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〈研究ノート〉切片を集めて―ハンセン病をめぐる療養所の史料論へ

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Academic year: 2021

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【研究ノート】

スクラップ

を集めて―

ハンセン病をめぐる療養所の史料論へ

阿部

 

安成

はじめに   ―問題の所在―   「 ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 事 実 検 証 調 査 事 業 を 受 託 」 し た 財 団 法 人 日 弁連法務研究財団は、その「課題」には「我が国において、ハンセン病 患者の方々に対する隔離政策が長年にわたって継続され、多大な人権侵 害と悲惨な被害をもたらしてきた、その事実を、私たち社会がどう受け 止め、どのように今後に生かしていくのか。その検証を国家の事業とし て行うことの歴史的意義はたいへん大きなものがあった」ととら え ( 1 ) 、そ のうえで、 「ハンセン病患者・家族・回復者への差別と偏見」による「人 権 侵 害 の 再 発 を 防 止 す る た め に は、 国 の 責 任 と と も に、 自 治 体 の 責 任、 国民の責任についても究明していかなければならない。そうした際、厚 生労働省をはじめとする国の機関、自治体、ハンセン病療養所、ハンセ ン病療養所入所者自治会などに所蔵されている資料の活用は不可欠とな る 」 の で、 国 や 各 自 治 体 に く わ え、 「 各 ハ ン セ ン 病 療 養 所、 全 〔 マ   マ 〕 療 協 会 、 各療養所入所者自治会の保存 資料 0 0 については、そのまま各機関で保存す ることを求めたい。可能であれば、全療協、各療養所等において 資料 0 0 室 を設置し、療養所側と入所者・自治会側の双方の 資料 0 0 を保存することが 望まれる」との提言を記し た ( 2 ) 。   同財団は前掲『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』におい て、 「 ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 事 実 検 証 調 査 」 と「 人 権 侵 害 の 再 発 を 防 止する」ために必要不可欠の事業として、くりかえし「 資料 0 0 」の語を用 い て ( 3 ) 、 そ の「 保 存 」 と「 活 用 」 と を う っ た え て い た。 し か し、 「 国 立 及 び私立のすべてのハンセン病療養所を訪問し実施した現地検証」も、そ の 期 間 が わ ず か「 2 年 半 と い う 短 」 さ だ っ た ゆ え か( 「 は じ め に 」 )、 そ のひとつの「成果」として、同財団による前掲『ハンセン病問題に関す る 検 証 会 議 最 終 報 告 書 』 に 収 載 さ れ た、 「 関 連 資 料 / 資 料 1 近 現 代 日 本 ハ ン セ ン 病 関 係 年 表 及 び ハ ン セ ン 病 文 書 等 」 の「 第 2 国、 自 治 体、 園 の所蔵資料」に記録された内容は貧弱といわざるを得ないていどにとど ま っ た。 「 ハ ン セ ン 病 問 題 」 や「 人 権 侵 害 」 を め ぐ っ て「 資 料 0 0 」 な る も のの活用とそのための確保とが強調されながらも、この二〇〇五年の時 点では、それはいまだ緒についたばかりだったのである。しかし、癩そ してハンセン病をめぐる療養所には「 資料 0 0 」があることもまた確かな事 実であった。それらはそれぞれの療養所内で、当事者によって、大切に 保存されつづけてきたり、他方で、忘れられつつあったり、そして廃棄 されたりしてきたのである。   本稿はそうした「 資料 0 0 」――わたしはこの稿では、史料、とする―― をめぐるその後のようすを概観して論点を提示するとともに、二〇一八 年までわたしの調査と研究のフィールドとしてきた国立療養所大島青松 園(香川県高松市)に残る、ある史料をとりあげ、その活用法をめぐる 具体例の提示を課題とする。   史料という材 ――図書と資料館 = 博物館   さきの『ハンセン病問題に関する検証会議最終報告書』 (二〇〇五年) 切片を集めて―ハンセン病をめぐる療養所の史料論へ 三一

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が刊行されたのち、国立療養所多磨全生園(東京都東村山市)にあった 「ハンセン病図書館」が「閉鎖」され、その蔵書と「資料」が、 「国立ハ ン セ ン 病 資 料 館 」( 同 前 ( 4 ) ) に「 移 管 」 さ れ、 そ れ ら の 一 部 の 書 誌 情 報 を 収載した目録を同館が企画編集した。それが、国立ハンセン病資料館編 『 ハ ン セ ン 病 図 書 館 旧 蔵 書 目 録 』( 日 本 科 学 技 術 振 興 財 団、 二 〇 一 〇 年 ) であ る ( 5 ) 。展示室と図書室がある同館は、史料(おもに図書)の閲読と展 示の観覧ができる資料館と博物館の機能を有した、当時は国立の単立で は唯一の機関だった。   同目録に「旧ハンセン病図書館蔵書の資料的意義―国立ハンセン病資 料館移管後の活用に期待して」と題した稿を寄せた廣川和花は、 「〔国立 ハンセン病――引用者による。以下同〕資料館が果たすべき今後の役割 と の 関 係 か ら 」「 こ の 資 料 群〔 「 旧 ハ ン セ ン 病 図 書 館 所 蔵 資 料 」 を 指 す 〕 のもつ歴史的意義や資料としての特徴について概観」すると課題をもう け て、 「 調 査 研 究 の 一 〔 マ マ 〕 時 資 料 と し て 活 用 さ れ う る も の で あ る と 同 時 に、 ハンセン病の歴史を体験/体現してきた当事者の営為が生み出した記録 として尊重されねばならない」と評価し得る国立療養所長島愛生園(岡 山 県 瀬 戸 内 市 ) に 残 る「 資 料 群 」 を 参 照 し た う え で、 「 旧 ハ ン セ ン 病 図 書館所蔵資料」を「ハンセン病という一つのテーマの元に、しかも当事 者によって通時的に収集された資料群の総体としてとらえることが重要 である。 すなわち旧蔵資料は、 今後のハンセン病問題研究に資する文献・ 資料の宝庫であると同時に、当事者により運営されたユニークな「ハン セン病図書館」そのものの活動記録=ハンセン病史を形成する事象・存 在の一つであった旧図書館の歴史を跡づける歴史的史料でもあるのであ る。ハンセン病に直接関係ない資料が含まれていても、当事者が集め利 用してきたものであるという点で、それはハンセン病者の生活記録の一 部であり、すでに歴史的な意味が発生しているため、一括してハンセン 病関係資料としてとらえられるべきである。旧蔵資料の活用は、これら のことをふまえて構想されるべきである」と、その「歴史的な意味」と 「活用」の仕方を説いた。   「 資 料 群 」 に あ る「 歴 史 的 な 意 味 」 と は、 そ れ ら が た ん に そ こ に あ っ た器物なのではなく、廣川がいうところの「山下道輔氏という類い稀な る知性を軸に、活用され資料と人、人と人をつないできた」という時間 の積みかさなりによりつくりあげられ、 たくわえられ、 継がれてきた「目 に 見 え な い 関 係 性 と い う 財 産 」 で あ る と い う こ と だ。 こ う し た「 財 産 」 だ か ら こ そ、 そ れ を「 よ り 豊 か に し て ゆ く こ と 」 が、 「 資 料 群 」 の 移 管 先となった国立ハンセン病資料館の「重要な課題」だともいう。それを 果 た し た り 解 い た り 遂 げ た り し て ゆ く た め に、 た と え ば「 充 実 し た 展 示 」 を な り た た せ よ う と す る の で あ れ ば、 「 資 料 館 と し て の 基 礎 体 力 す なわち豊富な収蔵資料とその適切な保存環境を前提に、専門的技能と知 見を有した職員による独立した自由な調査研究が保障されることによっ てはじめて」 、 それが可能となる。とりわけここにみたとおり、 「資料群」 を 所 蔵 し、 そ れ を 管 理 す る も の が か わ る と き、 「 こ れ ま で 当 事 者 の 豊 富 な経験と知識に依っていた部分を継承し、新たな知見を加えてゆくため にも、長期的視野に立った人材育成は資料館の喫緊の課題」であると指 摘し、 「アーカイブズの専門的知識を有した人材の安定的な確保と育成」 が必要不可欠だという。 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十三号 三二

