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死別と差別 9 編 日本史年表 角川 日本史辞典 国史辞典四 ( 豊田武 ). 日本歴史大辞典 5 ( 藤谷俊雄 ) 広辞苑 ところで 寛永十六己卯八月吉祥曰 の奥付のある 吉利支丹物 語巻第下 の きりしたんしう L 御せいばいの事 の条に 日本国の しゆご地とう代くわんとうに仰付られ 里々うらノ

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‐▲■■V■■▽8口qD0■■000qSBT0●0● ■」二二』ぬ■■nmMmwM叩、叩nW叫叩皿咀川口wpqJ06ⅡⅡ▽■Ⅱ日■UD0lP0l00Il■■■■■50や1,0口 8 ⑪ キリシタンの死別と部落の差別とは、表裏一体となって、徳川幕藩 体制によって遂行されてゆくのであるか、この小論では、その基点と なった、宗門改役の設置を中心として考察を加えたい。 周知のように、島原の乱は、寛永十四年(一六三七)十一月九日に 勃発し、翌寛永十五年(一六一一一八)一一月二十七日に、その拠点である 原城が陥落して平定した。しかし、この乱は、主将板倉重昌を戦死さ せたのみならず、まだ基礎の固まらぬ徳川幕藩体制を根底からゆり動 かしたのである。 その年、九月二十日には、徳川幕府は耶蘇教(キリスト教)の禁を 厳にしているが、しかしこれは、豊臣政権下の天正十五年(一五八 七)六月に発せられた伴天連追放令を、徳川政権も継承したからであ り、島原の乱の原因もそこに胚胎している。 すでに、徳川政権下においても、慶長十七年(一六一一一)三月十一 日に「天主教徒査検」の命令が出され、同年三月一一十一日には、京都 所司代板倉勝重は、京都における天主教の寺院を破却している。ま た、有名な金地院崇伝の「伴天連追放文」は、家康の命により、その 翌年の慶長十八年(一六一三)十二月一一十三日に起草され、朱印の 序

死別と差別

I宗門改役の設置を中心としてI

‘ 上、京職へ伝達されている。 従って、キリシタン弾圧は、徳川幕府の基本方針の一つであったの であり、その方針は修正されることなく、最幕末まで一貫してつづけ られるのであるが、そのキリシタン禁止の高札が廃止されるのは、実 に明治六年(一八七三)二月のことであった。 初代の「宗門改役」が、「井上筑後守政重」であることには、異H論 がない。しかし、「宗門改役」の設置の時期については、次の二つの 有力なる説が存在する。 寛永十六年(一六三九)説 辻善之助著「日本仏教史近世篇之三」・辻達也箸「江戸開府」・ 岡田正之「徳川幕府吉利支丹宗門改考」(史学会雑誌第五号)・大 森金五郎・高橋昌造共著「最新日本歴史年表(増訂版ピ・大谷大 学編「真宗年表」 寛永十七年C六四○)説 朝尾直弘著「鎖国」・姉崎正治箸「切支丹宗門の迫害と潜伏」・圭 室文雄箸「江戸幕府の宗教統制」・藤井学「江戸幕府の宗教統制」 (日本歴史近世3)・笠原一男編「日本宗教史年表」・歴史学研究会

西愛之助

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死別と差別…9 編「日本史年表」・角川「日本史辞典」・「国史辞典四」(豊田武) .「日本歴史大辞典5」(藤谷俊雄)・「広辞苑」 ところで、「寛永十六己卯八月吉祥曰」の奥付のある「吉利支丹物 語巻第下」の「きりしたんしうL御せいばいの事」の条に、「日本国の しゆご地とう代くわんとうに仰付られ、里々うらノー、山が山が、嶋 々のこる所なく、昨日けふむまれたるあか子まで、それ人、当寺のだ んな寺よりせう文にのせ、し嵐そんノー当寺のだん家にまぎれ御座な し、もし此うち一人なり共きりしたんのしうし御座候は目、寺のぎは 御けっしょなされ、ばうずはいかやうにも御せいばいたるべしと、か たく書物を仕りさ員げ奉る、町人は町のとしより月行事、村々はしや うやおも百姓、ぶしは物かしら、年ごとに御あらためもる凶事なく、 あまつきへ諸国のざいノーにそくたくの高札ありといへども、や■も すれば十人廿人づ&さがし出されて、火あぶり、さかはつけ、水つ け、さま人、の御せいばい今にたへざる御事は、ふしんはれがたしと 云々」と記されている。この記事によれば、「寛永十六年八月」の時点 以前において、全国的な規模により、寺請檀家制度の実施されている ことを示しており、宗門改も、「町人は町のとしより月行事、村々は しやうやおも百姓、ぶしは物がしら」という形式によって実施されて いることを確認することができる。このことは、正式な「宗門改役」 の登場をも示唆しているがごとくである。 寛永年間の宗門改帳については、神崎彰利氏の論文「領主と農民」

(近世郷土史研究法所載)に「現存する宗門改帳で、管見の範囲で最

も古いと思われるのは、一六三四年(寛永十一)肥前国平戸町の「芦 町人数改之帳」(九州大定文化史研究所蔵)であろう。表題からみる と家数人別改帳のような感を受けるが、しかし実際に寺請をしている

ので宗門改帳と見て差支えはない。本帳は平戸という地訓域性を考える》一口か。

,.》|・,β’(|ザ(・《。.、ど」’一机・」評F’・へ一一コr雷.←|で.。一・・、

と、後の宗門改帳へ直接に結びつくとはいいがたい。これにつぐも@F■1丁い』》『戸

として、一六三八年(寛永十五)十月の美濃P国多芸郡下印食村「伴M天、十

連いるまん吉利支丹御法度御改帳」(史料館所蔵)篝がある。本帳に川は〈~1

庄屋甚兵術o清次郎をはじめ計一○三軒五七七人『が寺請しているがへ({ しかし本帳は写本であるためその信瀕性が問題となっている。」と紹介「

され、更に「ここでごく古い宗門改帳の一事例どして、一六四二年Y“

(寛永十九)近江国滋賀郡比叡辻村「宗旨改帳」の一部をあげてみた。」 とその一部を紹介されているが、その末尾は次の通り記されている。J 右当町裏屋借屋迄不残遂吟味、宗門紛無御座候、弁当御改之不受

