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Politics and History for Amino Yoshihiko in the 1950s : His Beginnings with the International Communist Movement

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Academic year: 2021

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(1)

<研究論文>一九五〇年代の網野善彦にとっての政治

と歴史 : 国際共産主義運動からの出発

著者

内田 力

雑誌名

日本研究

58

ページ

195-213

発行年

2018-11-30

その他の言語のタイ

トル

Politics and History for Amino Yoshihiko in

the 1950s : His Beginnings with the

International Communist Movement

(2)

は じ め に   日 本 中 世 史 家 の 網 野 善 彦( 生 没 年 一 九 二 八 ~ 二 〇 〇 四 年 ) は︑ 一 九 七 〇 年 代 ご ろ か ら 新 し い 歴 史 学 の 潮 流( ﹁ 社 会 史 ﹂ ) の 代 表 的 人 物として注目されるようになり︑のちに﹁網野史学﹂ ・﹁網野史観﹂ と称される独自の歴史研究のスタイルを打ち立てた人物である︒か れ は 日 本 の 中 世( 鎌 倉 期 ~ 戦 国 期 ) を 非 農 業 民 の 側 か ら 捉 え な お し︑ 一九九〇年代には国民国家批判を展開した︒かれの歴史観は大量の 著作により広く人口に 膾 かい 炙 しゃ した︒とくに大衆文化の実作者への影響 は大きく︑映画監督の宮崎駿や小説家の隆慶一郎︑北方謙三の作品 にその影響がみられる︒   では︑網野はなぜこれほどまで個性的な歴史研究者になったのだ ろうか︒そう考えて網野の自伝を読むと ( 1) ︑一九五三年の夏に左翼政 治運動から離脱したことが重大な転換点として語られている︒共産 党 内 が 所 感 派( 網 野 の こ と ば で は﹁ 民 族 派 ﹂ ) と 国 際 派 に 分 裂 す る な か︑自身は﹁自らの功名のために︑人を病や死に追いやった〝戦争 犯 罪 人 〟 そ の も の ﹂ だ っ た の で あ り︑ 一 九 五 三 年 の 夏︑ ﹁ そ う し た 許し難い自らの姿をはっきりと自覚した﹂できごとをきっかけにし て︑研究をやりなおすことを決意した︑と網野は語る ( 2) ︒ところが︑ 網野自身がこのできごとの詳細を終生あかさなかったこともあり︑ 一九五〇年代の網野の活動を同時代の左翼政治運動の潮流とつきあ

一九五〇年代の網野善彦にとっての政治と歴史

国際共産主義運動からの出発

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わせて検証した研究は存在しない︒   そこで本論文では︑一九五〇年代の政治環境と網野の活動との関 係 を 検 討 す る こ と を 課 題 と し た い︒ 網 野 の 体 験 は 小 熊 英 二 が 大 著 ﹃︿ 民 主 ﹀ と︿ 愛 国 ﹀﹄ の な か で 検 討 し て い る も の の ( 3) ︑ そ の 記 述 は︑ 網野が参加した﹁国民的歴史学運動﹂とナショナリズムの関係に集 中している︒そのため︑小熊の書をもってしても︑一九五〇年代の 共産党分裂と網野の体験の関係性については未検証である︒本論文 で は︑ 網 野 の 死 後 に 刊 行 さ れ た 証 言 や 資 料 も 参 照 し な が ら 網 野 の 一九五〇年代を検討する︒   ある年代以上の歴史研究者にとって︑左翼運動経験やマルクス主 義からの影響はとくに珍しいものではないが︑年代によってその運 動の性格は大きく異なる︒一九五〇年代までの左翼運動の場合は︑ 一九六〇年代以降と比べて︑日本共産党との関係が色濃い︒本論文 では︑当時の中ソ同盟が日本共産党にあたえた影響を念頭に置きつ つ︑つまり国際共産主義運動という文脈に気をつけつつ ( 4) ︑一九五〇 年代に網野が体験した左翼運動の特徴をあきらかにする︒本論文を つうじて︑一九五〇年代特有の左翼運動のありかたを描写すること になるだろう︒   くわえて︑一九八〇年代の﹁網野史学﹂へのつながりを考えるう えで︑本論文では歴史を大衆に伝えるためのメディアの問題に注目 する︒なぜなら︑一九八〇年代の網野は歴史を人々に伝えるために︑ 図像資料に着目し︑絵本制作のような企画にも挑戦していったから である︒その原体験が一九五〇年代の左翼運動経験のなかにあった ことは︑後年の﹁網野史学﹂との関係を考えるうえで見逃すことが できない︒   本論文はつぎのように構成されている︒まず︑日本の敗戦直後に おける網野と共産党の関係について説明する︒つぎに︑一九五〇年 以降の共産党分裂期を対象として︑網野をとりまく政治的状況を分 析 す る︒ そ の う え で︑ お な じ く 共 産 党 分 裂 期 に 網 野 が︑ 歴 史 を め ぐ っ て い か な る 活 動 を 展 開 し て い た の か を 分 析 す る︒ 最 後 に︑ 一九五〇年代後半の文章を分析することで︑左翼政治運動から離脱 したあとに︑網野がいかなるかたちで歴史研究を再開したのかを検 討する︒ 一   網野善彦と日本共産党の関係   本節では︑網野の大学生時代( 一九四七年四月~五〇年三月 )を対 象に︑かれの活動と日本共産党との関係を説明する︒   一九二八年生まれの網野は︑一九四七年に東京大学文学部国史学 科に入学し︑在学中から日本共産党の政治活動に参加した︒先輩で あ る 色 川 大 吉( 一 九 四 八 年 に 東 京 大 学 を 卒 業 ) は︑ ﹁ 後 輩 の 網 野 善 彦 君 が 一 年 生 で 党 員 に な り︑ ﹁ 色 川 さ ん︑ こ の 道 し か あ り ま せ ん ﹂ な

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んて言うんだ﹂と証言する ( 5) ︒敗戦直後の東京大学では︑多くの学生 が共産党の政治活動に参加し︑それが学生運動の一大勢力となって いた︒網野もそのような学生のひとりであった︒   そ の 後︑ 網 野 は 民 主 主 義 学 生 同 盟( 民 学 同 ) と い う 団 体 に 結 成 時 から参加し︑副委員長兼組織部長として熱心に活動するようになっ た ( 6) ︒この団体は共産党の政治方針と密接に関係する学生団体であっ た︒アメリカの対日政策が﹁非軍事化・民主化﹂の方針を転換した ことをうけて︑一九四八年二月に共産党は党中央委員会で﹁民主主 義の徹底・人民生活の安定と向上・民族の独立﹂を基本目標として 民主民族戦線の結成を目指すことを決定し︑社会党などの各種団体 に参加を呼びかけた ( 7) ︒この流れのなかで大学生の戦線への参加を牽 引すべく一九四八年一一月に結成されたのが︑民主主義学生同盟で あった︒網野によると︑ ﹁当時は︑青年共産同盟があったんですが︑ それとは別に︑もうちょっと学生の独自性を生かした組織を作ろう ということになったんでしょうね︒その中央にわたしは引っ張りだ さ れ ﹂ た︑ と の こ と だ ( 8) ︒ 民 学 同 は 全 国 組 織 で あ り︑ そ の 参 加 者 は ﹁あっという間に二︑ 三万人に増えた﹂のだが︑網野は組織部長とし て︑ ﹁ あ ま り 地 方 に は 行 か な か っ た け れ ど も︑ 東 京 の 学 校 は ず い ぶ ん歩きまわった﹂という ( 9) ︒   ところが︑直後に日本共産党は方針を転換して︑複数の青年組織 を合同することにしたため︑民主主義学生同盟は解散となり︑民主 青年合同委員会を経て︑一九四九年四月に日本民主青年団準備会と いう単一組織に移行した ( 10) ︒これにより網野は役職から外れ︑卒業論 文に専念する時間を得ることになる︒日本共産党に関わったことで︑ 網野個人の活動は共産党の活動方針に翻弄されたのであった︒   網 野 の 研 究 対 象 は︑ 日 本 中 世 に お け る 若 狭 国 の 東 寺 領 荘 園・ 太 たらのしょう 良荘 であった︒網野が歴史を専門にするようになったきっかけは ﹁ 自 分 で も よ く わ か ら な い ﹂ と 後 年 に 述 べ て い る が ( 11) ︑ 中 世 史 研 究 に 進んだのは大学の先輩である永原慶二との交流をつうじて歴史書を 読むようになり︑とりわけ一九四六年六月に刊行された石母田正の ﹃中世的世界の形成﹄ ( 伊藤書店 )を読んだ影響が大きかった︒   ここで︑磯前順一の整理 ( 12) に沿って︑日本のマルクス主義にとって ﹃ 中 世 的 世 界 の 形 成 ﹄ が 占 め る 位 置 を 簡 単 に 確 認 し て お き た い︒   マルクス主義やそれを前提とした国際共産主義運動の特徴のひとつ は︑ 政 治 戦 略 と 科 学 的 な 歴 史 把 握 を 結 び つ け て い た こ と で あ る︒ ﹁ 一 九 二 〇 年 代 か ら 一 九 三 〇 年 代 に か け て︑ い わ ゆ る﹁ 新 興 科 学 ﹂ と呼ばれたマルクス主義歴史学﹂は﹁たくさんのソ連歴史学界の翻 訳書によって支えられていた﹂ ( 13) ︒それだけでなく︑ ﹃日本資本主義発 達史講座﹄のように︑コミンテルンの政治指令である﹁三二年テー ゼ ﹂ が 歴 史 研 究 を 方 向 づ け て い た︒ と こ ろ が︑ ﹁︹ 引 用 者 注・ 一 九 三 三 年 の ︺ 日 本 共 産 党 の 壊 滅 以 降︑ コ ミ ン テ ル ン と の 連 絡 を 切 断された日本のマルクス主義者は国際世界から孤立することになる︒

