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全文

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Aboli, un très art nul ose bibelot sûr, inanité (l’ours-babil :

un raté…) sonore

Saut libérant s’il boute l’abus noir ou le brisant

trublion à sens :

Art ébloui! Georges Perec, Alphabets.

マラルメとマネが親しくなったのは 1873 年とされている。辛かった学校帰りにアトリエを覗い たり、時にはカフェ・ゲルボアでともに喧騒に紛れたりして、恐らくは専ら芸術談義に花を咲か せているうちに、間も置かず、詩人と画家はほとんど戦友のような仲になる。マラルメとマネは、 ポーの訳詩『大鴉』、そして『半獣神の午後』を共同で出版し、またマラルメはペンでマネを擁護 する。事実、マラルメが七十年代に残した仕事でマネ論はとりわけ重要な意味を持つ。マネを論 じたものには大きく分けて二種類残されているが、この二つの記事に挟まれるようにして記され た『ゴシップ』と呼ばれる、英国の≪アシニーアム≫誌に宛てた諸々の寸評も看過すべきではな い。「1874 年の審査委員会とマネ氏」、そして『ゴシップ』において一度ならず論じられる寸評、 1876年の「印象派の画家たちとエドゥアール・マネ」、この三つがマネとマラルメを考察するに当 たって不可欠な記事となる。その中で、「1874 年の審査委員会とマネ氏」は、ある意味では最も特 徴的な記事である。というのも他の二つに比べて、際立って論争的であるからだ。《オペラ座の 仮面舞踏会》、《燕》、《鉄道》の三点をサロンに出品しようと目論んだマネであったが、《鉄 道》しか出品されなかった。マラルメはこの審査委員会の行為を皮肉たっぷりに、「悲しき手管」 « triste politique » と指弾する。この記事で特筆に価するのは、観衆への奇妙なほどの信頼である。

マラルメによるマネ?マネによるマラルメ?

福 山   智

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六十年代に見られた象牙の塔の詩人の姿からは想像できない、民主主義的と言ってもよい態度表明 を行っているということだ。曰く、「あるもの全てを見せよ」と。しかしこういった熱烈なマネ擁 護の論調も、『ゴシップ』以降、より美学的な見地からのものであり、これらの方が、いわゆる後 期マラルメの羽化期とも言える七十年代を分析するという意味では、興味深いものとなっている。 実際、「画家の画業のみならず現代芸術の進化の一つにおいてもひとつの日付を印していた(1)」と 『ゴシップ』で評価され、続けて「印象派の画家たちとエドゥアール・マネ」においても論じられ ることになる《洗濯》という絵画への高い評価は、もっぱらその光そしてきらめく大気の表現ゆえ であった。さらには『ゴシップ』の幾つかの記事で既に「外光」という用語をいち早く用いている ことにも興味を引かれる。この理論は 76 年の記事においてさらに発展され、今度はマネのみなら ず他の印象派たちを評価する際に欠かせない要素となるであろう。今回の議論はこれらのマネ論を 非人称の美学という観点から、最初にボードレールとの相違を明らかにした上で、さらに「典型」 という概念に絞って論じてみたい。というのも、この観点こそ、マラルメのみならずマネ自身の美 意識を探るヒントにもなるであろうし、また後期マラルメの準備段階として興味深い考察が可能と なるからだ。 マラルメによる二本のマネ論に関する研究は、これまで幾つか見られ、現在もなお見かけること ができるように、依然、議論され尽くしたというテクストとは言いがたい。これは洋の東西を問わ ず見られる傾向であるが、しかしながら日本での論文に秀でたもの、刺激的なものが多く見受けら れる。例えば、この分野に於ける、ほとんど最初の論考として高階秀爾氏(2)と阿部良雄氏のものが 挙げられよう。前者は、美術史家という立場から、近代絵画史の流れの中で、これらマラルメによ るマネ論、印象派論がいかに優れたものであったかを評価するという作業が行われている。それだ けではない。マラルメを専門とする立場ではないにも関わらず、そしてパスカル・デュランが論ず る(3)より二十年以上も早く、これら絵画論を鋭く「絵画の危機」と定義付けており、非常に熱のこ もった記事であることは疑いない。さらにそのすぐ後で阿部良雄氏も『群衆の中の芸術家』でペー ジを割き、マラルメのマネ論を論じている(4)。より具体的に言えば、マラルメが論じたマネの《オ ペラ座の舞踏会》について、ボードレール研究の第一人者というのみならず優れた美術史家として、 やはりここでも重厚なそしてより細部に目配せの利いた論を展開している。しかしながら、先にも 触れたように、このテクストは言われつくしたという状態からはほど遠いのも確かである。例えば、 おそらくマネ論で展開される最も重要な概念のひとつ、「様相」に関しても最近ようやく非人称性 の観点からアプローチされ始めたという状況である(5)。また別の例を挙げると、1997 年に発表され た、《鉄道》(図版1)を論じたマラルメに関する論文を挙げておこう(6)。論の展開そのものは非

