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『宗教研究』201号(42巻2輯)

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(1)

――目次――

論文

1,

歴史の神学の構造分析と批判:パンネンベルク批判, 森田雄三郎, An Analysis and Criticism of

Pannenberg’s “Theology as History”, Y

ūzaburō MORI, pp.1-25.

2,

哲学的信仰と Ernst:ヤスパースの場合, 峰島旭雄, Philosophic Faith and Seriousness: specifically with

reference to Karl Jaspers, Hideo MINESHIMA, pp.27-52.

3,

比較宗教学の課題と方法論:ウイルフレッド・カントウエル・スミスの研究, 葛西實, Task and

Methodology of Comparative Study of Mankind’s Religious Life: a study on Wilfred Cantwell Smith’s

standpoint, Minoru KASAI, pp.53-73.

4, Candrak

īrti の Prasannapadā に引用された

Prajñāpāramitā-Ratnagu

ṇasaṃcayagāthā, 湯山明, The Prajñāpāramitā-Ratnaguṇasaṃcayagāthā quoted by Candrakīrti

in his Prasannapad

ā, Akira YUYAMA, pp.75-92.

5,

一都市寺院と宗教浮動人口, 藤井正雄, One Big City Temple and Religious Floating Population, Masao

FUJII, pp.93-122.

(2)

歴史の神学の 構造 分 皮 内 と は 立 日歩 ふよ 論

的を救

"

」 「

M

) つ 正 色 つ と き 場 づ の 兄 ょ で け 神 な く あ る 学 す 救 る 立 駒 力 済 と 場 立 l 史 パ で 場 ル 的 ン あ を / l 一 一 一 一 予 バ ィ コロ ン り、

が ま を は 、 た 超 詰 は 内 こ 歴 る ブ 容 の 史 /L,, 的 立 に パ ト な 場 末 シ マ 間 に め 不 ン 題 属 る ン や 契 す ベ コ

機と

) ( 3

ノ、

くノ ル ク し こ ネ に ル て の ン よ テ は よ べ れ ン 、 ラ ル は の さ に ク こ 立 ら パ の の 場 す

つク

のは

「実弟

受 」 一 1 (163)

する﹁純粋な歴史性の

。第一の批判の相手︵ 2

史の枠のなかでの においてあらわに さ ヰ ㌧の ココ の ヰす の お ︵一九

批判

パンネンベルク批判

(3)

駒方法である。パン ネ

学的批判から﹁ 原歴

りである。それゆえ、

があると、パンネン ベ ルク は考えるのである。 である。その上 ま

で、議論をいっそう 複

いとして﹁当時の ィェ ︵アサ︶ マンに特有な実存論的

﹁史実﹂を根拠づける

﹁史実﹂から﹁歴史・ 一

不 ンベルクはフルト

自己の立場を説明す

︵プ リコ 年の臣のの 日 ︶でもな

え て、かかる差異の根

思図 である。しかもこ ︵ 5 ︶

ての由ず Hoq ㎡とばい

ンベルクのキリスト論 (1 ㏄ )

(4)

歴史の神学の 構造分析と批判 に 求めてみよう。 註

ンネンベルクは

このめ 珊文 ︵ 木 悪むく 、

Ⅰ ヨ ド ニ 二官Ⅰの的・︶ "

0 ゆず。 プ 0 % 曲の ゴ の ユトト ︶ 、ト のの 0 、の ・のの 臼| ㏄ ト ㏄ ︵ 2 ︶く % 目 ・∼ 甲 ∼ Q., の ・㏄ ト ㏄

ヒ 以前には、バルト

て 自己批判され

パルトは 一 ・救済

ハンネンベル

ることはかなら

い 年ヨ㌧Ⅱ 0 ヴ仔ヨ

吋へののこ 芯わ ㌣ さ もめの 甜 Ⅰ悪めのつのの S ㏄・㏄㏄ 片

馬,ト ののか,の・ ト Ⅱ

ハンネンベルクは 、

姿 と使信を使徒

評価する。しか

| ミンのケーラ

では正しいが、

。説教において

ンの 主張であっ

コロのⅡ 目づ笘 ∼ 幅 ∼ 0 臣の

(5)

4

とは 「 わ ェ れ ス ね め れ 神 の 的 義 運 務 今

として (ののお日

せ井

り , ) れ か て ら い 原

始キ

」。(

る ) 1

毛衣

口 / し 、

市こま、

4

イエ

童形

す す な る

木 ︶の HH. ダ ⅡⅡ

ハンネンペル ク

倫理的人格主義

0 そこでは﹁は 傾向の強い現代 。﹁史実 | 歴史﹂ けようとする 占 ぎ 示す﹁歴史﹂ 対する。そして る 人格的体験の

大 によって︶ 史

の 徹底によって

統一的全体とし

この点で、

点である。しか

の 前提する実存

が 欠けているの

を 残している。 (166)

(6)

歴史の神学 キ は

ス 史 ン @ 白勺 ネ、 」 イ ン が ェ ベ 史 ス ル 的 が ク ィ 信 は エ 柳 こ ス そ の を 根 ょ 根 拠 う 拠 づ な づ け 歴 け る 史 る の の の で 二 で あ 重 は っ 構 な て 造 い 、 を 。 イ " 一 一 ニコ " パ 仰 信

ィ 言 べ は 仰 ル 信 根 ク 仰 拠 で に と は お の 関係としても語る。パンネンベルクの考えで い て現在われわれに出会う﹁天にあげられた 、史的イエスはわれわれの信仰と現実経験の の 構造分析と批判

同時に、成立史の観点

紘 史﹂︵ づ qp 臼 ︵ 片

O コ mT

つ までもない。

(7)

はない。 とのパ

| 、アルトハ どの人々が批判されることになる。

区別を意味し

シオンベルクが

運動方向の区別

呼ばれ、現在

のののの ゴざ す % の

ほ ついてはさま

来 へと向かう 歴

運動であることが、重要である。︵ 5 ︶ 証

㏄・ ト ゆの 目、の ・ トベ ︵ 2 ︶Ⅰ 申 ∼ Q. 、の ・ P べ ︵ 3 ︶Ⅰ 申 ∼ 4. 。の・㏄の 史 ざ と か に 問 な ウ ン 運 ま 呼 ら よ 題 い ス 不 動 で は 過 っ に 。 な ン ても、 ナしつ @@ われわれはまっ いても、キリス (168

のみ﹂知るのである。﹁キリストの現在の経験 はすべての日の終りに よって獲得されるので

(8)

