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文化情報学:駿河台大学文化情報学部紀要 第7巻第1号(2000年6月)抜刷

ホスピタリティ,ノーマライゼーション,

宗教多元主義について(Ⅲ)

―特にカルヴィニズムの預定説,資本主義,マックス・ウェーバー―

西

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研究ノート

ホスピタリティ,ノーマライゼーション,

宗教多元主義について(Ⅲ)

――特にカルヴィニズムの預定説,資本主義,マックス・ウェーバー――

西

[要旨]日本人のホスピタリティ性の問題点および宗教間のホスピタリティのあり方を考究することの 一環として,マックス・ウェーバーの最著名な労作において,近代資本主義形成に作用した倫理の基底 にあるとされたカルヴィニズムの預定説をめぐって考察し,兼ねてウェーバー像を再考する。 [キーワード]大塚久雄,マックス・ウェーバー兄弟,ジョン・ウェスレー,カルヴィニズムの預定説, 近代資本主義 目次 Ⅰ 特に日本の宗教的・倫理的風土 1 はじめに 1.1 本稿の目的 1.2 ホスピタリティの定義 2 ホスピタリティの意義――なぜいまホスピタリティなのか 3 日本の宗教的・倫理的風土とホスピタリティ精神 3.1 論語 vs 福音書 3.2 日本は仏教(とりわけ大乗仏教)国ではないのか 3.3 日本人は無宗教なのか 4 近年における経済社会の潮流とマーケティングにおけるホスピタリティズムの登場 5 ノーマライゼーションの意義 5.1 ホスピタリティの真の根源 5.2 人生の真の目的はなにか――障害者への親切の意義 5.3 障害者旅行を推進したもの (以上,第6巻・第1号) Ⅱ 特に日本社会の支配原理 6 続編のはじめに 7 日本社会の支配原理 7.1 母性原理・集団主義の支配する社会 7.2 風土と国民性 (以上,第6巻・第2号) Ⅲ 特にカルヴィニズムの預定説,資本主義,マックス・ウェーバー (以下本号) 8 Ⅲ編のはじめに 9 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に関連して 9.1 カルヴァン派の禁欲倫理と預定説 9.2 カルヴァン派の預定説への宗教的疑問 9.3 預定説立脚型禁欲と資本蓄積または経済発展との関係への疑問 9.4 自立運動後の資本主義と大塚およびウェーバーの見解 9.5 預定説へのジョン・ウェスレーの立場とウェーバー 10 マックス・ウェーバーの思想 51

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Ⅲ編のはじめに

Ⅰ編(第6巻・第1号)では,日本人のホスピ タリティ性の問題点を日本の宗教的・倫理的風土 との関係から考察し,兼ねてマーケティング理論 におけるホスピタリティ概念の浮上,ノーマライ ゼーションの観点からの障害者旅行開発,等につ いても言及した。 Ⅱ編(第6巻・第2号)では,Ⅰ編の3.2節 で提起した設問の2――すなわち上記の問題点を 解明する鍵を社会心理学等の分野にも求めてはど うか――への対応を試み,日本社会での支配原理 に関する諸説を省みた1) 今回のⅢ編では,やはり宗教間・民族間のホス ピタリティ問題を考える一環として,マックス・ ウェーバー(ヴェーバー,Max Weber 1864― 1920)の「プロテスタンティズムの倫理と資本主 義の『精神』」(原論文初出1904―1905.梶山訳, かなり後に阿部行蔵訳,梶山・大塚共訳,さらに 大塚訳等。本稿末尾の文献一覧では,ウェーバー, マックス[梶山・大塚訳1955,1962]――以下で は「梶山・大塚訳」と略記。なお他の諸著作およ び諸翻訳については省略)において重視されたカ ルヴィニズムの預定説について省察し,兼ねて ウェーバーの支配・服従等に関する思想を少しく 考察する。(私の本来の専攻分野ではないので, 不備・不適切な点が多いはずで,ご叱正を得れば 幸いである。) なお今回もまた,1学習的試論であり,2(ホ スピタリティの観点を踏まえての)多文化主義お よび宗教多元主義の考察は,時間・体力等の不足 で次回(最終回)にゆずり,3敬称は省略する。

9 「プロテスタンティズムの倫理と資本

主義の精神」に関連して

9.1 カルヴァン派の禁欲倫理と預定説 大塚久雄と,同教授の講義を通じて知ったマッ クス・ウェーバーへの私の敬意は大きかったし, 今も大きいが,また受講を通じて知ったウェー バーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義 の『精神』」――以下,「倫理と精神」と略記―― には,感動した2) しかしながら,「倫理と精神」の議論の中で, カルヴァン派の禁欲倫理の基底にあるとして重視 されている預定説については,当時キリスト教を 殆ど知らない私ではあったが,疑問を感じざるを 得なかった。それゆえ,そのような倫理(以下し ばしば,「預定説立脚型禁欲倫理」と略記)と資 本主義との関係――この問題は史家たちの議論に またねばならないとはいえ――についても,はた してウェーバー=大塚の所説どおりかどうか,い ささか不安も覚えたことであった。 さて「倫理と精神」によれば,プロテスタンティ ズムの倫理,とりわけカルヴィニスト(カルヴァ ン派)の禁欲倫理が「近代」市民社会,「近代」 資本主義の形成に重要な,あるいは促進的な,役 割を果たしたのであるが,この禁欲倫理の根底に はカルヴァン派の「預定説」(予定説または予定 論Pra¨destinationslehre, predestination theory) がある。 尤も,ジャン・カルヴァン(カルヴィン,Jean Calvin,1509―1564,文献省略)自身の預定説― ―そこにカルヴァンの神中心主義が最もよく表現 されているといわれる――は摂理論と結びついて 一種の味わいを有しており3),それを尖鋭化した 16世紀末葉と17世紀のカルヴァン派(特にピュー リタニズム)の預定説とは,かなり異なるおもむ きがある。しかもカルヴァン自身は,預定説をカ 10.1 ウェーバーの歴史(特に歴史の変革力)観 10.2 ウェーバー像の再考 10.3 余禄――ウェーバーの難点の一つ 52

