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昭和六年八月淺間山爆發調査報告

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(1)

昭 和 六 年 八 月 浅 間 山 爆 護 調 査 報 告 ( 昭 和 六 年 九 月 提 出 )

深 藤 波

瀬 原

J白 1芝

咲い

郎 平 慧

浅間山活動の歴史及周期の関係 昭和六年八月に於ける浅間山の爆殺に就い℃記す前,に、筒草に過去に於ける同山の活動史を思出じ、 第一章 併せ℃英の史上に於ける今同の爆殺の大胆胞の位置を見定めて置かう。 一、噴火の歴史本邦の歴史を縫いて‘火山活動の記録として最初に現はれるものは、天武天皇十二, 年の大島、及、ぴ天武天皇十三年三月(西暦六八五年四月)の浅間山の破裂に闘するものである。爾後、我 図未曾有の天災と掛併せられる天明三年七月(西暦一七八三年八月)の浅間山大噴火に至る一千百年間の同 山の活動の記録を略記すれば次の迅らである。 -' 天 武 天 皇 ご ニ 年 西 暦 B 天仁元年 六八五年

O 八 年 八.

(2)

﹁大永七年より {天文元年まで ﹁慶長元年より F 慶長十年まで ﹁慶保元年より 戸寛文九年まで ﹁賓永三年より { } 一 六 回 一享保一八年まで 天明三年 C D E F G , y J F ノ F d r 同 厄j 二 O 同 i¥ グ 一五二七年より 一五三二年まで 一五九六年より 一 六 O 五年まで 一六四四年より 一六六九年まで 一 七 O 六年より 一七三三年まで 一七八三年 グ グ グ /1 =.噴火の六十年周期 大森房吉博士は、 A よ

bG

に至る七組の内、最初の二つ卸ち A と B とは年代 古

3

故其の聞記録に脱漏もあらうといムので之を除虫¥他の五組に就き夫冷の卒均年代を算出品れ夫に 依つ℃、﹁浅間噴火の最も盛なる時期は大永七年よ b 天明三年に及ぶ問に於ては、概略六十三、四年目毎 に あ

b

しものと認めらるべし。﹂と結論

3

れて居

μ h

け ( 1 ) 震災諜防調査曾報告第六十七銃一頁││三頁 υ 大森博士著日本噴火志上続五三頁 il 五八一良。同書下編一五頁ー!一穴頁。参照 ( 2 ﹀前掲書下編二ハ頁より ( 3 ) 前大森博士は荷主同三ニ賓

i

L

三貴に於て三宅島、大島、富士山に就いて各鰯著なる相総﹁二つの噴火問の時差、及び浅間山、霧 島山に就いて噴火の最も頒繁に起ヲた相鱗﹁ニつの時期間の時差を算出し之等を多数平均することにより六十年なる周期を導き出 されて居る口 天明以後は享和三年、文化十二年、明治二年、八年、十二年、 二十二年、二十七年、三十二年、三十 三年に噴火の記録、があ b 、同年後は大正三年、まで毎年噴火の事貨が記述れである。内にも明治四十二年

(3)

よ b 大正三年までの五年は 激烈を極めた。共の後活動 の 記 録 は 、 大 正 四 、 五 、 六 、 七年には無く、大正八、九、 十一、十二、十三年、昭和 一 、 四 、 玉 、 六 年 に あ る 。 その中大正九年のものが激 甚を極め、里人は之を以て 天 明 以 来 の 大 活 動 と 稽 し 12 大森博士は明治十三年三 月一日の日附を以て震災珠 防調査報台第六十七銃二頁 及 川 ω 三 頁 に 於 て 、 ﹁ 天 明 以 後 に あ b ては明治二十七年の 一 八 三

(4)

破裂を最強となすものの如し、中路、天明三年と明治二十七年の時差は百十一年にして前記卒均年数差 i¥. 四 六十三年の二倍に略、ほ等し

3

ものとす。﹂と述べ、更に大正七年八月提出の日本噴火志下続十六頁に於 て 、 ﹁ 天 明 後 に 至

b

℃は明治四十二年乃至大正三年の五ヶ年に於て活動最盛にして頻繁に爆殺したるが明 治四十二年は天明三年を距る乙と百二十六年にして前記平均年数差の二倍に略ぼ等しきものとす。﹂と逃

vられた口以て六十三、四年周期との聞に何等かの関係を暗示せんとせられたかに見受けられる。 三、約十年前後の輪廻然るに日本噴火士山下続殺刊後二年にして叉々大正九牟の噴火とな

b

、更に昭 和氏入

b

四年、五年.六年に亙って微小とは決して稀するを許

3

5

る数同の爆殺を重ねるを見たのであ る 。 六十年等の大周期も去るととな、がら、明治二十二年以後の目立った爆殺のみを奉げるならば t 3 , , 、 ι 4 ‘ グ グ 昭 グ グ グ 大 グ グ グ グ グ グ 明 和 正 治 四四四四三二二 六五四十九八三五四三二三七二 ~.~ ---'年平年 四 四 年 九 年 I M M 五 年 西暦一八八九年一五・年} グ 一 八 九 四 年 ア } 十 一 年 一 九 O O 年 , 六 年 ﹂ 一 九 一 一 年 一 一 九 二 O 年 一 九 三 O 年) 十一年 グ 六」 年 十 年 //

(5)

の 逗

b

である。此の表の爆殺の区分の仕方には異論、もあらうが、之に依って↑見取る乙との出来る十年内 外の小周期は天明以後の活動史に於℃注目すべきものであ釘バ乃 o ( 4 ) 八木貞助著﹁浸同山﹂七八頁参照、此の十年の小周期には大森博士は偽り注意を向けて居られたいらしい l o ( 5 ﹀叉六・七年の小周期に闘して震災諜防調査命日報告第六十七銃五頁六頁に於て大森博士が脅及ぼして居られるのを見る、其の材料に は左記の諸火山其の他が用ひられである。 0 0 0 0 0 0 那須火山帯に所属する磐梯山は明治二十一年に大破裂を起し、同じく日光白根は二十二年、 0 0 0 0 0 0 は二十六、七、八、九年の四年間、安達太郎山は明治三十二、三年虻爆殺した。之を上記明治二十二年 以降の浅間爆殺の表と-参照し℃貰ひたい。草津白根と浅間山は古来交代的活動を行ってゐる。 一 切 経 山 ( 6 ) 又富士火山帯の諸火山乃至焼岳と浸間山との調照的研究は日本噴火志下続二十一頁以下に詳しい 10 大森博士は常に浅間山を富士火 山帯に結びつけて研究せられた。 ( 7 ﹀ 前 掲 ﹁ 浅 間 山 ﹂ 九 四 頁 以上多少周期なるものに就

3

云魚したが、斯かる周期の存在の詮明及びその数値の決定は最も困難な仕 事 で あ る 。 ( 8 V 斯くの如き目的の伐には最も殻正なる統計的方法に立脚 L なければならないと思はれるが、何として込爆資なる現象は同較に於一し、 その方法に臆はしいだけに豊富ではない D 叉俄令へ、間数が相営満足なる程度なるものと L ても、夫々の爆設はその大きさ l! 註

( 9

Z

見よ

ll

に於で大なる相異がある、従って一ヲ一つの爆後は々の重みに於て大なる相呉を有する諒である。 叉注意すべき貼は、周期が車一なるものならば兎に角、若し大小ニつの周期の組合せである場合は、如何に微小なる爆殺といへど も見逃すことが許されないことが起る。何故ならば大なる方の周期白谷にが、て殺現する小周期に属する小爆資は其の規模が如何に 小であっても小周期を決定する上にはその重みは、大周期の頂上に於て小周期の頂上と組合さって持、現する大燥設と同じでなけれ 八 五

(6)

一 八 六 ばならないからである。 第=章 昭和六年八月の浅間山爆設概況 以上に℃前置

3

ど移

b

、 日 疋 よ

b

昭和六年八月の浅間山爆後虻就き調べた所を-報告しよう。但し、日疋は 主として同年八月二十一日に試みた浅間山登山の紀行及び共の前後に得た小断片的知識の雑記である。 図、最近の場設浅間山は同八月四日以来同十三日の一日ど除く外毎日一同以上の小爆艇を繰返へし て居た。、而し℃十九日八時十四分に至

b

昨年九月十六日の爆殺に匹敵する大爆殺を起した。績い℃二十 日三時十八分に再び同程度の大爆夜、が起った。此の爆殺は夜間であった魚、噴出して山腹に落下する赤 色の熔岩、共の光輝を反映せる噴煙、及び噴畑中に起った電光等は山麓諸町村よ

b

見る乙とが出来た。 此の爆援の時恰皮登山者、があ

b

、その内一名は重傷を負った。共の一行を救援する免に二十日八時頃登 った決死隊が略八 A 日目安で登高せる時、再び前二同の大爆殺と同程度の爆殺が起った。是二十日九時四 十分である。 是等十九・廿日の三同の爆殺の後ど受け℃廿一日に火口を見届けて来た我々の登山は或は暴虎渇河の 軽奉の誹

b

p

)

受くるやも知れない。 併し j 我々が此の紀行で誠一ぺんとする慮の諸眼目の一つは、正に、我今、が如何にして肘か登山町?? な

b

との自信を符℃決行するに到ったかの諸動機である。

(7)

