによって補完を行う。 は『東支鐵道を中心とする露支勢力の消長』をたどるととも 過程の記述は全面的に同書に依っている。本稿も経緯について ( 究をまとめており、近年の麻田氏による研究でも司法権回収 上下巻(南満洲鉄道一九二八)はその時点における先行研 爾濱事務所運輸課編『東支鐵道を中心とする露支勢力の消長』 大体が明らかになっている。中でも、南滿洲鐵道株式會社哈 触れられているところであり、既に戦前の研究においてその 具体的な司法権回収の過程については先行研究でも比較的 立てるものの、その経過は一筋縄ではいかなかった。 政府は東省特別区域法院を設立し、国権回収成功の証を打ち 備を行い、一部の領事裁判権回収にも成功した中華民国北洋 設立に至る具体的な過程を見ていく。近代的な司法制度の整 最後に、中東鉄道沿線の司法権回収と東省特別区域法院の
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一〇月一日には吉林交渉局代表者が旧ロシア裁判所を訪れて職務停止と司法事務の引継ぎを命じたが、ロシア側はこれを拒絶する。その後、交渉に当たっていた交渉局外交科科長傅閏成と親しいロシア人弁護士博克托(ポコト)なる人物が、彼を調査員として月額三〇〇元で雇用する条件の下に旧ロシア裁判所の職員と交渉を行い、最終的に書記官五名、執行員二名、タイピスト六名、廷丁二名のロシア人を再雇用することで決着した。直接交渉は一〇月一日より行われているが、一一月から中国による法院運営が開始されることはすでに決まっており、ロシア人職員の再雇用にあたっても一一月一日から登庁すべき旨を伝えていた。当初の引渡交渉をロシア側が拒絶していたことを考えるとかなり急ではある。これに関して、真偽は不明だが、外交科科長傅閏成は冒頭の交渉でロシア側の拒絶に合った際、「武力ヲ以テ取ルベシトテ帰リタリ」という態度だったという報告も見える。翌年一九二一年の郵政権回収の際には実際に兵力を用いてロシア郵便局の閉鎖が行われた。すでに一九一七年に警察権は中国側に回収されており、また一九二〇年三月、中東鉄道のストライキをきっかけとして中国側はロシアの鉄道警備隊の武装解除を行い、七月には守備権を ( 30)
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33) 二、東省特別区域法院の発足と苦境 ともに組織的な展開を見ていく。 区域法院の骨格を成す法令を検討し、その特徴を分析すると に法院整備のための法令が出されていく。次節では東省特別 載された。法院の正式な成立日は一二月一日とされ、矢継ぎ早 省特別區域法院編制條例」が公布され、翌日の政府公報に掲 外法権は停止された。一〇月三一日付教令第二五号を以て「東 このように法院の接収も行われ、中東鉄道沿線のロシア治 権回収を容易にした、との指摘は当を得ているだろう。 とは、一九二〇年代における中国による中東鉄道の諸々の利 完全に回収していた。駐兵権と治安維持の権限が回収されたこ
東省特別区域法院の基礎となる編成を定める法令として、「東省特別區域法院編制條例」「東省特別區域法院外國人諮議調査員任免曁辦事章程」「特種司法人員委員會章程」が一九二一年一〇月三一日付の教令をもって制定され、翌日の政府公報に掲載された。「東省特別區域法院編制條例」はその第一条で、訴訟上の便 (
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宜により中東鉄道沿線を東省特別区域と定義し、第二条で哈爾濱に高等審判庁および地方審判庁を設け、鉄道沿線にその他若干の分庭を置くと定めた。後に司法部令によって、分庭は哈爾濱市内に三か所、そのほか横道河子、海拉爾、満洲里に置かれることが、それぞれの管轄区域とともに定められた。第三条は検察官の配置について定める。当初の条文では高等審判庁、地方審判庁および分庭にそれぞれ一人から三人までの検察官を配置する定めだったが、翌年二月には高等審判庁地方審判庁および分庭に検察所を設け、審判に対して独立して職務を行う、と修正された。間もなく三月には、教令第七号により「東省特別區域清理俄人舊案章程」が公布され、高等審判庁地方、審判庁および地方分庭に設置された「俄人舊案清理處」において、一九二〇年九月三日以前のロシア人訴訟を扱うこととされた。この清理処には検察所も附設され、未決の刑事事件については検察官が捜査し処分する、と定められたため、検察官の配置ではなく検察所の設置となったのは清理処に合わせたものと思われる。当時、法院の基本的な編成を定める法令として運用されていた「法院編制法」においては、審判庁と検察庁がそれぞれ別の機関として設けられ、それぞれ対等に独立して職務を行 ( 39)
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員を置き、地方分庭にも諮議あるいは調査員を置くことがで 方審判庁には、司法部の委任により外国人の諮議および調査 さらに、特徴的な制度として、第四条で高等審判庁及び地 上告できた。 に不服がある場合、法律上の見解に限り北京にある大理院に こととなった。また、高等審判庁が第二審であり、その判決 の判決に不服がある場合には高等審判庁への上訴が行われる に不服がある場合は地方審判庁への上訴ができ、地方審判庁 の第一審は地方庁簡易庭または地方分庭で扱われ、その判決 轄を、第六条および第八条で審級の管轄を定める。初級管轄 42) また、第五条で高等庁地方庁および分庭それぞれの地域管 取りをしていた、と言えるだろう。 ところもあり、東省特別区域法院の検察制度はそれら改革の先 ( は地方によっては検察官の配置ではなく検察所の設置とする 必要なしとして法院に検察官を配置する制度を採る。あるい る。後に、南京国民政府は検察制度を改め、専門機関設置の た検察制度存廃論争においてもたびたび援用されることとな 東省特別区域法院の検察制度は、当時さかんに議論されてい 度は全国一般の法院とは異なることになった。後述するが、 うこととなっていた。それゆえ、東省特別区域法院の検察制
