印度學佛 敏學 研究 第
63
巻 第2
号 平成27
年3
月 (25
)「
三
國 遺 事 』
に
お
け
る
神
の
受 戒
に
つい
て
孫
眞
(
政
完
)
1
.始
め に 仏教は ,各地 域に拡 大 する過 程で 基層 信 仰の様々 な神と遭遇 した . これ は東ア ジ ア仏教の場
も同じで あ り,南
北朝
時 代に主に 山林 に進出 し始め た中 国仏 教は 山岳神
と出会う
よう
に なっ た . こ の 時期
, 山岳 神
を仏教に帰
依さ せ 仏 教 を守護
する た めの思想, す なわち, 神 仏 習 合 思 想 を形成 する. これ はまた仏 教の伝 来と受
容 過 程で朝
鮮 半 島 と日本に もその ま ま伝わっ て きた .『
三國 遺事
』に は こ の よう
な 習合 現象
に関する記事
が散
在 してい る の で, これ を もとに韓 国 仏 教の 中に現れ た 神の特 徴 を把握する こ と がで きる.外 来 宗 教である仏教が伝来 さ れ た 地 域の基 層信仰
を解 体す
る か , そ れ とも
包摂
する か に よっ て,仏教
の教化方法
は違う
形で 想 定せ ざる を得 な か っ た .神
に対 する否定
と肯 定
, ま た は, 基 層信 仰の解体
と包摂 という
二 つ の範
疇 につ き,『
三 國遺事
』で語る神
の様
子と性 格
は多少異
な る . 『三 國遺事
』 における神の受
戒 につ い ての 用 例は 以下の よう
である.2
.巻
三塔 像 第
四
「臺
山
五萬眞 身」条
寶川常汲 服其靈 洞 之水故 晩 年 肉身飛空到流 沙江外 蔚珍 國掌天 窟停止誦 隨求 陀 羅尼 日夕爲 課窟 肺現 身 白云我 爲 祕 已二 千年 今日始 聞隨求 眞 詮 請受 菩薩 戒既 受 已翌日窟亦 無形寶川驚 異留二十 日乃 還五臺 山紳 聖 窟 (T49
,999b)
この
記事
の内容
に よ る と,掌
天窟
の窟神
が菩
薩 戒 を受 けて か ら掌 天 窟の形 態が 無 くなっ た という
こ とで,掌
天窟
は もう存在
し ない とい える . ところ が, 掌天窟 は慶 尚北 道の蔚 珍 郡 近 南 面九 山里 にある聖留 窟
と理 解 さ れ て い る .『
三國
遺事』
巻三塔像第
四 「臺 山五 萬 眞 身 」 条の掌 天窟
の窟神
を蔚珍
の 聖留窟
の 土着的
な信仰
の 対象
と して把握 する見 解がある.掌天窟
の窟神
は二 千年
も窟神で あ りなが らも,寶
川太 子が来て随 求 陀 羅尼 を念 誦 する前 まで は仏の名
を聞い た事
が な か っ た という
こ とか ら して, 掌天窟の窟神
が伝統
的な土着神
である こ と を反 映 して い る とい(
26
) 『三 國遺事』における神の受戒につ い て (孫)う
1>。掌天窟の 窟神 は蔚 珍 地 域の土着神
と して窟神信仰
及 び, 重要
な祭
祀の対象
と さ れ, 掌天窟と その 一 帯は古 代, 蔚 珍の 社 会では神聖 な地 域 と さ れ た ともい え るの で ある .3
.巻
四義解 第
五「
慈 藏 定 律 」 条
慈 藏の行 蹟 を
伝
える代表
的 な 中 世資
料 と して, 中 国の 道 宣の 『續 高僣 傳 』 と 一 然の『
三國遺事
』が あ る2). 『績
高 僭 傳』
に は唐に滞 在 した時 期 を 中心 に身 辺 を 記 録 した一方
,『
三 國遺事
』 には叙事性
の深
い話
を幅
広く受
用して おり
, 慈 藏の 活 躍を多方
面 に 提 示 し てい る . 資 料A
擁啓 表 入 終南 雲 際寺之東 鰐架甜爲室居三年 人祕受戒 靈應 日錯辭煩不 載 (「三 國 遺事』 T49 ,1005b
) 資 料 B 啓 敕入 山於 終南 雲際 寺 東懸1樗之 上架室 居焉旦夕人祕 歸 戒又集時染 少疹 見 受戒 禪 爲摩所苦尋即畫像除愈 往還三夏常在此 山將事東蕃辭下雲際見大鬼紳其衆無數帶 甲持仗 云 將此 金輿迎取慈藏復見 大 示申與之共鬪 拒不許迎 藏 聞臭 氣塞 谷蓬 勃 即就 繩床 逋 告訣 別 其一 弟 子 又 被鬼打 躄 死 乃蘇 藏剴亅捨諸衣 財行 僭徳 施又聞香 氣 遍滿 身心 禪 語藏日今者不 死 八 十餘 矣 (『續高 僭 傳』T50,639b