ー バ “ F V 大爆一設、小爆破及び同程度の,爆禁といふ文字を用びた以上我々は爆授の大小を決定する目安及び主(の目安でどの程度以上を大と¥い ひどの程度以下を小・といふかを知ヲて居る佐官であ、 b ぅ。併し話が夫を知ってゐょう。普通に常識的な目安となるであちろものを息-t' げ れ ば 一 品 日 響 、 の 大 小 、 降 友 石 川 υ 地理的鈍園、並に降友石﹄章、降石の大きさ、噴煙の大きさ等であらう。叉若し人間の知り得べき諸保 件が全く同様なる二つの煤設の一ワが幸一同に起り、他が夜間に起ワたな、 b ば、夜間のものが人に気づかれる以上は者間のものより 大きな爆資なりと人々には一石ひ惇へられよう J 叉同様なニワの爆設の一ワが偶然の登山者一人を殺し、他に夫、がないならば、前者 。の方広敷居倍大なる m m u 殺なりとの列定を受けることは全く可能的である。賃際に我々は完全なる大小の目安を有してゐる者ではな ーく、叉折る草一一閃な目安を定める事は必ずや煤設なる多面的現象を一面的に考量することにならう D 例へば山麓地震計の記す微動 一の振幅の大小を以て直ちに爆設の大小を決めること仕出来ない D 併 L 我々が此虎で用ひた言葉の意味は小爆設とは山腹及び山麓に 降瓦せるもり、大爆殺とは山政に岩石の落下せるもの一といふ程の意味である D (凶)一一十四時間制に主る。以下同に。 豆、噴煙の概況ヘ{烏其ーは本年八月十日十時の爆殺を蓄軽井津大塚通附近よ

b

撮影せるものである。 右上方に向つ℃立長つ℃居る黒畑がその噴姻であるが、その下に夜る白雲は、藤原の目撃せる所化依れ ば、噴煙の奔出に由つ℃吸仏?上げられた上品気流に依って作られたものでがが )O 京異 2 は迫分測候所主 任五味一成氏が本年-八月七日七時五十分間測候所よ

b

撮影訪れたもので、浅間山り噴気に工

D

押し主げ られた空気が智子ど作る有様である-此の三者は形態乙ぞ異って居るが成因は互に共通なる者を持つ。 (日﹀渡設は昭和四年夏期比おける大噴煙の際に五秒内?)毎に一同位の割で露出しで作られた活動寓民を見たが、合との活動寓昆にでも此 の趨の雲の溌生成育する所を目の賞り認め g ζ ι が潤来光 0 1 ド ト 従 来 浅 間 山 共 の 他 の 火 山 の 爆 脱 税 は 好 天 気 り 時 氏 起 目 。 の の 、 が 一 般 で あ る 乞 や ら れ ℃ ゐ る K 拘らず、浅間山 涯の虫人間には爆殺の際に山館、か明瞭に見られた例は稀で常化霧に包まれ℃ゐたと一母体へられ℃ゐると 一 八 七

(8)

-L ' L - 一 , , 一 , F 聞いた。勿論統計皐的な吟味を要する事ではあるが)、日疋今一一一口はその複合的な内容の一部分とじ℃或は上 B 均 気 流 一 に よ

ρ

て 話 一 一 戸 、 が 作 ら れ る と い よ 事 情 を 陰 に 談 つ ℃ ゐ る の か も 知 れ 左 い 。 (立﹀震災諜防調査曾報血口第六十七競八頁より十頁に至る問に互ヲて大森博士は浸間山に闘する三個の例及び他の火山に闘する五個の例 を事げて言はれるに﹁上記せる所に依るに、噴火山の破裂は大地震と同じく快晴無風の天気に多きものなるが如 L u ﹂ と 。

.

.

.

.

@ 叉日本噴火志下編一 O 六頁八三節にて博士は﹁前略・・次に例示する大なる破裂の場合には多くは高気塵快晴の日に盤動を鞍起した り﹂とて天明浸問焼その他の六ケの好都合の例を皐げて居られる。 かふる問題を扱ふ際に博士が日本全国(乃至考ふる火山の附近﹀の一年中の晴の日の敷と暗とはいへない日の敷との比率及び爆資 の起ヲた日についての此の比率を比較されなかヲたのは残念である。 叉博士は日本に起った諸爆謹白著しきものを集めその月に閲して白分布を調べると四月及び八月に極大になることを指摘された。

••••••

前掲書下編四一一良第四園。而して之を説明されていはれるに海岸海中の火山は一年中で潮位最も低き四月に爆設し易く、隣地の火

•••••••••••

山は気犀の一年中で最も低い七月(八月﹀に爆投し易いといはれた。(因みに浸間山は海岸性の火山であるさうである D ) 以上前掲書第 五章に詳しい。併し此説明はタし物足りなくはあるまいか 0. ‘

-叉一方に於て博士は前掲書一 O 九頁八四節にて浅間山に就き多数の小噴火の例を集められ是等が気回睦が著しく低いときにはタいと

•••

いふことを指摘されて、之を文説明されて日く﹁要するに低気盛の際は普通の噴煙盛なれば、山下に蒸汽瓦斯 D 積加を来すことな . f 、従って破裂を設するの必要・少なかるべきなり J 而して此の説明が第五章所設の説明と矛盾することに気づかれ、それを噴火の程 . . . . . . h . . . 度の大小の相異に蹄せられた。然らば八三節所論の大なる破裂は高気毘快晴の日に多いといふ,諸例はどうなるのであらうか。 (政)爆設なき日でも快晴にして而も山陸だけ曇ヲてゐる日は多い D 里人が斯かることを一五ふのは、爆資が突発 L たので山白方に蜂に注 意 時 ゲ ﹂ 注 E C わざわざ山控を見てやらうといふ意固に反 L てその日偶然山慢が曇ワてゐたといふ様なことがニ=一同も績けば充分である だ ち ぅ 。 官 何 異 3 ・ 4 t ・5は八月十九日八時十四分の爆殺の噴煙を産自軽井海よ

b

見たものである。 3 は 爆 一 音 ぞ 聞 い ℃ 大念ぎで撮影したもので、その形が松茸の形に似て居る。4は箱時間を経過して形肢が特使つ℃ゐる。 5

(9)

は夏に時間を経過せるもので、その噴煙よ

b

-一此が盛に降って居る様は、恰も雨雲よ

b

雨が降って居るの b d } 迄に遠望して居る時の親、がある。 古来浅間爆殺の降友地域は常に浅間山よ

b

東方に践がつ℃居るが、日疋は噴煙が数基米以上に奔騰する 結果西よ

b -

一米へ向ム上屠気流に吹主流当れる居純であるとヨれて居る。所で十九日の爆煙はどの位騰った であらうか。試み化努異 4 を取

b

、噴煙の最高勲、が火口直上に在る v r -仮定して大躍の高誌を計算して見 下 ・ 自 に ノ O L 使用した潟畳一機の縦の競野角度が四十八度である事を使つ℃、守何異 42 よ

b

作間に依って噴煙のみを見 込む角度を求なると約二十四皮二十分である。一方に於て陸地測量部地図に依

b

撮影地貼と火口との水 卒距離及び標高の相異を求め、之に依って山頂と撮影水平面との聞の角度を算出すれば、七度五十分を得 る。此の二角の和を作

b

、(三十二度十分)、共の正切を以て撮影地姑と火口 1 ζ の水平距離に采ずれば七千 三百六十米中ど得る。之を火口よ

b

の高注に換算すれば五千七百四十米とな

b

.

海面よ

b

の高誌に換算す 作ば八千二百八十米となか o (日)日木噴火志下縞六十七頁参照 官 何 回 具 6 は十九日十一時頃郎ち爆後後約三時間の浅間山の潟異である。撮影地矧南穂井深附近。噴煙が 爆殺後直ちに伯叫んで仕舞った乙とを一不すものである。 一八九 ー

(10)

ー 一 九 Q 潟真7はサ日九時四十分の爆殺の光景で、東京市芝区新場町清水{器具館の撮影にか L るものである。 撮影場所は離山頂上附退。撮影時間に就℃は、爆一品目を聞ぐ前にカメラを用意し‘ V ヤ ヅ タ ! ? } 切 っ た の が爆一品目の問える一瞬前乃至同時であったと実異師は談った。若し仮に、爆殺の一品目と同時であったと仮定 し℃見れば、浅間山よ b の距離よ

b

算定し℃、爆殺後約三十秒となるのである。一方に於て浅間山頂上 と小浅間頂上を水平に見込む角等よ

b

概略推定するに、乙の潟毘(で頂土よ

b

の噴畑の一両誌は路四千米で ある。依つ℃噴煙、が四千米を三十秒で目升ったとするならばその平均速度は大略百数十米の程度となる。

大森博士が日本噴火士山下縞六三頁に於て浅間山の岩塊を抽出する初速度を百五六十米と算定時 d れ℃居る のと比較すると面白い。(本稿印刷中松津博士の火山弾に閲する報告があった。同博士は空気の抵抗を考 へに入れ℃火山路の到達距離から計算して其初遮を約一二百米秒と出遣れたと云ム。) 潟異7のサ日の噴煙も主ハの右上の枝を除けばその形は松茸形である。叉十九日及び廿日の噴煙を見る に、主ハの爆殺の直前、まで排出して居たと思はれる様な煙の残 b は 何 慮 に も 見 ら れ な 一 円 。 ( M M ) 爆授が起る直前には平常時に見られる小噴煙が総んで居るといふ、後に遡べんとする事賀

ρ

参考とならうと思って注意を引いてお 司F 第三章 遭難及救護費況及避難心得 藤原及ぴ渡迭は二十一日六時半沓掛に到

b

.