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しかし︑かえってその孤立傾向が︑彼らをコミンテルンの指令から 解き放ち︑いかなる権威にも依存することなく︑日本の社会に向き 合 う 姿 勢 を も た ら し た と い え よ う ﹂ ( 14) ︒ そ の 時 代 の 代 表 作 が 戦 時 下 に 書かれた﹃中世的世界の形成﹄であった︒   マルクス主義歴史学の歴史叙述は︑近代と原始古代の両方向から は じ ま り︑ 一 九 三 〇 年 代 ま で に そ れ ぞ れ﹃ 日 本 資 本 主 義 発 達 史 講 座﹄と﹃日本歴史教程﹄という成果を生み出していた︒その結果︑ ﹁ 中 世 史 の 叙 述 が 空 白 部 と し て 残 さ れ る こ と に な り︑ 講 座 派 と 教 程 グループがそれぞれ埋めようと試みることになる﹂ ( 15) ︒こうして︑ ﹃中 世的世界の形成﹄が古代から中世史への移行過程をめぐる叙述のひ と つ と し て 登 場 し︑ 一 九 五 〇 年 代 の﹃ 日 本 歴 史 講 座 ﹄( 河 出 書 房︑ 一 九 五 一 年・ 一 九 五 三 年 ) に よ り︑ ﹁ 階 級 社 会 の 成 立 と そ の 消 滅 と い う筋書きのもとに︑原始・古代・中世・近世・近代といったマルク ス主義的な社会構成体を貫ぬく︑歴史叙述の基本的枠組みがほぼ出 揃﹂った ( 16) ︒つまり︑網野を魅了したのはマルクス主義という普遍理 論の日本史叙述への適用を完成に近づける仕事だったのである︒   これにくわえて︑敗戦後の日本の再建にあたって日本に残存する 封 建 性 に 対 し て 関 心 が 集 ま っ て い た︒ た と え ば 一 九 四 六 年 二 月︑ マ ッ カ ー サ ー が 憲 法 改 正 に 際 し て G H Q 民 政 局 に 示 し た 三 原 則 ( ﹁ マ ッ カ ー サ ー・ ノ ー ト ﹂ ) の な か に は︑ ﹁ 日 本 の 封 建 制 度 は 廃 止 す る (

The feudal system of J

apan will cease.

)﹂ との文があった︒戦後に再 建された日本共産党も︑日本社会の封建的な性格を強く批判してい た︒網野の研究テーマは若狭国における封建制度の確立をあつかっ たものであり︑敗戦直後の左翼政治運動のなかで実践的なテーマで もあった︒ 二   国際共産主義運動の一環としての政治活動   本節では︑一九五〇年からの共産党分裂期を対象に網野の政治活 動を国際共産主義運動の一環として説明する︒   網野善彦は東京大学文学部を卒業後︑日本常民文化研究所月島分 室( 東 京 都 中 央 区 ) に 勤 務 す る︒ こ の 研 究 所 は 水 産 庁 か ら の 委 託 で 全国各地の漁村の古文書を収集・整理・刊行する業務をおこなって いた︒ただし網野の回想によると︑当初は政治活動に注力していて︑ 研究所の業務には熱心でなかったという ( 17) ︒   いっぽう︑共産党主導の労働運動は一九四八年ごろには路線対立 により高揚期が終わりにむかっていた︒しかし国際政治に目を転じ ると︑むしろ状況は緊迫化していく︒中国では一九四九年に中国共 産党が国共内戦を制して中華人民共和国が成立し︑一九五〇年六月 か ら は 朝 鮮 戦 争 が 開 戦 し た( 一 九 五 三 年 七 月 休 戦 )︒ か く し て︑ 日 本 国内では一九五〇年に中ソ同盟との関係をめぐって日本共産党内部 の路線対立が表面化する︒

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  きっかけはコミンフォルム機関誌﹃恒久平和と人民民主主義のた めに﹄の記事だった︒一九五〇年一月六日にこの雑誌は野坂参三の 理論を批判する論文を掲載して︑日本共産党に路線転換を求めた︒ その対応をめぐって日本共産党は主流派と反主流派に分裂した︒こ のいわゆる﹁五〇年分裂﹂は︑一九五五年七月の日本共産党第六回 全国協議会( 六全協 )で統一が図られるまでつづくこととなる︒   この分裂は﹁所感派﹂と﹁国際派﹂の対立だとしばしば解説され︑ 網野もそのような説明をするが︑やや単純化のきらいがある︒たし かに当初︑反主流派の﹁国際派﹂はコミンフォルム批判の無条件で の 受 け 入 れ を 主 張 し た の に 対 し て︑ 主 流 派 で あ る 党 執 行 部 は﹁ ﹃ 日 本の情勢について﹄に関する所感﹂を発表して留保をつけた︒徳田 球 一 や 伊 藤 律 を 中 心 と す る 主 流 派( ﹁ 所 感 派 ﹂ ) は 中 ソ 同 盟 と の 連 携 に慎重であり︑宮本顕治や志賀義雄らは国際的な権威に拠って主流 派 を 批 判 し た の で あ る︒ と こ ろ が︑ こ の 構 図 は す ぐ に 覆 る︒ ﹁ 主 流 派が急旋回し武装路線に走り︑国際路線を追求しだした後にこの立 場は逆転﹂するからである ( 18) ︒執行部はむしろ中ソ同盟に全面的に従 う方針をとり︑反主流派は執行部の極端な態度変更を批判するよう になる︒   もともと日本共産党の権威の源泉はその国際性にあった︒世界史 を説明するマルクスとエンゲルスの理論を前提とした政治方針をと り︑現実の国際政治ではスターリンを筆頭として社会主義国の存在 が影響力を増していた︒中国の国共内戦は中国共産党の勝利に終わ り︑次いで朝鮮戦争が勃発した︒こうしたなかで︑日本共産党の執 行 部( 主 流 派 ) が 中 ソ 同 盟 の 指 導 下 に 入 る の は そ う 不 自 然 な 帰 結 で はなかった︒   一九五〇年八月には﹁北京機関﹂が設立され︑党執行部は中国に 密航して中国から国内の党員に指示を出すようになる︒このような 経 緯 か ら︑ ﹁ 所 感 派 ﹂ が 民 族 の 問 題 を 強 調 し た か ら と い っ て︑ 所 感 派に属する人物は中ソとの関係が薄いというわけではない︒   網野の活動が国際的な文脈のなかにあったことは︑かれの文章か らも垣間見ることができる︒網野のデビュー論文である﹁若狭にお け る 封 建 革 命 ﹂( 一 九 五 一 年 一 月 ) は︑ 冒 頭 で ス タ ー リ ン の﹃ マ ル ク ス主義と民族問題﹄を挙げて︑スターリンの﹁民族﹂定義を念頭に 置いて議論をはじめている ( 19) ︒   も う 一 例 は 網 野 の 講 師 と し て の デ ビ ュ ー に 関 わ る も の で あ る︒ ﹁ 鶴 見 地 区 労︹ 鶴 見 地 区 労 働 組 合 協 議 会 ︺ の 主 催 に よ っ て 開 か れ て い る 労 働 学 校 ﹂ が 一 九 五 一 年 七 月 か ら﹁ ﹃ 社 会 発 展 略 史 ﹄ を 二 カ 月 の 計画でとり上げた﹂ときに︑網野が講師として派遣された ( 20) ︒ここで 教 科 書 と さ れ て い る の は﹃ 社 会 発 展 略 史

中 共 幹 部 必 読 文 献 ﹄ ( 五 月 書 房︑ 一 九 五 〇 年 十 一 月 ) の こ と で あ り ( 21) ︑ ソ 連 の 経 済 学 者 レ オ ンチェフの文献を中国の出版社が一九四八年八月に刊行した書の日 本 語 訳 で あ る︒ ﹁ 原 始 共 産 制 ﹂ ↓﹁ ド レ イ 制 度 ﹂ ↓﹁ 封 建 制 度( 農

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奴 制 度 )﹂ ↓﹁ 資 本 主 義 ﹂ ↓﹁ 共 産 主 義 ﹂ と い う 発 展 段 階 に 沿 っ て それぞれの社会の特徴を学習できるようになっており︑付録として マルクス主義思想家・ 艾 がい 思 し 奇 き による﹁社会発展史を学ぶときにおこ るいくつかの問題﹂が収録されている ( 22) ︒つまり︑網野は中国で作ら れたマルクス主義の教科書の翻訳を片手に教壇デビューを飾ったの である︒   一 九 五 一 年 十 月 に 日 本 共 産 党 が 第 五 回 全 国 協 議 会( 五 全 協 ) で 武 装闘争の方針を決定すると( ﹁五一年綱領﹂ )︑ 網野もその方針に沿っ た行動をすることとなった︒この時期の日本共産党は中国共産党の 中国での成功を踏まえて︑農村に革命の拠点を作る計画をもってお り︑各地に山村工作隊を派遣していた︒網野自身は実際に山村工作 隊に参加することなく︑工作隊の派遣に関わっていたという︒のち の網野は﹁督戦隊みたいな役割をしていた﹂ ( 23) と表現しているが︑具 体的にどの山村工作隊でのことを指すかはあきらかにしていない︒   しかし︑時期と地域︑さらに網野が工作隊員の逮捕や病死に言及 していることから判断して︑網野が関わったのは一九五二年の小河 内 村( 東 京 都 三 多 摩 地 区 ) へ の 山 村 工 作 隊 の 送 り 出 し と 考 え ら れ る︒ この山村工作隊には早稲田大学の学生が参加しているが︑ちょうど こ の 時 期 に 網 野 は 早 稲 田 大 学 の サ ー ク ル 歴 史 研 究 会( 歴 研 ) に チ ュ ー タ ー と し て 出 入 り し て い た ( 25) ︒ 早 大 細 胞 は 党 中 央( 所 感 派 ) に よる組織再建がなされたばかりで︑一九五一年暮れごろには早稲田 の社会科学研究会の講師が﹁主流派の松本新八郎︑前田良らに切替 え さ せ ら れ る と い う 状 況 だ っ た ﹂ ( 25) ︒ 松 本 に 近 か っ た 網 野 も こ の と き から早大歴研に関与しはじめたのであろう︒小河内村のダム建設阻 止のための軍事拠点づくりには︑旧国際派の早大生が多く派遣され ( 26) ︑ この派遣にはあきらかに﹁懲罰﹂と﹁党への忠誠心の試し﹂の意味 が込められていた ( 27) ︒小河内では一九五一年十一月ごろから山村工作 隊 ( 28) が活動していたが︑三回にわたる一斉検挙を受けて逮捕者を出す こととなる︒岩崎貞夫のように小河内での食料不足がもとで体調を 崩し︑下山後の一九五三年十月に三十五歳で亡くなった人物もいる︒ 当時の逮捕者のひとり土本典昭は︑小河内行きを命じられたときの こ と を︑ 一 九 五 二 年 六 月 下 旬 の こ と だ と し た う え で︑ ﹁ 大 義 名 分 を ふ り か ざ し 小 河 内 の 重 要 性 を 説 く 正 体 不 明 の﹁ 学 対 ﹂︹ 共 産 党 の 学 生 対 策 部 を 指 す ︺﹂ か ら 工 作 隊 参 加 を 伝 え ら れ た と 回 想 す る ( 29) ︒ こ の 人 物が網野であるかはもちろん不明であるが︑同種の活動を網野が早 大でしていた可能性が高い︒   一九五〇年代の網野の活動については︑党幹部伊藤律との関係を 示 唆 す る 証 言 も 存 在 し て い る︒ 日 本 中 世 史 家 の 今 谷 明 は﹁ ︹ 網 野 ︺ 先生から﹁自分は伊藤律の指令を下部へ伝達する役﹂を担っていた と承ったことがある﹂と書いている ( 30) ︒伊藤律という人物は︑五〇年 分裂のなかにあってもっともその立場が状況に翻弄された党幹部で ある ( 31) ︒日本共産党の当時の最高指導者徳田球一の右腕ともいえる党

