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ドッジデフレ下の企業経営 : 新潟鉄工所の事例

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(1)

ドッジデフレ下の企業経営 : 新潟鉄工所の事例

著者

沢井 実

雑誌名

経済学論究

73

2

ページ

53-74

発行年

2019-09-20

URL

http://hdl.handle.net/10236/00028375

(2)

ドッジデフレ下の企業経営

新潟鉄工所の事例

Corporate Management under

“Dodge Deflation” Period:

Case of Niigata Iron Works

沢 井   実  

Niigata Iron Works established in 1895 was representative of general machine makers in Japan. The main items manufactured were rolling stock, ships, chemical and industrial machines, machine tools, internal combustion engines and casting & forging products. During “Dodge Deflation” in 1949-50 Niigata Iron Works faced hard times that could not be overcome without drastic measures. The purpose of this paper is to trace the trajectory of Niigata Iron Works during the “Dodge Deflation” period.

Minoru Sawai

  JEL:N6

キーワード:新潟鉄工所、ドッジデフレ、鉄道車輌、労働組合、人員整理

Keywords:Niigata Iron Works, “Doge Deflation”, Rolling Stock, Labor Union, Dismissal of Employees

はじめに

1895年に設立された新潟鉄工所は日本を代表する総合機械メーカーの一つ であった。主な製品は鉄道車輌、造船、化学・産業機械、工作機械、内燃機関、 製鋼鋳造鋳鋼鍛造などであり、1948年時点で造船、工作機械、内燃機、製鋼、 車輌の各工場を有する新潟製作所を中心にして、浦和(内燃機関、トタクター、 賠償指定工場)、蒲田(ディーゼル機関、空気圧縮機、鋳鉄)、月島(化学機械 * 藤井和夫先生からいただいた長年にわたるご厚情に感謝をこめて。

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装置)、長岡(石油鑿井機、ポンプ、鉱山用機械)、蔵王分工場(鋳鉄鋳物、非鉄 金属鋳物、圧延ロール機)、柏崎(石油鑿井機、化学機械)、加茂(工作機械)、 柿崎(工作機械)、六日町(ディーゼル機関部品)、三條(賠償指定工場)の各工 場を有していた。48年7月末の新潟製作所の従業員数は4,653名を数えた1) しかし戦後復興期の同社の経営はさまざまな課題に直面し、ドッジデフレ期 になると経営不振はさらに深刻化した。このままでは会社の存続自体が疑われ る事態を迎えた同社では抜本的な経営改善策が模索されることになった。新潟 鉄工所では難局を打開するために1949年と50年に2度の大規模な人員整理 を行った。2度目の人員整理の直後から朝鮮戦争ブームの影響が現れはじめ、 新潟鉄工所を取り巻く経営環境は激変することになる。 小論では戦後復興期における新潟鉄工所の経営課題とは何であり、そうした 状況を打開するためにいかなる方策が立案・実施されたのか、さらに朝鮮戦争 ブームによって経営環境が激変するなかで同社の経営がどのような帰趨を描い たかを実証的に明らかにしてみたい。ドッジデフレ期から朝鮮戦争ブーム期に かけての総合機械メーカーの動きを新潟鉄工所を事例にして明らかにすること が小論の目的である。

1. 経営悪化の深刻化

戦後復興期の新潟鉄工所の経営を規定したさまざまな条件の一つが賠償指定 であった。1946年8月24日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP) は対日中間賠償計画に基づく第二次措置として8工業部門505工場を撤去予 定物件として連合国軍の管理下におくよう命令を発したが、そのなかに新潟鉄 工所の工場が含まれていた。新潟鉄工所の賠償指定工場は、新潟工作機械工 場、三条分工場および浦和工場であった。これらの工場の運営はその後の対日 賠償政策の帰趨に大きく規定されたが、最終的には52年4月の講和条約発効 とともに指定は解除された2) 新潟鉄工所においても1946年1月に新潟製作所に社員組合と工員組合の二 1) 新潟鉄工所[1948]。 2) 新潟鉄工所社史編纂委員会編[1968]125 ページ。

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本立てで労働組合が結成され、その後両組合は合同し、2月頃までには本社お よび各工場にも単位組合が結成され、5月に単位組合は労働組合連合会を組織 した。6月7日には会社側と労働組合連合会による第1回交渉が行われ、会社 は団体交渉権を認めるとともに労働協約を締結し、同時に経営協議会の基本規 約を協定した3) インフレ下で新潟鉄工所は資金調達に苦労したが、1947年7月に日本勧業 銀行から融資を受けることに成功した4)。表 1にあるように新潟鉄工所の主な 収入源は内燃機関、鉄道車輌、造船などの売り上げによっていた。とくに鉄道 車輌のウエイトは大きく、46年8月11日∼48年12月31日期では「本期の 中頃に於ては鉄道輸送の整備増強の実施と共に需要頓に増加し一時は全受注高 の七割に達したこともあつたが、現在(48年末─引用者注)は全期間を通じ 三割八分の受注高となつて」おり、内需だけでなく「朝鮮、ソ連等に輸出を見 るに至り、次いで『シヤム』国よりは貨車の注文を受けて目下之が製造に繁忙 を極めつゝある」状況であった5) しかし1949年に入るとドッジデフレの影響から表2に示されているように 資金繰りは極度に悪化した。49年度の営業収支は約1億円のマイナスとなり、 49年10月の社債手取り金がなければ新潟鉄工所の資金繰りは破綻していたの である。その結果、49年1月以来賃金の遅払い、税金・社会保険料の滞納が 続く一方、原材料価格の高騰もあってこのままでは会社の存続が危ぶまれる事 態となった6) 1948年4月に新潟鉄工所は日本勧業銀行から1億円を借り入れたが、これ は「長期運転資金で、当時、国鉄の車輌発注が激増、これを引当てに借りたも のであつた。ところが、その直後、例のドッジ・ラインで、国鉄からの注文が 3) 同上書、126-127 ページ。 4) 『東洋経済新報』によると、新潟鉄工所が日本勧業銀行と取引を開始したのは 1947 年 4 月以降 で、48 年 4 月には 1 億円の長期融資を受けた。新潟鉄工所が「帝銀から勧銀に移つたのは、帝 銀の融資力欠乏と、たまたま勧銀が普通銀行として活躍を始めようという時に当つたからで、爾 来当社は、急速に勧銀との関係を緊密化した」と評された(「合理化の遅れた新潟鉄工所」[1953] 111 ページ)。 5) 新潟鉄工所[1949a]、「営業概要」。 6) 新潟鉄工所社史編纂委員会編[1968]130 ページ。