飯島喜文太氏及川 ω 竹内清治兵につき種今の浅岡山に関す る過古の経験的事貧民前日邸ち二十日の遭難者及びその救援隊の活動に関して種々の情報を得る之とが

(11)

出来た唱飯島氏は沓掛の義人にて浅間山に登る乙と肢に数百同、爆殺に由る犠牲者、が出る度に必ず登山 して救援 K 加った人である。昨 H は特に沓掛の町に,居残って救援隊の本部を守つ屯居た。竹内氏は軽井 淳警察署沓掛巡査駐在所の巡査にで、.昨日の救援隊化自ら加って之を統率し辛くも重傷者を救出した功 勢者である。救援 K 登山する途に℃九時四十分の爆殺に遭ひ、眼前に焼石、が落下するもひるま、ず遂に重 品 闘 争 か や る 仙 川 小 至 い J h A かわ恥い恥必めかのは!一に竹内氏の勇敢なる犠牲的活動に負ふ所である。 ,次に雨氏の談話に随つ℃遭難及川 ω 救援の股態を略記しよう 0 1 /六、遭難及救護概況 遭難者の一行は軽井淳アメリカン・、べ!大リ i 使用大衆藤中島加藤の三氏であ った。二十日三時二十分の爆夜の時恰度末前掛山南端の最高部よ

b

稲東南下部標高二千四百米近透に辰 たらしく推察昌れる。地国参照。降石甚、だしく務藤・中島の二氏は略南方に向って逃げんとし℃地獄谷 中 一 部 の 念 斜 面 ぞ 轄

b

落ちた。山知藤氏は無事な

b

しも中島氏は此の際結腹部に相蛍の擦過重傷を受けた宅 のらしい 0 ・新藤氏は止むど科ず中島氏を岩陰に残し単身率一・の茶屋に辿 h p 若 い た 。 一方加藤氏も地獄谷に轄ぴ落ちたが共の佳地獄谷内を七轄八倒し℃逃げ下

D

血の池宮通過して更従清 万附近を通過して御代田四時に出た c 即時に若いたのは二十日十六時頃である。加藤氏は此の際熔岩にて頭 部を強打芯れ裂傷を受けてゐる。 一方沓掛では救援隊を組織して八時頃出後。 一行は竹内巡'査・ベーカリーの弟・及び沓掛よ

b

の隊長 一 丸 一

(12)

九 六名、之に森藤氏、が中島氏の居場所へ案内する免に加は

b

、ムー計九名。此の時は加藤氏は未、だ行方不明 にて捜索の針象であった。最も先頭に進める二名の先援が千九百乃至二千米透に至れる頃九時四十分。 大爆殺が起

b

、一抱へ位の岩が眼前に降

b

、一時進行不可能に陥った。そ乙で登山道上の現在位置よ

b

南西方向に寸時逃れた。それは登山道と禰陀ヶ城との中間に位する尾根、が一般的に常に降石砂き方向で あるからである。 降石静

b

て直ちに地獄谷東の尾根に出で之を登った。 森藤氏の案内にで地獄谷に下

b

、呼べば臆へあっ℃中島氏を後見した。その時中島氏は淑加藤氏と別れし地知よ

b

更に下方に苦しんで ¥ 居た。夫は九時四十分の爆殺に遭っ℃恐し誌の魚に這ひ下ったものであらう。 中島氏は轄ぴ落ちる時に熔岩にて横腹に擦蝿傷、胸及、ぴ眼の附近に打撲傷を受け、叉九時四十分の爆 殺の際熔岩に一段を打たれて居た。叉毛髪は熔岩の魚に焼焦げて居た。中島氏の着物は殆ど原形を止め ず、叉共の一被って居た極︿厚手のシ I トも燃えて居た。潟皇(80此の附近には九時四十分の爆殺の時 K は、少くとも五六寸乃至一尺以上の熔岩が落ちたものと思はれる。 救援隊は中島氏を辛じて地獄谷北端の束の産上に携上げる事を得た D 木の生枝の犠 K 乗せて峯の茶屋 まで下し、それよ

b

自動車で桜井淳の病院に入院当せた。 加藤氏は初め行方不明といム乙とになって居た、が、後に前記の如く無事下山せる乙とが剣明した。 士、比較的安全なる方向友逃げ方 以上にて遭難事件は打切

b

次に飯島氏等よら聞きたる重要なる経

(13)

験的事賞を翠げよう。その一つレは登山中爆殺に遭遇せる場合の逃げ方である。先づです一口を以て表せば ﹁火口に背を向けて逃げ下つてはいけない、共の前に噴出の股況を見一覧はめて安全なる方向へ横に逃げ ろ﹂となる。郎ち、降石は火口よ

b

四方に向け一様に行はれるもので。はなくして、 しく他の或る方向はヨ耗でも無いといム之左右意味する。 或る一方向院は甚だ 而して過去の経験に依ると多数の爆殺に於て降友落石は北方に多く南方に少いと遣れて居る。是ば風 がで般に南風、が多いからな

b

といム設と大砲の銃口 とが俗間に行はれて居た。 叉拾い??わかふん向とヨれて居るのは山頂よ

b

東南に向ム方向である。是は爆殺に際合せる時最も必 (火口を形容して)、が北を向つ℃ゐるのだといふ説 要なる知識にして、而も一般登山者に快ける慮である。此の安全なる方向にある尾根は峰の茶尾上

b

の 登山道と禰陀ケ城との略中間に存じ、登山道は岐に安全範囲を脱し℃居るとの乙とである。

3

れば竹内 氏等の救援隊は登山道にて爆援に遭ひ、直ちに禰陀ケ城との中間の此の尾根に避難したものである。賞 際に登山して〆見ると此の安全なる方向には他方向よ

b

地上に表はれる岩石の数、が少

3

乙とが認められる といふ。叉更に面白き事貨は、飯島氏の指摘せる通

b

、此の方向には他方向よら標高高主地勤まで植物 が生えて居る乙とである。 、又頂上まタ西南方向、西前掛南部附近は詳細は不明な右も‘落石降友が最近の爆援に到って漸次甚だ 一 九 三

(14)

↓九四 しくなっ℃来たと噂 S L れて居た。之は前の論法を以ですれば 1 大砲の銃口、が漸次西方に向って家泥事 に忍るのマーある。かくの如く表現する之とは、暗に火口底の東部、が刻れた乙とを心に描かせる。此の事 げは後越の火口の移動に関聯して考へて見るーと面白い。 併し一方に於イ¥二十日の遭難者の加藤氏に後に面合して・聞きたる所、彼が逃げん左して最初向い℃ 括た方向(安全なる尾根の方向乃至地獄谷の方向らし)を堺とし℃、その左方は一:)問熔岩の火の海で右 に向けば向く科一熔山石、が少くなってゐだとの之とである。此の右に向くといム意味、が西前掛南部の方向、ま でも含むものであるならば前記の噂とは矛盾する乙とになる。もし併じ小浅間乃至浅間牧場の方向郎北 東方に最初向いて居ったならば左は火口壁土で右は安全沼尾根となる。〆 第 四 章 爆 設 繋 知 の 問 題 i -八 1 噴煙と爆投との関係 -u 次に噴煙ーと爆殺との関係に就

3

飯島氏等の語る所ど述バょう。 として彼等のいふととは、・煙の多い日は大爆殺はないとい人之とである。凡て大爆裂の直前には 1 ・ ・ 灰 を f ・ 7 含む黒色の噴煙は勿論、殆ど水蒸気よか成る白色の噴煙は休止し-極めて少量の縮減る時の如

3

透明の青 色

11

紫煙と形容しょうかーーのガスが火口よ

b

漂ム如くと切れ/¥に出づるのである。、蓋し噴煙の多 主時は噴気.が出口を有し℃ゐて安全なるもので、之に反し噴気、が小なるときは噴気が逃れ口を岩石士砂 等 に て 問 中 り , わ れ て 新 し

3

口を作ら

A

とする時故危険である。而しセ判故に青色なるか、何故にと切れ切 一般的法則

(15)

れなるかは叉別個の問題を提出する。 後に遭難者加藤氏の談る所を聞くに、彼等の一行は二十日零時五十五分に峯の茶屋を局後七、その時 は噴煙、が盛に立土って居た、が、二時半頃に至

b

突如として煙、が無くな

b

三時二十分には爆殺したとの乙 とである。噴煙、が歌んでから一時間にて爆殺せるけ異数の例では無からうか、叉初め立上ってゐだとい よ噴煙は前記の如き多量のものであったか否かは疑問である。 賞際我々は十九日の爆殺の寝具及びその爆後約三時間後の浅間山の潟岡県を克た。 3 ・ 4 ・

