おける「万人のための芸術」
著者 西郷 南海子
雑誌名 同志社アメリカ研究
号 56
ページ 61‑79
発行年 2020‑03‑06
権利 同志社大学アメリカ研究所
URL http://doi.org/10.14988/00027865
世界大恐慌と連邦美術計画
―1930 年代アメリカにおける「万人のための芸術」
西郷 南海子
はじめに
本稿は、世界大恐慌の中で誕生したアーティスト救済事業「連邦美術計画」
(Federal Art Project)を題材に、1930 年代アメリカにおける「万人のための芸術」
概念を明らかにすることを目的とする。1933 年に大統領に就任したフランクリ ン・D・ルーズヴェルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882-1945)は、多分野に わたるニューディール政策を実施して不況からの脱却に挑んだ。1935 年からの 連邦美術計画では、数多くのアーティストを週給で雇い、個人制作のみならず、
壁画などのパブリックアートやコミュニティ・センターでの美術講座に従事させ た。1936 年には 1 年間で 5,000 人を超えるアーティストが雇用された。この連邦 美術計画はアメリカ全体の美術水準を引き上げたといわれているが、プロジェク ト自体はアーティストの雇用を第一目的としており作品が散逸してしまっている など、全体像はいまだに明らかになっていない。そこで本稿では、連邦美術計画 の長官(director)を務めたホルジャー・ケーヒル(Holger Cahill, 1887-1960)
の著述を主な史料とし、中でも哲学者ジョン・デューイ(John Dewey, 1859- 1952)への言及に着目しながら、連邦美術計画が打ち出した「万人のための芸術」
概念にあらためて迫りたい。芸術の社会的役割を強調するデューイの美的経験論 と連邦美術計画の連関については、これまでいくつもの先行研究で論じられてき た。たしかにロベルタ・ドレオンが述べるように、連邦美術計画は膨大な人々が 携わった巨大な計画でありデューイのみが思想的な基軸となったわけではない が1、その解明の一端を担うべく本稿では、ケーヒルの理論的バックボーンに デューイの美的経験論があったことについて試論的に取り上げる。
日本では連邦美術計画についての先行研究は多くない。工藤安代や上野正道は、
連邦美術計画がアメリカにおけるパブリックアート政策の先駆けとなったことを
1 Roberta Dreon, “Was Art as Experience Socially Effective? Dewey, the Federal Art Project
and Abstract Expressionism,” 1
(2013): 1.
評価しつつも、連邦政府主導であったことから必然的に生み出される個々のアー ティストとの軋轢に焦点を当て、そこに連邦美術計画の限界を見出している。上 野は、「郵便局や学校などの壁画作品の内容を政府が管理し、多少なりとも検閲 するシステムが構築され」、「作品制作には、公金が投じられた一方で、そのアカ ウンタビリティが問われ、芸術は、政治的なイデオロギー伝達の手段として利用 されるようになった」と指摘する2。たしかに 1938 年に下院特別委員会として設 置された「非米活動調査委員会」(通称ダイス委員会)では、連邦作家計画や連 邦劇場計画の「左翼性」についての攻撃がなされた。ただし、出口正之は「これ は検閲というよりも、ニューディール連合以降の共和党と保守派の巻き返し政策 抗争の一環として、政治史の中で位置付けて考えるべき内容」との見方を提示し ている3。また仮に上野がいうように連邦美術計画に「政治的なイデオロギー」と しての側面があったとしても、それは誰から誰に向けて発せられた、どのような メッセージだったのかを丁寧に分析する必要がある。
近年アメリカでは連邦美術計画への再評価が精力的に進められており、中でも デューイの美的経験論とケーヒルの思想の結びつきに着目した研究が次々と出て きている。デューイは芸術を、特殊な美的価値が宿るモノではなく、作品という 媒 体 を 通 じ た 人 々 の 経 験 の 相 互 作 用 と し て4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
再 定 義 し た( , 1934)。つまり、芸術は様々な立場の人々を結びつけ、民主主義を活性化させる 機能としてとらえられたのである。こうした考え方は、アメリカ社会を大恐慌か ら立ち直らせようと奮闘するニューディーラーたちにも親和性があった。この連 邦美術計画の革新性について論じた近年の先行研究として、ジョーン・サーブ著
(2004)、ヴィク トリア・グリーヴ著
(2009)、 シ ャ ロ ン・ ア ン・ ミ ュ シ ャ ー 著
(2015)などがある。本稿はこれらを用い ながら、フランシス・オコナー編著 (1973)を基礎文献とし て、連邦美術計画の意義について再考する。なお “Federal Art Project” を「連 邦芸術計画」と訳している先行研究もあるが、この他にも “Federal Theater Project” “Federal Writerʼs Project” “Federal Music Project” が 存 在 し た た め、
それらと区別するために本稿では「連邦美術計画」と訳出する。
2 上野正道『学校の公共性と民主主義 デューイの美的経験論へ』(東京大学出版会、2010 年)、
300 頁。
3 出口正之「ニューディール時代の文化政策の現代的意義―社会資本から文化資本充実の政策へ の転換」『文化経済学』第 3 巻 4 号(2003 年)、22 頁。
I 連邦美術計画の概要
1. 発足の経緯と雇用形態
生活苦にあえぐアーティストを政府が雇用するという計画を誰が提案したのか については諸説ある。発端としてよく語られているのが、ルーズヴェルト大統領 の学友であり画家のジョージ・ビドル(George Biddle, 1885-1973)が、1933 年 5 月にルーズヴェルト宛に書簡を送り、アーティストの救済を求めたという出来 事である。ビドルはメキシコ革命後の壁画運動に触発され、アメリカでも公共施 設での壁画制作を進めるべきだと訴えた。ビドルの書簡がルーズヴェルトの関心 を引いたことは事実であるが、それは無数のアーティストからの働きかけの中の 一つであった4。ケーヒルも 1960 年のインタビューにおいて「(ビドルからの働き かけによって連邦美術計画が発足したとは)本当にそうは思っていない。なぜな らものすごく多くの人がいて、この国でいまだかつて誰も想像したことのない、
失業と我々のプログラムの可能性について、ひどく興奮していたからだ」と述べ ている5。この時期はいくつものアーティスト団体が生活向上のために活動を行 なっていた6。その中の一つ “Unemployed Artistʼs Group”7は 1933 年 12 月に、公 共事業促進局(Works Progress Administration)8長官のハリー・ホプキンズ
(Harry Hopkins, 1890-1946)にアーティスト雇用計画の申し入れをし、壁画だけ でなく、イーゼル絵画や商業美術、応用美術でアーティストを雇用することを提 案している9。そして同月には財務省経由の資金で「公共事業芸術プロジェクト」
(Public Works of Art Project: PWAP)が開始された。これは半年間の実験的な 取り組みであったが、総数 3,749 名を雇用し、15,000 点以上の作品を生み出し
4 Sharon Ann Musher, (Chicago:
University of Chicago Press, 2015), 18-19.
