文室眞人智努の生涯 : 天平一知識人の憂愁
著者 廣岡 義隆
雑誌名 三重大学日本語学文学
巻 2
ページ 34‑58
発行年 1991‑06‑02
URL http://hdl.handle.net/10076/6443
文室眞人智努の生涯 ‑天・平一知識人の憂愁‑
奈良西ノ京の薬師寺に天平勝葉五年(七五三)に造立さ
れた俳足石が現存する。その沸足石の道立発願着である智
努王は、後に臣箱降下して文革県人智努となる。
本稿は併足石歌碑歌とも強い関連を有すると考へられる、この文室眞人智努(智努王)に視点を当て、誠実で信仰心
の篤いその人柄と皇親ゆゑの苦悩の生涯を、主に歴史文献
によりつつ見てゆかうとするものである。
誕生よnノー一十代半丁ぱまで
智努王は持統天皇七年〓ハ九三)に(『公卿補任』)、長皇
子(長親王)の子(『続日本紀』洋三亮侍及び『延暦僧銀』所
収「沙門糟浮lニ菩薩博」等による)として生まれた。天武天皇の孫に当る。生誕年について、加藤諸氏は、天平棄字八年の致
仕の年を七十歳と見、逆算して持統天皇八年〓ハ九四)の誕生
とするが(注1)、氏の計算に拠るなら翌年の持統天皇九年生
誕となる筈である。ここは『公卿補任』に拠るのがよいと思ほ
唐同 義隆
れる。『公卿補任』の天平十九年(七四七)条にほ、
従三位智努王丘十正月七日叙。元従四下。犬舎人頭。
二品長親王子。天武天皇御孫。
持続天皇七年費巳生。養老元年正月従四位下。二年九月丁
未為大舎人頚。
とあり、その一行目の「元従四下。犬舎人頚。」は追ひ書きの
養老元年、二年と対応することがわかる(後述)。神護景雲四
年(七七〇)の「従二位文室浮三」の亮伝条にほ、
七十八十月九日亮。有家侍(三位努十一年。三木四年。
中納l言二年。御史大夫三年。前官七年)。
とあつて、『家侍』の存したことが明記されてゐる。この天平
十九年条の「持統天皇七年黄巳生。……」の追ひ書きも、この『家侍』に依拠するものと推察される。一般に『公卿補任』の
古い時代の部分は信頼度が落ちるのであるが、文室武人智努の
場合はこの『(文室氏)家侍』といふ史料に依拠してゐると推
察出来るので信頼度ほ高いと私ほ見てゐる。
因みに『公卿補任』文室挿三亮伝の理解ほ以下の通りである。
*天平十九年(七四七)一月二十日役lニ位(続日本紀)*足掛け十一年後の天平勝賓九年(七五七)参議;一
木)。「参議」は『続日本紀』の翌年及び翌々年粂で
確認出来る。『公卿補任』天平勝襲九年条にほ、六月
八日任と出る。*足掛け四年後の天平棄字四年(七六〇〓月四日
中納
言(続日本紀)。*足掛け三年後の天平資字六年(七六二〓月四日
御史
大夫(続日本紀)。
*足掛け三年後の天平賓字八年(七六四)九月四日
敦仕
(続日本紀)。
*足掛け七年後の巽亀元年(七七〇)十月九日亮(続日
本紀)。 このやうに『続日本紀』の記事と対応すると共に、参議になった年が天平勝賓九年(七五七〓ハ月八日であることがわかり、『続日本紀』の記事の欠落を補ふことが出来るのである。
右によつて、その生誕年を持統天皇七年〓ハ左二)と確認し、
以下往時の例に倣つて数へ年で見てゆくこととする。
智努の各の初出は次に挙げる養老元年条であるが、それ迄の
エポックとして平城遷都(和銅三年人七一〇)三月)が挙げら
れよ、つ。遷都時に智努は十八歳で、多感な年齢と云へる。
智努(智努王)の名が初めて史に見そるのは、養老元年(七
一七)一月の叙位で、売位より従四位下となつてゐる(『続日
本紀』)。二十五歳である。これは慶雲元年(七〇四)以来の蔭位制によるものである(『続日本妃』大撃二年(七〇三)十
二月八日及び翌年の慶雲元年正月七日条参昭〇。蔭位制では、
親王の子は従四位下とされてゐる(『選叙令』35蔭皇親条「親
王子従四位下」‑注2)。天武天皇の孫の例に当つても、長屋
王(高市皇子の子)の元位より正四位上になつてゐる特別な例
(慶賀元年(七〇四)正月七日条)を除いて、確認出来る例は
女王を含め全て充位より従四位下への叙位となつてゐる。
白玉親官吏として
翌年の養老二年(七一八)九月士ハ日にほ「犬舎人頭」にな
つてゐる(『公卿補任』天平十九年余)。神亀三年(七二六)
九月には・「任左大舎人頚」(『公卿補任』天平勝賓九年条)と
あり、重複が気になるが、むしろこれは重複ではなく、この時
ほ「任封大舎人頚」なのであらう。官位相当制では左右大舎人袈の頭は従五位上相当であり(『官位令』11従五位条)、何ら
不審なところはない。大舎人寮は、頭の下に助・大允・少允・
大梶・少属の役職各一人、犬舎人八百人、使部二十人、直丁二
人からなる役所である(『職員令』5)。その大舎人には「蔭
子孫で内舎人の選に洩れた者および位子のうち、儀容端正書算
に工な者を充てた」(『日本古代史事典』‑注3)とされる。
養老四年(七二〇)八月三日に藤原不此等が亡くなつてゐる。
神亀元年(七二四)二月六日の『続日本紀』に智努王従三位
叙位記事が出るが、後出記事と合はない。朝日版『続日本紀』
(注4)は「海上王、智妖王、山形王は何れも女の字あるべき を脱せるか」とし、国史大系版『続日本紀』(注5)は「海上
国王、智奴国王、…山形国王」とする。直木孝次郎氏編『続日