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ルヴァン派のように思想の中心に据えたわけでは ない(浅野順一1966,231頁;渡辺信夫1968,164 頁)。それはそれとして,カルヴァン派によれば, 人が死後,天国と地獄のいずれに行くかは予め神 によって定められているのである4) 。 そうだとすれば,キリスト教的原罪説を信じな い人でも,来世が存在し,そこには天国と地獄が あることを信じる人には(そして罪を犯さなかっ たと断言できる人はいない,それどころか,罪悪 だらけというのが通常である以上は),天国と地 獄あるいは永遠の救いと滅びのいずれに選ばれて いるか知りえないというのは,恐ろしいことであ ろう。カルヴァン派の信徒にとってはなおさらで, その恐怖からのがれるためには,清らかな生活, 質実・勤倹で合理的・組織的な職業・社会生活を 実践し,救いに預定されている者にふさわしいと, 自他ともに感じられるように生きるほかに道はな い,ということになる。カトリックの修道士が組 織化された禁欲生活を世俗外の修道院で行なうの に対して,カルヴィニストはそれを世俗内で神の 栄光のために営むのである。そしてそのような勤 勉・節約的な生活あるいは生活の聖化の(意図せ ざる)結果として資本が蓄積され,それが(不合 理な,あるいは浪費的な支出には用いられず)再 投資されて生産がさらに発展する。また貧困を脱 して富裕化する。そしてそれらのことは神の栄光 を示すものであり,増すものである,とカルヴァ ン派の人々には考えられたのである。 預定説に結びついたカルヴィニズムの禁欲倫理 に 立 脚 し て,西 欧 に 始 め て,ま た 西 欧 に の み (ウェーバーは諸著でそのように述べている), 合理的な「近代」市民社会・資本主義が登場する に至ったとする主張は,その妥当性またはその程 度は史学者たちの議論にまたねばならないとはい え,理解はできる。 そして,経済が次第に上昇しつつあったけれど も,富裕化または金銭増大への罪悪感・抵抗感が なお根強かったであろう状況のもとで,経済福祉 の発展が神の栄光を示すものとして肯定的に受け とめる道あるいは気風を開拓・普及ししたこと, したがってまた結果として(カルヴィニストに とっては意図せざる結果,観察者にとっては予期 せざる結果,であるか否かに関わりなく),地域, 社会,または民族に経済発展をもたらした(少な くとも,もたらしやすくした)ことは,大きな福 音であったと評価できるであろう。 9.2 カルヴァン派の預定説への宗教的疑問 とはいえ,宗教上は大きな疑問が残る。第一に, 残酷な刑罰を恐れるゆえに人々が法律を守る,あ るいは脅迫や恐怖で人々を服従させて支配する, というような状態では,望ましい道徳状態あるい は統治状態とは言えないのと同様に,死後堕地獄 の大きな恐怖または強迫に根ざした信仰または布 教は,宗教のあり方としては決して望ましくない であろう5)(仏教で恫喝または恐怖と救済が隣り 合わせになっている場合を,門馬1995が考察して いる。) しかも第二に,苛酷な環境はしばしば偉人や孝 子を育てるが,冷酷な人,または苛酷に対して冷 淡 か 不 感 症 な 人 を 生 み 出 す こ と も あ り う る。 ウェーバーは,「恐ろしいカルヴィニズムの教説」 ではあるが,「そこに具わっているような,あの ・ ・ 不断の自己審査と一般に自己の生活の計画的な規 制への推進力」(梶山・大塚訳,下巻91頁)は, ルター派などでは生じなかっただろうと見る。だ が他方,聖徒たち(選ばれた者)と永遠の昔から 捨てられた残余の人類との間の空隙は隔絶してい て恐ろしく,こうした空隙は社会的感覚のあらゆ る面に打ち込まれた。聖徒たちが隣人の罪に対す る態度は,「自分の弱さを意識して寛大に救助の 手をさしのべるのではなく,永遠の滅亡への表徴 を身におびた神の敵への憎悪と蔑視だった」(80 頁)と述べ,現世内に聖徒たちの宗教的貴族主義 が生じたとしている。 第三に,そもそも人が天国と地獄のいずれに行 くかが決まっているのであれば,なぜ偉大な宗教 者たちが,しばしば肉体生命をかけてまで人々に 宣教・伝道するのであろうか。今のままでは地獄 に行く可能性が大きい人々だとしても――あるい 53

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は,むしろ,そうであるからこそ――,大宗教家 は自己の宣教・伝道の努力によって彼らを救済し て(あるいは解脱させて)あげたいと,文字通り 懸命に努力してきたのではなかろうか。そうだと すれば,預定説は,神仏を冒涜することにはなら ないかと,危惧されるのである6) 尤も,(神のみが知り給い,人間には分らない はずであるが,仮に)例えば地獄に行くにふさわ かいしん しい行動のあった者が深く悔悟あるいは回心(仏 教語ではエシン)して救われることになったとし た場合,これもそのような過程を通じて救われる ことが決まっていたのである,と言えるのだろう か。もし言えるとすれば,回心はその人自身には 自発的と思えても,いわば宿命的なものであるこ とになりはしないのか。自由意志あるいは自発 性・自主性は錯覚ということになりはしないか。 そうだとすると,善悪とはなにか,そもそも倫理 とはなんであるのか。 しんらん 親鸞はずっと後になって,自力はそのまま他力 なり,他力はそのまま自力なり,との(自他を超 えた,または融合した,あるいは自他不二の,い わば絶対他力の)境地にもあったと思われるが, 預定説を重んじたカルヴァン派信者の場合はどう であっただろうか。(ヨーロッパの宗教改革と, 日本の鎌倉時代の新宗教形成,とりわけ真宗また は本願寺系の宗教運動との,比較研究も存在する が,ここでは立ち入らない。) 9.3 預定説立脚型禁欲と資本蓄積または経済発 展との関係への疑問 経 済 発 展 と の 関 係 に 入 ろ う。第 四。確 か に ウェーバーが諸所で述べているように(文献省略), 宗教はがいして禁欲倫理的であり,また脱世間的 または超世俗的でもある。そして,カルヴィニス トのように禁欲的でしかも組織的に世俗的職業・ 社会生活に励む,すなわち(修道院が世俗外で禁 欲を行っているのに対して)世俗内禁欲(inner-weltliche Askese)というべき生活実践に徹する ものは稀であり,とりわけ,そのような信仰生活 すじ や筋の通った社会の形成を阻むものを打破して合 理的な社会構築に奮闘するものは,なおさら稀で あったとすれば,西欧でのみ,また西欧ではじめ て,近代市民社会・資本主義の形成・発展が見ら れた,とするのは,かなり説得的な主張と言えよ う。 しかしながら,「近代」や「近代的」という語 の定義や解釈にもよるとはいえ,近代市民社会・ 資本主義の形成・発展にとっては,既述のような 預定説立脚型禁欲倫理が妊産婦,あるいはイン キュベイター,揺籃の役割を果たしたとしても, その倫理が唯一の,不可避の,あるいは最高の, または最適の,揺籃であったと言えるのかどうか は,問題として残る。 例えば,カルヴァン派の預定説を前提せずとも, 総ての栄光を神に帰しつつ不合理な支出を避けて 勤倹で清らかな生活,聖化された生活を営めば, 同じような経済的結果は得られたのではないか。 (中学時代からカルヴァンを学び続け,改革派の 牧師でもあった渡辺[1991]は,資本主義形成に 寄与したのは預定論ではなくて聖化論だとしてい る。)もちろん信仰生活の根底に強烈な預定説が あれば,勤倹努力はヨリ強く,したがって成果も ヨリ大きかったであろう。一方,宗教改革興廃の 危機を乗り切るには必要または不可避で結果とし ても有効であったとしても,預定説を異常なまで に強調する思想は,厄介なひずみを社会にもたら すのではなかろうか。 プロテスタント全体で見れば,前者の(カル ヴァン派の預定説を前提しない,または少なくと も深く立ち入らない)立場の人々が多いであろう こと,しかも彼らのかなり多くが経済的に豊かに なることを希望し,意図的に努力した場合が少な くなかったであろうこと,を考慮すれば,総体的 成果はこのほうが大きかったかもしれないであろ う。 勤倹節約が富裕化あるいは資本蓄積をもたらし やすいことは,当然である。カルヴィニズム独特 の預定説立脚型禁欲倫理がウェーバー=大塚が主 張するほどには,強く資本主義形成に寄与したと は言えないと見る人は,こう考えるだろう。すな 54

