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三、国王なき政体の構想

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(1)

三五七共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一)

共和制イングランドの政治原理 ― 「国王殺し」と契約論 ―

大   澤     麦

一、主題と視点

本稿は、一七世紀中期のピューリタン革命において成立した共和制イングランドの体制原理を、その革命の政治

過程のなかで生み出された「厳粛な同盟と契約」(SolemnLeagueandCovenant,1643)、『人民協約』群(Agree- ments of the People,1647-4

9)、「共和国臣従契約」(Engagement,1649-50)という三種の「契約」をめぐる議論を 手がかりにして、考察しようとするものであ

る。

一六四九年一月三〇日の国王チャールズ一世の処刑と、それに続く三月一九日の貴族院の廃止とによって出現し

た「国王と貴族院のない」政体は、それ以前の「古来の国制」(AncientConstitution)における三身分(国王・貴 族・平民)の「ゴシック的均衡」を前提に構成されていた政治的言説のパラダイムの有意性を喪失させ

た。ウェス

トミンスター・ホールに設置された特別裁判所(HighCourtofJustice)において国王にくだされた「大逆罪」に

(2)

三五八

よる死刑判決、そしてホワイトホール宮殿のバンケティング・ハウス前での公開処刑には、古い体制原理の崩壊を

民衆に印象づけるための演出が施されてい

た。M・ウォルツァーによれば、国王殺し(regicide)においては、歴

史上数多く見られる「暗殺」と異なり、裁判を経た「処刑」によって葬られたチャールズ一世とルイ一六世の事例

は、それらが王位に就いている個人(person)ではなく王位という官職(office)それ自体、つまり王制という政体

の抹殺を意味したという点で特筆すべきものであった。国王裁判は新しい共和制の政治原理による旧い体制原理

(神授権説と国王二体論)への裁きを意味した、というのがその理由であ

る。

しかしながら、近年におけるイングランド共和主義研究の碩学たちは、こうしたウォルツァーによる解釈には概

して否定的である。たとえば、J・G・A・ポーコックは共和制イングランドが、元来明確なヴィジョンもなく、

内戦の結果として偶然的に成立したものだとし、「イデオロギー的な共和主義が王制の没落の原因として働いたと

いうより、ある意味で王制の没落が人々を共和主義者にした」と述べてい

る。また、B・ウォーデンも「イングラ

ンドの共和主義はイングランド内戦の創造物だったのであり、その原因ではなかった」と主張す

る。近年の一七世

紀イングランドの共和主義政治思想の研究が、ジェームズ・ハリントンの『オセアナ』、マーチャモント・ニーダ

ムの『自由な国家の優越性』、ジョン・ミルトンの『自由共和国論』等々、主として共和制期(一六四九―一六〇

〇年)に活躍した「共和主義者」(commonwealth-men)の代表的な政治

論、そしてそれらの著作に取り入れられた

古典古代およびルネサンス期の政治的・道徳的諸理念の分析に大きな関心を寄せるものが多いことは周知のとおり

である。しかし、これらの作品のコンテキストが共和制成立期ではなく、一六五六年の護国卿オリヴァ・クロムウ

ェルの独裁政権時代から一六六〇年の王政復古直前期の政治情勢であったことを考慮すれば、一六四九年に成立す

る「コモンウェルスにして自由な国家」の原理を、これらの作品に見出される政治思想と安易に同一視することは

(3)

三五九共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) できな

い。本稿はかかる認識から、まさにこの政体そのものが如何なる原理に立脚していたかを、直接的に問おう

とするものである。それはまた、右に触れた共和主義者たちの思想を評価するうえでも欠かせない、基礎的な考察

にもなることであろう。

もっとも、共和制イングランドが一六四九年からの「共和国臣従契約」の際に説かれるデ・ファクト理論と、主

権(最高権力)を有する人民(共同体)の国制選択に基づく「自由な国家」論とに依拠していたという点は、かね

てから指摘されてき 10

た。しかし、Q・スキナーがトマス・ホッブズの政治思想を読み解くコンテキストとして「共

和国臣従契約」論争の重要性を指摘して以 11

来、思想史家の視線は前者に偏重して注がれてきたきたし、この二つの

論理がどのような連関をもっていたかという点については、ほとんど関心がもたれてこなかった。本稿は、一六四

三年にイングランドの長期議会がスコットランド契約派と締結した「厳粛な同盟と契約」と、レヴェラーズの作成

した成文憲法草案『人民協約』との視点を導入することで、共和制イングランドの政治原理を統一的に理解する視

座を形成することを目指す。「厳粛な同盟と契約」は「共和国臣従契約」に先行する国民的規模の契約であると同

時に、長老主義に基づく国教会改革という宗教的目的を有していたがゆえに、共和制への改変時に、長老派をして

その最大の抵抗勢力にならしめた。また、レヴェラーズの急進主義を切り捨てた後に成立した共和制は、それにも

かかわらず、彼らの『人民協約』の原理によってこそ最も合理的に弁証される側面をもっていた。上述の共和制の

二つの理論の淵源はまさにここに存するのであり、我々は長老派とレヴェラーズの提起する問題の本質を捉えるこ

とで、共和制イングランドの政治原理の理解へと接近したい。そして、それが『人民協約』の最大の問題点であっ

た、共和制とアナーキーの結合の問題を克服するための一つの構想とも考えられることを示したい。

(4)

三六〇

二、 「古来の国制」と「厳粛な同盟と契約」

一六四〇年一一月に成立した長期議会は、国王の政治を厳しく糾弾する重要法案や改革案を矢継ぎ早に審議・可

決していった。主だったものだけでも、側近ストラフォード伯の逮捕(四〇年一一月)、カンタベリ大主教ウィリ

アム・ロードの逮捕(四〇年一二月)、三年毎の議会召集を定めた「三年議会法」(四一年二月)、絶対王政を象徴

する弾圧機関の星室庁裁判所の廃止(四一年七月)、ピューリタン弾圧の中心機関の高等宗務官裁判所の廃止(四

一年七月)、「船舶税の不法宣言」(四一年八月)、「大抗議文」の採択(四一年一二月)等が挙げられ 11

る。

C・C・ウェストンとJ・R・グリーンバーグによれば、立法権を主権の中核に見る大陸のJ・ボダン流の主権

論がイングランドに普及するのは第一次内戦期以後であり、それ以前は王国の基本法と王権(大権)論が政治的言

説の主流をなし、議会は一義的には基本法を解釈する法廷としての機能を負うと認識されてい 13

た。しかし、王権の

権力基盤の中枢を攻撃する長期議会の行為は、事実上 000、立法権を掌握した主権の発動であった。そして、四二年三

月、国王との武力衝突を不可避と見た議会は、議会軍創設を意図して、ついに「民兵条令」を発布する。ここで、

その「条例」の冒頭に掲げられた議会軍の目的が「陛下の人身(person)と議会と王国との安全のため」とされて いる点は重要であ 14

る。だが、これに対して国王側は憤激の中で直ちに声明を発し、王国の平和を守るための軍の指

揮権は法と慣行によって国王に属すとし、「全臣民は必要あるときはいつでも彼らの至高の君主(sovereignlord)