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きるとしたことや、第七条で地方審判庁が鉄道沿線の管轄事件に対して巡回裁判制度をとることができるとしたこと、第九条で外国人の弁護士が弁護士の資格で出廷することができると定めたことなどが挙げられる。外国人諮議、調査員については「東省特別區域法院外國人諮議調査員任免曁辦事章程」で詳細が定められ、施行細則として一一月一五日司法部訓令第八一五号による「東省特別區域法院諮議調査員辦事員任免章程施行細則令」がある。章程の第一条で諮議、調査員の資格を①かつて外国の法官であった者、②かつてまたは現在外国の弁護士であった者、とした。沿革において述べたように、哈爾濱で活動していた弁護士や前ロシア裁判所の裁判官がそのまま諮議あるいは調査員として任命されている。職務に関しては、当初は第四条で、高等審判庁および地方審判庁においては法院からの諮詢に備え、地方分庭では純粋なロシア人間の事件の場合は処理を補助できる、と簡潔に定められていた。「東省特別區域法院外國人諮議調査員任免曁辦事章程」は翌年十月に教令第三四号をもって修正されるが、その際に職務の範囲が詳細に定められた。具体的に見ていくと、関係書類の随時閲覧(第五条)、口頭弁論時の出廷と当事者へ質問を発する権利(第六条)及び出廷 (
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の活動は現在、対ロシア人のためのものであるが、成果を挙 開設間もない東省特別区域法院を紹介する記事では、法院 である。 46) 及でも、少なくとも一九二六年までは実施を見ていないよう たものの、実際に制定された形跡は見られない。同時代の言 巡回裁判については、巡回裁判章程を別に定めるとしてい 限は縮小してしまう。 から第八条までを削除する修正がされ、外国人諮議調査員の権 たことが報じられている。結局、その後一九二五年には第五条 修正は会審制度への逆戻りだとして反発し、反対集会を行っ る」と評価したが、一方で、東省特別区域法院の職員は、この ( を失つた露西亞人の不案も殆んど緩和される理屈になつと居 ママ ことによつて、治外法權に基く自國の裁判制度及び會審制度 同時代の日本の研究者は「此露西亞人の諮議や調査員を置く となった。諮議調査員がこれらの権限を持つことに対して、 条)となり、諮議調査員が裁判へ大幅に関与することが可能 察(第九条)、刑事事件についての検察官への情報提供(第十 を陳述する権利(第八条)、外国人拘禁の看守所、監獄への視 人を逮捕拘束した際に通知を受け違法と判断した場合は意見 時に諮詢を受けた際の関係書類への意見添付(第七条)、外国
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げることによって司法の改良が進み、もって外国に対する法権拡張の前途に大いに関係あるとして期待を寄せている。また高等審判庁長傅彊について、日本において法学を修めたことともに、吉林交渉司として外交の経験を重ね、前年から濱江道尹および東省鉄路公司督弁公所参贊をつとめロシアとの交渉経験豊富であることで高等庁長に適任であると紹介されていることは興味深い。さらに採用した人材についてもその才は「一流」であるとことや、各地の法院よりも高い給与が支給されることも紹介されている。司法部の期待を表すかのように、すぐさま管轄の拡大が図られる。一二月二一日付訓令「無領事裁判權國人民訴訟劃歸特別法院管轄令」により、吉林省、黒竜江省両高等審判庁に対して、両省内では中東鉄道沿線以外でも無領事裁判権国民の裁判は東省特別区域法院が管轄するように命じられた。これは先に定められた「審理無約國人民刑事訴訟章程」において、領事裁判権が存在しない国の管轄を定めていたが、その第二条の「特別區域裁判所」に東省特別区域法院が当たるのに合わせたものである。また、ほぼ同時に傅彊からの呈文に答える形で、領事裁判権をもつ国の国民に関する訴訟であっても法院において受理 (
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監視と報告を行うことも計画された。この湯参事の派遣につ として、司法部が参事湯鐡樵を派遣して書記庁を組織させ、 また、法院の運用に対しても外国からの疑いを免れるため 54) を整備して専員をあてて処理することとしている。 よび商行為上の権利義務に重要であるとして、先んじて組織 わち後見事件と登記事件について、ロシア人民の生命財産お 行である。とくに監護科登記科の設立については、監護すな の場合は欠席裁判を行うこと、⑤窓口による民事訴状書の発 ③無用な応対の禁止、④開廷期日の事前告知及び当事者未達 る。その内訳は、①監護科登記科の設置、②業務時間の厳守、 て法院の職務について若干の整理が図られたことが報道され 明けて一九二一年、一月に着任した地方庁長柴宗瀠によっ るとの回答がなされた。 ( 東省特別区域法院への弁護士登録は無領事裁判権国籍者に限 領事からアメリカ人弁護士の登録出廷の申請があった際には、 送されてきたものへの回答である。しかし、のちにアメリカ 受理されるべきではないかとのイギリス領事からの照会が転 そのため中国人を被告とする華洋訴訟も東省特別区域法院で 九条の「外國」が無領事裁判権国のみを指すとは思われず、 できることが示された。これは東省特別区域法院編制条例第