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表 1  機種別売上高の推移 એԃʥ غพ ಼೫ؽؖ ޽ࡠؽփ ߯ࢃؽփ Կ޽ؽ ઩ഭ ऄ᫓ ͨ͹ଠ ߻ܯ ೧৏غ         Ծغ         ೧৏غ        Ծغ        ೧৏غ         Ծغ         ೧৏غ         Ծغ         ೧৏غ         Ծغ         [出所]「機種別売上高」作成年月不明(新潟鉄工所[作成年不明 a]所収)。 (注)(1)上期:9 月期、下期:3 月期。 表 2   1949 年度資金繰実績表 䠄༓෇䠅 ⛉┠ 㻝㻥㻠㻥ᖺ㻠᭶ 㻡᭶ 㻢᭶ 㻣᭶ 㻤᭶ 㻥᭶ 㻝㻜᭶ 㻝㻝᭶ 㻝㻞᭶ 㻝㻥㻡㻜ᖺ㻝᭶ 㻞᭶ 㻟᭶ ྜィ ኎ୖ㧗 㻝㻣㻡㻘㻤㻢㻝 㻞㻜㻟㻘㻢㻟㻢 㻝㻜㻞㻘㻠㻥㻟 㻥㻟㻘㻜㻠㻥 㻝㻡㻟㻘㻣㻢㻠 㻝㻟㻝㻘㻡㻢㻠 㻝㻡㻡㻘㻢㻡㻠 㻝㻟㻞㻘㻟㻥㻥 㻝㻝㻜㻘㻠㻢㻡 㻥㻢㻘㻟㻢㻠 㻝㻡㻝㻘㻢㻣㻢 㻝㻝㻟㻘㻤㻤㻣 㻝㻘㻢㻞㻜㻘㻤㻝㻞 ๓᭶⧞㉺㧗䠄䐟䠅 㻞㻝㻘㻞㻥㻝 㻞㻜㻘㻝㻜㻤 㻝㻤㻘㻡㻥㻟 㻝㻡㻘㻡㻝㻡 㻝㻡㻘㻣㻟㻡 㻝㻡㻘㻤㻜㻡 㻞㻢㻘㻡㻜㻤 㻝㻞㻘㻠㻡㻜 㻝㻞㻘㻝㻝㻥 㻞㻜㻘㻟㻜㻢 㻞㻥㻘㻟㻜㻢 㻞㻝㻘㻞㻤㻝 㻞㻞㻥㻘㻜㻝㻣 ཰ධ䛾㒊 䚷Ⴀᴗ཰ධ 䚷䚷㌴㍗ 㻡㻢㻘㻡㻥㻥 㻝㻝㻡㻘㻞㻤㻟 㻞㻜㻘㻜㻤㻜 㻞㻤㻘㻤㻟㻠 㻠㻜㻘㻠㻢㻤 㻞㻣㻘㻝㻥㻟 㻞㻜㻘㻟㻣㻠 㻟㻜㻘㻝㻠㻞 㻣㻣㻘㻜㻜㻤 㻝㻝㻘㻞㻞㻢 㻞㻤㻘㻜㻤㻠 㻞㻟㻘㻤㻡㻠 㻠㻣㻥㻘㻝㻠㻡 䚷䚷ෆ⇞ᶵ㛵 㻟㻝㻘㻡㻜㻡 㻟㻝㻘㻟㻟㻟 㻢㻡㻘㻢㻥㻝 㻟㻥㻘㻟㻡㻥 㻞㻢㻘㻠㻜㻢 㻠㻣㻘㻤㻤㻠 㻝㻣㻘㻣㻡㻜 㻡㻞㻘㻥㻜㻞 㻤㻠㻘㻜㻟㻞 㻟㻟㻘㻜㻤㻡 㻡㻜㻘㻤㻡㻝 㻢㻜㻘㻜㻤㻜 㻡㻠㻜㻘㻤㻣㻤 䚷䚷㐀⯪ 㻥㻘㻤㻞㻢 㻞㻠㻘㻝㻡㻞 㻤㻘㻢㻠㻟 㻣㻘㻡㻤㻠 㻝㻞㻘㻜㻞㻥 㻝㻝㻘㻜㻝㻜 㻢㻘㻝㻢㻡 㻥㻘㻤㻢㻜 㻝㻥㻘㻞㻥㻡 㻣㻘㻞㻡㻞 㻝㻝㻘㻜㻤㻢 㻞㻜㻘㻞㻥㻢 㻝㻠㻣㻘㻝㻥㻤 䚷䚷ㅖᶵᲔ 㻞㻟㻘㻟㻞㻠 㻞㻞㻘㻡㻜㻜 㻞㻢㻘㻜㻜㻤 㻞㻟㻘㻤㻡㻟 㻞㻢㻘㻝㻤㻣 㻝㻥㻘㻝㻞㻢 㻝㻝㻘㻞㻝㻜 㻞㻢㻘㻠㻞㻣 㻟㻥㻘㻣㻝㻜 㻝㻡㻘㻡㻠㻟 㻞㻞㻘㻤㻞㻡 㻞㻥㻘㻢㻤㻟 㻞㻤㻢㻘㻟㻥㻢 䚷䚷䚷䚷䚷ィ䠄䐠䠅 㻝㻞㻝㻘㻞㻡㻠 㻝㻥㻟㻘㻞㻢㻤 㻝㻞㻜㻘㻠㻞㻞 㻥㻥㻘㻢㻟㻜 㻝㻜㻡㻘㻜㻥㻜 㻝㻜㻡㻘㻞㻝㻟 㻡㻡㻘㻠㻥㻥 㻝㻝㻥㻘㻟㻟㻝 㻞㻞㻜㻘㻜㻠㻡 㻢㻣㻘㻝㻜㻢 㻝㻝㻞㻘㻤㻠㻢 㻝㻟㻟㻘㻥㻝㻟 㻝㻘㻠㻡㻟㻘㻢㻝㻣 䚷ᮏ᭶೉ධ㔠䠄䐡䠅 㻞㻜㻘㻜㻜㻜 㻝㻥㻘㻜㻜㻜 㻞㻠㻘㻜㻜㻜 㻤㻥㻘㻜㻜㻜 㻡㻠㻘㻤㻟㻜 㻤㻟㻘㻜㻜㻜 㻞㻟㻡㻘㻞㻜㻜 㻣㻜㻘㻢㻜㻜 㻝㻜㻝㻘㻜㻜㻜 㻤㻠㻘㻥㻜㻜 㻠㻡㻘㻡㻜㻜 㻢㻟㻘㻣㻜㻜 㻤㻥㻜㻘㻣㻟㻜 ྜィ䠄䐟䠇䐠䠇䐡䠅 㻝㻢㻞㻘㻡㻠㻡 㻞㻟㻞㻘㻟㻣㻢 㻝㻢㻟㻘㻜㻝㻡 㻞㻜㻠㻘㻝㻠㻡 㻝㻣㻡㻘㻢㻡㻡 㻞㻜㻠㻘㻜㻝㻤 㻟㻝㻣㻘㻞㻜㻣 㻞㻜㻞㻘㻟㻤㻝 㻟㻟㻟㻘㻝㻢㻠 㻝㻣㻞㻘㻟㻝㻞 㻝㻤㻣㻘㻢㻡㻞 㻞㻝㻤㻘㻤㻥㻠 㻞㻘㻡㻣㻟㻘㻟㻢㻠 ᨭฟ䛾㒊 䚷Ⴀᴗᨭฟ 䚷䚷ᮦᩱཬእὀ㈝ 㻠㻜㻘㻜㻜㻤 㻠㻢㻘㻠㻢㻢 㻠㻣㻘㻥㻤㻢 㻟㻡㻘㻝㻤㻢 㻠㻟㻘㻡㻢㻠 㻟㻥㻘㻠㻢㻠 㻠㻡㻘㻡㻤㻟 㻠㻞㻘㻢㻟㻠 㻥㻝㻘㻞㻢㻤 㻠㻥㻘㻢㻥㻢 㻠㻣㻘㻞㻣㻢 㻣㻢㻘㻜㻞㻝 㻢㻜㻡㻘㻝㻡㻞 䚷䚷ே௳㈝ 㻡㻤㻘㻟㻜㻤 㻠㻣㻘㻤㻤㻞 㻠㻤㻘㻡㻥㻡 㻡㻤㻘㻠㻢㻝 㻡㻡㻘㻡㻤㻥 㻡㻣㻘㻝㻥㻠 㻢㻣㻘㻥㻠㻜 㻢㻞㻘㻡㻟㻡 㻡㻥㻘㻞㻠㻝 㻞㻢㻘㻠㻠㻥 㻠㻟㻘㻟㻣㻣 㻟㻣㻘㻞㻡㻣 㻢㻞㻞㻘㻤㻞㻤 䚷䚷⤒㈝ 㻝㻡㻘㻞㻞㻝 㻝㻟㻘㻡㻣㻡 㻝㻠㻘㻝㻡㻜 㻠㻜㻘㻡㻞㻟 㻞㻥㻘㻠㻥㻣 㻟㻟㻘㻠㻣㻝 㻟㻥㻘㻡㻟㻠 㻝㻤㻘㻥㻠㻟 㻢㻥㻘㻞㻥㻥 㻞㻜㻘㻢㻢㻝 㻝㻝㻘㻠㻤㻤 㻞㻠㻘㻤㻡㻠 㻟㻟㻝㻘㻞㻝㻢 䚷䚷䚷䚷䚷ィ 㻝㻝㻟㻘㻡㻟㻣 㻝㻜㻣㻘㻥㻞㻟 㻝㻝㻜㻘㻣㻟㻝 㻝㻟㻠㻘㻝㻣㻜 㻝㻞㻤㻘㻢㻡㻜 㻝㻟㻜㻘㻝㻞㻥 㻝㻡㻟㻘㻜㻡㻣 㻝㻞㻠㻘㻝㻝㻞 㻞㻝㻥㻘㻤㻜㻤 㻥㻢㻘㻤㻜㻢 㻝㻜㻞㻘㻝㻠㻝 㻝㻟㻤㻘㻝㻟㻞 㻝㻘㻡㻡㻥㻘㻝㻥㻢 䚷೉ධ㔠㏉῭ 㻞㻤㻘㻥㻜㻜 㻝㻜㻡㻘㻤㻢㻜 㻟㻢㻘㻣㻢㻥 㻡㻠㻘㻞㻠㻜 㻟㻝㻘㻞㻜㻜 㻠㻣㻘㻟㻤㻝 㻝㻡㻝㻘㻣㻜㻜 㻢㻢㻘㻝㻡㻜 㻥㻟㻘㻜㻡㻜 㻠㻢㻘㻞㻜㻜 㻢㻠㻘㻞㻟㻜 㻡㻡㻘㻞㻜㻜 㻣㻤㻜㻘㻤㻤㻜 ྜィ 㻝㻠㻞㻘㻠㻟㻣 㻞㻝㻟㻘㻣㻤㻟 㻝㻠㻣㻘㻡㻜㻜 㻝㻤㻤㻘㻠㻝㻜 㻝㻡㻥㻘㻤㻡㻜 㻝㻣㻣㻘㻡㻝㻜 㻟㻜㻠㻘㻣㻡㻣 㻝㻥㻜㻘㻞㻢㻞 㻟㻝㻞㻘㻤㻡㻤 㻝㻠㻟㻘㻜㻜㻢 㻝㻢㻢㻘㻟㻣㻝 㻝㻥㻟㻘㻟㻟㻞 㻞㻘㻟㻠㻜㻘㻜㻣㻢 ⩣᭶⧞㉺㧗 㻞㻜㻘㻝㻜㻤 㻝㻤㻘㻡㻥㻟 㻝㻡㻘㻡㻝㻡 㻝㻡㻘㻣㻟㻡 㻝㻡㻘㻤㻜㻡 㻞㻢㻘㻡㻜㻤 㻝㻞㻘㻠㻡㻜 㻝㻞㻘㻝㻝㻥 㻞㻜㻘㻟㻜㻢 㻞㻥㻘㻟㻜㻢 㻞㻝㻘㻞㻤㻝 㻞㻡㻘㻡㻢㻞 㻞㻟㻟㻘㻞㻤㻤 [出所] 新潟鉄工所[作成年不明 b]。 (注)(1)1949 年 10 月の本月借入金は 1 億円の社債、経費は社債発行差金 6,871 千円をそれぞ れ含む。 (2)1949 年 12 月の経費は配当金を含む。 タナ上げされてしまつた。当時の、当社タナ上げ車輌は一億円である。こゝか ら、当社の苦難期が始まる。この一億円のタナ上げ車輌に続いて、二十四年度 の車輌事前割当分も、結局、予算がとれず、再び一億円のタナ上げ車輌となつ た。両方で、当社は二億円がこげつき借金となつた7)」のである。新潟鉄工所 の1949年1∼9月期の決算報告書も「鉄道車輌は前期に比し政府予算大削減 7) 「合理化の遅れた新潟鉄工所」[1953]111 ページ。

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の為激減8)」と報じた。 こうしたなかで1949年5月8日に長島吉次郎社長は「昨秋頃よりの社業低 下ドッヂ声明の影響等からこのまゝ移行するならば過去に於ける労働者の犠牲 による立直り策を回避して来たことをこの際捨てゝ人員整理、賃金引下げ労働 強化の措置を講ずるより外に途なしとの結論に到達したが組合とも協議の上更 に妙案を得てより良く打開出来ることを望む」との声明を行った9)。これに対 して労働組合連合会は会社の無策を批判したものの、5月20日に執行委員会 は各工場職場懇談会から提出された対策案を審議したうえで、「危機突破に対 しては限度はあるが労資協調で行く事を確認した10)」。 49年2月に全日本産 業別労働組合会議(産別)を脱退していた新潟鉄工所の労働組合は11)、ある程 度の「労資協調」路線を選択したのである。 1949年6月15日に会社は以下の対策を発表した。(1)実働8時間(休憩 時間中は無給)制の即時実施、(2)工場別独立採算制の採用、(3)営業部の拡 充強化、(4)給与形態の改正(イ能率報償制に移行 ロ特殊作業手当の廃止)、 (5)定員制の実施(802人の整理)、(6)厚生施設の整理。これを受けて審議 を重ねた労働組合では希望退職者を募集することに賛成する旨の決定を行っ た。6月28日には単位経営協議会において希望退職者募集について話し合わ れ、解雇手当は7月分賃金支払日に、退職手当は8月末までにそれぞれ全額支 給されることが決定した12) その結果、従業員総数の約2割に相当する1,327名が整理され、1949年8 月に整理資金が支払われた。整理資金4,300万円は日本勧業銀行、第四銀行、 北越銀行の3行からの融資に頼るほかなかった13)。大規模な人員整理を行っ 8) 新潟鉄工所[1949b]、「営業概要」。 9) 新潟鉄工所労働組合史編纂委員会編[1953]94 ページ。1949 年には新潟鉄工所だけでなく他 の鉄道車輌各社も人員整理を行ったが経営は好転せず、50 年に入っても人員整理、工場閉鎖が続 いた(「解決の望みなし 汽車会社の工場閉鎖 労使対立」『日刊工業新聞』1950 年 5 月 8 日)。 10) 新潟鉄工所労働組合史編纂委員会編[1953]95 ページ。 11) 同上書、88-89 ページ。 12) 同上書、96-101 ページ。 13) 新潟鉄工所社史編纂委員会編[1968]130-131、141 ページ。