としての国王を助けるべきだ」と主張する。国王の同意や許可なしに議会が軍を召集することは、逆に王国と臣民

の安全を脅かすというのであ 15

る。このやり取りを見る限り、国王側のほうが明らかにイングランドの伝統に適った

(5)

三六一共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) 主張をしている。しかし、議会はこれに怯まず、五月二七日の両院宣言の中で、議会は単なる法廷ではなく、王国の安全を確保するための国王の評議会であるとし、以下のような論法で「民兵条令」を擁護しようとする。

国王陛下の愛情深い全臣民は他の諸法同様その法[民兵条令]によって、陛下に服従するように縛られる。彼

らが(その法に従って)行うことは、陛下が御自身の果たすべき信託 00を遂行されるのを助けると解されるべき である。それは処罰の対象になるどころではない。……というのも、国王が自らの主権 00によってできるのは、

人民を損なうことではなく、保護し防衛することだからである。最高法院(HighcourtofParliament)も他の

陛下の官吏も大臣も、法がその目的で陛下の中に置いた権力と権威に従属すべきである。たとえ陛下が御自身

としては(inhisownperson)その目的を無視するにしても、である(傍点引用 16

者)。

ここでは国王の主権者にして受託者としての立場が強調され、「民兵条令」における「国王の人身(person)の安

全」という戦争目的は影をひそめるばかりか、それが国王の公的責務と衝突する可能性が説かれている。E・カン

トロヴィッチが指摘するように、ここには「政治的身体としての国王チャールズ一世の名と権威において、自然的

身体としての同じ国王チャールズ一世と戦う軍を召集する」という「国王二体論」(King’sTwoBodies)による内 戦の正当化への道筋を読み取ることができよ 17

う。しかし、注意すべきは、「民兵条令」が直接批判の矛先を向けて

いるのは国王ではなく、「血に飢えた教皇派の顧問官たちや他の不平を懐く者たち」だということである。その意

味では、ここでエドワード二世やリチャード二世の場合のような国王廃位が企図されているわけではない。いわん

や、ここから「古来の国制」の原理的否定、すなわち一六四九年の国王処刑と共和制宣言が帰結すると考えること

はできない。やはりJ・H・フランクリンが主張するように、ここには「古来の国制」論の前提にある「国王は悪

をなしえず」(kingcandonowrong)という中世以来の法諺に由来する国王の神聖不可侵性の観念が強く働いてい

(6)

三六二 ると見るのが適切であろ 11

う。その法諺は同等者をもたない国王は訴訟の対象にはなりえないという法的議論に加え、

神授権論、戴冠の際の聖別式(consecration)、国教会の首長としての地位等、様々な宗教的理念によって強化さ

19

た。こうした原理が支配する世界においては、王制は不問の前提であり、国王への抵抗は歪められた「古来の国

制」の矯正としてしか認識されえない。そしてそれはまた、王制を不問の前提にしている国王二体論とも十分な適

合性をもっている。二体論における二つの身体の遊離は、自然的身体を犠牲にすることで、王国を体現する政治的

身体を無傷に保つ理論的措置にほかならなかったからである。

それでは、こうした情勢を背景にして、長期議会の理論家たちはいかなる政治理論を展開したのであろうか。そ

れに言及するにあたっては、議会が四二年六月一日に国王権力の大幅な制限を企図して発した「一九箇条の提案」

に対するチャールズ一世の「回答」が重要な理論的前提となる。

人々の間には三種類の統治、すなわち絶対王制、貴族制、民主制がある。これらすべてにはそれぞれに特有の

便宜と不便がある。あなた方の祖先の経験と知恵はこの王国に(人間の慎慮が供えられる限り)三種類すべて

の便宜を、均衡が三身分の間で十分に取れている限りどの一つの不便もなしに与えられるように、その三つを

混合することでこの統治を形成したのである。……この王国では法は国王、貴族院、そして人民に選出される

庶民院によって共同で作られる。三つはみな自由な投票権と固有の特権をもっている。その法によれば、統治

は国王に信託されてい 10

る。

ここで説かれているのは、国王、貴族、平民の三身分の対等、そして立法権は三身分の均衡の中に共同で置かれて

いるということである。ウェストンとグリーンバーグによれば、これはイングランドの主権に関する王権側公式見

解の劇的な転換であった。すなわち、伝統的に王権側は立法権の所在を「議会における国王」(KinginParlia-

(7)

三六三共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) ment)に求めていたが、その含意は、立法権の所在をあくまで国王に置きつつも、「両院の同意」を蔑ろにせず、

それをして法を一層強固なものにする必要条件ならしめる所にあった。しかるに、「回答」はこれを国王自らが否

定し、立法権を対等な三身分の共同の中に置いているのである。ここから二つの重大な帰結が生じる。ひとつは、

立法権を担う三身分が対等ならば、貴族と平民、すなわち議会の両院が賛成する法案に対しては、多数決原理によ

って国王の意向は全く働かなくなるということである。すなわち、ここに絶対君主の象徴的な権限である法案拒否

権(veto)が否定されるとともに、法を最終的に確立する国王の裁可は形式化していかざるをえな 11

い。そしてもう

ひとつは、対等な三身分からなる議会全体に立法権が存することは、主権(最高権力)の根源的所在を国王ではな

く、議会に代表される共同体全体に見出すことに通じることであ 11

る。ここに共同体を権力の源泉と見て、すべての

政治権力をそこから派生したものと捉える一六世紀のモナルコマキの理論(暴君放伐論)との強い連関性が生まれ

る。わけても、イングランドでピューリタン運動が始動するエリザベス朝期において受容されたテオドール・ベー

ズ『為政者の臣下に対する権利』(De Jure Magistratuum,1574)、ステファヌス・ユニウス・ブルトゥス『ウィン ディキアエ・コントラ・ティランノス』(Vindiciae Contra Tyrannos,1579)、フランソワ・オマン『フランコ= ガリア』(Francogallia,1573)、クリストファ・グッドマン『為政者への服従について』(How Superior Powers Ought To Be Obeyed By Their Subjects,1551)、ジョージ・ブキャナン『スコットランド王権論』(De Jure Regni Apud Scotos,1579)などで説かれた諸理念は、議会派の論客たちの絶好の理論的武器となっ 13

