近世隠岐水産業に関する覚書
その他のタイトル Fishing Industry of Oki Island in Tokugawa Period
著者 津川 正幸
雑誌名 關西大學經済論集
巻 8
号 1
ページ 85‑112
発行年 1958‑09‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/15632
85
る ︒
近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶
( 1 )
わが国の近世における漁業生産の伸展については︑諸先学の幾多の研究によって明らかにされているところであ
( 2 )
江戸時代全期を通じての斯業の発展過程を一応段階的に区分し︑三期に弁別して把握されている︒即ち第一期は
慶長元和の頃より元禄に至る期間で︑戦乱の終息︑海内統一後の海上不安の消滅︑戦功の恩貨として加子役負担者
への漁業権の賦与なる形でおこなわれた領主保護︑あるいは初期の領主の藩政確立政策の一環としてなされた漁民
( 3 )
の移植と彼等による沿海漁場の開発︑加うるに城下町の成立による消費経済の発展による刺戟等により︑漁業が中
央集権的治政下に位置づけられた時期であり︑第二期は︑元禄以降寛政期頃までの時期で商品作物栽培の発展によ
り︑農業生産力増大のための魚肥利用の必要も加わり︑漁業生産形態上では樵政にしろ漁法にしろ︑
出揃った段階である︒第三期は文化文政期を中心とする時期で︑前期にひきつづいての海運業の一層の伸長︑丘企府
( 4 )
財政窮乏緩和策のための対支貿易決済方法の変更による俵物増産策の実施︑それの影響による水産物の涸品化の増
帷
近 枇 隠 岐 水 産 業 に 関 す る 覚 書
JII
八五 一応のものが
正
幸
86
さて右のような近世漁業生産の一般的発展過程に対応して︑隠岐島の漁業生産はどのような発展過程をたどった
か︑これについての史料を提示することが本稿においてなさんとするところである︒
︵昭和二十一年以降︶
註
(1
) 日 本 漁 業 経 済 史 上 中 下 羽 原 又 吉 氏 著 日 本 漁 業 史 山 口 和 雄 氏 著 生 活 社 日 本 漁 業 経 済 史 研 究 山 口 和 雄 氏 著 北 隆 館 日 本 漁 業 経 済 発 達 史 序 説 清 水
︑ 小 沼 氏 著 瀬 流 社 日 本 漁 業 権 制 度 史 論 原 暉 三 氏 著 北 隆 館 日 本 水 産 史 日 本 常 民 文 化 研 究 所 編 角 川 書 店 江戸時代漁榜の隆盛伊藤勘作氏水産四の一︱‑
本 邦 の 飼 漁 業 の 史 的 考 察 山 口 和 雄 氏 文 化 史 研 究 一 近 世 に お け る 沿 岸 漁 業 の 一 形 態 坂 井 誠 一 氏 地 方 史 研 究
︱ 二 南 薩 鰹 漁 業 の 労 佑 関 係 秀 村 選 三 氏 日 本 史 研 究
︱ 二 徳 川 期 九 州 に お け る 捕 鯨 業 の 労 佑 関 係 秀 村 選 三 氏 経 済 学 研 究 一 八 の 一
︑ ニ 西 海 捕 鯨 業 に つ い て 小 葉 田 淳 氏 平 戸 学 術 調 査 報 告 江 戸 時 代 に お け る 南 勢 地 方 の 漁 業 事 情 清 水 三 郎 氏 漁 業 経 済 研 究 四 の 二 松 前 蝦 夷 地 場 所 請 負 制 度 の 研 究 白 山 友 正 氏 人 文 論 究 七 幕 末 期 蝦 夷 地 に お け る 捕 鯨 業 の 企 図 に つ い て 服 部 一 馬 氏 横 浜 大 学 論 双 五 の 二
(2
) 日本漁業経済史︵上巻︶羽原又吉氏著
