兵庫県・翼賛選挙下の政治構造
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(2) 目 次. はじめに 一 翼賛選挙に向けた中央及び地方の動向 ⋮⋮⋮⋮⋮−⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮−七 第一 章 第一節 交錯する適格候補者像 ⋮−⋮⋮⋮⋮・⋮⋮−−−−⋮⋮⋮・・⋮⋮−⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮・⋮・八. 一、翼賛選挙への道程 ⋮⋮⋮−⋮⊥⋮・⋮⋮−⋮−−−−−⋮・⋮⋮⋮−⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−八. 二、適格候補者をめぐる思惑 ⋮⋮−−−⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮−⋮⋮⋮・・⋮⋮一一. 三、地方的利益と適格候補者 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮−⋮⋮−⋮⋮一九. 骨二節 翼賛政治体制協議会の結成⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮−⋮⋮−・⋮⋮⋮⋮−⋮⋮−⋮⋮⋮⋮二九. 一、推薦選挙の構想 −⋮−⋮⋮⋮⋮・−−⋮⋮⋮⋮⋮−−−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮−−−−⋮⋮・⋮⋮二九. 二、翼協構成員の構図 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮−−⋮⋮⋮・⋮⋮⋮・・⋮三四. 第三節 翼賛政治体制協議会兵庫県支部をめぐる問題⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮四六. 一、県支部構成員鐙衡への諸論 ⋮−−−⋮⋮⋮⋮・⋮⋮・⋮−⋮⋮⋮・⋮−⋮・⋮⋮⋮⋮四六. 二、県支部構成員の構図 ⋮⋮⋮⋮⋮−⋮−⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮五四. 三、県支部構成員と財界人脈 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮−−⋮⋮・⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮六〇. 第四節 翼賛選挙批判の動向 ⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮−⋮・七〇 兵庫県における翼賛体制 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮−⋮−⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮−⋮⋮⋮⋮⋮・八四 第二 章 第一節 大政翼賛会兵庫県支部⋮⋮⋮⋮⋮⋮・−−⋮⋮−⋮−⋮−−⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−−八五. 一、新体制構想と大政翼賛会 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮・・⋮⋮⋮−⋮−⋮⋮−⋮⋮⋮−−⋮−⋮・⋮⋮八五. 二、県支部結成準備 ⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮・・⋮九〇. 三、支部長選任をめぐる問題 ⋮⋮⋮⋮・⋮・⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮・⋮⋮・−⋮⋮⋮⋮−⋮・−九六.
(3) 第二節. 第三節. 一〇四. ・九八. 五、地域活動の実態 ⋮⋮−−−−⋮⋮⋮・⋮−⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮・⋮⋮⋮. 一一六. 四、県支部役員にみる勢力構図 ⋮⋮−−−−−−・⋮⋮・−−⋮−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮・⋮⋮⋮⋮−−. 兵庫県翼賛壮年団・⋮−−⋮⋮⋮⋮・⋮⋮−⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮−⋮. 二、県翼賛壮年団の結成 ⋮−⋮⋮⋮⋮・−・・⋮⋮⋮・⋮⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮禮. 一二六. 一二一. 一一六. 三、尼崎市翼賛壮年団の結成経過と問題 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮−・⋮⋮⋮・⋮. 一三〇. 一、翼賛壮年団本部の発足⋮⋮・⋮−⋮⋮・⋮−⋮・⋮⋮⋮−・⋮⋮⋮⋮−−⋮−⋮⋮・. 四、﹁村﹂における翼賛壮年団 ⋮−⋮⋮⋮・⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮. 一四〇. 一四〇. 町内会部落会隣保の組織化・−−⋮⋮⋮⋮⋮−−−−⋮⋮⋮−−−−−⋮・⋮⋮⋮⋮−⋮・⋮・⋮. 一、内務省訓令による住民組織 ⋮・−−⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮−⋮・⋮⋮⋮⋮⋮. 一四四. 一六二. 二、町内会の再編整備における人的更新の問題⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮. 第三章 選挙戦の展開・−⋮⋮⋮⋮⋮⋮−⋮⋮・−⋮⋮⋮⋮−:⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮・⋮⋮⋮⋮⋮−・⋮⋮⋮⋮−−⋮⋮−⋮. 一六三. 一四八. 第一節 翼協県支部候補者鐙衡の諸問題⋮⋮⋮⋮⋮・⋮−−−−⋮⋮⋮⋮−・⋮⋮⋮⋮⋮. 一六三. 三、新体制と町内会規約・組織 ⋮−⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮−−⋮−・⋮⋮−⋮・⋮⋮. 一、翼協本部の候補者鐙衡準備⋮⋮−−−−−⋮⋮−⋮−⋮−⋮⋮⋮・・⋮−⋮⋮⋮・・. 一六八. 一五二. 二、県支部の候補者鐙衡経過 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮・・−⋮⋮⋮⋮⋮−−⋮−−⋮⋮⋮⋮・. 一七七. 四、常会の実態 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮−−−−−⋮⋮⋮・−,,⋮⋮⋮⋮⋮−⋮−⋮・・⋮・,,・⋮⋮⋮. 三、丁丁と翼同の対立と妥協⋮⋮−−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮⋮⋮−⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・−. 二〇〇. 一八五. 第二節 翼賛選挙貫徹運動の展開⋮⋮⋮−⋮⋮⋮・・−−−−⋮−−⋮−−⋮−⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮・⋮⋮. 二〇〇. 四、現職優勢県支部推薦候補者⋮⋮・⋮⋮⋮誼−⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮. 一、県及び市町村による翼賛選挙貫徹運動⋮−⋮⋮⋮−⋮−・⋮⋮⋮⋮・.
(4) 第三節. おわりに. 二、大政翼賛会による翼賛選挙貫徹運動 ・−−⋮⋮−−⋮⋮⋮−⋮−−⋮⋮⋮⋮. 二一五. 二︸〇. 二二五. 三、町内会部落会の動向 ⋮⋮−⋮−⋮・⋮−−⋮・⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮・・⋮⋮. 一、うごめく候補者と﹁非推薦立候補﹂⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮−⋮⋮−⋮. 二二九. 二二五. 二、選挙戦諸相1盛り上がりも対立もなく ⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮. 二三九. 選挙結果からみる翼賛体制 ⋮⋮⋮⋮⋮⋮・−⋮⋮⋮⋮⋮・−⋮⋮−⋮⋮⋮・⋮・. 三、選挙結果−県民の選択⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮−⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮−⋮−・⋮⋮. 二四九.
(5) はじめに. 一一1.
(6) 本研究は、昭和一七︵一九四一︶年四月三〇日に投票が行われた第二一回衆議院議員総選 挙︵以下翼賛選挙と称する︶を対象として、当時の政治構造を解明しようとするものである。 このテーマに直接・間接に関連する昭和一五年の大政翼賛会の発足から昭和一七年の翼賛 選挙結果判明までを時間的な把握の範囲として、地方政治に大きな影響を与える中央政治 の動向を常に視座に置きながら、兵庫県における翼賛選挙下の政治構造を組織・団体・人的 構成等の面から考察を進めていきたい。 翼賛選挙は、昭和戦中期の特異な政治形態であった﹁翼賛体制﹂下に実施された唯一の国 政選挙であった。また翼賛選挙は政党の解党、労働組合農民組合の解散、町内会部落会隣保 の組織化、大政翼賛会の結成などの一連の国民総動員体制の最後に位置するものであり、い わゆる翼賛体制の完成を目指すものであった。ここに次のような翼賛選挙の政治的特徴が 存在する。. 第一に、政府によって翼賛選挙が単なる議員の改選の選挙ではなく、戦争完遂のための 国内体制の整備、すなわち国民の戦意高揚と清新強力なる翼賛議会の確立とを目指す. 重要な機会であると位置づけられていたこと。 第二に、翼賛政治体制協議会く翼協︶が結成され、地方支部での鐙衡内申を基礎として、 衆議院議員の﹁適格候補者﹂の推薦を行ったこと。 第三に、内務省i道府県−市町村−町内会部落会という系列のほかにも、大政翼賛会、翼 賛壮年団などの地方支部が﹁翼賛選挙貫徹運動﹂に総動員されたこと。 第四に、推薦侯補が圧倒的な優勢を占め、全議員四六六嚢中三八一名が当選し議員の八一・ 七%を占めたこと。. 1ニー.