た。長期議会による

改革を支えた理論家たちは、まさに「回答」により塩を贈られたのである。

たとえば、長老派牧師で後のウェストミンスター神学者会議議長チャールズ・ハールは、国王派のイデオローグ、

ヘンリ・ファーンへの反論の中で、次のように述べている。

(8)

三六四 イングランドの統治は、単に従属的(subordinative)でも絶対的でもなく、対等的(Coordinative)で混合的

(mixt)な王制である。この混合ないし対等は、まさに権力の至高性それ自体の中に存する。……ここでは王

制が、すなわち最高権力それ自体が三つの対等な身分、すなわち国王と議会の両院とから成っているのである。

この混合権力に対しては、従属的な権威はいかなる場合にも抵抗してはならな 14

い。

イングランドは混合王制であり、主権は三身分の中に共同で置かれている。だが、この三身分の対等性はすぐに議

会(両院)主権の主張へと導かれていく。ハールは「民兵条令」の事例に触れ、国王が両院から送られる法案の裁

可を否決権によって拒むとき、両院は法ではなく「条令」(ordinance)としてこれを定めることが「安全」を旨と

する「国家理性」に適っているとする。混合王制においては、「一部の拒絶」が「全体の破滅」にならないような

措置が必要であり、それが両院に与えられた「信託」だからであ 15

る。このことは国王が議場に「不在」の場合にも

あてはまり、そのとき「権力の至高性の一部」を担う議会の両院は「事実上の全体」(virtuallythewhole)となる

とされ 16

る。ここに議会両院は、事実上、イングランドの主権の担い手として定立されることになったのである。そ

して留意すべきは、こうしたハールの理論にユグノーの人民主権論が結びついていたことであ 17

る。ハールによれば、

共同体の中に何らかの統治が存在しなければならないことは神の制定による。しかし、個々の具体的な統治の方式

は「統治される社会の合意や同意に由来す 11

る」。すなわち、イングランドの混合統治は共同体における国王と人民

の契約に基づいて、共同体によって設立されたのである。ここで述べられる契約理論の骨格は、『ウィンディキア

エ・コントラ・ティランノス』の第一契約と第二契約の構成に符合するものであ 19

る。

ハール同様、長老派牧師であったフィリップ・ハントンも『王制論』において、統治の存在それ自体は神に由来

するも、個々の統治形態は共同体(人民)の同意に基づくという認識を共有しつつ、イングランドが「貴族院にお

(9)

三六五共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) ける貴族制と庶民院における民主制とを混合した王制」であると主張す 30

る。混合王制においては、立法権を中核に

する主権(最高権力)は基本的国制から等しく三身分全体の中に授かっているが、その目的は一つの身分が常軌を

逸した権力を持たないように制限することにある。ただし、ハントンは三身分が完全に対等であればもはや王制で

はなくなるとし、貴族・平民両身分が国王の臣民であることを、つまり国王の両院に対する優越を認め 31

る。その意

味で、混合は制限王制の有効な手段と捉えられているのである。だが、それでも立法権における三身分の対等性は、

ハールと異なり両院優位という結論を取らないハントンに対して、国制の次元では解き難い判定権の問題を課すこ

とになった。

すべての混合政体には、必ずや一つの不都合がある。……すなわち、三身分の間に起こる根本的な論争に対す

る国制上合法的な権威ある裁判官が存在しえないのである。……それはそのような統治では規定できない事案

なのである。告発する側は万人の良心にそれを明らかにしなければならない。その統治で対応できないこの事

案においては、訴えはあたかも 0000統治が存在しないかのように 00000、共同体に対してなされなければならないのであ

る。そして、人々の良心が証拠によって納得するならば、できる限りの助力を与えるべきである。というのも、

このような状態でのその構造の意図は、全世界(Universality)や既存の統 0000治の平和 0000に資する如何なる力の行 使も正当化するからである(傍点引用 31

者)。

ハントンの混合王制には、立法権に対等な資格であずかる三身分間の意見の対立を裁く判定権は国制上存在してい

ない。そこで彼が持ち出すのが、原初的に「混合」という統治形態を決定したとされる共同体(人民)の権威であ

る。右の引用箇所は、一見、ジョン・ロックの「天への訴え」を連想させるが、ここでの議論が既存の「統治の解

体」を前提としていないことに注意する必要がある。ハントンの共同体(人民)は為政者や国家への抵抗主体でも、

(10)

三六六

「統治の解体」後の新国家の設立母体でもなく、逆に、三身分間の対立が生じた際に既存の統治を保全するための

最後の安全弁として働くことが期待されてい 33

る。ただし、現実の「民兵条令」を巡る国王と両院との抗争に関して

は、共同体の権威が要請されるほど深刻なケースとは捉えられておらず、その「条令」の制定は国制の枠組みの中

で両院に許されている権限の範囲内に収まっているとされる。王国の全軍の統制権は既存の法と国制を防護する目

的で国王に信託されてはいるが、国王がその権限を誤用するなど、その信託に反する行為に出たときには、両院が

「常ならぬ一時的な条令によって」国王に託された軍を担ってもよい。そうした条令は「形式上は合法的ではない

が、その統治の設計者たち(Architects)の意図によって正当化されて、大いに合法的となるのであ 34

る」。つまり、

議会軍は国王によって歪められた「古来の国制」の矯正として捉えられているのである。

だが、議会派にあって、ハントンにおいて見出された共同体(人民)の権利を前面に押し出すことで、さらに急

進的な理論を展開した人物もいた。コモン・ロイヤーのヘンリー・パーカーである。パーカーの立論はその多くを

モナルコマキの人民主権論に負ってい 35

る。彼は国王側の主張を批判した著名なトラクトにおいて、王権の起源を神

に求める説を否定して、権力は原初的に人民に内在していると主張する。「その権力が個々の共通の同意や協約に

よって、甲乙の人々の手中へ入っていくときに、神がその法を承認す 36

る」。よって、王権は人民(共同体)の根源

的権力に対して常に「二次的で派生的」なものに過ぎない。国王は「個々人より大きいがその全体より小さい」

singulis majoruniversis minor)のであ 37

る。権力の起源が人民にあるとすれば、国家は人民からの「信託」に

よってのみ存立できるのであって、その設立目的は「あらゆる人間の法を法ならしめる至高の法」である「人民の

福祉」(Salus Populi)以外にはな 31

い。そして、この究極の法が為政者によって侵犯されるとき、「自らを奴隷状態

に置くこと」が正当でも可能でもない以上、人民は「自然的な防衛」を行うことを拒まれるものではな 39

い。

(11)