本妃』(注6)は訳文であるが「智奴女王」とし、杯陸朗氏の『続日本紀』(注7)ほその訓読本文を「智奴女王」とする。
新日本古典文学大系本『続日本紀』(注8)は「智奴王」のま
まで脚注に「長屋王の妻妾か」とする。本条は、文室眞人智努
(智努王)とは無関係の女性とみるぺきものである。神亀冗年(七二四∵三月四日に聖武天皇が即位してゐる。こ
の時、智努は三十二歳である。聖武天皇とは以後、五十七歳ま
でその政治にかかはることになる。神亀1年(七二六)九月、二度目の大舎人頚となる。今度は
左犬舎人寮の頚で、時に三十四歳である(『公卿補任』天平勝
寮九年条「任左大舎人頚」)。
神亀五年(七二八)十一月三日、造山房司長官に任じられてゐる(三士ハ歳)。造山房司長官は臨時の官で、同年同月二十
八日条に「智行の僧九人を持びて山房に任せしむ」とあり、そ
の山房と理解出来る。新日本古典文学大系本『続日本紀』脚注
には「山房とは、東大寺の前身の金鍾寺のこと(福山敏男)。
下文庚申条にもみえる。平城京左京二坊の二条大路の清から、
天平七年間十一月廿一日付の「山房解」と記した木簡が出土し
ている(『木簡研究』〓‑一八貫)。」とある。直木孝次郎
氏編『続日本紀』(注9)ほ後の金鍾寺で、発展して大和固金
光明寺(東大寺の前身)となつたと注するが、太文中でほ「皇
太子のための仏堂」とあり、同年九月十三日に亮じた皇太子と
関係付けて説いてゐる。前年閏九月に誕生したばかりの天皇の
愛児を弔、女守がその端緒であると見るぺきであらっ。
天平元年(七二九)二月十日には長屋王変が起きてゐる。長
屋王ほ高市皇子の子息で長屋親王(長屋王邸出土木簡・、『日本
霊異記』中巻第一線)とも称された実力者であつた。その時、左大臣で四士ハ歳である。この著名な変は当時の皇親の人たち
を震撼させたに逮ひない。晩年皇嗣に推され強く辞退した智努
であるが、この事件が彼の一生の指針として大きく影を投げかけてゐると思はれる。智努は三十二歳であつた。「白蓮」≡
月十二日)「葬」(二月十三日)と事変は展開する。智努は固
唾を呑んで見守つてゐたであら、つ。何時捕縛の縄が智努に来て
もをかしくはなかつた。智努に謀反の計画があつたわけではな
い。当時の皇親を取り巻く政治情況がさうなのであつた。
同年三月三日、聖武天皇は松林苑で宴を持つてゐる。松林苑
は平城宮の北に作られた園で、節日によく宴などが持たれた所
として知られてゐる。本例が『続日本紀』で確認出来る松林苑
の初例である。変から約一ケ月後、この宴に無事参加出来た智
努はほつと胸を撫で下して、事変から無縁であつたことを喜んだことであら、つ。この翌日≡月四日)に智努は従四位上を授
けられてゐる。宴の時の場での昇叙に違ひなく、翌日大極殿で
正式な叙位となつたものと知れる。
この年八月十日の光明子立后、翌々年(天平三年)七月二十 五日の大伴探人亮去、その翌々年(天平五年)頃の山上憶良卒と歴史は巡り、万葉史は第三期から第四期へと展開してゆく。
天平九年(七三七〓附後には天然痘の大流行があり藤氏四兄弟はこの年に相次いで準してゆく。由月十七日房前、七月十三
日原呂、七片二十五日武智麻呂、八月五日宇合。これにより政
治地図は藤氏から皇親寄りに塗り換へられたと云つてよい。天平十一年(七三九〓月十三日に「元位茨田女王、従四位
下」の記事が見られ、蔭皇親位によるものと推察される。この「茨田女王」は併足石記裏面に「茨田郡主」として見える智努
の妻のことであら、つ。この時、智努は四十七歳。女性の蔭位が
何歳頃に実施されたのかわからず、茨田女王の年齢も不明である。男性の蔭位例≡十歳代)とは年齢上の差異があると考へ
るのが当時の一般かも知れないが、男性例と同様だとすると、
智努はその妻との間に年齢の開きがあつたことになる。
同年、三月二十一日に従四位上治部卿茅野王の記事が『続日
本紀』に出る。『日本古代人名辞典』
する。その方が後出の記事と合ひ、従ふべきであらう。
天平十二年(七四〇)九月三日、藤原庸嗣が九州で謀反挙兵
する。・庸嗣の敗死に終るが、この事件は政情の不安定なことを
智努に改めて見せつけたことであら、つ。この乱が契機となつて
聖武天皇は兼行する。その兼行途次、伊勢国鈴鹿郡赤坂頓宮で
の叙位記事中に智努の名が見え(正四位下に昇叙)、智努も聖
武天皇に陪従して不安な路を辿つたことが確認出来る。.
翌天平十三年ほ恭仁京時代の幕開けである。八月九日に木工
頭となり、九月八日にほ巨勢朝眉奈氏麻呂と共に恭仁遷都の造
宮卿に任命されてゐる。・四十九歳である。
天平十四年(七四二)八月十一日には紫香楽宮造営の造離宮
司四人の一人に任じられてゐる。聖武天皇の宮処彷径に智努も
付き合ほざるを得なかつたわけであるが、それほ単なる陪従で
ほなくて、聖武の苦悩は皇親官更としての智努の苦悩ともなつ
て、共に彷律してゐたと云ふのが実相に近いであら、つ。
天平十七年(七四五)五月十一日、事実上の平城復都となる。これ以前に、安穏皇子の亮去などがあつた。
天平十八年(七四六)正月、罪々として降つた雪は数寸(十センチ㍍程度)になつた。左大臣橘諸兄は大塾一一員下の諸臣を
率いて天皇の御在所(中宮西院)へ行き雪を掃った転業集、
巻十七・三九二二蓮)。もとより伺候に主意のある掃雪である。その後、天白看囲んで正月の宴となつた。『万葉集』に諸兄以.