(7) 第五に、当選者の中に新人が一九九名おり、実に定員の四二・七%という高率であったこ と。. 以上のような点からも、翼賛選挙が、選挙運動を通して国民政治意識の単一方向化や国民 総動員を指向する﹁翼賛体制﹂の完成を目指して実施されたものであることがわかる。しか し、その選挙結果が翼賛体制の完成を象徴するものであったかについては考察を要すると ころである。. ﹁適格候補者像﹂をめぐっては諸政治勢力にさまざまな意見があったが、政党政治家と地 方利益の依存関係の面からも考察したい。このことは翼協兵庫県支部の推薦候補者鐙衡に おける現職か新人かの選択にも関連するところである。 また兵庫県の翼賛体制を形づくった翼賛全県支部、県翼賛壮年団、翼協県支部の構成員及 びその所属団体等を検証することは、翼賛体制及び翼賛選挙が従来の地方の政治構造と連 続性を有するのか、あるいは断絶する革新的なものであったのかを考察する上で重要な問 題意識と考 え て い る 。. 翼賛体制の特徴のひとつは、翼賛会や翼賛壮年団が県下市町村のすみずみにまで結成さ れ、町内会部落会の再組織化、人的更新が行われるなど、強制ないし半ば強制的な画一化・組 織化の進行である。ではこれら団体が﹁挙国的国民運動﹂とされた翼賛選挙運動においてど う活動したかも地域資料から明らかにしていきたい。 翼賛体制や、それを完成させるべく行われた翼賛選挙は戦後のデモクラシー体制とは全 く反対極に位置するものとして取り扱われてきたが、﹁新体制﹂を標榜しての国民総動員あ るいは大衆啓蒙運動による地域社会の変動を把握することにより、戦後の政治体制の中に. 1三i.
(8) 連続性を有する位置づけができるのではないかも考察する。 以上の問題意識を持ちながら、本論は三章に整理して翼賛体制とは何であり、翼賛選挙と は何であったのかを新聞記事、地域資料を活用することにより実証的に検討し、全体像を解 明していきたい。. 翼賛体制・翼賛選挙の先駆的研究としては横越英一の﹁無党時代の政治力学︵一︶、︵二︶﹂ ︵1︶がある。同論文は大政翼賛会の成立から大日本政治会の解散までを時間的範囲とし、政 治諸勢力の吸収、分裂、併存の各過程を研究されたものである。ここでは翼賛選挙は﹁政治勢 力の濾過﹂装置に擬せられ、不純物を取り除く政治的機能に着目されている。升味準之輔は ﹃日本政党史論第七巻﹄︵2︶で関係者の手記を引用しながら翼賛選挙に概観的に触れてい る。木坂順一郎は﹁ファシズム体制の確立﹂︿3︶のなかで、大政翼賛会の結成によって天 皇制ファシズムが成立し、さらに﹁太平洋戦争の緒戦の勝利を利用した翼賛選挙と大政翼 賛会の改組強化により、一九四二年八月に天皇制ファシズムが確立した﹂として、翼賛選 挙の天皇制ファシズム成立過程での重要性を指摘している。ただし、ファシズム論に関し ては戦前日本のあり方をどのように規定するかについて諸論︵4︶があり、本研究の本旨で はないのでこれには立ち入らない。 翼賛選挙の地方別の.研究は実証的に積み上げられ始めている。中村政弘﹁千葉県におけ る翼賛選挙運動について1第二一回衆議院議員選挙を中心として一﹂︵5︶、 雨宮昭一 ﹁翼賛体制の一側面−茨城県を中心として一﹂︵6︶、 波田三巴﹁翼賛選挙の地方的展開. 1四1.
(9) 本稿において引用した新聞及び資料については、旧字体をすべて新字体に改め. 一福岡県を例にして一﹂︵7︶、 沢田次郎﹁翼賛選挙と純新人の進出−東京第五区の四王 天延孝を中心に一﹂︵8︶など、千葉県、茨城県、福岡県、東京︵第五区︶において翼協地方支部 人的構成、推薦候補者鐙衡問題、選挙結果分析等で研究が行われている。 尚、兵庫県における翼賛選挙研究は未だ行われていない。. [凡例] た。. ︻註記︼. ︵1︶﹃名古屋大学法政論集﹄三二号︵一九六五年九月︶、三三号︵一九六五年一二月︶に所収. ︵2︶升味準之輔﹃日本政党史論第七巻﹄東京大学出版会 一九八○年三二八∼三三八頁. 、1五ー.
(10) ︵3︶木坂順↓郎﹁ファシズム体制の確立﹂、﹃昭和の歴史七太平洋戦争﹄ 一九八二年小. 学館九八頁. ︵4︶戦中政治を天皇制ファシズム確立及び東条英機独裁政治とするのは、木坂順一郎﹁大 政翼賛会の成立﹂︵﹃岩波講座日本歴史20﹄ 一九七六年岩波書店︶、粟屋憲太郎﹁翼 賛政治体制﹂︵歴史学研究会編﹃太平洋戦争史四巻﹄ 一九七二年青木書店︶、遠山茂樹、 今井清一、藤原彰﹃新版昭和史﹄︿昭和三四年岩波書店︶など多数派である。一方中村. 菊男は﹃天皇制ファシズム論﹄︵昭和四二年原書房︶のなかで、独裁者とされる東条で さえ大日本帝国憲法には一指だにも触れることはできず、憲法の枠内での活動しか できなかったことを指摘している。 ︿5︶﹃千葉県の歴史﹄二〇号に所収、一九八○年 ︵6︶﹃資料日本現代史月報﹄ 一九八一年三月号に所収、大月書店 ︵7︶﹃明治大学大学院紀要﹄第二三集く三Vに所収、 一九八六年. く8︶﹃法学政治学論究﹄第一一号、一二五︼∼一六〇頁、一九九一年一二月. i六1.
(11) 第一章. 翼賛選挙に向けた中央及び地方の動向. 1七1.
(12) 笙節交錯する適格候補者像. 一、翼賛選挙への道程 昭和一六年一二甚九日付の﹃朝日新聞﹄は、日本の米英に対する宣戦布告と西太平洋での 戦闘開始、海軍のハワイ猛爆などを大見出しで伝えている。言わば日本の社会全部が開戦の 極度の興奮の中にあったわけだが、同紙面の片隅には﹁総選挙明春断行﹂の政治記事が掲載 されている。. 政府は戦時態勢に突入しても来春の総選挙は政治体制の強化を目指して飽く迄断行 するとの既定方針を堅持し、一方内務省では選挙法の取り扱いにつき研究を続けてい るが八日の首脳部会議で選挙法の改正を行わず、ただ近衛第二次内閣で決定せる改正 選挙法案のうち部落会町内会を基底とする候補者推薦制度を行政措置として活用する こととなった。従って部落会町内会の法制化は通常議会に提案することとなった。かく て来春の衆議院総選挙は任期満了の翌日すなわち四月三十日に断行されるわけである ︵1︶. 東条内閣が政治体制の強化を目指して、来春に総選挙を行うという方針を堅持したこと、 部落会町内会を基底とする候補者推薦制度を行政措置として活用したい意向であることが、 国民に対してはっきり明らかになった。ここにいわゆる﹁翼賛選挙﹂が第一歩を踏み出した のである。総選挙が実施されると実に五年振りであり、そしてこの年月こそ議会政治が大き く変貌した時であった。翼賛選挙への道程を検証する。. 1八1.
(13) 前回の第二〇回総選挙は、林銑十郎内閣の昭和一二年四月三〇日に行われている。この選 挙は昭和一二年度予算案が無修正で可決成立したにもかかわらず、林内閣が﹁最近衆議院に 於ける審議はきわめて誠意を欠く﹂ので﹁政党に反省を促すためく2︶﹂として突如衆議院を 解散したためであった。この時、議員たちは改選後一年余りしか立っていなかっ.た。 衝撃的な解散を受けて、政友会民政党を中心に各議員たちは、林内閣を非立憲的と批判し、 選挙戦には﹁政府排撃、非立憲内閣撃滅︵3︶﹂を目標に政民連携して戦った。こうした反政府 感情の盛り上がりに対して、政府は厳しい取り締まり方針をもってのぞんだ。 この第二〇回総選挙の結果は、林内閣の惨塘たる敗北に終わった。政府支持を表明した 昭和会が一九議席、以下国民同盟一一、東方会一一のわずか四一議席にしか達せず、これ に反し、民政党一七九議席、政友会一七五議席で、既成政党は、厳しい内務省の選挙演説 取り締まりにもかかわらず、政府、軍部にたいする国民の批判を追い風にした。. 例えば﹃丹波新聞﹄は、総選挙における多紀郡氷上郡の無効票︵4︶を掲載しているが、その 中には﹁民力休養﹂﹁猫政排撃﹂﹁林内閣を餓にせよ﹂﹁日本一斎藤隆夫﹂など政府批判を込 めたものが多くあり、また﹁佐倉宗吾郎﹂﹁阿部定﹂などと記したもの、﹁政友も民政も駄目社. 会大衆党﹂と社会大衆党に期待をかけるものなどがあり、現状に対する不満を示していた。 さらに無産政党の伸びはめざましく、社会大衆党は三七議席となり、 一挙に議席を倍増 し、都市部では多くの選挙区で首位当選をはたした。兵庫県においても第一区で河上丈太. 郎がトップ当選、三位で永江一夫が当選、第二区で米窪満亮、第三区で河合義一が初議席を 得るなど社会大衆党旋風が吹き荒れた︵5︶。. 1九1.