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わち,合理的な資本主義の形成,あるいは経済合 理化は,近代化の当然の帰結である。そしてその 近代化にカルヴァン派を含む宗教改革も貢献した とはいえ,より早くから,あるいはより広く,影 響を及ぼしたのは,むしろルネサンス,啓蒙主義, あるいは学問(特に科学)の発展だったのではな いか,と。 この見解を裏返せば,近代資本主義は,後に なって預定説立脚型禁欲倫理から分離したという よりは,むしろ揺籃期からそのような特殊倫理と は,主張されるほどの強い関係がなかったのでは あるまいか,ということになる。そしてもっと皮 肉な見方をする人であれば,もし強い関係があっ たならば,まさにその程度に応じて,資本主義的 害毒を(意図しなかったとしても)強めたかもし れない,と。 もちろん,それらの意見に明確な判断を下す能 力は私にはないが,それはともかく,日本の場合, カルヴィニズム的な激しさ,厳しさを伴ったかど うかは別として(一向一揆運動をどう見るかとい う問題はあるが),禁欲・勤倹的な倫理がさまざ まなかたちで存在し,それが日本経済の発展に寄 与したことは,内外の多くの研究者によって指摘 されている(文献省略)。 9.4 自立運動後の資本主義と大塚およびウェー バーの見解 第五。プロテスタンティズムとりわけカルヴィ ニズムの倫理と結びついて育った近代資本主義が, 後にいわゆる帝国主義・植民地支配主義に傾いた のはなぜかとの,大抵の人が抱く疑問がある。こ れに対しては,資本主義がプロテスタンティズム 倫理との結合がなくても自立・発展できるように なり,合理性も徹底化して,そのような倫理を要 しなくなったからだと説かれる。(そして実際, 倫理と袂を分かつ方が経済的もしくは経営的合理 性を貫徹しやすかったことも言えよう。) 少なくとも戦後初期の大塚の心境では,1資本 主義が発達するにつれてそのような宗教倫理から 別離したことを残念または遺憾とし,また,2そ もそも出発点からそのような倫理に立脚していな かった日本などの資本主義社会には,近代以前的 要素が多いゆえ嘆かわしく感ずる,ということで はなかったかと想像される。(違ったニュアンス で共感を覚えるし,また受講させていただいた先 生に失礼なのだが)仮にそうであったとすれば, 既述の諸疑問に関連することになる。 では,ウェーバーの場合はどうであっただろう か。ウェーバーは,19世紀末葉から20世紀初期に かけての頃,重い神経症疾患や南欧旅行後の回復 などで,思想的にも重要な変化があったとされる (例 え ば,青 山 秀 夫1950,19頁;小 笠 原 真 1988,12頁;ウェーバー夫人マリアンネ[Weber, Marianne 1870―1954],大 久 保 和 郎 訳 1963,1965)。また例えば疑問の第三での叙述か らも知れるように,彼はカルヴィニズムの預定説 の,いわばメリット面もデメリット面もよく心得 つつ,つとめて客観的に記している。それゆえ, 少なくとも変化以後の彼の見解は,上記の大塚の 場合とはかなり異なっていたかもしれず,また複 雑ではあった,と考えられる。しかしウェーバー の思想に立ち入る前に,預定説に対するウェス レーおよび関連してウェーバーの立場を省みてお こう。 9.5 預定説に対するジョン・ウェスレーの立場 とウェーバー 第六。さて,既述の特殊倫理は私には(私が人 間的に甘いゆえかもしれないけれども),冷酷に 過ぎるように思えるので,上述で示唆したように, その倫理またはその流れを汲むものと関係があっ た限りでは,資本主義・植民地主義は過酷性を示 す(または強める)ようになったのでは,とも考 えられるのである。すでに注6)で述べたように, 預定説自体に人類を分離する機能が潜在していた とすれば,資本主義の害悪は少なくとも部分的に は,その当然の結果と言えるかもしれない。南ア が近年にいたるまで人種差別が最も強かったのは, 南アがカルヴァン派の流れを汲む人々の植民地で あったということとも関係があったのではないか, 55

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という気もするのである。 アメリカ建国の精神的父祖は,カルヴァン派の 流れを汲むピューリタニズムであるといわれる。 しかし私は,アメリカには別の重要な流れもあっ たに違いないと,思い続けてきた。ホーソンの 『緋文字』からも一端がうかがえるような植民地 初期の魔女狩り等に示された陰鬱性・冷酷性を, 是正もしくは緩和する思想や運動,ピューリタニ ズムの正義感と並ぶ別の原理,を導入・提唱した 存 在(例 え ば エ マ ー ソ ンRalph Wald Emer-son,1803―1882,文献省略)あるいは宗派ない し教派(おそらくピューリタニズムの中ですら) があったはずで,それらにも,もっと着目すべき だと思われた。ピューリタニズムを強調するだけ では,日本との激戦後,敵国占領者としては稀な 寛大性・明朗性を発揮した米国あるいは米国人の イメージは,単なる錯覚であったことになるから である。 アメリカ最大教派の一つメソディズムの(意図 せざる)開祖であったジョン・ウェスレー(また はウェズリー等,John Wesley,1703―1791,文 献省略)は,私の直観では,ピューリタニズムの 激しさを修正し,愛を強調する使命をも有してい た。ウェスレーのような伝道力はなかったが,プ ロテスタンティズムが信仰のみによって救われる ことを強調することに対しては批判的で,「仁慈 のない信仰は信仰ではなく,信仰のない仁慈は仁 慈ではない」ことを説き続けてきたスウェーデン ボルグ(またはスヴェーデンボリ 等,Emanuel Swedenborg,1688―1772,文 献 省 略)は,ウ ェ スレーに会いたいと手紙を届けていた。ウェス レーが――恐らくためらい,またはとまどいのた めであろう――会うことをのばしている間に,ス ウェーデンボルグは逝去してしまった。しかしス ウェーデンボルグがウェスレーになにを伝えた かったか,期待したか,励ましたかったか,私な り に 幾 分 か 分 る 気 が す る の で あ る。(な お,ス ウェーデンボルグが前出のエマーソンに及ぼした 影響を考察しているもの に,Taylor 1988等 が ある。) 以前,このようなことをキリスト教の知識が乏 しいままで,故・都田恒太郎(元牧師,青山学院 理事)に話させてもらったところ,君の考えと関 係がありそうな書(岸田 紀1977)が最近出た, と教えて下さった。その岸田女史の議論を神学的 議論にあまり立ち入らず平明に略説すれば,こう であろう。 ウェーバー(「倫理と精神」1920年版)は,メ ソディズムの職業観念とその影響はカルヴァン派 のそれらの延長線上にあるものと見て,ウェス レーの「勤労してできるかぎり稼ぎ,節約し,結 果において富裕になることを禁ずべきではなく, 勧めねばならない。[以上をA,以下をBとしよ う――西岡。]しかし富がわれわれを高慢・怒気・ 現世愛で地獄へ沈めないように,できるだけ施し をせねばならない。」[紙面節約のため本稿では著 しく簡略化]という趣旨の文章a を引用している。 ただし直接引用ではなく,それを引用している サウゼー(Thouthey)の『ウェスレー伝』b ― ―岸田によれば,そこでのウェスレー観には疑問 があるが――をウェーバーに紹介したアシュレー (Ashley)の手紙c から,ウェーバーは引用d しているのである。しかもウェーバーは(文献入 取の困難性は察するとしても)自分自身によるd では,Aをゲシュペルト化までして強調し,施し を勧めるBについては括弧内におさめて弱調化し て示しているd 。ウェスレーの倫理の核心は,す なわちウェスレー自身が強調したかったのは,B の慈善にあったにもかかわらず,である。 その上,原文a に比べるとb は若干簡略化され ているだけだが,d ともなると,ウェーバー自身 の学説に適合するようにかなり改変されている。 (改変文章の提示は本稿では省略。しかし,a,b, dそれぞれの和訳,原欧文は,岸田1979のそれぞ れ20―21頁および29―31頁に示されている。) そもそもウェスレーは国教会からの独立を考え ていたのではなかったし,またアルミニアンでも あった7)。したがってカルヴァンの二重預定説(cf. 注3)には反対であった。そしてカトリックの「伝 統主義的」倫理では「最後の審判日」の「永遠の 56

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救い」と結合すべき「よきわざ」には慈善が含ま れ,世俗的職業労働は含まれていないが,「伝統 主義的」倫理の系譜に立つイギリス国教会高教会 派8)でも同様であった。高教会アルミニアンの或 る私祷集では「よきわざ」はカトリックと同じ断 食,祈り,慈善とされている。それゆえ国教会ア ルミニアンはカルヴィニズムの倫理とは勤労,節 約,自己否定を共有しているが,慈善中心か世俗 的職業労働中心かでは異なっているのである。 (岸田8―9頁)9) しかし最後に,次のことを指摘させていただこ う。ウェーバー(梶山・大塚訳,下巻89頁)はメ ソディスト派内部でも指導者によって教義上の考 えに違いがあったとしつつも,メソディスト運動 の偉大な組織者ジョン・ウェスレーは恩恵の普遍 性を信じていたとしている。そうするとウェー バーは,ウェスレーとメソディズムとでは上述の Aを共有するが,Bでは異なりうると見て,Aを 強調したのかもしれない(吾ながら強弁に過ぎる とは思うが)。それはともかく,開祖と後の教団 とについて区別すべきは,カルヴァンとカルヴィ ニズムの場合(9.1節)に限るものではなく,ウェ スレーとメソディズムの場合にも言えよう。(イ エスとキリスト教についてもそのように考える議 論は内外で増えている。日本での一例,八木・秋 月1996,63頁等。)

