︿研究へのいざない﹀
梶 川 信 行 鈴 木 雅 裕 教室 で 読 む 古事記神話 ︵ 四 ︶ ︱ 既生国竟更生神 から 遂神避坐也 まで︱
既生国竟更生神 既 すでに、 国
くにを 生
うみ 竟
をはり て、 更
さらに 神
かみを 生
うみ き。 故
かれ、 生
うみ し 神
かみの 名
なは、 大
おほ事
こと忍
おし男
をの神
かみ。 次
つぎに、 石
いは土
つち毗
び古
この神
かみを 生
うみき 〈石を 川
よみて 伊
いは波 と 云
いひ、 亦
また、毗古の二字は 音
おんを 以
もちゐよ。 下
しも、此
これに 效
ならへ〉 。 次
つぎに、 石
いは巣
す比
ひ売
めの神
かみを 生
うみき。 次
つぎに、 大
おほ戸
と日
ひ別
わけの神
かみを 生
うみき。 次
つぎに、 天
あめ之
の吹
ふき上男
をの神
かみを 生
うみき。 次
つぎに、 大
おほ屋
や毗
び古
この神
かみを 生
うみ き。 次
つぎに、 風
かざ木
もく津
つ別
わけ之
の忍
おし男
をの神
かみ〈 風 を 訓
よみ て 加
かざ耶 と 云
いひ、 木 を 訓
よむ に は 音
おんを 以
もち
ゐ よ 〉 を 生
うみ き。 次
つぎに、 海
うみの 神
かみ、 名
なは 大
おほ綿
わた津
つ見
みの神
かみを 生
うみ き。 次
つぎに、 水
みな戸
との 神
かみ、 名
なは 速
はや秋
あき津
つ日
ひ子
この神
かみを 生
うみき。 次
つぎに、 妹
いも速
はや秋
あき津
つ比
ひ売
めの神
かみ〈 大
おほ事
こと忍
おし男
をの神
かみより 秋
あき津
つ比
ひ売
めの神
かみに 至
いたるまでは、 并
あはせて 十
とをはしらの神
かみぞ 〉 。 此
この 速
はや秋
あき津
つ日
ひ子
こ・ 速
はや秋
あき津
つ比
ひ売
めの 二
ふたはしらの神
かみの 河
かは・ 海
うみに 因
より て 持
もち 別
わけ て、 生
うみし 神
かみの 名
なは、 沫
あわ那
な芸
ぎの神
かみ〈那芸の二字は 音
おんを 以
もちゐよ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ〉 。 次
つぎに、 沫
あわ那
な美
みの神
かみ〈那美の 二 字 は 音
おんを 以
もちゐ よ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ 〉 。 次
つぎに、 頬
つら那
な芸
ぎの神
かみ。 次
つぎに、 頬
つら那
な美
みの神
かみ。 次
つぎに、 天
あめ之
の水
み分
くまりの神
かみ〈 分 を 訓
よみ て 久
く麻
まり理 と 云
いふ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ 〉 。 次
つぎに、 国
くに之
の水
み分
くまりの神
かみ。 次
つぎに、 天
あめ之
の久
く比
ひ奢
ざ母
も智
ちの︻本文︼既生国竟更生神故生神名大事忍男神次生石土毗古神 ①川石云伊波亦毗古二字以音下效此也次生石巣比売神次生大戸日別神次生天之吹上男神次生大屋毗古神次生風木津別之忍男神訓風云加耶訓木以音次生海神名大綿津見神次生水戸神名速秋津日子神次妹速秋津比売神自大事忍男神至秋津比売神并十神此速秋津日子速秋津比売二神因河海持別而生神名沫那芸神那芸二字以音下効此次沫那美神那美二字以音下効此次頬那芸神次頬那美神次天之水分神訓分云久麻理下効此次国之水分神次天之久比奢母智神自久以下五字以音下効此次国之久比奢母智神自沫那芸神至国之久比奢母智神并八神︻校異︼ ①﹁川﹂字は真福寺本に従ったが︑他の諸写本では﹁訓﹂字に
している︒だが︑真福寺本の誤字ではなく︑漢字の一部分を省
いた省字だと考えられる︒
︻口訳︼
︵伊耶那岐・伊耶那美の二神は︶国を生み終えて︑更に神を生んだ︒
そこで︑生まれた神の名は︑大事忍男神︒次に︑石土毗古神を生んだ︒次に石巣比売神を生んだ︒次に︑大戸日別神を生んだ︒次に︑天之吹男神を生んだ︒次に︑大屋毗古神を生んだ︒次に︑風木津別之忍男神を生んだ︒次に︑海の神︑名は大綿津見神を生んだ︒次に︑水戸の神︑名は速秋津日子神を生んだ︒次に︑妹速秋津比売神︒この速秋津日子・速秋津比売の二神が︑河と 海を拠点として分担して生んだ神の名は︑沫那芸神︒次に︑沫那美神︒次に︑頬那芸神︒次に︑頬那美神︒次に︑天之水分神︒次に︑国之水分神︒次に︑天之久比奢母智神︒次に︑国之久比奢母智神︒
