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こぺる No.130(2004)

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(毎月 1回25日発行)ISSN 0919-4843 乙べる刊行会

NO. 130

ひろば⑮⑪ 生業として、障害者を援助することとは何をすることか 一岡崎さん(11月号)に応えるー 高田嘉敬 私の目で見た奈良県の同和教育の現状 次回哲治 部落問題全国交流会報告 第二十回目を迎えた部落問題全国交流会 熊 谷 亨 尼崎だより⑥ 私にもわからんこと、聞くな 中村大蔵

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ひろば⑮ 高田嘉敬︵福祉施設職員︶

何をすることか

障害者を援助することとは

ー岡崎さん︵日月号︶に応える| 岡崎さんに指摘されて、私の主張を読み返してみると、 少々ムキになって挑発的な書き方をしたところがあると 反省させられます。岡崎さんの思いとは離れたところで、 けんかを売ったような文章だったと身に泌みております。 私が大切だと考えることと、岡崎さんの関心のあるとこ ろとが、あまりかみ合っていないこともよくわかりまし た 。 ただ、どうして辛口になったのか、思い当たるフシは もちろんあります。それは、出発点のちがいです。 わたしは、今の福祉を仕事とするようになる前から、 部落解放教育について強い関心を持っていました。私の 関心の持ち方は少し変わっていたかもしれませんが、二 つありました。ひとつは、部落解放教育の原論のような ものです。定義のしかたのことです。部落解放教育は、 具体的にどのような状態になることをめざす教育なの か ? 何 を 以 て 、 部 落 解 放 教 育 の 成 功 その領域は? ︵あるいは失敗︶といえるのか? といったテ l マ 群 で す。もうひとつは、部落解放教育を生業︵なりわい︶と する人々︵主に学校の先生︶ の 責 任 の と り 方 に つ い て 、 で す 。 とくに、後者については、私自身が福祉で暮らしを立 てるようになってから余計に、気にかかっています。プ ロとしての身の処し方、といってよいと思います。実際 のところ、部落解放教育の成功︵と失敗︶はどのように こペる 1

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定義されてきたのでしょう︵解放の学力あるいは学力論 そのものが危ういと思っています︶。そして、そのとき に生業として関わった人々はどのような責任のとり方を な さ っ た の で し ょ う か 。 ︵今回の議論の枠組みからは外れるかもしれませんが、 こ の テ l マはさらに﹁当事者︵あるいは当事者性︶﹂と ということと、私の中ではつながっておりま は何か? す。部落解放運動のなかで、あるいは障害者自立運動に お い て 、 ﹁ 当 事 者 ︵ 当 事 者 性 ︶ ﹂ と は 一 体 誰 の こ と な の か 、 です。障害を論ずる場合は、障害当事者というコトパが おそらくもっとも限定的に使われ ているはずです。ピアカウンセリングなどは、その象徴 的な例だと思います。﹁当事者の当事者によるカウンセ リング・:﹂というとき、当事者は障害者に限られてしま あ る く ら い で す か ら 、 うわけです。ただし、このような議論の進め方は、立場 と資格にこだわりすぎているように思えなくはありませ ん が 。 ︶ さて、もしも岡崎さんが福祉のボランティア活動に悩 む京都の一市民で、そのようなお立場からの発言でした ら、私はとくに違和感を持つこともなく、素直に受け止 めることができたと思います。しかし、岡崎さんが福祉 を生業となさっていることから、私はまっさきにプロと しての身の処し方のほうに興味関心が集中してしまいま した。それで、岡崎さんがあっく現場での苦悩の思いを 訴えようとなさっているのに、私は、わざと突き放した 冷たい議論をしようとしたわけです。 同様に、これまで﹁こぺる﹄誌上で、教育にかかわる 議論が数多く語られてきましたが、私の悪い癖で、議論 の筋道よりも、著者がその領域を生業としているかどう か、どのような成果を前提に何を提案しようとしている つい、してしまいます。岡崎 の か : ・ と い っ た 読 み 方 を 、 さ ん の 場 合 も そ う で し た 。 福祉︵あるいは教育︶とお金について 岡崎さんは、支援・被支援という人間の関係をテ l マ になさっているようですが、その前提となる制度や施設 の仕組みそのものが、支援の質を縛っている側面のある ことをお伝えしておこうと思います。 教育や福祉が語られるときは、あまりお金の話をしま

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せん。たしかに高遇な思想とは共存しにくい生臭さが、 ﹁ お 金 ﹂ に は あ り ま す 。 しかし、お金は重要です。お金は言い換えると、これ は制度や仕組みのことです。学校やサギヨウショや施設 が成り立っている仕組みが変わることで、支援の水準が 劇的に変わることは珍しくありません。 例をいくつか挙げます。今年四月から居宅支援がはじ まりました。この制度を活用して週末の外出が容易にな りました。これで、多くの知的障害者︵少し前まで知恵 遅れ・精神薄弱と呼ばれた人々です。少数者の名づけの 問題については別の機会に議論したいことがらです︶が 親族以外の他人と一日を過ごす機会がとても増えました。 現実には一つ一つの介護場面で、問題のあるケ

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ス は 少 なくないとは思いますが、仕組みが変わることでハンデ ィのある人の可能性が広がる例だと思います。 また逆の極端な例では、﹁閏立コロニーのぞみ園﹂が あります。重度とはいえ五