0 マックス・ウェーバーの思想

10.1 ウェーバーの歴史(特に歴史の変革力) さて9.4節での2に関連していえ ば,ウ ェ ー バーは西欧を世界の頂点にあると見る歴史観を まこと 持 っ て い た と 見 ら れ が ち だ が,徳 永 恂 (1992,118,132頁)によれば,彼は基本的には むしろ,世界の歴史あるいは文化が一元的に,ま た一直線的に発展または展開するという観点をと るものではなかった。彼の関心は西欧文明の優越 性の証明にはなく,「形式的合理性」の止まるこ となき進展で「宿命的進歩」と化した西欧文明へ の反省から発しているのである10) そして9.4節での1については,こうであろう。 ウェーバーによれば,近代資本主義精神における 宗教性喪失過程は,宗教自体の内部からの世俗化 にほかならない(小笠原1988,12頁)。カルヴィ ニズムに限らず宗教は(そして一般化すれば,お よそ組織なるものは)「カリスマ的支配」で始ま るが,真のカリスマ(Charisma,今日では流行 語 的 で す ら あ る の で 説 明 省 略,し か し,徳 永 1992,114―116頁が詳細)的権威は永続できない のであるから,カリスマ的権威に代って支配・服 従 関 係 を 永 続 し,ま た 支 配 の 正 当 性(Le-gitimita¨t)への信念を喚起・育成するために,「伝 統的支配」や「合法的支配」(徳永の訳語では「依 法的」)が,すなわち「カリスマの制度化」現象 (例えば聖職制度の形成・確立)が,登場する。 支配類型の違いは,正当性がなにを根拠として いるかによるが,ウェーバーは伝統的支配の例と して「家父長制」や「封建制」を,合法的支配の 例として「近代官僚制」をあげる。「カリスマ的 支配」が伝統的支配に吸収される場合には,カリ スマの再生が可能だが,カリスマという内からの 革新なしに自己の永続性を保持できる合法的支配 に吸収される場合には,カリスマは変質して消滅 する。いずれにせよ,これらの登場に伴って,組 織は人間を抑圧する体系となる。意図せざる結果 の資本主義も,宗教倫理から独立して自立的運動 を始め,人の自由を束縛し圧殺する抑圧体系と化 していくのである。(徳永133―138頁) とどまることを知らない合理主義の過程,人間 の抑圧体系と化した文化体系を突き破って,革新 をもたらすものはなにか。そもそもウェーバーは, 歴史に作用する「変革の原動力」として,宗教に おける「カリスマ的権威」と政治における「官僚 制的合理化」とをあげる。そして,後者の変革作 用は外面から技術的手段によって行なわれ,「形 式合理性」を目指す「目的合理性」のレベルにと どまるが,前者は「実質合理性」・「価値合理性」 の深みから人間を「内側から」変革し,やがて外 面の秩序をも変革する可能性を含む,とする。そ 57

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れゆえ,前者こそがすぐれて創造的な歴史の変革 力なのである。(小笠原14頁) しかしカリスマ的権威の消滅後は,なにがそれ に代り得るだろうか。ウェーバーの(これまた著 名な,しかし本稿では立ち入らない)社会科学と しての価値判断論の検討を経て,ここでの問題に も接近した内田芳明(1992,84―86頁)は,丹念 な考察の末,次のような趣旨を述べている。 ――西洋に独自の文化を創造したものは決して 「成果価値」の中にあるのではなく,心情[内田 の訳語では心術]価値の中にあったとの考えが, ウェーバーにはある。けだし,成果価値,責任倫 理の立場のみの肯定ならば,功利主義や適応・適 合倫理(儒教の官僚倫理)の立場を超えないから である。責任倫理や効果倫理や成果価値や適応倫 理のような合理的倫理に対抗し,これを突破する 拠点としての一つの非合理的なる世界への信仰」 というべきものが,ウェーバーにはあった。そし て「心情倫理」(Gesinnungsethik)[内田の訳 語 では心術倫理]こそが,その「非合理的なるもの のエネルギーをその核心において持つもの」であ る。かくして,ウェーバーへの「ニーチェの衝撃」 をも考え合わせれば,彼が思い描いた革新をもた らすものは,「大乗の道に対する少数者の道,知 的エリートの道,英雄的貴族主義の道ではあるま いか。」―― 平たく言えば(真意逸脱のおそれはあるが), 人間の行為は目的(動機),手段(方法),成果(結 果)で評価されるが,前2者間,後2者間それぞ れに合理性・整合性があること,有意義な結果を 得られることも大事だが,歴史の変革に最も重要 なのは,内面における動機であって,そこに現世 的利害を超越した美しさ,貴さ,雄々しさがある ことだと,ウェーバーは見る。そうとすれば,真 正カリスマに代る英雄的な知的超人・巨人・貴族 の出現を,内心熱望していたのではないか,とい うことであろう。 他方,徳永(140―141頁)は,カリスマに代っ て革新力を持つものは何かへの答えをウェーバー は見出せなかったが,「日常性のうちになお生き ている使命」を信じて,「いたずらに救世主を待 望することなく」,「それぞれのうちのデーモンに ベルーフ 従う」という形で,「使命としての学問」と「使 命としての政治」について語りえたのではないか。 ウェーバーのカリスマ論を革新の社会学と捉え, 突破(ブレイクスルー)の側面を強調するのは楽 観的に過ぎる。「現世に対するヴェーバーの積極 的態度はカリスマの革命性への期待にではなく, 合理化という宿命との逆説的緊張の裡に,その根 拠を持っていたと考えられる。」と論じている。 10.2 マックス・ウェーバー像の再考 前節の末尾で見たように,ウェーバーの思想・ 心境については,内田と徳永とでは見解の分れる 部分がある。しかし私には,真摯な内田・徳永両 研究が指摘する両要素がウェーバーにあったと思 われる。両研究の見解差は,部分的には,a 世界 における西欧文化の位置付けまたは評価や,b 「ニーチェの衝撃」の大きさとその性格の判断差, によるであろう。 い ま,b と の 関 係 で,ニ ー チ ェ(Friedrich Nietzsche 1844―1900,文献省略)の 主 と し て キリスト教に関連する思想についていえば,彼が ユダヤ―キリスト教の根源悪と見るものを鋭く批 判・攻撃したこと,無神論だが反神論と言える激 しさ,独特のニヒリズムを持っていたこと,キリ スト教に代る倫理思想の提示において,人類や文 化を高貴と卑せんで分断し(cf. 既掲の注6), 民族・人種差別主義を助長する可能性があった (ヒットラーしたがってまたナチスが影響を受け た,あるいは悪用した,といわれる)こと,に大 きなに特色または問題がある。 上述中の最後の点から考えると,内田・徳永の 各見解を(失礼を許していただくことにして,恣 意的に)あえて延長すれば,一方は,ウェーバー の思想がやがて出現したヒトラーを勇気付けるこ とになったかもしれない,あるいは,当時のドイ ツに潜在しつつあった英雄待望論を反映していた のかもしれない,と言うことになろう。 そして他方は,単なる可能性としてはそういう 58