一不施等茂無御座侯、猶後二至、不審成者候者早速可申出候、面々Ⅱ

宗旨之儀ハ寺々請判五人組加判致シ候上ハ、若何方が、も切支丹之(t一

訴人出由‐候ハ、其者之旦那坊主連判之者共、御公儀様江罷出急度~布

可申分候、御年寄中江少も御難懸申間敷候、為其連判状如件■《一

比叡辻肝煎》 久兵衛⑩ 左治兵衛④しげぃ口 小佐右衛門④!~ 浜坂本 御年寄中 そして、神崎彰利氏は、「本帳の作成意図は、奥書にもみられるよr占 うにキリシタン統制のために作成されたことは明らかであり、形式は。 》「糺旨 後年の宗門改帳と大差はなく、宗門改帳の先駆的弁や一例ということが□ できよう。」と断定されている。 これ以外の寛永時代のものとしては、平井良朋氏が「明日香村史上1 IF

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10 ⑰ 巻」の「宗門改めと宗旨送り」の項において、「明日香村域に残る最 も古い戸数、人口の調査書は寛永十七年「細川村家数人数之帳」(天理 図書館蔵細川村文書)というもので、稀有の例に属し、家数三四軒、 人口八四人、牛三頭と示されている」と紹介されている。しかし、そ のごく一部分を紹介された写真を見る限り、その内容は、「宗門改帳」 というよりも、文字通り「家数人数之帳」のごとくである。 ここに紹介する、寛永十六年夘六月十八日付「摂州御知行所吉利支 (史料ご 丹改之帳」(関西大学図書館蔵西田家文書)は、その内容は疑いもな く「宗門改帳」であり、その末尾は次の如く記されている。 右之内壱人として吉利支丹無御座候、為其家数井人数帳二作り指 止申候、拙者共手前一一も小百姓迄不残判形仕、宗旨儀書付、引か へ帳致置申候、弥ノー無油断穿盤可仕候、己上 寛永十六年 夘六月十八日 半右衛門 久五郎 仁右衛門 九郎右衛門 孫左衛門 久右衛門 庄介 甚介 仁介 左右衛門 本多平兵衛様 名倉五郎兵衛様 この「吉利支丹改之帳」は、次の領主(板倉周防守重宗)よりの命 令によって作成されたものと推察される。 覚 一吉利支丹宗門郷中として穿繋可仕事 一男女拾年己来何方へ奉公井商二参候共、宗旨何見候様書付置可 申事 一他所が男女共一一於罷帰ハ、只今迄何方二罷在所委書付、宗旨之 穿鑿可仕、付兼而之宗旨不存候もの、郷中一一不可置事 一在所宗旨兼而存候もの、他所β縁付二於来者、本在所之庄屋年 寄百姓宗旨迄書付、無相違其郷二置候様一一と手形取可申事 一其在所男女共一一人数何程井家数共二帳二作り庄屋肝煎判形仕、 此方へも差上、郷中一一も置可申事 寛永十六年 夘二月廿曰 周防 摂州在ど 庄屋 一家主又兵衛 肝煎 此家二居申人数 百姓中 この一紙文書(関西大学図書館蔵西田家文書)の末尾の上に記され

ている。家主又兵衛此家二居申人数」の文字は、「吉利支丹改

之帳」の様式例として示されたものでああり、この「覚」は、「周防」

より、その支配下にある「摂州在こ」の「庄屋肝煎百姓中」へ廻状と して伝達されたものである。従って、これと同一形式の「宗門改帳」 は、すくなくとも、板倉重宗支配下の摂津の村々において作成された ことは当然考えられるところであり、更に、板倉重宗支配下の他の国 1‐’ャ」L・lAd4Jo、.、△■■『Rvも理』□演刀 74

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死別と差別…11 右の表に(記入ナシ)とあるのは、「吉利支丹改之帳」の宗旨の記 入洩れか、或いは、まだ、宗旨が確定したいかの、いずれかであるも のと考えられる。この「吉利支丹改之帳」の特徴は、後世の「宗門改

帳」とちがって、「寺請」ではなく、その宗旨の証明は、庄屋以下村

の重立ったもの、それこそ、「吉利支丹物語」が記すごとく、「村々は

しやうやおも百姓」が、しているのであり、これは、「覚」の第一条

「吉利支丹宗門郷中として穿鑿可仕事」を遵法しているのである。

それにしても、この「覚」及びそれにもとずく「吉利支丹改之帳」

の存在は、キリシタン弾圧に対する権力側の意思が、行政機構の末端

にまで浸透した事実を示しているとともに、そこに権力側による宗門

改めへの確固たる意思が示され、「宗門改役」の設置もまた、すぐな

々の村々においても作成されたものと推察される。(史料一一) いま、現存するこの「吉利支丹改之帳」により、摂津国芥川郡高浜 村の、宗旨別、家数人数を表示すると次の通りである。,

旨|家数

土I15 1(内下人9)

麹LL塗

宗一浄 94 (内下人32) 禅 もんと 法花 (記入ナシ) 48 7 (内禅寺1)夕 641 32 855 ハム⑨旭托〉耐喀割埣憾⑪描箏疏藩側麹擁蝿熾懸圏報繩慰漂堅忠嘩》暇》曄鈩 計 33 210 ,‐..、ノタワ。.|釦誹・‐ら.’.・1..‐、...‐.。~ 『・1jL□04

く。と、一一一一一一一一一》一一、「寛永十六年夘月一二月廿日」以前に一さかのぼるこ-と.一一一一一一一一一一一一一口訂想一定ィせく(玉》

‐‐へ迎由。.. ‐『‐.I←,ローマ●》▽●〃■‐・い ‐.。。印・C1|》ぜ、OJD’,の ’一一一一一一め一るのである。 』.》‐oェlPq〈‐一口一

コ亘ところで、「茨木市史」史料編には九次の「江戸幕府老中連(署奉書』ノトL

(永井家文書〉が、]一通紹介言されている。? (附菱) 「寛永十六卯年」 一筆令啓候、●一一一一一一〔」一・りしたん宗門事、従此以前、(雛御制禁侯、干今断?T 絶無之候、弥領分中堅可相改之旨、重而被仰出候、被得其意可有.T・ 穿鑿候、若訴人於有之者、最前差越候如御書付、それDlく一己0に従公ノ? 義御褒美可被下之旨候、為其如此候、恐々謹言 阿部対馬守 二月八日