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名の利用者に対して三

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名をゅうに超える職員配置と年間三

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億円の予算規模 です。これらの数字からは、職員の支援の質を議論する 以前の、適切さに欠ける経営の実態が読み取れます。さ すがに今年あたりから、非難に近い批判と見直しが着手 さ れ ま し た 。 この他、仕組みを変えるだけで、劇的に現実が変わる 可能性は、官民格差です。多くの民間の福祉団体の給与 水準が公務員の約六割前後ですから、もし公立施設が民 スタッフは驚くほど 間並みの給与水準で運営されたら、 増えることになります。たったこれだけでケアの水準が 劇的に変わることは間違いありません。ついでながら、 公立施設にはさらに、もうひとつの社会的な役割があり ます。地域の福祉施設をリードする責任です。少なくと も現状では、一雇用環境も施設設備も民間よりはるかに恵 まれているわけですから、公立施設は地域リハビリの拠 点として十分に機能すべき社会的役割を持っているわけ です。このような意味で、私は、公立施設はぬきんでて いて当然だと思っています。 ですから少々細かいところにこだわりますが、﹁施設 であるがゆえに抱える普遍的で構造的な問題﹂︵四頁︶ という括り方には、反対です。同様の課題に直面してい ることは事実かもしれませんが、投下コストが決定的に 違う以上、まず、官民格差が成果として施設の支援の質 こぺる 3

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にはっきり示されなくてはなりません。民間並みの平均 的な水準しか維持できないのなら公立施設である必要は な い の で す 。 お 金 を い た だ い て 仕 事 を す る 意 味 私は、﹁﹃感性と技術﹄という問題のたてかた﹂︵八頁︶ を述べたつもりはありません。また、技術は小手先の器 用さだけを意味しません。説得力のある支援内容が、人 聞のまなざしに届かないわけがないからです。 プロは結果がまず一義的に問われるのだから、最も明 快な方法で結果を明らかにしておくことが、必要だとい っているだけです。利用者が異議申し立てをしない福祉 の現場ならなおのこと、結果に対する厳しいまなざしが 求められます。意図したつもりではなかった、悩んだけ れどもうまくいかない:\といった葛藤の軌跡をたどる ことは、私にとっては、 やはり内に秘めておきたいとこ ろ な の で す 。 岡 崎 有 さ 科 ん で と 仕 は 事

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んイ士 で 方 う が ま く 私 い と かへんかったんやろ﹂﹁こんな内容で給料もらってええ んやろか﹂そこから︵つまりお金をいただいて仕事をし ているという事実から︶、私の苦悩は始まっています。 ですから、私はボランティアの方が悩むことと、それを 生業とする人が悩むのとでは、たとえテ l マが同じでも 同 質 に 議 論 す る こ と に 抵 抗 が あ り ま す 。 し その点で、もし﹁部落差別問題に対しては玄人も素人 もない﹂と藤田さんがおっしゃったなら、そのように議 論できるためには、少なくとも二つの前提が必要だと、 私 は 思 い ま す 。 それは、まず自分の責任のとり方をはっきりしておく こと。自分の発言は自分で引き受けることになるでしょ うか。もうひとつは、先ほどから繰り返しておりますが、 生業としている人には、固有に求められるもの︵身の処 し方︶が別にあると思うからです。 ﹁当たり前の:・﹂﹁論外の:・﹂について 相当に混沌としている現実が例外的でないことも、岡 崎さんのように職務内容そのものに誠実に応えようとす

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るスタッフがごく少数であることも、利用者の幸せに無 頓着な施設職員が少なくないことも、どれも私は知って いるつもりです。けれども辛口な表現になるのは、こう でもいわないと、プロとしてはしめしが付かない、と考 えたからです。私は十数年の問、福祉施設の仕事を生業 としていますが、仕事を失敗したからといって︵あるい は成果が見られないからといって︶一度も給料を返した ことはありません。生活がかかっているからです。仕事 の成果に対する報酬として、今の給料が妥当かどうか検 討する遥か以前に、なりわいとしての責任のとり方を放 棄しているといえます。油断すれば、何年も弛緩したま ま過ごすことも可能なほどの現場でもあります。外から 問われる機会が少ないというのはそういうことだと思い ま す 。 そこで、かりに外から問われないのなら、内に確かな 基準を持たねばなりません。 前回いさぎよく到達目標を掲げましたが、何も、私の 施設が先駆的な取組みをしているとか、資質を間われる ような職員は少ないと考えているわけではありません。 むしろ、私の職場はさまざまな難聞が山積しています。 ﹁論外﹂の事態も日常茶飯事です。しかし、戒めに過、ぎ ないといわれようと、教育や福祉のような成果の問われ にくい仕事だからこそ、私は具体的な成果を求めるもの です。これはタガをはめることに似ています。 さて、もしも私の施設の社会的︵歴史的︶使命がなく なったとすれば、職場の解体を恐れずに、原点に立ち返 ることができるでしょうか。いささかたじろぐような設 問ですが、誰のための支援の仕組みかという前提を崩す わけにはゆきません。今日ただいまの施設の実態を前提 に、日々誠実に現場に立ち向かうだけでは済まされない こともあると考えています。もっと別の枠組みのなかで ハンディのある人を支援することが必要ならば、なおの こ と 、 ひるむことなく進めるかが問われます。 ところが、福祉施設はどうしても、﹁わが身かわいき﹂ が先にあって、本当に当該施設に存在根拠・社会的な意 味があるのかどうか考えぬかれているようには思えませ ん。大規模複合化の道を止めようとする福祉施設は少な いのが現状です。地域のニ l ズにこたえるという大義の もとに、実際は経営の安定化を図っているというのが偽 らざる現実の姿だと思うのです。しかし何のために施設 こベる 5