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常に興味深いものなのだが、筆者は以下に挙げるマラルメの一文を考察の端緒としている。 底なしの賢明さをもってしても全てを予見することはできないのだしその意図というものはどこかで 決まってしくじるものなのだから、三枚目の絵(≪鉄道≫、訳者註)が残ったというわけだ。みせか けの、そして見ることを愛する者にとって示唆に富んだ様相の元でそれ自体重要なものである。この 油絵は、サロン運営者どもの権謀術策を逃れ、彼らにさらにまたもうひとつの驚きを隠し持っている と私は思う。[…] それは、まさしくここで行われる予定のサロン評に任せておこう。(7) 三枚目の絵が残った、つまり官展に三枚のうちただ一枚だけ出品されることになったと知らせるこ のくだり、しかし謎めいたこのくだりは何なのか、確かに気になるところではある。事実、この 「もうひとつの驚き」とは何かという疑問が上に挙げた海老沢氏の論文の出発点となっている。そ して「みせかけの様相」« un aspect trompeur » を手がかりに論が展開されている。《鉄道》という タイトルでありながら、鉄道がその煙によってしか示唆されていないというのが「みせかけの様相」 を指していると言うのだ。しかしながら、おそらくはそうではあるまい。《鉄道》において久々に モデルを務めるヴィクトリーヌ・ムーランに「みせかけの様相」の秘密がある。画面左側で柔和で もあり、また同時に射抜くように我々を見つめる女性がそのムーランである。読書を邪魔されたの だろうか、本をひざの上に開いたまま乗せ、じっとこちらを見据えている女、これは他でもない、 その汚名故に当時から知られていた《オランピア》(図版2)のモデルである。この《鉄道》と 《オランピア》、十年近くも隔たりのある二枚の絵画を結び付けるものはモデルが同じというだけ にとどまらない。付属物まで酷似しているのだ(8)。頭部の花、首の黒いリボン、ブレスレット、そ して猫の代わりに子犬、これらの共通点から浮かび上がる画家の挑発的な行為を見抜けない「しく じり」を犯して、審査委員たちはこの年、提出された三枚の絵のうち《鉄道》と題された一枚だけ に出品を認めたのである。アレゴリーやその元となる付属物を否定し現代生活を描くマネが、伝統 で擦り切れた付属物を読む専門家である審査委員たちにいっぱい食わせたという構図である。こう なると、上に挙げた引用は、マネとマラルメの共犯関係が透けて見えてくる。マラルメがこの絵画 についてサロン評の仕事だと言って多言は無用という態度を取るのは、字義通りで済ますべきでは ないのだ。一見するとサロンを通過するような挑発的ではない穏やかな絵画、しかしそこに隠され た挑発、それが「みせかけの様相」であり、敢えて不自然な改行までして、「サロン評」に譲って その秘密を暴露させ審査委員たちに一泡吹かせてやろうという目論見がこの一連の文章に隠された ものなのだ。 以上のようにまだまだ調査すべきこと、そして新たな議論がこのマネ論には存在するのである(9) そこで今回はマラルメがマネの絵画にさかんに見出す非人称性の美学を通して、これは単にマラル メ独自の理論を適用させたのではなく、かなりの程度、マネ自身の意図を説明していた可能性を示

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したい。 そこでまず手始めに、既に阿部氏が、「現代性の美学の内包していた二つの極−個性ひいては 〈英雄性〉の極と、無名性の極−のうち後者が強調されるところに、マラルメ独自の方向付けを見 ることができるかもしれない(10)」と指摘するように、ボードレールの美学を手がかりに恐らくは 「無名性の極」の「強調」どころか前者の極、つまり「〈英雄性〉の極」の廃棄とさえ言える、無名 性への志向を具体的な引用を踏まえて検証したい。 その作品には当時新進で知られていなかったエドゥアール・マネというサインがなされていた。また この当時、残念なことに過去時制で語らねばならないが、ひとりの明晰な愛好家がおり、全ての芸術 を愛しそのうちのひとつのために生きていた。これら見慣れぬ絵画は即座に彼の共感を得た。直感的 で詩的な洞察が彼に愛させたのだ。しかもこういったことはそれらが矢継ぎ早に続けられその中に含 まれる諸原理が充分に明示されその意味するところのものを大勢の観衆のうちの思慮深い選ばれし者 に啓示する以前のことだった。だがこの明晰な愛好家はそれを見るには余りに早く死んだのだ。彼の お気に入りの画家が名声を得る前に。 この愛好家こそ我が国最後の詩人、シャルル・ボードレールその人であった。(11) マラルメはマネの絵画を論じるに当たって、以上のような感動的な文章を枕に据える。そして実際、 この言及は羊頭狗肉ではない。明らかにボードレールの意見を踏まえそしてところによっては発展 させていると思われる箇所がいくつかあるのだ。代表的なものを挙げておこう。「アカデミー的観 点」から起こる意見の一つとしてマラルメは「隠語を借りて絵が充分にプーセ ........ すなわち仕上げられ ていない...というもの」を挙げ、こう反論してみせる。 充分にプーセされていない ............ 作品とは何か、すべてのその要素間にひとつの調和があり、それにより 作品が保たれタッチひとつ加えられようものなら、いとも簡単に解けてしまう魔法のような魅力が ある時に?(12) こういった反論は既にボードレールに見られるものであった。 作られていない ....... 作品と仕上げられた ...... 作品とには大きな違いがあるということ−一般的に作られた .... もの は仕上げられて ...... いないということ、そして見事に仕上げられた ...... ものがまったく作られて .... いないことだ ってありうるということ−精神性にあふれ、かなりのもので然るべきところに置かれたタッチの価値 は強大であるということ、などなど。(13)