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  史料の器 ――博物館造造   ハンセン病をめぐる資料館であり博物館である、国立で単館の施設と しての国立ハンセン病資料館が、二〇一七年度春季企画展として「ハン セン病博物館へようこそ」を催し、同展の付帯事業として、同年七月一 日 に は「 「 ハ ン セ ン 病 博 物 館 へ よ う こ そ 」 各 館 活 動 報 告 会 」 を 開 い た ( 6 ) 。 こ の 時 点 で は す で に、 「 よ う こ そ 」 と の 呼 び か け が で き る ほ ど に、 ハ ン セン病をめぐる各国立療養所などに、同館がいうところの「ハンセン病 博 物 館 」 が 続 々 と つ く ら れ て い た の だ っ た( そ う し た よ う す を あ ら わ し た「 造 造 」 は わ た し の 造 語 )。 こ う し た 事 態 は、 二 〇 世 紀 末 か ら 二 一 世紀初頭にかけて出来したハンセン病をめぐる政策や訴訟をとおして公 認された権利と義務と責任と賠償の社会への反映であり、二〇〇〇年代 に「社会交流会館」などの名称がつく園内施設が、各国立療養所におか れ始めた。そうした園内施設の現状を知るうえで、国立と私立の療養所 内施設から一三名が登壇したさきの各館活動報告会は絶好の機会であっ た。   ハ ン セ ン 病 を め ぐ る 療 養 所 は、 二 〇 一 七 年 の 時 点 で 国 立 が 一 三 か 所、 私立が二か所あり、そのすべてを訪れてはいないわたしは、さきの各館 活動報告会での一三名による報告と、国立療養所各園のホームページと 同園内で編集発行されている逐次刊行物をとおして、各園内施設の理念 や目的とそれをふまえた運営や活動について、 いくつかの論点を示した。 それをここにくりかえすと、論点①園内施設をとおして発信される正し い知識と理解、論点②園内施設の名称につく「ふれあい」や「交流」に かかわる人びと、論点③ハンセン病をめぐってしばしば用いられる「負 の遺産」という語、論点④おなじく「生きたあかし」という語、論点⑤ 園内施設の前身や基礎、であ る ( 7 ) 。   さ き に み た『 ハ ン セ ン 病 図 書 館 旧 蔵 書 目 録 』 誌 上 で の 議 論 や、 二〇一七年以降のいくつかのハンセン病をめぐる国立療養所園内施設の 動 向 を ふ ま え れ ば、 前 記 論 点 ② は と く に、 資 料 館 や 博 物 館 の 機 能 に く わえ「ふれあい」や「交流」という日々のといってよい実務を担う人材 が問われることとなり、また、前記論点⑤をひろげると、さまざまな履 歴をもつそうした園内施設の運営についての情報公開ももとめられてゆ く。ここでは後者の要点をあげると、園内施設を運営するための予算と その執行、運営する組織の構成とその人選と議事の公開、運営を展開す るうえでの人権やハラスメントへの対処などである。   史料業務の要件 ――資格および人物像   さきにふれたとおり、国立ハンセン病資料館は一口に「ハンセン病博 物 館 」 の 語 を 企 画 展 題 目 に 用 い て い た が、 現 実 に は そ う し た 名 称 の 施 設は、この列島のどこにもないはずであ る ( 8 ) 。 NHK が放送する「香川照 之の昆虫すごいぜ!」に登場する「カマキリ先生」は(それを演じる香 川照之も)どうやら教員免許状(教育職員免許状)をもっていないよう で ( 9 ) 、「 ハ ン セ ン 病 博 物 館 」 と い っ て も、 か な ら ず し も「 博 物 館 法 」 が 定 めるそれをいうわけではないのかもしれない。   とはいえ、日本財団による「国立ハンセン病資料館等学芸専門職採用 選 考 実 施 要 項 」( 二 〇 一 七 年 四 月 二 八 日 公 示、 出 願 書 類 同 年 五 月 一 九 日 必着、同年八月一日採用予定日)での「募集職種」は「学芸員」 (「学芸 員資格を有する者(博物館法第5条各項の資格要件に該当する者)また は 平 成 29年 度 内 に 取 得 見 込 み で あ る 者 」、 た だ し「 身 分 」 は「 公 益 財 団 切片を集めて―ハンセン病をめぐる療養所の史料論へ 三三

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法 人 日 本 財 団 職 員 」 ) で あ り、 そ の 勤 務 地 は、 国 立 ハ ン セ ン 病 資 料 館、 栗生楽泉園社会交流会館、邑久光明園社会交流会館、大島青松園社会交 流 会 館( 仮 称 )、 星 塚 敬 愛 園 社 会 交 流 会 館、 宮 古 南 静 園 人 権 啓 発 交 流 セ ン タ ー で、 さ ら に、 大 島 青 松 園 社 会 交 流 会 館( 仮 称 )、 星 塚 敬 愛 園 社 会 交流会館、宮古南静園人権啓発交流センターでは、二〇一七年九月一日 公示、出願書類同年九月二九日必着、同年一二月一日採用予定日とした 再募集をおこなっていた。 後者三施設では、 初回の募集への応募がなかっ たか採用該当者がいなかったこととなる。   「学芸専門職員の業務内容」は、 「⑴資料の収集・保管/ハンセン病の 隔離政策や患者・回復者が生きてきた証といった歴史を物語る貴重な資 料 の 散 逸 を 防 ぎ、 確 実 に 後 世 に 継 承 す る た め に、 関 係 資 料 の 収 集・ 保 存・管理・分類整理を行います。/⑵調査・研究/ハンセン病対策の歴 史や実状を明らかにし、後世にわたってその歴史を顧みることができる ようにするため、様々な角度から調査研究を行います。調査研究の成果 は、常設展示への反映や、企画展示、催事等で公開するとともに、研究 論文や学会発表等により広く一般に公表します。/⑶公開・教育/常設 展示を作成、維持し企画展示を開催し、館内外における研修・講演をは じ め 利 用 者 の 学 習 支 援 を 行 い ま す。 主 な 対 象 は、 来 館 者 や 地 域 の 人 々、 地方公共団体、学校、企業等です」とあり、かつ「応募資格および求め る人物像」として、 「 4)古文書、 民具、 聞き取り、 歴史的建造物、 遺跡・ 史 跡 等 の 調 査・ 記 録・ 研 究 の 経 験 を 有 す る 者 」「 6)ハ ン セ ン 病 問 題 を め ぐる偏見・差別の解消や、人権問題一般に対する問題意識を持ち、そう した問題への理解を促進するために、自分自身が、事実に基づいた正確 な知識を身につける意欲のある者」 「 7)多くの利用者に接することから、 コミュニケーション能力に自信のある者」 「 8)高い専門性の維持に努め、 それに基づく適切な活動を展開できる者」といった、ここでは引用を省 略した学歴、学芸員資格、普通自動車運転免許などをふくむ資格要件全 八項目の「全てを満たす者」とするとの、なかなかに厳しい「資格」に とどまらない「人物像」があげられていた。   人材の器 ――史料と実務担当者   さ き に 省 略 し た「 応 募 資 格 お よ び 求 め る 人 物 像 」 の 第 一 項 の 学 歴 は、 「 応 募 時 点 で 大 学 卒 業 以 上 の 学 歴 を 有 す る 者 」 と あ る の で、 学 位 は ま ず は、学士を取得していればよいわけだ。あれこれに例外はつきものだか ら あ く ま で お お ま か な よ う す を 示 せ ば、 「 人 気 が 高 い 大 学 の 教 員 や 公 的 研究機関の任期がない研究職のポストは減少傾向」にある現在、なにで あれ「職に就けるかという不安」をかかえる博士号取得者も多 い )(( ( 。理系 か文系かの違いや、また博物館の分野や規模や理念によって異なりはす るだろうが、かならずしも研究職とはみなされないばあいもあろう職種 である学芸員の募集にさいしても、博士号取得者の応募が多いと聞く。   さきにみた「国立ハンセン病資料館等学芸専門職」の「業務」として あ げ ら れ た、 「 ⑴ 資 料 の 収 集・ 保 管 」「 ⑵ 調 査・ 研 究 」「 ⑶ 公 開・ 教 育 」 をそこに明記された「内容」のとおり実行できる技能は、大学の学部卒 業したての学士の身には、 かなりむつかしいこととおもう。 ましてや、 「意 欲」や「自信」といった気の持ちようしだいでどうにかなったり、それ ら が「 あ る 」 と い う 姿 勢 さ え み せ れ ば よ い と も い え た り す る 要 件 と は 違 っ て、 「 8)高 い 専 門 性 の 維 持 に 努 め、 そ れ に 基 づ く 適 切 な 活 動 を 展 開 で き る 0 0 0 者 」( 傍 点 は 引 用 者 に よ る ) と な れ ば、 も と よ り た だ 大 学 院 に 在 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十三号 三四