5 “Oral History Interview with Holger Cahill, 1960 April 12 and 15.” Archives of American Art, Smithsonian Institution. Accessed September 26, 2019. https://www.aaa.si.edu/collections/
interviews/oral-history-interview-holger-cahill-11990#transcript.
6 1929 年 11 月に結成された「ジョン・リード・クラブ」(John Reed Club)は、ロシア革命に共 鳴し社会改革を目指すアーティストたちの一大拠点であり、ここからいくつものグループが派生 した。
7 “Unemployed Artistʼs Group” は、PWAP の発足後に “Artistsʼ Union” と改名し、アーティスト のための労働組合として各地で運動を展開した。連邦美術計画の予算削減や人員削減に反対し、
デモやピケットラインを張ることもあった。1937 年には CIO(産業別組合会議)に加盟。
8 “Works Progress Administration” 通称 WPA も、邦訳が定まっていない単語である。先行研究 によって「連邦事業促進局」や「公共事業促進局」などの訳が存在しているが、本稿では「公共 事業促進局」を採用する。
9 A. Joan Saab, (Philadelphia, PA:
University of Pennsylvania Press, 2004), 35.
た10。同プロジェクトが 1934 年 6 月に打ち切られると、今度は 1935 年 8 月から公 共事業促進局の下で、さらに大規模な雇用を目的とした「連邦美術計画」がスター トした。オコナーの分類によれば、連邦美術計画には下記の 3 部門があった11。
(1)ファイン・アート[壁画、彫刻、イーゼル絵画、グラフィックアート、
写真]
(2)プラクティカル・アート[インデックス・オブ・アメリカン・デザイン、
ポスター、工芸]
(3)美術教育[コミュニティ・アート・センター]
自称他称を問わずアーティストの雇用を拡大するためにケーヒルは、雇用を A から D までの 4 つのレベルに分けた。卓越した専門性と技能を有していると判 断されたアーティストは「レベル A」、それに次ぐ能力を有していると判断され たアーティストは「レベル B」、経験・技能不足のアーティストは「レベル C」
で雇用され、技能のない人は「レベル D」としてプロジェクトに関連する事務職 などが割り当てられた12。サーブによれば「レベル D」従事者も、アートを公衆に 届ける仕事内容であるとされ、A から C までの従事者と同額の賃金が支払われた。
週給 23.80 ドルすなわち月給約 90 ドルは、アーティストが生きていくのにギリ ギリの額であったが、後述するように画商ではなく政府がアーティストの「パト ロン」となるということは、アメリカ社会におけるアートの位置づけを転換する 出来事であった。
ところで、アーティストが採用継続に値する制作を行っているかどうかを、雇 用する側はどのように判断していたのだろうか。壁画のように公共性の高い制作 ならまだしも、イーゼル絵画のような個人作品の場合、アーティストの制作状況 はどのように管理されていたのだろうか。画家マーク・ロスコの伝記を著したジェ イムズ・E・B・ブレズリンによれば、「計画が実施された当初、イーゼル画家は 指定された近所の仕事場に八時に赴き四時に退出、それぞれにタイムカードに打 刻しなければならず、怠れば日当がふいになった」13。このタイムカード制はアー
10 工藤安代『パブリックアート政策 ―芸術の公共性とアメリカ文化政策の変遷』(勁草書房、
2008 年)、28 頁。
11 Francis V. OʼConnor,
(New York: New York Graphic Society, 1973), 7-9.
