――目次――
論文
1,
歴史の神学の構造分析と批判:パンネンベルク批判, 森田雄三郎, An Analysis and Criticism of
Pannenberg’s “Theology as History”, Y
ūzaburō MORI, pp.1-25.
2,
哲学的信仰と Ernst:ヤスパースの場合, 峰島旭雄, Philosophic Faith and Seriousness: specifically with
reference to Karl Jaspers, Hideo MINESHIMA, pp.27-52.
3,
比較宗教学の課題と方法論:ウイルフレッド・カントウエル・スミスの研究, 葛西實, Task and
Methodology of Comparative Study of Mankind’s Religious Life: a study on Wilfred Cantwell Smith’s
standpoint, Minoru KASAI, pp.53-73.
4, Candrak
īrti の Prasannapadā に引用された
Prajñāpāramitā-Ratnagu
ṇasaṃcayagāthā, 湯山明, The Prajñāpāramitā-Ratnaguṇasaṃcayagāthā quoted by Candrakīrti
in his Prasannapad
ā, Akira YUYAMA, pp.75-92.
5,
一都市寺院と宗教浮動人口, 藤井正雄, One Big City Temple and Religious Floating Population, Masao
FUJII, pp.93-122.
歴史の神学の 構造 分 皮 内 と は 立 日歩 ふよ 論
的を救
"
」 「M
」) つ 正 色 つ と き 場 づ の 兄 ょ で け 神 な く あ る 学 す 救 る 立 駒 力 済 と 場 立 l 史 パ で 場 ル 的 ン あ を / l 一 一 一 一 予 バ ィ コロ ン り、
が ま を は 、 た 超 詰 は 内 こ 歴 る ブ 容 の 史 /L,, 的 立 に パ ト な 場 末 シ マ 間 に め 不 ン 題 属 る ン や 契 す ベ コ
|
機とガ
る。
) ( 3ノ、
くノ ル ク し こ ネ に ル て の ン よ テ は よ べ れ ン 、 ラ ル は の さ に ク こ 立 ら パ の の 場 すつク
のは
「実弟
受 」 一 1 (163)する﹁純粋な歴史性の
る
。第一の批判の相手︵ 2
︶
史の枠のなかでの においてあらわに さ ヰ ㌧の ココ の ヰす の お ︵一九
と
批判
パンネンベルク批判
森
田
堆
一
一
ほ
且駒方法である。パン ネ
学的批判から﹁ 原歴
りである。それゆえ、
があると、パンネン ベ ルク は考えるのである。 である。その上 ま
で、議論をいっそう 複
いとして﹁当時の ィェ ︵アサ︶ マンに特有な実存論的
﹁史実﹂を根拠づける
﹁史実﹂から﹁歴史・ 一
不 ンベルクはフルト
自己の立場を説明す
︵プ リコ 年の臣のの 日 ︶でもな
え て、かかる差異の根
思図 である。しかもこ ︵ 5 ︶
ての由ず Hoq ㎡とばい
ンベルクのキリスト論 (1 ㏄ )
歴史の神学の 構造分析と批判 に 求めてみよう。 註
ンネンベルクは
このめ 珊文 ︵ 木 悪むく 、
Ⅰ ヨ ド ニ 二官Ⅰの的・︶ "
0 ゆず。 プ 0 % 曲の ゴ の ユトト ︶ 、ト のの 0 、の ・のの 臼| ㏄ ト ㏄ ︵ 2 ︶く % 目 ・∼ 甲 ∼ Q., の ・㏄ ト ㏄
ヒ 以前には、バルト
て 自己批判され
パルトは 一 ・救済
ハンネンベル
ることはかなら
い 年ヨ㌧Ⅱ 0 ヴ仔ヨ
吋へののこ 芯わ ㌣ さ もめの 甜 Ⅰ悪めのつのの S ㏄・㏄㏄ 片
馬,ト ののか,の・ ト Ⅱ
ハンネンベルクは 、
姿 と使信を使徒
評価する。しか
| ミンのケーラ
では正しいが、
。説教において
ンの 主張であっ
コロのⅡ 目づ笘 ∼ 幅 ∼ 0 臣の
4
とは 「 わ ェ れ ス ね め れ 神 の 的 義 運 務 今一
課
として (ののお日せ井
り , ) れ か て ら い 原始キ
」。(
る ) 1毛衣
口 / し 、市こま、
4
イエ童形
す す な る
木 ︶の HH. ダ ⅡⅡ
ハンネンペル ク
倫理的人格主義
0 そこでは﹁は 傾向の強い現代 。﹁史実 | 歴史﹂ けようとする 占 ぎ 示す﹁歴史﹂ 対する。そして る 人格的体験の
大 によって︶ 史
の 徹底によって
統一的全体とし
この点で、
点である。しか
の 前提する実存
が 欠けているの
を 残している。 (166)
歴史の神学 キ は
ス 史 ン @ 白勺 ネ、 」 イ ン が ェ ベ 史 ス ル 的 が ク ィ 信 は エ 柳 こ ス そ の を 根 ょ 根 拠 う 拠 づ な づ け 歴 け る 史 る の の の で 二 で あ 重 は っ 構 な て 造 い 、 を 。 イ " 一 一 ニコ " パ 仰 信
ン い ィ 言 べ は 仰 ル 信 根 ク 仰 拠 で に と は お の 関係としても語る。パンネンベルクの考えで い て現在われわれに出会う﹁天にあげられた 、史的イエスはわれわれの信仰と現実経験の の 構造分析と批判
同時に、成立史の観点
紘 史﹂︵ づ qp 臼 ︵ 片
O コ mT
つ までもない。
はない。 とのパ
| 、アルトハ どの人々が批判されることになる。
