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韓国における百貨店と消費社会の変遷 : 主に1950 年代〜80年代を中心に

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韓国における百貨店と消費社会の変遷 : 主に1950 年代〜80年代を中心に

著者 申 賢洙

雑誌名 同志社商学

巻 61

号 6

ページ 224‑244

発行年 2010‑03‑15

権利 同志社大学商学会

ドウシシャ ダイガク ショウガッカイ

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000007434

(2)

韓国における百貨店と消費社会の変遷

──主に

1950

年代〜80年代を中心に──

申 賢 洙

Ⅰ はじめに

Ⅱ 経済成長と都市化 1 所得と消費

2 都市化

Ⅲ 低迷期の百貨店と消費社会:1950年代〜70年代初期 1 低迷期の百貨店

2 消費の下方平準化

Ⅳ 成長期の百貨店と消費社会:1970年代半ば〜80年代 1 成長期の百貨店

2 大衆消費社会の成立

Ⅴ 終わりに

Ⅰ は じ め に

韓国における小売業態の大型化・多様化は,1993年の「マー

1

ト」の登場を契機に急 速に進展した。1990年代の中頃までは,まず,国内企業による小売業態の大型化が進 み,つぎに,96年海外企業の国内流通産業への参入規制の完全撤廃を契機に,海外・

国内企業間の熾烈な出店競争が展開され,小売業態の大型化・多様化が短期間で達成さ れた。これほど短い期間の間に多様な業態が同時出現したのは,後発工業国における特 有の現象であろう。

諸国における小売業態の段階的発展と消費社会の変遷についてみると,1920〜50年 代のアメリカ合衆国(以下,アメリカ)および

1960〜70

年代前

2

半の日本における支配 的な小売業態は,大衆消費社会を基盤とするチェーンストアであった。その前段階の近 代消費社会あるいは初期消費社会における支配的な小売業態は,いずれも百貨店で,両 国における小売業態の多様化は,消費社会が大衆消費社会からポスト大衆消費社会に移

────────────

1990年代以降における新業態の同時的出現に,韓国では一時,適切な用語選択に混乱していた。マー トはその後,割引店もしくはディスカウント・ストア,あるいはマートそのまま表現されたが,そのな かにはディスカウントストアをはじめ,スーパーストア,ハイパーマーケット,会員制卸売クラブなど の業態が含まれている。

2 松原は日本における支配的な小売業態としてのチェーンストアの時期を1972年〜80年とみている。

(松原隆一郎『消費資本主義のゆくえーコンビニから見た日本経済』筑摩書房,2000年。)

224(540

(3)

行する時期にみられ

3

る。

韓国における大衆消費社会の成立は,1980年代半ば以降とされるが,それでは,そ の前段階の時期における近代的小売業態と消費社会の性質はいかなるものであっただろ うか。本稿は,1950年代から大衆消費社会が成立する

80

年代を中心に,この時期を代 表する近代的小売業態としての百貨店と当時の消費社会の性質について考察する。

1960・70

年代の韓国社会は,都市化による世帯構成やライフスタイルの変化が小売

業態に少なからずの影響を与えた。小売業態は,消費行動変化の受け皿として,また,

革新的な小売業態は消費行動に変化を与える要因として働く。そして,個々の消費行動 の集合は,消費社会の性質を読み取る一つのパラメータとなる。近代および現代の消費 社会の性質は,近代的小売業態として最初に登場した百貨店というスペクタクルを通し て描写できる。

韓国の百貨店は,植民地期の三越京城支店の誕生から,戦後の

1940

年代後半に国内 企業による営業再開,そして今日にいたるようになり,近代的小売業態のなかでは最も 歴史が古い。韓国の百貨店の発展過程は,その時代における百貨店のあり様を映すだけ でなく,消費社会の変化をも映す。

以下,1950年代から大衆消費社会の成立する

80

年代を中心に,百貨店の発展と消費 社会の変遷についてみていくが,植民地期の百貨店および

90

年代以降の百貨店と消費 社会については,紙面の関係で割愛したい。

まずは,その間における所得と消費,都市化について確認しておこう。

Ⅱ 経済成長と都市化

消費社会の性質を規定する諸要因には,所得,消費,都市化,世帯構成,ライフスタ イル,国家政策,伝統など多岐にわたるが,本章では,所得と消費,都市化を中心にみ ていきたい。

1

所得と消費

戦後における韓国経済成長の主要な役割を果たしたのは,周知のように,国家主導に よる「経済開発計画」である。経済開発計画は,1962年からはじまって,5年単位で数 回にわたって実施されている。その間の経済成長率をみると,1966年

8.3%,76

12.1%,86

10.3%,91

9.9% と約 10% 程度の高い成長率を記録してい

4

る。一人当

────────────

3 平野隆「日本における小売業態の変遷と消費社会の変容」『三田商学研究』(慶應義塾大学)第48巻第 5号,200512月,182ページ。

4 辺衡尹編『韓国経済論』裕豊出版社,1996年。

韓国における百貨店と消費社会の変遷(申) 541)225

(4)

り国民所得は,1961年の

82

ドルから,91年の

6,498

ドルと約

79

倍も増加した。産業 化の過程で構造的変化も生じている。農林水産業が

66

年から

91

年の間に

41.1% 減少

し,鉱工業は同時期に

16.1% 増加,サービス業は 25% 増加した。

1960

年代から

80

年代における都市勤労者の所得と消費の推移についてみると(第

1

表),都市勤労者所得は高度経済成長期に入る

60

年代後半から大幅に増加する。63年 度と

70

年度における都市勤労者の所得を比べると

7

年間で約

4

倍も増えている。た だ,表の下段の年度別可処分所得・消費支出をみると,60年代は可処分所得と消費支 出が均等しており,当時はまだ大半の人々は逼迫した生活を送っていたといえよう。

つぎに,第

2

表の消費支出の内訳をみよう。エンゲル法則に従い食料品の占める比率 が減少し,代わりに,「家具・日常品」,「教育・娯楽」,「その他」などの項目が若干の 変動はありながら増加している。また,食料品のうち,生鮮食品に対して加工食品の占 める比重をみると(第

3

表),1970年の

19% から,80

25%,90

33.5% という推

移を示しているが,加工食品の比重が高まることは,生鮮食品を購入して調理する手間 を省け,家事労働時間を短縮させるだけでなく,一方では,女性の社会進出の増加や世 帯構成の変化に伴って,簡単に調理できる加工食品を主に取扱う新しい小売業態の出現

1表 都市勤労者世帯の月平均家計所得・消費の推移

年 度 1963 68 70 75 80 85 90

勤労者所得(ウォン) 5,540 17,700 24,320 59,940 211,043 378,769 809,329 家計支出(ウォン) 6,330 20,750 26,710 59,480 183,578 328,761 723,035