重次(花押)蕾かつ二」へ

阿部豊後守 ・一一一一》亙壹一・一一・ ■△|{》一二一一一一一一一‐q ■ ‐’0|刊 松平伊豆守 信綱(花押〕〆 永井日向守殿 ○ (附麹) 「寛永十六卯年」 伴天連弁きりしたん宗旨之事、従此以前御制禁候へ共’千今断絶一

無之様被聞召候、依之堅御法度被仰出候間、領分能々遂穿製へ目劔

然右之宗門於有之者捕置、急度可有言上候、恐々謹言 堀田加賀守 八月廿七日 正盛(花押)Ⅱ ,l r q

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‐’’一・一 忠秋(花押)。 ‘、Lb UlF Ul Ti 、1。。ゾ トLl-qd PI 1--q.B、 リ ヂタ 宮PPI才 。P酉‐.。。・ ユ ロ0 。□ロ ブP ̄ 、4.〆 DP■ G LP◆ 笂血(

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12 ⑰ 阿部豊後守 忠秋(花押) 松平伊豆守 信綱(花押) 酒井讃岐守 忠勝(花押) 土井大炊頭 利勝(花押) 水井日向守殿 二月八日付の老中連署には、「弥領分中堅可相改之旨、重而被仰出 候」と記されているが、キリシタン弾圧の幕閣よりの指令は、これ以 前にもなされていることは「御触書寛保集成」寛永十二年九月条に 「伴天連井きりしたん宗旨之儀、従此以前、雌為御制禁、至干今無断 絶様被聞召之間、弥領内並面々家中急度相改、自然右之宗門於有之は 捕置、可致言上之、自分之儀は勿論、組中与力、歩行、同心以下迄相 触之旨、執役之面々於御白書院、上意之趣年寄被申渡畢」と記されて いる通りである。しかし、このたびの指令には、「弥領分中堅可相改 之旨」と強調されているのである。これは、「御触書寛保集成」寛永 、、、、、、、 十五年十一一月条に「出仕之諸大名被留置、きりしたん宗門御法度之 、、、、、、 儀、最前雌被仰出、此頃於江戸中余多改出之間、重て国々其外之面々 、 領内え堅可申付之旨、上意之趣、於大廊下老中被申渡之」(傍点は筆 者)ど記されていることをうけているものと推察される。この並々な らぬキリシタン弾圧への上意の申渡は、そこにすでに、「宗門改役」が 正式に設置され、その機能が発動されたことを想定せしめるものがあ る。そして、寛永十五年十二月には「きりしたん宗門」「江戸中余多 .,ICq1mU‐ロ.十J鋼旧。.w函圷回..(祗咀○句●も 改」とあり、「宗門改役」としての初仕事はまず、お膝もとの江戸か ら始められたものと考えられる。

また、「契利斯督記」(続々群書類従第十二宗教)には、「大猷院様御

代嶋原一侯落城以後、従仙台、伴天連寿庵、マルチイニョ市左衛門、 キベノーイトロ召捕参候、評定場江四度出申候へドモ、御穿繋キワマ リ不申、其後讃岐守下屋敷江被為成、三人ノ伴天連被召出、沢庵柳生 但馬守其外寄合、宗門ノ教御尋、一一三日過、中根壱岐守為上使、筑後 守二被仰付、右三人ノ者共評定所江出シ不申、筑後守一人ニテ穿鑿仕 候由」と記されている。「鴫原一撲落城以後」とは、いうまでもな く、寛永十五年一一月二十七日の原城陥落以後であり、同年九月一一十日

には、耶蘇教の禁を厳にしていることは、先に記した通りである。こ

の一連の記事は、その文脈上、同年のことと考えられ、とくに、「中

根壱岐守為上使、筑後守二被仰付、右三人ノ者共評定所江出シ不申、

筑後守一人ニテ穿鑿仕候由」とある記事は、「宗門改役」として、筑

後守(井上政重)が任命されたことを明確に示している。

また、「寛政重修諸家譜」井上政重の項に「十五年正月三日、肥前 国島原の賊徒蜂起せるにより、上使にさ出れてかの地におもむくのと き、青江の御刀及び時服、羽織、黄金等をたまふo十二月四日、与力

五騎、同心二十人をあづけらる。」と記されているが、この「与力五

騎、同心二十人」は、「宗門改役」としての井上政重に、配下として

つけられたものと推考されるとともに、井上政重の「宗門改役」の就 、、、、、、、、、、 任は、房」の年「寛永十五年十一一月四日」のことと推定される。時に、 井上政重、年五十四。 なお、「寛政重修諸家譜」の井上政重の項には、前記の記事につづ いて、「十七年六月十二日、六千石の新恩あり、すべて一万石を領す。 72 、

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死別と差別…13 このとし、おほせをうけてしばノー西国に往還し、また長崎におもむ き、異国の商船をよび耶蘇禁制等の事を裁許す。」と記されており、 「寛永十七年説」及び「寛永十七年六月説」は、ここに根拠をおいて いるもののごとくであるが、これは、「寛永十五年十二月四日」に「宗 門改役」に就任して以後、その敏腕をふるった功績に対する加増と考 えられ、この年、命により、井上政重は江戸を離れて、西国及び長崎 におもむいて、その任務を果していることを記しているのである。 一一 「宗門改役」の設置される縁由は、いうまでもなく、天正十五年 (一五八七)六月十九日付の秀吉による伴天連追放令に端を発してい る。この「伴天連追放令」(松浦史料博物館蔵)の全文は次の通りであ る。 定 一日本ハ神国たる処、きりしたん国より邪法を授候俵、太以不可然 候事 一其国郡之者を近付門徒になし、神社仏閣を打破らせ、前代未聞 候、国郡在所知行等給人に被下候儀者当座之事候、天下よりの御 法度を相守、諸事可得其意処、下どとして狼義曲事事 一伴天連其知恵之法を以、心さし次第一一檀那を持候と被思召候ヘ ハ、如右日域之仏法を相破事曲事候条、伴天連儀曰本之地一天お かせられ間数候間、今日より廿日之間一一用意仕、可帰国候、其中 に下ミ伴天連に不謂族申懸もの在之へ曲事たるへき事 一黒船之儀ハ商買之事候間、各別候之条、年月を経、諸事売買いた すへき事. -自今以後、仏法のさまたけを不成輩ハ、商人之儀ハ不及申、いつ ○一□r》・’七・巳、。rや一町.,『γ・・》けか.:..,hb、広6.、 リシタン」も、ともに、上下関係に依拠する封建的権力者の恐れるも のであり、秀吉の「仏法」を保護する真の意図は、むしろ、キリシタ ンの浸透に対する駆除策・予防策としての利用ではなかったか。この 時点の秀吉の言として、宣教師フロイスは、その手紙に「宣教師は、 霊魂の救いを口実に諸大名や貴族をはじめ、多くの人々をあつめ、日 本に革命を企てている。もしこれを阻止しなければ、』向宗の法を説 くといって多数の人民をあつめ地方の領主を殺し天下の君信長を苦し めた、大坂の坊主とおなじことにたろう。しかも、・大」坂の坊主が下賎 の民の心をとらえたのとちがって、宣教師は大名d貴族一をひきつけて