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があるのか、もちろん福祉施設職員の雇用安定が目的で はなかったはずですが、いったんできあがった組織は、 本来の目的よりも組織が再生産されることにエネルギー を使う傾向にあります。︵このダメな点では官民格差は あ り ま せ ん 。 ︶ ﹁障害とは﹂なにか 本当に﹁障害とは、何かが劣る劣らない、あるいは、 何かができるできないといった次元の問題ではなく、本 来は人間関係のありようとか豊かさの問題﹂︵九頁︶で しょうか。これは、今日、共生社会が説かれるときによ く耳にするフレーズではありますが。むしろ、障害とい うのは、もともと﹁さしさわり﹂があるかないかに着目 した概念だったはずです。ヒトの生き方にまで、﹁さし さわり﹂があってはなりませんから、私は﹁障害とは、 ・、本来は人間関係のありようとか豊かさの問題﹂と は考えておりません。障害はあくまで、﹁さしさわり﹂ のある日常の具体的な現実の一つ一つを示しているに過 ぎないと考えています。過剰な意味付与はかえって、わ かりにくくなるばかりです。問題は、そうした﹁さしさ わり﹂が取り立てて意味を持たなくなるような人々の関 係を見通せるかどうかにかかっているのだと思います。 ここで、ようやく消滅しつつある﹁色盲﹂という障害 のことを思い起こします。﹁色盲﹂が社会的に意味のあ る障害として握造されてから、その阿呆さかげんに人々 が 気 付 く ま で 、 実 に 長 い 時 間 が 必 要 で し た 。 ﹁ 色 盲 ﹂ は 、 もともと軍事的な要請から出発して、つい最近まで日本 固有といってよいほどの珍奇な社会現象でした。さまざ まな社会的障壁︵技術資格や入学・就職などの要件︶と して立ちはだかってきたのです。愛知県の眼科医︵高島 さん︶が声を上げ、﹁色盲﹂を社会的に意味のある障害 とすることのおかしさに、今になってようやく気付いた わけです。このように、障害そのものは、 いくらでも見 つけ出すことができます。﹁さしさわり﹂はどこにでも 誰にでもあるからです。しかし、大切なことは、それら が社会的に意味があることかどうか、この一点に私たち は 、 眼 を 向 け る こ と だ と 思 い ま す 。 最後に岡崎さんは、障害者施設を評価するしくみが、

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オ ン ブ ズ パ l ソン・苦情処理機関などによって整う一方 で、﹁施設の現場に身を置く私たち一人ひとりのありょ う︵自己相対化︶が厳しく問われなければなりません﹂ ︵十二頁︶と結んでおられます。確かにそのとおりかも しれませんが、地域や利用者にとって本当にその施設は 根拠を持ちうるのかどうか吟味することが、喫緊です。 自己相対化は、個々の営みに向けられるよりも前に、ま ず活動の根拠となる施設の枠組みのほうに向けられるこ と が 大 切 だ と 思 い ま す 。 ﹁知的障害者を援助することとは何か﹂これが岡崎さ ん の テ l マ で し た 。 また、﹁障害観や人間観、そして援助観を問うている﹂ ︵ 二 頁 ︶ こ と も 理 解 で き ま す 。 しかし、私のテ l マは、﹁生業として、障害者を援助 することとは何をすることか﹂です。 ですから、﹁私も援助者︵職業︶としてその観点から 利用者にできることは精一杯しなければならないといっ た気持ちはあります﹂︵十頁︶とは素直にいいにくいも の が あ り ま す 。 福祉施設は、よほど破廉恥なことをしない限りその存 在が疑問視されることはありません。また、利用者が長 期に滞在すればするほど、施設は地域との交流の機会が 少なくなり、見えにくい存在になりがちです。もともと 多くの市民は、福祉施設に出会う必要を感じていないか らです。しかし、学校や施設がいつも市民に聞かれてい る仕組みを保てるかどうかは、決定的に大切だと思いま す。市民の出入り自由、こうして施設の中に風がふき、 ﹁玄人も素人もない﹂市民のまなざしを受けて施設職員 は当たり前の感覚を取り戻すのだと思います。今日では、 福祉や教育を生業とする人々にリハビリが必要な時かも し れ ま せ ん 。 こぺる 7