(3
) 近 世 に お け る 漁 村 の 移 住 と 漁 場 の 利 用 支 配 の 関 係 に つ い て 速 水 融 氏 三 田 学 舎 雑 誌 四 六 の 七
(4
) 俵 物 役 所 の 荷 受 及 び 売 渡 し 仕 法 と そ の 解 体 過 程 宮 本 又 次 氏 松 山 商 大 論 集 二 の 二
近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶
岩波書店
大等︑漁業生産上めざましい盛況を呈した時期に区別される︒ 八六
87
近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶ るものにくらべて︑
その
種類
︑
ていたことが察知できる︒
あるいは皮革関係︑ 隠岐の水産物は古来より著名であり︑廷喜式︑巻二十四︑主計上にのせる調︑中男作物の品目はすでに周知のところではあるが︑御取ノ腹︑短鍛︑烏賊︑熱海猟︑鯖ノ脂︑雑ノ膳︑紫菜︑海菜︑嶋蒜︑はそれぞれ一丁につき︑四斤︑六斤︑十斤︑八斤十両︑四斤︑二十六斤︑十六斤︑三十三斤五両︑七十二斤︵いづれも調︶
( 1 )
なつており︑相当量の産出がなされたことがうかゞいしれる︒
近世においては︑正徳三年︵一七一三年︶︑寺島良安編にかAる﹁和漢三才図会﹂にのする隠岐国上産には︑和布︑
スルメ(2)飽︑然がみられ︑これよりさき貞享から元禄頃︵一六八0年代︶にかAれた隠州視聴記なる地誌には︑海辺村落の漁
一漁事鯛鰤烏賊飽鯖海鼠飛魚和布海苔雑魚等を取ル鯖網有としるされ︑矢尾村
一漁鯛鰤烏賊飽生海鼠飛魚和布荒和布海苔鯖此外雑魚等穏地郡北方村については︑
八七
一漁事諸品共二有︑宇屋村︑一漁事鯖烏賊飽生海鼠和布荒和布揺鯛其外雑魚を漁ル︑また海士郡海士村では︑
一長尾田福浦並代村境迄の海辺
ニ而和布飽栄螺鰻等を漁ル重柄川尻二而口蛤蜆を取ル︑等の記事が見られ︑当時相当に富豊な種類の漁獲がなされ
このことは︑同視聴記にのせるところの小物成の品目を見るに︑漁請銀の外に︑鯖三十八剌役︑大鯛十三枚役︑
鱚十三連役︑鰤十一本役︑和布二束役︑ で
は︑
事として︑周吉郡蛸木村の項には︑
海苔一斗二升役︑串飽一連八串役︑串海猟二連二串役等の漁業関係項目 が
︑ 他 の 農 業 関 係
︵ 例 え ば 柄 油 一 斗 二 升 役 と か 核 苧 一 貫 三 百 二 十 匁 役 の よ う な
︶ 酒 造 関 係 項 目 に 属 す 数量において上位の役米銀が賦課されている点よりして半農半漁的な村落ではな
を輸する定めに
いたことを見のがしてはならない︒ く︑主漁従農的村落が多く存在していたことと︑したがつてかなりに漁業生産が重要な位置を占めていたことを示
さらにかAる漁業生産事情は︑周吉郡釜村の場合についてみられるように︑
﹁年中農業之透間御座候節︑山林株場一向無御座候間︑早春は和布︑荒和布共取揚候而交易仕︑且御用串飽御用
( 3 )
俵物共仕出し︑其稼ニハ烏賊漁共仕彼是以御上納銀償ひ候﹂というような状態の村落が海辺の村々にみられ︑根本
的には農業立地条件が﹁当国の義五十三ケ年以前松平出羽守様御預り仰付けられ御代官所の節︑御検見取田畑の作
定請免年季を以て仰付けられ︑孤島の民家相続仕来り候︒其故は石州︑
州︑伯州より数里相隔り︑三方は無辺の海上遥か沖中の離島にて︑何方より吹来り候風も遁れなく︑全体巌壁の土
地峯尾谷肩︑又は出水懸りの棚田故用水乏敷︑天水の養にて生立候に付︑旱損か或は虫付莱腐︑山陰は青立露凋等
に相成︑就中海辺附の村方は︑潮を吹上げ風当り︑不時の損毛出来仕り候︒検見取に相成候ては立毛御見分相済申