5

と 61 後者 では‘噴煙は極めて小量となった。而し℃二十日には再び大爆後 y な っ た と 左 ・ 既 述 の 遁

b

で あ る 。 此の八月に這入ってからの如く、前記の用語法に依ふ小爆後、が連績的に起る事は山、が活動的にな

b

居 る事乞一不すと同時に、又その小爆後に時間的に直ちに引績いて大爆殺が起 h J ヨうではないのである。共 の小爆殺が兎に角或る時間一一膝静止戒態に復しで後、初め℃大爆殺の起

b

ヨう忍可能性ある賊態となる の で あ る 。 叉 A 今回ぬ二一回の爆殺に際し℃も、その爆殺と爆殺との中間の時間口大慌噴気は極めて枕静に崎して居 ・ た 乙 と は 誰 も 知 っ て ゐ た 事 官 " で あ る 。 然るに第三同部ち二十日九時四十分の爆殺以後は噴気絶えず引績

3

白色煙を多量に排出して居る状態 である。是社填って居た孔一が遂に第三回の爆後 K で貫一逃せる之と営示してゐると解すべく、此の白色畑 九 五

(16)

一 九 六 の蓮績する限

b

次の爆殺は起る心配な主ものと推定出来る。 乙れ本日爆殺なしとの自信を得て登山するに到 b し動機の一つである。 我々は山麓の多くの経験ある人々に本日爆夜、があ b ヨうだか否かを間以しに彼等は総べて何等珂由ど 血 ぬ

J W

る乙となく直観的に今日は大丈夫爆殺なしと確信十一以て語って居た。蓋し此の朝白色の噴煙が多量 に排出一辺れ℃居た乙とが共の直観的判断の材料の一つに加って居だに相異ない。 ( M 山 μ大森博士は嘗て諏訪の淑に上陸して噴火に出合された、主(時背を向けで逃げる事の危険なるを考へられ石礁の落下する中にて.噴火 の見取園を作られたりと聞く。此時のスケッチ今も東大地震教室に保在されある筈である。要するに里人の経験によりて知る所と愚 者の列断ずる所と一致せるは興味あることであ﹃ 0 0 (口)降友の多い方向と落石の多い方向とは一致する佐官のものではない。前者は主として風向に影響されようし、後者は主として火口内 n M W で血ハへられる初速度の方向に支配されるであらう。 (日目﹀爆後前の噴煙の朕況が列っきり拍寓されたぬ去の寅例を次に掲げよろ . 0 それは明治凹十二年十二月七日の爆殺に就い'て長野測候所 小堀内技手の報告せるものである。震災課向調査曾報告七す一一一旗九頁。﹁十二月六日午前八時三十分の汽車にて出後し、建中小諸停車 場より浅間山を望見するに白畑涼々として盛に噴出し居りしが同牒を発車後御代田に着し停車中突然黒畑を大に噴出し、頗る物凄き 現象を呈せしが、西偏胤の烈しき伝めか噴姻高く上昇せずして、直に東方に蹴砕き山服に泊ふて下り消散致し候、其の後は加に盤化も なく以前と同じく白畑を噴出致居り候、翌日七日は夜半よりの曇天にしで該山の動静を見る能はぎりしが、午前十時半頃より一天拭 ふが如き好晴とたれり、此日は前日と異なり、該山は非常に穏かにして少々の白畑間々昇るを見る迄にて差したる事もなく夜に入り しが午後七時凶十四分頃大爆慌とな切地震亦之に件ひ﹁黒煙は東方に康き、火花を散すとと電光石火の如く有之侯﹂とある。六日の 黒い噴煙といふのは七日の大爆資に比すれば規模は殆ど問題にならぬ程度のむのである。 (刊)大森博士も此の問題を取上げられ百本噴火志下編六回頁四一節に於て論じて居られる口一,逗年浸問山、諏訪之瀬島は屡々強き爆設を たせ L が爆殻 ω 前後には一時金︿噴煙を絶ちて噴火孔内が晴れ渡り好く孔底?敵得るとと滑ならず、然るに浅間山の如きは大正三年 以来は静穏となり爆設するとと無きに至りしが平時白噴煙は却って多量となりたり、云々﹂とある。

(17)

,博士が此の問題に関聯して遡べられたものは此の他詮ハ四)に引用せる﹁要するに低気毘の際は普通の噴煙盛なれば、山下に蒸汽瓦一期 の積加を来すことなど。従ワて破裂を殺するの必要小/なかるべきなり﹂といふ一僚がある。 (却)併し天明三年の浸同大焼 ω 時 ω 如き大噴火では噴火が数日間連績し而も漸次激烈さを加へて来た。かふる例は多・少事情を鼻、にす るロ併し・天明の噴火に就ても前掲﹁浸間山﹂山十頁に於て﹁よって火口から常に吐かれて居ろ煙は、此地熱力の安会癖をなして居るの で、浅間山も天明の大爆設前には、﹃吹く煙さへ見えぎ?き﹄と記されて此安全作用を快いて居った。﹂と書いてあ-る。 ハ引﹀浸閉山は本月サ日以後は廿七日夜に入ってから爆脅したが、此の日は朝来噴輝一なく例の紫煙を排出し、山麓マは誰も彼も皆煤設の 泣きことを知って瞬きあって居た口 次に藤原と渡透は同日(二十一日)九時竿追分測候所を一訪問、同所主任五 味一成氏の好意に依

b

同所に於ける八月一日以降の微動同数及び爆殺の時間及び同数を表にして得る之 九、遁分測候所と微動観測 とが出来た。夫ど次に掲げる。 一品目巡回を件以又は件はずして黒色の噴煙が突如噴出せるもので 最初の用語法化随へば小爆殺に類するものである。但し、六日十九時、十九日八時、二十日三時、同九 時の四つのみは大爆援に類するものである q 微動向数の所に℃十四日の三百七十同が特別目立つ℃居、叉同日は爆後特別長時間に亙って居る。 此の表に爆援として掲げられたものは、 叉爆殺の際に生じた微動の振幅を見るに十九・廿日雨日の三同の爆後中に℃第一同のものが他のもの の二倍程である。 又次に廿日九時四十分の爆殺以後今朝までの地震計の針跡を見るに微動が金然無くなって仕舞った乙 一 九 七

(18)

追分測候所に〈 (時間J 爆 投 h m h m 8.05-8.35 日附│徴動向薮 1 2 3 h m h m 8.00-9.20 1 4 3 115.50-16.10 5 7 112.49-55, 13.53-14~55,19.05-19.20 119時のもの石降 る 6 8 113,40-55, 15.12-28頃 円 d 9.55-10.15 5 8 4.40-5.10 8 9 5 110.06-35 2 115.05-20 ( 8 112.頃-35 13 此日まで毎日白 色味の友降る h 370?111.30-23.00頃、 14 115.35-16.00頃 1 9.14-20.11.00-15,11.55-12.17 5 115.15-45 16 7 121.20-22.00 6.56-59, ~2.00-13. 15頃 17 (後は白けむり〉 石:降る 石降る 8.14-45頃 3.18-, 9.40-: -2 13 一九八 i奇 66 20 、ト, とを見出した。若し微動なるものが、熔山石の膝力に依って上皮部の岩殻が崎将破れる魚の振動であると解 10 11 12 13 14 15 18 19 するならば、微動が無くなった乙とは邸ち熔岩が外気に露れた乙と又は熔岩の魅力の減少せる乙とを一環 すべく、何れにしても大主な爆殺が直ち K 起る乙となおを意味する。 十九日及廿日三時の爆殺後は微動

(19)

は休止せず、次同の爆殺迄線績じて居る。 乙れ亦我今、が本日爆殺なしとの確信を・有するに至った動機の一つである。而し℃此微動は同時に亦長 野の梶問所長、が六日頃﹁一般登山は危険な

b

﹂との警報を殺したる動機の一つであったに違びない。 次 に 治 一 分 よ

b

沓掛への蹄途治分鐸一長よ p p 聞けば、二十日三時十八分の爆殺の時、熔岩が血の池崎営林署 造林事務所附廷の山林院落下し、直ちに山火事が起

b

、約三時間燃え緩けたる由である。 (仰山)大森博士は浸向山の火山性地宍を二種に別ち(甲)噴火に伶はざる地震及び(乙﹀噴火に伶へる地震とにせられた。甲種の地震は﹁火 山下に欝潰せる蒸汽が次第に宜(の張力を増すに従ひ地下数キロメートルの深さに於て裂鰭を生ずる怨に起これる地響なるべ︿﹂乙種 の地震は﹁上記の裂時を撰大し其れに沼ひて水蒸汽瓦斯を噴出じて破裂となれるが震に起これる地勤なるべし﹂とせられた c 以上震 ー災海防調、査報告七十三競九十二頁七十八節参照。地震と微動とは同一ではなく後動に就いては同書九十三頁入 O 簡に微動なる,節が ある。同八十一節には浅間地震と噴火との閥係が述べら作である。叉日本噴火志下編五十凶頁第七草﹁噴火と地震の後生﹂及び同書 百九頁第十五牢﹁噴火性微動及び破裂の諜知﹂に関係事項の記載あるを見る D U 昭和穴年八月=十一日登山所見 第 茸 章 十時深瀬と沓掛に℃落 A ム 。 日 疋 よ

b

小浅間附還を親祭する心算にで自動車を騒って小浅間山下の峰の ιJ 茶 屋 に 至 う た 。 一行中に前記飯島氏の同行を得たのは我々に取って何よ

b

心強主事であった。 十 、 峯 の 茶 屋 の 人 に 開

3

たる乙とど次に少し書

3

付 け て 置 か う 。 . 、 六日十九時の爆後以後に登山せる人の話しに依ると、その爆殺の時に火口ょ

b

十問位の u 庭に追分口と 峯の茶屋口との中間法

D

に自動車大の石、か出℃居た由。九日化登

b

たる時寒暖計で計られない程熱かっ 一 九 九

(20)

OO だと。又七日に登山せる人はメンを焦して.夫を紀念に持踊ったといふ。 '‘ , , 叉六日以後の噴火口の形に就いて茶屋の人の云ム乙とを綜合すれば次の通

D

である一東北 m w 壁の根が 挟れ穴とな 3 9 、 になったと J 一 躍 に 火 口 、 が 深 ま

b

‘叉縁、がかけ、小諸口(西側ど意味する)の周

b

からも姻が出る様 今年院なってからは峰の茶屋近慮には未だ落石なく降友のみである。

r

r

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ャ 一 種 ハ の ゲ マ 町 一 一 ⋮

r v

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り ど 伊 い t h u m υ U ?