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ひろば⑫

私の日で見た奈良県の

同和教育の現状

次回哲治︵天理市立北中学校夜間学級一︶ 奈良県で二五年になろうとする私の教員生活で、﹁同 推教員﹂をしたり、﹁同推校﹂︵校区に被差別部落のある 学校︶に勤務したことはない。﹁同和教育の現場﹂︵どこ が現場なのかという議論は置いておくとして︶での実践 も持たない奴が、涼しい立場から何を言うかという批判 をされそうだが、今となってはそれでよかったと思って いる。さらに言えば教員生活のほとんどの期間、京都府 南部に住みながら奈良の学校に通ったのだが、﹁同和教 育や人権教育の取り組みが遅れている﹂といわれる京都 府から奈良県の同和教育を見つめ続けたことが、さらに よかったと思っている。また、教員として勤務しつつ、 居住地では教育や平和を考える市民運動を続けてきたこ とも、同和教育運動を客観的に見たり、アレッおかしい なと気づく視点を与えてくれた。 今、奈良県の同和教育は、全県をあげて人権教育への 看板の掛け替えを終えたところである。全国的に見れば、 かなり早めに掛け替えを終えたと言うべきであろう。奈 同教︵現在は奈人教︶傘下の郡市同教でも、奈同教の動 きを追って、全ての郡市の同和教育研究会は人権教育研 究会、もしくは人権・同和教育研究会への名称変更を終 えている。法切れを見通しての奈良県ぐるみの動きであ る こ と は ミ エ ミ エ で あ る 。 この様な動きの中で、私のような一会員が、全県の教 職員を会員とする大きな研究組織に意見を言える機会は、 年に一度、五月頃の総会だけである。ここ数年の看板掛 け替えの動きの中で、毎年、総会に出席して意見を述べ たが、名称変更の年には、とうとう私以外の参加者の意 見は、一切、会場から出なかった。その時の私の発言の 主旨は、﹁組織名の同和教育を人権教育とするならば、 法切れをねらった単なる看板の掛け替えに終わらせるの ではなく、部落問題に限らずあらゆる分野での人権教育 の推進を視野に入れたものとしてほしい﹂という内容だ った。当時の事務局長の答弁は﹁木に竹を接ぐようなこ とは出来ない。五

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年間の同和教育の流れを堅持してい く﹂といったものだった。せっかく、人権教育への方針 転換を支持しながら発言したのに﹁何や、それやったら

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名前変えんと今までのままでもええやんか﹂と拍子抜け し た 覚 え が あ る 。 この間、私が最も危倶しているのは、同和教育のほと んどの会合︵県市レベルの研究会の総会、定例的な議事 を決定する推進委員会など︶で、同和教育の本質を巡る 意見がほとんど出ず、論議が著しく空洞化していること だった。案の定、奈良県の同和教育の歴史で画期的な転 換点となるべきこの日の総会の、何百人もの参加者の中 で発言したのが私一人であり、その意見について、奈人 教の会員向けの広報紙﹃なかま﹄は、一切記事にしなか った。総会後の別の機会に、名称の変わった奈人教事務 局長に﹁たった一人の会場発言なのに、なぜ主旨を掲載 しないのですか﹂と問いかけてみたが、﹁機会を見て対 応する﹂とかなんとか要領を得ない返答をもらっただけ であった。正直、同和教育の空洞化の一因がこれだなと 感 じ 入 っ た 。 この様な奈良県レベルでの動きに相前後して、私の勤 務校のある天理市同和教育研究会も組織の改編と名称変 更をめざす﹁同和教育の二

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二 年 委 員 会 ﹂ を 立 ち 上 げ 、 二年にわたる検討機関を設置した。その委員会が会員や 学校からの意見を募集していたので、私も率直な思いを 意見として出させていただいた。しかし、結果は予期し た︵?︶とおり、あまり抜本的な組織改革にはならなか っ た と 思 う 。 私が提出した意見書の骨子は以下のようなものである。 ・半世紀にわたる同和教育の取り組みの後、今なお成果 が上がらないのなら、その方策を根本的に見直すべき で ふ め る 0 ・成果については、客観的、科学的事実に基づく論議を 経てみんなで確かめ合うべきである。 ・推進委員会︵現在、奈良県内すべての学校・固から一 名ずつ選出されている委員により、各市単位で構成︶ を奈同教や市同教事務局からの﹁伝達﹂機関ではなく 論議の場とする。具体的には各校一名というような割 り当てを外し、場合によっては委員のいない、あるい は希望者がいれば複数の委員の出る学校や園もあって も よ い の で は な い か 。 ・管理職による当番制的な役員選出を止め、全会員によ る民主的な役員選出を行う。︵役員を総会で承認し、 承認された役員が委嘱する事務局員が方針などを策定 していく現行の組織では根底的な取り組みの変革は不 こベる 9

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可能である。また、推進委員会の折りに役員はほとん ど出席せず、あいさつを終えてそそくさと退席すると いう光景もこれで改善されるのではないか︶ ・同和教育や部落問題を巡る、広くさまざまな考え方を、 自由に論じあえる雰囲気づくり。 ・公費負担の研修会を減らし、会費は会員が自分で払う 研 修 会 を 増 や す 。 ・会の内容などの情報公開の徹底を進める。 ・役員選出に限らず、あらゆる方向性を民主的に決定す る ル 1 ル づ く り 。 しかし、現状は専門委員会の改編や会費の値上げ︵補 助金の削減と会費による会員自己負担率のアップ︶など 以外は、役員の選出も含めて市同教時代の運営スタイル が踏襲された。もちろん、意見を出した会員への説明は 一切無し。いよいよ空洞化も極限まで行き着くしかない の か と 思 っ た 。 話は変わるが、この頃はどこの地域でも﹁ふれあい﹂ や﹁ぬくもり﹂、﹁まなぴあい﹂などといったひらがなと ﹁フエスタ﹂﹁フォーラム﹂といった国籍不明の横文字を 組み合わせた人権啓発のイベントが花盛りだが、これつ て変だなと思うのは私一人なのだろうか。そして最近、 案外、その命名が今の同和教育や人権啓発の本質を言い 当てているのではないかと考えるようになった。主催者 側がナイスネーミングとばかり、知恵をしぼって市民受 けをねらったのだろうが、その﹁ぬくもり﹂や﹁ふれあ い﹂が、同じ価値観の元に仲間内で﹁ぬくぬく﹂と同和 教育や行政、人権啓発を進めてきたもたれ合いとして、 一般市民からは非常に冷めた目で見られているのではな いかと思うのである。歴史的に見ても、人権は、相互の もたれ合いの中から与えられるものでは決してなく、徹 底して自立した個人同士のシビアな論議の中から初めて 獲得できてくるものなのだろう。自分を省みても、ちょ う ど 一