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いては、後に報告書が司法公報に掲載される。書類の格式・目録の整理や設備の新築が成果として報告されている。法院への期待は他の方面へも影響を及ぼしていた。ワシントン会議への準備を報じる記事では、司法部の計画として、残存する領事裁判権の回収の根拠として東省特別区域法院の成果を主張する予定であるとされ、施設の新築や監獄改良のための経費を調達する計画があることも伝えられる。実際に使節団が上海会審公廨の回収を目指して行った議論では、ロシア人に対しての東省特別区域法院の存在を踏まえ、その他の地域(漢口、上海など)にも同様の制度を広めるとする意見や、東省特別区域法院の外国人諮議調査員章程を参照し、上海設立の特別法廷にも中立国の調査員を招くべきである、とする意見などが交わされた。しかし、開設から一年も経たないうちに法院の運営には暗雲が立ちはじめる。軍閥張作霖による圧迫を受けて高等審判庁長傅彊が哈爾濱を脱出し関内へと逃走してしまい、奉天高等審判庁長單豫升が一時代理を務めており後任を調整中である、との報道がなされたのである。後任の人事にしても張作霖の意見を先に求めなければならず、報道は論者の言として、「張作霖のこの挙は司法独立の破壊」「現在東省で任官するこ (
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東省特別区域法院と民国全体の法制とが関わった事例とし れる。 間柄」であるとの報道もあり、その人事の特殊性がうかがわ の調整能力が重視された。また、李家鏊は張作霖と「兄弟の 62) うに、東省特別区域法院のトップは法律知識よりもロシアと て東省特別区域法院の長として適任である、と述べているよ ロシア在住の経験が長く言語、風土、人情に詳しいことをもっ 司法総長董康が大理院にロシアの律師を招いた際に李家鏊は と同じく、対ロシア方面の外交官としての経歴が主であった。 たが、その後無事着任したようである。李家鏊も前任の傅彊 の駆使を受けるを願わず、として着任を拒否しているとされ 後任として赴いたのは李家鏊である。報道の時点では軍閥 は守られた、と述べそれ以上はこの件について触れない。 霖の思い通りになったわけではないことをもって司法の独立 を知る立場にはあるが語るを欲せずとして、人事が全て張作 という本人の証言を得ている。陳克正は、自分は詳しいこと 時国会議員として司法部と張作霖との間の調整に奔走した、 でも触れられ、対談相手である高等審判庁長陳克正から、当 この件に関しては、後に日本外務省が行った聞き取り調査 とは非常に危険」というような状況にあることを述べている。 (
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て、民事・刑事両訴訟条例の先行施行が挙げられる。一九二一年七月、修訂法律館は民事訴訟法草案を完成させた。民事訴訟手続きは極めて重要であり、はじめて法権を回収した東省特別区域法院で切実に望まれている、として、東省特別区域法院管轄区域内において九月一日から先行して施行することが七月二二日付の大総統令によって定められ、翌日の政府公報に掲載された。同時に「民事訴訟法草案施行條例」も公布された。次いで十一月、今度は「刑事訴訟條例」を翌年一月一日から東省特別法院区域内において先行施行することと、すでに公布済みの「民事訴訟法草案」を「民事訴訟條例」と改称することを定めた。明けて迎えた一月には、すでに東省特別法院区域内で施行済みの「民事訴訟條例」「刑事訴訟條例」を七月一日から全国に一律施行することを決定し、刑事訴訟、民事訴訟という基本法典がいずれも東省特別区域法院を経由して北洋政府統治下に適用されることとなった。のちに国民政府の下で統一的に施行される民事訴訟法・刑事訴訟法においても、制定にあたっては北洋政府期の「民事訴訟條例」「刑事訴訟條例」を大いに参考にしており、東省特別区域法院において全国に先駆けて両訴訟法が運用されたと言えるだろう。東省特別区域法院は李家鏊の下で成立一年を迎える。一二 (
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恐慌をきたしたため、と報じられている。ただし、記事では 原因は重罪人を北京監獄に移送するという噂にロシア囚人が 動が発生した、という不名誉な報道がされてしまう。直接の ところが、明けて翌一九二二年三月には特別法院監獄で暴 がなされた、と具体的な成果を挙げている。 の審理を終えたとともに、旧案清理所でも五百件以上の判決 年で民事二九六〇件、刑事一〇四九件、合わせて四〇〇九件 れていた。ほかにも、記事では李家鏊の演説を引き、この一 69) 東省特別区域法院の存在と治外法権の撤廃は強く結びつけら 全国の法権回収の記念としたい、としめくくるなど、やはり 回収のいしずえ、とした上で、東省特別区域法院の一周年を の目的を、一にロシア僑民の生命財産保護、二に領事裁判権 演説がなされた。李家鏊の演説では東省特別区域法院の設置 士代表が登壇し、各界一致して法院の一層の発展を願う旨の べられた。続いて高等審判庁所属のロシア諮議やロシア弁護 ぶべきことであり、全国の治外法権回収の希望になる、と述 東省特別区域法院の業績は領事裁判権回収の歴史において喜 典が開かれた。吉林軍代表として招かれた張壽增の演説では、 ( を休み、哈爾濱の文武各界人士二百名以上を招いての記念式 月一日は東省特別区域法院成立一周年記念として特別に業務