- r 最近のものは白

3

もののみであった、・就中十四日は特に降友量多く)同日午後に降

b

し分は極めて精細であって一見せめんとの如言外見鰯畳を有してゐた。降次は十四日で大館絡

b

を告 げたものらしく思はれる。是等十四日の特異性は追分に於る微動数が同日異常なる数に目升った乙と L 針 照し℃見るぺきものと思はれる。十九・廿日の爆殺の友は上州方面に多量に降った。 J嬬慾附近には深く 積 っ た 。 倫峯の茶屋で聞いた面白主事貨がある。最近の爆殺には徐

b

現はれゴるも、以前にはよく、ポンプ即 火山弾が空中で割れる時に秘跡かわかい恥一いい川 h h h J h h ' U 飛卵、,地上に落ちる時は大概・壊れ℃了つだ といよ。峯の茶屋附近迄一飛来

b

し乙ともあったといふ之とである。 飯島氏は之を説明してj同氏、が嘗℃採集したものは紙肢といはんよ

b

も多くの場 A 口 、 河 越

b

に生じる 治或はシャボン水中に管を入れ℃吹

S

たるときに生じる泡の集

b

の如き形肢をして.恰も裕子様の物質

(21)

にて極めて薄く脆く、鯖ると一泡づっ潰れて行くといよ D カ ミ カ ミ 一或人は之を火毛石な

b

といった遣うである、か思ふに紙肢を髪肢と間遠へ火山毛主誤認した喝のではある ま い か 。 未だ火山氏関する文献 K か L る も の を 見 た 乙 と を 知 ら な ( 問 。 十一、大坂迄所見 十二時十五分峯の茶屋出殺地問の登山道を取る、寝亘 ( 9 0 茶屋の老婆が、今日は 確に爆殺は無いと思ふが御気を付けなすって、といふ。我々は此の時未だ頂上まで極める意士山は有しな かったが}此の何十年か峰の茶屋を守る老婆の何げな主直観的剣断は経験を写ぷ我冷の心に安心を奥へ た。小浅間山南麓を逗

b

な、から、所謂安杢なる尾根なるものを南西方向に見た ρ 寓異川口小浅聞を過ぎ て い エ ノ t k 本賞の浅間に差掛る所に和三会坂があ

b

、震直五、之を行者戻しといム。此の迭の降・一此量、! 小石 -J 植物の葉等の上に積 b 居れる l 約宇粍位である。潟莫

m l

(

い た ど b の薬にも友あ λ ソ)此の友は凡 て八月四日以降十四日までに、降ったものであらう。此の友は白色を帯びたもので、その上に昨日の救援 隊の足跡が印せられ、その足跡の上にばら/¥ーと黒き砂が極めて小量撒かれ℃あった。此の黒き砂は昨 日九時四十分の時のものであらう。此の地知よ b 北望して六里ケ原方面に臨めば地質上面白い事寅を見 わかされのちゃ弔 出す。地園を特に参照。夫は三種の異った地質が分去茶屋に於℃令する事である。三者の一つは分去茶屋

b

地蔵川躍に遁ずる道路の東側の浅間牧場の在る草原地帯である c 次のものは同道路西方鬼押出岩と 二 O

(22)

一 一

O ニ の聞に炭、がる六里ケ原南部である o t 此の地帯は押出の小規模に行はれし地帯ともいムベく、火山・一此及び 熔 岩 に 充 , E れ殆ど不毛で、僅院小濯木を生ぜるのみ。他の一グは小浅間北方に伸びた浅間山の一つの尾 根である J 此の地帯は針葉樹林である。此の地帯は不思議に天明三年?ての他の爆殺のーだきに安全地帯で あったものど訟はれる o ' 寝具ロイ抜大国は此の潟異であるが殊 K 針葉樹地帯のみ明瞭に出て居る。行者 民 し 上 部 の 一 降 ・ 一 此 量 一 は 約 一 一 粍 が 。 潟 異 UA 。 { 雨 水 で 堀

b

凹められた小谷)。行者戻し主部よ

b

小浅間を望め ば 降 ・ 一 次 の 急 白 色 を 帯 び 卒 年 ー と ま る で 異 っ た 外 見 を 有 し ℃ ゐ る 。 官 何 回 兵 目 。 更に登れば 1 最近の(但し十四日の犬降友以前の)爆畿の時のポンプ印火山弾の落ちた穴がある。が X プは地上に落ちると直ちに裂けて四方に散

b

、共の穴には殆どその破片を見ないの、が普通である。実 莫目白・おは共のポ

ν

グ穴である ι ( 黒いは竹杖、穴の中に立℃あ

b

)

。此の穴の附近に批鶴見せられ此の 穴に属するど思はれる岩片を寝具に牧めた U 潟真山下山山。大主誌の参照となる寓真中の杖はい山よ λ ソ 卸 会 で 同 一 の @ も の で 長

3

約五尺である勺行者一民し上の緩傾斜部を過ぎれば、潟異例 ι 、大坂下である。大坂と は地闘で千八百八十米乃至二千百二十米附還の稀

3

念坂部を指すものらしい。大坂下の降友量約二粍か。 官 何 回 兵 ω て此の附近に至れば明かに十四日以後の爆夜、剖ち十九・廿日の三同の内の一つ、に出たポンプ がある。官何回兵部は大坂中頃で拾ったもので、所謂鶏甲石の類である。潟真弘・%・似仰は、大坂途中、峰の 茶屋よ

b

廿四町透

b

k

r

一位ったボンア穴一である。大き誌の標準となる潟箕機ケースの大き誌は長

3

三 十 三

(23)

糖、幅十二糎、厚

3

五粧品である J 十四日以前には降った白い友が援

3

除かれ℃居る所ょ

b

按 ず れ ば 、 確に今同の爆殺の際に出来た穴である u 官勾異釘も同種のものである。叉官何直却は約廿八町位の庭に在つ だが

ν

プ大である。穴の黒いのは友、が楼ねられたか告である。此の穴の直経五尺深・ 5 一 尺 五 寸 。 主 ハ の 穴 に落ちて鮮裂

L

て飛んだ破片、がその穴よ b 十六・七米(約五十五尺)下方に見出遣れた。決しで轄がった のではなく一と策、ぴ院はね飛ん、たものである。その破片の大き w d E R 径一尺短径五寸位であった。共の性 質は角の立ったもので重く、新たに火に合せる模様なる堅さ輝石安山岩であった。此の種の穴は一了氏 一つづっ位ある。官何異的。此透では他に動物は見合同らずー只微小な蜘妹が・一此の上磯の問に津山居った。 八十一一、大坂より噴火口迄 危険地帯である。此の透で下山しょラかと云点。併し何等一議一昔を聞かず、又噴畑も極め℃多量に一出で安 本主成態である。試みに耳を地に蛍℃ k 一 昔 む 蒋 く 。 官 何 異

ω

。 初 め の 内 は 低 一 品 目 の 、 ザ ー ッ 、 と い ふ 一 昔 の み 間 交 る 。 是 は 風 、 が 地 表 を 撫 る 一 品 目 か 、 又 は 噴 気 が 火 口 の 蹄 怖 を 遺 る 一 昔 か 。 暫 く 耳 が 慣 れ L ば 、 此 の 騒 一 品 目 中 に 他 の一二揮の一昔、か開花る。一つは太鼓の如く一バパ川いと鳴夕、他は稀金属音に近くカジ/¥と響いた。前者 は 石 、 が 火 口 壁 内 を 蒋

b

落ちる一音と解すべく)後者は此の轄落する石が深部の堅き岩に衝突する一品目とでも 解 寸 べ

3

・ か 。 一 此 の 一 昔 は 恰 も 火 口 方 向 よ b 問え℃京市る如く戚ぜられた。寝室 λ 況はポンプ穴及来前掛に霧の 大坂を登

b

切る透 b 、 が 舟

T

目である。此の附近は若し爆殺が起れば完全に かかった所、努異坊は大坂上で撮影せるポンプ穴であって、,中央部に破片が残 b 小高くなってゐ党もの ニ O 三 、

(24)