歴史の神学

する開け﹂という超軽

て 成立しているのであ ︵ 0 り ︶ る 。 の 構造 分

のの 口 ︶であるが、それ

たいしてつねに歴史 特

神 関係を、自明のこと

史的特殊性﹂の開けである ところの開けである。さら 析 ︵ 2 ︶

い する﹁開け﹂︵ 0 千 ︵ 4 ︶Ⅰ 甲 ∼ Q.. の・は い

をとる神学が歴史 神

られるであろう 一 一

方法的特色を﹁ 下か

侍 0 円 0 抽 あづ 0 コ 0 すめコ ︶ と ︵Ⅰ l ︶

と 言及するのにた いし

0 便信とイェスの神的 (169)

(9)

とはなにを意味す

に 関係するのである

通して神の現実性︵ そ

る ︶が歴史的に出会う

ンベルクはこの﹁ イエ

運命﹂︵旧 い巴ガのコ仁巨 のののの三の オ ︶ののことか、 ﹁イェスの行動と神的

動 ﹂は歴史的個体的存

の 歴史﹂を特徴づける

する。﹁神約運命とは

れたもの︵ 隼笘 の 甘 当の

かぎりでは活動と行

のとしての神的運命に ︵ ミリ ︶

﹂の﹁上にたいする 開

神約運命﹂として具体

工スの 復活以前の事件は、イェスの行為によっ て 実行されたかぎりで

れゆえ、パンインベル

ネ ンベルクは エレルト

威 ある語りかけに関係 ( Ⅰ 70)

(10)

歴史の神学の 構造分析 と批半

よ 重要となる。

理の叙述順序も特

パンネンベルクは 々

たことを叙述しよう

ら ﹂の態度を保持しつ

何 のなかに立ちつ

応 的に理解しょうとするのである。 註

寅 ・の・はの ︵ 2 ︶ 目申 Ⅱ 軋 ・・の・ い の

ない﹂というレッシ

りと見なされる

ることそのこと

つの構成契機だ

芭 Ⅱ㌻ 鮭 n 潮賦涼 ちいご め・の ぺイ眉コ ・Ⅱのの づ ・の・ ト ㏄ 由 ︵ ノ升 ︶ハツ・㌧ リ臣 二の コヴ のⅡ㏄・Ⅰ 申 Ⅰ 曲 :の・ ひ申 ︵ 5 ︶ト寺∼ Q., の ・ めひ

ハンネンベルク自身

であるが、パン

ベルクは否定的 (171)

(11)

せしめられるもので

パン 不 ンベルクに と

したがって、歴史に

るがゆえに比倫的であ べ ノ ン ク J@ ヰ ウ Ⅰ ・

王に、復活の表現の

小 すよ う に 、 新しい 休

ているわけではない。

るものであると、パン

︵の㎏

目ヴ

ow

㌃の

︶とも呼ばれる。︵

1

︶したがって

、復

活は日常の感覚的経験

(172) 10 べ ノン

ク ・オトキ わ 「 ち | 嘉 田

廿イよ @@ 死

/ Ⅰ か

り つ の よ

み きた ト れ拠 が 亀 パて ば に え り

晦ノ ぎ

不を栄

ン「 は バ L@. @@ ひ ) シ 分光 ン 第 @

「 輪目

キェ

6.

のの 1 まる つの 後に 的

のか分か

か な

話法 お く に よ l 」

目なう

覚るとに

Ⅱ う 0% 曲 オ O ㍉

のオ の 勾の 隼の

で あ る そ

(12)

刀 )

スの ﹁

このよ 析 七 %

である。

ク はい

心理学 歴

l+ ひ 遭遇され 神約運命﹂ うに、 ィェ かに考える - 的に説明す 、依然とし て る の ス と て 歴 こ で の し 、 史 と あ 復 て 歴 家 に ろ 活 の 史 ク 仰 に 験 さ い 的 ば そ る そ の の 成 駒 れ か 連 、 れ が れ 意 頬 立 連 え 続 歴 ゆ ゆ 図 比 。 ず 続 あ

る 性 典 え こ れるが、しかも歴史

としてのみ成立する

続 性である。そこに

、しかもそれぞれを が 見られると い えよ う 。

への時間的方向をと り、 死によって人間経験のいっさいを 否 的には非連続においてのみ成立する超軽 超経験的局面からの連続性である。そこ ﹁存在の類比﹂でもなく、バルトの﹁ 信 生かして綜合しようにするパンネンベル

性は 、パンネンベルクにとってやはり この歴史的出来事は、経験的局面からすれば、 非連続を示すであろう。しかし、

こで パン 不 ンベルクは、この 一 ,連続的

であり、﹁類比﹂によってのみ表現さ

は 経験的には非連続であり、経験その 歴史的出来事 超経験的局面 移行﹂ないし れると、説明 ものの否定と し す は か らすれ ある。 ﹁歴史 ︵ 3 ︶ る 。 い て 理解 11 (173)

(13)

な 希望の光のなかで なくとも、史的出来 と 主張されなければ できるかぎり、かか ウロ にたいする 現わ して認め、かっ主張 史的関連が説明可能 の 史実である。われ 能 にすると同時に 、 か へと無限に追求す 対応する。しかもこ し スパン 不 ンベルク のみ理解されるなら ぱ 、かく示されることは、 た

K ︵Ⅰ リ ︶

台目

し Ⅰ

よ て 語 学 実 の み は る の 理 義 が 、 こ よ 解 務 ノ 。 ィ と う に と り ェ は に よ し

ている 現

て軟ぜ 不文

ほ ついて

思味 におい

見ても、

にもかか (174) 12

(14)

消滅すると、パンインベル

るように終末論的歴史全体

0

人間理解と深い関係

析 るかぎりでは、パンネン ベ っ さい、黙示文学的地平が 批半 Ⅱ 五

のちに取上げるであろう。︵ 7 ︶ 註

ぬ ・の・べう ︵ 2 ︶ ト駅 ∼ Q., の ・ⅡⅡ 由

だけでもなく、両者を綜合することが パ の綜 ムロに成功しているとはいえない。 ︵ 4 ︶ せ幅レ ・ h 申 ∼ Q. 、の ・ べ ㏄ 自 ︵ 5 ︶Ⅱ ト ∼ Q., の ・のの ︵ ムり ︶Ⅰ 申 Ⅰ Ⅱ・・の・の @ 印

公 である。この循環については、イエス

の 問題として論じられてぎたところ

されるにもかかわらず、パンネン ベ

な的 理解と、バルトの終末論的啓示

に 明らかにされない一因もある。 ンネンベルクの意図であるが、 そ か パウロかの問題と平行して、 だからである。したがってこのよ ルク はこれを十分にはたしていな および救済 史と 、歴史 字的 研究の

(15)