年 度 1966 71 81 88 91

可処分所得(千ウォン) 11 31 270 443 1079 消費支出(千ウォン) 11 28 213 332 780

出典:統計庁『都市家計調査30年』1993年。統計庁『統計で見た韓国の足跡』1992年。

2表 都市家計消費支出の構成比推移(%)

年度 食料品 住居費 家具・

日常品 衣類 履物

教育 娯楽 その他

1970 46.6 2.2 4.1 11.6 9.7 25.8

1975 48.8 2.7 4.9 9.8 9.1 24.7

1980 43.2 4.5 4.8 10.9 8.1 28.5

1985 37.5 5.0 4.8 7.7 11.1 33.9

1990 32.0 4.7 5.7 8.3 12.8 36.5

出典:統計庁『都市家計年報』各年号,一部筆者修正。

3表 食料品消費支出の中で占める加 工食品および外食比率(%)

年度 加工食品比率 外食比率

1970 19.0 1.9

1975 20.6 2.6

1980 25.0 4.1

1985 28.8 7.7

1990 33.5 20.6

1995 35.9 31.9

1996 35.8 33.7

出典:「統計庁」の資料を参考に筆者作成。

同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月)

226(542

(5)

を加速する。戦後における韓国の小売業態は,主として生鮮食品,家内手工業による衣 類や日常品を主に取り扱う伝統的な在来市

5

場が,長い間小売消費市場を牽引してきた。

しかし,所得増加による購買力の増加と消費構造の変化から導かれる消費者の買物行動 の変化は,近代的な小売業態の出現・成長を可能にする。

2

都市化

上述した産業構造の変化,つまり,農林水産業の減少と工業化の進展は,第

1

次産業 に従事していた労働力の移動を意味する。これらの労働力はソウルなどの地域に集中す ることによって,都市化に拍車をかけ,卸小売商業の都心での発達を導いた。卸売業の 地域別集中度に関する調査をみると,ソウルを中心とした首都圏の集中度が,1971年

35.9% であったが,79

年には

55.8% に増加し,全体の半分以上がソウルやその近辺

に集中してい

6

る。また,都市別の

W/R

比率((卸売販売額/小売販売額)×100)は,1971 年,W/R比率が

100% 以上のところが 13

都市であったものが,79年にはすべての都市

100% を下回るようにな

7

り,この間,小売商業販売額が大きく増大したこと,つまり 都市における小売商業の量的な増加が推測される。いうまでもなく,小売商業の量的な 増加を支えたのは,都市人口の増加である。

4

表は,1960年から

80

年代における人口の変動と都市化率を示したものである。

都市化が進んだ

60

年代は,ソウル,釜山,大丘,大田,光州の

5

大都市における人口 成長が著しく,ソウルの人口は

60

年から

70

年の間に,年平均

8% と成長し,10

年間 で約

2

倍の人口に膨らんでいる。また,そ

の後,ソウル周辺の仁川,水原などのいわ ゆる衛星都市の人口も増加し,首都圏を中 心とした大都市圏が形成され

8

た。

このような都市化の進展によって,伝統 的な世帯構成,すなわち,世帯構成のなか で占める比重の高かった

3

世代が減少し,

代わりに

2

世代や単独世帯が増加する。核 家 族 化 は,1970年

71.5%,80

72.9%,

90

76% と,すでに 70

年代に

70% を超

────────────

5 常設市場のうち,施設が老朽化したもの。ただし,一般的には常設市場のほぼすべてを在来市場とみて いる。

6 徐賛基・朴泰和「韓国都市の商業機能と変化」『教育研究誌』Vol.25, 1983年,49ページ。

7 同上論文,59ページ。

8 国土開発委員会『80年代住宅政策の方向』1979年。国土開発研究院『都市政策の方向と対策』1991 年,9ページ。

4表 都市化率の推移(千名,%)

年度 全国人口 都市人口 農村人口 都市化率 1960 24,989 7,122 17,867 28.5 1970 31,435 15,750 15,685 50.1 1975 34,681 20,482 14,119 59.1 1980 37,449 25,738 11,711 68.7 1985 40,467 30,086 10,381 74.3 1990 43,390 35,558 7,382 81.9 出典:キムフンカン他「韓国の都市化過程とそ

の特徴」『産業技術研究誌』第12巻,1998 2月,275ページ。

韓国における百貨店と消費社会の変遷(申) 543)227

(6)

えており,60年代における急速な都市化の結果であるといえよ

9

う。また,就業者のな かの男女比率も,1970年(男子(63.5%),女子(36.5%))が,90年(男子(59.2%),

女子(40.8%))

10

と,小幅ながら男子就業者は減少し,女子就業者は増加することによ る女性の社会進出,経済活動への参加が見受けられる。

Ⅲ 低迷期の百貨店と消費社会

1

低迷期の百貨店:1950年代〜70年代初期

韓国における百貨店は,戦前の植民地期に当たる

1916

年,京城(今のソウル)の本 町に開設された「三越百貨店京城出張所」が,そのはじまりだとされる。三越百貨店を 筆頭に,1921年丁子屋百貨店,26年平田百貨店,29年三中井百貨店,そして

32

年に は民族資本による和信百貨店が開店し,百貨店時代の序幕が開くことになっ

11

た。鉄筋コ ンクリトの優雅な建物と西欧文化を象徴する商品,そして陳列販売,割引商品券,出張 販売,新聞・雑誌広告などの近代的経営手法などが展開さ

12

れ,当時の人々を魅了させる に十分であった。

しかし,近代的小売業態として華々しく登場した百貨店は,1950年代以降,しばら くは低迷の道を歩むことになる。終戦後における社会的・経済的混乱,そして朝鮮戦争 による生産工場の破壊と低所得水準による購買力不足は,百貨店の量的・質的な成長に 妨げになった。ともかく,47年,植民地期の和信百貨店が営業を再開したのを皮切り に,旧三越の建物に東和が入り(63年,新世界に社名変更),美都波(丁子屋),時 代,天一,自由,新新などが,植民地期の百貨店を引き継ぐ形であるいは新規出店する 形で営業を開始し