区別を意味し
シオンベルクが
運動方向の区別
呼ばれ、現在
のののの ゴざ す % の
ほ ついてはさま
来 へと向かう 歴
運動であることが、重要である。︵ 5 ︶ 証
㏄・ ト ゆの 目、の ・ トベ ︵ 2 ︶Ⅰ 申 ∼ Q. 、の ・ P べ ︵ 3 ︶Ⅰ 申 ∼ 4. 。の・㏄の 史 ざ と か に 問 な ウ ン 運 ま 呼 ら よ 題 い ス 不 動 で は 過 っ に 。 な ン ても、 ナしつ @@ われわれはまっ いても、キリス (168
のみ﹂知るのである。﹁キリストの現在の経験 はすべての日の終りに よって獲得されるので
歴史の神学
する開け﹂という超軽
て 成立しているのであ ︵ 0 り ︶ る 。 の 構造 分
のの 口 ︶であるが、それ
たいしてつねに歴史 特
神 関係を、自明のこと
史的特殊性﹂の開けである ところの開けである。さら 析 ︵ 2 ︶
い する﹁開け﹂︵ 0 千 ︵ 4 ︶Ⅰ 甲 ∼ Q.. の・は い
をとる神学が歴史 神
られるであろう 一 一
方法的特色を﹁ 下か
侍 0 円 0 抽 あづ 0 コ 0 すめコ ︶ と ︵Ⅰ l ︶
と 言及するのにた いし
0 便信とイェスの神的 (169)
とはなにを意味す
に 関係するのである
通して神の現実性︵ そ
る ︶が歴史的に出会う
ンベルクはこの﹁ イエ
運命﹂︵旧 い巴ガのコ仁巨 のののの三の オ ︶ののことか、 ﹁イェスの行動と神的
動 ﹂は歴史的個体的存
の 歴史﹂を特徴づける
する。﹁神約運命とは
れたもの︵ 隼笘 の 甘 当の
かぎりでは活動と行
のとしての神的運命に ︵ ミリ ︶
﹂の﹁上にたいする 開
神約運命﹂として具体
工スの 復活以前の事件は、イェスの行為によっ て 実行されたかぎりで
れゆえ、パンインベル
ネ ンベルクは エレルト
威 ある語りかけに関係 ( Ⅰ 70)
歴史の神学の 構造分析 と批半 Ⅱ
よ 重要となる。
理の叙述順序も特
パンネンベルクは 々
たことを叙述しよう
ら ﹂の態度を保持しつ
何 のなかに立ちつ
応 的に理解しょうとするのである。 註
寅 ・の・はの ︵ 2 ︶ 目申 Ⅱ 軋 ・・の・ い の
ない﹂というレッシ
りと見なされる
ることそのこと
つの構成契機だ
芭 Ⅱ㌻ 鮭 n 潮賦涼 ちいご め・の ぺイ眉コ ・Ⅱのの づ ・の・ ト ㏄ 由 ︵ ノ升 ︶ハツ・㌧ リ臣 二の コヴ のⅡ㏄・Ⅰ 申 Ⅰ 曲 :の・ ひ申 ︵ 5 ︶ト寺∼ Q., の ・ めひ
ハンネンベルク自身
であるが、パン
ベルクは否定的 (171)
せしめられるもので
パン 不 ンベルクに と
したがって、歴史に
るがゆえに比倫的であ べ ノ ン ク J@ ヰ ウ Ⅰ ・
王に、復活の表現の
小 すよ う に 、 新しい 休
ているわけではない。
るものであると、パン
︵の㎏
目ヴ
ow
㌃の
ゴ
︶とも呼ばれる。︵
1
︶したがって
、復
活は日常の感覚的経験
(172) 10 べ ノンク ・オトキ わ 「 ち | 嘉 田
廿イよ @@ 死
/ Ⅰ か
り つ の よ
み きた ト れ拠 が 亀 パて ば に え り
。
晦ノ ぎ不を栄
ン「 は バ L@. @@ ひ ) シ 分光 ン 第 @比
「 輪目キェ
6.
のの 1 まる つの 後に 的のか分か
か な話法 お く に よ l 」 ま 目
目なう
覚るとに
ん Ⅱ う 0% 曲 オ O ㍉のオ の 勾の 隼の
で あ る そ
刀 )
スの ﹁
このよ 析 七 %
である。
ク はい
心理学 歴
l+ ひ ら 遭遇され 神約運命﹂ うに、 ィェ かに考える - 的に説明す 、依然とし て る の ス と て 歴 こ で の し 、 史 と あ 復 て 歴 家 に ろ 活 の 史 ク 仰 に 験 さ い 的 ば そ る そ の の 成 駒 れ か 連 、 れ が れ 意 頬 立 連 え 続 歴 ゆ ゆ 図 比 。 ず 続 あ
る 性 典 え こ れるが、しかも歴史
としてのみ成立する
続 性である。そこに
、しかもそれぞれを が 見られると い えよ う 。
への時間的方向をと り、 死によって人間経験のいっさいを 否 的には非連続においてのみ成立する超軽 超経験的局面からの連続性である。そこ ﹁存在の類比﹂でもなく、バルトの﹁ 信 生かして綜合しようにするパンネンベル
性は 、パンネンベルクにとってやはり この歴史的出来事は、経験的局面からすれば、 非連続を示すであろう。しかし、
こで パン 不 ンベルクは、この 一 ,連続的
であり、﹁類比﹂によってのみ表現さ
は 経験的には非連続であり、経験その 歴史的出来事 超経験的局面 移行﹂ないし れると、説明 ものの否定と し す は か らすれ で ある。 ﹁歴史 ︵ 3 ︶ る 。 い て 理解 11 (173)
な 希望の光のなかで なくとも、史的出来 と 主張されなければ できるかぎり、かか ウロ にたいする 現わ して認め、かっ主張 史的関連が説明可能 の 史実である。われ 能 にすると同時に 、 か へと無限に追求す 対応する。しかもこ し スパン 不 ンベルク のみ理解されるなら ぱ 、かく示されることは、 た
K ︵Ⅰ リ ︶
る
台目
説
と
し Ⅰ
史
概
学
よ て 語 学 実 の み は る の 理 義 が 、 こ よ 解 務 ノ 。 ィ と う に と り ェ は に よ し
ている 現
て軟ぜ 不文
ほ ついて
思味 におい
見ても、
にもかか (174) 12
消滅すると、パンインベル
り
るように終末論的歴史全体
