陽﹂に対する認識が関わっている可能性のあることを指摘し
た︒
はじめに
元禄五年︵一六九二︶刊行の﹃伽藍開基記﹄︵以下﹃開基記﹄︶
という作品がある︒稿者は︑全文の翻刻を収録した﹃近世寺社伝資料﹄︵和泉書院 平成
絶と継承について考察するものである︒ 浮かび上がってきた一つの疑問を端緒に︑説話伝承における断 査︑寺院の所在地の検証に携わった︒本稿は︑その過程の中で
29
︶で︑同作品の解題︑関連資料の調一︑問題の所在
﹃開基記﹄全十巻は︑寺院の開基に関する話を集成した作品
である︒巻第一〜巻第六が禅宗を除く諸宗の寺院︑巻第七が四国八十八札所︑巻第八〜巻第十が禅宗寺院という構成である︒
これら︵巻第一を除く︶はさらに国で分けられている︒そのう キーワード相応寺・山崎・河陽・元亨釈書・虎関師錬
要 旨
相応寺は︑清和天皇の時代︵九世紀︶に壱演という僧侶によっ
て創建された︒現在は廃絶しているが︑創建の地は山城の山崎
︵現在の京都府乙訓郡大山崎町︶である︒壱演の伝記資料には︑相応寺の創建説話が組み込まれていることが多い︒そのうちの古い資料では︑創建の地を﹁河陽﹂と記す︒この﹁河陽﹂は山崎
の別称である︒ところが︑近世における壱演の伝記資料には︑創建の地を﹁河内﹂と記すものが見受けられる︒この事象が何
に起因するのか︑複数の壱演の伝記資料の比較と︑古代・中世・近世︑特に中世における﹁河陽﹂の用例分析とによって検討し
てみた︒その結果︑相応寺創建の地を﹁河内﹂と記す源泉は﹃元亨釈書﹄︵一三二二年成立︶であること︑また︑﹃元亨釈書﹄に
おいて﹁河陽﹂が﹁河内﹂に変わったのは︑編者・虎関師錬の﹁河
山 崎 淳 相応寺創建説話 における ﹁ 河陽 ﹂ と ﹃ 元亨釈書 ﹄
貞観七年太師藤ノ良房寝ヌレ疾ニ︒百方不レ治セ︑屈シテレ演ヲ加持セシム︒所レ患ユル立ロニ差ユ︒上大ニ悦テ擢テヽ為二僧正ト一︒抗テレ表ヲ辞スレ之︒不レ許サ︒九年七月十二日乗シテ二小舟ニ一浮テレ水ニ奄然シテ遷化ス︒年シ七十五︒諡ス二慈済ト一︒全体としては開基僧・壱演︵八〇
三〜八六七︶の伝記である︒ 1
5
〜 嫗から宅を譲られた︒壱演が土地を均すと︑地中から古く朽ち12
行目︻︼内が相応寺創建説話となる︒壱演が一人の老た仏像が現れた︒その話が帝に伝わり︑寺が建立された︒壱演
が壇を築き仏像を安置すると︑黒土の壇が白に変じた︒大まか
な内容は以上のようになる︒
これを見る限り︑壱演が宅地を譲られたのは︑たまたま立ち寄った﹁河内﹂である︒﹃開基記﹄の中では︑相応寺はあくまで
も﹁河内﹂の寺院なのである︒
もちろん︑︻注︼や﹁一覧﹂で﹁京都﹂とするのは︑﹁現在では
どの地域か﹂を前提としたためである︒現在の都道府県と前近代の国の領域とが完全に一致しないのは珍しいことではない︒有名な称名寺︵現神奈川県︶は相模でなく武蔵であった︒相応寺創建の場所も︑︵主に京都府に相当する山城ではなく︶かつ
ては河内だったということも考えられる︒
しかし︑相応寺が河内に建てられたとするのは種々の資料か
ら見て難しい︒相応寺への言及がある際によく取り上げられる
ものではある
2
が︑以下にいくつかを挙げて確認する︒壱演説話である﹃今昔物語集﹄巻第十四
有リ﹂と地名﹁山崎﹂が見える︒﹃土佐日記﹄でも︑帰京前に 剛般若施霊験語﹂では︑﹁山崎ト云フ所ニ︑ト云フ寺相応寺
34
話﹁壱演僧正誦金 覧﹂︵以下﹁一覧﹂︶を掲げる︒巻第二 当該寺院の簡略な情報を記し︑巻末に﹁収録寺社地域別所在一 廃絶︶である︒﹃近世寺社伝資料﹄では︑各話末に︻注︼として 問題となるのは巻第二﹁河内州﹂ブロックの﹁相応寺﹂︵現在 城︑巻第六は諸国︑という割り当てである︒ ち︑巻第二は摂津・河内︑巻第三は大和︑巻第四・巻第五は山28
話﹁相応寺﹂については︑︻注︼で﹁底本に﹁河内州﹂とあるが︑京都府乙訓郡大山崎町に
あった﹂と記し︑﹁一覧﹂では京都の中に組み込んだ上で︑備考欄に﹁河内州﹂と注記する︒河内ブロックで︑なぜかこの寺院の所在地だけが﹁京都﹂で
ある︒まずは﹃開基記﹄の本文を引用して確認してみる︵引用
に際し︑用字は通行の字体に改めた︒ルビ省略︒句読点︑括弧︑傍線︑囲みは稿者︒以下同じ︶︒
開基釈ノ壱演︑姓ハ大中臣氏︑洛城ノ人ナリ︒父備州ノ刺史ナリ也︒演︑少シテ翔ケル二仕途ニ一︒二兄相ヒ継テ而亡ス︒因テ而厭ヒレ世ヲ抛テ二冠纓ヲ一礼ヒシテ二 薬師寺ノ戒明ヲ一薙髪ス︒承和二年受ケ二具足戒ヲ一常ニ持ス二金剛般若ヲ一︒真如闍梨見テ為二法器ト一授ルニ以ス二密教ヲ一︒︻演︑居止不レ定︒或ハ宿シ二市鄽ニ一或ハ住ス二水辺ニ一︒適〳〵至ル二河内ニ一︒一ノ老嫗譲テレ宅ヲ曰ク︑﹁此ノ地商賈ノ之巷ト魚塩ノ之津ナリ︒非ハ二師ノ深悲ニ一誰カ諭サン二 愚頑ヲ一耶︒願クハ居テ二此ノ宇ニ一成セヨ二精藍ト一焉︒﹂演平ク二其趾ヲ一︒土中ニ得タリ二古朽ノ仏像
ヲ一︒支体不レ全カラ︒人伝テ為レ異ナリト︒漸ク達ヌ二天聴ニ一︒勅シテ二将作監ニ一監セシム二 営搆ヲ一︒賜テレ額ヲ曰二相応寺ト一︒演運テ二黒土ヲ一築テ二方丈ノ壇ヲ一安ス二尊像ヲ一︒変スレ白ニ︒恰モ似タリレ塗ニレ粉ヲ︒見ル者ノ奇シムレ之︒︼又皇太后不予ナリ︒延テレ演ヲ持念セシム︒病即チ愈ユ︒
二︑相応寺創建説話の﹁河内﹂
実は︑﹃開基記﹄の河内ブロックに相応寺がある理由はすぐ
に見出せる︒﹃開基記﹄は﹃元亨釈書﹄︵以下﹃釈書﹄︶を多く典拠とし︑しかも同文的利用が目立つ︵﹃近世寺社伝資料﹄解題︶︒相応寺もその一つである︒﹃釈書﹄巻第十四﹁相応寺壱演﹂を確認すると︑当該箇所は﹁適〳〵至ル二河内ニ一﹂︵寛永元年﹇一六二四﹈刊本︶となっている︒典拠の﹃釈書﹄がこうであれば︑﹃開基記﹄編者・懐玉道
温︵一六三九〜一七〇七︶が相応寺を河内の寺院 6
と見なしたとしても不思議ではない︒