13

た。

ところで,この時期には正確な商業統計がなく(卸小売業統計調査がはじまったのは

80

年代後半),1950年代から

70

年代初期までにおける百貨店の店舗数や売上高,そし て全体の小売商業売上高に占める割合などに関するデータが不十分であるが,ソウル市 の百貨店は

1950

年代から

60

年代中頃までに

7

店舗,そして

60

年代後半は

12

店舗に増 えて,若干の変動がありながら

70

年代中頃までこの数字を維持していたようである。

────────────

9 政策企画委員会『労働,福祉,そして民主主義』2006年,25ページ。

10 統計庁『統計で見た大韓民国50年の社会経済変化』1998年。

11 林廣茂『幻の三中三百貨店−朝鮮を席巻した近江商人・百貨店主の興亡』晩聲社,2004年。林廣茂

「京城の5大百貨店の隆盛と,それを支えた大衆消費社会の検証」日韓歴史共同研究会編『日韓歴史共 同研究報告書第3分科篇上巻』2005年。

12 Jungsuk, S.,「日帝時期の百貨店と日常消費活動」『東洋古典研究』第25集,東洋古典学会,238ペー

ジ。

13 朴皛植「韓国の百貨店経営と正常化方策」『経営研究』24巻,196510月,137ページ。趙時英「韓 国小売企業の発展プロセス」『商学研究所報』(専修大学)第40巻第4号,20093月,5−6ページ。

全泰裕『日韓小売構造に関する研究』日本大学博士論文,1995年,67−68ページ。

同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月)

228(544

(7)

地方都市においては,商工部が統計を出しはじめた

68

年以後をみると,68年から

72

年にかけては

71

店舗あったものが,翌年の

73

年には

5

店舗に激減している。これは,

当時の政府が流通産業近代化の政策のもとで,大型小売店の新規出店を積極的に奨励 し,その結果,百貨店事業への新規参入者が一時増加したが,百貨店のマネジメントに 十分な知識や経験を持っていない者が多く,そのことが景気変動などの波がきたときに 閉店という結果を生んだからである。また,当時は商業分類などに関する統計が整備さ れておらず,同じ年度・地域であるにもかかわらず,発行機関によっては百貨店の登録 店舗数が異なるなどの問題もあっ

14

た。釜山市の「釜山商工年鑑」では「アーケー

15

ド」も 百貨店として分類するなど,百貨店の定義すら明確ではなかった。

1961

年に制定された「市場法」は卸小売商業に関する法律であるが,市場法は大型 小売店を対象にしたものではない。しかも,この時期における百貨店開設は,ソウル市 内の百貨店のみが市場法のもとで設置基準が求められ,その他の地方都市においては設 置基準なしの「任意」による百貨店事業登録が可能であったとい

16

う。百貨店業として事 業登録はしたけれど,一つの建物のなかに独立の商店を寄せ集めたようなもので,「類 似百貨店」が乱立した時期であった。

さて,この時期における百貨店の特徴を挙げると,つぎの

3

点に集約されるであろ う。

1

に,正札販売が徹底されていないので,売場の店員は客の顔をみて販売価格を決 め,また,その場で値引き交渉が行われる。そのため,販売価格に対する信頼が損なわ れていた。第

2

に,50年代はまだ社会的混乱が続き,工業品や日常生活品の安定的な 供給が難しく,そのため,店舗の商品構成は,高価な輸入品か(輸入品といってもほと んどはアメリカからの援助物資であったが),もしくは家内手工業による日常生活品に 限定されていた。百貨店の主力部門である既製服も,本格的な普及が開始される前であ ったので,在来市場との差別化が難しかった。第

3

に,店舗全体を統一的に管理できる システムになっていなかった。つまり,各売場は賃貸として貸し出され,各売場の店主 は自主的に商品を仕入れ・販売していたので,一括仕入れによる規模の経済,商品企 画,計画的な売場構成などは到底可能ではなかった。当然,従業員訓練・教育は各売場 の店主に任されていた。

これら

3

つの課題は

50

年代を通じて継続したが,その後どのように変わっていった

────────────

14 1969年の「釜山商工年鑑」に登録されている釜山市の百貨店は13店,同年度に「釜山統計年報」では 2店,韓国商工部発刊の「商工統計年報」では9店と,発行機関によって異なる。(釜山商工会議所

『釜山商工年鑑』1969年。釜山市『釜山統計年報』1972年。商工部企画管理室『商工統計年報』1969 年。)

15 アーケードが設置された商店街のこと。

16 朴皛植,前掲論文,138ページ。

韓国における百貨店と消費社会の変遷(申) 545)229

(8)

のか,順にみていこう。

(1)正札販売問題

1960

年代に入り,正札販売の未定着についての反省の声が多く聞こえるようにな り,その改善が試みられた。まず,61年にソウル市百貨店連合会の加盟店は期限付き ながら全商品に正札をつけることにし

17

た。そして,翌

62

年には,商工部は,ソウル市 内の百貨店を含む地方百貨店のなかから「師範百貨店」を指定し,また数ヵ所の在来市 場を対象に正札販売の実施を奨励した。しかし,正札販売が持続した店舗はわずかで,

ほとんどが数ヵ月も持たなかった。原因は,当時の大韓商議の関係者の話では,①商業 資本が零細である。②完全な(先進国のような)百貨店が存在しない。③市場組織が前 近代的である。④無謀な商人間の競争心理と値引きを当然とする消費者心

18

理,の

4

点を 挙げている。

いずれにしても,このような試行錯誤を繰り返していた正札販売は,60年代後半に 近づくと,新世界百貨店,美都波百貨店などが,正札販売実施,店舗の直営比率の拡 大,信用販売,従業員教育の徹底などを実施することによって少しずつ定着していっ た。

(2)在来市場との差別化

1960

年代における軽工業育成の過程で,百貨店にも生活必需品の安定的な商品供給 が徐々に可能になり,白黒テレビや冷蔵庫などの電化製品も市場に出回るようになっ た。百貨店の主力部門は衣類であるが,1950年代から

60

年代における既製服は,南大 門や東大門市場のような在来市場を中心とする家内手工業に頼るところが大きく(在来 市場内には小規模の縫製工場などがあって,低価の既製服は主にこれらの縫製工場で生 産された),高級品は繁華街に店舗を構える洋品店(ブディック)によるオーダーメイ ドであった。

大手メーカーによる既製服の本格的普及は,70年代半ば以降を待たなければならな かった。60年代における軽工業育成の一環としてなされた繊維産業に対する政府支援 を背景に,繊維メーカーはアメリカなどへの輸出によって売上高を拡大した。輸出によ って資本を蓄積した繊維メーカーは,つぎに,国内の既製服部門に参入し,70年代半 ば以降に国内の既製服市場が急速に成長したのである。

さて,1960年代の百貨店は,戦後の韓国小売業界をリードしてきた在来市場に対 し,どのような面で差別化を行ったのか,商品構成と店舗の直営比率の

2

点からみよ う。

まず,商品構成についてみると,上述したように,電化製品あるいは大手メーカーの

────────────

17 「朝鮮日報」1961716日。

18 「朝鮮日報」1962730日。

同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月)

230(546

(9)