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その内容はもとより、「タッチ」という語や「仕上げられた」という語のその強調のされ方まで、 ここにボードレールの主張の反映を見ないほうが不自然であろう。もっと言うなら、ボードレール の「1845 年のサロン」におけるこのくだりは、風景画家コローを賞賛する折に持ち出されるもの で、これを踏まえて考えれば、「印象派の画家たちとエドゥアール・マネ」で「外光」の理論を通 じ、さらにこの主張を推し進めるマラルメの筆致には、「あまりに早く死んでしまった」ボードレ ールの後を継ぐ者として、また「あまりに若すぎた」ゾラのマネ擁護を補足発展させる者としての 自負があったに違いない。 しかしながら、マラルメは独自の見解も打ち出している。そして、もちろん、決してボードレー ルの二番煎じにとどまってはいないところこそ重要なのである。ボードレールの美学を容易に想起 させる例がまた別にある。《オペラ座の舞踏会》(図版3)を論じるくだりだ。これは、そもそも マネがボードレールの美学にのっとって描いた作品とつとに指摘されているので(14)、以下に挙げる 文章にボードレールの影を見るのはごく当然でもある。 当節の制服 « uniforme » への要請がかくもまったくもって困難にするこの絵のつくりはといえば、 諸々の黒のなかに見られる甘美な色階に驚くより他にどうすることもできないと私は思う。フロック にドミノ、帽子に黒マスク、ビロード、ラシャ、サテン、そして絹。[…]目がそれらを区別できるの は第一にほとんどもっぱら男たちからなる ............... 一群が醸す重厚で調和の取れた色彩の魅力のみによって引 き付けられ引き止められたからに他ならない。(O. C. II, p. 412. 強調はマラルメ自身による。) そもそも黒の燕尾服に現代的な美を見出すことができると熱心に主張したのはボードレールであっ た。それではこの詩人は黒い衣服について実際どう語っていたのか。 黒い燕尾服やフロックコートには、普遍的な平等性の表現である、政治的な美が存在するのみならず、 さらには公衆の魂の表現である、詩的な美も存在するということにとくと留意しよう。[…] 悲嘆を示す一様な仕着せ « livrée uniforme » は平等の証である。目だったけばけばしい色がすぐに目 に付いていた風変わりな人々はといえば、今日では色よりもさらにデザインやカットにおけるニュア ンスで充分なのだ。皺のよった、そして禁欲的な肉体にからむ蛇さながら戯れるあれらの襞には、謎 めいた気品がありはしないだろうか?(Baudelaire, op. cit., p. 165.)

「1846 年のサロン」における、名高い「現代生活の英雄性について」と題される章で論じられるの は群集論というよりも、タイトルからしても分かるように、そこから忽然と個別性を示して現れる 英雄に重きが置かれている。しかし一方でマラルメの場合、制服 « uniforme » といったボードレー ルの引用に見られる語、しかもマラルメに親しむ者なら奇異に感ずるこの語の選択や、ボードレー ルの言う「デザインやカットのニュアンス」をより具体的に「フロックにドミノ…」と列挙して見

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せるところなど、なるほどボードレール的ではある。しかし、マラルメの《オペラ座の舞踏会》の 論じ方に、実はマラルメらしさが隠されているのだ。それは、ボードレールなら英雄性をうんぬん するべきところで、全く触れないままでいる、ということだ。奇しくも、阿部氏が、マラルメをも じって「ひとつの〈現在〉が存在する…〈女〉が堂々と自らを名乗る(15)」と指摘し、この《オペラ 座の舞踏会》における女性の英雄性を浮き彫りにする一方で、マラルメはこの絵画で目立っている はずの女性たちの状況説明を行うだけだ。というよりもマラルメの場合、明らかに「無名性」の方 にその眼差しは向かっている。この絵画への賞賛を締めくくるのは、「ほとんどもっぱら男たちか............ らなる ... 」とわざわざ強調までされた一群なのである。「フロックにドミノ、帽子に黒マスク」と黒 に黒を重ね、さらにこれらの黒にそれぞれ生地を「ビロード、ラシャ、サテン、そして絹」と恐ら くは対応させることによって黒の豊富さを畳み掛けている。英雄性という語の不在が既にこの論に 於けるマラルメらしさを暗示していると言ってもよいであろう。ボードレールのように群集から個 を抽出するよりも、マラルメは、群集を、それぞれが個体性を奪われた一個の紋章として見なそう とするのである。こういった傾向はこの時期においてもそれほど珍しいことではない。同時期に記 された散文詩「見世物中断」にも「群衆がまるごとかき消され、舞台を壮麗にするその精神的な状 況の紋章となったのだ」(O. C. I, p. 422.)という一文にも見られる通りである。 このように、マネ論に通底しているのは徹底した非人称の美学の適用であり、上に挙げた例はそ のほんの一部でしかないし、恐らくはこういった無名性への欲求はマラルメに限ったことではなく、 マネ自身もそうだったのではないかということを以下に示してみたい。 そのためには、今回もやはり、『フランス文学語学研究』、第 24 号、「ユゴーとマラルメの典型」 における議論に引き続いて典型という概念を巡って論じなければならない。前回はユゴーも用いる 典型と関係付けながら、この二人の詩人の相容れなさを浮き彫りにしつつ、時系列的にこの概念に ついて論じた。しかし、今回は、前回を縦糸とするなら、横糸という喩えを出してもいいかと思う。 もしくは前回が柱なら、今回は梁だろうか。つまり、前回はマラルメの生涯にわたって亡霊のよう に見え隠れするユゴーだからこそ、時系列的に縦に貫くことができた議論であった。しかしこの場 合、時間という大きな流れに支配され、詳細な検討を諦めざるを得ない状況にも陥る。従って、今 回は、この典型という概念をより仔細に検討し、マラルメの美学上の議論をより堅固に構築するた めに前回のような縦の時間軸というものを考慮に入れず、筆者が重要性をはらんでいると思われる 事例をここに挙げて議論を展開させたい。それが、まずもって、1870 年代のマネとの関係である。 このふたりの芸術家における典型について記す前に、その概要をおさらいしておこう。そもそも この語は 1870 年代以降の産物である。これ以降の頻度を考えれば、かなり奇妙なことに、それ以

