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昭和初期の学校ダンスに関する一考察

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Academic year: 2021

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(1)Title. 昭和初期の学校ダンスに関する一考察. Author(s). 高橋, 美栄子. Citation. 北海道教育大学紀要. 第二部. C, 家庭,体育編, 18(1): 23-30. Issue Date. 1967-09. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/6510. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第18巻第1号. 北海道教育大学紀要 (第二部C). 2年9月 昭和4. 昭和初期の学校ダンスに関する一考察. ] 脳. 美 栄 子. 橋. 北海道教育大学旭川分校体育研究室 l ハ4 he Schoo1 Dance i e lt s ol {o TAKA日ASHI: Some Thought in the Ea ly Year l r s ofthe Era of s ・owa. 序. 現在体育科にあるダンスは如何にあるべきか. これからの子供にとって望ましい ダンスは どんな ものか. 我々は ダンスに関してどんな力を持つことが望ましいのか. これからの舞踊文化は どう発 展すべきなのか, それらを究めていくことは我々にとって大きな課題である. そこで, 現在文部省指導要領などで示されている生徒自身の創作活動を主とする ダンスの母胎を 史的に探りたいと考える. 体育科における ダンスとし う特殊な存在は, 問題を種々提起しな がら発 展してきた, 明治学制後の近代学校に導入された体i H 守 , 体操において, 女子も男子と同じように実 施することは一般に強い抵抗があり,かつ体操の必要性も男子程には痛感されなかったところから, やさしい, 軽い, 音楽が伴う体操, 遊戯などが工夫されたのである. 明治16年の鹿鳴館における社 交舞踏に代表される舞踏の移入や, その後行われた女子高等教育における舞踊教授などは, 学校に おけるダンスの様相を別な面で複雑にした. しか し大筋において, ダンスは女子にとり体操の代用 品という意味において実施されたのである. やがて大正末期, 昭和初年には新しい動きも出てくる. 子供の個性を生かす, 創造性を育てる, 創作を目指す ダンスの主張である. 舞踊が本来舞踊としてもっている創造性, 表現性の意義が教育 改革の気運の中で着目されるのである. それは当時教育界において展開した児童の個性尊重, 自発 性尊重, 児童 本位の学習活動をという自由主義的教育理想による大正新教育運動と無関係ではある まい, ことに, 大正新教育運動は, 芸術教育や綴方教育の方面に, より独自の展開をなすわけであ ) ダンスにおいても単に体操の代用品であることか ら脱却し ひとりひとりの子供の良さを発 り1 , , 揮することのできる, 表現性ある ダンスにすすむための刺激となっ た, 大正期後の日本社会において, 従来の方法そのままで政府が自 ら期待する人間像をつくることは 不可能であり, 政府としては早急に新しい教育方法を探し出す必要があ った. そこで, 新教育の成 果を吸収しつつ, 新しい理論, 方法を海外に求めたのである, 女子の体育に関しても政府は指導者 の欧州留学を積極的に推進した. 井口あ ぐりなど女子体育指導者も海学留学を行い, 西欧運動文化 の輸入につとめた. それは, 近代日本の女子体育にとって大きな, 殆ど決定的な影響を及ぼしてい る. 大正末期東京女子高等師範学校にあ った三浦ヒpも留学を指示されたのであった, 本論においては, 大正15年学校体操教授要目, 大正新教育運動の高まりの中にその芽を育てた東 京女子高等師範学校教授 ( 1926~1 935 ) 三浦ヒロの ダンス論と実際, それが官側によって吸収され た形で展開した昭和1 1年学校体操教授要目中の ダンス (唱歌遊戯・行進遊戯) を中心に昭昭初年か (23).