さざる内に刈取相成難く︑両嶋の村々数日御廻村の間時日相定め︑折角実生し少々つつ有立所も︑又二三日の遅速
(4 )
にて風当り損毛仕り︑種藁迄も失い候程の儀︑人力を費え一カ年の作業を廃し︑根食を失い候村方﹂というような
状態で︑海辺附きの村落は往々にして農業的にはめぐまれない悪条件下におかれていたという障害がよこたわって
以上のように︑封建領主が十余項目にあまる名目のもとに︑小物成として役米銀を課し︑しかもその負担をにな
つてきたことは︑隠岐島における漁業生産が重要産業として認識され︑それだけに海辺村落における生産活動が海
洋にむけられ︑劣悪な条件下の農業生産の︑はたまた絶域における自給自足的な経済生活が︑ぎりぎりの線で︑漁 方︑公私の御損益を御勘弁願い奉り︑
雲
めすものではなかろうか︑ 近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶八八
89
近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶ 業生産によって補充されていたと考えうるのではなかろうか︒
とはいえかAる漁業生産が︑どの程度の規模でもつてなされたいたか︑
る︒後述するところの漁法の項で︑多少は人的規模が判明するが︑一応その概略を推察する資料として︑さきに利
用した視聴記により︑漁業関係の小物成負担額︑舟数︑網および網敷場の有無等につき︑悔辺諸村落の村別に一覧
﹁納税ハ宝暦年間ノ記録ニョルニ雲藩ハ︑定納猟請役トシテ各町村浦ヘ一切ノ漁業採
藻税ヲ負担セシメタル事蹟アリ︑而シテ負担町村浦二於テハ他ノ鼈役ナト称スルモノト共二︑
テ当営業者ノミニ負担セシメサリシト云フ︑然レトモ其賦課額不詳﹂というような記事が見られるけれども︑
﹁家居二相懸り屋敷地面ニハ相懸リ間敷事二候︒前書相増候家数二
ハ不相懸候哉︑御尋二御座候︒此段役目屋敷二割込住居仕候分ハ︑壱屋敷限一匁九厘を内割仕候而相納来リ申候︒
( 9 )
何も名子水呑等二而至而賤きもの之儀︑本屋敷ふ納償候も御座候︒﹂ような性質のものであり︑したがつて役百姓
の多少によって賦課額も差異を生じたものであって︑
減し︑かAるが故に諸村落間の差異がみられるものであると考えうるであろう︒
ちなみに︑同一覧表の宇屋村︑矢尾村︑目貫村︑津井村における鼈役銀と漁請役銀をそれぞれ対比するに︑この
差異の生じたのには次のような事情によるためである︒
( 7 )
すなわち︑宇屋村は﹁当所ハ田畑無之漁猟を専二f﹂︑しかも津井村と関係するが毎年代米を支払つて津井村所
有の網敷漁場を借入れ︑漁業生産をおこなっている村柄であり︑相対的に︑津井村は自村に鯖︑鑓網敷場を所有し にいう鼈役なるものの賦課および負担状態は︑ 漁業者の負担に関しては︑ 表︵第一表︶にした︒
八九 についてはこれを把握する事は困難であ
一般二賦課徴収シ敢
こA
これに準ずる旅請役も︑旅業者の多寡によって役銀賦課も増
(隠州視聴記より作成)
I 串海 舟 数
鼠役 渡 海
i
手安l
腿戸 1 計 漁 事米 斗
1. 47 引網有
2 8 10 0.67 14 17 31鯖網有 0.67 6 6 12 0.2 1 3 2 6鯖網有 0.33 4 2 6
28 0.47 1 3 35 39 12 12 33 33 15 15
15 15鯖網敷場有
2 31 8 41 8 21 1 30
1 39 1 41 鮒飛魚ヲ取)レ網有節網敷場有
5 5鳥賊鯖
1 11 1 13鯖網を敷く
3 3 鮒、鰯網敷場、鰯網飛魚掛網
3 3 6鰯網網 を敷く
7 11 6 24鰯 3 秋冬春曳網
3 21 24 津払井う村分漁場借入 代米を支