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た後の1949年10月に新潟鉄工所の金田健太郎専務取締役は14)、今後の経営 改善策を以下のように語っている。1つは従来の労働時間を45分延長する実 働8時間制の実施であり、これによって「一時間当りの工場の冗率を二割程度 節減可能である。更に加えて工場に生産技術人を強化して、作業工程、生産技 術、設備の配置転換を能率的に変更し、これによつて生産能率をあげてゆく。 一方給与形態を生活給的色彩から能率給へと移す。内容的には六割程度の能率 給にする」、「人員整理による生産高の上昇から、工場冗率を二割節減し、生産 技術の向上から一割のコスト引下げ、かくしてコストの引下げは二割乃至三割 の希望である。これに対して、鉄鋼補給金の廃止による原料高が五、六分とす れば、コストの二割四、五分の引下げは可能であると考える」というのが金田 専務の期待を込めた予想であり、国鉄からの車輌注文をはじめとして需要は相 当に旺盛であり、1949年度下期(49年10月∼50年3月)の受注目標10億 円は達成可能としていた15) 金田専務の経営再建案は体系的なものであった。「現在の構想としては、第 一に、経営規模を経済実情にマッチした健全な規模にしてゆきたい。戦時中の ような水ぶくれした経営規模を収縮し、(中略)第二には、生産技術人16)の強 化と同時に能率給へ給与形態をかえる。第三には、独立採算制と予算統制を実 14) 1891 年に浜松市に生まれた金田健太郎は 1915 年に東京高等商業学校を卒業するとただちに新 潟鉄工所に入社し、42 年 1 月に精密機械統制会に転じ、同統制会理事、考査部長に就いた。45 年 4 月に新潟鉄工所に復職して本店総務部長となり、47 年 5 月に取締役、49 年 3 月に常務取 締役、同年 5 月に専務取締役に就任した。「ドッヂ旋風による企業危機克服に心身を酷使」し、 51 年 1 月に代表取締役に選任され、55 年 4 月に専務取締役を辞任、翌 5 月に新潟コンバー ター株式会社取締役社長に就任し、58 年 3 月に没した(金田美子編[1959]、「年譜」)。 15) 金田健太郎[1949]53 ページ。 16) 金田は精密機械統制会時代の 1943 年に「生産技師」と題する小文のなかで「生産技師は生産現 場にあつて技術を担当する技術者なのである。工場を廻つて見ると現場の技術的な仕事は多く は職長とか組長とかいふ人達に任せきりで、自ら先頭にたつて技術の指導なり、仕事の段取りな りをやつてゐるのが非常に尠いやうに思はれる。無論職長なり、組長なりの経験技術は、之を充 分活用すべきであり、これ等の人の職責もこゝにあるのであるが、然し一ぱしの技術者として一 つの職場に責任を以て働く以上、其の職場の技術に関しては自らの創意と工夫とに於て進歩発達 せしむべき責任があるものと云はなければならない。所謂生産技師の務めはこゝにあるものと 云はなければならない」と記している(金田美子編[1959]14 ページ)。現場改革の担い手た る生産技師、生産技術人への金田の期待は戦時期以来のものであったといえよう。

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施する。各工場自身の経営を自ら反省し、改善させると同時に、予算統制で生 産予定経費予定、その他増設の予定、注文獲得の予定を一連の計画で実施する。 そのうち独立採算制は十月一日(1949年─引用者注)から行つている。予算 統制は今原案を作成中である。第四には外国(主としてアメリカ)の技術を導 入したい。(中略)結論としては、第一段階の人員整理は既に終了した。第二 段階として、生産能率の向上と原価引下げは既に着手しつゝあり、これが結実 は半期間かゝると思われるが、これに対する相当の期待は可能である」という のが経営陣の先行き見通しであった17) しかし1949年度下期(49年10月∼50年3月期)の事態の推移は金田常 務の期待通りにはいかなった。同期の決算報告書によると「本期は前期に引続 き各部門に亘り極力受註と生産の増加に努めた結果、主要製品であるヂーゼル エンジンに於ては約七割の増加を示し、製油機械の生産も亦相当の増加を来し たが、鉄道車輌に於ては国鉄予算の圧縮により影響を受け、従来の生産高の半 減を見るに至つた。加うるに材料の値上りと激甚なる受註競争による単価切下 げ等により予期の収益を見るに至らなかつた18) 前掲表1にあるように下期の売上高は上期を下回り、損失は著しく増大し、 会社業績の悪化が続いた。表3に示されているように49年4月∼12月の売上 品収支は11月を除いてすべての月で赤字を計上しており、内燃機関は6月を 除いて黒字であったが、内燃機関に次ぐ主要製品である車輌(11月を除く)お よび造船(8月を除く)は完全に赤字基調であった。また表4から49年10・ 11月の工員実働率をみると新潟製作所と長岡工場の不調が明らかであり、長 岡工場では間接費配賦率も大きかった19)

2. 1950 年 3 月「緊急対策要綱」

こうした事態に直面した新潟鉄工所では1950年2月27日から3月2日の 常勤重役会での集中審議を経て3月2日に「緊急対策要綱」が決議された。同 17) 金田健太郎[1949]53 ページ。 18) 新潟鉄工所[1950a]、「営業概要」。 19) 新潟鉄工所社史編纂委員会編[1968]130-131、140-141 ページ。

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表 3  売上品収支総括表(1949 年 4 月∼12 月) 䠄༓෇䠅 ᭶ 㡯┠ ෆ⇞ᶵ㛵 ㌴㍗ 㐀⯪ ㅖᶵᲔ 〇㗰 ྜィ ኎ୖ㧗 㻡㻝㻘㻢㻜㻤 㻢㻝㻘㻝㻣㻢 㻠㻢㻘㻜㻣㻜 㻝㻢㻘㻜㻝㻟 㻝㻘㻜㻤㻝 㻝㻣㻡㻘㻥㻠㻤 㻝㻥㻠㻥ᖺ㻠᭶ ⥲ཎ౯ 㻡㻜㻘㻜㻤㻝 㻣㻞㻘㻜㻢㻠 㻠㻤㻘㻠㻡㻠 㻝㻡㻘㻝㻢㻣 㻝㻘㻡㻜㻟 㻝㻤㻣㻘㻞㻢㻥 ᦆ┈ 㻝㻘㻡㻞㻣 㻙㻝㻜㻘㻤㻤㻤 㻙㻞㻘㻟㻤㻠 㻤㻠㻢 㻙㻠㻞㻞 㻙㻝㻝㻘㻟㻞㻝 ኎ୖ㧗 㻠㻟㻘㻠㻢㻠 㻠㻝㻘㻝㻢㻜 㻝㻜㻝㻘㻟㻜㻤 㻝㻢㻘㻣㻢㻢 㻤㻠㻥 㻞㻜㻟㻘㻡㻠㻣 㻡᭶ ⥲ཎ౯ 㻟㻤㻘㻜㻤㻥 㻡㻝㻘㻢㻠㻜 㻝㻜㻠㻘㻡㻢㻣 㻝㻢㻘㻜㻟㻤 㻣㻥㻢 㻞㻝㻝㻘㻝㻟㻜 ᦆ┈ 㻡㻘㻟㻣㻡 㻙㻝㻜㻘㻠㻤㻜 㻙㻟㻘㻞㻡㻥 㻣㻞㻤 㻡㻟 㻙㻣㻘㻡㻤㻟 ኎ୖ㧗 㻡㻞㻘㻥㻝㻝 㻝㻝㻘㻡㻡㻤 㻞㻜㻘㻜㻡㻠 㻝㻢㻘㻠㻞㻤 㻝㻘㻡㻠㻜 㻝㻜㻞㻘㻠㻥㻝 㻢᭶ ⥲ཎ౯ 㻡㻟㻘㻡㻟㻠 㻝㻢㻘㻣㻥㻞 㻞㻝㻘㻝㻥㻠 㻝㻡㻘㻢㻠㻢 㻝㻘㻠㻥㻝 㻝㻜㻤㻘㻢㻡㻣 ᦆ┈ 㻙㻢㻞㻟 㻙㻡㻘㻞㻟㻠 㻙㻝㻘㻝㻠㻜 㻣㻤㻞 㻠㻥 㻙㻢㻘㻝㻢㻢 ኎ୖ㧗 㻡㻡㻘㻢㻝㻞 㻝㻠㻘㻜㻥㻞 㻢㻘㻟㻠㻠 㻝㻠㻘㻢㻞㻣 㻞㻘㻟㻣㻟 㻥㻟㻘㻜㻠㻤 㻣᭶ ⥲ཎ౯ 㻡㻝㻘㻡㻥㻠 㻝㻣㻘㻞㻣㻥 㻥㻘㻢㻥㻡 㻝㻢㻘㻡㻣㻣 㻞㻘㻠㻥㻢 㻥㻣㻘㻢㻠㻝 ᦆ┈ 㻠㻘㻜㻝㻤 㻙㻟㻘㻝㻤㻣 㻙㻟㻘㻟㻡㻝 㻙㻝㻘㻥㻡㻜 㻙㻝㻞㻟 㻙㻠㻘㻡㻥㻟 ኎ୖ㧗 㻢㻢㻘㻡㻝㻥 㻞㻡㻘㻝㻜㻠 㻠㻠㻘㻟㻤㻡 㻝㻡㻘㻤㻢㻣 㻝㻘㻥㻝㻢 㻝㻡㻟㻘㻣㻥㻝 㻤᭶ ⥲ཎ౯ 㻢㻠㻘㻡㻠㻤 㻡㻡㻘㻥㻡㻣 㻠㻜㻘㻟㻞㻢 㻝㻡㻘㻝㻟㻝 㻝㻘㻥㻠㻡 㻝㻣㻣㻘㻥㻜㻣 ᦆ┈ 㻝㻘㻥㻣㻝 㻙㻟㻜㻘㻤㻡㻟 㻠㻘㻜㻡㻥 㻣㻟㻢 㻙㻞㻥 㻙㻞㻠㻘㻝㻝㻢 ኎ୖ㧗 㻢㻜㻘㻣㻟㻟 㻠㻝㻘㻥㻢㻝 㻥㻘㻢㻢㻞 㻝㻢㻘㻢㻜㻞 㻞㻘㻢㻜㻡 㻝㻟㻝㻘㻡㻢㻟 㻥᭶ ⥲ཎ౯ 㻡㻤㻘㻠㻜㻞 㻢㻠㻘㻣㻢㻜 㻥㻘㻥㻟㻥 㻞㻜㻘㻣㻣㻤 㻟㻘㻡㻠㻝 㻝㻡㻣㻘㻠㻞㻜 ᦆ┈ 㻞㻘㻟㻟㻝 㻙㻞㻞㻘㻣㻥㻥 㻙㻞㻣㻣 㻙㻠㻘㻝㻣㻢 㻙㻥㻟㻢 㻙㻞㻡㻘㻤㻡㻣 ኎ୖ㧗 㻠㻥㻘㻣㻝㻞 㻢㻝㻘㻥㻟㻤 㻞㻡㻘㻟㻞㻤 㻝㻡㻘㻤㻠㻣 㻞㻘㻤㻞㻤 㻝㻡㻡㻘㻢㻡㻟 㻝㻜᭶ ⥲ཎ౯ 㻠㻢㻘㻟㻠㻤 㻣㻜㻘㻞㻞㻢 㻟㻜㻘㻢㻤㻜 㻝㻠㻘㻣㻝㻟 㻞㻘㻥㻠㻠 㻝㻢㻠㻘㻥㻝㻝 ᦆ┈ 㻟㻘㻟㻢㻠 㻙㻤㻘㻞㻤㻤 㻙㻡㻘㻟㻡㻞 㻝㻘㻝㻟㻠 㻙㻝㻝㻢 㻙㻥㻘㻞㻡㻤 ኎ୖ㧗 㻠㻠㻘㻞㻡㻠 㻡㻞㻘㻣㻢㻞 㻝㻡㻘㻥㻤㻟 㻝㻤㻘㻠㻣㻣 㻝㻘㻤㻞㻜 㻝㻟㻟㻘㻞㻥㻢 㻝㻝᭶ ⥲ཎ౯ 㻠㻜㻘㻞㻢㻥 㻟㻤㻘㻤㻟㻢 㻞㻜㻘㻠㻢㻥 㻝㻤㻘㻡㻟㻠 㻝㻘㻥㻜㻜 㻝㻞㻜㻘㻜㻜㻤 ᦆ┈ 㻟㻘㻥㻤㻡 㻝㻟㻘㻥㻞㻢 㻙㻠㻘㻠㻤㻢 㻙㻡㻣 㻙㻤㻜 㻝㻟㻘㻞㻤㻤 ኎ୖ㧗 㻡㻣㻘㻣㻤㻠 㻝㻣㻘㻢㻝㻞 㻝㻠㻘㻠㻣㻡 㻝㻤㻘㻤㻞㻡 㻝㻘㻣㻢㻤 㻝㻝㻜㻘㻠㻢㻠 㻝㻞᭶ ⥲ཎ౯ 㻡㻠㻘㻠㻢㻜 㻟㻝㻘㻥㻜㻤 㻝㻢㻘㻜㻥㻜 㻝㻤㻘㻠㻣㻡 㻝㻘㻣㻜㻡 㻝㻞㻞㻘㻢㻟㻤 ᦆ┈ 㻟㻘㻟㻞㻠 㻙㻝㻠㻘㻞㻥㻢 㻙㻝㻘㻢㻝㻡 㻟㻡㻜 㻢㻟 㻙㻝㻞㻘㻝㻣㻠 ኎ୖ㧗 㻠㻤㻞㻘㻡㻥㻣 㻟㻞㻣㻘㻟㻢㻟 㻞㻤㻟㻘㻢㻜㻥 㻝㻠㻥㻘㻠㻡㻞 㻝㻢㻘㻣㻤㻜 㻝㻘㻞㻡㻥㻘㻤㻜㻝 ྜィ ⥲ཎ౯ 㻠㻡㻣㻘㻟㻞㻡 㻠㻝㻥㻘㻠㻢㻞 㻟㻜㻝㻘㻠㻝㻠 㻝㻡㻝㻘㻜㻡㻥 㻝㻤㻘㻟㻞㻝 㻝㻘㻟㻠㻣㻘㻡㻤㻝 ᦆ┈ 㻞㻡㻘㻞㻣㻞 㻙㻥㻞㻘㻜㻥㻥 㻙㻝㻣㻘㻤㻜㻡 㻙㻝㻘㻢㻜㻣 㻙㻝㻘㻡㻠㻝 㻙㻤㻣㻘㻣㻤㻜 ኎ୖ㧗 㻡㻟㻘㻢㻞㻞 㻟㻢㻘㻟㻣㻠 㻟㻝㻘㻡㻝㻞 㻝㻢㻘㻢㻜㻢 㻝㻘㻤㻢㻠 㻝㻟㻥㻘㻥㻣㻤 ᖹᆒ ⥲ཎ౯ 㻡㻜㻘㻤㻝㻥 㻠㻢㻘㻢㻜㻣 㻟㻟㻘㻠㻥㻜 㻝㻢㻘㻣㻤㻠 㻞㻘㻜㻟㻢 㻝㻠㻥㻘㻣㻟㻢 ᦆ┈ 㻞㻘㻤㻜㻟 㻙㻝㻜㻘㻞㻟㻟 㻙㻝㻘㻥㻣㻤 㻙㻝㻣㻤 㻙㻝㻣㻞 㻙㻥㻘㻣㻡㻤     [出所] 新潟鉄工所[1950d]。 要綱は「本緊急対策は、当社収益面の不均衡を是正するために月額最低15,000 千円程度の原価低減を実現せしむることを究局の目的とする」とし、本対策実 施の前提条件として、(1)「昭和二十四年度上期の『月間平均生産高』を絶対 に維持すること」、および(2)「本対策の遂行及その結果に付ては従来と異り、 工場或は個人に対し応分の『責任』が伴うべきこと」の二つが指摘された20) 対策として打ち出されたのは以下の8点であった。(1)加茂工場の閉鎖: 「従業員178名は可能なる範囲に於て新潟製作所に吸収する」、(2)人員整理: 「余剰人員の節減を目的として、加茂工場を除く全従業員の一割(約五八〇名) を目標に人員整理を行う。整理は機械的に行はず、新潟製作所(車輌、造船、 20) 以下、新潟鉄工所[1950c]による。