0
人間理解と深い関係
ュ
析 るかぎりでは、パンネン ベ っ さい、黙示文学的地平が 批半 Ⅱ 五のちに取上げるであろう。︵ 7 ︶ 註
ぬ ・の・べう ︵ 2 ︶ ト駅 ∼ Q., の ・ⅡⅡ 由
だけでもなく、両者を綜合することが パ の綜 ムロに成功しているとはいえない。 ︵ 4 ︶ せ幅レ ・ h 申 ∼ Q. 、の ・ べ ㏄ 自 ︵ 5 ︶Ⅱ ト ∼ Q., の ・のの ︵ ムり ︶Ⅰ 申 Ⅰ Ⅱ・・の・の @ 印
公 である。この循環については、イエス
の 問題として論じられてぎたところ
されるにもかかわらず、パンネン ベ
な的 理解と、バルトの終末論的啓示
に 明らかにされない一因もある。 ンネンベルクの意図であるが、 そ か パウロかの問題と平行して、 だからである。したがってこのよ ルク はこれを十分にはたしていな および救済 史と 、歴史 字的 研究の
な 生においてけっして
るとおりである。人間
の 理解は、かかる死を
ょ れば、黙示文学的 復
をあられす表象は 、そ
不適切﹂︵ ぎ 注ぎ Ep ︵︶
は人間本質に根ざすも
ぎり、その真理性と実
いわゆる世界の開けを
一元論によって理解さ
パリノ 不 ㌧ノベルクは五 % ︵ R リ ︶ る 。
思味 をもっよ う には
歴史における経験的
よみがえり﹂、﹁イエス
は 、﹁象徴的﹂とはな
ネ ンベルクにとって か
りを示す﹁ 隠愉的 ﹂ 表 (176) Ⅰ 4
撞
とする。パン 不ンベ 史 神 Ⅰ (177)
0 本質規定よりも、 む
われる。
い 根拠は、パン 不ン
ンベルクは、旧約から
ら 終末へと﹁連続﹂ す
つは﹁伝承 史 ﹂の一部
0 ト片ゴ 0 % ㍉㏄二の∼︶︶ ず往 。 コ
思抹 する。︵ 4 ︶ 註
㏄ 、の ・ ぺゆ ︵ 2 ︶Ⅰ 申へ Q.. の・㏄ 荘 ︵ 05 ︶ ゼめ @ N 申 ∼ Q.. の・Ⅱ㏄ 1 ㏄ 収
、つつオヤ この論文 半
説 論文としてひ 批
ロビンソンの 初肝 析
しば独断的にな 分 造
れる。 構 学
﹁啓示は啓示的歴史 到来以前における啓示はすべて間接的であり、 神の歴史的行為を通し 。﹁このような事情の と パウロへと到達する 的 概念の根底に存する 消滅させることなく 確 ではキリストの出来事 を経て将来の決定的 神 ヤハウェから世界の ﹁神の本質は永遠か 働かせる歴史経過にお なったのである﹂。︵ 3 ︶ 神性の普遍的啓示は にいっさいの歴史現成 ス ・キリストの神的 運 ストにおいて死人から したのである﹂。︵ 5
︶歴史
一の神となるところの終末を、イエス・キリス トの 出来事は先取的に (178) 16歴史の神学の 構造分析と批判
かく啓示するのであ ︵ 6 ︶
対応的に終末先取とし てあらわにされたのである。
ス において実現した
そのかぎりでは神は
終末をめざす進行であ
命 における神の終末論
以上が、﹁伝承 史 ﹂と
て パンインベルクが語る内容である。 註
0% ⅠのむⅡ Q. オ Ⅱの 帆 ・ せ 。 臣
ヱ の ガ の コ の 、め 下口 コ ・ H の のの、の の の ︵ 2 ︶Ⅰ 申 ∼ Q. 、の ・の 収 ︵ 3 ︶Ⅰ 卜 Ⅰ @@,. の・の べ ︵ 4 ︶ ト轄 ∼ Q.. の・ PO い ︵ 5 ︶Ⅰ 轄 ∼ Ⅱ ヘ ・ @ の ・︶申のⅡ ︵ 6 ︶ ト申 Ⅰ @ ・・の・ ト申 Ⅱ ︵ 7 ︶ トひ ∼ 4., の, HO り ではない。 スラエル Ⅰ 7 (179)
右に述べた 史 ﹂と黙示
吝
題 に関する パ 大論を旧約的 見 なす 0 パン 依存させ、 こ スは 依然とし する決断によ ス における沫
末の側から、 希望させると 黙示文学の でもない。 ブ 史的行為は客口
止 する。それ けっして哲二 T (180) 18スの歴
この 間
学的 終
まりと
行為に
は 々ェ
にたい
ろイェ
的に終
来 へと ︵ 1 ︶ ンネンベルクは考える。
いうま ︵ り乙 ︶
神の歴
法 も成
否定は
歴史の 七
て
呑みこまれたと主張
ムが
指摘するような
とは、事実である。︵
3
︶
ク
にとって、人間の
命
として開示される
象
史を根拠づけるのでは
づける。それゆえ、パンネンベルクにとって
、
神学的思惟の基礎をな
ける約束によって約束
パン、
不
ンベルクはモル
末の待望のもとに、
一
束を発し、この約束を
︵ 5
︶
。この終末の先取的実現は
先取﹂の意味が十分分析さ
構造理解も、すなわち経験
史的契機の理解も、ふたた
実|
歴史﹂の方法的
区
19 (181)実である。しかし、 わ ︵ 9 マ ︶
る レスラーには﹁救済 ︵ⅠⅠ︶
ころであって、クル ( ( ( ( 6 5 4 3
八
Ⅱ建
ハ で ルパ すの コン ち と か お ダ か
クて示
し啓示
と ぎ 弓 のの と ,麿 も ㏄っ中 最 9 % た し初 に ま
、のト
の
落 と指縄
烏しに定化
宙向け
ざい N かぎ ル フ ㏄ 八でる
りトら
マれ はアトののめ。
神 ンンル
宇 た の ト と だ ㏄ ハ 関 し ㌍ ウ 係 ア lスづル
註・の・の㏄1ト トト
目コ の円 a 悪才㏄ さ まま 艶
からである。︵
6︶
ゆ ・ 論 別 え 的 の に 自 由 、 己 間 伝 埋 る 承 解 突 史 の 破 と 下 し 歴 干 よ 支 分 う 学 さ と 的 は す 認 か る 調 え パ は っ ン 単 て 不 私曲 こコ ン に の べ 統 万 ル 一 法 ク さ 的 の意図
れ、
