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The Establishment and Development of Neighborhood Associations in the Post-War Naha City of Okinawa Prefecture

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Academic year: 2021

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(1)(180). 論文:戦後那覇市における住民自治組織の形成と展開(青木). 論文. 戦後那覇市における住民自治組織の形成と展開 ―「行政区」と自治会「加入率」の問題 ― The Establishment and Development of Neighborhood Associations in the Post-War Naha City of Okinawa Prefecture 青木康容 Yasuhiro AOKI This paper discusses how neighborhood associations in Naha City were formed and termed jichi-kai after World War II (WWII), and it explores the role of the administrative area, which is referred to as gyohsei-ku, for forming jichi-kai associations. Jichi-kai is a new type of local entity and is expected to take the place of existing long-established local communities, often referred to as Aza. After WWII, many people from all over the Okinawa islands hurried to get jobs in Naha, which caused the Naha population to grow and urbanize. This, in turn, lead to the development of new associations called kyohyu-kai. Not surprisingly, association with a kyohyu-kai is based on a person’s origin, which makes membership in these organizations exclusive. Eventually, some kyohyu-kai associations arose that were essentially equivalent to the jichi-kais. By the same token, membership in the Aza communities has been restricted since ancient times, and this system has since been renamed jichi-kai, which is also restricted. Aza communities exclude people from different neighborhoods from joining because some Aza communities have particular assets, such as shared land, that they can use to generate financial benefits, like renting land for military bases. That is why the participation rate in Naha City associations is unusually low―20− 30%―compared with the participation rates for neighborhood associations in other Japanese cities. From this background information, this paper extracts four types of associations. The first two are authorized neighborhood associations: one is here referred to as “Azatype jichi-kai” and the other is referred to as the “Non Aza-type jichi-kai.” The third type is simply called kyohyu-kai, in which people are able to mutually receive comfort and assistance. Finally, the fourth is known as an assent-management entity, which gives large sums of financial support to neighborhood associations.. はじめに 本稿は戦後沖縄県那覇市における住民自治諸組織、中でも自治会の形成と発展に関する 論考である。都市化にともなう地域再編としての「行政区」設置問題と旧来の字が所有す.

(2) 日本都市社会学会年報 36・2018. (181). る「共有地」の意義を検討することによって、戦後那覇市の都市化による変貌した地域社 会の一面を明らかにしたい。「行政区」については地域(住民)と行政(役場)との意思疎 通の制度的な接点を構成するが故に、那覇市においては 1950 年代その設置如何が重要な 行政課題となった。 那覇市の住民諸組織を特徴づけるのは、沖縄県の地域社会全体に共通するものである が、琉球王府以来の旧字(村)が所有する「共有地」 (旧字が所有する土地財産)というも のの存在である 1)。戦後、住民組織におけるこの所有如何が地域における住民組織の態様 を規定した。沖縄県における字誌の類の資料を見るとほとんどすべての村落にこうした共 有地の記述があり、それは村落社会における生産と生活の共同性を支える必須のもので あったことがわかる。戦後この共有地はどのように利用されたのか、それによってもたら される収益はどのように配分されるのか、その被配分者の範囲をどのように定めるかとい うような観点から戦後沖縄社会を追究した論考は殆どない 2)。 さらに、那覇市の自治会は沖縄県においてもその極端に低い加入率を示すことが知られ ているが、それにはこの「共有地」の存在が大きく影響を与えている。那覇市の自治会加 入に関する研究文献は必ずしも多くはないが、そうした数少ない研究の中で低加入率につ いて言及したものに高橋勇悦の労作[1995]のほか黒田由彦[2013]がある 3)。本稿は両者 が用いた同一の資料(年度は異なる)を利用し、両者とは異なった読み方が出来ることを 示そう。それはかれらの議論に欠けるものを補うことになるだろう。同一の資料とは、那 (後年、これは「自治会活動の 覇市の地域担当課が編集し、毎年刊行される「自治会事業概要」 てびき」と名称変更)である。高橋は平成 2 年度版(1991)および 4 年度版(1993) 、黒田は. 平成 10 年度版(1998) 、本稿は平成 28 年度版(2016)を用いたが、内容は年度ごとの統計数 値を別にすれば殆ど同一である。 1.那覇市自治会の所在区域とその特徴 先ず、論点を端的に示すために現行自治会の所在を示すことから始めたい。以下の表 1 から表 4 までの各表は現那覇市を構成する 4 地区(本庁と呼ばれる旧那覇市、旧真和志 村、旧首里市、旧小禄村)における自治会所在の町丁名を表わしている。 利用した自治会事業概要は、「単位自治会」として記載された 4 地区における 自治会 単位 の所在地の一覧表であったが、本稿はこれを那覇市の現町丁名を用い、 町丁単位 に自治会名を示すこと、つまり原資料における自治会掲載様式を組み換えて再編集したの である。そうすることによって、「多くの地域において自治会の組織がほとんど存在して いない」 [高橋 1995:194] 、「自治会がない地域がかなり存在している」 [黒田 2013:240] と言及するだけで具体的な地域名を明示することがなかった自治会不在の地域名、これが 明らかになる。すなわち那覇市各地区の各町名にどのような自治会が設置されているの.

(3) (182). 論文:戦後那覇市における住民自治組織の形成と展開(青木). か、どの町名に自治会設置がなされていないのか、これが一目で分かるのである。(表 1 ∼ 表 4 には自治会の固有名のみを記す、つまり「○○自治会」を単に「○○」としている。表中の「世帯 数」は 2016 年那覇市統計書から転載). こうして再編集された各表に記載されている自治会名を見ると、同一の自治会名が複数 の町名に跨っていることがわかる。通常は町丁単位にひとつの自治会が想定されるであろ うが、同一自治会の会員が複数町に散在するのである。こうした現象は通常考えられない が、これが那覇市の自治会の現実である。自治会の所在地設定に自治会側の裁量が大きく 作用していることが分かろう。およそ自治会設置と区域とは相即不離という概念からは遠 いのである 4)。町丁単位にひとつの自治会という自治会論は都市社会学者倉沢進が強調す るところでもあった 5)。彼は、自治会の形成と機能に関して世帯単位加入、自動的加入、 包括的機能、行政補助機能を掲げるのが通説であるが、もう一つ見落とされている特徴に 「ひとつの地域にひとつの町内会」という地域占有性があると言う。しかし那覇市におい てはそれとは全く異なった自治会形成もある得ることを示している。この一連の表から 4 地区それぞれの特徴を窺うことが出来る。 (1)旧那覇市(本庁) 旧那覇市においては旧町名を冠する地域の多くが 1945 年から 55 年まで米軍接収に遭っ た。戦後間もなく解放された区域は壺屋町(1945.11)、牧志町(1946.5)という僅かな空間で あった。その狭小な区域と周辺地域に土地を失った人々が蝟集した。米軍による土地桎梏 から解放されたのは 1952 年以降であり 6)、この時から地域住民に対する行政活動が本格的 に始まったと考えることが出来るが、返還地域の再接収による居住地移動とその後の解放 や人口増加など戦後都市化の激しさが、他の地区と比べて旧那覇市における自治会設置時 期を遅らせた。 表 1 に示すように、旧那覇市は 4 地区のうち自治会設置が見られない区域(表の自治会 名空欄の太字部分)のもっとも多い地区であり、泊 1 ∼ 3 丁目には世帯数 3,000 近くの住民 登録がありながら自治会設置を見ることがない。住民登録の無い住吉町、通堂町、. 3丁. 目は接収された軍事施設があるからである。住民登録数(住民はおそらく基地関係者)の 少ない垣花町と旭町も同様な関連であろうと推測できる。泊ほか牧志、壺川、前島なども 相当な世帯数を示しながらも自治会を設置することがない。ここが商業地域であるので 「通り会」と呼ばれる商店街団体が存在する。これを自治会の代替物であるとすることも 出来るが、自治会組織は地域自治を担うのに対し、通り会は要するに商店街でありビジネ ス利害を共有する集合体なので質的な相違がある。 国場川対岸の軍用地化され住民居住者がいなくなった住吉町、通堂町、垣花町、旭町は 市街地形成の都市計画の上では初めから居住地区としては想定されてはいなかったと思わ れる。その意味では那覇市民の野外アミューズメント施設である公園や野球場のある奥武.