) 新 羅の律宗
の創
始 者で あ る慈 藏 は善 徳 女王 の 仁 平三 年 (636) に
入 唐 した. 上 の資料 B
で は ,終南
山で慈 藏
が3
年 間
(640
−642
)終
南 山雲 際寺
の東
側に庵 を建て , 修 行 し な が ら経 験 し た こ とが, 比較
的詳
細に叙述 さ れて い る. しか し, 資 料A
で は こ の ような事
実につ い て煩 わ しい こ と と して簡 略に述べ てい る .一
方
,資料 B
で は “戒神
” が慈藏
の軽
い病
を治
した という
3>.『續 高僣 傳』
で は , こ の よう
に受 戒し た後, 神 に見 える “ 戒 神” とい うことが 現 れ る. 「高 僣 傳 』 に 比べ 『績 高 僣傳』で は受 戒 し た神に 関する記事が増 え , これ ら は戒律 を伝 えた僧侶
の 修 行の 際,守
護の役
割を し て い た . そし て , この 時期に慈 藏 は 生死の瀬 戸 際 に立た さ れ た との 記 録が残っ てい る.大 鬼 神が慈 藏 を殺 しに来た 一方, そ れ を阻 む大 鬼神
も存在
して い たの で あ る .各
々 の 対 立項 と な っ て い る大 鬼神が象
徴 する こ とに対
して は,様
々 な推 測
が行
わ れて い る .例 え ば, 慈藏
が 中 国に滞 在
した 際, 唐 太 宗は抑仏 崇 道 的な立 場 を貫
い て い た か ら, 『續高信傳 』
の著者
である道 宣は太 宗の 道 教優 先 政 策に対 し批 判 的 な立場 を示 した .慈 藏 を殺 そ うと した勢 力 とこれ を阻 もう
と し た勢 力は, 慈 藏が こ の 当時の道 教 と仏 教の論争
に介 入 して い た可 能 性を隠喩 的に表 現 し た と考 え られる 4). ま た は ,慈 藏とそ の弟 子が終 南山 で実 際に病 を得
て死に か け たこ と をその ま ま伝
えよう
とした とも考
え られ る5).『三國遺事』における神の受戒につ い て (孫 ) (
27)
4
.巻
四義
解 第
五「心 地 繼 祀 」 条
遘聞俗 離山深公傳 表 律 師佛 骨 簡子 設 果訂 法 會決 意披 尋 既至後 期 不 許參 例乃 席 地扣 庭 隨衆 禮懺 經七日天大雨雪所立 地方 十尺 許雪 飄不 下衆 見 其神 異 許 引入堂 地携 謙稱 恙 退 畫像 處房 中向堂潛禮 肘穎 倶血類 表公之仙溪 山也地 藏 菩 薩日來 問慰 泊席 罷 還 山途 中 見二 簡 子貼 在 衣 褶 間持 迴告 於 深深日簡 在 函 中那 得至 此檢之封 題依 舊 開覗亡矣 深深 異 之重 襲 而 藏之又行 如 初再 迴告之深日佛 意在 子 子 其奉 行 乃授 簡子地頂 戴 畋山嶽 禪 率一仙 子迎至山椒 引地坐於 崑 上畋伏崑 ド謹 受正戒 (T49 ,1009b
)眞表 律 師の簡 子 を受 けた とい う永 深 が 果証 法会 を開い た が , これに参 加 した心 地 が修 行 して い た 山に帰る途 中, 白身の襟に二 つ の簡 子が挟 まっ て い る こ と を発 見 し た . これ を 仏の 意 と考え た永 深は簡 子を 心 地 に渡し,頭に これ を乗せ た ま ま 山 に
帰
る彼
の前
に, 中岳
の 山神
が現れ戒律
を受
けた という
話で あ る .伝
来以 降, 仏 教は神 信 仰の 領 域 を含め た社 会の多様
な分野 で積 極
的に自分の 領 域 を拡 大 し,伝
来地域の 固 有 な信 仰 との緊 張 関係 を 生み 出した .習 合現 象が現れ た後 にもこ の 緊張
関係は信 仰 と思 想の 問題 を含
めて 引 き続 き,神
と仏 [僧 侶 ]の様
々 な伝