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ことが言えるかもしれないが,実際問題としては, 学問的使命・責任感や内面の声(簡単には良心と いえよう)を重んじたウェーバーは,ヒトラーを 支持することはありえなかった,仮にもう少し長 生きできてヒトラーまたはナチスの支配体制に出 会っておれば,絶対に反対したであろう。出発点 では革新的でも,のちには非人間的・反人間的と なりやすいことを見据えてきた彼であったからこ そ,ソ連が誕生するや,ウェーバーはいち早くロ シア語を学んだ上で,ソ連が大きな人間抑圧体制 となることを(多くの知識人が見誤ったにもかか わらず)見抜くことができたことからもいえる, と言うことになろう11) ウェーバーは,学問と祖国を愛し,社会科学を 客観性のある筋の通ったものにすることに献身し た。宗教や道徳を上部構造と見てその反動性を強 調するマルクス主義史観に対しては,「プロテス タンティズムの倫理と資本主義の精神」で彼は, それとは逆の場合を考え得ることを示した。厚東 洋輔(1994)の言葉を借りれば,記念碑的な上記 論文は,「資本主義のエートス12)を職業人の倫理 に求め,それがプロテスタンティズムの世俗内禁 欲に由来することをつきとめ,[中略]宗教を迷 信や呪術と同一視する19世紀的合理主義にとって の頂門の一針であった。宗教は合理化の推進力で ある」ことを示した。 のみならず,およそ宗教がいかに深く文化・社 会・民族のうちに浸透しているかを,宗教を軽 視・蔑視・無視する傾向のある知識人に悟らしめ た。しかし他方,組織や運動はカリスマ的な革新 指導者と彼に共鳴して心情的につながる者たちに よって立ちあがり,発展するとしても,後には権 威や組織の維持のための外面的・形式的な制度的 支配に転じて行き,ついには人間性抑圧体制とも なる。社会の各方面で合理化・官僚制化が進み, 宗教はじめ政治・経済組織が形骸化して人々の自 発性・創造性を不毛化し,あるいは人々を抑圧・ 拘束し,人々に対して感動や生きがいを与えられ なくなる。そして組織は支配機構の利得拡大や自 己保全に腐心することになる(普仏戦争勝利後お よび第1次大戦敗北後のドイツは,経済史家に教 えを受けねばならないのであるが,とりわけそう であったろう)。ウェーバーはそういうことにも, 警鐘を鳴らし,合法性とカリスマ性をあわせもつ 人民投票指導者民主制をも説いたのである。 ところで,ウェーバーが人間関係で深く苦悩し たのは,性関係の悩みを別とすれば,実業家・政 治家だった父と真面目なカルヴァン系のキリスト 教信者であった母との対立時に,母に加担しても たらされた結果に関連するものであろう。彼がフ ロイト(フロイド,Sigmund Freud 1856―1939, 文献省略)に関心を抱いたのは,一つには,フロ イトのいう「エディプス[古代ギリシャ悲劇での 王]・コンプレックス」,「アジャセ[古代インド の王]・コンプレックス」に関心を引かれたので はないかとも思われる。 彼は真面目に悩むあまり,神経症になったので あろう。しかも世俗化・科学化が進んで宗教を無 視または軽侮する風潮が高まるなか,多くの有能 な研究者を宗教倫理や宗教文化の真摯な研究に向 かわせる重要な契機となったことは,大きな功績 であり,知的巨人といってもよいが,悲壮美も感 ぜられるので,むしろ知的英雄であったといえる。 彼が高齢とまでは言えない年齢でこの世を去っ たのは,まさしく摂理であったように思われる。 ナチスの支配とホロコースト,第2次大戦の勃発 と敗北,等々に直面していたならば,彼は激しい 苦悩のうちに健康を一段と損ね,結局は寿命を縮 めるほかはなかったであろうからである。 ちなみに弟のアルフレート(cf. 注10)は,気 質や活動ぶりは兄よりも地味であったと想像され るが,台頭しつつあったファシズムやナチスが支 配すれば,西欧民主主義が破壊されるとの警告書 を(京大の図書館に他国語訳があったと記憶する) 公刊した。そのため,ナチスが政権を掌握するや, ハイデルベルク大学を去った。そして敗戦にいた るまで山荘に閉じこもって,若い学徒と勉強を続 けていたといわれる。戦後,西ドイツの初代大統 領ホイス(Theodor Heus),哲学者ヤスパース (Karl Jaspers)と共に同国復興の精神的柱石と 59

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して,国民から仰がれたゆえんである(cf. 西岡 1963,104頁)。 アルフレートは兄に代って,真の知的エリート がなすべきことを(ひょっとすると兄以上に)行 なったともいえる。マックスは,彼岸からどのよ うな思いで見守っていたであろうか? 内田・徳永の両見解を私は敬意をもって受け入 れるが,ウェーバーの内面を省察した場合,徳永 説にやや重きを置きたい気がするのである。 (なお本稿では,「ホスピタリティ」との関係を 明示的に論じることは余裕がないためできなかっ た。最終編で果たせることを願っている。ウェー バーの心情倫理,あるいはニーチェ,フロイト, ウェーバーの関係については,林田新二1976,上 妻 精1976,山之内 靖1992,湯浅泰雄(1976) 等がある。また,ここでは紹介を割愛したが, マックス・ウェーバーへの最も厳しい批判の一つ は,ユンク等に詳しい上記の湯浅1976に見られ る。) 10.3 余録――ウェーバーの難点の一つ ウェーバーは組織の――あるいは組織活動がも たらす――影の部分,組織悪とでもいうべきもの を強調し過ぎているきらいがあり,この暗さが彼 の一つの大きな難点であろう。読者は例えば,ケ インズと並ぶ20世紀を代表する経済学者シュン ペーター(Joseph Alois Schumpeter 1883―1950, 文献省略)のイノヴェーター論や,本稿のⅠ編で 見たディズニーランド等の企業理念を,ウェー バーの思想と比較されるとよい。 革新化,活性化,再生化は必要だとしても,1 「同一組織での,しかも内発性のそれ」,でなけ ればならないことはない。2「外からの導入方 式」,も有効・有益であり得る。また,3「他の 諸組織との競争」,によって,再生するか脱落す るかの命運をかける(または,かけさせる)こと もできる。 そうだとすれば,大事なことは,1,2,3の いずれもが可能である,またいずれであれそれが 公正に行なえる,というような状態にする,また はその状態を確保・維持する,ことなのである。 そのためには,企業中心の経済の場合,a 競争性 と公正性(独占支配排除性を含む)が高く,b 著 しい貧富較差等の是正・緩和方式が用意されてい る,という体制の整備または構築が肝要となる。 そのさい,a とb のいずれに重きがおかれるか, あるいはおかれるべきかは,経済発展段階,国際 情勢(軍事を含む),政権担当政党,国民性(宗 教文化を含む),民族構成,情報技術等々,さま ざまな要因または条件に依存する。 しかしこれらは,今日でも言うはたやすく,実 行または実現は容易ではない事柄である。そもそ もドイツは,領邦国家から統一国家に進んでどれ だけの歴史を経ることができたのか。統一――そ してまた本格的な民主主義の形成――がおくれた のは,ヨーロッパの中央に位置し,世界に例を見 ないほど多数の他国に囲まれているためでもあっ たのか。その同じ条件が統一後はどのような影響 をこの国に与える傾向があったのか。こういう単 純なこと一つをとっても,現実問題の複雑さ,困 難性がうかがえよう。このように見てくると, ウェーバーに対して大変無理な注文を言ったこと になる。 尤もウェーバーは,ドイツでさかんであった社 会政策論あるいは社会政策には疑問を抱いていた ようである(文献省略)。あえて上述のa ,b に からめて言えば,1a をしっかりやらないでb を 重んじるのはおかしい,あるいは,2a をしっか りやらないから,b を過度にやらざるをえないの だ,さらには,3b の強調でa での怠慢を隠蔽し ているのではないか,のいずれかまたはいずれを も,彼は感じていたのかもしれない。そして彼の 本音は,勤勉な自助努力こそが最も肝要なのだと いうことであろう。その点では,英国病からイギ リスを脱出させたサッチャー首相(メソディスト) と共通するものがあり,さすがに,との印象を禁 じえない。 大局的には,小乗から出発した仏教が大乗を発 展させたのに対して,隣人愛から出発したキリス ト教が自助努力を強調するにいたった,と言えよ 60