これを道温の知識不足・確認不足などと決めつけるのは酷だ
ろう︒相応寺は中世に衰退の一途をたどっていたらしく︑近世
には規模が非常に小さくなってい
7
た︒﹃開基記﹄刊行前後では︑
﹃雍州府志﹄巻五・寺院門下・相応寺に﹁在リ二山崎ニ一︒⁝本尊薬師ノ像今在リ二草堂ノ中ニ一﹂とある︒﹃山州名跡志﹄巻之十・乙訓郡・相応寺には﹁今ハ小堂﹂とあり︑﹁当寺初ノ地ハ此レヨリ巽方去 ル事十余町ニアリ︒今ノ地ハ荒廃ニ就テ移ス所也﹂と荒廃によ
り移築されたとも記される︒現地がかかる状況であれば︑﹁山崎﹂はおろか﹁乙訓﹂﹁山城﹂すらない﹃釈書﹄本文から︑相応寺
と山崎を結びつけるのは至難の業ではないだろうか︒地誌には情報の混線とおぼしい記述もある︒前掲﹃雍州府志﹄
の中略部分は﹁相応和尚之開基ニシテ而天台宗也﹂で︑開基僧が他資料と異な
8
る︒﹃京羽二重﹄︵貞享二年﹇一六八五﹈刊︶巻四に
は﹁相応寺 賀茂川西 貞観七年壱演和尚建立﹂とあり︑場所
が山崎とまったく違う︒﹃釈書﹄巻第二十八・寺像志六によれば︑ ﹁山崎の橋見ゆ︒⁝ここに︑相応寺のほとりに︑しばし船を止めて﹂とある︵承平五年﹇九三五﹈二月十一日︶︒承平年間成立﹃和名類聚抄﹄巻第六・山城郷第六十八に﹁乙訓郡 山埼﹂︵高山寺本・平安時代末期以前写︶とあるように︑山崎︵山埼・山碕︶
は山城に属していたと見て問題はないだろう︒山崎は山城・摂津国境に位置し︑摂津側にも山崎は存在す
3
るが︑壱演の活動時期及びそれ以降︑山崎が河内に属したことはないよう
4
だ︒相応寺創建説話及びそれを含む壱演伝は︑文献上︑﹃日本三代実録﹄︵延喜元年﹇九〇一﹈成立︒以下﹃三代実録﹄︶巻第十三・貞観八年︵八六六︶十月二十日条や巻第十四・貞観九年七月十二日条が始発点となる︒特に前者では﹁山城国乙訓郡相応寺﹂と国名が記され︑相応寺の境界を﹁東至二橋道一︒南至二河崖一︒西至二作山一︒北至二大路一﹂とす
5
る︒﹁南境が川岸﹂は寺が川から見て北にあることを示し︑山崎が淀川の北に位置す
ることと相応する︒南北に長い河内の北端にある枚方や交野は確かに山崎の近くだが︑間には淀川がある︒橋や船での行き来
は盛んだったと言えるにしても︑やはり相応寺のあった山崎
は︑創建当時から河内でなかったとするのが妥当である︒前掲﹃開基記﹄が刊行された元禄期前後でも︑﹃京童﹄︵明暦四年﹇一六五八﹈刊︶︑﹃雍州府志﹄︵貞享元年﹇一六八四﹈序︑同三年刊︶︑﹃山州名跡志﹄︵元禄十五年﹇一七〇二﹈序︑正徳元年﹇一七一一﹈刊︶などの地誌を見れば︑山崎が山城として扱われていたことは明白である︒
それでは相応寺が河内の寺院である理由は奈辺にあるのだろ
うか︒
承されていったと考えられる︒
﹃釈書﹄壱演伝の典拠については︑﹃三代実録﹄巻十四・貞観九年七月十二日条が指摘されてい
12
る︒同日条は壱演の卒伝であ
る︒これも相応寺創建説話の部分を挙げる︒
壱演不レ定二居処一︑去留任レ意︒或時寄二寓市肆之中一︑或時居二止流水之涘一︒嘗乗二扁舟一︑信レ波浮蕩︒到二河陽橋辺一︑蹔留二住水次一︵﹁水次﹂は水辺の舎︑屯所︶︒爰有
二一老嫗一︒避二居宅一与二壱演一云︑﹁願建二精舎一︑住二於其中一︒此地︑累代商賈之廛︑逐二魚塩利一之処也︒﹂壱演受二檀越之所レ施地一︒鏟平欲レ立二小堂一︑地中得二上古朽損之仏像一︒形体不レ具︑手足分折︒奏二聞事由於天子一︒有レ詔︑令下二木工寮一搆中造堂舎上︒賜レ額曰二相応寺一︒壱演留レ迹︑坐禅修念︑為下静二識浪一之地上︒壱演聚二黒土
一︑築二方丈壇一︑安二置尊影一︒壇上変レ白︑恰似レ塗レ粉︒観者奇レ之︑莫レ不二欽感
一︒ 13
﹃釈書﹄と比べると所々違いがあり︑ストレートに典拠と認
めるか︑間にワンクッションとなる資料を想定するか︑別資料
も併用したと見るか︑議論の余地はあるだろう︒しかし﹁老嫗
から宅地提供・地中から仏像発見・天聴からの寺建立・壇の黒
から白への変化﹂という大筋は重なっており︑﹃釈書﹄壱演伝の源泉をここに求めることに問題はない︒注目したいのは壱演が訪れた場所である︒﹁河内﹂ではない︒
﹁河陽﹂である︒前掲﹃三代実録﹄貞観八年十月二十日条からこ
の﹁河陽﹂は山城地域︑﹃土佐日記﹄から﹁河陽橋﹂は﹁山崎︵の︶橋﹂と同定できる︒ 壱演︵当該巻﹁一演﹂︶は﹁感応寺﹂を﹁鴨河西岸﹂に建立した︒
そのような情報が﹃京羽二重﹄には混入していると言える︒
このように近世における相応寺の現状
・
情報には危うげな面があり︑道温一人が責めを負う理由はない︒まずは﹃開基記﹄
の典拠たる﹃釈書﹄にこそ目を向けるべきだろう︒周知の如く﹃釈書﹄︵元亨二年﹇一三二二﹈成立︶は︑大覚国師虎関師錬︵以下︑虎関︒一二七八〜一三四六︶によって編ま
れた総合的な日本仏教史である︒詳しくは先行研究に譲るとし
て
古い刊本・写本で確認する ︑ここでは巻第十四・壱演伝の﹁河内﹂の語に焦点を絞る︒ 9
10
と︑壱演が寺院建立の土地を譲ら
れることになったのは﹁河内﹂であり︑本文に異同はない︒特
に虎関生前に書写されたと考えられている東福寺
要である︒相応寺創建説話の部分を当該本で挙げる︒ 本の存在は重 11
演居止不レ定ラ︒或ハ宿シ二市鄽ニ一或ハ住二水辺ニ一︒適〳〵至ル河内ニ一︒一老嫗譲テレ宅曰︑﹁此ノ地商賈之巷魚塩之津ナリ︒非ンハ師ノ深悲ニ一誰カ諭ンヤ二愚頑ヲ邪︒願ハ居テ此ノ宇ニ一成セ二精藍ト一焉︒﹂演平ク二基趾ヲ一︒土中得タリ二古朽ノ仏像ヲ一︒支体不レ全︒人伝テ為レ異︒漸ク達ス二天聴ニ一︒勅二将作監一︒々営搆シテ賜フレ額ヲ︒曰フ二相応寺一︒演運ヒ二黒土ヲ一築テ二方丈ノ壇ヲ一安ス二尊像ヲ一︒壇変スレ白ニ︒恰モ似レ塗ルニレ粉︒見者奇之︒東福寺本は巻第二︑三︑十︑二十二が虎関自筆と認定されてい