12 Saab, 40.
13 ジェイムズ・E・B・ブレズリン(木下哲夫訳)『マーク・ロスコ自伝』(ブックエンド、2019 年)、
154 頁。
ティストを拘束するものだったが、のちに制度は変更され、「イーゼル画家は自 分のアトリエで誰に監視されることもなく働くことができ[…]独自の様式を自 由に育むこと」ができるようになった14。アーティストは仕上がった作品の中のい くつかを定期的に提出し、それらは公共施設に寄贈されたり、各地への巡回展に 出品された。
また連邦美術計画は当初、アメリカ市民権のないアーティストも雇用していた ことも、アメリカ美術の発展を考える上で重要である。オランダから密航し、の ちに抽象画で有名になるウィレム・デ・クーニング(Willem de Kooning, 1904- 1997)や、日本人を含むアジア系アーティストも採用されていた。このことを議 会が問題視し、市民権のないアーティストの雇用を打ち切ったのが 1937 年 7 月 である。佐藤麻衣によれば「事実上これは、アジア系の画家を対象にした人種差 別的なものだった」15。ハーレム裁判所で「アメリカの独立」と「奴隷解放」を主 題とする壁画を手がけ、成果を上げていた石垣栄太郎(1893-1958)にも作業中 止が命じられた16。ちなみにアイスランド出身の移民一世であるケーヒルは、雇用 打ち切りは「アンクルサムの寛容さ」に反する常軌を逸した措置であったと述べ ている17。
このように多くの課題を抱えつつもアーティストが政府に雇用されるというこ とは、単なる救済措置にとどまらず、アーティストにとって制作の意味合いを変 えうるものであった。工藤や上野は、連邦美術計画(主に壁画)における内容統 制を問題視していたが、他方サーブらは、アーティストは政府というパトロンを 持つことで画商やアート市場の支配から解放され、アーティスト主導で制作を進 めることができるようになったことに着目する18。とりわけ有色人種のアーティス トは、白人のパトロンの意向に左右されたり、あるいは遠ざけられる傾向にあっ たため、政府資金の美術計画に大きな期待を寄せていた。
2. 組織と事業内容
大恐慌下では連邦美術計画の他にも、管轄の異なる芸術政策が実施された(図 1)。 そ れ が 財 務 省 の「 絵 画・ 彫 刻 部 」(Treasury Section of Painting and
14 ブレズリン『マーク・ロスコ自伝』、155 頁。
15 佐藤麻衣「ニューヨークの日本人画家 世界恐慌期の美術展覧会」『同志社アメリカ研究』54 号
(2018 年)、9 頁。
16 石垣綾子『海を渡った愛の画家 石垣栄太郎の生涯』(御茶の水書房、1988 年)、164-67 頁。
17 “Oral History Interview with Holger Cahill, 1960, April 12 and 15.” Archives of American Art, Smithsonian Institution.
18 Saab, 42.
Sculpture)と「芸術救済基金プロジェクト」(Treasury Relief Art Project)で ある。前者は新たに建築する連邦政府のビルに装飾を施すことを目的とし、建築 コストの 1%を作品に充てることを定めた。後者は主には既存の公共施設に装飾 を施した。これらの意義については稿を改めるとして、本稿では公共事業促進局 の連邦美術計画とその 3 つの部門について掘り下げていく。
i. ファイン・アート部門(壁画、彫刻、イーゼル絵画、グラフィックアート、写真)
工藤安代は「絵画部は、作品の主題としてアメリカの再発見や愛国心を強調す ることに力点を置いた」と述べるが19、その内実を見ていくことが必要である。補 足するならば、作品内容に対する検閲が大きな焦点となったのは、連邦美術計画 よりも、財務省プロジェクトの事例が多かったことに注意したい。本稿の射程外 ではあるが、財務省の壁画プロジェクトにおける右派と左派の緊張関係は、「ア メリカン・シーン」をめぐるリージョナリズム(地方主義)とソーシャル・リア リズムのせめぎあいであったことがミュシャーの先行研究では明らかになってい る20。リージョナリズムの画家たちが、アメリカの農村のかつての習俗や歴史的英 雄を描いたのに対し、ソーシャル・リアリズムの画家たちは移民を含む現代の都 市労働者の連帯を好んで描いた。財務省に雇われる画家は前者であることが多く、
また後者の壁画が取り壊されることもあった。このように財務省によるリージョ ナリズムの重用は明白であったが、ミュシャーによればリージョナリズムの画家 たちも過去の表象を通じて、普通の人々こそがアメリカを形作ってきたことを伝 えるエンパワメントを企図していたという21。