(3) . 昭和初期の学校 ダンスに関する一考察. ら11年に至る学校 ダンスについて考察 し, 新教育運動の影響成果と限界その継承について一端を探 ・ ろうとするものである. 本論を宿に, .今後学校における ダンスの史的全体像を明らかにしていきた し、 .. ’. 1 , 大正15年教授要目における ダンスについて 大正15年改正された 学校体操教授要目において唱歌遊戯・行進遊戯な どダンス系教材が増加 して ) しかし他面 遊戯の いる. それは基本的には主運動である体操の一部としての位置づけである2 , . 教育的 価値, つまり児童の発達段階に即し身体的欲求に応 え, 子どもの心理に接近 したものである か ら喜びのうちに教育がなされる点において優れているこ とが認識されてきたこと, 明治以来の教 師中心体操, 注入主義体育に対する反省か ら遊戯を実施する学校が増加 してきたことが要目にも反 映 しての増加である. 実際明治後期の女子高等教育機関をはじめとして, 大正年間に独自の教育理 想を掲げて創立された数校の私立学校では, 要目で示されているような体操は行わず, 欧州風の舞 ) 踊や音楽体操をとりあげていた3 . 大正15年要目のかかげる唱歌, 行進遊戯は主として文部省唱歌の体操的な表現と若 干のフ ォ← ク ダソス, 基礎としての音楽つき行進 (歩法演習) な どを教材としている. ダンス系についてのみ見 るな らば, この要目は大正2年のそれに較べ教材が増 し, その他として文部省検定済の唱歌な らば 自 ら工夫して課しても良いように指導の弾力性を認めており, 又, 行進遊戯の際に歩法演習即 ち基 本の歩法 (ステッ プ) を課すようにな ったことが一つの発展であった. そもそも行進遊 戯は プロム ネ ー ド・ ク ワ ドリ ー ル, ポ ル カ な どの 名 が 示 す よ う に 純 外 国 製 の も の で あ り, 日 本 の 子 女 と く に 地 方 に 住 む も の に と っ て は 全 く 馴 染 み の な い も の で あ っ た, で あ る 故 に た だ 歩 く こ と を ウ ォ ー キ ン グ. ステ ッ プと呼 んで体操の時間に行うことが, 新しいものの新しい学習の意味を持った. ひとつひと つのステッ プが新鮮な運動であり窮屈な和服で生活してきた女子が行う, そのこと が近代的な喜び であり新しい発見であるが, 一面では生活には結びつかない異国風の特殊な型であった, この基本 ステ ッ プの印象が現 在も尚強く残っ ていて創作の基礎に歩法演習をという空気がある. この要目改正にあたり女子として一人要目調査委員であ った高橋キャウによれば5つに分類され ) る舞踊のうち学校で行う舞踊は, 民俗的舞踊, 審美的舞踊, 体育的舞踊, 抽出舞踊の4種であり4 , ) こ れ に マ ー チ ソ グを 加 え て 行 進 遊 戯と 称 す る と 述 べ て い る5 .. 行進遊戯は 「調律的にして円滑軽快なる全身的動作により快活温和なる精神と端正優美なる容姿 とを養い」 「マーチソグにおいては調律的なる各種の行進をご慣れしめかつ, 各種の隊型における団 体的行動に習熟せしむる」 ものである.・参考作品例の最後には描出舞踊として 「鬼ごっこ」 という 材料をあげ, 「鬼は鬼らしく, 人は人 らしく, 表現も各自が思うたままを曲のままに鬼 ごっこの気 分を美しく自然に素直に表現するように」 とある. 数種の外国のフォーク ダンス, 外国人の創作に よる ダンスの紹介のあとに描出舞踊と して自分たちの舞踊を創り出 していく新しい方向を示 し, そ の後の発展を示唆 していることは貴重である. 舞踊というものは, 人間の肉体の到達し得る最高の ものであり, 人の魂をおどるものであると理想を述べているが, 他面, 遊戯特有の目的は, 「舞踊 に於ては調律的な全心身の調和的な運動を以て行うことにつとめ,マーチ ソグに於ては歩調を整え, 団体的行動に習熟せ しめる, フ ォーク ダンスは…無邪気なる快楽に, 若々しさに, 勇気を振起する ) 氏の著書にみるならば と共に, 音楽の歌詞を通 じて愛国の念を抱かしめる」 ものと規定する6 . , ) 文部省要目の遊戯 その指導 学校におけ る舞踊の教材例は要目よりはるかに多く豊富であるが? , , 方針の枠内にあること がうかがわれる. それは東京女子高等師範学校という官学に在り, 要目調査 委員である立場か らの制約が働いてのことでもあろう. (24).