る︒壱演伝収録の巻第十四は自筆ではないが︑虎関に近侍した大道一以の筆であり︑﹃釈書﹄成立時に非常に近い伝本である︒虎関の行文を忠実に伝えている可能性はきわめて高い︒﹃釈書﹄本文は当初から﹁河内﹂であり︑それが安定的に後続諸本に継 相応寺
陽則介二山・河・摂三州之間一︑而天下之要津也﹂とある如く︑﹁河陽﹂は山城・河内・摂津の境界であるとの認識が存在した︒
ただ︑①相応寺建立以降︑山崎が河内に属していたことを確認できない︑②山城と摂津は地続きで﹁山崎﹂が双方にまたが
るのに対し︑山城・摂津と河内との間には淀川が横たわってい
る︑③相応寺は寺勢が衰えたとはいえ︑現実にはかろうじて存続していたことが惣追捕使任命︵応長元年﹇一三一一﹈︑永徳二年﹇一三八二﹈︶や寺領︵永徳元年︑康応二年﹇一三九〇﹈︑文正元年﹇一四六六﹈︶に関する文
内﹂とする資料は︑古代・中世では︵あくまでも現時点ではあ 同時期の﹃真言伝﹄では﹁河陽﹂である︑⑤相応寺建立の地を﹁河 書からうかがえる︑④﹃釈書﹄と 18
るが︶﹃釈書﹄以外に見出せな
19
い︑以上の理由から︑相応寺が河内にあったとする認識が中世に存在したという点については︑今少し慎重でありたい︵もちろん︑そのような認識の存在が新
たな資料の出現によって支持される可能性は排除しない︒虎関
が直接参照した資料の探索とともに今後の課題である︶︒
そこで本稿では︑﹃釈書﹄の﹁河内﹂が古代・中世の他作品の
﹁河陽﹂に対し孤立していることを一つの視点として導入し︑
﹁河陽﹂とは何なのか︑虎関の﹁河陽﹂についての認識はどのよ
うなものだったのかを考察していくことにする︒
三︑﹁河陽﹂・﹁河陽橋﹂
﹁河陽﹂は︑平安朝文学研究︑殊に漢文学の分野ではよく知
られている︒ここでは先行研
止める︒ 究を参考にして簡単に記述するに 20 相応寺創建説話を含む壱演伝は︑﹃拾遺往生伝﹄巻上︵
5
話︶や﹃真言伝﹄巻第四︵
6
話︶にも収録されている︒﹃拾遺往生伝﹄は三善為康︵一〇四九〜一一三九︶編の往生伝で︑当該箇所は
﹁自到河陽︑蹔住流下
﹂︑﹃真言伝﹄︵正中二年﹇一三二五﹈成立︶ 14
は栄海編の真言僧の伝記集成で︑当該箇所は﹁或時河陽ノ橋ノ辺ニ留住ス﹂であ
15
る︒﹃拾遺往生伝﹄は﹃三代実録﹄と﹃釈書﹄の間の時期に位置し︑﹃釈書﹄の典拠の可能性も指摘︵壱演伝では
ない︶されてい
16
る︒﹃真言伝﹄は﹃釈書﹄より成立がわずかに遅
れるが︑同時代の作品である︒
これらの作品から見ても︑壱演が訪れたのは﹁河陽﹂が本来
の形であり︑﹁河内﹂はそれが変形したものということになる
だろう︒虎関が参看した資料の中に﹁河内﹂としたものがあっ
たのかもしれないが︑現在確認できる範囲で﹁河内﹂とするの
は﹃釈書﹄が初めてである︒﹃釈書﹄編纂の際に虎関が書き換え
た可能性も考えられる︒壱演については︑近時︑追塩千尋﹁壱演をめぐる伝承につい
て
今後の基礎文献となるものである︒相応寺建立説話と﹃釈書﹄ ﹂が発表された︒同論考は初めての本格的な壱演研究であり︑ 17
についても取り上げており︑﹁河内﹂に関しては︑﹁なお︑相応寺の所在は山城であるが︑場所が河内国と隣接していたため
か︑中世には所在国が河内国と認識されるようになり︑以後も
そうした認識が定着していったようである﹂とする︒確かに場所の近さは看過すべきではない︒また︑しばしば引用される例だが︑﹃本朝文粋﹄巻第九・序乙・詩序二・人倫の﹁見
二遊女一﹂︵大江以言・九五五〜一〇一〇︶に﹁路次二河陽一︒河
以上を踏まえ︑﹃三代実録﹄で壱演が訪れた﹁河陽橋﹂に注目
してみる︒﹁河陽橋﹂は元来﹁山崎橋﹂︵﹃行基年譜﹄天平十三年
﹇七四一﹈条﹁山崎橋在二乙訓郡山崎郷一﹂︶である︒これが︑嵯峨帝﹁河陽十詠﹂に仲雄王が奉和した四首中の一首︵﹃文華秀麗集﹄巻下・雑詠︶において﹁河陽橋﹂として詠まれる︒﹁河陽橋﹂
は嵯峨朝の文事の中で現れた詩的な表現ということになるだろ
う︒この語は後に史書にも現れる︒﹃続日本後紀﹄︵貞観十一年
﹇八六九﹈成立︶嘉祥元年︵八四八︶八月三日条﹁洪水浩々︑人畜流損︒河陽橋断絶︑僅残六間︒宇治橋傾損﹂である︒ただし︑六国史における﹁河陽橋﹂は︑この例と﹃三代実録﹄壱演卒伝の
みである︒他の資料にも﹁山崎︵埼︶橋﹂はあるが︑﹁河陽橋﹂
はほぼ見出せない︒山崎橋はたびたび損壊した︒十一世紀後半には消滅していた
と推測されてい
23
る︒﹁河陽橋﹂の呼称は︑山崎橋が現在し︑か
つ嵯峨朝の山崎での華やかな文事の記憶が色濃く残っていた時期にこそ意味を持っていたのではないだろうか︒その時期には
﹁河陽橋﹂という語が︑現実の﹁山崎橋﹂に重なるものとして十分に機能し得たと考えられる︒山崎は九世紀には集落化の兆候が見え︑同世紀中葉には相当
な規模に達していたこと︑山崎橋の管理を託される﹁有勢人﹂
の階層=富裕
層が形成されていたことが確認されてい 24
25
る︒それ
は﹁河陽橋﹂が史書に登場する時期に重なる︒少なくとも九世紀では︑﹁河陽橋﹂は人と物と富が集まる繁華な山崎を想起さ
せるに足る語だったと見てもよいだろう︒
﹃三代実録﹄では︑寺院建立用の宅地を寄進できる裕福な老 ﹁陽﹂は日の当たる場所を意味し︑特に﹁川の北岸・山の南側﹂
を指すことがある︒淀川の北に位置する山崎の地を平安朝の文人は﹁河陽﹂と呼んだ︒この命名は中国における﹁河陽﹂︑すな
わち黄河北岸の河陽県︵現在の河南省に位置する︶を元とする︒中国の河陽は︑晋代の詩人・潘岳︵安仁︶が河陽県令だった際︑県中に桃を植え花で満たした﹁河陽一県花﹂の故事で有名であ
る︒そして︑山崎では嵯峨帝︵七八六〜八四二︶が河陽離宮︵山崎離宮︶を営み︑しばしば詩宴を催した︒小島憲之を始めとす
る平安朝漢文学研究者によって﹁河陽の文学﹂と称される作品群がこの地で生み出されることになったのである︒﹁河陽﹂は