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う。しかし,次のことは銘記すべきであろう。す なわち,(時と所に応じて具体的な現れ方,両要 素間のバランス関係は異なり得るけれども)基本 的には,本稿のⅠ編で述べたように,隣人愛なき 自助努力社会も,自助努力なき隣人愛社会も一面 的に過ぎるのであり,大乗への展開なき小乗も, 小乗の基礎を欠く大乗もしかりなのである。

[注]

1)Ⅱ編では,湯浅泰雄および和辻哲郎の天皇ま たは天皇制についての考えにも(それぞれ67 頁左および68頁左で)簡単ながら触れておい たので,関連して,河合隼雄(1982)のそれ をも紹介しておこう。 河合は,彼が日本社会を母性社会と呼んだ のは(Ⅱ編の7.1節),欧米に比べてのこと だとし,より母性的心理を持つアジア諸国と 比べれば,日本はむしろ父性と母性のバラン スの上に立っていると見る。日本神話で重要 な天御中主ら三神は,その中心に無為の神を 持つ。中心が空なら統合者を決定する戦いを 避け,また対立するものの共存を許すことに なる[ある意味で母性性の長所といえよう]。 だが空では他者が中心へ侵入しやすい危険が ある[これはその短所といえよう。]それゆ え中心者は空性の体現者として存在するが力 を持たない,しかし無用な侵入に対しては周 囲の者がその中心を擁して戦う[これで父性 と母性のバランスの上に立っていることにな ろう]というシステムが考えられる。このよ うに考えると天皇制はよく理解できる,とい う。([ ]内は西岡の補足,以下同様。) 2)敗戦前後の私の個人的事情を述べさせていた だくと,大学入学(1945年4月)3∼4週間 後の富士山麓でのいわゆる軍事教練中に(体 力のあまりない私ですら)召集された。紀伊 半島熊野付近で洞窟陣地造りに従い,その後 紀ノ川下流の河原での幹部候補生訓練を受け させられ,やがて敗戦により復員した。数ヵ 月ぶりに学窓に戻った私を最も惹きつけた講 義の一つは,大塚久雄(1907―,文献省略, 岩波書店から『大塚久雄著作集』)の「欧州 経済史」であった。戦後の教授陣はマル経主 流であったが,敗戦前すでに宗教的な心境に あった私(cf. 西岡1994,「あとがき」)の知 的関心は非主流派的な授業科目を志向してい た。それらの中でも大塚の講義は最も異彩を 放つものの一つであった。きわめて良心的な 大塚は,いわゆる闇米等に手を出さず配給食 料のみで生活していたといわれる。そのため いちじるしく健康を害していたが,3階(で あったと思う)の大教室まであがってきて, 椅子に座りつづけたままで,熱意をこめて, しかし微笑しつつ,時間一杯懸命に講義する 姿には多くの学生が感銘したものである。聴 きやすい席は早くから確保しなければならな かった。私は試験まじかの時期に席の確保の ため愚かにも漸く入取できたテキストを机上 に 置 い て お い た と こ ろ,そ れ を 盗 ま れ て ショックを受けたことを思い出す。 本稿では大塚史学そのものには立ち入らな いが,同史学で最も著名なのは,近代市民社 会・資本主義の形成に向けての原動力の担い 手についての1「中産的生産者層論」と,後 に現れた2「共同体社会基礎理論」であろう。 いずれにも史学者たちの間で批判や論争が あったようである。(大塚史学の紹介と問題 点指摘には小笠原 真1988,第Ⅵ章,また批 つのやま さかえ 判的回想に角山 榮2000がある。)それはと もかくとして,もし大塚が立地論に通じてい たら(とりわけ2の)研究内容はどうなって いただろうか,と門外漢なりに私は思う。 3)私の手元に はWendel(英 訳 版8刷,1978, 特に第4章の“predestination,”pp.263―284) もあるが,ここでは,浅野順一と堀越知巳に したがって(ただし簡略化して),カルヴァ ンの預定説を見ておこう([ ]内は西岡の 補足)。 まず浅野(4刷,1966,214―215頁)であ 61

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るが,次のように解説している。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ――カルヴァンの神学は神にのみ栄光あれ の神学であると言われる。『キリスト教綱要』 [渡辺信夫訳等がある]の中でカルヴァンは 一切を神に帰して行く。この世のあらゆる事 柄が神の意志に最後の原因をもっているので あり,キリストを人間に与えて救おうとする のも,キリストに頼る人間の信仰も,神の恵 みの意志が原因になっている。[このあたり しんらん え こう までは,親鸞の他力=阿弥陀本願力回向観に 通じるものがあろう。] 信仰すら信者の力によるものではなく,神 の恵みの意志が,贈物として信者の中に作り 与えたとするならば,それを論理的に徹底さ せるとこうなる。信ずるか信じないかは信者 の力によるものではない。神が救おうと意志 するものは救われ,救いから捨てようと意志 するものは滅びる。したがって,神の二重の 予定が存在するのであり,神はある者を救い に,ある者を滅びに,予定したのである[二 重預定(duple or duplex destination)と呼 ばれる]。信者は当然,自分は救いに予定さ れているかどうかを問わないわけには行かな い。 カルヴァンによれば,その疑いはキリスト への信仰において,自分の心中に内面的な召 命を感ずれば,征服されるものである。つま りキリストへの信仰が自分の中に存在するこ とを自覚すれば,救いに選ばれていると結論 してよいわけである。 ルターは,こういう論理的徹底を行わず, そのような疑問・心配を信者はキリストに信 頼することによって征服すべきだとした。 [浅野はこの点では,ルターの方が正しいと する。] 結局カルヴァンの考えは,哲学上の決定論 である。人生の不幸な出来事も世の中の悪も, 神が意志するゆえに存在する。人間は悪と闘 い,不幸な出来事も試練として甘受し,堪え て行かねばならない。 カルヴァンのこういう予定論および摂理論 は,救いは全く神の恵みからきていることを 言いたいのであり,その意図は尊いけれども, 出来上ったものは体験[もちろん,実際の宗 教的・信仰的体験であろう]から遊離した論 理化であった。―― 預定論という信仰上の問題ではあるが,論 理的に徹底させれば,浅野の言うように,決 定論になる。しかし宗教は真理を求める点で 哲学と共通の使命を持つとしても,宗教は哲 学とは目的が異なる。哲学は原則として,神 仏を持ち出さないし,前世も来世も説かない。 そして人を救済する宗教は哲学とは異なる。 なお,人が試練に直面してそのため自虐的受 難礼賛や自暴自棄的宿命論に陥るのでなけれ ば,試練は人を反省・悔悟・忍耐・寛容・努 力・工夫等に導き,進歩・発展させる機会と なるものであるから,神の摂理と解すること は十分に可能でも自然なことでもあろう。 次に堀越(7刷,1979,257―259頁)は, プロテスタンティズムを知的に尊敬できるも のにしたと評されるほど緻密で体系的な『キ リスト教綱要』に則して,下記のような趣旨 の説明をしている。 ――人間に関しては暗い悲観論だが,神に 関しては濁りなき楽観論の立場である。カル ヴァンはルターのように「罪は赦されるか」 の問題から出発しない。まず神の主権を論じ る。そして自らの約束を成就しうる神は歴史 の過程でこれを果たす。神の国の建設は人間 ・ ・ という代行者(選民)のわざでなされる。「神 が共にいまさば誰がわれに敵しえようか。」 だが神は誰を選び誰と共にあるか。カルヴァ ンも絶対的な認知の可能性を否定するが,実 質上は,信仰,廉直な生活,聖礼典への参与, の三つの推定的な識別法を仮定している。 「初代のカルヴァン主義者は自己の救済に ついて思い煩うことは少なかった。」(258頁) 予定論はカルヴァンにとっては絶望どころか, こよなき慰めであった。そしてルターの信仰 62