さて、連邦美術計画のファイン・アート部門における主題の問題に戻るが、個
19 工藤『パブリックアート政策』、41 頁。
20 Musher, , 73-99.
21 Ibid., 95.
図 1 ニューディール期の美術政策
National Archive Catalog (https://catalog.archives.gov/id/532328, accessed September 14, 2019) The Living New Deal (https://livingnewdeal.org/about/, accessed September 14, 2019)などを参照して作成。
人制作の場合、絵の内容が検閲されることはあまりなかったようである。たとえ ば画家のロバート・グワスミーは「アーティストたちは初めて政府というパトロ ン、それも美的審判を一切下さないパトロンを得ることができた」と述べてい る22。ケーヒルが語ったジャクソン・ポロックの例も興味深い。ポロックは連邦美 術計画に参加した当初は、師匠トマス・ハート・ベントンに似たリージョナリズ ム風の絵を描いていた。ところが共同アトリエに姿を見せなくなったため、連邦 美術計画スタッフが会いに行ったところ、絵の具を投げ散らかしたような絵がた くさん出来上っていた。そのことについてポロックは「もうプロジェクトでは働 けない、こんな絵はどうせいらないだろう」と言い張るため、スタッフは「これ をプロジェクトに持ってきてくれ」と説得し、給与の受給を再開させたという23。 ポロックのその後の活躍は、アクション・ペインティングとして知られ、アメリ カ美術史に刻まれているとおりである。このようにファイン・アート部門では、
アーティストの主体性が重視され、リージョナリズムやソーシャル・リアリズム に限らず、前衛的、実験的な作品も受け入れられていた。
ii. プラクティカル・アート部門(インデックス・オブ・アメリカン・デザイン、
ポスター、工芸)
インデックス・オブ・アメリカン・デザイン(Index of American Design, イ ンデックスと後述)では、18 世紀後半から 19 世紀末までに生産された日用品の デザインを模写し、文字通りインデックス化することを目的とした。織物や食器、
玩具、家具などありとあらゆる日用品を収集し、そのデザイン 2 万点以上を記録 した。この事業が実施された背景には、アメリカにおけるフォーク・アート研究 の第一人者であるケーヒルの強い関心があったことはいうまでもないが、ケーヒ ルによればインデックスの基礎的な発案者はニューヨーク公共図書館のロマー ナ・ジャヴィツ(Romana Javitz, 1903-1980)だという24。20 世紀に入ると写真技 術や印刷技術の発展により、広告業界も急速に成長していった。ニューヨーク公 共図書館のピクチャー・コレクションという部門では、膨大な数の図像を項目ご とに分類して、アーティストやデザイナーの要望に応えてきた25。ロシア出身の
22 Saab, 42.
23 “Oral History Interview with Holger Cahill, 1960 April 12 and 15.” Archives of American Art, Smithsonian Institution.
24 “Oral History Interview with Holger Cahill, 1960 April 12 and 15.” Archives of American Art, Smithsonian Institution.
25 フレデリック・ワイズマン監督のドキュメンタリー映画『ニューヨーク公共図書館 エクス・リ ブリス』(2017 年)でも、ピクチャーコレクションが同館の重要な部門として登場する。
ジャヴィツは、アート・スチューデンツ・リーグ・オブ・ニューヨークで絵を学 びながらニューヨーク公共図書館で働き始め、1929 年からはピクチャー・コレ クションの統括を担当した。コレクションの重要性を認識したジャヴィツは 1935 年春に、コレクションを利用しているアーティストとともに公共事業促進 局に対してインデックスの計画を提案し、採用に至った26。
このインデックス計画を特徴づけるのが、「有用な過去」(usable past)の創 出である。この「有用な過去」とは、ケーヒルが好んで使った言葉であり、アメ リカの過去の文化的形象を未来に役立つものとして見出すことを指していた27。時 期としてはヨーロッパ系移民の初期の入植から、工業化が進み人々の生活を工場 製品が席巻するまで、すなわち 1750 年頃から 1900 年頃までを対象とし、主には プロテスタント系の入植地で作られたものを対象とした。インデックスでは、ア メリカ先住民やアフリカ系アメリカ人の文化は除外されたが、ここにはケーヒル による住み分けの判断があった28。1920 年代から 30 年代にかけては、メキシコ・
ルネサンスやハーレム・ルネサンスといった文化復興運動を背景に民族学的研究 が急速に進んでおり、それらの成果と重複することは避けたようである。
インデックスは中央オフィスをワシントンに、研究オフィスをニューヨークに 設けた。さらに各地に支部を設け、地域ごとの日用品収集とインデックス化を進 めた(図 2)。模写の方法としては、先人からの技術の継承という観点から、写 真ではなく水彩画が採用された29。たとえばペンシルバニア支部ではドイツ移民、
北カリフォルニアでは鉱山産業、ミネソタ支部ではスウェーデン移民、ユタ支部 ではモルモン教徒、オハイオとケンタッキー支部ではシェイカー教徒の実用美術 が記録されていった30。これらはこれまで「アメリカ文化」としては看過されてい たものであり、ヨーロッパを由来としながらもアメリカ独自の発展を遂げたデザ インを再発見することが目的とされた。
26 Anthony T. Troncale, “Worth Beyond Words: Romana Javitz and The New York Public Library's Picture Collection.” Accessed September 20, 2019. https://www.nypl.org/about/
divisions/wallach-division/picture-collection/romana-javitz.
27 Saab, 200.
28 “Oral History Interview with Holger Cahill, 1960 April 12 and 15.”, 78. Archives of American Art, Smithsonian Institution.
29 Ibid., 77.
30 C. Adolph Glassgold, “Recording American Design,” in
, ed. Francis V. OʼConnor
(New York: New York Graphic Society, 1973), 168-69.
iii. 美術教育(コミュニティ・アート・センター)
連邦美術計画は、アーティストに創作を継続させることだけでなく、一般市民 が創作活動に参加することも重要な柱としていた。それがコミュニティ・アート・
センター(センターと後述)での美術教育である(図 3)。ケーヒルは、アーティ ストが大都市に集中しがちでアメリカ市民の美術体験にも地域格差が大きいこと に着目し、まずはアメリカ南部と西部にセンターを設置した。1936 年 12 月には 25 のセンターが南部と西部に新設され、100 万人を超える子どもと大人がセン ターでの企画に参加したと報告されている31。センターでは無料の絵画講座や彫刻 講座が開かれ、アーティストが講師として雇用された。また、連邦美術計画で制 作された作品が貸し出され、数多くの展覧会が行われた。そこで初めて美術作品 に接するという市民も多かった。開設されたセンターの数は、1939 年には全米 で 70 カ所32、最終的には 103 にも上った33。センターは連邦政府主導で設置される
31 Saab, 56.
32 Holger Cahill, “American Resources in Art,” in
, ed. Francis V. OʼConnor(New York: New York Graphic Society, 1973), 43.
