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沖縄におけるゲートポールの動向: 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

国吉, 勇

Citation

沖縄大学紀要 = OKINAWA DAIGAKU KIYO(9): 45-60

Issue Date

1992-03-25

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/5761

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沖縄におけるゲートポールの動向

国吉勇 はじめに 近年、国民のスポーツに対する関心はとみに高まり、多くの人々が日常生活 の中で各種のスポーツ活動を実践していろ。 その中にあって、ゲートポールは高齢者の方々を中心に、健康・体力の保持 増進はもとより、生きがいづくりに役立つスポーツとして、全国各地で急速に 普及発展し、今日では若い世代にも愛好者が増えてきております。 日本ゲートボール連合会長笹川良一氏は、「単にスポーツを楽しむというば かりではなく、健康の保持増進、仲間との触れ合い、さらには、到来しつつあ る高齢化社会に向って、医療費の軽減という大きな効果をもたらすもの」とし てゲートボールをとらえていろ。 しかし、一方では、長野県下で起きた殴打事件のような悲劇もあり、必ずし も喜んでばかりはいられない。 ゲートボールが誕生してから今日まで、小さな事件や事故は、耳にしたこと はありますが、今回の様な大きな事件は予想もしませんでした。ゲートボール を楽しんでいる人達には、ボールを打つ音やスパークの音は心地良い響きに聞 こえるかもしれ.ないが、受験シーズンを迎えている受験生には、心をかき乱す 音にしか聞こえないのかも知れない。お互いに話し合いをもち、時間を決めて 行なうとよいのではないかと思われる。 1.ゲートポールの誕生 1)日本生まれのスポーツです。 ゲートボールは日本生まれのスポーツであります。ゲートボールという英語 名であるために、外国生まれのスポーツと考えている人もいるようである。 昭和21年頃、北海道でパン製造業を営んでいた鈴木和伸氏が、クロケーとい -45-

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うスポーツを参考にして「玉どっこ」として考案したが、これは成功しなかっ たと考えられろ。 昭和21年頃といえば、終戦直後のことである。全国的に戦火にあい意気消沈 しているときに、(北海道ではどうであったか知らないが)スポーツを楽しむ ことのできる時代ではなかった。その日その日をいかに生活していくかと食物 を探し求めているさなかに、スポーツを楽しむ心のゆとりなどあろうはずもな い。と私は考えます。 2)用具やルールはどうしたか。 クロケーの用具とよく似ているので、おそらく初めの頃はクロケーの用具を 使っていたものと思われる。ゲートの大きさやポールの大きさ、上がりポール 等も同じものばかりである。違う点は、ゲートの数(6個)コートの大きさは 約23メートル×30メートルの長方形で、大きさが違う点である。ルールにおい ても似ているものがあります。他球にタッチをするとスパークをする。ゲート を通過すると1打進む等もゲートポールと同じである。 コートの形や大きさが、今日のコートと同じであるかどうかは判りませんが、 第1ゲートまではスタートラインから4メートルの位置であった、と上妻氏は 著書に書いていろ。 2全国のゲートポール組織 全国には幾つかの組織が有りましたが、今では2大組織に纏められていろ。 沖縄県が加盟している.財団法人日本ゲートポール連合(会長笹川良一氏)、 もう1つは。全国ゲートボール協会連合会(会長上妻一郎氏)である。ルール は同じと思いますが、審判員のゼスチャーに違いがあるようである。いずれが よいか判りませんが、日本のゲートボールの普及発展のためには、統一された ルールとゼスチャーが必要である。 l)財団法人日本ゲートボール連合 会長笹川良一氏、理事長小野喬氏、その他多数の役員の基に、マンモス(巨 大)組織になっている。審判員の人数も、1.2.3級の合計で16万人余にな っていろ。ただ競技人口の掌握が十分に出来ていないのが残念である。一般的 -46-