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籍したり修士や博士の学位を取得していたりしさえすれば、もとめられ た能力が充分にあるとはかぎらないものの、 学部四年を終えた新卒者が、 施設によってはたったひとりしかいない学芸員としてそれらを遂行する には、やはり荷が重いと推し量ることが必要だろう。   ただ他方で、療養所の園内施設に勤務することとなった学芸員みずか らが、つぎのとおり意思表明をするばあいもある――「大島青松園で学 芸 員 の 公 募 が 出 た と き は、 迷 わ ず 応 募。 採 用 が 決 ま る と す ぐ に〔 「 前 職 は女子大の講師」でその職場に〕退職願いを出しました。長く学芸員職 に あ っ た 人 が 大 学 教 員 に 転 職 す る こ と は、 仲 間 内 で は「 栄 転 」「 出 世 」 と捉えられていたのですが、私は再び学芸員に戻って現場に携わること を 選 ん だ の で、 周 囲 は 驚 い た よ う で す )(( ( 」。 同 人 の「 周 囲 」 に い る わ け で も「仲間内」でもないわたしも、この短文を読んですこぶる驚いた―― 「 長 く 学 芸 員 職 に あ っ た 人 が 大 学 教 員 に 転 職 す る こ と は〔 中 略 〕「 栄 転 」 「出世」 」なのか。これではまるで学芸員資格を取得したものにとって大 学 教 員 に な る こ と が 人 生 ゲ ー ム の ゴ あ が り ー ル の よ う で は な い か。 「 栄 転 」 の 反対語や対語は、左遷、おなじく「出世」のそれは、零落、か。学芸員 資格をもつものがその職のままでいることは卑しく低い職位に居つづけ るありさまだったり零落れていたりすることなのか、学芸専門職は閑職 なのか。これでは同人の「仲間」の学芸員たちは、いつか大学教員にな ろうと虎視眈々と狙いながらみずからの職を腰掛けとしているが、同人 の み は そ う し た い わ ば h i g h & l o w ゲ ー ム を 降 り た の だ と い っ て い る と 聞こえるも、そのじつ、みずからの「学芸員」の職をみずから貶め汚し ているとみえてしまう。   史料を手にする ――フィールドをワークする   わたしは、二〇〇四年三月から二〇一八年一二月までのおよそ一五年 にわたって、香川県高松市の国立療養所大島青松園へゆき、そこをわた しの調査と研究のフィールドとしてきた。そのかんに、 わたしひとりで、 また、仲間たちといくつもの史料目録をつくっ た )(( ( 。目録づくりはフィー ルドワーカーにとっての基礎作業だとおもうものの、目録というといつ も念頭にかかる言辞がある――「目録はライブラリアンが作るべき だ )(( ( 」。 こ こ に い う「 ラ イ ブ ラ リ ア ン 」 は ア ー キ ヴ ィ ス ト に お き か え て も よ い。 こ の 主 張 は、 「 研 究 者 は、 往 々 に し て、 資 料 の 消 費 者 で あ る。 自 ら の 観 点からある問題の分析のために資料を利用し、一定の解釈を加え、これ を公表することをなりわいとしている。しかし、その際に、利用する資 料の体系を顧慮することは往々にして稀である。つまり、資料のつまみ 食 い を 行 う の で あ る )(( ( 」 と の 厳 し い 批 判 と と も に 聞 か な く て は な ら な い。 「現在に生活する研究者は、消費者として資料を消費するだけではなく、 後世の研究者のために資料を体系的に残していく義務があるように思わ れ る 」 の だ が、 し か し、 「 そ の 資 料 を ど の よ う に 保 存、 整 理、 公 開 し て いくかという手続きは比較的忘れられがちである。資料は、そのままで は利用できる状態にはならない。むしろ、失われていくものも多いと言 えよう」との悔恨から発する憂慮と使命感がともに表明されていたので ある。いま史料が残っているその過程には「ライブラリアンの手によっ て整理され」てきたそのひとつひとつの積みかさねがあったからにほか ならず、だからこそ、ただ無自覚なだけの消費者や手前勝手なつまみ食 いが得意な不作法ものにならないためにも、さきに示された「体系を顧 慮すること」にむかって、過去における史料の収集や保存や整理のよう 切片を集めて―ハンセン病をめぐる療養所の史料論へ 三五

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すや経緯をめぐって「研究者がライブラリアンとともに」考えよとの勧 めがあったのである(ただ、わたしなら、研究者もライブラリアンもと もに、と書く) 。   目 録 は ラ イ ブ ラ リ ア ン や ア ー キ ヴ ィ ス ト が つ く る べ き だ と の 指 示 は、 ともすると実務の役割分担を固定して、基礎となる作業や実務を担うも のたちを見下す傲慢な消費者として研究者が好き勝手にふるまうその態 度を許してしまうようにみえるかもしれない。主張者の意図も当然のこ とそうではないはずで、それをわたしは、ライブラリアンやアーキヴィ ストそれぞれの業務を尊重し、彼ら彼女たちの仕事を奪ったり侵したり せずに、そのうえで研究者はそれなりに史料をめぐる自己の役割を考え よと諭しているのだと聞こうとおもう。   ただ、わたしたちが大島で調査と研究を始めたときは、史料をめぐっ ては、 療養所の職員はもちろんのこと興味や関心などあろうはずもなく、 園を訪ねるヴォランティアもジャーナリストも研究者もまるでゆきずり の一見さんのようでもあり、それこそさきの消費者然とした訪問者にす ぎず、そしてなにより在園者自身もが、もはや手をつける余力をなくし つつあったといってよい。だから、よそもので通いのわたしたちが史料 整 理 と 目 録 づ く り を し た に す ぎ な い。 そ う し た 作 業 を す す め る な か で、 かつては確実に、在園者自身がみずからのまわりにあるようすを記録し ていたことを、わたしたちは知っていった。それを伝える 造 も の 物 が、写真 を貼りキャプションを書き込んでいったアルバムであり、ていねいに清 書された図書台帳であり、 文書を保管するために「参考書類」 「協和会々 則 在 中 / 庶 務 部 」「 書 類 箱 文 化 部 / 読 ん だ ら 必 ず 入 れ て お く こ と 」 な ど の文字が記された紙が貼ってある木箱などであ る )(( ( 。   フィールドでそうした過去の痕跡にふれ、それを知り、そこから考え をめぐらせてゆくときに、それを担ったりそれに携わったりする職分に 上 −下も重 −閑も誉 −辱もありはしない。大学教員という研究者と、学 芸員やライブラリアンやアーキヴィストとのあいだに溝を空けて後者に 唾を吐きかけ蔑むものはいったいだれなの か )(( ( 。   史料という〈歴史材〉     (一) 「新聞記事切抜帳」をひらく   わたしは、二〇一七年四月から二〇一八年一二月までの二一か月にわ たって、国立療養所大島青松園で、そこにおかれる社会交流会館(当時 は仮称)の準備の一端を担っ た )(( ( 。そのころまでは同園のキリスト教霊交 会教会堂を調査のおもな場所としていたため、ほぼ例年、年末には同園 へゆき、教会の信徒へ挨拶し、作業や宿泊の場所として使わせていただ いた霊交荘の掃除をすることとしていた。二〇一六年暮れにもいつもの とおり大島へゆき、そのときはついでに同園入所者自治会にも挨拶に出 向いた。その場で同会会長から社会交流会館開館にむけての準備を手伝 うよう要請をうけ、翌二〇一七年三月下旬にそのおおまかな打ちあわせ をして、翌四月から作業にとりかかっ た )(( ( 。   この展示準備にかかわることとなって、あらためて、大島の自治会事 務所を訪ねる回数が増えた。同事務室にある写真については、ハンセン 病資料館拡充にかかる基本計画策定委員会による冊子『ハンセン病資料 館拡充にかかる基本計画/写真調査報告書―国立療養所大島青松園―/ 平成 16年5月』があることは知っていた。写真の調査をすすめるなかで も う 一 冊、 「 日 本 財 団 助 成 事 業 」 の 成 果 と し て『 ハ ン セ ン 病 資 料 デ ー タ 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十三号 三六