﹁非現実の文学的世界と実在の現実的世界との交差した
﹂場所 21
だった︒嵯峨朝以降︑﹃菅家文草﹄﹃本朝文粋﹄﹃本朝続文粋﹄﹃本朝無題詩﹄などに収録の詩文にも﹁河陽﹂は登場する︒河陽離宮自体は次第に往事の華やかさを失っていったようだが︑地名とし
ての﹁河陽﹂︑文学空間としての﹁河陽﹂は確かに継承されてい
たと言える︒
もっとも︑藤原明衡編﹃雲州往来﹄︵十一世紀中頃成立か︶中末・第百十七通の﹁明月之夜向河陽︒欲遊予江口辺遊女所如何﹂
や︑三善為康編﹃朝野群載﹄︵永久四年﹇一一一六﹈成立︶巻第三収録﹁遊女記﹂︵大江匡房・一〇四一〜一一一一︶の﹁自二山城国与渡津一︑浮二巨川一西行一日︑謂二之河陽一﹂︑﹁雲客風人︑為レ賞二遊女一︑自二京洛一向二河陽一之時︑愛二江口人一﹂によ
ると︑﹁河陽﹂は山崎限定ではなく︑より広い領域を指すこと
があったよう
22
だ︒
四︑鎌倉時代の﹁河陽﹂
﹁河陽﹂は鎌倉前〜中期の資料にも見える︒﹃釈書﹄成立前の時期なので検討しておく︒藤原定家﹃明月記﹄には﹁河陽﹂がしばしば登場する︒すでに指摘があるように︑この﹁河陽﹂は山崎・水無瀬を指
26
す︒たと
えば﹃明月記﹄建永元年︵一二〇六︶五月二十四日条によれば︑後鳥羽院は二十八日の小五月
殿﹂へ戻る予定︑との情報を定家は大江公景から得ている︒果 会に御幸し二十九日に﹁水無瀬 27
たして後鳥羽院は二十七日に帰京し︑二十九日に﹁河陽﹂へ戻っ
た︒そして︑定家も翌三十日に﹁河陽﹂に参じた︒
これだけでも﹁水無瀬﹂と﹁河陽﹂が重なることは理解できる
が︑同じ事柄を扱った近衛家実﹃猪熊関白記﹄の記事を合わせ
るとそれはより明瞭になる︒ここでは二十九日条﹁院還御水無瀬殿云々﹂を挙げておく︒定家の﹁河陽﹂と家実の﹁水無瀬殿﹂
は︑ほぼ同じものを指している︒定家が﹁河陽に行く﹂ことは︑
﹁水無瀬︵殿︶に行く﹂ことを意味した︒
ところで︑後鳥羽院は正治二年︵一二〇〇︶正月十二日に方違をする︒その場所は九条兼実﹃玉葉﹄では﹁山崎辺内大臣︵源通親︶別業﹂︵別業は別荘︶︑﹃明月記﹄では﹁皆瀬︵水無瀬︶御所﹂
とある︒水無瀬を﹁山崎辺﹂と呼ぶのも可能なわけである︒水無瀬と山崎は
帯として把握されていたと考えてよいだろう︒定家にしても 水無瀬御幸における﹁河陽﹂は︑水無瀬も山崎も含み込んだ一
1
㎞程度の距離で︑さほど遠くない︒後鳥羽院の﹁山崎例宿所﹂︵建仁二年﹇一二〇二﹈七月十六日条︶とあるよう 嫗の存在や︑﹁此地︑累代商賈之廛︑逐二魚塩利一之処也﹂とい
う説明︵先の引用では老嫗の発言としたが︑地の文の可能性も
ある︶に対し︑﹁河陽橋﹂も相応の役割に預かっていたと言える︒
﹁河陽橋﹂と老嫗の存在・土地の説明は説話の中で響き合って
いたのである︒一方︑﹃拾遺往生伝﹄では﹁橋﹂がない︒﹃拾遺往生伝﹄編者は
﹃朝野群載﹄と同じ三善為康である︒彼も﹁河陽﹂の知識は持っ
ていたと推測されるが︑﹁遊女記﹂に照らせば︑﹃拾遺往生伝﹄
の﹁河陽﹂が必ずしも山崎だけを指すとは限らない︒しかも﹁橋﹂
がないことで︑﹃拾遺往生伝﹄の享受においては︑場所が山崎
に直結してこない可能性が高まるとも言える︒
﹃真言伝﹄になると︑編者・栄海が﹁河陽﹂﹁河陽橋﹂をどのよ
うに認識していたか︑他に材料がなく推測することは難しい︒
しかしながら︑老嫗が壱演に寺院建立を要請する際︑他作品に見える﹁自宅を譲る﹂に相当する部分がない点は注意したい︒
﹃三代実録﹄なら︑この老嫗は﹁河陽橋﹂を有する山崎の豊かさ
を背景に登場してきたと捉えることができる︒それに対し︑﹃真言伝﹄の形では寺院建立を煽っているだけにも見える︒
﹃三代実録﹄に比して﹃拾遺往生伝﹄﹃真言伝﹄では︑﹁河陽﹂
や﹁河陽橋﹂という語が説話の内容に十分に奉仕しているとは言い難いのではないだろうか︒このような状態を︑成立時期と
は異なる意味で︑﹁河陽﹂がない﹃釈書﹄の前段階と見ることも可能だろう︒
ない例が存在する︒藤原兼仲﹃勘仲記﹄弘安二年︵一二七九︶三月十七日条︵方違に関する記事︶には︑
今日殿下︵鷹司兼平︶為御方違御出摂州難波江館︑是浄土寺僧正御房御管領橘御薗内也︑河陽尼崎近辺云々︑
とある︒つまり︑﹁摂州﹂の﹁難波江館﹂は﹁橘御薗﹂の中にあり︑
﹁河陽尼崎近辺﹂ということになる︒山崎・水無瀬からは隔たっ
ている尼崎を﹁河陽﹂と呼んでいたのである︒﹃日本歴史地名大系 兵庫県﹄︵平成
項によれば︑鎌倉末期に現尼崎市の地域で﹁難波村﹂が確認さ 領である︒﹁難波江館﹂は同定されていないが︑同﹁橘御園﹂の 市・川西市に及ぶ猪名川沿いの地域に散在していた摂関家の所 薗﹂は摂津国川辺郡︑現兵庫県尼崎市中央部から伊丹市・宝塚
11
平凡社︶﹁橘御園﹂の項によれば︑﹁橘御れてい
32
る︒同じような例が︑﹃猪熊関白記﹄承元二年︵一二〇八︶三月五︑六日条︵方違に関する記事︶に見える︒これが﹃明月記﹄の同時代資料であることは注意してよい︒
(五日)仍余明日河陽辺可違方之由、宣平朝臣来申之、
仍明日可違方也、
︵六日︶未明為違方渡大殿︵藤原基通︶領摂州︿橘御薗﹀︑場所が散在するので︑この橘御薗が﹃勘仲記﹄のそれと一致
するとは断言できないが︑山崎・水無瀬でないのは確かである︒右の例からすると︑﹁河陽﹂が山崎に限定されないより広い範囲︵前節も参照︶を指す語でもあった可能性は高い︒あるい
は︑時代により個人により指し示す場所が変化したかもしれな
い︒定家などはかつての山崎での文事を意識していた可能性も に︑山崎に定宿のあったことが知られており︑そうしたものも含めての﹁河陽﹂行きだったと捉えることができ
28
る︒
﹁河陽﹂は﹃明月記﹄以外にも見え
29
る︒藤原良経﹃後京極摂政記﹄正治三年二月十二日