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中東鉄道会社からの補助金が打ち切られ、そのため中国独力で運営しなければならなくなり、経費捻出のために行った整理計画が囚人と看守の不満を招いたことも述べられている。前述のとおり、東省特別区域法院には政府の期待とともに優先的に経費を支給する予定であったが、内政の混乱によりその支給は滞っていた。そもそも、経費不足は東省特別区域法院だけでなく司法界全体の問題でもあった。五月、司法部・大理院をはじめとした司法機関が給与未払いを理由に総辞職・ストライキの構えを見せて運動を開始し、ついには法典編纂の役割を担っていた修訂法律館や最高裁判所たる大理院、京師高等審判庁・検察庁を含む北京司法機関の重鎮による抗議の辞職表明にまで発展していた。司法各界の連名で出された請願書では、法権討論会や修訂法律館と並んで東省特別区域法院についても触れられ、庁長李家鏊から何度も経費の催促があり総辞職や解散の危機にすらある、として財政部の無策を非難するとともに、法権回収後の組織がこの有様では国家の体面を失うとして東省特別区域法院の重要性を訴えている。財政部は当面の経費として一か月分の十八万元を支給する決定を出したが、これはまず東省特別区域法院に五万元が充てられ、残りを司法界全体で分割することとなった。東省特別 (
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別区域法院の経費不足と李家鏊の辞意を報じるとともに、東 75) 二月六日の報道ではこれまでの経緯をまとめ、再度東省特 員の意思表示として司法部に対し伝えている。 消されなければ法院は職務を停止する旨を東省特区法院全職 司法独立の破壊にほかならず、このような違法な命令が取り そもの手続きに問題があり、羅文幹の拘束命令は法権蹂躙、 早くも翌一九二三年一月二八日付けの通電で、事件はそも 経緯をたどっていく。 ほぼ全職員の辞職となってしまう。以下、やや詳細になるが 東省特別区域法院は深くかかわり、最終的には李家鏊および るが、羅文幹の第二次逮捕に伴う司法界の激烈な反対運動に 幹事件が発生していた。事件そのものの詳細は先行研究に譲 李家鏊が資金繰りに奔走している間、中央では名高い羅文 ている。 ( 成功せず、落胆のあまりの辞職説が出ていることが報じられ なく、万策尽きた李家鏊は奉天の張作霖に掛け合うがこれも 自身が上京し年末まで三か月に及び交渉するも得るところは しかし、根本的な解決には至らなかった。その後も李家鏊 ようである。 区域法院に優先的に経費を送るという理念はまだ生きていた
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省特別区域法院の職員は経費不足ながらも治外法権回収のため職務に耐えていたが、羅文幹事件とそれにともなう政府の司法破壊が激烈な反対を催し全体解散の意思表明に至ったとしている。十日、職員会議が開かれストライキが主張されたが、庁長李家鏊は東省特別区域法院が国際関係と深くかかわることから慎重な態度をとり、再度政府に連絡をとり認識が改まらなければ全体辞職を行う、ということになった。羅文幹逮捕に対しての主張は他の法院と同じく法律問題として論戦を行う方針だが、東省特別区域法院の立場を反映してか、政府による司法破壊の挙は法権の回収にも支障をきたす、との文言が主張に盛り込まれている。司法と行政の独立は清末以来の司法制度改革の目標であり、名目上司法と行政の独立が制度化されて以降も、政府による裁判への干渉がはなはだしいことは外国からの激しい非難を受けていた。東省特別区域法院が政府と対抗する上で、国権回収の先駆としての立場から正当性を主張しているのは興味深い。これに対して司法部は奉天の張作霖と図り、李家鏊を更迭して張作霖の推薦する人物を後任にする計画中であると新聞紙上に報じられ、三月八日付をもって李家鏊が「職務外におい (
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劇について張作霖の許可を得たとも伝えている。 81) 相応の職を与えるなどいくつかの条件と引き換えでこの交代 が司法部参事曹玉書を極秘に張作霖の下へ派遣し、李家鏊に の四人を反司法部の主犯として更迭を求めた。記事では程克 同刑事庭長王家標、地方審判庁長石福籛、地方検察所主任高熙 審判庁長として着任し、陳克正は高等審判庁民事庭長林祖繩、 の報道がなされる。すでに辞令がなされていた陳克正が高等 していた職員は免職され、最終的に程克が人事を掌握したと いている、との報道もあったが、四月に入り李家鏊および反対 であり、張作霖が李家鏊の罷免を望まず程克の計画はつまず の争いに力点を置いている。李家鏊と張作霖は「兄弟の間柄」 うことにあった。報道も程克に批判的であり、彼と各地法院 文幹拘束命令が違法であり政府による法の破壊である、とい この段階での羅文幹事件の焦点は、司法総長程克による羅 ともに、職員連名で司法部へ辞職の文書を送った。 ディア・律師公会・法院にあてた通電で総辞職を宣言すると 当然ながら東省特別区域法院は猛反発し、申報を含む各メ る、との人事が発令された。 ( 職し、吉林高等検察庁庁長陳克正を庁長代理として転任させ て政事に関与した」として東省特別区域高等審判庁庁長を免