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ベース/登録データ一覧/大島青松園調査分/平成 17年9月』があると 教えられた(同冊子の著作権は「ふれあい福祉協会、笹川記念保健協力 財団、日本科学技術振興財団」との表記あり) 。「大島青松園調査分」と いうのだから、ほかの療養所でも調査をおこない、それぞれの成果をこ うした冊子にまとめたのだろう。わたしは、こうした調査があったこと も冊子があることも、それまでまったく知らなかった。   同冊子に収載された「ハンセン病資料データベースについて」という 記述には、 「これまでの経緯」として、 「日本財団ではハンセン病関連資 料 の 散 逸 を か ね て か ら 危 惧 し て い ま し た。 そ の た め 平 成 14〔 二 〇 〇 二 〕 年度から「どこにどのような資料があるのか」ということについて全国 の国立療養所、 私立病院、 資料館などを調査する事業に着手しました。 〔中 略〕 平成 16年度からは事務局を笹川記念保健協力財団に移しました。 〔中 略〕平成 16年度末にこれまでの調査結果をまとめ、研究・普及啓蒙に資 するためのデータベースを作成しました。このデータベースの利用・活 用に関しては、今後関係者の意見を参考に、新たな委員会を設置して検 討していきます」とみえる。大島には「大島青松園調査分」だけの冊子 があり、ほかに、モニター、キーボード、ハードディスクがあり、ほか の療養所などについては、 それを使って検索ができる。これには驚いた。   「日本財団助成事業」としておこなわれた「大島青松園調査」により、 な に が あ る と わ か っ た の か。 さ き の 冊 子 に は、 「 ハ ン セ ン 病 関 連 資 料 」 の、番号、名称、写真画像、被写体の年代、所蔵元、メモが記されてい る。 番号は 1 0 9 0 0 0 0 1 から 1 0 9 0 0 3 3 5 までで(掲載は一部順不同) 、たとえば、 1 0 9 0 0 2 3 3 から 1 0 9 0 0 3 2 8 までが新聞記事で、ただし、 1 0 9 0 0 2 7 2 「新聞記事 切抜 張 〔ママ〕 」と 1 0 9 0 0 2 9 0 「貞明皇后の記」とが記事ではなく、前者が「昭和 12年から昭和 25年8月までのハンセン病関連記事を集めた新聞記事切り 抜き帳。大島青松園自治会(協和会)作成」で、後者は「貞明皇后の関 係記事切り抜きなどで構成した手製の記録」だと記されている。これら のスクラップブックを、二〇一七年五月二日に自治会事務所のスチール キャビネット内にあることを、わたしは確認した。その数は三点。表紙 は裏表ともに黒色、台紙も黒色の冊子の一冊は、その表紙に「貞明皇后 の記」と墨書された付箋が貼ってある(ここでは仮にスクラップ①とす る )。 ほ か の 二 点 は、 国 立 療 養 所 邑 久 光 明 園 入 所 者 自 治 会 か ら 同 大 島 青 松園入所者自治会に宛てて投函された封筒(宛て先のうえに抹消線が引 かれ、その線とおなじインク青で「外島関係」との筆記あり)に入って い た。 う ち 一 点 は 背 表 紙 に「 S C R A P / B O O K 」 「 P A T E N T / N o . 1 6 7 0 6 6 / N o . 2 5 」 の文字がエンボス加工された市販品(おなじくスクラップ②) 。 もう一点が表紙に「自昭和十二年/至昭和二十五年八月/新聞記事切抜 帳 / 協 和 会 /( 大 島 青 松 園 入 所 者 自 治 会 ) 」 と の 墨 書 が あ り、 「 要. 返 送」とマジックインク黒で記された紙片がセロファンテープで貼ってあ る( 「( 大 島 青 松 園 入 所 者 自 治 会 ) 」 は 異 筆 か。 お な じ く ス ク ラ ッ プ ③ )。 これは厚紙を綴じた手製品で、長く伸びた綴じ紐は、たとえば、壁に打 ちつけた釘にでもかけられるようになっている。このスクラップブック はおそらく、個人の抽斗や行李などにひっそりと仕舞いこまれたのでは なく、 いくにんものひとが閲覧できるようにおかれていたのではないか。 この新聞記事の切り抜きを貼った冊子はまた、療養所内でひととひとと をつなぐ 媒 メディア 体 でもあったのだろう。   か つ て わ た し は、 「 過 去 を 知 り、 そ の 像 を 組 み た て る 資 材 で あ る と と もに、その認知や象形の仕方を探り、つくり直し、組み直して、鍛え直 切片を集めて―ハンセン病をめぐる療養所の史料論へ 三七

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す、そのための材料」となる史料を〈歴史材〉と呼ん だ )(( ( 。スクラップ③ はどういった〈歴史材〉なのか。   スクラップ③に貼られた新聞記事は二〇〇点あまり。それらの記事索 引づくりを二〇一七年六月七日に始め、同年八月中旬におおよその作業 を終えた。また、いくつかの記事については、国立国会図書館東京本館 と香川県立図書館などで原紙のマイクロフィルムを閲覧し、そのコピー を入手した。貼られた記事は、その紙名と発行年月日がわかるように切 り抜かれたものもあれば、そうした切り貼りがされていなくても台紙に それらの情報が記されているものもあれば、掲載紙の情報がわからない ものもある。   わかるかぎりでの記事の発行年月は、もっとも古い時期は表紙の表書 きよりも古く一九三六年五月で、もっとも新しいそれは表紙の記載のと おり一九五〇年八月で、ただし、年代順に記事が貼られているわけでは なく、さっとみたかぎりでは貼られた順のその意図をつかむことはでき ない。記事のおもな紙名をあげると、芸備日日新聞、朝日新聞、大阪朝 日新聞、 大阪毎日新聞、 朝日新聞香川版、 松陽新聞、 週刊朝日、 四国新聞、 愛媛新聞、大阪朝日新聞岡山版、毎日新聞、四国民報、山陽中国合同新 聞、 大阪時事新聞、 香川新報、 A K A H A T A 、 家庭朝日、 キリスト新聞、 南日本新聞、夕刊ひろしま。   大島の療養所での郵便をめぐるようすは、わずかながらその断片のよ うすがわか り )(( ( 、月刊誌や週刊誌などの逐次刊行物が島外や職員などから 寄 せ ら れ た よ う す は、 療 養 所 内 で 編 集 発 行 さ れ た 逐 次 刊 行 物『 藻 汐 草 』 の巻末「感謝欄」をとおしてわかるも(そこには、週刊朝日などがみえ る )(( ( )、 新 聞 に つ い て は、 園 が 購 読 し て い た の か、 園 外 な ど か ら の 寄 贈 な のか、在園者自身が購読していたのか、それがいまのところよくわかっ ていない。   ここではいくつかの切抜記事をとりあげるとしよう(つぎに、貼付順 に、その記事見出し、台紙記載のキャプションなど、掲載紙名、発行年 月日、を記す) 。 (二)エリクソン夫妻   記事 1「日米親善に/隠れた努力/著書を通じて故国へ呼かける/エ 氏夫妻久し振に帰国」 (台紙のキャプションは「十一年五月廿八日」 、『大 阪 朝 日 新 聞 』 一 九 三 六 年 五 月 二 八 日 朝 刊。 ) ―― 記 事 見 出 し に い う「 エ 氏 夫 妻 」 と は、 「 ヱ ス・ ヱ ム・ エ リ ク ソ ン 」( S w a n M a g n u s E r i c k s o n 。 このフルネイムは田中キャサリンの教示による)と「ロイス・ヱリクソ ン 」( L o i s J o h n s o n E r i c k s o n ) の ふ た り で、 ス ワ ン は「 日 本 基 督 教 会 宣 教師、アメリカ人」で「明治三十八〔一九〇五〕年以来三十二年間の長 きにわたり高松市浜の丁に在住し布教に一身を献げてゐ」たところ、 「今 回伝道委員の規定(七年目に一ヶ年帰国」によって「久しぶりに母国を 訪ふことになつた」と報じられた。   ロ イ ス に つ い て は、 「 病 身 な が ら つ ね に 著 作 に 耽 り 」、 さ き に「 ア メ リ カ 教 会 か ら 発 行 し た『 日 本 の 状 況 』」 や 前 年 末 に 英 訳 し た 賀 川 豊 彦 の 「『貧民の歌』はアメリカで五万冊を発行したが、 非常に好評」だと伝え、 さ ら に、 「 大 島 癩 療 養 所 の 患 者 中 有 名 な る 天 才 詩 人 ら の 歌 を 今 回 翻 訳 し て 発 行 の 計 画 を 立 て ゝ ゐ 」 て、 「 大 島 療 養 所 の 長 田 穂 〔 マ   マ 〕 浪 、 神 田、 岸 野 氏 らの名作を翻訳発行するについては材料を全部集めてアメリカへ持ち帰 ることになつてゐ」 るとのこと。また、 「先般、 長田氏の作歌はイン・オー 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十三号 三八