三六七共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) このようなパーカーの抵抗権論は、しかし、重要な制約が課せられていた。それは彼の次の主張のうちに明確に現れている。

アダムの堕罪によって堕落した人間は手に負えない野蛮な動物になったので、その心に書きつけられた神の法

は人間の悪行を抑制し、人間を社会的にするに足るものではなくなった。それゆえ、新しい秩序をもたらし、

古い秩序を裁き、正義に従って執行する何らかの為政者権力がなければ、社会は支えられなくなった。人間は

社会がなければ生きられず、法がなければ社会的たりえなかったのであ 40

る。

パーカーの「野蛮な動物」としての人間は統治を離れては自律できず、よって、その集団としての人民(共同体)

も議会という「公の会議」において初めて「自ら正しく行動する力を獲得する」ことができ 41

る。すなわち、パーカ

ーの人民が政治的主体として能動的に行動できるのは議会の中にあるときだけであり、ここに人民と議会(厳密に

はその両院)は事実上等号で結ばれることにな 41

る。「議会は実際、人為的に集められた人民それ自体以外の何物で

もな 43

い」。つまり、先のパーカーの抵抗権論は、モナルコマキの所謂「下位の為政者」によるそれなのであって、

国制の変更ではなく、その保全としての役割を担っている。「郷紳と貴族の両方が派生的な権力しか持たないとき

に、両者が一致して国王に反抗できるなどと考えないようにしよう。貴族は国王に、郷紳は人民により多く依拠し

ている。しかし、両者は全体の善に愛着を持ち、一部の突出を防ぐときに最も優れているのであ 44

る」。そして、パ

ーカーの議論のこうした性質を考えるとき、抵抗権論を説いたすぐ後に、「国王は悪をなしえず」の法諺に彼が立

ち返っていることも理解できないことではない。「国王は如何なる悪を行っても、人身に関する限り力ずくで反抗

されえず、為された悪行についても責任を問われな 45

い」。議会(両院)の権力を最大限に強調したパーカーにとっ

ても、王制以外の政体はありえないものであった。

(12)

三六八

以上、チャールズ一世の「回答」を基底にして、「民兵条令」制定と第一次内戦の時期における議会派の三人の

政論家について見てきたが、彼らの混合王制論や抵抗権論がすべて「古来の国制」の一つの解釈として、その意味

では「古来の国制」パラダイムの中で提示されていたことには注意すべきである。しかし、この「回答」に対して

独特の視角から切り込んだ思想史家がJ・G・A・ポーコックであった。彼はイングランドの統治が「ポリュビオ

ス的な混合政体における権力の共有」であることを認めた「回答」を、「共和主義的用語またはマキアヴェッリ的

用語によるイングランドの政治秩序の再定式化」と捉えるが、その思想史的背景として、従来の「古来の国制」に

おける権威と自由の連帯の崩壊があったことを指摘してい 46

る。端的に言えば、従来の「古来の国制」パラダイムが

一六四二年の「民兵条令」の時点で崩壊し、新しい共和主義の導入による再生を必要としていたというのであ 47

る。

確かに、イングランドではルネサンス期以降、アリストテレスやポリュビオスの政体論の受容が始まってお 41

り、

「古来の国制」の危機においてその蓄積が活用されることは理解できる。しかし、王権を中心にした「古来の国制」

の権威主義的側面が第一次内戦期に共和主義に取って代わられたという解釈は、強力な国教会制を持つイングラン

ドの宗教的側面を軽視したものと言わざるをえない。本稿がこの点で重視するのが内戦の只中で締結され、その革

命の宗教的側面を象徴するとともに、その後のイングランドの政治過程全体に強い影響力を及ぼした「厳粛な同盟

と契約」である。

一六四三年九月、長期議会は内戦の不利な戦況の好転を狙い、契約派(Covenanter)が議会の主流派を構成する

スコットランドとの間に、「厳粛な同盟と契約」を締結した。これはイングランド国教会を従来の主教制の代わり

に長老主義に基づいて組織化することを条件にスコットランドが軍事支援を行うという、政治的(軍事的)「同盟」

と宗教的「契約」とを結合させたものであっ 49

た。この「同盟と契約」は四三年九月五日に庶民院、同一八日に貴族

(13)

三六九共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) 院で可決されると、同年十月にロンドンの全教会で採択式が挙行され、翌四四年二月には一八歳以上の全男性に対して「手を至高の神に向かって挙げて誓い」つ 50

つ、それを受け入れる署名が義務づけられた。このことが後に述べ

るように、国王処刑と共和制成立の際に極めて重大な決疑論的問題を惹起することになる。

「同盟と契約」の冒頭には、①宗教の改革と擁護、②国王の名誉と幸福、③イングランド、スコットランド、ア

イルランド三国の平和と安全という三つの目的が掲げられている。ここで重要なのは、第三条で明確に謳われた王

国と議会と国王との保全である。

我々は、……議会の権利と特権、そして王国の自由を保全することに努める。また我々は、王国の真の宗教と

自由を保全し擁護する際に、国王陛下の人身(person)と権威を保全し擁護することに努める。それは世をし

て、我々の良心とともに我々の忠誠心についての、そして我々には陛下の正しい権力と偉大さとを減じる考え

も意図もないことの、証人にならしめるためであ 51

る。

この条項は「古来の国制」パラダイム、とりわけその権威主義的側面を宗教的・倫理的に強化せずにはおかなかっ

た。議会は内戦を如何に早く終結させて、「古来の国制」の調和を回復させることを喫緊の課題として背負うこと

になった。もちろん、「同盟と契約」締結の背景には、一六四〇年一二月一一日に庶民院に提出された「根こそぎ

請願」(TheRootandBranchPetition)以来、議会が検討を行ってきた国教会の主教制廃止の問題があった。それ

が四三年一月の議会両院による「根こそぎ法案」可決にまで漕ぎつけると、議会は主教制に代わる新たな国教会の

あり方を検討するための諮問機関、ウェストミンスター神学者会議を同年七月に発足させた。「会議」では長老派

と独立派とが対立したが、「同盟と契約」締結後は多数を占めた長老派の勢いをさらに加速させることになった。

このことは同じく長老派であったC・ハール(ウェストミンスター会議議長)やP・ハントンの立場の強化に自ず

(14)