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に400万人とも500万人とも言われているが、そんなに多くはないと思う。せ いぜい150~200万人程度と思われろ。 2)全国ゲートボール協会連合会 会長上妻一郎氏、その他の役員構成については判らない。上妻会長の著書 「ゲートボールわが人生」(昭和60年発行)の中に、愛好者250万人を率いる 云々とあります。これは全国のゲートボール競技人口を指してのことか、それ とも、全国ゲートボール協会連合会に加盟している競技人口のことなのか判り ませんが、それでもそんなに多くはいないと思います。せいぜい150万~200 万人程度と思われろ。 3.沖縄県ゲートポール連合 沖縄県にゲートボールが導入されたのは昭和50年5月頃である。現在の沖縄 県のゲートポール連合理事長大城哲雄氏が、具志頭村教育委員会主催第1期壮 年体育大学校生36人を対象に指導を始めろ。その時をもって、沖縄県に初めて ゲートボールが導入されたと考えるのが妥当である。 大城哲雄氏が具志頭村教育委員会社会体育担当者であった昭和49年に初め てゲートボールに出会うことになる。 昭和49年10月14日~15日、日本スポーツ少年団本部九州ブロック指導者研修 会が、熊本市水前寺在熊本県教職員共済会館で開催された折、早朝散歩で水前 寺公園へ足を踏み入れろと、何処からともなく聞こえてくるカーン・カーンと いう素晴い、音色に魅せられてそのnE体をつきとめるべく公園奥の方へ進んで みろ。何と朝もやをついて約15メートル四方のコートらしきものの周囲に、年 の頃50年輩の人から、上は70才をはるかに越えたと思われる人まで老若男女入 り乱れて、赤臼の木球をスティックと呼ばれる木槌でコンコンと打って、時に は笑い、時にはいかにも残念そうな顔つきをして楽しんでいる15人位の集団に 遭遇。一見ゴルフにも似た楽しそうな競技に、職業柄村民総スポーツを目標と している私にとって、これこそ高齢者に最も適したスポーツと直感し、順番を 待つ70年配の老紳士に「これは何という競技ですか」と尋ねた処「ゲートボー ルです」という返事だった。そして20分間はその場所に居ただろうか。その間、 -47-

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2・沖縄県ゲートボール連合では、全国規模の大会として「もうすぐ春ゲート ボールオープン沖縄大会」を実施しているが、冬場に沖縄を訪れる愛好者に満 足のいくプレーをやって戴く意味からも大会準備には多額の経費に加え、屋内 コートの必要性を痛感しております。このイベントを-任意団体の事業として 傍観することなく、県の施策の一環として捉え屋内コートの建設とイベント開 催に於ける県負担金として応分の拠出をお願いしたい。 以上が、沖縄県ゲートボール連合が県当局に要請した内容でありますが、そ の結果、どうなったかについては、私は判りません。少し遅すぎた感が致しま す。理由は、土地の高騰であります。それにゴルフ場建設に伴う赤土汚染によ る一般住民の公害問題に対する目覚めである。ゲートボール場とゴルフと では大きな違いがありますが、それでも多少の赤士流出があります。ゲートボ ール場建設には十分なる赤士流出防I上対策を考えて、地域住民の了解孝得てか ら建設してもらいたい。地域住民の反対を押し切って建設しても必ず後に禍恨 をのこすことになります。 4.浦添市におけるゲートポール 浦添市にゲートボールが導入されたのは何時の頃であるか判りませんが、昭 和60年度から理事長制度が始まりましたので、それ以後の事から書く事にしま す。 1)浦添市ゲートボール連合役員構成 会長佐久本嗣善氏、理事長玻名城英僖氏、審判長池田盛吉氏の構成で2期勤 め、平成元年の役員改選で、会長佐久本嗣善氏、理事長金城好次氏、審判長作 取克友氏が選出されて今日に至っていろ。 長年、念願であったゲートボール専用コートも、新旧役員の方々の努力によ り可平成元年に完成し、多くの会員の皆ささんも喜んでおります。今後とも会 員400名の楽しみのために、頑張って戴きたい。 2)浦添市ゲートポール場オープン 平成元年4月浦添市中央ゲートポール場がオープンした。4月9日の落成記 念大会以来、今日まで数回の大会を新しい場所で開催してみて、すばらしいゲ -48-