な 生においてけっして

るとおりである。人間

の 理解は、かかる死を

ょ れば、黙示文学的 復

をあられす表象は 、そ

不適切﹂︵ ぎ 注ぎ Ep ︵︶

は人間本質に根ざすも

ぎり、その真理性と実

いわゆる世界の開けを

一元論によって理解さ

パリノ 不 ㌧ノベルクは五 % ︵ R リ ︶ る 。

思味 をもっよ う には

歴史における経験的

よみがえり﹂、﹁イエス

は 、﹁象徴的﹂とはな

ネ ンベルクにとって か

りを示す﹁ 隠愉的 ﹂ 表 (176) Ⅰ 4

(16)

とする。パン 不ンベ 史 神 Ⅰ (177)

0 本質規定よりも、 む

われる。

い 根拠は、パン 不ン

ンベルクは、旧約から

ら 終末へと﹁連続﹂ す

つは﹁伝承 史 ﹂の一部

0 ト片ゴ 0 % ㍉㏄二の∼︶︶ ず往 。 コ

思抹 する。︵ 4 ︶ 註

㏄ 、の ・ ぺゆ ︵ 2 ︶Ⅰ 申へ Q.. の・㏄ 荘 ︵ 05 ︶ ゼめ @ N 申 ∼ Q.. の・Ⅱ㏄ 1 ㏄ 収

、つつオヤ この論文 半

説 論文としてひ 批

ロビンソンの 初肝 析

しば独断的にな 分 造

れる。 構 学

(17)

﹁啓示は啓示的歴史 到来以前における啓示はすべて間接的であり、 神の歴史的行為を通し 。﹁このような事情の と パウロへと到達する 的 概念の根底に存する 消滅させることなく 確 ではキリストの出来事 を経て将来の決定的 神 ヤハウェから世界の ﹁神の本質は永遠か 働かせる歴史経過にお なったのである﹂。︵ 3 ︶ 神性の普遍的啓示は にいっさいの歴史現成 ス ・キリストの神的 運 ストにおいて死人から したのである﹂。︵ 5

︶歴史

一の神となるところの終末を、イエス・キリス トの 出来事は先取的に (178) 16

(18)

歴史の神学の 構造分析と批判

かく啓示するのであ ︵ 6 ︶

対応的に終末先取とし てあらわにされたのである。

ス において実現した

そのかぎりでは神は

終末をめざす進行であ

命 における神の終末論

以上が、﹁伝承 史 ﹂と

て パンインベルクが語る内容である。 註

0% ⅠのむⅡ Q. オ Ⅱの 帆 ・ せ 。 臣

ヱ の ガ の コ の 、め 下口 コ ・ H の のの、の の の ︵ 2 ︶Ⅰ 申 ∼ Q. 、の ・の 収 ︵ 3 ︶Ⅰ 卜 Ⅰ @@,. の・の べ ︵ 4 ︶ ト轄 ∼ Q.. の・ PO い ︵ 5 ︶Ⅰ 轄 ∼ Ⅱ ヘ ・ @ の ・︶申のⅡ ︵ 6 ︶ ト申 Ⅰ @ ・・の・ ト申 Ⅱ ︵ 7 ︶ トひ ∼ 4., の, HO り ではない。 スラエル Ⅰ 7 (179)

(19)

右に述べた 史 ﹂と黙示

題 に関する パ 大論を旧約的 見 なす 0 パン 依存させ、 こ スは 依然とし する決断によ ス における

末の側から、 希望させると 黙示文学の でもない。 ブ 史的行為は客

止 する。それ けっして哲二 T (180) 18

スの歴

この 間

学的 終

まりと

行為に

は 々ェ

にたい

ろイェ

的に終

来 へと ︵ 1 ︶ ンネンベルクは考える。

いうま ︵ り乙 ︶

神の歴

法 も成

否定は

歴史の 七

(20)

呑みこまれたと主張

ムが

指摘するような

とは、事実である。︵

3

にとって、人間の

として開示される

史を根拠づけるのでは

づける。それゆえ、パンネンベルクにとって

神学的思惟の基礎をな

ける約束によって約束

パン、

ンベルクはモル

末の待望のもとに、

束を発し、この約束を

︵ 5

。この終末の先取的実現は

先取﹂の意味が十分分析さ

構造理解も、すなわち経験

史的契機の理解も、ふたた

実|

歴史﹂の方法的

19 (181)

(21)

実である。しかし、 わ ︵ 9 マ ︶

る レスラーには﹁救済 ︵ⅠⅠ︶

ころであって、クル ( ( ( ( 6 5 4 3

Ⅱ建

ハ で ルパ すの コ

ン ち と か お ダ か

クて示

し啓示

と ぎ 弓 のの と ,麿 も ㏄

っ中 最 9 % た し初 に ま

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ざい N かぎ ル フ ㏄ 八で

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目コ の円 a 悪才㏄ さ まま 艶

からである。︵

6

ゆ ・ 論 別 え 的 の に 自 由 、 己 間 伝 埋 る 承 解 突 史 の 破 と 下 し 歴 干 よ 支 分 う 学 さ と 的 は す 認 か る 調 え パ は っ ン 単 て 不 私曲 こコ ン に の べ 統 万 ル 一 法 ク さ 的 の

意図

れ、

区別 あ る は ぃ 湿 土 ま 部 分 い さ 汲 な せ ろ 循 る と 環 緒 ろ 閉 果 れ 係 を ね に ま ば お ね な か い ら

れたな

とい

そ い け の え れ き さ

わ ら パ め に ン て ま 木 思、 た ン 弁 べ 約 こ ル 生 め ク 知 徳 の 生 理 存 義 の 花 (182) 20

(22)

歴史の神学 の 構造分析と批判 ル 史 こ ク は の の 三 よ 「 一 う 干 柿 な か 論 パ ら 的 ン の 前 ネ キ 提 ン リ の ベ ス も ル ト と ク 論 に の 」 成 神 と 立 学 対 す 的 立 る 態 す 救 度 る 済 に こ 史 現 代 い

の う そ キ ま の リ で か ス も ぎ ト な り 教 い で の 。 は 弁 証的意図 上からの が キ ひ @ そ ス ん @ で 5A. し Ⅰ 」 る を キ 構 成 @ ス し、 教 は 過 去 べ 21 (183) にたいして クル にとっては、 救 とは、人間的経 車史﹂の事実を ヨーロッパへ と クルマンのよう 飛躍、あるいは ぃ 。終末論的地 する神学的態度

ルク

事実

﹁ レ伝

教的

る 。

する

れな

うと

救済

佳一 ム| 4 現す

解す

終 とし の啓 とくに キ り る個体性の る。これに 末の将来性 ての イェス 示 L ︵一九二 スト論 思想を たいし に従属 の復活 八一年︶

(23)