条には︑後鳥羽院が﹁河陽・河陽別業﹂ 30
に方違したとある︒前掲﹃玉葉﹄に照らせば︑﹁河陽別業﹂は﹁山崎辺別業﹂と同じか︑近くにあった建物と考えてよいだろ
31
う︒少し時代が下った例では︑藤原経光﹃民経記﹄文永四年
︵一二六七︶九月二十六日条がある︒
後聞︑今夜子刻許新院︵後深草院︶・東二条院︵後深草女院︶自吹田還御︑河陽洪水過法︑昨日延引︑今夜著御云々︑後深草院らは昨日﹁吹田﹂から帰京の予定だったが︑﹁河陽﹂
が洪水で今夜の到着になった︑という内容である︒﹁吹田﹂に
は西園寺実氏の別荘があり︑後嵯峨院がしばしば御幸したとい
う話が﹃増鏡﹄第五﹁内野の雪﹂に見える︒場所は摂津で︑帰京時には山崎や水無瀬を通るだろうから︑この﹁河陽﹂を山崎・水無瀬一帯と考えても問題はなさそうである︒
ただし︑次のような例もある︒﹃民経記﹄文永四年九月十七日条︵暦記︶には後嵯峨院と大宮院︵後嵯峨女院︶が﹁吹田第﹂
から還御するとあり︑その情報に対し明日に延期する旨が付け加えられている︒そして翌十八日に二人は﹁河陽﹂から還御す
る︒この場合も﹁河陽﹂が山崎・水無瀬であってよいのだが︵﹃大日本古記録﹄では日次記の方に︵山崎︶と傍注︶︑﹁吹田﹂一帯の可能性もある︒﹁吹田﹂も淀川の北に位置し︑﹁河陽﹂と呼ぶこ
とに問題はないからである︒実は︑鎌倉時代には﹁河陽﹂が明らかに山崎・水無瀬を指さ
中世でも国を表す﹁︱陽﹂の例はたやすく見つけられる︒た
だ︑どうも偏りが存在するようである︒﹁︱陽﹂は鎌倉後期以降の禅関係の資料に数多く現れる︒
たとえば︑鉄牛圜心︵一二五四〜一三二六︶の﹃聖一国師年譜﹄文応元年︵一二六〇︶条には︑北条時頼が聖一︵円爾弁円︶を﹁相陽﹂に赴かせ﹁巨福山﹂に居住させたとある︒﹁巨福山﹂は鎌倉建長寺の山号であり︑﹁相陽﹂は﹁相模﹂ということになる︒同年譜は弘安四年︵一二八一︶の鉄牛識語がある︒現時点ではこ
のあたりが早い例と言えよう
33
か︒
また︑当の虎関も﹃一山国師妙慈弘済大師行記﹄︵元亨元年成立︶や﹃巨福山建長禅寺開山蘭渓和尚行実﹄で﹁相陽﹂を使って
いる︒前者は﹁︵一山一寧が︶赴相陽⁝主福山︵建長寺︶大道場﹂
というものである︒この﹁相陽﹂は﹃釈書﹄でも十一例見出せる︒
ちなみに虎関より少し後の義堂周信︵一三二五〜一三八八︶
では︑数やバリエーションが大幅に増える︒彼の﹃空華集﹄には︑相陽︑甲陽︑信陽︑武陽︑上陽︑伊陽︑岐陽︑常陽︑紀陽︑肥陽︑備陽︑摂陽︑濃陽︑丹陽︑美陽︑阿陽︑播陽などが見える︒
このような﹁陽﹂が介在すれば﹁河陽﹂から﹁河内﹂への変換
はあり得ると言えるが︑結論を急ぐ前に今少し検討を加えてみ
たい︒﹁相陽﹂以外の﹁︱陽﹂で国を表す例が︑虎関の作品にも見出せるからである︵﹃釈書﹄にはない︶︒虎関の﹃済北集﹄巻第八・序跋に﹁花軸序﹂という文章がある︒
この中で︑﹁花軸﹂巻頭の語を乞われた虎関がその巻を開いた
という部分があり︑その後には︑
苑游二上林ニ一県歴二河陽ヲ一不レ知何ノ日到二桃源ニ一乎︒余去冬 考えられる︒一方︑﹃猪熊関白記﹄や﹃勘仲記﹄の記述にそうし
た意識はほとんど認められない︒
しかし︑淀川の北側に対する呼称であることは変わらないと言える︒この語が十三世紀後半には︑少なくとも貴族社会にお
いて命脈を保っていたことを知るのである︒
五︑なぜ﹁河内﹂なのか
改めて﹃釈書﹄と虎関に戻る︒﹁河陽﹂が淀川北岸︑あるいは限定的に山崎や水無瀬を指すのならば︑物理的距離や人の往来
は別にして︑﹁河内﹂との懸隔は大きい︒
ここで注目したい要素がある︒﹁陽﹂である︒﹁陽﹂には︑国名の一字に下接することでその国の美称を作るという語素とし
ての使われ方がある︒近世では﹁︱陽﹂で国を示す例が多い︒摂津の地誌﹃摂陽群談﹄
︵元禄十四年﹇一七〇一﹈刊︶はその典型である︒﹁河陽﹂はどう
か︒﹃光明真言観誦要門﹄︵貞享元年﹇一六八四﹈刊︶という書に
は︑上下巻とも内題に続き撰者の名が記されている︒そこには
﹁河陽延命伝瑜伽教沙門 浄厳 撰﹂とある︒﹁延命﹂とは河内錦部郡小西見村︵現大阪府河内長野市︶の延命寺のことである︒浄厳は同村出身の真言僧で︑同寺の住持を勤めていた︒この﹁河陽﹂は﹁河内﹂である︒また︑﹃八幡河陽記﹄︵享保四年﹇一七一九﹈刊︶なる書がある︒﹁河陽=山崎﹂の知識に基づけば︑この八幡
は山崎の﹁離宮八幡宮﹂となりそうだが︑中身は河内の﹁誉田八幡宮﹂についてのものである︒この﹁河陽﹂も﹁河内﹂に他な
らない︒
からすれば︑やはり﹁苑︱上林﹂﹁県︱河陽﹂﹁桃源﹂の並びは中国を意識させるものと捉えるべきではないだろうか︒むしろそ
の方が﹁花軸﹂の素晴らしさをストレートに伝えられるだろう︒五山僧の虎関が有名な潘岳の故事を知らなかったとは考えが
たい︒平安朝以来の﹁河陽﹂を虎関が知っていたかは不明だ
35
が︑
﹃釈書﹄の典拠が﹃三代実録﹄や﹃拾遺往生伝﹄とするならば︑
そこでの﹁河陽﹂は日本の地名でなければならない︒ところが
﹁河陽﹂では中国のイメージを強く押し出してしまう恐れがあ
る︒虎関が両者の混同を避け︑﹁河内﹂へ書き換えた可能性は皆無ではなかろう︒そして︑その際には国の美称を作る﹁陽﹂
の知識が介在したと考えられるのである︒第三節末尾で述べた
ような︑説話内での﹁河陽﹂の存在意義が揺らいでいた段階な
らば︑このような書き換えは十分に起こり得るものだろう︒
もちろん︑右の道筋はあくまでも可能性の一つである︒先述
の如く典拠は別にあり︑そこですでに﹁河内﹂だったかもしれ
ない︵その場合もなぜそうなのか考える必要がある︶︒典拠で
﹁河陽﹂だったのなら︑別の知識による書き換えもあり得る︒
たとえば︑中国の﹁河陽県﹂は﹁河内郡﹂中にある︵﹃漢書﹄地理志第八上など︶のでそれを重ねた︑などである︒