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前はこの語が用いられた形跡はない。この語の初出は時期のはっきりしているものをあげれば、 1872年のテクストにおいてである。しかも複数ある。最近、マルシャルの編集によるプレイアー ド版全集に初めて掲載された「ロンドン博覧会回想」と危機から生還した詩人最初の文芸評論「レ オン・ディエルクスの詩作品」においてである。それぞれ順に挙げればその語の用いられかたがあ る程度はっきりする。 〈現在〉――すなわちそれは全て、古来はるか遠くの諸典型の、正確で廉価な通俗化という手順の 探求の中にある。このことは現代科学の発明のおかげである。(16) 次にディエルクス論から。 アダム、ジュバル、ラザロといった彼お気に入りの偉大な典型に比べれば、そこには詩人の姿そのも のが結び付けられようとすることもあるのだが、こういったものに比べれば実話を題材にした世界か ら引かれた人物たちなどは、スケールも小さく並みの興味しかかきたてない。(17) この二つの例に限って言えば、「古来はるか遠く」や神話上の具体例からして過去にあるものとい う意識が伺えるだろう。さらに言えば、かつて創造され伝統的に残っているものが現代に結び付け られているという方向性もたやすく読み取ることができる。さらにまたこういった例もある。これ は神話の入門書、『古代の神々』からの一文なのだが、この書物、1880 年出版とはいえ、書簡など から 1873 年にはあらかた翻訳、翻案の作業は終えられていたと推察されているものである。以下 の引用からも、そして後で見るように突然変化を見せる典型の性格からも、こういった推察が裏付 けることができるという意味で興味深い一文だ。もちろんこの引用は原書のコックスの訳ではなく、 マラルメ自身の書き加えである。この書物の締めくくりとして幾篇か引用される「現代の神話的詩 篇」の注意書きに上のふたつに似た典型が見つけられる。 極めて偉大な詩人たちはおおいに霊感を働かせ「神話的物語」の諸典型を息づかせ現代的なヴィジ ョンによって言わば若返らせることができたのです(人類が新しい神話を創造しなかった以上これが 彼らの義務なのです)。(18) 上の一文ではさらにマラルメの方向性がはっきりしてくる。最初に挙げた二つの引用でも窺えたこ とだが、一言で言えば古代的な「諸典型」の現代での再生である。しかし一方で、ある種の予感も ここには読み取ることができる。それが「人類が新しい神話を創造しなかった以上」というくだり だ。これらの文章をしたためた直後にマラルメは、現代における「新しい神話」の可能性を見出し たのではなかろうか?筆者はここでマネとゾラのことを念頭に入れているのであるが。

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七十年代のテクスト、とりわけ散文に限ってひとまず線引きするならば、マネとの交流が始まる 以前と以後というのが最も明確であるように思う。というのも、マネとの交流以前の七十年代に残 された文章は、先にあげたように言語学のノート、ロンドンでの万国博覧会のレポート、「レオ ン・ディエルクスの詩作品」そして『古代の神々』という翻案を含めてもよいであろうが、これら において絵画という要素はまったくないと言ってもよい。親友であった画家、アンリ・ルニョーの 一周忌に寄せた記事においてさえ、画家というより才能ある友人への哀悼であり、もちろん、紙葉 の都合もあるのだろうが、具体的な絵画論を述べようという気配を窺うことはできない。マネとの 交流以降のテクスト群を振り返れば、『ゴシップ』を見渡しても、さらには『最新流行』における 絵画への眼差し(19)など、あきらかに絵画への興味、造詣が急速に深まっているのがはっきりと認識 される。そしてこの線引きを確認するために典型の変容を見渡すことが、この場合、最も適当であ るかと思う。 彼[マネ]が我々に与えてくれた、心を捉えると同時に嫌悪も催させる、奇妙で、新しい諸典型は 我々の周囲の生活によって呼び寄せられていたのである。そういった諸典型には、いかに変であろう と、ぼんやりしたものや、漠然としたもの、因習的なもの、廃れたものなど何もなかったのである。 しばしばそれらは、彼自身教化し始めた空間と光のああいった新しい法則のために、他の者たちなら うまく役立てたであろう瑣末なところなど半分隠したり犠牲にしたりするという、画題の相貌におけ る何か特別なものによって注意を引き付けていたのである。(D. S. M. I, p. 71.) ここで注目すべきは二点である。まずはここで言及されているのが「新しい諸典型」であるという こと、さらには「我々の周囲の生活によって呼び寄せられていた」ということである。先に振り返 ったように絵画論以前とは全く異なる典型がここには見られるのだ。古代から求められた典型では ないのである。現代的な典型とでも言おうか、先に挙げたディエルクス論での「実話を題材にした 世界から引かれた人物たちなどは、スケールも小さく並みの興味しかかきたてない」といった言葉 とほとんど矛盾している典型である。この変化を自身も強く感じていたのか、熱っぽくその「新し い諸典型」を説明してくれている。これには単純化の作業が必要であるばかりでなく、早くも空間 と光の問題に結び付けらていることもここで確認しておこう。そしてもうひとつ指摘しておくべき ことは、この文章が《オランピア》を紹介した後に来ているということである。かつてのマネの作 品にも典型を見ているかのように。これらふたつの傾向は次に典型という語を用いる状況とよく似 ている。 その目標とはいっときの息抜きやセンセーションをなすことではなく、氏の作品に自然で一般的な法

