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「経済学」と「経済」教育の乖離 後編 : 私と公民の分離 利用統計を見る

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(1)「経済学」と「経済」教育の乖離 後編:私と公民の分離 A Gap between Econcmics and Education of Economy Part 2 宇 多 賢治郎 Kenjiro UDA. 山梨大学教育人間科学部紀要 第 17 巻 2015年度抜刷.

(2) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻 P101∼108. 「経済学」と「経済」教育の乖離 後編:私と公民の分離 A Gap between Econcmics and Education of Economy Part 2 宇 多 賢治郎1 Kenjiro UDA キーワード:学習指導要領、社会科、公民、外部性、国と世 1.はじめに  George Bernard Shaw A fool's brain digests philosophy into folly, science into superstition, and art into pedantry. Hence University education.  前編では「科学」、 「社会」、 「経済」などの基本的な語句の意味を確認し、社会構造の変化に合せて、 「経. 済」の意味が二つに分かれていったことを示した。また、このように「経済」という言葉の意味が分 かれたことで、「経済」が用いる人の社会の捉え方や所属意識、また言葉を用いる目的によって大きく 変化する性質を持つようになったことを示した。.  本編(後編)では、前編で示した内容を踏まえ、社会科教育における「経済」と専門分野としての「経 済学」の比較を行い、それらの乖離を明らかにする。 2.経済教育と経済学 2-1.経済学の整理  まず、専門分野として大学の経済学部などで学ぶ「経済学」が、高校までの社会科教育における経済. 教育とは別のものであることを示す。前編で示したとおり、教育には大きく分けて、糧を得る知識と. しての「専門」と、社会の中で人間として生きるための「教養」があり、経済学部などで習う「経済学」 は「専門」に分類される。.  この「専門」の「経済学」と「教養」の「経済教育」との違いを示すために、大学までの教育の概 要をまとめたものが、図1左である。.  この図1左の形が示すように、特定の専門分野の教育を受けることで、その人が持つ情報の分布は. 前編の図1で示したような山の形になる。また、専門家や研究者といった人は、 「研究で成果を出した. という結果を示すこと」が仕事であり、脳の情報処理能力を自身の専門分野に集中させる必要がある。 そのために、それ以外の情報収集や処理をおろそかにしがちになる。これにより、一般常識や教養の. 欠けた、いわゆる「専門バカ」、つまりそれしかできない、他のことを知らな過ぎる人になる危険性が 生じる。また特定の分野を専門とし、生業とする生活が常態化すれば、それ以外のことは知っていて も関心が向かなくなり、考えなくなる。また、似たような研究者が集まれば、その共通認識に疑問を 1. 山梨大学(教育人間科学部 准教授)、kuda@yamanashi.ac.jp 研究紹介Webサイト( http://www.geocities.jp/kenj_uda/ ) 本稿の執筆の際、本学部皆川卓准教授には、西洋史を専門とされる立場から意見をいただくなど、執筆の際 は大変お世話になった。ここに記して感謝申しあげる。なお本稿の文責は、全て筆者に帰す。. ─ 101 ─.