︻語注︼大事忍男神 ﹁大なる事業の成り竟し故﹂の名︵記伝︶︒宣長は具体的に伊耶那岐・伊耶那美二神の国生みを指すと言うが︑近年は︑﹁以下の諸般の神の産出を暗示してゐる﹂︵全書︶︑﹁これ
から神生みという大事業をすることの総括的な名として冒頭に置かれている﹂︵集成︶とされる︒神生みが大事忍男神から始め
られることから︑後者の方が適当である︒﹁忍男﹂は︑知訶島
の神名天之忍男や風木津別之忍男神などの例があり︑美称だろ
う︒ 石土毗古神・石巣比売神 ヒコ・ヒメは男・女を表す︒前者
は石や土の男神の意︒石巣比売神について︑﹁巣﹂は訓仮名で﹁石砂﹂の神格化とするのが一般的︒たしかに石土毗古神の対と考
えると納得しやすいが︑用字の上で飛躍があることは否めない
︵集成︶︒また︑﹁天の御巣﹂︵上巻︶︑﹁天の新巣﹂︵上巻︶などの例
を参照すると︑住居と見る説も無視できない︒後者の場合︑当時の家屋が木造であったことから﹁岩石のような堅牢な︵中略︶住居﹂の意とされる︵集成︶︒
神
かみ〈久より 以
しも下 の五字は 音
おんを 以
もちゐよ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ〉 。 次
つぎに、 国
くに之
の久
く比
ひ奢
ざ母
も智
ちの神
かみ〈 沫
あわ那
な芸
ぎの神
かみより 国
くに之
の久
く比
ひ奢
ざ母
も智
ちの神
かみに 至
いたるまでは、 并
あはせて 八
やはしらの神
かみぞ〉 。
大戸日別神 戸を訓字と見て扉の神格化とする説︑﹁処﹂の当て字として﹁居所﹂とする説がある︒石土毗古神・石巣比売神が住居の土台とすると前者の説が適当だが︑住居自体の神格化と捉えるならば後者の見方も有効である︒従来の説と異なる見方をするのは中西進で︑トは人間の生別
を表わし︑天地創造の意富斗能地神・妹大斗乃弁神に対応する
と言う︵よむ︶︒この段の神々に関する中西の読み取りには独自性があり︑﹃古事記﹄神話の奥行きを考える上で参考になる︒
天之吹男神 ﹁吹﹂を﹁葺﹂の借字として︑﹁屋根を葺く男神
の意﹂とする説︵全訳注︶がある︒だが︑﹃古事記﹄で﹁吹﹂は﹁吹
き棄つる気吹﹂︵上巻︶︑﹁風に吹き拆かえき﹂︵上巻︶など︑仮名
としての使用が見られない点で問題になる︒﹁吹男﹂は神の属性を表しており︑志那都比古などと同様︑風に関わる神とも見
られている︒大屋毗古神 家屋の神︵大系︶︑﹁舎屋または木の神﹂︵注釈︶︑﹁宮殿の神格化﹂︵記學︶とされる︒建造物の神格化だろう︒大穴牟遅神︵=大国主神︶が八十神たちに迫害を受けた際にも︑﹁木国の大屋毗古神﹂として登場している︒和歌山市伊太祈曽に鎮座す
る伊太祁曽神社の祭神・五十猛命の別名である︒﹃日本書紀﹄
で︑五十猛命は﹁天降ります時に︑多に樹種を将ちて下る﹂︵第八段・一書第五︶とされる︒風木津別之忍男神 諸注釈は﹁木﹂をモと訓むが︑﹃古事記﹄
でモは﹁母﹂﹁毛﹂を用いるのが普通である︒ここではモクと訓
む説︵注解・新校︶に従いたい︒名義未詳だが︑屋根が風に吹き飛ばされないように支え持つ意︵全註釈︶︑﹁家屋の耐久性につい て︑風に対抗できる威力の神格化﹂との説︵集成︶がある︒石土毗古神から風木津別之忍男神までで一つのまとまりを作
る︒このまとまりについては︑﹁神々の住み給ふ家を建築する
までの順序を神格化したもの﹂︵上巻講義︶︑﹁古代の竪穴住居に関する神々﹂︵全註釈︶ともされるが︑この説には﹁むしろ自然に関する神ととるのが妥当﹂︵新編︶と否定的な見解も示されてい
る︒文脈上︑後者の読み取りが素直だが︑石土毗古神から始ま
る神名の連続が︑建造物をイメージさせることは確かである︒大綿津見神 直前に﹁海の神﹂との神格が明示される︒﹁綿は海のあて字︒海を掌る神﹂︵大系︶︒この点︑西郷信綱は﹁ワタツ
ミは︑自然としての海の神格化ではなく︑その語法︱﹁ワタ﹂
ツ﹁ミ﹂︱の示すとおり海の神︑すなわち海のなかに棲む︑そ
してそれについて古代人が経験した不可思議な霊的な力のいい
であったのだ︒︵中略︶ウミはseaを︑ワタはoceanを意味する﹂ とウミとワタの違いを明確に説く︒因みに︑oceanはseaよりも大きな海の意︒ギリシア語のokeanoa︵海神︶に由来するとされ
る︵﹃ジーニアス英和大辞典﹄︶︒大綿津見神から大山津見神の生んだ大戸或子神までが大きく二つ目のまとまりとなる︒そこでは海・水戸・風・木・山など
の神々が生まれている︒自然現象の神格化と見てよい︒速秋津日子神・速秋津日売神 直前に﹁水戸神﹂とあるから︑河口を司る神であろう︒ハヤは勢いのあることで美称︒火之夜芸速 3﹅男神・甕速 3﹅日神・建速 3﹅湏佐之男命などの例を見る︒ヒコ・