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表 4  工員実働率・間接費配賦率(1949 年 10・11 月) 䠄䠂䚸෇䠅 ᕤሙ 㒊㛛 䚷䚷䚷ᕤဨᐇാ⋡ 䚷䚷䚷㛫᥋㈝㓄㈿⋡ 㻝㻜᭶ 㻝㻝᭶ 㻝㻜᭶ 㻝㻝᭶ ᪂₲ 㐀⯪ 㻢㻢 㻢㻠 㻥㻠 㻤㻜 䚺 ㌴㍗ 㻡㻢 㻠㻥 㻝㻝㻜 㻝㻞㻡 䚺 ෆ⇞ᶵ 㻢㻞 㻡㻥 㻥㻤 㻤㻟 㛗ᒸ ᶵᲔ 㻠㻟 㻡㻜 㻝㻟㻤 㻝㻝㻝 䚺 ௙ୖ 㻞㻝 㻝㻢 㻞㻢㻢 㻟㻝㻠 㻣 㻣 㻝 㻣 Ე ᶵ ᓮ ᯽ 㻞 㻡 㻥 㻡 ୖ ௙ 䚺 ᾆ࿴ ᶵᲔ 㻡㻣 㻢㻤 㻝㻟㻟 㻝㻜㻣 䚺 ௙ୖ 㻣㻢 㻣㻤 㻤㻟 㻣㻥 㻥 㻥 㻥 㻜 㻝 㻟 㻢 Ე ᶵ ⱱ ຍ 㻠 㻢 㻤 㻣 㻟 㻤 ୖ ௙ 䚺 ⵦ⏣ ᶵᲔ 㻤㻠 㻤㻢 㻤㻢 㻤㻥 䚺 ௙ୖ 㻥㻝 㻤㻟 㻡㻤 㻣㻝 භ᪥⏫ 㻢㻝 㻢㻜 㻡㻠 㻡㻝 ᰠᓮ ᶵᲔ 㻢㻣 㻣㻞 㻥㻢 㻣㻡 䚺 ௙ୖ 㻥㻟 㻥㻢 㻣㻡 㻢㻞 [出所] 新潟鉄工所総務部監理課[1950]。 (注)(1)工員実働率=製造費部門配分表に付記された直接労働時間数/作業時間数(就業時間数)。 (2)間接費配賦率=製造間接費/直接労働時間。 製鋼等)或は長岡工場の如く、比較的多くの余剰生産能力を有する工場に付て は特に重点的に実施する」、(3)帰休及操短:「人員整理を行っても尚且、余剰 生産能力を有する工場或は職場に付ては、帰休制又は操業短縮を実施し、遊休 時賃金の徹底的節減を図る」、(4)給与の引下げ:「長岡、柏崎及六日町工場所 属従業員を除く全従業員に対し、現収入の『一割引下げ』を実施する」、(5)直 接作業時間の短縮:「生産技術の向上及工程管理の改善に依り、製品単位当り 直接作業時間を現行に対し、最低一割以上短縮する」、(6)製造間接費の節減: 「本店、全工場、出張所を通じ、間接労務費を除く間接費発生額を、自二十四年 十月同十二月平均月額に対し『一割二分』程度節減する」、(7)長岡及柏崎工 場対策:「此等両工場の最近に於ける操業状況に鑑み、何れか一方を閉鎖して、 他の工場に併合せしめる件に付ては、今後に於ける市況、生産事情、原価事情 を勘案し、遅くとも三ケ月後に最終的決定を行う」、(8)余剰設備の処分:「余 剰設備は出来得る限り早急に、思いきって売却又は処分する」。 以上の措置を実施した場合、①余剰人員の整理による間接労務費の節減は 4,988千円(8.6千円×580)、②給与引下げによる労務費の節減額は4,700千 円(47,000千円×0.1)、③間接労務費を除いた間接経費の節減額5,090千円

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(内訳は新潟3,450千円、長岡300千円、柏崎150千円、浦和500千円、蒲田 100千円、月島50千円、六日町20千円、本店480千円、大阪出張所40千円)、 以上合計14,778千円の節減が見込まれた。なお帰休、操短による賃金節約、設 備処分収入は推定困難としてここでは計上されなかった。 さらに「緊急対策要綱」は、「製造間接費配賦率は給与引下げ後の平均賃率 の『二倍』を超えてはならない」、「近い将来に於ける請負制度実施の前提条件 として、作業研究、時間研究を綿密且、広範囲に実施し、所要の資料を整備す る」、「間接費節減の実を挙げるため、本店、全工場等を通じ、統一された方法 に依る『予算統制』を実施する」、「全工場を通じて、原価計算制度を改善統一 し、関連事務の能率化と適切な経営能率診断資料の早期提出を図る。尚直接費 として『工号』に賦課し、節減を図るべき費用と、部門(工場、職場、部、課 等)の費用として項目毎に消費統制若くは支出抑制を行う費用とを明確に区分 し、従来の如く総ての費用を直接費化せんとする傾向を是正する」として、予 算統制、原価計算制度の改善統一、直接費の明確化などを求めた。 1950年3月2日の「緊急対策要綱」の決議を受けて、3月18日の臨時重 役会に提出された「緊急対策資料」は緊急対策を必要とする現状と対策の内容 についてくわしく解説した。同資料は、1949年10月∼50年1月期間の損失 金は28,961千円であり、4月以降の補給金撤廃による鋼材の値上がり、地方 税を中心とする租税負担の増加、資産再評価にともなう減価償却費の増大、再 評価益税の徴収など原価高の諸要素を考えるとき、「事態をこのまゝに放置せ んか企業の崩壊は必至である」との強い危機感に支えられて作成された資料で あった21) まず方針として、(1)経営規模の適正化(「縮小せられたる日本経済の規模に 即応すると共に、国際的自由競争の可能な程度の『低コスト』実現のため、経 営規模の適正化を設備及び労力の両面に就いて実施する」)、(2)生産原価の徹 底的節減(「従来原価切下げが強調せられては来たが、低減の実は殆んど挙っ て居ない。依って製造間接費を中心とする徹底的な原価節減を組織的に実行す 21) 新潟鉄工所[1950e]1 ページ。