1 19 1 21鯖網有 2 13 15 3 11 16
1 3 5
6 34 52
6 6
25 52 77 飼網敷場、鯖網敷場 3ケ所 12 35 47鯉網敷場 鯖網敷場 3ケ所
5 10 15 6 8 14
: 4
42 』
8
0.67
4 41 47 6 22 3 18 63
なが
ら︑
矢尾村については︑それぞれ︑
( 9 )
業とする﹂ことによってである︒ それを他村に貸しているために︑他村に比して漁請役銀が少額である理由がこAに存する︒また目貫村︑
( 8 )
﹁耕作を勤め漁猟を専にf廻船商売を業と﹂し後者は︑
いづれにせよ︑隠岐島においては︑飯田村の項に︑視聴記がのせるように︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑古来か毎年怠ル事なし﹂とあることが︑漁業生産の一般的発展段階の第一期に対応する︑元禄期当時までの漁業の 近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶
︑︑︑︑︑︑︑︑︑﹁久留志派の出崎の沖二鰯網を敷︑ ﹁田畑を耕し漁猟海商を家 九〇
91
第 一 表 小 物 成 ( 漁 業 関 係 項 目 ) 村 別 賦 課 一 覧 表
近世隠岐水産業に関する伐書︵津川︶
九
郡名 村 名 鼈 役 漁請役 鮨 役 鯛 役 鮒 役 海 苔 役 和布役 鱚 役 切 飽 役 串 飽 役
銀 匁 銀匁'銀匁 銀 匁 銀 匁 銀 匁 銀 匁 銀 匁 米 斗 米 斗
海 士 海 士 73.3 42.51 18.31 3.05 1. 2 4.00
宇 律 賀 9.81 1. 31 0.44
豊 田 28.34 79.57 13.03 2.18 1. 09 3.27 2.22
知 々 井 28.34 101. 37 6.54 2.18 0.48 2.22
太 井 3.08 26.16 3.9 0.06 10.9 0.67
布 施 23.98 24.63 0.53 0.87 0.55 3.18 1. 11
崎 33.79 76.3 1. 77 1. 74 0.55 0.33 21. 8 2.22
福 井 33.79 22.89 1. 53 0.76 1. 55
周 吉 湊中 村 8. 72
4.36~' I
39.24 11. 2.66 2.18
元 屋 1. 31
飯 美 5.45 12. 1. 31
布
外 施敷 21 . 80 36. 18.53 36.
大 久 45.78 145. 2.62 3.05 29.43
釜 8.72
犬 来 26.16 94. 8.18
沖 井 11. 99 13. 飯 田 18.53 18. 東 郷 43.60 87. !
宇 屋 21. 80 94.
隠地 蛸加 木茂 30. 52 5.78 0.44 3.54
17.44 47.
箕 浦 19.62 80. 10. 46 2. 45 4.14 0.44 2.45
片:浜 4.36 1'1. 2. 62 0. 82 1. 53 0.22 0.82
今 津 16. 35 80. 3. 91 0.65
下 西 27.25 16. 3. 05; 0.87 5.45
矢 尾 42.81 60. I
目 貫 40.33 121.1
那 久 44.69 34.18 4.44
油 井 20.71 34.88
南 方 53.41 21. 80 3. 92 3. 49 1. 31 1. 31 3.55
北 方 52.32
344..8236 1
3. 05 2. 62 0.62 5.45
代 8.77 4.36
沖 戸 46.87 173.4 都 万 103.55 21. 8