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人事を巡る抗争が行われている間、東省特別区域法院職員からは司法部の不当を糺すとともに、事態が改善されなければ辞職する、との通告が続いていたが、合わせて、東省特別区域法院がすでにストライキに入っているかのような報道は誤りであり、職務は正常に行われているので訂正してほしい、とメディアに伝えている。また、張作霖が李家鏊を慰留し中央からの庇護を約束した、との通電が新聞紙上に掲載されたことに対しても、そのような事実は存在しないとして訂正を要求している。政府の「非法」に対抗し、法律問題として争う以上、「為民公僕」として職務を滞らせないことや、軍閥の影響を受けず公平をつらぬいていると見せること、で自らの立場に説得力をもたせようとしたのではないかと推測される。その後の報道によれば、反対運動に関わった職員の辞職と交代は穏便に行われ、混乱は生じなかった。残留した推事は高等審判庁においてただ一人、地方審判庁で二人の計三人のみという有様だった。以上、設立当初の制度の整備と、人事を巡る混乱を中心に東省特別区域法院の展開を追った。東省特別区域法院は中東鉄道沿線の領事裁判権回収に適応すべく、次々と組織の整備を行った。しかし、設立して間もない東省特別区域法院は政 (
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くられている。 93) これを聞いた北田の反応は「為之黙然」として記事は締めく たとしても法院は職務を停止することはできない、と答えた。 費用をおしむべきではないだろう、と問うと、陳は費用が減っ も掲載する。北田が、司法官は貧苦にあえいでいるようだが 査団が訪れており、記事は外務省参事北田正元と陳克正の対談 ら中国の司法状況を調査するため日本司法省・外務省から調 給与は当初のおよそ三分の一である、とも伝えられる。折か 伝えるが、新たに着任した高等審判庁長陳克正に与えられる 別区域法院の当初の給与水準が他と比較して高かったことも 半年としており、立て直しの困難さを予想している。東省特 東省特別区域法院の職務が以前の水準に戻るまで少なくとも 事は法院の成立から職員総辞職に至るまでの経緯を追った後、 う結末に終わった。申報は事の顛末を記事にまとめている。記 ( 動を展開するものの、トップの更迭とほぼ全職員の辞職とい 治事件に自ら参加する形で中央政府と司法部に対して反対運
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三、東省特別区域法院の立て直し 羅文幹事件による庁長交代により、第三代庁長として陳克正が着任した。在任が短期間に終わった前二人の庁長と異なり、陳克正はその後東省特別区域法院が「満洲国」に組み込まれるまでおよそ九年、東省特別区域法院のトップにあり続ける。そこで、やや詳細に人物情報をたどってみたい。陳克正の生年は一八七二年、生まれは奉天遼陽であり、直隷省の保定法政専門学校を卒業した。その後一九一三年一二月から署理奉天高等審判庁推事となり奉天、吉林の審判庁で推事を勤めるなど、前任者とは異なり司法官としてのキャリアを歩んでいる。一九一八年、吉林高等審判庁推事を辞しいわゆる「安福国会」時に参議院議員となる。一九二〇年から署理直隷高等検察庁長となり、吉林財政庁長、吉林高等審判庁長を経て東省特別区域法院高等審判庁長に就任した。主として東北で司法官の経験を積み、東省特別区域法院着任時は五十歳過ぎである。また、その人物については張作霖と「總角之交(=竹馬の友)」であり、「好好先生(人に逆らわない、事なかれ主義)」であると報道は伝える。 (
事である。論文では自らの経験をもって東省特別区域法院の 98) 者曾有瀾は羅文幹事件後、高等審判庁でただ一人留任した推 院の検察制度を参考にすべしとの意見が持ち込まれた。投稿 律専門誌上でも論戦が行われていた。そこに東省特別区域法 ルしはじめる。折から検察制度の改正議論が盛り上がり、法 むしろ、この時期に東省特別区域法院はその成果をアピー の調査を受け好評を得たとの報道がなされた。 会議で定められた調査団に関連して、駐哈爾濱アメリカ領事 どころか、人事交代から八か月後の十一月には、ワシントン 中々テキパキ進行セシメツツアリ」と述べるにとどまる。それ ( 至リ迅速審理セラルルコトトナリ個人間ノ民事事件ノ如キハ 直前の二月五日付で発した報告に「支那側裁判事務ハ最近ニ 哈爾濱総領事山内四郎が東省特別区域法院の闘争が激化する 物が触れた形跡は見られない。日本に関して言うならば、在 の限りでは羅文幹事件と東省特別区域法院について国外の人 外法権撤廃拒否の口実となることへの危惧があったが、管見 主張として、政府による司法の破壊は外国人の猜疑を招き治 羅文幹事件に関する争議に関して、東省特別区域法院側の とになる。 以降、東省特別区域法院は陳克正の下で立て直しを図るこ
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検察制度の優点を詳細に述べるが、羅文幹事件については不思議と触れていない。他にも東省特別区域法院を参考に検察制度改革を唱える論者があり、その特異な検察制度が注目を浴びはじめた。それのみならず東省特別区域法院自身の制度改革も行われた。高等検察庁検察所主任検察官祝諫は東省特別区域法院の検察事務の改良を図り、所属の職員に意見を提出させた。これに応えたものとして、地方検察庁主任検察官李葆光による改良意見が雑誌に掲載された。四月、東省特別区域法院検察事務改良計画は各職員提出の建議書を討論し、必要なものは実行されたとして具体的な内容を列挙する報道がなされた。紙面に従いその様子を探ると、①法院公式の文書翻訳所設立、②成果宣伝のための法律雑誌刊行、③ロシア人法医学者の招聘、④刑事被告の写真・指紋登録、⑤司法警察と警察官の文書伝達協力、⑥監獄出所者の更生支援、⑦幼年監獄・感化院の整備、⑧司法警察の訓練、⑨低所得者の訴状費免除、⑩監獄送達通知書への詳細記載、⑪殺人事件の立会、⑫新看守所の建設、⑬判決のロシア語訳と口頭告知、となっている。このうち①から⑤までは李葆光論文とほぼ同じ内容なので、あるいは李葆光論文も途中までしか掲載されなかった可能性が (