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年ほど前にある市の同和教育研究会の事務局長 をしていた頃、私自身は本当に自立した立場から発言し ているつもりであったけれど、一般会員からすれば運動 体のお先棒を担いだお釈迦様の掌を飛び回る孫悟空にし か見えていなかったのではないかと今思っている。同じ ようなことがモダンに装いを改めた今の﹁ぬくもり

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﹂などの取り組みにもいえるのではないだろうかと思 う。体裁や装いをいくら改めても、本質を変えなければ ダ メ だ と い う こ と だ 。

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今、私の勤務する奈良県の夜間中学に大きな危機が降 りかかっている。奈良県の三つの公立夜間中学は、自主 夜間中学︵ボランティアにより運営される夜間中学︶を ル 1 ツとする﹁つくり育てる会﹂という運動体をバック アップとして、全国的には珍しく公立化後も自主運営を 続けてきた。例えば、生徒の卒業までの修業年限を設け ない、管理職︵教頭︶を配置しない、カリキュラムを自 主編成する、行政交渉による環境の改善や教職員の増員、 などなどである。しかし、設置三市の一つで修業年限を 設けたり、長欠生徒の在籍管理︵除籍などの対応︶を打 ち出す動きが出てきたのである。私にはどうしても、こ の動きが地対協意見具申が出てきた頃の解放運動を巡る 動きと重ね合わさって見えてしまう。今の奈良県の夜間 中学運動の危機を、国の不況や教育の反動化、奈良県内 での解放同盟の分裂と方針転換など、外側の政治や経済 的状況に求めることは極めて簡単である。しかし問題の 本質は、夜間中学を巡る取り組みゃ運動が、﹁運動と教 育と行政のもたれ合い﹂としか一般市民に映っていない ことにあるのではないだろうか。 私が赴任して以来一

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年近くなるが、﹁つくり育てる 会﹂はほとんど一般市民の問への広がりを見せていない。 また、前に述べたような奈良県の夜間中学教育の長所や 取り組みが、一般市民どころか県内の識字関係者や解放 同盟員、昼の学校の教職員、他の七府県にある公立夜間 中学の教職員にさえ、ほとんど認知されていない。 そんな自分たちの取り組みへの甘え自体が現在の危機 を招いたとする問い返しを、夜間中学に関わる全ての人 たちがしていかなければ、早晩、奈良県の公立夜間中学 の特質もあえなく崩れ去るのではないかと心配でならな い。繰り返すが、この状況は藤田敬一さんが﹃同和はこ わい考﹄で提起された地対協意見具申が市民的共感をも って迎えられる状況に本当によく似ているのだ。 このような意見を率直に述べることは、私の周りの人 間関係を妙にぎくしゃくさせ、感情的反発を招いたり、 挙げ句の果てにあいさっしても無視をされたり、といっ たことになるのだと思う。けれど﹃こべる﹄から教えら れた、自立した個人が思ったことをきちんと言い合うこ とからしか問題解決への一歩は始まらないのだというこ とを肝に銘じてこれからもこの問題に関わっていこうと、 今 、 考 え て い る 。 こぺる 11

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︿ 部 落 問 題 全 国 交 流 会 報 告 ﹀

第二十四日を迎えた部落問題全国交流会

熊谷亨︵京都市・ツラッテイ千本勤務︶ 十 月 三 五 l 二六日、京都の大谷婦人会館で、第二十回 日となる部落問題全国交流会が開催された。今回の討論 ウ チ ノ ト , の テ l マは、﹁部落の内・外に生きる﹂というもの。口 火を切る話題を提供してくださったのは、京都在住で、 ﹃ − Z け

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︿回巧﹁部落出身﹂|ロ人の今、そしてここか ら!﹄︵解放出版社、九月号に住田一郎さんによる紹介 あり。以下﹃ H Z 寸 何 一 刀 ︿ 目 当 ﹄ ︶ の編集を担当された小西 利枝さんと、徳島在住で ﹃ こ べ る ﹄ 四 月 号 に ﹁ 隣 保 館 職 員になって思ったこと・したいこと﹂を寄稿された原和 子 さ ん 。 そ れ に し て も : : : ﹁ 二 十 年 ﹂ ! そもそもの始まりは、八三年八月に岐阜で行われた小 さな会。太平天国杜︵藤田敬一さんや友人たちが岐阜で つくっていたサークル︶が、十周年を機に、それまで交 流のあった人々と﹁部落問題について語り合いたい﹂と 呼びかけて聞いたもの。その年の春に藤田さんの講演会 を聞いた縁で、当時学生だったわたしにも案内が届き、 友人とともに参加することになったのだった。 確か山本尚友さんと今は亡き前川む一さんが話題提供 のお話をされたはず。ほとんどが初対面の人ばかりだっ たけれど、明け方近くまでいろんな議論を交わしたこと を覚えている。二日目の別れ際、誰とはなしに﹁来年も また集ろうや﹂と言い出し、﹁では﹂ということで、京 都からの参加者がお世話することになった。﹁部落問題 全国交流会﹂という名前がついたのも、二回目の準備の 時だったか。三回目は四日市で、それ以降は、また京都 で 開 催 さ れ 、 今 日 に 至 っ て い る 。 準備にあたる事務局を含め全員が同じ参 J 加 費 を 払 い 、 部落問題について、年に一度それぞれの思いを出し合い、 議論する。いつしか﹁自分以外の何者をも代表しない﹂ ﹁ 結 論 や 方 針 を 求 め な い ﹂ ﹁ 多 数 を め ざ さ な い ﹂ と い う 確 認事項も生まれていった。二十年﹁皆勤賞﹂の人もおれ