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幹部であり︑一九五一年に北京に渡航して北京機関にくわわった︒ しかし︑徳田が病気で倒れると︑野坂参三によりスパイ容疑をかけ られ︑一九五三年九月に伊藤律は党から除名され中国で投獄された︒ 伊藤の除名は共産党の機関紙 ﹃アカハタ﹄ ( のちの ﹃しんぶん赤旗﹄ ) でも報告され︑監禁状態は一九八〇年までつづく︒   今谷は伊藤からの指令があった時期を﹁恐らく伊藤律の離日直前 の 頃 で は あ る ま い か と 推 測 ﹂ し て い る ( 32) ︒ 伊 藤 が 国 内 の 地 下 指 導 部 で中心的人物のひとりとなった時期と一致するので妥当な推測であ ろう ( 33) ︒   さらに犬丸義一はつぎのような証言をのこしている ( 34) ︒ ﹁薄紙指導﹂ と呼ばれた︑ 党の地下指導部からの指示書があった︒ カーボン紙で限られた枚数だけ複写され︑封をした秘密書類で ある︒それを網野さんから受け取って︑民科歴史部会のグルー プ員に届けるというメッセンジャーボーイの役を私が一時期つ とめていたので︑それを受け取るために何度か月島の常民文化 研究所を訪ねたものである︒ ﹁ 常 民 文 化 研 究 所 を 訪 ね た ﹂ と い う こ と は 一 九 五 〇 年 四 月 以 降 の こ とである︒この﹁薄紙﹂ ( 35) が伊藤から受け取ったものかは不明である が︑網野は地下潜伏した党幹部との連絡役を務めていたことがわか る︒そして︑伊藤の除名が日本に伝えられた時点で︑共産党内にお いて網野の進退が窮まったことは想像に難くない︒網野が左翼政治 運動から離脱した一九五三年夏はちょうどこの時期であった︒ 三   大衆戦略としての歴史表象の実践 (合唱と紙芝居)   前節では網野をとりまく政治的な環境について説明した︒本節で は網野が同時期に歴史をめぐっていかなる活動をしたのかをとりあ げる︒   こ の 時 期︑ 網 野 は 一 九 五 一 年 一 月 に﹁ 若 狭 に お け る 封 建 革 命 ﹂︑ 同年十二月に﹁封建革命とはなにか﹂と﹁封建社会成立期をめぐる 諸問題﹂を論文として発表している︒ただし︑これらの論文に関し てはすでに山本幸司が詳細に分析しているので ( 36) ︑本節では網野が主 導した歴史を題材とした大衆運動を中心に説明する︒   ﹁ 五 一 年 綱 領 ﹂ 下 で 日 本 共 産 党 が 主 導 し た 運 動 に は︑ ソ 連 に 倣 っ た都市でのゼネスト・武装蜂起戦略と中国に倣った農村ゲリラ戦略 といった武装闘争路線 ( 37) のほかに︑平和的な大衆戦略も存在していた︒ 武装闘争路線は徐々に失敗があきらかとなり︑一九五二年七月に徳 田球一の論文﹁日本共産党三〇周年にさいして﹂が発表されたこと により六全協に先立って修正されている︒代わって強化されるよう になったのが大衆戦略であった︒著名なうたごえ運動やサークル運

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動も一九五二年以降に活況を呈した大衆運動であった︒   この大衆戦略が歴史研究の大衆化運動と結びついたのが﹁国民的 歴 史 学 運 動( 国 民 の た め の 歴 史 学 運 動 )﹂ で あ っ た︒ こ の 運 動 で は︑ ﹁ 国 民 の た め の 歴 史 学 ﹂ を 目 指 し て︑ 民 主 主 義 科 学 者 協 会 歴 史 部 会 や歴史学研究会などの歴史学会が︑歴史学の実践運動を展開した︒ とりわけ紙芝居や演劇などの大衆性のあるメディアを通じて︑歴史 研究者が人々の歴史認識に関わることが企図された ( 38) ︒   こうしたなかで︑歴史学研究会の委員になった網野が大会運営に 携わることになったとき︑かつて民学同で組織部長を務めた経験を もとに︑歴史を題材とした大衆運動を推進した ( 39) ︒網野が委員として 企 画・ 運 営 に 携 わ っ た 歴 史 学 研 究 会 の 一 九 五 二 年 の 年 次 大 会 ( 一 九 五 二 年 五 月 ) で は︑ 紙 芝 居﹁ 山 城 物 語 ﹂﹁ 祇 園 祭 ﹂ ( 40) ︑ 人 形 劇 ﹁あのさま﹂ ︑民話劇﹁彦一ばなし﹂の上演にくわえて︑網野自身も 参加した歴史家コーラス団による合唱がプログラムに組み込まれて いた︒ここに合唱が登場するのは唐突に感じるかもしれないが︑当 時のうたごえ運動の盛況を踏まえた着想だったはずである︒   この歴史学研究会の大会が契機となり︑歴史に関する紙芝居が研 究者によってつぎつぎと制作されるようになった︒この時代︑大衆 文 化 を 支 え る メ デ ィ ア は 紙 芝 居 と 幻 灯 と な っ て い た︒ こ れ ら の メ ディアはテレビ放送が開始されると次第に衰退にむかっていくもの の ( 41) ︑手作りが可能であったことから︑左翼運動では一九五〇年代を つうじて重要なメディアでありつづける ( 42) ︒そのようなメディア環境 のなかで︑ひとつの論点に浮上していたのは︑学術成果の発表媒体 として主流であった白黒印刷の雑誌でなく︑紙芝居や幻灯というメ ディアで歴史を表象することであった︒   網野も︑歴史学研究会の封建部会での紙芝居づくりに参加した︒ 制作に参加した福田榮次郎はつぎのように述懐する ( 43) ︒ 大 会︹ 一 九 五 二 年 の 歴 史 学 研 究 会 の 大 会 ︺ 後 の 六 月 二 十 一 日 の 部 会では︑池永二郎氏の問題提起で紙芝居作成が討論されている︒ 素材として備中国新見荘がとりあげられ︑十名前後の若い連中 によって作業がはじめられた︒秋頃には台本も出来上り︑新進 気 鋭 の 画 家 箕 田 源 二 郎 氏 に お 願 い し︑ 無 償 で 四︑ 五 十 枚 の 絵 を か い て い た だ く こ と に な っ た︒ ( 中 略 ) 台 本 の 草 稿 は 福 田 が 書 き︑全員で討論して作成していった︒年がかわる頃には出来上 り︑三月頃にはいろいろなところで演じている︒ 当 時 の 紙 芝 居 制 作 に つ い て 後 年 の 網 野 は︑ ﹁ 学 問 そ の も の の 底 が 浅 かったんですね︒噓を書いて無理をしたという感じがあった﹂と否 定的に振り返っている ( 44) ︒しかし︑このシリーズは歴史研究者を監修 に迎えた歴史紙芝居の先鞭をつけたという意義をもち︑その後︑歴 史紙芝居の制作自体は学校教育用のものとして定着することとなる ( 45) ︒

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網野個人にとっても︑このときに直面した︑歴史をいかに大衆に伝 えるかという問題は︑一九八〇年代に網野が司修とともに歴史絵本 ﹃ 河 原 に で き た 中 世 の 町

へ ん れ き す る 人 び と の 集 ま る と こ ろ ﹄ ( 一九八八年八月 )を制作するとき︑ふたたび浮上することとなる︒   さて︑網野は一九五三年の夏に政治運動から離れ︑五四年度委員 の任期切れとともに歴史学研究会での活動も控えるようになる︒網 野はことの詳細をあかさなかったが︑後年につぎのように回想して いる︒ ( 46) 若いころ︑わけもわかっていない概念を駆使して︑適当な理屈 を組み立てて人を説得したり︑論争したりすることに喜びを見 いだしていた時期があったのですが︑そういう自分が徹底的に い や に な っ た 時 期 が あ り ま し た︒ ( 中 略 ) そ れ で も 一 度 言 っ た こ と は な か な か 撤 回 で き な い わ け で す︒ ( 中 略 ) そ う や っ て い るうちに︑間違いや傷口をどんどん大きくしてしまうのです︒ こうして︑網野は﹁これまでやってきたことが全く空虚だったと気 づ い ﹂ て︑ ﹁ い い 加 減 疲 れ て︑ あ の 世 へ 行 き た い と 思 っ た ほ ど ﹂ の 状 態 に 陥 っ た と い う ( 47) ︒ く わ え て︑ 網 野 は 山 村 工 作 隊( お そ ら く は 小 河 内 山 村 工 作 隊 ) の 顚 末 に も 責 任 を 感 じ て い た︒ ﹁ 大 学 を 卒 業 し て︑ 日本常民文化研究所の所員になっていたので︑自分は行かないで︑ 若 い 学 生 た ち に 村 へ 入 る こ と を 煽 動 ﹂ し ( 48) ︑ そ の 結 果︑ ﹁ 自 ら の 功 名 のために︑人を病や死に追いやった﹂のであった ( 49) ︒このことから後 年の網野は自身のことを﹁戦争犯罪人﹂と表現した ( 49) ︒運動が共産党 の権力関係や方針変更に振り回されるなかで︑主導的な立場にいた 網野は言行の一貫性がとれなくなっていたようだ︒このような網野 の言動の背景には︑前節で説明したとおり︑日中ソの共産党の関係 性により日本での方針が二転三転していたことがあった︒ 四   南北朝封建革命説の検証 (一九五〇年代後半の諸論文)   前節・前々節では︑一九五〇年から一九五三年までの時期に焦点 を当てて網野の活動を分析した︒本節では︑一九五三年夏以降の網 野が挫折後の研究をどのように再開させたのかを説明する︒   まず︑挫折後の網野の心情がよくわかる文章を引用しておきたい︒ 一 九 五 六 年︑ ﹃ 歴 史 学 研 究 ﹄ が 二 〇 〇 号 を 迎 え る に あ た っ て 実 施 し たアンケートに︑網野はつぎのような短文を寄せている ( 51) ︒   かつて委員をやっておりました時︑歴研におかけした御迷惑 を日に日に身にしみて感じております︒   会の発展に少しでもお役に立つことができたらと思ってはお りますが︑非力のため何も出来ないのが残念です︒頑張って学