下五名の歌が載る(諸兄・紀清人・紀男梶・葛井諸曾・大伴家持、三九二二⊥ニ九二六番歌)。この一群の末尾に、宴会の場
で一々メモしなかつた為に歌ほ忘れたとして、その件著名のみ
が十七名程記されてゐる(秦朝元は歌はず)。この中に「智奴
王」
(五十四歳)とその弟の邑知王の名が見える。この種の時
の宴ほ他にも持たれたと推測されるが、『万葉集』に智努が名を残すのは六年後の新嘗会辞宴のみである。平城復都後初めて
の正月辟宴であり、一同格別感慨深いものであつたと思ほれる。 この四月二十二日に昇叙して正四位上となり、翌天平十九年(七四七)正月二十日には従三位になつてゐる。智努としては当然の官位であるが、四位の翌年に三位への昇叙と云ふのは早い。正六位上と従五位下の間ほ一ランクでありながら昇叙の壁が厚いやうに、三位以上ほ公卿クラスとなりやほりその壁は厚い。皇親の彼であるから三位になつて何らをかしくないのであるが、その昇叙の早さに注目してよい。それだけ宮廷において重きをなしてゐたと見るぺきであら、つ。
智戟刀と埜訊
この年の九月に東大寺大彿の鋳造が開始されてゐる。この二
年後には聖武天皇自らが北面して大俳を拝むと云ふ画期的な事
件が起ってゐる。この聖武天皇の沸教傾倒には諸要素が考へら
れる。薄命の家系ゆゑの不安感は大きかつたであら、つ。宗教と
共に外来文化・制度を受け入れるといふ面もある。対外的な文
化レベルの誇示といふ側面もあら、つ。いくつかの要素ほ不可分に絡み合ってゐる。しかし、当時の貴族層の一部に併教色が知
的アクセサリーに陥りかけてゐた時代にあつて、聖武天皇は真
蟄な沸教信者であつた。さうして智努もまた聖武天皇同様に真
蟄な沸教信者であつたのである。
この天平十九年の十月九日に、他田水主は東大寺写硫所から
禅院本併跡図を借り受けてゐる(正倉院文書‑注11)。併跡図
は、奈良薬師寺現蔵の併足石記文に、唐の王玄弟が印度の原石(併足石)を転写し、その唐の普光寺本を日本の貴書本音が更
に転写し、その廣書本音の拓本が平城京の右京四条一坊の禅院
にあり、この禅院本俳跡図(第二本)を転写したもの(第三本)
を元にして奈良薬師寺現蔵の併足石は彫られたものだと俳足石記文には由来が一晋、れてゐる。この第二本のことが右の正倉院
文書にほ記されてゐるのである。他田水主は美退団山県郡御田
郷の戸主で経師、後に造東大寺司主典となつ美人物で、智努と
の関係は不明である。ただ、この正倉院文書に載る禅院本俳跡
図借受は智努や奈良薬師寺現蔵俳足石とは無関係であら、つ。と云ふのは、併足右左側面の由来文に、禅院蔵の轡砦二拓本)
を直接転写したとある。文飾ほ考慮しなければならないとしても、■束大寺歳禅院本俳跡図一巻に拠つたものでないやうである。
なほこの禅院本俳跡図一巻は、紅袋に包み、その上を錦の袋で
包み、なほその上を白袋で包んで、漆塗の管に入れられて保管
されてゐたことが、右の正倉院文書に記されてゐる。天平二十年(七四八)四月三日に元正太上天皇が崩御し、
翌日智努は葬儀の御装束司に任命されてゐる。
天平二十一年(七四九)正月に写経生・春日部虫麻呂は一ケ
月知奴富に詰めてゐる(大日本古文書・丁三三五⊥ニ六〓貝、
経師等上日帳)。智努が写経生一名を一ケ月借り出して写経させたと云ふことである。この頃、妻・茨田王が没したものであ
らうか。写経はその併事の為と見るのであるが如何(注12)。 この時、智努は五十七歳である。この四年後に、茨田王追悼供養として併足石が造られてゐる。天平勝葉四年(七五二)の智努王臣霜降下の一因もこの妻の死が響いてゐると考へてゐる。一方、同じ天平勝巽四年十一月に宮中で新嘗会虎宴がもたれてゐて、智努はそれに参列し応詔歌を奉つてゐる。この宴席への参加ほ即ち亡妻の喪明後であることを物語つてゐる。これも推定の一つの根拠である。
この年は四月一日に聖武天皇が東大寺大併の前で北面し、同
十四日には大併の前で年号を天平感棄と改元し、七月にほ孝謙
天皇に譲位して天平勝賓と改まり、同十月に東大寺大併は完成
してゐる(開眼供養は三年後)。
天平勝肇二年(七五一)十一月には『懐風藻』が成立してゐ
る(同書序文)。但し智努の作品は裁つてゐない。しかし『懐
風藻』に智努の作品が裁つてゐないといふことが、即ち智努が
漢詩作品を作らなかつたといふことにはならない。『懐風藻』
百二十首の作品は、一般に四つの時代に区分される。智努の括
躍期はその第四期の天平年代に属する。この『懐風藻』の第阻
期について、小島憲之氏は次のやうに指摘する(注13)。
長屋王の死後、第四期に入る。……中略……。武智麻呂の
弟の総前・宇合・万里の請合計十五首ばかりが懐風藻に残
ることほ、武智麻昌一派或は第四期の講の一端の傾向が察
知できるであろう。
即ち、智努の詩が載らないのは編集上の問題であつて、智努が
漢詩作品を件らなかつたとは云へないのである。
天平勝巽西年(七五二)四月九日には天皇行幸の下、東大寺
大彿開眼会が催されてゐる。この五月士ハ日に珍努嘗は東大寺より経巻を借り受けてゐる。如法経∠量拾式部武倍参拾巻(別注、略)/花厳経二部
〓鱒蝦廿断金/法華経八部六十四巷/最勝王経二部廿巻/荘厳物合十七種(嘘三具並・彩色/蓋三覆∵逢妻集裏誹別副=條/絶壁ハ條三儲操業真髄/敷布六傭並虹/経梶三合並塗黒淳/覆明梶三舎/小幡十硫並紅〉
/以前、以天平勝賓四年五月十五日、従弥努嘗亭請如前、
/天平勝贅四年五月十六日主典従七位上阿刀連(酒主)
(以下、宮人署名、略)(正倉院文書‑1注14)
三年前に死去したと隼疋される亡妻茨田王供養のためであら
うか。「荘厳物云々」は一見それらしく思はせる。しかし、そ
れにしては大部の経巻である。その♯壮厳物を一々検討すると、
これらは借り出した経巻の荘厳と考へられる。即ちこれは、亡
妻供養の事もあらうが、むしろ翌年七月に彫刻を開始する傭足
石の準備の為ではないのか。撰文その他の諸準備には年余を要
した筈であり、充分考へられることである。このことほ、併足
石が完成してすぐに、珍努宮より東大寺写経所へ大部の料紙が
恐らくこの謝礼として奉られてゐること(後述)も、この考への傍証とならっかと思ふのである。
臣笠相降下について
この天平勝賓四年(七五二)の九見頃に智努王は臣籍降下し
て文室眞人智努となつてゐる。この時、智努は六十歳である。
その月日に関する文献上の差異は次の如くである。
八月二十三日1‑『公卿補任』 「従三位文室眞人知考ハ十
八月廿三日改王姓為文室眞人」
九月
七日1‑「併足石記文」 「檀主従三位智努王以天
平勝葉四年歳次壬辰九月七日改王字成為文.