ヒメは男女の意である︒アキは用字上は豊饒な様子を表すと考
えられるが︑大祓の祝詞では﹁荒塩の塩の八百道の︑八塩道の
で施すことを掌る神﹂︵大系︶とする説明が見られる︒クミヒサ
ゴモチが縮まったとする記伝の説を受けたもの︒ひしゃくの意
とする説もある︵集成︶︒鎮火祭の祝詞には︑イザナキが﹁匏﹂
の神を生んだと見える︒この点︑巨人が匏から水を流すことで川ができることをイメージしたものとして︑巨人伝説の面影が
あるとする説もある︵よむ︶︒
︻余滴︼姿を変えて行く神 人間が生きて行く上で︑水は不可欠であ
る︒﹃古事記﹄は国生みの後︑さまざまな神が生まれたことを伝えているが︑その中で水に関わる神も誕生している︒その一
つが︑天之水分神・国之水分神である︒神の機能は名前に表わされるが︑クマルは﹁くばる︒分配す
る﹂︵時代別︶の意︒それは﹁水︵特に農業用︶の分配を掌る神﹂︵全註釈︶である︒農業の守護神と言うことだが︑その名に冠した
アメとクニには﹁格別深い意味はなく︑接頭語的に冠して対に
したまでである﹂︵全註釈︶と言う︒とすれば︑それは神話の語
り口だということであろうか︒単なる水を配る神と考えてよい
ことになろう︒
この二柱の神を説明する時︑祈年祭︵豊作を祈願する祭︶の祝詞
が引かれることが多い︒ 水分に坐す皇神等の前に白さく︑吉野・宇陀・都祁・葛木と御名は白して︑辞竟へ奉らば︑皇神等の寄さし奉らむ奥つ御年を︑八束穂のいかし穂に寄さし奉らば︵以下省略︶︒
という部分である︒大和国を代表する四つの水分神社の存在に注意を向けているのだ︒吉野水分神社︵後述︶・宇陀水分神社︵宇 塩の八百会に坐す速開津姫と云ふ神︑持ちかか呑みてむ﹂とあ
り︑祓われた罪を勢いよく飲み込む神とされている︒﹁秋﹂が
﹁開﹂の意である可能性もある︒﹁津﹂は格助詞ツではなく︑﹁津嶋﹂と同じく港の意とするのがよい︒河口の男女神を褒め称え
た名だろう︒河海に持ち別けて 速秋津日子神・速秋津日売神がそれぞれ分担して︑ということ︒そうして生んだ神が︑沫那芸神・沫那美神︑頬那芸神・頬那美神・天之水分神・国之水分神・天之久比奢母智神・国之久比奢母智神の六神である︒沫那芸神・沫那美神 水面に立つ泡の神だが︑宣長はナギ・
ナミを凪・波の意とする︵記伝︶︒この説に従って︑沫那芸神は
﹁水の沫が平静の意︒即ち水面がないでいる意﹂︵大系︶ともされ
る︒しかし︑凪・波が対になる例は確認できず納得しがたい︒
イザナミ・イザナキの例からすると︑アワ・ナ・ギ︑アワ・ナ・
ミで︑男女の対と見るべきだろう︒頬那芸神・頬那美神 古代においてツラとは︑﹁ほお︒ある
いは顔全体をさすこともあったか﹂︵時代別︶とされる︒したがっ
て︑水面の意︒これについても︑凪・波とする説があるが︑水面の男女神と見た方がよい︒天之水分神・国之水分神 クマルは︑﹁くばる︒分配する﹂︵時代別︶の意︒ミクマリは﹁山から流れ出る水の分かれるところ︒農業のためには水の供給の絶えぬことが必要で︑分水点にはそ れを守る神が祭られたらしいことが用例からうかがわれる﹂︵時代別︶︒天之久比奢母智神・国之久比奢母智神 ﹁ヒサゴで水を汲ん
吉野水分神社の本殿は青根ケ峰︵標高八五八メートル︶を拝む形で
はない︒青根ケ峰は神社の東南方向だが︑本殿に向かうと︑私
たちは九十度右︑南西を向くことになる︒社伝によれば︑文禄三年︵一五九四︶︑豊臣秀吉が吉野山に花見に訪れた折︑当社に祈願したところ︑秀頼を授かったと言う︒
そのお礼として社殿を再建することにしたが︑秀吉の死後︑そ
の遺志を継いだ秀頼が︑慶長九年︵一六〇四︶に完成したのが現在の本殿︵国指定重要文化財︶であると伝えられる︒つまり︑秀吉
の頃にはすでに現在地に鎮座していたが︑その本殿は水分神社本来の信仰とは別の理由で建設されたものだったのだ︒正面の鳥居と楼門をくぐる時は︑確かに青根ケ峰の方向を向いている
ので︑新たに本殿を建設した際︑方向が変わってしまったので
あろう︒その時期は不明だが︑ミクマリはミコモリ︵み子守り︶と訛り︑
﹁子守さん﹂﹁子守明神﹂と呼ばれて︑子宝の神・子授けの神と
なった︒命を育む水の神が︑命を生み出す神に変わったのだ︒本居宣長も明和九年︵一七七二︶︑吉野への旅の記録﹃菅笠日記﹄
に︑父が子守の神とされていた当社に男児を授かるようにと祈願した結果︑自分が生まれたのだと記している︒現在の鎮座地は子守という地名であり︑分水嶺を示すもので