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問にはげもうと思っています︒今は日本の中世︑荘園の勉強を あらためてやりなおして︑荘園に生きる人々の姿を本当にとら えたいと思っております︒   勝手なことのみ書きつらねました︒ ﹁ 御 迷 惑 ﹂ と は︑ 歴 史 学 研 究 会 の 委 員 と し て の 自 身 の 活 動 を 指 す の だ ろ う( 前 節 参 照 )︒ こ こ で︑ ﹁ 会 の 発 展 ﹂ に 寄 与 す る 活 動 か ら 離 れ て中世荘園の勉強をやりなおすと述べている︒では勉強の﹁やりな おし﹂はどのような経過をたどったのだろうか︒網野の文章から読 みとってみたい︒   網野の研究活動はあたえられた役割を果たすことから再出発した︒ 一九五五年三月の﹁文永・弘安の役﹂ ( 52) は東京大学史料編纂所の佐藤 進 一( の ち に 名 古 屋 大 学 で 網 野 の 同 僚 と な る ) か ら 指 名 を 受 け て 取 り 組 ん だ 史 料 解 題 で あ っ た︒ 一 九 五 六 年 の﹁ 霞 个 浦 四 十 八 津 と 御 留 川 ﹂ ( 53) と﹁ 愛 媛 県 温 泉 郡 二 神 島 ﹂( 河 岡 武 春 と の 共 著 ) ( 54) は︑ 大 学 卒 業 後 に網野が勤務していた日本常民文化研究所での業務から発展させた 論文である︒とりわけ前者は︑江戸時代の自治的漁場管理組織であ る霞个浦四十八津をあつかっており︑一九五二年十一月の史学会大 会発表﹁霞个浦・北浦の村々の連合組織﹂と研究とほぼおなじテー マ で あ る ( 55) ︒ 網 野 に よ る と︑ ﹁ 史 学 会 の 大 会 で 行 っ た 霞 个 浦 に つ い て の全く実証性のない報告を根底から考え直すために︑常民文化研究 所の仕事の中で一通一通の文書を丹念に読んでみた結果を︑霞个浦 四十八津に関するノートとしてまとめ﹂た文章であった ( 56) ︒網野が描 き 出 す の は︑ ﹁ 四 十 八 津 の 動 き の 中 に︑ 過 去 の 大 き な 力 の 断 片 の よ うなものが感じられた﹂が︑享保期を境に﹁伝統的な力を失い︑生 命を失った官僚的な性格を強くしていく﹂という様子であった ( 57) ︒こ のような︑自治権力の弱化・官僚化というモチーフは後年の代表作 ﹃無縁・公界・楽﹄ ( 一九七八年 )につながるものである︒   一九五七年には商業誌に﹁蒙古襲来す

元寇の一断面﹂ ( 58) を発表 1955年 3月 「文永・弘安の役」 1956年 2月 「霞ヶ浦四十八津と御留川」 1956年 4月 「愛媛県温泉郡二神島」(河岡武春と共著) 1956年 10月「アンケート:歴史学研究 200 号によせて」 1957年 1月 「蒙古襲来す―元寇の一断面」 1958年 1月 「大和国平野殿庄の所謂 ﹁強剛名主﹂について」 1958年 4月 「鎌倉時代の太良庄をめぐって」 1959年 4月 「西国における二つの東寺領荘園について」 1959年 7月 「元寇前后の社会情勢について」 1959年 10月「若狭国太良庄における惣百姓について」 1959年 12月「霞ヶ浦の魚介」 表1 1955 年から 1960 年までに発表された網野の文章 ※ 1960 年は発表なし 出典:『網野善彦著作集』別巻の「著作目録」をもとに作成

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する︒これは一九五五年に﹁文永・弘安の役﹂を執筆した経験を踏 まえて書かれたもので︑御家人竹崎季長を主人公にした読物である︒ これもおそらく依頼を受けて執筆した文章であろう︒共著者のなか に松本新八郎がふくまれているのでその伝手かもしれない︒いずれ にしても網野の活動にはいつの時期も︑主人公のいる物語として歴 史を語るという課題がついてまわる︒この文章では歴史の大きな流 れに関する記述が最小限に抑えられているものの︑一九六〇年代以 降︑網野の研究が新たな理論的枠組みを提起するようになると︑そ れを人物中心の物語的な叙述といかに両立させるかが問題になって いく︒網野は歴史紙芝居で悔いを残していたが︑歴史を一般読者に むけて語るという面でも再出発をしていた︒   個別の荘園史の論文をふたたび発表したのは一九五八年からであ る︒網野はもともと若狭国太良荘という東寺領荘園を研究対象とし ていたが︑それまでの中世に関する知識を再確認するために︑おな じ時代の複数の東寺領荘園を検討し︑その勉強の成果を発表するよ う に な っ た︒ ﹃ 歴 史 学 研 究 ﹄ に 掲 載 さ れ た 研 究 ノ ー ト﹁ 大 和 国 平 野 殿庄の所謂﹁強剛名主﹂について﹂ ( 59) は︑一九五四年のはじめから国 学院大学のメンバーを中心にした史料を読む研究会に参加したこと がきっかけとなった研究であった ( 60) ︒この研究会に誘った池永二郎は 歴史学研究会で網野とともに紙芝居を制作したメンバーのひとりで ある︒   こ の 研 究 ノ ー ト は つ ぎ の よ う に は じ め ら れ て い る︒ ﹁ 南 北 朝 の 内 乱の政治的意義を評価する場合︑それに近 ず ママ いてゆく道はいくつか あると思われるが︑一つの視点として︑この内乱ではじめて大きく あらわれてきた動きを︑その出発点にさかのぼって考えてみる見方 がありうると思う﹂ ( 61) ︒ここからわかるのは︑網野は﹁南北朝の内乱 の 政 治 的 意 義 ﹂ の 評 価 が 問 題 関 心 で あ り な が ら︑ ﹁ 元 寇 前 ﹂ の 荘 園 を分析しはじめたということである︒この段階では︑南北朝の﹁内 乱を一つの﹁革命﹂と評価する人達﹂が存在すると紹介される程度 で︑具体的な論者名やそれへの賛否は明記されていない︒網野は︑ か つ て﹁ 若 狭 に お け る 封 建 革 命 ﹂( 一 九 五 一 年 一 月 )・ ﹁ 封 建 革 命 と は な に か ﹂( 一 九 五 一 年 一 二 月 ) を 書 い た こ と か ら わ か る よ う に︑ 南 北 朝の内乱を﹁封建革命﹂とする立場にあったが︑運動からの離脱に ともなってその見解を実証的に検証しようとしていた︒その背景に あ る の は︑ ﹁ 五 〇 年 分 裂 ﹂ 下 に 網 野 に 対 し て 指 導 的 な 立 場 に あ っ た 松本新八郎の南北朝封建革命説であった ( 62) ︒とはいえ︑もしそのよう な網野の経歴を知らなければ当時の読者は研究の意図が読みとれな かったであろう︒   この四頁の短い研究ノートで網野は﹁南北朝の内乱﹂の評価に関 し て 一 応 の 見 通 し を 立 て て い る︒ ﹁ 南 北 朝 の 内 乱 ﹂ は﹁ そ れ ぞ れ の 人々の私的な利害が︑幕府の滅亡によってそのまま表面にあらわれ︑ はげしく衝突﹂したものであり︑その﹁本格的な解決は︑はるか後