(14) 七月 八月 一二月. 四月. 五月 七月. 九月 二月. 六月 十月 七月. 盧溝橋事件︵日中戦争の始まり︶ 国民精神総動員実施要綱決定 第一次人民戦線事件︵共産党員検挙︶ 国家総動員法公布 ノモンハン事件くソ連と武力紛争︶ 国民徴用令公布 ドイツ軍ポーランド侵攻 斎藤隆夫﹁支那事変処理二関スル﹂演説が問題化 近衛文麿新体制運動に乗り出す 大政翼賛会発会式 南部仏印に進駐開始 東条英機内閣成立 ハワイ真珠湾を空襲. 選挙後、林内閣はしぶしぶ退陣し、国民的期待の高かった近衛文麿が組閣した。そのほぼ 一カ月後七月七日北京郊外盧溝橋で日中両軍が衝突し、日本は果てしない消耗戦に入って 行き、やがて国内国外の諸情勢は大変動をおこしていく。その大きな流れを概観しておく。 昭和一二年. 昭和一三年 昭和一四年. 昭和 五年. 昭和一六年. 一〇月 一二月. これらの出来事がそれぞれの関連を持ちながら、時代のうねりを作り出したのであるが、 この期間を総合して評すれば、戦争の拡大とそれに反比例するごとく自由主義.民主主義. 一一〇i.
(15) が萎縮した時代でもあった。. 第二〇回総選挙で選出された衆議院議員の任期は、当然昭和一六年四月には満了する予 定であった。しかしながら第二次近衛文麿内閣は、内外情勢の緊迫に伴い挙国一致で事に あたる必要と総選挙による国内摩擦を避けるとして、総選挙を先送りして実施せず、議員 の任期一年延長の臨時措置を採用した︵6︶。. したがって翼賛選挙は前回選挙より五年という異例に長い期間を経て行われる総選挙で あると同時に、国内が総力戦体制に入って以来初めて行われる国政選挙ということになっ たのである。. 二、適格候補者をめぐる思惑 年が明け昭和一七年前入ると、兵庫県下でも立候補者の顔触れが取り沙汰されるように なり、神戸新聞︵一月三〇日︶は立候補予定者の動きを伝えている︵7︶。 同紙は立候補予定者をずらりと並べた上で、﹁いま県下から登場せんとする噂の候補者 を展望してみると革新的候補者の顔触れは非常に蓼々たるものである︵8︶﹂と切って捨て、 失望をあらわにしている。その上で. ︵五年前の︶當時の政治情勢からすれば、今日の議会政治は著しく飛躍しており、政治. 理念も翼賛運動の展開によって非常に革新的になっている。この新しい奔流に従って. 1ニー.
(16) 各方面から政治部面の革新が要望され、自由主義的政治観念から脱却し、真に力強き政 治に翼賛する革新的人物の登場が各方面から期待されているのだ. と結んでいる。ここにいう﹁革新的人物﹂が反自由主義的、反政党的な立場にいる人物を指す ことは明 ら か で あ る 。. 二月一五日シンガポールが陥落すると、政府は一八日正午から戦捷第一次祝賀式を挙行 することを決定した。当日は学校、会社、各種団体の旗行列が引きも切らず日本各地は戦勝 に沸きかえった。東条内閣は奇しくもこの日臨時閣議で﹁衆議院議員総選挙対策 翼賛選挙 貫徹運動基本要綱﹂を決定し、総理大臣談話を発表して国民に総選挙に臨む政府の態度を訴 えた。. 東条首相の談話︵9︶は. この選挙が旧套を一掃して、真に公正明朗に行はれ、これによって大政翼賛の熱意 に燃え、大束亜戦争の目的完遂のために、積極的に力を致すべき有為の人材の一人に ても多く選出せられんことを熱望するものである. として、さらにこの大戦中に選挙を行う理由について、﹁挙国いよいよ決意を固くして戦争 目的の完遂に遭進せしむる絶好の機会﹂であり、﹁時局の新段階に対応すべき、清新なる議 会の成立﹂を期待するがためであると位置づけたのである。 この談話に関連して湯沢内務大臣は国民運動として展開される﹁翼賛選挙貫徹運動基本. 1一ニー.
(17) 運動ノ名称 ﹁大東亜戦争完遂翼賛選挙貫徹運動﹂ト称ス 運動ノ目標. 要綱︵10︶﹂を説明した。 その発表された内容のうち運動の名称、目標は次のようなものであっ た。. 二. 大東亜戦争ノ完遂ヲ目標トシテ清新強力ナル翼賛議会ノ確立ヲ期スル為、衆議院 議員総選挙ノ施行セラルルニ際シ、 一大挙国的国民運動ヲ展開シ以テ重大時局二 対処スベキ翼賛選挙ノ実現ヲ期セントス. このように東条首相談話及び総選挙に関する基本要綱に共通するねらいは、﹁時局、の新段. 階に対応すべき、清新なる議会の成立﹂を図るためには大政翼賛の熱意に燃え、大東亜戦. 争の目的完遂のために﹁積極的に力を致すべき有為の人材﹂が一人でも多く選出されること を熱望し、そのためには﹁一大挙国的国民運動﹂を展開するところにあった。 ﹁基本要綱﹂では、運動の目標として端的に﹁大東亜戦争ノ完遂﹂のための﹁翼賛議会 ノ確立﹂を揚げ、そのために 一、﹁啓蒙運動ノ徹底﹂ 二、﹁候補者推薦気運ノ醸成﹂三、. ﹁選挙ノ倫理化ト戦時態勢化﹂という三つの実行策を示している。 第︸の﹁啓蒙運動ノ徹底﹂とは、﹁選挙ヲ機トシ必勝ノ国民士気ヲ昂揚﹂するのをねらい とし、強烈な戦争完遂意識を注入するために、政府指導のもとに中央では内務省、司法省、 情報局、翼賛会、翼壮などが、地方では県、市町村、翼賛会・翼壮支部が、職域では産業. 一一三1.
(18) 報国会、商業報国会、農業報国会が、地域では町内会、部落会、隣保班が中心となって単 なる選挙粛正運動を超越した﹁高度の﹂啓蒙運動あるいは﹁国民ノ自主的運動﹂を展開す るということであった。. 第二の﹁候補者推薦気運醸成﹂とは、東条首相談話にある﹁大東亜戦争の目的完遂のた めに、積極的に力を致すべき有為の人材﹂を議会に送り込むため﹁出たい人より出したい 人を﹂のスローガンのもとに政府の求める適格者、とりわけ新人を選出することであった が、明治憲法にいう公選のたてまえから露骨な干渉は避けねばならず、大政翼賛会は公事 結社とされたことから自ら錘衡を行なえず、したがって新たな推薦母体をつくって候補者 を鐙衡することを意味した。 第三の﹁選挙ノ倫理化ト戦時態勢化﹂とは、いうまでもなく過去の政党間選挙を廃し、 戦時体制を理由に政府が選挙運動に積極的に介入することを意味した。民衆の地域的個別 的利益実現の要求を基盤とする旧政党政治家にたいし、 ﹁選挙ノ倫理化﹂を振りかざして 鋭く切り込むものであった。 しかし﹁大東亜戦争の目的完遂のために、積極的に力を致すべき有為の人材﹂あるいは ﹁真に大政翼賛の重責に任ずべき最適の人材﹂と言うだけでは、具体性に欠け国民の側か ら見て一体どんな人物なのか、どうもよくわからないというのが正直なところだろう。そ こで、東条首相は国民向けのラジオ放送でこの点を補充して次のように述べている。. 清新強力なる翼賛選挙を確立するためにはもっとも適当なる人材を議会に選び出すこ とが必要なのであります。この意味におきまして今度の選挙は議会に対する国内人材. 一一四1.