はない︒鎮座地が変わったことでも︑分水嶺の神というイメー
ジが薄らいでいたのであろうが︑ミクマリ・ミコモリという音の連想もあって︑水分神は新たな神へと生まれ変わったのである︒ 陀市菟田野町古市場︶・都祁水分神社︵奈良市都祁友田町︶・葛木水分神社︵御所市関屋︶である︒そして︑水分神は﹁分水嶺︵水源︶に祀られてゐた﹂︵全註釈︶︑﹁多く分水嶺や山の口に祀られていた﹂
︵注釈︶などと説明される︒
ところが︑その四社を訪ねてみると︑右の説明は︑にわかに納得し難いものとなる︒葛木水分神社を除き︑分水嶺でも水源
でもない所に鎮座しているからである︒水分神が分水嶺・水源
の神であるならば︑神社の立地と神が実際に宿っている場所は別である︑ということになろう︒
たとえば吉野水分神社だが︑それは奈良県吉野郡吉野町吉野山子守に鎮座する︒吉野山は古来桜の名所として知られ︑世界遺産﹁紀伊山地の霊場と参詣道﹂の一部ともなっているが︑吉野水分神社もその登録資産の一つである︒現在は︑標高六〇○
メートルほどの小さな集落の中に鎮座し︑その主祭神は天之水分大神であるとされる︒
しかし︑もとは﹁吉野山の山頂青根ケ峰に﹁吉野水分峯神﹂
として祀られ崇められ﹂︵﹃奈良県の地名︿日本歴史地名大系﹀﹄平凡社・一九八一︶ていたのだと言う︒﹃続日本紀﹄の文武天皇二年
︵六九八︶四月条に﹁馬を芳野水分峯神に奉る︒雨を祈へれば
なり﹂とする記事も見える︒雨乞いのために黒い馬を寄進した
のであろうが︑かつては確かに水を掌る神だったのだ︒
ところが︑三輪山をご神体とする大神神社︵奈良県桜井市三輪・大和国一宮︶の拝殿は︑紛れもなく山に向かって拝礼する形だが︑
は久々能智神を生んだ︒次に︑山の神︑名は大山津見神を生ん
だ︒次に︑野の神︑名は鹿屋野比売神を生んだ︒またの名は野椎神と言う︒この大山津見神・野椎神の二神が︑山と野を拠点
として分担して︑生んだ神の名は天之狭土神︒次に︑国之狭土神︒次に︑天之狭霧神︒次に︑国之狭霧神︒次に︑天之闇戸神︒次に︑国之闇戸神︒次に︑大戸或子神︒次に︑大戸或女神︒
︻語注︼志那都比古神 息長の意とする説︵記伝・大系︶もあったが︑
シナの原義については不明︒風の吹き起こる所を﹁しなと﹂と言う︵時代別・注釈︶と見れば︑シナで風が吹くことを意味する ︻本文︼次生風神名志那都比古神此神名以音次生木神名久々能智神此神名以音次生山神名大山上津見神次生野神名鹿屋野比売神亦名謂野椎神自志那都比古神至野椎并四神此大山津見神野椎神二神因山野持別而生神名天之狭土神訓土云豆知下効此次国之狭土神次天之狭霧神次国之狭霧神次天之闇戸神次国之闇戸神次大戸或子神訓或云麻刀比下效此 次大戸或女神自天之狹土神至大戸或女神并八神也︻校異︼特に問題となるべき異同はない︒
︻口訳︼次に︑風の神︑名は志那都比古神を生んだ︒次に︑木の神︑名
次生風神 次 つぎに、
風
かぜの 神
かみ、 名
なは 志
し那
な都
つ比
ひ古
この神
かみ〈 此
この 神
かみの 名
なは 音
おんを 以
もちゐよ〉 を 生
うみき。 次
つぎに、 木
きの 神
かみ、 名
なは 久
く々
く能
の智
ちの神
かみ〈 此
この 神
かみの 名
なは 音
おんを 以
もちゐ よ 〉 を 生
うみ き。 次
つぎに、 山
やまの 神
かみ、 名
なは 大
おほ山
やま上津
つ見
みの神
かみを 生
うみ き。 次
つぎに、 野
のの 神
かみ、 名
なは 鹿
か屋
や野
の比
ひ売
めの神
かみを 生
うみ き。 亦
またの 名
なは、 野
の椎
つちの神
かみと 謂
いふ 〈 志
し那
な都
つ比
ひ古
この神
かみよ り 野
の椎
つちに 至
いたる ま で は、 并
あはせ て 四
よはしらの神
かみぞ 〉 。 此
この 大
おほ山
やま津
つ見
みの神
かみ・ 野
の椎
つちの神
かみの 二
ふたはしらの神
かみの 山
やま・ 野
のに 因
よりて 持
もち 別
わけて、 生
うみし 神
かみの 名
なは、 天
あめ之
の狭
さ土
づちの神
かみ〈土を 訓
よみて 豆
づ知
ちと 云
いふ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ 〉 。 次
つぎに、 国
くに之
の狭
さ土
づちの神
かみ。 次
つぎに、 天
あめ之
の狭
さ霧
ぎりの神
かみ。 次
つぎに、 国
くに之
の狭
さ霧
ぎりの神
かみ。 次
つぎに、 天
あめ之
の闇
くら戸
との神
かみ。 次
つぎに、 国
くに之
の闇