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ま で も ち こ さ れ て い る よ う に 思 わ れ る ﹂ と 指 摘 す る ( 63) ︒ つ ま り︑ ﹁ 南 北朝の内乱﹂自体は歴史に新しい事態をもたらす革命ではないとさ れる︒しかしそのいっぽうで︑現地で荘園の支配を担った下司の横 暴に対する百姓たちの﹁素直な恐怖と︑それに抵抗しようとする決 意﹂こそが﹁混迷を克服する一つの力﹂となったのではないか︑と する ( 64) ︒すなわち︑この時点において網野は︑私的な利害の衝突とは 性質の異なるものを百姓たちの動きのなかに見出し︑それが内乱を 克服・解決する力になると論じたのである︒ここで網野が自らに問 いかけているのは︑なぜ南北朝の内乱が革命にみえてしまったのか︑ そして︑真の革命が拠って立つものはどこに見出されるべきなのか︑ という二つの問いである︒   その後も元寇前後の荘園を分析した論文がつづく︒一九五八年四 月︑ ﹃ 史 学 雑 誌 ﹄ に 研 究 ノ ー ト と し て 掲 載 さ れ た﹁ 鎌 倉 時 代 の 太 良 庄をめぐって﹂ ( 65) は︑すでに太良荘に関する論文を一九五一年一月に ﹁ 若 狭 に お け る 封 建 革 命 ﹂( ﹃ 歴 史 評 論 ﹄ 二 七 号 ) と し て 発 表 し て い た の で ( 66) ︑ 論 文 冒 頭 で わ ざ わ ざ︑ ﹁ な お 蛇 足 で あ る が︑ こ の 論 旨 は 以 前 ﹁ 歴 史 評 論 ﹂ 誌 上 に 発 表 し た 私 の 愚 論 と は 全 く 無 関 係 な も の で あ る ことをおことわりしておきたい﹂と記す ( 67) ︒一九五九年四月の﹁西国 における二つの東寺領荘園について﹂ ( 68) は︑伊予国弓削島荘・安芸国 後三条院新勅旨田という東寺領荘園を対象にしている︒弓削島荘は ﹁ 塩 の 荘 園 ﹂ と 呼 ば れ︑ 日 本 常 民 文 化 研 究 所 で の 業 務 か ら 一 九 六 〇 年代以降に網野が中世塩業を研究する発端となった論文である︒こ のように︑研究所の業務を機として個性的な荘園に着目することで︑ 自身の中世史論の根拠をたしかなものにしようとする傾向がすでに みられる︒このような姿勢が︑生業のなかでも農業に視野を限定し ない研究スタイルにつながっていく︒   これらの三作品は﹁南北朝の内乱﹂という大きな論点を意識して いるものの︑あつかうのは個別の荘園であったことから︑卑屈とも いえる自己限定の表現が随所に用いられている︒たとえばつぎのよ う な 文 で あ る︒ ﹁ も と よ り こ の 一 つ の 庄 園 の 実 例 の み を も っ て︑ 大 きな問題についてあれこれいうことはさしひかえねばならぬことで あろうし︑いままでのべられたことにやや具体的な一例を加えるに す ぎ な い( 後 略 )﹂ ( 69) ︒ さ ら に︑ 論 文 の 導 入 部 分 に お い て︑ ﹁ 若 干 の 補 足を加えうる余地があると思われた﹂や﹁蛇足を加えるにすぎない 結果になることをおそれる﹂といった表現も登場する ( 70) ︒   し か し︑ 一 九 五 九 年 に 発 表 さ れ た ふ た つ の 文 章︑ ﹁ 元 寇 前 后 の 社 会 情 勢 に つ い て ﹂( ﹃ 歴 史 学 研 究 ﹄ 二 三 一 号 ) ( 71) と﹁ 若 狭 国 太 良 庄 に お け る 惣 百 姓 に つ い て ﹂( ﹃ 史 学 雑 誌 ﹄ 六 八 巻 一 〇 号 ) ( 72) で は︑ 自 身 の 個 別 荘 園研究を総括する段階に入ったことで︑自身の研究の意図をより明 確に記しはじめている︒まず︑ ﹁元寇前后の社会情勢について﹂は︑ ﹁最近こころみた2︑ 3の庄園の勉強のなかで感じたいくつかの点を 整 理 ﹂ し︑ ﹁ 社 会 の 根 底 を ゆ る が す ほ ど の 動 き ﹂ の な か に 農 村 で の

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動きと政治の動向を位置づけようとする試論的な論文である ( 73) ︒この 作品でこれまでの自身の鎌倉期に関する研究を総括したうえで︑つ ぎの﹁若狭国太良庄における惣百姓について﹂でついに南北朝内乱 の評価に歩みを進める︒ようやく﹁五〇年分裂﹂下での歴史研究の 議論に直接言及できるようになったといえる︒   網野が念頭に置くのは石母田正と松本新八郎の﹁悪党﹂観の対立 であった︒そのことが﹁若狭国太良庄における惣百姓について﹂で はじめて明記される ( 74) ︒畿内の中小武士である﹁悪党﹂に関して︑石 母田はその存在の﹁頽廃性﹂を指摘するが︑網野はむしろそのエネ ルギーが室町期をつうじて社会を支配したといい︑その意味で松本 が﹁ こ の 時 期 の 惣 お よ び 党・ 一 揆 の﹁ 革 命 性 ﹂﹂ を 見 出 し た の に 一 定の理解を示す︒しかしつづけて︑つぎのようなもってまわった表 現 で 松 本 の 見 解 に 留 保 を つ け て い る︒ ﹁ も と よ り そ の 根 底 に 真 に 革 命的といいうる動きがなかったというのではないが︑石母田氏の指 摘されているように︑それを支配している動きは社会の被抑圧者た ち の 声 を 真 に 代 弁 し う る も の で あ っ た と は 思 わ れ な い ﹂ ( 75) ︒ 網 野 は 生 産力発展にもとづく新たな社会的動きの代表としては悪党と惣百姓 を挙げているが︑この文が暗示するように︑それらの評価は両義的 な も の で あ っ た︒ 悪 党 同 様 に︑ 太 良 荘 の 惣 百 姓 に は︑ ﹁ 利 用 で き る かぎり東寺を使用しようとする図太い強さ﹂があったものの︑それ は真の革命を導くような﹁すべてをすて去ったもののもつ強さとは およそ無縁のものであ﹂り︑それゆえに南北朝期を経てもなお東寺 の支配を許す﹁弱さ﹂になっていた︑と分析する ( 76) ︒東寺に対する惣 百姓の要求は一見強硬だが︑そこに﹁自らに対する抑圧が他のもの にも同様であることをのぞむ気持が働いていることをみのがすわけ にはいかない﹂と論じ︑惣百姓が東寺の支配を拒絶して﹁真に自ら の足で立とうとする動き﹂は不充分であったと断じる ( 77) ︒   ここにおいて︑左翼政治運動から離脱したあとの網野は︑国際共 産主義運動の影響を受けた時期の歴史解釈から出発して︑新たな解 釈を打ち出そうとしていた︒このときの網野はすでに︑マルクス主 義でいう﹁革命﹂を漸進的な社会的な﹁動き﹂であると読み替えて い る︒ ﹁ 南 北 朝 の 内 乱 ﹂ の よ う な 歴 史 上 の 大 事 件 に あ て は め よ う と はしていない︒そのうえで︑網野は﹁真に革命的といいうる動き﹂ の有無を論じる︒いわば真の革命と偽の革命を弁別しようとしてい る の で あ る︒ そ の 規 準 に は 倫 理 性 が 込 め ら れ て い た︒ ﹁ 社 会 の 被 抑 圧者たち﹂の側に立ち︑力関係のなかでうまく立ち回るのでなく抑 圧それ自体を拒絶するどうか︒網野が語る先には左翼政治運動のな かで﹁革命﹂を論じていたかつての自分自身がいたはずである︒上 記の分析が一九六〇年代・七〇年代をつうじて︑実例を増やしなが ら理論的に深化していくことになる︒

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お わ り に   本論文では︑国際共産主義運動との関係を確認しながら︑網野の 歴史研究の出発点として一九五〇年代までの網野の活動を検証した︒ 戦後最初期に高揚した左翼政治運動は共産党が主導したことから︑ 網野をはじめとして東京大学の学生が大量に共産党に入党した︒し かし一九五〇年代に入ってからは︑共産党が国際共産主義運動の一 部に組み込まれて混乱することで︑その高揚期が終焉する︒網野の 左翼政治運動はこのような時代状況に特徴づけられている︒網野は 大学生時代から政治運動に深く関与しており︑そのために政治運動 の体験が歴史研究を大きく左右させていた︒とはいえ︑この点は他 の同世代の歴史研究者と共通する特徴である︒   とすると︑網野史学の原点として︑他の歴史研究者との違いを生 み 出 し た 要 因 は 何 だ っ た の か︒ な ぜ 網 野 は 当 時 の 研 究 潮 流( い わ ゆ る﹁ 戦 後 歴 史 学 ﹂ ) か ら 外 れ︑ 個 性 化 す る よ う に な っ た の か︒ 当 時 の 政治運動から後年の﹁網野史学﹂への影響を考えるに︑つぎの三点 が重要であったといえよう︒   ひとつは︑網野の左翼政治運動が中国やソ連の動向・意向によっ て 翻 弄 さ れ る 性 格 を も っ て い た こ と で あ る︒ つ ま り︑ 網 野 は 一九五〇年代前半の一時期︑国際共産主義運動の一部分に組み込ま れていたことである︒その体験が︑一九六〇年代・七〇年代に歴史 研究者のなかでの反主流派意識と結びついていく︒一九六〇年代以 降の網野はときおり自身の文章のなかで外国での政治状況に言及し ているが︑同時代に実在する社会主義国の状況を考慮しながら︑国 内の政治状況を相対化しようとしていた︒歴史研究においても︑外 国史研究や他国での歴史研究の状況に強い関心を示しつづけていた︒ この点はイギリスやフランスの﹁新左翼﹂と比較する際に重要な視 点となるだろう︒   ふたつめとして︑網野の研究が︑政治的に否定された学説の検証 にむかったことである︒日本常民文化研究所に勤務していたことで︑ 研 究 活 動 の 継 続 が 可 能 な 環 境 に い た こ と は も ち ろ ん 重 要 な 要 因 で あった︒それにくわえて︑一九五〇年代後半には共産党の政治的権 威が低下したために︑左翼運動からの離脱者でも主流の歴史解釈に 対して議論ができるようになりはじめていた︒一九五〇年代後半の 網野の文章の変遷は︑主流の歴史解釈への遠慮が解けていく過程で あったとも見ることができる︒   最後に︑一九五〇年代の網野が歴史を表象するメディアの問題に 接していたことを指摘しておきたい︒この点ものちに網野の研究関 心を方向づけることになる︒網野は若くして歴史知識のメディアへ の応用を実体験することとなった︒運動からの離脱後は文献史学に 邁 まい 進 しん し︑視覚メディア上の歴史という論点をいったんは忌避するよ