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る」)、(3)責任体制の確立(「今次対策の実施に当っては、対策遂行の成果に 関し、職場(工場、部、課等)或は個人の責任を徹底的に追及し、信賞必罰を 明かにする方針である」)の3点が指摘された22) 対策として最初に掲げられたのが「余剰人員の整理」であり、「原価高の最 大原因は『間接労務費』にある。依って勤務成績不良なるもの、余剰間接工及 び社員、今後当分の間操業率の向上を期待し得ない職場の直接工を対象とし て」、新潟製作所で771名、長岡工場で79名、柏崎工場で13名、浦和工場で 10名、合計771名(総人員5,995名の13%)の整理が見込まれた。また帰休 制については新潟製作所車輌工場の約60名が最初の対象とされた。「直接作 業時間の短縮」に関しては、「設計の改善及び生産技術の向上、治工具の整備、 工程管理の改善等」によって5∼10%の短縮を目指すとされた23) 1950年3月作成と推定される別資料によると、「今回の整理に依り我々が目 途するものは間接労務費の節減である」、間接労務費に含まれるものは「イ.直 接工の遊休賃金 ロ.間接工の賃金 ハ.社員の給料」であり、表5にあるよう に49年11月∼50年2月の間接労務費は毎月2,200万円∼2,500万円台に達 した。これを1,300万円に圧縮することが今回の目標であった。整理対象は余 剰間接工(含む社員)および余剰直接工であり、従来の生産を維持するにはほ とんど支障を来さないと考えるが、作業能力が不足する場合は「加工外註」を 活用するとしていた24) 表 5  労務費の推移 䠄༓෇䠅 ෆヂ 㻝㻥㻠㻥ᖺ㻝㻝᭶ 㻝㻥㻠㻥ᖺ㻝㻞᭶ 㻝㻥㻡㻜ᖺ㻝᭶ 㻝㻥㻡㻜ᖺ㻞᭶ ᖹᆒ್ ┤᥋ປົ㈝ 㻝㻥㻘㻡㻠㻞 㻞㻜㻘㻢㻥㻤 㻝㻥㻘㻤㻜㻜 㻞㻞㻘㻤㻤㻥 㻞㻜㻘㻣㻟㻞 㛫᥋ປົ㈝ 㻞㻞㻘㻣㻤㻥 㻞㻟㻘㻡㻟㻠 㻞㻡㻘㻢㻜㻠 㻞㻞㻘㻜㻢㻟 㻞㻟㻘㻠㻥㻤 ⥲ྜ㒊㛛 㻤㻘㻟㻥㻜 㻥㻘㻜㻥㻢 㻥㻘㻟㻟㻟 㻤㻘㻡㻣㻜 㻤㻘㻤㻠㻣 ィ 㻡㻜㻘㻣㻞㻝 㻡㻟㻘㻟㻞㻤 㻡㻠㻘㻣㻟㻣 㻡㻟㻘㻡㻞㻞 㻡㻟㻘㻜㻣㻣     [出所] 新潟鉄工所[作成年不明 c]。 22) 同上。 23) 同上資料、2 ページ。 24) 新潟鉄工所[作成年月不明 c]。

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緊急対策が完全に効果を発揮するための条件として「緊急対策資料」が指摘 するのは次の5点であった。(1)本店機能の強化(「本店統括機能の強化を図 り、独立採算制の採用に依り一段と拍車をかけられた『地方(工場)分権主義』 の弊を是正する」)、(2)工場長会議の開催(「三月以降当分の間定期的に『工 場長会議』を開催し、本対策の実施状況如何を厳密に照査すると共に所要施策 の現場浸透を完璧ならしむる」)、(3)予算統制の実施、(4)「工場監査」の励 行(「本店監理課の権限と機能を強化して工場監査を励行し単に経理面のみな らず、工場経営全般に就き、各種隘路の発見とその早期解決を図る」)、(5)原 価計算制度の改善(「原価計算を、経営統制の要具たる本来の任務に回復せし めることゝする」)25)

3. その他の緊急対策

新潟鉄工所ではこれまでみてきたような緊急対策を実行に移しつつ、よりき めの細かい施策を展開しようとしていた。その内容が新潟鉄工所「生産原価切 下げ緊急対策」(昭和25年6月13日)からうかがわれるが、本資料は日本銀 行融資斡旋部にも提出された26) 直接作業時間の短縮を実現するために製品単位当たり工数を5∼10%短縮す るとされていたが、これを主要製品別にみると表6の通りであった。こうした 目標を実現するための技術的措置として「機械加工の改善」、「手作業の排除」、 「材料の改善」、「誤作の防止」があった。機械加工を改善するため、加工方法の 改善、新式工具の採用が行われ、新潟鉄工所の賠償工場にある遊休中の高能率 機械を操業工場に配置替して非能率機械を遊休させるなどの措置がとられた。 本件はGHQに許可申請中であったが、1950年6月時点で一部許可済で稼働 していた。また従来は手作業で行っていた摺合せ加工や磨き加工の一部を機械 加工に変え、遊休機械を専用機に改造することも計画された。さらに材料の改 善としては鋳造品および鍛造品の表面仕上げにサンド・ブラスト等を用いて改 善し、肉厚を制限して削り代を減少させ機械加工時間を短縮させることも考慮 25) 新潟鉄工所[1950e]5 ページ。 26) 新潟鉄工所[1950g]。同資料には「日本銀行融資斡旋部提出」と手書きで書き込まれている。

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表 6  直接作業時間の短縮 䠄᫬䚸䠂䠅 ᕤሙྡ 〇ရྡ 㐣ཤ䛾ᐇ⦼ ௒ᮇண᝿ ▷⦰⋡ 㻜 㻚 㻜 㻝 㻜 㻜 㻡 㻘 㻝 㻜 㻝 㻜 㻜 㻤 㻘 㻞 㻝 㻝 ⯪ ⁺ 㫎 䞁 䝖 㻡 㻟 㻝 ሙ ᕤ ⯪ 㐀 ᡤ స 〇 ₲ ᪂ 䚺䚷㐀ᶵᕤሙ 㻡㻜㻷㼃㧗ᅽ䜺䝇ᅽ⦰ᶵ 㻟㻘㻥㻟㻜 㻟㻘㻡㻡㻜 㻥㻚㻤 䚺䚷㌴㍗ᕤሙ 㻟➼㟁ືᐈ㌴䠄䝰䝝䠅 㻝㻤㻘㻞㻞㻜 㻝㻢㻘㻠㻠㻜 㻥㻚㻣 䚺䚷ෆ⇞ᶵᕤሙ 㻞㻝㻜㤿ຊ䝕䜱䞊䝊䝹ᶵ㛵 㻢㻘㻤㻝㻜 㻢㻘㻟㻞㻡 㻣㻚㻝 ᾆ࿴ᕤሙ 㻣㻡㤿ຊ䝕䜱䞊䝊䝹ᶵ㛵 㻠㻘㻜㻜㻢 㻟㻘㻢㻢㻜 㻤㻚㻡 㛗ᒸᕤሙ 㻢㻎㽢㻢㻎㽢㻢㻎䜴䜸䝅䞁䝖䞁䝫䞁䝥 㻞㻞㻣 㻝㻤㻥 㻝㻢㻚㻣 ᯽ᓮᕤሙ 㻝㻤❧▼Ἔ⨁⦕ᢡᶵ 㻝㻘㻝㻜㻥 㻤㻜㻤 㻞㻣㻚㻝 [出所] 新潟鉄工所[1950g]。 された。一方間接作業時間の短縮策としては、「クレーンの新設及諸運搬設備 の改善」、「設備機械の配置替(部品及製品の移動距離短縮)」などが想定され ていた27) 経営管理対策面の措置としては、「選択受註制の採用」(「従来激烈な競争と 工場操業度維持の為原価を無視した受註が行はれたのを是正し、工場予定原価 を限度として受註する原則を樹立する」)、「給与形態の変更」(「能率給の割合 を従来の19.1%より26・1%に引上げた。更に損益率を織込む事も考究して居 る。又近い将来請負給に転換すべく準備中である」)、「予算統制の実施」、「工 場監査の励行」、「本店機能の強化及工場管理部の簡素化」などの措置が指摘さ れた。その他にも褒賞制度の改善、本店・工場間の人事交流、新製品の研究、 不要設備の貸付処分などが検討されており、「新規機械の購入及び生産設備の 大改善等多額の資金を必要とする合理化計画は将来資金に余裕が出来た場合に 実施する予定である」とされた28) しかし1950年度の立ち上がりの状況は決して楽観を許さなかった。表7か ら1950年4月の売上損益をみると新潟製作所で黒字を計上しているのは内燃 機工場のみであり、柏崎工場、蒲田工場、月島工場、加茂工場、六日町工場は 黒字であったが、長岡工場、浦和工場は赤字であった。総損益は1,952万円の 赤字であり、事態は何ら改善していなかった。4月13日付『読売新聞』は「有 名な新潟鉄工所は昨年春から受注量の減少で人員整理を行つたがなお一ケ月一 27) 同上資料。 28) 同上。