いるので、いっそう危険であり恐》るべき存在だ。」という主旨のごどむ・

記している。(藤木久志箸「織田・豊臣政権」一二六ページ) これよりのち、慶長十八年(一六一一一一)十二月一一十一一一日に、家康の 命によって金地院崇伝が起草した長文の「伴天連追放文」は『乾為父

れにてもきりしたん国より往還くるしからす候条、可成其意事

己上 天正十五年六月十九日 この「伴天連追放令」は同時に、「仏法」の保護法令でもある。第 三条の「日域之仏法を相破事曲事」といい、第五条の「仏法のさまた けを不成輩」は「きりしたん国よりの往還くるしからす」といい、秀 吉の「仏法」保護の意図は明らかである。但し、この「仏法」は、す でに権力者への反抗の牙を抜かれた「仏法」である。秀吉は、これよ り先、天正十三年(一五八五)四月二十二日、最後の一向一摸である 雑賀の一撲を、その拠点である太田の塁に追いつめて、その息の根を とめている。 「仏」の前に平等を説く「仏法」も、「神」の前に平等を説く「キ いい.。・・・■。』〉|■L●1も』し④ログb▲■|●iBp必6-)P叱処FT△】●P-hP●■9帥や△』ロ』可■ザら一ロロ・・い■0 71- ワ ミ .

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14 ② 坤為母、人生於其中間、三才於是定突、夫日本者元是神国也」との書 辺 き出しから始まり、その文中には「安吉利支丹之徒党、適来於曰本、 非菅波商船而通資財、切欲弘邪怯惑正宗、以改域中之政、号作己有、 是大禍之萌也、不可有不制英」と記され、また、「彼伴天連徒党、皆反 件政令、嫌疑神道、誹誘正法、残義損善、見有刑人、載欣載奔、自拝 目礼、以是為宗之本懐、非邪法何哉、実神敵仏敵也、急不禁、後世必 有田家之患Lと記されている。 キリシタンの浸透力に対する危機感は、統一政権の権力者である秀 吉も家康も同一であり、ともに、キリシタンを「邪法」と規定し、そ れを廃除せんとしているのである。一向一侯が内なる敵であるとすれ ば、それを克服した統一政権にとって、キリシタンは、外よりきたる 敵であったともいえる。 この外よりきたる敵を、更に徹底して廃除しようとしたのが、寛永 鎖国令である。その第一次鎖国令は、寛永十年(一六三一一一)一一月、第 一一次鎖国令は、寛永十一年(一六一一一四)五月、第三次鎖国令は、寛永 十一一年(一六三五)五月、第四次鎖国令は、寛永十三年(一六一一一六) 五月、そして最後の第五次鎖国令は、寛永十六年(一六三九)七月の ことであった。第四次と第五次の鎖国令の間には、島原の乱が惹起し 鎮圧されている。そして、その乱の鎮圧後、「宗門改役」が設置され、 最後の鎖国令が発令されるのである。 「宗門改役」の管掌及び設置については、岡田正之氏は「宗門改ノ 役ハ大目付作事奉行ノ両職ヨリ之ヲ兼ヌル者ニシテ、延宝天和貞享ノ 頃へ吉利支丹御支配、或ハ切支丹奉行ト呼上、宝永以後ハ宗門改役 oCO。◎。。0。000。。。。。。。。。。。o ト称セリ、其掌レル所ハ教徒ノ有無ヲ検察シ、信否ヲ審判スルニ在 oCOCOCOCO。。。。。。。。00CO。。。。COCO リ、語ヲ換ヘテ之ヲ言ヘハ、宗門上二於ケル警察ノ行政卜司法トノ両 CO。。。。o 権ヲ有スルナⅡ/、而シテ諸般ノ法制ハ老中ノ編成規定スル所二係Ⅱソ、 奉行ハ其旨ヲ遵守施行スルニ過ギズ」「幕府ノ新二職官ヲ設ケルャ、 始メョリ職員ヲ定〆、掌程ヲ立テ、後其人ヲ挙グルニァラズ、荷モ監 理スベキ事件ノ起ルアレハ、一時ノ便宜ニョリ、適任ノ人ヲ選テ、其 局一一当ラシムルニ在り、而ルニー時ノ便宜ハ規矩ヲ将来二与へ、相因 り相襲フテ一代ノ典例トナレル者ナリ、大目付作事奉行ノ吉利支丹奉 。。。COCOCOCO。◎CO。。o 行ヲ兼ヌルモ亦其類トナス、大目付二在リテ吉利支丹奉行ヲ兼ヌルハ oCO。。。。COCO。。CO 井上筑後守政重ヲ以テ権輿トナス、蓋シ宗教禁絶ノ初〆、江戸ニ在Ⅱノ テハ、教徒ノ審問ハ、老中ノ邸第、若クハ評定所一一於テ之ヲ行フヲ例 トナセリ、然ルー寛永十六年以後ハ大率政重一人一一命シテ之ヲ担任セ シメ、老中若クハ評定所一一於テ関係セザリキ」(徳川幕府吉利支丹宗 門改考)と明快に記述されている。この初代の「宗門改役」である井 上政重が、その職を辞したのは、万治元年(一六五八)閏十一一月八日 のことであった。(寛政重修諸家譜) 「宗門改役」の設置にともない、与力同心の他に、その下部機構と して部落の人々が使役させられたことは、「契利斯督記」に、「宗門ツ ルシ候時分ハ、一一三日モ前廉二町奉行所江申遣、ツルシ場出来次第 一一、ツルシ候モノ伝馬町龍屋ヨリ出遣候、其時分ハハ町奉行衆与力同 心付候而参候、時分ノモノハ先立、ツルシ場へ参相待居申候、ツルシ モノ参候得べ穂多二申付、ツルサセ候事、町奉行与力同心ハカマイ 申サズ候、昼夜ツルシ場一一番仕候義モ滅多致候、所ハ浅草穂多居申近 所ニテ候、ツルシモノ白状可仕ト申候へ(、稔多注進イタシ候、其刻 家頼ノモノヲ遣、様子相尋候、大事之ツルシモノヲバ、筑後守時分ニ ハ、筑後守、野村彦太夫一一倍置候野屋敷之内ニテッルシ候由、其伽モ 番ハ糠多仕候」と記されていることからJもうかがわれる。 70 ●