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一トボール場が出来たと愛好者の皆さんが喜んでいる。 10面のコートは整然とラインが設置されていて、ゲートを立てさえすれば何 時でもすぐに使用出来るようになっている。3月以前までの大会は、小学校の 運動場を借用して運営してきたので、事前の準備と後片付けが大変で、係りの 方々にはその都度ご苦労をかけてきました。これからの大会開催に当たっては、 主催者側や係員の手数が大分省けたことは運営上大いにプラスになった。10面 コートが常に設備されていることは、各チームが何時でも自由に練習できろと いうことで、将来に向って伸々したプレー技術も期待出来ると思います。ゲー トボール場は、全面に芝が植え付けられて、しっかりと根付いていろ。周辺も 緑豊かな地域の中に位置し、沢岻の森から甘蕨畑(キビ畑)を吹き抜けてくる 南風が頬を撫でて心地よい。 市内、市外から大会に参加なさる場合、会場を探すのにお困りになったと聞 きました。バス路線から見通せる所でないだけに、東西南北からの入口を示し てお知らせしておく必要があると痛感します。 浦添市ゲートボール連合副会長大城文次氏は、中央ゲートボール場オープン に寄せて、以上のように述べておられます。 3)1年経過してみて 1年経過してみて、このゲートボール場には、4つの欠点があることに気づ きました。 ①.トイレが少ない事(特に女子トイレが少なく)冬場の大会では皆さん困っ ています。早急に増設して戴きたい。 ②.駐車場が狭いために、路上駐車が多く他の交通の妨げになっていろ。特に 製糖期にはキビ運搬の車両に迷惑をかけています。 ③・初参加の方には探しにくい事。探すのに時間が掛かり過ぎて、受付時間に 間にあわず失格になったチームもあったと思います。 この点に開しては、大城文次氏も指摘しているように、なんらかの対策を講 じてほしいと思います。 ④.臭気の件である。風向きによっては、家畜の糞尿の臭いがします。この件 はどうにもなりません。ゲートボール場近くに闘牛を飼育している牛舎と豚舎 -49-

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公園入口の方で聞いたカーンという音が、スパーク打撃というものをやる時に

発生するということを知ることができ、面白さを新たにすると同時にいつの曰

か必ず我が具志頭村にもと、決意を胸に秘めたものである。それが近代軽スポ

ーツ「ゲートポール」と私との最初の出会いであった。と大城哲雄氏は沖縄県

ゲートボール協会5周年記念誌に、ゲートボールとの出会いについて述べてい

ろ。この事は、上妻氏の場合とよく似ています。鈴木氏や上妻氏が日本ゲート

ボールを普及発展させた業績、大城哲雄氏が沖縄県ゲートボールの普及発展に

貢献した功績に敬意を表します。 1)沖縄県のゲートボール競技人口 昭和63年、前会長の古堅宗徳氏は挨拶の中で、愛好者数5万人と言っている がそんなに多くはないと思います。

その根拠は、昭和63年度の会員登録者数が7,652名である。仮に、未登録市町

村及び、個人の未登録者がいるとしても登録者数の50%と計算して、約1万’

千名と考えるのが妥当である。 2)平成2年度の役員構成

会長仲村正治氏、理事長大城哲雄氏その他多数の役員諸氏で構成されていろ。

長年の役員諸氏の努力によって、沖縄県のゲートポールは各市町村のすみず

みにまで普及発展をしており、特に老人クラブの方々の楽しみのひとつになっ ていろ。 3)ゲートボール専用コートの要請 昭和63年4月1日発行の県ゲートボール事業計画表によりますと、県営専用 コートの設置、及び、活動資金の助成を行っていろ。 県への要請の内容をここに紹介する。 昭和63年2月17日、沖縄県ゲートボール連合では陳情団(砂川副会長、神里