沈下に、パンネンベルクは、なお 将来への希望を点じようとする。

いであろう。 註 ︵ 1 ︶ づ性 ・ づ討トい ⅠⅩⅩⅩ づロ MH ︵︶ののの︶がめの べ1 の 申

・ お寺 , 絆キ ロ er ののま 、由ぬ ∼∼ a ∼ め

も ∼ うぬ へ ぬ,の ・の㏄1 % か 、鼻口切片一口のⅡのの︶ ヴの、 メト ・のめは 肚 ︵ 4 ︶ せ哩 ・い の又簗づ鮭品 ・︶ ゆ肚 P. P ご l トも ・ かかる状況の奥底深く流れるキリス パンネンベルクのかかる意図は 、モ Q めめ n$ ぎ ざ ∼ め, ︶ の の ダ の・のの 二色 乙 Q のの。甘の ゴ の 臣 在口ロののの。 ゴざす ︵の @ 木 ま し

柵的

態度が一般に

惨透

的 意図の努力目標であ

なお、事実の歴史性に

る 方法と考える。この

る 。神学の側におい

、アルトハウスのいう き 主 に 状 体 お 沈 約 い に 行 て

福音

置か 荒者 れ る の た 神 約 。 か 東

借 間 へ 抑 へ と を と 目

標づ

ふ た 置き た 喚 け

びえら

" " れ 歴 そ た 史 の 歴 半 紡 史 的 呆 る @c 、 展 証 正 開 明 統 し 同 生 能 義 深 な 酌 め 車 借 て 実 仰 き に は た 根 そ

づ 即 か

信 な 代 仰 歴 世 老 吏 界 だ 的 に け 墓 お に 礎 い 見 を て ら 見 啓 れ 朱 蒙 る っ 主 と た 義 は か は か の 歴 ぎ ご 史 ら と の (1 荻 ) 22

(24)

歴史の神学の 構造分析と批判

はなお多くの不十分

れにともな う 伝承 史と

リスト 教的 ヨーロッパの現代的危機の深みと、 ややともすれば主知工 ︵ⅠⅠ︶

める。たとえば、パン

的 批判的方法を顧慮し

ベルクは批判する。 し

れは、バルトにせよ、

与えたキェルケゴール 歴史の神学しにおいて

契機である。パンネン

て 、しかもみずからの

終末への流動的実在の

史学的認識とが単純

かに埋没しがちであ ︵ り 4 ︶

る 。それがまたさらに

つむ 、危機的現代にお 23 (185) 九

(25)

ベルクではキリスト教

ヨーロッパの栄光とい

もわれる。 ︵ 3 ︶

の 導入部において、

ゲル以後の神学的便

のどとくである。 へ|

なによりもこのこと

| ゲルの﹁宥和﹂の 弁

ることを、パン 不ンベ

キリスト教的 ョ ーロッ

牢 として浮かび上がっ

へ| ゲルへと帰るだ

て 生かされるのではな ︵ ア サ︶

されすぎるパンネン ベ

める 生かせるのではないだろうか。 註 ︵ー︶しのの・ 舟 Ⅱ 心 ∼∼ Q ∼ の のめりの さ ∼ 0% ∼ n. の︶ 申 Ph ︵ 2 ︶第三章 註 ︵ 3 ︶を参照。 ︵ 00 ︶Ⅱ 申 ∼ Q.. の・㏄ h.. ︶㏄Ⅰ ( Ⅰ 86) 24

(26)

歴史の神学の 構造分析と批判

かる歴史の可能性の

批判はパンネン

紙面の都ムロ七割

動向と対照させ

も 他の機会にゆ ずることにする。 25 (187)

(27)

哲学的信仰と Ernst

うこ可

も、

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の「 い の 「 宗 ず 難 し て コ ト Ⅰ 解 ヤ 教 る な て き

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明 ス の に 問 い わ ㌧㏄ ) か パ 間

と 題 こ め

お後

哲 の 題 6 面 す 難 のの ) 出

、ょ、

場合学的ことでは

るの

的に ナ と た

三才」

印 口 と ある

で取は

りそ

ある

以い と い け 溝 板 の 意 下方

よ 白

9

信仰

スく|ノ

㊦Ⅱ

臣降

の場合

11

27@ (l89)

(28)

の ャ ・ う の い んらかの意味で小社 珊 たい。 人 と書物とい ザ ー︵︶・ 4. ト ︶︵円が ネ い︵︶ P 目のの︶、フレッチ ︶・ ナ ・ 円 ・ 力 0 ヴ ピロの 0 コ ︶ それである。 ト教 神学界にたいして

として発生した新し わたってキリスト教 は ﹁真面目,真剣 な 経過をへたるとで るようにおもわれる。 のうちいずれが使わ 同時に、この語のか る 、ということができる。

あ @ Ⅰ ムユ ん @ Ⅴ の 2S

(29)

哲学的信仰と Ernst

啓示信仰にたいする

2

の 動向は

ではないかということである。

出して 単 に チャー もっらなる の状況倫理 さえいる。 " 誠実 " も こ Ⅰ す と ︶

コのヰ、

うにおもわれてくる。じじ つ 、両者のあいだ になん

ビンソ

構造の

ること ︵ リ マ︶

況 に立

イリツ

の 深み

ぃコ叶ゴ - ︵ 4 ︶

である

︵ る 5 。 ︶ ﹁誠実﹂とも 訳 らかの意味での ン によれば、聖 一部として影面 こそ誠実な態度 ちいたる。それ ヒ を援用して 議 ︵ 丑ゴ 0 ロの セ目 0 め " よ又 F, ︶へと 。ロビンソン 自 の 書は、その書名が示すとおり、 " 神への誠実 " という基本的立場

(30)

ことを、ラビ

は強調するのである。︵

0

1

ものであると Ⅱ 六 リオⅡか丹 目 ① 臣コ 0 ︶ ︵ 8 ︶ 自身において 啓 よ う 。 を 挙げること ︵勾の & 目の ゴヰ の ヰ ︶ ︵ 0 Ⅰ︶ ないような場合 特性は具体的に 苦しみをまった く 示 に が 赤 る ぃ 誠 さ 公 で 実 れ ぃ 明 き

信用、

仰索よ

え え を 置 き、 ︵ 71 ︶

に 啓示 信

︵もまた、

にすぎな

れる。 そ

か はその かにみえる。

いっそう 神

一つの表現を

ぃ荻 という 考

はまた " 神への

思ひ

つにそこにある。

の テーマとの関連はじ

(31)

る 。 ることは、周知のとおりで されるのであって 、 哲 (193)