(4) . 高. 橋. 美 栄 子. 大正新教育運動の一つの形と して創立された私立学校でのダンスはそれとして異なった面を持っ ており, 公立学校に影響を及ぼしていくが, その面についての考察は後日にまわ したい‘ 一方, 官 学からも教育改革の芽があらわれている, つまり師範学校附属小学校による実践である. 明治来, 師範学校附属は日本の教育を開拓する一方の旗頑として存在してきた, 絶対主義的教育体制を確立 し推進する柱であっ た師範学校の, その附属小学校から新教育運動が拡がってい ったことは, わが ) それは体操科 ダン 国の特殊な近代化過程での教育における特質の一つであるとされているが8 , , スではどのような形であらわれたのであろうか. ここで大正9年に東京女子高等師範学校附属小 学 校に勤務した三浦ヒ ロの存在が浮かび上る, 同じ頃か ら活躍を始めた人に戸倉 ハルがあり, 氏は現 在なお健在で女子体育に大きな足跡をしるされつつあるが, ここでは特異な道を歩まれた三浦ヒロ について考察する. 2 , 東京女子高等師範学校における三浦ヒロのダンス教育について 三浦ヒ口氏は 大正9年東京女子高等師範 学校卒業後, 直ちにその附属小学校の教諭となった, 12 年の暮母校の体操料教師になることを条件に欧州へ文部省在外研究員として留学することとなり, 15年帰国して東京女子高等師範学校助教授となった. 氏が大正6年, 女高師2年のある講習会にお いて, 作文教育の実践者芦田恵之助を知ったことがその後の教育実践に大きな影 響を及ぼすことと なった. 芦田氏は大正初期来, 学力とくに国語力の問題に真剣にとりくみ教授内容と方法の改革を おしすすめ, 更に輸入文化のっみ重ねでなく土着文化に土台をおいた国民文化の創設とい うことを 指摘し追及しため . 三浦氏が附属小学校に勤務した大正9年は大正新教育運動の開花期であっ て この学校でも実験 学級を設けて作業教育を試みていた, 氏はこの中で作業教育の理念によって, 児童の自発性, 自学 性, 学級を共同体的な和のあるものとする生活教育と, 芦田氏 らの影響からの作文教育を結合させ ) 国語教育を重視し作文をよく書かせひとりひとりをみつめ 次の指導の手がか 0 た指導を試みた1 . , りにすると共に、 自分の指導について確信を深めてい った. 又作業教育と分団学習形態とは結びつ いたものであったから分団学習を実施した. ここにおける分団において生徒は教師の指示 した内容 について, ある程度方法も指示され分団によって反復練習を行ったのである. 氏の著作に表われた 限りでは, ここでの分 囲ま, そ れ自身の目的をもっ た真に自主的な活動体ではなく, 教師の指導を 受けとめる組織であり活動であ った. それは教育方法の改良という面で大きな進歩であ った. 氏は大正新教育運動の中で, 理想主義自由主義的教育を志向するが, その実践を支える精神的柱 1 ) に, やはり芦田氏の影響である「教育の道は禅と一致する1 」という仏教的精神があった, つまり, 人間は常に世上の万象に左右されており喜怒哀楽憎悪などの感情にたえず動かされているのである から, 「人生を一つの浄土として楽しむために, やはり自己を明徴にして全てのものの本然の姿を 見得る境地に立たなければならず, 人を導く仕事の完成は, この点に徹底していなくては到底のぞ むことはできない」 といい 「教師は求道の行者たれ」 「自己究明を生命とせよ」 と説く. それはむ しろ 自 分 に 言 い 聞 か せ る こ と ば で も あ っ た, 3 年 間 の 留 学 「ス エ ー デ ン, デ ンマ ー ク, イ ギ リ ス な. 2 ) ど)のあと「体育研究のためにはるばる欧州へいって持って帰ったものが自己観察の一面であり1 」 体育の諸問題について一層疑いを増し, 体育の道の彼方にものを求めて悩むのである, 号令に疑問 を持ちながら, 笛吹け どおどらずの体育をさびしく思い, あくまで生徒の自発性をのぞみ1 当時の 3 ) 体操 へ の 疑 問 を の ベ, 思 う よ う に な らな い 体 育 に つ い て 「さ び しい 授 業 を して い ま した」と 語 る1 .. このような態度は, 欧州留学が非常な憧れであり, 欧州体操の輸入 に急であ った体育界にあ っては 特異なものであり, 氏が体操畑出身でなかったこともあって当時の体育界か ら歓迎はされず 「体操 (25).