くら戸
との神
かみ。 次
つぎに、 大
おほ戸
と或
まとひ子
この神
かみ〈或を 訓
よみて 麻
ま刀
と比
ひと 云
いふ。 下
しも、 此
これに 效
ならへ〉 。 次
つぎに、 大
おほ戸
と或
まとひ女
めの神
かみ〈 天
あめ之
の狭
さ土
づちの神
かみより 大
おほ戸
と或
まとひ女
めの神
かみに 至
いたるまでは、 并
あはせて 八
やはしらの神
かみぞ〉 。
す﹂︵全訳注︶︒大山津見神 オホは美称︒山の神である︒﹁それは樹木を供給するものとしての︑また水源地としての︑つまり農に不可欠
な水を供給するものとしての山の神信仰なのである﹂︵注釈︶と
する︒祈年祭の祝詞などが︑その根拠である︒
すでに大綿津見が生まれているが︑天孫降臨の部分で︑天孫
は大山津見の娘と結婚し︑さらに綿津見の娘とも結婚すること
で︑葦原中国の支配者となって行く︒以下︑風の神︑木の神︑山の神︑野の神と︑自然神が続く︒
この神が野椎神と﹁山野に因りて持ち別けて︑生める神﹂と
して︑天之狭土神︑国之狭土神︵この二柱の神は︑土地の神か︶︑天之狭霧神︑国之狭霧神︵この二柱の神は︑霧の神か︶︑天之闇戸神︑国之闇戸神︵以上︑渓谷を司る神か︶︑大戸或子神︑大戸或女神︵以上︑名義未詳︶がある︒
なお︑瀬戸内海の大三島に大山祇神社︵愛媛県今治市大三島町宮浦︶が鎮座している︒伊予国一ノ宮︒大山積神を祭神とし︑全国の山祇神社︑三島神社の総社である︒鹿屋野比売神 カヤは屋根を葺く草を言うが︑それが生育す
る野の女神ということであろう︒茅葺屋根の竪穴式住居の存在
が︑神話に反映したものと見るべきか︒この神の﹁亦の名﹂は
﹁野椎﹂とされているが︑カに﹁鹿﹂という字を当てたのは︑﹁野﹂
の神だからか︒野椎神 鹿屋野比売神の﹁亦の名﹂だが︑チは﹁神秘的な力・呪術的な力をあらわす︒多く霊力をもつ神や物につけられる接尾辞として用いられる﹂︵時代別︶︒ツは体言と体言を結合し︑ ことになる︒トはクナド・フナド・クミドなどの例があり︑場所のこと︒また︑シが風の古語で︑アラシとツムジのシである
とする説︵中村修也﹃日本神話を語ろう イザナキ・イザナミの物語﹄吉川弘文館・二〇一一︶もあり︑シを風とする見方は有力︒しかし︑
ナには長とする説︵全註釈︶︑ナは連体格とする説︵注釈︶︑穴と
する説︵新版︶などがある︒シ︵風︶・ナ︵連体格︶・ト︵場所︶と見
るのが適当か︒奈良県生駒郡三郷町立野南に鎮座する龍田大社の祭神であ
る︒﹃延喜式﹄神名帳の﹁平群郡廿座﹂の筆頭に﹁龍田坐天御柱国御柱神社﹂と見える︒現在も主祭神は天御柱大神・国御柱大神とされ︑﹁別名﹂として志那都比古神・志那都比売神とされる︒南北に連なる生駒山地と︑二上山以南の金剛山地の切れ目から大和川が流れ出しているが︑そこは風の通り道でもあった︒龍田大社は︑北西の季節風が奈良盆地に吹き込んで来るところに鎮座している︒まさに風の吹き起こる場所という名にふさわし
い︒因みに︑この神は伊勢神宮内宮の風日祈宮︑外宮の風宮にも祀られている︒また﹃万葉集﹄には︑吾が行きは 七日は過ぎじ 龍田彦 ゆめこの花を 風に散らすな︵巻九・一七四八︶
とうたわれている︒﹁龍田彦﹂が風の神であることは間違いな
い︒それは龍田大社に祀られる志那都比古の別名か︒久久能智神 ククは﹁茎の交替形﹂︵時代別・大系・新版︶︑キキ
︵木木︶の古形とする説︵注釈・記學︶に分かれる︒チはイノチ︑
イカヅチのチ︵霊︶であろう︒﹁ククは茎の意︒チは霊威を表わ
︻補説︼
﹃古事記﹄神生み段の特徴として挙げられるのは︑﹃日本書紀﹄
に比べて多くの神名が見えることである︒﹃日本書紀﹄で対応
するのは︑﹁次に海を生む︒次に川を生む︒次に山を生む︒次
に木の祖句句廼馳を生む︒次に草の祖草野姫を生む﹂︵第五段・本文︶︑﹁乃ち吹き撥ふ気︑神と化為る︒号を級長戸辺命と曰す︒
⁝⁝是︑風神なり︒又飢しかりし時に生めりし児を︑倉稲魂命
と号す︒又︑生めりし海神等を︑少童命と号す︒山神等を山祇と号す︒水門神等を速秋津日命と号す︒木神等を句句廼馳と号す︒土神を埴安神と号す﹂︵第五段・一書第六︶の二箇所となる︒対する﹃古事記﹄では︑海・川については︑水面の状態︑水
の流れが︑山・野についても︑土壌から山野の暗さに至るまで
が神格化されている︒さらに︑﹃日本書紀﹄には見えない石土毗古神から風木津別之忍男神までの神々も特徴的だが︑このま
とまりは建造物に関わる神名と考えてよいと思われる︒すなわ
ち︑自然の細部から生活空間に至るまで神格化されているとい