(19) の総動員でなければなりません。しかして現下の時局が必要とする最も適当なる人材 とは単に学識経験に秀でたるに止まらず、大東亜戦争を戦ひ抜くために、積極的に身 をもってこれに当り得る人物を指すのでありまして、信念のためには富貴も淫する能 はず威武も屈する能はざる気魂を有する人でなければなりません︵11︶﹂. 東条首相は﹁大東亜戦争を戦ひ抜くために、積極的に身をもってこれに当り得る人物﹂ こそが最適の人材であると唱え、そしてその人材たちに﹁清新強力なる議会﹂をつくって もらおうというのである。当然そこには、現議員たちや議会に対する不信、不満があった のは明らかである。. さらに実質的選挙遂行責任者である湯沢内務大臣は、大東亜戦争完遂翼賛選挙貫徹大講 演会で選挙の核心を次のように語っている。. 開戦以来、我国は軍事的には敵の対日包囲網を破砕した。他方、外交的には大東亜 新秩序の建設を具体化し、経済的には重要産業団体の統制への再編を進めた。かかる 内外の激変の中にあって我国の政治だけが衆議院は五箇年の永きにわたって更新され ず、政治は外界の目まぐるしき変遷にも拘らず無風状態が続いて来たのである、国防 国家体制を高度に整備してゆく上においては政治が強化せられ外交、産業、経済、文 化等の諸部面を推進して行くことが必要であるにも拘らず我国においては政治部面の 刷新強化が最も立ち遅れた姿のま、今日の時局に突入してきたのである。政府が大東 亜戦争の真只中において敢て総選挙を断行するのは、この立ち遅れた政治部面を刷新. 一一五1.
(20) 強化したいからである︵12︶. これは戦争の拡大に伴う社会の激変に対して議会が旧態依然で立ち遅れている、新事態に 対応できていないという考え方である。ここに政府の議会に対する不満があった、同種の主 張は新聞記事にもみられ、かなり一般的で説得力をもつものであった。. ﹁政治理念も翼賛運動の展開によって非常に革新的になっている。この新しい奔流に従っ て各方面から政治部面の革新が要望︵13︶﹂されているとか、﹁来るべき総選挙に接して旧態 依然たる自由主義的性格を脱皮して建設的な挙国協力体制を整理せんとする革新的機運が 勃然として台頭︵14︶﹂しているなどといった論調が、自由主義的政治観念こそを旧態依然た るものとして、排除すべきとする傾向を示していることは、明白である。 有為の人材であれ、革新的人物であれ、一般国民にとってはあまり具体的人物像は見え. てこない。この点にさらに踏み込んだのが国民運動の指導的組織である大政翼賛会であっ た。大政翼賛会の機関紙﹃大政翼賛︵15︶﹄では選ばれるべき理想の人物とは、. 第一に、一点の私心なく真に国家公共を念ふ奉公の誠に溢れ、且つ革新の意慾に燃 えた憂国の志士でなければならぬ。第二に、定職を有って日常職域に奉公してみる人、 又は少しでも恒産を有った人が望ましい. としている。ところがこれでも具体的人物の特定は困難である。むしろこれ位なら政府・. 一一六1.
(21) 翼賛会が排除したいと願っている旧政党政治家の中にも該当する人物がいそうである。そ. こでむしろ、こんな人はだめだという方向から述べるべきと考えたのか、﹁翼賛議会に不適 格なる者﹂として解説を加えている。この列挙してある項目には翼賛議会を担う理想的議員 像が、政府・翼賛会の視点から定義されており、適格候補者の骨格を知るうえで重要である ので、少し長いが全てを掲げる. ︵イ︶ 国体の本義に徹せず、思想信念に干て十分信頼し得ない者 ︵ロ︶ 私に捉はれ至誠奉公の熱意薄き者 ︵ハ︶ 肇国の理想を体せず、大東亜戦争の完遂、東亜共栄圏の確立に関する確固不動の 信念なき者 ︵二︶ 大東亜戦争完遂に必須なる国内態勢の強化欄新を傍観冷笑し、又はこれを誹言妨 害する如き傾向ある者 ︵ホ︶ 翼賛運動の発展を阻止せんとするが如き傾向ある者 ︵へ︶ 過去に泥み伝統を墨守することにのみ汲々として、旧政党的観念を脱し得ざる者 ︵ト︶ 人格識見に於て低劣なる者 ︵チ︶ 正業を有せず生活に疑惑ある如き者 ︵リ︶ 破廉恥罪を犯し又は不徳の行ありて郷党の指弾を受ける如き者 ︵ヌV地域職域の立場に偏し又は派閥朋党の利害に捉はれて、大局的なる判断又は進退 を誤る虞ある者. ︵ル︶ 平常から情実、因縁、金力等に依って所謂選挙地盤の培養強化に専念して国事を. 一一七1.
(22) 疎んじ奉公の職責を完うせざる者. ︵ヲ︶ 議員其他の公職を利用して自己の売名、 利権漁り、勢力拡張、猟官運動等をなす 傾癖ある者. 以上を不適格者であるとしている。人格識見が低劣とか犯罪行為をするとかいう人格面で の欠格事由はなにも今回の選挙に限ったことではないので問題はないが、翼賛会が言いた いのは旧政党的観念を脱しえず、地域職域の立場に偏し、選挙地盤の培養強化に専念するよ うな人物を排除することなのである。ここで狙い撃ちにされているのは現議会人であるこ とは明白である。議会人のなかには過去の政党政治に干われて、国内体制の強化刷新に傍観 的な者が存在しており、彼らを議会から追放することが、翼賛議会の確立になると主張して いるのである。. 現議会人が永年その選挙区地元の利益を擁護してきた実績やら、個人的に恩義を与えた りして培った選挙地盤はなかなか強固であり、地元には古くから候補者のために選挙運動 や後援をした支持者も存在している。それゆえに﹃大政翼賛﹄︵16︶は. 因習に捉はれて惰性的に、従来の通り応援したり投票する事が当然であるとか無難で あると考へたりすることは大きな間違ひである。如何に古くから選出されてみる者で も不適格者である限り、この際断然排除しなければならぬ と全国の地方支部員に対して奮起を促しているのである。. 1一八1.
(23) また笹川良一が率いる国粋大衆党は、より具体的に﹁支那事変に従事するもの及び愛国 革新運動に五年以上従事するもの﹂などが理想的推薦候補であるとして、逆に不適格の人 物とは﹁共産主義、社会民主主義、自由主義の信奉者並びに転向後五年未満のもの、区政 党人で選挙違反及び破廉恥罪を犯したもの、六〇才以上の老人︵17︶﹂としている。国粋 大衆党は同趣旨の建白書を政府に提出したが、ここでは﹁推薦候補は日本主義革新運動家を 中核としこの線に沿った新人を議員総数の半分推薦し、現前元代議士は悉く自由立候補に 委しその当否は自由なる国民の良心的判断に委すべし︵18︶﹂とし、新人優先と、すでに代議 士経験のある者は全員不適格候補者であると断じている。 翼賛議会を担う﹁適格候補者﹂をめぐっては政府、翼賛会だけでなく各方面の思惑が交錯 していた。. 三、地方的利益と適格候補者 昭和一七年二月二五日から二六日に開催された大政翼賛会臨時中央協力会議において、 この﹁適格候補者﹂について議論がおこったのは当然であった。 協力会議第二部会座長 を務めた今井嘉幸︵神戸市協力会議議長︶は、第二部会での適格候補者をめぐる論議を総括、 報告している。適格候補者について、現議会は新時局に対応できる適任者から出来ていない。 全く旧体制であるから人的構成内容をすっかり一新すべきという点では部会員の基本的認 識は一致しているが、いざ人物鐙衡の具体的な面になると. 1一九1.
(24) ﹁過去に於て筍も暇のある人はいけない。無蝦の人を﹁推さなくてはならぬ。更に一身 上の都合、或は地方、或は職域といふやうなことで利害の係はるやうな人は資格がな い﹂. ﹁以前に選挙違反に一遍でも掛ったやうな人間は自粛して貰ひたい﹂ ﹁候補者には今日の代議士はもう引つ込むべき﹂. などという露骨な現議会人排除の発言がある一方で. ﹁た穿単に人格者であるけれども仕事は出来ないといふ様な正しいだけの人ではいけ ない﹂. ﹁中央にばかりをつて地方に足のついてないやうな者は出てはいかん︵19︶﹂. という地方的利益を目的とした政治的実力を期待する意見も続出した。 ここには、重大な論争点が見えてくる。無下の人を出せと言うのは﹁新人待望論﹂であり、 多少は選挙違反などの傷を負っている政党政治家を念頭に置き彼らの排除を主張している のである。それに対し正しいけれど何もできないという人ではだめだと言う主張は、地方的 利益獲得の実績を背景にして現政治家には有利になる。地方に足のついていない者はだめ という意見には、平たく言えば地方利益の獲得こそ大切という背景がある、対して地方、職 域代表という面を否定するのが翼賛議会の方向であるという主張も存在する。これらの論 争は現代議士でも良いか、現代議士はもう引っ込めというのか、という対立につながって行. 1二〇1.