(5) . 昭和初期の学校 ダンスに関する一考察 4 ) 家 で なく ジ ャ ー ナ リ ス トだ」 な どと い わ れ る1 ,. さきにあげた仏教的精神と児童を熱愛 し自発性を尊重せよという児童中心の傾向, 研究心を持続 せよと生徒に作文させて反省を重ねるなどの進歩性 が結びあい混り合 った独特の教育観により教授 し, 自己主張もした. 職業柄講習会も多か ったが文書による発言も積極的に行 った. このような個 性の強さは,‘三浦ヒロその人が大正新教育の創り出した人間像であ ったことを示すものではなかろ う か.. 5 ) 著書 「コ ドモノ遊 ビ1 」 には, 欧州留学の成果を表わして大正15年要目にはみられない西洋風の 形の写真があり, 児童がそのものになつてリ ズミカルに動 美 しいさし絵やフランス人 教材が並び, き, 感情をこめて表現するという, 今いうところの模倣表現の形で 「先生と生徒が一点をさしてす ) 6 すんでいく1 」 新しい唱歌, 行進遊戯のあり方 が提示されている. ここで示されている材料や方法 が当時において先駆的, 進歩的であったことは, 大正15年要目のもとで指導されているものである ことや, 前記, 高橋キャウ著 ”テ進遊戯」 と比較すれば明 らかである. 氏は常に, おどりの技術はともかく自発的に心をこめておどり抜くことを尊重し, 又師弟共学, 共流の態度で行く, つまり精神的に共鳴 しつつ同じ道を進んでいくような指導の完 成をのぞんだ. とくに低学年では児童と同 じことを運動的にも行うことによ って, 注入ではない子供のつくり ごと ではない, 相方が共に歩む指導を貫く ことができるとした. ここで注意す べきは自己表現を強調し ている がしかし, 子供の創作を肯定していない点である. 指導の主体はあくまで教師にある. 子供 が与えられた材料について, 作文教育におけるように生活上の経験のありのまま表現するというよ うなことではなく, . 教師の指示するものの模倣という枠内での表現活動である. 氏は自分が選んだ材料と明 治以来日本の教育界がつみ重ねてきた教育方法, 新教育運動の成果な どを結合させ, 小集団学習や自由練習をとり入れ, 模倣性, 表現性をもりこんだ新しく日本の教師 うとした. その点で現在の創作活動を柱とする体 によ って創 られ指導される遊戯の道をきりひらこ、 育科における ダンスの源流の一つとなるものであり, その意義は大きい. 自らの理想を貫こうとして教材を選び, 指導の順序や方法, 指導技術を細かく検討 し, 生徒に話 すことばひとつひとつにも気を配り,周到な組立て授業に没入するという方向に進んでいくさまが, 女子体育指導者としては数多い著作によく表われており, このような指導への道が必然であったと うなずかされる. 授業は感情的な高まりのある熱っ ぽい独特の雰囲気に導かれ, たとえばワルツス テッ プ一つするにしても生気あふれて突き進むというような様子であって, 先生も生徒も魅せられ 7 ) ているようであ ったことが, 生徒や参観者の感想に述 べ られている1 . 5年要目を越えているものではあ ったが矛盾するものではなかった. しかし, 氏の実践は, 大正1 当時すでに軍国主義教育の進行に奉仕する道を歩む体育界か らは受けいれ られぬものとなり, とく に官学の頂点たる東京女子高等師範学校に勤 務を続けることは不可能となり, 直接的な事情は他に 求めることができるが, 戸倉ハル氏に道をゆずって昭和10年3月退職する. 前述のように, 大正新教育運動の波に刺戟されつつ教育者となり, 昭和初めの10年間を女子にお ける官学の最高教育機関, 東京女子高等師範学校に体操教師と してあ って, 新しい学校 ダンス, 女 子の体育を追及し, のち, 私学青山学院に転じ, 更に社会教育の道を歩む, 女子体育, ダンスの分 野での特異な存在として昭 和前期の体育界に大きな地位を しめるものである. ただ氏の場合, 児童の理想像をこの社会との関連の中で具体的にと らえるとい 争点では, 「教育 は魂をゆり動かすもの, 自己を育てるもの」 であり, 「児童の身体的精神的状況を考え, 児童を生 かしていかなけれ ばな らない」 という主張にみるように一般的観念的な傾向にあり, そこに氏の児 童中心主義としての限界が認められる. このことは, 氏が児童生徒自身の創作を賞揚せず, 大人に (26).