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則を刻み込もうというたゆまぬ努力を行うことによって、個性よりも典型を目指し、しかもそれを空 気の光で浸すということであった。それにしても何たる光だろう!(D. S. M. I, p. 72.) このくだりも、今までマネが描いてきた過去の作品名を羅列した後に論じられている。すなわちマ ネの目標とは、今までずっとそうであった目標であり、それがマラルメにとっては「個性よりも典 型を目指す」ということであったのだ。そして「空気」、「光」といった語が再び「典型」に結び付 けられる。そうして、「それにしても何たる光だろう!」といった感嘆の後に、「外光の理論」を見 事に展開してみせることになる。言ってみれば、外光以前に必要な要素としての典型というマラル メの思考がここで浮かび上がってくる。しかしながら、この批評家はかつての典型を忘れたわけで はない。むしろそれを保持することによって、この現代的な典型の特質がさらに際立つことにな る。 壮麗な短縮法でもって理想化された典型の一群で広間や宮殿の天井を飾るためでないとするなら、 日々の自然を前にした画家の目的とはいかなるものでありうるのか?(D. S. M. I, p. 85.) 「理想化された典型」とは、続く「広間や宮殿の天井」という言葉からしてこれら印象派論を記す 以前にマラルメが肯定して見せた、先ほどすでに挙げた引用での典型であろう。そうでないとする なら、という仮定に続く問いの答えがこの論の締めくくりとなっているのだ。長大な引用符からな る文章だ。引用符の機能を考えれば、ここに非人称性を見てもよいであろう(20)。少なくとも以下の 引用の直前に画家によってドグマとして宣言されてはいないという断りを入れていることから、逆 にマネや印象派の美学の代弁という機能を果たしているのだ。 《[...]絵画の明白で持続的な鏡に永久に生きしかし一瞬一瞬死に、ただ〈イデー〉の意思によって のみ存在するが、我が領分において唯一自然にふさわしく真正で確かなるもの─〈様相〉を成すもの を反映させればよいのである。[...]》(D. S. M. I, p. 86.) 「目的とはいかなるものでありうるのか」という問いに対する答えのひとつが「〈様相〉をなすもの を反映させ」ることなのである。〈様相〉に関する詳しい考察は別の機会に譲らねばならないが、 少なくとも、この〈様相〉は典型と容易に結びつく。やはり同時期の「見世物中断」からの引用だ が、「典型として役に立つ不可欠で、明白で、単純な様相」(O. C. I, p. 420.)という表現がある。言 わば、〈様相〉とは現代的な典型を導き出すための要素となり得るのがここではっきりと理解され る。むしろ、八十年代に入ってからの典型に、より近似したものとなっているのだ。 ここまで見たように、マネおよび印象派についての論考までは、マラルメにとって典型とは古代 的なものから導き出されるものであった。しかしマネといった現代を射程に入れた画家と知り合う ことによって、ほとんどそれまでの典型とは矛盾するような典型がここでは語られているのである。

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このような変節はマラルメの内部だけで起こったものであろうか?もっと言うなら、そもそもマラ ルメがマネの死後、「私は十年、毎日私の大好きなマネに会いました。彼がいないことは今日でも 私には本当のことのように思えません」(O. C. II, p. 789.)と述懐するように、またマネと知り合う 機会を、若過ぎたために得られなかったタデ・ナタンソンが「ほとんど私と一緒に生きているかの ようであった。それほどマラルメに彼の話を聞かされたのだ(21)」と火曜会での思い出を回想する ように、この親しさは単なる近所付き合いというレヴェルを遥かに超えているのはもとより、ただ 二人の芸術家の前衛性故の挫折という共通点だけで済ませることができる問題であろうか?後に、 それぞれのジャンルにおける領袖と目される二人の芸術家にはより具体的な美学上の共感があった のではなかろうか? 三浦篤氏の最近の大著(22)において、マネの典型に関する考察がなされている。これはマネの作品 のタイトルが持つ一般性から、アントナン・プルーストの回想録を典拠にしつつ、マネは個性より も典型を目指していたのではないかという議論である。この議論を後ろ盾に、他に当てはまる例を ここでもひとつ、ふたつ挙げてみたい。 まずは《女と鸚鵡》 Femme au perroquet(図版5)と現在では呼ばれている作品だ。現在ではと 述べたが、このタブローは《1866 年の若い女》というタイトルが当初は与えられており、モデル は《オランピア》そして後には《鉄道》でも静かで意志の強い眼差しを我々に投げかける、マネお 気に入りの、ヴィクトリーヌ・ムーランであった。そのタイトル通り若いムーランが画面中央に佇 みこちらに神秘的に微笑みかけ、右に鸚鵡が一羽止まり木に止まっているという奇妙な魅力を称え た作品である。もちろん、タイトルが既にマネの一般性への嗜好を窺わせるが、これだけで、故に マネは個体性を避けることを目指していたと断定するには性急に過ぎるであろう。しかしながら、 この絵画の興味深いところは、クールベの今や同じタイトルである《女と鸚鵡》(図版4)に対す る返答であると言われているところだ。このクールベの作品は、ヴェントゥーリが「最大の愚行」 と評価するように、現在でもサロンにおもねった妥協の産物と言われている。しかしまた一方で、 クールベ自身が、そこに描かれた裸体を「スペードの女王のように平べったい」と揶揄した《オラ ンピア》への返答としてこの《女と鸚鵡》を描いてもいたのである。肉体性のない《オランピア》 に対する返歌としてのクールベの《女と鸚鵡》、その受け狙いの肉体性を誇る裸体が描き込まれた 《女と鸚鵡》に対する返歌としてのマネの《女と鸚鵡》。そもそも、その極彩色ゆえに古くから芸 術家、とりわけ画家の目を引いてきた鸚鵡を色あせたものとして描いてみせるところにもマネらし さが窺えるが、このマネの作品もやはり《オランピア》と同じく、その肉体性のなさが非難の的 となる。例えばゴーチエは「ドレスは、その下にある肉体など一向に想像できない(23)」と批判し、