三七〇 から繋がっていっ 51

た。そして、彼らの宗教的・政治的立場が支持する、長老主義による国教会制と国王の「人身と

権威」の保全とは、「古来の国制」の権威主義的側面を強化するとともに、「共和国のアングリカン 53

化」とイングラ

ンドにおける共和主義の進展とに対する障壁として立ち現われることになったのである。

三、国王なき政体の構想

国教会の改革において主導性を取った(宗教的)長老派は、「厳粛な同盟と契約」に基づいて国王との和平を模

索する議会内の多数派の政治勢力(政治的長老派あるいは和平派)と強い利害関係で結ばれた。こうした議会内の

和平派のスタンスが、戦闘の前線に立つ軍や議会内の抗戦派(独立派)との間に深い溝を生むことは避けられなか

った。この二つの陣営の対立は、一六四六年六月の第一次内戦終結後、軍の削減・解隊計画が議会から出されるに

及んで決定的となった。しかし同時に、オリヴァ・クロムウェル、ヘンリ・アイアトンら軍幹部は、議会との対立

が軍の存立根拠を脅かすことをも明確に認識していた。「民兵条令」に明らかなとおり、「古来の国制」を前提にす

る限り、そもそも国王と闘う議会軍という想定自体が大きな矛盾を孕んでいた。いわんや、議会から遊離する議会

軍は、公的な性格を全く持たない私的な武装集団に過ぎな 54

い。こうして内戦後の軍もまた、議会との抗争を有利に

進めるべく、国王というもうひとつの公的権威に依存しようとする。四七年八月にアイアトンの作成した『提案要

綱』は、こうした趣旨に基づいた軍と国王との和解案であっ 55

た。『提案要綱』には、二年毎の選挙、国教会聖職者

の世俗裁判権の剥奪、共通祈禱書および教会出席の強制の禁止等リベラルな改革案が謳われてはいるものの、強力

な行政権を付与された国務会議(CouncilofState)の存在、国王や王族の伝統的権利の維持、貴族院の存続が盛り

(15)

三七一共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) 込まれてい 56

た。だが、このような軍幹部の姿勢に、かねてより待遇に不満を懐いていた兵士層は反発した。そして、

彼らに働きかけたのが、ほかならぬレヴェラーズであった。

革命の政治過程のアクターの中で、逸早く「国王なき政体」を構想し始めたのはレヴェラーズであった。四七年

一月に出版されたレヴェラーズの指導者J・リルバーンの『国王の専制発見』は、チャールズ一世をイングランド

史上最悪の専制君主として糾弾し、極刑を要求し 57

た。その上で彼らは、国王処刑後の国制として、人民全体の代議

院としての一院制議会が統治する共和制モデルを構想し始める。その成果としての成文憲法草案が、四七年十~十

一月の軍総評議会(パトニー討論)で審議された『第一次人民協約』であった。それはその『協約』に署名するす

べての者に参政権を与えるという、自然権理論と社会契約原理とに立脚した国家構想であった。「討論」でのクロ

ムウェルやアイアトンは、その原理の帰結にアナーキーを見て、「古来の国制」の存続の観点からレヴェラーズの

原理を厳しく批判す 51

る。しかし、四八年一月の国王との「交渉打ち切り決議」、そして四月の第二次内戦勃発とい

う事態の進展の中で、軍幹部といえども「国王なき政体」の到来を意識せざるをえなくなった。しかも、第二次内

戦の勝利後もなお、ワイト島の国王との和平条約(ニューポート条約)締結に動く議会に激怒したアイアトンは、

総司令官トマス・フェアファックスと対立しつつも、辞職を覚悟で軍の進むべき指針の検討に入 59

る。そして、四八

年一一月一八日に軍で承認され、二〇日に庶民院に提出されたアイアトンの『軍の抗議』は、軍がレヴェラーズと

の協調路線を極限にまで打ち出した文書であった。

まず、『抗議』は冒頭で「人民の福祉は至高の法」を謳ってきた庶民院の欺瞞を厳しく糾弾した後、信用のおけ

ない国王と早急に手を切るよう議員たちに勧告す 60

る。その上で、『抗議』はレヴェラーズの『人民協約』の基本線

と軌を一にした複数の急進的な改革プログラムや構想を提示している。第一は、定期的に行われる自由な選挙で選

(16)

三七二

出される議員から成る、「共通で最高の議員評議会」(以下「最高評議会」と略記する)を設立することである。

「最高評議会」の権限は立法、執行、司法、外交、官吏任命、国制の変更など国事の全部面に及ぶが、それが「人

民の代議体」(representativebodyofthepeople)とも呼ばれるように、その目的は「人民の安全や福祉」である。

この目的を妨げること、すなわち「理性の一般法や諸国民の法への敵対」は、国王の意志であっても許されず、法

に基づいた処罰が科されるとされ 61

る。

第二は、「厳粛な同盟と契約」に潜む「罠」(snare)の指摘である。『抗議』の著者によれば、その「同盟と契約」

の中には錯綜した様々な思惑が絡んでおり、良心的な人ほど内面の葛藤を覚える構造になっている。しかし、「神

の摂理により、その罠は解かれ、逃れることができる」。すなわち、「同盟と契約」第三条の国王の保全には、それ

が「三王国の真の宗教と自由の保 61

全」と両立する限りは、という条件が付けられているのであって、その観点から

すれば今や誓約者・署名者は国王の保全義務を解除されていると考えるべきだと言 63

う。およそ人間同士の契約とい

うものは契約当事者の利益と結束のために結ばれるのであるが、この「同盟と契約」の場合には、不在者(国王)

が後に加わるであろうことを考慮し、その者の利益までもがあらかじめ盛り込まれていた。しかるに、その者は

「同盟と契約」への同意を自ら拒絶したのであるから、もはやその者の利益を考慮する必要はな 64

い。この事情は、

神の御前で誓う誓約がその契約に伴っていようと全く変わらないのであっ 65

た。

そして第三に、このこととの関連で、『抗議』では国王の裁判と処刑とが明確に要求されている。著者は議会に

対し、かつて決定した国王との「交渉打ち切り決議」の路線に戻 66

り、「王国の確立と安定化を〔チャールズ〕王を

除外し、〔チャールズ〕王に叛いて図る」ことを促している。議会の目論む「国王を処罰抜きに復帰させること」

は断じて避けねばならない。それどころか、「国王の人身」は、その他の非違行為者たちとともに、「彼によってな

(17)