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の苦悶に対しては,カルヴァンなら『綱要』 の次の言葉,「心の平穏なくしては神に仕え ることはできない。[中略]神が自分の祈り を聴きいれられるか斥けられるかを問い続け る者,そして希望と恐怖のあいだを揺れ動き, 思い煩いながら神に仕える者,こうした人々 は自分の全てを神に委ねることができない。」 [このあたり,神を仏に置きかえれば,修行 を積んだ禅僧の講話を聴く感じがある。ただ しその講話は,二重預定論を前提しなくても よい気もする。]を向けただろう。信仰の義 化を思い煩うよりは,まず神の栄光をたたえ ・ ・ るべきであり,神への信頼をすてず,わざを 遂行すべきである。神の讃美は,行動,労働 と闘いによって,世俗を聖化することによっ て求められるからである。―― 4)ウェーバー(梶山・大塚訳,下巻15―16頁) は「ウエストミンスター信仰告白」(英国で の教会会議で1646年に制定されたカルヴァン 主義に立つもの)を権威のあるものとして, 内容の一部を抜粋して紹介しているが,ここ ではそれを私の判断でさらに簡単化して示そ う。 ――1人間は罪への堕落で霊的善への意志 を喪失した。生れながらの人間は自力で悔改 めることはできない。2神はその[被造物に 対する主権の]栄光を顕わそうとして,ある 人々を永遠の生命に,他の人々を永遠の死滅 に預定した。前者は神の自由な恩恵と愛によ る選びであり,彼らの信仰や善行によるので はない。神は後者すなわち人類の残余の人々 をその罪のゆえに恥辱と怒りとに定める。3 神は,前者のみを自ら定める時期に召命し, 従順な心を与え,善きことへと定める。過去 の罪ゆえに頑なならしめた悪しき不信仰な後 者については,罪の機会となる事物に近づけ, 欲望・誘惑・サタンに委ねる。―― 5)例えばヒンドゥー教と仏教と(1とする)で は詳細な内容はかなり相違するとはいえ,イ りん ね てんしょう ンド思想は一般に輪廻転 生 観を持っている ので,人々は来世地獄に行っても永遠にそこ に留まるとは考えないだろう。また,現世は なんらかの意味で前世の結果であり,同様に 来世は前世の結果であると見る。ところがユ ダヤ―キリスト教(2とする)では一般に, 来世では(最後の審判がくだれば,あるいは 死ねば)永遠の救い(天国)と滅び(地獄) のいずれかに定まると見る。 したがって,1よりも2の側で,がいして 地獄への恐怖は大きく(それゆえ神またはキ リストへのとりなしを期待して聖母マリヤ信 仰が普及した,と見る人もある),また現世 では(肉食的でもあるので)活動的であろう。 逆に1の側では2に比して,がいして来世に ついての不安は小さく,楽観的であろう。日 そう ず 本の場合,源信僧都の『往生要集』が出てか らの平安時代とそれに続く鎌倉時代には地獄 の恐怖・不安は特に強かったと思われるが, それでも2に比して一般に楽観的といえよう。 日本で山川草木悉有仏性観(それは良いのだ が)から安易に,そして安易な,一切衆生悉 皆成仏観が形成されたのは,そのためでもあ ろう。(しかし大川隆法は,安易な悉皆成仏 観を日本の大乗仏教のきわめて重大な問題点 として,繰り返し警告している[文献省略])。 また人生は今回限りではないとし,菜食的で もあるので,現世での活動は緩慢であろう。 尤も,聖書には転生観や因果応報観が(正 典編纂・確定時に削除されたとしても)断片 的に残存・散在している。しかし転生や因果 応報を強調すると,極悪非道・不正義な個人 または集団による惨禍の発生をも,甘受しな ければならないのか,という問題が生じる。 また,現世で恵まれている者は他者を蔑視し て高慢・冷酷になりやすく,他方,貧困・疾 ・ 病にあえぐ人々は罪悪感でも苦しみ,結局は, 諦念(あきらめ),他者への嫉妬・憤怒,運 命への呪詛,のいずれかに徹するか,それら の間を動揺することになりやすいであろう。 かくして社会の悲惨な現状や不正を改善する 63

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努力が放棄される(少なくとも改善熱意が低 下する)と,累積的悪循環の結果,現世はま すます地獄的となる。そして輪廻転生・因果 応報観からすれば,悪い来世または来生を迎 える人々が増大するという皮肉な結果になる。 インドの場合は,カーストが職業と結びつ いていて生活を保証している面があるので, 異なる事情はある。カーストを超えての(と りわけカーストの垣根をこわしかねない)交 流には困難があろう。一般にヒンドゥー教は ウェーバーも認めているように他の教理や教 派に極めて寛容であるが,カースト間の相互 尊重性,見方によっては非情でもある不干渉 性,と関係があろう。戦後日蓮宗の或る僧が, 仏教を産み出したインドへ「報恩」のため布 教に行ったところ,地元の上層者たちから圧 力を受けた。宗教カーストによる反発もあっ たろうが,その僧は(当然だが)布教に際し てカーストで人を差別しなかったからである。 他の機会(西岡1997)にも述べたように,イ ンドの堅実な発展のためには,教育の普及と 学力の向上に伴う人材登用とを推進すること が賢明な方途であろう。 イエスはおそらく,インド留学時(文献省 略)に輪廻転生・因果応報観に伴う問題点を 直視でき,それは真実ではあるが軽々しく取 り扱うべきでないことを痛感したと想像され る。帰国して伝道開始後,「目が見えないの はこの人の罪か,その親の罪か」と問われた とき,いずれの罪でもなく,「神の栄光が現 れるためである」と答え,目の見えない人を 見えるようにした。福音書のこの話には,ま ことに深い示唆が含まれていると言わねばな らない。輪廻転生・因果応報観は,大川隆法 のように,現在ただいまから努力すれば,あ るいは善因を積めば,来世を待たずとも,善 果が生じ得ることに力点をおいて説かれるべ きであろう。 6)敗戦直後期に学友などから,今後,社会主 義・共産主義社会になるのは必然的であるか ら仲間に加わらないかと誘われて,本当に必 然的ならば,なぜ自他の生命の危険をおかし ても革命に走る必要があるのか,と尋ねると, さまざまな答えが返ってくるものの,いずれ もあまり説得性はなかった。そのようなこと と考え合わせると,古代ユダヤ教のエリート 民族観,カルヴァン派の預定説,マルクス主 義の敵対的階級観は,それぞれある時代にお いては一定の意義はあったとしても,大局的 には,またとりわけ時代や環境事情が異なっ てくれば,人類を結合するよりは分離する機 能の方が大きいのではないか,と感ずるよう にもなった。 愛または慈悲が(より的確には愛・慈悲を ともなった知性,すなわち智慧または叡智 が)人々を結合するとすれば,憎悪や侮蔑が (愛・慈悲を欠如した知性が)人々を分離す る。戦後になって読む機会を得たマルクスの 著作は,彼の天才性に感心させられる点が少 なくなかったが,彼の学説に対して諸家が鋭 く指摘する諸問題点もさることながら,彼の 著作では私の専門である立地・空間的視点が 欠如していること,とりわけ,プロレタリ アートへの愛情よりもブルジョワジーに対す る憎悪が上回っていること,そして最もまず いのは,神をはっきり否定すること,これら の方がヨリ致命的な問題点なのではないかと, 私には思われた。 7)アルミニウス(Jacobus Arminius, 1560 ―1609)はオランダの改革派(カルヴァン派) の神学者,牧師。渡辺信夫(1991,105頁) によれば,彼はカルヴァンの神学を最良と信 じたが,預定論には疑念を持ち,とりわけカ ルヴィニズムの預定論とは考えが相容れな かった。彼の死の翌1610年,アルミニウス派 が公表した宣言文は,1神は何びとをも不信 仰に預定せず,2キリストは選ばれた者だけ のためではなく,万人のために死んだ,等々 を主張した。またアルミニウスとその派には, 君主制を容認する傾向があった(当時のオラ 64