(4) 日本都市社会学会年報 36・2018. (183). 表1 旧那覇区(本庁)の自治会名と町名 ਼ఝਯ. ঴੡. ঽ੘ভ੡. 

(5). ฿ഛ৯. . ฿ഛ৯. ਼ఝਯ. ঴੡. ঽ੘ভ੡. 

(6). ⎨ਆഛ৯. . ৫વય. ഛ৯. . ક୺ય‫ؚ‬฿ుญਁୱ. ഛ৯. . ુ౭. ഛ৯. . ँऐऻभ੮৉. ৐ਣഛ৯. . ଄໭ीउध‫ؚ‬৐ਣਕഛ৯. ਍ප௃ય‫؞‬਍ප‫؞‬ળ৙ય‫؞‬ક୺ય. ฝಂഛ৯. . ऎुग৉ୠ. ഛ৯. . ᛹ો঴ড়ভ. ஊ਍ප  ਍පഛ৯. . ഛ৯  ஊଠ୲  ଠ୲ഛ৯. ਍පৗ੃ੱ‫ؚ‬ળ৙ય ਍ප৘੾ક୧‫ؚ‬਍පৗ੃ੱ ક୺ય‫ؚ‬ଠ୲‫ؚ‬฿ഛ৯. ૈஏഛ৯. . ഛ৯. . ਧૈஏ ऎुग৉ୠ‫ૈؚ‬ஏ੸ഛ৯. . ଠ୲আ॔२‫ؚ‬ଠ୲. ஊໝშ. . ໝშ৘੾ક୧‫ؚ‬਍ળ‫ؚ‬ળ৙ય. ഛ৯ . ଠ୲আ॔२‫ؚ‬ଠ୲. ໝშഛ৯. . ໝშৗ੃ੱ‫ؚ‬਩੾ଠ୲ৈಽક୧‫ؚ‬ৗ੃ੱໝშ৘੾ક୧. ೎૊ഛ৯. . ೎૊ഛ৯. ഛ৯. . ໝშৗ੃ੱ. ഛ৯. . ೎૊ഛ৯. ഛ৯. . ໝშৗ੃ੱ. ஊ঱౓ો. . ਩੾঱౓ો৘ඌ৉ક୧. ৛ৣ঴. . ৛ৣ঴‫ؚ‬৛ৣীඒક୧‫ؚ‬িਉ ৵ዿ৉ય‫ك‬. उुौऽठഛ৯. . ଄໭ഛ৯. . ଄໭ഛ৯. ୲৪ഛ৯. . ୲৪. ഛ৯. . ୲ൄ৉ഛ৯. . ೎૊ഛ৯. ഛ৯. . ഛ৯. . ऎुग৉ୠ. ซ୨঴ഛ৯. . ഛ৯. . ऎुग৉ୠ. ౳঴. . ঱౓ોഛ৯. . ൔ૱৛঴.  . ଽణ୉ഛ৯ . उुौऽठ. ਩੾ଽణ୉ਸ਼৘ඌ৉ક୧‫ؚ‬ଽ୉‫ؚ‬஖ি੮৉. ഛ৯. . ଽ୉਱഻. ၙఈഛ৯. . ၙఈഛ৯. ୲৪ഛ৯. ၙఈরఙ‫ؚ‬஖ি. ၙఈഛ৯. . ᛹ਆഛ৯. . ຠഛ৯. . ഛ৯  ▏ഛ৯ . ▏. ഛ৯. . ▏‫▏ؚ‬৘੾ક୧. ᛹ਆഛ৯. . ਩੾পଶ৘ඌ৉ક୧. ᛹ોഛ৯ . ુ౭‫ؚ‬᛹ો঴ড়ভ. ৐ਣഛ৯. . ฝಂഛ৯. . ਧഛ৯. . ਧ঴. ૈ৛ഛ৯. . ഛ৯. . ਧ঴. ௃঴ഛ৯. . ഛ৯. . ਕ੎ଗ੮৉. ূ঴. . ຏೱ৘ূ঴. ▏ഛ৯. . ક୺঴ഛ৯. . ৢൡ঴. . ଄໭ഛ৯ ଄໭ഛ৯‫ؚ‬଄໭ीउध‫ؚ‬଄໭৘੾ક୧. 山、埋立地から発展した業務地域としての港町もそうであった。なお、表中「山下町」の 欄に 3 つの自治会名を見るが、「田原自治会」は旧小禄から移動してきたことを示してい る。 (2)旧首里地区 旧首里市は軍用地とは無縁であった。しかし首里に旧日本軍司令部が置かれたため琉球 王国の文化遺産はすべて焼失し城下町が壊滅したように戦災には遭ったが、軍用地化を免 れ接収された土地は皆無であった。そのためなのか戦後の首里に関する字誌や町史には、 どの地域に移動を強いられたかといった他町村によくある記録類を見ない。 戦前の 19 の各町は戦後においても町界の変更が無く維持された。そのためこの首里地 区は 1971 年から実施された町名変更の必要が無いほど戦前の町名がそのまま継続すると いう稀有な地区となった。つまり現首里地区は戦前首里の行政的な区画であった「部落会.

(7) (184). 論文:戦後那覇市における住民自治組織の形成と展開(青木). 表2 首里地区の自治会名と町名 ঴੡. ਼ఝਯ. ঴੡. ঽ੘ভ੡. 

(8). ਼ఝਯ. ঽ੘ভ੡. 