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そしてマンツは「彼は肉体の描き方を知らない」と言い切り、そしてこう結ぶ、「彼は何一つ伝え ていない(24)」と。これらの非難をまとめてクルティオンが皮肉を込めて「すべてについて語ってい る」と言うようにこれらの批評家たちは、判断の良し悪しを除けば、ある意味で慧眼であったのだ。 つまり描けなかったのではなく描かなかったとすれば?ということだ。もっと言えば、この肉体性 の不在は何を示すのか?マネ自身、後に、『綱渡りのオード』を記したのを念頭においてか、そも そもあのアクロバティックな詩作を意識してか、どこかピエロのような肖像を描くことになるバン ヴィル、そしてマネの水彩画《道化師》に二行詩を捧げることになるこの詩人が同じ時期にしたた めた「女と鸚鵡」« Femme au perroquet » と題される文章がそのヒントになってくれるかもしれな い。 そしてその手は、土色で、そこから一切の肉体は追い出されている、そんな手の上に、この非人称の 〈存在〉は一羽の鸚鵡を携えている、生きた鸚鵡だ、[…]おお!この炎の色をした、そしてエメラル ド色のこの鳥、〈有り余るもの〉の栄光への勝ち誇ったなんたるオード、それを、自身存在しない、そ して一羽の鳥を持つあの亡霊が連れているのだ!(25) ここで、マネが亡くなってから、マラルメが展開した数々の演劇論を思い起こしておこう。そこで はより重要性を帯びたしばしば大文字で記される〈典型〉というものが持ち出される。徹底して肉 体性が破棄されたものとして。そしてまた舞台上の主人公 « héros » というその特性を思い起こせ ば、ボードレールと異なり、決して個別性というものを帯びることのない、群集全体の意識の紋章 とも言うべき英雄 « héros » として。ワーグナー論からその代表的な例をここに引用しておこう。 固定したものでも、数世紀来のものでも、周知のものでもなく、個人性から解放されたひとりだ。と いうのもそれは我々の多様な様相を構成するからだ。それを[…]〈芸術〉が喚起し、我々のうちに照 らし出すのである。前以ての名称なき〈典型〉だ、[…]彼は、誰かなのか!どこかの舞台でもないの だ。[…]何か至高の稲光の中、そこから〈何者でもない形象〉が目覚め[…]。(O. C. II, p. 157-158.) マネが亡くなって二年後に発表されたこの評論において、驚くべきことにマネ論でも見られたよう に、〈典型〉は様相と結び付き、〈何ものでもない形象〉として光に浸されていることが確認できる。 一方で、既に亡きマネは、ジャンルは違えど、既に 1860 年代には肉体性の破棄、隠匿を試みつつ、 マラルメと知り合う頃にはその画業の頂点と詩人が評価する光に浸された《洗濯》を描いているの である。非常にありがちな発想ではあるが、この際、こういったことを強調しすぎてもしすぎるこ とはないように思う。マネなしでは今に残る形で、いわゆる後期マラルメは存在し得なかったかも しれない、と。 バタイユがその名高いマネ論において、《オランピア》を以下のように、著者一流の語法で解き 明かしてくれる。我々はその感動を素直に共有することができる。しかし、また一方で、これは

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《オランピア》という絵をたたき台にして紡がれたバタイユ独自の美意識だという思いもどこかに ありはしないだろうか?これこそ優れた論者が優れているとみなされるゆえんでもあるのだろう が、実際のマネの意図とはそれほど関係がないという意識、バタイユのバタイユらしい議論として の感動、そういうどこか割り切った感覚があるかもしれない。しかしながら、ここまでの議論を振 り返ってみれば、意外なほど?に《オランピア》への言及が、マネの深い意図までも貫き通してい た可能性も捨てきれなくなってくる。 タブローが意味するのはテクストではなく、消去だ。[…]彼[マネ]がその意味を抹消(粉砕)する ことを望んだという限りでこの女は存在する。その凛とした挑発的な様子の中で、彼女は無なのだ。 その裸形性は沈黙なのである[…]。彼女がそうであるところのものとは、その現存の聖なる恐怖.....なの である−その現存の簡潔さが不在の現存なのだ−。[…]マネのレアリスム−少なくとも《オランピ ア》のそれ−はひとたびどこにもすえることのない力を得たのである。[…] 《オランピア》を見て際立つことはある抹消の感覚であり、それは純粋状態でのある魅惑の明白さ であり、圧倒的に、沈黙してかつて雄弁が作り上げていた嘘に存在を結び付けていた絆を断ち切った 存在の魅惑なのである。(26) 今後の展開のために、接木として、もうひとつ様式の異なるマネの典型を挙げてみたい。《ナ ナ》(図版6)である。やはりこれも、《女と鸚鵡》と同じく、後にそう呼ばれるようになった作 品だ。平板だった肉体が今度は実にふくよかで明るい魅力に満ちてはいるものの、あからさまに娼 婦を描いたとしてやはり、《オランピア》と同じく、猥褻だと非難され、ご多分に漏れずサロンに 落選した作品である。しかし《ナナ》という呼び名がこの絵画に定着するのはあとになってからの ことであり、実際はマネのこの絵画はゾラの『ナナ』より先に生まれた作品なのである。とはいえ、 《ナナ》と呼ばれることにマネはまんざらでもなかったかもしれない。少なくともマネは、ユイス マンスが 1877 年の時点で指摘するように、『居酒屋』に既に出てきた「ナナ」という登場人物に霊 感を受けたとか、ときにはゾラの計画を知っていたのだと大方の論者はみなしているが(27)、とりわ け後者の説は、一見すると説得力に欠けはするものの、ゾラの計画に「ナナ」という登場人物を通 して « vraie fille » を描くことを目指すメモがあると知れば、そしてこれまでの典型の考察を改めて 思い起こせば、俄然興味深くなってくる。たとえ、その計画ノートに目を通していなくとも、ゾラ 自身が仲間内で口にしていたふしが、ユイスマンスの次の文章で窺える。それが 1877 年に発表さ れた「マネのナナ」と題された記事である。以下の引用でもわかるように、1877 年という時期か らして、これ自体、小説『ナナ』以前のものであることを確認しつつ以下の引用を見てみよう。奇 しくも、ユイスマンスは、マネによる《ナナ》をこう評価するのだ。