33 “Oral History Interview with Holger Cahill, 1960 April 12 and 15.” Archives of American Art, Smithsonian Institution.
図 2 インデックス作業中のアーティスト
(Magnus Fossum, a WPA artist, copying the 1770 coverlet
“Boston Town Pattern” for the Index of American Design. Coral Gables, Florida, February 1940. Public domain.)
場合もあれば、ニューヨークのハーレムのように住民主体の運動で誘致される場 合もあった。
3. 終焉
連邦美術計画は 1943 年の 7 月に終了した。支出総額は 3,500 万ドルで、制作 された作品の総数は次のとおりである34。
・壁画 2,566 点
・彫刻 17,744 点
・イーゼル絵画(水彩画を含む) 108,099 点
・プリント 11,285 点
・インデックス・オブ・アメリカン・デザイン目録 22,000 点
・ポスター 35,000 点
34
, ed. Francis V. OʼConnor(New York: New York Graphic Society, 1973), 305.
図 3 子ども向けの無料美術教室への参加を呼びかけるポスター
(WPA Federal Art Project, [between 1936 and 1938] silkscreen, color.
Library of Congress Prints and Photographs Division, WPA Poster Collection, POS-WPA-NY.01.F7438, no.1)
制作された作品は州の所有となり、その扱いは州の判断に委ねられた。オークショ ンで転売される場合もあれば、絵がキャンバスから取り外されて木枠として売り に出されることもあったという35。
連邦美術計画が終わりを迎えた大きな要因として、第二次世界大戦の深まりに ともなう軍需産業の台頭があった。1941 年 12 月の日本軍による真珠湾攻撃を受 け、アメリカは第二次世界大戦に正式に参戦。1942 年 3 月には連邦美術計画の 従事者はすべて Works Progress Administration War Services Subdivision の雇 用となり、米軍基地に関連していないコミュニティ・アート・センターは閉鎖さ れた36。同年 12 月にはルーズヴェルト大統領が翌年に連邦美術計画を終了するこ とを宣言した。その時期、連邦美術計画に残っていたアーティストたちは国防ポ スターの制作などに従事した。ミュシャーによれば、戦争はまた人々の余暇のあ り方も変化させていった。大恐慌時代と比べて労働時間は長くなり、余暇として はコミュニティ・アート・センターで絵を見たりすることよりも、戦債購入キャ ンペーンなどへの参加が奨励された37。
上記のように連邦美術計画は、アーティストの失業問題としてのみ見てしまう と、第二次世界大戦による雇用回復で、その役目を終えたということになってし まう。また、アメリカ社会全体が戦争に突入していく中で連邦美術計画の内容が 転換していったということは、連邦美術計画そのものを評価することを難しくし ているが、そのことによって連邦美術計画が到達した地平を切り縮めて評価して しまうことは本末転倒だろう。そこで本稿後半ではホルジャー・ケーヒルの思想 に立ち返り、「万人のための芸術」を目指した連邦美術計画の意義をあらためて 考察したい。
II ホルジャー・ケーヒルの思想
1. 生い立ちとフォーク・アートとの出会い
ホルジャー・ケーヒルは 1887 年に、Sveinn Kristjan Bjarnarsson としてアイ スランドに生まれた。ところがケーヒルは 1938 年にタイム誌の表紙を飾ったと きも「ミネソタ州セントポール生まれ」を名乗るなど38、その生い立ちをアレンジ して語っていたため、先行研究においても記述が一致しない部分がある。しかし
35 “Oral History Interview with Holger Cahill, 1960 April 12 and 15.” Archives of American Art, Smithsonian Institution.
36 Saab, 164.
37 Musher, , 168.
38 “Art,” , September 5, 1938, 35.
ながら、ケーヒルの移民としての生活経験とそこからのキャリアは、ケーヒルの 芸術思想を考える上でも大きな示唆を与えるため、本稿でも丁寧に追っていきた い。
近年の先行研究によると、ケーヒルが 1913 年にニューヨークにたどり着くま での経緯は次のとおりである。ケーヒルは 2 歳のときに両親とカナダに移住し、
そののちアメリカのノースダコタに移住した。父親の暴力と貧困により、ケーヒ ルは 10 歳のときに近所で農業を営むアイスランド系の家族に養子に出された。
そこでの酷使に耐えかねたケーヒルは 15 歳のときに逃亡を図り、以降多数の職 業を転々とする。船の乗組員として日本や香港を通過したこともあるという。
1913 年 26 歳でニューヨークに移り住み、コックの仕事で生活費を稼ぎながら、
ローカル新聞の記者をして執筆スキルを身につけていった。この頃から記事に「エ ドガー・ケーヒル」と署名するようになる。また高等教育の学歴はないものの、
ニューヨーク大学やコロンビア大学の夜学に通い、そこでジョン・デューイの講 義にも参加した。
ニューヨークの中でもアーティストや社会活動家のサークルが密集していたグ リニッジ・ヴィレッジに住んだことは、ケーヒルのキャリアをアートの世界に引 き寄せるきっかけとなった。特に親しくなったのが画家のジョン・スローン(John Sloan, 1871-1951)である。スローンは、反アカデミズムを掲げる独立美術家協 会(the Society of Independent Artists)の創設者の一人であり、その広報をケー ヒルに託した。こうしてケーヒルの執筆活動と人脈が広がっていった。1920 年 には、グリニッジ・ヴィレッジの仲間とともにアメリカ版ダダイズムともいえる
“Inje-Inje” という遊戯的な美術運動を発案している。“Inje-Inje” という 2 語以外 の言葉を持たない架空の部族になりきり、根源的なコミュニケーションとは何か を探求したという39。これが大きな運動になることはなかったが、「この実験は、
ノースダコタからやって来たほぼ独学の農場少年が、ニューヨークのアートシー ンにどれほど入り込んだかを示している」40。
1922 年にケーヒルはジョン・コットン・デイナ(John Cotton Dana, 1856- 1929)の誘いを受け、ニューアーク美術館の企画や展示、執筆の仕事を始める。
デイナは司書としてニューアーク図書館の開架制を進めただけでなく、図書館と 美術館の接合を構想し、1909 年には図書館の 4 階部分でフォーク・アートやア メリカ美術の展示を始めていた。ケーヒルは「アメリカン・プリミティヴズ」
39 Wendy Jeffers, “Holger Cahill and American Art,” 31(1991):
5.