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ル・シングス・ヴイクトリー(すべてに勝ち得てなほ余りあり)の題で 翻訳しヱツチ・シー・ヲストラム氏の作曲をもつて四万部を印刷、アメ リカの各方面に配布しました」とも知らせた。この記事には、椅子に座 るスワンとそのうしろに立つロイスを撮った写真も載っている。   記 事 2「„ 癩 患 者 の 聖 書 " / 米 人・ 感 激 の 英 訳 /„ 大 島 の 詩 人 " 三 十 星霜の詩篇/海を渡る『燃ゆる心』 」(台紙に記事本文とはべつに「大阪 朝 日 」「 昭 和 十 三 年 八 月 二 十 六 日 」 の 部 分 が 切 り 貼 り ) ―― ま ず こ の 記 事 に 載 る 四 葉 の 写 真 の キ ャ プ シ ョ ン を あ げ よ う。 「 ㊤ ㊨ は 英 文「 燃 ゆ る 心 」 の 見 返 し ㊤ ㊧ は エ リ ク ソ ン 夫 妻 ㊦ は 長 田 穂 波 氏 の 筆 蹟 」。 こ の 記 事は、 見出しにあり、 その表紙見返しの写真も掲載された、 「エス・エム・ エ 〔 マ   マ 〕 リクリ 氏夫妻によつて長田氏自作の詩が題名も「燃ゆる心」として英 文に翻訳出版された」と報じる。記事冒頭は、長田と、彼が暮らす大島 の療養所のようすと、エリクソン夫妻とを報せる――「南風そよぐ瀬戸 内海の一孤島大島の癩療養所に„生ける屍"として病院生活をつゞける こと実に三十星霜、あらゆる苦悩、疑惑、煩悶を信仰の力で解脱して不 平もなく地上の穢れを離れつゝパラダイスの高きに高踏する一人の癩患 詩人によつてうたはれた詩篇がこれまた三十数年の久しきにわたつて救 癩運動に一身をさゝげるアメリカ人夫妻の手で翻訳出版され、遠く海の 彼方に頒布されたといふこれは霊交物語である――」 。   こ こ に い う 長 田 と は、 「 香 川 県 木 田 郡 庵 治 村 の 第 四 区 道 府 県 立 大 島 療 養所が開設された明治四十二年の春から三十年のこの歳月、不治の病の 身体を病舎に横たへる長田穂波氏がこの„生ける屍の詩人"である」と の紹介がある。この長田について、記事はさらに詳しく綴ってゆく―― 「 郷 里 徳 島 県 を あ と に こ の 療 養 所 に 入 つ た〔 中 略 〕 同 所 最 古 参 の 患 者 で あり、将来とても生きたまゝこの島を離れることは思ひもつかぬ悲しい 宿命の持主だが、独力で勉学する一方信仰の途を歩んだ結果、神のふと ころに抱かれた魂の清朗さは永遠を凝視して死を離れ涙のうちに浄化を 確信するといふ人間性を超越した境地に達したのだ、そしてわびしい病 窓に月を眺め松籟の音を聞いては詩情のほとばしるまゝに不自由な右手 にペンを紐で括りつけつつ逆境の恩寵をうたつた詩篇がすでに幾百、幾 千篇か」 。   その詩作の多さが讃えられた彼の著作もとりあげられる――「昭和六 年賀川豊彦氏、 与謝野晶子氏の推薦によつて上梓した「霊魂は羽ばたく」 を処女出版として「霊火は燃ゆる」 「みそらの花」 「回春の太陽」などを 次々に著述して世の識者から„癩病人の聖書"と讃歌を贈られた」との 賞讃も記事は伝えた。   記事 3「アメリカの実業家は/日本をよく諒解/エリクソン博士の土 産話」 (台紙に記事本文とはべつに「大阪/朝日/香川版」 「昭和十二年 九 月 二 十 五 日 」 の 部 分 が 切 り 貼 り。 『 大 阪 朝 日 新 聞 』 香 川 版 一 九 三 七 年 九月二五日) ――記事は「去る六月初旬休暇を得て故国に帰省してゐた」 夫 妻 が「 数 日 前 第 二 の 故 郷 高 松 市 に 再 び 温 容 を 現 し た 」 と の 報 道。 「 支 那事変」下のこのとき、米国の動静を伝えつつも、大島にかかわるよう す も あ わ せ て 報 せ る ――「 家 内 は M ・ T ・ M 〔 誤 記 を 正 す と M i s s i o n t o L e p e r を 指 す か 〕 の 会 で 大 島 療 養 所 の 長 田 穂 浪 さ ん の 唄 を 翻 訳 し て 紹 介 し た が 大 へ ん 感 銘 を 与 へ た や う で し た 」。 こ の 記 事 に も 夫 妻 の 肖 像 写 真 が載る(新聞記事の引用にさいしては、 ルビを省き、 読点を適宜うった) 。 切片を集めて―ハンセン病をめぐる療養所の史料論へ 三九

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  知る −つなぐ −伝える〈歴史材〉   スクラップ③にエリクソン夫妻の報道は三点あり、記事はつねに「夫 妻」 としてとりあげ、 そして長田穂波の名もそこにあった。 夫のスワンは、 高 松 に 生 ま れ た 菊 池 寛 作 の 戯 曲「 父 帰 る 」( 一 九 一 七 年 ) に「 エ レ ク ソ ンさん」と登場するので、高松の人びとにはいくらか知られていた異人 さんだったかもしれない。 では、 長田はどうだろうか。 彼は「 らい 0 0 予防法」 による隔離予防体制よりまえの時代において、療養所内でもっとも数多 くの著作を公刊した療養者であり、北条民雄、明石海人、島田尺草とな らぶ「癩文学の四高峰」との高評を得るほどの療養所在園者だっ た )(( ( 。だ が療養所内においてすら、 「「宗教色濃いもの」と敬遠され、島内では左 程よまれず、評価は外部で高まったよう だ )(( ( 」とのいわば内輪の評判にい う外部評価も、 市井一般の読書界にうけいれられたということではない。 そうした長田について、記事はきちんと取材したうえで得られた情報を 伝えているといってよい。   三 点 の 切 り 抜 き が 貼 ら れ た 順 は、 掲 載 紙 の 発 行 順 で は な い。 も っ と も古い記事 1は、スワンよりもロイスの動向により多くの字数をあてて い る。 彼 女 は 確 か に、 賀 川 豊 彦 の 著 作 を 英 訳 し た S o n g s f r o m t h e s l u m s を ナ シ ュ ヴ ィ ル で お そ ら く 一 九 三 五 年 に 発 行 し、 お な じ く も う 一 冊 S o n g s f r o m t h e l a n d o f d a w n を 一 九 四 九 年 に 出 版 し た よ う だ( 発 行 地 不 明 )(( ( )。 ま た、発行の計画をたてているという「大島癩療養所の患者中有名なる天 才詩人らの歌」が、記事 2にいう『燃ゆる心』を指すとみてよい。つい で、 「先般、 長田氏の作歌はイン・オール・シングス・ヴイクトリー(す べてに勝ち得てなほ余りあり)の題で翻訳しヱツチ・シー・ヲストラム 氏の作曲をもつて四万部を印刷、アメリカの各方面に配布しました」と いう情報は、大島に残る史料ではいまのところみていないとおもう。   つ ぎ の 記 事 3に い う、 「 大 島 療 養 所 の 長 田 穂 浪 さ ん の 唄 を 翻 訳 し て 紹 介した」というそれもまた『燃ゆる心』を指すのではないか。その『燃 ゆる心』の記事 2が報じていない書誌情報を示そう――これは確かにロ イスが英訳した英語の書なのだが、書物本体は和綴じで、上蓋と中蓋と 底 が つ い た 洋 装 ク ロ ス 地 の 無 双 帙 に 収 ま り、 そ こ に は「 h e a r t s a g l o w / S t o r i e s o f L e p e r s / b y t h e I n l a n d S e a 」の外題が記された題箋が貼られ ている。書物本体の題箋には「燃ゆる心」の外題。一九三八年六月二七 日発行、発行地は東京、出版社は教文館であ る )(( ( 。   さきにみたとおり、記事 2には同書の見返しを撮った写真が載ってい るのだから、記者はこの英訳詩集を手にしたのだろう。おなじく記事に 載 る「 長 田 穂 波 氏 の 筆 蹟 」 と の キ ャ プ シ ョ ン が つ い た 写 真 に は、 「 謹 而 /療養所図書部へ/贈ります/昭和八年十月七日/著者」の文字がみえ る。一九三三年九月三〇日発行と奥付に記された長田の著作は『回春の 太 陽 』( 発 行 地 京 城、 発 行 所 培 文 堂 森 書 店 ) で、 か つ て 大 島 の 文 化 会 館 図 書 室 に あ っ た 同 書 に は、 記 事 2の 写 真 に あ る 献 辞 は 記 さ れ て い な い。 もっともそれは「協和会蔵書」の一冊で「療養所図書部」が管理する蔵 書ではない。現在は管理棟というかつてであれば本館にあたる建屋の二 階 に あ る 図 書 室 に は、 わ た し は 二、 三 度 し か 入 っ た こ と が な く、 ご く か んたんに見渡したかぎりでは同書があったという覚えがない。   長 田 を 知 ら な い も の か ら す る と、 「 詩 情 の ほ と ば し る ま ゝ に 不 自 由 な 右手にペンを紐で括りつけつつ」といった記事からは、記者が彼のよう すをよくとらえているとみえることだろう。記事 2にあげられた長田の 著 作 の『 霊 魂 は 羽 ば た く 』( 光 友 社、 一 九 二 八 年 ) に 賀 川 豊 彦 が 寄 せ た 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十三号 四〇