(9). ੣౔஧ি঴ഛ৯. . ஧ি঴. ੣౔਴ଐ঴ഛ৯.  ਴ଐ঴. ੣౔஧਴঴ഛ৯. . ஧਴঴. ੣౔Ꮶଐ঴ഛ৯.  Ꮶଐ঴. . ౱ഈ঴. ੣౔Ꮶଐ঴ഛ৯.  Ꮶଐ঴‫ؚ‬Ꮶଐ৘੾ક୧. ੣౔౱ഈ঴ ੣౔প੡঴ഛ৯. . প੡঴‫ؚ‬প੡ਸ਼੸੮৉. ੣౔ਊ୉঴ഛ৯.  ਊ୉঴. ੣౔প੡঴ഛ৯. . প੡঴‫ؚ‬প੡िणा. ੣౔࿝ਉ঴ഛ৯.  ࿝ਉ঴. ੣౔প੡঴ഛ৯. . প੡঴‫ؚ‬প੡৘੾ક୧. ੣౔೭൘঴ഛ৯.  ೭൘঴. ੣౔পর঴ഛ৯. . পর঴. ഛ৯.  ೭൘঴. ੣౔সଗ঴ഛ৯. . সଗ঴. ഛ৯.  ೭൘঴. ੣౔সଗ঴ഛ৯. . সଗ঴‫ؚ‬সଗॲ঒ๆ௵ভ‫ؚ‬੣౔૊৛ঁॖॶ. ഛ৯.  ೭൘঴‫ؚ‬೭৵൘. ੣౔໓৳঴ഛ৯. . ໓৳঴. ഛ৯.  ೭൘঴‫ؚ‬਩੾೭൘৘ඌ৉ક୧. ੣౔୲ৃਆ঴ഛ৯. . ୲ৃਆ঴. ੣౔ઌਮಂ঴ഛ৯.  ઌਮಂ঴. ੣౔୲ৃਆ঴ഛ৯.  ୲ৃਆ঴‫ৃ୲ؚ‬ਆ৘੾ક୧. ੣౔৛ਆ঴ഛ৯.  ৛ਆ঴. ੣౔૊৛঴ഛ৯. . ૊৛঴. ഛ৯.  ৛ਆ঴‫ؚ‬࿝ਉ঴. ੣౔૊৛঴ഛ৯. . ૊৛঴‫ؚ‬੣౔૊৛ঁॖॶ. ഛ৯. ੣౔໬ਆ঴ഛ৯. . ໬ਆ঴. ੣౔લྒ঴ഛ৯. . લྒ঴‫ؚ‬લྒऱेः‫ؚ‬લྒ௳੊ৢॉ‫ؚ‬લྒਸ਼੸৘੾ક୧‫ਁؚ‬ਜ৩੣౔ક୧. ੣౔ଜ୺঴ഛ৯. . ଜ୺঴‫ؚ‬ଜ୺੮৉. ੣౔લྒ঴ഛ৯. . લྒ঴‫ؚ‬ଗূ‫ؚ‬য়ਆ‫ؚ‬લྒূনഗ‫ؚ‬લྒ੮৉‫ؚ‬ଗূঁॖॶ‫ؚ‬ଗূ੮৉. ഛ৯. . ଜ୺঴‫ؚ‬ଜ୺৘੾ક୧. ੣౔લྒ঴ഛ৯. . લྒ঴‫ؚ‬ञ़़॒ৢॉ‫ؚ‬લྒ॔ঌॵॡ५‫ؚ‬લྒ௳੊ৢॉ. ഛ৯. . ଜ୺঴. ੣౔લྒ঴ഛ৯. . લྒ঴‫ؚ‬લྒाभॉ‫ؚ‬੣౔લྒঁॖॶ. ഛ৯. . ଜ୺঴. ੣౔Ꮶଐ঴ഛ৯. .  ৛ਆ঴. 町内会」の区画がそのまま今日まで維持され旧字毎に自治会設置が見られ、旧首里市の住 民自治組織が実に見事に維持されているのである。例外的な区域は 1920 年に首里区に編 入されていた農村地域の旧石嶺村である。1980 年代以降の急速な人口増大を引受け、旧村 は町丁に細分され村落は変貌し都市化されていった。首里地区は琉球王府の所在地として いわゆる士族層の居住地であったが、もともと原野もあり戦後の人口増加を受け入れる余 地があったため、現在は戦前戦後の人口はほぼ半々の構成である。また他地区とは異なっ て首里地区では旧字有地は殆どないため、他地域から移住してきた 寄留民. 7). も加入意. 志があれば 推薦人 も不必要で自治会に入会可能であるとヒアリングで聞いた。 (3)旧小禄地区 現小禄は旧村のかなりの部分を米軍用地として接収された。戦争前(1933 年)からす かがみず. でに旧日本軍の飛行場建設のために鏡水と大嶺は土地を失っていたが、米軍による接収は あ. し みね. さらに赤嶺、安次嶺、当間、金城の全域を、また宇栄原、小禄、高良、田原では田畑を取 られた。無傷であった字は無く、ほぼ全集落が影響を受けたのである。こうした事情が異 例な自治会所在となった。軍用地接収に遭い住処を追われた人びとは同じ小禄内の他の旧 字民の区域の中に、あるいは村を超えて移動し旧来の住民組織を移動先の土地で新しく結 成して、居候のごとく同居したのである。 例えば、表 3 には「田原」自治会の会員が字田原のみならず字宇栄原、字小禄にも見ら れる。さらに本庁地区にも所在することは先述した。同様に、宮城 1 丁目に「宮城自治 会」名を見るが、次表 4 の真和志の寄宮 2 丁目にも「宮城区」「宮城区南」という 2 つの.

(10) 日本都市社会学会年報 36・2018. (185). 自治会名を見出す。これは旧字宮城の人々が真和志の寄宮 2 丁目にも所在することを物語 るものである。真和志村に移住してきた小禄の人々のいわば亡命地の如くであるが、2 つ に分かれての存在は小禄には十分な居住地の余地が無かったということであろう。表 3 に は記載できなかったが、金城 1 ∼ 5 丁目に示された「字金城」の自治会会員は小禄地区の ほか、 「県内各地」にも居住することが原資料(平成 28 年度版「自治会活動の手引き」 )に 記されている。これも自治会区域設定として異例であろう。 その後、部分的な土地返還はありながらも旧字の鏡水、大嶺、安次嶺の全地域、及び当 間、具志、宮城の一部は軍用地として継続接収されたため、地代として軍用地料を受領し ている 8)。したがって小禄地区の自治会の中には軍用地として接収された字有地(共有地) の財産管理を目的とした組織を自治会とは別途に設置している。例えば、大口の軍用地料 収入(31.8 億円 / 年)のある鏡水自治会はその名称を「郷友会」と変えただけの「字鏡水郷友 会」という団体を設置した 9)。次いで高額収入(20.8 億円 / 年)のある大嶺は「字大嶺向上 会」という名称 10)、宮城自治会も軍用地料収入(6.8 億円 / 年)としては必ずしも大きくはな いが、旧字共有地管理の「財産管理運営会」という名称の団体をもっている 11)。旧字高良 は自治会名を「那覇市高良」と名乗り、「高良宝友会」という名称の郷友会を 1988 年に設 置した 12)。小禄自治会にも同様な財産管理団体(1.62 億円 / 年)があり、これは 1992 年に設 置された。 このように自治会加入に制限を課さない地域組織と、それとは別組織としてしばしば 表3 小録の自治会名と町名 ঴੡. ਼ఝਯ. ঽ੘ভ੡. 

(11). ஧ྒഛ৯. . ஊ஧ྒ. ഛ৯. . ஊ஧ྒ‫ؚ‬਩੾஧ྒ੮৉ ஊ఻ಂ‫ؚ‬ഌ౭ਉ‫ؚ‬ஊྰ਷‫ؚ‬ஊ਍ઃྒ‫ؚ‬ஊপྒ‫ؚ‬ਸ਼. ঴੡. ਼ఝਯ. ঽ੘ভ੡. 

(12). ૝ଗഛ৯. . ૝ଗ. ஊিਉ. . ஊ਍ઃྒ‫ؚ‬ஊপྒ‫ؚ‬িਉ. িਉഛ৯. . ৵ዿ৘੾ક୧. ஊഌ౭ਉ. . ഌ౭ਉഛ৯. . ஊ஧ྒ. সଗഛ৯. . ஊসଗ‫ؚ‬িਉ. ഛ৯. . ஊ஧ྒ‫ؚ‬ഌ౭ਉഛ৯ਗযક୧. ഛ৯. . ஊসଗ. ഛ৯. . ഌ౭ਉ‫ؚ‬ஊ஧ྒ‫ؚ‬৵ዿৗ঴. ഛ৯. . ஊসଗ. ഛ৯. . ഌ౭ਉ‫ؚ‬ഌ౭ਉ੮৉. ഛ৯. . ஊসଗ. ഛ৯. . ഌ౭ਉ‫ॢؚ‬জ‫ش‬থ ഌ౭ਉ. ഛ৯. . ஊসଗ‫ؚ‬ஊ஧ྒ. ഛ৯. . ഌ౭ਉ. ஊ஧ྒ. . ੸।‫ॺش‬৐‫ؚ‬িਉ. ஊ৵ዿ. . ஊ৵ዿ‫ؚ‬ஊᮟ৑‫ؚ‬ஊྰ਷‫ؚ‬িਉ‫ؚ‬৵ዿ೎ਉ. ஊྰ਷. . ৵ዿഛ৯. . ஊ৵ዿ‫ؚ‬ᅻে੮৉ূ์‫์ূ؞‬. িਉഛ৯. . ഛ৯. . ஊ৵ዿ. িਉഛ৯. . ഛ৯. . ஊ৵ዿ. িਉഛ৯. . ഛ৯. . ஊ৵ዿ. ஊਊ৑. . ഛ৯. . ஊ৵ዿ. ஊ਍ઃྒ. . ྰਉ঴. . ஊྰ਷. ஊপྒ. . ఻ಂഛ৯. . ஊ఻ಂ. ஊ఻ಂ. . ৈଐഛ৯. . ຏೱ৘ৈଐ. ஊৈଐ. . ஊ૝ଗ. .