既製服の普及は

70

年代半ば以降で,60年代 は在来市場で生産された既製服が,在来市 場,個人商店,そして百貨店で売られてい た。同じ銘柄のものが同時に売られていたの である。また,当時は,国内産業保護の目的 で,61年に「特定外来品販売禁止」命令が 出され,百貨店は自由に海外商品を輸入する こともできなかった。加えて,不良商品が多 く,品質に対する保障を消費者に提供するこ ともできなかった。

つぎに,店舗の直営比率についてみると,

5

表は,大韓商工会議所が

78

年に実施した全国百貨店の直営・賃貸比率の調査であ る。店舗面積別に分けて,そのなかから直営比率が半分を超える店舗から回答を得てい るが,直営比率が半分を超えていると回答した店舗は,全体をみるとかなり少ない。6 千

m

2を超える

9

店舗のうち直営

50% 以上は,3

店舗しかない。さらに,300 m2以下の 店舗が,全体の約

37% を超えており,1

m

2以下を含めると,全体の半分を超え,百 貨店とはいえないような類似百貨店が今尚多数存在していた。店舗売場の賃貸比率が高 いと百貨店の統制力が弱まり,部門別管理は困難である。成長期に当たる

78

年度にお いても類似百貨店が多数存在している理由は,大型小売店に関する明確な規定のない

「市場法」が廃止・改正されずに,まだ継続していたからである。

以上のことから,1950年代〜60年代の韓国の百貨店は,在来市場との差別化が曖昧 で不完全な状態であったといえよう。植民地期の百貨店の暖簾分けはしたけれど,百貨 店運営に必要な近代的経営手法は譲り受けられなかったか,あるいは生かされなかっ た。正札販売問題,店頭での従業員と客との値引き交渉,強引な客引き,店舗売場の賃 貸による部門別管理能力の欠如,さらに,粗悪な商品品質に加えて国家による輸入品販 売禁止令などは,当時の百貨店を機能不全に落とす原因であった。1950・60年代の韓 国の百貨店は,百貨店としてのアイデンティティを失っていたといえよう。

かくして,低迷期の韓国の百貨店は,草創期の欧米の百貨店が特徴にしていた部門別 管理,定価販売,品質保証,返品自

19

由,そして,戦前期の日本の百貨店が特徴にした近

────────────

19 アメリカにおける最初の百貨店は,1858年のメイシーとするのが一般的であるが,部門別管理を百貨 店の主要機能とする場合,1846年のA・T・スチュアートが最初の百貨店という説もある(光澤滋朗

『マーケティング論の源流』千倉書房,1990年,88−91ページ)。なお,これらの主要機能について は,ヨーロッパでは百貨店の先行形態のパサージュやマガザン・ド・ヌヴォテで開発されたという説も ある(マーケティング史研究会編『ヨーロッパのトップ小売業−その史的展開−』同文舘,2009年,277 ページ)。

5表 全国百貨店の店舗面積別比較 店舗面積

(m2 店舗数 構成比

(%)

直営比率50%

以上の店舗数

〜300 40 37.4 13

300〜1000 27 25.2 2

1000〜1500 11 10.3

1500〜3000 14 13.1 2

3000〜6000 5 4.7

6000〜 9 8.4 3

未回答 1 0.9 出典:大韓商工会議所『全国百貨店実態調査

報告書』1979年。

韓国における百貨店と消費社会の変遷(申) 547)231

(10)

代的経営,西洋文化の大衆への伝播とも無縁のまま,つぎの時代を迎えるようになる。

2

消費の下方平準化

上述したように,1950・60年代の韓国の百貨店は高所得者からも一般大衆からも見 放されていた。貧困が社会を支配していた

50

年代は,人々は人間の基本的欲求,生き ることに精一杯であった。60年代に入り,工業化・都市化が急速に進むが,上記の第

1

表にあるように,大衆はまだ,生活にゆとりを感じることができなかった。大衆にとっ て百貨店とは,ただ,「値段の高いお店」にすぎなかった。ごく一部の高所得者にとっ ての百貨店も,イメージとしての百貨店にすぎなかった。それは,植民地期の百貨店の 華々しい残像にすぎなかった。百貨店のなかで楽しめる文化祭事,安定した品質の商 品,魅力的な品揃え,優越感が感じられる良質のサービス,そのいずれも当時の百貨店 には存在しなかった。個々の商店を一つの建物のなかに寄せ集めた,単なる小売市場に すぎなかった。当時の経済的・社会的状況を考えれば,百貨店の存在は時期尚早であっ たといえよ

20

う。

当然,これらの事情は,百貨店の経営を圧迫し,多くの百貨店の存続が危うくなって きた。政府政策においてもこの問題が取上げられ,63年に「百貨店法」の制定が提案 され

21

た。皮肉にも,日本の百貨店法が,百貨店を規制することによる中小商業者の保護 が主な関心事であったのに対し,韓国で提案された百貨店法は,倒産の危機に晒された 百貨店を守る立場のものであった。60年代の工業化の進展は,軽工業部門における国 内生産体制の構築と安定的な生産ラインの稼動をある程度可能にしたが,生産と消費を 中継する役割は,主として従来の伝統的な個人商店や在来市場が背負っていた。

しかし,1970年代に入ると,状況が少しずつ変わってくる。まず,百貨店業界の内 部において革新が起きる。前述したように,新世界百貨店は,1969年,戦後の韓国の 百貨店業界においてはじめての店舗売場の直営化と部門別管理,正札販売実施,従業員 教育の徹底,信用販売,パッケージングサービスなどのマーケティングを実施した。ま た,百貨店業界を取巻く市場環境においても,60年代における工業化政策が一定の収 穫を得,第

1

表で示したように所得と消費において変化が生じ,「輸入品販売禁止令」

────────────

20 百貨店が,近代的小売業態としての役割をなかなか遂行できないなか,60年代後半スーパーマーケッ トが登場する。だが,スーパーマーケットも百貨店と同様に,本来主な顧客であろう大衆から見放され た。商人主導の初期のスーパーマーケットが軌道に乗らずに苦戦しているなか,スーパーマーケット は,韓国の流通政策と連動しながら,「流通近代化」という題名の元で官主導による展開が試みられ た。60年代後半から80年代にかけて店舗数が増大し,量的には一定の成果をあげている。しかし,ス ーパーマーケットの本来の特徴である,低マージン,低コスト,高回転,薄利多売などの機能を遂行で きない状態が長らく続いた。スーパーマーケットの設立に関する法律が不明確で,町の個人商店もスー パーマーケットとして事業登録しているものが多く,それが,スーパーマーケット業界全体の生産性を 著しく低下させている。

21 大韓商工会議所『韓国の流通産業』1985年,574ページ。

同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月)