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千万円以上赤字を出し本年三月分の給料は一人当り二千円支給しただけで賃金 ベース一五%引下げ問題でもめており29)」と報じ、新潟鉄工所の経営困難が全 国に知られるようになった。 表 7  売上損益(1950 年 4 月) 䠄༓෇䠅 ኎ୖ㧗 ⥲ཎ౯ ᦆ┈ 㻢 㻟 㻣 㻘 㻝 㻠 㻢 㻥 㻘 㻜 㻟 㻜 㻜 㻣 㻘 㻞 㻟 ሙ ᕤ ᶵ ⇞ ෆ 㻥 㻡 㻝 㻘 㻠 㻤 㻤 㻢 㻘 㻝 ㌴ 㟁 ᐈ 䞉 ሙ ᕤ ㍗ ㌴ 㻙㻞㻘㻠㻣㻝 㻟 㻥 㻟 㻘 㻠 㻝 㻞 㻢 㻠 㻘 㻝 㻝 ௚ 䛾 䛭 䚷 䚺 㻙㻞㻘㻥㻟㻝 㻞 㻡 㻡 㻘 㻤 㻝 㻜 㻡 㻝 㻘 㻟 㻝 ィ ᑠ 䚷 䚺 㻙㻡㻘㻠㻜㻞 㻡 㻤 㻝 㻘 㻤 㻞 㻡 㻤 㻤 㻘 㻤 㻝 ⯪ 㐀 ᪂ 䞉 ሙ ᕤ ⯪ 㐀 㻙㻥㻘㻟㻜㻜 㻢 㻣 㻢 㻘 㻥 㻣 㻠 㻤 㻘 㻤 ⌮ ಟ ⯪ 㐀 䚷 䚺 㻙㻤㻞㻥 㻞 㻣 㻢 㻘 㻞 㻝 㻡 㻟 㻢 㻘 㻝 㻝 ᶵ 㐀 䚷 䚺 㻙㻝㻘㻜㻟㻣 㻟 㻟 㻡 㻘 㻜 㻡 㻣 㻡 㻟 㻘 㻥 㻟 ィ ᑠ 䚷 䚺 㻙㻝㻝㻘㻝㻣㻢 㻜 㻜 㻜 㻣 㻘 㻝 㻜 㻜 㻣 㻘 㻝 䠅 እ ♫ 䠄 ሙ ᕤ 㗰 〇 ᪂₲〇సᡤ䞉ᑠィ 㻤㻢㻘㻥㻜㻣 㻝㻜㻝㻘㻣㻠㻥 㻙㻝㻠㻘㻤㻠㻞 㻤 㻥 㻤 㻘 㻢 㻢 㻢 㻤 㻘 㻢 ᒸ 㛗 㻙㻟㻞 㻝 㻠 㻞 㻝 㻠 㻘 㻡 㻟 㻡 㻠 㻘 㻡 ᓮ ᯽ 㻟 㻟 㻜 㻘 㻞 㻝 㻜 㻢 㻣 㻘 㻝 㻝 ࿴ ᾆ 㻙㻞㻣㻟 㻠 㻤 㻞 㻢 㻢 㻥 㻘 㻝 㻜 㻡 㻞 㻘 㻞 ෆ ♫ 䞉 ⏣ ⵦ 㻥 㻠 㻡 㻝 㻡 㻥 㻘 㻞 㻜 㻜 㻡 㻘 㻟 እ ♫ 䚷 䚺 㻡 㻤 㻟 㻡 㻝 㻝 㻘 㻡 㻜 㻜 㻡 㻘 㻡 ᓥ ᭶ 㻜 㻢 㻜 㻠 㻥 㻘 㻟 㻜 㻜 㻜 㻘 㻠 ⱱ ຍ 㻥 㻠 㻣 㻝 㻥 㻢 㻜 㻠 㻠 㻘 㻝 䠅 ෆ ♫ 䠄 ⏫ ᪥ භ 㻟 㻟 㻜 㻘 㻝 㻣 㻡 㻢 㻘 㻞 㻜 㻥 㻢 㻘 㻟 ィ ෆ ♫ 㻤 㻥 㻜 㻘 㻤 㻟 㻝 㻢 㻤 㻥 㻘 㻟 㻞 㻝 ィ እ ♫ 㻙㻝㻠㻘㻝㻝㻞 ྜィ 㻝㻞㻣㻘㻢㻣㻢 㻝㻠㻜㻘㻣㻡㻡 㻙㻝㻟㻘㻜㻣㻥 㻕 㻡 㻤 㻣 㻘 㻟 㻝 㻔 㻕 㻜 㻤 㻢 㻘 㻞 㻝 㻔 䠅 ෆ ᡤ 䠄 㗰 〇 㻙㻝㻘㻝㻜㻡 ᦆኻྜィ 㻙㻝㻠㻘㻝㻤㻠 ῶ౯ൾ༷㈝ཬ⛒⛯㈇ᢸቑຍ㢠 㻙㻡㻘㻟㻟㻣 ᕪᘬ⥲ᦆ┈ 㻙㻝㻥㻘㻡㻞㻝       [出所] 新潟鉄工所[1950f]。 また1950年度から投入された国鉄の湘南電車の車輌メーカー別原価実績を みた表8によると、他社と比較した新潟鉄工所の製造原価高は明らかであり、 それが加工費の割高に起因していることがわかる。作業時間の長さに象徴され る新潟鉄工所(この場合は新潟製作所車輌工場)の工場改革が求められていた のである。

4. 1950 年上期における労働争議の推移

先の緊急対策要綱をもとに1950年3月21日に会社側は運営協議会(経営 29) 「深刻な給料遅欠配」[1950]。

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表 8  湘南電車原価実績(1 台当たり) 䠄༓෇䠅 㡯┠ ᪂₲㕲ᕤᡤ ᪥ᮏ㌴㍗〇㐀 ᪥ᮏ㌴㍗〇㐀 ᕝᓮ㌴㍗ Ỷ㌴〇㐀 ᖇᅜ㌴㍗ ᪥❧〇సᡤ ㏆␥㌴㍗ 䠄ᮏᗑ䠅 䠄ᨭᗑ䠅 ᮦᩱ㈝ 㻝㻘㻤㻢㻥 㻝㻘㻤㻢㻜 㻝㻘㻤㻠㻥 㻝㻘㻥㻢㻡 㻝㻘㻤㻡㻣 㻝㻘㻥㻡㻜 㻞㻘㻜㻜㻜 㻞㻘㻝㻝㻜 ຍᕤ㈝ 㻟㻘㻣㻢㻜 㻞㻘㻞㻣㻠 㻟㻘㻜㻡㻥 㻟㻘㻞㻜㻞 㻞㻘㻞㻜㻠 㻞㻘㻢㻡㻜 㻞㻘㻝㻤㻡 㻞㻘㻤㻜㻟 ┤᥋⤒㈝ 㻝㻞㻤 㻝㻤㻣 㻠㻢 㻤㻡 㻝㻥㻢 㻟㻠㻝 㻣㻥 㻝㻠 〇㐀ཎ౯ 㻡㻘㻣㻡㻣 㻠㻘㻟㻞㻝 㻠㻘㻥㻡㻠 㻡㻘㻞㻡㻞 㻠㻘㻞㻡㻣 㻠㻘㻥㻠㻝 㻠㻘㻞㻢㻠 㻠㻘㻥㻞㻣 ୍⯡⟶⌮㈍኎㈝ 㻠㻜㻟 㻠㻞㻝 㻟㻞㻠 㻢㻜㻠 㻠㻜㻜 㻣㻠㻝 㻠㻡㻥 㻢㻞㻢 ྜィ 㻢㻘㻝㻢㻜 㻠㻘㻣㻠㻞 㻡㻘㻞㻣㻤 㻡㻘㻤㻡㻢 㻠㻘㻢㻡㻣 㻡㻘㻢㻤㻞 㻠㻘㻣㻞㻟 㻡㻘㻡㻡㻟 సᴗ᫬㛫 㻞㻡㻘㻟㻟㻜 㻞㻜㻘㻠㻠㻟 㻞㻜㻘㻝㻡㻢 㻞㻞㻘㻢㻠㻟 㻝㻥㻘㻝㻣㻠 㻞㻝㻘㻡㻢㻣 㻝㻠㻘㻥㻣㻡 㻞㻜㻘㻤㻣㻥 ຍᕤ㈝⋡ 㻝㻠㻤㻚㻠㻠 㻝㻝㻝㻚㻞㻠 㻝㻡㻝㻚㻣㻣 㻝㻠㻝㻚㻠㻝 㻝㻝㻠㻚㻥㻡 㻝㻞㻞㻚㻤㻣 㻝㻠㻡㻚㻥㻝 㻝㻟㻠㻚㻞㻡 ᮦᩱ㈝ 㻝㻘㻤㻥㻜 㻝㻘㻢㻤㻡 㻝㻘㻡㻤㻞 㻝㻘㻢㻞㻟 㻝㻘㻢㻤㻡 㻝㻘㻥㻜㻝 㻝㻘㻤㻤㻠 ຍᕤ㈝ 㻟㻘㻤㻢㻟 㻞㻘㻟㻥㻡 㻟㻘㻜㻤㻥 㻟㻘㻟㻥㻡 㻞㻘㻡㻠㻟 㻞㻘㻠㻠㻟 㻞㻘㻝㻤㻡 ┤᥋⤒㈝ 㻤㻞 㻞㻜㻤 㻟㻤 㻥㻟 㻞㻣㻝 㻞㻠㻞 㻣㻡 〇㐀ཎ౯ 㻡㻘㻤㻟㻡 㻠㻘㻞㻤㻤 㻠㻘㻣㻜㻥 㻡㻘㻝㻝㻝 㻠㻘㻠㻥㻥 㻠㻘㻡㻤㻢 㻠㻘㻝㻠㻠 ୍⯡⟶⌮㈍኎㈝ 㻠㻜㻤 㻠㻝㻤 㻟㻜㻥 㻡㻤㻤 㻠㻞㻟 㻢㻤㻤 㻠㻟㻡 ྜィ 㻢㻘㻞㻠㻟 㻠㻘㻣㻜㻢 㻡㻘㻜㻝㻤 㻡㻘㻢㻥㻥 㻠㻘㻥㻞㻞 㻡㻘㻞㻣㻠 㻠㻘㻡㻣㻥 సᴗ᫬㛫 㻞㻢㻘㻜㻥㻜 㻞㻜㻘㻣㻢㻡 㻞㻝㻘㻤㻤㻜 㻞㻟㻘㻡㻟㻝 㻞㻜㻘㻟㻜㻞 㻞㻝㻘㻟㻞㻡 㻝㻠㻘㻟㻜㻜 ຍᕤ㈝⋡ 㻝㻠㻤㻚㻜㻢 㻝㻝㻡㻚㻟㻠 㻝㻠㻝㻚㻝㻤 㻝㻠㻠㻚㻞㻤 㻝㻞㻡㻚㻞㻢 㻝㻝㻠㻚㻡㻢 㻝㻡㻞㻚㻤㻜 [出所] 新潟鉄工所[作成年不明 d]。 (注)(1)加工費率=加工費/作業時間。 (2)上段はモハ、下段はクハ。 協議会を改称)の場においてはじめて「生産原価引下げに関する方策」6項目 を組合側に提示した。(1)人員整理:「全従業員の中約一、〇〇〇名を整理す る」、(2)給与の1割5分引下げ、(3)帰休制度の採用、(4)間接費発生額の 節減、(5)作業能率の向上、(6)工場の閉鎖及併合のうち、(3)から(6)は 先にみた緊急対策要綱とほぼ同じ内容であったが、人員整理の規模は金融対策 要綱の580人、さらに「緊急対策資料」の771人を大きく上回る約1,000人、 給与引下げも1割ではなく、1割5分とより厳しい内容となっていた30) 4月3日から連合運営協議会が開催されたが、組合側は生産原価の引き下げ 以外のすべての項目に反対し、昨年の人員整理に際して「社長は今後かゝる事 のない様に充分考慮すると約束したにも拘はらず今日又此の様な案を出された 事は(ママ)憤満に耐えない」として強く反発した31) 会社側は5月4日の会議の冒頭、社長退任の意思を組合側に伝え、同月27 日に長島社長は正式に退任した32)。しかし 5月24日に組合はストライキを敢 30) 新潟鉄工所労働組合史編纂委員会編[1953]117-118 ページ。 31) 同上書、121 ページ。 32) 1952 年に没した長島への追悼文のなかで金田健太郎は以下のように記した。「長島さんの人柄 を一言にしていえば『質実』という語につきるだろうと思う。(中略)長島さんのこの性格が鉄