(13) (186). 論文:戦後那覇市における住民自治組織の形成と展開(青木). 「郷友会」と命名される財産管理のためのいわば裏組織を設置する手法は本島中部の軍用 地化された地域の多い北谷町、嘉手納町、読谷村などにも見ることが出来るが 13)、小禄地 区の軍用地料は金武町など北部の入会権に基づくそれと較べても巨額である。自治会と郷 友会とが同一会員を擁するという地域団体としての設置の仕方は自己防衛策であろう。つ まり自治会組織であれば外部者の加入を妨げる理由を見つけるのは難しいが、郷友会なら ばその名称からして外部者の加入はあり得ないからだ。今日小禄地区には 21 の自治会が あるが、そのうち 12 は旧字であり、「旧 12ヵ字には郷友会がある」ということをヒアリン グで聞いた。そうした旧字自治会には会員資格に特定の「門中」を指定し、その家族であ ることを要する規定のあることも本島中部地区の郷友会との違いである。 (4)旧真和志地区 旧真和志村は旧那覇市と旧首里市との間に位置する田園地帯であった。戦後、真和志は 旧部落 23、新部落 7 を加えて「30 の行政区が組織され区長を設置」したという 14)。字民が 旧来の連帯を回復させる戦後の自治会設置は比較的早く、真地、仲井間、樋川、国場など の旧字は素早い起ち上げであった。占領下の接収地は 1948 年までには大部分が解放され るが、1951 年以降においてなお継続占領されたのが天久、安謝、上之屋、銘苅、安里、 真嘉比、古島(以上は米軍住宅地)、国場、与儀、古波蔵(以上は那覇軍港から宜野湾市所在の普天 間飛行場へ送るガソリン貯蔵施設)であった。. もともと農村地帯であったためもあるのだろう旧字所有の共有地が広範囲に存在する。 この存在が軍用から解放された跡地の利用法として自治活動に活用され、他の区域とは異 なった活動を見せる。それは 1972 年の本土復帰後に実施された区画整理事業が 77 年に終 了したことを受けて、軍用跡地の旧字共有地が多様に利用できるようになったからであ る。 例えば一部が貯油施設として接収された旧字の国場自治会はマンションや貸ビルを 建設し不動産業を経営、これを自治会資産としている 15)。 同じようにビジネスを自治活動の一環として行う自治会には上間自治会、識名自治会、 仲井間自治会、繁田川自治会があり、旧字有地を所有財産として利用しマンション、駐車 場、建売住宅などの経営を行っている。真和志村の旧字天久は戦後に那覇市に併合された が、同様な共有地資産がある。米軍住宅地として接収され、その解放後は新都心の一部と なったが、旧字有地の賃貸地料また他の運用収益があるため、法人組織としての「資産保 存会」を設け自治会とは別途の会員資格を定め運営するのである。 こうした自治会に対しては旧字民以外の居住者は加入することが出来ない。経営収入に 対する配当もしくは分配金が年に 1 、2 回各世帯にあり、旧字民以外の容喙を許さない自 治会規定を設けるところもあると聞く。また表 4 に見るように、世帯数 1,000 を超えるほ どでありながら、一切の自治会設置が見られない町が存在する。古波蔵 1 丁目(世帯数 1290) 、字与儀(同 1663)、与儀 1 ∼ 2 丁目(同 1468)、真嘉比 1 ∼ 2 丁目(同 1779)、松川 1 ∼ 2.

(14) 日本都市社会学会年報 36・2018. (187). 丁目(同 1489)がそうした町である。中でも旧字「与儀」の住民はあえて自治会をつくら ず財産管理会とでも言うべき団体を結成し旧字民の紐帯を維持する。 戦後の真和志も人口増大で都市化の進んだ地区であり、他地域からの移住者との混住率 が高い 16)。こうした寄留民から旧字の利害を確保しようとするのは自然なことではある。 沖縄の社会学者石原昌家による地域組織の研究書にこうした点を指摘したものがあった。 「旧真和志の各旧部落会には字有地などの共有財産があり、余所者はふだん付き合いはし ても自治会には加盟できなくして、新しいコミュニティがなかなか一体にならない」とい う 17)。なお「字松川」の自治会名に「大道区」のほか「山川町」の自治会名を見出すが、 これは首里地区の山川町自治会会員が真和志においても居住していることを示すものだ。 真和志地区(表 4 )に見られる自治会名称に「区」の名称を持つ自治会がある。三原区 (三原) 、大道区(大道)、さらに宮城区、平野区、銘苅区、楚辺区の 4 自治会(寄宮 1 、2 丁目)であるが、同様に本庁地区(表 1 )の住吉区、岡野区にも見ることが出来る。「字」 でも「村」でもない「区」という呼称を旧地方制度にならい戦後の数度の居住地移動後の 間もない時期に新たに落ち着いた地域を「区」と命名するような役所の指導があって、那. 表4 真和志の町名と自治会名 ঴੡. ਼ఝਯ. ঽ੘ভ੡. 

(15). ଽణ୉ഛ৯ . প୉ভ. ᛹ોഛ৯ . ၙఈય. ஊ਍౔ . ਍౔੸ય‫ؚ‬਍౔঳ય. ਍౔ഛ৯. . ਍౔੸ય‫ؚ‬਍౔঳ય. ഛ৯. . ਍౔঳ય. ਼ఝਯ. ঴੡. ঽ੘ভ੡. 

(16). ஊઌ৉  ઌ৉‫ؚ‬ઌ৉੮৉ ઌຫૻഛ৯.  ઌຫૻ‫ؚ‬ଽਣ. ૈਣഛ৯.  ૈਣ. ૈਣ.  ૈਣ. ஊૈਆ  প੊ય‫ؚ‬৛ਆ঴‫ق‬੣౔৉ય‫ك‬. ഛ৯. . ਍౔੸ય‫ؚ‬਍౔঳ય. ૈਆഛ৯  ૈਆુ৊ક୧. ஊ௙੡. . ௙੡੮৉‫ؚ‬௙੡फ़‫ॹش‬থঁॖॶ. ਕਉഛ৯  ਕਉયঽ੘ভ. ௙੡ഛ৯  ഛ৯. ௙੡‫ؚ‬௙੡ഛ৯‫ؚ‬௙੡৘੾ક୧. ഛ৯  ਕਉયঽ੘ভ. . ௙੡. ഛ৯. ഛ৯ . ௙੡. ఞ૝ഛ৯. ഛ৯. ௙੡. . ஊপ੊  শিഛ৯. . ഛ৯  ෬੗ਆഛ৯ . প੊ય ஊ঱৑‫ؚ‬শিഛ৯ শিഛ৯পಠঁॖॶ‫ؚ‬শিഛ৯. ෬੗ਆ‫ؚ‬਩੾෬੗ਆৈಽક ୧. ഛ৯. . ෬੗ਆ‫ؚ‬਩੾ૈਆ੮৉. ഛ৯. . ෬੗ਆ‫ؚ‬෬੗ਆ৘੾ક୧. ഛ৯. . ෬੗ਆ. ഛ৯. . ෬੗ਆ. ஊଽਣ. . ଽਣഛ৯. . ଽਣ‫ؚ‬ஊ୲ੜ. ഛ৯. . ଽਣ‫ؚ‬ॎऊँॅ.  ਕਉયঽ੘ভ  ၙఈય‫ؚ‬਴৙ય‫ؚ‬ໝშય. ഛ৯  ૝ଗયવ ৵ዿ৉ય‫ؚك‬૝ଗય ৵ዿ৉ય‫ؚك‬ఞ૝ ஊ঱৑  ঱৑ഛ৯.  ஊ঱৑. ஊবৃ  ஊൎ੩ઌ  ଽణ୉ഛ৯  ஊଖ໓  ଖ໓ഛ৯ ઌຫૻഛ ৯. ஊ঱৑‫ؚ‬঱৑শ૊ਉ‫ؚ‬৐িਉ‫ؚ‬௙੡੮৉‫ؚ‬਩੾঱৑੮৉‫ؚ‬਩੾঱৑ ਸ਼੸৘ඌ৉ક୧.  . ૈਆഛ৯. . ஊఞ૝. . ఞ૝ഛ৯. . ⎨ਆ‫ؚ‬ຏೱ৘঱বৃ‫ؚ‬ஊবৃ‫ؚ‬਩੾বৃ੮৉ ൎ੩ઌ‫ؚ‬ൎ੩ઌঁॖॶ‫ؚ‬ৗൎ੩ઌ‫ؚ‬ൎ੩ઌ਴ਮყ‫ؚ‬ൎాঽ੘ভ.