(25) き、さらには翼協の推薦候補鐙衡平の複雑な対立の因ともなるのである。 政治面の革新を主張する新聞も、適格候補者の推薦に関する地方的利益についてはこう 主張するの で あ る 。. 代議士が選挙のために選挙匠及び職域の世話をやくことは排撃せねばならぬこと勿 論であるが、抽象的国策のみを論じて、地方及び職域の利害に盲目であり無智である候 補者を推薦することは、大地に根をもたぬ風船玉を選ぶと異なる所はない。鐙衡委員が もしこの判断を誤れば、空論の徒のみ輩出して議会は文字どおり言論のみの府となり、 政治は遊戯に堕する虞れがある。われらは翼賛選挙に期待するところが大きいだけに、 その判断の的確ならん事を祈るのみである︵20︶. この社説にある﹁抽象的国策のみを論じて、地方及び職域の利害に盲目であり無智である 候補者を推薦することは、大地に根をもたぬ風船玉を選ぶと異なる所はない﹂という主張の 背景には代議士に国家的仕事を期待はするが、地方の利害を全く無視されては困るという、 地方の選挙民の本音を代弁している面がみえる。そこには新人待望についてはよくわかる がさりとて従来の旧政党政治家との関係も地方の利害のためには打ち捨てられないという 地方特有の事情も読み取れ、またそこにこそ現代議士や政党政治家の生き残る道が見いだ されるのである。. 例えば、兵庫一区選出の政友会代議士中井一夫は、昭和一四年平沼験一郎内閣において、 木戸幸一内務大臣の下で内務参与官に就任した。いわゆる内務省の次官待遇である。彼はこ. 1二一1.
(26) のポストを選挙区神戸のために最大限活用している。. 神戸から勝田銀次郎市長らが陳情に上京してきました。昭和十三年の阪神風水害復旧 のための国庫補助予算を獲得しようと必死でした。六甲山系の河川がハンラン、全神 戸市が土砂に埋まる大被害を受けていました。土木予算は内務省がにぎっていたころ で、私は参与官暦を開放し、勝田市長らと一緒に泊まり込み、不眠不休で大蔵省と交 渉しました。当時の金で一億円を獲得した思い出があります︵21︶. ここに書かれている阪神風水害とは、七月五日未明からの集中豪雨により六甲山からの河. 川が大氾濫をおこし、神戸、芦屋、西宮などで多数の民家をはじめ、電車・国道などが土砂に 埋まる大被害を生じたものである。災害復旧費を獲得するために、兵庫県知事、神戸市長は 上京し、陳情をおこなったが. 貴衆両院議員の運動の為、県下選出九代議士に鉄道ホテルに参集方を依頼の電報を発. し、二日午前九時三十分より河上丈太郎、永江一夫、前田房之助、野田文一郎、米窪満亮、 小林房之助、河合義一、立川平、若宮貞夫各代議士参集し、知事、楽市土木部長、市水道. 部長列席し、市長より復興の経過を説明し、議会方面よりの運動に付依頼したる所、 其快諾を得、今後の予算分科会其他の機会に災害復興の決して時局便乗にあらざる所. 以を強調力説することとなり、之が工め世話人として、永江、野田、小林、山川、立川五 代議士が推薦せられた︵22︶. 1二ニー.
(27) このように代議士たちは地方的利益の実現のため、中央官庁への陳情や予算獲得を当然の こととして活動し、また地元選挙民にとっても代議士に期待するところはもちろん予算獲 得であった。このように旧政党政治家と地元選挙民は共にいわゆる地方的利益のたあに協 力する関係 で あ っ た 。. 翼賛議会の適格候補者像は政府や翼賛会と、地元選挙民のものとは必ずしも一致するも のではなかった。. ︻註記︼. ︵1︶﹃朝日新聞﹄昭和一六年一二月九日 総選挙明春断行 ︵2︶﹃朝日新聞﹄昭和一二年四月一日世間ではこれを﹁食い逃げ解散﹂と称した。参内 閣は政友、民政の既成政党に打撃を与え、親軍議、政府隷属的新政党の出現を期待し ていた。. 1二三1.
(28) ︵3︶内田健三、金原左門、古屋哲夫編﹃日本議会史録﹄第三巻 二五二頁 第一法規、一 九九一年 ︵4︶﹃丹波新聞﹄昭和一二年五月五日号。同紙は兵庫県丹波地方︵多紀郡、氷上郡︶をエリ. アとする地方紙である。 ︵5︶﹃朝日新聞﹄昭和一二年五月二日によると、全立候補者数は八二六名であり、前回よ り五〇名少なくなっている。また前職の立候補者は四二二名であり、三四六名が再選 された。. ー二四1. 川上貞史﹃日本の政党政治1890∼1937 議会分析と選挙の数量分析﹄ ︵1. 992年︶を参考にすると、政友会では解散時一七一子中一五二名が再選を望んでいる から、再選志望率は八九.五%であり、民政党では解散時二〇四季中一八五名が立候 補しているから、再選志望率は九〇・七%となる。このうち前職候補者で再選された のは三四六名で、再選率は八二・0%となり、これまでの総選挙の中でもっとも高く なった。この選挙結果は、基本的に現状維持という傾向が強いことを示している。 政友会は一五三名中一二二名が再選されたから、再選率は七九・七%,民政党は一八 五名中一四九名が再選されたから、再選率は八0.五%であり、この点においてもほ ぼ互角である。新人候補については三二五卜いるが、政友・民政両党では前回よりか なり少なくなっている。小政党の中では、社会大衆党が四四名を擁立しているのがめ だっている。全新人当選者は八一名だから当選率は二四%と低い。 ︵6︶法律第四号 昭和一六年二月二四日公布施行 ﹃法令全書﹄昭和一六年 現任衆議院議員ノ任期ハ之ヲ一年延長ス.
(29) 前項ノ場合二於テハ衆議院議員選挙法第七十五条及第七十九条ノ選挙駒之ヲ行ハズ 衆議院議員ノ数が衆議院議員選挙法別表二掲グル各選挙区ノ議員数ヲ合算シタル数ノ 三分ノニニ満タザルニ至リタルトキハ之が補充ノ為選挙ヲ行フ 前項ノ選挙二関シ必要ナル事項ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム 附則 本法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス ︵7︶﹃神戸新聞﹄昭和一七年一月三〇日では次のような立候補予定者を伝えている。. 第一区︵定員五名︶ 前回当選の野田文一郎氏は神戸市長に転出しているが、現代. 議士の河上丈太郎、永江一夫︵旧社会大衆︶、中井一夫︵旧政友︶、浜野徹太郎︵旧民政︶の. 出馬は確実、県会議員金光邦三、県会議員森崎了三、翼賛会市協力会議議長今井嘉幸の 出馬も確実、前代議士中亥歳男、市会議員佃良一、市会議員南陽二郎、前神戸市長勝田銀 次郎らが噂に上っている 第二区︵定員画名︶ 現代議士の前田房之助、米窪満亮、小林房之助、立川平の諸氏 の出馬は確実、産直文化部長であった坂本平氏、東方会系の長尾有氏、有馬郡高平村長 三宅栄三氏、前代議士蔭山貞吉氏、前回惜敗した弁護士南鉄太郎氏の立候補も確実、県 会議員白川一雄氏が出馬するとの噂があり、中央公論社記者原健三郎氏︵津名郡出身︶ も噂に 出 て い る 。 第三区︵定員三名︶ 現代議士小林絹治、吉田賢一、河合義一氏らと前代議士田中源 三郎、柏木清治両氏の再出馬は確実、加古郡尾上村長小山十次氏、元垂水町長田口政五 郎氏らも下馬評に上っている。. 第四区︵定員四名︶ 現代議士清瀬一郎、田中武雄、小畑虎之助、溶明兵衛氏らの再. 1二五1.