忠実との二面性をもち、 そ

有する点に、とりわけ

深 め さ ィ 言 を 仰 物 に 語 お け

誠 上 実 触 な れ ど た か @ き 連 り 召

甚 一 一 想 ,、 、 い

{

- え ン し ソ い ン う の ご と ネ争 く 、 へ の 誠

の 主

し セ て ん

巳 白 9 丹 誠

の 広 う さ ピ 註 ︵ー︶ オ 0 巨コの 0 コ , 叫 0 口のの︵︵ 0 の 0 且 ワト ゆ ︵ 2 ︶ 0 で・ 0 ざ ・・ づ ・ ト卜 ︵ 3 ︶ 0 で・ 0w ︵・ ,づ ・ドドⅡ ︵ ノ升 ︶ 0 づ ・ c ぃ ︵・ ,づ ・ めト ︵ ︵ 5 り 。Ⅰ・ c ぃ ︵・ ,づ ・ ト トド

Om 汀 ︵﹁のの・いの。 笘 Ⅰ 0 ド宙 ∼しの 壌 ・ ワ P3 ワ㏄の コ に

侍 。の年年 ヨ せの 由か Ⅰ 0 0 二曲 oPo 四口 且 タトゆか 月 Ⅰ・ⅡⅡ ︵ 00 ︶ 0 つ ・ 0p 円 ・ ,ロ ・ゆ う

いの ざ 年の r C 二幅の 韻 口口

のの 卜 ︶ ,の ・Ⅱ㏄ ︵仲川︶ 0 口 ・ 0 目︵ ,,の ・ べ ∼ ,の ㏄︵㌧二の " 0 ドの︶

(32)

はかはかチ

" る "

れエ

ャ ス 自

対真

も 共 l の し ろ 察 の

亘ぅ

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に ろ う 誠 こ 疑 の 克 実 と の に 問 夏 梅 ( は を

実的

繍 に が 当 み 立 コ

9.

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と お か で ぅ の 思 、 さ し あ @ い

せそ

ろ い ら わ 意 わ か れ 味 ゆ ん よ は こ て

理 で ね い そ よ ナ @ え 字 方 取 な あ に 言 さ 万 通 法 り 強 る と 葉 い や

り に 出

とかて

っはニ

l (194) 32

(33)

,由 Ⅰの︵の﹁ ロリ の ゴ, ののべ 3 学 ︵ 4 ︶ 0b. 由 ︵・ ,の ・ H のめ 仰 ︵ 2 ︶ 0 口 ・ 由 ︵・ @ の ・ H か Ernst 註 曲り 0 Ⅱ ぺ窯 臣 Ⅱ 由 ⅡⅩ 乙 すの Ⅱ。 ㏄ 侍 のヨ の コ トの お の ば 一

も本

丸心てざ

っ根ス

パて、

いも明

れ上か二で透

性の六論

参 し

てス事ス交

l

はヤ

ス謂

パト

・実存小照 わり等々を挙げるのがっねであろう。しかも、

ぇ ないけれど

口 ︵コ ム に つ

箇所は 、ヤ

もっ性格に

全体にわた

てよかろう。

出た小著と、

できるなら

概念は 、そ

られていると るのである。

(34)

ら、デ 理論的 落 では ののす 0 目

合理的確実性・

矢の深淵への 墜

の ㍉の コ 年の コプ 下の コ|

ゴ曲 小ヰ のコ のの 年 曲目 | して、かかる 観占か ト ギ ト の の 対 ㏄ が ル ア ー 的

どと

㏄ び Ⅱ 年 でトⅡ 0 Ⅱ り Ⅰ 一 一 目、 包 カ ノせ 原 で 入 谷 訳 百冊 ノ ン

ノン 命 と に 力 所 の 明 講

曲垣 楠美 味,

包 け る い 。 ぶ あ 巻 べ た @ き - ス . - 実

含ア

しウ

論 う 存 で グ こ 者 も て 主 わ ス で に の い 義 た テ 、 お よ 才 ん = 協 し ィ ヤ い そ L, 、 し と 東編、 語 ス パ に ヌ ス て て い り に l ヤ 日召 芭 つ か か ス ス 目 た 和 け ん は パ 簗 の 九 る し " l 年

昭 " 。 の の ト デ

存 コ の カ 在 ギ コ ル 降 実 と 存

l.

レ ・のむ の・はⅡ の Q 目 講 虫 1% " 本 - 号 プ曲コの も、 真 摯 中マ O ぺ e 「 一 宙巴 TO の ト 下 Ⅱ 木ぽ ㍉ ヰ く 196) 34

(35)

れらの現象のうちには 学的信仰

とについても、語っの

らを一括してかりに ェ と Ernst

侍を

口(

コの

0

目 目 井

あ 甲 る Ⅹ 巳 こ と の 考 う ノ 。 ち て に ぃ は る そ と れ (@@ @ う 尽 こ き と な が い で な き に る も の か が 五 れノ し Ⅰ で そ の 徹 底 ま | か え て 実 存 の

が 明確になればなる

なる アしと ︵③Ⅰ コの仔旧の ︵ l

" p のの︶。このようなわ

ⅠⅢ q コのヰ を 休しって十日パ ユ の

るしき降もまた実存 ︵ 3 ︶

る ﹂、と評価するのである。

であり、弁別であるが、 こ

|スは 、この点に関連して、

究がう ちにはらむ危機と真摯

。したがって、この意味にお

ルト の神は宗教の内容への デ

ている、﹁ ハ デカルトの u 自 れら両者はまったく対立し、かげはなれ ﹁あえて賢かれ﹂︵のが ロ の目口目の︶という さとは、じつは、哲学的信仰の面から 照 いてヤスパースは、前述のデカルトの 探 カルトの敬虔な信仰から出ており、じつ 己 確実性のもっとも貧弱な把握において

(36)

力 のなよぶ実存の現実

思味 での暗号となりう

りない、ということで ある︵ り %

安ま

芭 。 る

とが挙げられて

んする ヤ

はあくま

スパースの叙述を見ていかなければならない。

者には

平均化は スパースの叙 でこの点を 、心 実存の決断と しり ぞ けられ

︵ よ Ⅰ 笘 。 ぬの 円目算 宙弐 Ⅱ パ げ村定︶があって 、 エートスの真摯さはこ

事実的な世界定位に

的 世界定位から哲学的⑪

口 Ⅰ コの ︵という基本的 な態度において示しているといえる。

を 見出すことができ

について語っている 箇

︵の真の理解は、この

(37)