(17) (188). 論文:戦後那覇市における住民自治組織の形成と展開(青木). 覇市はいずれは行政区制を採用しようと目論んでいた名残であろう。 2.戦後那覇市の「行政区」設置の試み 沖縄県 41 市町村の地域行政(区域化行政)において、那覇市ほど大きな変容を遂げた地 域はないだろう。確かに本島中部の嘉手納町、北谷町、読谷村などはその町村区域のかな りの部分を米軍用地として接収され、その旧字民たちは周辺地域に散在を余儀なくされた が、やがて伝統的な地域社会としての統合をそれぞれ回復させてきた。ところが那覇市に おいては米軍指定による土地立入禁止などの住居地制限、占領地の解放と再接収、戦後の 急激な人口増大と流動化、旧那覇市と旧首里市・小禄村・真和志村との合併、土地区画整 理と旧地名の名称変更など、他の市町村には見られない大変動を被った。そうした背景が あったからであろうか、沖縄県北部や中南部の市町村がやがて旧字を境界線として「行政 区」を設定することが出来たのに対し、那覇市ではそうした設置の試みは一時は行われた ものの結局は放棄したのである。 戦後の那覇市行政は 1946 年 1 月壺屋区設置、同年 4 月これを那覇市へ昇格させたことか ら始まる。1952 年刊行の『那覇市概観』には 46 年 8 月以降から日本や外地からの復員や 疎開地からの集団帰還を受け入れたので急激な人口膨張を見たが、この人口増大が行政区 を設置させたと記している 18)。その最初の試みは、戦後 1947 年 5 月米軍のための港湾荷 役作業に供するためにその労務管理を唯一の目的とした「みなと村」という自治体の那覇 市一地域に設置した行政区であった。行政区の区割は、1 区から 11 区という算用数字の区 名に加えて松尾区、楚辺 1 区、楚辺 2 区、美田区、壺川区、奥武山区、ペリー区という固 有名の 7 行政区であった。 すでに行政区に関しては、米軍占領下にある琉球政府が 1948 年「市町村制」を施行、 全市町村の「行政区」行政に関して市町村長はその補助機関として明治期町村制に倣った (と思われる)任命区長を置くことが出来るとしていた。その後、琉球政府は区長が市町村. 長の任免下にあるのはよくないとしたのであろう。1953 年の新規立法「市町村自治法」で は同様に区長を置くにしても, 「区民の推薦により市町村長がこれを任命する」とした区 長制に改めた。しかし那覇市においてはそれとは異なった展開が見られた。その新規立法 以前の 1951 年、市議会が戦後設置の区長制を廃止し、行政区を解消してしまったのであ る。 行政区制は設置するはしたが戦後数年足らずで廃止したことになる。 ところが 1957 年 9 月、那覇市は市長の専決処分によって区設置条例を公布し復活を目指 した。しかしこの条例は市議会の本会議で否決され、直ちに廃止されたが 19)、市としては 行政区の市全域の設置には時間を要するからとりあえず暫定的な新区設置を目指すもの だった。趣旨は人口 18 万人にもなった那覇市において市民の要望や意見を役所の窓口に 直接伝えるのは不可能であるし、市民に対する連絡や調査事項も不完全になることで市民.

(18) 日本都市社会学会年報 36・2018. (189). 生活の実情把握が困難になったというところにあった。市議会側は、1951 年に区長制を廃 止したのは、任命制の区長が住宅用地の割当、物資の配給、居住証明などに関してボス 化、かつ政党の下部組織と化し市政運営に支障をきたしたからで、復活は有り得ないとし た。しかし市側は、1953 年施行の「市町村自治法」における区長は区民による推薦制とい う民主的区長であり、その任務は市事務の連絡伝達、広報紙配布など「区民の世話役」で あってボス化の危惧は不要だと反論したが、 「区」設置条例は廃止となったのである。そ の後 1959 年市議会は「行政区画整理委員会」を設置したが、 「行政区画」という名称を用 いながらも行政区を設定したという記録はない。 また琉球政府においても、新規に立法された件の推薦区長制の条項は 1962 年市町村自 治法を改正、削除した。区長制は法的に廃止されたが、那覇市はすでにその廃止前の 1960 年この問題の方針を転換していた。1957 年首里、小禄、真和志との合併後の新生「那覇 市」のもとで新たな条例によって行政事務委託制(しばしば「自治会制」として言及され る)を発足させたからである。自治会長との間で事務委託契約を結び、これを通じて区長 制に相似した構造をつくろうとしたのである。自治会は、行政区設置如何に拘わらず戦後 直ぐに旧字単位に戦前の部落会町内会を復活させるべく数多くが既に任意に設置されてい たからこれを利用した。市側は地域行政に関しては行政区制に依らずとも、自治会会長と の間の事務委託契約によって凌げると考えたのであろう。 その後の那覇市の関心は都市開発に向けられた。1953 年からの都市計画における区画整 理事業は 1960 年に終了し、その新しい区画に対して日本の住居表示法(「住居表示に関する法 律」1962 年施行. 20). )を適用、新町丁名を冠した住居表示行政が 1971 年から本格的に始まっ. た。この新規の住居表示を用いて行政区を新たに工夫するわけでもなく、行政区構想への 関心が失われていたことを示すのが 1988 年度版「自治会事業概要」における本庁、首里、 小禄、真和志の 4 地区の表示である。これが「行政区」として言及されるのだ 21)。旧那覇 市、旧首里市、旧小禄村、旧真和志村をそれぞれ行政区と規定するにはいずれも途方もな く広大な区域となる。そうだからであろう、この「行政区」の表示はやがて無くなり 2016 年度の「自治会活動のてびき」には、これまで「行政区」として記された部分が「管 内」として表示された。こうして行政区表示が役所文書から消えて行ったのである。 3. 「行政区」と住民自治組織 一般には行政と地域との制度的接点である行政区は必ずしも字単位、町丁単位に設置さ れるとは限らないが、沖縄県においては旧来の字が戦前は部落会の単位となり、戦後にお いてはその「部落会町内会」が区会(または自治会)の単位となり、今日 1 区域に 1 区会 の形式がほとんどの旧字地域に見られる。 沖縄県においても自然村的な複数集落は村(そん)として一つの地域単位(字誌などにおい.