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16 づ 十一年(一六四四)十二月十一日の時点で、「乞食八十人、おんぼう 七人、合計八十七人」いたものか、翌正係一一年(一六四五)四月三日 の時点では、「ころひ十人」となっている。とすると、この間の四ヶ 月近い間の「きりしたんころひ之物きんミ」が、いかにきびしいもの であったかが想像されるのである。それとともに、この時点において、 「きりしたんころひ之物」の吟味権が、長吏に委任されていたことを も、この文書は示している。 岡田正之氏は一‐当時最下等ノ人類トシテ度外一一置キタル乞食非人ト 雌トモ、亦之(踏絵)ヲ踏マシム、蓋シ禁教ノ厳ナルヲ以テ、教徒ハ 攻ハ逃テ乞食非人一一掃スル者アリ、寛永七年、大坂二於テ逮捕スル所 ノ信者七十名ノ如キ是ナリ、幕府ハ之二聾ミル所アリ、是ヨリ乞食非 人ト鮒トモ、亦之ヲ改メ之ヲ踏マシムルニ至レルナリ」(徳川幕府吉 利支丹宗門改考)と報じておられる。ここに記されている「乞食」と 切文丹」(ころびきりしたん)の実例が収録されているが、その左か には、「非人切支丹転「一「乞食切支丹転」のみならず、「切支丹転」の子 孫が「長吏」になっている実例も紹介されている。(切支丹転類族之 内、長史与右衛門病死一一付土葬一一取置候、井竹林寺組頭芯一札之事) キリシタンの転宗については、「契利斯督記」に「伴天連入満同宿 宗門之モノコロピ候時分ハ、成程堅ク申付、宗旨ヲ替、禅宗或ハ浄土 定される。 「宗門改役」の設置は、そのことを推進するのに力があったものと想 「戸籍」は、宗門改めによって整備されてゆくのである。とくに、「 人「」は戸籍があり、「乞食」は戸籍からもれている。そして、その 「非人」との相違は『戸籍」への記載の有無が基準となっており、「非 「非人垣外一件一番」及び「非人垣外一件二番」には、多数の「転 宗一一被成、寺参ヲ申、旦那ニイタシ、伴天連入満ニハ女房ヲ被下候、

其上ニテ立アガリ申時分ハ、吉利支丹アイシラィニハ不仕、スリ盗ア

テガイニイタシ、斬罪可仕被仰付、同宿宗門ノ者、小日向ニテモ一一三

人、龍屋ニテモ五六十人モ切捨申候由」と記されている。これは、江

戸の例であるが、慶安元年子五目日付「乞食寺竹林寺開発之事」(非人

垣外一件一番)と標題のある文書に、「此三ヶ所之非人、先年数度之

宗旨就御改、捨邪法、雌令帰正法、可頼寺依無、御代官鈴木三郎九郎

様、西成郡下難波之於墓地寺地被下者也」と記され、のちに非人の寺

である竹林寺が建立されているが、この寺の宗旨は、いうまでもなく

浄土宗である。しかし、それが何宗であろうと、「邪法」をすて、「正

法」に帰った人々には関係のないことである。キリシタン弾圧のため

に設置された「宗門改役」は、民衆の真の信仰をも奪い去ったのであ

る。 ●●bq 4粥勵や〃4》{がj・訂くい津角刑側凋迩鍼蛾遡璃溌懸蝋鞭灘翰蝿 68

(10)

死別と差別…17 一家主禅宗六右衛門此家ノ人数 壱人女房 壱人男子 合三人 一家主浄土宗九郎右衛門此人数 弐人父母 壱人兄 壱人女房 弐人男子 壱人女房 壱人女子 合九人 一家主禅宗庄九郎此家ノ人数 壱人女一男 合弐人 一家主 孫左衛門此人数 壱人女一居 壱人むすこ 壱人よめ 壱人下女 (史料 摂州御知行所吉利支丹改之帳 殿様へ書上申候写 、-/ 高浜村 24x17.5cm11丁(表紙共) 合五人 一家主禅衆久右衛門此家ノ人数 弐人父母 ママ 一宮人は氏 壱人兄 壱人女房 三人弟内壱人大坂本町へやうし二参候 壱人女子 壱人下女 壱人女房 合十二人 一家主浄土喜右衛門同 壱人母 壱人女房 弐人むすこ 壱人よめ 壱人むすめ 合七人 一家主禅宗久五郎此家ノ人数 壱人女房 壱人あれ 壱入むすこ 壱人むすめ 三人下男 三人下女 合十一人 一家主浄土擬兵衛此家ノ人数 卜■■▽□Tr(■0■FCq』 67

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(11)

18 ■ 壱人女房 壱人兄 壱人女一房 弐人男子 合六人 もんと宗 一家主 久次此人数 壱人母 壱人女房 壱人弟 合四人 一家主禅仁右衛門此人数 壱人母 壱人女一房 弍人むすこ 壱人よめ 壱人兄 壱人女房 三人むすこ 三人女子内壱人萩庄へ縁付 合十四人 一家主禅宗六兵衛 弐人父母 壱人女一房 弐人むすこ 合六人 一家主浄土圧介 弐人父母 ‘ ‐0000V‐‐000013I00QI01■Ⅱ■I●●V‐・ヴ●G0■■■q:I●、■■001口□pD0um■ⅡlDr00D■■OUI凸■■ldr0L70いいL■□FqD叩,9凸■9L尼IⅢ、叱皿Ⅲ‐りい0乢殴16-■DU■。 壱人女房 弐人むすと 壱人女子一口村へ縁付 弐人祖父祖母 三人むすこ内壱人何方一一い申も親も不存候 壱人むすめ淀へ縁付 合十四人 もんと宗 一家主 四郎兵衛 弐人父母 壱人女房 弐人むすと 壱人女子 合七人 一家主法花彦右衛門 弐人父母 壱人女房 合四人 もんと 一家主 仁左衛門 壱人女房 壱人むすめ 壱人弟 壱人女房 弐人むすめ 壱人下男 合八人 一家主法花市介 弐人父母 ひ 66 Ⅱ小円0n0iTlJ-Hj⑩1廻曙短剣凹咀甸已【