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マネは全くもって正しくも《ナナ》において彼の友人であり、我等が師、エミール・ゾラがごく近々 の小説のひとつにおいて我々に描いてくれるだろう娘たちのああいった典型の最も完璧なお手本のひ とつを表現したのだ。(28) 「典型のお手本」 « échantillons de ce type » とは同語反復じみてもいるが、それだけに一層、マネと ゾラの典型への志向が強調されていると見えなくもない。典型を巡ってマネとゾラの関係が成り立 ちうる以上、ゾラとマラルメの場合はどうか?というのが今後の展開である。事実、典型を目指し た芸術家だと少なくともマラルメはゾラをみなしていたのだから。それももちろん、絵画論以前の 典型とは異なり、やはり現代的な典型として、である。以下の引用を、次の課題への布石として今 回の論の締めくくりとしたい。 あなたは初めて、見事なものを為し得たというのではなく、それはいつだってお手のものだったので すから、そうではなくてまさしく現代文学作品の典型とあなたのみなすものを為し得たように私には 思えます。一篇の詩です、なぜって間違いなくそうなのですから。しかも間断のない一篇です。(29) ゾラの『愛の一ページ』を進呈された礼状でマラルメははっきりと「現代文学作品の典型」と評価 している。《アシニーアム》誌に連載された、今では『ゴシップ』と呼ばれるマラルメによる寸評 群にマネの《洗濯》と同じく幾度となく紹介されるゾラの小説にも典型を見ていたのも確かであ る。その典型がいかなるものであったのか、ゾラのサロン評も含めて、また自然主義の概念をも念 頭に入れて、また別の機会に考察したい。 注

(1) Stéphane Mallarmé, Œuvres complètes II, édition présentée, établie et annotée par Bertrand Marchal, Pléiade, 2003, p. 439. (以下、O. C. II と略記。)

(2) 高階秀爾、「マラルメと造形美術」、『無限』、39 号、1976 年 3 月、24-33 頁。

(3) Pascal Durand, Crises : Mallarmé via Manet (De « The Impressionists and Edouard Manet » à « Crise de

vers »), Leuven, Peeters, 1998.

(4) 阿部良雄、「四 〈現在〉の発見」、『群衆の中の芸術家』、中央公論社、1975 年、135-182 頁。

(5) James Kearns, Symbolist Landscapes, the Place of Painting in the Poetry and Criticism of Mallarmé and his

Circle, London, Modern Humanities Research Association, 1989.とりわけ様相に関する議論は、p. 103-104 を参照のこと。

(6) Ebisawa Hideyuki, « Manet selon Mallarmé : l’aspect du Chemin de fer en 1874 », Etudes de langue et

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(7) Stéphane Mallarmé, « Le Jury de peinture pour 1874 et M. Manet », O. C. II, p. 411-412. (8) この事実を知ったのは、『1874 年−パリ[第一回印象派展]とその時代』、国立西洋美術館、1994 年、 154頁での《鉄道》の解説による。 (9) マネ論として挙げておくべき一冊がある。稲賀繁美、『絵画の黄昏、エドゥアール・マネ、没後の闘 争』、名古屋大学出版会、1997 年、がその一冊だが、ここではマネがいかにして近代絵画の父に奉ら れたのか、というからくりを論証した極めて刺激的な一冊である。恐らくは筆者の勉強不足の故なの だろう、二、三の根本的な疑問が残りはするものの、その筆致に、敢えてざっくばらんな言い方を許 してもらうなら、身震いのした一冊である。 (10) 阿部良雄、前掲書、179 頁。

(11) « The Impressionists and Edouard Manet », Documents Stéphane Mallarmé I, présentés par Carl Paul Barbier, Nizet, 1968, p. 87.(以下、D. S. M. I と略記。)このテクストに関しては、マルシャルによるプレイアー ド版に不備が多く見られるため、バルビエ版を底本にしたことをお断りしておく。(ただし初出である 《アートマンスリーレヴュー》を底本にしている阿部氏によると、初出では、引用の最終行にあたる 「詩人」が「大詩人」となっていると言う通り、マルシャル編纂の『全集』にも「大」にあたる形容詞 がある。事実、その方が文章の流れからしても自然であろう。) なお、マラルメによるフランス語の原稿が散逸してしまっているこのテクストの新訳が最近、出版 されたので付言しておく。Stéphane Mallarmé, Edouard Manet, édition établie et préfacée par Isabella

Checcaglini, L’Atelier des Brisants, 2006.

