兵 序
三 条 九 ノ 坪 遺 跡
1 所 在 地 庫兵 芦県 屋市 三条 町 2 調査 期 間 一九 九 六年
︵平 8︶ 九 月
︱ 一 月一 3 発 掘機 関 兵 庫県 教育 委 員 会 4 調査 当担 者 一 局瀬 一嘉
・半 澤幹 雄 5 遺 跡 の種 類 水 田跡
︒自 然 流路 6 遺跡 の年 代 古墳 代時 奈1 時良 代 7 跡遺 及び 木簡 出土 遺構 の概 要 三条 九 ノ坪 遺跡 は芦 屋市 の西 部︑ 神 戸市 と の境 界 く近 位に 置 し︑ 声 屋台 地 から 流出 たし 土砂 よに
てっ 形 成 され た 標高 約 三〇 mの 扇状 地 上 に立 地 し て いる
︒ これ ま 芦で 屋市 など よに
てっ 合 計 一五 次 調の 査 実が 施 され てき た遺 跡 であ る︒ 今回 の 発 掘調 査 は 神阪 淡 路 震大 災 D
の被 災 マン シ ンョ 再の 建 に
醜
立口う 伴 も の で ︑ 調 査 面 積 は 約 斯 六
〇 〇 で ポ あ る
︒
検 出 たし 遺 構 はに 水 田跡
と 流 路が あ る︒ 流路 は幅 約七
m︑ 深さ は最 深 部 で検 出 面か ら 一m を 測 る︒ 流路 の方 向 は 北東 から 南 西 流に れ 調︑ 査 区内 屈で 曲 し て南 に 方向 を 変え て いる
︒ 屈曲 部 岸西 には 杭 列 検が 出 さ れた
︒ 攻撃 面 あに た る とこ らか 護岸 の目 的 で設 置 され もた ので あ ろう 流︒ 路 の南 側 に は水 田跡 が展 開 し て るい が 両︑ 者 切に 合 関い 係 は認 めら れな い︒ さ ら に︑ 流 路か ら水 田跡 に水 を 供給 し て いた と 考え ら れる 取 水 口を 一 カ所 検 出 し て るい こと か ら︑ 流路 と水 日は 同 一時 期 に機 能 し て いた も のと 思わ れ る︒ 遺物 は流 路内 から 上出 たし も のが 大半 であ る︒ 流 路内 から は︑ 弥 生 代時 後 期末
︱平 安時 代初 頭 の遺 物 出が 土 し おて り 大︑ 半 は 土器 で あ るが 木︑ 簡
・下 駄
︒木 錘
︒曲 物
・鞘
・杭 など の木 製 品も 出土 たし
︒ 土 器は 墳古 時代 後半 から 末 にか け て のも のが 多 く 奈︑ 良時 代以 降 の も のは くご 層上 に限 られ る︒ 木 簡 は 二点 出土 し て いる が︑ 一 点 は全 く 判読 不 能可 あで り 釈︑ 読 行を な たっ
一点 に つい て報 告 す る︒ 8 簡木
の釈 文
・内 容 ω
︒﹁ 子 卯 丑
□ 伺
︒﹁ 三 壬 子 年
□
︵重 受
∞受 o o壱 下部 を 折れ によ
てっ 欠 失 たし も ので あ る︒
〇 一九 型 式と たし が︑ 上端 を 円 形 仕に 上げ てお り︑ 側両 面 もに 面 取り を 行な
てっ いる 表︒ 裏面 とも に比 較的 平滑 整に え てお り︑ 寧丁 な 作り の印 象を も つ︒
1996年 出上 の木簡
表 面 は 十 二支 を 表 現 し て いる よ う あで る が
︑ 順 不 同 であ り
︑ 意 味 は 明 ら か で は な い︒ 裏 面 は 年 号 と 考 え ら れ
︑ 年 号 で 三 の つく 壬 子 年 は 候 補 と し て 白 雉 三 年 全ハ≡
0 と 宝 亀 三年
︵七 七 一し が あ る
︒ 出 土 し た 土 器 と 年 号 表 現 の方 法 か ら 勘 案 し て前 者 の時 期 が 妥 当 であ ろう
︒ 釈 読 に つ いて は 兵 庫 県 立 歴 史 博 物 館 の小 林 基 伸 氏 のご 教 示 を いた だ いた ︒
︵高 瀬 一嘉
︶
一