(12)

死別と差別…19 壱人女房 壱人弟 壱人女房 三人いもうと内壱人橋本へ縁付 合九人 一家主もんと甚介 壱人女一房 壱人男女 弍人むすめ内壱人補葉村へ縁付 壱人下男 一家主もん仁小介 壱人女房 弐人むすこ 壱人むすめ 壱人弟六左衛門 壱人女房 合七人 一家主法花又蔵 弐人父母 壱人女房 弐人弟 弐人女子内壱人大和郡山へ縁付 合八人 一家’主しんと久八 壱人母 壱人女房 合六人 弐人弟 壱人女房 合六人 一家主浄土左右衛門 壱人女房 弐人むすこ 壱人むすめ西岡へ縁付 左右衛門下人 一家三右衛門 弐人弟内壱人鵜殿村へやうし一一参候 壱人いもうと河内市之宮へ縁付 合十一人 一家主法花仁介 弐人父母 壱人女房 合四人 一家主浄土半右衛門此家ノ人数 壱人母 壱人女房 弐人弟内一人京四条へやうし一一参候 七人下女 九人下男 半右衛門下人 一家勘七 女房 壱人女房 壱人母 、 65 戯!

(13)

20 ⑪ 一家主禅寺浄春庵 家数合三十三間 合四十七人 半右衛門下人 一家長兵衛 女一房 壱人男子 一家与作 壱人女一房 弐人あれ内壱人西岡へ縁付 一家善右衛門 壱人女一房 一家作右衛門 壱人女一房 壱人女子 一家又右衛門 壱人女房 弐人弟内壱人京四条へやうし一一参候 一家三介 壱人母 壱人女一房 几間半占衛門下人 句 壱人女房 弐人父母 家新右衛門 壱人女子河内へ縁付 ‐‐101111小101.1601.01rI1〈IlrIII00■■1111小l1Il0l0I0Dトー0ルー,トーLⅡい■■wlrlpU吟ⅢOUl0卜恥・トーリーDoINim0l殉011‐Lい■IⅢい酔い-8■00口■1,0い凹酎pD0小ⅡrⅢM0DepU皿日■、□、▽△ロロUI小心□■応MPL0E瓜ⅣⅢハト町■■【旧いⅢ肌取LmpI曰0,N〃 少 壱間禅寺 人数合弐百十人 内 百七人男 百三人女 右之内壱人として吉利支丹無御座候、為其家数井人数帳二作り指上申候、拙 者共手前一一も小百姓迄不残判形仕、宗旨儀書付、引かへ帳致置申候、弥ノー 無油断穿繋可仕候、巳上 寛永十六年 夘六月十八日 半右衛門 本多平兵衛様 名倉五郎兵衛様 左仁甚庄久孫九仁久

纂嘉鶯篝Ⅲ

右 衛 門介介介門門門門郎 庁 64

(14)

死別と差Z 21 先高百三拾五石六升 芥川郡 一高百三拾弐石九斗九升八合 広瀬村 先高三百石 一高弐百三拾六石四斗七升弐合 同村 外高弐拾石八斗四合 小物成 先高五拾石 一高五拾一一一石五斗三升三合 東大寺村 先高八拾八石五合 一高六拾五石弐斗七合 尺代村 外高四石八斗 小物成 先高百三石一一一斗四升五合 一高百三拾石五斗壱升弐合 神内村 外高三斗六升 小物成 光高四百五石弍斗六升四合 一高三百四拾九石四斗七升四合 高浜村 (高) 外拾三石弐斗五升四合小物成 先高一一一百一一一拾五石三斗四合 一高四百九拾三石九斗壱升四合 上牧村 外高九斗六升 小物成 先高五百壱石八斗壱升六合 (史料二) 板倉周防守様御知所高之覚 24.5×17.5cm20丁(表紙共)

―高六百五拾八石五升壱合 梶原村 外高壱石七斗六升小物成 先高八百四拾八石壱斗 一高八百拾八石壱斗六合 郡家村 外高壱斗四升小物成 先高四百五拾八石壱斗七升 一高五百八石七斗七升九合 氷室村 内弐百弐拾弐石弐合 氷室 内弐百八拾六石七斗七升七合女世川 外高六斗小物成 先高弐百三拾六石三斗 一高三百壱石三斗六升九合 土室村 外高七斗 小物成 先高八拾八石五斗三升 一高九拾八石壱斗八升七合 岡本村 外高壱石弐斗四升小物成 先高百六拾弐石三斗九升八合 一高百七拾五石九升六合 奈佐原村 外高弐石小物成 先高六拾弐石壱斗 一高九拾五石八斗弐升四合 塚原村 外高壱石四斗四升小物成 先高弐拾壱石弐斗弐升弐合 一高弐拾三石六斗九升三合 笑仙寺 先高弐拾四石 一高四拾三石七斗五升五合 夙名村 先高四百九拾八石 63

(15)