(3) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. 図1 経済学の教育、教育の内容. 注:右図の文系側の例の抽出に際しては、山梨大学教育人間科学部の社会科教育の内容を反映した。. 持つあるいは否定するどころか、触れることさえしにくくなる、いわゆる「空気」が醸成される。そ. の結果、属する人は、疑問を持っても言えない状況に置かれ、考えることが「専門」なのに、そのよ うな基本的なことが許されなくなることさえ起こりうる2。.  このことを踏まえ、竹内(2013)は、経済学の専門家を次のように説明している3。.  今日の経済学者の多くは、 「経済についての学」を仕事としているのではなくて、 「経済学につい. ての学」を仕事としている専門家である。 「経済学」とよばれているものの中身も実は「経済学学」 なのである。「経済学学者」は自分たちの業界、つまり学会で認められるような成果をあげて名声 を確立するために仕事をし、互いに競争している。こういう専門家に「経済」のことを尋ねても 大して意味のある回答を得られないのは当然である4。.  次に、「経済学」は一つの体系化された分析手法に基づいた「分野」ではないことを示す。大学の経. 済学部などで教わる「経済学」の体系を、経済学部の専門科目一覧を基に、社会科における「経済教育」 との違いを示せるよう、まとめたものが、図1右である。.  この図1右が示すように、 「経済学」の「経済」とは分析手法ではなく観察対象である。つまり「経済学」 とは、「経済」という観察対象を、様々な分野で確立された分析手法を用い、何とか分析し、説明しよ. うとしている試みの集大成ということになる。このことから「経済学」を専門分野とするくくり方は、 かなり大ざっぱであることが確認できる。.  それでも、このように分析手法が乱立する中で、 「経済」を説明するための理論は、多くの研究者の. 努力により確立、体系化されてきた。これらは「経済原論」と呼ばれる。本稿では、これら「経済原論」 の中から、社会科教育でされる説明に関係する「ミクロ経済学」 、 「公共経済学」 、 「マクロ経済学」に注 目し、その違いが生じる理由を示す。 2-2.社会科の中の公民教育  次に、小中義務教育の社会科における「経済」教育の姿を確認する。そのため、まず小中義務教育 2 3 4. ここで言う「空気」についての分析は、山本(1983)を参照。 竹内(2013)、p.327。 この後、次のように続くことに注意する必要がある。「他方、経済評論家や現場のエコノミストの方は、自 分の関係していることについて詳しい情報をもっているが、しばしば経済学の基本的な理解にかけていたり する。」. ─ 102 ─.

(4) 「経済学」と「経済」教育の乖離. (宇多賢治郎). で行われる社会科関連の科目の目的と概要を説明する。.  社会科は1989年の学習指導要領の改定を受け、1992年以降は小学校第3学年から学ぶものとなった。 その代わりとして1、2学年には「生活科」という体験的な活動を重視した科目を学ぶことになった。 この「生活科」という科目の目標を学習指導要領から、引用すると以下のようになる。.  具体的な活動や体験を通して,自分と身近な人々,社会及び自然とのかかわりに関心をもち,自. 分自身や自分の生活について考えさせるとともに,その過程において生活上必要な習慣や技能を 身に付けさせ,自立への基礎を養う。.  これに対し、 「社会科」の目標は以下のようになる。.  社会生活についての理解を図り,我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を育て,国際社会に 生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。.  これら二つの目標を比較すると、 「生活科」では「自」という言葉が、 使い方の異なる「自然」を除いても、 5回も出てくる。この「自」を学ばせることにより「ミクロ」 、つまり最小単位である「私」や一緒に. 生活している「家族」など前編で説明した「ミクロな家」の存在を自覚できるようにする教育が「生活科」 で行われる。.  これに対し、 「社会科」の目標は「公民的資質」の形成を目的とする。その方法は、 「社会科」の教育. の内容と順序を追うことで確認できる。小学校では「生活科」で学ぶミクロな「私」や「家族」 、前編 で説明した「ミクロな家」を前提に、小学校3年から近所の商店街、生産の現場、流通と扱う範囲を 広げていき、5年生までに「国家」を空間的に把握するという手順を取る。次に、6年生の前半で時. 間的な「国家」の把握を行い、後半に政治、憲法、他国とのつながりなどを学び、 「国家」の大まかな 全体像を把握する。.  これに対し、中学校における社会科の教育は「地歴公民」という表現が示すように、地理、歴史、公 民という分野に分けて行う。