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うになる︒しかし︑のちに網野は不承不承の態をとりつつふたたび この論点にとりくむことになる︒そのとき︑自身の歴史に対する知 識の不正確さを思い出すこととなり︑最終的に歴史の表象の問題に 踏 み 込 む に 至 る︒ そ れ は︑ 当 時 の 左 翼 運 動 が 目 を つ け た と お り︑ 一九八〇年代のメディア状況を先取りするものであった︒ 注 ( 1) 網 野 本 人 が 一 九 五 〇 年 代 の で き ご と に 言 及 し た 文 章・ イ ン タ ビ ュ ー・ 対 談は以下の書籍にまとめられている︒ ﹃歴史としての戦後史学﹄ 日本エディ タ ー ス ク ー ル 出 版 部︑ 二 〇 〇 〇 年 ; ﹃ 歴 史 と 出 会 う ﹄ 洋 泉 社 新 書︑ 二〇〇〇年 ; ﹃ ﹁日本﹂をめぐって   網野善彦対談集﹄講談社︑ 二〇〇二年︒ そのほかには以下の文献がある︒ ﹃中世東寺と東寺領荘園﹄ 東京大学出版会︑ 一 九 七 八 年︑ 序 章 ; ﹁ 中 世 史 研 究 第 三 期 へ ﹂﹃ 日 本 読 書 新 聞 ﹄ 二 〇 〇 〇 号︑ 一 九 七 九 年 四 月 二 日( ﹃ 中 世 再 考 ﹄ 日 本 エ デ ィ タ ー ス ク ー ル 出 版 部︑ 一 九 八 六 年 所 収 ) ; ﹃ 日 本 中 世 の 非 農 業 民 と 天 皇 ﹄ 岩 波 書 店︑ 一 九 八 四 年︑ 序 章 注 釈 部 分 ; ﹁ 断 片 を 読 む ︱ ︱ 襖 の 下 張 り の な か に 歴 史 が 見 え て く る ﹂ (聞き手 : 大月隆寛)石井慎二編﹃別冊宝島一六七   学問の仕事場﹄JIC C 出 版 局︑ 一 九 九 二 年︒ な お︑ 網 野 の 経 歴 に つ い て は﹃ 網 野 善 彦 著 作 集 ﹄ 別 巻( 岩 波 書 店︑ 二 〇 〇 九 年 ) の﹁ 網 野 善 彦 年 譜 ﹂ や﹁ 著 作 目 録 ﹂ を 参 照 のこと︒ ( 2) 網 野﹁ 戦 後 の〝 戦 争 犯 罪 〟﹂ 岩 波 書 店 編 集 部 編﹃ 戦 後 を 語 る ﹄ 岩 波 新 書︑ 一九九五年︑一〇頁︒ ( 3) 小熊英二﹃ ︿民主﹀と︿愛国﹀ ︱ ︱ 戦後日本のナショナリズムと公共性﹄ 新曜社︑二〇〇二年︑とくに八章︒ ( 4) 日 本 共 産 党 に よ る 公 式 の 党 史 で あ る つ ぎ の 文 献 で は︑ 一 九 五 〇 年 代 の 分 裂 の こ と を﹁ 五 〇 年 問 題 ﹂ と 呼 ん で い る︒ そ れ ま で の 徳 田 球 一 に よ る 専 決 指導が党の分裂と外国からの干渉を許したが︑ ﹁五〇年問題﹂の総括をとお し て い か な る 外 国 勢 力 の 干 渉 も 許 さ な い 自 主 独 立 の 立 場 を 確 立 し た︑ と 位 置 づ け ら れ て い る︒ 日 本 共 産 党 中 央 委 員 会﹃ 日 本 共 産 党 の 八 十 年   一 九 二 二 ~ 二 〇 〇 二 ﹄ 日 本 共 産 党 中 央 委 員 会 出 版 局︑ 二 〇 〇 三 年︑ 第 四 章︑ とくに一二七~一二八頁︒ ( 5) 色川大吉 ﹁人生の贈り物五   ナロードニキに憧れ農村で教師に﹂ ﹃朝日新 聞 ﹄ 二 〇 一 五 年 三 月 二 〇 日 夕 刊︑ 六 面︒ な お︑ こ の 記 事 の 存 在 は 木 下 龍 馬 氏(国立国会図書館)のご教示により知りえた︒伏して感謝する︒ ( 6) つ ぎ の 文 献 に﹁ 民 主 主 義 学 生 同 盟 結 成 趣 意 書 ﹂ や﹁ 民 主 主 義 学 生 同 盟 結 成宣言﹂ が掲載されている︒三一書房編集部 ﹃資料戦後学生運動﹄ 一︑ 三一 書 房︑ 一 九 六 八 年︑ 三 五 〇 ~ 三 五 五 頁︒ 三 五 〇 頁 の﹁ 民 学 同 通 達 第 一 号 ﹂ (一九四八年九月九日付)には﹁民学同は民主主義擁護同盟及青年戦線 ・ 学 生 戦 線 統 一 の 重 要 な 一 環 と し て 急 速 な 組 織 を 期 待 す る ﹂ と あ る︒ 三 五 四 ~ 三 五 五 頁 に よ る と︑ 結 成 時 の﹁ 中 央 委 員 会 役 員 ﹂ は つ ぎ の と お り︒ 委 員 長 中 森 蒔 人︑ 副 委 員 長 網 野 善 彦︑ 事 務 局 長 大 沼 鉄 郎︑ 教 育 宣 伝 部 長 西 沢 舜 一︑ 文 化 部 長 荒 川 幾 男︑ 組 織 部 長 網 野 善 彦︑ 機 関 紙 部 長 中 村 正 光︑ 財 政 部 長 北 田 芳 治︒ 三 五 二 ~ 三 五 四 頁 の﹁ 各 支 部 短 信 ﹂ に ふ く ま れ る﹁ 一 カ 月 の 活 動 の自己批判 (組織部) ﹂ という文章は網野の執筆だった可能性がある︒なお︑ 一九六三年結成の同名団体が存在することに注意︒ ( 7) 一 九 四 九 年 七 月 に 統 一 戦 線 組 織 で あ る﹁ 民 主 主 義 擁 護 同 盟 ﹂ が 成 立 す る に 至 る が︑ 短 期 の う ち に 運 動 は 崩 壊 し︑ 同 盟 は 一 九 五 〇 年 八 月 に 解 散 し た︒ 吉 田 健 二﹁ 民 主 主 義 擁 護 同 盟 の 成 立 と 崩 壊 過 程 ︱ ︱ 戦 後 日 本 に お け る 統 一 戦線の原型﹂ ﹃社会労働研究﹄一九︱一/二︑ 一九七三年︒ ( 8) 網野﹁断片を読む ︱ ︱ 襖の下張りのなかに歴史が見えてくる﹂ ︑ 一二四頁︒ ( 9) 同右︑一二四頁︒

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( 10) 長 崎 眞 人﹃ 命 あ る 限 り ﹄ 光 陽 出 版︑ 二 〇 〇 七 年︑ 一 六 二 ~ 一 六 四 頁︒ 著 者 の 長 崎 は 日 本 青 年 共 産 同 盟( 青 共 ) の 一 員 と し て こ の 組 織 改 編 で の 大 混 乱 に 立 ち 会 っ た︒ 長 崎 に よ る と︑ 一 九 四 九 年 一 月 は じ め︑ 青 共 の 全 国 グ ル ー プ 会 議 の 席 上 で︑ 共 産 党 の 青 年 対 策 部 部 長 だ っ た 西 沢 隆 二( ぬ や ま ひ ろし)が突如として青共解散と民学同などとの合同を提案し︑ ﹁とにかく俺 に任してくれ﹂と言い残して去ってしまった︑とのことである︒ ( 11) 網野﹁断片を読む ︱ ︱ 襖の下張りのなかに歴史が見えてくる﹂ ︑ 一二一頁︒ ( 12) 磯 前 順 一﹁ 戦 後 歴 史 学 の 起 源 と そ の 忘 却 ﹂ 磯 前 順 一・ ハ リ ー・ D・ ハ ル ト ゥ ー ニ ア ン 編﹃ マ ル ク ス 主 義 と い う 経 験 ︱ ︱ 一 九 三 〇 ︱ 四 〇 年 代 日 本 の 歴史学﹄青木書店︑二〇〇八年︑序章︒ ( 13) 同右︑二四頁︒ ( 14) 同右︑二八~二九頁︒ ( 15) 同右︑二七頁︒ ( 16) 同 右︑ 二 九 頁︒ な お︑ 戦 後 の マ ル ク ス 主 義 と 日 本 史 学 の 関 係 に つ い て は つぎの文献を参照のこと︒戸邉秀明 ﹁マルクス主義と戦後日本史学﹂ ﹃岩波 講座日本歴史第二二巻   歴史学の現在﹄岩波書店︑二〇一六年︒ ( 17) たとえば︑ 網野 ﹃歴史としての戦後史学﹄ 日本エディタースクール出版部︑ 二 〇 〇 〇 年︑ 三 ~ 四 頁・ 二 八 八 頁︒ な お︑ 当 時 の 日 本 常 民 文 化 研 究 所 月 島 分 室 で の 業 務 内 容 に つ い て は︑ 業 務 マ ニ ュ ア ル と し て 作 成 さ れ た︑ つ ぎ の 文 献 か ら う か が い 知 る こ と が で き る︒ 日 本 常 民 文 化 研 究 所 水 産 庁 資 料 整 備 委員会﹃資料筆冩のしおり﹄ (謄写版)一九五一年五月︒ ( 18) 下 斗 米 伸 夫﹃ 日 本 冷 戦 史 ︱ ︱ 帝 国 の 崩 壊 か ら 五 五 年 体 制 へ ﹄ 岩 波 書 店︑ 二〇一一年︑一九五頁︒ ( 19) 網野 ﹁若狭における封建革命﹂ ﹃歴史評論﹄ 二七︑ 一九五一年 (﹃網野善彦 著作集﹄別巻︑一六頁所収) ︒ ( 20) 石 母 田 正﹃ 続 歴 史 と 民 族 の 発 見 ﹄ 東 京 大 学 出 版 会︑ 一 九 五 三 年︑ 一 五 一 ~一五五頁 (﹃民科本部通信﹄ 四号 (一九五一年九月) から網野の文章を転 載したもの︑ ﹃網野善彦著作集﹄別巻︑一九一~一九三頁) ︒ ( 21) 解 放 社 編 集 部 編︑ 小 林 信 訳﹃ 社 会 発 展 略 史 ︱ ︱ 中 共 幹 部 必 読 文 献 ﹄ 五 月 書 房︑ 一 九 五 〇 年︒ な お︑ こ の 書 は の ち に 続 編 と 続 々 編 が 出 版 さ れ て い る︒ 解放社編集部編︑ 尾崎庄太郎訳 ﹃続社会発展略史﹄ 五月書房︑ 一九五三年 ; 同﹃続々社会発展略史﹄五月書房︑一九五四年︒ ( 22) こ の 書 に 対 し て は つ ぎ の 書 評 が 存 在 す る︒ 尾 崎 庄 太 郎﹁ 異 色 あ る 中 国 の 啓 蒙 書 ︱ ︱ ﹁ 社 会 発 展 略 史 ﹂ と﹁ 社 会 科 学 基 礎 教 程 ﹂﹂ ﹃ 歴 史 評 論 ﹄ 五 ︱ 二 (通巻二八号) ︑一九五一年︒ ( 23) 網野﹃歴史としての戦後史学﹄二八七頁︒ ( 24) 網野 ﹁祖先の事業への尊敬を ︱ ︱ 謙虚に歴史をみる﹂ ﹃学園評論﹄ 創刊号︑ 一 九 五 二 年 七 月︒ こ の 文 章 は﹃ 早 大 歴 研 月 報 ﹄ 一 九 五 一 年 一 一 月 二 六 日 号 (筆者未見)からの転載であると記されている︒なお︑ この文章は﹃網野善 彦著作集﹄別巻の﹁著作目録﹂には挙げられていない︒ ( 25) 由井誓﹁パルチザン前々史﹂ ﹃由井誓   遺稿 ・ 回想﹄新制作社︑一九八七 年︑二三頁︒ ( 26) 土 本 典 昭﹁ ﹁ 小 河 内 山 村 工 作 隊 ﹂ の 記 ﹂﹃ 映 画 は 生 き も の の 仕 事 で あ る ︱ ︱ 私 論・ ド キ ュ メ ン タ リ ー 映 画 ﹄ 未 來 社︑ 一 九 七 四 年( 初 出 一 九 七 〇 年 三月) ︒ ( 27) 同右︑一〇〇頁︒ ( 28) 厳密にいうと︑ 宣伝部隊である山村工作隊のほかに︑ 軍事組織である ﹁Y 組 織 ﹂( 中 核 自 衛 隊 や 独 立 遊 撃 隊 ) も 小 河 内 で 活 動 し て い た が︑ ﹁ Y 組 織 ﹂ の 実 態 は 当 時 の 党 員 も 知 り え な い 部 分 が 多 か っ た︒ 本 論 文 で は 区 別 せ ず ま と め て﹁ 山 村 工 作 隊 ﹂ と 呼 ん で い る︒ 小 河 内 に お け る 共 産 党 軍 事 組 織 の 活 動 に つ い て は︑ た と え ば 由 井 誓( 一 九 三 一 年 生 ま れ︑ 一 九 五 〇 年 早 稲 田 大 学 入 学 ) の 文 章 を 参 照 の こ と︒ 由 井 誓﹁ パ ル チ ザ ン 前 々 史 ﹂・ ﹁ 内 側 か ら み た日共 ʼ50 年代武装闘争(回顧対談) ﹂・ ﹁〝 ﹃五一年綱領﹄と極左冒険主義〟の ひとこま﹂ ︑ いずれも﹃由井誓   遺稿 ・ 回想﹄ (新制作社︑ 一九八七年)所収︒