広報企画部長、宮城同副部長、比嘉指導部長、大城理事長の5名)を編成して

沖縄県ゲートボール界の直面する諸問題解決のためざ新垣副知事を始め、関

係当局へ次のような陳'肩をしてまいりました。 沖縄県にゲートボール競技が導入されてから旱15年目を迎えておりますが、

その間、昭和55年5月に沖縄県ゲートボール協会が結成され、県下各地を指導

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したことにより、今や全県下で本競技が楽しまれるようになりました。また、 昭和59年12月に文部省の許可をうけて財団法人日本ゲートボール連合が設立さ れるや、それまでの既存の任意団体指導によるローカルルールは一掃され、全 国津々浦々に至るまで公式競技規則が普及されるようになりました。沖縄県に 於いても全国のゲートポール界の流れに乗り遅れることなく、昭和61年3月31 日付けをもって沖縄県ゲートボール協会を発展的に解散し、新生「沖縄県ゲー トボール連合」として再出発を始めて、今日に至っております。 当初は、年1回の県大会開催と2~3回の講習会を催すだけに過ぎなかった ゲートボール界も、爆発的なブームによる競技人口の急増に伴い事業の拡充、 専従職員の配置、事務局の設置等の問題が必然的に発生してまいりました。し かしながら当連合に於いては「スポーツは受益者負担」の原則を守り、行政に 頼ることなく総て自前で組織運営をしている現状であります。ところが、潜在 競技人口5万人を超す競技でありながら、暇をもて遊ぶ高齢者のレクリエーシ ョンぐらいにしか理解されておらず悔しい気持ちでいっぱいです。 今やゲートボール競技は、愛好者自身の楽しみ、健康づくりのみでなく県経 済にも大きく寄与していろと自負しております。冬場にゲートポール交流で本 県を訪れる愛好者は2千人以上にも達している現実が、それを物語っています。 このことは、冬場の観光客誘致対策として、県の提唱している政策に少なから ずとも貢献しているのではないかと思いますが、いかがでしょうか。にも拘ら ず他の競技団体と比較した場合、公営競技場はあまりにも皆無に等しく、大会 を開催する度ごとに会場探しで苦労を強いられております。 こうした状況の中で「ゲートボール競技場にもっと行政の目を向けさせるべ き」との愛好者の声を背景に関係各位の特段のご協力を賜り、当連盟の健全な ろ発展をと、考えております。つきましては、別記のことについて特段のご配 慮を賜り、その実現方については迅速なろ対応策を講じて下さいますよう陳情 申し上げます。 1.県大会に多くの参加チームを得るためには、コート数にして20コート以上、 面積は1万平方米程度の競技場の確保が急務でありますので、北部地区、中部 地区、南部地区に県営競技場を早急に建設して戴きたい。 -51-

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があり、そこからの臭いである。近くには菊栽培農家もあり、そのためにゲー トボール場は、挨がたたないようにするために、芝を敷くようにとの菊栽培農 家の要求に基づくものであります。 地域の人達の協力があってはじめてゲートボール場の建設も出来たのであり ますから、臭いの件はゲートポールを楽しむ方々に、我慢して戴く以外に方法 がないと思います。 以上4点につき指摘致しましたが、その他にも、不備な点が有ると思います。 4)てだこチームの結成 昭和63年までの浦添市のゲートボールの大会は、宮城公園(4コート作れる 広さ)又は小学校のグラウンドを借用して行われていました。昭和59年から私 も大会に参加する様になりましたが、小学校のグラウンドの場合はコートの中 にロープ(直径1センチ程)が張られていて、そのためにタッチをするために 打ったボールがロープに添うて進み、なかなか当たらないのである。ロープさ え無ければもっと楽しいゲートポールが出来るのではないかと考えて、邪魔に なる所のロープを一時撤去して大会終了後に復元してみたら、さして時間が掛 からないのである。それに若い人達が手伝うようになり、今までよりも楽しい ゲートポールが出来、大会運営もスムーズに行える様になりました。 昭和61から6~7名の者で6コートを設営するのに1時間かかりました。大 会終了後の片付けも一緒にするうちに、誰いうことなくゲートボールの研究も 一緒にしませんかと言う事になり、チーム結成の運びとなる。 結成当時6名のメンバーも、平成3年現在12名まで増員する事が出来、発展 しているが、あと6名程の増員を望んでいろ。 ここで「てだこ」について説明しておく。 「てだこ」とは、英祖日子(えぞのてだこ)という神号をおくられた恵祖( 英祖)のことであり、英祖は浦添の邑(村に同じ)のひとつで「イーズ」(現 在の伊祖)の当字であり、英祖日子は「イーズ」の太陽の子を意味します。 沖縄県の歴史という本の中に、英祖は1260年に王位を継ぐとあります。どう やら我々の「てだこチーム」とは、英祖王の敬称を名乗っていることになりま すが、残念なことに天気のよく晴れた日に弱く、雨の日に強いという皮肉な現 -52-