また三教科は順に教える「座布団型」か、「π型」と呼ばれる地理と歴史 の教育を1、2学年で半々で行い、3年に公民をという順で教えられる5。.  このように、社会科も教育としては当たり前の手順、各段階でそれまでに学び知ったことを前提に. して、まだ知らない新しいことを説明する方法を採っている。これにより教える内容は、初めは直感 的で手に届く、目に見える、体験可能な身近な内容から、少しずつ手の届かない、見えない、実感し にくい内容に変化していく。.  これらの説明をまとめて図化すると、社会科教育の大まかな流れは図2のようになる。.  「生活科」の内容は具体的、日常的であるため、日々の体験を通じて覚えることができるものであり、 指導要領にも「体験」を重視することが書かれている。これに対し、学年が上がると、体験だけでは. 習得しにくく、また機会も得にくいことを知識として覚え、考えながら学び、頭の中で体系化する必 要が出てくるため、理解は困難なものになっていく。このことから、経済が含まれる「公民」が後に. 来るのは、まず空間的(地理)、時間的(歴史)な側面から基礎情報をある程度教えてからでないと、 「マ. クロな視点」、つまり国民国家単位で社会の仕組みを捉えることが難しいためであることが確認できる。  つまり、「公民的資質」とは、目先以外の直接見ることができないところを知識で補って捉えること. ができること、ということになる。このことから、 「公民的資質」を身に付けた以降の「公」と「私」. とは立場、その都度置かれた状況に基づいた、その人の振る舞いであることになる。また、 そもそも「公」 と「私」は関心や己に関係あること判断する範囲の違いであり、対立概念ではないことが確認できる6。. 5 6. 中学でπ型、つまり地理と歴史の同時教育が可能な理由としては、時間的、空間的把握の内容の相互独立性 が高く別物として扱えること、また基礎を小学校で一度教えていることが考えられる。 このことから、公と私を対立するものと位置づけ、その二者択一を迫る、あるいは一方を選んだ者を批判と いうよりも誹謗または中傷するような主張は、言葉の意味を無視した詭弁でしかないことが分かる。. ─ 103 ─.

(5) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. 図2 社会科教育の順序と科目間の関係. 注:学習指導要領から、筆者作成。. 2-3.公民の中の経済教育  次に、 「公民」の「経済教育」にある、経済原論を説明する。まず、東京書籍の中学校の教科書、 『新 しい社会 公民』の目次は、次のようになっている。  ・第4章 わたしたちのくらしと経済.   ・1節 くらしと経済 (人々の消費と生活、それを支える流通と販売)   ・2節 生産と労働 (企業の役割と意義、働く意義と権利)   ・3節 価格の動きと金融 (市場経済の仕組みと金融).   ・4節 国民生活と福祉 (政府の役割と世界の中の日本経済).  節の見出し以降の丸括弧内は、各節の内容を筆者がまとめたものである。これを見れば分かるように、 前半の1∼2節では消費者、生産者という「私」の視点から説明がされている。 「経済学」の分野とし ては「ミクロ経済学」に近い説明がされている。.   「ミクロ経済学」では、文字通り最小の単位である消費者、生産者といった「経済主体」と呼ばれる. 「役割」ごとに独立した人格を想定し、それぞれが欲求に基づいた行動を取るものとする7。また、財(モ ノやサービス)の取引は、「市場」という仮想の場で全て行われるものと想定する。このように各自の. 欲求に基づいた行動したとしても、例えば価格の上昇により欲しい(需要)のにあきらめる、儲かる からもっと作る(供給)という調整が「市場」での取引を通じて働き、需要と供給が一致するという 説明がされている。.  これに対し、後半の3∼4節では、消費者と生産者というミクロな存在が取引を成立させるには、市 場と手段である貨幣を管理する金融、また政府による管理や福祉等の保証というマクロな「国家」が. 必要であることを説明している。 「経済学」の分野として、3節は「ミクロ経済学」の市場、4節は「公. 共経済学」や「マクロ経済学」が該当する。「公共経済学」は、ミクロの行動原理だけでは整わないマ クロな「国家」を機能させるのに必要な「公共財」を、政府が税金を徴収し、提供する必要性や方法. 論を説明している。また、「マクロ経済学」は、社会や国家の経済の流れを巨視的、包括的に捉え、分 析する方法を説明している。.  このように、中学校の公民の経済でも、初めは身近な目に見える、わざわざ学ばなくても日々の生 活で体験し、身につけることができる「ミクロな視点」から初め、時間をかけて知識を積み重ねてい 7. つまり、生産者と消費者が同一人物であっても、切り離してそれぞれの役割を担う異なる存在と見なしている。. ─ 104 ─.