三七三共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) された流血その他の悪行や危害のゆえに、裁判の方式で告訴される」べきであ 67

る。そして、挙句、『抗議』は次の

ことをあからさまに主張することになる。「我々のすべての戦争と難儀とは、それらに伴うすべての惨状とともに、

国王の任命と命令と斡旋によって、国王の意志と権力のためだけにもたらされた。よって、我々の難儀の張本人で

ある国王の人身は、彼が罪を負う所の反逆と流血と危害のゆえに、速やかに裁判にかけられるべきであ 61

る」。公的

な裁判をさらに満足なものにするためにも、内戦の張本人とその主要な手先に対する極刑は速やかに執行されなけ

ればならないし、その裁判は模範的なものでなければ流された血が報われな 69

い。裁判の要求は国王の二人の息子、

ウェールズ大公とヨーク公にも向けられ、その罪状に応じた処罰が要請されるだけでなく、裁判に応じないときに

は敵ないし反逆者として永久国外追放処分にする旨が説かれる。また王室の財産と歳入は、その他の非違行為者た

ちのそれとともに差し押さえられ、貧民救済や兵士の未払い給与の弁済等に充当することが予定されてい 70

る。

ここにおいて『抗議』の著者は、一見、王制から共和制への政体の改変を目指しているかに見える。事実、著者

は現議会を解散させた後に、「最高評議会」を設立する手続きを説明する際に、レヴェラーズの『人民協約』を彷

彿させる方法を提示している。すなわち、「最高評議会」を「全人民が選出する平等な代議院」にするために必要

な選挙の平等な配分、それを可能にする人民の選挙会議の規定、「最高評議会」の権限の明確化、内戦中の行動に

対する免責規定などの重要事項は、すべて現議会(庶民院)の権威によって、「署名を要する人民の一般契約ない

し協約によって確立される」必要がある。そして、これに同意して署名しない者は、「協約」による恩恵に一切与

ることができな 71

い。しかし、『抗議』には国王に関する独特の規定が設けられていた。「国王は今後、そうした代議

院を通じて人民が選出するか信託するかしない限りは、承認されることはない。また、いわゆる代議院すなわち議

会の庶民院の決定に対する一切の否決権の主張を最初に放棄し否認しない限りは、同じく承認されない。これまで

(18)

三七四 の戴冠式宣誓以上に明確な形でこれを行うべきであ 71

る」。つまり、『抗議』が否定するのは伝統的な世襲制の王制で

あって、選挙制に基づくものであるなら王制を敢えて拒絶するものではない。だが、そのことを認めたうえでも尚

重要なのは、ここで国王なき政体の可能性が肯定されていることである。そして、間近に迫る国王裁判を意識する

アイアトンが、議会から遊離した軍の存在意義を保証してくれる国家計画を考えたとき、彼の念頭には「人民の一

般契約ないし協約」、すなわち『人民協約』という方法を措いてほかにはなかったのであ 73

る。

こうして、軍とレヴェラーズは来るべき国王なき政体に備えた新『人民協約』の作成に取り掛かり、そのための

特設機関である一六人委員会(レヴェラーズ、軍の士官、独立派、庶民院議員の代表で構成)での検討によって出

来上がった『協約』の原案を、一二月一一日に士官総評議会に提出した。評議会は早速その原案の緻密な検討を翌

日から開始するが(ホワイトホール討論)、討論には士官だけではなく、リルバーンやジョン・ワイルドマンらレ

ヴェラーズ、ジョン・グッドウィンやフィリップ・ナイら独立派聖職者も参加した。だが、討論は代議院の宗教問

題への介入に関する条項を巡って紛糾し、結局リルバーンは原案に加えられた修正に立腹して、審議途中で退席す

る。そして翌日、彼は原案をそのまま『第二次人民協約』として世に公表してしまうのである。一方、軍幹部も

『士官人民協約』という形で案を整え、四九年一月二〇日、時あたかも国王裁判開始の当日に、これを前年一二月

の「プライド大佐のパージ」(軍に背く長老派議員の武力追放)によって「ランプ(残部)」(Rump)と化した庶民 院に提出するのであ 74

る。

しかし、『第二次人民協約』と『士官人民協約』との内容上の差異は、決して際立ったものではな 75

い。士官総評

議会による新『人民協約』の審議に先立って粛清された長老派にしてみれば、軍とレヴェラーズは結託して「古来

の国制」を転覆させ、イングランドを『人民協約』の原理で分裂状態に陥れる共謀者に映った。長老派の庶民院議

(19)

三七五共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) 員ウィリアム・アシュハーストは、『人民協約への反論』の中で軍の行動と『人民協約』による国制の変更計画と

に厳しい批判を試みた。彼が第一に注目するのが、『人民協約』の基底をなす署名という原則である。その文書が

参政権を保障し、その他の権利保護の対象としている「人民」は、それへの同意と署名を行う人々である。だが、

「古来の国制」を支持するがゆえに、あるいは自らの良心の呵責のゆえに署名を拒む人々は、正統なるイングラン

ド人民として従来通りの権利を主張するはずである。特に後者の例において、アシュハーストは、イングランド人

民の多くが既に「厳粛な同盟と契約」、さらにはそれに先行する一六四一年五月三日の「抗 76

議」において、現議会

を支持することを「神の御前で」誓っている点を強調する。つまり、『人民協約』は先行の、神を当事者とする契

約に真っ向から対立する。こうして、署名者・署名拒否者の分裂は、イングランドに二種類の人民と議会をもたら

し、国そのものを分裂させることになるというのであ 77

る。

第二に、彼は『人民協約』に基づいて設立される一院制の新議会の統治能力の脆弱性を指摘する。『人民協約』

が権力の究極的な源泉とする「人民」は署名者集団であるが、こうした文書に署名すること自体、彼らが既存の秩

序からは全く信頼も恩恵も得ていない証拠である。彼らは「自分の意志以外に法を持たない」無分別な民衆にほか

ならないが、こうした「人民」が議会の決定を常に力ずくで覆すことが原理的に是認されていることは危険極まり

ない。すなわち、『人民協約』が前提とする「人民」主権、具体的には「人民」が保持する統治形態の変更権が、

『人民協約』の信頼性を掘り崩している。ここからは「平和の基礎」どころか、「新しい混乱の基礎」以外何も期待

することはできないのであ 71

る。それから第三に、彼は現議会を否定する『人民協約』は、レヴェラーズが自らの支

持基盤に見出してきた軍の行動それ自体を否定すると説いている。先述のとおり、議会を否定する軍は自らの存在

根拠を喪失し、単なる「殺人者」集団と化すだけだからであ 79

る。

(20)