232(548

(11)

が解除され,高関税ながら一部においては高価格輸入品の販売が可能となった。加え て,大手メーカーによる既製服が本格的に普及し,またテレビ,冷蔵庫などの耐久消費 財も導入・成長期に入る。こういう百貨店内部での革新と市場環境の変化がうまくマッ チし,また,60年代の工業化の過程で富を蓄積した高所得層が現れ,百貨店業界もよ うやく成長期に入ろうとする。

当時の百貨店で最も人気のあった商品の一つは,高価な土産セットや高額な商品券で あった。当時の新聞資料によると,60年代の土産セットはせいぜい砂糖や調味料程度 であったが,70年代に入ると,カルビ(焼肉),青果,服地,そして,絵画やピアノ,

金銀装飾品などの嗜好品が好まれるようになり,商品券は

5

万ウォンから

20

万ウォン のものが揃っている,とい

22

う。

20

万ウォンの商品券というと,第

1

表にあるように,

1970

年の都市勤労者の月平均所得が約

2

4

千ウォンであるので,庶民の給料では手の出な いものである。

高所得層は,高価な土産セットや商品券を購入し,知人や親類に送ることによって高 いプレステージを享受しようとする。彼らにとっての消費とは,肯定的な意味での,

「消費を通じて自己を表現する,あるいは自己実現を果たす消費主義(consumeri

23

sm)」

であったかもしれない。しかし,社会は,彼らの消費行動に対し,ヴェブレンのいうよ うな享楽的で見せびらかしの「顕示的消費」だという批判を止めなかっ

24

た。

朴政権の

1960

年代以降,国内産業の育成の名目のもと,数々の輸入規制政策が施さ れ,輸入品を消費する行為は,反愛国的な行為であり,国産品を愛用する行為こそ,国 家の発展のためになるという風潮が社会全般に広がった。こういう民族主義に訴えた消 費規範は,消費者主権に基づく消費者の選択の自由を,国家の発展という壮大な目標の もとに埋没させた。中庸の精神を美徳とする儒教が社会全般に強い影響を与えていた当 時は,国家の発展は崇高な目標であって,そのため,個々人の「過消費(excessive consump-

tion)」は抑制せねばならないという集団主義的,横並び的消費文化が形成され

25

た。過 消費,つまり浪費をさす言葉は,景気が良いときは将来のために慎むべきもので,また 景気が悪いときは浪費が原因でこうなったと,言論は報じた。

消費という経済的行為と浪費の境界が,輸入品と国産品,低価格品と高価格品の単純 な図式で分けられ,東西を問わず,前産業社会において語られた「勤勉・節約」の精神 が,そして,アメリカで

19

世紀後半から

20

世紀初頭にかけて激しく議論された,消費

────────────

22 「朝鮮日報」1970129日。

23 松井剛「消費主義の制度化プロセスとしての消費社会」『一橋論叢』(一橋大学)第129巻第5号,2003 5月,90ページ。

24 Veblen, T. B.,(1899)The Theory of Leisure Class : An Economic Study in the Evolution of Institutions,Mac-

millan.[高哲男訳『有閑階級の理論』ちくま学芸文庫,1998年].

25 Sangmin, L.,「消費市場の高級化と企業の対応」『SERI報告書』サムスン経済研究所,20013月。

韓国における百貨店と消費社会の変遷(申) 549)233

(12)

6.4 18.1

29.1

32.6 38.8 35.2 31.1

22.0  16.3

18.7 22.6

26.7

0 20 40

1983 1984 1985 1986 1987 1988

百貨店 小売業

=罪悪という信念

26

が,韓国の大衆の脳裏に徐々に刻印されていった。

当時の韓国社会では,大衆より民衆という言葉がよく使われたが,民衆の対極にある のは支配者で,支配者は富と権力を持っている階級,民衆は社会から除外され,支配者 によって抑圧されている階級を意味する。つまり,社会底辺の意識には支配者と民衆を つなぐ中間階級が真空状態であった。ジャーナリストのなかには,富と権力をもってい るものは,奢侈品と輸入品を好む浅薄なものだから,彼らを中庸の消費社会,つまり,

下方平準化された消費社会に引っ張り降ろしてこそ,社会の正義が実現されると熱弁す るものもいた。

ところで,下方平準化された消費社会が上流社会に向かって上方修正されるには,そ れほどの時間を要しなかった。その背景には,前述した経済的・社会的構造の急激な変 化があることはいうまでもない。しかし,今日の上方修正された消費社会においても,

集団主義的,横並び的消費社会が完全に瓦解されたわけではない。言論による「浪費叩 き」は別にしても,輸入ブランドを購入する消費者が,自らの消費に対する権利,自由 が,見えざる社会の圧力によって常に監視されていると思うからであ

27

る。

Ⅳ 成長期の百貨店と消費社会

1

成長期の百貨店:1970年代半ば〜80年代

1

図は

80

年代における百貨店と小売業の対前年度比売上高伸び率の推移である。

────────────

26 松田義幸「脱産業社会に向けての課題(1)−レジャー研究の自分史」『生活科学部紀要』(実践女子大 学)38号,2001年,7−8ページ。常松洋一他編『消費とアメリカ社会』山川出版社,2005年,103−106 ページ。

27 輸入ブランドを購入する消費者に対する最近の各種調査によると,購入者のなかでかなりの人が,他人 の目を気にするなど,消極的な態度をみせている。

1図 百貨店の対前年度比売上高成長率

出典:韓国百貨店業界『全国百貨店経営実態調査報告』1990年。全泰裕『日 韓小売構造に関する研究』日本大学博士論文,1995年,80ページ。

同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月)

234(550

(13)

83, 84

年の百貨店の伸び率は,小売業の それを下回るが,85年度以降は両者の 地位が逆転し,百貨店は,毎年約

30%

という高い水準で成長し,また,業態別 市 場 シ ェ ア で は(第

6

表),1986年

4.3

%から

93

11.5% と大幅なシェア拡大

を達成した。

それでは,70年代半ば以降における

百貨店の成長について,「新規参入者の増加と多店舗展開」,「水平的競争・垂直的取引 関係」の

2

点からみていこう。

(1)新規参入者の増加と多店舗展開

前述したように,都市人口は

1960

年代以降に急激に増加したが,同時に住宅問題や 交通問題を同伴した。都市機能の正常化のために,70年代後半から

80

年代にかけて,

大規模な都市開発が行われたが,その過程で多くの新規参入者が百貨店事業に参加し た。新規参入者の出店は,既存の百貨店が陣取る中心市街地ではなく,郊外住宅地やタ ーミナルを中心に行われた。