(6) 「経済学」と「経済」教育の乖離. (宇多賢治郎). かないと持てない、 「マクロな視点」で国家・社会規模の「経済」の姿を捉えられるようにするという、 手順で説明がされていることが確認できる。 3.私と公の乖離 3-1.「世」と「国」の違い.  このような、社会科教育における「私」と「公」の違いを踏まえ、次に「ミクロな視点」だけでは、. つまり「ミクロな家」や「私」を前提に「経済」を捉えるだけでは不十分であり、 より広い「マクロな視点」 、. 「公」の考えが必要なことを、 「公共経済学」の「外部性」の概念を使って説明していく。.  そのため、まず「経世済民」と「経国済民」の「世」と「国」の意味の違いを確認する。まず「経世済民」 の「世」の意味を取り出すため、ここでは「世の中」を調べると、次のように記載されている8。 1 人々が互いにかかわり合って生きて暮らしていく場。世間。社会。 2 世間の人々の間。また、社会の人間関係。.  これに対し、「経国済民」の「国」の意味を取り出すため、ここでは「国家」を調べると、次のよう に記載されている9。 1 くに。. 2 一定の領土とそこに居住する人々からなり、統治組織をもつ政治的共同体。または、そ の組織・制度。主権・領土・人民がその3要素とされる。.  この二つの言葉の違いは、共同体に所属しているか、所属しているとしてもその自覚があるかどう. 「経済」という言葉が意味する社会の構造が複雑化した、つまり「マ かである10。前編で示したように、. クロな家」である「国」の規模が巨大化すれば、所属している「家族」つまり「民」によって構成され. ている「国」を「世」、つまり「人々が生活している、現実の世の中」と、まるで「当たり前」に存在し、. 自身はそれを前提に行動しさえすればよいものと錯覚するようになる。また、 そのような錯覚を前提に、. 「世」と見なした社会の中で「ミクロな家」の単位で利を得られる、得するように行動するようになる。  このように「ミクロな視点」で、つまり「世」という存在している場所で、それが存在する理由を. 考えることなく、自身の「私利」を追求することを考えれば、 「経済」の意味は前編で示した辞書の3. 番と4番に狭まることになる。しかし、その社会に所属しているという意識があれば、 「マクロな視点」 で、所属する「国」の国民、所属する「家族」として「公益」(国民益)を考える、つまり「経済」を. 辞書の1番と2番の意味も考えられるようになる。厄介なのは、 「マクロな視点」を持つ者であっても、 私的な都合を優先せざるを得ない状況に置かれることで、「経済」の辞書の1番、2番の意味を蔑ろに することがあるということである。 3-2.外部性とその境界線.  これを踏まえ、次に「公」の立場で考えれば分かることを、 「私」として考えるために分からなくな るものの姿を、 「公共経済学」の「外部性」の概念を使って説明する。  『経済辞典』によると、 「外部性」は以下のように説明されている。.  ある消費者や生産者の経済活動が他の消費者や生産者に影響を与えること。有益な影響を受け る場合を外部経済があるといい、不利な影響の場合を「外部不経済」があるという。.  この「外部性」は、前編の説明を踏まえるならば、考慮の外に追いやり、理解できなくなることから、 養老(2003)の「バカの壁」を築くことで見えなくなったものということになる。また、 前編の「科学」 の説明を踏まえれば、この「外部性」は大きく分けて二つに分かれる。第一に、人が未熟である故に 8 『大辞泉』より全10項目から、上位2項目を引用。 9 『大辞泉』より全2項目、全文を引用。. 10 所属していないと思って行動している人の行動原理と経済学の関係については、今後取り扱いたい。. ─ 105 ─.