区別 あ る は ぃ 湿 土 ま 部 分 い さ 汲 な せ ろ 循 る と 環 緒 ろ 閉 果 れ 係 を ね に ま ば お ね な か い られたな
、
とい
そ い け の え れ き さわ ら パ め に ン て ま 木 思、 た ン 弁 べ 約 こ ル 生 め ク 知 徳 の 生 理 存 義 の 花 (182) 20
歴史の神学 の 構造分析と批判 ル 史 こ ク は の の 三 よ 「 一 う 干 柿 な か 論 パ ら 的 ン の 前 ネ キ 提 ン リ の ベ ス も ル ト と ク 論 に の 」 成 神 と 立 学 対 す 的 立 る 態 す 救 度 る 済 に こ 史 現 代 い
の う そ キ ま の リ で か ス も ぎ ト な り 教 い で の 。 は 弁 証的意図 上からの が キ ひ @ そ ス ん @ で 5A. し Ⅰ 」 る を キ 構 成 @ ス し、 教 は 過 去 べ 21 (183) にたいして クル にとっては、 救 とは、人間的経 車史﹂の事実を ヨーロッパへ と クルマンのよう 飛躍、あるいは ぃ 。終末論的地 する神学的態度
ルク
事実
﹁ レ伝
教的
る 。
する
れな
うと
救済
佳一 ム| 4 現す
解す
終 とし の啓 とくに キ り る個体性の る。これに 末の将来性 ての イェス 示 L ︵一九二 スト論 思想を たいし に従属 の復活 八一年︶
沈下に、パンネンベルクは、なお 将来への希望を点じようとする。
いであろう。 註 ︵ 1 ︶ づ性 ・ づ討トい ⅠⅩⅩⅩ づロ MH ︵︶ののの︶がめの べ1 の 申
・ お寺 , 絆キ ロ er ののま 、由ぬ ∼∼ a ∼ め
も ∼ うぬ へ ぬ,の ・の㏄1 % か 、鼻口切片一口のⅡのの︶ ヴの、 メト ・のめは 肚 ︵ 4 ︶ せ哩 ・い の又簗づ鮭品 ・︶ ゆ肚 P. P ご l トも ・ かかる状況の奥底深く流れるキリス パンネンベルクのかかる意図は 、モ Q めめ n$ ぎ ざ ∼ め, ︶ の の ダ の・のの 二色 乙 Q のの。甘の ゴ の 臣 在口ロののの。 ゴざす ︵の @ 木 ま し
柵的
態度が一般に
惨透
的 意図の努力目標であ
なお、事実の歴史性に
る 方法と考える。この
る 。神学の側におい
、アルトハウスのいう き 主 に 状 体 お 沈 約 い に 行 て
福音
置か 荒者 れ る の た 神 約 。 か 東借 間 へ 抑 へ と を と 目
標づ
ふ た 置き た 喚 けびえら
" " れ 歴 そ た 史 の 歴 半 紡 史 的 呆 る @c 、 展 証 正 開 明 統 し 同 生 能 義 深 な 酌 め 車 借 て 実 仰 き に は た 根 そづ 即 か
信 な 代 仰 歴 世 老 吏 界 だ 的 に け 墓 お に 礎 い 見 を て ら 見 啓 れ 朱 蒙 る っ 主 と た 義 は か は か の 歴 ぎ ご 史 ら と の (1 荻 ) 22
歴史の神学の 構造分析と批判
はなお多くの不十分
れにともな う 伝承 史と
リスト 教的 ヨーロッパの現代的危機の深みと、 ややともすれば主知工 ︵ⅠⅠ︶
める。たとえば、パン
的 批判的方法を顧慮し
ベルクは批判する。 し
れは、バルトにせよ、
与えたキェルケゴール 歴史の神学しにおいて
契機である。パンネン
て 、しかもみずからの
終末への流動的実在の
史学的認識とが単純
かに埋没しがちであ ︵ り 4 ︶
る 。それがまたさらに
つむ 、危機的現代にお 23 (185) 九
ベルクではキリスト教
ヨーロッパの栄光とい
もわれる。 ︵ 3 ︶
の 導入部において、
ゲル以後の神学的便
のどとくである。 へ|
なによりもこのこと
| ゲルの﹁宥和﹂の 弁
ることを、パン 不ンベ
キリスト教的 ョ ーロッ
牢 として浮かび上がっ
へ| ゲルへと帰るだ
て 生かされるのではな ︵ ア サ︶
されすぎるパンネン ベ
める 生かせるのではないだろうか。 註 ︵ー︶しのの・ 舟 Ⅱ 心 ∼∼ Q ∼ の のめりの さ ∼ 0% ∼ n. の︶ 申 Ph ︵ 2 ︶第三章 註 ︵ 3 ︶を参照。 ︵ 00 ︶Ⅱ 申 ∼ Q.. の・㏄ h.. ︶㏄Ⅰ ( Ⅰ 86) 24
歴史の神学の 構造分析と批判
かる歴史の可能性の
批判はパンネン
紙面の都ムロ七割
動向と対照させ
も 他の機会にゆ ずることにする。 25 (187)
哲学的信仰と Ernst
皆
うこ可は
な
も、
なけ とは 根 永 に不 l さ @C ス い面の
し し 最ぞ的小
れ倍
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ィ ア Ⅰ Ⅰ ナ ロ ィ オn>
Ⅰ。
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島
明 ス の に 問 い わ ㌧㏄ ) か パ 間と 題 こ め
お後
旭
哲 の 題 6 面 す 難 のの ) 出、ょ、
場合学的ことではるの
的に ナ と た三才」
Ⅰ
ィ
印 口 と あるで取は
、
りそ
ある雄
以い と い け 溝 板 の 意 下方哲
学
よ 白9
信仰
スく|ノ
と
㊦Ⅱ
臣降
ス
の場合
11
27@ (l89)の ャ ・ う の い んらかの意味で小社 珊 たい。 人 と書物とい ザ ー︵︶・ 4. ト ︶︵円が ネ い︵︶ P 目のの︶、フレッチ ︶・ ナ ・ 円 ・ 力 0 ヴ ピロの 0 コ ︶ それである。 ト教 神学界にたいして