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ぱ、何年かごとに顔を出してくれる人、また毎回﹁初め て﹂の人も参加をしてくれる。議論の中身もさることな がら、この会を通して得たたくさんの友人・知己は、わ たしにとって何ものにも代えがたい財産となっている。 初 期 の 頃 は 、 例 え ば ﹁ 行 政 ﹂ ﹁ 教 育 ﹂ ﹁ 運 動 ︵ 糾 弾 ︶ ﹂ といった分科会のテ l マを設定し、それぞれの現状と問 題点を出し合うという形で議論が進められた。既存の枠 組みにそった形での議論から始まったわけだが、徐々に、 い ず れ の テ l マにおいても﹁部落差別とは何か﹂﹁どう したらなくすことができるのか﹂という問題へと行き着 いていった。藤田さんが﹁同和はこわい考﹂をまとめら れ た の も 、 こ の こ ろ だ っ た 。 議論の中で生まれてきた一つの仮説が、差別は人と人 との関係性の中にあり、差別をなくすには、その関係性 を変える必要があるのではないかというものだった。 ﹁差別|被差別の立場の自覚﹂が必要であった時期も確 かにあったと思う。しかし、たとえば、教育現場などで 取り組まれてきた従来の﹁部落民宣言﹂が、差別|被差 別の既存の関係性を変えるどころか、むしろ強化する ケ ー ス ︵﹁立場性にふさわしい振る舞い﹂を双方に強い る︶すらあったことは、交流会の議論の中でたびたび指 摘 さ れ て き た 。 では、どうすれば変えることができるのか。そもそも ﹁関係性を変える﹂とは。この数年の議論は、この点を めぐって展開されてきた。住田さんの提起する︿カムア ウト﹀もまた、関係性を固着化させるのではない、﹁関 係性を変えるための名乗り﹂の追求だとわたしはとらえ て い る 。 ﹁ 法 と 制 度 ﹂ のもとで実施されてきた同和事業は、部 落を大きく変えてきたし、部落差別問題をめぐる部落内 外の意識状況を大きく変えてきた。部落出身であるなし にかかわらず、﹁部落﹂が日常生活を送る上での重要な ファクターである︵日々の行動の指針として作用する︶ よ う な 状 況 は 、 ほほ解消したといっていいだろう。この 十数年の聞に、京都においても、大阪においても、家を 購入して部落外で生活を送る若い人々が増えている。そ こぺる の 子 ど も の 世 代 に は 、 さらに生き方の選択肢が広がって い く こ と だ ろ う 。 け れ ど も 、 一方で部落問題を成立させ 13

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ている関係が、社会の中で作用している以上、自己認識 とは無関係に﹁差別|被差別﹂関係の枠の中へ放り込ま れ る こ と も 十 分 あ り う る 話 な の だ 。 そこで設定された二十年目の部落問題全国交流会の趣 意は、﹁あらためて個々人の生き方︵人生への態度︶に 焦点をあてて議論をしたい﹂ということだった。 ﹃ H Z 叶 何 日 同 ︿ 同 一 巧 ﹄ に お い て 、 小 西 さ ん は ﹁ 日 頃 自 分 が 接している二

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代 l 三

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代の人たちの、年配の活動家と は違った部落問題への向き合い方をまとめてみたいと思 っ た ﹂ と い う 。 原 さ ん は 、 いったん県外で暮らしたあと生まれ育った 地 域 に 一 戻 っ た の だ が 、 ﹁ 何 か に つ け て 行 政 ︵ 隣 保 館 ︶ に 頼ろうとする地域の人の状況を変えたい﹂と思って隣保 館職員になり、取り組み始めたことを報告してくださっ た 。 主には都市部︵と思われる︶ の、部落出身の﹁新世 代﹂の状況と徳島の海辺の、原さんによれば﹁ひっそり と暮らしている﹂部落の状況︵﹁関西の ﹃ 先 進 地 ﹄ の 運 動の初々しかった頃を思い出した﹂という感想を漏らし た方もいた︶。また、小西さんと原さんの部落問題への スタンス。それぞれへの質問から始まった議論は、再び カムアウトへと、関係性を変えるのはどうしたら可能な の か と い う こ と へ と 向 か っ て い っ た 。 ﹁議論し足りないから、来年もう一回﹂||そんなこ とを言いながら続いてきた二十年。来年もぜひ、 み な さ ん と お 会 い し た い と 思 っ て い る の だ が ・ : 。