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「 序 」 に は「 ペ ン を 右 手 に 紐 で 括 り 付 け て、 こ の 詩 篇 を 書 い た 」 と 記 さ れているし、 おなじく『みそらの花』 (同前)には口絵写真のキャプショ ン に、 「 右 手 に ペ ン を 括 り つ け て も の し た る 」 と み え る。 記 者 は 長 田 に 会ってはいないとうかがえるも、エリクソン夫妻から彼のことを聞いた り、彼の著書を手にとったりして記事を書いたのだろう。   ところで、 記事 2は新聞紙面の題字( 「大阪朝日」 ) と発行年月日( 「昭 和 十 三 年 八 月 二 十 六 日 」 ) の 箇 所 も 切 り 貼 り さ れ て い た か ら、 掲 載 紙 な ど が わ か る の だ が、 こ の 原 紙 が み つ か ら な い の だ。 『 大 阪 朝 日 新 聞 』 一九三八年八月二五、 二六、 二七日の香川版第三版紙面にも、本社版朝夕 刊にも、 岡山版のいずれにも、 この記事はなかった。じつはこの記事は、 わたしよりもさきに、田中キャサリンが国立療養所長島愛生園神谷書庫 に 残 る や は り ス ク ラ ッ プ ブ ッ ク に み つ け て い た。 大 島 に も ス ク ラ ッ プ ブックがあったとわかり、あらためて両者の記事を照合した(二〇一七 年 五 月 二 五 日 受 信 電 子 メ ー ル )。 紙 面 記 事 は ま っ た く お な じ。 た だ し、 神 谷 書 庫 に あ る ス ク ラ ッ プ ブ ッ ク 台 紙 の 手 書 き キ ャ プ シ ョ ン は、 「 大 阪 朝 日 新 聞 13、 8、 25( 夕 刊 ) 」 と 記 さ れ て い た )(( ( 。 大 島 と 長 島 に 残 る ス クラップブックに貼られた記事が現にあるのだが、しかし、その原紙が いまだ不明で、発行日も確定できないのである。   わたしはハンセン病をめぐる各療養所に、どのくらい新聞記事のスク ラップブックが残っているのかを知らない。少なくとも大島に残るそれ をみたかぎりではあっても、療養所内からその外のようすを知ろうとす る意思があり、そのいくらかを叶える手立てとして日刊新聞や月刊誌や 週刊誌が園内に届く回路があり、また、療養所の外からその内のようす を知ってひろく伝えようとする意思があり、それによって得られた情報 や知見を媒介するものが流通し、これらの総体が療養所の内と外とをつ ないでいたのである。それは、かすかで、わずかで、もろいつながりで あったともいえよう。そうした断片、脆弱、断続に着目するよりは、療 養所を生きた当事者たちの実感にほかならない「閉ざされた島」や「隔 絶の里程」という形 容 )(( ( にこそ寄り添ってハンセン病問題を考えよという 指示のほうが強力なのだろう。それでもわたしは、当事者の心情を逆撫 でするかもしれなくても、いまにいたるまで遺されてきた、過去を生き た療養者たちの生の痕跡である 造 も の 物 を史料として活かし、癩そしてハン セン病をめぐってつくりあげられた仕組みを見極め、それを解き、説く 手際を練りあげたいとおもう。   記事 2にみえる「生ける屍の詩人」の語は、自分たちの安寧を脅かす がゆえに排除すべき異形なものへの不安と恐怖をあらわし、 また同時に、 隔絶の地に隔離し終えて交際の謝絶が実現した絶対他者へのいくらかの 憐憫と慈悲と悲哀とを懐き得るわが身への自覚のあらわれでもある。そ れらを確かめたうえでなお、わたしは、新聞記事を介して隔離のむこう と こ ち ら と に あ る、 知 る − 伝 え る、 と い う 心 性 へ の 着 目 を 手 放 さ ず に、 癩そしてハンセン病をめぐるわたしの居住まいを整える試みをしようと おもう。   確かに療養所を生きたひとが切り抜いて台帳に貼りつけた記事がいま も あ る。 そ れ は 新 聞 紙 と い う 本 体 の 切 ス ク ラ ッ プ り 屑 で も 残 ス ク ラ ッ プ り 滓 で も な い は ず で、 その 切 スクラップ 片 がいまあることこそが、過去を歴史として考える入口となるの だとおもう。 切片を集めて―ハンセン病をめぐる療養所の史料論へ 四一

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おわりにかえて ――史料論の不在   さきにみた『ハンセン病図書館旧蔵書目録』 誌上での議論は、 「旧蔵書」 をそこに書かれた文字を読むためだけの図書とはせずに、それを介して あれこれをつなぐ機能を果たしてきた媒介物ととらえていた。だからこ そ論者は「財産」という語を用いたのだ。その目録刊行の翌年に、やは り国立ハンセン病資料館が編集した逐次刊行物にわたしは、ハンセン病 をめぐる史料の「書史論」を提起し た )(( ( 。それから早くも一〇年が経とう とするいまもって、ハンセン病をめぐる史料論は、ほとんど展開してい ないといい得る。   た と え ば、 二 〇 一 七 年 に 発 行 さ れ た『 日 本 ハ ン セ ン 病 学 会 雑 誌 』 第 八六巻第二号に掲載された三編の稿をみると、森修一「ハンセン病アー カイブズに求められるもの―「近現代ハンセン病資料アーカイブズ」の 意義と課題」は、 「近現代ハンセン病資料アーカイブズ」なるものの「事 業内容」 「目的」 「近現代ハンセン病資料アーカイブズ事業が明らかにし ようとする事象」 「本事業を支える研究費」などを列挙し、 「今後、本事 業 は 大 幅 な 拡 張 を 行 い、 学 術 デ ー タ ベ ー ス と し て の 確 立 を 目 指 し ま す 」 と 記 し て 稿 を 閉 じ て い る が、 「 本 事 業 を 支 え る 研 究 費 」 の ひ と つ で あ る いわゆる科研費基盤研究( C )研究課題「近現代ハンセン病医学資料の 研 究 と デ ー タ ベ ー ス 作 成 」( 二 〇 一 八 年 度 完 了 ) の「 研 究 実 績 の 概 要 」 と し て、 「 日 本 の ハ ン セ ン 病 政 策 を 再 評 価 す る た め に、 日 本 と 世 界 の ハ ンセン病関連資料(特に医学資料)を研究すると共に、これらの資料に 加え、これまで公開されていなかった資料を収集し、データベース化を 行 い 公 開 」「 こ れ ま で 収 集 し た 医 学 関 連 資 料 を 中 心 に 約 900 点 の デ ジ タル化を終了させ、 データベースに登録した」などとの記載がならぶも、 G o o g l e で「近現代ハンセン病資料アーカイブズ」を検索したところ、上 位 五 件 は 、「 K A K E N − R e s e a r c h P r o j e c t − 近 現 代 ハ ン セ ン 病 医 学 資 料 の …」 「 近 現 代 ハ ン セ ン 病 ア ー カ イ ブ ズ − J − S t a g e 」「 ハ ン セ ン 病 ア ー カ イ ブ ス に 求 め ら れ る も の − J − S t a g e 」「 [ P D F ] 1」 「 バ ッ ク ナ ン バ ー: 日本ハンセン病学会雑誌 | 医学文献検索サービス」で、データベースは ま っ た く ヒ ッ ト し な か っ た。 「 公 開 」 や「 登 録 」 と あ る の に、 検 索 の 仕 方がまずいのか G o o g l e が機能していないのか、とても不思議な事態に出 くわした(二〇一九年一二月二九日閲覧) 。   つぎに、原田寿真「地域で文書を保存していく意義―菊池恵楓園社会 交流会館における熊本大学生の手による企画展実施の事例から」は、 「は じめに」から「5.結びにかえて」まで全六項目の見出しのうち論題に かかわる箇所は「3. 文書を活かす試み―社会交流会館における企画展」 のみで、ほかは、 「1.恵楓園収蔵文書の来歴・収蔵の経緯」 「2.文書 管 理 の 現 状 と 現 行 法 制 度 」「 4. 今 後 の 文 書 管 理 方 針、 将 来 の 展 望 」 が 記され、それらの要点は文書の現地保存と現行法制度とをどう接合させ る か に と ど ま り、 「 文 書 を 活 か す 試 み 」 と は「 学 生 ら は 自 治 会 宛 て に 開 示されたそれらの文書〔国立療養所菊池恵楓園が最高裁判所に提出した 特 別 法 廷 に か か わ る そ れ 〕 を 読 み 込 み、 展 示 を 作 成 し た の で あ る 」「 今 回学生らは恵楓園を訪れ、その足で歩き、その目で文書を読み、その耳 で 入 所 者 の 話 を 聞 い た。 「 特 別 法 廷 」 と い う 彼 ら に と っ て は 遠 く 感 じ ら れる問題について極めて主体的に向かい合ったのである」と、調査 − 史 料 − 展示をめぐるごくあたりまえの展開をのべたにすぎなかった。   そして、廣川和花「日本における医療アーカイブズの現状と課題―ハ ンセン病資料を念頭に置いて」 も「ハンセン病医療記録の利用の可能性」 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十三号 四二