うことである︒このように神名によって詳細に描き出すことが求められた理由はよくわからないが︑王権によって統治される世界が神聖なるものとして表されていることは確かだろう︒
︻余滴︼古代の地形を教えてくれる神 ﹃古事記﹄は︑さまざまな神
が誕生したことを伝えているが︑その中には﹃延喜式﹄の神名帳に載る神社に祀られている神もいる︒一例を挙げれば︑
﹁水戸の神﹂とされる速秋津日子神・速秋津日売神という男女神である︒その名義については諸説あるが︑ハヤは勢いのある 連体修飾の関係を示す︒したがって︑野のエネルギーとしての茅を言うのであろう︒大山津見神と結婚し︑土の神が生まれる
ことになる︵全訳注︶︒﹁生みたまへる﹂の主語が曖昧で︑議論が分かれて来たのだが︑キ・ミ二神であるとする説が有力である
︵記伝・集成︶︒天之狭土神・国之狭土神 直前に﹁天之水分神・国之水分神﹂
が見えるが︑﹁天之﹂と﹁国之﹂は一対の関係である︒サはサヲ
トメなど︑神聖なものに付す接頭語︒天上界と地上の神聖な土
の神の意であろう︒天之狭霧神・国之狭霧神 このサも︑神聖なものに付す接頭語であろう︒﹁天之狭霧神﹂は天上界の神聖な霧の神の意︒霧
は神々の世界からもたらされるもの︑ということであろう︒因
みに︑宣長は﹁坂の限り﹂の意とするが︑従えない︒天之闇戸神・国之闇戸神 ﹁クラトは暗い所の意で︑谷間の神をいう﹂︵記伝・全訳注︶とされるが︑﹁天之﹂をどう理解するの
か︒それは︑地上の神ではない︑ということではないか︒﹁暗
さの神格化である﹂︵よむ︶とする説もあるが︑その方が納得し
やすい︒大戸或子神・大戸或女神 オホトマトヒコ・オホトマトヒメ
と訓む︒名義未詳︒﹁土より霧の発︑その霧によりて闇く︑闇
きによりて惑ふ﹂という意︵記伝︶︒一対の男女神であろう︒﹁山
の神と野の神が生んだ諸神の系列は︑地上に霧がかかり暗い峡谷に乱気流発生の神格化であろう﹂︵新版︶︒﹁野に霧がかかって迷うことを表現する﹂︵記學︶︒
濫したのであろう︒東大阪市の西隣は大阪市だが︑その中心部に上町台地と呼ば
れる南北一二キロほどの細長い台地がある︒標高は二〜三〇
メートル程度︒その北端に︑奈良時代には副都としての機能を果たした難波宮︵大阪市中央区法円坂一丁目︶が置かれた︒後に︑大阪城︵大阪市中央区大阪城︶もその台地の北端に築かれたが︑難波宮の東側は︑奈良県との境に聳える生駒山のすぐ下まで水面
が広がっていた︒﹃万葉集﹄では﹁草香江﹂︵巻四・五七五︶と言わ
れるが︑古代河内湖とも呼ばれる入海である︒ さま︑アキは﹁開﹂か﹁飽き﹂︵豊穣な様子︶か︒ツは港の意︒い
ずれにせよ︑それは港の男女神を称えた名称であろう︒
﹃延喜式﹄神名帳には︑河内国の﹁若江郡廿二座﹂の中に﹁彌刀神社﹂という名が見える︒それは︑大阪市の東側に隣接する東大阪市の近江堂一丁目に鎮座する彌刀神社に比定されている
︵棚橋利光﹁彌刀神社﹂式内社研究会編﹃式内社調査報告 第四巻﹄皇學館大學出版部・一九七九︶︒細い路地が複雑に入り組んだ住宅密集地の中の神社である︒ミトは水戸であり︑水門︵河口︶のことだが︑周辺には河口も港もない︒しかし︑この神社の祭神が︑速秋津日子神・速秋津日売神である︒
すぐ近くを走る近鉄大阪線に弥刀という駅もあるが︑その一
つ大阪市内寄り︵上本町方面︶の駅は長瀬と言う︒﹃続日本紀﹄天平宝字六年︵七六二︶六月条に︑﹁河内国長瀬の隄決す﹂という
ことで歴史に残る地名である︒長瀬駅からほど近い小若江遺跡
︵東大阪市小若江二丁目︶には︑古墳時代から人が住んでいたこと
が確認されているが︑梅雨末期の豪雨で集落を守る堤が決壊し
たのであろう︒彌刀神社の社伝によると︑この時︑社殿もこと
ごとく流出したのだと言う︒
この﹁長瀬﹂とは︑大和川︵奈良盆地を流れるすべての川の水を北葛城郡河合町あたりで集め︑西に下って大阪平野に流れ出す︶下流の分流の一つ長瀬川のこと︵青木和夫ほか﹃続日本紀三︿新日本古典文学大系﹀﹄岩波書店・一九九二︶︒現在は︑近鉄長瀬駅前を流れる小さな川である︒暗渠になっているので見過ごしてしまうかも知れな
いが︑昭和の時代にも︑その一帯が水に浸かったということを︑土地の老人から聞いたことがある︒台風などの際︑長瀬川が氾 日下雅義﹃古代景観の復原﹄中央公論社・一九九一
今︑彌刀神社の周辺を歩いてみても︑かつてそこに入海に面
した港があったとは︑とうてい想像できない︒奈良時代から速秋津日子神・速秋津日売神が祭神であったか否かは不明だが︑彌刀神社自体は奈良時代からずっと同じ場所に鎮座していたと見られている︒そして︑かつてそこがどのような土地だったの