三七六

以上のようなアシュハーストの批判は『人民協約』の問題点を鋭く突いている。しかし、革命の政治過程の進展

はこれらを未解決のまま放置して、更に加速化していくのであった。

四、 「自由な国家」の正当性

ところで、国王処刑の一〇日前、一六四九年一月二〇日に軍幹部によって庶民院に提出された『士官人民協約』

は、早急に検討するとの約束を得たもの 10

の、結局棚上げにされてしまった。しかし、軍幹部はこのことに特段抗議

することもなく、そして来るべき政体の原理的検討をこれ以上行うこともなく、国王処刑に向かって疾走す 11

る。こ

のことの背景には、次のような事情があった。庶民院は四八年一二月二八日に、国王裁判のための特別法廷設置法

案を提出し、翌年一月一日にこれを可決して貴族院に送った。貴族院はこれに猛然と反対するが、既に「プライド

のパージ」によって軍に抵抗する長老派議員が追放されていた庶民院は、軍の実力を背景に、次のような決議を同

四日に採択する。

議会に参集したイングランドの庶民院議員は、人民こそ神の下でのすべての正当な権力の源泉であると宣言す

る。また、議会に参集したイングランドの庶民院議員は人民によって選ばれ、人民を代表するがゆえに、この

国の最高権力を有すると宣言する。また、次のことも宣言する。議会に参集した庶民院議員によって法として

制定されたり宣言されたりしたものは、すべて法の効力を有する。そして、この国の全人民は、それらの法に

対する国王や貴族院の同意による賛成が得られなくとも、それらの法によって決定が下され 11

る。

つまり、この時点で軍と議会は、『人民協約』に頼らずとも、この宣言を拠り所にして国王を葬り去ることが可能

(21)

三七七共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) だと判断したと考えられる。こうして四九年一月二七日の大逆罪(HighTreason)の判決と、それに続く三〇日の

国王処刑は、「人民によって選ばれ、人民を代表する」庶民院の有する「最高権力」によって公式には遂行された。

もとより、パージによって「残部」(Rump)と化した庶民院を全人民の代表とみなす不条理は、誰の目にも明らか

であった。だが、それ以上に留意すべきは、「国王殺し」を成し遂げた独立派政府が、処刑の時点においては、そ

の後の政体についての確固たる青写真を持ち合わせていなかったことである。このことは、国王処刑後、王制と貴

族院の廃止を公式に 000宣言するまでに至る経緯が如実に物語っている。右の一月四日宣言は自ずから貴族院不要論を

惹起することになり、国王処刑後の二月六日、庶民院は「無用で危険な」貴族院の廃止を決議した。それは、庶民

院が「この国の王の職位、そして単一の人身にその権力をおくことがこの国の人民の自由・安全・公共の利益にと

って不必要であり、重荷であり、危険である」として、王制の廃止を決議した一日前のことであっ 13

た。

しかし、この二つの決議が公に宣言されるのは、それから四〇日以上経過した三月一七日(王制廃止)と一九日

(貴族院廃止)である。そして、前者の冒頭ではチャールズ・スチュアート個人の行った「多くの反逆行為や殺人

行為」が糾弾され、彼がイングランドやアイルランドの「王位、すなわち国王や女王である資格がない」ことが強

調され 14

る。すなわち、やや穿った読み方をすれば、これは反逆者チャールズの処刑の正当性を主張したものであっ

て、「古来の国制」そのものの制度的欠陥を攻撃しているのではないとも取れる余地を残してい 15

る。類似のことは

貴族院廃止宣言の後半に現れる次の件にも見出せる。「名誉と勇気とコモンウェルスへの忠節をもって身を処して

きた貴族、およびそのように振る舞い続けようとする貴族の子孫たちは、国の公的な諸会議から排除されずにそれ

に加わることが認められる。もし彼らが議会に選出されれば、議会に選出される他の有資格者たちと同様に、議会

での自由な評決権を有す 16

る」。つまり、貴族院の廃止は貴族身分の廃止どころか彼らの参政権をも損なわず、その

(22)

三七八

意味では貴族院の復活の可能性は常に開かれているのである。独立派政権が「古来の国制」と決別する覚悟を持ち、

自らを「国王も貴族院もない、コモンウェルスにして自由な国家」と名乗るまでには、さらに二か月という時間を

要するのであっ 17

た。いずれにせよ、「古来の国制」から長老派議員と国王と貴族院とを剥ぎ取っただけの「残りか

す」の現政権にとっての喫緊の課題は、デ・ファクトに存在する共和政体をどのように正当性するかにあった。よ

って、国王処刑からおよそ五〇日、三月も半ばを過ぎてから、まかりなりにも王制と貴族院の廃止を公にできたの

は、このことについてのある程度の見通しがこの時点で漸く立ったからだと見るのが自然である。その意味で、こ

の直後の三月二二日に出された、しかも海外向けのラテン語版までも準備された全文二七頁の『イングランド議会

の宣言』は、極めて重要な文書であると言わなければならない。

この『宣言』の目的は、タイトル・ページにあるごとく「自由な国家(FreeState)の様式で現在の統治を確立 する諸々の根拠を表明する」ことにあ 11

る。この文書は冒頭で、一月四日の決議に基づいて、現行議会を「人民によ

り選出され、人民を代表し、人民によって共通善のために信託され権威づけられたイングランド議会」と規定しつ

つ、「最近の統治の改変」は「専制、不正、戦争、そして我々の以前のすべての悪事を再生しようとする敵の権力

を挫くために」必要であったと述べる。そして、イングランドの王制が当初「人民の協約」(AgreementofthePeo-

ple)に基づいていたとし、その目的を「人民の保護と善」また「人民の同意する法に基づいたより良き統治」に

19

く。そのうえでこの文書は、チャールズ一世が人民の信託に叛くことにおいては、歴代の王の中で突出していた

ことを示すべく、即位当初から第二次内戦にいたるまでの失政と専制の実例を三頁以上に亘って列挙し、彼の裁判

と処刑が妥当な措置であったことを示そうとしてい 90

る。

こうした①イングランド人民の代表として最高権力を有するランプ議会の位置づけと、②チャールズ一世の専制

(23)