(30) 出馬は確実、東亜聯盟協会郡支部長県会議員桑田虎雄氏、外交評論家法学博士鹿島守之 助氏の立候補も確実、前回惜敗した古河和一郎氏の噂も出ている。 第五泣く定員三豊︶ 現代議士山川頼三郎、若宮貞夫の両氏、前代議士斎藤隆夫、前回 惜敗した植村嘉三郎氏の出馬は確実、東亜建設聯盟下中弥三郎、大日本党主宰佐々井一 晃、県会議員衣川退蔵、県評会長長島貞らも噂に上っている。 ︵8︶﹃神戸新聞﹄昭和一七年一月三〇日. ︵9︶﹃朝日新聞﹄昭和一七年二月一九日東条内閣総理大臣談話の前半部分では ﹁現任衆議院議員の任期は、四月二十九日を以て満了せんとし、その改選の期は既に 目腱の間に迫った。そもそも衆議院議員総選挙は昨年議員の任期延長の結果、昭和十 二年議会解散後の総選挙の行はれてより満五年、支那事変開始以来最初の総選挙であ る。大東亜戦争下において敢へて今次の総選挙を行はんとする所以は、 一は選挙が戦 時下国民の総力を集結し、挙国いよいよ決意を固くして戦争目的の完遂に遭進せしむ る絶好の機会たると共に、 一は今回の選挙を以て、支那事変以来、殊に大東亜戦争開 始以来、飛躍的に発展を遂げたる時局の新段階に対応すべき、清新なる議会の成立を. 期待せんとするにほかならないのである﹂と述べている。 ︵10︶﹃朝日新聞﹄昭和一七年二月一九日 [衆議院議員総選挙対策 翼賛選挙貫徹運動 基本要綱]の三以下では、三で﹁運動ノ基本方針﹂、四で﹁運動ノ実施方策﹂として︵一︶. 啓蒙運動ノ徹底︵二︶候補者推薦気運ノ醸成[翼賛選挙実現ノ啓蒙運動トシテ最適候 補者推薦ノ気運ヲ積極五二醸成セシム︵三︶選挙ノ倫埋化ト戦時態勢化をあげている。 五の﹁運動実施機関﹂では. 一二六1.
(31) 本運動ハ之ヲ官民一体ノ挙国運動タラシムルモノトシ運動実施機関ノ分担ハ概ネ左二 依ルモノトス ︵一︶政府ハ運動基本方策ヲ決定シ関係機関ノ緊密ナル連絡ノ下二運動全般ヲ指導ス ︵二︶地方庁ハ政府ノ基本方策二即応シ運動実施方策ヲ決定シ地方二於ケル運動全般 ヲ 指 導 ス ︿三︶大政翼賛会︵翼賛壮年団ヲ含ム︶及選挙粛正中央聯盟ハ政府及地方庁二協力シ 民間運動ヲ展開ス として官民一体の運動実施を取り決めている。 ︿11︶﹃朝日新聞﹄昭和一七年三月九日﹁将兵の心﹂で翼賛選挙 人材を総動員東条さ. ん放送. ︵12︶﹃朝日新聞﹄昭和一七年三月一五日夕刊 出て貰ふ選挙徹底へ 内相、国民に呼. びかく ︵13︶﹃神戸新聞﹄昭和一七年一月三〇日 ︵14︶﹃神戸新聞﹄昭和一七年三月二日社説. ︵15︶﹃大政翼賛﹄は大政翼賛会の機関紙として全国の支部に配布されたものであるが、戦 後散逸も甚だしかった。機関紙の通し番号全てを完全復刻されたのは、柏書房株式会 社であり、一九八八年のことである。本引用は復刻版﹃大政翼賛﹄昭和一七年三月二 五日号による。所蔵は尼崎市立図書館本館 ︵16︶﹃大政翼賛﹄昭和一七年三月二五日号・. ︵17︶翼賛運動史刊行会﹃翼賛国民運動史﹄昭和二九年 四三九頁. 1二七1.
(32) ︵18︶﹃朝日新聞﹄昭和一七年三月一日. ︵19︶﹃朝日新聞﹄昭和一七年二月二六日翼賛選挙強力実践へ臨時中央協力会議の論戦. ﹁臨時中央協力会議会議録︵抄︶﹂は﹃資料日本現代史4﹄︵大月書店、一九八一︶一四. 四頁∼一四五頁に所収 ︵20︶﹃神戸新聞﹄昭和一七年三月一一日同社説は翼賛選挙について ﹁⋮⋮かくして所謂翼賛選挙のお膳立てはほぼ出来たが肝心の候補者推薦の基準を 何処に求むるかについての細目は一向決定しておらぬ。勿論一般論としての目安は 既に定まっている。即ち今日まで伝えられる所に従えば ︵一︶大東亜戦争完遂に対 する徹底せる時局認識を有すること ︵二︶大政翼賛の熱意を有する者たること ︵三︶地方的職域的利害を脱却せる者たることの三つである。 吾人はその適否を云 旧するものではないが、第三の地方的利害、職域的利害云々の項については候補者鐙 衡に当たって十分に注意せねばならぬと考へる。何となれば国家的見地に立って地 方並びに職域の利害を論ずるものと、地一方的職域的視野より国策を論ずるものとは 厳に区別しなければならぬからである﹂と論じている。 ︵21︶﹃百年を生きる中井一夫伝﹄昭和六〇年中井一夫伝編集委員会 一〇四頁. 1二八1. ︵22︶﹁神戸市水害誌﹂については﹃新修神戸市史歴史編W近代現代﹄︵神戸市、昭和五七年︶. 三五八頁に一部が所収されている。.
(33) 第二節. 翼賛政治体制協議会の結成. 一、推薦 選 挙 の 構 想. 鐙衡会が﹁適格候補者﹂を推薦するという方法は衆議院議員選挙では異例のことであるが、 昭和一二年以来地方都市での選挙では、地元の有力者が話し合って、候補者を推薦し、一般 有権者に運動するというやり方が流行していた︵1︶。これは非常時下に選挙運動によって 住民の団結に些かでも支障を来したり、候補者の乱立から無用の対立を生ずるのを避ける 事等を大義名分にしていた。 こういつた推薦選挙を国政選挙にまで導入しようとしたの は、当時軍務局長であり、﹁政治軍人﹂と椰楡されながらも陸軍の実力者だった武藤章や内務 省の官僚たちであった。昭和一七年はじめごろの陸軍省要部の人事構成は次のようなもの であった︵2︶。. 陸軍大臣東条英機︵内閣総理大臣︶. 次官木村兵太郎 軍務局長武藤章 ︵四月二〇日から佐藤賢了が就任V. 軍事課長真田穣一郎︵四月前〇日から西浦進・前陸軍大臣秘書官が就任︶ 軍務課長佐藤賢了 ︵四月二〇日から真田穣一郎が就任︶. 兵務局長田中隆吉. この布陣で陸軍が衆議院議員の総選挙に対してどのように取り組もうとしていたのかに ついて、当時軍務課長さらに軍務局長を務め東条首相の側近といわれた佐藤賢了は. 1二九1.
(34) 一九四二年が明けると、星野書記官長、湯沢内務次官、今松警保局長、武藤軍務局長、. および私らがたびたび会合して、総選挙およびその後の政界組織をどうするかについ て協議を重ねた。われわれ軍人は、選挙にはズブの素人であり、全くにが手であった。 主として、内務省側の意見で﹃推薦選挙﹄をやろうということになった。また武藤局 長は山崎達之輔、大麻唯男らの意見も聞いていたようである︵3︶. とあるように陸軍省は衆議院議員選挙に重大な関心をもっていた。武藤章が接触していた 山崎達之輔は政友会の代議士だったが、昭和九年岡田啓介内閣成立のとき党議に反して脱 党して入閣︵農相︶し、白軍的な政党昭和会を結成した。さらに昭和一二年林銑十郎内閣でも 入閣︵農相︶して次第に政界の実力者になり、のちに政友会に復党中島知久平らの政友会中 島派に属していた政治家である。すでに昭和一一年暮、政友会、民政党、昭和会、陸軍、 海軍、財界、官僚らの実力者が東京荻窪の有馬頼寧邸に集まって、近衛新党をめぐる親軍 的新党結成の企てをした時、山崎は昭和会からこれに参加していた︵4︶。大麻唯男は民政党 の幹部として活躍し、昭和九年から一年間党の幹事長を務めている。比較的都市部インテリ の支持が強いとされる民政党の中では親軍勢傾向の強い代議士であった。 衆議院選挙における推薦制というのも、地方選挙同様推薦母体を作り、そこが候補者を 品定めして推薦するというやり方である。もとより現行法制上、非推薦の者の立候補を制 限することはできないが、道府県庁は知事以下内務省系統の官僚が占めており、内務省が 選挙の采配をふるい、かつ推薦母体が選挙に協力するから、非推薦候補者の当選見込みは 極めて低い。実態は一種の干渉選挙に等しいものである。. ⊥二〇1.