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象がある。勿論、晴天の曰に優勝したこともありますが、一般的に晴天の日に 弱く、雨の日に強い。 てだこチームの練習場としてグリーンハイツのゲートボール場を使用してい る時に、女子のバレーボールをやっている人達に呼び掛けをして女子チーム結 成の運びとなる。 5)グリーンハイツ女子チームの結成 グリーンハイツは新興住宅地で那覇に近いために、南部、中部、北部、離島 各地から集っている集落である。老人の方々が少なく、若い人達が多い集落で ある。学校行事のバレーボール大会で集まった婦人部の人達が、ママさんバレ ーボール大会にも参加するようになり楽しく活動を続けていたのであるが、夫 の転勤のためにやむなくクラブを辞めなければならない人、出産のため、身体 がついていけない等の理由によりクラブの活動も次第に停滞してきた。そんな 時に、ゲートボールをすすめてみたが、あまり乗り気にならない様であったが、 ひとりふたりとスティックを握るようになると、バレーボールの練習に行くよ りもゲートボールをする事が楽しみとなり、今では全員がゲートポールをする ようになっている。昭和63年5月にはチームを結成し、3ケ月後の7月24日、 「第5回壮年親善ゲートボール大会」女子の部で初優勝して、てだこチームと 一緒に熊本県大会に参加した。 平成2年度の大会にも優勝し、富山県で行なわれる全国大会に参加する。8 名のメンバーのうち6名が3級審判員の資格を有し、2人が5月に3級審判員 の試験を受けて2名も合格し、合計8名となる。ゲートボールの練習は午後7 時30分頃から10時まで行っているが、練習相手としては、てだこのメンバーが 来てくれるために、非常に勉強になる。 6)浦添市ゲートボール連合活動報告 昭和59年以前の事については判らないが、私が参加するようになってから現 在に至るまでの事については、ある程度知っているので、ここに記してみたい。 昭和59年から平成元年4月までは、宮城公園を使用したり、宮城小学校を借 用して大会が運営されていた。 宮城公園の場合は、4コートしか作れないほど狭く、それに子供の遊び場で -53-

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もあろのでコートも凸凹であまり良いグラウンドの状態ではなかった。 宮城小学校の場合は、運動場一杯にロープが張りめぐらされていて、コート を作るのに難儀した記憶がある。 昭和59年頃は、ロープでコートを作っていたが、60年からは現在のテープに 変わったと記憶している。その当時、老人会の方々が早朝からコート作りをし ていたが、時間が掛かりすぎるのに気づいた。何組かのコート分のテープを一

つの箱に入れてあるために、探し当てるのに時間が掛かるのと、ゲートの位置

を決めるために巻き尺を使って直角を測定してからゲートの位置を決める。

手際良<作業を進めるために、試作品を作ってみたら半分程度の時間で出来

るようになった。私のコート作りとの係わりである。 今ではコートの事なら大抵の事は知っていろ。コート作りをしていて勉強に なるのは、そのコートを使って練習しているチームの実力をある程度知ること