22 沙 ―高五百五拾四石五升 宮田村 先高五百五石壱斗 卍 ―高六百拾一一一石五斗六升弐合 五百住村 外高壱石弐斗小物成 先高弐百四拾弐石七斗五升 一高弐百七拾弐石七升四合 赤大路村 先高三百拾弐石七斗八升 太田郡 一高三百拾六石八斗六升八合 惣持寺村 先高九百四拾九石弐斗外拾五石四斗三升七合開 一高千七拾壱石弐斗六升七合 戸伏村 内一一一百五拾一一一石六斗四升弐合庄村 内百四拾壱石三斗五升壱合戸伏村 内百六拾五石九斗五升八合橋之内 内弐百弐石壱斗九升四合牟礼 先高千弐百拾石九斗弐升六合 一高千百一一一拾八石七斗弐升三合 中条村 内弐百九拾七石弐斗九升七合五日市 内弐百九石弐斗九升三合畠田 内百九拾九石三斗一一一合田中 内弐百弐拾四石弐斗七升九合倍賀 内弐百八石五斗五升壱合穂積出作 先高九百弐拾弐石八斗 太田郡 一高九百拾八石弐斗四升五合 郡村 内七百四拾石弐斗弐升三合本村 内百七拾八石弐升弐合上野 外高弐石四斗四升小物成 内壱石四斗 本村 内壱石四升 上野 先高弐百弐石八斗四升 外高九石七斗八升五合ひらき |高弐百六拾四石四斗九升五合 道祖本村 外高七斗六升 小物成 先高千八百五拾八石五斗壱升五合外高四石五斗九升七合帳はつれ亥年β納 一高千六百六拾八石七斗六升六合 水尾村 内三百七拾三石八斗 内瀬 内弐百四拾壱石壱斗三升五合地下 内百拾八石三斗壱升壱合 北所 内百四拾四石六斗六升弐合堂村 内弐百七拾六石弐斗八升七合小路 内五百拾四石五斗七升壱合真砂 先高千六拾五石七斗 一高四百六拾四石八斗弐合 嶋村五右衛門分 一高六百八拾六石壱斗一升五合同村甚右衛門分 外高九石六斗六升小物成 先高百六拾五石六斗八升 一高百五拾七石弐斗壱升壱合 野h宮村 外高七拾弐石 小物成 先高三百九拾壱石八斗三升 一高四百拾九石六斗五升三合 鮎川村 先高九百八拾五石八斗 |高千百四拾八石九斗七升八合 沢良宜村 内四百七拾三石九斗六合 東村 内百八拾九石九斗九升 浜村 内弐百三拾八石三斗八升 西村 62

(16)

別先高弐千弐百八十菰六斗一合 別 一高弐千百四拾三石四斗七升七合三宅村 差 と 内一二百九拾六石九斗九升弐合宇野辺村 別 死 内弐百弐拾三石四斗四升壱合丑。 内弐百三拾壱石弐斗壱升七合東くら 内弐百四石七斗八升五合西くら 内弐百拾壱石八斗五斗乙辻 内三百弐拾五石八升 太中 内五百五拾石壱斗一升弐合小坪井 先高三百拾六石 一高三百三拾八石三斗弐合 味舌村 外高弐石六斗小物成 先高弐千五百六拾四石九升 一高弐千七百三拾弐石六斗一升三合吉志部村 内八百六拾五石三斗弐升八合東村 内九百壱石九斗九升七合小路 内百弐拾壱石壱斗壱合七尾 「内一一一百弐拾六石四斗八升南村 内五百拾七石九斗五升吹田村 外高弐石弍斗小物成但小路村へ毎年入 先高八百六拾滴三斗 -高九百五拾石四斗六升 片山村 先高七百弐拾壱石九斗弐升 一高八百弐拾弐石七斗八升壱合別府村 外高三拾石七斗八升小物成 先高千百五拾石六斗七升 .―高千百七拾四石壱斗五升八合一屋村

醗醗職聯聯臘脚鵬勝柵醐附肌臘醐胤附ilIiⅡⅡ:iHN88脚凹ⅡⅢ日日

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百拾高四壱高百四高百廿高拾八高七石ケ百九千万千筒百七石

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村村村村寺村村,

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(17)

24 沙 外高拾三石四斗六升四合小物成 先高弐百拾四石弐斗八升三合 一高弐百四拾弐石八斗四升壱合 千提寺村 外高三石 小物成 先高三百拾八石七斗四升六合 一高四百拾壱石五斗三升 下音羽村 外高拾弐石八斗七升 小物成 先高六拾五石四斗七升九合 一高百拾三石四升弐合 清坂村 外高三石四斗三升 小物成 先高四百三拾九石四合 一高五百五拾壱石三斗三升壱合 銭原村 外高三石三斗 小物成 先高弐百廿壱石八斗八升 一高弐百七拾八石九升五合 上音羽村 外高七石四斗 小物成 先高六百石七斗六升七合 一高六百四拾三石六斗弐升壱合 泉原村 外高拾四石四斗一升弐合小物成 先高弍百拾三石五斗 一高弐百六拾五石七斗八升四合 高山村 外高五石九斗 小物成 先高六面七十六石八斗七升壱合 一高七百六拾七石五斗四合 佐保村 外高拾三石四斗八升 小物成 先高三千七百六拾一一一石九斗三升三合 ママ 小巳高四千四百四拾三石五斗五升八合五ヶ庄分

内六百七拾九石六斗弐升五合出米 ママ 外高小巳百四拾石八斗四升 小物成分 山田庄 先高六百八石五斗六升九合 一高六百七拾壱石四斗九升壱合 上村 外高弐拾三石四斗七升六合小物成 先高三百拾四石九升五合 一高三百弐拾壱石九斗七合 中村 外高拾石八斗七升八合 小物成 先高六百弐拾五石八斗七合 高五百拾弐石七斗七升八合 小川 高百弐拾六石三斗五升六合 別所 外高拾八石五斗六升四合小物成 先高六百七拾四石九斗五升壱合 一高六百七拾八石八升五合 下村 外高拾七石七斗七升 小物成 先高弐百五石壱斗九升三合 一高弐百三拾三石三斗三升壱合 同村 先高五百八十六石六斗三升七合 一高五百六拾四石 佐井寺村 外高弐拾九石三斗壱升弐合小物成 先高百弐拾六石五升五合 一高百六拾壱石七斗四升六合 上新田村 先高四拾七石壱斗五升八合 一高八拾七石壱斗九升弐合 下新田村 先高弐百四拾三石五斗七升九合 一高弐百六拾五石六斗六升壱合 小野原村 出作 ね。■ご■■Ⅱ■■●■rセロ■、巳■■■■ロム心8,6B2■v△■〃yq0OF、。。;qDD 60

(18)