承を 形 成 する こ とに なっ た . これ は神 信 仰の領 域に浸 透 し よう
とする活 動を始め た仏 教 徒 らが, こ の状 況を克 服, ま た は受 用 するた め の意 図と して形 成 され たの で あ る .「
心 地繼祀」
の 記事
でも
山林 修行者
を中心 と した仏 教勢力
が 既存
の 山神信仰
と融和 し な が ら教線
を 拡大 し, 仏教を守 護 する神の役割
と機
能を知る こ とが で き る . そ れ は , 仏 の簡
子[
聖簡]
を奉
る場所
を 山神
と共に決め , これ に対 し て山神 が賛嘆
する と言う
記事
が次
の よう
に語
ら れて い る た めで ある . 地日.今將擇地奉安聖簡 非吾輩所能指 定 請 與三君 憑 高擲 簡以 卜之 乃與 紳 等陟 峯巓 向西 擲 之 簡乃 晝像 風 颶而 飛 時紳作 歌日礙 崑遠退砥 平兮 落葉飛 散生明兮 覓得 佛骨 簡子兮 邀 於 淨 處 投 誠兮 既 唱 而 得 簡 於 林 泉 中 自卩其 地 構 堂 安之 今 桐 華 寺 籤堂北 有小井是 也 (T49 ,1009b
)周 知の 通 り,仏教 は イン ドで生 じ,
東漸
した . 仏教
が伝
来す
る過程で, 該 当 地 域の 固有
思想
あるい は信仰
との軋轢
・相
剋 という問
題に出遭 っ た と見 られ る. な お, 仏 教はすで に 中 国 などの各 地で 固有 信 仰を克 服 する経 験 を積んで き た .従 っ て, その 経 験の 蓄 積の 一つ で ある山神 交 流 譚の伝 承が布 教の 中で 生 じた可 能性 も 想 定で きる .5
.巻
五神
呪
第
六
「
惠逋 降龍 」条
龍 既 報 寃於 恭 往機張山爲熊 神 慘毒滋 甚民 多梗之 通到山中 論龍授 不殺戒 神 害乃息 (T49
,(
28
) 『三 國遺事』に お ける神の受戒につ い て (孫 )1011a
)中 国の蛟
竜
が朝鮮半 島
に来
て竜
に変
じ, また, 竜か ら熊
へ と変 じた複雑な構 造 の話に なっ てい る.仏 教 的発想
と見
られ る変 身
還生譚
に民 間信 仰 的 な要 素 が 結合 さ れた叙 事 形 式, す なわち, 仏 教 説 話 に民 間伝 承が加 味さ れ た 話 で あ る 。惠通 と 蛟 竜の 対 立 と葛 藤 か ら, 結 局, 不殺 戒
を通 じ,仏教
優位
の叙事構
造 を表
して い る.伝
統 的 な竜 信 仰 に対 し た外 来 宗 教 と して の 仏教が優 位構
図で伝
承 し た こ と は , 『三國遺 事 』の な か で,巻一紀 異,第
一の「
射
琴 匣 」 条 と巻二 紀 異, 第二 の 「眞聖 女王居 隘知 」 条 などで確 認で きる .こ こ で 注 目すべ きは, 社 会秩 序を維 持 する た め, 仲裁 の
役 割
を 果 たす 僧侶 の 功 能である.惠 通は人 間の 問で 発 した問 題に対し調 停に乗 り出 し たの で は な く, 顕界
の 存 在で ある人 間と冥 界 を治め る竜の 問を仲 裁 し た .密教を修 行 する仏僧
の役
割
だ けで はな く, 社 会の 基 本構 造を維 持 する任 務を任
されて解
決 し,客 観
的な仲
裁 者 と して の 役 割, 社 会を統 合 し, 維持 する機 能を持っ て い た と認 識さ れてい た . 平 常 に は, 顕 界の存在
である 人間と冥 界の存在 (
神
, 山神
, 霊, 竜等)
が各
自の 領域 で暮らす と理解
さ れ た . しか し, 顕界の 正常な秩 序 を弱 化させ る自然 災 害や 伝 染 病な どの よう
に予測不可 能 な 問 題 が 発 生 した 時 こそ, 僧 侶が介入 で きる瞬間 であっ た . こう
いう場合
,神異力
を持
っ た僧侶
らが, その力
を以っ て問
題 を解
決 で きる と思わ れ た .仏 教 僧 侶 に対 して の こ の よう
な仮
説 的分析
は, 僧 侶の神