(19) (190). 論文:戦後那覇市における住民自治組織の形成と展開(青木). ては「伝統の古村」と呼ばれる。これが明治町村制の下では「字」と命名された)を構成し、内集団. 的な価値規範を発展させ、異なった規範をもつ他の地域単位との間に集団境界が設定さ れ、これによって 1 世紀以上にわたって(集落によっては 2、3 百年にも及ぶ)集団的なまとま りを維持してきたという歴史的な経過がある。この集団間の規範と境界は明治期における 近代化の諸政策を導入されても大きく変化することがなかった。すなわち シマ とも呼 ばれる「字」という地域単位は今日に及ぶまで本質的に大きく変化することはなく、戦後 は「行政区」として名称替えがなされ、地域住民の自治組織単位として継続してきたので ある。 恩納村、金武町、宜野座村、名護市など北部地域に見られる自治組織は旧来の字を単位 として形成されているので、戦後市町村はこうした旧字の字名を行政区と改称し、「区会」 を構成した。これは伝統的な字をそのまま行政区として採用したので「字系自治会」 (正 確には 旧字系行政区自治会 )と呼ぼう。これに対して、戦災に遭った中南部に見られる 自治組織においては同じように行政区が設置されるが、区域設定は市町村が行うので行政 主導型の自治組織、すなわち「行政区系自治会」と呼ぼう。 この「行政区系自治会」には 2 類型がある。ひとつは軍用地として接収されたため旧来 の字の区域に復帰することが出来ず、他地域の字の人々との共存(混住)を余儀なくされ た地域の住民自治組織である。これはかなりの規模で旧字区域が接収された嘉手納町や北 谷町に典型的に見られる。ここでは旧字の境界には一切顧みず市町村が行政区を設置する ので、自治会は完璧に自治体の主導の下につくられている。もう 1 つは戦後の人口増大に 伴う都市化の影響にあって混住が常態のものとなった地域における自治会の形成である。 これは旧来の字界を存続させながら人口が増えたため新規に行政区を設置し、この行政区 を単位とする役所主導の自治会形成である。旧字時代の農耕地などの区域が住宅地となっ たため市町村が新しく字名称を付与する場合で、西原市や中城村などに見られる。また同 じく都市化による人口増大の影響の下で公営や民営の集合住宅や団地などがつくられる場 合のも同様な事情にある。県営住宅と市町村営住宅が共に建設された与那原町、南城市、 八重瀬町、糸満市における自治会また豊見城市、南風原町の県営住宅に見られる自治会で ある。 つまり、沖縄県においては歴史的、自治的な地域組織が常に一定の区域を前提に設置さ れ、その組織形成には 3 タイプがあるということになる。これを示したのが表 5 である。 宜野湾市から伊江村までの市町村には行政区系が全く見られない。これは都市化を多少と も免れた主として北部地区の市町村であるが、例外的なのは普天間基地のある宜野湾市で ある。かなりの都市化の進行した地域でありながらも行政区系の自治組織がない。増大し た人口を字系行政区に吸収できるような行政区設置ができたのであろうと思われる。なお 嘉手納基地のある読谷村に関してはやや異なった事情があった。字系自治会でありながら、 字系行政区自治会というものでもない。それでは行政区系自治会かというと、行政区を新.

(20) 日本都市社会学会年報 36・2018. (191). 表5 沖縄県市町村の住民自治組織の類型 ষ৆ય ೮ஊ௺. ষ৆ય௺. ఓ๣৘. . . ਧਉ঴. . . ໃ௥৘. . . బಐ৘. . . વଗ৘. . . ଖຏਉ঴. . . ਨદ঴. . . রଗ੨. . . વ௯ਉ঴. . . ຫুವ঴. . . अॊऽ৘. . . ழ੎௿঴. . . ௹ৄଗ৘. . . ਨরଗ੨. . . ࿤৙೓৘. . . ੡૧৘. . . ব୍੨. . . প࿤௡੨. . . ূ੨. . . ০షึ੨. . . ম৖঴. . . ལವ੨. . . ࿤৙ౠ੨. . . স૱঴. . . ట௖੨. . . ഭદ੨.  ঽ੘ভਯ‫ك‬. ‫ق‬ষ৆યਯ‫ك‬. たに設置しながらも行政区名を冠した自治会ではなく、旧字名の自治会なのである 22)。 ところが那覇市においてはこの 3 タイプのいずれでもない。1 区域に 1 自治会という行 政区形式を採用するにはあまりに旧字住民が各地に散在し、複数自治会の共在という現実 があって行政区そのものを設置することが出来なかったのである。しかし字系行政区自治 会はないが、 字系自治会 は存在する。首里、小禄、真和志においては戦後の早い時期 に旧集落の旧字名の冠した自治会が復活したことを示すのが表 6 である。1957 年の新「那 覇市」誕生までに首里と小禄においてはすべての旧字組織が復活し、真和志もまた 10 の旧 集落を回復させ、1972 年の 本土復帰 までには 19 もの旧字名の自治会を持つに至った。 最も遅れたのが旧那覇市で、旧町名を冠した自前の旧町内会は僅かに あった。. 町と若狭町のみで.

(21) (192). 論文:戦後那覇市における住民自治組織の形成と展開(青木). 表6 戦後那覇市の自治会設置数 ফ‫ق‬ೣ. ফ‫ق‬ৗຏ. ফ‫ق‬মଅ୮ ফਠ૔. ‫ك‬भ৖૳ভ ೱ৘‫ك‬ऽदभ೮ ష‫ك‬ऽदभ೮ஊ. ফਠ. भ৉યभঽ ૔भૐ়ક ੘ভਯ. ୧ঽ੘ভਯ. ੣౔. . . . . . ৵ዿ. . . . . . ઌਮಂ. . . . . . ೮ຏೱ. . . . . . ঴৔ভਯ. ஊঽ੘ভਯ. ঽ੘ভਯ. 4.自治会「加入率」と地域住民諸組織の類型 [鈴木広 都市化の研究 1986]という呼称が与えられ 戦後那覇市の都市化は、 「過剰都市化」. たように、高い失業率を示しながらも急速な人口流入増をみる過密都市となった。他地域 の人々との混住はあらゆる都市社会の共通現象であるが、那覇市の住民組織において注目 すべきは、移住者(寄留民)による「郷友会」と呼ばれる同郷者団体の存在と共に、那覇 旧字民が設置する「郷友会」の存在があることだ 23)。那覇市の住民構成は寄留民の占める 割合が高い社会となったのが特徴であるから郷友会の存在は当然であるが、旧小禄村民に 見られるように軍用地化によって旧字地域から追われた「那覇人」が「郷友会」を結社す るのである。しかし「那覇人」は異郷者ではないので彼らが設置する団体、これは「郷友 会型」と呼ぶべきであろう。こうした事情が住民自治組織である自治会形成の仕方とその 加入率に影響を与えずにはおかない。 (1)自治会「加入率」 自治会加入率とは、本来なら 1 自治会の区域内の全世帯数を分母に、その区域自治会の 加入世帯数を分子とするものである。那覇市が提供する公的加入率はそのようには示され 0. 0. 0. ていない。 『自治会事業概要』には個々の自治会別ではなく那覇市 4 地区別の加入率が掲 げられる。これを時期別に示すのが表 7 である。これから分かることは、30 年ほどの間に. 表7 那覇市4地区の加入率の変遷(%) ৉ય. ফ. ফ. ফ. মૂ. . . . ੣౔. . . . ઌਮಂ. . . . ৵ዿ. . . . ਴಑. . . .