(6) . 高. 橋. 美 栄 子. よって考え抜かれた教材こそ理想的であるとした態度と関係があるであろう. 氏の教育は大正新教 育と共に, 主として 国語教育の方面で展開する筈であったが, 氏が体操科教授となり, 日本が国家 資本主義体制の 危機か ら, ファシズムにすすむ時, 新教育運動の一部は精 神主 義に変質し 後退し , てファシズムに協力せ ざるを得なか ったのと同じようにやはり屈折し, 昭和11年第二次改正による 学校体操教授要目中に 「人間を陶冶するに遺憾なきを期す」 と述べられるや, 至誠一貫の人間完成 8 ) を体育の道でと無条件に期待を寄せることとなっ た1 , 当時のダンスに関する諸問題, 運動会, 学芸会, 講習会, 教材その指導のあり方などについて批 判はきびしい, が改善策を具体的に示すというより, 教師の力量を増 し, 研究心を高めよと説いて 更に, 体育の使命は人間完成への道であり, ダンスの使命は女性の魂に呼びかけ女, 性としての自 覚を高め, 母性愛の純化につとめることにあると述べて, 要目にいわれている婦徳の涌養と一致す ) 9 る の で あ る1 ,. 3 1年教授要目におけるダンスについて . 昭和1 昭和11年5月に改訂された学校体操教授要目においてダンス的教材は更に増加 した. 要目改訂に あたっ た女子の調査委員は戸倉 ハル氏であった. 戸倉, 三浦両氏は共に東京女子高等師 範学校に勤 ) 0 務していたのである,三浦氏がその著作で紹介 しているような材料は殆どす べて取りいれ られた2 . 教材が多くなると共にその学年配当も考慮され, 更に女子の体育では婦徳の液養が独自の 目的とさ れダンス的教材はそのためのものと位置づけ られた, とくに唱歌遊戯では文部省唱歌との連携をと り, それに運動動作を示したものを採用 したということになっていた. 教授に当っては歌曲の意を 十分に諒解させてから遊戯をさせなけ ればならぬとされた. そのことを, 新教授要日における唱歌, 行進遊戯は, 従来とは全く異なった立場をとり, 「運動として極めて複雑な高雅な感情, 情操の陶 崎冶材料として之を認めている この点が新教授要目における一大革命である2 1 ) 」 と強調されたので , あ る,. 実際は, たとえば 「日の丸の旗」 では, 元気に発潮と行い国旗に対する敬愛の念を養い, 国民的 思想を陶冶するであり, 「鳩」 では, 教師も児童も全く鳩の気持になって無邪気に快活 に行わね ば ならぬであり, 「蝶々」 「象」 などではその形を工夫させ, 「かぞえ歌」 では平易な連続的動作によ りリ ズム訓練を行い, 国民的思想を養うとあった, 動作は全く定め られているのであるか ら, 児童 の表現の自由はなく, 枠内で の模倣的動作,形態を模倣したポー ズを試みさせるに止まる. そ して, 歌詞を体現するというその動作はフォーク ダンスからの引用であり 種々のステ プと ミレー な ど , のポーズをつなぎ合わせたような内容なのである, たとえば, 「水師営の会見」 という, 平易な動 作により団体的行動に馴れさせ, 両将軍の歴史的会見の情況を偲ばせて国民的思想を養うための材 2 ) 料 は, チ ェ ー ンと カ ー ツ ィ(あ い さ つ), 拍 子, 連 手 な どの 動 作 に よ る も の で あ る2 ,. 1 1年要目にあ らわれたダンス系教材は大正, 昭和初期の成果を国家が吸収し, 自らの教育目的に 従属させた折衷的なも のであ った. 「春が来た」 「汽車」 「舟の旅」 や, 「兵隊さん」 「ひかうき」 「故 郷」 などと外国のフォークダンスが混在する材料と, 無邪気に, 快活に, 活動的に 優美に など , , と, 敬度の念, 団体的精神, 郷土愛, 国民的思想を養うなどのね らいが混在している点にもそれが 3 ) 昭和初年には 三浦 戸倉氏 らによる外国製教材を輸入して教授する段階からの 示されている2 . , , 脱却が試み られ, 創作遊戯の専門家の出現などの影響もあり, 11年要目にはそれら成果を反映 して いるのである, しかし, 国家的要請は文部省検定済の唱歌による遊戯で国民精神養成をということ になり, 材料の増加’ 感情移入, 模倣表現の強化多面化という自由主義的方向が, 愛国精神と結合 さ れた の で あ る. (27).