37 才学的信仰

Ⅱ臣の ヰ年 。の 田 0 のの口目口 宙 ︶

な 知識の追求に終始し 多義的な " 悪 " の少なく え % くところに、実存の真 度 している。 ヤスパ 史 の うえ でたえず可能 ることは、他のもろも る 。ヤスパースはこの ケ アーグニス さい、可能性から 現 毛 の す の︶にあらしめ、 まったくは排除される い て自己自身を現実化 史的なあり方と称す ま 。ことも名づける 貧 二 % ㍗の味・︶。実存は真摯であればあるほど、

ち、 もろもろの可能 口 まぬ︶と感じる。 さ いるかにみえる。すな

(38)

にいそしむのである。

超越者の意識が実存 以外にはなんらの 道 ︵はそれのみでおわる 、とでもいえよ うか 。 ならば、それは、 哲 くされるであろう。 るのではなくて、 哲 ず 、ただその暗号の舌口 取り組む︵㌧下の。︶

。 (200) 38 ヤ 註 ス

ノ で が ㊦ Ⅱ 臣

イム ・ エ C 臣

教法

l 律 ト 隼 一の コの 再な

論どが

ス と 二を 明 し Ⅰ ア

マ で 述 べ て

い る 箇 所 の 主 要 な

-A. 百冊 述

0

一月) カ

@ ま

ま | 右

と 明 { で あ る が 秩 中 ん よ = 序 お そ 法

(39)

るようになる。それ

3

なしとする。

、われわれは﹁自然と歴

︵の

目注ユ

ののの巳にほかな︶

的ら

,nst

、超越者は決して 実

、実存のⅡ︵二組をい

の 秘密は実存の㊦目算

になるものとおもわれる。

する。たとえば、 自

引き受。

桂を自己自身

,|、,

, 。 こ

んに思惟しうるものの

て かれは次のように

なければならない。 し

さえも、判断・行為・ の っ と

えられているとい

ぇ られても、超越者

ことは、超越者の

(40)

﹁哲学的信仰は冷静さ 況、 @@ ァし ﹂ 、 とい ヤ とい はか ント ︵ 00 ︶

は ﹁真摯さのゆえ

なるものである うことができよう。

きな特色がある

実存のⅡⅠ 臣ゑに

のせ のⅡロロ ロめ丑 ︶ は

さえいわれ、 ヵ ︵ 4 ︶

われる。哲学す Ⅰ・ シヒ トリヒ

方 、根本 状

。さもこそま

ガ仔 1 ハ レヴ窩 ガ円 1 の七生こ 宙目帥 ︶

での多岐にわたる根本

る 。かれは大きい方の向哲学的信仰 L の序で、 次のようにいって い

底 る 、こんにち求めて

も 、これを排棄するこ ヴ 7l

本知以外にはあり

惹き 合えるような限り

(202) 40

(41)

している︵㌧二 % 巨は ︶。

。しかしながら、それだか

世界全体が理性的・非理

、哲学的信仰にむっとも

性を 。真摯さが実存 者 キルケゴールとニ |

性 はその営みを通じ

める﹂ものである

あるいは、実存を @ せ ての根源の意味におけ ︵ 二リ ︶ 意味からして、結局 こから 已 ヒコ降をわか ち あたえられるという 匂 二 %Po の︶。

場を充分でないと 即の立場へといたるの

この理性の立場を 哲学すること " につ い

(42)

ってよかろうか。 註

るともいえる 0 たと

。これによって

にかんして﹁ 時

ところで、 一 おれ

るもの﹂︵傍 白

つねにあらた

考査のぎの ぽプ三 。

、われわれが い

の 現象のなかて

いわれるの てあ

め てあるが、

で 下目 0 の 0 づア @ のの ア の

いだの微妙にし

0 で す ざの す e の 団目ヴの

示 信仰﹂宗教研

参照。

の ロガの コ の・の・ ト ㏄

参照。

0

対象としての神と、㎝

る 。哲学においても

識 と結びつくことは

(43)

ころにこそ、哲学的信仰が︶ 削 ある、とでもいえよ うか 。 哲 って、前者の非 完 4 と Ernst し 者 て に は じ、 か、 と @C 、 も は、 @c 主任 甘口

@

ム冊 じ あ

と な ち い に と 働 い く り Ⅰ こ な と が が 、 , り で き 両

と 荷 い す う る の 前 で 提 ある(

H6

日(

曲ニ のの 自

0

㍉ ) 兜 い仁

たとえ(

。宙の

由 で し い え 場 ば ( 勾

こロ

こ ) 日 iC@ 1C い か う ん

まざまな表現をもっ

りあぅ が月目 宅 5 さ、

、哲学として真摯に

たとえば、トミズムのキリスト教的哲学は 、 哲学としてのかぎりで

から、というのであ

ののうちに隠されて ぃ

わば哲学的宗教ともよ

えに、哲学者は神学 五

7 6 5 4

o 0 0 Ⅰ

曲の

0

卯紳 のく

%

のう

-

卜の e Ⅱ二

つり せ 。 臣 口生 年の コい 毛笘 甘 Ⅱ ゴのざ

(44)

とより啓示は信仰し

啓示する神の恩寵とし

仰 である︵サクラメン

きるようなドグマの 設 他からもはや攻略奪取

ものの循環を通して、

存 の 己 Ⅰ 目 降への場を を 意味し、超越者に支

るか、存在しないか﹂

のあざむきで切り抜け

" かトの︶。

た たんに論理的な ヱ目︶であるとされる

もまた、﹁鈍い真摯 さ ﹂ これを逆にいえば、﹁存在するか、存在しない か ﹂の二者択一を迫ら

実存的に超越者

求められるのである。

つねに息づまるよ う (206) 44

(45)

哲学的信仰と Ernst 45 (207) カ

のど

・Ⅰ

Ⅱ 不 と こ ) そ 、

宋 ト・ 。 ン ト 叶 ) い っ

汀 批

召 そ しⅠ

由こ

と 実 干 さ こ れ 父 さ

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巴 し

註と

は ると お

@%

尤 ょ , ノ色 一 二 いと 占 さし りく

げる スは ナ

看 過 由旬 実

存 ノン

ノン 由旬 低 段 階

いて語るさい、美的 非

根源からの支えがあっ

いっている。﹁真摯

(46)