として発生した新し わたってキリスト教 は ﹁真面目,真剣 な 経過をへたるとで るようにおもわれる。 のうちいずれが使わ 同時に、この語のか る 、ということができる。
ア
あ @ Ⅰ ムユ ん @ Ⅴ の 2S
哲学的信仰と Ernst
啓示信仰にたいする
2
の 動向は
ではないかということである。
出して 単 に チャー もっらなる の状況倫理 さえいる。 " 誠実 " も こ Ⅰ す と ︶
コのヰ、
うにおもわれてくる。じじ つ 、両者のあいだ になん
ビンソ
構造の
ること ︵ リ マ︶
況 に立
イリツ
の 深み
ぃコ叶ゴ - ︵ 4 ︶
である
︵ る 5 。 ︶ ﹁誠実﹂とも 訳 らかの意味での ン によれば、聖 一部として影面 こそ誠実な態度 ちいたる。それ ヒ を援用して 議 ︵ 丑ゴ 0 ロの セ目 0 め " よ又 F, ︶へと 。ロビンソン 自 の 書は、その書名が示すとおり、 " 神への誠実 " という基本的立場
ことを、ラビ
ュ
は強調するのである。︵
0
1
︶
ものであると Ⅱ 六 リオⅡか丹 目 ① 臣コ 0 ︶ ︵ 8 ︶ 自身において 啓 よ う 。 を 挙げること ︵勾の & 目の ゴヰ の ヰ ︶ ︵ 0 Ⅰ︶ ないような場合 特性は具体的に 苦しみをまった く 示 に が 赤 る ぃ 誠 さ 公 で 実 れ ぃ 明 き信用、
仰索よ
え え を 置 き、 ︵ 71 ︶に 啓示 信
︵もまた、
にすぎな
れる。 そ
か はその かにみえる。
いっそう 神
一つの表現を
ぃ荻 という 考
はまた " 神への
思ひ
つにそこにある。の テーマとの関連はじ
る 。 ることは、周知のとおりで されるのであって 、 哲 (193)
忠実との二面性をもち、 そ
有する点に、とりわけ
深 め さ ィ 言 を 仰 物 に 語 お け
誠 上 実 触 な れ ど た か @ き 連 り 召
、
甚 一 一 想 ,、 、 い{
- え ン し ソ い ン う の ご と ネ争 く 、 へ の 誠
の 主
し セ て ん
巳 白 9 丹 誠
の 広 う さ ピ 註 ︵ー︶ オ 0 巨コの 0 コ , 叫 0 口のの︵︵ 0 の 0 且 ワト ゆ ︵ 2 ︶ 0 で・ 0 ざ ・・ づ ・ ト卜 ︵ 3 ︶ 0 で・ 0w ︵・ ,づ ・ドドⅡ ︵ ノ升 ︶ 0 づ ・ c ぃ ︵・ ,づ ・ めト ︵ ︵ 5 り 。Ⅰ・ c ぃ ︵・ ,づ ・ ト トド
Om 汀 ︵﹁のの・いの。 笘 Ⅰ 0 ド宙 ∼しの 壌 ・ ワ P3 ワ㏄の コ に
侍 。の年年 ヨ せの 由か Ⅰ 0 0 二曲 oPo 四口 且 タトゆか 月 Ⅰ・ⅡⅡ ︵ 00 ︶ 0 つ ・ 0p 円 ・ ,ロ ・ゆ う
いの ざ 年の r C 二幅の 韻 口口
のの 卜 ︶ ,の ・Ⅱ㏄ ︵仲川︶ 0 口 ・ 0 目︵ ,,の ・ べ ∼ ,の ㏄︵㌧二の " 0 ドの︶
と
はかはかチ
" る "れエ
ャ ス 自対真
も 共 l の し ろ 察 の亘ぅ
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に ろ う 誠 こ 疑 の 克 実 と の に 問 夏 梅 ( は を実的
繍 に が 当 み 立 コ一
9.
%
のこ
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ヤスふ す し ほ ・す目 的 ". る 決 l に 眩 。 宝 ス
つ
と お か で ぅ の 思 、 さ し あ @ い
せそ
ろ い ら わ 意 わ か れ 味 ゆ ん よ は こ て理 で ね い そ よ ナ @ え 字 方 取 な あ に 言 さ 万 通 法 り 強 る と 葉 い や
り に 出
とかて
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、
l (194) 32哲
,由 Ⅰの︵の﹁ ロリ の ゴ, ののべ 3 学 ︵ 4 ︶ 0b. 由 ︵・ ,の ・ H のめ 仰 ︵ 2 ︶ 0 口 ・ 由 ︵・ @ の ・ H か Ernst 註 曲り 0 Ⅱ ぺ窯 臣 Ⅱ 由 ⅡⅩ 乙 すの Ⅱ。 ㏄ 侍 のヨ の コ トの お の ば 一
も本
そ丸心てざ
っ根ス
パて、
いも明
)わ
れ上か二で透
性の六論
参 してス事ス交
l
はヤ
・ス謂
パト
・実存小照 わり等々を挙げるのがっねであろう。しかも、
ぇ ないけれど
口 ︵コ ム に つ
箇所は 、ヤ
もっ性格に
全体にわた
てよかろう。
出た小著と、
できるなら
概念は 、そ
られていると るのである。
ら、デ 理論的 落 では ののす 0 目
合理的確実性・
矢の深淵への 墜
の ㍉の コ 年の コプ 下の コ|
ゴ曲 小ヰ のコ のの 年 曲目 | して、かかる 観占か ト ギ ト の の 対 ㏄ が ル ア ー 的
どと
㏄ び Ⅱ 年 でトⅡ 0 Ⅱ り Ⅰ 一 一 目、 包 カ ノせ 原 で 入 谷 訳 百冊 ノ ンノン 命 と に 力 所 の 明 講 確
曲垣 楠美 味,
包 け る い 。 ぶ あ 巻 べ た @ き - ス . - 実
含ア
しウ
そ。
論 う 存 で グ こ 者 も て 主 わ ス で に の い 義 た テ 、 お よ 才 ん = 協 し ィ ヤ い そ L, 、 し と 東編、 語 ス パ に ヌ ス て て い り に l ヤ 日召 芭 つ か か ス ス 目 た 和 け ん は パ 簗 の 九 る し " l 年参
昭 " 。 の の ト デ
存 コ の カ 在 ギ コ ル 降 実 と 存
コ
セ
l.