が出来るようになった事である。コートのラインの状態、コート内の手入れの

仕方などを参考にして約8割は判断出来ろ。

現在、浦添市には23のチームが有ります。正式のコートを作れる所は15コー

トである。市の援助で出来たのが5コート有ると思います。コートの手入れが 行き届いている所のチームが矢張り強いような気がします。

昭和63年4月23日・24日に、第3回全国選抜ゲートポール大会が熊本県熊本

市水前寺陸上競技場・野球場で行われた。ミドルクラスに「てだこ」チームが

参加した時に、私も選手として初めて全国大会に参加した。

熊本市の観光名所である水前寺公園の近くに陸上競技場はある。水前寺公園

には、以前勤.めていた時に修学旅行で2度来た事がありますが、何時来ても素

晴らしい所である。

市内観光の名所のもう一つは、熊本城である。ここも修学旅行で来たのと、

沖縄大学野球部の部長をしていた時に、藤崎台野球場で大会があった時にも来

ているので5回程来ている事になる。熊本県では阿蘇山が有名である。大会終

了後に観光バスで行ってみたら、麓から頂上までパスで1時間かかる。火口の

直径が約400メートルあるとの事、そのスケールの大きさにびっくりした。

第5回全国選抜ゲートポール大会が平成2年5月26日・27日の両日、富山県

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五福公園で行われ、沖縄からはシニアに浅ノ浦チーム、シニア・レディースに 知花チーム、ミドルに「てだこ7」、ミドル・レディースにグリーンハイツの 4チームが参加した。 大会2日目に、神奈川県の渡辺GBクラブと対戦したが、試合のマナーが良 く勉強になった。今まで対戦したチームの中では最高のチームであったと思い ます。 大会終了後バスで2時間程で飛騨山脈の槍ケ岳、乗鞍岳の3,000メートル級 の山々に近く、夕方になると冷えてくる。翌朝はバスにて市内見学をしたが、 高山の城下町の商人町として発達した三町を見学した。このあたりは比較的古 い街並みの面影をとどめている所で、出格子の軒下には溝があり、滑らかな水 が流れていて、旅人宿のたたずまいにも昔をしのばせるものがある。 次に、20分程度移動した所に飛騨民俗村・飛騨の里を訪ねる。この飛騨の里 を建設したのは、ダム建設による水没や、過疎による崩壊などで、年々姿を消 して行く飛騨の民家・民具を保存するために作られたようである。 切妻合掌造りの家は落ち着いた雰囲気を、訪れた人々に与えてくれろ。機会 があったらもう一度行ってみたい所である。 大会当時、NHK連続テレビ小説「凛凛と」が放送されていた時期だったの で、富山県という所に興味をもっていた。 監督会議に配布されたパンフレットに唇気楼の事が書いてある。バスガイド さんの説明によると、雪解けの水が海に流れ込み、海水とまざり合う時に気候 条件によって現われる現象である、と説明があった。一度は見てみたいもので ある。それに、富山県の県烏が雷鳥であると説明があった。この鳥は、雷が鳴 り響く時に餌をとるらしく、他の鳥が休んでいる時に餌をとる臆病な鳥らしい。 平成2年10月20日・21日の両日、文部大臣杯第6回全日本ゲートボール選手 権大会が、山口県維新百年記念公園ラグビーサッカー場第2球技場で行われた。 沖縄からは、沖縄市愛球会。浦添市浦添・浦添市宮城の3チームが参加し、 宮城チームが準決勝で優勝チームの兵庫県代表の日本海かすみチームに惜敗し 3位になった。 山口県は、明治維新発祥の地としても知られている所である。私は大会2日 -55-

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前に着いたので観光バスで市内見学をした。初日は秋芳洞を見学したが、沖縄 の玉泉洞とは少し違いがある。二日目は山口市の市内観光をした。特に、吉田 松蔭を祭ってある松蔭神社は勉強になった。東京世田谷区にある松蔭神社とも 関係があるとの事であった。それに山口県は「ふぐ」でも日本で有名な産地で ある。ここでは「ふぐ」とは云わずに「ふく」と呼ぶ。バスガイドの説明によ ると幸福を招くようにとの意味合いから「ふく」と呼ぶようにしているとの事 であった。ゲートボールの試合だけではなく、その土地の観光をすることも良 い事だと思った。私が参加した全日本大会は、以上の三つの大会であるが、浦 添市連合では、昭和60年頃から今日までに約10チームを全国大会に派遣してい ろ。 1991年4月に役員改選が行われ、会長佐久本嗣善氏、理事長永山盛淳氏、審 判長作取克友氏が選出された。会員400名のために頑張って下さい。 5.伊是名島におけるゲートポール 1)伊是名島のゲートポール調査 1991年8月26日午前8時45分、浦添市の自宅をミニバイクで出発した。盆が 終った直後のせいか国道58号線は割合にすいていて運転しやすかった。運天港 に11時30分に到着したが、-便はすでに出航していた為に二便を待つ事にした が、この間かなり退屈した。 午後3時に二便で運天港を出航し4時15分に仲田港に到着した。船旅は久し ぶりだが相変わらず船に弱い。