(35) 武藤軍務局長はこのような推薦選挙の熱心な推進者だったが、彼は大尉時代にドイツに 駐在し、第一次大戦のドイツの敗戦の原因を探って、. 敗戦は結局、国民の結束が乱れ、意志の挫折から起こるものである。この戦争は現在 は旗行列の連続であるが、やがて戦局はきわめて困難となる。しかもそれが永続する 場合、国民の結束とその精神を鉄のように堅持させるのは政治力であるから、政界組 織を今のうちにしっかり作りあげねばならない︵5︶. というのがその主旨であり、政界組織の再編成も見据えたものだった。 さらに当時陸軍の兵務局長であり武藤とは対立関係にあった田中隆吉の回想がある。田 中は明治二六年島根県に生まれ、陸軍大学校卒。昭和二年から支那研究員として北京及び 上海に駐在。 一〇年関東軍参謀となり、翌年、華北分離工作を推進し緩遠事件を起こした。 一五年、少将に進み、第一軍参謀長、兵務局長を歴任。二〇年、羅南要塞司令官として終 戦を迎える一という経歴をもつ人物であり、戦後、極東軍事裁判の検察側証人として活動 し、内外の大きな注目を浴びた。彼は敗戦直後の昭和二〇年九月に﹃敗因を堅く一軍閥専 横の実相1﹄を書き上げ、翌二一年一月に山水社から刊行した。彼は翼賛選挙についてこう 記している。. 推薦選挙は、その表面は内務大臣の湯沢三千男氏が采配を振って実施せられたように 見られているけれども、事実は、全く武藤軍務局長の手によって行われたものである。. ⊥一=ー.
(36) 当時の内務大臣秘書官寺本広作氏は語る。 ﹃武藤軍務局長は実に政治が好きな人であっ た。自分で推薦選挙の案文を書き、自ら選挙の采配を振った。これには私も驚いた﹄ と。もってこの推薦選挙なるものの内幕を伺い知ることが出来る︵6︶. と武藤軍務局長が熱心な推進者であったとしている。政府にとっては国民政治力の結集は 戦時体制下における重大な政策テーマであった。. 東条首相が議会において初めて総選挙について触れたのは昭和一七年一月二〇日ではな いかと思われる。衆議院において岡田忠彦議員の質問に対する答弁中、簡単に﹁今春行わ れんとする所の総選挙は戦争貫徹のため積極的に国民の協力を求める絶好の機会と存じて おる︵7︶﹂という言葉で胸中を明かした中においてであった。それをうけて湯沢内務次官 は一月二八日の衆議院予算総会において﹁衆議院総選挙は四月三〇日施行すべく準備を進 めている旨︵8︶﹂言明した。. 総選挙の実施が政府によって明らかにされると、衆議院議員の関心は当然候補者推薦制 度に集まった。早速一月三一日衆議院予算第二分科会では池本甚四郎議員が質問し、答弁に 立った内務省地方局長は、市会・町村会で推薦制度が採用されていることに関して、﹁よい 人を出す積極的な面がある、この点から幽霊会、推薦会は結構なこと﹂と一定の評価をした うえで. 衆議院議員の場合は地域が広いし直ちにこの方法が適用できるか目下慎重に協議して. 一三ニー.
(37) いる、近く政府の態度を決めて地方庁に通知致したい︵9︶. と衆議院への適用を研究中との姿勢を明らかにした。 湯沢内務次官も同様に、地方議会における推薦会はよい効果があったと述べ. 衆議院においてもやり方さえよければ従来の選挙粛正を一歩進めるもの︵10︶. との認識を示した。衆議院議員側の度重なる質問に対して政府は明言を避けてはいるが、す でに推薦選挙実施に向けての決意が生まれていたと見るべきだろう。 二月一八日は、大東亜戦争緒戦の勝利を祝する﹁壷皿次戦勝祝賀の日﹂であった。旗行列 の人波が途切れることもなく続くこの日、東条内閣は臨時閣議において、 ﹁衆議院議員総 選挙対策 翼賛選挙貫徹運動基本要綱﹂を決定した。そこには﹁大東亜戦争の完遂を目標 として清新強力なる翼賛議会の確立﹂を期するために、衆議院議員総選挙を施行すると位 置づけられていた︵前節参照︶。. 基本要綱が発表されると翼賛会、貴族院、財界、翼賛議員同盟などの各方面で選挙母体 ︵推薦会︶結成の機運が急激に高まり、早くも中央推薦会構成員の内定者氏名が報じられ た︵11︶。この新聞報道は確かな筋からの情報に基づいているものとみえ、のちの正式構成員 とほとんど間違いがなかった︵ただ岸商相、井野農相、小泉厚相ら現職閣僚の参加は見送ら れた︶。この二月一八日の段階ですでに政府は推薦会の具体的な人選をほとんど終えていた ことを示している。また近衛内閣で準備していた選挙法改正案のうち部落会、町内会などを. 1三三1.
(38) 基底として下から積み上げて行く候補者推薦制度︵12︶はすでにこの段階ではまったく逆転 して上からの指名による推薦会方式に変わっていた。このような政府の事実上の指名によ る推薦会方式に対して、同交会、興亜議員同盟︵興同︶、東方会は参加しない方針をとっ たが、翼賛議員同盟、議員倶楽部は中央推薦会が結成され政事結社届を出した段階で自ら 解散し、中央推薦会を選挙後の新政党の申核体とするとの方針のもとに参加の意向を示し た︵13︶。. 二、翼協構成員の構図. 二月二三日政府は各界代表三三名を首相官邸に招請した。この会合には政府側から東 条首相、湯沢内相、岩村法相ならびに内閣四長官が出席、招請者側から阿部信行大将はじ め各界代表三〇名︵安藤紀三郎、大河内正敏、小磯国昭氏ら玉名は欠席︶が出席した。こ の席上で東条首相は挨拶に立ち、﹁大東亜戦争開始以来、飛躍的に発展を遂げた時局の新段 階に対応すべき清新なる議会の確立を期待﹂し、そのためには﹁大政翼賛の熱意に燃え、 大東亜戦争の目的完遂のために、積極的に力を致すべき有為の人材の一人にても多く選出. せられんことを熱望﹂した。政府がこの選挙を機会に国民総力の結集と翼賛議会確立をめ ざし、 一大国民運動の展開を期待していることをにじませ、招請した目的についても. 本日各位をお招きしたのもこの趣旨をよく領得せられいかにこの目的を達するかの方 途につき御考究を賜りたく︵14︶. 一三四1.
(39) と結んだ。東条首相の挨拶は、政府として選挙運動の限界を念頭に入れつつ、各界代表者の 工夫と尽力を要請するものであった。つぎに湯沢内相からすでに発表された翼賛選挙貫徹 運動基本要綱を述べるとともに、さらに政府の意向につき補足的説明を行って懇談に移り、 政府側と招請者側とは質疑応答を重ね、政府側の選挙方針を十分説明していったん休憩。 その後軍府側は退席し、招請者側のみ居残り協議を再開、民間代表として自主的選挙対策 を討議、政府の根本方針を尊重しつつその具体的方法を協議するというまわりくどい方策 が取られた。東条首相をもってしても、表面上は姑息にも政府の無関与を装わねばならない ところに、﹁東条独裁︵15︶﹂の限界があった。. 阿部信行︵陸軍大将︶ 安藤紀三郎︵陸軍中将︶ 小磯国昭︵陸軍大将︶ 末次信正︵海軍大将︶ 高橋三吉︵海軍大将︶. 政府から招請を受けた三三名の各界の代表者を、所属組織で分類していくと次のように なる。ただし陸海軍関係はすべて退役者であり、所属団体が重複する場合もある。 陸軍 海軍. 貴族院. 井田磐楠︵男爵︶ 大河内正敏︵理化学研究所長理学博士子爵︶ 後藤文夫︵大政翼賛会中央協力会議長︶ 下村宏 太田耕造 矢吹省三 霊堂卓雄︵工業組合中央会会頭︶ 児玉秀雄︵伯爵︶ 瀧正雄 横山助成︵大政翼賛会事務総長︶ 遠藤柳作︵大日本興亜同盟副理事長︶. 小倉正恒 徳富猪一郎︵帝国学士院会員︶酒井忠正︵帝国農会会長伯爵︶ 千石興太郎︵産業組合中央会会頭︶. 一三五1.