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ンダは,スペイン王国のプロテスタント弾圧 に抵抗して独立共和制をかちとりつつあっ た)。したがってドルトレヒトで開かれた改 革派の会議は,同派を追放した。 なお,ドルトレヒト(Dordrecht)は,や や古いが小林・徳久(1980,341頁)によれ ば,ロッテルダム南東約20㎞,ライン・マー ス両河川の下流デルタ域に立地,中世より商 業都市としてさかえ,現在は造船・機械等の 工業もさかん,14世紀のゴシック式教会が残 存している。人口は,二宮書店 の『デ ー タ ブック・1997年版』,285頁によれば,1993年 11.3万である。 8)英国国教会はローマにもジュネーヴにも偏し ない中道的教会,神の法にも理性の法にもか なった国民教会とされるが,高教会(High Church)派はカトリックに近く,主教職, 司祭職,サクラメント,歴史的信条を強調す る。他方,低教会(Low Church)派はプロ テスタント的で,聖書のみ,信仰のみの立場 に立ち,典礼よりも改心と聖化を強調する。 またメソディズムの影響を受け,海外伝道や 奴隷廃止運動等に貢献した。別に両者に属し ない広教会派もある。(八代1991,1994) 9)私は知らなかったのだが,実は浅野は岸田の 自著出版以前の古い論文を読み,既掲書で簡 潔に引用していて,次のように総括している。 すなわち,「ウェスレーやアルミニアン主義 者たちの二重予定説[既掲の注3]の否定の 方が,神と人間との関係を人格的に考え,信 仰の中心を信頼に置くプロテスタントの精神 を生かしている」と評し,「アルミニアン主 義は意志の自由を説くが故に,啓蒙主義の自 立の人間像ともある程度一致できる」(浅野 1969,242頁)と。 10)ウェーバーの弟で,工業立地論の分野で著名 なアルフレート (Alfred Weber1868―1958) は,文化社会学形成の功労者でもある(した がって彼が逝去すると,アメリカの社会学会 誌に追悼文が出た)。彼は文化社会学の論文 (山本 新・信太正三・草薙正夫訳,1962) で,文明と文化を区別し,とりわけ技術は普 遍性が大きく,移植・導入・伝播・継続的発 展をしやすいと考える。それゆえ,兄マック スが西欧文化を絶対視せず,世界における諸 文化の多様性・多元性・異質性を前提して考 察し議論することは基本的には正しいとして も,少なくとも技術とその影響に関する限り, 異なった視点を導入するべきとの見解を,兄 の学風に対して抱いていたのではないかと思 われる。 ともあれ,史学者が立地論あるいはそのセ ンスをうまく利活用していたならば,研究内 容を一段と充実できたのでは,と感じる場合 がしばしばある。(付言すれば私を立地論に 誘導して下さったのは,国松久弥・除野信道 と青木外志夫である。なお,アルフレート・ ウェーバーの人柄と彼の立地論の特性は,西 岡1961;1993,ペーパー1および2;1994, 序章および第1章;特に1994.) 上 野 登(1992a,1992b)に は 世 界 経 済 歴史地理学的とでもいうべき力作があり,メ ソポタミヤ文明・エジプト文明・インダス文 明をはじめ牧羊文化・騎馬遊牧文化・オアシ ス農耕文化・地中海式農業・三圃式農業その 他を次々にとりあげている。健康悪化中の彼 を研究に駆り立てたのは,私の想像では,和 辻哲郎の『風土』は粗略に過ぎ,かつまた和 辻には進歩的姿勢が欠けているゆえ,時代 的・空間的にヨリ詳密に,かつ文明の交流に も留意しつつ,大陸諸地域を考察し,和辻の 『風土』を超えるものを提示したい,という 情熱であったように思われる。私には論評資 格はないが(本稿の他の部分と同様)コメン トを許していただくならば,和辻の『風土』 は確かに名著とはいえ,いくつかの文化=風 土が静態的かつ並列的に提示されているきら いはある。上野はアルフレート・ウェーバー の見解を知ってはいなかったであろうが,農 耕技術・騎馬技術等々,技術に着目して,静 65

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態的・並列的な『風土』論を乗り越えようと したものと思われる。 11)実は睡眠中に行なう預言で有名なケイシー (Edgar Cacey 1877―1945,文献省略)― ―宗 教 関 係 で は,生 前 預 言 し た ク ム ラ ン (Qumra¨n)洞穴での古代写本の発見(1947 年)が最も印象的な一つであろう――は,初 期のヒトラーについては肯定的・期待的な預 言をし,その後はっきり否定する預言に転じ た。これはケイシーの預言にも間違いがある 代表例としてよく指摘されるものである。ケ イシーの超先史的・超未来的預言ともなれば, 検証不可能事が多いし,当たらぬことがあっ ても種々の理由で当然である。また,当たら ぬことがないとすれば,神が人間に自由意志 をあたえ,自主的な決断(少なくとも選択) と努力を可能ならしめていることが無意味に なろう。ともあれ,私はこうも思う。スター ト時にはヒトラーはドイツ再興の使命に燃え ていて,期待を抱かせるに足るものがあった のであろうが,やがて復讐欲・征服欲・支配 欲・名誉欲にとりつかれて,ついに滅びの道 に突き進んだ。したがって,ケイシーの初め と後の両預言は,それぞれ根拠があったであ ろう,と。かなりニュアンスは 違 う が,内 田・徳永の両見解も,私なりに共に了解でき るのである。 12)ウェーバーにおけるエートス(Ethos)概念 については,大塚久雄の詳細かつ有益な解説 が「梶山・大塚訳,上巻146―150頁」に見ら れ る。こ こ で は,大 塚 の 説 明 の 中 か ら, 「人々を内側から押し動かすところの起動 力」をあげておこう。 また参考までに,厚東(1994)による解説 も簡略化して示しておく。すなわち,エート ス[e–thos]は,本来ギリシャ語で「習慣」 であるが,冷静さと情熱,理性と情念,合理 と非合理,といった異質な要素の結合で生み 出される行為性向である。ウェーバーの場合 は,習慣で形成された,また意識的・主体的 に選択された,かつ正しい行為の,行為性向 である。「正しい行為」とは,行為に外在す る結果ではなくて内在する固有の価値から選 択され,目的達成の手段ではなくて行為それ 自体が目的とされるような行為である。それ ゆえ,行為自体が自己目的になった行為性向 がエートスである。外的な罰や報酬なしには 存続しえない行為性向はエートスではない。 (2000年5月17日提出) [訂正]本誌前号掲載の本稿Ⅱ篇の69頁の,注3) を削除。

[文献]

青山秀夫(1950)『マックス・ヴェーバーの社会 理論』岩波書店。 浅野順一(4刷,1969)『キリスト教概論』創文 社(初刷,1966)。 厚東洋輔(1994)「ウェーバー」,「エートス」,平 凡 社『大 百 科 事 典』第2巻,179―180,600諸 頁。 上野 登(1992a)『人類史の原風土』大明堂。 上野 登(1992b)『人類史の原風土(続)』大明 堂。 ウェーバー,アルフレート(山 本 新・信 太 正 三・草薙正夫訳,1962,新 装 版3刷1987)『文 化社会学』みすず書房。[原本,Weber,Alfred, 第1章は1921,第2章は1931,第3章は1930の 各論文。] ウ ェ ー バ ー,マ リ ア ン ネ(大 久 保 和 郎 訳,1963,1965)『マックス・ウェーバー』Ⅰ およびⅡ,みすず書房。 ウ ェ ー バ ー,マ ッ ク ス(梶 山 力・大 塚 久 雄 訳,1955,1962)『プロテスタンティズムの倫 理と資本主義の精神』上・下両巻,岩波書店。 [底 本,Weber, Max (1920) Gesammelte

Aufsa¨tze zur Religionssoziologie, Bd. I, Tu¨bingen. 初出原論文1904―1905.]

内田芳明(1992)「価値絶対化と相対化」(河合隼

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