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の提示とそれへの着目にとどまっているようにみえてしまう。   もとより、 「園収蔵文書」にしても「ハンセン病医療記録」にしても、 これまで活用されにくかったどころか、その所在や概要すら適確に把握 されてこなかったからこそ、 いまあらためて、 あるいは、 いまこの機に、 手はずを整える必要があり、 そのためにも、 廣川が指摘するとおり、 「各 療養所に資料館ができつつある今、それらの組織にはぜひ、療養所と入 所者との間をつなぎ、歴史研究とアーカイビングの専門家として、資料 の 保 存 と 活 用 機 能 を 担 っ て い た だ き 」、 か つ「 療 養 所 内 の 職 員 の 方 々 自 身が、資料所蔵者としての自覚を持って、資料の今後を決める主体とし て動き、アーキビストや歴史家と共同しこうした作業を進めていくこと が、後世に歴史遺産を伝える重要な鍵になる」ことはまちがいない。そ のためにも同人がすでに二〇一〇年の時点でとなえていたとおり、 「アー カイブズの専門的知識を有した人材の安定的な確保と育成」も「長期的 視野に立った人材育成」も依然として「喫緊の課題」であり、その要に 各 園 内 施 設 の 学 芸 員 は 尽 力 す る 必 要 が あ り、 「 大 学 教 員 」 に な る こ と が 「 栄 転 」 だ の「 出 世 」 だ の と い っ て 遜 っ た り そ こ か ら 外 れ る こ と を 自 負 としたりしている暇などないはずなのだ。   た だ、 「 ア ー カ イ ブ ズ の 専 門 的 知 識 」 が あ る も の が 療 養 所 内 で そ の 技 能を果たして資料館であり博物館である園内施設を運営できれば充分だ とは、わたしにはおもえない。現に史料を手にするものが、そうした営 為 を ふ ま え、 そ れ ら の 積 み か さ ね を 経 た う え で、 歴 史 な る も の の 認 識 や叙述のなにかしらをうまいぐあいに組みかえられるようにならなけれ ば、過去からいまへと遺され、さらにそれを未来へと継いでゆく史料な るものを活かしたこととはならないようにおもう。史料は、ただ過去の 空白域を埋めるためにある、ジグソゥパズルに欠けていた一片のピース なのではない。史料を活かして歴史の知り方やわかり方や書き方を組み かえてゆく――そうしたくふうを凝らすものは、大学教員であれ学芸員 であれアーキヴィストであれ、だれでもよい。史料のまえで職分の違い などない。 注 ( 1) ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 検 証 会 議 編『 ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 検 証 会 議 最 終報告書』 (財団法人日弁連法務研究財団、二〇〇五年)の「ご挨拶」 。 ( 2) 前 掲『 ハ ン セ ン 病 問 題 に 関 す る 検 証 会 議 最 終 報 告 書 』 の「 第 十 九 再 発 防 止 のための提言」 「第8 資料 0 0 の保存 ・ 開示等」 「一 提言の趣旨」 「二 資料 0 0 の保存」 (傍点は引用者による) 。 (3) 歴史を知ったり書いたりするときの素材にたいしてしばしば 「史料」 「資料」 「 史 資 料 」 の 語 が お も に 歴 史 研 究 者 に よ っ て 用 い ら れ て い る。 わ た し は こ れ ら の 語 の そ れ ぞ れ に 厳 格 に 公 認 さ れ た 定 義 が あ る と は み て い な い。 ち な み に 『 広 辞 苑 』( 第 六 版 ) は「 史 料 」 を「 歴 史 の 研 究 ま た は 編 纂 に 必 要 な 文 献・ 遺 物。 文 書・ 日 記・ 記 録・ 金 石 文・ 伝 承・ 建 築・ 絵 画・ 彫 刻 な ど。 文 字 に 書 か れ た も の を「 史 料 」、 そ れ 以 外 を 広 く 含 め て「 資 料 」 と 表 記 す る こ と も あ る 」 と 説 い て い る。 お お ま か に は、 「 歴 史 資 料 」 を 約 つづ め て「 史 料 」 と い う と こ ろ でよいだろう。 ( 4) 二 〇 〇 七 年 に「 高 松 宮 記 念 ハ ン セ ン 病 資 料 館 」 が「 再 開 館 」( 同 館 H P 、 二〇二〇年一月四日閲覧) 。 ( 5) 「 ハ ン セ ン 病 図 書 館 」 の 歴 史 と そ の 閉 鎖 や 蔵 書 移 管 に つ い て は、 山 下 道 輔 著、 柴 田 隆 行 編『 ハ ン セ ン 病 図 書 館 ― 歴 史 遺 産 を 後 世 に 』( 社 会 評 論 社、 二 〇 一 一 年 ) を 参 照。 同 書 へ の わ た し の 批 評 に、 阿 部 安 成「 〈 山 下 道 輔 著、 柴 田 隆 行 編『 ハ ン セ ン 病 図 書 館 』 を 読 む 〉 図 書 と 図 書 室 の 生 ― 癩 そ し て ハ ン セン病をめぐる国立療養所の図書と図書室が活きる」 (ワーキング ・ ペーパー ・ シリーズ第一六三号、滋賀大学経済学部、二〇一二年三月)がある。 切片を集めて―ハンセン病をめぐる療養所の史料論へ 四三