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く わ え て ジ ャ ー ナ リ ス ト 川 島 憲 治 に よ る つ ぎ の 文 献 も 小 河 内 で の 活 動 の 実 態 を 詳 細 に 調 査 し て お り 参 考 に な る︒ 川 島 憲 治﹁ 山 村 工 作 隊 と 中 核 自 衛 隊 ︱ ︱ 空回りした和製パルチザンの革命への献身﹂ ﹃反逆者とテロリストの群 像﹄ (﹃別冊歴史読本2﹄三三︱一三)新人物往来社︑二〇〇八年︒ ( 29) 土本﹁ ﹁小河内山村工作隊﹂の記﹂一〇〇頁︒ ( 30) 今谷明 ﹁時局下の網野先生﹂ ﹃網野善彦著作集﹄ 六巻 ﹁月報﹂ 二〇〇七年 一 一 月︑ 五 頁︒ そ の 後 に 発 表 さ れ た 犬 丸 義 一 の 文 章 も あ わ せ て 参 照 の こ と︒ 今 谷 の 文 に 対 し て 補 足 や 訂 正 す る 意 図 が あ る と 思 わ れ る 文 が い く つ か 見 受 け ら れ る︒ 犬 丸 義 一( 談 )﹁ 網 野 さ ん と 私 ﹂﹃ 網 野 善 彦 著 作 集 ﹄ 四 巻﹁ 月 報 一五﹂二〇〇九年一月︑七~一〇頁︒ ( 31) 伊 藤 律 に つ い て は た と え ば つ ぎ の 文 献 を 参 照 の こ と︒ 伊 藤 律﹃ 伊 藤 律 回 想 録 ︱ ︱ 北 京 幽 閉 二 七 年 ﹄ 文 藝 春 秋 社︑ 一 九 九 三 年︒ つ ぎ の 文 献 は 伊 藤 律 の次男による回顧録である︒伊藤淳﹃父 ・ 伊藤律 ︱ ︱ ある家族の﹁戦後﹂ ﹄ 講 談 社︑ 二 〇 一 六 年︒ な お︑ 網 野 は つ ぎ の 文 献 で 宇 野 脩 平 と と も に 左 翼 運 動 に 入 っ た 人 物 と し て 伊 藤 律 に 言 及 し て い る︒ 網 野﹃ 歴 史 と し て の 戦 後 史 学﹄一八三頁︒ ( 32) 今 谷 明﹁ 時 局 下 の 網 野 先 生 ﹂﹃ 網 野 善 彦 著 作 集 ﹄ 六 巻﹁ 月 報 ﹂︑ 五 頁︒ 今 谷はおなじ箇所で﹁五六年以降の武装共産党時代﹂と書いているが︑ ﹁五一 年以降﹂の誤記と思われる︒ ( 33) 井上敏夫 ﹁戦後革命運動の息吹と襞﹂ ﹃マイクロフィルム版 ﹃戦後日本共 産党関係資料﹄解題・解説﹄不二出版︑二〇〇八年︑三七~三八頁︒ ( 34) 犬丸義一(談) ﹁網野さんと私﹂ ﹃網野善彦著作集﹄四巻﹁月報一五﹂ ︑ 九 頁︒ な お︑ 一 九 五 〇 年 代 の 状 況 に 関 し て は つ ぎ の 文 献 も 参 照 の こ と︒ 犬 丸 義一 ﹁戦後日本マルクス主義史学史論﹂ ﹃長崎総合科学大学紀要﹄ 二五︱一︑ 一九八四年︒ ( 35) 薄 い 紙 が 用 い ら れ た の は︑ 不 意 に 警 察 官 の 職 務 質 問 に あ っ た と し て も 飲 み込むことができるようにするためだったという︒ ﹁薄紙指導﹂ については つ ぎ の 文 献 を 参 照 の こ と︒ 井 上 敏 夫﹁ 戦 後 革 命 運 動 の 息 吹 と 襞 ﹂ 三 七 ~ 三九頁︒ ( 36) 山本幸司﹁論文編解説﹂ ﹃網野善彦著作集﹄別巻︑一七七~一九三頁︒ ( 37) 由井誓 ﹁内側からみた日共 ʼ50 年代武装闘争 (回顧対談) ﹂﹃由井誓   遺稿 ・ 回想﹄ ︑とくに四五~四九頁︒ ( 38) こ こ で 注 意 が 必 要 な の は︑ 歴 史 を 大 衆 に と っ て 身 近 な も の に し よ う と す る 活 動 の 必 要 性 自 体 は 敗 戦 直 後 か ら 認 識 さ れ て い た と い う こ と で あ る︒ 一 九 四 九 年︑ 農 村 文 化 教 育 会 の 発 行 す る﹃ 緑 の 工 場 ﹄ に 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 所 員( 稲 垣 泰 彦・ 杉 山 博・ 永 原 慶 二 ) が﹁ 村 の 歴 史 を 書 こ う ﹂ を 連 載 し たとき︑ 永原慶二はつぎのように書いた︒ ﹁村の民主主義の歴史を自分で学 ぶ こ と に よ っ て︑ 自 分 た ち の 生 き 方 を 見 出 し︑ 新 し い 民 主 主 義 の 歴 史 を 自 分 の 行 為 で つ く っ て い っ て ほ し い と 思 う ﹂ と︒ こ の よ う に︑ 敗 戦 後 の 日 本 で﹁ 新 し い 民 主 主 義 ﹂ を 実 現 す る に は︑ 大 学 に 所 属 す る 研 究 者 が 歴 史 を 研 究 す る だ け で な く︑ も っ と 多 く の ひ と が 歴 史 を 学 び︑ 歴 史 を 書 く こ と が 近 道であると考えられていた︒永原慶二 ﹁村の歴史を書こう (三)   村の歴史 の 書 き 方 ︱ ︱ 富 士 山 麓 の あ る 山 村 を 例 と し て ﹂﹃ 緑 の 工 場 ﹄ 一 ︱ 五︑ 一九四九年︑一五頁︒ ( 39) なお︑ つぎの文献には網野の発言が記録されている︒ ﹁よい話しが出たが︑ (中略) まだ話しが抽象的だ﹂ といったように非常に高圧的な物言いなのが 印 象 的 で あ る︒ ﹁ 平 和 懇 談 会 記 録   歴 史 学 は ど う あ る べ き か ﹂﹃ 歴 史 学 研 究 会﹄ 一五五︑ 一九五二年︑ 五五頁 (懇談会の開催は一九五一年十月二十七日) ︒ ( 40) 紙 芝 居﹁ 祇 園 祭 ﹂ は そ の 後︑ 東 京 大 学 出 版 会 か ら 書 籍 化 さ れ た︒ 民 主 主 義 科 学 者 協 会 京 都 支 部 歴 史 部 会﹃ 祇 園 祭 ﹄ 東 京 大 学 出 版 会︑ 一 九 五 三 年︒ さ ら に︑ 西 口 克 己 に よ る 小 説 化 を 経 て︑ 一 九 六 八 年 に は 映 画︑ 一 九 七 六 年 には絵本になった︒ ( 41) 幻 灯 か ら テ レ ビ へ の 技 術 的 な 連 続 性 に つ い て は つ ぎ の 文 献 で 考 察 し た︒ 内 田 力﹁ あ る 海 軍 技 師 の 光 学 技 術 と 戦 後 メ デ ィ ア ︱ ︱ カ メ ラ・ 幻 灯・ テ レ