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尼崎だより⑥

私にもわからんこと、

聞くな

中村大蔵︵特別養護老人ホ l ム 図 田 苑 ︶ 園田苑の壁紙が高さ一メートル二

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センチから四

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セ ンチまでの幅で剥がされていく。全館の壁紙がそのよう に剥がされるのは時間の問題のように思う。この高さは、 車イスに乗って片手の届く範囲である。 職員が﹁苑長、壁紙の下の薄紙も剥がされている。コ ンクリートがむき出しの所もある。ボードにも穴があく んじゃないか。どこまでやってもらうの﹂と問うてきた。 ﹁これで建物が壊れることもなかろう。なんとかなるよ﹂ とうそぶいているものの、この壁紙剥がしは今日も続い ている。廊下だけでは厭き足らず他の入居者の部屋まで ち ん に ゅ う グ 闇 入 μ し て 剥 が さ れ て い る 。 この行動の主は車イスの K さん、八八才である。痴呆 はやや深い方に属するが、これとて定かではない。この ように︵施設や職員にとって︶﹁やっかいな﹂行動が目 立つものだから、どうしても痴呆と ρ 断定 U し て し ま う 。 あ る 日 、 K さんは入居者の誕生日に職員から求められ て挨拶した。なかなかどうして様になっていた。短いな りにも起承転結のしっかりしたものであった。 年寄りと一緒に暮らしてみて、いつも感心させられる のは挨拶である。皆さん最初は遠慮するものの、逃れら れないとなるや、相手を立て、周りに気を遣い、その場 の雰囲気をとても和やかなものにするいい挨拶をされる。 だ て 伊達や酔狂で年は喰わないと思い知らされること度々で ある。挨拶とは、頭ではなく身体が記憶するものである。 さ て 、 昨 年 八 月 、 K さんが近隣

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市の老人病院からや ってきた時、持参させられた﹃情報提供書﹄によると、 ﹁清潔、不潔の見分けがつかない。夜間のオムツはずし。 食事時、他入所者の盗食有。とりこみ﹂と記入され、 ﹁夜間、抑制服着用﹂とも書かれていた。抑制服とは自 動車整備工場などでよく見られる上下一体となったつな ぎ服である。この服のファスナーに南京錠をかけて開け ないようにしているところもある。 た し か に 、 K さんは園田苑にやって来られた当初、下 着やオムツをよく外されていた。そのことがあまりにも 頻固なので、見回りゃトイレ誘導に留意しながらも、大 正期のお生まれだから和服をよく召されたため、パンツ などの下着に馴れていないのではないかとも考えてみた が、実の娘さんによるとそうでもないらしい。どうも、 こぺる 15

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介護側スタッフと K さんとの人間関係︵意志疎通︶が成 立せず、排尿、排便のシグナル発信が遅れてしまった結 果 に よ る よ う だ 。 しかしそれにしても、老人病院からの記載内容はいた だけない。清潔、不潔の見分けがつかぬとは、看護︵介 護︶側の怠慢により K さんを放置した結果ではなかろう

ヵ 。

食事時、隣や前に座っている人の食器に手を出すこと を﹁盗食﹂と表現するに至つては、まさにその行為を犯 罪視することである。園田苑でも他人の食器に手を出し 自分の口に入れる人は多い。それはなにも同じ入居者の ものとは限らず、横で職員が弁当を開けていても見られ る こ と で あ る 。 これとて、なんら異常な行為ではない。視野に入る食 器を全部自分のものと思っているだけだ。そもそも、老 人病院や福祉施設の食堂は、看護・介護側が一度に二人 以上の食事介助ができるよう、狭いスペースに利用者を 詰め込むから、ところ狭しと置かれた食器はそれだけで も自他の判別がつきにくい。さらに、みんな同じ食器と きているからなお難儀である。 年寄りは他人のものを﹁取る﹂ばかりではない。﹁若 い者はもっとお食べ﹂とか﹁これ手をつけていないか ら﹂と、自分のおかずを私たち職員に勧める方もいる。 こんなこと、一般社会でごく当たり前のことである。か の老人病院では職員が入院﹁患者﹂などと同席して食事 を摂ることなど許せないことなのだろう。一度職員も一 緒に食事をしてみたら、もっと豊かな発想ができるに違 しなし ﹁とりこみ﹂なることも、この界隈では﹁収集癖・盗 癖﹂と称されるものである。園田苑でもトイレットペー パーに始まりスプーン、箸、コップ、事務所の鉛筆、ハ サミなどが入居者の部屋に備蓄されていることがよくあ る 。 これを﹁収集﹂と称するならまだしも、﹁盗﹂と言う のはあまりにも失礼なことである。たしかにトイレット ペーパーなどの収集は、その道の研究者による蒐集とは 異なるとは言え、﹁癖﹂とまで決めつけることはないだ ろう。癖ならば若い頃からやってた筈である。﹁とりこ み・盗癖﹂とは看護・介護側の勝手な﹁はらだたしさ﹂ の結果、命名したに過ぎない。 K さんに﹁なぜ壁紙を剥ぐの﹂と聞けば、﹁私にもわ からん﹂と答えた。聞くこと自体が馬鹿だった。