かということを︑無言のうちに教えてくれているのだ︒昨今は︑予想される東南海地震に備えて︑ハザードマップも作られているが︑大地震の際︑埋立地が液状化することを︑私
たちは何度も見ている︒そうした災害対策の上でも︑式内社は重要なヒントを与えてくれるように思われる︒ 奈良時代の長瀬川は︑その入海に流れ込んでいた︒ところが︑
その一帯はたびたび水害に見舞われた︒そこで︑元禄十七年
︵一七〇四︶︑洪水対策のため︑幕府が主導する形で︑大和川の付け替え工事が行なわれた︒享和元年︵一八〇一︶刊の﹃河内名所図会﹄︵四︶にも︑﹁新大和川﹂としてその工事のことが紹介さ
れているが︑石川との合流地点︵大阪府柏原市︶からほぼ西に向
かい︑大阪市の南側︑堺市と接する地点で大阪湾に流れ出るよ
うにしたのである︒水害の危険が減少したこともあって︑河内国のほぼ全域で新田開発も行なわれたが︑近代化の過程で︑そ
の新田は埋め立てられ︑やがて住宅密集地となって行った︒弥刀も長瀬も︑すっかり海から遠くなってしまったのだ︒
遂神避坐也 次 つぎに、 生
うみし 神
かみの 名
なは、 鳥
とり之
の石
いは楠
くす船
ふねの神
かみ、 亦
またの 名
なは、 天
あめの鳥
とり船
ふねと 謂
いふ。 次
つぎに、 大
おほ宜
げ都
つ比
ひ売
めの
神
かみ〈 此
この 神
かみの 名
なは 音
おんを 以
もちゐよ〉 を 生
うみき。 次
つぎに、 火
ひ之
の夜
や芸
ぎ速
はや男
をの神
かみ〈夜芸の二字は 音
おんを 以
もちゐよ〉 を 生
うみき。 亦
またの 名
なは、 火
ひ之
の炫
かが毗
び古
この神
かみと 謂
いひ、 亦
またの 名
なは、 火
ひ之
の迦
か具
ぐ土
つちの神
かみ〈迦具の二字は 音
おんを 以
もちゐ よ 〉 と 謂
いふ。 此
この 子
こを 生
うみ し に 因
より て、 み ほ と 〈 此
この 三 字 は 音
おんを 以
もちゐ よ 〉 を 炙
やか え て 病
やみ 臥
ふして在り。たぐりに 〈 此
この四字は 音
おんを 以
もちゐよ〉 成
なりし 神
かみの 名
なは、 金
かな山
やま毗
び古
この神
かみ。 次
つぎに、 金
かな山
やま毗
び売
めの神
かみ。 次
つぎに、 屎
くそに 成
なり し 神
かみの 名
なは、 波
は邇
に夜
や湏
す毗
び古
この神
かみ〈 此
この 神
かみの 名
なは 音
おんを 以
もちゐ よ 〉 。 次
つぎに、 波
は邇
に夜
や湏
す毗
び売
めの神
かみ〈 此
この 神
かみの 名
なは 音
おんを 以
もちゐ よ 〉 。 次
つぎに、 尿
ゆまりに 成
なり し 神
かみの 名
なは、 弥
み都
つ波
は能
の売
めの神
かみ。
然性がある︵青木周平﹁﹁神生み﹂段の表現﹂﹃古事記研究︱歌と神話の文学的表現︱﹄おうふう・初出一九九一︶︒②については︑真福寺本では﹁嶋壱拾肆又嶋 33神参拾伍神﹂︑兼永筆本では﹁嶋壱拾肆嶋 3神参拾伍神﹂とある︒真福寺本の形
を採る説︵思想・記學︶︑兼永筆本に従う説︵新校︶もあるが︑真福寺本﹁又嶋﹂を﹁嶋又﹂の転倒として︑﹁嶋⁝⁝嶋又神⁝⁝神﹂
の構文で採るのが一般的である︒
︻口訳︼次に︑生んだ神の名は︑鳥之石楠船神︒またの名は天鳥船と言
う︒次に︑大宜都比売神を生んだ︒次に︑火之夜芸速男神を生
んだ︒またの名を火之炫毗古神と言う︒またの名を火之迦具土神と言う︒この子を生んだことによって︑美蕃登を焼かれて病
に臥せた︒嘔吐によって生まれた神の名は金山毗古神︒次に︑金山毗売神︒次に︑屎に成った神の名は波邇夜湏毗古神︒次に︑波迩夜湏毗売神︒次に︑尿に成った神の名は弥都波能売神︒次 ︻本文︼次生神名鳥之石楠船神亦名謂天鳥船次生大宜都比売神此神名以音次生火之夜芸速男神夜芸二字以音也亦名謂火之炫毗古神亦名謂火之迦具土神 迦具二字以音因生此子美蕃登此三字以音見炙而病臥在多具理邇此四字以音 ①成神名金山毗古神訓金云加那下効此次金山毗売神次於屎成神名波邇夜湏毗古神此神名以音次波迩夜湏毗売神此神名亦音次於尿成神名弥都波能売神次和久産巣日神此神之子謂豊宇気毗売神自宇以下四字以音故伊耶那美神者因生火神遂神避坐也自天鳥船至豊宇気毗売神并八神也凡伊耶那岐伊耶那美二神共所生②嶋壱拾肆嶋又神参拾伍神是伊耶那美神未神避以前所生唯意能碁呂嶋者非所生亦蛭子与淡嶋不入子之例也︻校異︼①﹁成﹂について︑諸写本では﹁生﹂とするが︑田中頼庸﹃校訂古事記﹄が︑﹁以波邇夜湏毗古神以下例考之︒当作成︒今正之︒﹂