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( 6) 同 展 へ の 批 評 に、 阿 部 安 成「 「 具 体 的 な イ メ ー ジ に ふ れ る こ の 機 会 を、 実 際 に 各 館 を 訪 れ て み る き っ か け に 」 と い う 企 図 ― 国 立 ハ ン セ ン 病 資 料 館 二〇一七年度春季企画展 「ハンセン病博物館へようこそ」 と同展付帯事業 「ハ ン セ ン 病 博 物 館 へ よ う こ そ 」 各 館 活 動 報 告 会 に 寄 せ た ノ ー ト 」( 『 滋 賀 大 学 経 済 学 部 研 究 年 報 』 第 二 四 巻、 二 〇 一 七 年 ) と 同「 展 示 の 刹 ― ハ ン セ ン 病 を め ぐる国立療養所園内施設の現在」 (『彦根論叢』第四一六号、 二〇一八年五月) がある。 (7)前掲「展示の刹」を参照。 ( 8) 東 京 都 目 黒 区 下 目 黒 に は、 「 医 学 博 士 亀 谷 了( 一 九 〇 九 −二 〇 〇 二 ) が 私 財 を 投 じ て 一 九 五 三 年 に 創 設 し た 寄 生 虫 学 専 門 の 私 立 博 物 館 」 で あ る「 目 黒 寄生虫館」があるが(同館の英語名称は、 M e g u r o P a r a s i t o l o g i c a l M u s e u m 。 同館 H P 、二〇二〇年一月六日閲覧) 。 ( 9) 同 番 組 H P に は「 日 本 を 代 表 す る 俳 優。 熱 狂 的 な ボ ク シ ン グ フ ァ ン、 昆 虫 好きとしても知られている」との紹介がある(同前閲覧) 。 ( 10)「はてな?スコープ/戸惑いの 「博士号」 取得/就職や収入で将来に不安」 (『朝 日新聞』二〇一九年九月二八日朝刊東京本社版) 。 ( 11)「 新 任 の ご 挨 拶 」( 『 青 松 』 通 巻 第 七 〇 〇 号、 二 〇 一 八 年 五 月 )。 な お、 同 誌 の「 発 行 者 」 は「 国 立 療 養 所 大 島 青 松 園 協 和 会 」( 「 協 和 会 」 と は 同 園 入 所 者 自 治 会 の 名 称 ) で、 「 発 行 所 」 は「 〒 七 六 一 −〇 一 九 八 香 川 県 高 松 市 庵 治 町 六 〇 三 四 の 一 / 電 話 大 島 青 松 園 〇 八 七 −八 七 一 −三 一 三 一( 代 表 )」 と み え る。 同 園 福 祉 室 室 長( 二 〇 一 九 年 六 月 一 一 日 同 人 発 信 電 子 メ ー ル ) に よ る と 同 誌 は「 園 の 機 関 誌 」 で あ る と の こ と。 同 誌 の 最 新 号 は 二 〇 二 〇 年 一 月 時 点 で、 香 川 県 立 図 書 館、 高 松 市 中 央 図 書 館、 国 立 ハ ン セ ン 病 資 料 館 図 書 室、 国立国会図書館東京本館、などで閲覧できる。 ( 12) 阿 部 安 成『 島 の 野 帖 か ら ― ハ ン セ ン 病 を め ぐ る 療 養 所 が あ る 島 で の フ ィ ー ル ド ワ ー ク か ら 歴 史 を 縁 ど る 試 み 』 滋 賀 大 学 経 済 学 部 研 究 叢 書 第 五 一 号( 滋 賀 大 学 経 済 学 部、 二 〇 一 八 年 ) を 参 照。 そ れ ら の 目 録 の ほ と ん ど が ウ ェ ブ 上 で閲覧できる。 ( 13) 二〇〇二年一二月一三日~一五日に滋賀大学経済経営研究所で開催した 「旧 植 民 地 関 係 資 料 を め ぐ る ~ 朝 鮮・ 満 洲・ 中 国・ 台 湾 ~ 戦 前 期 文 献 保 存 の ワ ー ク シ ョ ッ プ 」 で の 飯 島 渉 の 発 言( 阿 部 安 成 ほ か「 彦 根 高 等 商 業 学 校 収 集 資 料 のポリティクス」 『彦根論叢』第三四四 ・ 三四五号、二〇〇三年一一月) 。 ( 14) 飯 島 渉「 旧 制 横 浜 高 等 商 業 学 校 収 集 資 料 に つ い て 」( 『 横 浜 国 立 大 学 経 済 学 部 附 属 貿 易 文 献 資 料 セ ン タ ー 所 蔵 旧 制 横 浜 高 等 商 業 学 校 収 集 資 料 目 録 』 横 浜 国立大学経済学部附属貿易文献資料センター、二〇〇一年) 。 ( 15) た と え ば、 阿 部 安 成、 石 居 人 也「 香 川 県 大 島 の 療 養 所 に 展 開 し た 自 治 の 痕 跡 ― 療 養 所 空 間 に お け る〈 生 環 境 〉 を め ぐ る 実 証 研 究 」( 『 滋 賀 大 学 環 境 総 合 研 究 セ ン タ ー 研 究 年 報 』 第 一 〇 巻 第 一 号、 二 〇 一 三 年 ) や 阿 部 安 成「 き り と る ― 国 立 療 養 所 大 島 青 松 園 キ リ ス ト 教 霊 交 会 の 写 真 」( 『 滋 賀 大 学 経 済 学 部 研 究年報』第二四巻、二〇一七年)を参照。 ( 16) 前掲 「新任のご挨拶」 執筆者はその執筆稿 「学芸員のお仕事⑶―資料 「燻蒸」 その後は…?」 (『青松』 通巻第七〇三号、 二〇一八年一二月) に 「これは 「日 本 銀 行 券 A 一 円 券 」 で、 肖 像 画 の 人 物 は ご 存 知、 二 宮 尊 徳 で す。 1 9 4 6 (昭和 21)年3月発行、 実は現在も有効なお札です 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 。日本銀行へ持っていけば、 1 円 と 交 換 し て く れ ま す( 笑 )」 ( 傍 点 引 用 者 ) の 文 章 と と も に 整 理 中 の 図 書 にはさまっていた同紙幣の写真を掲載し、 つぎの連載稿 「学芸員のお仕事 (番 外 編 ) ― 社 会 交 流 会 館 準 備 状 況 中 間 報 告 会 を 終 え て 」( 同 前 通 巻 第 七 〇 四 号、 二 〇 一 九 年 二 月 ) の 末 尾 に「 掲 載 画 像 に 関 す る お 詫 び と 訂 正 」 と の 見 出 し の もとに「 「日本銀行券 A 1円券」は現在も有効なため、画像を掲載する際は こ の よ う に 加 工 し て〔 文 章 し た に 掲 載 さ れ た 写 真 に は 抹 消 の 斜 線 が 引 い て あ る 〕、 無 断 複 製、 偽 造 防 止 の 策 を と ら な け れ ば い け ま せ ん。 / 執 筆 者 の 不 手 際 か ら 多 大 な ご 迷 惑 を お か け し ま し た こ と を 心 よ り お 詫 び し、 こ こ に 訂 正 い たします」 と記している。だれに 「迷惑」 (「①どうしてよいか迷うこと」 「② 困り苦しむこと」 「③他人からやっかいな目にあわされて困ること」 『広辞苑』 第 六 版 ) を か け た の だ ろ う か。 「 お 詫 び 」 す る の で あ れ ば、 む し ろ「 通 貨 及 証 券 模 造 取 締 法 」 に 抵 触 す る 可 能 性 が あ る 失 態 に た い し て で は な い の か( 財 務 省 H P 「 ト ッ プ ペ ー ジ、 サ イ ト マ ッ プ > よ く あ る ご 質 問 > 通 貨 > 紙 幣 や 硬 貨 の 写 真 や イ ラ ス ト を 印 刷 物 に 使 っ て も い い で す か 」 二 〇 二 〇 年 一 月 七 日 滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要   第五十三号 四四

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閲覧) 。 ( 17)厳密にいえば残務整理として二〇一九年一月、 二月、 三月にも大島に渡った。 ( 18) こ の 業 務 を め ぐ っ て は 委 託 や 兼 業 な ど の 事 務 手 続 き は い っ さ い な く、 す べ てわたしの研究費による公務出張としておこなわれた。 ( 19)〈歴史材〉 については、 阿部安成、 今井綾乃 「〈歴史材〉 を活かす― 「大学アー カ イ ブ ズ 」 を め ぐ る 近 年 の 動 向 か ら 」( 『 滋 賀 大 学 経 済 学 部 研 究 年 報 』 第 二 二 巻、二〇一五年)を参照。 ( 20) 阿 部 安 成「 造 も の 物 で あ る 詩 誌 ― ハ ン セ ン 病 を め ぐ る 国 立 療 養 所 大 島 青 松 園 で の 詠 歌 の 結 び あ い を 記 録 す る 」( 『 国 立 大 学 法 人 滋 賀 大 学 研 究 推 進 機 構 環 境 総 合研究センター研究年報』第一六巻第一号、二〇一九年)を参照。 ( 21) 一 九 三 二 年 創 刊、 一 九 四 四 年 休 刊 の 同 誌 は、 阿 部 安 成 監 修、 解 説『 藻 汐 草 』 リ プ リ ン ト 国 立 療 養 所 大 島 青 松 園 史 料 シ リ ー ズ 2( 近 現 代 資 料 刊 行 会、 二〇一四年)によって閲覧できる。 ( 22) 長 田 に つ い て は ひ と ま ず、 阿 部 安 成「 長 田 穂 波 の 痕 跡 ― 療 養 所 の 生 の あ ら わ し 方 」( 『 ハ ン セ ン 病 市 民 学 会 年 報 二 〇 〇 八 』 ハ ン セ ン 病 市 民 学 会、 二 〇 〇 八 年 )、 同『 島 で ― ハ ン セ ン 病 療 養 所 の 百 年 』( サ ン ラ イ ズ 出 版、 二〇一五年)第Ⅳ章、を参照。 ( 23)「 文 芸 活 動 の 歴 程 」( 『 閉 ざ さ れ た 島 の 昭 和 史 ― 国 立 療 養 所 大 島 青 松 園 入 園 者 自治会五十年史』大島青松園入園者自治会(協和会) 、一九八一年) 。 ( 24) ロ イ ス に つ い て は、 阿 部 安 成「 読 め な い 詩 ― 癩 療 養 者 長 田 穂 波 と 訳 詩 者 ロ イ ス・ エ リ ク ソ ン 」( ワ ー キ ン グ・ ペ ー パ ー・ シ リ ー ズ 第 二 〇 二 号、 滋 賀 大 学経済学部、二〇一三年九月)を参照。 ( 25)同書についても前掲「読めない詩」を参照。 ( 26) な お こ の ス ク ラ ッ プ ブ ッ ク の 台 紙 に は、 「 園 長 」「 庶 務 課 長 」「 主 任 」 に よ る 回 覧 済 み を あ ら わ す 押 印 や 署 名 が で き る 欄 が ス タ ン プ で 押 さ れ て い る の で、 これは園の物品である(園長の署名と庶務課長の押印あり) 。 ( 27) 前 者 は 前 掲『 閉 ざ さ れ た 島 の 昭 和 史 』 の 書 名 の 一 部、 後 者 は 長 島 愛 生 園 入 園 者 自 治 会 編『 隔 絶 の 里 程 ― 長 島 愛 生 園 入 園 者 五 十 年 史 』( 日 本 文 教 出 版、 一九八二年)の書名。 ( 28) 阿 部 安 成「 島 の 書、 書 の 園 ― 国 立 療 養 所 大 島 青 松 園 を フ ィ ー ル ド と し た 書 史論の試み」 (『国立ハンセン病資料館研究紀要』第二号、二〇一一年) 。 切片を集めて―ハンセン病をめぐる療養所の史料論へ 四五

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滋賀大学経済学部附属史料館研究紀要

 

第五十三号

参照

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