死別と差別…25 先高三十七石四斗一升九合 一高三拾七石六斗五升四合 今宮村 出作 先高弐百石’ 一高弐百拾石四斗九升四合 宇野辺 出作 先高四百三石壱斗八升七合 一高三百七拾七石弐斗四升弐合 三宅 出作 外高壱石六斗一升 小物成茶代 ママ 先高小巳三千九百拾石四斗四升七合 ママ 小已高四千弐百四拾七石九斗三升三合山田庄分 内百六拾弐石壱斗八升七合成年改出シ 右之高寄 高三万千三拾石六斗九升九合 高四百拾九石四斗弐升八合小物成 高八千五百四拾五石弐斗五升三合 高弐百石御牧郷葭嶋小物成 高千九拾石九斗八升八合 高千七百三拾石六升七合 高壱万三拾石六斗弐升八合 先合五万石 高合三万千四百四拾九石弐斗壱升 内三万千弐拾九石七斗八升弐合 四百拾九石四斗弐升八合 寛永拾六己夘三月十五日 内内 外百百 高七六 小、拾拾 巳五弐 百石石 壱弐壱 石斗斗 六九八 斗升升 壱九七 升合合 丑戊 小年年

蔑巣藍

常武江同山同摂 刑州州所城所州 本途 小物成 先高七百三拾九石四斗壱升初検地綴喜郡 一高九百石七斗三升. 上津屋村 内五百九拾三石七斗九升弐合西上津屋村1J 三百六石九斗三升八合東上津屋村j 先高百六拾七石六斗一升六合、 ―高百四拾七石七斗 高木村 先高百七拾弐石三斗八升四合 一高百五拾壱石六斗九合 出垣内村 先高弐百五拾三石弐斗弐升開共 一高三百七拾八石四斗五升五合 上村 先高百三拾石四斗一升五合 一高弐百五拾壱石壱斗八升六合 水留村 先高百六拾石 -高百拾六石三斗四合 天王寺 高合五万三千四拾六石七斗七合j★ 外高百三拾弐石五升六合小物成引方 是ハ片山。道祖本i梶原三ヶ所之山”生JL 広瀬・高浜・一屋葭嶋弁鵜殿鴫引方 右高之内 一一一百九拾六石九斗壱升八合公儀大工石役丑年β引 内百五拾弐石四斗六升七合山城LL 弐百四拾四石四升五斗壱合摂州 高拾六石七斗四升弐合丑年御印違夘ノ三月改減” 拾壱石壱斗七升弐合五ヶ庄 内 五石五斗七升山田圧 山城国 d bli

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(19)

26 抄 先高百六拾七石 二局百五拾五石弍斗七升壱合 内百一一一拾三石九斗一升七合 弐拾壱石三斗五升四合 先高四百拾壱石八升三合 ―高四百拾九石四斗四升 内弐百八拾壱石九斗壱升本村 百三拾七石四斗七升 宮口 先高百九拾壱石六斗弐升 一高弐百弐拾壱石八斗六升 先高弐百弐石八斗弐升 一高弐百拾石九斗弐升 先高弐百石 一高百弐拾五石七斗六升八合 先高七石 -高六石六斗壱升五合 先高五百石 一高四百三石八斗五升五合 先高百弐拾壱石八斗六升 一高百六拾八石五升、 先高弐百四拾七石九斗三合 一高三百一一一拾石八斗三合 先高百弐拾六石五斗五升 一高百五拾四石五斗弐升六合 先高千石 一高九百九拾七万六斗四升 内八百四拾三石九斗弐升本村 庄屋太兵衛 同弥介 久綴久 世喜世 平郡水郡奈郡平 川主嶋尾 村村村村 相楽郡 上田村 山本村 』 江津村 ママ 神一口寺 市坂村 菅井村 伊勢田村 百五拾三石七斗弐升 高百三拾壱石四斗六升 先高百六拾石八斗四升 一高百七拾弐石三斗壱升 -高弐千百八拾壱石九斗三升五合 御牧郷 内弐百六拾三石六斗 中村 三百拾石八斗六升六合 坊之池 百拾九石九合 同村 百三拾石四斗五升九合 釘賞 弐百拾七石五斗弐升七合森 三百三拾弐石五斗弐升三合相嶋 弐百九拾壱石弐斗九升四合一口 百四拾六石三升三合 北川顔 百六石壱升 藤和田 四拾六石七升八合 対戸 百拾六石六斗九升四合 江ノロ 弐拾四石四斗四升壱合 観阿弥 弐拾八石八斗弐升四合 陵田 拾三石八斗壱升四合 市田 外二弐百石膜方 此取七拾石 ママ 高弐百四拾石御牧江葭嶋小物成 先高七千四拾四石弐斗弐升三合 ママ 高小巳七千五百九拾九石壱斗三升壱合 三千五百五拾石六斗四升川西 内 四千九百六拾七石九斗三合川東 安田 右之内 新田村 嶋田村 58

(20)
(21)

ロ● ・麺&‐0. 28 ⑥ 本高五万石 ―高四百九拾七石三升 内弐百拾八石三升四合 弐百七拾八石九斗九升六合 一高弐百五拾七石七斗七升四合 一高四百拾弐石六斗八升七合 一高千百拾五石七斗五升壱合 一高七百七拾四石七升 一高千九百壱石壱斗弐升四合 一高千百四石五斗五升九合 本高壱万石 ママ 高小已壱万一二拾石六斗弐升八合 都合五万弐千弐百六石弐斗七升八合 高五万千五百四拾六石八斗五升 当縄 高六百五拾九石四斗弐升八合 内 百四五六百百 四拾拾拾五弐 石九六五拾拾 五石石石七四 升八五三石石 四斗斗斗四六 合九九五斗斗 升升升弐壱 六六七升升 合合合弐九 合合 右之寄 I脇(・・毒・心雪娘”畑,守△iiL》打鐸鯨⑩愈擢区軸畑駕鰯割柵篭唖w灘 ↑j 上方小物成 下上青泉仏小菖辻

新田沢等遷蕊

治村村村村村村 牛賀戸小須細青郡

渡茂崎幡釜谷柳‘

村村村村村村村 常武江武摂 常州分 ソ( ソI ソI

此外 高百三拾弐石五升六合小物成之内引方 山城内膳様御知行所 先高百四拾九石三斗五升 一高百六拾五石弐斗六升七合 平川村 先高弐百六拾九石壱斗八升 一高一一一百三拾六石壱斗三升四合 奈鴫 先高弐百石 ママ |高百五拾四石四斗八合 神音寺 先高三百五拾七石九升 一高三百拾八石五斗六升 吐師 先高弐拾四石三斗八升 一高弐拾弐石壱斗四升 南興戸 先高千石 高合九百九拾六石五斗九合 (注)「史料一・史料二」ともに、関西大学図書館古文書室所蔵。 承応三年 正午月六日書之 56

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