いずれにせよ︑﹃釈書﹄では相応寺創建の地が﹁河内﹂と記さ
れている事実に変わりはない︒古代・中世の他作品の壱演伝で
は保存されてきた﹁河陽﹂は駆逐される形になった︒壱演伝と
いう範囲での話だが︑繁華な山崎を示し得た地名としての﹁河陽﹂︵さらには文学的栄光を後代まで伝え得たかもしれない﹁河陽﹂︶の断絶をここに認めてよいだろう︒ 居二伊陽ニ一︒此春花事索然也︒今見二茲ノ軸ヲ一︒京師ノ春色吹テ入二此ノ中ニ一也︒
と記されている︒ここに﹁河陽﹂がある︒﹁伊陽﹂という語も使
われている︒先に﹁伊陽﹂を検討する︒一人称﹁余﹂がある以上︑これは日本の地名である︵虎関は海外留学経験なし︶︒﹁花軸序﹂は﹁元応ノ之始︒小春︵十月︶之初﹂と製作時期を記している︒虎関の年譜﹃海蔵和尚紀年録﹄︵門弟・龍泉令淬編︒以下﹃紀年録﹄︶
によれば︑﹁花軸序﹂の製作は元応元年︵一三一九︶冬十月︑虎関は前年文保二年七月から元応元年三月まで伊勢本覚寺に滞在
したとある︒﹁伊陽﹂は伊勢を指すと見て問題ない︒﹁相陽﹂と同じ用法である︒
﹁河陽﹂はどうか︒﹁苑〜乎﹂では﹁上林︵苑︶﹂と﹁河陽︵県︶﹂
が対である︒﹁上林苑﹂は中国の秦・漢代の有名な巨大庭園で︑
﹁上苑﹂とも言う︒﹃和漢朗詠集﹄巻上・花に﹁花明上苑﹂︵
113
閑賦︶ 34
とあるように︑花との組み合わせも多い︒﹁河陽一県花﹂の潘岳の故事は第三節に挙げた通りである︒ともに﹁花﹂に関係す
る地名で︑﹁花軸序﹂に相応しい︒
もっとも︑﹁上林︵苑︶・上苑﹂は﹁天子の庭園﹂の意で︑特に中国のそれを指さない場合もある︒引用箇所最後の﹁都の春が
この軸の中に吹き込んでいる﹂からすると︑ここでは京都の庭園なのかもしれない︒そうなると﹁河陽﹂も京都近くの山崎辺
りと考えられなくもない︒
しかし︑平安朝以来の日本独自の﹁河陽﹂は︑第三︑四節で見
たように時代や個人で内容に幅が認められる︒﹁花﹂という点
府河内長野市︶には︑彼が実際に用いた﹃釈書﹄が蔵されて
い
37
る︒蓮体にしてみれば︑相応寺は河内の寺院として﹃釈書﹄
に明記されているが︑河内に該当寺院はな
38
く︑さりとて無視す
るわけにもいかなかったというところか︒むしろ簡略ながらも記述した点に︑﹃釈書﹄の影響の強さがうかがえる︒
﹃本朝高僧伝﹄は本文が﹁適〳〵届ル二河内ニ一﹂で︑説話題目もそ
れに対応し﹁河州相応寺〜
﹂となっている︒本書の壱演伝は︑ 39
﹃東国高僧伝﹄﹃開基記﹄よりも長大で︑後半部分が二書に見え
ない︒その部分は﹃釈書﹄にもない︒編者・師蛮は明らかに別
の資料も用いている︒結論から言えば︑後半部分の主たる典拠は﹃三代実録﹄巻第十一・貞観七年十二月十三︑十九日条である︒﹃三代実録﹄は寛文十一年︵一六七一︶に版行されている︒また︑﹃本朝高僧伝﹄第一冊目の﹁援引書目﹂には﹁三代実録﹂が挙がる︒師蛮は﹃三代実録﹄巻第十四・壱演卒伝の中に﹁河陽﹂があることを知っ
ていたはずである︒﹃本朝高僧伝﹄壱演伝の前半部分が﹃釈書﹄
と﹃三代実録﹄の綯い交ぜになっていることは︑この想定を支持するものだろう︒
しかしながら︑結果として﹃本朝高僧伝﹄は﹃釈書﹄の﹁河内﹂
を踏襲した︵相応寺創建説話の部分は基本的に﹃釈書﹄を利用︶︒
この当時の﹁河陽﹂は︑前節で見た通り﹁河内﹂を指す例が多い︒師蛮は﹃三代実録﹄の﹁河陽﹂を見ても︑おそらくそれが﹁河内﹂
と異なるものとは思わなかったのではないだろうか︒近世の壱演伝においては︑このように﹁河陽﹂は途切れたが︑
﹃釈書﹄を起点として﹁河内﹂が引き継がれている事実を目の当 六︑相応寺創建説話と壱演伝のその後
中世では﹃釈書﹄﹃真言伝﹄以降︑まとまった相応寺建立説話
を含む壱演伝を今のところ見出し得ない︒一方︑近世では﹃開基記﹄のように︑いくつかの作品に壱演伝が載る︒高泉性潡編﹃東国高僧伝﹄︵貞享五年﹇一六八八﹈刊︶巻第四
16
話﹁相応寺壱演伝﹂︑蓮体編﹃観音冥応集﹄︵宝永二年﹇一七〇五﹈刊︶巻第三
巻第六十四 蛮編﹃本朝高僧伝﹄︵元禄十五年﹇一七〇二﹈自序︑宝永四年跋︶
5
話﹁京都感応寺ノ観音ノ事﹂︑卍元師 文や本文で﹃釈書﹄に触れている︒また︑それぞれの壱演伝も︑9
話﹁河州相応寺沙門壱演伝﹂である︒これらは序﹃三代実録﹄﹃拾遺往生伝﹄﹃真言伝﹄にはなく︑﹃釈書﹄にはある
﹁薬師寺の戒明を師とした﹂という要
病を治したのが貞観七年﹂︵他は六年︶の要素も﹃釈書﹄と共通 譲った老嫗が商売人を﹁愚頑﹂と見なしている﹂︑﹁藤原良房の 素を持つ︒﹁壱演に宅地を 36
する︵この二つは﹃観音冥応集﹄になし︶︒﹃釈書﹄利用の可能性
はきわめて高い︒壱演が相応寺を営んだ場所は︑各作品とも同じである︒﹃東国高僧伝﹄は﹃釈書﹄と対照させると細かい字句の違いが多い
が︑件の箇所は﹁偶之ク二河内一﹂となっている︒
﹃観音冥応集﹄は説話題目にもあるように︑主たる内容は相応寺ではなく感応寺の観音についてである︒相応寺は初めの方
で﹁︵壱演は︶河内ノ国相応寺ノ開山ナリ﹂と簡単に触れるだ
けだが︑注意されるのは編者・蓮体が河内出身で︑河内を中心
に活動していたことである︒また︑蓮体開基の地蔵寺︵現大阪
とどまることなく﹃釈書﹄自体のさらなる注釈を進め︑文学史
を含めた歴史の中に記述し発信し続けていくことが研究には求
められるということである︒そこに改めて﹃釈書﹄の面白さ︑価値を見出せるのではないだろうか︒
注︵
生年は近年の事典類に挙がる六十五歳説によるもの︒ 1︶壱演の没年齢は六十五歳説と七十五歳説がある︒ここでの
︵
2︶吉川一郎﹃大山崎史叢考﹄︵昭和
28 創元社︶﹁相応寺﹂︵
42〜 51 ページ︶︑﹃大山崎町史本文編﹄︵昭和
58︶﹁大山崎の社寺﹂
︵
121〜 122ページ︶など︒