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ビ﹂ 大塚英志編 ﹃動員のメディアミックス ︱ ︱ ︿創作する大衆﹀ の戦時下 ・ 戦後﹄思文閣出版社︑二〇一七年︒ ( 42) 当 時 の 左 翼 政 治 運 動 と メ デ ィ ア と の 関 係 に つ い て は︑ つ ぎ の 文 献 を 参 照 の こ と︒ 鳥 羽 耕 史﹃ 一 九 五 〇 年 代 ︱ ︱ ﹁ 記 録 ﹂ の 時 代 ﹄ 河 出 書 房 新 社︑ 二 〇 一 〇 年︒ と く に 戦 後 労 働 運 動 に お け る 幻 灯 メ デ ィ ア に つ い て は︑ 鷲 谷 花による一連の研究を参照のこと︒ ( 43) 福 田 榮 次 郎﹁ ﹁ 幻 の 紙 芝 居 ﹂ と﹁ 安 良 城 旋 風 ﹂﹂ 歴 史 学 研 究 会 編﹃ 証 言 戦 後 歴 史 学 へ の 道 ︱ ︱ 歴 史 学 研 究 会 創 立 80周 年 記 念 ﹄ 青 木 書 店︑ 二 〇 一 二 年︑ 三 三 九 ~ 三 四 一 頁( 初 出 一 九 八 八 年 )︒ こ の 紙 芝 居 は﹁ 〝 新 見 の 人 々 に も み て も ら お う 〟 と い う こ と に な り︑ 杉 山 博 氏 に よ っ て 新 見 に 送 ら れ た︒ し か し︑その後は行方不明﹂となったとのことである︒ ( 44) 網野 ・ 司修﹁対談 ・ 画家の目歴史家の目﹂ ﹃河原にできた中世の町 ︱ ︱ へ んれきする人びとの集まるところ﹄ (岩波書店︑ 一九八八年)所収冊子︑ 一 頁( ﹃歴史と出会う﹄一六七頁所収) ︒ ( 45)﹁歴史紙芝居シリーズ﹂全一二巻(企画編集 : 日本教職員組合 ・ 歴史教育 者 協 議 会・ 教 育 紙 芝 居 研 究 会︑ 出 版: 日 本 紙 芝 居 幻 灯 株 式 会 社︑ 一 九 五 三 ~一九五六年) ︒ ( 46) 網野 (インタビュー) ﹁網野善彦の世界﹂ ﹃月刊百科﹄ 四二四︑ 一九九八年︑ 一二頁( ﹃歴史と出会う﹄九九~一〇〇頁所収) ︒ ( 47) 網野 (インタビュー) ﹁百姓イコール農民ではない ︱ ︱ 公的文書が切り落 とした歴史を叙述する﹂ ﹃公研﹄三五︱一二︑ 一九九七年︑ 五〇頁( ﹃歴史と しての戦後史学﹄ 二八八頁所収) ︒網野は同時期に日本常民文化研究所内で の 論 争 に も 直 面 し て い た︒ 研 究 所 の 日 常 の 仕 事 に 追 わ れ て 所 員 個 人 の 勉 強 が で き な い と い う 問 題 が 表 面 化 す る と と も に︑ 古 文 書 収 集 の 成 果 報 告 書 で あ る﹃ 漁 業 制 度 資 料 目 録 ﹄ 刊 行 計 画 に 対 し て︑ 方 針 が 曖 昧 で あ る こ と か ら 拒 否 す る か ど う か で 論 争 が 起 き て メ ン バ ー 同 士 が 対 立 し て い た︒ こ の 論 争 の な か で 網 野 は 当 初︑ 刊 行 拒 否 派 だ っ た が︑ 批 判 し な が ら も 目 録 は 刊 行 す べ き と の 立 場 に 転 じ た と 回 想 し て い る︒ な お︑ 上 述 の 論 争 の 結 果 と し て 中 地 昶 平 が 研 究 所 を 辞 職 し た︒ 網 野 は 中 地 か ら 研 究 所 内 で 厳 し い 批 判 を 受 け て い た と 書 い て い る が︑ 批 判 の 内 容 な ど 詳 細 は 不 明 で あ る︒ 網 野﹃ 歴 史 と し て の 戦 後 史 学 ﹄ 一 九 八 ~ 二 〇 〇 頁 ; 網 野﹁ 特 集 人 文 書 の 戦 後 五 〇 年 歴 史 篇 ﹂﹃ 人 文 会 ニ ュ ー ス ﹄ 七 三︑ 一 九 九 五 年︑ 九 頁( ﹃ 歴 史 と 出 会 う ﹄︑ 一 九 頁 所収) ︒ ( 48) 網 野・ 小 熊 英 二﹁ 人 類 史 的 転 換 期 の な か の 歴 史 学 と 日 本 社 会( 上 )﹂ ﹃ 神 奈川大学評論﹄三八︑ 二〇〇一年︑ 一〇頁( ﹃﹁日本﹂をめぐって﹄一六五頁 所収) ︒ ( 49) 網 野﹁ 戦 後 の〝 戦 争 犯 罪 〟﹂ 岩 波 書 店 編 集 部 編﹃ 戦 後 を 語 る ﹄ 岩 波 新 書︑ 一九九五年︑一〇頁( ﹃歴史としての戦後史学﹄四頁所収) ︒ ( 50) 同右︒ ( 51)﹁ ﹁ 歴 史 学 研 究 ﹂ 二 〇 〇 号 刊 行 に よ せ て ﹂﹃ 歴 史 学 研 究 ﹄ 二 〇 〇︑ 一 九 五 六 年一〇月︑四九頁(引用にあたって旧漢字を新漢字に改めた) ︒ ( 52) 網 野﹁ 文 永・ 弘 安 の 役 ﹂﹃ 世 界 歴 史 事 典 二 二   史 料 篇 日 本 ﹄ 平 凡 社︑ 一九五五年︒ ( 53) 網 野﹁ 霞 个 浦 四 十 八 津 と 御 留 川( 地 方 史 研 究 )﹂ ﹃ 歴 史 学 研 究 ﹄ 一九二︑ 一九五六年︒ ( 54) 河 岡 武 春・ 網 野 善 彦﹁ 愛 媛 県 温 泉 郡 二 神 島 ﹂ 伊 豆 川 浅 吉 編﹃ 共 同 漁 業 権 への依存度に関する調査﹄ (謄写版)一九五六年︒ ( 55)﹁ 史 学 会 第 五 十 一 回 大 会 記 事( 部 会 発 表 要 旨 )﹂ ﹃ 史 学 雑 誌 ﹄ 六 一 ︱ 一二︑ 一九五二年︑六五頁︒ ( 56) 網野﹁戦後の〝戦争犯罪〟 ﹂︑一一頁︒ ( 57) 網野﹁霞个浦四十八津と御留川﹂ ﹃歴史学研究﹄一九二︑三五~三六頁︒ ( 58) 網 野﹁ 蒙 古 襲 来 す ︱ ︱ 元 寇 の 一 断 面 ﹂﹃ 特 集 知 性 ﹄ 二( 河 出 書 房 )︑ 一九五七年︒ ( 59) 網 野﹁ 大 和 国 平 野 殿 庄 の 所 謂﹁ 強 剛 名 主 ﹂ に つ い て ﹂﹃ 歴 史 学 研 究 ﹄

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二一五︑ 一九五八年︒ ( 60)﹁網野善彦年譜﹂ ﹃網野善彦著作集﹄別巻︑二〇六頁︒ ( 61) 網野﹁大和国平野殿庄の所謂﹁強剛名主﹂について﹂ ︑四六頁︒ ( 62) その主張は ﹁南北朝内乱の諸前提﹂ (一九四七年) や ﹁中世末期の社会的 変 動 ﹂( 一 九 四 八 年︑ 単 行 本 収 録 時 の 題 名 は﹁ 南 北 朝 の 内 乱 ﹂) に ま と め ら れ て い る︒ と も に つ ぎ の 単 行 本 に 収 録 さ れ て い る︒ 松 本 新 八 郎﹃ 中 世 社 会 の研究﹄東京大学出版会︑一九五六年︒ ( 63) 網野﹁大和国平野殿庄の所謂﹁強剛名主﹂について﹂ ︑四九頁︒ ( 64) 同上︑四九頁︒ ( 65) 網野﹁鎌倉時代の太良庄をめぐって﹂ ﹃史学雑誌﹄六七︱四︑ 一九五八年︒ ( 66) 網野﹁若狭における封建革命﹂ ﹃歴史評論﹄二七︑ 一九五一年︒ ( 67) 網野﹁鎌倉時代の太良庄をめぐって﹂ ︑六七頁 ( 68) 網 野﹁ 西 国 に お け る 二 つ の 東 寺 領 荘 園 に つ い て ﹂﹃ 日 本 歴 史 ﹄ 一 三 〇︑ 一九五九年︒ ( 69) 網野﹁大和国平野殿庄の所謂﹁強剛名主﹂について﹂ ︑四六頁︒ ( 70) 網野﹁西国における二つの東寺領荘園について﹂ ︑八〇頁︒ ( 71) 網 野﹁ 元 寇 前 后 の 社 会 情 勢 に つ い て ﹂﹃ 歴 史 学 研 究 ﹄ 二 三 一︑ 一 九 五 九 年︒ 単行本 ﹃悪党と海賊﹄ (法政大学出版局︑ 一九九五年) 収録時の題名は ﹁﹁元 寇﹂前後の社会情勢について﹂とされている︒ ( 72) 網 野﹁ 若 狭 国 太 良 庄 に お け る 惣 百 姓 に つ い て ﹂﹃ 史 学 雑 誌 ﹄ 六 八 ︱ 一〇︑ 一九五九年︒ ( 73) 網野﹁元寇前后の社会情勢について﹂ ︑四三頁︒ ( 74) 網野﹁若狭国太良庄における惣百姓について﹂ ︑四一頁︒ ( 75) 同上︑四一頁︒ ( 76) 同上︑五五頁︒ ( 77) 同上︑五五頁︒

参照

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