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行した33) 5月30日に会社側は(1)人員整理:「既定方針によつて実施する」、 (2)賃金切り下げ:「今後も交渉を続行するが万一交渉不成立の場合は」は整 理人員の追加を行う、(3)帰休制度、(4)加茂工場閉鎖、(5)長岡、柏崎工場 合併の5項目を通告し、人員整理について受諾の回答がない場合は「独自に処 置せざるを得ない」とした。これに対して組合は「第一項人員整理に対しては 飽く迄も撤回を要求する」、(2)∼(5)に対しては「会社に於て各項につき誠 意を以つて交渉を希望するならばそれに応ずる用意がある」の回答を行った。 これを受けて会社側は6月1日から3日間の臨時休業を発表するとともに、同 日の第5回団交において退職者(個人通告858人、希望退職149人)の発表 を行った34) また組合のなかでも急進的であった浦和工場の労働組合は新潟鉄工所労働 組合連合会を脱退して、単独行動をとった。他の工場の労働組合は六日町工場 の閉鎖問題は別個に取り扱うとして、6月17日にようやく妥結し、協定が成 立した。これによって在籍人員5,967名のうち希望退職者を含む1,376名の人 員整理が断行され、一方で工場の廃止と合併は撤回された35) 浦和工場の争議は長期化し、7月1日に会社側は警察官の出動要請を行い、 8月9日にはロックアウトを実施し、平常作業に戻ったのは9月1日であっ た36)。浦和工場労働組合が労働組合連合会に復帰するのは 51年5月であっ た。2回目の人員整理資金も借り入れに頼らざるを得ず、日本勧業銀行、第四 工所の今日の社風を作つたともいゝ得ると思う」、「大東亜戦争時代に軍部から非常な強圧をもつ て工場の増設を強制せられた時、独り敢然として増設の抑制をしたのは外ならぬ長島さんであっ た。(中略)あれを軍の要求のまゝに命にこれ従つていたら、戦後の収拾と復元とはもつと困難 であつたかも知れない」、「技術の面でも、商売の面でも、世間から『新潟は堅い』という信用を 博した所以だと私は思う。唯こういうよい一面に反して、近代の科学的経営に関する進歩した方 法を採用することが遅れたことは、これまたその欠点といわなければならない。われわれはこう いうよい面をどこまでもこれを助長してゆくと同時に、常に時代の進歩に遅れないように、進 歩した科学的経営を進取的態度をもつて推進してゆかなければならないと信じる」(金田美子編 [1959]21-24 ページ)。 33) 社史編纂委員会編[1996]141 ページ。 34) 新潟鉄工所社史編纂委員会編[1968]124-126 ページ。 35) 同上書、131、141-142 ページ。 36) 社史編纂委員会編[1996]141 ページ。

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銀行、北越銀行に加えて富士銀行、三井銀行、第一銀行からの融資を受けた。 「ドッジ・ライン以来の不振から立直るため、当社は勧銀を主力とする協調融 資一億六千万円を得たが、この前提として、二十四年、二十五年の再度に亙る 合理化、人員整理を実施し37)、新潟鉄工所は日本勧業銀行との関係を深めた。 争議解決の見通しがついた50年8月の重役会と臨時株主総会の決議によって、 空席であった社長には倉井敏麿を日本勧業銀行から、増員の監査役には長谷川 轍を第四銀行からそれぞれ迎えた38) 50年上期(9月期)決算では人員整理 資金、争議による欠損、不良資産の整理などによって1億3,200万円余の欠損 金を計上したが、これは再評価積立金、法定準備金および別途積立金を取り崩 して填補された39)

5. 1950・51 年度の経営推移─朝鮮戦争の影響

会社業績は1950年9月期が底であった。前掲表1にあるように同期の売上 高が6億8,539万円(1億3,200万円の欠損)であったのに対し、51年3月 期10億4,619万円(当期利益は2,276万円)、51年9月期14億8,953万円 (8,432万円)、52年3月期18億419万円(1億5,067万円)と急増し40) 51 年上期には3期連続無配であった株式配当を復活し、1割5分の復配を行うこ とができた。51年12月に新潟鉄工所は社債発行を計画し、日本銀行との数次 にわたる交渉の結果、52年1月に1億円の社債を発行することができた41)。 1950年上期の決算報告書は同期を「前期以来引続いた国内経済の不況沈滞 37) 「合理化の遅れた新潟鉄工所」[1953]111 ページ。 38)「倉井現社長は、勧銀理事から公取委員を歴任した人、勧銀の推薦で当社入りした。その前、篠 田栄三郎氏が、勧銀在籍のまゝ当社に派遣され、債権の監視旁々、当社の経理重役を担当してい た。同氏が勧銀に復帰したあとは、寺沢一郎氏が、勧銀取締役を辞任、当社常務に入つている。 また倉井社長就任とゝもに、勧銀事業金融部次長羽深知治氏が、原籍のまゝ当社へ派遣され、現 在取締役経理部長をやつているが、当社の経営は完全に勧銀系がおさえるに至つている」、「当社 は、新潟に主力工場を持つ関係で、第四、北越の地方銀行とのつながりが続いており、北越から は取締に山口順太郎氏、第四からは監査に長谷川轍氏が当社に入つている。勧銀としても、やゝ やり難い点があろう」と評された(「合理化の遅れた新潟鉄工所」[1953]111 ページ)。 39) 以上、新潟鉄工所社史編纂委員会編[1968]131-132、144-147 ページによる。 40) 同上書、巻末資料 16 ページ。 41) 同上書、132 ページ。

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は愈々深刻化し、機械工業は終戦以来最も厳しい苦境に立ち至つた」と認識 していたが、「朝鮮事変勃発後は機械工業界の基調は一変して上昇の傾向を辿 り、且つ当社の経営再建方策が実施に移された事が重なり合い、一年有余の苦 心が酬われて期末には頗る明るい見通しと有利な受注に恵まれた42)」と結論 付けた。 前掲表1から1950年下期(50年10月∼51年3月期)の売上高をみると、 内燃機関、化工機、車輌の躍進が著しいが、内燃機関では「舶用は海上保安庁 及び大洋漁業等の一流漁業家の註文に忙殺され、陸用はパキスタン、沖縄向発 電用及び輸出船の補機用等主として輸出品の生産に繁忙を来し、又特需として は横須賀海軍基地に部分品を短期間に納入して嘉賞せられ」、産業用諸機械で は「前期に引続き石油関係及び化学工業用機械並びに鉄鋼業用機械の受註及び 生産は活発に行われ、この部門は当社の首位を占めるに至つた」。さらに車輌 では「国有鉄道の横須賀線電車、特別二等車、三等客車等十三輌の外、当社の 伝統的製品たるタンク車を民間会社へ多数納入したのを始めとし、シヤムへ貨 車三十輌、特需として韓国向貨車五十輌を納入した(中略)昨年大幅に従業員 を整理した車輌工場としては相当の生産をあげた」43) 先に見たように新潟製作所の工作機械工場および三条分工場は賠償工場に 指定された。そこで新潟工作機械工場を廃止して造機工場に合併して工機部と し、内燃機関の部品生産を担当したが、これは賠償指定中であっても管理を十 全に行うと機械使用を認められていたためであった。しかし朝鮮戦争ブームの 影響から工作機械需要が増大したため、51年6月に新潟工作機械工場を復活 させることになった44) 1951年上期に新潟鉄工所の業績は飛躍的に上昇した。受注高14億352万 円、売上高14億8,953万円(前期比42%増)、純利益金8,430万円(前期比 270%増)を記録した。また51年4月に本社組織の大改正が実施され、徹底的 な中央集権制を採用し、工場は本社の生産命令に従って指定された原価で生産 42) 新潟鉄工所[1950b]、「営業概要」。 43) 以上、新潟鉄工所[1951a]、「営業概要」。 44) 新潟鉄工所社史編纂委員会編[1968]156 ページ。

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を行い、販売責任は本社が負う体制の構築が目指された45) 前掲表1に示されているように1951年上期売上高で最大のシェアを占めた 内燃機関では「主なる需要先は、国内では海上保安庁その他官公庁方面あるい は各造船所、輸出ではパキスタン、シヤム等」であり、売上高第2位の車輌で は「今期の生産高は客電車22輌、貨車278輌で、設備能力からみれば決して 満足すべきものではありませんが、前期に比較すればこれまた70%の飛躍的 増加となつています。輸出は鋼材その他材料費の高騰に影響されて不振であり ましたが、特需としては韓国向タンク車36輌の納入があ」った46) 1951年下期も好調は持続した。先にみたように同期の売上高は18億419 万円、当期利益は1億5,067万円であった。前掲表1に示されているように 売上高シェアは内燃機関、船舶、車輌の順であり、内燃機関では「昨年秋以降 の電力不足により発電用ディーゼルの需要が激増し、陸用内燃機関の売上高は 前期の三倍余という好成績をあげました。舶用内燃機関は漁業界の不振と資金 の逼迫によりやゝ減退をみせましたが、海上保安庁へ高速ディーゼルを相当数 納入」した。船舶では「前々期に受註した海上保安庁の巡視船3隻が今期竣 工引渡されたため、その売上高は40,000万円余に達し船舶関係では戦後最高 の数字を記録し」、車輌では「受註の大部分を国鉄に依存しているこの部門は、 国鉄の発註が上期において多く下期において少ない関係上充分伸びることがで きませんでしたが、私鉄その他の受註により若干持直すことができました」と いった状況であった47) 一方懸案の社工員身分撤廃は1949年6月の中央労働委員会の調停案にもと づいて妥結し、50年7月に社工員一本の給与形態が制定された。具体的には 新本給(月給)は月給者(現月給+社員調整額)、日給月給者(現日給×30+ 社員調整額)、日給者(現日給×25.4)、時給者(現時給×203)に分かれた。 基準賃金の内訳をみると、48年12月には本給が全体の40.5%、能率手当が 15.7%であったが、50年12月には能率手当の増額によって本給31.1%、能率 45) 同上書、159、163-164 ページ。 46) 新潟鉄工所[1951b]、「営業の概況」。 47) 新潟鉄工所[1952]、「営業の概況」。

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手当30.9%となった48)。 1950年∼52年上期の新潟鉄工所の経営動向について、『ダイヤモンド会社 要覧』各版は次のように評している。1950年上期については「本年七月、総員 の二割四分千四百名の人員を整理。最近漸く再建の緒についた。内燃機部門は 成績良好だが車輌及び造船は引続き不振、為に内燃機の利益は喰われる49)」、 51年上期は「会社内部の合理化と事業環境の好転とで各種部門共に成績は良 くなつた。従来、弱点であつた設備面には補強を施し、内容も改善されつゝあ る50) 51年下期は「昨年(51年─引用者注)下期以降業績は急好転。事業環 境が良くなつたためと、合理化が実を結んだため」51)52年上期は「つい一、 二年前までは設備、内容経営組織のいずれもが荒れ果てた会社であつた。それ が、最近、非常に改善された。もともと暖簾がなく、技術の優れた会社であつ た。だが、長い間の因襲に捉われ、惰性のまゝの経営を行つていた。不況の時 には、業績が極端に落るのは当然。当社は経営陣の更迭でこの欠点を補つた。 加えて事業環境が好転、成績は良くなつた。此収益はあげて設備内容の改善に 振向けられた52)」。 1949年と50年の2度の人員整理、朝鮮戦争の勃発による事業環境の好転、 生産技術面での合理化推進、本社管理機構の強化などを経た新潟鉄工所を、『ダ イヤモンド会社要覧』は「惰性のまゝの経営を行つていた」「荒れ果てた会社」 が「非常に改善された」と高く評価したのである。