百貨店を立地の面からみると,韓国の百貨店は,日本の百貨店と同様に,「中心市街 地店」,「ターミナル店」,「郊外店」の

3

つに分類される。ただ,郊外といわれたところ も,はじめは大規模なアパート団地(日本のマンション)が立ち,その後,ビジネスビ ルや金融機関,商業施設などが集まり,しだいに新しい商圏を形成するようになる。ソ ウルの真ん中を横切る漢江という川を境界に,北の「江北」は戦後の百貨店が立ち並ぶ 中心市街地,南の「江南」は郊外住宅地として開発され,その後,郊外住宅地に高所得 者が集まるようになり巨大な商圏が形成された。

かくして,1950年代以降の百貨店は人々の往来の多い繁華街を中心にした江北の

「中心市街地店」が中心であったが,ターミナル店と郊外店は,いずれも

70

年代後半以 降の新たらしい地下鉄の開通や郊外地域の開発とともに生まれた。

郊外住宅地には,主として建設会社による漢洋(79年),ニューコア(80年),現代

(85年),グランド(86年),ニューコア新館(86年)が顔を出した。建設会社主導の 郊外店は,建設会社が郊外地域にアパート団地を立てる時に,当時の「住宅建設促進 法」で義務化された,アパート団地建設において団地内に商業施設を設けなければなら ないと定められた義務を果たし,また,郊外住宅地には潜在的な需要が多数見込まれる ための出店であった。

ま た,ヨ ン ド ン(83年),汝 矣 島(83年),ユ ニ バ ー ス(84年),ク リ ス タ ル(85 年),パレス(85年)などの不動産会社の進出も活発であった。新世界も永登浦店(84

6表 業態別市場シェア(%)

区分 1986 1991 1992 1993 百貨店 4.3 7.2 8.7 11.5 スーパーマーケット 4.1 3.4 4.1 4.6 その他の大型店 11.2 12.8 出典:統計庁『卸小売業統計調査報告書』各年号。

ソウル市政開発研究院『ソウル流通構造の改 善方向』1995年。

韓国における百貨店と消費社会の変遷(申) 551)235

(14)

年),東方プラザ(84年)を出店するようになり,多店舗時代の幕開けとなっ

28

た。

80

年代後半になると,店舗の大型化と多店舗が一層進む。既存百貨店の店舗面積が おおよそ

1

万〜1万

6

m

2規模であったが,2万

6

m

2規模の百貨店が登場した。ロ ッテグループのロッテ蚕室店(88年),現代百貨店貿易センター店(88年),そして崩 壊事故で有名になった三豊百貨店(89年)などがそれである。新世界も新たに弥阿店

(88年)をオープンし,ロッテ,現代,漢洋,美都波,ニューコアも競うように多店舗 化を進めた。

かくして,既存の中心市街地店の新世界,美都波,そして

79

年に参入したロッテを 入れた

3

強時代が

80

年代半ばまで続き,80年代後半以降は「江南」と「江北」の地域 間競争,つまり,中心市街地店と郊外店における熾烈な覇権争いが展開された。第

7

表 は

80

年代後半におけるソウルの中心市街地店および郊外店の店舗数,売上高,店舗面 積を示したものである。店舗数においては,郊外店の方が

3

店舗多く,店舗数が多い 分,郊外店の売上高が若干上回っている。店舗面積は郊外店が中心市街地店のそれより ほぼ

2

倍ほどであり,3店舗多いこと考慮しても,全体的に郊外店のほうが大型の傾向 であったといえる。

つぎに,ソウル市における百貨店の成長推移についてみよう(第

8

表)。店舗数でみ ると,1990年から

92

年の間に

17

店舗も増加したことが目に付く。同じ期間,平均店 舗面積も約

2

倍増加し,百貨店の大型化が進んでいたことが推察される。ところで,

1990

────────────

28 通商産業部『流通産業の長期展望と発展戦略』1997年,32−35ページ。漢東哲『小売管理』永豊文 庫,1997年,60−63ページ。

7表 ソウル市の中心市街地店と郊外店の比較(1988年)

区 分 店舗数 売上高比率 店舗面積比率

中心市街地店 11 48.3% 33.3%

郊外店 14 51.7% 66.7%

出典:朴鳳圭他「韓日の百貨店開発特性に関する比較」『論文集』43, 19967月,226ページ。

8表 ソウル市における百貨店の成長推移

年度 店舗数従事者数

(人)

年間販売額

(百万ウォン)

店舗面積

(m2

店舗当り 従事者数

(人)

平均店舗 面積

(m2

店舗当り年 間売上高

(百万ウォン)

従事者一人当 り年間売上高

(百万ウォン)

m2当り 年間売上高

(百万ウォン)

1988 17 12,897 934,329 759 54,961 72

1990 25 13,483 1,738,679 348,114 540 13,925 69,547 129 5

1992 42 23,022 3,153,473 1,195,278 548 28,459 75,083 137 3

1993 42 24,977 4,572,892 1,200,696 595 28,588 108,878 183 4

出典:ソウル市政開発研究院『ソウル市における流通構造の改善方向』1995年,22ページ,一部筆者修正。

同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月)

236(552

(15)

年と

92

年の間の「m2当りの年間売上高」が大きく減少したが,これは,大型店の新規 出店が相対的に地価の安い郊外地域に集中することによる結果であるといえる。つぎ に,店舗数が大きく増加した

1990

年から

92

年より,店舗数の変動がない

92

年から

93

年の「従事者一人当り年間売上高」が高いが,新規出店した百貨店が初期の準備期を経 て営業が徐々に安定していく現象であると理解してよいだろう。

(2)水平的競争・垂直的取引関係

①水平的競争

まず,水平的競争には,百貨店同士の業態内競争と他の大型小売店との業態間競争が あるだろう。1980年代の大型小売店には,百貨店を先頭に,ショッピングセンター,

スーパーマーケット,総合量販店,専門店などが挙げられるが,ショッピングセンター はまだ店舗数が少なく,またショッピングセンターの核店舗として百貨店が入店してい たので,ショッピングセンターと百貨店は,競争関係というより共存共栄の関係であっ たといえる。つぎに,家電製品や玩具,紳士服などを取り扱う専門量販店もしくはカテ ゴリキラーは,この時期はまだ存在していなかった。海外輸入ブランドショップも,全 体的にはまだ少なかった。国内ブランドを取り扱う専門店はあったが,これらの専門店 はメーカーによって系列化された比較的に小規模な系列店で,百貨店にとっては注意を 払うべき存在ではなかった。総合量販店は,1980年代に日本の総合量販店との技術提 携のもと,数社による参入が試みられたが,いずれも失敗に終わった。中低価格商品の 豊富な品揃えを武器に参入してきたが,低価格商品についてはスーパーマーケットや在 来市場に,中価格商品は百貨店に客を奪われた。日本よりも過多といわれる小売商店,