伊是名島は周囲16.7km・面積13.87km2の小さい島である。島を一周するのに

30分の時間を要します。道路は約14kmであった。 仲田港の近くに字仲田のゲートボール場があります。そこを出発点に字伊是 名に向かって進むと約200メートルの所に牛や山羊を飼育している家畜小屋が ある。ここの山羊は人に例えて云うならば美人である。若い山羊のせいかもし れない。しかし、やがて人間に食われてしまう哀れな運命である。 しばらく進むと伊是名城吐が見えてきましたが、現在は1メートル程の石垣 で囲っている程度である。城吐から字伊是名までの間にンラサギ展望台とギタ -56-

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ラ展望台の二ケ所の展望台がある。ここからの眺めは確かに素晴しい゜この辺 は松の木が多く生い茂っている所である。

字伊是名は伊是名本島唯一のキャンプ場のある所で、夏休み中は多くの人達

がキャンプを張り賑わっていろ。8月26日には6張りのテントがあったが、9 月1日にはl張りになっていた。

伊是名から勢理客にかけては、昭和61年に来た当時とあまり変わりはない。

昭和61年に大嶺哲雄教授(沖大)の自然科学ゼミの学生20名と一緒に屋下島に

キャンプを張った。夕方から勢理客漁港で釣をしていたら夜中の1時15分に、

屋下島にキャンプを張っている所の真上あたりに照明弾のような青白い光りが

走り、やがて火の玉のようになって遠ざかっていった。その間約5秒、夢でな

い証拠に学生の数名の者が発見している事であった。

勢理客から内花への中間あたりで伊平屋島が見えろ。9月には伊平屋島に調

査に出掛ける予定である。

内花には、内花港がある。伊是名島に滞在中に内花漁民の追い込み漁のテレ

ビ放送を見たが、沢山の魚が網に入っていた。

尚円王生誕地(御膳所)が諸見にある。尚円王(金丸)は1415年、伊是名島

に百姓の子として生まれた。長じて各地を流浪した末、越来按司尚泰久の家人

となる。1454年に西原内間に領地を与えられろ。1470年56才の時、王位に即〈。

諸見(現在はモロミと読む)から字仲田まではかなり近い。両字の中間点の

山寄りに村役場・郵便局。病院・農協・消防署・小学校・中学校がある。小学

校の校門前に伊是名島唯一の信号機がある。 2)仲田ゲートボール場

仲田ゲートボール場は仲田港の近くにあります。伊是名島にゲートボールが

導入された当初は人数も多く、2ケ所あったようであるが、平成3年3月に、

集落排水施設(農村総合整備モデル事業)として建設された時に1ケ所は使用

されて、現在は1ケ所のコートを使っている。ここはナイター設備もあってコ

ートの四角に水銀灯が設置されているが、明るさはどの程度のものか判らない。

電気料金は若い人達が負担しているようである。

コートの状態は、総合的に判断してC級(5段階評価)と判定する。8月27

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曰5時頃の練習では、男性3名、女性5名で楽しんで居られたが、老人の方々 で13名は居られるとの事であった。