︵
倉遺文﹄七六三一︒享徳三年﹇一四五四﹈写︶に﹁︿摂津国﹀山崎﹂ 3︶建長五年︵一二五三︶十月二十一日付﹃近衛家所領目録﹄︵﹃鎌
が載る︒謡曲﹁女郎花﹂にも﹁津国山崎﹂の例あり︒現在︑京都府乙訓郡に大山崎町︑大阪府三島郡島本町に山崎がある︒
︵
古代・中世都市論﹄所収平成 4︶福島克彦﹁中世大山崎の都市空間と﹁保﹂﹂︵仁木宏編﹃日本
側︶と左岸︵現京都府八幡市橋本︶はともに﹁山埼・山前﹂︵や 手︶は河内国として把握され︑淀川右岸︵現大山崎町・島本町 代には淀川を挟んだ山崎の対岸︵淀川左岸︒上流から見て左 28 吉川弘文館︶では︑奈良時
まざき︶と呼ばれていたこと︑それが平安時代には右岸のみ
の呼称になったことを指摘する︒
︵
5︶注 2﹃大山崎町史﹄﹁山崎離宮﹂︵
109ページ︶や﹃第
展河陽離宮と水無瀬離宮﹄︵平成 23回企画 館︶ 27 年大山崎町歴史資料 型の写真︵模型は同資料館にあり︶が挙がる︒ 2ページには︑相応寺周辺の位置関係を推定した図や模
︵
6︶黄檗派の僧侶で︑高泉性潡︵黄檗山萬福寺第五代︑伏見天 たりにするのである︒壱演伝︑相応寺創建説話の歴史の中で︑
﹃釈書﹄は一つの大きな分岐点であったと言えるだろ
40
う︒
おわりに
近代における一つの例を挙げて本稿を閉じたい︒芳賀矢一編
﹃日本人名辞典﹄︵大正
治知の子︒貞観九年七月十二日寂す︒年七十五﹂︵ 河内相応寺の住職︒平安の人︑名は正棟︒大中臣氏︑備州守
3
大倉書店︶の壱演の項には﹁名僧︒34
ページ中段︶ とある︒﹁国会図書館デジタルコレクション﹂︵http://dl.ndl. go.jp/info:ndljp/pid/ 969145
︶で原文の閲覧︑国文学研究資料館﹁古典文学統合データベース︵地下家伝・芳賀人名辞典︶﹂︵http:// base 1.nijl.ac.jp/infolib/meta_pub/G 0035938 ZigeHaga
︶でデータ検索ができる︒相応寺を﹁河内﹂︑父の名を﹁治知﹂とする点︑明らかに﹃釈書﹄と重なる︒俗名﹁正棟﹂は﹃釈書﹄に見えないので︑あるいは﹃本朝高僧伝﹄を下敷きにしたかと推測されるが︑そうであっても
﹁河内﹂が﹃釈書﹄から受け継がれていることに違いはない︒
こうした近代における研究に対する時︑その歴史的意味を理解し︑他の研究や諸資料との比較検証を経た上で利用すること
が重要であるのは言うまでもない︒同時に︑これが全世界でい
つでも閲覧可能であることにも注意したい︒間接的とはいえ︑
﹃釈書﹄の言説が無批判に拡大する可能性を孕んでいるのであ
る︵無論︑これは﹃釈書﹄に限らない︶︒
﹃釈書﹄の誤りを指弾するということではない︒様々な作品
の典拠になったその圧倒的な影響力を認めつつ︑しかしそこで
︵ 14︶真福寺善本叢刊︿第二期﹀
7﹃往生伝集﹄︵平成
16 臨川書店︶
に依る︒真福寺本は正嘉元年︵一二五七︶写︒なお︑﹁流下﹂
は﹁流れの下︵もと︶﹂で﹁川のそば﹂の意か︒
︵
15 ︶寛文三年︵一六六三︶刊本に依る︒同本影印﹃対校真言伝﹄
︵昭和
63勉誠社︶では︑頭注に東寺観智院蔵室町末期写本と
の異同を挙げる︒壱演伝に目立った異同なし︒
︵
倉期高僧伝への展開︱﹂︵﹃佛教大學大學院紀要﹄ 16︶石塚薫﹁﹃元亨釈書﹄に関する一考察︱平安期往生伝から鎌
33平成
17・ 十八︶を主に対象とし︑壱演伝︵巻第十四︶への言及なし︒ 3︶︒同論考は王臣︵巻第十七︶・士庶︵同上︶・尼女︵巻第
︵
17︶注 8︒
︵
18︶注 2吉川著書︑注
7﹃大山崎町史﹄︒﹃大山崎町史史料編﹄
︵昭和
56︶に文書収録︒
︵
元年﹇一三一一﹈頃成立か︶﹁壱演︿権律師︒相応寺⁝﹀﹂がある︒ 立か︶上﹁壱演⁝山崎相応寺本願﹂︑﹃血脈類集記﹄第二︵応長 応寺︿件寺壱演僧正建立︒⁝﹀﹂︑﹃僧綱補任抄出﹄︵鎌倉初期成 尚位壱演﹂︑﹃伊呂波字類抄﹄︵十巻本・平安末期成立︶八﹁相 久元年﹇一一一三﹈成立︶﹁︿山崎相応寺建立﹀権僧正法印大和 19︶他の資料での壱演に関する情報としては︑﹃東寺要集﹄︵永
︵
20︶小島憲之﹃古今集以前﹄︵昭和
季の詩を中心として︱﹂︵ 51塙書房︶﹁漢風の表現︱四 153〜 174ページ︶など︒
︵
漢文学論考補訂版﹄﹇平成 21︶後藤昭雄﹁嵯峨朝詩人の表現︱文学空間の創造︱﹂︵﹃平安朝
17勉誠出版﹈
70ページ︶︒
︵
六鷰︱﹂︵﹃平安文学研究﹄ 22︶三保サト子﹁雲州往来私注︱枸櫞・銀菊・攏・河陽・五雀
68昭和
57・ 地帯︑即ち︑桂川が賀茂川と合流し︑さらに︑宇治川と合流 12︶は︑﹁淀川の北の
した地点から江口のあたりまでの北岸を「河陽」と称した」と 王山仏国寺開山︶の弟子︒
︵
7︶注
2吉川著書︑﹃大山崎町史﹄﹁相応寺の衰退﹂︵
204ページ︶
など︒相応寺の塔の心礎かと考えられている﹁扇形石︵かしき石︶﹂が離宮八幡宮境内にある︒大山崎町歴史資料館館長福島克彦氏のお話によると︑相応寺の発掘作業は行われていない︒
︵
演をめぐる伝承について﹂︵北海学園大学大学院文学研究科 8︶相応は天台僧︒壱演伝承と天台宗については追塩千尋﹁壱
﹃年報新人文学﹄
13平成
28・ 12︶に言及あり︒
︵
平成 9︶藤田琢司﹁﹃元亨釈書﹄について﹂︵﹃訓読元亨釈書﹄下巻 23禅文化研究所︶︑及び同論考末尾の﹁参考文献﹂に挙
がる諸論考など︒
︵
10︶五山版︵宮内庁書陵部蔵︒いわゆる貞治槧本︶︑慶長四年
︵一五九九︶古活字本︵早稲田大学図書館蔵︶︑慶長十年古活字本︵東京大学図書館蔵︶︑永禄元年︵一五五八︶大菴呑碩写本
︵国立国会図書館蔵︶を確認︒永禄写本は﹁国会図書館デジタ
ルコレクション﹂︵http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545141︶︑そ