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日・露各界から百人以上の出席者があったという。 哈爾濱に到着した際に追悼式が催された。その功績を慕い中・ ンドで亡くなっていた。その棺が故郷上海に戻される途上、 辞職後再び外交官の道に戻り、一九二六年秋に任地フィンラ 法院と直接関係はないが、前東省特別区域法院長李家鏊は がどれほど達成されたかはいまだ未知数である。 されることはなかった。そのため、東省特別区域法院の成果 さらなる整備を望むとして、この段階で治外法権の撤廃がな は中国の司法制度整備について一定の評価を与えながらも、 においては「執務振リハ良好」との評価を得ている。報告書 105) 外国人監獄・看守所の視察が行われた。後に公表された報告書 ( にかけて、東省特別区域法院高等審判庁、地方審判庁および いわば晴れ舞台となるべき場所であった。六月七日から九日 り調査団が訪れ、報告書が発表される。東省特別区域法院の 問は延期につぐ延期を重ねていた。ようやく一九二六年に至 権撤廃の可否を検討すると定められたが、その委員の中国訪 おいて各国から委員を募り、中国の司法状態を調査し治外法 裁判所の模範を示すという目的があった。ワシントン会議に そもそも、東省特別区域法院には領事裁判権回収後の中国 ある。
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以上を見ると、陳克正時代も法院の運営はおおむね円滑に行われていたと言えるだろう。それどころか、李家鏊時代の一大懸案事項であった経費問題についても進展があった。後に陳克正が日本外務省に語ったところによると、陳克正着任の二年後より、中東鉄道から毎年哈洋五万元の補助金を得ることとなった。この中東鉄道からの補助金については、東省鉄路督弁呂榮寰の功績とされ、あるいは司法部が財政部と共同で中東鉄道と交渉した成果ともされるが、一九二八年ごろからは法院自体の収入が毎月四万元を超えることとなり、東省特別区域法院の運営自体は補助金でまかない、余剰の経費を遼寧最高法院分院の経費や司法官講習所の設立に充てるほどになったようである。時はすでに一九二八年、北洋政府の終焉が目前に迫っていた。よく知られているように、六月四日早朝、東省特別区域法院と浅からぬ関係にあった張作霖が奉天への帰路の途上、関東軍によって爆殺され、北伐軍の北京入城、国民政府による全国統一宣言へと続く。北洋政府によって誕生した東省特別区域法院は生みの親よりも永らえることとなった。 (
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111) 四、東省特別区域法院の終局
張作霖の跡を継いだその息子、張学良は一九二八年の暮れ十二月二九日に「易幟」を断行した。ここに東三省にも「青天白日旗」が掲げられ、対外的には国民政府の下で中国統一がなされた。しかし、国民政府は東北政権の内政には干渉しないとされ、この時期の東三省は独特の地位にあった。この時期、これまでに利用してきた新聞報道や「公報」といった資料からは東省特別区域法院の様子をうかがうことは難しい。理由としては以下のように考えられる。第一に、中央政府と文字通り距離が離れてしまったことがある。北京を首都としていた北洋政府に比べると、南京を首都とする国民政府から見た場合、東省特別区域法院があるのはまさしく北の果てである。しかも、前述のように、東三省は一種の自治権をもっていた。のちに見るように、東省特別区域法院と中央との距離感を示す証言が東省特別区域法院庁長陳克正自身によってなされている。第二に、中央政府の不平等条約改正に対する方針の違いが考えられる。北洋政府期は中国国内の法整備が行われれば不 ( 112)
平等条約を改正する、との条約を根拠に法制度の整備を進めていた。これを「修約外交」という。これまで述べてきたように、東省特別区域法院は治外法権回収後の外国人に対する裁判のモデルケースとして特別視されてきたのであり、成績についても常に治外法権回収への前進とともに語られてきた。まさに「修約外交」を体現しようとする存在だったと言えるだろう。対して、国民政府が掲げていたのは暴力を辞さず民衆運動をも背景として外国利権を回収する「革命外交」であり、すでに漢口・九江のイギリス租界回収に成果が挙がっていた。法制度の整備と不平等条約改正の関係の相対的な弱まりが東省特別区域法院への注目を失わせたことは考えられる。この時期、日本は東北に対して存在感を強めていた。日本の東北への関心をうかがわせるかのように、この時期、日本外務省が東省特別区域法院に対する調査を行い貴重な証言を得ている。最終的に満洲事変とともに中華民国の東省特別区域法院は終焉を迎えるため、外務省の報告書は東省特別区域法院末期の様子として大いに参考になる。ここでは主として外務省史料を中心に易幟後の東省特別区域法院を見ていきたい。易幟直後の東省特別区域法院について、高等法院長陳克正 (