室眞入管努」(左側面11〜14行目)
九月二十二日‑
『続日本紀』「乙丑(=22日)従三位智
努王等賜文室眞人姓」『続日本紀』と他資料との数日の違ひは太安麻呂没年の例に
見られるやうによくある事例であるが、この場合は数日の遠ひ
ではなくてその開きほ大さい。しかし、石刻の「併足右記文」
の記事は当時の紛ふことなき記録物であり、しかも智努王側近の人物の手になる文章と考へられるので(注豊、この九月七日は信漁性のある記録と云へよ、つ。或いは九月七日は本人によ
る申請書頬の日付で、『続日本紀』の記事は公務レベルでの正
式裁下の日を示すものであらうか。『公卿補任』と『続日本紀』は妄月の開きがあるが、『公卿補任』の八は九の、二十三は
二十二の誤写の可能性がある。誤写を考へて『公卿補任』より
は『続日本紀』の方を重んじたい。七日か二十二日かの判断は
むつかしいが、臣籍降下がこⅥ年の九月であることは動かない。
さて、この臣籍降下を智努はなぜ断行したのであらうか。考へられる最大の理由は皇位の放棄である。天皇になる土倉
のないことを対外的に明らかにすることである。皇位に関する
大きな衝撃を智努は三十二歳時の長屋王の変で見てゐる。
臣籍降下の他の事例を見てみよ、つ。智努が町十四歳の時に葛
城王が臣箱降下して橘諸兄となつてゐる(天平八年、七三六)。
この時、橘諸兄は五十三歳である。この翌年に藤氏四兄弟が天
然痘で相次いで死亡してゆくことを予見してゐたなら、葛城王
は臣籍降下しなくてよかつたのではないか。橘諸兄の臣箱降下の理由はいくつか考へら丸ようが、その最大の理由ほやはり藤
氏の脅威からの保身にあつたと考へられる。また、後には阿保
親王(平城天皇の第一皇子、在原業平らの父)が臣箱降下して
ゐる。この場合は薬子の乱(八一〇年)に連座したためである。
連座とは云へやほり皇位の放棄のためと云へる。
智努の場合、皇位の放棄とは云へ、なぜこの六十歳の天平勝
巽四年(七五二)に臣藩降下となつたのであらうか。格別な歴
史社会的背景は見付からない。天平勝贅四年はその許可であつ
て、願ひ出はもう少し前から出されてゐたことであらうが、そ
れにしても時代的な背景が浮かばない(注16)。
その直接的な契機は妻の死去ではなからうか。第二の理由と
して妻の死去を考へる。この翌年には併足石せ道立してゐるが、
それは亡妻僕糞の為であることが併足右記文裏面の願文に明記 されてゐる川臣籍降下したこの頃はその併足石造立の準備の最中の筈である。平穏な臣下の身分で、亡妻供養に浸りたいと云ふのが智努の偽らぬ心境であつたら、つ。さういふ意味で、妻の死が彼の臣霜降下に影を落してゐることを疑へない。
この天平勝贅四年十一月二十五日、この日は丁卯日で下の卯
日である。この日、宮中で新嘗会拝塞が開かれ、智努は次の応
詔歌一首を奉つてゐる。
天地と久しきまでに万代につかへまつらむ黒酒白酒を
(『万葉集』巻19・四二七五)
この一首を含む一連六首については曽て詳しく見た(注17)。
併口化石の也迫立
併足石の道立は智努の生涯の中で特記してよい企画で、後世
に大きな遺産として残ることとなつた。この併足石は、天平膠
賓五年(七五三)七月十五日より彫刻にかかり、十三日間でそ
の作業を終了してゐる(同記文、左側面記事)。
併足石について一瞥すると次のやうになる。
上平面
本願の偶像としての左右併足及び各種荘厳。併足
‑
には、花文(足指)・金剛杵・双魚・華瓶・姦王・
千塙輪・梵王頂の各相が刻まれてゐる。
正
面・‑
『西域伝』『観併三味海経』等を引用しっつ探ら
れた全三八〇字(欠字分も数へた字数)からなる俳
足石の霊準備跡を拝する甥讃唱と祥旬。その周
囲には本文中の説話である阿波避羅竜帰順諾に対応
する釈尊・金剛神及び竜と山崖の図(注用)や瑞雲・法相華などの荘厳が施されてゐる。.
左側面
憐足石を彫るに至る由来。言はば縁起である。一
‑
六二辛から成つてゐる。王玄策が天竺(印度)より
第一本(拓本)を唐へ将来。貴書本書が唐の普光守
より日本へ第二本(右京禅院本)を将来。その第二
本を模写した第三本により十三ケ日間かかつて彫刻。
画師、越田安万。撰文者は神石手。その他、彫匠等を記してゐる。
裏
面‑‑願文。亡妻・茨田郡主(茨田女王)の追善供養の
為に連立といふ願文。約」ハエハ字(欠字部分に字数未確定箇所あnリ)。.右側面
三法印の偽(十二字)。周囲に菩薩像四体等が刻
‑
まれてゐる。
他に界外に二十四字刻まれてゐて総字数は約六四四字である。
これらの全てを硬質の岩石に彫刻したわけであるから、その
十三日間といふ彫刻日数は、準備万端の上で取り掛かり、その作業が極めて手際よく速やかに彫り上げられたものであること
を物語つてゐる。その為には一年或いはそれ以上前から、撰文
・意匠(デザイン)・材石探し等の準備にとりかかったものと
推定される。撰文者ほ東大寺音更の神石手であるが(注19)、 そこにほ願主智努の意思も大きく関与したに違ひない。
この併足石は裏面の願文より智努の亡妻・茨田王の追善供養
の為に連立したことが明らかであるが、『古京遺文』『続古京
遺文』中の墓誌銘類を見ても、亡妻の為の道立はない。亡母の
為のものとしてほ「山名村碑」「楊貴氏基志」「下道園勝囲依
母骨蔵器銘」が挙げられる。「紀吉継墓志」は親の広継が娘の為に作ったもの。「伊彗口部臣徳足比売墓誌」は郡領の兄弟が
作つたものか。金石文では目下のところこの併足石記文以外に
ほ見付からず、その意味で貴重な記録である。これが和歌文学
でほ、『万葉集』に「亡妻挽歌」と呼称するものが若干ある。
柿本人麻呂「泣血哀働歌」巻二、二〇七〜二〓ハ。など大伴旅人「亡妻挽歌」巻三、四三八〜四五三中の十一首。
大伴家持「亡妻悲傷歌」巻三、四六二〜四七四。山上憶長「日本挽歌」巻五、七九四†七九九。
丹比大夫「懐愴亡妻歌」巻十五、三六二五〜三六二六。
侯忘氏「悲傷死妻歌」巻十九、四二三六〜四三二七。
記録願文と抒情詠との差異と云へようか。現在、この併足石に附属するかのやっにして併足石歌碑が存してゐる。この併足石歌碑と俳足石とが当初よりの一対のもの
なのか、それとも無関係であるのかほ、結論を下し得ない。私