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鴨水記 マ前号本欄の﹁物心崇拝﹂は﹁物神 崇拝﹂のまちがいです。﹁人聞がっ くりだしたものがかえって人聞を支 配し、人間がそれらを神のように崇 めること﹂と辞書にはあります。組 織や運動も人聞がつくったものなの に、いつしか﹁神聖にして犯すべか らざるもの﹂とみなしていないかど うかということを表現したかったの ですが、身につかない翻訳語を使う か ら 、 こ ん な ま ち が い を し て し ま 、 つ ん で す 。 お 恥 ず か し い か ぎ り 。 ところで先日、京都市立養正小学 校六年生のクラスで外来語、いわゆ るカタカナ語について、よく使われ る語の順位をあてたり、意味を考え たりする発表形式の授業を参観させ てもらいました。一位のストレスか ら八六位のアイデンティティーまで が列挙された資料も用意され、外来 語の言い替えをめぐっていろいろ議 論がある昨今、生徒たちの関心を引 いたのかもしれません。ただ、外来 語をカタカナ語にかぎる必要がある のかという疑問をもちました。たと えば、いまでは﹁自由﹂といえば、

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ユ 可 \ 昨 白 色 0 5﹂とすぐつながり ますが、﹁自由﹂は漢語に起源をも つことばで﹁好き勝手・思いどおり に・気まま﹂という意味。翻訳語と して漢語の熟語が使われた一例です。 と こ ろ が 、 ﹁ ﹃ 自 由 ﹄ と い う 一 言 葉 は 新 しい。明治のころ、新しくつくられ た言葉、つまり考え方だった。﹁人 権﹄という言葉もむかしはなかった。 言いかえればむかしは自由も人権も な か っ た と い う こ と だ 。 ﹂ ︵ 安 野 光 雅 ﹁天は人の上に人をつくらず﹄童話 屋 、 目 ・ 8 、日頁︶というのを読む と、﹁自由﹂がコ

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\昨巾丘 O B ﹂ と完全に一体化していることがわか ります。つまり﹁自由﹂は顔立ちは 漢語だけれども中身は西欧語という、 けったいな外来語といえなくはない ︵石塚正英ほか編﹁哲学思想翻訳語 事典﹄論創社、閃・ 1 、 参 照 ︶ 。 外 来 語 H カタカナ語と決めてしまって は関心の幅がせばめられないかなあ と ち ょ っ と 気 に な り ま し た 。 マ﹁論座﹄︵朝日新聞社︶例年 1 月 号に金時鐘さんとわたしの対談﹁人 間と差別を考える﹂が掲載されてい ます。金さんとは数年ぶりの再会で 話は尽きず。話題は帰属意識から ﹁ 人 と 人 と の 関 係 を ど う 変 え る か ﹂ まで率直に語り合うことができまし た 。 か金﹁藤田先生な、解放運動、人 権運動にかかわったおかげをこうむ ってますがな。﹂藤田﹁ほんまにそ うです o ﹂金﹁そうでなかったら、 ピッカピカのかっこいい大学教授で 終 わ っ た か も し れ ん な 。 ︵ 笑 い ︶ ﹂ W 金さんのおっしゃる意味をしっかり 受けとめて生きてゆくつもりです。 ︵ 藤 田 敬 一 ︶ 編集・発行者 こぺる刊行会(編集責任藤田敬一) 発行所 京都市上京区衣榔通上御霊前下ル上水/下町739阿件社 Tel. 075-414-8951 Fax. 075-414-8952 E mail: koperu@par.odn.ne.jp 定価300円(税込)・年間4000円郵便振替 01010-7-6141 第130号 2004年1月25日発行

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震がとめどなく出てくる。心が熱くなる。 ふっとふきだしてしまう。冷や汗が出る。 障害をもっ子ともたない子の育て方に遣いがあるのか? 親・保護者の愛情とまわりの理解さえあれば、子どもは育つ。人間だもの! お父さんたちのほろ酔いトーク{座絞会〉 クローパーの会の発足.入会のころの思い出/病院の対応/子どものIt学/ 子どもの将来

子ダ幸

とワせ

もンを

た壊見

……テサ

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ノザフ

子どもが生まれてきた

@四六判・謹製・ 19 2頁・定価(本俸18 0 0円+税) ISBN 4-900590-77-0 『クローパーの会j誕 生 の 秘 密 にんげんっていうものは一一規と子の記録 人気者の宗ちゃん/畏かったあの日/支えてくれた人身/心、臓の手術/保 育所で・学校で/イギ9スのスペシャルスタールで/将来への期待 一 三

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号 二 OO 四年 一 月 二 十 五 日 発 行 ︵ 毎月 一 回 二 十 五 日 発行 ︶ 働 く 暁 子 と 鍵 現在の状況/一般民労にどのように結びついたか/子育てのうえで気をつ けてきたこと/兄.弟姉妹との関係/父鎮の役割/健康管理について/民労 と自立のための制度とこれからの課題 ダ ウ ン 症 の 子 ど も と 共 に 歩 む

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手配 三書目の係・2車君大村録/策優ちゃんとともに小体健代干/長かった あの一年安田帽子/みんなちがって、みんないい糸賀みすづ/後の成 長を願って歩んだこの+余年’民子/千 ‘ の 足 跡 珊 千 草 鴎/『五体不 満足』を践んで谷弁玲名/ダウン症の弟をもって蕗原信佳/鎗と歩く 山々 阪 上 韮 方 一 九九 三 年五月二 十 七 日 第 三 種郵便 物 認可 ※こぺる会員の方は送料サービス 〒602・0017 京都市上京区衣観過上御霊前下ル上木ノ下町73-9 1R (075)414・8951 FAX (075)414・8952 E制aii: 剖nshafpar.odn.憎 .jp

阿昨社

参照

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