(40) 衆議院 財界関 係. 平生釧三郎︵大日,本産業報国会会長︶ 結城豊太郎︵日本銀行総裁︶藤原銀次郎︵産業設備営団総裁︶. 大麻唯男 太田正孝 岡田忠彦 勝正憲 永井柳太郎 山崎達之輔前田米蔵. 藤山愛一郎︵日本商工会議所会頭︶ 高堂卓雄︵再掲︶ 千石高太郎︵再掲藤原銀次郎く再掲︶平生鉱三郎︵再掲︶ 結城豊太郎︵再掲︶. 副総裁安藤紀三郎︵再掲︶ 事務総長横山助成︵再掲︶中央協力会議長後藤文夫︵再掲︶. 農業関係 石黒忠篤︵農業報国連盟会長︶ 酒井忠正︵再掲︶ 言論界 田中都吉︵日本新聞会会頭︶ 大政翼賛会. 彼らは、﹁議会、翼賛会、財界、経済団体等の最有力者﹂︵大阪毎日新聞︶、﹁各界代表者 堂々たる顔触れ﹂︵朝日新聞︶と評された。これら官邸に集合した面々は、翼賛政治体制協議 会︵翼協︶を結成し予定通り会長に阿部信行を選び、. 大東亜戦争終局ノ目的完遂ノタメ来ルベキ総選挙二際シ強力ナル翼賛議会体制ノ確立 ヲ期シコレが適切ナル方途ヲ講ゼンコトヲ申合ス︵同14︶. という申合せを行なった。ついで、阿部会長・は今後の活動の具体案作成のため特別委員と して滝正雄、太田耕造、後藤文夫、二巴卓雄、横山助成、遠藤柳作、藤山愛一郎、土石興. ⊥二六1.
(41) 太郎、山崎達之輔、大麻唯男、、永井柳太郎、岡田忠彦を任命し、これに阿部信行会長を加 えての=二名で特別委員会を設置した。 翼賛政治体制協議会︵半里︶はこのような形で出発したが、以後の歩みと組織構成︵支部結 成委員会、鐙衡委員会︶についてその概略をまとめる。. 二月二三日翼賛政治体制協議会結成、具体案作成の特別委員会設置 二四日特別委員会 基本方針案作成、協議 ︵16︶ 二七日特別委員会 基本方針案作成、協議 ︵17︶. 二八日総会 基本方針案を決定 ︵18︶ 三月 二日特別委員会 支部規約案を作成 四日総会 支部設置の特別委員会設置と従来の特別委員会︵具体案作成のためのもの︶の 解消を決める。幹事を決定する。 支部結成の特別委員として大麻唯男、岡田忠彦、後藤文夫、禅堂卓雄、下村 宏、干即興太郎、永井柳太郎、平生釧三郎、藤山愛一郎、山崎達之輔、高橋 三吉、末次信正、小磯国昭の=二名を選任. 一一日支部特別委員会及び総会 支部長・支部会員権衡案決定 一八日支部結成特別委員会及び総会 支部長決定︵東京、兵庫、沖縄除く︶ 二〇日支部結成特別委員会及び総会 支部長︵東京、兵庫、沖縄︶と支部会員決定・. 二二日支部結成特別委員会及び総会 鐙衡基準と内申数を決定 二五日 総会 候補者聴罪委員として小磯国昭、末次信正、高橋三吉、後藤. 1三七ー.
(42) 文夫、横山助成、腸壁卓雄、平生釧三郎、藤山愛一郎、千石 興太郎、井田磐楠、太田耕造、下村宏、滝正雄、遠藤柳作、 田中都吉、前田米蔵、大麻唯男、太田正孝、岡田忠彦、勝正憲、 永井柳太郎、山崎達之輔以上二二名を選任。 三一日 候補者鐙衡開始 ︵朝日新聞、大阪毎日新聞から作成︶. これら各界の有力者を網羅した翼協が単なる候補者推薦の機関としての役割だけで終わ るのか、さらに一歩を進めて新党結成に進むのかが政界の重大な関心事であった︵19︶。この. 推薦会を母体にして国民結束の強力な政治組織を作ろうという考え方は陸軍の武藤章軍務. 局長も持っており、議員の中にもそれに同調する者が少なくなかった。新党が結成される場 合当然推薦会のメンバーが新党の指導者になると見られているところがら、軍部、政界、官 界、実業界などの支配層の間では、裏面では激しい駆け引きが行われていた︵20︶。 平鹿は各界を勢力均衡的に、巧みにバランスをとっているようにみえるが、前掲表のごと く各人を詳細に見て行くと、財界、農業界、翼賛会などで貴族院議員を兼ねているものが多 く、貴族院議員は一八名となり翼協の過半数を占めていた︵21︶。このため衆議院と貴族院の 不均衡も目についた。また、各界代表とされるメンバーそのものが政府による一方的な人 選であったため、翼協を﹁政府の御用機関﹂とみなす者も多かった。斎藤隆夫も翼協を評して. かかる団体が立法議会を組織する議員候補者を選定するに何の権威があるか、しかも. 1三八一.
(43) この中衆議院議員を除いては従来選挙に何らの関係なき人々である。⋮︵目的は︶正義 硬骨の士を排斥して政府に盲従する軟骨議員を選出せんにある︵22︶. と厳しく批判している。確かに政府の人選によって首相官邸に集められた﹁各界の先達﹂ たちが﹁自主的に﹂翼協を設立したという筋書きにウサンくささがある。 ただ、東条首相の談話や大政翼賛会、右翼愛国団体の主張、また新聞が熱心に掲載して いたように、翼賛選挙は﹁清新強力﹂な議会をつくるため、従来の堕落した旧政党人を議会 から一掃するのが最大の目標であったはずである。ところが翼協メンバーとして選ばれた 衆議院議員七名は旧政友会系から前田米蔵、山崎達之輔、岡田忠彦、旧民政党系から大麻 唯男、永井柳太郎、勝正憲が選出されている。彼等は・それぞれ旧政党においては実力者で あり、解党後は議会内最大の会派である翼賛議員同盟に属していた。そしていま一人の太 田正孝は小会派ではあるが議員倶楽部のリーダーである。これら旧政党時代の実力者を招 請したということは、翼賛選挙の出発点において東条内閣はすでに旧来の議会勢力の一掃 はあきらめ、一部議会勢力との提携を模索し始めたということである。結局、議会勢力を軽 視はしても完全無視はできなかったということであり、旧政党を意識の上にも意識してい たということである。ここに、第二次近衛内閣が大政翼賛会を発足させたものの、余りに 議会勢力を軽視した結果、それの反攻に遭った経験︵23︶を生かし、観念的革新論に走らず、 議会の一部指導勢力と提携するという現実主義の上に政治力の結集を図ろうとする政府と、 起死回生の機会をうかがっていた議会勢力の提携策とも見ることができる。こうして翼賛 政治体制協議会は政府の純然たる御用機関として出発したのではなく、東条政権と当時の. 1三九i.
(44) 各方面の指導層との妥協の産物であると考える方がより半面の真理をついているのではな いかと思う。そうであるがゆえに翼協は各方面の勢力を按分比例に集めた寄せ木細工であ り、とりわけ﹁既成政党に属して居る人が七人﹂もいるという革新愛国派からの批判の対 象となった︵24︶。. 翼協では特別委員会で作成した事案を総会にかける運営法がとられ、委員会は実質的に 総会を主導するものだった。そこで旧政党政治家が特別委員会の構成員にどれだけ加わっ ているか整理してみると、 委員会に占める衆議院議員︵◎印︶ 割合 具体案作成特別委員会 阿部、遠藤、◎大麻、太田︵耕︶、◎岡田、後藤、伍堂、干石、滝 ==% ◎永井、藤山、◎山崎、横山︵幹事役︶ 支部結 成 特 別 委 員 会 ◎大麻、◎岡田、後藤、伍堂、下村、千石、◎永井、平生、藤山 三一% ◎山崎、高橋、末次、小磯 鐙衡委員会 小磯、末次、高橋、後藤、横山、伍堂、平生、藤山、千石、井田 太田、下村、滝、遠藤、田中、◎前田、◎大麻、◎太田、◎岡田 三二% ◎勝、◎永井、◎山崎. 旧既成政党出身者である彼らは各委員会の三割を占めている、これは豊凶全体に占める. 1四〇1.
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兵庫県精神保健福祉センター 平成 27 年3月作成 平成 30 年 7 月改訂 令和 元年 8 月改訂 令和3年