は用字用語字形その他から両者の関連を考察したが(注20)、
無関係と結論付けるものはないが、積極的に阻連を有すると結
論付けることも出来ないといふ結果になつてゐる。
この歌碑の歌は、歌体として特異で併足石歌体と名付けられてゐる(注巴。特異な歌体ながら、この二十一首(内、二首
ほ欠損により失はれて明らかでない)は、和歌文芸にほ遠ひな
い。しかしながらこの現存十九首中に、亡妻追慕追悼の歌は見られないのである。欠損二首においても、±番歌は「東天の
御足跡」の歌ひ出し句と「慕俳跡」の題及び他歌の詠ひぶりから亡妻追慕ほ詠まれてゐないと結論付けられようし、二±番
歌ほ「つ」といふ一文字の残存ながら、その題「呵噴生死(生
死にこだほる心を戒め解脱をすすめる)」から見てやはり亡妻
追慕は詠まれてゐないと結論付けられよ、つ。
私は、和歌文芸たる僕長石歌碑歌に亡妻追悼詠が見られない
から彿足石記文と無関係であると短絡的に結び付けるものではない。この併足石歌碑歌ほ、どこのどっいふ併足石に関するも
のであるかは不明ながら、その併足石落慶法要後の直会の宴席で歌はれた宴席歌であると見られるから(注望、それが寮長
西ノ京の薬師寺併足石に附属するものであつたとしても、直会
宴席においてほ願文同様の歌を詠ひあげなくてよい(歌ひ挙げ
ても差し支へはないが)。ただ、和歌文芸たる俳足石歌碑歌克亡妻追慕詠が見られないといふ一事に注日Cておきたいのである。関連して望‑Eよ、つ。併足石歌碑歌の一番歌には、「父母
が為に諸人の為に」この併足石を造る町だといふ意のことが詠
み挙げられてゐる。これは併足石造立の目的を記したものであ
り、しかも俳足石記文の願文と矛盾するものである。しかしな がら、この偽足石歌碑歌の一番歌及び二番歌の件者ほ智努ではなくて某人の序歌であるといふことを仮名用法・話嚢等から、私は結論付けてゐる(注空。即ち、三番歌〜十四番歌が傭足石発願者詠であり、十五番翠‑十七番歌は第三者某の歌ひ納め、十八番歌〜二十一番歌ほまた別人の詠と見てゐる。
この俳足石が完成してすぐ後(七月は小の月で、厳密には七
日後)の八月五日に、珍努宮より東大寺写経所へ穀紙を進上し
てゐる。それも二千三首張といふ大部のものである。これほ併足石落慶と無縁ではないであらう。俳足石造立前年の五月士ハ日に珍努宮ほ東大寺より大部の経巻を借り出してゐたが、恐らくこの二千三百枚の大量の料紙はその謝礼であらっ。智努ほ後
に東大寺大鏡となつた人物であるが(『延暦僧録』所収「沙門繹浮三菩薩侍」・注望、その東大寺との緑ほ天平二十年(七
四九)頃から始まり徐々に深まつて行つたものであら、つ。
沸教帰依心の寒い智努であるから、これら一連の事蹟は当然の帰結であつたと云へきっ。
ムロ閣に列して
天平勝葦ハ年(七五四〓月士ハ日に墓眞が来朝してゐる。
智努が豊眞といつ謁えたかは不明ながら、天平賓字四(七六〇)〜五年(七六こ頃に墓眞の下で得度し「菩薩戒弟子」となつ
てゐる(後出の本稿、天平贅字五年条、参照)。智努が唐招提
寺へ足繁く通つたことを息ふと、併足石が唐招提寺のすぐ隣り
の薬師寺に蔵されてゐるのは故無いことではないと云へよう。
この墓眞来朝時に智努ほ六十二歳であつた。
この四月五日に、智努は摂津大夫に任じられてゐる。
猶、この年の七月十九日に大豊大后(宮子)が、翌々年(七
五六)五月二日にほ聖武天皇が崩じ、共に智努は御装束司とな
つて葬事に仕へてゐる(智努ほ六十二歳及び六十四歳)。自身
の年波を考へ、世の無常が一段と身に染みたことであらう。
この天平勝賓八歳(七五六)十二月十六日付の「播津圃最上
郡水無瀬緒凰」が正倉院に残つてをり、その図面末尾に摂津大
夫であつた智努は役目柄確認の署名をしてゐる。ここに六十四
歳の智努の自署が珍しくも後世に残つたのである(『大日本古
文書』四の二〇八貢)。
.ゝ⊥・・‑ヽ、
針鼠す旦お
r…ピ
〓ト
天平勝雫九歳(七五七)一月六日には橘諸兄が亮じてゐる。
この年は長年慕つてきた橘諸兄が亡くなつただけではなく、
政事は多端であつた。孝謙天皇の次嗣を巡つての藤原仲麻呂の
画策があつた(『続日本紀』天平葉字元年四月四日条、及び淳
仁天皇即位前紀所載の天平勝賓九歳三月廿九日条)。仲麻呂は
あらかじめ亡息藤原真従の妻の栗田諸姉を大炊王に嫁がせて擬
制血縁を結んで大炊王を自邸に住まはせておき、この年の三月
二十九日に皇太子(道祖王)を非難排斥して廃したのであつた。 時の皇太子が廃されるや、四月四日には大炊王を皇太子に推すといふ芸当をやつてのけた。この四月四日の皇太子決定にほ三案が出たと『続日本紀』は伝へてゐる。道祖王の見である塩焼王を推す者(右大臣藤原豊成・中務卿藤原水手たち)、池田王を推す者(摂津大夫文屋智努・大伴古席呂たち)、さうして大炊王を推す仲麻呂一派であつた。ここに智努の名が出てきて注日きれる。時の権門側でほない批判努刀として大伴舌麻呂と共に智努の名が見られるのは注目される。真蟄な智努のことであるかち、仲麻呂の横暴は腹に据ゑかねたのであらっ。その横暴が通つて大炊王は皇太子となつてゐる。この政変ほ橘奈良麻呂の変を引き起こした。この年の七月に黄文王・安宿王・橘奈良麻呂・大伴舌麻呂たちほ藤原仲麻呂打倒の謀議に荷担したといふことで逮捕され、黄文王・道祖王・大伴古麻呂・多治比稽養▼小野東人・賀茂角足は杖下に死に、橘奈良麻呂ほ自ら首を括って死んでゐる(七月四日)。橘諸兄は既にこの世にゐなく、智努にとつて心細い六十五歳の政変であつた。ただ、英明なる智努ほ変に巻き込まれることがなかつた。泥臭い政事からは一歩控へた所に身を置くといふ常日頃の生き方が彼を救ったのであらう。この変の後八月十八日に、孝謙天皇は改元して天平棄字元年とし、翌年(七五八)八月一日に大炊王は即位して淳仁天皇となつた。
遡つて天平勝贅九歳(七五七)六月、廃太子騒動の後、寮長
麻呂の変の前に、智努は治部卿に任じられた。この任命の日付
に関して、『公卿補任』ほ六月八日とし、『続日本妃』は六月士ハ日としてゐる。『公卿補任』ほ文室氏『家伝』に拠つたも
のであらうから、文室氏『家伝』と『続日本紀』の違ひであら
ぅ。いづれが正しいかは智努の臣箱降下同様にむつかしい。