二 O 四 であお。是峰の茶屋よ b 舟二丁の地貼である。此の附返のポンプ穴は昨日出来たものであらう 0 1 大なる ものは直径十米位もある。その中氏残る岩片は高熱 K ℃手を鮪れる之とが出来ず、共の或者はマヅチを劫 火じた白此の透

b

には多くのポンプ穴、があ

b

、主︿の或者は火口内で肢に固まった安山岩が唯高熱の弐、 拘げ出崎、口れて落下せるもので、他の者は岩援が噴出落下し空中又は地上で冷却凝固せるものである。銘 山石が宇液肢で飛出して高速度で地表民衝突し同時 K 冷却せるものは園盤放の所謂阿蘇山等で見られる皿 石をなす。(我冷が此の皿石を浅間山で見出した事は新しい事かも知れない。浅間院は皿石はないと従来 信ぜられて居った。)潟真中山 ω ・従・お。中お・妊の皿石はおの穴から拾出したものである。実質は極め℃ 破壊し易く見へた。恐らく噴火直後の外は皿石の原形を止めなくなるであらう。共魚に在来浅間に於て 後見

3

れ忍んだのであらう。又此の附近で我ん吋は明かに今同の燥感民の際に噴出

3

れ た 浮 石 を 日 ん た J 色は 淡赤褐色で E 何等の友を被らず、叉磨滅腐損の痕跡ない完全に新しいものであった。是等二つは今回の . . 、、、、、、、、、 爆殺の際に安山岩の描出と同時に僅少かが h り 銘 山 石 の 噴 出 が あ っ た 乙 と を 一 不 し て 居 る 。 潟 呉 川 ω ・幻は我冷が此の附廷で採集した二つの標本である。おは角ばった輝石安山岩であっ℃、採集 の時は熱くて共の僅ポケット記入れる事、が出来なかったものである。幻は今説明を加へた今同噴出の浮 石 で あ る 。 官 持 異 叫 ω はポンプ穴の美事なるもの L 例である。此の地姑は略二千二・三十米附近である。弦よ b 西 望

(25)

すれば二千二百米前後の傾斜面に無数の新しく出来たポンプ穴がある。潟異況及川

ω

ω

に 於 て 正 面 の 傾 期 利 面にある稿淡黒き斑知、が夫で、各約廿乃至舟個のポンプ穴を数へる乙と、が出来る。潟宣(の山の最高部が 東前掛山の南端頂上で、その前方に別の峰の如く見えるのが、二千二百三十米附近の緩傾斜部である。 今居る地一知は又八令目ともいはれる附近で、弦ではを静・貯秒、か

h w

を 松 山 / て 枯 れ や

p h ω

。 日 疋 れ は 熱 の 潟であらう。潟亘ノ孔。(蜘妹は此透迄は居たかと思ふ。昭和八年附記) 此の時不意に轟一品目を聞いて驚いた。能く落着いて見ると夫は遠い雷鳴であった。潟異位はその‘雷雲で あ る 。 此の附廷はポンプ穴に属する大主な石の﹃かならず、直接火口よ

b

b

来ったと思はれる約一寸大の小 岩片が一面に擦がって居る。 此庭よ

b

上 K 登る決心未、た無さ魚登山道を離れ℃、道ゆが ι 左に取る。大躍遭難者が峯の茶屋に崎った道 を逆に行ったと云へょう。やがて地獄谷上部絶壁傍に出た。折しも霧が此の地獄谷上部の絶崖を這上つ て 京 市 た 。 寓 畳 ( 川 目 。 此 の 寝 真 は 谷 の 東 縁 よ p p 西 を 望 ん だ 所 で あ る 。 官 伺 良 ( で 右 上 よ

b

左下に走る稲黒さ線は 石ですも轄落ちる軌跡でもあらうか、兎に角之を標高線に直角なるものと考へ之を異様よ

b

見ておると俄 内応すればい此の坂の傾殺は約四十度に近い。此の念斜面を昨日の遭難者は無我夢中で轄落した誇である。 此の急斜面'の地表吋他の所と異

b

赤色を呈してゐる。 ニ O 五

(26)

ニ O 六 ' 一潟呉川的第五国版は前潟異と路一同一地劫よ

b

石写山方向を望んだものである。潟真下半分の最も手還の 部分が我々の立℃る附近の比較的援傾謀部で、潟真上方に中央よ

h

右が擦が

σ

て見える山が石倉山であ るバ勿論今五口々の立って居る地劫よ

b

も低い。その中間に左方よムソ中央、まで突出せる鼻は禰陀ケ城の最 も西に出張った部分である。此の鼻の最右端に、路,主ハの斜面に直角に立つ℃ゐる白色の棒状のものが見 られる。是は最近降った火山友、が龍各に依って捲上げられ℃ゐるのである。最近浅間山に降友深主魚、 龍巻が起る度にぞの・一火、が捲土げられ℃‘目に見る乙とが出来る。此の事に気付かゴる人は此の龍巻と爆 援に直接の闘係、があると思ってゐる。官何回兵は最も小規模のものである。・分去茶屋附近での目撃者は友が 天 会 で 捲 上 っ た と 一 一 一 口 っ て 居 た 、 が 、 夫 は 何 の 位 の 一 口 同 時 d を意味するかわからない。併し兎に角一方に於て友 が如何に細かく軽いかを示してゐる。我人々の登山中にも此の索莫よ

b

大きなものを見た、が皆距離が透き 魚と継績時間が短い魚寝呉氏撮

b

損 っ た 。 此 等 の 静 ム 町 内 J払 ザ 的 削 除 問 問 ・ 附 い

t b

- r

h

月に南東山腹ど南西よ

b

北東 化積に進行する乙とか見られた。 風は此の日南東風で、我々は風上よ

b

登る誇で爆殺の際最も安全である。 又 道 -を 登 山 遣 の 方 ま で 返 へ す 。 東 方 の 話 一 一 戸 ど 見 る と 一 様 に 細 き 水 平 の 際 問 、 だ け 輝 い ℃ 居 る 。 寝 中 呉 川 廿 ・ 必 。 両 方 の 空 に 或 は 居 状 市 一 戸 の あ る 影かど思って西方の窓を見℃も夫らしいものは無かった。

(27)

兎角する内に!何時か大部標高が前よら-上って居る。白いむく/¥左上る噴煙も出て居るし、又山鳴

b

も聞えず、何等爆殺するらしい惑い前兆がないので終 K 足を頂上へ向耽る。 登山道 rは束前掛山北端に導くもので傾斜を斜に登る故横道又は横手と稀芯れ℃居る白北の積一手の只ロ ープは一面にポンプ穴 K 充た遣れて居る。併し弦に注意すべき事貨は或る程度以上の標高院は却て'ポン プ穴の数が多少砂くなって居る乙とである。その標高は二千三百八十米附主である。是よ

b

上は火口附 近は勿論別ーとしてポンプの飛越して了ム地帯と思はれる。 ¥ 下山し℃後に合った遭難者の一人加藤氏が、爆殺の一瞬間彼の居た地姑よ

b

下方には熔山石が一面に擦が ってゐたが自分の居た地貼及び主ハの上方には多少岩の密度、が少かったと報告したのと符令し℃ゐる。尤 も加藤氏の位置が束前掛の西側スロープで上方と云ムのは東前掛下方と云ふのは火口壁との中間凹地の 事かも知れない、聯か疑を存す D 東前掛山一帯は深

3

降友地帯であった。 地獄谷の北端、剖ち束前掛山を浅間山よ

b

切離す谷、及び主︿のん谷を北方に延長せる直線を境として地 表の状況は一援して居る。其の境の東は前記の如く一面の深さ降友である、が、共の西方浅間山頂上火口 までは一面に新しく出た熱さ岩のみに敷詰められ、古き地表は特別大言な岩以外は完全に掩はれて仕舞 っ て 居 る 。 此 の 一 帯 は 岩 叉 山 石 と い ム 有 殺 で 、 官 何 異 け W1mω に見られる如丸山石の林とでも形容じなければな ニ O 七

(28)

ニ O 八 らない。此の附還は一昨年登山せる時は唯火山友の庶で所今にポツリ/¥と大きな山石、が在ったのみであ った。そして此の岩の林の出来たのは今回の三同の爆殺に依る乙とは推定する乙と、が出来る。何故なら ば殆ど総ての向石、が未だ高温を保って居るからである。 新しい岩の大主誌は大込﹂﹂いのは二間以上のものが深山ある。潟昇、

ω

・ 日 ・ 灯 。 門 出 に 立 懸 け て あ る の は 五 lーミ

+ 軽

三 の 杖 火 で ロ あ 放 る j兄 火口に到着したのは十六時四十五分である。官包呉川日・

ω

・ ぬ

- m

は火口内の光景で ある。潟宣(必は火口東北部よ

b

西北部を見たものである。国中右端は火口壁北部であって、火口壁中最 も低い部分で押出山石の恰度上の所に相官する。 海兵釘は前記清水鶏宜(舘撮影の一昨年(昭和四年)八月の火口内部である。潟異は東部の岸壁上から西 方に向って掠ったものである。霧真中右字分が略 t 寝具釘に相賞、ずるのである。之に依って、火口の西 北部、が埋って浅くなった乙とを見取る乙とが出来る。 潟呉川山は東部の火口壁であるが、之を古い寓其及び一昨年の記憶に較べると、壁の上端が著しく角を 取られた乙とに気、がつく b 郎ち以前は山尾壁が脚下に直立し、宗直パの如主席炉、い殺面が縁を取っては居なか ったのである。此の部分の土砂が崩れて西北部の火口内を埋め、且噴