おわりに

戦時期に総合機械メーカーとして成長した新潟鉄工所であったが、戦後復興 期の歩みは平坦なものではなかった。工場の賠償指定、インフレーションの高 進、労働運動への対応など困難な課題が山積していた。1949年に入るとドッ ジデフレの影響を受けて資金繰りが極度に悪化するが、その要因の一つが政府 48) 新潟鉄工所社史編纂委員会編[1968]174 ページ。 49) ダイヤモンド社編[1950]161 ページ。 50) ダイヤモンド社編[1951]216 ページ。 51) ダイヤモンド社編[1952a]250 ページ。 52) ダイヤモンド社編[1952b]266 ページ。

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予算の削減に規定された基軸製品の一つである鉄道車輌受注の激減であった。 49年8月には従業総数の約2割に相当する1,327名が解雇された。経営改善 を主導した金田健太郎専務取締役は体系的な改善策を用意して困難な状況に当 たったが目立った成果を上げることはできなかった。 1950年3月に常勤重役会において「緊急対策要綱」が決議されたが、その 狙いは水膨れした経営規模を適正化し、生産原価を徹底的に節減し、責任体制 を確立することであった。しかし50年度に入っても予断を許さない状況が続 き、同年4月の売上損益をみると基幹事業所である新潟製作所で黒字を計上し ているのは内燃機工場のみであった。49年8月に続いて50年3月に約1,000 名の人員整理案が経営側から提起されると労働組合は強く反発し、5月には長 島吉次郎社長が辞任した。6月には在籍人員5,967名のうち希望退職者を含む 1,376名の人員整理が断行され、急進的な浦和工場の争議は長期化し、平常作 業に戻ったのは9月1日だった。 新潟鉄工所の経営の底は1950年9月期であった。以後朝鮮戦争の影響を受 けて同所の業績は急速に回復・改善し、51年上期には1割5分の復配を行う ことができた。50年下期の売上では内燃機関、化工機、鉄道車輌の躍進が著 しかった。こうした事業環境の好転だけでなく、厳しい予算制約の下で進めら れた生産技術の合理化、本社管理機構の強化、日本勧業銀行からの援助に支え られて新潟鉄工所は次の発展を展望できるようになったのである。 参考文献 「解決の望みなし 汽車会社の工場閉鎖 労使対立」[1950]『日刊工業新聞』1950 年 5 月 8 日。 金田健太郎[1949]「人員整理から技術面へ」(『実業の日本』1949 年 11 月号)。 金田美子編[1959]『金田健太郎遺稿集』私家版。 「合理化の遅れた新潟鉄工所」[1953](『東洋経済新報』1953 年 10 月 24 日号)。 社史編纂委員会編[1996]『新潟鉄工所 100 年史』新潟鉄工所。 「深刻な給料遅欠配」[1950]『読売新聞』1949 年 4 月 13 日。 ダイヤモンド社編[1950]『ダイヤモンド会社要覧』昭和 26 年版。

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ダイヤモンド社編[1951]『ダイヤモンド会社要覧』昭和 27 年版。 ダイヤモンド社編[1952a]『ダイヤモンド会社要覧』昭和 27 年後期版。 ダイヤモンド社編[1952b]『ダイヤモンド会社要覧』昭和 28 年前期版。 新潟鉄工所[1948]『株式会社新潟鉄工所 新潟製作所案内書』。 新潟鉄工所[1949a]『第七十六回決算報告書』。 新潟鉄工所[1949b]『第七十七回決算報告書』。 新潟鉄工所[1950a]『第七十八回決算報告書』。 新潟鉄工所[1950b]『第七十九回決算報告書』。 新潟鉄工所[1950c]「緊急対策要綱」昭和 25 年 3 月 2 日。 新潟鉄工所[1950d]「売上高収支総括表」昭和 25 年 3 月 6 日。 新潟鉄工所[1950e]「緊急対策資料」昭和 25 年 3 月 18 日。 新潟鉄工所[1950f]「売上損益予想表」昭和 25 年 5 月 2 日。 新潟鉄工所[1950g]「生産原価切下げ緊急対策」昭和 25 年 6 月 13 日。 新潟鉄工所[1951a]『第八十回決算報告書』。 新潟鉄工所[1951b]『第八十一期営業報告書』。 新潟鉄工所[1952]『第八十二期営業報告書』。 新潟鉄工所[作成年月不明 a]『沿革史作成資料 1』。 新潟鉄工所[作成年月不明 b]「24/4 月∼25/3 月 資金繰実績表」。 新潟鉄工所[作成年月不明 c]「人員整理と生産高との関連に就て」。 新潟鉄工所[作成年月不明 d]「湘南電車原価実績」。 新潟鉄工所社史編纂委員会編[1968]『新潟鉄工所七十年史』。 新潟鉄工所総務部監理課[1950]「工員実働率及間接費配賦率比較表」昭和 25 年 1 月 7 日。 新潟鉄工所労働組合史編纂委員会編[1953]『労働組合史』。

表 3  売上品収支総括表(1949 年 4 月〜12 月) 䠄༓෇䠅 ᭶ 㡯┠ ෆ⇞ᶵ㛵 ㌴㍗ 㐀⯪ ㅖᶵᲔ 〇㗰 ྜィ ኎ୖ㧗 㻡㻝㻘㻢㻜㻤 㻢㻝㻘㻝㻣㻢 㻠㻢㻘㻜㻣㻜 㻝㻢㻘㻜㻝㻟 㻝㻘㻜㻤㻝 㻝㻣㻡㻘㻥㻠㻤 㻝㻥㻠㻥ᖺ㻠᭶ ⥲ཎ౯ 㻡㻜㻘㻜㻤㻝 㻣㻞㻘㻜㻢㻠 㻠㻤㻘㻠㻡㻠 㻝㻡㻘㻝㻢㻣 㻝㻘㻡㻜㻟 㻝㻤㻣㻘㻞㻢㻥 ᦆ┈ 㻝㻘㻡㻞㻣 㻙㻝㻜㻘㻤㻤㻤 㻙㻞㻘㻟㻤㻠 㻤㻠㻢 㻙㻠㻞㻞 㻙㻝㻝㻘㻟㻞㻝 ኎ୖ㧗 㻠㻟㻘㻠㻢㻠 㻠㻝㻘㻝㻢㻜 㻝㻜㻝㻘㻟㻜㻤 㻝㻢㻘㻣㻢㻢 㻤㻠㻥 㻞㻜㻟㻘㻡㻠㻣 㻡᭶ ⥲ཎ౯ 㻟
表 4  工員実働率・間接費配賦率(1949 年 10・11 月) 䠄䠂䚸෇䠅 ᕤሙ 㒊㛛 䚷䚷䚷ᕤဨᐇാ⋡ 䚷䚷䚷㛫᥋㈝㓄㈿⋡ 㻝㻜᭶ 㻝㻝᭶ 㻝㻜᭶ 㻝㻝᭶ ᪂₲ 㐀⯪ 㻢㻢 㻢㻠 㻥㻠 㻤㻜 䚺 ㌴㍗ 㻡㻢 㻠㻥 㻝㻝㻜 㻝㻞㻡 䚺 ෆ⇞ᶵ 㻢㻞 㻡㻥 㻥㻤 㻤㻟 㛗ᒸ ᶵᲔ 㻠㻟 㻡㻜 㻝㻟㻤 㻝㻝㻝 䚺 ௙ୖ 㻞㻝 㻝㻢 㻞㻢㻢 㻟㻝㻠 㻣㻣㻝㻣Ეᶵᓮ᯽ 㻞㻡㻥㻡ୖ௙䚺 ᾆ࿴ ᶵᲔ 㻡㻣 㻢㻤 㻝㻟㻟 㻝㻜㻣 䚺 ௙ୖ 㻣㻢 㻣㻤 㻤㻟 㻣㻥 㻥㻥㻥㻜㻝㻟㻢Ეᶵⱱຍ 㻠㻢㻤㻣㻟㻤ୖ௙䚺 ⵦ⏣ ᶵᲔ
表 6  直接作業時間の短縮 䠄᫬䚸䠂䠅 ᕤሙྡ 〇ရྡ 㐣ཤ䛾ᐇ⦼ ௒ᮇண᝿ ▷⦰⋡ 㻜㻚㻜㻝㻜㻜㻡㻘㻝㻜㻝㻜㻜㻤㻘㻞㻝㻝⯪⁺㫎䞁䝖㻡㻟㻝ሙᕤ⯪㐀ᡤస〇₲᪂ 䚺䚷㐀ᶵᕤሙ 㻡㻜㻷㼃㧗ᅽ䜺䝇ᅽ⦰ᶵ 㻟㻘㻥㻟㻜 㻟㻘㻡㻡㻜 㻥㻚㻤 䚺䚷㌴㍗ᕤሙ 㻟➼㟁ືᐈ㌴䠄䝰䝝䠅 㻝㻤㻘㻞㻞㻜 㻝㻢㻘㻠㻠㻜 㻥㻚㻣 䚺䚷ෆ⇞ᶵᕤሙ 㻞㻝㻜㤿ຊ䝕䜱䞊䝊䝹ᶵ㛵 㻢㻘㻤㻝㻜 㻢㻘㻟㻞㻡 㻣㻚㻝 ᾆ࿴ᕤሙ 㻣㻡㤿ຊ䝕䜱䞊䝊䝹ᶵ㛵 㻠㻘㻜㻜㻢 㻟㻘㻢㻢㻜 㻤㻚㻡 㛗ᒸᕤሙ 㻢㻎㽢㻢㻎㽢㻢㻎䜴䜸䝅䞁䝖䞁䝫䞁䝥 㻞㻞㻣 㻝㻤㻥 㻝㻢㻚㻣
表 8  湘南電車原価実績(1 台当たり) 䠄༓෇䠅 㡯┠ ᪂₲㕲ᕤᡤ ᪥ᮏ㌴㍗〇㐀 ᪥ᮏ㌴㍗〇㐀 ᕝᓮ㌴㍗ Ỷ㌴〇㐀 ᖇᅜ㌴㍗ ᪥❧〇సᡤ ㏆␥㌴㍗ 䠄ᮏᗑ䠅 䠄ᨭᗑ䠅 ᮦᩱ㈝ 㻝㻘㻤㻢㻥 㻝㻘㻤㻢㻜 㻝㻘㻤㻠㻥 㻝㻘㻥㻢㻡 㻝㻘㻤㻡㻣 㻝㻘㻥㻡㻜 㻞㻘㻜㻜㻜 㻞㻘㻝㻝㻜 ຍᕤ㈝ 㻟㻘㻣㻢㻜 㻞㻘㻞㻣㻠 㻟㻘㻜㻡㻥 㻟㻘㻞㻜㻞 㻞㻘㻞㻜㻠 㻞㻘㻢㻡㻜 㻞㻘㻝㻤㻡 㻞㻘㻤㻜㻟 ┤᥋⤒㈝ 㻝㻞㻤 㻝㻤㻣 㻠㻢 㻤㻡 㻝㻥㻢 㻟㻠㻝 㻣㻥 㻝㻠 〇㐀ཎ౯ 㻡㻘㻣㻡㻣 㻠㻘㻟㻞㻝 㻠㻘㻥㻡㻠 㻡㻘㻞㻡㻞 㻠㻘㻞㻡

参照

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