レ ・のむ の・はⅡ の Q 目 講 虫 1% " 本 - 号 プ曲コの も、 真 摯 中マ O ぺ e 「 一 宙巴 TO の ト 下 Ⅱ 木ぽ ㍉ ヰ く 196) 34哲
れらの現象のうちには 学的信仰
とについても、語っの
らを一括してかりに ェ と Ernst
侍を
口(
コの
0
目 目 井あ 甲 る Ⅹ 巳 こ と の 考 う ノ 。 ち て に ぃ は る そ と れ (@@ @ う 尽 こ き と な が い で な き に る も の か が 五 れノ し Ⅰ で そ の 徹 底 ま | か え て 実 存 の
が 明確になればなる
なる アしと ︵③Ⅰ コの仔旧の ︵ l
" p のの︶。このようなわ
ⅠⅢ q コのヰ を 休しって十日パ ユ の
るしき降もまた実存 ︵ 3 ︶
る ﹂、と評価するのである。
であり、弁別であるが、 こ
|スは 、この点に関連して、
究がう ちにはらむ危機と真摯
。したがって、この意味にお
ルト の神は宗教の内容への デ
ている、﹁ ハ デカルトの u 自 れら両者はまったく対立し、かげはなれ ﹁あえて賢かれ﹂︵のが ロ の目口目の︶という さとは、じつは、哲学的信仰の面から 照 いてヤスパースは、前述のデカルトの 探 カルトの敬虔な信仰から出ており、じつ 己 確実性のもっとも貧弱な把握において
力 のなよぶ実存の現実
思味 での暗号となりう
りない、ということで ある︵ り %
安ま
芭 。 るとが挙げられて
んする ヤ
はあくま
スパースの叙述を見ていかなければならない。
者には
平均化は スパースの叙 でこの点を 、心 実存の決断と しり ぞ けられ
︵ よ Ⅰ 笘 。 ぬの 円目算 宙弐 Ⅱ パ げ村定︶があって 、 エートスの真摯さはこ
事実的な世界定位に
的 世界定位から哲学的⑪
口 Ⅰ コの ︵という基本的 な態度において示しているといえる。
を 見出すことができ
について語っている 箇
︵の真の理解は、この
窄
37 才学的信仰
Ⅱ臣の ヰ年 。の 田 0 のの口目口 宙 ︶
な 知識の追求に終始し 多義的な " 悪 " の少なく え % くところに、実存の真 度 している。 ヤスパ 史 の うえ でたえず可能 ることは、他のもろも る 。ヤスパースはこの ケ アーグニス さい、可能性から 現 毛 の す の︶にあらしめ、 まったくは排除される い て自己自身を現実化 史的なあり方と称す ま 。ことも名づける 貧 二 % ㍗の味・︶。実存は真摯であればあるほど、
ち、 もろもろの可能 口 まぬ︶と感じる。 さ いるかにみえる。すな
にいそしむのである。
超越者の意識が実存 以外にはなんらの 道 ︵はそれのみでおわる 、とでもいえよ うか 。 ならば、それは、 哲 くされるであろう。 るのではなくて、 哲 ず 、ただその暗号の舌口 取り組む︵㌧下の。︶き
。 (200) 38 ヤ 註 スノ で が ㊦ Ⅱ 臣
イム ・ エ C 臣
教法
l 律 ト 隼 一の コの 再な論どが
ス と 二を 明 し Ⅰ アマ で 述 べ て
い る 箇 所 の 主 要 な
-A. 百冊 述
0
一月) カス
@ ま、
ま | 右の
と 明 { で あ る が 秩 中 ん よ = 序 お そ 法
哲
るようになる。それ
3
学
なしとする。
は
、われわれは﹁自然と歴
︵の
目注ユ
ののの巳にほかな︶
的ら
,
﹁
,nst、超越者は決して 実
、実存のⅡ︵二組をい
の 秘密は実存の㊦目算
になるものとおもわれる。
する。たとえば、 自
引き受。
桂を自己自身,|、,
, 。 こんに思惟しうるものの
て かれは次のように
なければならない。 し
さえも、判断・行為・ の っ と
えられているとい
ぇ られても、超越者
ことは、超越者の
﹁哲学的信仰は冷静さ 況、 @@ ァし ﹂ 、 とい ヤ とい はか ント ︵ 00 ︶
は ﹁真摯さのゆえ
なるものである うことができよう。
きな特色がある
実存のⅡⅠ 臣ゑに
のせ のⅡロロ ロめ丑 ︶ は
さえいわれ、 ヵ ︵ 4 ︶
われる。哲学す Ⅰ・ シヒ トリヒ
方 、根本 状
る
。さもこそま
、ガ仔 1 ハ レヴ窩 ガ円 1 の七生こ 宙目帥 ︶
での多岐にわたる根本
る 。かれは大きい方の向哲学的信仰 L の序で、 次のようにいって い
底 る 、こんにち求めて
も 、これを排棄するこ ヴ 7l
本知以外にはあり
惹き 合えるような限り
(202) 40
している︵㌧二 % 巨は ︶。
。しかしながら、それだか
世界全体が理性的・非理
、哲学的信仰にむっとも
性を 。真摯さが実存 者 キルケゴールとニ |
性 はその営みを通じ
める﹂ものである
あるいは、実存を @ せ ての根源の意味におけ ︵ 二リ ︶ 意味からして、結局 こから 已 ヒコ降をわか ち あたえられるという 匂 二 %Po の︶。
場を充分でないと 即の立場へといたるの
この理性の立場を 哲学すること " につ い
ってよかろうか。 註
るともいえる 0 たと
。これによって
にかんして﹁ 時
ところで、 一 おれ
るもの﹂︵傍 白
つねにあらた
考査のぎの ぽプ三 。
、われわれが い
の 現象のなかて
いわれるの てあ
め てあるが、
で 下目 0 の 0 づア @ のの ア の
いだの微妙にし
0 で す ざの す e の 団目ヴの
示 信仰﹂宗教研
参照。
の ロガの コ の・の・ ト ㏄
参照。
0
対象としての神と、㎝
る 。哲学においても
識 と結びつくことは
ころにこそ、哲学的信仰が︶ 削 ある、とでもいえよ うか 。 哲 って、前者の非 完 4 と Ernst し 者 て に は じ、 か、 と @C 、 も は、 @c 主任 甘口
@
ム冊 じ あえ
と な ち い に と 働 い く り Ⅰ こ な と が が 、 , り で き 両と 荷 い す う る の 前 で 提 ある(
H6
日(
曲ニ のの 自0
㍉ ) 兜 い仁たとえ(
。宙の
由 で し い え 場 ば ( 勾こロ
こ ) 日 iC@ 1C い か う んまざまな表現をもっ
りあぅ が月目 宅 5 さ、
、哲学として真摯に
たとえば、トミズムのキリスト教的哲学は 、 哲学としてのかぎりで
から、というのであ