3

出 、 d れて東側の岩の林を作った ものかも知れない。併し飯島氏は下山後此の潟異を按じていよには、日疋は角が取れて斜面、が出来たので

(29)

はなく、寧ろ下新

L

く描出

3

れ た 岩 と ・ 灰 色 が 積 っ て 火 口 の 周 b を一両くし、其の結果、火口内方 K 向つては 営 判 直 ( の 如 吉 川 件 面 を な す に 到 っ た の 、 た ら う と 推 定 し た 。 倫 守 何 回 且 れ で は 明 か に 出 来 な い が 、 一昨年登った時の記憶と比較する乙と K 依って、火口底の東部が深く なった乙とを認める乙とが出来た。今日の噴煙は一昨年等に比べると一般的に蓬に多い号、が、特に東南火 日 時 一 よ

b

のもの、が極めて旺んである。寝具坊・印・口付は東南部の煙である。日には姻を通し℃太陽、が見え ( 幻 ) て居る。叉西部の壁よ b の噴畑は少かった。叉東北部の壁は噴煙は少かった、が、頒に肇んこ轟々の一菅を立 て ¥ 居 た 。 、、、、、、、、、、、、﹁ふ/ 以上の諸事貨を綜合して、火口の活動貼が束に移動したと云へるかも知れない o 竺 我々は火口の東北部よ b 東南部までの約九十皮を廻ったのみである故、西部よ b 知らるべ

3

諸事責は 何等報告する乙とが出来ない。 次に下山の途に若く前に火口附返に散在せる岩石に就℃一言しよう。今回噴出した E 岩石は大躍三穫に分つ乙と、が出来る。その一つは潟異切で見た種の安山岩である。外 H視 は 光 樫 あ ろ 漆 虫 ⋮ 色で、無数の

- U

い斑日間、がその上に知在してゐる。質、が堅綾で尖鋭な角稜を現はし、その破面は平常であ 十四、噴出岩石 る。是は火口底下に在って徐々化凝回した熔岩で、それが岩疑よ b の揮後佐克新の底力化依って破壊ヨれ 援一飛ば忌れ、叉冷却する際 K ひ℃裂れたものである。隠って岩疑自身の噴出といム乙とを考へれば)か ニ O 九

(30)

G V る 安 山 岩 は お ハ ? 仲 眠 削 除 わ め 卦 に あ る の で あ る 。 { 烏 呉 国 ω -m w ぬは火口附遅で採集した・標本であるがぬ,ト 仰に於ける黒い部分はやは

b

此の程の安山岩であ忍 Q 寓莫必は火口附近で撮影した大主、な岩塊で‘色は 一 銭

b

黒くはないが同じく安山岩である。主(の斧を入れて割った殺な美しい裂れ目を見よメ裂れ目り間に 石コヅ。ぺが斜に介まって三つ見へる此厚誌は一粧以下令である。 第二の種類は努異訂で見た粗目穏な浮石である。此のものは熔岩、が未だ固まらぬ中に大気中に出で含有 十丸新を批放散したものであるから、命充分に瓦斯を含みある母岩楽、が飛び出したものと見る乙と、が出来 る。故に浮石が兎に角稀ではあるが噴出して居る事は肢にか岩疑迄か道路、か肝かれかんと見る事、が由来 る。故に山石碑筑海出の如き﹂場合は別とし℃単に克斯爆殺の程度の古のとすれば、爆殺は今同にて共の頂鈷

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いかと加かひ

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が酌恥か o 品 川 い か や か 酔 か 争 一 一 、 が 九

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ひ 臥 に か レ デ 。 登山は未だ危険である。 浮石は硝子質の外に結日聞をも持って居る、郎火坑内で冷却が長時間活み遂に瓦斯ど析出する殴階に達 したものと考へ得る結臼聞は噴出前に生成ヨれ硝子質は命波放にあ

b

て噴出ヨれたものに相違ない。 而して我々は是等浮石と堅石の二種のものを確然と区別して仕舞ってはいけないのである。何となれ ば火口底に在って固ま

b

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らない安山岩があ

b

夫等は外側、だり堅石でありて内部付未死熔けて居右ので

(31)

かが。而し℃か L る 山 石 塊 が 抽 出 述 、 れ ℃ 外 気 に 鰯 れ る と 、 川 小 机 町 九 ゲ 岳 山 野 山 町 札 げ に 腕 時 が 入

b

、 ﹃ 附 静 の 熔 け て ゐ た部分は元新を放出して粗霧な防庁一一伊となって、その裂目庇現はれるのである。笑み割れた石棺の殺な ポンプは是である口実異

ω

に見る大吉な山石塊の裂目がぐしゃぐしゃになって居るのは浮石肢の粗穏な部 分である。此の山石の細い浅い崎将の入った卒面の部分は外交け硬くなった餅を見る殺な戚じ、がする。此貼 は以前山崎博士等の考へと逆である。 第三の種は潟異

ω

に 見 ら れ る 白 い 岩 及 び 、 田 ・

ω

の安山岩の中に埋つ℃居る白ぬ)や-灰色

( ω )

の岩であ る。此の者は浅岡山の山石衆から生じたものではなく、浅間山などが出来る前から浅間山の基底部の地盤 を作って居た地感)中の岩石が岩築中に混

b

込み、熱の魚に多少特使質を受けたもので、山石援は夫が這入つ た俵で凝固して安山岩とな

b

、爆後に合って火口外収拠出活れたのである。 (蹄京後地震研究所員津屋弘達氏の査定を受た所、実異

ω

は流紋山万性の凝-灰岩の和熱愛質を受けたもの で、内に含まれた鍍物は石英、長石の破片(乙れは特使質ヨれる前から凝・灰岩の内にあったもの)唱で、石 基は攻璃である。 潟異

ω

の安山岩に包まれたものは凝・灰岩或は百岩の稀再結日間せるもので、含まれた鍍物は長石、輝石、 鍛錬]石基は攻璃である。又 m w で之を外包してゐる安石山石は、輝石安山岩で鍍物は斜長石 1 紫 蘇 輝 石 、 輝占石.磁銭鎮、及び少量の撤撹石である。) 一 -n

(32)

+豆、下山途上所見 下山の途に著く。 .火口よ

b

二・三十問峰の茶屋方面に下った所に裂自に硫黄の昇華して附着して居る岩を接見した。此 の岩は前記山石の林の中に在りて珍しくも冷温を保ち、而もその硫黄の附着してゐる附迩のみが微かに温 かくなってゐた。蓋し此の岩は相蛍に地下深く達し、共の裂目、が小硫気孔を形成し℃ゐるのであらう。 設に序でに書きつけ℃置くべきは、下山後峰の茶屋主人に聞いた新しい噴気孔の事である。位置は東 前掛山南端頂上で、今年五月三十日同主人が後見したといふ。此のものは直径一尺五・六寸深

3

こ 尺 五 寸 、 共の下に細い孔が績い℃居る由である。此の孔は外よ

b

之を見れば何等噴気の如きものを見ない、が、此 の孔の中に外気の温度に在る物例へば金剛杖等を差し込めば、直ちに水が凝結して温き水滴が滴るとい ム。寒暖計を入れたるに撮氏六十二度宇を待た由。鼻を此の孔に近づけても何等の臭が無かったと一去ふ から、水蒸気を噴出し℃ゐるものであらう、此の噴気孔が此の皮の爆援で如何なったか未だ知らない 0 1 此の話しを聞いた或る沓掛の人は之に類似のものなら小浅間北方分去茶屋西方押出岩附還にも在ると いって居たが温度は是よ

b

低いらし町(二十度とか ) 0 話しは下山の途に蹄る。 、宗呉川叫は噴煙が小浅間附迂を掩ム雲に影を落し℃ゐる有様である。中央部に縦に伸、びた淡黒い影、か夫 である。その影の賓際の色は用法部の淡い所で燈色である。

(33)

次の ω 刊の細長い潟異は前記の登

b

途で撮影じたと同じ雲の上の水平な縞の{烏異である可 此 の f 縞の何者 であるかを下山の途に突然思付いた、夫は此の縞をなす淡黒い直線の色、が前記の小浅間上の噴煙の影の 色と同一の栓色であったからである。此の直線は浅間山の噴煙が四方 i ! 寓真は南方よ

b

北方までの東 側で約一八

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皮に亙るもので西側に就いては知識が無い i i に旗,かつて自身の密度に相官する一定高度 に止って居るものである。此の楼赤色の線、が数本に別れて居るのは。その噴姻の温皮異る魚に異る高度 に留つ広一ゐるとでも解するか。大韓の高度四千乃至七千米程隠れ口此の物ーと恰も同様なる縞を武井異澄 氏 の 北 ア グ プ ス 穂 高 附 近 の 給 に 見 た 事 、 が あ る 、 が 、 日 疋 と 同 一 成 因 の も の か 円 と う か 。