(7) . 昭和初期の学校 ダンスに関する一考察. このことに関 して三浦氏はある意味で批判的であり, 楽曲には愛国の念が表われていても運動形 式にはそれがない, 運動の中にないものを生徒に要求するとすれ ば, それは感情の統制 である. こ のような材料, .指導の方法によ ってはまことの感情陶冶は不可能であると述 べ, 氏が書かせた生徒 の作文にも動きと歌詞が一致していなくて納得できず踊 っても疑問である旨が記録されており, 氏 が 「仲 よ し 、 」 「グリ 【 テ ず ソ グ」 な どフ ォ ←ク ダソス 系のものを選び親しさあふれた気分で踊 った 4 ) 授 業 が 記 録 さ れ て い る2 .. 更に, 要目中の材料に関して, 最善のものとは信 じ難い, 心的発達の自然に運行する, 低学年は 多いが高学年は少い, 運動重視 の体育 ダンス観は体育 ダンス低下の原因であり情的純化高 揚は望め ない, 歌曲の求めるもの が深遠であり愛国的精神を養うとか国民志操を滴養するとかであ るにして も, 運動形式でそれと一致しない場合は児童に 対してそれを要求することはできぬ等々によって批 5 ) 官学を去 って青山学院女子部という自由の場から, 運動量を問 題にする体育 ダンス 判している2 . 6 )や文部省唱歌に従来と変 らぬ動作をつけて国民的感情その他を強制すること, 一部にあ ったと 観2 0. いう児童の作品創作などについて反対の意見を述べるが, それは他に影響を及ぼすことは少ない, すでに, 国をあげて教育を国家的に統制する, そのため要目を厳格に実施させる方向へすすんでい た の で あ る.. ダンス的教材 がある程度豊かに多様にな ったことにみ られる進歩や模倣表現の導入という自由性 は, 「要目二基キ」 「教授細目ヲ定メ テ」という教育内容の国家的統制と矛盾するようでありながら, 実際は結合して進行 したのである. やがて昭和16年に至って, 「国民学校令」 「体錬科」 における ダンス系のものはもはや ダンスとば 呼べないような, まことに皇国民 錬成のための体操の 一部と化したのである. むすびにかえて 1年要目における ダンス につ 本論においては, 大正15年要目と一般と進歩的なと評価される昭和1 いて, そのどちらについても直 接の委員ではなかったが, 両要日をつなぐ実践をすすめた 三浦ヒロ の ダンス論と実際について両者をからみ合わせて考察するのが主な目的であ った. 三浦氏のダンス論と教育は特異であり学校における ダンス史にとって大きい意 義をもつものであ って, 我々に とり検討すべき材料は豊富である. 氏は第二次大戦後は主と して社会教育にたずさわ ってお られるが, 当時の先進的業績は, 現在活躍中の戸倉氏に 較べ, 顧みられることが少ない. 氏 が東京女子高等師範学校か ら引退せ ざるを得なかったことを以て, 体育界が氏の役割を否定的にみ る傾向があ ったことな どの原因は様々あろうし, それを究めたい,氏に会って確めたい点も多いが, 未だ果せずにいる. 