(22) 日本都市社会学会年報 36・2018. (193). 表8 那覇市集合住宅の自治会加入率 ৉ય. ঽ੘ভ੡. মૂ. ▏৘੾ક୧ঽ੘ভ. યୠ਼ఝਯ ‫كق‬. ৉ય. ঽ੘ভ੡. ਸো૨٫. યୠ਼ఝਯ. ‫كق‬. ‫كق‬. . . ৵ዿ৘੾ક୧ঽ੘ভ. . . ਍ප৘੾ક୧ঽ੘ভ. . . ᅻে੮৉ূ์‫์ূ؞‬ঽ੘ভ. . . ଄ૈ৘੾ક୧ঽ੘ভ. . . . . ਩੾ଽ୉ভঽ੘ভ. . . ৛ৣীඒક୧ঽ੘ভ. . ଄໭৘੾ક୧ঽ੘ভ. ઌਮಂ ௙੡৘੾ક୧ঽ੘ভ শিഛ৯পಠঁॖॶঽ੘ভ. . . . ઌ৉੮৉ঽ੘ভ. . . ਩੾ૈਆ੮৉ঽ੘ভ. . . ௙੡੮৉ঽ੘ভ. . . . . ਩੾পଶ৘ඌ৉ક୧ঽ੘ভ. . . ਍ળঽ੘ভ. . . ਩੾বৃ੮৉ঽ੘ভ. . . . . ਩੾঱৑੮৉ঽ੘ভ. . . ໝშ৘੾ક୧ঽ੘ভ. . . . . ँऐऻभ੮৉ঽ੘ভ. . . প੡िणाঽ੘ভ. . . ਕ੎ଗ੮৉. . . લྒ੮৉ঽ੘ভ. . . ஖ি੮৉ঽ੘ভ. ਍පਸ਼঳৘੾ક୧ঽ੘ভ. ৵ஈ. ਸো૨٫ ‫كق‬. ੣౔ ୲ৃਆ৘੾ક୧ঽ੘ভ. . . ੣౔૊৛ঁॖॶঽ੘ভ. . . ᛹ਆ৘੾ક୧ঽ੘ভ. . . ੣౔લྒঁॖॶঽ੘ভ. . . ূ঴৘੾ક୧ঽ੘ভ. . . প੡ਸ਼੸੮৉ঽ੘ভ. . . প੡৘੾ક୧ঽ੘ভ. . . ໝშ৘੾ક୧. . ‫ء‬. ഌ౭ਉ੮৉ঽ੘ভ. . . ଗূঁॖॶঽ੘ভ. . . ৵ዿ೎ਉঽ੘ভ. . . ਁਜ৩੣౔ક୧ঽ੘ভ. . . . . Ꮶଐ৘੾ક୧ঽ੘ভ. . . ਩੾஧ྒ੮৉ঽ੘ভ. 各地区とも自治会加入率の低下傾向が見られるということだ。個々の自治会としても加入 率は低下しているであろうと推測できる。旧字財産を有する自治会が外部者の加入に制限 的であれば、分子の会員世帯数の変化がない中で、分母の区域住民数が増大すれば加入率 は低減するからである。 しかし、これを人口増大を吸収してきた集合住宅において見ると全く異なった那覇市の 相貌を窺うことが出来る。表 8 は 4 地区の集合住宅自治会の加入率であるが、ここには那 覇市においても他の都市地域と同様に加入率が 8 割以上であることが示され、那覇市自治 会の低加入率の先入観が一面的であることが分かる。 (2)住民間の2つの結合様式:閉鎖性(排他)と開放性(包摂) 異郷の地において結成する「郷友会」は定義上、当然閉鎖的である。何故なら、郷里を 離れた 出郷者 にとって同郷であることが結合原理となるからだ。それは他者との分離 を前提とした自主的、任意の団体設置である。閉鎖的でなければ結合原理そのものが存立 しないから、閉鎖性(もしくは排他性)に基づく結合、これが郷友会の本質である。 一方、 「自治会」は住民間の結合を目指した活動であるから本来的に開放性を帯びた集 団結成である。開放性(もしくは包摂性)に基づく結合、これが自治会の本質である。一 般に自治会とは、市町村が自治会づくりのマニュアルを用意しこれを参考に住民有志が会.

(23) (194). 論文:戦後那覇市における住民自治組織の形成と展開(青木). 則と役員機構を作成、区域を設定、事業内容によっては補助金交付を受けることのできる 年間事業を策定、これを役所に届け出ることで形成される 24)。こうした条件整備の下で一 定地域の住民による自主的かつ任意の組織であれば自治会ということになる。もっともこ れはあまりに机上的な定義で、現実の自治会は地域に根差した固有の歴史的な背景をもっ て既に存在しているから、これはそうした存在が公的認知を受けるための手続きの定義に すぎない。しかし、この手続きの必要性如何によって同じ自主的、任意に設置する団体で あっても公的認知を要しない単なる結社である郷友会との決定的な質的相違が生まれる。 自治会が単なる任意団体でないのは公的承認を得るからである。地域社会においてそれ が何故重要なのか。それは自治会の地位獲得、役所の地位賦与、これを通じた地域との公 的接点の確立、これである。先にも述べたが、戦後那覇市が執拗に行政区設置(区長制) を目指しながらも、最終的に事務委託制によって既存の自治会を制度化(自治会長への報 酬措置など)し地域との公的接点を形成したように、住民と役所とを繋ぐ公的機関の設定 は地域行政において必須の要件である。 ところが那覇市には自治会でありながら閉鎖的であることによって機能する自治会があ る。これが「共有地」所有の字系自治会だ。外部者との結合制限を暗黙の下にあるいは会 則に明示的に掲げ、閉鎖的に機能することによって内的結合をはかる。その意味では郷友 会と同質の団体形成である。いわば開放性と閉鎖性と相反する本質の共存、この相互矛盾 の解消のためには郷友会機能と自治会機能とを分離させる必要がある。分離によって共存 させたのが2重構造の地域組織の設置であった。小禄地区の旧字諸組織などの「郷友会」 の並立設置がその典型例である。小禄地区ではこうして緊張を逃れたが、そうした工夫の ない共有地財産所有の他の旧字自治会はなお緊張下にあるのかもしれない。 (3)住民組織の4類型 さて、こうして那覇市には公的認知如何の住民組織と財産所有如何の住民組織という 2 つの異なった組織形態のあることがわかる。これを分類したのが表 9 である。 それぞれのセルに示される組織類型には次のようなものが考えられる。先ず、類型 A、 B、D はその閉鎖性(排他)によって結合する組織である。類型 A は、財産所有の「字系公 認自治会」 ( 「郷友会型」を含む)、類型 B は財産所有であるが自治会設置を回避する「字系. 表9 那覇市における地域組織類型 ુથ৉. ਁ৓അੳ. થ. ૮. ਏ. $. &. ਂਏ. %. '.

(24) 日本都市社会学会年報 36・2018. (195). 団体」 、類型 D は財産非所有の「未公認非字系団体」である。 それに対して類型 C のみが開放性(包摂)によって結合する財産非所有の「字系」公認 自治会、および「非字系」公認自治会である。この類型 C には論理的には郷友会型の「非 字系」公認自治会も有り得る。大都市那覇に移住した人々が同郷者以外の加入を拒否する 自治会形成となるが、経験的にはこれが自治会として公認されることは有りそうもない。 こうした類型に該当する具体的な自治会名を、先に示した那覇市 4 地区の表 1 ∼表 4 か ら探ろう。先ず「字系公認自治会」 (A)は、真和志においてビジネスを行う「字国場」 「上間」 「識名」 「繁田川」 「仲井真」など数多くがあるだろう。「郷友会型」は、軍用地に 接収された小禄地区の大嶺、鏡水、金城、安次嶺、當間の旧字民が同じ小禄地区の他の旧 字地域に新規の土地造成をして移住し、その地域に自らの自治会を起ち上げた事例であ る。 (その後、 「郷友会」を分立並置した。)また真和志の寄宮 1 、2 丁目にある「宮城区」 「宮 城区南」は旧小禄から、 「銘苅区」 「平野区」 「楚辺」は本庁から、「山川町」は旧首里か ら、また那覇市山下町所在の「田原」は旧小禄から、それぞれ移住してきた「郷友会型」 の自治会である。 財産所有はあるがあえて自治会を設置せず、したがって公認不要の住民組織がある。こ れは財産管理団体などの名称で法人組織することがある「字系団体」 (B)だ。例えば真和 志の旧字「与儀」が設置した団体である。本庁(表 1 )の前島町 1 、2 丁目に設置された団 体もそうした種類の地域組織である 25)。また、那覇市において久米村と共に旧那覇市を構 成した泊村の「とまり会」もそうした旧町字の誼に基づく地域団体であるが、自治会はつ くらない。琉球王府時代には現在の那覇市の中心街に匹敵するような賑わいのある地域で あったが 26)、1903 年土地整理事業の際に崇元寺町、高橋町、前島町に 3 区分され、さら に 1972 年町名変更に遭うが旧村のメンタリティ「泊人トゥマンチュウ」はなお維持され、 戦後においても「泊誌」 (1973)を刊行するなど今日においても強い連帯の下にありなが ら、しかし自治会を創ろうとはしていない(表 1 の泊 1 ∼ 3 丁目、前島 1 ∼ 2 丁目参照) 。 これには旧泊村の共有財産(かつて泊には塩田があった)がネックとなっているのだろう。 「とまり会」は「泊共有地管理委員会」を下部組織としてもち 5 万 7000 坪の土地を賃貸し ている。この収益を旧泊村時代に村民でなかった戦後の新住民には配分することは出来な いから自治会設置をためらうのであろう。設置はしないが自治会と同様な新年会、敬老 会、学事奨励会などの年中行事を実施し旧町民連帯が図られている 27)。こうした住民組織 は意図的に自治会をつくろうとはしないから事務委託契約を役所と結ぶわけではない。そ れでも地域の秩序作りに関与する旧字の住民組織である。自治会設置を避けて集団の利害 関係を維持すると共に旧来の伝統行事など催事を通じて地域社会に貢献するのである。 類型 D は定義本来の意味をもつ「郷友会」という同郷者団体であり、異郷の地における 旧字民へのアイデンティティの賦与、確認、維持を目指した情緒的かつ同質的な集団結合 である。これに関しては、社会学者波平勇夫が沖縄各地から移住してきた人々による郷友.