ζ ノ、? ヘ 十 六 、 ヘ i遭難者直話 λ 最後に二十日の遭難者の一人加藤氏の談る所に随って爆殺官時の股況を述べよ ¥峰一の茶屋を二十日零時五十五分に出議。、茶屋の者に山鳴

b

がしたら降

b

ろ と 云 ば れ た が 、 風 の 一 品 目 、 が 山 鳴

b

に似てゐた、だけで山鳴

b

はしなかった。最初月に依って畑、が見えて居だが二時竿頃突然煙が出なく なった。夫ょ

b

小一時間登った頃剖ち前記遭難地勤に達した時、突然先頭の人が、煙が出たぞっ E と叫 けんだ。是と同時にシヤーといム一音が聞え、姻が立上った。直ちに火口の上に火の的が十間程(と加藤 氏は述べた、が安際の高

3

は疑問)上

b

、それから、どかん.といふ爆殺の昔、が聞みんだ。 此の時下を日本たら自分等よ

b

一 丁 下 よ

b

下の方は一面の火の海であハムが。下科大

3

い 山 石 が 落 ち て ゐ る 一

(34)

二一四 様に見えた。しばし呆然として居たが十秒も経たない内に友を見失ひ勾無我夢中で二丁程轄

b

落ちた 1 目 疋 は 峰 の 茶 屋 の 方 向 、 だ と 思 っ て 居 ・ た 、 が 貫 は 地 獄 谷 の 方 向 、 だ っ た 。 此 の 際 直 径 二 尺 位 の 真 紅 の 山 石 、 が 自 分 の l頭部を打ち、気が遠くなった。暫くして我 K 跨 っ た が 、 Tとても熱くて足が立たず尻で滑

b

b

売 。 附 一 辺 には一抱一へも二抱へもある岩が津山落ちて居た。而してかういム大きい岩は総べて黄色 K 輝いて居て、 何 時 ま で も 光 、 が 衰 へ -な か っ た 。 小 浅 い 岩 程 赤 味 を 帯 、 ぴ て 回 一 J︿光輝、が表へた。直径七八寸の岩は一面に降 って居たが夫等のものは直ち K 低い方へ低い方ヘーと轄

b

落ち、少し谷の形を友す所は無数の此の位の一山石 一 が 集

b

恰もな、だれの様な一旦日と形肢と速度を以て赤く輝きながら流れ下って居た。それ故多小高い所は黒 く残ってゐるので、その黒い細い地帯を辿って下の方に下った。それでも素足草駐の足では到底耐えら れず.グポン左ずるとかして足の先まで被らして辛くも歩く乙と、が出来た。熱 3 の 魚 咽 喉 、 が 乾 い て た ま らなかった。而して疲勢と頭部の裂傷の食間力なく一・二丁行つては地上院倒れ、一-一一丁行ってぽ地 上 K 倒れるといふ乙とを繰返へした。倒れる毎にすぐ眠って了ムのである。眠って見る夢はいつも水子一 飲 hu 夢のみであった。噴煙は大躍東北方向に向って居るらしく、叉山腹乞見ても束に寄る粍赤く光って 居るので)なるべく南乃至西の方向へ逃げようとした。併し東西南北の方角を知って居たのではなく後 から考へたのである。石写山を t 小浅間、だと初め思はってゐた位である。噴煙からは自分の方へこーオ一位の 石が降りた。・一此は降らなかった。第二同九時四十分の爆畿の時は石傘山麓 K 居たが小砂利位の石に見舞

(35)

はれた。御代田騨 K 若いたのは同日十六時頃であった。 (鈴)白色白友とか黒色の一民とかいふのはその性質は夫々浮石の粉末及び安山岩の粉末なのであらう、併し y -うしてさういふ岩石の細い 粉末が出来るのかは大盤面白い問題であらう、験震時報藤原硫黄獄制査報告にも此貼を論じてある。叉震災珠防調査報告第七十三巻 ・十一一良にが、て中村清二博士及び山崎直方博士が明治四十二年十二月七日の爆投直後視察されたときの報告中に﹁碓氷峠の熊の平停車 場並に-横川停車場に於、て見得たるものは、粗砂粒肢をなせり。而 L て 此 か 一 一 干 の 降 友 を 見 る に 何 れ も ・ 灰 色 乃 至 友 黒 色 を ロ 壬 し 、 而 も 宜 ( 中 後 小なる斑日同を認め得べきものあり。何れも山頂附廷に落下せし噴石と同質のものにして、主二居細かに耕砕せしものなるとと疑ふべ くもあらざるなり。﹂とある。因みに此の十二月七日の爆投のとき噴石には浮石な︿安山岩のみであったことが同節の中に記録されて あ る 。 叉岩奨友と熔岩茨のことが前掲﹁浸間山﹂四十七頁にある。 次に前掲震災諜防調査報告第六十七、七十三披中、大森博士稿より友の色に就いての記録を少し拾って見ょう。 ‘ 爆 4 殻 4 時 日 競 頁 四 二 年 十 二 月 、 七 日 六 七 一 三 、 四 一 一 一 年 一 一 月 十 二 日 グ 一 一 一 グ グ グ 三 三 年 一 二 二 月二十二日 四 四 年 一 月 ヒ 一 日 四 四 年 一 月 十 土 日 夜 四 四 年 一 月 十 八 日 四 四 年 一 月 二 十 一 日 四 四 年 一 月 二 十 三 日 四 阿 年 二 。 月 四 日 グ 1/ 七三四八・四九 M M 五 一 七 三 五 二 五四 五 五 五 五 五 五 グ グ グ グ (昭和六年九月) 事 寸 円 ︼ 筑波山麓にて草葉悉︿黒色 関東諸地域にて白色或は零の如く或は白砂の如し 最初先づ精粗撃なる焼砂を降下し次第に細粉状のものとなり凡十五分間を経たる後 は全く熔友の如き青白色の火山灰となる。 白砂の如く或はセメントの如し 柏 盟 ⋮ 味 を 帯 び 地 表 ・ 灰 白 色 黒色の細粉 屋上白きを認むる 利根郡にて一霜の如く積る 熊谷にて砂は細くして黒色 こ一五

(36)

- L ・ノ、 長野原町にて降友あり白色 前橋にて黒色 H M H M H M 熊谷にて過燐酸石・一此に酷似せる反。 等と黒と白が入れ代り立ち代り降って居る。同一の爆設で色 ω 異ってゐる場所がある。 噴畑それ自身に黒いのと・灰色のとあるが、是は主として友の茸によって左右されるものであらう。 ( M ﹀泡の如き形状のものが作られる様子はど 1 ルの栓を抜いたときの様子を想像すればよいだらう。 文前掲﹁浅間山﹂凶九瓦に大正九年寒冷秒扶のガサ/¥した一抱へもある大いさのものを東方小浅間方面に降らした。と・めるが此の種 のものであらうか。 (部)震濠曾報告七十三披十一一具に噴出後四十時間経過せる高熱の岩塊に耳を放っるに冷却の矯めひびわれする金属性の響を聞くを得た り と あ る 。 (部﹀火口底の昇降と即時設との問に仕密接な閥係のあること勿論である、天明三年の爆投前には火白は殆 E 悉っかり埋ってゐた D 明治四 四年大正九年等の大爆資も火口底の上昇を伴ってゐる。震諜曾報告第七十三競に山崎氏と大森博士が火口の深さで前宰して居るロ論 争に謄はじい程火口の深さは重大な意義を有するものなのである。 (釘)明治の末年頃は火口の噴煙は主として火口西部より出てゐた。例へば前掲第七十三競十八頁﹁殊に其噴畑'の著しきは西部火口壁の 直 下 に し て 一 再 々 ﹂ (市)火口の東漸は那須火山脈に属する諸火山 D 一般傾向である(藤原硫黄設調査報告及日本火山脈に就ての研究、地問皐評論第一巻参 /nqd¥ 、.、、、、、、、、、、、、、、.、、、、 照)、此貼より見ても浅間山は寧ろ那須火山帯に属すべきものらしい、火山岩の性質も津屋氏に開︿所.に依れば、富士のものとは異な りて寧ろ赤誠榛名等のものに近いと云ふ。理科年表及其他地理的学書園定数科書等に線て浸問を富士火山帯に入れてあるのは如何なる 根擦に依るか、或は只漠然として先延者の口民似をして居るのではあるまい v か 。 e

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此の三種は以前の爆後でも出て居た。例へば前掲古田七十三披十二一良第五﹁噴石に就て﹂等を参照 (mM) 中村・山崎雨博士の報告(前掲書第七十三猿)に於ては此の二種の岩石を同一岩柴より生じたることは認められてゐるも噴出時は別 J と見られる。而して此の雨者の閥係が恰度我々の考と迩になってゐる。即ち熱灼した岩撲は表面が冷却して粗老なる浮石となり、そ 白の下の方が漸次冷却して安山岩となる、.随ヲて同報告十一一良で﹁護し彼の粗義なる噴石は火口底に現はるふ岩援の皮殻なるを以℃、噴 火の最初の爆設作用と共に粉砕飛散せられて痕跡を止めず、主、の直下にありて紅織色をロ苦しヲ L 既に困惑となれる熔岩が噴出せら 十八. 日 グ 六 一 一 五 九 グ 四 四 年 四 月 グ

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