フ エアケールン ゲ

ところでは、そのよう 拮抗 戸と よっ スパ 尤 @ よ

される場合、神の

F ののし 0 臣ガのコ ︶に

るのは、けだし ヤ

る よ う にみえる。

人間の判断として時間のうちに表白されるが、 それが、もろもろの 相 て 同 存 か 佳 城 存 い 泰 誠 : の か に 少 的

︵の ざゴ のⅠ ゴ皓 ︵︶は

にたいして、安全

る 。ヤスパースの アウ ブリ とデ 4 ヒカ /

もそれが結局は実

ある。 ︵ⅠⅠ︶

もまた日こⅠ コの ︵ と ︵ 2 ︶

ぽかんして用い

できない﹂とか みをませばますほど 実 ㎝ る を と 図 弁 別

し、

別し カ こ と 信ヨ l Ⅰ

し は か 烏、

こ 真 の 実 考 さ え @C は な +@ @ 分 て で な 後 い 者

| な 木 ぜ 正 な と

,し

り 「 真 危 の 険 意 を 味 な で か の さ 公 な 明 い ,性 よ と , っ は に

の 配 真 慮 実 に さ お だ け け て @ も 良 と l 已、 づ 的 く で 誤 あ 46

(47)

とする・との関係・

むかにみえる。カトリシズ

ト 等々が:プロテスタンテ rn

スは 、さらに、カトリシズ そ こ

(Ⅰ 0 ( ) 2 ( )

1

註 Ⅰれは が と 脂 手 あ そ れ 七

義目

ぃ 一 や れ 答

ると

て根 形態 イイ ロ印 ニ " え,

て ァ )

し る と し

き ぎ 勾

承認は誠実さを

要 ︵ ク し︶

︵㌧目の りひトぷ 。

にとっての可能性とし

であると述べている

(48)

ている実存信仰の一貫 フ オルゲ

れをなすのである。 は 、たんに " 神 ある " 哲学的信仰は実存・の

きだされる。超越者 これをわがものにす ある。

れたところでもあ にかんす る 宜ざゴ るが、 啓 プアーグ - 一ス

敢行と

たいしてはただ服従あるのみ らであり、なんらかの制約の である。これ もとにおかれ る哲学的経験 麓臣 。 俺コのコ ︶ 示 信仰は聖書 決断という にたいし る。啓示 であると ことがで 一 や 神とい もっとも で、啓示 信 信仰をこの ころの哲学 きる、とい ぅ ような 固 自己固有の 仰は、 よ う に 的信仰 ぅ ので 定した 力によ

トリシズムは、プロテ

質的な根拠を見損って

ず あらたに見出される

おいて、キルケ ゴ|

の 根源性︵の ゴ 立の︵︶ い の 汀

なことといえよう

穏の︶のⅡ

性 をもっという、 注

れをなんらかの条件 (210) 48

(49)

哲学的信仰 と ブ よ @ 已、 論 ヤ 味 議 ス で を パ 暗 か l 号 も ス と し は な だ 似 る す 上 の で 三 で あ っ あ ろ め る

つ釜モ

。 )

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ス 後 パ の に l で 、 ス あ ド

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触れたらの点規定さ キ に れ ル つ た

ぞ 々 49 (2 の

田の アミ出目Ⅰ コ降 ︶へたちも

︵ 隼 0 ⅠⅡのトロの H 凹Ⅱ臣の ヰ ︶︶

す ぎⅠ ト りハ m 目甘 小い コ ハ口田鼠口 ヴネいコ の︶

真実性と真摯 さ ︵日の

真摯さに呼応すると ぃ

Ⅰ 円 Ⅱ ロの ︵が 、 交わり かり ︵ 2 ︶

ある。

ンティズ ム の変貌に

モメントを挙げている

ストなしでしかもキリ

みなしたことを、注意

や範 時によっては捉えられ

き 起こすもの、そのような

問題とするのであるが

盤 となり ぅる 。すな

(50)

能 となる﹂という 墓 ︵ 00 ︶

述べていること、とく ノイゲ プルト

習の外枠を本来的な真

に 可能である、としている︵田モ の は︶。 ヤスパ |スは 仏教について 他

とさえ説くのである

キリスト教も仏教

よって根源的な信仰を エア サエツケン

しておきたい。谷口曳 か り Ⅱ︶

レコ小い片帆コロコ

ゆ小

Ⅱ レ

こと

ヤスパースはここで、

ある︵㌧ 目穏 のお︶。

まそのうち二つの

降る 軸とする聖書的

ものをもっ、というこ

(21 も 知 り え @A 十ん み し Ⅰ と を あ え て知 ろ うと 欲 し た し か し 中を ま @@ そ れ を の " 或 印 l@ " 実 :

ビヵ,

さ の ゆ え 弔 / Ⅰ 赦 し た れ {C 反 し

ち、いかなる人間

0

(51)
(52)

また、たんに実存の

0 の 0 づオトいつ のⅡのコ目 トの

よ そ﹁哲学するこ

わなければならない。

等々にもある種の

れは ならない。

連は、 ヤスパース 哲

られるところがあ

は ハ イデガ ーの 表 ︵ 五 ・ l ︶

のま︶の感情や ハ ︵ 2 ︶

め る。 伴博 ﹁ カソトと

ィ ロソフィア三八号、昭和三五年 て

届乙笘堺 ﹁・ ミ ps ︵の︵ 呂 音名 ゴ毛守 ∼ ト 乙が い ㌍

い 意味で、 ヤ スパー 実存、理性、暗

るのである。 (214) 52

(53)

序 いるハーバード大学 頑 しているが、一週に を 模索している。この の 指導者として著名で として多年、学界に貢献し 方 とている。 題 り 知られていないようであ と目的 L が出版されている ︵ 2 ︶ 宗教学の人格化である。 こ いう概念にもつながる。

西

法論

スの

研究

53 (215 Ⅰ

(54)

と 間 を 厳 つ 大 を れ た な かでも、スミスの比較宗教 人類の宗教史という視点に へ ⅠⅠ︶ 歴史の自己意識﹂である。 るが、スミスの誠実さと 字 冒頭に歴史の一つの基本的 玉体的に意識して、その 過 と 深化は主体的に受けとら つあるので、これを受けと 密 に検討して、知的に把握

意識的に自己批判的、

像 をつくりだすことにある ではないが、未来の方向 規 0 冊 カノ。、一下

演 問的 厳格さは接する人々の心を捉えている。

現 徴と

歴 と課 0 基 とし 失い 定にかかわる重要なことである。︵ 2 ︶ つ て 本 題 史 し 代 看 し 究 っ 歴 的 で の て で め て 論 あ 史 役 あ 変 指 は る の 割 る 化 摘 特 大

格の

い文

今 変 は 。 は し に

と が 講 謙虚

「 、

こ 過 の は 的 る が な 類 著 の 程 よ こ 状 。 激 学 の 書 こ に う の 況 歴 し

の主

間的 宗教

容 て 史 の く 知 人

易 い の 変 り 識 が が 分 も な く 変 化 だ の そ 窺 難 め こ 人 化 を し 拡 れ わ し の

((

証 こ の

jjlJ

毛ミ

ト " Ⅰ " ム冊

では

尾Ⅱ e 由 目 Ⅱの年

のの

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ス,

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毛の コ が 問 F c ァ

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Ⅰ 比 較 の

Q

㌔・ ペ ヒ て 力 欝 下 ぎ 句 を 日工 一

べ 耳

o

o Ⅱ 片

捉え

目が 目呂せ

""'"