知 夫 知 夫 里 54.5 50. 14 1. 09 1.09 0.55 3. 27 2. 22
I
(註) (1) 舟 数 の 渡 海 と あ る は 渡 悔 船 大 船 を さ し 、 手 安 一 手 安 舟 、 饂 戸 ー ト モ ド
舟を示す。
(2) 魚 役 海 苔 役 等 ぱ 夫 々 何 枚 役 、 何 木 役 、 何 連 役 等 の 区 別 あ る も 項 目 の 役
に一轄した。
状態を幾分なりとも説明しているのではなかろうかと推察される︐すなわち相当な程度までに︑換言すれば︑すで
に網漁業がその漁法としてとりいれられている程に︑漁業生産が行なわれていたとみられる︒かつまた︑海運業の
発達により諸国商人の往来が多くなる元禄期以降には︑鯖︑飽︑塩干魚あるいは無海鼠などの商品化の度合は漸次
増大
し︑
ためにますます漁業生産の発展が促進されるにいたるのである︒
たゞ隠岐島においては︑島内における農業生産力の増大のための魚肥の使用との意味における漁業生産の拡大と
いう
関連
は︑
知 夫 郡 別 府 村 諸 色 明 細 帳
たいしてなかったと思われる︒宝永六年︵一七0九年︶の知夫郡別府村では︑
(10) もごえ馬屋ごえ藻杯入申候︒﹂とあり天保九年(‑八三八年︶当時の周吉郡釜村においてさえ︑
牛馬を駄屋二飼置草藁等為踏敷︑其外海藻取上ケ墳二侶侯︒﹂ような状態であって︑海藻採酋ょが農業生産との直接
的な関連においてなされたもので︑農業生産形態としては︑漸次森林化︑あるいは耕地化されつAあったにせよ︑
なお牧畑の存在が嶋前嶋後を通じて広範に残されており︑漁業生産物もより多く商品化して︑貢租負担をはじめと
し︑個々の家計の補充に当てられる部分が多からんことをのぞんだであろう事を推察するとそのことは知れる︒
註
(1
) 隠 岐 国 上 代 の 水 産 業 鋳 方 貞 亮 氏 経 済 史 研 究 二 十 六 の 三
(2
) 煕 州 視 聴 記 周 吉 郡 釜 村 佐 々 木 家 所 蔵 本 ニ ョ ル
(3
) 隠 岐 周 吉 郡 佐 々 木 家 文 書 天 保 九 年 釜 村 土 地 柄 並 村 中 瑕 締 耕 作 拝 方 漁 事 其 外 産 物 書 上 帳
(4
) 右 同 家 文 困 明 和 九 年 御 公 御 役 人 様 之 答 問 書 之 写
(5
) 農 林 省 水 産 局 旧 藩 時 代 の 漁 業 制 度 調 査 資 料 第 一 輯
(6
) 佐 々 木 家 文 書 明 和 九 年 御 公 御 役 人 様 之 答 問 古 之 写
( 7 ︑
8
︑9
) 隠 州 視 聴 記
( 1 0 )
隠 岐 中 ノ 島 町 役 場 所 蔵
近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶
﹁田畑墳之儀は冬春 ﹁田畑こやし家近所はし
九
93
近世隠岐水産業に関する覚書︵沖
J I l )
正徳
六年
申一
︳一
月
( 1 )
隠岐周吉郡可畔呻争論ノ事 その一例は周吉郡津戸村と宇屋村間におこなわれたもので︑ 代︶︑文化期にみられる︒ 漁場争議は残存する史料によれば︑当該段階の前期にあたる宝永︑ の採集の強化策への対応によって知りうる︒
九 鈴 木 八 右 衛 門 印
第三期にあたる享和(‑八
0
0年 さて前記した一般的発展段階の第二期にあたる隠岐の漁業生産の状態は︑他国漁夫の入漁と漁場争議の面で表現
され︑漸く璽要視されてきた長崎における対支貿易決済のための俵物増産の必要によって実施された︑飽︑生海鼠
右ハ都築小三郎時代宝永六丑年双方詮議ノ節︑宇屋村ョリ池尻海心次第二仕之由トイヘトモ︑万治四丑年証文取替シ毎年米二斗