多頻度少量の買物行動,総合量販店の曖昧なポジショニングなどが失敗の原因であっ た。最後に,スーパーマーケットは,店舗数が

1988

1,074

店,89年

1,311

店と量的 には拡大しているが,比較的規模の大きいものは少数で,そのほとんどは小規模のもの であった(注

20

を参照)。

結局,この時期における百貨店の競争相手は,異形態の大型小売店ではなく,業界仲 間の他の百貨店であった。

百貨店は,その立地条件によって重点的に育成する商品カテゴリが異なる。中心市街 地店は衣類,郊外店は食料品といった具合である。また,中心市街地店でも若者がよく 集まるところはキャジュアル衣料,周囲に高所得者の住民が多い郊外店は婦人服に重点 を置く。

百貨店の主な顧客層をみると,70年代中頃から夫婦や家族の利用頻度が徐々に高ま っていった。これらの顧客層は,主に週末などを利用して百貨店を訪れ,買物をし,レ ストランで食事をした後,文化催事などを楽しむようになってきた。新世界百貨店が調 査した資料によると,73年,23% であった夫婦・家族が,翌年の

74

年には

30% を越

韓国における百貨店と消費社会の変遷(申) 553)237

(16)

えるようになり,また,全体の利用客の

40% が週末に百貨店を訪れている。利用客の

年齢層は

30・40

代が

60% と,過半数を占めてい

29

る。この頃から,韓国の百貨店は,か つて日本の百貨店が

1970

年代に,結婚をし,子供を持つ頃になった団塊世帯をターゲ ットとした生活全般のサポートをしたよう

30

に,主として

30・40

代の顧客をターゲット に,売場構成を生活総合産業化していった。地下は食料品,1階は雑貨,そのうえの

2

〜4階は男性・女性衣類,そのうえは家電製品,家庭用品,家具,そして文化教室など といった具合である。

80

年代に入り,30・40代のみならず,高齢者から若年層まで来店客の年齢層が広が り,スポーツジム,ボーリング場,室内プールなどの施設が新たに加わったが,百貨店 の生活総合産業化に基本的な変動はなく,各百貨店の売場構成や品揃えに大きな違いは なかった。各百貨店の売場構成や品揃えが似たようなものであるので,競争手段が,過 剰なサービスや価格競争に頼ることになった。百貨店を中心にその周辺を走る無料シャ トルバスや無料配達などである。また,休業日数を短縮したり,開店時刻を早めたり,

閉店時刻を遅くするなどの行為が競争的にとられた。同じ商圏のなかで争う競合百貨店 が休業日数を短縮すると,さらにそれより休業日数を短縮したり,あるいは閉店時刻を 延ばしたりした。92年,中心市街地店のロッテ百貨店が,それまで休日にしていた火 曜日から月曜日に休日を変更したとき,同じ商圏の新世界(それまでは月曜日休日)が 年中無休を発表したのは,その一例であ

31

る。休業日数や休業曜日,開店・閉店時刻は,

百貨店業界の慣例で決まり,誰かがそれを破ると報復的行動に出る。

大型小売店に関する法律は,1961年の「市場法」が

80

年「流通産業近代化促進法」

の制定と同時に廃止され,その後,幾度の廃止・改正と制定を経て,97年に「流通産 業発展法」が制定され,今日にいたっている。大型小売店の新規出店については,61 年の市場法から

95

年の流通産業合理化促進法までは「許可制」を,そして

97

年の流通 産業発展法では「登録制」に変更した。96年の海外小売業者の参入自由化に合わせた 緩和措置である。さらに,97年に出された公正取引委員会規制改革作業団の報告書で は,大型小売店の新規出店に対しさらなる緩和を求めてい

32

る。

いわゆる調整

4

項目(開店日,店舗面積,閉店時刻,休業日数)に関する規制は,当 時の韓国では,事実上なかったといってよいだろう。戦後の韓国小売業界を二分してき たのは在来市場と百貨店であるが,政府の近代的小売業態としての百貨店にかける期待 は大きいもので,生産部門に比べて遅れている流通産業の発展に阻害となるような規制

────────────

29 「朝鮮日報」19741114日。

30 石原武政・矢作敏行編『日本の流通100年』夕斐閣,2004年,206−207ページ。

31 「朝鮮日報」1992813日。

32 公正取引委員会規制改革作業団『経済規制の改革における革新問題に関する用役報告書』199711 月。

同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月)

238(554

(17)

は設けたくなかったであろう。百貨店の成長に地域の個人商店や在来市場が影響を受 け,百貨店の規制を求める声がなかったわけではないが,当時は経済の高度成長で市場 全体のパイが大きく,また,80年代の百貨店の成長期においても個人商店や在来市場 の店舗・市場数は減少することなく,逆に増加したのである。

過剰なサービス,競争的な休業日数の短縮,開店・閉店時刻の変則的な運用に加え て,百貨店が取り組んだのは,競争的なバーゲンセールである。

百貨店の販促イベントは,営業イベントと文化イベントの二本立て,そして営業イベ ントには全館イベントと部分イベントがある。公正取引法(独占禁止法)では,百貨店 のバーゲンセールは年間

90

日以内と定めっている。しかし,全館セールに対しては年 間

90

日以内を守りながら,部分イベントや文化イベントの名目でセールを行い,実質 上セールを行う期間は大幅に伸びた。韓国の「主婦クラブ連合会」の調査によると,年 間で合計

307

日間バーゲンセールを行った百貨店もあっ

33

た。

競争的バーゲンセールは,百貨店が販売利益を確保するために,優越的地位を利用し て納入業者に対して不当な要求をする問題,そしてバーゲンセール広告の表示価格と実 勢価格との乖離,虚偽広告問題に広がった。消費者団体などの百貨店に対する糾弾の声 が高まり,百貨店の姿勢を問う社会的問題になった。

いずれにしても,このような競争を通じて,百貨店は大衆を取り込んでいった。一 方,百貨店の大衆化の余波で一時的に宙に浮いた上流階層も百貨店は見逃さなかった。

1990

年,ギャラリヤ百貨店の「名品館」を始発に,他の有力百貨店も名品館を設け た。名品館とは高級国内・輸入ブランドを主に取り扱う独立した建物のことである。大 衆のための生活総合産業を目指してきた百貨店にとって,また一つのターニングポイン トであった。