(7) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. 理解できていない、ないし理解している人がいたとしても、社会的な制度や共通認識にはできていな. いものである。例えば、夢のような無害な物質としてフロンガスを使い、オゾン層を破壊していたの がこの「外部性」であり、その危険性を考慮して使用を止めたことが「内部化」にあたる。.  第二に、考えれば分かるはずのことを無視する、つまり「興味ない」 、 「関係ない」と振る舞うことに. より生じるものである。例えば、工場からの黒煙などが周囲に住む人々に様々な被害、負担をもたら. すことが「外部不経済」となり、煙に含まれる有害物質の除去装置を付けることが「内部化」である。 本稿では、 「ミクロな視点」と「マクロな視点」の乖離を問題にするため、第二の定義のみ扱う。.  また「公共経済学」には、「外部性の内部化」という表現がある。例えば、環境汚染などの「外部不 経済」を生じるものに対して環境税を課すことで、その費用を汚染排出者に追わせることにより、そ. の「外部性」を市場のシステムに組み込むことができることを指す。 「公共経済学」の説明における「内部」 とは、前提としている「ミクロ経済学」であり、「外部」とは「ミクロ経済学」の理論で捨象、つまり. 無視されているものである。このことから、「内部」と「外部」の境界線は普遍でなく社会制度、また その前提にある人の意識や社会の共通認識によって変わるものであることが確認できる。.  このことから、 「公共経済学」の説く「外部性の内部化」とは、人が「私」 、つまり自身の損得勘定に. 関係しない物事を無視するという「ミクロ経済学」の理論に基づいて建てられた「バカの壁」を越えて、 市場の取引以外にも多く存在する他の社会現象に目を向け、経済活動やその前提となる制度に組み込 むようにすることであることが分かる。. 3-3.「マクロな家」の巨大化と「ミクロな家」による外部化.  次に、 「外部性の内部化」を行う必要が生じた理由を、 これまでの説明を踏まえて示す。この「外部性」 の第二、「私」の配慮の外にあるものは当然、人によって異なるものになる。このような乖離が生じた. 理由は前編で示したとおり、 「マクロな家」が巨大化し、社会構造が複雑になったことで、 「ミクロな家」 が縮小した結果、 「私」の損得だけを考えやすくなったことによる。.  このことを教育面から説明した図2を踏まえて説明すれば、 「私」つまり「ミクロな家」とは、自身. の経験で身につけるあるいは「生活科」で教わることである。これに対し、 所属していた「マクロな家」 が強大化すれば、日常生活では見えなくなること、知り得ないことが増えてくる。そのため、日常生. 活だけでは体得できないことを知ること、巨大化し、複雑な構造になった「マクロな家」を包括的に. 把握できるようになるには、知識として教わり、頭の中で体系化し、俯瞰的に考える必要が出てくる。 これが図2で示した「社会科」の教育であり、それによって人に備わるのが「学習指導要領」にある、. 「公民的資質」ということになる。このことから、 「ミクロ経済学」が前提としている「私」とは、せい. ぜい「生活科」の教育を終え、 「社会科」の教育を受ける前、 つまり2年生3学期末レベルの配慮を持ち、 生きていくための「専門」知識や技能ないし生産手段を持った人ということになる。.  しかし、義務教育を受けている以上、図2で「手の届かない」 、 「目に見えない」と示した、自身の配 慮と力が及ばない部分をある程度は学んでいるはずであり、考えられるはずである。これを踏まえれ. ば、社会を「世」として捉え、 「私」の立場を採るということは、学んだことを意図的に無視しているか、 あるいは単に分かっていないだけということになる。 3-4.「ミクロ経済学」の前提.  以上のことを踏まえ、次に「ミクロ経済学」の基本原理を説明する。 「ミクロ経済学」の特徴を、奥 野(1990)は次のように説明している11。. 11 奥野(1990) 、p.11。. ─ 106 ─.