させる発言も見られる。この時点で国民政府から配布される 編成は国民政府に従うとしたものの、中央との距離を感じ の制度に合わせることとした。 名称の変更も合わせて、院長一人の監督に帰して、国民政府 まで高等審判庁長と主席検察官二人で分担していたものを、 と陳克正は述べている。監獄、看守所の監督についてはそれ 制度を先取りしていたため、今回の改革は何等の面倒を見ず、 かし、東省特別区域法院は「法院組織法」に規定される検察 立されていた各地法院にとってはまさに「改革」だった。し を設けるという制度に改められた。「法院編制法」によって設 113) 行うとされていた制度が、検察庁を廃止し審判庁内に検察所 それまで審判庁と検察庁が対置されそれぞれ独立して職務を 制法」に代えて「法院組織法」の施行を予定しており、特に はすべて「法院」と改称された。国民政府は従来の「法院編 もこれに従った。まず、名称の統一として従来の「審判庁」 づくべしとの通達がなされた。当然ながら東省特別区域法院 総司令張学良より、東三省の法院は国民政府の組織編成に基 組織編成に関しては、一九二九年一月六日付で東三省保安 の記述はこれに基づく。 ( 談として哈爾濱総領事八木元八の報告書が残っている。以下
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はずの官印が届いておらず、やむなく旧来の印が用いられていた。より重要な証言として、司法官の人事辞令について、いちいち国民政府とやりとりするのではなく、東三省保安司令すなわち張学良より一括届出の形式をとり、国民政府の記録に備えるに留める、としている。事実、南京政府の公報たる国民政府司法公報からは東省特別区域法院に関する人事についての記述はほとんど見いだせない。さらに、法院の基礎ともいえる適用法令に関しても独自性を持っていたようだ。刑事関係は国民政府現行の新刑法・刑事訴訟法に従うとしたものの、民事関係は国民政府現行法が当地の慣習、人情風俗に照らして過激であるとして従来通りの取り扱いを求め、すでに了解を得たとしている。この適用除外は張学良の申し出であったらしく、一般民衆の理解が広まるまでの相当期間、あるいは新法典完成発布までとのことであった。陳克正自身は新法典の完成発布が年末に予定されていることから、この保留期間は長くはならないとの見方を示している。一九三〇年十二月からは日本外務省により東省特別区域法院へ直接聞き取り調査が行われ、実態がうかがえる貴重な証言を得ている。在哈爾濱総領事八木元八からの報告によれば、 (
116) この時点で東省特別区域法院に在籍していた外国人諮議は
SkvertsoffとPavlikovskyなる人物の二人だった。Skvertsoffは元々ロシア時代の法院長だった人物でこのとき七十二歳、月俸三百五十元にて高等法院諮議にあり、Pavilkovskyは元ロシア法院判事、月俸三百元にて地方法院諮議として勤めていた。その職権の範囲は、旧ロシアの慣習、特に婚姻、遺産関係の解釈に関して中国司法官の諮問に答えるが、法院の審理に対して立ち入り干渉することはできないとされていた。哈爾濱領事館による調査は続き、直接の証言を得られたようで、翌一九三一年一月八日にはより詳細な報告書が送られている。中川領事によるとされる報告では、当初は七名居た「顧問」も次第に淘汰され現在では前述の二人のみになり、また、北洋政府から国民政府への移行においては、中央政府からの承認があったわけではないが、暗黙のうちにその存続が認められたとのことである。外国人諮議の権限について何度か改正があったことは前述したが、証言により実態をうかがうことができる。この時点で彼らが行っていたのは、ロシア親族法相続法等の適用がある事項に限り、判決前に諮問を受けることのみとなっていた。地方法院においては、その他にも、広く治外法権を有していない国の慣習法規の存在と適用解釈について (
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も諮問を受けていた。しかし、外国人諮議の諮問に対してその答申を採用するかどうかは中国側裁判長の専権であり、そこに進んで干渉することはできなかった。地方法院諮議Pavlikovskyは、自分の答申の九割六分ないし七分は採用されているだろう、と証言している。地方法院諮議は諮問を求められる範囲も高等法院諮議より広く、地方法院という資源の比較的足りていないところではその能力を発揮しうる機会に恵まれた、ということになるだろう。待遇に関しては当初ルーブルで支払われる予定だったが結局大洋銀で支払われた。高等法院諮議の給与水準は高等法院部長級の中国人司法官とほぼ等しく、地方法院諮議の給与水準も地方法院部長級と同一、とされていることなどは興味深い。二月二五日から二七日にかけて旅順関東庁高等法院土屋信民が哈爾濱を訪れ、高等法院長、地方法院長および監獄監督看守所監督との対談を行った。対談相手の高等法院長は陳克正である。この対談において日本側からは、司法官の身分保障や任命、養成の制度や、中東鉄道が当事者となった場合の東省特別区域法院の取り扱いについての質問がされている。また、仮にロシア時代に行われた犯罪が発覚した場合の適用法規についての質問に対しては、かつてロシアが司法権を持っ (