天平賓字二年(七五八〓ハ月士ハ日、智塁ハ士ハ歳の時に、出撃守になつてゐる。甲し時に大伴家持は因幡守となり赴任し
てゐる(この翌年の正月が家持の『万葉集』最終歌となる)。
智努は参議であり兼任であるので、出雲へ下ることなく都で政
治に参画してゐる。このニケ月後に淳仁天皇が即位してゐる。同年八月二十五日に、天皇は藤原仲麻呂の労豊泉賞し、特に
恵美押勝の名を賜り、恵美家の印の使用を許可してゐる。と共に、官号せ唐風名称に改称してゐる。例へば太敢大臣を大師、
左大臣を犬侍、右大臣を大保、大納言を御史大夫といつた類で
ある。参議であつた智努はこの決定に名を列ねてゐるが、全て
押勝の企図したものであつたぅっ。嘲勝機軸の血塑がここにあ
る。大伴家持が因幡にあつて「いや重け吉事」と寿ぎながら、口を喫まざ麦‑待なかつた強引な押勝の政治情況と云へよ、つ。
天平巽字三年(七五九〓ハ月二十二日、智努〓ハ十七歳)ほ
天下の僧尼の粛正を天皇に奏上してゐる。この奏上は智努と慈訓(興福寺の僧)との連名である。蕃訓の依頼により、併教に
理解があり政治の台閣に列してゐる参議智努が、その陳情に名
を連ねたといふ体のものである。しかし恐らく智努も日頃から
僧尼の怠惰腐敗ぶりに憤慨してゐて、この慈訓の申し出に喜ん で名を連ねたといふ実情であつたのであらう。天平賓字四年(七六〇‥二月四日、智努〓ハ十八歳)は中納
言になつた。この年の六月七日に光明皇后が崩じてゐる。
その出家
天平贅字五年(七六こ一月二日、智努〓ハ十九歳)ほ正三
位に昇つてゐる。この時の『続日本紀』の表記に「文室屋イ眞
人浮三」とある。法号「浮三」の初出である。前年の光明皇后
崩時に、その葬儀の為の山作司の一人になつてゐるが、その時
には智努の名で出てゐる。前年六月以降に出家したものであら
うか。『公卿補任』は正三位への昇叙も「浮三」の改名も、こ
の年の正月十四日であるとしてゐる。豊眞の下での得度である二沙門精薄三菩薩侍」による)。この日以後『続日本紀』に
はこの「浮三」の名で出て来る。智努の出家は、所謂併教カブ
レの一時的なものでも、また当時都人に一般的であつた知的ア
クセサリーとしての儒教でもなく、真筆な求道者であり偶数徒
であつた彼の当然の帰結であつた。ただ出家の嘩由が求道のみ
かと云ふと、強ちさうとも云へず、当時の政治情況から来る身
の危険に対する保身といふ側面があつたであらう(注25)。政
治上の野心がないと云ふ表明となる。彼にとつて出家は偽りで
なく心の真実であつたが、自己の保身にも役立てたといふのが
実情であらう(注26)。裏返せば、当時の政治社会情況は、身
を擦り減らす程、危険と隣り合ほせの毎日であつたのである。
天平官等工ハ年(七六二)一月四日、智努(七+歳)ほ御史大
夫になつてゐる。難を避けながら政治の台閣を徐々に昇つてゆ
く(昇つてゆかざるを得ない)姿がある。
この四月一日に、珍努宮は東大寺より弥勒菩薩像と観世音菩
薩像の二体を借り受けてゐる。弥勤信仰ほわが国に広く浸透したとみられるがい憫退城甥撒にもこの惑瀾〔後の併〕が蠍
はれてゐる(「釈迦の御足跡石に写し置き敬まひて後の備に譲
りまつらむ捧げまうさむ」九番芸)。釈迦在世時から数
へて人寿八万歳後にこの世に出現すると云ひ、また弥勤如来が兜率天の寿四千歳(=人芳の五士ハ億七千万歳に当る)を尽した後にこの世に到来するとも云ふ併である。一方、観世立星口薩
は慈悲救済の菩薩として広く親しまれた併である。この二備に
鎚りたい思ひの日々であつたと推測される。借り出したのほ、
これらの像を彫り写して持俳とする為であつたのであらうか。
齢も七十歳であつた。
押勝がバックアップする浮仁天皇と孝謙上皇との対立はこの
五月から表面化してゐたが、この六月に孝謙上皇は詔(第二十
七詔)によつてこのことを明らかにし自ら出家して併弟子とな
つてゐる。世は病んでゐたのである。
八月l一十日、浄三は老齢(七十歳)といふ理由により、宮中
での扇及び杖の使用を特別に許可されるといふ栄誉を受けてゐ
る(注28)。 十一月に伊勢神宮の奉幣使に、十二月に神祇伯兼任となる。「大神寺にて六門陀羅尼経を講ず」.(沙門梓洋三菩薩博)といふのほこの頃のことであると加藤詳氏は指摘する(注29)。
天平葉字七年(七六三)五月六日、墓眞大和上が物化(死去)
してゐる。浄三ほこの時七十一歳である。
天平棄字八年(七六四)一月七日、浄三は従二位に昇叙した。
この頃、紀寺妖婦の塵に関する訴への仲介と書風具申をし
てゐる。この中に「賞疑従量、刑疑従軽、典朋明文(賞むるに疑はしきほ重きに従ひ、刑するに疑ほしきは牽きに従ふ、こ
れ典別の明文にして、…)」といふ『書経』に依拠した文辞が豹ノ、注目出来る(「罪疑惟唯、功疑惟重〔刑疑附軽、賞疑
従重、忠厚之至〕」『古文尚書』大島讃第三、〔〕内は注
文)。現代風に云へば、「疑ほしきは罰せず」とならうか。こ
の文辞は「先聖の所伝」(続紀)ながら、古典を政治生描理念
として取り入れてゐることが評価出来る。(同年七月十二日条)
浄一二の敦仕
この年(七六四)の九月二日に浄三ほ致仕(退官)してゐる
(九月四日条)。時に七十二歳である。
一腰に中国でほ七十歳で退く事から、先に記したやうに加藤
諸氏はこの時を七十歳と認定し、逆算して浄三の生年を算定し
てをられる(注30)。この時の天皇の詔に「年満懸車、依礼致
仕」とある(『続紀』亮伝には「年老敦仕」とある)。「懸車」
とは漢の辞虜徳の故事に由来する語であり、仕官を辞すること
が本義である。中国の致仕は一般に七十歳であつたところから、「懸車之年」といふと七十歳の意味にもなつてゐる。
ではこの場合、そのどちらの憲昧で使用されてゐるのか、と
いふことを考へるのによい例がある。浄三の弟に大市王がゐる。
兄に償って臣清隆下してゐて、文重責人大市となつてゐる。彼の亮年は、賓亀±年(七八〇)十一月二十七日に七十七歳と『続日本紀』に出てゐて明らかである。その大市が辞任を由し
出てゐる。寮亀三年(七七二二三月二日のことで、時に数へ年
六十九歳であつた。この時は「上表、剖闇骨(上表して、骸骨を乞ふ)」の文辞となつてゐる(続日本紀)。許されず、その