れ以外は国文学研究資料館﹁日本古典籍総合目録データベー
ス﹂︵http://base1.nijl.ac.jp/~tkoten/︶を閲覧︒
︵
11︶今枝愛真﹁元亨釈書︱その成立と原本及び貞治槧本をめ ぐって︱﹂︵﹃国史大系書目解題 上巻﹄所収 昭和
文館︶など︒注 46吉川弘 9藤田著書に影印を収録︒
︵
12︶小山田和夫﹁﹃元亨釈書﹄の編纂材料と﹃扶桑略記﹄について﹂
︵高嶌正人先生古稀祝賀論文集﹃日本古代史叢考﹄所収 平成 6雄山閣出版︶︒
︵
隆書写本を忠実に伝写したるものゝ一本なり﹂︵凡例︶︒ 蔵谷森健男氏旧蔵本﹂で︑﹁蓋し古写諸本の原本たる三条西実 13︶﹃新訂増補国史大系﹄に依る︒大系底本は﹁宮内省図書寮所
ジなども参照︒﹃平安時代史事典﹄︵平成
6角川書店︶﹁難波﹂
の項では﹁難波江﹂を︑﹁広義には︑現在の大阪市の上本町台地から兵庫県尼崎市東部にかけての地域の古称﹂と記述︒
︵
33︶ただし︑応永二十四年︵一四一七︶に岐陽方秀が校正してお
り︑扱いには慎重を要する︒
︵
抄﹄第六では張賛とする︒ 34︶いわゆる﹁朗詠江注﹂では作者を張読︑同詩を載せる﹃江談
︵
35︶山崎や水無瀬に限定されるかは別にして︑淀川北岸を意味
する﹁河陽﹂の知識が虎関になかったとは断言できない︒﹃済北集﹄巻第三や﹃紀年録﹄には亀山院や後宇多帝との交流が見
える︒虎関が貴顕から知識を得られる環境は存在した︒また︑虎関の師の一人︑規庵祖元の語録﹃南院国師語録﹄下には︑日本の土地に﹁河陽﹂を使った例がある︒法燈国師無本覚心
︵一二〇七〜一二九八︶没後︑紀州鷲峰山︵西方寺︑後の興国寺︶
を尋ねた規庵が旅のルートに沿って作った漢詩群である︒詩題によれば︑鳥羽︑山崎︑天王寺などを経て紀州に入り︑﹁法燈禅師塔﹂を拝している︒そして帰路には﹁住吉︵摂津︶﹂﹁河陽漁村﹂﹁禁野︵河内︶﹂﹁片野︵河内︶﹂の並びがある︒詩題や詩
の内容では﹁河陽﹂が摂津か河内か不明だが︑淀川下流のどこ
かを指すのだろう︒このような﹁河陽﹂を使う人物が虎関の近
くにはいた︒なお︑蔭木英雄﹃中世禅林詩史﹄︵平成6 笠間書院︶でこの連作を取り上げるが︑﹁河陽﹂への言及なし︵
60
〜
67ページ︶︒
︵
年︵八六五︶九月五日条や巻十四・同九年八月二十八日条に見 36︶壱演が薬師寺僧だったことは︑﹃三代実録﹄巻十一・貞観七
える︒ただし︑師が戒明であることを示す古い資料は現時点
で見出せない︒一方︑﹃釈書﹄成立前後の資料にはこの情報が する。
︵
23︶注 2吉川著書﹁山崎橋﹂︵
20〜 崎橋の廃絶﹂︵ 21ページ︶︑﹃大山崎町史﹄﹁山 123〜 126ページ︶など︒
︵
条に﹁有勢之家﹂と﹁貧賤之民﹂を対にした例がある︒ 24︶﹃続日本紀﹄巻第十四・天平十四年︵七四二︶十二月十七日
︵
25︶注 4福島論考など︒また︑このことは﹃三代実録﹄の﹁水次﹂
という語︵引用本文参照︶とも照応している︒
︵
26︶注 2吉川著書﹁藤原定家の日記より﹂︵
62ページ︶︑﹁﹃明月記﹄
︵建仁二年七月︶を読む﹂︵﹃文学﹄
6︱ 4平成7・
10︶など︒
︵
三年五月︶を読む﹂︵﹃明月記研究﹄ 27︶毎年五月九日に新日吉社で行われる祭礼︒﹁﹃明月記﹄︵建暦
9平成
16・ 熊関白記﹄同年五月九︑二十七日条︶︒ 条︹注解︺参照︒建永元年は後鳥羽院熊野御幸により延引︵﹃猪 12︶五月二日
︵
28︶注 利用と見て︑水無瀬殿とは別物とする︵ 5﹃河陽離宮と水無瀬離宮﹄では﹁河陽﹂を河陽離宮の再
17︑ 19ページ︶が︑そ
こまで厳密に分けなくてよいかもしれない︒
︵
十五︑十六日条に︑京都から福原へのルートとして﹁六条大宮 29︶少し前の中山忠親﹃山槐記﹄治承四年︵一一八〇︶十一月
↓草津↓河陽宿↓神崎﹂が挙がる︒草津は﹃平家物語﹄巻第四
﹁厳島御幸﹂に見える﹁鳥羽の草津﹂︒この﹁河陽宿﹂も山崎・水無瀬の可能性がある︒
︵
30︶同日条は﹃歴代残闕日記﹄︵第十一冊平成
収録のもの︒ 2臨川書店︶
︵
31︶注 5﹃河陽離宮と水無瀬離宮﹄
17〜 山崎年表﹂︵ 19ページ︒同書の﹁古代 3ページ︶や﹁年表後鳥羽院と水無瀬離宮﹂︵
19
ページ︶には多大な恩恵を受けた︒
︵
32︶﹃尼崎市史﹄第
1巻︵昭和
41︶ 353〜 360︑ 435〜 436︑ 452〜 459ペー
ある︒注
19﹃血脈類集記﹄第二の記事の裏書に﹁一演事﹂とし て﹁以二薬師寺戒明和上一為レ師﹂とある︒この裏書が同書第一末尾で編者・元瑜︵一二二八〜一三一九︶が示す﹁別抄で加
えた裏書﹂に含まれるのならば︑﹃釈書﹄成立以前の情報にな
る︒﹃初例抄﹄︵南北朝期成立か︶上にもこの情報が見える︒壱演と薬師寺については注8追塩論考に言及あり︒
︵
︵﹃上方文藝研究﹄ 37︶山崎淳﹁地蔵寺蔵﹃和漢合運﹄蓮体自筆部分︱翻刻と解題︱﹂
8平成
23・ 6︶︒
︵
作者自筆稿本あり︶にも相応寺や壱演に関する記述なし︒ 38︶河内の地誌である﹃河内鑑名所記﹄︵延宝七年﹇一六七九﹈刊︒
︵
39︶説話題目については注
8追塩論考に指摘あり︒
︵
40︶地誌の﹃菟芸泥赴﹄︵貞享元年﹇一六八四﹈序︒写本のみ︶や
﹃山州名跡志﹄では︑﹃三代実録﹄と比較した上で﹃釈書﹄の相応寺河内建立説に疑問を呈している︒また︑﹃雍州府志﹄では何度か﹁河陽は山崎である﹂との認識を提示している︒
﹇謝辞﹈ 大山崎町歴史資料館館長福島克彦氏には多大な学恩を蒙っ
た︒深く感謝いたします︒
﹇付記﹈ 本稿は科学研究費助成事業︵学術研究助成基金助成金︶基盤研究︵C︶﹁近世仏教説話集の形成・出版・享受についての研究﹂︵課題番号26370248︶の成果の一部でもある︒
︵やまざき じゅん︑本学教授︶