40 John Michael Vlack, “Holger Cahill as Folklorist,” 98(1985): 150.
(American Primitives, 1930-1931) や「 ア メ リ カ 民 俗 彫 刻 」(American Folk Sculpture, 1931-1932)など、アメリカ初の包括的なフォーク・アートの展示を 組織した。これらの業績が評価され、1932 年ケーヒルはニューヨーク近代美術 館(MoMA)の館長に抜擢される。これは、MoMA の初代館長アルフレッド・バー・
ジュニア(Alfred Barr Jr., 1902-1981)の海外赴任にともなう 9 カ月ほどの代理 職であったが、ケーヒルはフォーク・アートやプリミティヴ・アートなど 5 つの 展示を成功させた。
ケーヒルが公共事業促進局から連邦美術計画の長官にと打診されたのは 1935 年の夏のことだった。当初ケーヒルは消極的だったが、親しい友人に相談して回っ たところ、「世界で一番ひどい仕事で、絶え間なく批判にさらされるだろう[…]
でもやらなければならない」(フランシス・テイラー、のちのメトロポリタン美 術館館長)41といった意見に後押しされ、引き受けることを決めた。そして 1935 年 8 月から 1943 年 7 月まで連邦美術計画の長官を務めることになる。行政機関 での経験が一切ない人物の抜擢は異例のことであった42。
ところで、ケーヒルらがその分野のパイオニアとなった「フォーク・アート」
とは何を指していたのか押さえておきたい。20 世紀初頭において、アメリカン・
フォーク・アートとは 18 世紀後半から 19 世紀末までに作られた手作りの日用品 を指していた43。アーティストたちはこぞって田舎の古物商や民家の屋根裏を訪 れ、かつての日用品がもつ機能的なフォルムに魅了された。それは、モダニズム の抽象表現を「アフリカやメキシコのエキゾチックな美術」に結びつけるまでも なく、「自分たちが生まれ育った、あるいは定住の地として選んだ土壌」に結び つけることができるという喜びであった44。こうしてアメリカン・フォーク・アー トは、「アメリカの美術エスタブリッシュメントがもつヨーロッパ由来の主題と 保守的な価値観、その双方へのオルタナティブとして機能した」45。他方、このア メリカン・フォーク・アートの「発見」が、アフリカ系アメリカ人やネイティヴ・
アメリカンの美術を除外した運動であったことにも留意が必要である46。ただし、
フォーク・アート運動内部がそうであったとしても、同時期に隆盛したハーレム・
ルネサンスやメキシコ・ルネサンスと照らし合わせながら、1930 年代のアメリ
41 “Oral History Interview with Holger Cahill, 1960 April 12 and 15.” Archives of American Art, Smithsonian Institution.
42 Wendy Jeffers, “Holger Cahill and American Art,” 10.
43 Victoria Grieve, (Urbana, IL:
University of Illinois Press, 2009), 41.