異な 能 力へ の 絶 えざる要求があっ た か ら だ と考え られ る. 自然災害
や伝 染 病な どの よ うに, こ の 世の 秩 序 を脅かす多
様 な種
類の事件
があっ た こ と は当
然の こ とである . 人 々 は仏教の僧 侶 らが様々 な問題 を解 決で き るこ とに期待
を持 っ て い た . そ して, 僧 侶 らは その 要 求に対 して, 仏 教 が 初 め て伝
来 した 中 心 地 域の外 郭
で あ る 地方と 山岳
地 域に その影響
を拡
大 し な が ら, 期待
に応 えた . 一然の 『三國 遺事』
で神 異譚
は篇
目を問
わず
全体
に 及 ん で述べ ら れ てい る. これ は, 少 な くと も 一然が考 え る に は, こ の よう
な僧侶
らが神異
な る力
を持
っ てい た こ とを意味
し,『
三國
遺事』
の 全 般に現
れ る彼
らの 数は, そ こに由る とも考
え られる.6
.む
す
び
仏
教
と基層信仰
で ある神信仰
の関係
の変化
は,神
に対す
る仏教
か らの授戒
の中
に よ く現 れ てい る . 『三 國遺事』
巻三 塔 像, 第四の 五 臺 山萬眞身
と巻四義解
,第
五 の地藏定律
,心 地繼
租,巻
五祚
呪,第
六の惠
逋降龍
で は ,それぞれの窟
神, 人 神, 山神
, 熊神
に変
わっ た毒
竜な どが仏僧
か ら受 戒
した . こ の よう
な仏 教 と神の『三國遺 事』に お け る神の受戒 につ い て (孫) (
29)
関係は 中 国 仏 教 の 論理 で も考え られ る こ とになる. 「高 僭 傳 』 巻六 の曇 邑伝で は「
夢 見
山禪 求受
五戒爲
説法授戒」
(T50,362c
)と, 神に授 戒 して以 来, 中 国仏 教の 神は表
層的 な意 味と して の仏 教が深 層 的 な意 味を持つ ため に克服 する対 象
と して 必要な存在
という
点でその意 味を持つ ように なっ た . つ ま り, 山林に進 出して 山神
に出会
い , それ を仏教に帰 依 させ て 仏 教 を守
護す
る よう
にす
る 思想 を形 成 させ た もの で ある. その具 体 的 な方 法の一つ と して神
に戒 を授
けた の だ.1
) 盧重 國 (1999
)を参照,2
) 慈 藏の 生涯につ い て の基 本資 料 とし て は, 逍 宣の 『續高僭 傳』「唐 新羅國 大僭統釋 慈藏 傳 」 (T50
,639a
−640a
),「唐 京 師 普 光 寺 釋法常傳 」 (T50 ,540c
−541b
) と道世の 『法 苑珠 林』64
「唐 沙門釋 慈 藏傳」 (T53,779b
−c)ほ か に も 『三 國 遺事』 「慈藏 定律 」 (T49 ,1005a
−1006a
)などを参照.3
)長 坂一郎 (2004
)を参 照.4
)南東 信 (1992
)を参照 .5
)南武 熙 (2001
)を参照 . 〈参考文献〉 盧 重 國1999
「古代 蔚珍 9]歴史 概 觀」 『韓 國古 代耐 會 斗蔚 珍地 方』 韓 國古 代 史學 會. 吉田一彦1995
『日本古 代社 会と仏 教』 吉川弘 文館 . 長坂一郎2004
『神 仏 習合像の研 究』 中央 公論 美術 出 版. 南 東 信 1992 「慈藏潮佛教思 想斗佛敏 治 國策 」『韓 國 史研 究』76.
南 武 煕2001
「『績 高僣 傳』 「慈藏傳 」 斗 『三國遺 事』 「慈藏 定律 」Pt
原 典内容 比 較」 『文學 史學 哲學』19
. 吉 川忠 夫2011
「『高僧伝 』か ら 「続高 僧伝』へ 」 『図書』744
, 岩波 書 店.Strickmann
, Mi。hel
.1978.
“A Taoist Confirrnation of Liang Wu −Ti’s Suppression of Taoism .”
.ノ
borrnal
of the AmericanOriental
So
〔]iety98
(4
).〈キーワー ド〉 『三國 遺事』,習合現象, 基層信 仰