人間完成の道を基調とする体育をダンスによ ってと念願 し, 「女性体育の最高 要点は, 女性本来の特 質としての感情生活を純化 し高揚するという一点にあり, F美的感情を本来 の生命とする ダンスがいかに女子体育の上に重視せ らるるべ きであるか, 又まことの感情陶冶に資 ) 7 」 という立場にあった氏 するような指導をす ることがいかに有効な体育であるか疑う余地 がない2 が, 時の体育等か ら受け入れ られず退き, 昭和11年教授要目が 「国民道徳の養成につとめ, 婦徳の 液養に留意すべ きものとす」 「人格を陶冶するにおいて遺憾なきを期せ らるべし」 とある点に注目 し, 期待していく姿は新教育実践者 が辿った体育における一つのモデルとして意味深い. ダ ンス に よ っ て も 忠君愛国の精神を養おうという方向にすすむ力が三浦ヒロを女高師か ら退陣さ. せたこと, 仏教的色濃い自由主義理想主義的精神す らも追放したという点にファシズム体制の強制 力, 自由を圧殺する力の無道に大なるを知ることができよう. 官学を離れた後の氏は, 当然のことか どうか保守的である. それは時勢に よって変 っていく ダン (28).

(8) . 高. 橋. 美 栄 子. スの生命を守り抜く姿勢でもあっ た. そ して保守的姿勢は事情の変 った昭和20年後も変ることがな い. この辺にも氏が現在あまり顧み られない原因の一つがあろう. 昭和初年, 模倣表現的舞踊の 先 駆であった氏が, 昭和28年文部省学校体育指導要領に示した反応は興味深いものがある, もともと ダンスの体育的使命は材料をつくりだすことにはなく材料を実演することにあり, 女子の体育は ダ ンスを主と すべ きであるが, 実状か ら考えても創作指導に重点を置く べ きではないという意見であ 8 ) 昭和32年にも 「ダンスが体育材料と してとりあげらた瞬間に 体育としての制約を受け ったが2 , , ) 昭和の 9 る」 のであり, 「既成の作品の学習が体育的であ って, かつ教育的である」 と主張する2 , 3 ) は じめには 「何々の動作が自由に表現できるように 0」 と強調していたのであり, そこにも, 日本 の現実や子どもの実態などを認識する中で, 外国から学んだものと自分の理想を結合したダンスが 変 化 して い っ た こ と が解 る,. 昭和初年代において創作的学校 ダンスの芽が表われたのであ ったが, 創る, といっても創る主体が 児童にあるのではなく, 多くは, 教師の与えるものを模倣する, 断片的な模倣運動を, 体操のよう に号令で型にはめて行うのではなく,音楽をつけて律動的に行うという点に新しさがあ った. 実際, 子どもにとっては体操にく らべ どれ程新しく自由で, 楽しい遊戯であったのだろう, この時代これ ら新しい遊戯が実際行う生徒の側か らはどう受けとられたのであろうか. これ らについての考察も 今 後 に 残 っ て い る,. 第二次大戦後の学校 ダンスにおける創作活動は, その主体が子どもとな った, 子どもが自らの経 験を直観によってとらえ, 子どもなりの段階で身体表現するのである. 教師は子どもの内に在るリ ズムや動きをひきだし, 生々と表現するよう指導 することが仕事となった, このようなダンス教育 は, 一見, 全く新しいものの誕生のように思われる. しかし, やはり歴史的な関連において, 戦後 情勢の変化の中で, 世界的なダンス教育のすう勢と関わりつつ, 再び生きたのである. その点の詳 細は, 後日調べ たい, 以上粗略ではあるが, 大正15年には体操の一部という位置づけで展開し, 昭和11年教授要目 ダン スでは, 自由主義的児童中心主義的教育の理念を変型させながら反映したものとしてあ らわされた ことをみた. 