(8) 「経済学」と「経済」教育の乖離. (宇多賢治郎).  ミクロ経済学は、おそらく社会科学の中で学問体系としてもっとも精緻化されており、その体. 系の「美しさ」にひかれて、経済学に足を踏み入れる人も多いのです。しかし、このような人は、 しばしば現実の経済に対する近似としての経済学ではなく、鑑賞対象としての「経済学」に嘆美 して、現実の経済問題と学問としての経済学の接点を見失ってしまうことが多いようです。.  この説明のように、また前編で示した「科学」の説明を踏まえれば、 「ミクロ経済学」は極めて「科学」. 的であり、そのため論理的であり、また洗練の極みにあるといってよい、優れた「専門」分野である。 しかし、前述の竹内(2013)にあったように、 「経済学についての学」になっている。.  また「ミクロ経済学」の基礎理論には、まず消費者と生産者だけがいて、 それらが市場で取引しており、 その二者間の取引が論理的に最もうまくいっている、かつ自然な状態であるという前提がある。この. 状況に対し、「政府」が権力を振りかざして余計な「介入」をするから、結果として二者の利が損なわ れるという理屈を金科玉条にしている。しかし、人類の歴史を見ると、生産者と消費者、労働者や市. 場は自然の存在などではなく人工物であり、これらが存在する以前から、否定ないし必要悪扱いされ ている「政府」にあたる「家長」、つまりボスは動物の群れにも存在している。.  それにもかかわらず、このような理論が確立した背景には、「経済学」が確立し始めた産業革命初期. の時代性がある。君主など特権層の「私」が、「政府」という立場、特権を利用し、彼らの都合のいい 形に「経済」を歪め、自らの「私利」を「国家益」と称して優先させることで、 「国民益」損ねていた. という状況があった。また、このことを踏まえて当時の「経済学」を見れば、 「家長」としての役割を 忘れたと思われるほど私利私欲のために「市場」に「介入」し、構成員である国民や彼らのための「国 民益」を妨げていた権力者に対するアンチテーゼであったことが分かる。.  このようなことを踏まえれば、18世紀の英国の状況を前提にして作られた理論の、しかもその文脈 から切り離した一部を金科玉条とし、21世紀の我が国、主権者が国民である民主主義であるはずの国 民国家に持ち込んで、その国民や国民益を守るために時間をかけて整えられた制度を、経済活動を損 なうものとして断罪するかの主張は、状況の違いを無視したものであり、その主張する背景に特定の 集団の私利があるのでは、という疑問が沸いてくる。また、これまで示した「科学」の意味に対する. 誤解、専門家の行動原理、また竹内(2013)の説明などが示した、人が都合で動くことを踏まえれば、 経済の理屈が利用される背景に、利害を踏まえたそれぞれの意図が働いている事情が見えてくる。.  このようなことから、論理的には洗練された、一貫しているきわめて論理的な「ミクロ経済学」そ. のものが問題なのではないことが分かる。問題なのは、 特定の時代の特定の社会構造を明示するために、 様々なことを切り捨てて抽象化、簡略化したことで作られた理論を、絶対視して異なる時代、異なる 社会構造に適用し、方便として用いていることである。.  そもそも、これまでの説明を踏まえれば、「論理的」とは、単に筋道立って説明できている、一次元 的な説明というだけのものである。これを忘れて用いた時、「科学」的手法に基づいて作られたはずの. 「論理」であったものは、「信仰」や「迷信」に堕してしまう12。そのような使い方をなるべくしないよ う戒めるよう、あるいは他者のそのような方便に疑問を感じ、検証できるように「常識」 、 「世間知」の 基礎を教えるのが、 「専門」に対する「教養」教育である。このことを踏まえれば、 「専門」分野である「経. 済学」と「教養」である社会科の経済教育に乖離が生じるのは、 性質の違いから必然であることが分かる。 4.小括  本稿を後編とする前後編の論文では、前提となる言葉や論理を整理し、「経済学」と社会科における. 経済教育の比較を行った。またこれらを踏まえ、 「経済学」の内、 「ミクロ経済学」の前提を例に、科学 12 このことから、 「科学」と「宗教」は対立概念などではなく、その違いは使い方次第であり、簡単に転じる. ものであることがわかる。. ─ 107 ─.