二年後の賓亀五年(七七四)七月十一日に、二度目の申し出をしてゐる。『続日本紀』には、「重乞致仕。詔、卿年及‑捌葡、…壷ねて致仕を乞ふ。詔したまひて、「卿の年、懸車に及び、
…」)」と「懸車」の語が用ゐられてゐるが、この時の年齢は七±歳である。「懸車」の七十歳に限らない例がここにある。
宮『令』に「凡そ官人は、年七十以上にして、致任することを聴せ。五位以上は上表芙し。…」〈『選叙令』.ごとあり、日本思想大系本は「聴」の実際は任意であつたとする(頭注)。
これらから見て、時の浄三の年齢ほ、七十歳に拘るぺきでは
ないと見るぺきであり、私案の七十二歳が頓に適つてゐよ、つ。
浄三の致仕は、彼が七十歳になつたからではなくて、当時の 政治情況から判断して致任といふ手段を取つたものと推定される。当時の政治情況とほ何か。この九月後に恵美押勝の乱が起きてゐる。これと無縁でほないであらっ。政治の台閣に列して
ゐた浄三であるから、押勝側の動き姦知してゐたに逮ひない。
身の危険を悟つて素早く致仕に空つたのである。君子危ふきに近寄らずと云つたところである。二日後に浄三致任の報に轡レて琶天皇が警詞に、「東云いや篭不殆、知足不辱、は攣
謂也∴古人云ふ、止まるを知れば殆からず、足るを知れば辱められず、これ卿の謂也)」(続日本紀)とある。これもその辺の機微を話つた言辞と考へられよう(注聖。天皇はやむなく許可し几杖及び新銭十万文を腸つてゐるヶ九日後(九月十一日)に恵美押勝の乱が起き、その七日後の
十八日に押勝は敗走先の近江で斬殺されてゐる。
押勝逆謀の翌日(九月十二日)の『続日本紀』記事に、浄三
は致仕によつて給付を半減にしたが全給に改めるといふ勅が下
ってゐる。逆謀発覚の十一日に押勝ほ既に遁走してゐるのであ
るから、これほ押勝失脚後の措置と云へよう。或いは十二日ほ
文飾で、押勝敗死後の遡及措置といふ可能性もあり待よう。
十月九日には、浮仁天皇の淡路幽閉となり、孝謙が重押して
称徳天皇となつてゐる。翌天平神護元年(七六五)八月一日に
は和気王が押勝乱連座で誅死となり、同年間十月二日には道鏡
が太政大臣禅師になる、と歴史の歯車が急がしく回つてゐる。
この間を、浄三ほ如何なる思ひで眺めてゐたことであらうか。
晩年の電事
称徳天皇代といふ以外に何年のことか不明であるが、老年の
浄三に晴天の霹層と云ってよい騒動があつた。称徳天皇は天平賓字八年(主ハ四)年十月九日に重詐してゐるのであるから、
これは翌天平神議元年(七六五‑浄三は七十三歳)以降のことと考へてよから、つ。『日本紀略』によると以下のやうに記され
てゐる(光仁天皇即位前紀)。■天皇(称徳)。平生、皇太子を立てず。此に至りて、右
大臣眞備等、論らひて日ふに「御史大夫従二位文室浮三眞人は是れ長親王の子也。立てゝ皇太子と為ぺし。」といふ。
百川と左大臣(永手)・内大臣(良継汁陀、論ひて云ふに「浮lニ眞人に子十三人有り。後の世を如何せむや。」とい
ふ。眞備等都て聴かず、浮三眞人を射して皇太子に為さむとしたり。こゝに淫ニ、確射しにけり。仇ち更に其の弟参
議従三位文重大市眞人を耕して皇太子に為さむとす。亦節
する所なり。百川と水手・良能と、策を定め偽りて宣命の
語を作れり。宣命便の庭に立つに、宣制せしめたり。右大
臣眞備、舌を巻きて如何ともする無し。百川即ち諸伎を命
じて、白壁王を射して皇太子に為したり。十1月一日王子
に、大極殿にて即位したまへり。……下略。
志嘉王の子の白壁王はこの七六五年に五十七歳といふやは
り若くはない年であつた。『続日本紀』によれば、称徳天皇朋御の贅亀元年(七七〇)八月四日のその日に「導旦を受け」た
形で白壁王を皇太子に決め美とある(時に白壁王は六十二歳)。これに拠れば天鼻朋御暗まで皇太子は未定であつたことになる。賓亀元年(七七〇)めこととすると、浄三は七十八歳で灸り、
この年に浄三は亮じてゐる。『続日本紀』のこの箇所ほ繕った
記事と思はれ、エビーソードとしてリアルに描く『日本紀時』
の方が真実を伝へるものであら、つ。皇位・王位を避け臣霜降下し出家し更に致任して、平安に生きることを願つた老年の達二
(七十三歳以後)になほ皇位の声がかかつたのである。『日本
紀略』には「確前」の表現が使はれてゐる。「確」は本来「鞭」とか「確」の義であるが、ここでは「電」の異体字として使は
れてゐる。「鬼の電乱」の「電」で「にはか」の意である。藤
氏一派の策略により浄三(や大市)は皮肉にも皇位から逃れる
ことが出来たといふ有様である。晩年の浄三にしてなほ息を抜
くことが出来ない緊迫した当時の政治情況であつた。
白壁王の即位は同年+月一日であるが、その即位前条には、
(白壁王は)深く横禰の時を顧みて、或は酒を縦きま、に
して那を那ませり。……下略。(『続日本紀』)
といふエピソードを伝へてゐて、当時の知識人の苦悩を浮き彫
りにしてゐる。
この間、称徳天皇と道鏡とのスキャンダルや和気清麻呂によ
る宇佐八幡宮の神託事件等が起つてゐる。
贅亀元年(七七〇)十月一日に光仁天皇が即位し、その八日
後の十月九日に浄三ほ昔雫レてゐる。享年七十八歳であつた。
洋一二豊且隠語博から
『日杢0同僧博要文抄』第三に収められてゐる『延層僧銀』の
中に「沙門搾洋三菩薩侍」かある。ここには右に見られなかつ
た浄三の沸教的側面が描かれてゐるので、それらの事跡を取り
上げ、見ておきたい。
まづ「浮三原天皇の後也」とある。天武(=浮御原)天皇の
孫であるが、「矧ヨ原天皇」め用字を用ゐてゐるのは法号「浮三」が祖父天皇に由来するといふことを暗に示してゐるのであ
らうか(注32)。
っいで、東大寺大鏡、法華寺大鏡、浮土院別嘗になつたこと
を明らかにしてゐる。大鏡とほ別当に類するもので、その名誉
職的な存在ではなからうか。和田英松氏ほ「別当と三綱の下」
(『官職要解』注33)とするが、『望月沸教大辞典』は「銭は
三綱の上に位したるもの」(「銭」の項)とする。また同書ほ、
銭は別嘗等と同一職務を司るものにして、法華、東大、新
薬師等に置かれ、之に大中少の別あり。
(『望月俳教大尉典』「僧職」の項)
とする。この方が実際に合つてゐる。和田氏はどっも平安朝の『延書式』例を中心に帰納してをられるやうであるが、平安初 期の頃と奈良朝とは異なると見るぺきであら、つ。『日本国誇大辞典』によれば、件名かゐる別当中、本官が大臣である者の職名をさす(「大鏡」・「大別当」の項参照)といふことになるやうであるが、この解にも確信が持てない。