ツと津井村へ出シ︑漁猟寄物流物等入合之割符之上ハ池尻海ノ義津井村分二紛無之︑津井村困窮二付宇屋村之漁隔年二申付之旨
書二記シ有之候︒然ル処我等支配二成︑右之裁許迷惑之由令出訴故猶又乱明之上加了簡候条向渡一ケ年二米三斗ツ4宇屋村ョリ
津井村へ出之︑毎年入合漁猟仕寄物流物如前々令割符侯︒且又池尻山二而おと路木取之候モ万治四年之証文ヲ用ヒ小松不可伐取
如此今般申渡之趣壱通ツ4請書取添双方へ遣置候問不可違犯者也︒
( 1 1 )
佐々木家文書前掲天保九年文書
正徳
期と
︑
御 代 官 様
右御裁許之趣被仰渡奉畏候向後少モ違乱仕間敷候為其御受書差上申侯︒以上
近世
隠岐
水産
業に
関す
る覚
書︵
津川
︶
同 同
頭 百 姓
善
\
︵ 太
外五
人︶
郎 彦 兵 衛
同 年 寄
治 左 衛 門
宇屋
町庄
屋
︵外
二人
︶
右の裁許状にしるされた通り︑万治四年︵一六六一年︶より宇屋村と津井村の間では︑漁場の賃貸借がなされ︑し
かも漁獲︑寄物︑流れ物まで入合の割符がとりかわされていた︒文面にあらわれた事柄では︑借用側の宇屋村が漁
場を使用するにあたつて︑心次第に勝手気儘に振舞ったため︑貸方津井村より故障を申立て︑宝永六年︵一七0
九年
︶︑
宇屋村に対して隔年使用が申付けられている︒さらに毎年米二斗苑の入会料を︑三斗宛に増量し︑ようやく十七年
後に前々通りの毎年使用に話合いが落着し︑かAる旨が裁許されていることは︑当然このことの本源である漁業生
産が︑両村が契約をむすんだ当時の双方の漁業生産力の均衡がやぶられるほどに伸張しきたったと解釈して差支な
武 兵 衛
同
新 右 衛 門
同 頭 百 姓
治 兵 衛
同 年 寄
津井
村庄
屋
九 兵 衛
源 市 兵
衛 九阻
9.5
近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶ 今︱つは他国漁夫の入漁とその入漁者の漁場使用をめぐつて︑関係村落間で惹起された争論がある︒
(2) 長頻沖釣はへ縄二付両村争論済状之事
一 丁 銀 二 十 五 匁 内 十 五 匁 六 歩 蛸 木 村 十 匁 四 歩 津 戸 村
是ハ当年蛸木村二指置二付如此二候︒
宝永四年亥年七月 かろうと思われる︒
同所頭百姓代判 同
所 年 寄
九五 孫 兵 衛
六
兵 衛
蛸木村庄屋
助
六
一長州西豊浦小串浦利右衛門卜申者︑沖釣之タメ当四月島後蛸木村二指置候︒他国者故浜役銀中銀二十五匁二相定差置候処︑は
ヘ縄之儀沖ヲ数千尋はへ申二付津戸村沖エモ懸リ候間︑右浜役銀当分ニワケ取可申ヨリ津戸村百姓共ョリ蛸木村百姓共工面位
置候得共︑不埒二付津戸村年寄ヨリ蛸木村庄屋年寄へ申断候得共不埒二付︑津戸村ヨリ御役所工御断可申上書付仕︑西郷迄罷
出候処二︑高梨長右衛門殿双方へ御召見被成︑近村ョリ申内別シテ由緒モ有之両村二侯間︑下ニテ相談仕候様ニョリ御意見二
付︑得其意和談仕候3就ハ向後出入申間敷候タメ浜役銀割符未々迄相定申候︒
右之趣ヲ以已来津戸村二釣舟差置候ハ4︑銀高之内六歩ハ津戸村︑四歩ハ蛸木村へ割符可仕候︒蛸木村二差置候ハ4︑六歩ハ
蛸木村四歩ハ津戸村へ割符可仕候︐ケ様之はへ縄釣両村之内二差置候ハ4相談ニテ指置可申候︒領島前ヨリ已来指置候トモ是
又両村相談ニテ差置可申候︒我儘二差置申間敷侯︒此後之出入沖釣はへなわ之儀二付磯近キ所ハ古来ヨリ村境相極り在之候
間︑此書付ヲ申立テイタシ︑双方共二海論仕立申間敷候︒為其双方証文取替仕候︒為後此年之例如件︒
96
津戸村庄屋
他国︑他浦よりの入漁者の沖釣︑その漁法としての﹁はへ縄﹂の使用にあたり︑相隣る二村の間で︑入旅者の漁
業生産稼動範囲が︑入漁を許諾した浦方の村境を越えて︑