としたことを受けて︑﹁成﹂に改める注釈書は多い︒また︑﹃日本書紀﹄︵第五段一書第四︶の対応箇所に﹁因為吐︒此化為神︒名曰金山彦﹂とあることを重視すれば︑﹁成﹂に改めることは︑蓋
次
つぎに、 和
わ久
く産
む巣
す日
ひの神
かみ。 此
この 神
かみの 子
こは、 豊
とよ宇
う気
け毗
び売
めの神
かみと 謂
いふ。 故
かれ、 伊
い耶
ざ那
な美
みの神
かみは、 火
ひの 神
かみを 生
うみ し に 因
より て、 遂
つひに 神
かむ避
さり 坐
まし き 〈 天
あめの鳥
とり船
ふねよ り 豊
とよ宇
う気
け毗
び売
めの神
かみに 至
いたる ま で は、 并
あはせ て 八
やはしらの神
かみぞ〉 。 凡
おほよそ 伊
い耶
ざ那
な岐
き・ 伊
い耶
ざ那
な美
みの 二
ふたはしらの神
かみの 共
ともに 生
うみ し 嶋
しまは、 壱
とをあまりよつの拾 肆 嶋
しまぞ。 又
また、 神
かみは、 参
みそあまりいつはしらの拾 伍 神
かみぞ。 〈 是
これは、 伊
い耶
ざ那
な美
みの神
かみの、 未
いまだ 神
かむ避
さら ぬ 以
さき前 に 生
うめ り。 唯
ただに、 意
お能
の碁
ご呂
ろ嶋
しまの み は 生
うめるに 非
あらず。 亦
また、 蛭
ひる子
こと 淡
あは嶋
しまとは、 子
この 例
つらに 入
いれず〉 。
穀の種を生んだ神として登場する︒火之夜芸速男神 ﹁焼くことの速やかな意で︑火の威力を表 わした名﹂︵大系︶︒﹁火の焼く威力を神格化したもの﹂︵全訳注︶︒以下︑火の三兄弟のように見える︒火之炫毗古神 火之夜芸速男神の﹁亦の名﹂︒﹁火の輝く威力
を神格化したもの﹂︵全訳注︶︒ビコという男神とチという霊格
は︑別系統の神ではないか︒火之迦具土神 火之炫毗古神の﹁亦の名﹂︒カグは輝く様子︒
カグヤヒメ・カギロヒなどと同根︒チは︑イカヅチ・ヲロチ・
イノチなどに見られるように︑生命力や霊力を表わす︒﹁血﹂
﹁乳﹂﹁茅﹂も同根の語とされる︵土橋寛﹁霊魂︱その形と言葉︱﹂﹃古代日本の呪祷と説話﹄塙書房・一九八九︶︒すると︑夜芸速男・炫毗古の神名が火の形象を言うのに対し︑こちらは火そのものの霊力を意味することになろう︒美蕃登 女陰を言う︒男性器の場合は︑マラ・ハゼ︵注解︶︒
ミは︑言うまでもなく美称︒ホトは︑ホ︵穂︶・ト︵処︶の意か︒安寧記に﹁御陵は畝火山のみほとに在し﹂と見える︒﹁畝火山の南のくぼみにある︒懿徳紀には畝傍山南御陰井上陵とある﹂︵新版︶︒
つとに︑この火神生誕の神話は︑火鑚臼と火鑚杵を用いて火
を起こす古代の発火法を背景として語られたものとする説︵高木敏雄﹃比較神話学﹄博文館・一九〇四︶がある︒﹁この場合︑火鑚杵
は男根︑火鑚臼の穴は女陰に見たてられていることになる﹂︵全訳注︶︒金山毗古神・金山毗売神 鉱山の男女神である︒﹁たぐりに に︑和久産巣日神︒この神の子は豊宇気毗売神と言う︒そこで伊耶那美神は火神を生んだことによって︑遂に神避りなさっ
た︒伊耶那岐・伊耶那美の二神がともに生んだ嶋は十四嶋︒神
は三十五神である︒
︻語注︼鳥之石楠船神・天鳥船 ここからが︑三つ目のまとまりであ
る︒﹁神が天がけるときに乗る楠の船を神格化したもの﹂︵全訳注︶︒﹁船の神格化︒鳥の速さ︑岩石の堅固さ︑良質の船材の楠
で象徴している﹂︵新版︶︒別名の﹁天鳥船﹂は︑﹁鳥のように天
がける船の意﹂︵全訳注︶とする説明があるが︑﹁鳥船﹂と言う以上︑鳥の形をした船︑あるいは鳥そのものが船であって︑魂の乗り物であろう︒﹁天の﹂は︑その属性を表わし︑それが神々
の世界︱高天原に属するものであることを意味する︒奈良県天理市の東殿塚古墳から出土した円筒埴輪の線刻画に︑前部に鳥
の描かれた船画が見られる︒こうした船画は︑他界へ赴く船で
あり︑舟葬の痕跡だと考えられる︒大阪・奈良を中心に︑全国各地で出土していると言う︵辰巳和弘﹃他界へ翔る船 ﹁黄泉の国﹂の考古学﹄新泉社・二〇一一︶︒この﹁天鳥船﹂も︑そうした舟葬の残影であろうと思われる︒大宜都比売神 ﹁穀物や食物を掌る女神﹂︵全訳注︶︒ここから後は生産に関わる神の誕生である︒この神はすでに︑﹁大八嶋国生成﹂の段で︑粟国の国魂として誕生している︵﹁教室でよむ古事記神話︵三︶︱︱還降改言から還坐之時六嶋まで︱︱﹂﹃語文﹄一六四輯︶︒生産に関わる神として誕生しているが︑同名の別の神と見るべ
きだろう︒﹁五穀の起源﹂の段でも現れるが︑そこでは蚕と五