第二次大戦後の体育科におけるリ ズム運動, ダンスは, 大正期の児童中心主義的教育 の理想と遺産が受けつがれ体育において展開したものの一つとして位置づけることが出来るのでは ないか, 粗雑に立論することを避け, 今後多面的に考察したい. この小論については, 東京教育大学体育学部岸野雄三, 松本千代栄両氏の示唆, 指導によるとこ ろ大であり, 当分校体育科諸先生の援助に負うところ が多いので, 末尾ながら謝意を表 したい.. (註) 1) 山住正巳:日 に近代体育史, pp 196 2 ) 岩波書店. ,164~224( 19 59 2) 岩野雄三・竹之下休蕨:近代日本学校体育史, pp ) 東洋館出版社, .125~154( 2 2 6( 3 2 3 1 6 3 東洋経済新報社 3) 宮原誠一:教育史, pp ~ 9 ) , , 白井規矩郎:韻律体操と表現遊戯, l kdance he 4) 高橋キャウ:行進遊戯ょり,1 )2 i t t ) s c danc e , 民俗的舞踊 (Fo . 審美的舞踊 (Ae , 3, 体育的舞踊 ic dance), 4 (Gyma 描出 l i t 舞踊 ( t t t d l l B r 5 歌舞踊 n e r e a v e ) ( a n t ) c e a p e. , , . 19 29 5) 高橋キャウ:行進遊戯, p ) 右女節. ,5( 6) 同 上, p .7 ,. 1914 7) 同上, 目次, 及び高橋キャウ:唱歌遊戯, 目次 ( ) 右女館, 8) 註3に同じ, こ同じ, 及び, 三浦ヒロ:小学校における行進遊戯材料と其指導, p 9) 註1む 1 93 1 ) 目黒書店, ,1( 1 1 0 93 8 ) 同志同行社, ) 三浦ヒロ:真実の体育を求めて ( i ・学校における行進遊戯材料と其指導, 1 1 ) 同上:′ (29).

(9) . 昭和初期の学校ダンスに関する一考察 19 26 ) 芦田書店, 12 ) 同上:欧州の体育を みて ( 17 13 ) 同上:真実の体育を求めて, p ,1 , 193 7 ) 14 ) 雑誌学校体育, コントラストデッサン ( . , (真実の体育を求めてに記載あり) ,io 1928 ) 日本体育学会. 15 ) 三浦ヒロ:コ ドモノ遊 ビ第一集 ( 16 ) 註15に同じ. 1938 ) 教育科学研究社, 1 7 ) 三浦ヒロ:真実の体育を求めて, 及び, ,両:女教師の記録 ( 3 1 1 4 6 ( 9 7 ) 成美堂 ~ 18 ) 同上:女学校の唱歌遊戯行進遊戯, p , , 1 936 ) 東洋図書, 19 ) 同上:女性体育とダンス ( 1936 ) 目黒書店, 0 2 ) 同上:コドモの遊び第一集, 及び, 岩原拓他:学校体操教授指針 ( 196 5 ) 雑誌新体育より引用, 21 ) 木下秀明:ダンス的教材の史的考察 ( .8 22 ) 岩原拓他文部省体育研究所体育研究協会:学校教授指針, 2に同じ. 23 ) 註2 2 4 ) 三浦ヒロ:真実の体育,を求めて, 及び女教師の記録, 25 ) 同上:女性体育とダンス, 及び女学校の唱歌遊戯行進遊戯, 26 ) たとえば小笠原道生は, 「体育における情操教育はあくまでも体育におけるものであるということである ド …・ それは先ず体育運動として身体修練に資すると共に, その上情操教育にも資するよう努めなければなら ないという意味であって……体育運動として価値のないものならば, これは体操料の教材の中に入れる ま無意味である,」 ことも .190(註2) より, .岸野, 竹之下:近代日本学校体育史, p 1 註 9 27 に同じ, ) 8に同じ, 28 ) 註1 19 57 2 9 ) 三浦ヒロ;体育を語る ( , , 雑誌体育の科学) .8 1958 同上:学校 ダンスについて ( . , 雑誌体育科教育) ,8 3 0 ) 同上:註15に同じ,. (30).

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参照

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