(25) (196). 論文:戦後那覇市における住民自治組織の形成と展開(青木). 会の居住地域を明示し、沖縄社会は都市化にあってなお旧来の字による集団結合が見られ る「シマ社会の連合体」であると喝破、多数の郷友会の存在を指摘した 28)。先の石原昌家 の研究は郷友会の先駆的なもので、それによれば那覇市在住の郷友会名 54 を数えること が出来る 29)。 類型 C は「非字系」 「財産非所有」の「公認自治会」であるが、それは集合住宅自治会 のほか、表 6 から推測できるように復活の最も遅れた旧那覇市における財産非所有の「字 系公認自治会」に多少とも見られるのではないかと思われる。 なお、類型 D において郷友会とは異なる「未公認」「非字系」という性質の住民自治組 織が存在するとしたら、これは未公認であるが故に沖縄においては公的記録には記載され ない。存在するとすればいわば 隠れ自治会 である。この 自治会 は公認を得ると類型 C に転化し得る重要な潜在性を備えた自治会である。そうした自治会が那覇市に存在する と聞くことはなかったが、沖縄県 41 市町村の調査の中で少数ながら浦添市と名護市にこ れを確認した。既存の自治会区域と重複存在することになるので公認が得にくいのだと聞 く。これは沖縄県においては自治会の役所による認知がいかに重要であるかを示すもので あった。 おわりに こうして戦後那覇市における地域組織の形成に関して、旧来の連帯回復と利益を確保す る堅固な住民組織(A, B)の形成があり、過密都市の異郷の中で同郷の連帯を維持する外 来者の住民組織(D)という排他的な集団結合が見られる一方、出身背景をまったく不問 に付し財産無所有の住民組織(C)の形成があるように、地域における集団結合には質的 な相違が見られる。異質な他者と共に住むことによって醸成される「住縁アソシエーショ [岩崎信彦ほか、町内会の研究、1989]という自治会、あるいは「コミュニティ・モデル」 ン」 [奥田道大、都市コミュニティの理論、1983]が描くような地域社会、こうした住民組織が生じ. る契機を与えるのが都市化の一面でもあったが、那覇市においては類型 C にその可能性を 見ることが出来るだろう。 このようにすることで那覇市の地域自治組織はモザイク状に棲み分け 30)、共存している ようであるが、こうした棲み分けが婦人会、老人会、子供会、PTA、各種の文化団体など 他の住民組織における会員のあり方や運営にどのように反映しているのか、これは別稿を 俟たねばならない。また旧字の土地財産を所有する地縁団体はかつて団体名義による不動 産登記の道が閉ざされ、財産管理の観点から種々の問題が生じていたが、地方自治法の改 正(第 260 条の二、1991 年)により法人格を賦与された「認可地縁団体」の制度化がなさ れた。こうした制度変更が那覇市の住民組織においてどのように利用され利用されなかっ たのかといった論点にも興味深いものがある。.

(26) 日本都市社会学会年報 36・2018. (197). [付記]本稿は「軍用地と地域社会:沖縄県における軍事基地と軍用地料に関する地域社会学的 実証研究」 (2013-15 年) 「漂流する沖縄社会:軍用地料と地域社会の変容に関する実証的研究」 (2016-17 年)という 2 つの題目で学術振興会の科研費補助金を継続的に頂き行われた研究成果の 一部である。記して感謝の意を表したい。 注 1)琉球王府以来の旧字には拝所地、製糖場などをはじめさまざまな共有地があった。 2)これについては青木康容・瀧本佳史「軍用地料の分収金制度(10) :北部 4 市町村と軍事基 地、地域を分断する軍用地料」佛教大学社会学論集第 64 号、2017。同「軍用地料の分収金制 度(11):杣山・林野入会地・軍用地料」佛教大学社会学論集第 65 号、2017. 3)高橋勇悦「都市社会の構造と特質」 (山本英治、高橋明善、蓮見音彦編『沖縄の都市と農村』 1995)黒田由彦『ローカリティの社会学』第 10 章「自治会と郷友会」2013. 4)因みに、総務省資料によれば自治会・町内会とは「町又は字の区域その他市町村内の一定の 区域に住所を有する者の地縁に基づいて形成された団体(自治会、町内会、町会、部落会、区 会、区など)」とあるように、「区域」が予め定められている。 5)倉沢進「町内会と日本の地域社会」倉沢進・秋元律郎編著『町内会と地域集団』1990、p.6 6)那覇市史資料編第 3 巻 1 、戦後の都市建設、p.13 7)「寄留」とは単に一時的に他の土地に住むことであるが、 「寄留民」の呼称は今日でも使わ れ、沖縄社会では独特な意味合いがある。 8)宮城誌、2006、p.140 9)字鏡水創立百周年記念誌、2005 10)大嶺の今昔、1973 11)宮城誌、2006 12)高良の字誌、2008、p.342 13)青木康容・瀧本佳史「軍用地料の分収金制度(9) :流動化する沖縄社会と住民自治組織の特 異性佛教大学社会学論集第 63 号、2016. 14)真和志市史、1956、p.275 15)国場誌、2003 16)1952 年において那覇の 4 割、真和志の 7 割の住民が 寄留民 である。那覇市史 資料編第 3 巻 1 、1987、p.21 17)石原昌家、1986『郷友会社会』p.149 18)『那覇市概観』(志良堂 清英編、那覇市、1952)p.52 19)那覇市広報紙「市民の友」第 81 号、1957.10.7 20)住居表示法は明治以来の表示慣習を改め町名・字名、街区符号、住居番号の 3 連からなる表 示法(1 丁目 10 番 6 号のように)とする法律である。 21)高橋と黒田は「4 行政区」というこの表示をそのまま踏襲している。[高橋 1995:182、黒 田 2013:240] 22) 仲地博は、その居住区域いかんに拘わらず旧字民によって形成された自治組織を「属人的 住民自治組織」と命名している。「属人的住民組織の一考察:沖縄県読谷村の事例」 、裁判と地 方自治、1989、敬文堂 23)高橋[1995]は「郷友会型自治会」の 発見 に注目するが、黒田は「那覇人の郷友会は那.

(27) (198). 論文:戦後那覇市における住民自治組織の形成と展開(青木). 覇には生まれない」という。 [黒田 2013:253]確かに定義からすれば那覇市に那覇人の郷友 会は有り得ないが、高橋が示すように那覇人による「郷友会型自治会」の存在は有り得る。 24)今日、市町村の自治会マニュアルにはこのように記述されることが多い。 25)宮城能彦「那覇市における地域自治会の研究(Ⅰ)」沖縄女子短期大学紀要、1996、第 13 号。 p.80 26)泊前島今昔物語、2007、p.48 27)泊誌、1974. 28)「沖縄社会の変容と現在」鈴木広監修『地域社会学の現在』2002. pp.157-59 29)石原昌家『郷友会社会』1986、巻末一覧表。 30)この点は既に谷富夫が指摘している。「大都市郊外のコミュニティ意識」鈴木広編、 『社会分 析』17 号、1988 年、p.256 (あおき やすひろ/元佛教大学教員) (原稿受付 2017 年 11 月 30 日、掲載決定 2018 年 4 月 18 日).

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