44 Vlack, “Holger Cahill as Folklorist,” 151.
45 Grieve, 41.
46 Ibid., 43-44.
カにおける芸術運動をとらえたい47。これらの運動に通底しているのは、生活の中 から生み出されるものこそが芸術であり、そうした芸術によってさらに生活を刷 新していこうとする、芸術と生活双方の問い直しであり、その方向性は連邦美術 計画にも共有されていく。
2. 「万人のための芸術」
本稿で見てきたように、連邦美術計画は巨大な事業だったが、その柱にはケー ヒルの思想があった。本節ではケーヒルが 1939 年に行ったスピーチ「芸術にお けるアメリカ的資源」(American Resources in the Art)48を元に、その芸術思想 の核心に迫りたい。このスピーチは哲学者ジョン・デューイの 80 歳祝賀会で披 露されたものだが、ケーヒルは、デューイの生誕記念論文集への採録ではなく、
連邦美術計画の報告書『万人のための芸術』への採録を希望した49。このことから も、ケーヒルの著作の中でもよりオフィシャルな位置づけをもつ論文であること がわかる。ただ残念なことに『万人のための芸術』は、連邦美術計画の実施中は 出版にこぎつけることができず、オコナーによる 1973 年の出版を待たなければ ならなかった。
スピーチは、ケーヒルが初めてデューイの講義に出席したときの回想から始ま る。コロンビア大学の夏期講座の初日、遅刻してしまったケーヒルは講師が誰な のかもわからないまま、教室の端の席に着いた。講義の内容は「哲学的アイデア が、行為のプログラムへと翻訳される方法」についてであった。ケーヒルが後ろ にいた中国人学生に講師は誰かと尋ねたところ、彼は驚いた表情で「ジョン・
デューイ教授だよ」と答えたという50。いくつもの仕事を掛け持ちしながら、ニュー ヨークに根を張ろうとしていた若きケーヒルのエピソードである。しかしこのエ ピソードは単なる出来事に終わらなかった。というのもケーヒルは、「哲学的ア イデア」が「行為のプログラム」へと翻訳されて「街角の人の日々のなじみの経 験とコモン・センス」になっていく方法について実践することになるからであ
47 デューイらのハーレム・ルネサンスに対する関わりについては、西郷南海子「A・C・バーンズ とデューイの協働―バーンズ財団における民主主義のヴィジョンについて」(日本デューイ学 会紀要、2018 年)、1-10 頁、またメキシコ・ルネサンスとの関係については西郷南海子「1920 年 代から 30 年代のアメリカ進歩主義教育とメキシコ児童画―タスコ野外美術学校における北川民 次の理論と実践に注目して」(臨床教育学研究、2019 年)26-36 頁を参照。
48 Holger Cahill, “American Resources in the Arts,” in ed. Francis V.
OʼConnor (New York: New York Graphic Society, 1973), 33.
49 OʼConnor, , 15.
50 Cahill, “American Resources in the Arts,” 33.
る51。
ケーヒルはデューイの美的経験論をふまえて、「芸術は人と環境との相互作用4 4 4 4 のモードである4 4 4 4 4 4 4
」(art is [...] a mode of interaction between man and his environment, 傍点引用者)という見方を展開する52。つまりケーヒルは芸術を、
アーティスト個人の才能に帰属させるのでもなく、固有の価値を宿すモノとして とらえるのでもなく、あくまでも人間と環境(自然・社会)の相互作用としてと らえている。したがってケーヒルによれば「傑作」が生み出されるかどうかは副 次的な問題であり、最も肝要なのは「芸術経験の創造者または参加者としての社 会」のニーズが高まっているかどうかである53。連邦美術計画はそのニーズをかつ てないほど掘り起こし、またそれに応えようとしてきた。ケーヒルは現時点での 到達を次のように述べる。
今日の私たちの社会は、アートが日々の仕事に密接に結びついた生活を、い まだ提供できていない。私たちの民主主義は、デューイが語るような「自由 で豊かな親交」の生活には、いまだ至っていない。しかし、私たちはそのア イデアを私たちの社会のためのプログラム様式として握りしめ、それを行為 へと翻訳し始めている。54
ケーヒルは、現代の工業社会では、人々の生活の活動は細分化され、芸術は人々 の生活から切り離されてしまっていることを指摘する。それとは裏腹に、美術界 には「異常なエキゾチシズムの時代」が到来し、時間的にも空間的にも遠くのも の、そして珍しく、高価なものがもてはやされるようになってしまった。その結 果、いま生きているアーティストの存在が無視され、過去のアーティストにばか りお金が費やされるというおかしなことが起こっているとケーヒルはいう。こう した状況において、アメリカのアーティストと公衆の間に橋を架けようとしてい るのが連邦美術計画である。政府がパトロンになるというのは「全く新しい現象」
だが、それを後押しした二つの要素としてケーヒルは、メキシコ壁画運動とデュー イの哲学を挙げる55。メキシコ革命後の壁画運動では、公共建築に描かれた壁画に 数多くの市民が接し、「芸術の本来的な社会的意味」の生きた例が示された。そ れは、デューイの言葉でいえば「芸術がコミュニケーションの最も文明的な姿で、
51 Ibid., 33.
52 Ibid., 34.
53 Ibid., 35.
54 Ibid., 36.
55 Ibid., 38
他者の最も深い生活経験へと共感的に入っていくための最善の手段」であること を示していた56。
ケーヒルによれば、こうした考え方に基づいて連邦美術計画では、アメリカン・
インデックス・オブ・デザインとコミュニティ・アート・センターが運営されて きた。インデックスは、「アメリカの人々の日々の仕事に美的経験との連続性」
があったことを示しており、インデックス展への反響は、アメリカの人々が普通 の人々(common man)の芸術作品への深い愛情を持っていることを明らかに した57。またコミュニティ・センターでは、「真の学習とは、どの分野においても、
為すことによって達成される」という進歩主義教育の考え方を軸に、老若男女が 絵画や工芸の活動に参加している58。芸術作品を受動的に眺めるだけでなく、制作 する側に回る経験を通じて、芸術への理解もさらに深めることができるのである。
こうして市井の人々の生活の中に芸術を再発見し、誰もが創造活動に参加できる ようになることこそが、アメリカの芸術にとって最大の「資源」であり、こうし た「参加」の中にこそ新たな、そして本来的な芸術の姿が立ち現われるとケーヒ ルは考えていた。
56 Ibid., 38-39.
57 Ibid., 42.
58 Ibid., 43.
図 4 1938 年にハーレム・コミュニティー・センターで話すケーヒル
(Works Progress Administration, Federal Art Project; Aubrey Pollard, photographer.
Public domain.)