若い人達(ここではOBと呼んでいろ)も2チーム出来る程度の人数は居る

との事であったが、私が調査した期間は、字の行事(組み踊り)の為にゲート

ボールの練習を休んでいるとの事である。 3)伊是名ゲートボール場

伊是名ゲートボール場は海岸に近い所にあります。以前は海が見えたのに、

現在は護岸工事の為に海が見えなくなった。ここは風の影響により、表面の砂

が風に吹き飛ばされて石ころが表面に出てきてタッチがしにくい。総合的判断

としてD級として判定する。幸いな事に近々コートの整備をする予定があると の事であった。

第2コートは、若い人達が使用するコートで、ここは2基の水銀灯が設置さ

れていろ。明るさはどの程度か知らない。人数も10名程居るようであるが、最

近は練習を休んでいるようだ。ここのコートはC級と判定する。 4)勢理客ゲートボール場

勢理客には軟式野球場がある。その道を隔てた所にゲートポール場がありま

す。ここは総合的に判断してC級の上と判断する。ナイターの設備が無いのは、

OBはゲートボールをやっていないという事かも知れない。8月27日4時30分 に訪ねた時には、男性5名、女性8名でゲームを行っていたが、クツを履いて いる人は1名で残りの人達はゾウリ履きであった。 5)内花ゲートポール場 内花ゲートボール場は、現在使われていない。ゲートが立ててあるのでゲー トボール場と判るのであって、そうでなければただの広場である。 6)諸見ゲートボール場 昭和61年に調査した時には、現在地の北隣にあった。狭いうえに表面は固く、 砂が少なくゲートボール場としては悪いコートであったと記憶していろ。現在 地は、農村総合整備モデル事業諸見区農村公園として整備されていろ。このコ ートは総合的に判断してB級と判定する。 ここは、ナイター設備があり、4基の水銀灯の照明で十分な明るさである。 -58-

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電気料金は同好会を結成している18名の若い人達で支出しているようである。 6時30分から老人会の人達が練習を始め、9時30分からは若い人達の練習が始 まり、午前0時頃まで続く。 4ケ字を取材して感じることは、高齢化が進んでいる事である。伊是名にゲ ートボールが導入されたのは10年以上も前の事である。その時に始めた人達が そのまま続けていて、その後に加入する人達が少ないと思う。一番の高齢者は 95才位の方で毎日ゲートボールを楽しんでいる。80才の女性の万がミニバイク でゲートボール場に乗りつけたのにはびっくりしました。 ここでゲートボールについての楽しみ方について私の意見を述べておきたい。 1.スポーツとしての考え方である。高い位置に目標を設定し、(全日本大会) 優勝を目標に、厳しい練習に耐え初期の目的を達成する事である。 諸見同好会の皆さん、全日本大会の優勝を狙ってみませんか、その前に全島 制覇を狙ってみる気はありませんか。現在の自分達の実力が判らないとその気 にもならないと思いますので参考までに申し上げます。本島内には若い人達の チームが約70程あります。その中で皆さんのチームは30位程度の実力と考えて よいと思います。狙って下さい。 2.ゲートボールを「楽しむ」という考え方である。老人クラブに所属してい るものの、かなり高齢の方で試合に出場しなくてもよいという方々である。毎 日ゲートボール場に来るのは、ボールさえ叩いていれば、「幸せ」と考えてい る人達である。このような方々に指示違反であるとか、入場違反であるとか云 うても何にもならないのです。高齢者の方々が気持ち良くプレー出来るように 考えてあげるべきであります。 3.字を代表して選手として活躍している人達は、練習そのものが試合に臨む 態度でなければならない。服装も足元も試合に臨む時の状態が望ましい。勿論、 反則については試合と同じ程度で判定すべきである。 以上、3通りの考え方があります。自分自身はいずれに属するかは、本人自 身しか判りません。何時迄もゲートポールが出来ます様頑張って下さい。 8月26日から9月2日まで、伊是名の名字を調査いたしましたが、皆様方の 御協力を得まして無事に調査を完了いたしました。誠に有難う御座いました。 -59-

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おわりに 伊是名島においては高齢者の方々の、生活の一部分としてゲートポールは位

置付けされている。5時頃になるとゲートボール場に老人の方々が集まって来

ます。徒歩で来る人、自転車で来る人、ミニバイクで来る人もいます。ゲーム

は、指示違反、入場違反、静止触球違反と、すべての反則おかまいなし……。

何時迄もゲートポールを楽しんで下さい。百才のプレイヤー誕生を期待して

います。 -60-

参照

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