ののうちに隠されて ぃ
わば哲学的宗教ともよ
えに、哲学者は神学 五
7 6 5 4
o 0 0 Ⅰ
曲の
で
0
の
Ⅰ
卯紳 のく%
㏄
のう-
卜の e Ⅱ二つり せ 。 臣 口生 年の コい 毛笘 甘 Ⅱ ゴのざ
とより啓示は信仰し
啓示する神の恩寵とし
仰 である︵サクラメン
きるようなドグマの 設 他からもはや攻略奪取
ものの循環を通して、
存 の 己 Ⅰ 目 降への場を を 意味し、超越者に支
るか、存在しないか﹂
のあざむきで切り抜け
" かトの︶。
た たんに論理的な ヱ目︶であるとされる
もまた、﹁鈍い真摯 さ ﹂ これを逆にいえば、﹁存在するか、存在しない か ﹂の二者択一を迫ら
実存的に超越者
へ求められるのである。
つねに息づまるよ う (206) 44
哲学的信仰と Ernst 45 (207) カ
のど
・ⅠⅡ 不 と こ ) そ 、
宋 ト・ 。 ン ト 叶 ) い っ
汀 批
召 そ しⅠ
)
)由こ
と 実 干 さ こ れ 父 さ((
巴 し註と
は ると お@%
尤 ょ , ノ色 一 二 いと 占 さし りく,
てげる スは ナ
看 過 由旬 実
存 ノン
ノン 由旬 低 段 階
いて語るさい、美的 非
根源からの支えがあっ
いっている。﹁真摯
フ エアケールン ゲ
ところでは、そのよう 拮抗 戸と よっ スパ 尤 @ よ
される場合、神の
F ののし 0 臣ガのコ ︶に
るのは、けだし ヤ
る よ う にみえる。
人間の判断として時間のうちに表白されるが、 それが、もろもろの 相 て 同 存 か 佳 城 存 い 泰 誠 : の か に 少 的
︵の ざゴ のⅠ ゴ皓 ︵︶は
にたいして、安全
る 。ヤスパースの アウ ブリ とデ 4 ヒカ /
もそれが結局は実
ある。 ︵ⅠⅠ︶
もまた日こⅠ コの ︵ と ︵ 2 ︶
ぽかんして用い
できない﹂とか みをませばますほど 実 ㎝ る を と 図 弁 別
し、
別し カ こ と 信ヨ l Ⅰ者
し は か 烏、こ 真 の 実 考 さ え @C は な +@ @ 分 て で な 後 い 者
ま
| な 木 ぜ 正 な と,し
り 「 真 危 の 険 意 を 味 な で か の さ 公 な 明 い ,性 よ と , っ は にの 配 真 慮 実 に さ お だ け け て @ も 良 と l 已、 づ 的 く で 誤 あ 46
とする・との関係・
むかにみえる。カトリシズ
ト 等々が:プロテスタンテ rn
スは 、さらに、カトリシズ そ こ
ず
)い
(Ⅰ 0 ( ) 2 ( )1
註 Ⅰれは が と 脂 手 あ そ れ 七義目
ぃ 一 や れ 答ると
て根 形態 イイ ロ印 ニ " え,か
て ァ )
し る と し
き ぎ 勾
の
承認は誠実さを
要 ︵ ク し︶︵㌧目の りひトぷ 。
にとっての可能性とし
であると述べている
ている実存信仰の一貫 フ オルゲ
れをなすのである。 は 、たんに " 神 ある " 哲学的信仰は実存・の
きだされる。超越者 これをわがものにす ある。
れたところでもあ にかんす る 宜ざゴ るが、 啓 プアーグ - 一ス
敢行と
たいしてはただ服従あるのみ らであり、なんらかの制約の である。これ もとにおかれ る哲学的経験 麓臣 。 俺コのコ ︶ 示 信仰は聖書 決断という にたいし る。啓示 であると ことがで 一 や 神とい もっとも で、啓示 信 信仰をこの ころの哲学 きる、とい ぅ ような 固 自己固有の 仰は、 よ う に 的信仰 ぅ ので 定した 力によトリシズムは、プロテ
質的な根拠を見損って
ず あらたに見出される
おいて、キルケ ゴ|
の 根源性︵の ゴ 立の︵︶ い の 汀
なことといえよう
雀
穏の︶のⅡ性 をもっという、 注
れをなんらかの条件 (210) 48
哲学的信仰 と ブ よ @ 已、 論 ヤ 味 議 ス で を パ 暗 か l 号 も ス と し は な だ 似 る す 上 の で 三 で あ っ あ ろ め る
つ釜モ
。 )
メ (の 円が提
捲 起ヤ茗最
ス 後 パ の に l で 、 ス あ ドはる
、
がノ,
グマ 』 @"
" と触れたらの点規定さ キ に れ ル つ た
ぞ 々 49 (2 の
田の アミ出目Ⅰ コ降 ︶へたちも
︵ 隼 0 ⅠⅡのトロの H 凹Ⅱ臣の ヰ ︶︶
す ぎⅠ ト りハ m 目甘 小い コ ハ口田鼠口 ヴネいコ の︶
真実性と真摯 さ ︵日の
真摯さに呼応すると ぃ
Ⅰ 円 Ⅱ ロの ︵が 、 交わり かり ︵ 2 ︶
ある。
ンティズ ム の変貌に
モメントを挙げている
ストなしでしかもキリ
みなしたことを、注意
や範 時によっては捉えられ
き 起こすもの、そのような
問題とするのであるが
盤 となり ぅる 。すな
能 となる﹂という 墓 ︵ 00 ︶
述べていること、とく ノイゲ プルト
習の外枠を本来的な真
に 可能である、としている︵田モ の は︶。 ヤスパ |スは 仏教について 他
とさえ説くのである
キリスト教も仏教よって根源的な信仰を エア サエツケン
しておきたい。谷口曳 か り Ⅱ︶
レコ小い片帆コロコ
ゆ小
Ⅱ レ
こと
ヤスパースはここで、
ある︵㌧ 目穏 のお︶。
まそのうち二つの
降る 軸とする聖書的
ものをもっ、というこ
(21 も 知 り え @A 十ん み し Ⅰ と を あ え て知 ろ うと 欲 し た し か し 中を ま @@ そ れ を の " 或 印 l@ " 実 :
ビヵ,
さ の ゆ え 弔 / Ⅰ 赦 し た れ {C 反 しね
ち、いかなる人間
0
また、たんに実存の
0 の 0 づオトいつ のⅡのコ目 トの
よ そ﹁哲学するこ
わなければならない。
等々にもある種の
れは ならない。
連は、 ヤスパース 哲
られるところがあ
は ハ イデガ ーの 表 ︵ 五 ・ l ︶
のま︶の感情や ハ ︵ 2 ︶
註
め る。 伴博 ﹁ カソトと
ィ ロソフィア三八号、昭和三五年 て
届乙笘堺 ﹁・ ミ ps ︵の︵ 呂 音名 ゴ毛守 ∼ ト 乙が い ㌍
い 意味で、 ヤ スパー 実存、理性、暗
るのである。 (214) 52