(9) 平成 27 年(2015年)度. 山梨大学教育人間科学部紀要. 第 17 巻. や論理というものが持つ性質を踏まえ、抽象的な理屈の正しさと、それが説明するはずの現実との適 合性、またそれを無視して方便として用いられることの危うさを示し、それゆえに教養教育が必要で あることを説いた。.  本来、古代や中世の欧州の University でされてきた教育とは、専門でなく教養であり、それは多分野. を広く学ぶ課程で培われ、その後の人生の過程で、経験を通して常識に醸成されるものである。今日 の我が国の国民では、このような教養教育を小中学校の義務教育で学び、また多くの者が進学して高 校や大学の教養科目でも教わっている。.  このことを踏まえれば、「教養」教育をすぐ役に立たない、成果が見えないなどと理由を付け、ない がしろにすれば、昔に比べて複雑になり、経験だけでは理解できなくなった今日の社会構造を理解す ることができない、短絡的で視野狭窄な「私利」のみを追及する、人間(じんかん)で生きる社会人. に成長できないヒトを育てることになる。国家がこのようなヒトで構成されることが望ましくないこ とは、福沢・小幡(1872)という、広く知られているはずの本で、一世紀半前に既に説かれている13。.  なお、本稿を後編とする2本の論文では紙面の都合から、「ミクロ経済学」の前提のみを、社会科教 育を踏まえて解説するに留まった。今後は、経済教育と経済学の間にある乖離の姿を、より経済学に 踏み込む形で示していきたい。 参考文献一覧. アダム・スミス(1789b) 『国富論 II』、大河内一男 監訳(1978) 、中央公論新社。 宇多賢治郎(2016) 「『経済学』と『経済』教育の乖離 その1前編」 、 『山梨大学教育人間科学部紀要』 、第17巻、 山梨大学教育人間科学部。 宇多賢治郎(2015a) 「経済学の基礎理論と経済循環構造の乖離 前編:中間財の扱い」 、 『山梨大学教育人間科 学部紀要』、第16巻、山梨大学教育人間科学部。 宇多賢治郎(2015b) 「経済学の基礎理論と経済循環構造の乖離 後編:付加価値と利潤の違い」 、 『山梨大学教 育人間科学部紀要』、第16巻、山梨大学 教育人間科学部。 奥野正寛(1990) 『経済学入門シリーズ ミクロ経済学入門 第2版』 、日本経済新聞社。 オットー・ブルンナー(1974) 「VI『全き家』と旧ヨーロッパの『家政学』 」 、 『ヨーロッパ』 、岩波書店。 カール・ポラニー(1975) 『大転換 ―市場社会の形成と崩壊―』 、東洋経済新報社。 金森久雄、荒憲治郎、森口親司(編) (2013) 『経済辞典 第5版』 、有斐閣。 鹿野司(1990) 『オールザットウルトラ科学』、ビジネスアスキー。 小学館国語辞典編集部(編) (2012) 『大辞泉 第2版』、小学館。 竹内靖雄(2013) 『経済思想の巨人たち』、新潮社。 福澤諭吉・小幡篤次郎(1872) 「初篇」、 『学問のすゝめ』 、岩波書店。 文部科学省(2011) 『小学校学習指導要領』。 文部科学省(2012) 『中学校学習指導要領』。 山本七平(1983) 『空気の研究』、文藝春秋。 養老 孟司(2003) 『バカの壁』、新潮社。 松村明(編) (2006) 『大辞林 第三版』、三省堂。. 13 なぜか冒頭の一文が重視され、一貫して主張されている重要なことは無視されることが多い。. ─ 108 ─.

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