マ Ⅰ い のの (216) 54

(55)

教の悪評をたてて、ヒン

本の説明では仏教が日本の

迷信の世界に接合され 5 0 課題と方法論

ァの 宗教にたいする理解の歴史的展開は 、

段階でアジアのめ 不 教を解釈していたが、 次

宗教の理解は 、一 それ

た ﹂に話しかけ、﹁あなた﹂とともに語る 、、、

他者の理解は自己理解につらなり、人間と

ていく可能性が予測される。この歴史の展 ︵ 3 ︶

にして、比較宗教学の問題を取り上げ、

問題は人類の異なる宗教的伝統の歴史的展

年間のこの領域の進歩は注目すべきものが

ている。千八百十年に出版された第四版で

ほ ついてふれたところはない。偶像フォー

ていなかつたようである。フォーはここで

て 記載されている。一八四二年の第 セ 版に その一つの具体的な例であ 第 に一 1, てね ﹂がアジア人に ているアジア人の理解であ 対話の関係へと変化してい しての連帯感から共通の世 開は複雑で、直線的ではな 今日の比較宗教学の課題と 開の事実を明らかにするこ ある。一つの指標として ェ は 、その二十巻の 姥 大な記 ほ ついての項があるが、 フ は 中国の古代宗教の純粋性 なるとヴィシュヌの二つの これはスミスの 視

(56)

たと述 の世界 じこと れつつ 第二 し、 そ とって たして る。 こ 信仰を 苦しん 多くの とは、 関係、 可能に 第三 の里 ︵ な 性質に

をとおして西欧

響は大きい。 同

多様性が認識さ

さが無限に要求されている。︵ 4 ︶

い う 概念で表わ

統 に生きる人に

重要な役割を果

界を包含して ぃ

ヒ ンドウ教徒の

自己の挫折、

を形成している

を 失っているこ

にした対話的な

ことが少しでも ︵ 巳 0 ︶

る 。

、あるいは人類

た 宗教の一般的

らゆる宗教は (218) 56

(57)

一の共通点は

、 異なる宗教的伝統のにないてば

、共存の世界をつくりあげ

0 課題と方法論 と 能 て 成 意 と と こ よ 性 愛 者 識 興 で こ り を け へ は な あ で も 考 と と 信 る る 共 、 え っ 変 仰 で 通 糊 る て 革 者 あ そ 点 悔 と り し を る れ の と 、 る て 単 う ぞ 間 借 間 人 い な 。 れ 題 何 題 も る る 第 の を を は 少 仏 工 宗 取 と 共 数 人 統 に 教 り お 存 で 類 の 注 的 げ て 、

上し睦はの

宗英

す統

伝 る 何 共 る 教 な べ で

とに働が的にき

" な "

見仏なこ

意 味 答

り 兄 い 続 い と の 格 あ 伸 れ 化 し そ こ は る を る を て れ と 白 か 可 。 意 終 ぞ が ず で 能 こ 認 ら れ 起 か あ に の し せ の り

、 伝 そ 的 の 史 者 現 動 統 れ 尊 属 の が 在 過去から変化しているよ う に未来は現在 歴史を意識しっ っ あることである。歴史の 変化の過程に加わり つ つ

新しい伝統の形 する宗教的伝統の変化を世界的視点にたっ 実にたって宗教の世界共同体への貢献の可 ぞれの共同体の役割が何であるかというこ の歴史的把握である。︵ 6

的 、生成的であり、基本的には体系よりは は未 だ終っていないこ 問 比 較 目 している。第一 人間の宗教性、 者は学問的な蔵 宗教学の重要 の 常識になって 密 さを無視している。今日の あるいは人類の異なる宗教的 に 、 個々の宗教的共同体の他 な 課題となりつつある。個別 いる。歴史が変化の過程にあ 宗教学の進歩は 伝統の共通点の との関係、全体 の 宗教的伝統の るという目見 は 、 理 の 理

のような安易な一般化を許さないものがある。 に注

れは

0 字

るこ

純化する学問的世俗

57@ (219)

(58)

、その意味を構成

,、 由ド ﹁ 屈 ︵ロロ ぎ ぎざ ぜ い三ぽ由コ ㏄の @ ︶ 、ト の 0 肚、つで トートⅡ ︵ 2 ︶ 回 、一頁 | 五頁 ︵ 3 ︶ 回 、五頁 | 六頁

ぎ寒

ア ざが 幅 o C まく 窯 往モ㌧ お拐、 ︶ののの・で P ビ ーあか

入門﹂、東京大 学 出版会、一九六二年出版の一章である。

︵ 5 ︶ 同 、八頁 | 九頁 ︵ 6 ︶ 回 、九頁 | 一四頁 ︵ 7 ︶同一四頁 | 十七頁

ヨミセ ∼ ,、ワ蓮 ・同和訳、六八頁

のことは比較宗教学、

共有していることになる。

領域における 我 にすると宗教的人間と②

宗教的に分離した 歴

(59)

に検討されて

宗教史を含めて歴史

いう。歴史家としての

宗教的マティリアル

として実在するのでは

とから学者は基本的に

ので、伝統の歴史的展

という概念が、伝統、

難いが、前後の関連

蓄積された伝統をとおし

外形をとおして、人問

している。この著書でも

、宗教的伝統

59@ (221)

図  1   久保山の寺院分布  Ⅰ  Ⅰ        火葬場  常汚  寺山     興  禅寺田  卍     常滑  寺  、寿  量寺  教会の三力寺一教会 でもっともおおく、同じ法華系列で    -@s@ti  教会所は 在、久保 う に、仏 教会が、 茶屋とと でいろ。 訳 けは、  現在の寺院に発展した。現 出には、図  1  にみられるよ 教 諸 手 派の寺院一四ヵ幸一 石屋、墓地の管理にあたる もに霊堂を中心にして並ん 一四ヵ幸一教会の宗派的向 日蓮宗が川合音、妙音寺、       寺院
表  3.  信徒の職業  (  )  は百分比  軸  そ  不                                表 4.  信徒の収入  (  )  は百分比        0  ))9  Ⅰ  ︶ 4O       @ ))) ノ @  ︶         B C  19  ) ( 2  0 ︶ 9 ︶ 10 90 4O       7 ︶ 7 ︶     7 ︶ 5 ︶ 6 6  Ⅰ上人 リ     8 ︶ 2 ︶   1O O       8 ︶ 8 ︶ 35 13       4)

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