序 いるハーバード大学 頑 しているが、一週に を 模索している。この の 指導者として著名で として多年、学界に貢献し 方 とている。 題 り 知られていないようであ と目的 L が出版されている ︵ 2 ︶ 宗教学の人格化である。 こ いう概念にもつながる。
葛
西
実
法論
Ⅰ
スの
研究
53 (215 Ⅰと 間 を 厳 つ 大 を れ た な かでも、スミスの比較宗教 人類の宗教史という視点に へ ⅠⅠ︶ 歴史の自己意識﹂である。 るが、スミスの誠実さと 字 冒頭に歴史の一つの基本的 玉体的に意識して、その 過 と 深化は主体的に受けとら つあるので、これを受けと 密 に検討して、知的に把握
意識的に自己批判的、
像 をつくりだすことにある ではないが、未来の方向 規 0 冊 カノ。、一下演 問的 厳格さは接する人々の心を捉えている。
現 徴と
歴 と課 0 基 とし 失い 定にかかわる重要なことである。︵ 2 ︶ つ て 本 題 史 し 代 看 し 究 っ 歴 的 で の て で め て 論 あ 史 役 あ 変 指 は る の 割 る 化 摘 特 大
格の
い文
、
今 変 は 。 は し に人
と が 講 謙虚義
「 、こ 過 の は 的 る が な 類 著 の 程 よ こ 状 。 激 学 の 書 こ に う の 況 歴 し
の主
間的 宗教容 て 史 の く 知 人
易 い の 変 り 識 が が 分 も な く 変 化 だ の そ 窺 難 め こ 人 化 を し 拡 れ わ し の
((
証 こ のjjlJ
毛ミ
ト " Ⅰ " ム冊では
尾Ⅱ e 由 目 Ⅱの年のの
が㏄ロロ ヰヰス,
毛の
コ
毛の コ が 問 F c ァ5
@"
Ⅰ c ノ @ " ョ 、""
Ⅰ 比 較 の焦
し
Q
㌔・ ペ ヒ て 力 欝 下 ぎ 句 を 日工 一べ 耳
o
臣
o Ⅱ 片 か る捉え
,
目が 目呂せ""'"
マ Ⅰ い のの (216) 54
教の悪評をたてて、ヒン
ド
の
本の説明では仏教が日本の比
迷信の世界に接合され 5 0 課題と方法論ァの 宗教にたいする理解の歴史的展開は 、
段階でアジアのめ 不 教を解釈していたが、 次
宗教の理解は 、一 それ
た ﹂に話しかけ、﹁あなた﹂とともに語る 、、、
他者の理解は自己理解につらなり、人間と
ていく可能性が予測される。この歴史の展 ︵ 3 ︶
にして、比較宗教学の問題を取り上げ、
問題は人類の異なる宗教的伝統の歴史的展
年間のこの領域の進歩は注目すべきものが
ている。千八百十年に出版された第四版で
ほ ついてふれたところはない。偶像フォー
ていなかつたようである。フォーはここで
て 記載されている。一八四二年の第 セ 版に その一つの具体的な例であ 第 に一 1, てね ﹂がアジア人に ているアジア人の理解であ 対話の関係へと変化してい しての連帯感から共通の世 開は複雑で、直線的ではな 今日の比較宗教学の課題と 開の事実を明らかにするこ ある。一つの指標として ェ は 、その二十巻の 姥 大な記 ほ ついての項があるが、 フ は 中国の古代宗教の純粋性 なるとヴィシュヌの二つの これはスミスの 視
たと述 の世界 じこと れつつ 第二 し、 そ とって たして る。 こ 信仰を 苦しん 多くの とは、 関係、 可能に 第三 の里 ︵ な 性質に
をとおして西欧
響は大きい。 同
多様性が認識さ
さが無限に要求されている。︵ 4 ︶
い う 概念で表わ
統 に生きる人に
重要な役割を果
界を包含して ぃ
ヒ ンドウ教徒の
自己の挫折、
を形成している
を 失っているこ
にした対話的な
ことが少しでも ︵ 巳 0 ︶
る 。
、あるいは人類
た 宗教の一般的
らゆる宗教は (218) 56
一の共通点は
、 異なる宗教的伝統のにないてば
、共存の世界をつくりあげ
0 課題と方法論 と 能 て 成 意 と と こ よ 性 愛 者 識 興 で こ り を け へ は な あ で も 考 と と 信 る る 共 、 え っ 変 仰 で 通 糊 る て 革 者 あ そ 点 悔 と り し を る れ の と 、 る て 単 う ぞ 間 借 間 人 い な 。 れ 題 何 題 も る る 第 の を を は 少 仏 工 宗 取 と 共 数 人 統 に 教 り お 存 で 類 の 注 的 げ て 、上し睦はの
あ宗英
忠、
目す統
伝 る 何 共 る 教 な べ でとに働が的にき
" な "見仏なこ
意 味 答り 兄 い 続 い と の 格 あ 伸 れ 化 し そ こ は る を る を て れ と 白 か 可 。 意 終 ぞ が ず で 能 こ 認 ら れ 起 か あ に の し せ の り
、 伝 そ 的 の 史 者 現 動 統 れ 尊 属 の が 在 が 過去から変化しているよ う に未来は現在 歴史を意識しっ っ あることである。歴史の 変化の過程に加わり つ つ
、
新しい伝統の形 する宗教的伝統の変化を世界的視点にたっ 実にたって宗教の世界共同体への貢献の可 ぞれの共同体の役割が何であるかというこ の歴史的把握である。︵ 6︶
的 、生成的であり、基本的には体系よりは は未 だ終っていないこ 問 比 較 目 している。第一 人間の宗教性、 義 者は学問的な蔵 宗教学の重要 の 常識になって 密 さを無視している。今日の あるいは人類の異なる宗教的 に 、 個々の宗教的共同体の他 な 課題となりつつある。個別 いる。歴史が変化の過程にあ 宗教学の進歩は 伝統の共通点の との関係、全体 の 宗教的伝統の るという目見 は 、 理 の 理こ のような安易な一般化を許さないものがある。 に注
れは
0 字
るこ
純化する学問的世俗
主
57@ (219)、その意味を構成
註
,、 由ド ﹁ 屈 ︵ロロ ぎ ぎざ ぜ い三ぽ由コ ㏄の @ ︶ 、ト の 0 肚、つで トートⅡ ︵ 2 ︶ 回 、一頁 | 五頁 ︵ 3 ︶ 回 、五頁 | 六頁
ぎ寒
。ア ざが 幅 o C まく 窯 往モ㌧ お拐、 ︶ののの・で P ビ ーあか
入門﹂、東京大 学 出版会、一九六二年出版の一章である。
︵ 5 ︶ 同 、八頁 | 九頁 ︵ 6 ︶ 回 、九頁 | 一四頁 ︵ 7 ︶同一四頁 | 十七頁
ヨミセ ∼ ,、ワ蓮 ・同和訳、六八頁
のことは比較宗教学、
共有していることになる。の
領域における 我 にすると宗教的人間と②の
宗教的に分離した 歴