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物が多い傾向にある、とも報告している。 の訴訟を管轄していた同地の濱江法院よりは素質に優れる人 法院は国際関係があり経費も比較的潤沢なので、中国人同士 るも他はかなり劣悪である、とするが、一方で東省特別区域 者の評に依るとしつつ、約半数は法律的教養があり信頼し得 員および俸給を報告した上で裁判官の素質に触れている。識 120) がっている。大橋はこの時点での東省特別区域法院の組織、人 在哈爾濱総領事大橋忠一からは七月二四日付で報告が上 が挙げられている。 目立つ改善の実例及び不当裁判の実例、⑥その他参考事項、 に裁判の独立に関する一般的考察、治外法権委員会以後特に 判官の素質教育程度、④県知事法廷の所在地、⑤司法運用特 式法院の所在地・構成、②裁判官の俸給その他の待遇、③裁 行うよう命じた。裁判所に関して調査すべき項目として、①新 ( 館長宛に各地の中国裁判所と監獄、警察について調査報告を れられている。一九三一年四月一五日、外務省は在中国各公 裁判機関に対する全体調査においても東省特別区域法院は触 これらの哈爾濱領事館を中心とした調査とは別に、中国の 求して適用する、と答えており強気な態度がうかがえる。 ていたことは不当であるとして、時効でない限り中国法を訴
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以上の外務省報告書からは東省特別区域法院に対する特別視はさほどうかがえない。少なくとも、北洋政府が熱烈に訴えた治外法権回収後の中国側裁判機関としての注目の仕方は、東北において最大の治外法権国となった日本にはなかったようである。また、この時期の重要な国際環境の変化として一九二九年の奉ソ紛争がある。日本側の東省特別区域法院に対する調査の発端とも考えられるが、一連の報告書からは東省特別区域法院の運営に関しての変動を読み取ることはできない。中東鉄道そのものに対する利権と沿線における司法権はすでに切り離されていたのではないだろうか。そして東省特別区域法院にはこれ以上の時間が残されていなかった。一九三一年九月、満洲事変が勃発し翌三二年二月には哈爾濱も関東軍によって制圧される。その後の東省特別区域法院については手短に触れておこう。「満洲国」成立後、一九三三年六月には「北満特別區公署官制」によって、哈爾濱特別市を除いた領域を管轄地域とする北満特別区が設けられた。それにならい、東省特別区域法院も北満特別区法院と改称される。行政区画としては、東省特別区を北満特別区と哈爾濱特別市に分離した形である。しかし、北満特別区法院(元東省特別区域法院)は哈爾濱特別市をその管轄に含み、領事 (
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ロシア革命に乗じて治外法権の回収に成功した中華民国北洋政府は、東省特別区域法院を設立し、領事裁判権を失ったロシア人に関する訴訟を取り扱わせた。清朝末期以来、不平等条約の改正に力を注いできた中国にとっては悲願への第一歩だった。後に東省特別区域法院はロシア人以外の領事裁判権喪失国民の裁判も行うこととなる。中国の司法制度に対する外国の非難を免れるため、ロシア人諮議の採用や翻訳制度の整備を進めるなど制度面を充実させるとともに、費用についても優先が図られ北洋政府の期待がこめられた。しかし、 (
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北洋政府期の政治は混乱を極めており、東省特別区域法院も逃れることはできなかった。人事に対して軍閥の影響を免れることは難しく、中央政府の政変にも巻き込まれてしまう。ほぼ全職員の交代という事態に見舞われるものの、東省特別区域法院は必死に再建を行い、設立以来の目的であった外国委員の司法調査でも好評をおさめた。中国法権回収の先駆という立場は法院の運営に力を与えたことだろう。政治情勢の変化もあり、東省特別区域法院の成果が直接、中国全体の治外法権の撤廃に結びつくことはなかったため、その評価を行うことは難しい。しかし、その運営に意味がなかったわけではない。東省特別区域法院が中華民国の治外法権回収の歴史においての第一歩を担っていたのは間違いない。また、組織や資料はほぼそのまま「満洲国」に受け継がれている。「満洲国」においても治外法権の撤廃は重要課題であり、特にロシア人訴訟の最前線であった東省特別区域法院の経験が参照されたことは考えられる。そのほかにも、訴訟法が東省特別区域法院で試験的に施行され、その後全国へと広まったことや、国民政府期を先取りする検察制度を採用していたことを考えると、中華民国法制史全体に対するその役割は今まであまりに軽視されてきたと言えるだろう。 本稿は公報類や新聞報道をたどり、一部日本側から見た史料も取り上げたが、基本的な情報の整理を行ったに過ぎない。特に重要な当事者であるロシア側から見た東省特別区域法院については今後の課題となるだろう。また、ハルビン市档案館には四千巻以上の東省特別区域法院関連史料が存在することがわかっている。外国人研究者による中国档案館史料の閲覧は容易ではないが、近年は各地地方档案館史料の復刻出版が進んでいる。今後の史料状況の改善とともに東省特別区域法院に関する研究が一層進むことを期待したい。
注(
( ア満洲の近代史』(講談社二〇一四)。 フ半谷史郎訳『ハルビン駅へ日露中・交錯するロシ 哈爾賓と中東鉄道との関係について、デイビッド・ウル を外した中東鉄道を用いる。特に前史たるロシア時代の 称に関しては、同書二七頁に従い、引用を除いてカッコ 二〇一二)が非常に詳細である。本稿における鉄道の呼 1896-1935経営史ロシアと「満洲」』(名古屋大学出版会 1)中東鉄道に関する研究としては、麻田雅文『中東鉄道
区法院」「特別法院」のような省略、「東三省法院」「哈爾 2)東省特別区域法院の呼称は史料によって一定せず、「特 (
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