(2)垂直的取引関係

韓国の百貨店は既製服メーカーと協力し,60年代後半からプライベートブランド

(PB)の開発に取り組んできた。だが,80年代後半における

PB

の占める比重は,全体 の売上高の約

2% でしかなく,まだ発展途上の段階であるといわざるをえない。そこ

で,本節では,百貨店と納入業者との取引関係に限定してみていきたい。

韓国の百貨店における仕入れ形態には,つぎの

4

つの形態がみられる。「直買入れ」,

「特定買入れ」,「手数料賃貸」,「一般賃貸」の

4

種類である。このうち,直買入れは日 本の買取仕入れ,特定買入れは消化仕入れに似ているの

34

で,以下,買取仕入れ,消化仕 入れと表記する。4つの仕入れ形態は,商品の所有権,売れ残りの負担,店頭の商品管

────────────

33 「朝鮮日報」1986114日。

34 関根孝「韓国百貨店のイノベーション−コア・フォーマットの行方」『商学研究所報』(専修大学)第37 巻第4号,20063月,25−26ページ。マーケティング史研究会編『日本流通産業史』同文舘,2001 年,37−40ページ。石原武政・矢作敏行編,前掲書,153−156ページ。

韓国における百貨店と消費社会の変遷(申) 555)239

(18)

理,派遣社員の有無などによって分かれる。

まず,買取仕入れは,仕入れと同時に商品の所有権が納入業者から百貨店側に移動 し,売れ残りが発生した場合に,百貨店側が責任を持って処分する(一部については返 品もある)。当然,売れたものは百貨店側の売り上げとなり,商品の店頭管理責任は百 貨店が負う。店頭販売は百貨店の社員,もしくは当該商品の競争状況などによっては派 遣社員によって行われる。消化仕入れは,納入業者から百貨店側に商品が移動しても所 有権は依然納入業者側にあり,したがって売れた分だけ百貨店は納入業者に代金を支払 い,売れ残りについては返品する。商品の店頭管理責任は納入業者が負い,店頭販売は 納入業者の派遣社員によって行われる。

つぎに,手数料賃貸と一般賃貸は,いずれも賃貸の形式なので,仕入れ・販売は納入 業者の責任のもとで行われるが,手数料賃貸は,販売額に対して一定の手数料を納入業 者が百貨店側に支払う点で,一般賃貸と異な

35

る。

各仕入れ形態における主な取扱商品は,買取仕入れは,食料品,PB商品,直輸入商 品など,消化仕入れは衣類やその関連商品,精肉,魚など,手数料賃貸は出版物,楽器 など,一般賃貸は宝石類,レストランなどであ

36

る。

このなかで,最も多く採用されているのは,売れ残りに対するリスクの心配がなく,

また,納入業者の派遣社員によって百貨店側の人件費の削減が期待できる消化仕入れで ある。消化仕入れは,1970年代に大手繊維メーカーが既製服市場に参入したときに,

百貨店と既製服メーカーの間で結ばれたといわれるが,その後,既製服などの衣類のみ ならず,食品や他の商品カテゴリにも拡大していった。百貨店における各仕入れ形態の 比率は,それぞれの百貨店によって,また年度によって異なるが,おおよそ買取仕入れ

3〜18% 程度,委託仕入れは 55〜75%,賃貸によるものは 13〜35% とされ

37

る。

日本でも,委託仕入れや派遣社員制度が百貨店のマーチャンダイジング能力の低下に つながると危惧する声があるが,韓国でも同様の視点で問題視されている。80年代の はじめ頃,一部の百貨店で消化仕入れから買取仕入れへの転換を試みたものの,百貨店 の負担する経済的コストがあまりにも大きく,再び消化仕入れの形態に戻った。それか ら,今日までその見直しの動きはみられない。

────────────

35 HyunGeol, S.,「百貨店の収益認識に対する企業会計と税法の差の比較」『産業経営研究』(カトリック

大学)No.11, 2003年,201ページ。Myoungkil, and Kungsok, N.,「国内百貨店の特定買入れのシステム に関する研究」『流通科学研究』第3巻第2号,20059月。

36 Myoungkil, Y.,「国内の割引店と百貨店の買入れ類型に関する比較研究」『流通科学研究』第2巻第2

号,20049月。

37 Myoungkil, and Kungsok, N.,前掲論文,8−9ページ。

同志社商学 第61巻 第6号(2010年3月)

240(556

(19)

58.3

71.1

26.0 

4.1

48.8

4.0  97.2 93.1

64.3

27.8

84.7

13.5 0

40 80 120

カラーTV 冷蔵庫 洗濯機 VTR 電話 自家用車

1985年 1990年

2

大衆消費社会の成立

上述した

1970

年代半ば以降の既製服や家電製品などの普及のはじまり,「漢江の奇 跡」といわれる高度経済成長の達成による所得の増加。そして,1980年代は,学生の 制服自由化,海外旅行自由化,海外高級ブランドの輸入における部分的規制緩和,労働 闘争による都市勤労者の賃上げ,88年のソウルオリンピック開催,80年代後半におけ る低国際金利,低ドル(ドル安),低原油価格の「3低好況」を背景とする好景気。さ らに,激しい民主化運動による民主主義の勝ち取り。これらの出来事は,いつの間に か,民衆という言葉を人々の脳裏から徐々に掻き消し,代わりに「中流」という言葉が 語られるようになってきた。所得の不平等を表すジニ係数が,80年代に入り緩やかに 減少し,爆発的な都市人口の増加は,郊外地域の開発を必要とした。相次ぐ郊外地域の 開発は,不動産価格を吊り上げ,都市勤労者のみならず,農村地域の農業従事者までも が不動産投資に熱中した。1987年,総住宅戸数が

645

万戸であったが,その

3

分の

1

に当たる

200

万戸が

88

年から

92

年の間に完成した。

3

表に示したように,85年

7.7% であった外食比率が,90

20.6% と一気に上昇

し,カラーテレビや洗濯機などの家電製品が爆発的に売れた。85年

58.3% であったカ

ラーテレビの普及率が

90

97.2%,洗濯機は 85

26% から 90

64.3% と,目を見

張るような勢いであった。自家用車は

85

4% から 90

13.5% と,数字は高くない

が,この頃から急速に普及していった(第

2

図)。

それぞれの時代の世代や社会像を表す言葉として,1970年代までは,「4・19世代」,

「6・3世代」,「維新世代」,などが社会学者の間でよく語られた。いずれも,反政府運 動を主導した大学生を指し,数十年間にわたって民主化運動を激しく展開した世代であ った。ところが,80年代後半になると,これら政治的意味での世代表現は色褪せ,「新 人類」,「ミシ(missy)族」,「オレンジ族」といった新たな世代像が現れた。「オレンジ 族」は,1950年代,豊かな消費社会のなかで自由に車を乗り回すアメリカの若者を彷

2図 家電製品・自家用車の普及率

出典:「中央経済」19921212日。

韓国における百貨店と消費社会の変遷(申) 557)241

参照

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