墓眞の下で得度出家したことは前に書いた。大神寺で」△門陀羅尼経を講じ、東大寺で十二分教義を立てて
ゐる。これちほ明快な論理で講説され、春の日に氷が融けて消
え行くやうに、秋風に落ち葉が拭はれるやうに、聴衆の疑問は消え去つたと云ふ。よつて天皇は償橙大法師位を授けてゐる。
その著書に『三界章』一巻、『併法博通日本記』一巻がある
とする(共に現在、逸書)。
をはh〓ノに
智努王ほ天武天皇の孫、長皇子の子としてこの世に生を享け、
臣箱降下して文室真人智努となり、出家して浄三となり、七十
八歳でこの世を終へた。この間、世の政治は苦悩に満ち溢れて
ゐた。権力争闘の激しい政治の台閣に止むを得ず列しなければ
ならなかつた智努の一生も亦苦悩に充ちたものになつた。しか
し生来賢明な君子であり、また自づと培はれた沸教への傾倒か
ら、その一生は幸ひにも波乱万丈といつたことはなく、天寿を
を全うした一生であつたと云つてよい一。
その間に、愛妻を追悼する心から併足石を造立した。この俳
足石ほ、信仰と文筆と絵画彫刻芸術とが沖然一体化したものであり、・智努が意図した以上の成果をこの世に残すこととなつた。
文化史上の輝かしい遺産と云つてよい。俳足石警恐らく故
に由来するものであらう。併足石歌碑が薬師寺僅足石と当初か
ら対をなすものかどうかの決め手を欠いてをり、断定が出来ず、
この点に憾みが残る。『万葉集』に和歌一首が載り、その歌ひぶりほ無難でそつが
ないと云ふだけでほなく、宴席の場としての詠法を考へると誠
に巧みと評してよい一首を残したのであつた(注34)。
この他に償書『三界章』
『腰博通日本記』各一巻も著ほし
てゐた。彼が生活の指針としたと思はれる先聖所伝と云ふ『書経』の
言葉と、不確かながらも恐らく彼の作と考へられる俳足石歌碑
歌中の一首をここに再鐘して、この稿の結びとしたい。
*寛むるに疑はしきは重きに従ひ、刑するに疑はしきは軽
きに従ふ。(書経)
これ
よ
うつ
さ
とことば
のこ
い‡
のち
よ
また
*此の世は移り去るとも恒にさ残り坐せ後の世のため又の
世のため(併足石歌碑歌・10番歌)
(注)
(1)加藤詳氏「仏足石の人々〓)」(『双魚』創刊号、
一九七五年五月、双魚洞)。この中の「智努略年譜」中の 持続八年条で言及。本稿「出家と致仕」条参照。
(2)日本恩恵天系本3『律令』〓九七六年一二月、岩波
書店)による。以下、律令条文の引用ほこれによる。
(3)『日本古代史事典』〓九七四年一一月、朝倉書店)
項目担当、平野博之氏による。
(4)朝日新聞社版『六国史』中の.一冊。『続日本紀』上巻■〓九四〇年一〇月)。引用は頭注。
(5)新訂増補圏史大系本『続日太紀』前篇l。(使用版は一
九八三年五月発行のもの)。
(6)直木孝次郎氏他訳注『続日本紀』1〓九八六年六月、
平凡社・東洋文津)。該当の巻九は山本幸男氏担当、直木
幸次郎氏・東野治之氏補訂。
(7)林陸朗氏校注訓訳『完訳注釈続日本紀』第二分冊
(一九八六年七月、現代思潮社・古典文庫)。
(8)新R春吉典文蛍丁大系本『続日本紀』二〓九九〇年九
月、岩波書店)。
(9)直水草次郎氏他訳注『続日本紀』東洋文津〓九八六年六月、平凡社)。該当の巻十は苫田靖雄氏視当、直木孝
次郎氏・東野治之氏補訂。
(10)
竹内理三氏・山田英雄氏・平野邦雄氏掃『日本古代人名酎典』第四巻〓九六三年七月、土日川弘文館)。項目妄
別に立てて区別してゐる。
(11)
『大日本古文書』二1七一〇貫。ここは、訂正再収の
二十四‑四四七貫による。
(叩こ
加藤詳氏は注(1)の「仏足石の人々〓)」中で、
天平勝宝四年(七五二)九月を夫人の卒去と推定してゐる。しかし、智努はこの年十l月の宮中新嘗会捷其の席に列し、
応詔歌を奉つてゐる。加藤氏説では喪が明けてゐなくて、
をかしいことになる。
(曇
小島等之氏『懐風藻』日本古典文学大系69中〓塾ハ四至ハ月、岩波書店)。引用ほ「解説」より。
(14)
『大日本古文書』三‑五七四〜五七六貫。ここは、訂
正再収の十二‑二八六〜一穴八貫による。
(豊
併足右記文の撰文者ほ胡石手である。拙稿「仏足右記」(上代文献を読むA轟『舌京遺文注釈』一九八九年二月、桜楓社、一九六〜一九七貢)。なほ、注(空の士蔚俺氏
論考、参照。
なほ、併足石記文中の本文「九月七日」の本文確定につ
いても『古京遺文注釈』に記しておいた〓七〇貢の「校
異・字体」13及び一九四〜一九五貫)。参昭嘗れたい。
(空
高島正人氏は同氏著『奈良時代諸氏族の研究』
〓九
八三年二月、吉川弘文館)中で、智努の臣霜降下に開はみ
当時の政治情況について考究してゐる(第二章「奈良時代
の文重責人氏」)。
(17)
拙稿「万葉・新嘗会歌群考」(『松田好天先生追悼論
文集
万葉学論致』〓九九〇年四月、続群書類従完成 会)。
(18)
この図ほ私の手になるトレースを注(豊の『古京遺
文注釈』一八三貫に入れておいた。参照されたい。阿波選
羅竜帰順諸についてほ亀田孜氏「薬師寺仏鬼石と仏跡図本
の論考」(『仏教芸術』第五〇号、一九六二年一二月、同
氏『日本仏教美術史叙説』所収)に詳しい。
(19)
拙稿、注(15)参照。
(20)
拙稿「併足石記及び併足石歌碑の用字」『論集日本語研究(二)歴史編』
明治書院)四三八〜四三九貫「両碍の用字字形について」
及び注(15)の『古貫通文注釈』中の「仏足石歌碑」二四
九貫〜「Ⅲ〔仏足石記との関係〕」。
(21)
拙稿「併足石歌体について」
集、一九八九年一一月、塙書房)。
(22)
注(15)『舌京遺文注釈』の拙稿「仏足石歌碑」中の
二三一貫、及び注(21)の拙稿一八一貫〜。
従来、併足石開眼の行道詠と見られてゐたが、さういふ
ことはあり得ず、これは直会宴の歌であるとしてゐる。
(23)
注(20)の拙稿「併足石記及び併足石歌碑の用字」。
(24)
大鏡についてほ、本稿の「壁二菩薩博から」を参照の
こと。
(25)
吉村怜氏も、「名門の王族の保身の縮」とする。同氏「薬師寺仏足石記と書者「神直右手」について」