漁業権をめぐつて︑ これに無関係の村方領海にまでおよぶにいたった為に︑
入漁者の負担する入漁料としての浜役銀の分割が問題にされたことである︒
右の争論によって︑二つの事項が考えられる︒その一は︑沖釣はへ縄と明記されている点より沖猟と一応考える
れることである︒すなわち︑寛保期︵一七四0年代︶に明文化されたものではあったが︑ ならば︑入漁者差置浦に六歩︑しからざる隣村に四歩の割合での浜役銀の分割は一応妥当な裁許であったと考えら
( 3 )
﹁魚猟海川境論﹂の﹁磯猟
ハ地附根附次第沖ハ入会﹂の原則はすでに慣習として︑実施されており︑漁場の権利主体が村落にあった事を考え
るとうなずける点である︒
次に第二の点は︑長州豊浦郡よりもたらされた延縄漁法の隠岐島漁業生産におよぽした影響についてである︒こ
の当時においては︑勿論一人の漁夫の入漁であったために︑漁場利用の︑そしてまた漁業生産力の均衡が<づれる
ほどの影響はあたえなかったが︑後年に至り︑島後の鯖漁場で同じ延縄漁法を使用する漁夫達が︑漁業生産上大き
な波乱をおこしている︒それは文化年度のことであったが︑
ている︒出雲国杵築漁夫に嶋後九ケ村より出された制限は︑
( 4 )
杵築漁師共当島浦方へ出漁之儀二付心得之事 同村
地 下 中
同 村 年 寄 利 兵 衛 殿
半 右 衛 門 殿
近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶
それ以降は他国入漁者に対しては︑種々の制限を加え 九六
97
近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶ 右之通御尋二付︑浦方漁師モ申諭侯処︑前文之趣一統承知仕侯間此段宜敷奉願上候以上 大 庄 屋 文
嘉永六年丑八月 一出漁稼浜役銭トシテ︑
蔵 殿
右之通取極メ仕杵築漁師共為渡海候儀︑一統承知仕候間︑此段宜敷被仰上可被下候以上 一隻二拾貫文ツ4其引受之村方へ年々差出可申候事
大 庄 屋 文
九 ケ 村 庄
得共
︑
一様ニハ難取究候得共︑大概見計以相当ノ宿料可差出侯事 一鰯取之儀︑当所之漁師共二簑火不入内ハ︑焼出シ侯事堅不相成侯事
尤不漁二相決シ︑鰤漕其外餌二取候程之稀二相成候節ハ︑簑火入相互二取揚ケ可申事
一鰤烏賊何漁ニテモ︑地方︵木土ヲカク呼プ︶へ取越候節︑鰤ハ銀高二四分口銭︑饒等ハ銀高二三分口銭︑其浦問屋へ相立積出
シ可申事一右九ケ村ヘ一隻ツ4引受二相成候ハ4︑旅宿等ハ其引受村方ニテ世話致遣候得共︑受村之場所柄ニョリ雑用等之多少モ有之候 附
九七
磯モノ生海鼠飽ハ勿論蝶螺居貝しあさり其外何ノ海草二至ル迄︑少シニテモ取揚候儀堅相成不申侯事
蔵 屋
隻ツ4差置可申事
一鳥賊取リ鰤漕漁ヲ第一トシテ其外沖合ノ漁業針ニテ釣取リ候立釣様之儀ハ︑勝手次第為稼可申候得共︑はい縄ニテ釣取リ候儀'
ハ鰤小肴類共堅相成不申候事
但 矢 尾 村 目 貫 村 宇 屋 村 津 戸 村 蛸 木 村 加 茂 村 箕 浦 村 岸 浜 村 今 津 村 此 九 ケ 村 へ 漁 船 九 隻 ヲ 引 受 ケ 一 ケ 村
一杵築漁船毎年九月ヨリ十二月迄四ヶ月間漁船九隻ヲ限リ渡海稼為致可申事
98
文化四年卯十月 差上︑其村ョリ外六ケ村へ沙汰可致候︒以上 候事
のものである︒
蛸 木 村 安
五
郎
とのようであり︑勿論幕末の経済事情と︑隠岐島の全国経済における地位と︑したがつて漁業生産に対する関心
の度合に相異はあったが︑かAる入漁者への制限は︑漁業生産それ自体の発展のあらわれとしてうけとれるところ
このような事態の招来のよってきたるべきところは文化年度の漁場争論にその一端があらわれている︒