三七九共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) 行為との組み合わせから成る戦略は、一六四九年一月四日の庶民院宣言、同六日の「特別裁判所設置法」、同二〇 日に裁判委員トマス・クック(ThomasCook)によって法廷で朗読された起訴状、そして同二七日に裁判長ジョ ン・ブラッドショー(JohnBradshaw)を通じて下される判決の中で一貫して採られている論理を継承したもので

ある。ここで①と②を結びつけているのは、王位を人民の利益すなわち人民の自由と権利の保全のために創設され

た「官職」、そして国王をその職務に就いた「官吏」と見る思想であ 91

る。『宣言』においては、それは次のように述

べられる。

最初に国王を立てて、彼を共通善のための公的官吏(publiqueOfficer)にしたその権力と権威が悪用されて、

共通の災難に見舞われていることに気づいたのであるから、その官吏をこれ以上使い続けようと、あるいはそ

の統治をより良いものに変えて、専制を復帰させる代わりに自由な国家(FreeState)にすることを決定しよ うと、それはその官吏が仕える人民の都合次第であることは正当に認められるであろ 91

う。

すなわち、ランプ議会による国王裁判と処刑、そして「以前の王制から共和制(Republique)への統治の変 93

更」は、

権力の源泉としての人民の抵抗権と国制変更権に基づいた行為である。ここに、一六世紀以来のモナルコマキや長

期議会の理論家たちを拘束していた王制という枠組みは突破され、「人民の代表」としての一院制議会の統治によ

る共和国が弁証されようとす 94

る。ここに現れるのはまさに『人民協約』の政治世界であり、その意味ではここで説

かれるランプ議会の権能は、それをレヴェラーズの言う「人民の代議体」(People’sRepresentative)あるいはアイ

アトンの「最高評議会」と同一視されて初めて正当化されることになる。しかし、『人民協約』において一院制議

会の権力を正当化したのは、署名によって形成される「人民」による平等な選挙という手続きであり、それは軍の

実力を背景にデ・ファクトに存在しているランプ議会とは根本的に異なっている。チャールズの圧政を強調するこ

(24)

三八〇

とで議会の抵抗行為や内戦をいくら弁明したところで、それは国王の「政治的身体」の死も共和政体の存在理由も

説明することはできない。専制への抵抗と統治の解体と改変、すなわち「国王殺し」と共和制樹立とは別次元の問

題だからであ 95

る。否、それ以前に、独立派政権は議会の制御を振り切っての軍事行動の遂行、議会の粛清、国王裁

判、国王処刑等々、議会から離れた軍の単独行為それ自体の正当化が必要であったのである。

こうした独立派の政治行動に対して、ロンドン北部のシオン・カレッジを中心にした長老派聖職者のグループは

複数のトラクトを出版することで厳しい批判の声をあげた。彼らは国王裁判が開始されたときにおいても尚、自ら

が「厳粛な同盟と契約」の立場を堅持しており、「古来の国制」の保持と長老主義に基づいた国教会制の樹立を目

指していることを明言す 96

る。ここで重要なのは、独立派の国家構想が『士官人民協約』に基づいており、古来の合

法的統治を転覆して「自らの創意による最も粗野で見慣れない、頭の無い混乱した恣意的・専制的統治」、「彼ら自

身の契約(compacting)による頭を欠いた代議院」を強制的に導入するものと認識されていたことであ 97

る。その後

の政治過程は、まさに「国王も貴族院もないコモンウェルス」を実現させた。しかし、彼らによれば、国王への抵

抗は「下位の為政者」が、すなわち国王とともに「王国の最高権威を信託」されている「議会の両院」が、国制の

保全のために行うべきものである。「私人の寄せ集め」(multitudeofprivatepersons)に過ぎない軍に、その資格は ないのであっ 91

た。

こうした情勢の中で、新しい議論の地平を開いたのが、すぐ後に共和国政府により外国語担当秘書官として雇用

される詩人ジョン・ミルトンの一六四九年二月刊行の著作『国王と為政者の在位権』であった。そこで彼もまた、

政治権力の源泉は人民(共同体)にあり、為政者の行使する権力は人民の信託に由来すると述べる。このことは歴

史的には国王の戴冠式宣誓の事例が証明しているのであって、それは人民自らの同意によって制定される法に、為

(25)

三八一共和制イングランドの政治原理(都法五十四-一) 政者が従うという契約にほかならない。よって、為政者がこの契約を破り人民の付託に応えられないとき、人民は当然のことながら為政者への服従から解除され 99

る。ここまでの主張なら伝統的な抵抗権論に広く共有されるところ

ではあるが、彼はここから一線を越えていく。

国王や為政者が人民の権威を保持しているのは、起源においても自然的にも、自らの善のためではなく、一義

的に人民の善のためである。よって、人民は自ら最善と思われる仕方で統治されるのに最善だと判断するたび 0000000000

0とに 00、ただ自由に生れついた人間の自由や権利として、国王や為政者を選定したり拒絶したり維持したり、

あるいはまた専制支配者でもない者を 00000000000廃位したりしてよいのである。このことは、平明な理性の支持がえられ

ぬはずのないところであり、また聖書によっても立証される。「あなたがあなたの神、主が賜わる地に行き、

『わたしも周囲のすべての国びとのように、わたしの上に王を立てよう』と言うならば」(申命記一七―

14)。

この言葉は、彼ら自身の統治の選択権だけでなく統治の変更権が神御自身の認可において人民に存することを、

我々に確証しているのである(傍点引用 (11

者)。

国制の変更権は神に承認された人民の根源的権利であり、この行使においては為政者が専制支配者である必要もな

い。ランプ議会による共和制への政体の改変は、人民の直接的な権力の発動として弁証される。そして、当のラン

プ議会が単なる「殺人者」にして「私人の寄せ集め」である軍の暴力に依存しているという批判に対して、ミルト

ンは抵抗の主体を「下位の為政者」に限定する伝統的な抵抗権論の中にある重要な例外に着目することで応答しよ

うとする。すなわち、モナルコマキの論客は「専制支配者」を「実践による専制支配者」(tyrantbypractice)と

「簒奪による専制支配者」(tyrantbyusurpationorwithouttitle)とにしばしば区分したが、「下位の為政者」による

抵抗が想定されたのは専ら国内の専制に対応する前者であった。戦争等による外国勢力(外敵)の侵略を意味する

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