まとめ
今日の私たちにとって「アーティスト」や「アート」という言葉はどのような 意味をもっているだろうか。特に現代アートの場合、突出した個性や難解な作品 をイメージしがちではないだろうか。こうした芸術のとらえ方とは対照的に、連 邦美術計画は、一人ひとりのアーティストをあくまでも市井の生活者として位置 づけ、その作品を一般市民の鑑賞体験へと広く還元していくことを重視した。そ れと同時に市民も、芸術作品を生み出す担い手となることがプログラムに組み込 まれていた。すなわち、アーティストが生活者になり、生活者がアーティストに なる社会が企図されていた。世界大恐慌による生活の逼迫がこうしたプロジェク トを可能にした直接の要因であることはいうまでもないが、芸術を公共事業に位 置づけることができたのは、大恐慌勃発以前から工業化社会における芸術のあり 方について模索してきた人々がいたからである。ケーヒルを含め、そうした人々 の取り組みが連邦美術計画に結実していく様子を本稿では考察した。
芸術が公共事業となるということは、そのアカウンタビリティが問われるとい うことである。実際にニューディール期の芸術政策をめぐっては、反ルーズヴェ ルト派による追及が度々あった。特に公共施設に描かれる壁画はその内容が問題 となりやすく、石垣栄太郎のように取り壊されることもあった。しかしながら取 り壊しに至った事例はローカルな権力者が主導したものが多く、連邦美術計画自 体はアーティストの自由な表現を尊重していたといってよいだろう。また論争の 焦点になりやすかった壁画は連邦美術計画の一部門に過ぎず、アーティストの個 人制作やインデックス・オブ・アメリカン・デザイン、コミュニティ・アート・
センターでの活動が、アメリカにおける「芸術」の意味合いを刷新しようとした ことにも本稿では注目した。こうしたプロジェクトの根幹には、移民一世として、
また労働者としてアメリカ社会を体験し、市井の人々の芸術に魅せられていった ケーヒルの思想があった。
2012 年、ニューヨークのハーレム病院センターに新館が完成した。病院内部 で老朽化していた大恐慌時代の壁画が修復されて再設置されただけでなく、新館 外壁部の巨大ガラスに転写された(図 5)。これらは連邦美術計画のアーティス トたち(アフリカ系 3 名とイタリア系 1 名)がそれぞれ手がけたものであり、ア フリカ系住民の生活史や医学の発展を描いたものであった。実はこの原案につい ては、1936 年に連邦美術計画によって正式に採用されていたにも関わらず、白 人の病院執行部によって「主題が黒人に偏り過ぎている」と拒否されたという事
件があった59。このことに対し、アーティスト団体や住民団体は大規模な抗議活動 を展開し、その結果、壁画は予定どおり描かれることになった60。この事例は、公 共空間に何が描かれるのかという問題は、アーティスト、住民、そして地元権力 者の相関関係により決定されていたことを明らかにしている。作品のメッセージ 性に関する問題も、こうしたプレーヤー間のせめぎあいを抜きにしては分析する ことはできないであろう。さらにいえば、作品が発するメッセージは、作品に内 在するのではなく、まさに作者と鑑賞者との間の「経験として」立ち現れてくる のである。80 年近い時を経てよみがえったハーレム病院の壁画は、芸術作品が 過去と現在そして未来の人々の経験を結びつけていることを今日も示し続けてい る。連邦美術計画は、芸術をあらゆる人へと開くという「哲学的アイデア」が、人々 の参加によって「行為」へと翻訳されていくプロセスそのものであった。ケーヒ ルとデューイの理論的接続に関するより詳細な考察は今後の課題であるが、連邦 美術計画が個々のアーティストに与えた具体的な影響や、市民参加の重要な舞台 となったコミュニティ・センターについてもさらに調査を続けていく。
59 Saab, 64.
60 Charles Aliston, and (1939); Alfred Crimi,
(1936); Vertis Hayes, (1937); Georgette Seabrook, (1936-1937).
図 5 ハーレム病院センターの新館外壁部
(http://www.cumc.columbia.edu/harlem-hospital/about/history)
The Great Depression and the Federal Art Project:
“Art for the Millions” in the US in the 1930s
Minako Saigo
This paper focuses on the Federal Art Project (FAP) and investigates the concept “Art for the Millions” which represents its fundamental idea. FAP was established in 1935 to support the lives and skills of unemployed artists. During the Great Depression, artists begun to organize themselves as “workers” and began to demand for their works. In 1936, More than 5,000 artists were engaged in FAP and produced paintings, murals, sculptures, posters and taught art in the community art centers. Various researches have revealed that progressive policies of FAP uplifted the level of American art.
A folklorist, Holger Cahill (1887-1960) was appointed for the director of FAP and played the important role in designing the programs. His aim was to rediscover artistic tradition in the US and to open the art world for the ordinary people. This paper focuses on his carrier to examine the discovery of
“folk art” in the 20st century. Cahill was born in Iceland and immigrated to the US when he was small. Raised in a poor family, Cahill had numerous jobs to support himself. His moving to Greenwich Village in New York enabled him to join the circles of modernist artists and to attend progressive classes in universities, such as John Deweyʼs. His success in organizing folk art exhibitions in Newark Museum and Museum of Modern Art led him to become the candidate of FAP director.
This paper consists of three parts. First it gives the overview of the project in the fine art, practical art and the programs in community art centers. Second it investigates Cahillʼs aesthetic ideas and its association with the philosophy of John Dewey. Third, it suggests FAPʼs significance in todayʼs society: the concept “Art for the Millions” demonstrates active function of art to recreate democratic community.