一鰤配縄之儀先年ヨリ御法度二候処︑去ル丑年猥二相見侯二付︑大庄屋殿へ御願申上候処︑弥御法度二被仰付候故︑此度沖合ニ
而左様之舟見付候ハ4︑近近数隻馳カケ押取二可仕候︒其節先船二付ケ候船ニハ︑賃銭六貫文可遣候申合候︒右之残之儀ハ六
ケ村割合可仕候︒
一鰤出漁之船渡之内へ着侯ハ4︑其村役人ョリ其船二配縄所持仕候哉︑之段点検可仕候事
一右鰤漁東朝ハ不土内縄引申間敷候段︑村々友吟味仕相慎ヽヽヽ可申候︒若相背申者御座侯ハ4︑見付次第カケキリ可申候段承知仕
右之通一々承知仕候上ハ連判仕︑聯不作法仕者有之候ハ4︑外村々ヨリ急度相紀可申候︒何分配縄押取仕候ハ4︑其村庄屋訴ヘ
( 5 )
六ケ村鰤配縄法度書之事
御 役 所
近世隠岐水産業に関する覚害︵津川︶
津 戸 村 漁 師 惣 代
︵外
二名
︶ 九
八
99
近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶ 今津村庄屋津戸村庄屋
右之通申合候上ハ︑不作法仕候者御座候ハ4︑庄屋中ヨリ手堅吟味可仕候︒以上
︵回
文写
︶
此度鰤配縄之儀二付︑津戸蛸木加茂箕浦岸浜今津矢尾目貫都合八ケ村漁師共ョリ︑書付ヲ以願出候ハ︑鰤縄先年ヨリ御法度二侯
処︑近年不埒之村方鰤漁之妨二相成候由︑以来配縄差留呉候様願出候段尤二候︒併右御法度之証拠モ無之分明二難差留候得共︑ 岸浜村
吉 右 衛 門 殿
和
︐ 右 衛 門 殿
武 平 太 殿
箕 浦 年 寄 亀 之 助 殿
加 茂 村 庄 屋 又 兵 衛 殿
蛸 木 村 庄 屋 儀 右 衛 門 殿
右 村 々
九九
庄 屋 名
銀 左 術 門
今 津 村 伝 左 衛 門
善
郎 岸 浜 村 宇 兵
衛 其
左 衛 門
箕 浦 村 伝
郎
︵外
二名
︶ 加 茂 村 九 兵 衛
これ有り候︒﹂その時には︑ ったが︑大庄屋の見解に示されている通り︑ 配縄漁法による漁夫達と近隣村落との争議であって︑後者が︑ 惣方依申出︑三町ハ勿論六ケ村右配縄急度用捨申付候条︑此段村役人中ヨリ不洩様漁師共工厳敷可被申渡候︒尤至後年鰤配縄仕
出一統勝手宜敷節モ有之侯︒其仔細ヲ御礼差免可申候︒然上ハ国益ニモ相成漁業我儘之仇於有之ハ︑品々ニョリ御窺之上急度咎
可申
付候
︒為
其如
此候
︒以
上
文化
二年
丑十
一月
すなわち︑次に掲げるであろう史料によって︑この争論の様相は一層明瞭になるところであるが︑西郷三ケ村の
﹁鰤配縄之儀先年ヨリ御法度二候﹂との申立てであ
﹁右法度之証拠モ無之︑分明二難差留候得共﹂︑との状態︑したがつ
て配縄漁師のよりどころとなった盲点がこのあたりにあったのであろうか︑
﹁ 何
この配縄稼佑はその後も数年やむこと
なく続けられている︒宝永期に蛸木村に入漁した︑豊浦小串浦の配縄漁の場合には︑それが唯一人の稼動であった
為にさして漁業生産力の均衡をやぶるような事態にはいたらなかった︒しかしこの文化年度の同じ配縄漁法ではあ
った
が︑
その質において︑羅において往事のそれとは大分異なっていた︒たとえこの漁法がー実際には違っていた
がー新規のざん新な漁法であったにしても︑もしそれが漁業生産経済の均傑をやぶらない限りは︑その使用の差留
のために近隣村がやつきになることもなかったであろうが︑﹁尤も後年に至り︑鰤配縄仕出し︑一統勝手宣敷時節も
﹁仔細を御礼し︑差免し申すべく候︒﹂となだめながらも︑配縄用捨をいい渡さなけ
ればならないような経済関係が存したわけである︒それは文化六年(‑八0九年︶になって︑九ケ村漁師より︑
六 ケ 村 庄 屋 宛
近世隠岐水産業に関する覚書︵津川︶
大 庄 屋 重 右 衛 門
考完花押 1
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