この本は最初に « Manet et Manebit »「カレハノコリソシテノコルデアロウ」というウェルギリウス の文句をもじった編者による序文が付されている。ちなみにこの文言はブラックモンによるエッチン グからつとに知られるようになったものだが、アルセーヌ・ウーセの発明である。この序文に加え、 マラルメがマネについて言及したテクストをまとめ、関連する絵画も併せて掲載している一冊だが、 編集者自身、自らの新訳のあとがきにおいて、全集でのマルシャルによる翻訳を批判するだけあって、 現在最も信頼できる翻訳と言える。ちなみに « Manet et Manebit » という表現はアントナン・プルース トによる墓前での弔辞にも見られる。cf., Antonin Proust, « Edouard Manet, souvenirs », La Revue blanche,

1er avril 1897, p. 420.

(12) « Le Jury de peinture pour 1874 et M. Manet », O. C. II, p. 413.

(13) Charles Baudelaire, « Salon de 1845 », Œuvres complètes II, texte établi, présenté et annoté par Claude Pichois, Pléiade, 1976, p. 390. なお「仕上げられた

......

」ものと「作られた ....

」ものと違いに関する考察は、

Albert Boime, The Academy and French Painting in the Nineteenth Century, New Haven, Yale University Press, 1986, p. 20-21、および阿部良雄、「素朴さの美学」、『絵画が偉大であった時代』、小沢書店、1980 年、

157-163頁、『群衆の中の芸術家』、32-33 頁に詳しい。

(14) 同書、180-181 頁。

(15) 同書、181 頁。

(16) « Souvenirs de l’exposition de Londres », O.C. II, p. 391. (17) « L’Œuvre poétique de Léon Dierx », O.C. II, p. 408. (18) « Les Dieux antiques », O.C. II, p. 1566.

(19) 例えば新しくなったオペラ座の装飾を担当したボードリーの一度ならぬ言及及びその展覧会の紹介。

(15)

がオペラ座のボードリーの絵について言及したことが回想されている。マラルメと違ってマネらしい

皮肉に満ちた意見ではあるが。「ボードリーは不幸だね。なぜってオペラ座のロビーは暗いからね、彼

の絵が見えないのだから。でも彼はもっと不幸だったと思うよ、その絵が見えていたら。」Antonin

Proust, art. cit., p. 415.

(20) この数年前に発表された、ディエルクス論でも同じ手口を見つけることができる。このときははっ きりと自らが姿を消すという芝居がかった能書きさえあるが、この絵画論では、時折普段から会話を 交わす仲であることのほのめかしがあるだけに、マネが普段から使っていた言葉が選ばれているやも しれぬという印象を読者に与える。

(21) 原本が入手できなかったため、James Kearns, op. cit., p. 89 の英語訳より引用した。さらに脚注では以

下のような文章が同じページにあるという報告がある。「マラルメにとって、マネは画家なのである。

他のどんな者も比肩され得ない者だということだ。」

(22) 三浦篤、『近代芸術家の肖像、マネ、ファンタン=ラトゥールと 1860 年代のフランス絵画』、東京大 学出版会、2006 年。とりわけ第四章、三節に含まれる「肖像画の比較」、及び「特殊と典型の葛藤」 (217-222 頁)を参照のこと。

(23) Théophile Gautier, « Salon de 1868 », Le Moniteur universel, 11 mai 1868. (24) Paul Mantz, « Salon de 1868 », L’Illustration, 6 juin 1868.

(25) Théodore de Banville, Camées parisiens, préface de Sylvie Camet, L’Harmattan, 1994, p. 26.『パリのカメオ』 というタイトルが示すように、まさしくポルトレというジャンルに区分すべきこの散文集に関しては、 1866年から継続的に 1873 年まで出版された。十二篇ずつがひとつのまとまりとなっており、引用し た「女と鸚鵡」という文章は冒頭に「ボードレール」が来ている最初の組に含まれていることからし て 1866 年に公にされていたと考えるのが自然であろう。さらに、この文集の興味深いのは最初がボー ドレールであり、73 年、最後の出版での締めくくりが、マラルメもマネの弟子として唯一名を挙げる 女流画家エヴァ・ゴンザレスであるという、マネには少々因縁めいた頭と尻尾になっているというこ とだ。マネ自身、この文章を読んでいた可能性、逆にバンヴィルが霊感を受けた可能性、もしくは単 なる偶然のそれ、等々、何も今のところ断定はできないが、非人称性の美学をめぐって、時期的に興 味深い一致を確認しておきたく取り上げた。

(26) Georges Bataille, « Manet », Œuvres complètes, IX, nrf, 1979, p. 142.

(27) Janice Best, « Portraits d’une « vraie fille » : Nana, tableau, roman et mise en scène », Les Cahiers

naturalistes, vol. 38, n° 66, 1992, p. 156-166.

(28) Joris Karl Huysmans, « La Nana de Manet », Les Ecrivains devant l’impressionnisme, textes réunis et présentés par Denys Riout, MACULA, 1995, p. 250.ちなみにゾラの『ナナ』は 1879 年 10 月から連載され る。

(29) Stéphane Mallarmé, Correspondance II, 1871-1885, recueillie, classée et annotée par Henri Mondor et Lloyd James Austin, nrf, 1965, p. 172.

(16)

1.マネ、≪鉄道≫、1872-1873 年 2.マネ、≪オランピア≫、1863 年

3.マネ、≪オペラ座の仮面舞踏会≫、1872-1873 年 4.クールベ、≪女と鸚鵡≫、1866 年

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参照

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